「戦死」した青年詩人と 
不登校の現代高校生の魂が時空を超えて響き合う 
               〜青年劇場公演「きみはいくさに征ったけれど」 


学徒出陣で、映画監督になる夢を断たれた天性の青年詩人が、戦死した。凍えた蛾みたい
に。1945年のことだった。 


「冬に死す」 
蛾が/静かに障子の桟(さん)からおちたよ/死んだんだね 

なにもしなかったぼくは/こうして/なにもせずに/死んでゆくよ/ひとりで/生殖もしな
かったの/寒くってね 

なんにもしたくなかったの/死んでゆくよ/ひとりで 

なんにもしなかったから/ひとは すぐぼくのことを/忘れてしまうだろう/ 
いいの ぼくは/死んでゆくよ/ひとりで 

こごえた蛾みたいに 

(「竹内浩三全作品集 日本が見えない 全1巻」藤原書店刊より) 


竹内浩三という詩人 


竹内浩三という青年がいた。知る人ぞ知る詩人。1921年から45年まで生き、24歳で亡くな
った。「なにもしなかったぼくは/こうして/なにもせずに/死んでゆくよ/ひとりで」と
いう詩片を遺して。 

裕福な商店の長男に生まれた竹内浩三は、1942(昭和17)年9月、日本大学専門部映画科
を半年間繰り上げて、卒業(1941年10月公布の勅令第924号に拠る)。在学中、伊丹万作
の知遇を得る。卒業の翌月(昭和17年10月)、三重県の中部第三十八部隊に入営。いわゆる
学徒出陣(神宮外苑で出陣式を催した日本人の「学徒出陣」は、1943年)だろう。その
後、滑空部隊(グライダー)、挺進連隊(落下傘部隊)などを経ている。 

この間、1944年1月から7月まで「筑波日記」に戦場生活などについて書いている。竹内浩
三は、持っていた宮沢賢治の詩集の中をくり抜き、そこに二冊の手帳(日記)をはめ込んで
姉のこうさんに密かに送った。姉は、両親を早く亡くした浩三の親代わりだった。出征前日
に撮影された浩三と姉、姪たちの写真が遺されている。 


その後、フィリピンへ。出征の3年後、1945(昭和20)年4月9日、「陸軍上等兵竹内浩
三、比島バギオ北方一〇五二高地方面の戦闘に於いて戦死」したという(1947年、三重県
庁公報)。「比島バギオ」とは、フィリピンのルソン島である。竹内浩三が所属した挺進第
5連隊歩兵大隊は、戦場にパラシュート(落下傘)などで降下し地上の戦闘に参加してい
た。 

戦死公報は、遺族に、竹内浩三の消息をこう伝えたが、姉の元に届いた箱は「空っぽだっ
た」という。国は何にも送ってこなかった。だから、厳密には、生死不明ということなのだ
ろう。 

贅言;ルソン島の戦いは、1945年から敗戦まで続いた。日本軍の司令官は、山下奉文大
将。挺進兵(空挺兵)・竹内浩三も、この戦さに投入され、空に散ったか、地に散ったか。
制空権をアメリカに奪われた日本軍。地上戦でも趨勢は見えてきて、劣勢となった残存兵た
ちは山岳地帯に逃れ、飢餓と戦いながら、消耗しつつ敗戦を迎えた。このうち、挺進工兵隊
の主力は挺進集団と離れてルソン島のバギオ付近で戦闘した、という。1945年4月9日、
竹内浩三は敵陣への切込隊の一員として出陣し、行方不明となったという。 


「きみはいくさに征ったけれど」 


その竹内浩三を主人公にした芝居「きみはいくさに征ったけれど」(大西弘記・作、関根信
一・演出)が3月13日から18日まで、東京・新宿の紀伊國屋サザンシアター
TAKASHIMAYA」で秋田雨雀・土方与志記念青年劇場の118回公演として上演された。年
内、12月以降、東海関東ほかでも順次公演される予定という。 

芝居のタイトル「きみはいくさに征ったけれど」は、竹内浩三の詩「ぼくもいくさに征くの
だけれど」に依拠していることは、容易に知れる。 

「ぼくもいくさに征くのだけれど」 
街はいくさがたりであふれ/どこへいっても征くはなし かったはなし/三ケ月もたてばぼ
くも征くのだけれど/だけど こうしてぼんやりしている 
  
ぼくがいくさに征ったなら/一体ぼくはなにするだろう てがらたてるかな 
  
だれもかれもおとこならみんな征く/ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど 
  
なんにもできず/蝶をとったり 子供とあそんだり/うっかりしていて戦死するかしら 
  
そんなまぬけなぼくなので/どうか人なみにいくさができますよう/成田山に願かけた 

(竹内浩三「骨のうたう(抄)」日本ペンクラブ電子文藝館より) 


青年劇場の芝居は、まず、冒頭、不登校の高校生(来生宮斗、2年生)がマンションの屋上
から飛び降りようとしている場面から始まる。手には、竹内浩三の本を持っている。愛読書
らしい。そこへ、訛りのきつい伊勢弁の青年が現れる。「なんしとん?」。 

今時の青年としては、服装も? 日大の徽章をつけた学帽をかぶり、白いワイシャツに黒ズ
ボンという格好だ。振る舞いや言動も何か奇妙なというか、風変わりな青年。 

これは、どうやら、伝えられる竹内浩三のイメージを尊重する演出らしい。浩三は、特大の
頭に型通りの帽子をかぶり、だらしなく巻ゲートルをつけて地元中学へ通学していた、とい
う。学校の勉強は全くしないが、頭は悪くなく、成績はまずまず。陽気でお人好し。厳粛さ
になじめず、教練の時に「気をつけ」がかかっても突拍子に笑いだした。ひどい吃音。運動
は苦手だった、という。竹内浩三を演じたのは矢野貴大。大阪出身で、伊勢弁の科白も楽し
んでいるようだ。 

舞台の青年は、どうやら高校生の飛び降りを阻止しようとしているらしい。高校生と青年の
やりとりで、青年が70年以上前、1945年に戦死したとされている竹内浩三だ、と次第に判
って来る。マンションから飛び降りようという高校生の緊迫感は、テンポも喋りも風変わり
な青年によって削がれてしまう。 

夏休み。来生宮斗は、母親(来生祥子)に頼まれて祖母(来生芳恵)が暮らす伊勢へ向かう
ことになる。暫く、祖母と暮らすためだ。その車中にも、風変わりな青年・竹内浩三が現れ
る。車中で青年に声をかけられて驚く宮斗。青年は、伊勢出身の「竹内浩三」と名乗り、自
分は幽霊だ、という。伊勢への旅で出会った伊勢出身の若い女性・藤原紗希。 

宮斗は、伊勢の祖母宅で暮らすようになる。自殺念慮のあった宮斗だが、奇妙な兄貴のよう
な竹内浩三、地元の藤原紗希、藤原紗希の両親(藤原泰三、信代)、それに、藤原紗希の恋
人(同棲していた)は、宮斗の高校の担任教師・磯部賢一だったのだが、磯部は、生徒指導
のまずさから宮斗を抑うつ状態に追い込んでいたこと、藤原紗希から別居を迫られているこ
となどが判る。このほか、竹内浩三の好きな人、おケイさん。竹内浩三の姉、宮斗の父親・
来生宮彦。こうして、伊勢おける宮斗の周辺の人々との関係解明が、宮斗の精神状態を少し
ずつ解きほぐして行くことになる。 

なぜか、宮斗の節目節目に現れる竹内浩三。「生きることは楽しいね/ほんとに私は生きて
いる」(竹内浩三の詩「三ツ星さん」より)。冗談を言い、「ここは、笑うとこやんか」な
どと、緊迫感ではちきれそうだった宮斗の精神状態に伊勢弁のユーモアが沁み通り、余白を
作って行く。そして、自分は、幽霊などではなく、宮斗が読んでいる竹内浩三の本から宮斗
自身がイメージして作り上げた幻像だと言う。宮斗は、マンションから一人で飛び降りて、
「ひょんと死ぬる」ことをやめようと思う。「だれもいないところで/ひょんと死ぬる」こ
とをやめようと思う。「ひょんと死ぬる」な。な。青年たちよ。 


「骨のうたう」(抄) 
戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ/遠い他国で ひょんと死ぬるや/ 
だまって だれもいないところで/ひょんと死ぬるや/ふるさとの風や/ 
こいびとの眼や/ひょんと消ゆるや/国のため/大君のため/死んでしまうや/その心や 

(竹内浩三「骨のうたう(抄)」日本ペンクラブ電子文藝館より) 


青年劇場の舞台では、高校2年生・来生宮斗は、現代を生きる竹内浩三だ。青年・竹内浩三
は、来生宮斗のうちに復活した。復活した竹内浩三は、来生宮斗として、生き直して行くの
だろう。輪廻転生。「戦死」した青年詩人・竹内浩三と不登校の現代高校生・来生宮斗の魂
が時空を超えて響き合う。 


青年・竹内浩三が、いま、生きていたら 


安倍政権が、日本社会をいびつに歪めてしまったと私は思っている。このところの安倍政治
の暴走ぶりを見れば、竹内浩三も怒るだろう。若い人たちの生活に政権の悪政はもろにぶつ
かって行く。現代の人口減の原因のひとつに、若い人たちが結婚しなくなった、いや、でき
なくなった、という事情がある。結婚しても、安心して子どもが産めなくなったので、人口
が減ってきた。 

メールマガジン「オルタ」171号の論文を引用する。元共同通信編集委員の栗原猛「20〜
30代の既婚者を年収で見ると、300万円以上は20〜30%だが、300万円未満では10%を切
る。30代の男性の既婚率は、正規社員は60%だが、非正規社員は30%と低い。安倍政権は
働きながら子供を産める環境づくりに取り組んでいるが、その前の段階にある結婚したくと
も結婚に踏み切れない『300万円』ラインの男女への取り組みも必要だ。このような格差が
固定化されると、社会不安を生むきっかけになりがちである」と分析している。 

竹内浩三の詩片が突き刺さってくる。 

「なにもしなかったぼくは/こうして/なにもせずに/死んでゆくよ/ひとりで/生殖もし
なかったの/寒くってね」(竹内浩三の詩「「冬に死す」より」 

竹内浩三よ、生殖をしよう。生殖をして、大事な命の連鎖を好きな女の子に託そう。暖かい
よ。生殖って。そして、生まれ出ずる生命を二人で育もう。生きることは楽しいよ。でも、
生活は苦しいよ。結婚もできない。生殖もできない。浩三さん、新しい生命など生み出せな
いよ。浩三さんの苦しみが判るよ。 

「演習 一」 
ずぶぬれの機銃分隊であった/ぼくの戦帽は小さすぎてすぐおちそうになった/ぼくだけあ
ごひもをしめておった/きりりと勇ましいであろうと考えた/いくつもいくつも膝まで水の
ある濠があった/ぼくはそれが気に入って/びちゃびちゃとびこんだ/まわり路までしてと
びこみにいった/泥水や雑草を手でかきむしった/内臓がとびちるほどの息づかいであった
/白いりんどうの花が 
狂気のようにゆれておった 

ぼくは草の上を氷河のように匍匐(ほふく)しておった/白いりんどうの花が/狂気のよう
にゆれておった/白いりんどうの花に顔を押しつけて/息をひそめて/ぼくは/切に望郷し
ておった 

(竹内浩三「骨のうたう(抄)」日本ペンクラブ電子文藝館より) 

特大の頭に兵隊の「戦帽」は小さすぎてすぐおちそうになっても、戦場でも、最期まで詩
を、文を書き続けていた、という竹内浩三。天空から押さえつけられるような鬱屈した思い
を抱きながら、生きてきたであろう竹内浩三。彼の残した詩片が、この世の居場所を失い、
この世から消えたいと自殺念慮にかられていた高校生の生命を救う。きみは死にたいと言っ
たけれど。「ほんとに私は生きている」(竹内浩三の詩「三ツ星さん」より)。 
- 2018年4月28日(土) 16:21:17
★★映評:戦争体験を引き継ぐ
「記憶の中のシベリア 祖父の想い出、ソウルからの手紙」。シベリア抑留体験について映
像を通じて引き継ごう、と決意した30歳代の女性監督・久保田桂子作品(ドキュメンタリ
ー映画)が10月8日から21日まで、東京・新宿の映画館で初めて劇場公開されている。公開
は2作品同時。その後は、各地で上映活動を続ける予定。

ひとつは、久保田監督の祖父に生前にインタビューをしながら、晩年の祖父の生活ぶりを孫
娘の視点で描いたもの。「祖父の日記帳と私のビデオノート」。もう一つの作品は、祖父と
同年代で日本軍の軍隊体験とシベリア抑留体験のある韓国人の戦争体験についてインタビュ
ーを主体にしながら描いている。

ふたつの映画に登場する人物たちの関係年表を作っておくと理解し易いと思うので、まとめ
てみた。
 
1)「祖父の日記帳と私のビデオノート」関係
 
久保田直人(久保田監督の祖父)
1920年、長野県生まれ。農業青年。1940年日本軍入隊、戦場は中国・北支。1945年シベ
リア抑留、1949年帰国。農業。2012年、没。92歳。
 
久保田桂子(監督)
長野県生まれ。2004年よりドキュメンタリー製作を始める。
 
2)「海へ   朴さんの手紙」関係
 
朴道興(パク・ドフン)
1924年、北朝鮮生まれ。家具職人(指物師)を経て、1944年、植民地下の朝鮮半島で、第
1期(300人)として徴兵され日本軍入隊、戦場は北海道の色丹島、船舶部隊に配属。ここ
で、同年の日本人青年の山根秋夫と出会う。兄弟のよう、一心同体の関係となる。1945年
一緒に捕虜となり、シベリア抑留、1948年病気(凍傷)になり、色丹島の軍隊・シベリア
収容所と生活を共にした山根と自分の入院などをきっかけに生き別れとなった。以後、会え
ず。1949年、北朝鮮に帰国。1950年、朝鮮戦争で北朝鮮軍に入隊。捕虜として釜山沖の収
容所へ。解放後、北朝鮮への帰還を拒み、韓国軍に入隊。除隊後、技術を生かしてピアノ工
場に勤める。ソウル郊外で健在だったが、今年、2016年8月逝去。戦後、日本軍隊生活、
シベリア抑留生活をともに体験した山根の消息を求めて、記憶に残る不確かな住所宛に手紙
を出し続けたが、全て届かなかった。
 
山根秋夫
1924年、広島県生まれ。貨物船の仕事。1944年日本軍入隊、戦場は北海道の色丹島。船舶
部隊所属。ここで朴道興と出会う。1945年一緒にシベリア抑留、1948年、色丹島の軍隊、
シベリア収容所と生活を共にした朴の入院を経て、生き別れ。1949年帰国。会社員、共産
党入党、地域の党活動に従事。1952年、職場の同僚だったみすえと結婚。1963年、没。
39歳。
 
山根みすえ
広島県生まれ。復員後の山根秋夫と結婚。秋夫没後、秋夫の弟と再婚。
 
★映画のテーマ(1)
 
「祖父の日記帳と私のビデオノート」のテーマは農村出身の純朴な青年たちはいかにして日
本軍兵士になったか。ある元農業青年出身兵へのインタビューの試みを通じて2世代前の、
普通の青年たちの戦争体験を再現し、それを引き継ごうという試み。
 
孫の監督久保田桂子に強く残る祖父・久保田直人の記憶は、いつも黙々と畑を耕し、市販の
農業日記の記述欄に、天気、作物の出来、身辺雑事を几帳面に書き留めていること。その日
記は、もう何冊にもなっている。祖母を亡くした後、独り住まいをし、老後の生活を慎まし
く生きている、普通の農業老人。監督が訪ねると畑で作った作物を食べさせてくれる。スイ
カなどは土産に持たせてくれる。普通の農業老人は、普通の農業青年として生きて来られた
かもしれない。普通の農業青年が結婚をし、普通の農業中年になり、普通の農業老人になっ
てもおかしくはない。そういう人生の方が多いかもしれない。ところが、祖父には青春期に
戦争という重い影が覆い被さってきた。幼くして父を失い、苦労した。やがて20歳になり、
青年は1940年に軍隊に入隊し、中国の当時の北支(現在の中国北部 )へ、派兵された。5
年間の軍隊生活では、当然戦闘行為にも駆り立てられたことだろう。異国に侵略した軍隊の
要員として異国の人々を殺めたかもしれない。異国の兵士を殺したことはあったかもしれな
い。異国の普通の生活者を殺したかどうか。日本軍の仲間が異国の兵士に殺される。あるい
は民間に紛れたゲリラ兵、便衣兵(べんいへい。一般市民と同じ私服・民族服などを着用し
民間人に偽装して、各種敵対行為をする兵士のことをこう言った)に襲われ、対抗して銃を
撃ったかもしれない。剣で殺したかもしれない。戦闘行為の中で仲間が殺されれば、兵士と
なった青年の気分は、異常な高揚状態に置かれるだろう。敵対する、あるいは抵抗する全て
の人が「敵に見えてくる」と、口の重い祖父もインタビューに答えている。兵士にさせられ
た普通の青年が異国に派兵されて、場合によっては、全ての異国の人が敵に見えてくる生活
を余儀無くされる。それが、戦争というものだ、というテーマが浮き彫りにされて来る。
 
敗戦後、祖父は直ちに日本への帰郷は叶わなかった。敗戦と同時に侵攻してきたソ連軍の捕
虜になり、シベリアに抑留されたのだ。クラスノヤルスクの収容所に入れられた。極寒の地
で4年間に及ぶ過酷な労働を強いられた。1949年、舞鶴経由で長野県に帰郷した。以後、
結婚をし、故郷の地で死ぬまで農業に従事する。
 
祖父の証言は断片的で、監督の得心には至らない。そういうもどかしさが画面から伝わって
来る。やがて、祖父は認知症になり、以前にも増してコミュニケーションが取りにくくなっ
て来る。祖父の死後、監督は祖父の書き残した農業日記を読み、従軍中の写真、戦前の家族
の写真 などを元に祖父の戦争体験を記録しようとする。
 
★映画のテーマ(2)
 
「海へ 朴さんの手紙」のテーマは、人生の同伴者になったことで時空を超えて「想い」を
共有する人々を描く。
 
朴道興(パク・ドフン)が出てくる画面を見ていて、とても印象に残った言葉があった。久
保田監督の日本軍に徴兵された感想を尋ねるインタビューに答えて朴は、こう言ったのだ。
「おもしろかった。楽しいこともあった」と。監督も、あるいはこのドキュメンタリー映画
を観る観客も、こういうインタビュアーの問に対して、徴兵を呪うか、批難する言葉が出て
くると思ったのではないか。実は、私も画面を見ていてそう予想した。そしたら、朴は、
「おもしろかった」と、にこにこして、言い放ったものだ。朴は5歳で父親を亡くし、家族
離散、8歳で奉公に行った。幼い時から軍隊に入る前に過酷な人生を経験している。軍隊で
は、上下関係がはっきりしている、同年なら同じ待遇、皆、同じ服を着ていて、差別されな
い。1944年に日本軍に徴兵され、北海道の色丹島に派兵された。シベリアほどではないに
しても、極寒の地である。苦労もしたであろうが、軍隊では徴兵前の生活で受けたような差
別がなかったという。軍隊の上下関係ははっきりしていたので、命令を受けても苦にならな
かった、という。その辺りが朴のいう軍隊は「おもしろかった」という感慨に繋がっている
のだろうが、まだ、画面を観ていて私には腑に落ちない。やがて、朴にとって軍隊体験は日
本人青年・山根秋夫との出会いだったことが判ってきた。韓国人・朴道興にとって、日本
人・山根秋夫との運命的な出会い、戦時中から戦後のシベリア抑留の捕虜生活まで、苦楽を
共にした同年の青年同士の、いわば「珠玉の青春時代」は、朴にとって、「おもしろかっ
た」という一言でしか表現できないような凝縮された至高の時空だったのだろう。異国の
地、色丹島での下級兵としての軍隊生活。同じく異国の地、シベリアでの捕虜としての抑留
生活。ともに過ごした山根秋夫との生活を思い起こせば、すべての労苦も吹っ飛び、兄弟同
様、一心同体の、山根秋夫との生活という、「おもしろかった」思い出にのみ収斂されてし
まうのではないか。
 
朴は、戦後も苦境を生き抜く。1949年、シベリアから北朝鮮に帰郷。1950年、朝鮮半島で
勃発した朝鮮戦争に北朝鮮軍の兵士として参加、北朝鮮軍の侵攻の果ての退却で、韓国で捕
虜になり、釜山沖の収容所に収容される。収容所から解放されると韓国軍に入隊。除隊後
は、韓国に住み、工場勤め生活を送る。生活が落ち着いた頃から、日本軍・シベリア抑留時
代の親友・山根秋夫の消息を求めて手紙を書き出す。ただし、宛先の住所は、うろ覚えのマ
マ。「広島県秋田郡   山根秋夫様」。何通も送ったが、全て届かなかった。
 
★ふたつの映画に共通するもの
 
久保田監督は、「祖父の日記帳と私のビデオノート」製作をきっかけに祖父の世代のシベリ
ア抑留体験者に興味を抱くようになった。日本ばかりでなく韓国にも体験者に会いに行くよ
うになり、7人のシベリア抑留を体験した韓国人の「元日本兵」から話を聞いた。この中に
朴道興がいた。ほかの人たちが、植民地時代や日本軍での苦労を踏まえて、日本への憎しみ
などを語るのに対して、朴は、日本軍時代に出会った日本人青年・山根秋夫のことを語っ
た。「おもしろかった」「今も彼を思い出す」。届かない手紙のことについても触れてき
た。朴が覚えているという山根秋夫の住所は不完全で結果的には架空の住所だった。
 
やがて、久保田監督は、「広島県秋田郡」というのは、「広島県安芸郡」の間違いではない
かと、思いついた。朴が言う山根秋夫の生まれた地の特徴などから安芸郡の中のある町(坂
町、さかちょう)が推測され、坂町役場に問い合わせた結果、朴に依頼されてから2年後、
山根みすえと連絡が取れ、山根秋夫の消息も判った。山根秋夫はすでに亡くなっていたが、
久保田監督は、秋夫の弟と再婚していたみすえ夫人に会うために広島へ向かうことになっ
た。久保田監督は、みすえ夫人と話をすることで、山根秋夫の魅力を知らされる。
 
それは朴をも魅了した山根秋夫は、みすえ夫人をも魅了していた。みすえ夫人は、結婚前に
職場の同僚である山根秋夫に書き送ったラブレターを今も大事に保管していた。朴の山根秋
夫への届かなかった手紙。これもラブレターのようなものではないか。みすえが結婚前に書
いた山根秋夫へのラブレター。これらは、時空を超えて、男女の性差を超えて、人と人を繋
ぐ想い、というようなものではないのか。貫く一本の棒の如きものではないのか。朴道興=
山根秋夫=みすえという存在が連鎖する。3人を繋ぐのは、魂が直接触れ合ったような想い
の共有意識。みすえの幼い頃の写真を持ち出し、みすえ夫人は、久保田監督が、自分の少女
時代の顔と似ているという。想いが、それぞれの顔に出て、似て見える。「風景の中に彼ら
の存在を感じます。朴さんや見据えさんは、こんな風に日々山根さんと再会し、ずっと一緒
に生きてきたのだろうと思ったのです」。映画を完成させた久保田監督の言葉である。山根
秋夫から発せられた想いは、久保田監督にも貫かれているように私には見えてくる。シベリ
アに抑留され亡くなったり、消息不明になったりした人たちは、約60万人とも言われる。
時が経つにつれて、歴史の隙間に落ちて行く。落ちてしまえば、もう取り戻せない。こうし
た一人ひとりに、同じような物語が秘められていることだろう。
 
そういえば、久保田桂子の祖父への想いも、やはり愛に裏打ちされている、ように感じ取れ
た。
 
★  この映画は、10月8日(土)から21日(金)まで、東京・新宿のK’s cinema で公開
されている。
★  さらに、10月22日(土)から28日(金)まで、名古屋・シネマスコーレ、10月30日
(日)は、松本cinemaセレクトで、それぞれ公開されるほか、その後も大阪・第七藝術劇
場、横浜シネマリンなどで順次公開される予定という。
- 2016年10月3日(月) 10:56:06
8・XX   映評「ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜」

南京事件を素材に描いた映画が限定的な上映しか出来ていないという現状をご存知だ
ろうか。2009年にドイツを軸にフランス、中国3カ国の合作映画として製作され
た。出演俳優たちは、ドイツ語、英語、中国語、日本語を話す。各国では、公開され
た映画が、6年も経つのに日本では、配給を請け合う会社がなく、未だに自主上演に
よる限定的な公開しか出来ない、という現状がある(但し、DVDでは販売)。私は、
ある試写会で観ることができた。

「ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜」というのが、この映画の日本語のタイト
ル。監督は、フロリアン・ガレンベルガー。ドイツ人である。上映時間が3時間近い
大作(但し、国際版)である。原題は、「ジョン(ヨーン)・ラーベ」。ずばり、映
画の主人公の名前。日本では、一般的には知られていないので、「南京のシンド
ラー」というサブタイトルをつけたのだろう。シンドラーとは、第二次大戦中、ドイ
ツの強制収容所に入れられていた多くのユダヤ人をナチスから救ったことで知られて
いるオスカー・シンドラーのこと。ユダヤ人の代わりに南京で多数の中国人を日本軍
から救ったラーベということで、「南京のシンドラー」とその後呼ばれたのか、映画
のためにつけられたのか。

映画は、1937年12月初めから38年2月末までの3ヶ月間の中国・南京を舞台にす
る。1937年8月9日、第二次上海事変(北支事変から支那事変=日中戦争へ)以
降、きな臭い華南地区。日中戦争は、1931年の「満州事変」から始まる。宣戦布告
せず、「満州某重大事件」とごまかした日本軍の謀略から始まった。中国の周辺部か
ら、日本軍は中国に襲いかかった。第二次上海事変は、1932年の第一次上海事変か
ら続いていた。1937年上海から南京へ日本軍侵攻。12月7日、蒋介石が南京脱出。
首都機能を重慶に移す。9日、日本軍南京城包囲。10日、日本軍投降勧告、総攻
撃。13日、南京陥落。17日、松井大将南京入城。13日以降、6週間、あるいは、
2ヶ月間、日本軍による南京虐殺があった、という。つまり、この映画は、日本軍に
よる南京事件をドイツ人の目を通して描いた作品というわけだ。

半年ほど存在した南京安全区:
日本軍の侵攻に合わせて南京在住の外国人の間で、上海南市難民区をモデルに真似
て、1937年11月、アメリカ、イギリス、ドイツの3国15人で自称・南京安全区国際
委員会が結成されて、ドイツ人のジョン・ラーベが、委員長に推される。安全区の創
設。中国人難民などを救済するために南京城の一郭に、出入りを委員会が管理する安
全区(難民区)を設定した。概略六角形をした安全区の面積は、3.85平方キロ。
日中どちらの軍も立ち入り制限とした、一種の非武装区域。安全区で、20万人の避
難民を救済したという。但し、平服に着替えた敗残中国兵も潜り込んでいた。

1938年2月18日、シーメンスが送り込んできたラーベの後任者と日本軍幹部の肝煎
りによりラーベ抜きで、委員会は南京国際救済委員会に改称となった。非協力を理由
に2月28日、ラーベは日本軍から国外退去を命じられ、ラーベは強制帰国となっ
た。ナチス・ドイツの本国への帰国だ。5月末には、日本軍が南京安全区を閉鎖して
しまった。安全区は、半年余りの暫定的な非武装地帯だったが、約20万人の中国人
を救ったと言われる。

ラーベという男:
1937年当時、55歳。1882年〜1950年の生涯。1908年から1938年まで30年間中国
各地に駐在。シーメンス社員は、1910年以降。この間、第一次世界大戦(1914年〜
1918年)では、日本はドイツの敵対国。ラーベの南京滞在中は、日独は、敵対関係
のままであった。1940年の三国同盟で日本はドイツの同盟国になる。ラーベは、
1938年2月末には帰国するので、日独同盟国という関係にはなっていない。当時、
ラーベは中国在住、最古参のドイツ人であった。ラーベは、日本軍から見れば敵対国
であった第3国の外国人という立場だ。ラーベは、シーメンス(ドイツ語読みでは、
「ズィーメンス」)という大企業(日本で言えば、1847年、幕末期の創業。明治維
新より20年も前。現在は、ドイツのミュンヘンに本社を置く多国籍企業。現在で
は、電信、電車、電子機器、電力関係、情報通信、交通、医療、防衛、生産設備、家
電製品などを手がけるコングロマリット。日本では、1914年に発覚した日本海軍が
絡む汚職事件、いわゆる「シーメンス事件」で知られる)の南京支社長。当時で在中
国30年近いというベテラン社員。

ラーベは、シーメンスの幹部社員として、中華民国には、シーメンスの電話施設、発
電所施設など売っていた。そういう場面が描かれる。シーメンスの社員は、「武器商
人」であったのだろう。日本軍が侵攻してくる前は、蒋介石を軍事的、財政的に支援
していたことだろう。ラーベは、シーメンスの現地責任者として、陣頭指揮をしてい
たと思われる。中国への武器輸出はシーメンスの基本的な商売だったろう、というこ
とも容易に推測される。蒋介石は大事な商売相手。日本軍には、ラーベも反感を抱い
ていたとしてもおかしくはない。そうかと言って、ラーベもナチスの海外支部の役員
をしているとしても、本国にいるのとはわけが違う。ナチス・ドイツは、1933年か
ら1945年だけの国家。ラーベが、30年の中国駐在の時代は、大部分はヒトラー政権
とは無縁だ。シーメンスのばりばりの社員ではあっても、ばりばりのナチス党員では
なかったかもしれない。

そういえば、中国の蒋介石総統からラーベは「中国人たちのヒーロー(ヒーロー オ
ブ チャイ ニーズピープル)だと言って、直接勲章を渡される場面もあった。蒋介
石は、映画の中では、「将軍」としか表現されないが……。ラーベは蒋介石から勲章
をもらったナチスの幹部党員(南京支部長代理、あるいは、副支部長という訳もあ
る)であった。もっとも、1933年に出来たナチス・ドイツ。ラーベは、20世紀の初
頭からずうっと中国駐在だ。ナチスにどの程度本気で信奉していたかは、判らない。
ハーケンクロイツ(ナチス・ドイツの旗)をシーメンスの工場に掲げ、工場で働く中
国人の従業員には、「ハイルヒトラー」という敬礼を強要していたが、海外にいるドイ
ツ人同士で、支部を運営していただけかもしれない。

日本軍により30年間のラーベの中国生活は、無にされてしまった。シーメンスの本
社重役という転勤を内示されていたが、後任者から、それが偽りであることを知らさ
れる。ラーベに何があったのか、それはこの映画では判らない。

激しくなる日本軍の空爆。それに対抗するように、シーメンスの工場敷地にハーケン
クロイツを掲げ、国旗の何十倍もある巨大なハーケンクロイツをテントの屋根替わり
にして、日本軍の空爆から中国人避難民600人をラーベは守り助ける。ジョン・ラー
ベという男は、なぜ、自分の財産や命を投げ出してでも中国人を助けようとしたの
か。根っからのヒューマスストなのか。そうとも思えない。「南京のシンドラー」と
いうサブタイトルをつけた映画では、ラーベをヒューマニストとして描いているよう
に思えるが……。

ラーベは、1938年帰国後、日本軍の暴虐をドイツ政府に訴え出たが、日独伊三国同
盟(1940年)準備段階のナチスの政策に反するとして、逆に監視下に置かれた。
ラーベは、日独伊三国同盟加盟には、反対したという。ゲシュタポに逮捕・拘留され
る。シーメンスの介入で、間もなく釈放。シーメンスは、ラーベを馘首せずに閑職な
がら雇用を続けた。ラーベは、不遇の長い時間を利用して日記をつけ続けていた。戦
後は、ナチスの党員前歴を問題にされ、イギリスやソヴィエトの軍隊に逮捕された。
収容先では非ナチス化の訓練を強要された。1946年6月釈放された。帰国以降の戦
中、戦後の晩年は、貧窮のうちに失意、不遇なまま過ごす。1950年脳卒中で死去。
南京での人道的な活動は、死後、書き残した「日記」(1996年刊行)が評価され
て、名誉回復、日の目を見る。

南京事件:
この映画は、近代日本史上、いろいろ議論を呼ぶ南京虐殺事件を取り上げる。ドイツ
人監督の目で、日本軍の蛮行を暴いて行く。史実の捉え方、史観の作り方なども私た
ちとは、違うかも知れない。しかし、ドイツ人は南京虐殺事件をこう観ているぞ、と
いうことだけは事実だろう。映画のエンドタイトルに付けられた日本語字幕も含め
て、この映画は史実に基づいている、という意味のことが書かれているが、私の知識
では、史実か否かの是非の全てを見抜く力がないので、この映画が描き出すシーンを
そのまま紹介するに留めたい。以下の記述のスタンスは、この映画が描く事件の数々
の場面を印象に残るままにとりあえず書き留めておく、というものだ。

日本軍機が南京の市街地を無差別空爆している。米軍による日本各地の空襲、広島・
長崎への原爆投下という戦争犯罪。あるいは、ベトナム、イラン、アフガニスタンほ
かへの米軍の空爆などを観客は連想するかもしれない。

日本軍の捕虜虐殺。揚子江川辺、投降した中国の兵士たち(30万人という説がある
らしい)の長い列が作らされている。「おいしいスープを配る」という意味の日本語
が兵士たちを誘う。トラックの黒い影が列に近づく。突然、銃器から発射される連続
音が聞こえる。ドミノ倒しのように崩れる人間の列。トラックに載せた機関銃で日本
軍が乱射をしたのだ、と判る。若い少佐が、こういう行為は、国際法違反になるので
はと上官に意見具申したが、拒否されていた。途切れない発射音を耳にし、泣きそう
な顔になる少佐。この少佐の挿入は、フィクションだという。

映画では、捕虜虐殺の前日の場面が、こう描かれる。少佐と中将。「捕虜の処刑は、
違法になるかと」と、朝香宮鳩彦王中将に小瀬少佐が答える場面である。これに対し
て、中将は、「この問題の解決については、貴官に個人的な責任を任せる。明日の
朝、生きた捕虜は見たくないぞ、少佐」と謎をかける。捕虜の食糧確保も難しい。だ
から、殺せということなのか。随分、短絡した発想が通用したのだろうか。映画の描
き方は、先行する著作をベースにしていて、史実とは言いにくいらしい、という説が
ある。そもそもフィクションの人物と事件のキーポイントとなる会話をさせているこ
と自体、史実という主張には逆効果だろうという印象を持つ。皇族軍人の当時のあり
よう一般とこの映画での描き方との違和感を訴える人もいるが、私には判断のしよう
がない。

帰国する第3国の外国人避難民を乗せた民間の船が沖合に出た所を襲う日本軍機。こ
れも国際法違反の戦争犯罪。日本軍機の攻撃で黒煙を上げる船影。帰国の途についた
ばかりのラーベ夫人も乗っている船は炎上。一緒に帰国する予定だったが、南京安全
区国際委員会の委員長になったために、帰国を遅らせたのだ。呆然と埠頭に佇むラー
ベ。夫婦の永久の別れと思われた。

怪我をした敗残兵を追って病院に日本軍が乱入。兵士を手術室に匿う病院。病院内を
探索した挙げ句、手術中の兵士も医師、看護士も、皆殺しにしてしまう。

塀の内では、捕虜の首切り競争をしている。行方不明のお付きの運転手を探している
ラーベが、異様な物音が聞こえる閉の中を覗き込む。日本軍に捕まっていた運転手が
処刑されようとしている。塀に隔てられていて助けることも出来ない。100人斬り競
争。競いあう軍人。足元に転がっている生首の数々。これでもか、というようなリア
ルな描写は、外国人監督らしいセンスかもしれない。

100人斬り競争で勝った軍人が並べた生首を前に記念写真を撮っている。異常な躁状
態に陥り、日常的な感覚が麻痺しているのだろう。従軍記者も撮影に参加している。
記事と写真を送るつもりなのだろう。軍人ばかりではない。マスコミも異常な躁状
態、いや、国民も含めて日本社会が狂気の世界に浸っていたのだろう。当時の新聞
は、軍部の尻馬に乗り、あるいは、尻を叩き、国民たちの「戦勝気分」昂揚に乗っ
かって、部数を大幅に伸ばすことのみに腐心していた。大手新聞は、死の商人のよう
に戦争で巨大な利益を貪った。その資金で情報伝達の新機材を整え、ほかの新聞社に
機動力で差をつけようとしたのだ。そういう体質は、今も変わっていないのではない
か。

委員会の一員の女性が理事長か校長を務めている女学校では、日本軍の陵辱を避けよ
うと女生徒たちの髪を切り、少年のような印象をもたれるようにした。
女学校の若い女性スタッフが夜間、自宅の弟に食糧運ぶ。不審な行動と思ったのか、
夜間に独りで出歩く若い女性に情欲をたぎらせたのか、日本軍に目をつけられ追跡さ
れてしまう。女性が入った家に乱入する日本軍の軍人たち。女性を強姦しようと押し
倒す。抗議し、阻止しようとする父親を無雑作に射殺する。あわや、強姦されそうに
なる。ベッドの下に逃げた弟が兵士を撃ち殺す。日本軍の将校の服を着た女性スタッ
フは、弟を連れて学校へ逃げ込もうとする。それを追って、日本軍が女学校の寮に侵
入する。日本の軍服を脱ぎ、下着姿になりベッドに潜り込む女性。兵士は「男」を
追ってきたと思っているので、室内にいる女生徒全員の衣服を脱がせ、裸体にして点
検しようとする。ソドムの市のような場面。女ばかりでは、しょうがないと退却する
軍人。

この女性スタッフが、後にドイツ大使館の若い男と恋仲になる、というエピソードな
ども挟み込まれる。社会派エンターテインメント映画らしい。ラーベを含めて、映画
では、良きドイツ人ばかりが登場しているような印象だ。

日本軍が陥没した道路の穴補修に虐殺した中国人の遺体を埋めている。人間の尊厳を
否定した日本軍。

なぜか、安全区の女学校の寮に匿われた大勢の捕虜を嗅ぎ付けた皇族司令官(中
将)。捕虜を捕獲すべく出撃してきた。「門を開けろ」。引き連れられてきた日本軍
が総攻撃の構えを見せる。門内の安全区では、委員会メンバーが事態を見守ってい
る。門から出てきたラーベ。日本軍の中将と独りで向き合う。日本軍の銃がラーベに
銃口を集中する。

クライマックスのこの場面。突然、サイレンが鳴り響く。不審そうな中将。ラーベ
は、ドイツ大使帰着の船が着いた合図だと言う。大使は、国際的な取材陣を連れてき
たと告げる。この場で起ころうとしていることを記者たちに知らせる、と中将を脅す
ラーベ。悔しそうに引揚げの合図をする中将。引揚げる日本軍。大使帰着に備えて、
委員会で合図のサイレンを準備させていたのだ。この情報は、実は、中支那方面の中
国兵虐殺は国際法に照らしても違法ではないか、と言っていた日本軍の若い将校がド
イツの若い大使館員に漏らしていたのだ。

ラーベを支援するドイツの若い大使館員に秘密情報(在中国ドイツ大使の動向)を逸
早く耳打ちした若い小瀬少佐は、井浦新が演じる。クライマックスの場面、安全区に
匿っていた中国人捕虜たちを出すように要求する朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひ
こおう)中将ら日本軍兵士たちを前に身体を張って捕虜を救うラーベに秘策を準備す
るヒントとなった、というエピソード。

結局、安全区での所行を否定され、強制帰国として日本軍に追放されるラーベ。
1938年2月末。埠頭にはラーベを一目見送ろうと大勢の中国人難民たちが集まって
いる。ごったがえす群衆の間から感謝の言葉が飛び交う。

このほか、南京事件を記録したと思われる実写映像が随所に挟み込まれる。ドイツ人
が見た日本軍の蛮行。「南京事件の真実」というコンセプトの映画である。

日本軍:
蛮行を振るう日本軍は、中支那方面軍。司令官は、松井石根(いわね)大将。上海派
遣軍司令官から昇進。後に、極東国際軍事裁判で戦犯として判決を受け死刑となっ
た。映画では松井大将は、柄本明が演じる。

中支那方面軍に従う上海派遣軍の司令官は、朝香宮鳩彦王中将。当時、皇族男子は、
陸海軍の軍人になる決まりだったので、朝香宮は陸軍に奉職した。略歴を見ると根っ
からの軍人だ。1937年12月、上海派遣軍の司令官。映画では、香川照之が演じる。
司令官拝命直後の南京攻略に参加し、捕虜殺害命令に関与した疑い(映画では、中将
が口頭で指令したように描かれている)で戦後GHQから戦犯に指名される可能性が
あったが、皇族ということで結局戦犯指定されなかった、という説がある。しかし、
1947年10月、GHQの命令で皇籍を離脱させられた。離脱後、ゴルフ三昧の生活を
送ったという。映画では、作戦会議で意見を言うだけの上官の松井石根大将(柄本
明)に代わって、朝香宮鳩彦王中将(香川照之)が前線の実質的な指揮を任されてい
たように描かれていた(皇族の戦争責任告発か。だとすれば、天皇の戦争責任にも影
響してくる可能性がある)。この描き方が、右翼の反発を招くとして、配給会社が映
画公開にシュリンクしている気配がある(実際、皇族司令官・朝香宮鳩彦王中将の出
演部分を全部削除したら、日本での配給を引き受けるという会社もあったらしいが、
製作者側が拒否したという。まあ、当然な判断だろう)。

この映画は、2009年、59回ドイツ映画賞。主演男優賞ほか4部門受賞。
出演した俳優たちは、以下の通り。
主演男優賞は、ラーベを演じたウルリッヒ・トゥクル。1957年生まれのドイツの実
力派俳優。
ダクマー・マンツェル:ラーベ夫人を演じた1958年生まれのドイツの女優。
スティーヴ・ブシェミ:患者のために身体を張った医者役(病院長?)を演じた
1957年生まれのアメリカの俳優。
アンヌ・コンシニ:女学校の校長(あるいは、理事長?)を演じた1963年生まれの
フランスの女優。
ダニエル・ブリュール:若いドイツ大使館員を演じた1978年、スペイン生まれのド
イツの実力派俳優。
張静初:女学校のスタッフを演じた1980年生まれの中国の女優。
香川照之:1965年生まれ。映画では、朝香宮鳩彦王中将(皇族故、戦犯にならず。
戦後、GHQより皇籍剥奪(離脱)、その後「ゴルフの宮様」として、ゴルフ三昧。
1981年死去。旧朝香宮邸は、現在の東京都庭園美術館)を演じた。歌舞伎役者・市
川中車でもある。実力派俳優。
柄本明:1948年生まれ。映画では、松井石根大将(当時、中支那方面軍司令官。南
京事件の責任者の戦犯として1948年処刑)を演じた。コメディアン出身の実力派俳
優。
井浦新:1974年生まれ。映画では、フィクションの小瀬少佐を演じた。史実と虚構
を埋める役割を担っているのだろう。旧芸名はARATA。
杉本哲太:1965年生まれ。映画では、非情な、つまり虐殺行為に忠義な軍人・中島
今朝吾中将(当時、第16師団長。組織的に上海派遣軍の下に位置する。朝香宮鳩彦
王中将とともに、南京事件を実質的に実行したと言われる。日記には、自身の刀を
使って捕虜試し斬りをさせたなどの記述がある。1945年10月病死)を演じた。川谷
拓三似の表情が印象に残った。
- 2015年8月9日(日) 11:55:17
7・XX  映評「ベルファスト71」 :  殺人が、戦争に変わる局面を描く。


ヤン・ドマンジュ監督作品、ジャック・オコンネル主演のイギリス映画。2014年製
作。

北アイルランドの首都・ベルファストの1971年のある日を描く映画。南北アイルラ
ンドの対立が背景にある。アイルランドは、イギリスの西にある島。数世紀に及び全
島がイギリス領だったのが、1920年代から南部が分離し、自治制度を導入した。
1949年には、南アイルランドにアイルランド共和国が成立。北アイルランドは、9
州のうち6州(アルスター地方)がイギリスに残留した。現在のイギリスの正式な国名
は、グレートブリテンと北アイルランド連合王国というのは、その歴史を示す名称
だ。

歴史:
この分離独立でアイルランドの政情がスッキリと安定したわけではないのは、ご承知
の通り。アメリカの黒人たちの公民権運動(差別政策撤廃要求)に目覚めて、アイルラ
ンドでは、1960年代から続くカトリック系住民の公民権運動が盛り上がりを見せて
いた。特に、カトリック系住民のプロテスタント系住民への反発が強く、行動も過激
化してきた。1969年8月の、ロンドンデリーやベルファストでの両派住民の騒擾が
起きた。これをきっかけにイギリス陸軍が治安維持を理由に北アイルランドに駐留す
るようになる。陸軍の駐留は、この後、2007年7月まで、38年も続くことになる。

北アイルランドの政情には、様々な対立の背景がある。まず、以前から続くプロテス
タントとカトリックという宗教対立。宗派は、ほぼ40パーセントずつ。残りは無宗
教か無回答。さらに、経済や政治をめぐる対立もある。プロテスタントでイギリスの
への帰属を願うユニオリスト(連合派)とカトリックでイギリス離れを主張するナショ
ナリスト(独立派、南北統一派)の対立。中でも、ロイヤリスト(王国忠誠派、ユニオリ
ストの過激派)とリパブリカン(共和派、ナショナリストの過激派)の私兵組織の武装対
立が激化する。ロイヤリストには、イギリス陸軍や地元のアルスター警察が味方す
る。リパブリカンには、アイルランド共和軍が味方する。1969年の騒擾をきっかけ
にアイルランド共和軍は、ラジカルな暫定派と正統派=穏健派と呼ばれるグループに
分裂し、事態を複雑にする。その結果、両派住民の対立による死傷事件は、1971年
から75年にかけて、激増することになる。98年の和平合意(「ベルファスト合意」と
呼ばれる)までの死者3600人のうち、半分が、この5年間の死者だ。

こうした中、1972年1月30日に「血の日曜日事件」が起きている。事件は、ロンド
ンデリー(北アイルランドの首都はベルファスト。ロンドンデリーは、北アイルラン
ド第2の都市)で行われた公民権運動のカトリック系市民デモ(27人参加)を阻止しよ
うとしたイギリス陸軍が非武装の住民たちに発砲し、14人が死亡した、というも
の。ビートルズのうち、ジョン・レノン、ポール・マッカートニーがアイルランド
系。ビートルズには、「血まみれの日曜日」という歌がある。


映画は、血塗られた日曜日事件の前年、1971年のベルファストの住民対立を鎮めよ
うと治安出動させられた部隊に混じっていた新兵の物語である。アイルランドの両派
住民の対立が激化し始めた時期に焦点を合わせて描いて行く。

治安出動したのは実戦体験のないアーミテージ中尉lが率いる部隊。住民対立の治安
出動ということで、過度の刺激を避けようとヘルメットも被らず、ベレー帽で出動し
た。その中に、両親のいない青年新兵(二等兵)・ゲイリー・フックもいる。たった一
人の弟を孤児院に預けて入隊したばかりだ。弟との今後の生活設計のために入隊した
ばかりだった。

住民対立の地域に着いた途端、地域の子供たちから糞尿弾のお見舞いを受ける。カト
リック系の過激派住民の子供たちだ。住民の対立もエスカレート、住民 の一部は体
を張って軍隊にぶつかってくる。現場の雰囲気に飲まれた住民は石を投げるなど暴動
化する。石が当たり倒れた兵隊の銃を過激派の住民の子供が奪って逃げて行く。ゲイ
リーともう一人の新兵・トンプソンが奪われた銃を取り返そうと子どもの後を追う。
周りの状況判断ができない新兵二人。いつの間にか、二人はカトリック過激派の住区
に入り込んでしまう。実戦に不慣れなアーミテージ中尉は、新兵二人の安否を確認し
ない。二人を現場に残しまま、置き去りにしてしまう。

やがて、追っていた子供を見失ったばかりでなく、カソリック過激派に見つけられて
二人は袋叩きに合う。アイルランド共和軍IRAの過激派(暫定派)のハガティがトンプ
ソンを射殺する。ゲイリーは、隙を見て逃げる。銃を撃ちながら追いかけるハガティ
ら。カメラは、固定と手持ちとを使い分ける。逃走劇はカメラマンも手持ちで俳優た
ちを追いかける。ぶれる画面がリアルさを強調する。

何とか逃げ切り、トイレに隠れたゲイリーは、夜を待つ。武器もなく、「戦場」に孤
絶した状況に追い込まれた新兵のゲイリー。実戦経験も無い二等兵が独りで、どう
やって窮地を脱出するのか。映画「野火」もそうだが、戦争は兵士を想定外のシチュ
エーションにいとも簡単に置くものだ、ということが良く判る。

闇に紛れて忍び出るゲイリー。カトリック系住民に父親を殺されたプロテスタント系
の子供がゲイリーの逃亡を助けてくれる。ゲイリーは迷路のような裏道を案内されて
子供の知合いのプロテスタント系住民が経営するパブに案内される。カメラは、昼の
撮影に使われた16ミリフィルムのカメラ(レンズはアナモルフィックレンズ使用)から
デジタルカメラに替わる。

パブの奥の部屋では、治安部隊とは別に地区に入り込んでいる工作員のルイス軍曹が
プロテスタント系住民に爆発物を供与し、扱い方を説明している。ルイスは同じ陸軍
でも部隊の違うゲイリーに見られたことで警戒心を抱く。ルイス軍曹はゲイリー二等
兵にパブから出るなと命じた上で工作部隊の上官の将校・ブラウニングに報告と今後
の対応を相談しに行く。帰りの遅いルイスを待ちわび、ゲイリーがパブの出入口から
外に出ているとパブの内部で爆発が起こる。ルイスの部下が爆弾の扱いを誤ってし
まったのだ。吹き飛ばされるゲイリー。怪我をしたようだが、命には別条なかった。
焼けたパブの中に戻ると、案内してくれた子供は爆発の巻き添えを食って既に死んで
いた。

街へ逃れ出たゲイリーは、途中で気を失って倒れてしまう。通りかかったカトリック
系住民の父娘に助けられる。高層アパートの自宅へ運ばれ手当てを受ける。父親は元
衛生兵で治療の心得があった。父親は、さらにアイルランド共和軍の穏健派のベテラ
ン兵士ボイルに新兵の処理を相談に行く。ボイルはイギリス陸軍工作部隊の将校・ブ
ラウニングと密かに接触を試みる。ボイルに託した父親は自宅に戻る。ボイルとブラ
ウニングの取引は、こうだ。新兵のゲイリーをイギリス陸軍に返す代わりにアイルラ
ンド共和軍の持て余し者の過激派クイン(ハガティの兄貴分)を殺して欲しい、という
ものだった。映画は丹念に史実を踏まえながら、それぞれの歴史的なエピソードを象
徴する人物たちを配置している。

カトリックの父娘の自宅で意識を取り戻したゲイリーは、父娘に黙って高層アパート
の部屋を忍び出る。ブラウニングとの取引を終えて、カトリックの父娘の自宅を訪ね
てきたボイル(アイルランド共和軍穏健派)。そのボイルの後を密かにつけてきた者た
ちがいる。ゲイリーを殺そうというアイルランド共和軍過激派のハガティと兄貴分の
クイン、弟分のショーン少年だった。ゲイリーを取引に使おうというボイルに続い
て、ゲイリー救出をきっかけに目指す陸軍工作部隊のブラウニング、ルイス、さらに
陸軍の兵士たちも高層アパートヘ。ボイルをつけてきたクインらがカトリックの父娘
の自宅を襲うが、ゲイリーは、既に逃走した後。

高層アパートのフロアや階段で、逃げるゲイリーと追うハガティ、クイン、ショーン
ら。さらに追う陸軍の工作部隊。工作部隊のルイスは、爆弾工作の現場を見られてし
まったので部隊の異なるゲイリーを殺そうとしている。追いつ追われつ。臨場感溢れ
る逃亡・追跡劇。ゲイリーは、クインらに見つけられ、高層アパートの地下室に連れ
込まれる。クインは、過激派見習いのショーン少年に銃を渡し、ゲイリーを殺せと命
じる。その時の科白。

「これは殺人じゃない。戦争なんだ。一人前になれ!」

そう、戦争は、「国家が命じる人殺し」なのだ、というメッセージをこの映画は発信
する。いわゆる戦争法案が国会で審議中の日本が頭をよぎる。「これは自衛(戦争)
じゃない。人殺しなんだ。普通の(一人前の)国になれ!」

しかし、ショーン少年は、引き金を弾けない。「一人前になれないなら、いらな
い」。業を煮やしたクインがショーン少年を撃ち殺す。地下室にやってきたアイルラ
ンド共和軍穏健派のボイルがカトリックの過激派・クインを撃ち殺す。陸軍工作部隊
のルイスがボイルを撃ち殺す。ルイスは、ゲイリーを助けるふりをして、締め殺そう
とする。追ってきたイギリス陸軍の兵士がルイスを撃ち殺す。ゲイリーは、救出され
る。殺し、殺され。殺しの連鎖。これが戦争なのだ。

ゲイリーは、アイルランド島を離れる船に乗り込む。亡くなった新兵のトンプソンと
自分の認識票を船上から海に投げ捨てる。兵士をやめて弟の待つ孤児院へ戻る。幼い
弟を抱き締める。これは、反戦映画だろう。

この映画のテーマは、「分断」だという。宗教だけでなく、歴史、言語、文化、政治
的、経済的な利害、風俗、民俗、生活習慣などでコミュニティが二分されている社会
がアイルランドだ、という。「分断社会」(コミュニティの分断)の境界線は、見える
者には見える。境界を越えてこようとする者は制裁の対象になる。分断が紛争を生
み、紛争が新たな分断を生む。アイルランドの70年代は、誰が味方で誰が敵か、判
らないカオスの時代だった、という。

対イギリスのテロ闘争を標榜していたアイルランド共和軍の暫定派は、2005年に武
装闘争終結宣言をし、武装解除した、という。一方で、リアルIRA(アイルランド共和
軍)というのが分派して生き残っている、という。分断は続いているのだろう。

グローバル化の中で、富と貧困に象徴されるよう分断社会、格差社会は、いま、形を
変えて現代社会にますます蔓延している。ロシアが介入したウクライナ、イスラエル
などの中近東、ロシア、中国、朝鮮半島、日本、アメリカなどなど、コミュニティや
コミュニケーションを分断する境界線は、見える者には見える。多数決と少数意見尊
重の共存を標榜してきた民主主義にとって、分断された社会は、難敵だろう。民主主
義は、分断社会の 中で生き残れるのか。アイルランドの提示した問題性は、普遍的
で現代的だ。

この映画は、エンターテイメントのサスペンス・スリラー映画だが、史実をきちんと
踏まえた脚本と顔の知られていない俳優群の活用で、ドキュメンタリー映画の色合い
も濃くなっている。手持ちのカメラワーク。すでに触れたように昼と夜の場面の撮影
では、昼は16ミリフィルムのカメラ(レンズは、横に長い映像撮影が可能なアナモル
フィックレンズ)、夜はデジタルカメラと使い分けている。映像の繋ぎには支障がな
い。1970年代のベルファストの雰囲気を出すためにイギリスのブラックバーンとリ
バプール(ビートルズの出身地)に再現した建物や道路も赤煉瓦の街並でのロケ。今の
ベルファストには、もう、70年代の街の面影がない、という。煉瓦の質感を画面で
出すためにもフィルムカメラを使用した、という。色調的にも70年代のベルファス
トが再現できたというから、その辺りもお見逃しなく。

この映画は、8月1日から、全国でロードショー公開される。
- 2015年7月6日(月) 8:49:08
6・XX 映評「野火」の起爆性

映画の「野火」というタイトルについている英語名は、Fires on the plainである。
直訳すれば、「平原のあちこちに上がる火」ということか。春先の野の枯葉を焼き、
虫を駆除する野火というよりも、「古事記」なら、「民のかまど」の炊煙であろう
か、と私は思う。

「民のかまど」とは、難波を拠点に天下を治めた仁徳天皇の「高き屋に登りて見れば
煙立つ民のかまどは賑わひにけり」のことで、竃(かまど)から炊煙が立ち上ってい
れば、煙の下に人が生活をしている、ということであろう。為政者の民の管理法のひ
とつ。

「野火」ではどうか。人が生活をしているということは、同じだろうが、ここは、
もっと即物的で、つまり、食べ物があるということである。つまり、映画の「野火」
の、英語の名のFires on the plainとは、極限的な飢餓状況に追い込まれた兵士たち
が夢見る食べ物の有り処。食事をし、排泄をし、時にセックスをする平常の人の営み
の場を意味し、「戦場」に追い込まれている兵士とは、対局の環境を象徴している。
クレジットタイトルの後に展開される作品世界は、小説であれ、映画であれ、「平
常」の営みの対極にある「異常」の戦場、それも極め付けな、「異常」の世界を描いて
いる、ということだろう。

小説『野火』と言えば、日本人は、多くの人が大岡昇平原作を思い浮かべるに違いな
い。日本戦後文学の代表作の一つであり、第二次世界大戦を素材にした世界規模の戦
争文学の「金字塔」と言っても過言ではない名作である。

大岡昇平がフィリピン・レイテ島での自分の戦争体験を作品化した。戦場を彷徨し、
死を目前とした極限状況のなかで人間は如何に振る舞えるか。否、振る舞うべきか。
否否、振る舞わざるを得ないか。殺人、人肉喰い。戦場というこの世の地獄は、神の
怒りの痕跡をとどめているのではないか。そういう問題提起の書である。この作品は
1951(昭和26)年に雑誌「展望」に掲戴された後、翌1952年に創元社から単行本
が刊行された。

これに先だって1948年に発表された『俘虜記』は、特に前半の俘虜になる前の同じ
ような兵士が戦場彷徨のなかで遭遇した敵のアメリカ兵を狙撃しなかったとき、主人
公は神の意思を感じる。『俘虜記』が神の意思による凶行の引き止めを提起したな
ら、『野火』は、凶行に突き進んでしまった果ての狂気に対する神の怒りの掲示だろ
うか。この両作を合わせ読むとき、この頃の大岡文学は神のあり方をテーマとした一
種の宗教小説であることも判る。

この作品では、戦争は、他国の敵と戦うだけが戦争ではなく、戦場という極限状況を
作る装置の下では、場合により、兵士は仲間の兵士を殺すことにもなる、と提示す
る。否それだけではない。飢餓の状況では、自国の仲間の兵士と殺し合いを演じた果
て、殺してしまうだけではなく、殺した兵士の遺体を屠殺し、恰も「精肉」のように
「食品」加工をし、それを喰らう、という行為までなさせる、ということを文学化す
るものだということ、いわば実体験を基底に極限状況の「検証」を試みた作品である
ということが判る。

いま、国会で審議されている、いわゆる「戦争法案」は、「◯◯事態」などと抽象的
な概念で議論をしているが、戦争とは、戦場とは、こういう状況に人間を追い込むも
のであり、そういう場だということを具体的に思い浮かべながら政治家は議論すべき
だろう。国会の審議で繰り返し述べられているような安倍政権の抽象的な答弁のまや
かしを飛ばすような起爆性がこの反戦映画にはある。

そういう意味では、当初の予定通り6月末に国会が終わった後ではなく、国会の会期
が秋まで大幅に延長されたただなかで、この映画「野火」が公開され、それを契機に
原作の『野火』や『俘虜記』が多くの人たちに読まれることを期待したい。『野火』
や『俘虜記』を読み、あるいは読み返しながら、国会の政治家たちの抽象的な論議の
実相(先の戦争のように、後方支援=兵站が断たれると最前線の戦場では、兵士同士
の人肉喰いもあり得る、というリアリズム)を見抜いて欲しい。

馬肉人肉あさる犬らよ枇杷の花  藤花

大岡昇平の『野火』という作品では、知的なサラリーマン出身の兵士を経験した作家
らしく知的な衣装を着ている。仲間を殺し、その人肉を喰らうという行為がこの作品
のテーマなのだが、大岡は、それにキリスト教の神の問題を絡めて作品化している。

この小説『野火』には、実は映画『野火』という作品が、ふたつある。最初のもの
は、雑誌掲戴から8年後、1959(昭和34)年、1960年の安保「騒動」、日米安保
条約の締結問題を巡る事件の前年に公開されている。監督は、市川崑。主演の田村一
等兵役に船越英二、その他の主たる出演者として、永松にミッキー・カーチス、安田
に滝沢修。この他、癖のある脇役として、浜村純、中條静夫、佐野浅夫、石黒達也な
どの名前が見える。御殿場でロケをしたというモノクロ作品。私は残念ながら未見。

極限状況の人間の異常さがテーマとなっているが、小説映画を問わず、この作品の象
徴的な場面となる人肉を喰らうというシーンだが、市川崑監督作品では、主人公の歯
が悪いことを理由に人肉を喰らうことを描いていない。

映画化に当っては、「リアルに伝えなければいけない」(塚本晋也)。今回の塚本晋
也監督作品では、小説の原作通りに、田村一等兵(塚本晋也)に猿の肉と称する人肉
を喰らわせる場面がある。仲間の安田(リリー・フランキー)を永松(森優作)が殺
して、まず、生き血をすする。スクリーンの外から、音が聞こえる。更に、安田の手
足を切り捨て、精肉に加工する場面も間接的な映像(即物的ではない描き方。観客の
脳内に想像力を働かせようという演出)ながら描かれる。

この象徴的な場面こそ、小説と映画・市川崑監督作品、塚本晋也監督作品という3つ
の『野火』の違いを強調するポイントになるだろうと思う。ただし、どの作品も、文
学も映画も、表現は、戦争を告発する、という基底は共通している。

さて、そろそろ、今回の主題の塚本晋也監督作品の『野火』に触れて行こう。映画化
の構想、実に、20数年という。発端は高校生のときに読んだ監督の文庫版の『野
火』読書体験。塚本晋也は、長年、いろいろな構想を元に準備を進めながらも、資金
難などでなかなか映画化に漕ぎ着けられなかった。3つの案を考えていたという。
1)小規模なアニメーション映画の製作。2)出資会社を見つけて、大規模なスペク
タクル実写映画の製作。3)小規模な実写映画の製作。現実的なのが、1番。当時い
ちばんやりたかったのが、2番。出資会社が興行的に二の足を踏んでいると思ってい
たら、世の中右傾化してきていて、反戦映画への支持の低下に気づかされた、とい
う。

しかし、2011年3月11日の東日本大震災とそれに伴う東京電力福島原子力発電所の
未曾有の事故体験。原発による環境破壊は、戦争による環境破壊と同じだ。否、それ
以上かもしれない。そもそも原発推進計画の背後には、戦争の影がある。つまり、原
発製造能力=核兵器製造能力の誇示(抑止力)があるのではないか。いつまでも待っ
てられない。監督自身の会社の自主製作・自主配給での映画化という道しか残されて
いない。現実的なのは3番しかなかった。塚本晋也監督は、なんと製作・監督・主
演・編集・脚本・撮影の6役を兼ねた。資金倹約のためだし、結局は塚本監督の映画
術の基底にも添うことだったのだろうと理解する。2012年、塚本の映画化へのエン
ジンにスイッチが入った。2013年3月、大岡昇平の遺族からの映画化許諾の実現と
なった。

原作者・大岡昇平と基本的に等身大と思われる主人公の田村一等兵(塚本晋也)は、
肺病病みの、軍隊では厄介者。原隊からは、わずかな食糧を持たされて、野戦病院へ
行けと追い出される。患者で満杯の野戦病院の軍医には、食糧を取り上げられた挙げ
句、「治った」と早めに宣言されて、病院からも追っ払われる。以後、田村一等兵
は、原隊と野戦病院の間を振り子のように行来させられるが、行き場所が無くなる。
飢餓の果ての迷走状態に陥る。極限状況での戦場彷徨の始まりである。ひもじい。食
糧も何も持たない敗残兵。誰も相手にしてくれない。絶対的な孤独。独りぽっちで、
フィリピンの密林地帯を彷徨う。ロンリー・ソルジャーにとって、密林は凶器以外の
何者でもない。田村一等兵の精神が次第に狂い始める。

密林の中の教会。海から舟でやってきた男女。現地の人は非戦闘員であっても、侵略
戦争の兵士にとっては、最早皆敵である。教会に隠れていた田村一等兵は恐怖に駆ら
れて女を殺す。男を逃がす。床下の塩を見つけて、奪う。やがて、同じように彷徨す
る日本人兵士たちに出会う。塩を与えて、仲間入りする。兵士たちは、仲間の兵士た
ちを殺して、「猿の肉」と称して、人肉を喰らっていた。ロンリー・ソルジャーに
とって、自分以外は、皆敵である。だんだん、そういうことが判って来て、田村一等
兵も生き延びるために人肉を喰うか喰わないか、という難題にぶち当る羽目に陥る。

大岡原作の小説『野火』では、性欲と飢餓状況での人肉喰らいは、(神から見れば)
同等のもの(突き動かされる)という大岡文学では、やがて主人公は人肉を喰らうよ
うになる。凶悪な狂気の世界に突き進んでしまった田村一等兵。しかし、野火を見
て、民の竃(フィリピン人の住居)の火を求めて、敵前に身を暴露し、襲撃されて、
捕虜になり、アメリカ軍の野戦病院で治療を受けた後、田村一等兵は復員する。出征
前に一旦棄教したキリスト教の神に救いを求めるが、神と狂気の狭間で狂ってしまっ
た田村は、精神病院に入院させられ、病院内とでフィリピンの戦場での戦争体験を手
記にまとめる、という結末を迎える。小説の結末は有神論の世界。

塚本晋也監督作品の『野火』では、小説の原作通りに、民の竃(フィリピン人の住
居)の火、野火を求めて、敵前に身を暴露し、襲撃されて、捕虜になる。アメリカ軍
の野戦病院で治療を受けた後、復員するが、結婚をし、若い妻と同居しながらも入院
せず、部屋に引きこもる。フィリピンの戦場の延長線上にある部屋のなか。幻覚も聞
こえる。統合失調症か。田村は机の前に座り込み手記を書いているが、盛んに己を責
め立てて、両手で机を叩いている。映画では、小説のような神の問題は提起されず、
狂気の果ての男の引きこもりとして描かれている。障子を開けて、食事を運んできた
若い妻は、不安そうな表情で夫の不穏な様子を見ている。

その後、主人公は廊下に立ち、能面のような無表情なまま、外を凝視している。東京
に戻っても、田村は、ロンリー・ロンリー・ロンリー・ソルジャー。その顔に外の明
りが、不安定な光を投げかけている。戦争で、フィリピン・レイテ島の密林を彷徨し
た孤絶の敗残兵は、その地で何を見たのか。映画の結末は無神論の世界。

スクリーンから主人公の声のみが聞こえた。
「また、始まった。また、始まった。止めてくれ」。

田村一等兵の余生を狂気の世界へ追い込んだ悪夢。幻覚か夢か。夢にうなされる敗残
兵の戦後。

2013年7月のフィリピン・ミンダナオ島ロケ。11月の沖縄ロケ。12月のハワイロケ
他、国内ロケ。2013年暮れのクランクアップ。2015年7月の公開。

自主製作映画は、資金もスタッフも役者も不十分。ツイッターでスタッフも役者も
募った。だから、俳優もスタッフもほぼボランティアという。プロは、少数派だ。
テーマに共鳴した力を参加者の工夫と熱情に替えて映画は完成された。

工夫とは?
ミンダナオ島ロケは、現地の豊かな自然の風景、狂気を幻視する光景のほか、主人公
と現地の人たちの出演シーンが撮影された。沖縄、ハワイは、ミンダナオ島ロケに近
い映像を求めて、また、往復の飛行機代を節約して、代用撮影された。国内ロケは、
さらに経費節約で代用撮影された。戦場の戦闘シーンや野戦病院の爆撃炎上シーン
は、例えば、荒川土手などで撮影された。そういう節約は、衣装、大道具、小道具に
ついてもなされた。偽装された武器。廃品利用の道具。プロとアマ混在のスタッフや
役者。カメラを通じて伝えられる観客の「錯覚」さえ塚本晋也は利用した。例えば、
腐敗した肉体に湧くウジ。初めに本物の蠢くウジをアップで見せておけば、その後の
ウジは、ウジ色の「パスタ」であっても、観客にはウジに見えるという。

そうやって幾重にも工夫して紡ぎ出された、まさに「切れ目のない」(まるで、いま
流行の◯◯事態、××事態の論戦のような科白か)映像の構成で映画は、一本に繋
がった。映画館という薄暗闇のなかで光の束となった映像の精巧さ。それが、スペク
タクルな戦争映画では描けないような戦場を再現する極め付きの反戦映画として観客
の前に出現してきた。

塚本晋也監督の言葉。「今、実際に戦争の痛みを知る人がいよいよ少なくなるに連
れ、また戦争をしようとする動きが起こっているような気がしてなりません。今作ら
なければもうこの先作るチャンスがないかもしれない。また作るのは今しかないと思
い、お金はありませんでしたが、多くの力強い協力を得て完成に至りました。戦争体
験者の肉声を身体にしみ込ませ反映させたこの映画を、今の若い人を始め少しでも多
くの方に見てもらい、いろいろなことを感じてもらいたいと思いました、そして議論
の場に使っていただけたら幸いです」と話している。

この映画は、自主上映のため、上映される映画館は限られる。7月25日から東京・
渋谷のユーロスペース、立川シネマシティほかで、順次全国的に封切り公開される予
定だ。
- 2015年6月27日(土) 16:45:04
12・XX       青年劇場創立50周年記念 スタジオ「結」企画第5回公演「相貌」


判り難(にく)いの羅列の果てに……。


青年劇場の稽古場スタジオ結は、稽古場だけあって、劇場としては判り難いし、その
上狭い。稽古場の板の周りを仮設の座席でコロシアムのように囲み、100人程の観
客席を設えた。メトロの丸ノ内線新宿御苑駅で下車をし、新宿御苑に背中を向けて新
宿通りと直角に交わる裏通りっぽい印象の商店街を3分程歩いて行くと左側に小旗の
目印があるが、風が強いと小旗が捲れてしまっているので解り難い。拡げてみれば、
小旗にはスタジオ結と染め抜かれているのだけれど…。

そこから地下に2階分程潜って行くと、スタジオ結がある。私は、何回も来ているの
で、判っているが、初めてきた人には結の場所が判りにくいのではないか。きょうは
稽古場ではなく、「劇場」なのだから、結も輝いているように見える。それに応える
ように、開演30分前に会場となった劇場には、次々と観客が詰めかけて来る。皆さ
ん、結構、迷わずに尋ね当てて来ているのか。熱心な常連客で、もう迷わなくなって
いるからなのか。

私は、15分前くらい前に着いたので、正面の席に座れたが、席を決める前に空いて
いる座席群を睨みながら、まず、判らないことに気がついた。「観客席」の中に「関
係者席」と書かれた紙が異常に多く座席に置いてあることに気がついたのだ。青年劇
場は、公明正大な精神を持ち、絶えず、社会や世相の動きに敏感で、演劇活動を通じ
て、適切なメッセージを発信して来る劇団だと思ってきたので、なんで、「関係者」
を「優遇」するような特権席を多数用意しているのかな、と違和感を感じたが、実
は、これがとんでもない勘違いであったことが芝居が始まるに連れて良く判った。

まず、タイトルが判り難い。「相貌」。漢字としては、知っていても、現在ではほと
んど死語同然のような言葉ではないのか。案の定、パソコンは、受け付けてくれな
い。「僧坊」という字が出てきてしまう。「相貌」という字は書くことぐらいはでき
るが、意味が曖昧だ。辞書を紐解くと、「相貌」とは、顔かたち、容貌、という意味
とともに、ものごとの様子。様相などと書いてある。さて、原作を書いた劇作家の黒
川陽子は、どういうメッセージをこの二字の漢字に込めて、タイトルにしたのか。芝
居が進行するまで、まるっきり判らない。進行してからも、なかなか判り難い。青年
劇場からいただいた黒川のプロフィールに拠ると、1983年生まれとある。私の息
子と同世代、これじゃ判る筈がない、と早々と結論めいた諦めを言ってしまえば、身
も蓋もない。まあ、字義は字義として、芝居を観ながら考えよう、と思った。

舞台は、近未来の日本。国民の意向を反映する名目で設定されたという「熟議の日」
という記念日があるらしい。「熟議」。これも漢字としては知っている。皆さん、意
味判りますか。先ほど、辞書を紐解くなどと、嘘を言ったが、先程同様に、インター
ネットで検索してみると、以下のような情報が出てきた。

「熟議」とは、「協働を目指した対話」「協働に向けた一連のプロセス」のことだと
いう。

1、多くの当事者が集まって、
2.課題について学習・熟慮・議論をすることにより、
3.互いの立場や果たすべき役割への理解が深まるとともに、
4.解決策が洗練され、
5.施策が決定されたり、個々人が納得して自分の役割を果たしたり、するようにな
る。

芝居に戻ると、近未来の日本では、熟議をへて、「洗練」された民主主義が制度化さ
れ民意を政治に反映する諸制度が整備されている。「熟語の日」には、全国各地で熟
議のための討論会が開かれる。政策形成のためのさまざまな論点は、こうして整理さ
れ、少数意見も尊重されながら、熟議民主主義の名の下にまとめられた意見が多数意
見として、最後は、押し付けられる。

芝居のある日の熟議の議題は、「過激な平和運動」に対する公的(つまり権力的)規
制の是非が話し合われた。熟議に参加しているのは、女性ばかり。日本の安全保障体
制の変化(つまり、「集団的自衛権」)に伴い、遠い同盟国とは役割分担が明確に
なったが、近隣諸国との関係は悪化するようになった。長引く経済停滞などで社会に
は澱のように鬱積してきたものがある。社会的な弱者、移民などが鬱積を弱者のため
の「平和運動」へと転嫁させた。弱者の平和を守るために強者の平和に牙をむき出し
たのだ。公権力の逆襲で、移民と彼らの居住地域の近隣に住む貧困者が、武器を取っ
て立ち上がった。

熟議民主主義は、代議制民主主義を否定し、民意を優先する直接民主主義を標榜す
る。政権が過激化すると世相も過激化する。過激化した世相は、政権を批判し、さら
に過激化する。熟議から生まれた市民たちは、「国民の党」という政党を作り、直接
民主主義を標榜するウルトラライトな政党へと変成して行く。ヒトラーのような敬礼
をし、財源的な裏打ちもない政策を羅列するようになる。それを熱狂的に支持する。
熟議の果てに、直接民主主義が制度化され「国民の党」というファッショ政党が生ま
れた。

これも良く判らないが、良く判るのは、近未来とはベクトルを異にする近過去をみれ
ば、そこでは、この良く判らないことが現実となり、当時の世界を戦争に導き、明治
以降西欧化を目指して、白色人種になろうとした日本などは、人種の壁を乗り越えら
れずに、黄色人種を差別し、「移民」を拒否した欧米と戦争になって行った、という
まぎれもない現実がある。つまり、この芝居は、近未来という鏡を覗いてみたら見え
てきた光景が、近過去という鏡には、とっくに映し出されていたとうことを伝えたい
らしい。ということならば、これは良く判った、という次第。

近未来の芝居は、近過去を映し出す鏡。鏡に映る人々は、芝居の舞台を観ている私た
ち。客席に設けられていた関係者席は、私たち同様の観客だったのだ。私たちは、パ
ソコンの画面に映し出された芝居を観るだけしか出来ないが、関係者席の、この観客
たちは、マウスのように画面に入り込んで、芝居に参加出来るのだ。画面に映し出さ
れた人々の「相貌」(顔かたち)は、私たちそのものだし、そこにある時代の「相
貌」(ものごとの様子。様相)は、今回の総選挙の結果、改めて突きつけられた近未
来に繋がるファッショ的な政治状況なのではないのか。近未来は、突然やってくるの
ではなく、私たちが今立っているこの足元から繋がった先にこそあるのだから、どん
なに地道で遅々とした歩みでも、足元から、じわじわ方向転換しないと別の光景の近
未来には行き着かないだろう。判り難いの先には、何もしなければ、判り易いものが
とっくに蟠っている可能性がある。
- 2014年12月18日(木) 15:44:58
6・XX  映画批評   河瀬直美監督作品「2つ目の窓」Still the water


2014年度カンヌ国際映画祭コンペティション部門選出作品。「2つ目の窓」とは、
どういう意味だろう。さらに、邦題と全く違う英語タイトルの「Still the water 」と
は? それの答えを探すような映画批評にしたい。

舞台は、奄美大島。主役は男女の高校生。界人と杏子。マングローブ、ガジュマル、
アダンが生い茂り、周りはサンゴ礁の海。冒頭のシーンは、大波が逆巻く台風の海。
旧暦の8月、中秋の名月にあわせて満月の晩に島を挙げて踊り(ハチグアチウドウイ。
昔は女性司祭だけの神事だったという。今は、住民参加の祭り)が繰り広げられる。
海に浮かぶ男の溺死体が見つかる。翌朝、刺青を背負った男の遺体を見た界人は、そ
れが母親が付き合っている男だと知り衝撃を受け、逃げ去る。界人の不審な行動を見
ていた杏子は、界人を問い質すが答えない。界人には何かわだかまりがあるようだ。

ユタが祭祀を司り(託宣、卜占、祈願、治療などをする民間信仰の巫女役)、島民たち
は自然と神への畏敬の念を抱きながら、暮らしている。神々は草木や石にも、水にも
宿るという奄美大島。

若い高校生の楽しみは、仲間の男女交際。世界人と杏子は、放課後、二人で自転車に
乗り、走り回ることが楽しみだ。杏子の母親イサはユタとして尊敬されているが、不
治の病にかかり、終末期を過ごすために病院から自宅へ戻ってきた。母親が死んで
も、母親の温もりは娘の心に残ると言う。母から娘へ、さらに、娘の産む子供へ。命
と温もりは伝わって行く。死ぬことはちっとも怖くない。生と死をあるがままに受け
止めるユタのイサ。命は繋がれてゆくもの。命への思いから、杏子は、セックスに開
眼したようだ。

「いきゆんにゃかなー  わきゃくとうわすれて  いきゅんにゃかなー  うったちや 
うったちゃが  いきぐるしゃ  スーラいきぐるしゃー」

(あなたは逝ってしまうのね。私を忘れて。逝ってしまうのね。あなたが
逝ってしまったら私はどうすればいいの。逝ってしまう方も辛いのよ)

人は生まれ、死んで行く。太陽は上り沈んで行く。月は満ち干を繰り返す。波は寄せ
ては、返す。自然は繰り返しながら、生きとし生けるものを育んで行く。杏子の母親
ユタのイサが愛した樹木が重機で掴み取られ倒されて行くシーンがある。「神殺し」
のシーンだという。作品の根底に潜められたテーマ。河瀬直美監督は、人間は起点で
はなく、自然の巡りの一部に過ぎないと言う。自然、神々。

一方、界人の方は、父親と離婚した後も、絶えず男の影のある母親の女の部分を嫌悪
している。自分の中に芽生え始めた性欲を持て余している。幼い頃、離婚し、現在東
京にいる父親を訪ねに行く。母親との出会いを運命だと言う父親に「ならば、なぜ離
婚したのか」と問い詰める。運命ならば、離婚するなよ、生涯一緒にいるのが運命な
のではないかと怒る。一緒に銭湯に行く父と息子。背中を流す父親の背中には刺青が
掘り込まれている。溺死した男の背中に彫り込まれていた刺青。別れた父親にもあっ
た刺青。これは、河瀬直美監督からの明確なメッセージのひとつだろう。母親、岬は
刺青フェチの女性なのだろう。

界人と杏子はそれぞれの胸の内を知るようになり、相思相愛の仲となるが、今はただ
寄り添うだけ。杏子が大胆な告白をする。「セックスしよう」と界人に求める。しか
し、それに応じることができず、むしろ、母親の女の部分に怒りをぶつける。界人は
父親の男の部分と母親の女の部分にとに嫌悪していることになる。嵐の晩、母親に怒
りをぶつける界人をみて、なじる杏子。息子に怒りをぶつけられて家を出てしまう母
親。行方不明の母親を探し求める界人。居なくなって初めて母親の存在感に気づいた
のだろう。嵐の中、母親を探し回る界人は幼子に戻ったようだ。

セックスの嫌悪感に区切りをつけたのか、界人は、亜熱帯の海辺、ビラ海岸の林の中
で杏子とセックスをしている。若い二人の性交場面をカメラはゆっくりと見守る。さ
らに、場面はサンゴ礁の海の中へ。全裸で泳ぎ回る若い二人。海中をゆるりと漂う二
人。

冒頭の台風がもたらす荒々しい大波のシーン。青い透き通ったサンゴ礁の海中シー
ン。二つのシーンが、なぜ、冒頭と巻末に置かれたのか。

「2つ目の窓」とはなにか。「Still the water  」とは、なにか。という問題用紙に
解答を書いてみようか。

「2つ目の窓」は、第二性徴だろう。若い男女の性欲への目覚め。自我の目覚め。青
春の目覚め、ということではないか。母親から娘へ、生まれて来る子どもへ、という
人間の命への思いは、女性なら容易にセックスを連想するだろうし、早く体験して見
たいという思いに駆られるだろう。自我の目覚めの男より女の方がはやいだろう。女
性は2つ目の窓を開けたがっている。男は、母親の性欲を見せつけられ、刺青フェチ
を見せつけられれば、セックスに嫌悪感を抱いても仕方が無いだろう。自我の目覚め
も奥手だろう。少女の母の死。少年の母の性欲。少年少女の初恋とセックス。

界人は幼児性欲まで遡らないと母親の女の部分に対する嫌悪感を拭い去ることができ
なかった。改めて、まっさらで清潔なもうひとりの母親として、杏子の女の部分を受
け入れる儀式として、海辺の林の中のセックス場面があり、幻想的とも言える青い透
き通った海中での全裸舞踊のような遊泳シーンが必要になったのだろう。海と森は、
命の源流。自然の中でこそ、豊かに育まれる命。永遠の命。背後にあるのは、ユタに
象徴されるように、東洋的な死生観。そういう意味では、「2つ目の窓」というタイ
トルの映画は奄美大島の圧倒的な自然を背景にえがきだされていて、非常にメッセー
ジ性の明確な作品だ。

では、「Still the water」というタイトルの映画は、どうだろうか。編集に外国人が
加わったという。冒頭の荒々しい灰色の大波逆巻くシーン。すきとおった青いサンゴ
礁の海中シーン。二つのシーンをむすびつけるもの。the water  海、still  静まれ、
という編集からのメッセージではなかったのか「水(海)よ、鎮まれ」は、カンヌ国
際映画祭向けの英語のメッセージ、という解釈をすれば、これもまた、非常に明確な
メッセージだったのではないのか。ヴィジュアルな編集意図を素直にタイトルにし
た。フランス人と共同編集の結果だろう。

俳優たち。
常田富士男は、男のユタのような役回り。俳優としてよりもアニメの映画やテレビで
の声優として知られている。
杏子の母親役であり、ユタを演じた松田美由紀は、個性俳優だった、今は亡き松田優
作の連れ合いだった。死にゆく母親像を静かに演じていた。
界人の父親を演じた村上淳と界人を演じた村上虹郎は、本当の親子。
吉永淳は、31歳とは思えない高校生役杏子を演じた。
杉本哲太は、杏子の父親役。
渡辺真起子は、界人の母親役で、男の影をちらつかせる。刺青フェチの女。

コンペティション部門では、残念ながら受賞を逸した。

この映画は、7月26日から、全国でロードショー公開される。
- 2014年6月26日(木) 11:16:48
4・xx  * 映評「革命の映画/映画の革命」(ボリビアの映画)

南米・ボリビア映画を観た。ホルヘ・サンヒネス監督作品。ホルヘ・サンヒネス監督
は、映画製作集団を設立して1960年代から現在まで半世紀に亘って映画製作活動
を続けている。1966年映画「ウカマウ」を製作してから映画製作の集団名を「ウ
カマウ集団」に改めた。「ウカマウ」とは、ボリビアの先住民族アイマラ人の母語に
ある表現で、「そんなふうなことだ」という意味だという。ホルヘ・サンヒネス監督
は、1937年生まれ。

サンヒネス監督自身は白人層の出身だが、ボリビアの住民の半数以上は先住民族のア
イマラ人、ケチュア人であることから、彼の映画の出演者には素人の先住民族の人た
ちを多く起用し、アイマラ語・ケチュア語など先住民族の言語を尊重して、植民地言
語であるスペイン語も交えて、映画づくりをしてきた。当時のラテンアメリカ映画界
はハリウッド映画に占領されていたので、先住民族を重視したウカマウ的な映画づく
りは、まったくなされていなかった。

ホルヘ・サンヒネス監督作品は、12作品で、以下の通り。
1962年、「革命」(モノクロ、10分)
1965年、「落盤」(モノクロ、20分)
1966年、「ウカマウ」(モノクロ、76分)。妻を殺された青年の復讐。
1969年、「コンドルの血」(モノクロ、70分)
1971年、「人民の勇気」(モノクロ、93分)
1974年、「第一の敵」(モノクロ、98分)。ゲリラと貧農の先住民の共闘。
1977年、「ここから出て行け!」(モノクロ、102分)。資源開発を目指す多
国籍企業への反抗。
1983年、「ただひとつの拳のごとく」(カラー、95分)。1970年代の軍事
政権打倒への動き。
1989年、「地下の民」(カラー、126分)。都会で暮していた先住民族の男
は、村へ帰る決意を固めた。
1995年、「鳥の歌」(カラー、102分)。先住民族の価値観の復権と内面を掘
り下げる方法を模索する映画製作。
2003年、「最後の庭の息子たち」(カラー、97分)。政府高官の汚職。それに
反発する青春群像。
2012年、「叛乱者たち」(カラー、83分)

今年の5月3日から16日まで、「革命の映画/映画の革命」というイベントが開か
れ、この12作品が東京新宿で一挙に上映されるが、それを前に、このうちの2作品
を試写会で観る機会に恵まれた。先住民族の闘い=「革命」の映画。1960年代か
ら少数民族の言語で描かれた先見的な映画=「映画」の革命。

ホルヘ・サンヒネス監督作品は、先住民族の人権恢復という明確な政治的、社会的
メッセージを盛り込んでいるため、「外部」との軋轢は絶えず、スポンサーが途中で
降りたり、現像所がないボリビアゆえ、撮影されたフィルムは国外の現像所に持ち出
されるが、当時の西ドイツの現像所では、なぜかネガフィルムの大半が「破損」され
たり、アルゼンチンの現像所に送ったフィルムが、ボリビアの税関で「紛失」された
りしたため、「死の道」(1970年)と「生への行進」(1986年)の2本の作
品が未完成のままとなってしまったという。

さらに、監督自身は、1971年のボリビアの軍事クーデタが起こってからは、通算
10年間近く、チリ、ペルー、エクアドルなどで亡命生活を送りながら、映画製作・
上映制作活動を続けていた(1978年、民主化の高まりで、一時帰国したが、19
80年、再び、軍事クーデタがあり、亡命)。1982年、ボリビアに文民政権が樹
立されて、やっと帰国できて、現在に至っている。


では、1969年作品「コンドルの血」(モノクロ、70分)と最新作の2012年
作品「叛乱者たち」(カラー、83分)について、取り上げたい。

「コンドルの血」は、アメリカの平和部隊が設置した婦人科診療施設で、ボリビアの
農村女性たちに対して、本人の承諾を得ないまま不妊手術をしたという犯罪を告発す
る映画。その根底には、スペインの植民地となっていた時代に支配階級に蔓延してい
た「先住民族には高い知性が無く、絶滅されるべきだ」という政治思想(イギリスの
ホッブス、フランスのヴォルテール、ドイツのカントなどの名前を挙げて、口伝され
たという迷信)が、生きていた、ということで、映画の冒頭の字幕で紹介される。

映画は、アンデスの山岳地帯の先住民族の村が舞台。この村では1年半も前から子ど
もが誕生しなくなっていた。それに気がついた村長が、平和部隊の施設である診療所
で治療を受けた女性たちの聞き取り調査を始める。その結果、不妊手術のことに気付
き、アメリカ人たちは「女性たちの腹に死をまき散らしている」と告発する。しか
し、先住民の農民たちは、弾圧され、ひとりが暗殺される。

村長も巻き込まれて死んだと見なされるが、瀕死の重傷は負ったものの、妻の機転で
都会に住む義弟・シストのところに運び込まれる。しかし、先住民族の男に対して病
院は、ベッドは提供したものの、薬も輸血用の血液も別料金だという。それを購入す
るためには、シストの給料の3倍の金額が掛かるという。シストは姉(村長の妻)と
金策に走り回るなかで、義兄(村長)らの悲劇の原因を知ることになる。

都会で暮してゆくために、自分が先住民族であること、つまり、アイデンティティを
否定していたシストは、人種差別的な社会と対立すべきことに気付き、「敵」との闘
いを決意するようになる。現実にあった事件で、平和部隊は、その後、国外に追放さ
れたという。

物語の背景に映し出される山岳地帯の村の厳しい生活や自然が、モノクロの画像なが
ら迫真的だ。村民たちの刻み込まれた皺の表情にも圧倒される。映画の中で、奏でら
れる民族楽器の音色も素晴らしい。それが、次の映画「叛乱者たち」では、カラー映
像で出逢える。この作品は、ジョルジュ・サドゥール賞(フランス)、ヴェネチア国
際映画祭金舵賞、バリャドリッド国際映画祭金穂賞受賞。


「叛乱者たち」は、18世紀末のスペインによる植民地支配からの解放、人権恢復を
目指す先住民族の闘いから、2005年、先住民族アイマラ人出身のエボ・モラーレ
ス大統領誕生までの、先住民族の抵抗の歴史を描く。

1781年。先住民族の叛乱。「ラパス包囲戦」と呼ばれる。トゥパク・カタリとそ
の妻、妹らが先頭に立って起こした「叛乱」。184日間の包囲戦は、失敗に終わる
が、八つ裂きの刑に処せられたトゥパク・カタリは、「我々は百万人になって戻って
来る!」と叫んだと伝えられる。

1814年。先住民族ケチュア人の青年詩人・ワリュパリマチが闘いの中で戦死し
た。輝かしい民族独立の日が来たら、墓からすぐさま飛び出せるように「立ったまま
埋めてくれ」という遺言を残し、希望通りに縦穴に埋められた。

1825年。ボリビアはスペインから独立したが、支配階級の政治家、軍人、聖職者
らは、白人植民者の末裔で、「先住民族には高い知性が無く、絶滅されるべきだ」と
いう政治思想(イギリスのホッブス、フランスのヴォルテール、ドイツのカントなど
の名前を挙げて、口伝されたという迷信)に基づく、会話をしていた。そういう場面
が、映画の冒頭部分で描かれる。

19世紀後半。サントス・マルカ・トゥーラは、人望のある村長で、植民地時代の先
住民族の土地所有の権利書を取り戻そうとかけずり回り、逮捕され、拷問と長期勾留
にめげず、闘い続けた。

1898年。連邦国家を目指す自由党が政府に宣戦布告。先住民族のアイマラ人のパ
ブロ・サラテ・ウイカルは先住民族の権利回復を約束した自由党に味方した。勝利し
た自由党は、先住民族の急進化を恐れて、一転、弾圧を始めた。先住民族共和国の樹
立を夢見たウイカルは岩や石だらけの荒野に引き出され、銃殺され、遺体は遺棄され
た。処刑後、どこかに潜んでいた先住民族の仲間が、ウイカルの遺体を運んで行っ
た。

1920年代。先住民族アイマラ人の青年、エドゥアルド・ニナ・キスペは、先住民
族のための学校を作ろうとして、街頭で積極的に演説をしたが、軍に捕えられ、殺さ
れた。

1932年から35年にかけてボリビアとパラグアイの間で起きた「チャコ戦争」
(チャコ地方の石油利権を巡る支配層の争い)に動員された兵士たちは、政治意識の
目覚めた。帰還した先住民族の兵士の中には、農民組合を結成する者も出た。

1944年。大統領に就任したビリャロエルは、白人ながら、先住民族の奴隷労働を
廃止し、農地改革に手をつけるなど、当時としては先進的な諸策を打ち出したが、富
裕層の反発を招き、失職、殺された。先住民族たちは、大統領の死を悲しみ、立ち上
がった。

2000年。コチャバンバでの「水戦争」(水資源を「民営化」の名の下に多国籍企
業に売り渡そうとした「新自由主義」の政府への反抗)。2003年。エル・アルト
での「ガス戦争」(天然ガス資源を外国に売ろうとした「新自由主義」の政府への反
抗)。石礫を手に先住民族の男女は、闘った。経済のグローバリズムに対抗する先住
民族の人権に裏打ちされたナショナリズム。それは、ボリビアに留まらず、世界へ向
け手の普遍的なメッセージとなるだろう。

2005年。先住民族アイマラ人出身のエボ・モラーレス大統領が誕生した。国民の
60%を占める先住民族が、やっと、政権の座についた。先住民族の「叛乱」に始
まって222年経って、主権回復への道が開けた。この映画は、222年に及ぶボリ
ビアの公の歴史から斬り捨てられ、意図的に排除されてきた先住民族の歴史を「民族
の英雄列伝」という形で、描いたものだ。

エボ・モラーレス大統領は就任演説で、こう述べた。
「いまだに先住民族を目の敵にする人々がいるが、我々は法服も恨みを晴らすことも
求めない」。他者と共生する社会を目指すと呼びかける。どのようにすれば、そうい
う社会が実現するのか、映画は、それを問いかける。

モノクロの画像ながら迫真的だったアンデスの山岳地帯にある村の厳しい生活や自然
が、この作品では、色彩豊かなカラーで描き出される。村民たちの刻み込まれた皺の
表情、色鮮やかな民族衣装、踊りの際の扮装、映画の中で、奏でられる民族楽器の音
色も素晴らしい。2013年、ベノスアイレスで開かれた国際政治映画祭第1位。同
年、アルゼンチンで開かれた南米諸国連合ドキュメンタリー映画際最優秀賞受賞。

これら12作品の映画は、来月(5月)3日から16日まで、「革命の映画/映画の
革命の半世紀(1962〜2014)」というイベントが開かれる東京・新宿の
「K‘s  cinema」で公開上映される。
- 2014年4月19日(土) 7:01:33
4・XX Sさんへの手紙  *「北方部隊の朝鮮人兵士」書評

ご無沙汰しています。お変わりありませんか。大兄のご健筆ぶりは、新刊刊行で察し
がつきます。いつも目の付けどころとそれを活かした文章表現に感心して拝読してい
ます。

さて、お願いがあります。私の連れ合いが、このほど本を刊行しました。店頭に出始
めたところです。本は、この手紙とともに同封しましたように、タイトルは、「北方
部隊の朝鮮人兵士  日本陸軍に動員された植民地の若者たち」(ペンネーム:北原
道子著、現代企画室刊。税別で、2800円)です。このような調査に対する先人た
ちの貴重な尽力(「あとがき」参照)を彼女も引き継ぎ、近代日本史の「隙間」を埋
めるような息の長い、しかし、心細いような試みです。

40年以上前、私がマスメディアの記者になり、初任地の大阪に赴任した際、学生結
婚をしていた連れ合いが、当時、すでに2年間余り就職していた東京の出版社を辞め
て、大阪に来ました。東京育ちの彼女に取って、大阪弁という、いわば「異国語・文
化」での生活のなかで、以前から関心のあった朝鮮語を学びたいという気持ちにから
れていた時、新聞記事で見つけた神戸市の市民グループ立ち上がりの動き(関西らし
く、隣国の韓国・朝鮮の言葉、朝鮮語と朝鮮史を学ぶ日本人の市民グループ『むくげ
の会(神戸)』発足)を知り、参加しました。その後、私の東京本社転勤で、その市
民グループとは、いわば、客員関係となりましたが、畢生のお仲間との交流は今も4
0年以上続いております。東京に戻ってからも、彼女は、東京の朝鮮語を学ぶ市民グ
ループ『現代語学塾』に参加して以来、いまも、そこで、朝鮮語の勉強を続けており
ます。

さらに、その後、私は、報道局社会部のデスク(管理職)になってから、仙台、札幌
と報道デスクの現場を転勤しました。この間も彼女はそれぞれの地で地元の人と交流
しながら、朝鮮語と朝鮮史の勉強を続け、札幌時代には、朝鮮半島から北海道に徴
兵・徴用された朝鮮人の動向を研究するようになり、以来、20余年間、調査・研究
を続けてきました。北海道、サハリン、韓国、北朝鮮と飛び回り、関係者・関係機関
(東京の防衛省防衛研究所図書館、ソウルの韓国国家記録院などの埋もれた蔵書な
ど)から事実関係を調査するとともに、生き残っている関係者(年々、訃報が届きま
す)にインタビューをし、埋もれたままにされていた日本陸軍の記録を発掘し、その
成果を今回この著書にまとめたという次第です。

著書では、「朝鮮人動員」とは、なにか。日本陸軍「留守名簿」に基づく朝鮮人兵士
動員の実体。朝鮮人学徒兵経験者、朝鮮人少年戦車兵(北千島占守島に動員)へのイ
ンタビューなどが記述されています。

日本陸軍に「動員」された植民地の若者たちの実体を歴史の隙間に埋もれていた陸軍
の「留守名簿」など膨大な資料の発掘を手がかりに、樺太(サハリン)、千島(クリ
ル列島)、北海道などの「北方部隊」に動員された朝鮮人兵士たちの過去と現在を追
いかけました。

札幌在住時、彼女が知り合った郷土史研究グループとの交流で、北方部隊に「朝鮮人
の若者はいなかったのか」という素朴な疑問を持ったのがきっかけで、その疑問を自
ら解き明かそうと始めた調査研究でした。

市井の研究者がまとめた拙い作品でしょうが、彼女にとっては畢生の著書です。小著
ながら歴史の「隙間」を埋める調査・研究には、なっているのかなと身内贔屓なが
ら、思います。大兄のご多忙ぶりは承知しておりますが、ご担当の新聞の書評欄にこ
ういう本が出版されたとご紹介していただくとありがたいと思います。
- 2014年4月18日(金) 9:19:20
1・XX

安倍政権は、原発再稼働推進や内容に問題のある特定秘密保護法を議論途中で打ち切
り、強行採決をするなど、その独善的な「暴走」ぶりは、目に余る。 

猪瀬直樹元知事の「自滅」(5000万円「疑惑」はさらに深まるような報道が続い
ている)に拠る、降って湧いたような都知事選挙には、今のところ脱原発を争点の一
つにしようとする知事候補がふたり (表明順に、宇都宮氏、細川氏)名乗りを上げてい
る。 

安倍政権の「暴走」ぶりに社会は閉塞感を増している。これが、少なくとも、あと2
年半も続くのかと思うと、私など、息苦しくて口をぱくぱくさせながらでないと外を
歩けないほどだ。17日の金曜日。都心の「酸素度」を測るために久しぶりに国会周
辺、官邸前などを歩いてみた。警察官の姿が多いのは、やはり異様な光景だ。 

「意見表明行為」に参加している人たちは、午後5時には、集まり始めていた。寒い
中、それなりに参加者たちが増えて来る。「反原発」、「脱原発」のプラカードに混
じって、「特定秘密保護法批判」のカードも目立つ。未だ少ないながら、「都知事選
挙」に触れたカードもあるかと思い探したが、私の目には触れなかった(翌日の新聞
記事の写真にはあった)。 

来週、24日の金曜日は、知事選挙の告示日の翌日だから、もっと増えているのでは
ないか。それまでに、可能ならば、脱原発候補が、一本化されることを望みたい。ふ
たつに分かれているのでは、勝ち目が乏しくならないか。安倍政権の「暴走」を牽制
するためにも、都知事に反安倍政権を標榜する人が当選する意味合いは大きい。政党
や政治家は、大局的な見地にたち、「統一戦線」をつくり、告示までに候補者の一本
化を是非とも図ってほしい。共産党の「自共対決」戦略も、細川氏小泉氏の問題点も
判るつもりだ。しかし、「脱原発」票が割れて、漁夫の利を得るのは誰かということ
も考えないといけないだろう。大局観を持ち、時代の閉塞状況に風穴を開けて欲し
い。 

例えば、辞退した人を副知事に据え、その人の政策も都政に活かして欲しいし、場合
によっては、懐の深さを見せつけて、オリンピックも挟んで、もう一方を後継者にし
てバトンタッチをする政策案をたて、堂々と都民の審判を仰ぐという手もあるのでは
ないか。 

東京都民は、電力のありようを考えるためにも、電力と原発事故について、真剣に考
える必要がある。そのためにも、東京都の有権者を二分して知事選びをする価値があ
ると思う。今回の知事選挙は、短期で「自滅」した猪瀬直樹元知事の数少ない功績の
一つになるだろう。彼は、都民に絶好の機会を与えてくれた。まして、東京都知事が
「脱原発」の舵取り役になるようなら、安倍政権のありようを複眼の視点で再検討す
る端緒を作ることが出来るかもしれないと、期待するのは私だけではないかもしれな
い。
- 2014年1月18日(土) 10:48:07
1・XX

安倍政権は、原発再稼働推進や内容に問題のある特定秘密保護法を議論途中で打ち切
り、強行採決をするなど、その独善的な「暴走」ぶりは、目に余る。 

猪瀬直樹元知事の「自滅」(5000万円「疑惑」はさらに深まるような報道が続い
ている)に拠る、降って湧いたような都知事選挙には、今のところ脱原発を争点の一
つにしようとする知事候補がふたり (表明順に、宇都宮氏、細川氏)名乗りを上げてい
る。 

安倍政権の「暴走」ぶりに社会は閉塞感を増している。これが、少なくとも、あと2
年半も続くのかと思うと、私など、息苦しくて口をぱくぱくさせながらでないと外を
歩けないほどだ。17日の金曜日。都心の「酸素度」を測るために久しぶりに国会周
辺、官邸前などを歩いてみた。警察官の姿が多いのは、やはり異様な光景だ。 

「意見表明行為」に参加している人たちは、午後5時には、集まり始めていた。寒い
中、それなりに参加者たちが増えて来る。「反原発」、「脱原発」のプラカードに混
じって、「特定秘密保護法批判」のカードも目立つ。未だ少ないながら、「都知事選
挙」に触れたカードもあるかと思い探したが、私の目には触れなかった(翌日の新聞
記事の写真にはあった)。 

来週、24日の金曜日は、知事選挙の告示日の翌日だから、もっと増えているのでは
ないか。それまでに、可能ならば、脱原発候補が、一本化されることを望みたい。ふ
たつに分かれているのでは、勝ち目が乏しくならないか。安倍政権の「暴走」を牽制
するためにも、都知事に反安倍政権を標榜する人が当選する意味合いは大きい。政党
や政治家は、大局的な見地にたち、「統一戦線」をつくり、告示までに候補者の一本
化を是非とも図ってほしい。共産党の「自共対決」戦略も、細川氏小泉氏の問題点も
判るつもりだ。しかし、「脱原発」票が割れて、漁夫の利を得るのは誰かということ
も考えないといけないだろう。大局観を持ち、時代の閉塞状況に風穴を開けて欲し
い。 

例えば、辞退した人を副知事に据え、その人の政策も都政に活かして欲しいし、場合
によっては、懐の深さを見せつけて、オリンピックも挟んで、もう一方を後継者にし
てバトンタッチをする政策案をたて、堂々と都民の審判を仰ぐという手もあるのでは
ないか。 

東京都民は、電力のありようを考えるためにも、電力と原発事故について、真剣に考
える必要がある。そのためにも、東京都の有権者を二分して知事選びをする価値があ
ると思う。今回の知事選挙は、短期で「自滅」した猪瀬直樹元知事の数少ない功績の
一つになるだろう。彼は、都民に絶好の機会を与えてくれた。まして、東京都知事が
「脱原発」の舵取り役になるようなら、安倍政権のありようを複眼の視点で再検討す
る端緒を作ることが出来るかもしれないと、期待するのは私だけではないかもしれな
い。
- 2014年1月18日(土) 10:47:28
12・XX ★ 映評「小さいおうち」

山田洋次監督作品「小さいおうち」は、昭和初期(10年代)に東京の郊外で小市民
的生活を送るサラリーマン(中小企業の役員)宅に「女中奉公」した東北出身の老婦
人・タキの60年後の回想物語。没後、数冊の大学ノートに記述されたタキの「自叙
伝」の内容が、舞台廻しを勤める。中島京子原作の直木賞受賞作品「小さいおうち」
の映画化。奉公先の夫人・時子と夫の会社の部下・板倉との「恋愛事件」(あるい
は、今の用語なら「不倫関係」なのかどうか)の真相を探るという筋立てだが、最後
に明かされる小道具、差出人の夫人の名前のみ記載された宛名の無い「封印されたま
まの手紙」がキーポイントとなるような味付けになっている。夫人・時子と部下の青
年・板倉と板倉に淡い慕情を抱いていた若き日のタキの気持ちの上での「三角関係」
が、緊張感を生む家庭ミステリーでもある。

ストリーのクライマックスは、赤紙が来て応召する板倉に逢いに行こうとする時子を
身体を張って止めるタキの場面。時子と板倉の「密会」が、近所や親戚の目に厳しく
映り始めていた。時代は、住民の行動を近隣同士で監視し合うような社会になってい
た。赤紙が来たと板倉は、平井夫妻に挨拶に来た。その翌日、着飾った時仔は慌ただ
しい様子で外出しようとする。タキは、時子が逢いに行かずに板倉が来宅するように
手紙を書けという。それを自分が届けに行けば、近所の目にはさらされない。タキ
は、時子から板倉に届ける宛名のない、差出人の名前のみが明記され、封印された手
紙を預かる。タキは、板倉に会って来る。時子は、終日、板倉の来訪を待っていた
が、板倉は来なかった。

丘の上の赤い屋根の洋館。小説、映画でともに使われている「小さいおうち」という
タイトルも、バージニア・リー・バートン作の有名な絵本「ちいさいおうち」のタイ
トルを借用していることは確実。私も、昔読んだことがある。都市化に取り残された
小さな古いうちの物語。この絵本も、タキ側の親戚の若者・健史の恋愛に味をつける
小道具(ガールフレンドが健史の誕生日に、この本をプレゼントする)として出て来
る。昭和初期の恋愛感情(戦前、結婚してしまえば、思うままに生きられず、自分の
感情を殺してでも生きて行かざるをえない時代の女性心理)と現代の恋愛感情(そう
いう制約の少ない時代の女性心理)というテーマを見つけてこの映画を見る人もいる
かもしれない。または、昭和初期と現代との違いと類似性を感じながら見る人もいる
かもしれない。

この映画のおもしろさは、本筋のストリー展開もさることながら、昭和初期と現代と
いう世相をビジュアル的にも丹念に描いていることだろうと、思う。

大正時代から始まった和洋折衷の「昭和モダン」と呼ばれた文化。その象徴的な赤い
大屋根の洋館に住むサラリーマン家庭。室内には、ヨーロッパから輸入されたアー
ル・デコ、アール・ヌーボーのインテリア。ステンドグラスがはめ込まれた扉や丸い
窓、白く塗られた格子のある洋風の窓、窓に掛かるカーテン。和洋折衷の欄間。

家具や小道具、例えば、応接間のテーブル、椅子、紅茶カップ、壁紙、壁にかかった
絵、部屋の隅に置かれた瀬戸物の洋風人形や和風の人形、おもちゃ、絵本、SP盤を聴
く蓄音機(これは山田監督所有のものが活用された)、飾りダンス、煙草セット。来
客が乗ってきたクラシックな車。炊飯器ではないお釜など台所の道具類、食器類、茶
の間のちゃぶ台。和室から見える隣家との境。玄関の扉、下駄箱。

和服の「洗い張り」で用いられた「伸子(しんし)張り」の光景(布を竹で伸ばし
て、一定の布幅を維持したまま乾かす道具)が、庭で繰り広げられる。隣り合う隣家
の主婦の光景も背景はCGだろう。和服の着方、襷がけ、もんぺ、割烹着。女中部屋
の佇まい、女中奉公の仕方など、この時代の女中の振る舞いを模倣する。山田洋次監
督の育った子供時代の記憶を元に、いろいろなことが再現されていて、素晴らしい。
小道具類は、俳優たちの気分を昭和初期の世界にタイムスリップさせる効果がある。
ストーリーの流れ、俳優たちの演技と科白も追いかけるが、画面のあちこちにちらり
と見える、こうした小道具類を見逃さないようにしたい。

洋館の建つ「丘の上」も、山田洋次監督が育った当時の東京郊外・大田区雪谷の「階
段坂」を使った。坂の上から見える向こう側の丘を含めての風景は、作れないので、
CGで再現した。こうした昭和初期と現代の光景は、フィルムで撮影され、フィルム
で編集された。いま流行のデジタル映画ではない。ソフトな感じがする。

俳優たちは、昭和の生活を再現した。昭和初期篇の俳優たち。髪型、服装、しゃべり
方、特に、時子を演じた松たか子、若き日のタキを演じた黒木華(はる)、板倉を演
じた吉岡秀隆が良い。松は、和洋折衷の昭和モダンの雰囲気を体現している。黒木
は、若い頃の田中裕子に雰囲気が似ている。妻と部下の「不倫」に気づかない平井雅
樹を演じた歌舞伎の女形・片岡孝太郎は、「終戦のエンペラー」で天皇を演じていた
時にも感じたが、女形とは違う魅力を滲ませていた。脇役人がそれぞれ曲者で、存在
感を出していた。タキが上京後、1年間だけ女中奉公していた小説家宅。小説家を演
じるのは、橋爪功。小説家夫人・吉行和子。室井滋、中嶋朋子、平井や板倉が勤めて
いた会社の社長・ラサール石井は、怪演。タキの故郷のカネを演じたあき竹城、時子
と板倉の「不倫」を嗅ぎ付けた近所の酒屋のおやじ(町内会の顔役、平井家に出入
り)を演じた蛍雪次朗、タキの見合い相手の中年男・笹野高史、見合いの席に同席し
た、その叔母・松金よね子、マッサージ師に林家正藏など。癖のある役者を揃えた。

これも小道具の一つだが、戦時色の新聞記事。その片隅には、高村光太郎の戦意昂揚
の詩が高村光太郎の名前とともに掲載されているのが、ちらっと見えた。スクリーン
を観ていて、この詩に気がついた人は少ないだろう。この映像に私は、この映画の真
髄を観た思いがした。詩人が詩精神と戦意昂揚を同一視して、真珠湾攻撃成功の報を
聞いて、神懸かりのような詩を書いていた。そういう得意な精神状態が暫く続いた時
代。高村光太郎は、自分が書いた詩で、他人を死なせてしまったことを戦後、岩手県
の山中で隠遁生活を送りながら、どれだけ悔いたことか。

特に、その後、破滅的な戦争に突っ込んで行った昭和初期と特定秘密保護法案が強行
採決された現在、そのなりふり構わぬ強行ぶりに「軍靴」の足音を聴く思いのする現
代人の共感を誘うような出来映えの世相描写が素晴らしい。山田監督は、戦前の治安
維持法を思わせる特定秘密保護法案に反対する声明に加わっていた。

現代篇は、タキの回想。老いたタキを演じるのは、倍賞千恵子。甥の荒井軍治を演じ
た小林稔侍。軍治という名前が、如何にも戦前生まれを明示する。身寄りの無いタキ
の葬式を仕切る。甲府盆地の南アルプスの山並みが、さりげなくインサートされてい
る。軍治の息子・荒井健史を演じる妻夫木聡。タキに自叙伝を書かせる。軍治の娘・
荒井康子に夏川結衣。「健史」「康子」と戦後の健康志向の命名。健史のガールフレ
ンド・ユキに木村文乃。

タキの住むアパートの部屋に掛けられていた「小さなおうち」を描いた油絵。あれ
は、復員後、画家になったイタクラ・ショージ(坂の上の赤い屋根の家の前に佇む時
子とタキの姿を描き込んだイタクラの絵が、原画展で展示されている。坂の下を戦前
の池上線の電車が走っている)、こと板倉正治が画家になる前、若き日のタキの淡い
恋心に答えて描いて贈った絵なのかもしれない。生涯を独身で通したという板倉。夫
と抱き合うようにして防空壕で亡くなったという時子。応召前の板倉から贈られた
「小さなおうち」の絵をずうっと大事に部屋に飾っていた同じく独身のタキ。3人
は、それぞれ幸せな人生を送ったのだろうか。

映画の「小さなおうち」は、70年前山田洋次の幼児体験のある坂の上の小さなおう
ちが原点という。赤い屋根の家は、東京大空襲で焼失してしまった。防空壕にふたり
で避難した夫妻は亡くなり、男の子(恭一)だけが残されたらしい。映画では、健史
とガールフレンドのユキが、その後の「男の子」(石川県の施設で車椅子、失明生活
を送る老人になっている。米倉斉加年が演じている)を探し出して尋ねて行き、封印
された時子(老人となった恭一の母親)の手紙が、初めて、開封される。時子の手紙
を板倉に届けなかったタキの板倉への慕情が、一気に解明される場面だ。

この男の子は、実は、山田洋次自身ではなかったのかと、ふと思った。「僕みたいな
男の子も登場する。これは僕自身の物語かもしれない」と山田監督自身も話してい
る。この映画は、来年の1月25日にロードショー公開される。
- 2013年12月15日(日) 12:53:42
 11・21 東京・日比谷野外音楽堂。

特定秘密保護法案反対集会に参加した。主催者発表で、この日の最終的な参加者は、
会場内外合わせて1万人を超えたという。全国、10数カ所でも同時刻に集会を開い
ているという。「連帯を求めて孤立を恐れず」。

集会は午後6時半開始だが、私は5時半会場着。全くの個人参加なので、空いている
最前列、真ん中辺りの席を一つ取った。集会終了の午後7時半まで2時間、野外の会
場にいたので幾分厚着をして行ったものの寒かった。発言者は、作家の落合恵子さ
ん、上智大学教授の田島泰彦さんほか。民主、共産、社民らの政党代表と無所属の山
本太郎の挨拶。

発言者の落合恵子さんが、1969年の東大安田講堂の有名な「落書き」の文句を紹
介していたが、若干表現が不正確だったので、正しい表現を記録しておきたい。

「連帯を求めて孤立を恐れず 力及ばずして倒れることを辞さないが 力を尽くさず
して挫けることを拒否する」

特定秘密保護法は、戦前の治安維持法のようなもの。2013年11月に私たち一人
ひとりが、そういう法案反対をするに当たって、十分「力を尽く」しましょうという
のが落合さんの発言の趣旨だろう。

集会終了後は、国会と銀座方面のふたつのコースに分れてデモ行進。私は、国会へ
向った。

戦争はいつも国民への秘密裡に始まる。特定秘密保護法は、国家秘密の権力による一
方的な「管理」(権力による入口ばかりで、国民向けの出口のないもの)を目指すと
いう意味で、「戦争準備法」という側面を持っていることを忘れてはならない。マス
メディアで不十分ながら伝えられる国会審議でも随分議論が杜撰ですね。審議不十
分、きわまりなし。白紙撤回、廃案こそが望ましい。
- 2013年11月22日(金) 10:32:58
11・XX * 映評「始まりも終わりもない」

前衛的なソロダンサーで海外の評価も高い上、最近では、映画にも俳優として出演し
ている田中泯と初めて会ったのは、2010年9月に東京で四半世紀ぶりに開かれて
いた.国際ペン東京大会の会場であった。9月26日の東京大会開会式を前に、国際
大会関連文学フォーラムが、9月23日から早稲田大学の大隈講堂で開かれていた。
内外の作家の作品を朗読し、それに合わせて作品理解を深めるための視覚的なアトラ
クションが上演された。フォーラムの2日目、9月24日の夜、大隈講堂の舞台で
は、田中泯が中国のノーベル賞級作家・莫言(その後、莫言は、去年ノーベル文学賞
を受賞した)の作品「牛」の朗読に合わせて創作ダンスを披露した。上演前の打ち合
わせの後、舞台袖で初対面の挨拶をした。田中泯が関係している農場〈山梨県内に最
初に作った活動拠点。その後、いまの甲斐市に拠点を移したというが、不明〉のある
山梨県北杜市白州町のことを話題にした覚えがある。

その田中泯と再び逢ったのが、2年後の2012年7月25日、山梨県北杜市白州町
の国道20号線に接した道の駅の駐車場であった。この道の駅は、背景には、南アル
プスの甲斐駒ケ岳が遠望できる。最初は、田中泯に似ている人が歩いているなと思っ
ただけだが、白州町に田中泯所縁の農場(「身体気象農場」)があることを知ってい
たので、もしかしたらご本人と、注意をして、改めてみ直したところ、やはり精悍な
顔つき、体型などから田中泯その人ではないかと思い、思い切って声をかけてみた。

「田中さん、田中さん」と呼びかけても、横目で見るだけで「知らんぷり(声掛けに
は気づきながら、こちらを知らない人という認識で無理も無いが、いわば、「無視」
していたように感じられた)」をして行こうとする。「田中泯さん」と呼びかけ直し
たら、振り向いた。「日本ペンクラブの大原です。2年前の国際ペン大会で挨拶を交
わしました……。」とコンパクトに自己紹介したところ、私のことを思い出してくれ
たが、足取りはやはり緩まない。「河原で撮影があって、ドウランを塗っているの
で……」ということであった。仕事中らしく多忙なようだと察し、「では、また」と
いうことで別れたが、今回、映画を観ていて、最初の方のシーンが、どうも、甲斐駒
ケ岳などのある南アルプスを源流とする瀧のある渓谷ではないか、と思われたので、
北杜市での去年の夏の短い邂逅を思い出したのだ。あの「撮影」が、この映画の撮影
だったかどうかは、不明。

映画「女囚さそり」などの作品で知られる伊藤俊也監督作品「始まりも終わりもな
い」は、田中泯の身体表現である前衛的なダンス百態とでも呼ぶべき作品だと思う。
劇映画らしいが、田中泯を始め、出演者に科白はほとんどない。ストーリーもないと
いえばない。主筋は、舞踊家田中泯のダンスの披露を通して、田中泯の自伝的色彩の
強い流れを追いかけているように思える。冒頭のシーンは、海原から始まるが、冒頭
に近いシーン、瀧のある渓谷の清澄な流れ(私の推測が正しければ、「尾白(おじ
ら)川」だろう)のママに、全裸に近い田中泯の肉体が流れて来る。目を瞑り流れの
ママに、ゆっくりと下って来る肉体は、「死体」に見えるし、流れがよどみに入れ
ば、「死体」は、羊水の中に眠る「胎児」にも見える。これは正に死であり、生であ
り、という両義性のシーン。全編を通じて、象徴的なシーンのひとつとなっている。

伊藤俊也監督は、1977年に作った「犬神(いぬがみ)の悪霊(たたり)」という
作品の中で、田中泯の身体表現力に魅了されたという。1945年3月10日生まれ
の田中泯。伊藤俊也監督は、田中泯の身体の中に、東京大空襲で亡くなった10万人
の死者を焼く劫火を見たのだろう。撮影時、67歳だった田中泯の人生、1937年
生まれの伊藤俊也監督自身の戦争体験を踏まえて、「人間の生と死」を描こうとした
という。田中泯という前衛ソロダンサーの身体表現を言語替わりにして、人間の生涯
を思索的に、詩的に、視覚的に描く劇映画。原案・田中泯。脚本・伊藤俊也という
「科白無き劇映画」は、こうして構想された。

時々、マイクが拾う人間の声は、呟き、呻き、叫び、掛け声、囃子声程度。「はじめ
に言葉ありき」ではなく、「はじめに沈黙ありき」、「はじめに身体ありき」、「は
じめに行為ありき」、「はじめに踊りありき」とは、伊藤俊也監督の言葉だ。踊り
は、「あらゆる芸能の始まり」だと、伊藤俊也監督は言う。

田中泯は踊る。海、川などの水。渓谷の岩や海の砂。古民家の木。焼け跡のような
土。車が激しく行き交う大都会の舗装道路やコンクリート。砂利採取場の砂利(大型
ダンプカーが何台も通り過ぎる)。そういう無機物を相手に田中泯の肉体が、蠢く。
流れる。留まる。踊る。大きな丸い石を首筋に載せて歩く。道路を這う。沈む(道路
の水たまりに「沈む」シーンさえある)。怪鳥に釣り上げられて空を飛ぶ……。天地
東西南北、6方向にパフォーマンスは、広がる。正に「六法」を踏む。これらのシー
ンは、解釈を拒否する。観客には、イメージを伝えるだけだ。映画の「台本」は、伊
藤俊也監督の描くスケッチを元にダンサー田中泯が自分の中に喚起されるイメージを
大事にして身体を蠢かす、ということを繰り返すことで出来上がって行ったようだ。

田中泯のこれまでの人生に随伴する女性のイメージ、母であり、姉であり、女であ
り、修羅であり、という役割を演じたのは、田中泯の唯一の弟子であるという石原
淋。田中も石原も、「サンズイ」偏の一文字。林の民。石原淋も良い味を出している
が、狂言廻しを演じた7人の老人たち。ギリシャ悲劇の「コロス(合唱隊)」の役ど
ころ。

手足が長く、贅肉の無い長年鍛えらた肉体。ただし、67歳の老いは肉体に確実に忍
び寄っている。肉が落ちたり、皺が寄ったりした尻が、何とも良い。そういう尻を
持った男の人生に若い女の人生が、交錯する。それを見守る目撃者のコロスの老人た
ち。

田中泯のダンスは、死に向って転げ落ちて行く老いを表現している。

舞台や路上で披露される田中泯のダンスやパフォーマンスは、持続し、完結するが一
過性を免れない。こうした舞台のダンスを映像化することもできるだろうが、最初か
ら映画として記録されるダンスは、何日間かに亘って撮影されるので、現場で作られ
た緊張感が、いくつかに断絶されたものを繋ぎ合わせて作品化されるしかないが、そ
れゆえに、映像記録としての新たなダンスを生み出すように思える。

人間の一生は、「誕生が始まりであり死が終わりであろうか」という伊藤俊也監督の
疑問をもとに映画のタイトル「始まりも終わりもない」が付けられたという。人間
は、誕生の瞬間も、死の瞬間も認知できない。「人間は、この世(界)に〈投げ出さ
れている〉だけではないだろうか」(伊藤俊也)という。

おもしろいと言えばおもしろい。難解と言えば難解な映画が出来上がった。表現者と
しての「想念が渦巻くかぎりはやりたい」という伊藤俊也監督は、77歳。喜寿を迎
えても、衰えない想念に観客は情念を感じる。

映画「始まりも終わりもない」は、12月14日からシアター・イメージフォーラム
ほかで全国順次ロードショー公開される。
- 2013年11月20日(水) 15:41:25
11・XX * 映評「天心」

北茨城市の五浦には、今年、5月と10月に訪れた。岡倉天心の建てた六角堂(北茨
城市)は11年3月11日の大震災による津波で流されたのだが、12年4月、復元
されたというので観に行った。元々の六角堂は、明治時代、東京を追われ、「関東の
松島」と言われる景勝の地、北茨城市の五浦海岸に日本美術院の一部を移転した岡倉
天心が、太平洋の波の音を聴きながら思索にふける場として自ら設計し、1905
(明治38)年に海岸沿いの自宅の敷地内の居宅から一段下った崖際に建てた六角形
の御堂だ。広さは、4畳半ほどで、仏堂(インド)と茶室(日本)、亭子(中国)を
融合させた造り(多様性を認めた上で、共通性に注目したのだろう。「アジアは一
つ」)となっていて、室内にはなにもない、簡素な建物だ。太平洋に突き出た崖の上
に建つ朱塗りの建物を天心自身は、「六角堂」とは呼ばずに、「観瀾亭(かんらんて
い)」(観瀾=大波を観るという意味)と称していた。天心没後、遺族らの手を離
れ、茨城大学美術文化研究所が管理する国の登録有形文化財となっていたが、津波で
流され、土台のみを残すだけになってしまった。しかし、大震災による被災文化財の
復興のシンボルとして位置づけられ、被災から1年余、茨城大学の手で逸早く再建さ
れた。

映画は、岡倉天心(1863年〜1913年)の生誕150年没後50年(50歳の
生涯)を記念して作られたが、明治初期、廃仏毀釈の大波に襲われ、仏像や絵画など
日本の伝統的な美術品が否定される中で、東大時代の恩師・アーネスト・フェノロサ
(政治学、理財学=経済学)に通訳として同行し、日本の美の再発見を訴える活動ぶ
りなど天心の生涯を追いかける。フェノロサと出逢った時、天心は、15歳、フェノ
ロサは、25歳。

特に、新しい美を生み出そうと日本美術院を創設し、当時の美術界の大勢派と対立・
苦闘する天心や弟子たちの美術活動の復活と津波で流された六角堂の再建は、ダブル
イメージされていて、映画の中でも随所でそのイメージが活用されている。日本美術
院移転後の1907(明治40)年の秋に天心邸(六角堂より一段上に立てられた居
宅。今回の津波で、床下辺りまで浸水したが、流失は免れた)で開かれた観月園遊会
のシーンでは、地元の「常陸大津の御船祭保存会」の人たち(30人)に、主要キャ
スト、エキストラを含む出演者80人、総勢100人を超える参加者によって、盛り
上がったという。このシーンは、震災からの復興を願う茨城県の熱気が伝わってき
た。映画では、五浦の断崖上に作られた日本美術院のオープンセットを始め、ほとん
どが茨城県内の撮影、特に五浦では、さらにその8割を撮影したという。

早熟な天心。1875(明治8)年、12歳、東京開成学校に入学し、途中、187
9(明治12)年、16歳、大岡もとと結婚、1880(明治13)年、17歳、東
京大学(在学中に開成学校から改称)を卒業した。文部省に入った若き天才、天心
は、1890(明治23)年、27歳、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の二代
目校長になり、横山大観、菱田春草、下村観山ら才能のある画家たちを育てたが、急
進的な日本画改革路線を邁進して、旧守派の激しい反発を招き、さらに、その後、明
治の近代化路線に乗った美術界の西洋画派との対立、学内の確執、己のスキャンダル
(後援者だった九鬼男爵の夫人、哲学者九鬼周造の母親との恋)も含めて、いわゆる
「東京美術学校騒動」により、8年後の、1898(明治31)年、校長を辞任し、
学校から追われた。

半年後、東京の谷中に日本美術院を創設したが、弟子たちの新画法(伝統絵画に西洋
画の画法を取り入れ、輪郭を線で描くことを止める「没線(もっせん)描法」を提唱
した)も否定され(「朦朧体」と揶揄された)、さらに、天心らの長期の海外旅行に
拠る不在もあって、美術院は経営難に陥った。天心らは、新天地を求めて、家族や大
観ら子弟たちとともに五浦に移り住み、「東洋のバルビゾン」を目指し、六角堂建設
の翌年、1906(明治39)年には、日本美術院の一部も移転させた。この際、木
村武山も新たに子弟加わった。絵筆を持たない「画家」であった天心は、しかし、画
家よりも絵心の判る指導者であったので、およそ10歳ほど年下の子弟たちに慕われ
た。

映画は、第一回の文化勲章を受賞した横山大観(中村獅童)が、五浦で過ごした青春
時代を回想する形で描かれる。映画では、フェノロサとともに日本の伝統的な美術を
守ろうと東奔西走する岡倉天心(竹中直人)の活動を軸に、美術学校での排斥、日本
美術院の苦闘、「都落ち」して移り住んだ五浦での子弟たちの創作活動、絵筆を持た
ない画家・天心の画家たちの指導ぶりを追いかけて行く。中でも、幼い子どもたちの
いる家族持ちで移住し、貧しい生活の中で、38歳と若くして亡くなる菱田春草(平
山浩行)の姿は、天心の苦闘と重なる。
病気のため、五浦を離れる春草一家を海上の釣り舟(天心が考案した「竜王丸」)か
ら見送る天心は、自分がデザインした独特の釣り師スタイルの衣装を着ていて印象に
残った。

映画では、九鬼男爵夫人・波津子との恋と情事が描かれるが、天心は、多情多恨な人
柄か、50歳の短い人生の中、恋も多く、波津子のほか、アメリカ・ボストン社交界
の「クイーン」と当時呼ばれた大富豪のイザベラ・ガードナー夫人、インドの女流詩
人、プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーなどとの恋愛が知られている。

天心の墓は、東京豊島区の染井墓地にあるが、五浦にも分骨された墓がある。先に五
浦に行った際、天心の墓にも参ったが、木々に囲まれているものの、墓石も無い土饅
頭の墓であった。死に際し、天心は、墓は簡素で、「幟」も建てるなという遺言を残
している。染井の墓は、岡倉家の墓所の一隅にあったが、天心の墓は、墓石も無く、
土台部分に「釋天心」と3文字が刻まれているだけであった。その隣の墓石には、
「永久の平和 岡倉」と刻まれた横長の墓石。さらにその隣には、天心の父親・岡倉
勘右衛門ほか3名連記の墓。墓石には、「釋正覺信士」という簡素な戒名。「福井藩
士岡倉勘右衛門明治丙申七月九日歿年七十七」と2行が刻まれている。明治丙申と
は、1896(明治29)年である。ほかのふたりは女性「釋◯◯信女」とある。岡
倉勘右衛門は、横浜で生糸を輸出する商人となり、「石川屋」という屋号を掲げてい
た。天心は、父親44歳の時の子で、次男であった。文明開化の時代、開港地横浜と
あって、老いた父親は、6歳の幼い息子に英語を学ばせる叡智があった。

先日、五浦に泊まった際、悪天候の中で、夜明け前の一瞬にかいま見えた日の出前の
暁光の素晴らしさ(数瞬のうちに海原より上った太陽は、間もなく、水平線の上に群
がっていた厚い雲の中に入り込んでしまった)、悪天候故に見えなかった青い大海原
が、映画の中では、随所に出て来る。青い海原を見に、もう一度五浦に行きたいと
思った。

松村克弥監督作品「天心」は、東京などでの封切り公開が始まった。
- 2013年11月19日(火) 11:13:57
9・XX 北里柴三郎の生涯 * 劇評・青年劇場「怒濤」


青年劇場は、時代状況を睨みながら、舞台からメッセージを発信する劇団である。今
回は、どういうメッセージを発信してくるのか、公演の度に、いつも、そう思いなが
ら客席に座る。

今回は、どうか。観客として、いくつか設問を決めて、舞台に対峙してみた。

まず、舞台を観る前に設定した問い。
1)なぜ、今、北里柴三郎を登場させるのか。
2)なぜ、今、森本薫原作を上演するのか。
3)若くして亡くなり、上演作品は、17本の戯曲の中で、上演された七つの作品の
ひとつだが、なぜ、1944年初演の、この芝居を、なぜ、今、再演するのか。

そして、舞台を観た後に設定した問い。
4)時系列的に明治期の日清、日露の戦争と北里柴三郎の研究・治療の実践は描かれ
るが、1944年に進行中の戦争の影が薄いのはなぜか。
5)今回の舞台から発信されているメッセージとは何か。
6)そのほか、舞台を観ていて、気がついたこと。

さて、私の答案は、以下の通り。
1)なぜ、今、北里柴三郎を登場させるのか:「怒濤」は、五幕の構成。第一幕「1
892(明治25)年10月 芝公園の一角にある北里家の座敷」、第二幕「189
3(明治26)年3月 伝染病研究所」、第三幕「1894(明治27)年5月 伝
染病研究所の庭」、第四幕「1914(大正3)年10月 研究所の一部」、第五幕
「1917(大正)年3月 北里家の座敷」。

北里柴三郎(1853年1月〜1931年6月)は、細菌学者。芝居に登場するの
は、39歳から64歳の北里柴三郎である。

暗転時に、スライドが時系列的な事項を写し出す。破傷風菌の純粋培養、血清療法の
発見などの実績をあげたドイツ留学から帰国後、細菌学に無理解な学界・政府、世間
の壁に囲まれながら、自宅の納屋を改造して、北里柴三郎は、研究を続けている。北
里柴三郎の学者としての事蹟とは別に興味が引かれるのは、日清日露の戦争である。
日清戦争は、1894(明治27)年〜1895(明治28)年。日露戦争は、19
04(明治37)年から1905(明治38)年である。つまり、芝居の第一幕から
第三幕までは、日清戦争前夜である。戦争が始まれば、負傷兵のために、破傷風菌の
血清も大量に必要となるだろう。福沢諭吉が、伝染病研究所解説のための援助を申し
入れてくれた。新しい研究所に移転したが、伝染病研究所は近隣に感染する危険があ
ると危惧する近隣住民の間から立ち退き運動が起こる。そうした中、娘の善子がジフ
テリアに感染する。北里柴三郎は、試作段階の血清注射を娘に打つ。治癒する娘。

日清戦争の勃発は、1894年8月だが、第三幕「1894(明治27)年5月 伝
染病研究所の庭」で設定されている翌月、6月2日には、清国の朝鮮出兵に対して日
本も朝鮮に派兵することを閣議決定しているので、かなりきな臭い時期だったろう。
第三幕の最後に日清戦争開戦を告げる号外の場面が描かれる。第三幕の冒頭では、北
里の妻・富子が、庭のベンチで娘の善子に絵本の「モモタロウ」を読んで聞かせる場面
から始まる。ここで読んでいる「モモタロウ」は、巌谷小波原作の「モモタロウ」の筈だ
が、巌谷小波原作の「モモタロウ」は、1894年7月に日本昔噺の第一冊として刊行
されている。つまり、第三幕「1894(明治27)年5月 伝染病研究所の庭」に
は、1894年の6月、7月、8月までも先取りして詰め込まれている。

迫り来る戦争の足音を聞きながら、研究の取り組む北里柴三郎。右傾化する現代の政
治、世相とのアナロジー。ここに青年劇場のメッセージの根幹がありそうだ。「モモ
タロウ」と言えば、芥川龍之介の「桃太郎」を連想する。1924(大正13)年の
発表された「桃太郎」は、桃太郎一行を日本の軍隊、鬼をアジアの人々という連想を
させるような反戦小説である。森本薫(1912年6月〜1946年10月)は、当
然、芥川龍之介の「桃太郎」を読んでいるだろう。第三幕は、そういう意味で象徴的
な場面だ。

2)なぜ、今、森本薫原作を上演するのか:34歳という短い生涯の森本薫には、1
8年間の作家生活で17本の戯曲と11本の放送劇がある。森本薫は、1940年、
文学座の座付き作者へ誘った岩田豊雄(獅子文六)に対して、自分は、「新劇の岡本
綺堂」になると決意を語ったと言う。

「1945年、女優杉村春子のために書いた「女の一生」が、いちばん有名だろう
が、この「女の一生」上演の前年に「怒濤」は、同じく久保田万太郎の演出で上演さ
れている。戦後といっても、森本薫は、1946年10月には、肺結核で亡くなって
しまうから、敗戦の4カ月前に上演された「女の一生」の主演女優に間を置かずに出
した手紙で、「時代の影響を受けないような芸術は死物であるが時代の奴隷となった
芸術はポスターにすぎないことは、戦争中の例をみても明らかだ」と書いているとい
う。今回の再演の演出をしたふじたあさやが、この手紙を引用している。「怒濤」
(1944年)と「女の一生」(1945年)の芝居。右傾化する現代の政治、世相
とのアナロジー。この辺りに、この設問の回答への手がかりがある。

3)なぜ、1944年初演の芝居を、今、再演するのか:それは、森本薫の数少ない
作品の中でも、杉村春子への手紙にあるように「『真面目に社会を考える現代劇』へ
の一歩を踏み出している」という問題意識は、戦時中、検閲をくぐり抜けながら、1
944年の「怒濤」から始まっていると演出家・ふじたあさやは、思っているからで
はないか。2)の設問への回答と通低するのではないか。

4)時系列的に明治期の日清、日露の戦争と北里柴三郎の研究・治療の実践は描かれ
るが、1944年に進行中の戦争の影が薄いのはなぜか:それは、第三幕に史実と違
うことを盛り込んでまで、この場面を圧縮した森本薫の、国家権力に潰されない芝居
の作り方、戦争協力にならないような芝居の演じ方という意識があったからではない
だろうか。明治期の戦争、明治期に刊行された「モモタロウ」の登場、巌谷小波が、
その後書いた「桃太郎主義の教育」を踏まえながら、1944年5月の上演という時
点で、森本には(1年3ヶ月後に負ける)「いまの戦争」の行く末が、見通せていた
のかもしれない。森本の時代を凝視し、見て見ぬ振りを装う視線が、この辺りに見え
隠れする。

5)今回の舞台から発信されているメッセージとは何か:以上見てきたように、いま
という時代の右傾化した世相について危惧する思い、森本薫の視線を借りて、青年劇
場は舞台からメッセージを発信しているのだろうと思う。

6)そのほか、舞台を観ていて、気がついたこと:箇条的に書いてみよう。
北里柴三郎役の杉本光弘は、青年劇場ではお馴染みのベテランの役者だが、第三幕か
ら第四幕までの演じられない20年間が、第四幕以降の演技に滲んでいなかったの
は、残念であった。この20年間の真ん中には、日露戦争があった。

大道具とホリゾントの間に通路をもうけて、大道具の前での芝居と通路での芝居が、
同時進行するという演出は、おもしろかった。

「怒濤」というタイトルが、いまひとつ判りにくい。自宅の納屋を改造して始めた研
究所が、福沢諭吉らの支援で、私立の伝染病研究所になり、国から助成金を受けられ
る内務省管轄の国立伝染病研究所になりながら、第一次世界大戦軍費拡大のあおりを
受けて、内務省から文部省に移管されてしまった。研究(文部省)と衛生行政(内務
省)の一体化こそ感染症撲滅(治療より予防が大事)の基盤と考える北里柴三郎は、
これをきっかけに、国立伝染病研究所をやめてしまう。いまの北里大学・北里研究所
に繋がる私立の研究所を新たに興す。こういう北里柴三郎の人生が、「怒濤」のよう
だったということだろうと思うが、それとも、「怒濤」のように北里柴三郎に押し掛
けて来るのは、国家や世間(特に、戦争)の方だろうか。

森本は、敗戦直前の手紙の中で、「『怒濤』や『女の一生』がダメなのは描くことに
だけ力を入れて自分を込める自分を籠める……というか、なんといっていいかわから
んが、とにかく作家自身が芝居の中で求めているものがハッキリしない、或は無い、
ことだ」と自省の念を表明しているという。

感染症と闘う医学者・北里柴三郎を描いた森本薫が、34歳という若さで結核菌に命
を奪われたことは残念である。「新劇の岡本綺堂」の作品をもっと観てみたかった。

青年劇場創立50周年記念・「怒濤」公演は、東京・新宿の紀伊國屋サザンシアター
で、9月15日(日)まで上演される。
- 2013年9月8日(日) 14:50:48
8・XX

* 松尾塾子供歌舞伎

恒例の松尾塾子供歌舞伎の東京公演を観て来た。国立劇場小劇場で8月25日に開催
された舞台を拝見した。演目は、「操り三番叟」、「新版歌祭文 野崎村の場」、そ
れに創作舞踊劇「月 雪 花」であった。

歌舞伎の御曹司らが演じる「子ども歌舞伎」は、最近は上演されなくなってきている
ようだが、松尾塾子供歌舞伎は、毎年、8月になると、大阪と東京できちんと上演さ
れる。早い子は幼稚園、小学校入学辺りから入塾し、中学卒業まで、ざっと10年
間、毎年夏の公演を目指して、歌舞伎の稽古に励む。ここから歌舞伎役者が出てくる
訳ではないが、小さな内から歌舞伎という日本の古典芸能を大人顔負けの本格さで上
演し、本物の芸能の愉しさ、厳しさを学んでいる。

松尾塾子供歌舞伎は、去年、開塾25周年記念を迎えた。歌舞伎十八番の大曲「勧進
帳」に見事挑戦を果たした。今年は、一つの区切りを超えて、新たな四半世紀への再
出発となる。今年の演目は、「操り三番叟」、「新版歌祭文 野崎村の場」などに挑
戦した。

「操り三番叟」は、能取りものの演目である。歌舞伎の向こうに能の「翁」、狂言の
「三番叟」が透けて見える演目だ。さらに「操り」という趣向が付加される。185
2(嘉永5)年という幕末期に「三番叟」という馴染みの出し物に人形が操られてい
るように役者が踊るという趣向を加味しただけに、かなり難易度の高い演目になって
いる。人形ぶりで踊る三番叟は、もちろん難しいが、翁の能面を付けて踊る部分のあ
る翁、そういった趣向が無い千歳だって、能狂言の基本を踏まえる必要がある。裃後
見姿で、三番叟の人形を操っているように見せる後見だって、大変だ。子どもたちは
一生懸命演じているが、やはり難しかった。舞の軸が安定していないなどいろいろ
あったが、それには触れまい。

「新版歌祭文 野崎村の場」は、お染久松の物語。野崎村は、久松の実家のあるとこ
ろ。久松の勤め先の大坂の店でのトラブルで、久松は暇を出され、実家に帰ってき
た。目下、ニート状態。父親の久作は再婚していて、連れ子のお光と同居している。
親の勧めでお光と久松は、幼い頃から許婚どうしであったが、久松は大坂の店のお嬢
さんのお染と恋仲になってしまった。それを知らされていないお光は、久松との結婚
を夢見て、浮き立っている。久松は憂鬱そう。

そこへ、久松の後を追って、お染が野崎村を訪ねて来る。都会のお嬢さんに嫉妬する
田舎娘のお光が可憐で初々しい。しかし、三角関係を察知して、お光は、身を引き、
尼になるという。兎に角、久松もお染も大坂に引き戻そうとお染を迎えにきた母親が
お染とともに舟に乗って大坂に戻ることになる。久松は、ひとり駕篭に乗り、別途、
大坂に戻る、という場面が、野崎村の場だ。

贅言;今回の国立小劇場では、いつもの花道だけでなく、廻り舞台も使い、後の所作
事では、花道のすっぽんまで使っていた。小劇場では、子供歌舞伎を除けば、人形浄
瑠璃の舞台しか観たことがないし、10数年観てきた子供歌舞伎でも、廻り舞台を使
う場面を観たことがなかったので、驚いた。まして、花道も両花道の仮花道のよう
な、仮設の花道だと思っていて、すっぽんなどの機能はないものと思っていた。

「さらばさらば」という葵太夫の竹本に乗って、下手の駕篭かきは、花道へ向うとこ
ろでたっぷり見せ場を作るし、上手へ向かう舟の船頭も、それに合わせて、見せ場を
付加する。本舞台には、お光と久作の親子が残り、覚悟はしても男女の別れは切ない
ゆえ、お光も泣き崩れる。

大歌舞伎では、役者の家の藝優先のため、味付けされた場面となるが、子供歌舞伎で
は、そういう味付けが無いので、原型を大事に演じているように思える。例えば、お
光がひとりで鏡に向う場面でも、油紙で眉を隠して、眉を剃り落した既婚者の顔をし
てみせ、ひとりで恥ずかしがるというお馴染みのお光の演技が省かれ、初々しいばか
りのお光のままで、演じられるのも、また、一興という感じがした。子供歌舞伎を観
ていると、毎回、これに似たような「気付き」があり、私には、それがおもしろく、
大歌舞伎では味わえないだけに、楽しみしている。

創作舞踊劇「月 雪 花」は、それなりに。特に、「雪」は、「新口村」を舞踊化し
たもので、忠兵衛の実家のある新口村へ梅川を連れての逃避行を描く。雪の場面を
切々と演じる。「月」は、満月の秋の夜。露草の草むらで蠢く虫たちが可愛い。
「花」は、満開の桜の下で繰り広げられる「元禄花見踊り」。
- 2013年8月25日(日) 21:53:19
8・XX  映評「タンゴ・リブレ」

「かぶく! タンゴ イン プリズン」という感じの映画。映画が描くものを整理し
てみる。

1)タンゴの魅力。ダンスであり、ダンスの伴奏音楽であり、独立した音楽でもある
タンゴ。映画で描かれるダンスは、アルゼンチンのブェノスアイレスで発祥したアル
ゼンチンタンゴ。アルゼンチンタンゴは、初期は、男性がソロで踊ったという。それ
が男性ふたりが組み合うダンスとなり、さらに男女のカップルで抱き合う、現在のよ
うな官能性豊かなダンスとなったという。抱き合った男女が顔とおでこを付け合うよ
うにして踊る。その姿を横から見ると、アルファベットの「A」の形に見えるのが、
アルゼンチンタンゴの基本型という。情熱的で官能的だ。もう一つのタンゴ、ヨー
ロッパ生まれのコンチネンタルタンゴは、優雅で旋律的だ。

演劇の官能性を「淫ら」と否定する江戸幕府の方針で、若い女性たちの遊女歌舞伎か
ら、青年たちの若衆歌舞伎、成年男性のみの野郎歌舞伎へと役者たちが押し込めら
れ、それに反発して女形の藝を育んで行った日本の歌舞伎の歴史とタンゴの歴史はベ
クトルが逆になっているように見える。

映画「タンゴ・リブレ」では、タンゴを踊るシーンは、大きく分けてふたつある。ひ
とつは、主人公の刑務所の中年看守・J.C.が趣味で通い、受刑者・フェルナンの妻で
魅力的な女性・アリスと偶然出会うことになる市井のダンス教室で繰り広げられる男
女のダンスシーン。年寄りが多いというのも、リアルである。

もうひとつは、刑務所内の男ばかりのダンスシーン。アリスが市井のダンス教室で、
自分が収監されている刑務所の看守・J.C.と知り合ったということで嫉妬に駆られる
フェルナンが刑務所内でアルゼンチン人の受刑者を探し出し、彼を講師にして刑務所
の休憩室で始まる、一種の「ダンス教室」。男達ばかりでタンゴを踊るシーンが描か
れる。この囚人群に隠れていたカリスマタンゴダンサーコンビの踊りが見もの。最
初、タンゴなんて踊れないとフェルナンの申し出を拒否していたチチョ・フルンボリ
とパブロ・テグリ。

このふたりのタンゴのダンスは、見ものだ。私には、猫に小判だが、彼らの示すダン
スのスタイル、ステップ、リズム、ペアの組み方などには、斬新にして奥深いものが
あるのだろう。「かぶく! タンゴ イン プリズン」と、冒頭で私が書いた由縁
は、この印象を元にしている。

2)刑務所の実態? 受刑者と看守、二人房、面会室(グループと個別)、受刑者た
ちの休憩室などの描写は、刑務所の実態に合うのかどうか、判らない。受刑者も、多
国籍であり、刑務所もどこの国の刑務所か判らなかった。主人公は、この刑務所の看
守の中年男。主人公と絡む受刑者側は、15歳の息子・アントニオを持つ女性のアリ
ス。この女性の夫・フェルナンと女性の愛人で息子の実父・ドミニク。男ふたりは、
コンビで人殺し(犯行を犯し、逃げるという冒頭のシーンだけで描かれるが、強盗殺
人事件のようだ)をし、20年刑を受けているようだ。それにしても、共犯の二人組
が、刑務所でも同じ房には入っているというのは、いかがなものか。日本の刑務所で
は、ありえない。彼の地ではありなのだろうか。良く判らない。

看守は、受刑者の家族と付き合っては行けないという規則はあるようだが、実態とし
て、この中年の独身看守・J.C.は、魅力的な受刑者の妻・アリスに魅かれて行く。そ
れを知って獄中で嫉妬する夫・フェルナンと母親の奔放ぶりに呆れる息子・アントニ
オ。アリスの愛人でフェルナンの共犯・ドミニクは、20年の刑に耐えられないと思
い込み、入浴時、看守の目が行き届かない状態を利用して、自分の手首を切り、自殺
未遂をしでかすが、一命を取り留める。

受刑者との面会は制限されていて、手続きも面倒そうだが、面会室は、一対一の個別
のもの(ただし、窓などの仕切りが無い)と大きな部屋でテーブルと椅子に別れてグ
ループで面会をする場面がある。例えば、面会時間の前半は、ドミニクとアリス、
フェルナンとアントニオで面会。途中で看守の指示で交代をし、ドミニクとアントニ
オ、フェルナンとアリスで面会するというシーンがある。

受刑者の休憩室には、「自由」時間になると受刑者が集められ、受刑者同士でおしゃ
べりをしたり、カードで遊んだりしている。その休憩室を利用して、フェルナンがダ
ンスを習いたいと持ちかけたことからアルゼンチン人のカリスマタンゴダンサーコン
ビの踊りが始まり、受刑者たちのタンゴの群舞に繋がって行く。ほかの受刑者たちが
床を踏み鳴らし、彼らの間から手拍子がわき起こり、熱狂の場面が展開される。受刑
者たちのダンスシーンは、なかなか、見ものだった。

「タンゴは、魂の踊り。心の奥底にある哀しみ、怒り、弱さ、優しさなどを表現す
る。タンゴは、大地であり、血であり、自由の舞だ」とタンゴの講師役となったカリ
スマダンサーは、受刑者たちに解説する。
 
3)騒音と科白と視覚。この映画が斬新なのは、刑務所内の騒音を活かしているこ
と。面会室になだれ込むさまざまな騒音効果を活かしながら、グループで話す科白
が、映像と無関係なように聞こえてくる。手前で静かに面会するグループの向こうに
見えるグループの会話が聞こえてくる。視野の交差がリズミカルに替わる。受刑者と
面会人の動きを監視する看守・J.C.の視覚。その視覚の見える範囲に画面が近づくが
会話は聞こえなかったりする。向こう側のグループの声が聞こえる。これは、意図的
な編集によって、生み出したという。刑務所の集会室の騒音が実態と合うものなのか
は、依然として判らないが、奇妙なリアル感を生み出しているのも事実だ。事前のリ
サーチで、刑務所の面会室の独特な雰囲気に感銘してそれを映画で再現したというか
ら、映画の制作者たちには、実感なのだろう。

4)面会人の家族がテーマ。アリス(30代)と夫のフェルナン、その息子のアント
ニオ。だが、やがて、アントニオの出生の秘密が「父親」・フェルナンによって暴露
される。アントニオの実父は、フェルナンの仲間であり、事件の共犯者で同房の受刑
者・ドミニクであるとフェルナン自身が息子に暴露する。アリスは、夫と愛人の両方
に面会に通っている。暴露されたことで揺るがされる家族。どうやら、アリス、ドミ
ニク、フェルナンは、若い頃からの不良の遊び仲間だったようだ。

母親を誰とでも「寝る」からだと非難する息子のアントニオ(15歳)。ダンス教室
でアリスと知り合い、そういう家族に近づく律儀な中年独身看守・J.C.(看守が職業
だということから、本名を明示せずにイニシャルを使っているのだろうか)の軌跡が
描かれる。アントニオは、母親に近づくJ.C.に嫉妬心とも対抗心とも取れる感情を燃
やす。母子家庭、奔放な母親、刑務所に収監されている父親、思春期まっただ中の少
年には、屈託があり、母親には反抗的だ。

5)価値観を変える。隠されたテーマが、やがて浮き彫りにされて来る。人生は一度
きり。好きなことをしよう。アントニオが父親のフェルナンが隠し持っていた拳銃を
見つけて、母親や看守・J.C.を拳銃で脅し、唆す。最後には、看守・J.C.主導で刑務
所の上司や同僚を脅し、「元」看守は、「新たな家族仲間」とともに脱獄を果たして
しまう。

歌舞伎並みの荒唐無稽な物語。フェルナンが運転し、助手席にドミニクが乗り、後部
座席にJ.C.、アリス、アントニオが乗った車での脱獄行の場面も印象的だ。いつし
か、皆が自然に微笑み出し、皆ニコニコ笑っているというラストシーン。脱獄どころ
か家族仲間、新しく加わった「元」看守の仲間が一緒にドライブにでも行くような愉
しげな表情をしている。この能天気ぶりがおもしろい。悲惨な現実だろうに、大団円
に悲壮感がないのが、良い。

「元」看守は、15歳の少年に拳銃で脅された挙げ句、脱獄を主導することで、自分
が培ってきた日常生活を壊す。価値観を変えれば、もっと自由に、一度きりの人生を
生き生きと生きて行けるというのが、監督からのメッセージ。「タンゴ・リブレ」。
君を想う。アリスに対するJ.C.の思い。律儀な看守から犯罪者への変身の根源的感
情。それは、愛、否、欲望。

6)多国籍映画。主役の踊りは、アルゼンチンタンゴ。科白は、フランス語とスペイ
ン語。役者は、ベルギー人、スペイン人、アルゼンチン人など。監督は、ベルギー
人、脚本は、イラン人、プロデュースは、ルクセンブルグ人ら。後援がベルギー大使
館となっているから、ベースは、ベルギー映画なのだろうか。多国籍がパワーを結集
して、ごった煮の刑務所の雰囲気をたっぷりと醸し出した。

中年独身看守・J.C.を演じたのは、フランソワ・ダミアン。面会人、官能的で魅力的
な母親アリスを演じたのは、アンヌ・パウリスヴィック。受刑者で夫のフェルナンを
演じたのは、セルジ・ロペス。同房の受刑者でアントニオの実父のドミニクを演じた
のは、ジャン・アムネッケル。アリスの息子で難しい思春期の少年・アントニオを演
じたのは、ザカリー・シャセリオ。

愛、官能と欲望、抵抗と服従、自由への憧れ。「かぶく! タンゴ イン プリズ
ン」。この映画「タンゴ・リブレ」は、9月28日から、全国でロードショー公開さ
れる。
- 2013年8月23日(金) 15:40:44
7・XX
彫刻家詩人・高村光太郎(「生誕130年彫刻家・高村光太郎展」を観て)


久しぶりに千葉へ行った。千葉市立美術館で開かれている「生誕130年彫刻家・高
村光太郎展」を見に行ってきた。詩人と同等の彫刻家・高村光太郎を満喫してきた。
私の狙いは、歌舞伎の明治期の劇聖と言われた九代目團十郎の首という、高村光太郎
製作の幻の彫像への思いを馳せることであった。

高村光太郎が1912年から33年間使ってきた駒込林町25番地のアトリエは、1
945年4月13日の空襲で焼けてしまったが、その際、「團十郎の首」を制作した
頃と同時期のほかのブロンズ像も持ち出せず、焼失してしまった。團十郎の首は、粘
土段階の塑像で、まだ石膏やブロンズにされないまま、失われてしまった。どういう
「首」だったかについては、高村光太郎は「九代目團十郎の首」というタイトルの
エッセイとして書き残している。

團十郎の首同様に、焼けて現存しないもの(詩人、新聞記者、編集者、智恵子などの
首)もある。当然ながら、現存しないものは見ることが出来ない。土門拳が写真を
撮っていて、その後焼失したもの(中華民国の青年詩人の首)もある。既に完成して
注文主に渡してあったので、現存しているブロンズ像もあるから、そういうもので幻
の團十郎の首を想像するしかない。

高村光太郎の父親で木彫家・高村光雲の「胸像」と「首」が会場には2点並べて展示
されていた。ひとつは、「光雲の首」(47・0×27・8×31・5)であって、
1911年の作品。父親光雲の還暦記念に息子光太郎が作っている。もうひとつは、
「光雲の首」から四半世紀後に作られた「光雲一周忌記念胸像」(71・0×55・
0×48・3)で、1935年の作品。寸法は、いずれも、高さ×幅×奥行である。
従って、「光雲の首」の方が、小振りである。光雲のヒゲを伸ばした風貌、顔つき
は、ほぼ同じであるから、1911年の作品が原型となり、1935年の作品が完成
されたということだろう。光雲は、1934年10月に83歳で病没している。今回
の展示では、2点が並べて置かれているので、「光雲一周忌記念胸像」を手前にし
て、後ろに「光雲の首」を置くという構図で、ふたつの作品を見ると、ほぼパースペ
クティブに見えるから興味深い。おでこの盛り上がり具合、豊かなヒゲのボリューム
と角度が、異なっているのが判るぐらいか。ほかは、相似形に見える。勿論、一方
は、胸像であるから胸まで作ってある。片方は、首なので、胸がない。顔とヒゲだけ
である。ただし、それぞれの顔の表情を正面から見れば、一見、ほぼ同じように見え
る。しかし、高村光太郎は、還暦の時の作品は、外面的創造、一周忌の時の作品は、
内面的創造というか、光雲という人物の本質を創造していると捉えているようだ。一
周忌記念胸像は還暦時の作品と違って、「ゴシツク的性格」を持っていて、「還暦の
時の胸像とは比較にならぬほど、ともかく前進してゐるのだといふことを納得する人
も割合に少ない。人によつては還暦の時のものの方がいいなどとちやかすことさへあ
る」と書いている。還暦時の胸像は、現存せず、今回展示された作品「光雲の首」
は、胸像とほぼ同じ時期に作られた別の作品というが、「首」作品から高村光太郎の
言辞内容を推測するしかない。それくらい、似ていて、その違いを見抜くのは、難し
いだろうと思う。目が違うのだろうかと、私なら思う。時空を超えて生きている光雲
の目。その目の印象で、別々に見れば感じないだろうが、並べて見れば、生きている
時に制作した「光雲の首」は、恰もデスマスクのように表情に精彩がないが、亡く
なってから制作した「一周忌記念胸像」の方は、表情に精彩があるのが判る。

現存しているブロンズ像を間近に見て、その存在感、実存感、本質感を直に感じるこ
とで團十郎の首というブロンズ像のイメージは、私がこれまで思っていたよりも意外
と大きなものだったのではないかという感じを持ったのが、私にとっては、今回の展
覧会の最大の収穫だろうと、思う。

私は、高村光太郎の「九代目團十郎の首」というエッセイを思い起こしながら、展示
されている15点ほどの胸像や首の作品を凝視した。特に、モデルとなった人物たち
の目鼻だち、皮膚、血管、筋肉など、無機質のブロンズの向こうに見えるものを見逃
すまいと思った。

「九代目團十郎の首」というエッセイでは、高村光太郎は、九代目團十郎の顔を解剖
学的に分析している。その分析が、そのまま、九代目團十郎の藝の分析になっている
ように私には思えて、興味深かったのである。高村光太郎の歌舞伎「藝談」が、焼失
された「九代目團十郎の首」という塑像の解説となっているという神妙さ。1945
年の空襲で制作途上のまま焼失した作品である「團十郎の首」は、1935年に制作
された「光雲一周忌記念胸像」の後に作られた作品である。「ゴシツク的性格」は、
当然踏襲されていたのではないか。

会場には、「老人の首」という無名氏の塑像があった。1925年の作品。37・8
×21・2×28・2という大きさ。高村光太郎は、子供の頃から歌舞伎の舞台に親
しんでいた。高村光太郎20歳の頃、1903年に亡くなった團十郎の首をどのくら
いの大きさで1945年の高村光太郎は作っていたのだろうか。

詩人は、直感で、若い頃から見続けた團十郎の舞台から、この役者の藝の本質的な部
分を見抜いて、ことばで表現をし、彫刻家は、團十郎という名優の顔つきを観察し、
目(視覚)で、藝の本質と顔つき、表情、演技を脳裏に焼き付け、さらに、彫刻家
が、手(触覚)で、脳裏に焼き付いている映像を再現するというプロセスを経て、團
十郎という役者の藝論の歴史(藝の蓄積)を具体的な胸像に盛り込もうとしているこ
とだろう。まさに、光太郎のような全身が芸術家としての機能を発揮できるような人
では無いと、こういう芸当は出来ないと思う。

1930年代に入り、症状が顕著になった智恵子の発病で、高村光太郎の「團十郎の
首」作りは、中断する。智恵子の病は、当時は、精神分裂症と呼ばれたが、いまで
は、統合失調症と呼ばれる。現在の治療方法なら、智恵子の病気は、治ったのではな
いかといわれている。しかし、1938年智恵子は、病を深めて、亡くなってしま
う。光太郎は、自分の嗜好が智恵子を追い詰めたため、智恵子の発病に繋がったので
はないかという自責の念が有った。そういう責任を感じて、誠心誠意、看病する。そ
の愛情の結晶が、後に、「智恵子抄」として、まとめられる智恵子との日々を読み上
げたいくつもの詩編となる。

アトリエには、光太郎が、己だけが作りうる團十郎の顔をと思いながらも、作りかけ
のまま、何年も手つかず状態になり、未完成で團十郎の首の塑像が残されていた。そ
の後、多忙で手を加える暇のないまま、塑像は、乾いて、ひび割れてしまい、最後
は、東京の空襲の際に焼失したアトリエとともに、この世から消えてしまった。高村
光太郎作の團十郎の首は、とうとう、後世に残されなかった。私たちは、團十郎の首
を見ることが出来ない。私は、光太郎が、この文章の通りの狙いを生かし切った團十
郎の首を作ったと想像する。この作品を見ることが出来れば、光太郎の彫刻家として
の力量をまざまざと感じることが出来たろうにと、私は残念に思う。

もうひとつ、今回の展示で初めて観て、興味深かったのは、高村光太郎が15歳の時
に彫った木製のレリーフ作品であった。それは、「羅漢」という作品で、2点展示さ
れている。禿頭で厳つい顔をした羅漢の斜め横顔を彫り上げている。ふたりの羅漢
は、耳に飾りを付けていて、かなり、「婆娑羅(ばさら)」な印象なのだが、ふたり
とも、まるで見得をする歌舞伎役者のように見えるから、おもしろい。少年時の高村
光太郎の歌舞伎鑑賞体験の豊かさを垣間見る思いがする。

4歳まで言葉がしゃべれず、6歳から父親で木彫師(江戸時代の仏師の血が濃い)光
雲の指導で、木彫刀を持たされた光太郎。展示では、15歳の羅漢蔵のレリーフの前
に、11歳の時に彫った「紅葉と宝珠」(肉合=ししあい=彫:線刻だが、立体感を
持たせる彫り方)の作品など木彫師の弟子時代の先行作品もあり、彫刻家・高村光太
郎の天賦の才を見せつけられる思いがする。

以下は、高村光太郎のいくつかの言葉より引用。
彫刻の本性は立体感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。 (立体感は、)一つの
塊りとして確に存在する感、一つの立体として実存する感である。その立体感をまで
も生かすのは彫刻家の内にある詩の魂である。詩魂はいのちである。(彫刻家と詩人
は、)同じ重量で私の中に生きている二つの機能であつて、どちらも正面きつての仕
事なのだ。

但し、高村光太郎の「詩魂」あるいは、「詩精神」は、戦中期には、神懸かりとな
り、ファッショ化して行ったことを忘れてはならない。高村光太郎の「詩」至上主義
は、時局のファッショ化の中で、「国家」至上主義に転換してしまった。高村光太郎
自身は、戦時中、己がこういう言動をしたことを戦後どれほど悔やんだことか。芸術
や美、彫刻を的に「詩魂」を発揮しようとしているならば良いが、それがファッショ
的な時局に政治的に利用されると大変なことになる、という典型例がここにあった。

「皇国の悠久に信憑(しんぴょう)し、後続の世代に限りなき信頼をよせて、最期に
のぞんで心安らかに大君(おおきみ)をたたへまつる将兵(しょうへい)の精神の如
き、まつたく人間心の究極のまことである。このまことを措いて詩を何処に求めよ
う。戦争が生きた詩である時、文字を以て綴る詩が机上の閑文字(かんもじ)、口頭
の雑乱(ざつらん)語であるやうな事があつては一大事である。戦ふ一億は真実の詩
を渇望(かつぼう)してゐ る。みづから身心に痛感しながら此(これ)を口にする
すべを知らない一億自身の詩に言葉を与へるためには、詩人みづからが真に戦ひ、真
に行ひ、真にまことを以て刻々に厳毅精詣(げんきせいけい)を期せねばならない。
兵器の精鋭に分秒を争ふ時、詩人が言葉の鍛錬に寸刻も忽(こつ)であつてはならな
い。
 詩精神とは気であるが、気は言葉に宿る。言葉は神の遣はしものである。踏み分け
難い微妙な言葉の密林にわれわれもまた敢然として突入 せねばならないのである。
」(「戦争と詩」)

「爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の太腿がぶらさがつた。死はいつでも
そこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書
いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向つた。
その詩を毎
日よみかへすと家郷へ書き送つた
潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。」(「わが
詩をよみて人死に就けり」)

さらに、高村光太郎は、「暗愚小伝」を再録した詩集「典型」に付した「序」を、次
のように結ぶ。「最後の審判は仮借なき歳月の明識によって私の頭上に永遠に下され
るであろう。私はただ心を幼くしてその最後の巨大な審判の手に順うほかない」。高
村光太郎の遺志は、むしろ、戦争中の責任を隠すのではなく、堂々とさらし、戦後に
なって、いかに、それに苦しみながら、戦後責任を果たそうとしたかを凝視して欲し
いということだろうと思う。改めて、美に殉じるために、そういう弱さを率直に告白
した光太郎の遺志は、後世の私たちをこそ鞭打つ。原発事故を何するものぞと、この
ところ、急激に右傾化してきた日本社会。再び、同じ轍を踏むなという高村光太郎の
悔恨を、今こそ忘れてはならないだろう。

高村光太郎は、生前、自分の本職は彫刻家(「私は今でも自分を彫刻家だと思ってい
るし、私の彫刻の仕事をかえり見て、それが詩に及ばないとは思わない」)であると
明言していた。しかし、この彫刻家は、超一流の詩人魂を持っていた。彫刻の作品
は、数が少なく、また、個人蔵も多いので、一般的に作品に直に触れる機会は少ない
ので、多くの人は、高村光太郎と言えば、詩人だとばかり思っているのではなかろう
か。

戦時中の狂気に翻弄されてしまった詩人は、彫刻家として、塊(かたまり)というも
のの持つ存在感、実存感を人間の「首」を描いた塑像として、蝉などの小動物、桃、
柘榴などの植物を描いた木彫作品として、私たちの前に指し示している。木彫は、彫
刻家・高村光太郎の原点である。

花や野菜、果物、お菓子など身近な素材を色紙から切り出した高村智恵子の紙絵作品
も、65点展示されていて、これも充分に楽しめた。

「生誕130年彫刻家・高村光太郎展」は、千葉市立美術館で8月18日まで開かれ
ている。
- 2013年7月21日(日) 12:25:58
4・XX * 劇評「田畑家の行方」(青年劇場創立50周年記念公演)


タイトルを見た途端、「田畑の行方→日本の農業の行方」というイメージがすぐに浮
かんだ。青年劇場の創立50周年記念公演の第1弾は、日本の農業問題をテーマにし
た芝居となった。

芝居は、佐賀県唐津市の郊外で農業を営む田畑家が舞台。幕が上がると、田畑の居
間。舞台上手に亡くなったばかりの当主・民造の遺骨などが飾られた葬儀の場面。通
夜・告別式も終わり、近所の親しい人たちがぽつりぽつりと焼香に来る。遠方から駆
けつけた遺族が、まだ、後始末に追われている。香典を整理している。居間越しの廊
下のガラス戸の向こうには、石垣の棚田と山々が見える。唐津の棚田は、先人たちが
300年という時間をかけて営々と築いて来たものだという。客席は、玄界灘という
ことなのだろう。田畑家は、山間部の傾斜面に建つ家という想定か。

夫婦ふたり住まいだった田畑家では、民造の連れ合い・典子(70)がひとり残され
た。東京の一流家電メーカーの営業マンで長男の民夫(50)、その連れ合い静香
(48)が、葬儀を取り仕切っている。東日本大震災と東電福島原発事故のため、福
島県の南相馬市から実家に避難して来ている長女の大宮咲子(47)、その息子で中
学生の大樹(13)が、同居している。兄弟たちは、母親の典子の今後を相談してい
る。民夫と静香は、母を東京の引き取るつもりでいる。

では、田畑家に残された農地は、どうするのか。これが、まさに、田畑家の問題であ
り、日本の農業に普遍的にのしかかる問題である。連れ合いに先立たれ独居する老人
は、ひとりでは農業を継続できない。農地は、休耕地になり、日本列島のあちこちで
農村は荒れ果てている。農業が荒れ果てれば、農産物が荒れ果てる。農家に縁のある
家族だけの問題ではない。農業の問題は、優れて、都会の問題なのだ。

民造の親友の坂元農夫也(75)が相談相手として参加する。自給自足的な生活を
し、自然卵養鶏を営む教祖的な人物(芝居の原作者のひとり中島正がモデル)とし
て、「みのむし仙人」と渾名される島中弥平(92)とその連れ合い小百合(85)
なども加わる。脱サラで「地域循環型の農業」を目指す脱都会派(都会を追い出され
た)の青年たちも登場する。役者たちが議論する場合の科白は、中島正と原作共著者
の山下惣一の思想がベースになっていて、それを脚本家の高橋正圀がメリハリのある
科白に磨き上げた。原作は、「市民皆農」(創森社刊)。

そこへ、唐津市の農業振興課の職員が、「残された農地の処遇で、困っていないか
(つまり、農地を売らないか)」と女社長を連れて、長男の民夫に直談判に来る。利
潤優先の企業の農地参入という視点も忘れていない。そういう想定で芝居は進行す
る。

忌引きで実家に戻っている長男の民夫の携帯電話には、職場の同僚や部下からしきり
に電話が入る。家電メーカーも円高不況で業績悪化し、職場には、リストラの嵐が吹
き荒れているらしい。民夫は、自分の職場の問題と実家の農地の問題、残された母と
の同居の問題を一気に抱え込んでしまった格好だ。

棚田を抱える田畑家は、まるで、合わせ鏡だ。田畑家という鏡には、田畑家の農地の
問題ばかりでなく、家電メーカーの業績不振とリストラという経済の問題、福島原発
事故で避難した人々の健康被害などその後の問題、行き詰まった都会の姿が浮き彫り
されるとともに、農業に限らずグローバル化とTPPという「大津波」が襲って来る日
本社会の現況が写し出されて来る。

それだけに田畑家で繰り広げられる会話は、日本のさまざまな問題を解説する時事番
組のように聞こえる。いつもながら、青年劇場の芝居は、メッセージが明確で判り易
い。芝居を楽しんでみているうちに、難しい時事問題にも理解が及ぶことになる。国
民的に十分な議論を尽くさないまま、官僚が書いた作文を読み上げながら重要な政策
が決定されて行く日本の政治の危うい現況が、次第に浮き彫りにされて行く。「お前
たちのやっていることは時限爆弾の上で宴会ばやっとるようなもんじゃ」という「み
のむし仙人」の決め科白が、光る。

田畑家の長男・民夫は、リストラにあった同僚の自殺を契機に連れ合いの反対を押し
切って実家の農業を引き継ぐことを決意する。一流家電メーカーの営業マンを辞め
て、ふるさとに帰る。つまり、「田畑家の循環」ということだろう。この芝居が提唱
する「循環型」の社会づくりは、農業だけでなく、社会の基本原理として通用するだ
ろうと思う。そういう考え方を国民の中に浸透させ、原理を実践に結びつけて行くこ
とが大事だ。青年劇場の演劇活動も、そういう「浸透」推進の役割を担っている。

青年劇場ベテラン俳優の、小竹伊津子(島中小百合)、渡辺尚彦(島中弥平)、坂元
農夫也(吉村直)などが脇に廻って、味のある演技をしている。

青年劇場「田畑家の行方」は、5・3まで、東京・新宿の紀伊國屋サザンシアター
(南店)で上演される。
- 2013年4月26日(金) 11:52:21
4・XX  劇評「春琴抄」朗読

日本橋出身の文豪・谷崎潤一郎。名作は、いろいろあるが、「春琴抄」もそのひと
つ。この小説を俳優座の岩崎加根子と中寛三のふたりが、朗読をするというので、聞
きに行った。

4・20(日)、一日の公演予定だったが、前売り完売で、20日初日、21日千秋
楽ということで、追加含めて、2日間の公演となった。会場は、寄席のお江戸日本橋
亭。谷崎のふるさとに近い寄席での公演だ。昔なら、谷崎の生家近くには、日本橋人
形町に寄席があったものだ(「人形町末廣」、「大ろじ」、「人形町鈴本亭」)。お
江戸日本橋亭の会場には、座椅子30、椅子70が並べられ、私が覗いた21日もほ
ぼ満席の賑わいだった。外は、季節が逆戻りしたような寒い一日。寄席は、時空を超
越した劇的空間。

「春琴抄」は、昭和8(1933)年、「中央公論」に掲載された中編小説。ふたり
朗読では、大阪道修町の薬種問屋の娘で、9歳にして失明をした琴三弦の天才美少
女・春琴の部分の朗読をベテラン女優の岩崎加根子が担当し、春琴より4歳年上の丁
稚(春琴の稽古通いの手曳き、後に、相弟子となり、さらに、その後、事実上の夫、
春琴没後は、検校の温井琴台となる)の部分の朗読をベテラン俳優の中寛三が受け持
つという演出だ。間奏として、箏・三味線演奏は、岸村千恵、ヴァイオリン・ヴィオ
ラ演奏は、石井泉。作曲は、内藤正彦。演出は、俳優座の川口啓史。

朗読は、改行も句読点も鈎括弧も少ない谷崎の妖しく、華麗な文体を読み進む訳だ
が、時には、10行を超えてく読点も何もない長々強い文体となる。ナレーションの
読み。さらに、会話体の部分は、科白となり、科白は、何時しか、生身の若い男女の
やり取りに聞こえ出す。濃艶な色気さえ滲み出て来る。

目を瞑れば、美人で、有能で、気の強い、我がままな商家の娘の声が聞こえてくる。
お嬢さんに好意を持ち、身の回りのことを世話をするのに心底から喜びを感じている
丁稚上がりの相弟子の青年の声が聞こえてくる。

目を開ければ、ベテランの俳優ふたりの熱演の舞台だ。朗読というより、朗読劇。床
几座って、見台を前に座ったまま朗読をするふたりには、所作こそ余り伴わないが、
その読みは、緩急自在。緩怠ない発声。明治の大阪の商家で繰り広げられる若き男女
の純粋な恋愛の世界が浮き彫りにされて来る。

「共苦」こそが、歓喜を呼び込むという谷崎の恋愛観。「心のエロティスム」は、春
琴と佐助の死後も、続く。未来永劫不滅の恋愛観は、体は不具合になっても、あるい
は、体は滅しても、心はエロチック(歓喜)であり続けるということなのだろう。
「芝居」ではない、「劇的」な世界が広がっていたと思う。
- 2013年4月22日(月) 10:10:40
4・XX   * 映評「オース! バタヤン」

「バタヤン」とは、歌手の田端義夫のこと。戦前からの国民的な歌手。若い世代は知
らないかもしれないので簡単に略歴をまとめると、1919年1月、三重県生まれと
いうから、今年94歳。子どもの頃、貧困と栄養失調のために、右目失明。苦労の
末、1939年、ポリドールから男船乗りをテーマに歌う「島の船唄」でデビュー。
その後も、「大利根月夜」、「別れ船」「梅と兵隊」とヒットを続け、同じポリドー
ルの東海林太郎、上原敏などと並ぶ戦前のスター歌手となった。

戦後、1946年、テイチクに移籍。46年11月、「かえり船」がヒットする。
「かすむ故国よ」「熱い涙も故国につけば/うれし涙とかわるだろ」などの歌詞があ
る歌。世の中は、復員兵が溢れていた時代である。「かえり船」がヒットしていた当
時、田端義夫は巡業に出かけるため、大坂駅で汽車を待っていた。大阪駅構内で「か
えり船」が流されていて、それを聴いていた。ふと気がつくと、構内にいる復員兵た
ちが涙を流して聴き入っているのを見たという。「ああ、私の歌で涙を流す人がい
る。歌手をやっていて良かったな、生きていて良かったんだな」と思ったと自伝に書
いているし、今回の映画の中でも、インタビューに.そう答えている。

「かえり船」を含めて、戦前から流れを組む「マドロス(男船乗り)歌謡」の歌手の
系統で人気を博していた。帽子、衣装で船員の格好をして歌うというスタイルだ。田
端義夫は、「かよい船」「たより船」「玄海ブルース」などを歌い、昭和20年代を
代表するマドロス歌手として岡晴夫(「憧れのハワイ航路」、「東京の花売娘」な
ど)、近江俊郎(「月夜舟」、「湯の町エレジー」など)とともに、「戦後三羽烏」
と呼ばれ、戦後もスター歌手の地位を維持した。

昭和30年代にはヒットに恵まれず、低迷の時期が続いたが、1962年、レコード
販売を止めていたポリドールの倉庫に眠っていた「島育ち」を、テイチクの反対を押
し切ってレコーディングした。田端義夫の地道な活動が功を奏して、南島ものの「島
育ち」は40万枚を超える大ヒットとなり、人気歌手としてカムバックを果たした。
その後、1975年、同じ系統の「十九の春」(沖縄俗謡)もヒットするなど、息の
長い国民的な歌手となった。

映画は、2008年に大坂・鶴橋の小学校の講堂で開かれたワンマンショー「帰って
来た 田端義夫 オン・ステージ」を軸にしたドキュメンタリー。過去の日劇(東
京)、大劇(大阪)、大阪・中座、中日劇場(名古屋)などの歌謡ショーの映像を巧
に挟み込みながら、一時間半の舞台を再現する。司会は、大阪で人気の浜村淳。講堂
に座り込んだ観客たち、多くは、お年寄りだが、その表情も良い。浜村淳の巧みな司
会も場を盛上げる。

田端義夫本人のインタビューもさることながら、既に物故してしまった立川談志、山
城新伍、玉置宏、宮尾たか志などの証言・司会振りも含めながら、白木みのる(7
8)、菅原都々子(85)、千昌夫、佐高信、寺内タケシ、小室等、上岡龍太郎ほ
か、家族(妻と娘)、後援会関係者、マネージャー、レコード会社担当者、音楽評論
家など、多彩な人々の談話が随所に入り、田端義夫の人となりや歌を伝える。歌は世
に連れ、世は歌に連れ、というけれど、過去の舞台と世相の映像にあわせて流れる田
端義夫の歌が、戦前戦後の大衆の歴史をそのまま写し取っているように思えた。

田端義夫は、戦前(1939年「島の船唄」)、戦後(1946年「かえり船」、1
949年「玄海ブルース」)のマドロス(男船乗り)もの、南島もの(1962年
「島育ち」、1975年「十九の春」)とヒットの山が大きく分けて、ほぼ10年ご
とにあり、国民から忘れ去られることを免れた。

映画を観ていて、何といっても、重要な役割を発揮していると感じたのは、1953
年に購入したというサンバースト・ブラウンのエレキギター。このギターは、ナショ
ナル・ギター社製のもの。自分で修理・改造しながら、60年も使っている。大劇場
の歌謡ショーの映像に出て来る胸に抱きかかえられたギターは、ピカピカだ。現在も
使っているギターは、ネジや部品が無くなったり、塗りが剥げたり、すり切れたり、
満身創痍の感じだが、田端義夫に言わせれば、昔通りの音が出ていると言う。

「同じキーで歌うことで声に張りが出る、苦しいからとキーを下げたら歌が沈んでし
まうし、歌自体が別物になる。同じキーで歌えなくなったら歌手は辞める」と本に書
いているそうだが、映画の中でも、キーを下げないことを強調している。1939年
のデビューから74年経った現在でも、すべての持ち歌のキーを下げずに昔のママの
高さで歌っているという。2オクターブの音域を維持する歌唱法の秘密も明かす。大
好きな女性たちとのセックスも、あけすけに話す。こういう性格が、田端義夫の長生
きの秘訣であるのかもしれない。

そうやって、やんちゃな爺さんを演じていたけれど、田端義夫が、竹内浩三の詩「骨
のうたう」に自分で曲をつけ、歌っていたことを初めて知って驚いた。映画の中で、
田端義夫が歌った部分は、以下の通り。

戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ/遠い他国で ひょんと死ぬるや/だまって
 だれもいないところで/ひょんと死ぬるや/ふるさとの風や/こいびとの眼や/
ひょんと消ゆるや/

竹内浩三は、詩人(1921〜1945年)。三重県生まれ。1942年9月、日本
大学専門部映画科を半年間繰り上げて、卒業。在学中、伊丹万作の知遇を得る。同年
10月、三重県の中部第三十八部隊に入営。1945年、公報によれば、「比島バギ
オ北方一〇五二高地にて戦死」。24歳であった。

田端義夫が歌った部分以外の竹内浩三の詩は、次のように続く。

国のため/大君のため/死んでしまうや/その心や/
白い箱にて 故国をながめる/音もなく なんにもなく/
帰っては きましたけれど/故国の人のよそよそしさや/
自分の事務や女のみだしなみが大切で/
骨は骨 骨を愛する人もなし/骨は骨として 勲章をもらい/
高く崇められ ほまれは高し/なれど 骨はききたかった/
絶大な愛情のひびきをききたかった/
がらがらどんどんと事務と常識が流れ/
故国は発展にいそがしかった/女は 化粧にいそがしかった/
ああ 戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ/こらえきれないさびしさや/
国のため/大君のため/死んでしまうや/その心や/

そう言えば、1919年生まれの田端義夫。94歳。1921年生まれの竹内浩三。
享年24歳。戦争が生死を分けたふたりだが、ほぼ同年生まれだった。さらに、三重
県生まれ、同郷である。同郷の同世代へのレクイエム。田端義夫の志や良し。映画で
描いたのは、田端義夫の「厭戦」観までで、その辺りは、詳しく解析していなかった
けれど、バタヤン! 見直したぜ。

この映画は、5月18日からテアトル新宿で、6月1日からテアトル梅田でロード
ショー公開される。
- 2013年4月11日(木) 9:01:57
4・XX

3年間閉鎖して工事をしていた歌舞伎座が再建され、4月2日、再開場の興行の初日
を迎えた。それに先立ち、開場式が行われた3月27日には、63人の歌舞伎役者が
参加した銀座のお練りが実施された。生憎の雨の中、予定より45分遅れて始まった
お練りは、練り歩くというより、「通過」という感じでそそくさと銀座1丁目から4
丁目まで役者衆は移動していた。歌舞伎座は、4月2日の初日も雨であった。

芝居の世界では「降る」は「振り込む」に通じるので、雨降りは縁起がいいとお練り
の出発式の挨拶で澤村藤十郎は言っていたが、節目の日が、こう雨降りばかりに出会
うと、雨男の強がりの弁に聞こえてくるから、不思議だ。

メトロの東銀座駅の改札口を出て、出口3へ向うと、地上への出入り口だった階段が
無くなり、コンコースは、そのまま、歌舞伎座の地下部分に繋がっている。この地下
は、広場(「木挽町広場」というらしい)になっていて、中央付近に歌舞伎座の大き
な提灯が下がっている。待ち合わせ場所の目印になりそう。赤い大きな傘が吊るされ
た下には、お休み処のように床几が用意されていて座って休めるが、早い者勝ち。新
歌舞伎座は劇場の入り口は、従来通り、地上の1階だが、メトロから濡れずに劇場に
直接入ることができるように改善された。雨の日に芝居小屋の開場を待つのにも濡れ
ずに済むだろう。

広場の周りは、お土産物屋や弁当屋、食事処などが軒を連ねるとともに、コンビニも
ある。広場を利用する人のトイレもある。災害時の帰宅困難者のための施設という機
能も隠し持っている。

歌舞伎座の切符売り場は、1階からこちらに移動したようだ。階段のほかに、エスカ
レーターか、エレベーターに乗り、1階に上がると、歌舞伎座の脇に出るので、そこ
からさらに正面玄関前へとなるが、歌舞伎座の大屋根の下の廂に沿って廻って行かな
ければならない。客足の「動線」を十分に考慮したとは思えない。チケットのもぎり
などは、従来通り正面玄関入り口附近だけで行うので、そういうことになる。特に客
の入れ替えの時、1階のエスカレーター附近は、大変な混雑で、今回のような雨の日
には、高齢者は、余程気をつけないと足を滑らせる懸念があるのではないか。

メトロから地下続きで歌舞伎座の敷地に直接入れるようにしたのなら、劇場の地下の
入り口でもチケットのもぎりをすれば、こういうややこしく、危険性を懸念される動
線など描かなかっただろうにと、思われる。多分、設計者は、素直な「動線」を優先
しようとしたと思うが、松竹なり、歌舞伎座なりが、チケットもぎりの管理的な、あ
るいは、人件費的な観点から、つまり、設計思想とは違う次元の発想から、こういう
システムにしたのかもしれないが、改められるならば、改めた方が良くはないかと、
思う。

劇場内に入ると、玄関内外、ロビー各階、劇場内などは、従来と同じような印象。周
辺の土地を買い上げて、拡げたスペースは、館内にエレベーター.エスカレーター、
トイレなどを新設、または、拡充したようだ。トイレへは、男女用、障害者用とも増
えた。

劇場入り口の階段が無くなって、スロープになった。場内にも別途、スロープが出来
た。エレベーターもなかったのから比べれば、車椅子の人にも便利になったが、エレ
ベーター、スロープが、散在している感じで、素直に繋がっていないので、慣れるま
で大変かもしれない。それに先ほど触れた複雑な動線の問題は、障害者にとっては、
もっと面倒かもしれない。

前の座席の背に掛けられるようにした個人用のモニター(字幕ガイド)もお目見得し
たという(ただし、有料である)。聴覚障害者にも、歌舞伎が楽しめるようになっ
た。

劇場内では、色彩、デザインとも、従来のママという印象。役者も慣れた旧歌舞伎座
の舞台同様という安心感で演技が出来るだろう。観客も、以前のママの歌舞伎座が綺
麗になって、リニューアルオープンしたという安心感がある。それでいて、座席周り
が少し広がった(前後に6センチ、左右に3センチ拡大という)のとフロアーの傾斜
角度が高くなり、最上階の幕見席でも、花道の一部が見えるようになったという。幕
見席のある4階には、専用のエレベーターで上がる。終演後は、別途設けられた歓談
で降りて来ることも出来る。3階B席最後尾でも、花道七三の演技がきちんと見え
る。やっと、国立劇場並になったということか。1階の客席は、後ろの2等席の辺り
でも柱が無くなったので舞台が良く見通せる。どの階を愛好する観客にとっても、舞
台の観易さの改善は、歓迎されるだろう。座席数は、従来と余り変わらないのではな
いか。約2000。

1階のロビーは、土産物コーナーが上手側だけになり、空間的にゆとりできたよう
だ。2階は、上手側に食事処。3階は、土産物コーナー、食事処が2箇所。芝居は豪
華な配役でレベルも高く堪能したが、新歌舞伎座探検は、一日くらいでは、十分に判
らない。

劇場の屋上は、屋外庭園で、外から無料で入れるようになっている。歌舞伎座の大屋
根も庭園や五右衛門階段という朱塗りの階段から見ることが出来る。

役者の顔ぶれが豪華で、見慣れた演目でも充実度が違い、見応えがあったが、劇評は
別途ということで、ここでは触れない。初日には、東側の桟敷、20席を日本髪の鬘
を着けた若い芸者衆が借り切っていて、場内に花を添えていた。桟敷席の通路側のド
アには、「小福様」「ちよ美様」などと書かれた紙が貼ってあった。役者衆が呼んだ
のか、松竹が呼んだのか、贔屓の芸者衆が来てくれたのか。

下手側のロビーに物故役者の写真コーナーは従来のようにあるが、閉場式から歌舞伎
座再建を経て、開場式、公演初日を迎えた3年間で、富十郎、芝翫、雀右衛門、勘三
郎、團十郎という新しい顔が5人も加わってしまったことは、痛恨の極み。
- 2013年4月11日(木) 8:59:36
4・XX

3年間閉鎖して工事をしていた歌舞伎座が再建され、4月2日、再開場の興行の初日
を迎えた。それに先立ち、開場式が行われた3月27日には、63人の歌舞伎役者が
参加した銀座のお練りが実施された。生憎の雨の中、予定より45分遅れて始まった
お練りは、練り歩くというより、「通過」という感じでそそくさと銀座1丁目から4
丁目まで役者衆は移動していた。歌舞伎座は、4月2日の初日も雨であった。

芝居の世界では「降る」は「振り込む」に通じるので、雨降りは縁起がいいとお練り
の出発式の挨拶で澤村藤十郎は言っていたが、節目の日が、こう雨降りばかりに出会
うと、雨男の強がりの弁に聞こえてくるから、不思議だ。

メトロの東銀座駅の改札口を出て、出口3へ向うと、地上への出入り口だった階段が
無くなり、コンコースは、そのまま、歌舞伎座の地下部分に繋がっている。この地下
は、広場(「木挽町広場」というらしい)になっていて、中央付近に歌舞伎座の大き
な提灯が下がっている。待ち合わせ場所の目印になりそう。赤い大きな傘が吊るされ
た下には、お休み処のように床几が用意されていて座って休めるが、早い者勝ち。新
歌舞伎座は劇場の入り口は、従来通り、地上の1階だが、メトロから濡れずに劇場に
直接入ることができるように改善された。雨の日に芝居小屋の開場を待つのにも濡れ
ずに済むだろう。

広場の周りは、お土産物屋や弁当屋、食事処などが軒を連ねるとともに、コンビニも
ある。広場を利用する人のトイレもある。災害時の帰宅困難者のための施設という機
能も隠し持っている。

歌舞伎座の切符売り場は、1階からこちらに移動したようだ。階段のほかに、エスカ
レーターか、エレベーターに乗り、1階に上がると、歌舞伎座の脇に出るので、そこ
からさらに正面玄関前へとなるが、歌舞伎座の大屋根の下の廂に沿って廻って行かな
ければならない。客足の「動線」を十分に考慮したとは思えない。チケットのもぎり
などは、従来通り正面玄関入り口附近だけで行うので、そういうことになる。特に客
の入れ替えの時、1階のエスカレーター附近は、大変な混雑で、今回のような雨の日
には、高齢者は、余程気をつけないと足を滑らせる懸念があるのではないか。

メトロから地下続きで歌舞伎座の敷地に直接入れるようにしたのなら、劇場の地下の
入り口でもチケットのもぎりをすれば、こういうややこしく、危険性を懸念される動
線など描かなかっただろうにと、思われる。多分、設計者は、素直な「動線」を優先
しようとしたと思うが、松竹なり、歌舞伎座なりが、チケットもぎりの管理的な、あ
るいは、人件費的な観点から、つまり、設計思想とは違う次元の発想から、こういう
システムにしたのかもしれないが、改められるならば、改めた方が良くはないかと、
思う。

劇場内に入ると、玄関内外、ロビー各階、劇場内などは、従来と同じような印象。周
辺の土地を買い上げて、拡げたスペースは、館内にエレベーター.エスカレーター、
トイレなどを新設、または、拡充したようだ。トイレへは、男女用、障害者用とも増
えた。

劇場入り口の階段が無くなって、スロープになった。場内にも別途、スロープが出来
た。エレベーターもなかったのから比べれば、車椅子の人にも便利になったが、エレ
ベーター、スロープが、散在している感じで、素直に繋がっていないので、慣れるま
で大変かもしれない。それに先ほど触れた複雑な動線の問題は、障害者にとっては、
もっと面倒かもしれない。

前の座席の背に掛けられるようにした個人用のモニター(字幕ガイド)もお目見得し
たという(ただし、有料である)。聴覚障害者にも、歌舞伎が楽しめるようになっ
た。

劇場内では、色彩、デザインとも、従来のママという印象。役者も慣れた旧歌舞伎座
の舞台同様という安心感で演技が出来るだろう。観客も、以前のママの歌舞伎座が綺
麗になって、リニューアルオープンしたという安心感がある。それでいて、座席周り
が少し広がった(前後に6センチ、左右に3センチ拡大という)のとフロアーの傾斜
角度が高くなり、最上階の幕見席でも、花道の一部が見えるようになったという。幕
見席のある4階には、専用のエレベーターで上がる。終演後は、別途設けられた歓談
で降りて来ることも出来る。3階B席最後尾でも、花道七三の演技がきちんと見え
る。やっと、国立劇場並になったということか。1階の客席は、後ろの2等席の辺り
でも柱が無くなったので舞台が良く見通せる。どの階を愛好する観客にとっても、舞
台の観易さの改善は、歓迎されるだろう。座席数は、従来と余り変わらないのではな
いか。約2000。

1階のロビーは、土産物コーナーが上手側だけになり、空間的にゆとりできたよう
だ。2階は、上手側に食事処。3階は、土産物コーナー、食事処が2箇所。芝居は豪
華な配役でレベルも高く堪能したが、新歌舞伎座探検は、一日くらいでは、十分に判
らない。

劇場の屋上は、屋外庭園で、外から無料で入れるようになっている。歌舞伎座の大屋
根も庭園や五右衛門階段という朱塗りの階段から見ることが出来る。

役者の顔ぶれが豪華で、見慣れた演目でも充実度が違い、見応えがあったが、劇評は
別途ということで、ここでは触れない。初日には、東側の桟敷、20席を日本髪の鬘
を着けた若い芸者衆が借り切っていて、場内に花を添えていた。桟敷席の通路側のド
アには、「小福様」「ちよ美様」などと書かれた紙が貼ってあった。役者衆が呼んだ
のか、松竹が呼んだのか、贔屓の芸者衆が来てくれたのか。

下手側のロビーに物故役者の写真コーナーは従来のようにあるが、閉場式から歌舞伎
座再建を経て、開場式、公演初日を迎えた3年間で、富十郎、芝翫、雀右衛門、勘三
郎、團十郎という新しい顔が5人も加わってしまったことは、痛恨の極み。
- 2013年4月11日(木) 8:58:26
2・XX  歌舞伎座の再開場を前に、とうとう、團十郎まで逝ってしまった。歌舞
伎の危機と言っても、大げさではない。

去年の12・18の京都南座から休演した團十郎は、1月の新橋演舞場に続いて、3月
のルテアトル銀座(東京)の「オセロー」も休演していた(ルテアトル銀座は、演目
も替えて、海老蔵を軸に歌舞伎を上演することになった)。

白血病という大病を克服し、不死鳥のように舞台復帰を果たして来た團十郎だが、と
うとう、病魔に負けてしまった。

4月2日、歌舞伎座再開場の初日。新・歌舞伎座「杮葺落大歌舞伎」の第一部第一番
の演目「壽祝歌舞伎華彩 鶴寿千歳」での雄鶴を演じることを團十郎は最優先とし治
療に専念していたのだろう。競演は、雌鶴・藤十郎、女御・魁春、春の君・染五郎と
いう顔ぶれ。

しかし、年末から肺炎の徴候が出ているという情報があり、私も気がかりだった。快
癒を祈って来たが、思い及ばず、誠に痛恨お極みだ。

2ヶ月前は、勘三郎の逝去が朝のニュースのトップとなった。今朝も、同じ。なんと
も、哀しい朝が続くことか。

歌舞伎座建替えの間に、富十郎、芝翫、雀右衛門、勘三郎、團十郎まで逝去とは、歌
舞伎の危機と言わずして、何と言おう。4月、團十郎は、「壽祝歌舞伎華彩 鶴寿千
歳」での雄鶴のほか、「弁天娘女男白浪」の日本駄右衛門に出演予定。5月、「三人
吉三」の和尚吉三に出演予定。6月、「土蜘」の源頼光、「助六」の助六に出演予定
となっていた。すべて、代役を立てなければならない。

この3ヶ月は、日本の歌舞伎役者の真髄が勢ぞろいする場だ。富十郎、芝翫、雀右衛
門、勘三郎、團十郎がいないというのは、歌舞伎の危機を象徴している。


團十郎の舞台姿を最後に私が観たのは、2012年10月の新橋演舞場の夜の部。以
下、その時の劇評を再録する。

*團十郎の弁慶で印象に残るのは、04年5月5日の歌舞伎座、息子・新之助の海老
蔵襲名の舞台。團十郎の弁慶について、私は次のように書いている。

**團十郎の弁慶は、いつもにも増して、意欲的で、見応えがあった。海老蔵の冨
樫、菊五郎の義経とも、なかなか見物(みもの)の舞台だ。弁慶と冨樫が、所作台2
枚分まで、詰め寄る「山伏問答」。逆に、弁慶と義経が、所作台9枚分まで離れる
「判官御手を」。いずれも、舞台の広さ、空間を活用した、憎い演出である。それだ
け、弁慶役者は、舞台を動き回る。その動きも、長唄に載せて踊る舞踊劇だから、舞
うような演技が必要になる。さらに、内部にござを入れた大口袴という弁慶の衣装
は、重く、演じる役者に体力、気力を要求する。團十郎の弁慶には、息子の襲名披露
の舞台をなんとしても成功させようという気迫があった。役者魂と團十郎代々の将来
を担う長男・海老蔵への情もあったのだろう。それだけに、團十郎は、いつも以上の
気力で、舞台に臨んでいたのではないか。それが、團十郎のなかでも、今回の弁慶
を、いつもとは一味違う素晴しい弁慶にしていたと思う。團十郎の弁慶は、今回(0
4年当時)で、3回目だが、いちばん、迫力のある弁慶であった。それほどの、素晴
しい弁慶であった。

しかし、また、それが、体力の限界まで團十郎を追い詰めてしまったのではないか。
いまから、考えれば、團十郎は、体を虐め、白血病に罹るほど、意気込み過ぎていた
のかも知れない。半年前から、本格的に始まった海老蔵襲名披露興行への準備。それ
は、自分の舞台を勤めながら、息子のポスター写真の撮影現場にも立ち会うなど、準
備の進捗状況にも、きめ細かく、目を光らせるということだ(以前に、初日前の歌舞
伎座で舞台稽古を何回か、観ているが、新之助の稽古に客席から浴衣姿の團十郎が、
注文を出している場面に出くわしたことがある。日頃から、息子の藝の精進には、目
を光らせていた)。今回の冨樫などの演技を見れば判るが、海老蔵も父親の期待に答
えようと頑張っていた。

命がけで、演じていた團十郎の体を病魔が襲っていたのかも知れない。(5月10日
から休演)5月5日の舞台で、病魔と戦うそぶりも見せずに、凄まじい弁慶を團十郎
は、演じてくれた。恢復後、再び、さらに奥行きのある弁慶を演じて欲しいと、願う
のは、私だけではない。歌舞伎ファンが、みな、一丸となって、團十郎の恢復を待っ
ている。身の丈の大きな海老蔵の冨樫は、口跡も良く、見栄えがした。また、いつの
日か、親子の役柄を変えて、海老蔵の弁慶、團十郎の冨樫でも、「勧進帳」を観てみ
たい。

團十郎に、合掌。
- 2013年2月4日(月) 10:41:02
12・XX  勘三郎が、きょう未明、逝ってしまった。働きすぎた。生き急いだ。
歌舞伎座の再開場を来春に控えて、多くの名優が逝ってしまう。富十郎、芝翫、雀右
衛門、勘三郎。歌舞伎座再開場でも、歌舞伎界や松竹は、危機感を持たなければなら
ないかもしれない。

私が観た勘三郎の最後の舞台。今年の2月の新橋演舞場。息子勘太郎の勘九郎襲名披
露の舞台の劇評の一部を哀悼の意を込めて再録したい。勘三郎と吉右衛門の舞台で、
秀逸だった。


★播磨屋と中村屋の科白廻しを楽しむ


「鈴ケ森」を観るのは、8回目。「鈴ヶ森」を私が初めて観たのは、94年4月の歌
舞伎座。初代白鸚十三回忌追善の舞台であった。40歳代の後半から歌舞伎を見始め
たが、その最初の芝居の一つが、「御存(ごぞんじ) 鈴ヶ森」で、幸四郎の幡随院
長兵衛と勘九郎時代の勘三郎の白井権八だった。今回は、その権八を病後の勘三郎が
長男の勘太郎の勘九郎襲名披露の舞台で演じる。長兵衛は、吉右衛門。

08年3月の歌舞伎座は、芝翫の権八、富十郎の長兵衛で、ふたりとも、亡くなって
しまった。ふたりとも人間国宝であった。従って、富十郎と芝翫の「鈴ヶ森」は、歌
舞伎の生きた手本であった。科白廻しが、まず、立派。味わいがある、滋味豊かな芝
居であった。

私が観た権八:芝翫(2)、勘九郎時代を含む勘三郎(今回含め、2)、菊之助、染
五郎、七之助、梅玉。長兵衛:幸四郎(2)、吉右衛門(今回含め、2)、團十郎、
羽左衛門、橋之助、富十郎。

「お若けーえの、お待ちなさんせーえや」。吉右衛門は、南北の科白を、緩怠ない科
白廻しで、堪能させてくれた。存在感のある、器の大きな長兵衛だった。時折、入る
三味線の音が、蜩の鳴き声のように聞こえて、効果的だ。勘三郎の権八は、18年ぶ
り。私も18年ぶりに勘三郎の権八を観る。権八は、いつもの鶸色の着付け。勘三郎
の科白廻しも、独特のものがある。双方名調子。

ふたりとも花道から駕篭に乗って登場する。刑場のある海辺の鈴ヶ森。晴れていれ
ば、江戸湾越しに安房上総まで一望できるという。今回座った新橋演舞場の3階席右
側第1列は、舞台の上手半分が見えない。そういう座席では、吉右衛門と勘三郎の科
白廻しだけをラジオのように聞く。それは、逆に科白に集中するので、おもしろくふ
たりのやり取りを聞いた。ふたりとも、楽しみながら科白を言っているように思え
た。大向うからは、「ご両人」「中村屋」「播磨屋」などと声がかかる。

(13・02・04掲載)
- 2013年2月4日(月) 10:39:03
12・XX  勘三郎が、きょう未明、逝ってしまった。働きすぎた。生き急いだ。
歌舞伎座の再開場を来春に控えて、多くの名優が逝ってしまう。富十郎、芝翫、雀右
衛門、勘三郎。歌舞伎座再開場でも、歌舞伎界や松竹は、危機感を持たなければなら
ないかもしれない。

私が観た勘三郎の最後の舞台。今年の2月の新橋演舞場。息子勘太郎の勘九郎襲名披
露の舞台の劇評の一部を哀悼の意を込めて再録したい。勘三郎と吉右衛門の舞台で、
秀逸だった。


★播磨屋と中村屋の科白廻しを楽しむ


「鈴ケ森」を観るのは、8回目。「鈴ヶ森」を私が初めて観たのは、94年4月の歌
舞伎座。初代白鸚十三回忌追善の舞台であった。40歳代の後半から歌舞伎を見始め
たが、その最初の芝居の一つが、「御存(ごぞんじ) 鈴ヶ森」で、幸四郎の幡随院
長兵衛と勘九郎時代の勘三郎の白井権八だった。今回は、その権八を病後の勘三郎が
長男の勘太郎の勘九郎襲名披露の舞台で演じる。長兵衛は、吉右衛門。

08年3月の歌舞伎座は、芝翫の権八、富十郎の長兵衛で、ふたりとも、亡くなって
しまった。ふたりとも人間国宝であった。従って、富十郎と芝翫の「鈴ヶ森」は、歌
舞伎の生きた手本であった。科白廻しが、まず、立派。味わいがある、滋味豊かな芝
居であった。

私が観た権八:芝翫(2)、勘九郎時代を含む勘三郎(今回含め、2)、菊之助、染
五郎、七之助、梅玉。長兵衛:幸四郎(2)、吉右衛門(今回含め、2)、團十郎、
羽左衛門、橋之助、富十郎。

「お若けーえの、お待ちなさんせーえや」。吉右衛門は、南北の科白を、緩怠ない科
白廻しで、堪能させてくれた。存在感のある、器の大きな長兵衛だった。時折、入る
三味線の音が、蜩の鳴き声のように聞こえて、効果的だ。勘三郎の権八は、18年ぶ
り。私も18年ぶりに勘三郎の権八を観る。権八は、いつもの鶸色の着付け。勘三郎
の科白廻しも、独特のものがある。双方名調子。

ふたりとも花道から駕篭に乗って登場する。刑場のある海辺の鈴ヶ森。晴れていれ
ば、江戸湾越しに安房上総まで一望できるという。今回座った新橋演舞場の3階席右
側第1列は、舞台の上手半分が見えない。そういう座席では、吉右衛門と勘三郎の科
白廻しだけをラジオのように聞く。それは、逆に科白に集中するので、おもしろくふ
たりのやり取りを聞いた。ふたりとも、楽しみながら科白を言っているように思え
た。大向うからは、「ご両人」「中村屋」「播磨屋」などと声がかかる。

(13・02・04掲載)
- 2013年2月4日(月) 10:37:57
11・XX  * 映評「明日(あした)の空の向こうに」

ヨーロッパ映画には、子どもが主役の映画の名作が多い。それも、劇映画なのに子ど
もの自然で、リアルな姿をフィルムに定着させるのが巧い作品が目立つ。

ルネクレマン監督の1952年フランス映画「禁じられた遊び」などは、代表格だろ
う。フランスだけではない。イタリア、スペイン、スウェーデン、ハンガリー、旧
ユーゴ、旧ソヴィエト、ポーランドなど。そういう系列に連なる作品が、2010年
ポーランド・日本の合作作品として作られた。子どもをテーマにした映画では定評の
ある女性監督ドロタ・ケンジェジャフスカが、撮影監督である夫のアルトゥル・ライ
ンハルトと一緒に作りあげた。

ポーランドと国境を接する旧ソヴィエトの貧しい村の孤児たちの物語。親も家もない
6歳から11歳の、3人の少年は、村の駅舎で身を潜めながら生活している。大人の
同情を引き、物乞いの得意なのは、6歳のペチャ。兄のヴァージャは、10歳。その
友だちのリャパは、11歳。綱渡りのような生活をしているが、3人とも明るい。外
国へ行けば、もっと楽な生活が出来るのではないか、と言い出したのは、年長のリャ
パ。同調したのが兄のヴァージャ。足手まといになりそうな弟のペチャは、「冒険」
の仲間はずれにされた。しかし、兄らの密やかな打ち合わせを耳聡く聞き知っていた
ペチャは、兄たちの後を追う。

リャパとヴァージャの計画は、こうだ。リャパの知っている国境近くの村へ行くこと
だ。夜、国境方面に向う貨物列車に密かに乗り込む。兄を捜して追いかけて来た幼い
弟が兄の名前を大声で怒鳴るので、ふたりは、仕方なく弟も連れて行くことになる。
辿り着いた国境近くの村では、朝市で弟がお得意の物乞いをして、食料を恵んでもら
う。リャパの知り合いの老人宅で、一夜の宿りをする。翌日、3人は老人お知り合い
のトラックに乗せてもらい、徒歩で国境を目指す。更に、廃線の線路伝いに徒歩で国
境に近づく。やはり、足手まといになったペチャを置いていこうというリャパ。幼い
弟を見知らぬ場所に置いて行く訳にはいかないと言う兄のヴァージャは、リャパと喧
嘩になる。

国境警備兵の眼を逃れ、高電圧が流れているかもしれない鉄条網の下の土を空き缶で
掘り下げて、くぐり抜ける訓練をし、流れる雲が月を何度も隠すような晩の真夜中。
3人は、越境に成功する。

さわやかな朝。ポーランド側の国境近くの草原を喜びを全身で表した3人が走り回
る。空を見上げて、「お空はどこも同じだね」とつぶやくペチャ。ヴァージャは、
「これは俺たちの空だ」。空には、楽々と国境を越えて行く鶴の群が飛んでいる(こ
れは、エンド・クレジットで流れるロシアの人気歌手・アルカディ・セヴェルヌィが
哀切に唄う「鶴は翔んでゆく」というメロディを先取りしたシーンになる)。

しかし、開放感もつかの間。ポーランドの子どもたちの冷たい態度を目の当たりにさ
せられる。「警察へ行け」というポーランドの子どもたち。3人は、村の警察署に出
頭し、保護を求める。

大人の同情を引き出すのが巧いペチャの保護願いに警察署のボスは、いろいろ手を尽
くしてくれたが、3人が、「亡命希望」と言わないために、亡命ではない越境者は、
本国に送り返すという法律の下、3人は、国境を越えて派遣されて来た旧ソヴィエト
軍の護送車に乗せられて、国境の向こうへ連れて行かれてしまう。

3人の子どもたちの表情が、とにかく、明るい。客観的に観れば、悲惨で過酷な現実
の日々を送りながら、なにがあってもめげず、夢を失わず、未来への希望を持ち続け
る子どもたちの姿が、スクリーンに躍動する。特に、6歳のペチャを演じたのは、ウ
クライナ出身の6歳のオレグ・ルィバ。上の前歯が欠けた「歯っ欠け」少年は、演技
や科白を感じさせない自然体で全編を通した。実は、兄のヴァージャは、オレグ・
ルィバの実際の兄で、エウゲヌィ・ルィバ。つまり、幼い兄弟は、現実にも年齢その
ままの実際の兄弟だったのだ。11歳のリャパは、チェチェン出身の11歳のアフメ
ド・サルダロフ。子どもたちは、皆、等身大だということだ。時間をかけた丹念な
オーディションの結果、選ばれた3人は皆、素人。初めての演技だった。演技を感じ
させない子どもたちの所作と科白は、丹念なオーディション、自然体を目指す練られ
た脚本、リアルさを追求した監督の演出、それをフィルムに十二分に焼き付けた撮影
監督のカメラワーク。

出資者の一人に名を連ねた日本人プロデューサーが、参画して、ポーランド・日本合
作作品が生まれた。

日本では、総選挙を前に小党乱立、合従連衡、政界自体の右傾化など、ファッショ前
夜の色が濃い。若者たちは、雇用を含めて打ちのめされている。なぜ、こんな世の中
に生み出されて来たのか、親を恨みたいが、親も苦労している。世代を問わず、社会
の閉塞感は広がり、分厚くなって、頭上を覆っている。まさに、「明日の空の向こう
に」は、何が待っているのか判らない。不安感ばかり募り、希望など持ちようがな
い。そういう抑うつ状態のような気持ちのときに、この映画に出会えた。ここで描か
れているのは、子どもの姿だが、伝わってくるのは、大人になっても自立できないよ
うな状態に置かれている日本の多くの若者に通じる思いではないか。そこまで見通し
て、ポーランド・日本合作映画が、生まれたとしたら、脱帽!

贅言:2011年に岩波ホールなど全国のミニシアター系で公開された映画「木漏れ
日の家で」も、女性監督ドロタ・ケンジェジャフスカ作品。「木漏れ日の家で」で老
婦人の老後をリアルに描いたドロタ・ケンジェジャフスカ監督は、今回は孤児たちを
リアルに描いた。この作品は、第61回ベルリン国際映画祭で、ジェネレーション部
門グランプリと平和映画賞を受賞した。この映画は、2013年1月26日から、東
京の「新宿 シネマカリテ」や大阪の「テアトル梅田」などで、ロードショー公開さ
れる。
- 2012年11月24日(土) 14:30:06
11・XX  11月は、国立劇場に、7日と10日と行きました。10日にフランス人協
会とフランス語検定1級合格者の会の皆さん25人ほどと一緒に国立劇場の歌舞伎を
観て来ました。7日は、10日のための下見。

10日午後0時開演なのに、国立劇場前に午前9時過ぎ集合。9時半から10時半まで
の1時間、私が講師になって、上演される「浮世柄比翼稲妻」の演目解説を軸に歌舞
伎講演をしました。午前11時から午後0時前まで、昼食をとりながら懇談。午後0
時から、4時過ぎの終演まで、一緒に観劇。観劇後は、5時半過ぎまでの1時間半、
交流会。こちらは、上演演目についてばかりの質問に限らず、歌舞伎全般、まさに、
「六方」(天地東西南北)から、矢が飛んで来た。

フランス人は、質問好きで、熱心な質問が途切れず、私の回答も長いけれど、それを
逐語的に通訳する人も大変です。でも,通算7回目となり(うち、2回は、人形浄瑠
璃、歌舞伎は5回目)、初回から通訳をして下さっているAさんのすっかり歌舞伎、
通訳とも力を上げて来た感がある。観劇前の講演は、レジュメを作って準備するが、
観劇後の交流会は、ぶっつけ本番なのに、テンポよく通訳されているのが、フランス
語訳が判っていないながら、勘で判る。

きょうは、国立劇場ロビーで、高麗屋ご内儀と久しぶりにペンクラブの大先輩に逢
う。大先輩は、大病中とのことで、面窶れが凄いので、最初,ご本人と気がつかな
かった。予後の芳しいことを改めて、祈りたい。

このふたつの観劇の間に、8日には、新橋演舞場の昼夜通しの観劇。仁左衛門が、体
調不良で、休演。梅玉と松緑の代演を観る。いずれも、劇評は近日中に掲載したい。
- 2012年11月10日(土) 21:06:01
10・XX  * 映評「内部被ばくを生き抜く」

「ヒバクシャ ― 世界の終わりに」、「六ヶ所村ラプソディ」、「ミツバチの羽音
と地球の回転」の放射能汚染3部作映画を作った鎌仲ひとみ監督作品「内部被ばくを
生き抜く」を観た。4作目は、2011年3月の東日本大震災で4基の原発が爆発な
どの事故を引き起こした福島原発による大量の放射能汚染を取り上げた。

映像は、80分。福島原発周辺で起きている地域社会の生活の変貌。特に、福島県二
本松市の寺(兼幼稚園経営)の副住職一家の生活ぶりを描くなどで16分。4人の専
門家のインタビューが、合計で64分。

副住職一家のお母さんは、ひたすら、子どもたちに放射能汚染されていない材料を探
し出して、食べ物を作り続ける。それでもあるとき、子どもたちが尿検査で引っ掛
かってしまう。幼稚園を管理する副住職は、除染してもしきれずに幼稚園の屋根を葺
き替えた。

4人の専門家のひとりは、広島で自らも被曝し、66年間も患者を診察し続け、内部
被ばくの恐ろしさについて警鐘を鳴らし続けている医師・肥田俊太郎さん(95
歳)。鎌仲監督は、肥田さんに現状を踏まえて、「これから、どう対処すれば良い
か」を問いかける。「被ばくしても自分のように生活態度をきちんと管理して行け
ば、長生きできる。食生活、性生活などにも肥田さんは言及する。95歳になっても
答えは、シャープである。医師らしく、最新の医学情報にも触れる。

諏訪中央病院名誉院長でチェルノブイリ連帯基金代表の医師・鎌田實さん。鎌田さん
は、1986年に事故を起こしたチェルノブイリへ、このおよそ20年間に94回も
の医師団を派遣したという。2004年からは、劣化ウラン弾で被ばくし発症したた
イラクの子どもたちの医療支援も始めた。白血病や癌に冒された子どもたちの救援に
取り組んでいる。福島原発事故以後は、福島でも医療支援を続けている。

東京大学アイソトープ総合センター長で、医師の児玉龍彦さん。児玉さんは、ゲノム
科学(遺伝子と染色体)の専門家。事故後、福島の自治体と連繋をとり、毎週末ボラ
ンティアで地域社会の除染活動に取り組むとともに、内部被ばくが細胞に及ぼす影響
を研究している。

チェルノブイリの小児科臨床医のスモルニコワ・バレンチノさん。バレンチノさん
は、チェルノブイリ原発からおよそ100キロは慣れた地域で45年間臨床の小児科
医として、被ばくした子どもたちを診て来た。

これらの映像を観て、話を聞いて、思ったことは、福島原発事故以後、日本列島に住
む人々は、多かれ少なかれ、皆、二本松の一家と同じ状況を生きているということだ
ろう。何時、何年後、どこか、どこででも、尿に放射能汚染が出て来てもおかしくは
ない。肥田医師のように被ばくした後も、生活の隅々に気を使い、内部被ばくを甚大
にさせないように自己管理することが、如何に大事かということだろう。

今年の4月、日本ペンクラブのチェルノブイリ視察団に参加をして、チェルノブイリ
の原発とウクライナ側の被爆地のその後を見て来た。内部被ばくした人たちの26年
間を見たり、聞いたりして来た。事故を起こした原発周辺から逃れた人々は、どこへ
行っても、何時になっても、幾つになっても、内部被ばくの激甚化を恐れながら暮し
ていた。肥田医師のようなケースなら、良いのだが、と強く感じる。

「内部被ばくを生き抜く」という映画は、「内部被ばくの時代を生き抜く」という、
被ばく後の日本人社会のありようをどのように運営すべきかを問いかけて来る。

そこで、この映評を書くための参考にしようと、新聞記事を探した。

毎日読む新聞の片隅に出ている「福島県各地の放射線量」というデータ地図がある。
例えば、12年10月16日のデータをと思って、朝日新聞を見てみたら、無い。見
落としているのかと見直してみたが無い。10月分は、現在まで、無し。朝日新聞の
朝刊2社面から、「福島県各地の放射線量」というデータ地図が何の予告もないまま
(見落としていないか)、無くなっている。9・30(29日の想定値)が、最後。
福島市のデータは、漸減し、一時は、0・6代の毎時マイクロシーベルトだったの
が、この所、執拗に0・7代に漸増していた。定点観測のデータであっても、データ
を蓄積しながら凝視していると見えてくるものがある。福島市のデータは、2011
年3月の事故以来、1年7ヶ月経っても、相変わらず、およそ60キロ離れた福島第
一原発からは昼夜継続的に放射能が漏れ続けており、それも漸増しているという状況
を示していると言えるだろう。ホットスポット。そういう地域は、ほかにもあるかも
しれない。

こういう状況の中で、全国版での「福島県各地の放射線量」データ地図掲載が、予告
も無く、取りやめたとしたら、朝日新聞の原発報道の姿勢が問われることになるだろ
う。
- 2012年10月17日(水) 7:03:30
10・XX  * 映評「EDEN」

フロント(最前線)とフロンティア(辺境)は、新宿のゲイやニューハーフの人たち
が接点となることで、大きな円環となる。東京・新宿2丁目の物語。ショーパブ「エ
デン」で働くゲイやニューハーフの人たちの日常生活に起こるエピソードの数々が描
かれる。

42歳の誕生日を迎えた「エデン」の雇われ店長兼ショーの演出家・ミロ(山本太
郎)。一緒に働く仲間は、ゲイ(ヒゲのゲイ:高橋和也/齋賀正和、小野賢章、池原
猛、大橋一三)やニューハーフばかり。ミロの誕生日の前日、「エデン」で酔いつぶ
れたニューハーフのノリピー(入口夕布)をミロは自宅に連れて帰った。翌日目を覚
ますと、ノリピーが冷たくなっていた。

「エデン」のオーナーの美紗子(高岡早紀)がストーカーの被害に遭う。ストーカー
は、学習塾の敏腕講師。皆で、派手な格好をして学習塾に乗り込む。授業中のストー
カーの教室に殴り込み、講師を懲らしめる。

帰途、ミロはノリピーの死を仲間たちに知らせる。変死として警察に届けるが、やっ
て来た警察官は、ゲイたちと知って差別的な侮蔑の言葉を投げつける。

ノリピーこと、性転換をした越山則夫は、息子ではないと遺体の引き取りを遺族が拒
否した。「エデン」では、ミロの誕生日の祝とノリピーの簡単な葬式を兼ねたパー
ティを開いていると、警察がノリピーの遺体を運び込んで来る。

ノリピーの遺体が置かれた状況は、いずれ、自分たちの状況になるのではないかと気
がついた仲間たちは、ノリピーの遺体を則夫のふるさとである千葉県鴨川の自宅(越
山造園)に、「勝手に」届けようということに同意する。

ミロの誕生日に招待された「エデン」の常連客アカネ(中村ゆり)。アカネは、ス
トーカーの勤める学習塾の同僚だが、少女の頃、沖縄の米軍基地周辺で、米兵に性的
な傷をつけられたトラウマを持つ。ミロたちが出発した後の「エデン」に一緒に北沖
縄出身で塾の同僚の求愛を素直に受け取れない。

ロードムービングの末、ノリピーの実家に辿り着いたミロとその仲間たち。勝手に
やって来た彼らを拒絶する父親(浜田晃)と兄。追い返そうとする父親ら。やがて、
庭先の「騒動」を聞きつけて、母親(藤田弓子)が、家の中から飛び出して来る。ど
んなに変わっていても、自分が生んだ息子は息子と、遺体にすがりついて号泣する母
親。ミロたちは、母性愛の純愛サに勘当して立ち尽くす。

顛末を見届けたミロたちは、新宿に戻って行く。「エデン」に帰ったミロは、久しぶ
りに仙台の実家に電話をし、震災後も近づかなかった実家の母親と「今度の正月には
久しぶりに戻る」と電話をする。誰もいない店内で電話をするミロの言葉が、段々仙
台弁に戻って行く。その様をカメラは、淡々と描き出す。

ミロが住み、心臓に疾患を抱えていたノリピーが病死したアパートがおもしろい。根
津のアパートでのロケ。中庭のある木造アパート。大家(管理人)夫婦。夫は、入居
者の韓国人女性占い師と不倫関係にある。1階の窓から出入りをするピエロ姿のマジ
シャン。右翼的な行動をとる正体不明の男性コンビ。皆、脇で達者な演技を披露す
る。

船戸与一原作の短編小説「夏の渦」(短編集「新宿・夏の死」所収)が、武正晴監督
によって映画化された。この映画化を熱望していたのは、「大鹿村騒動記」の主演を
最後に先日亡くなってしまった原田芳雄。マイノリティへの熱い思いを抱き続けてい
た原田芳雄は、ミロを演じたかっただろう。1980年代から90年代の新宿2丁目
が、再現される。「エデン」は、旧約聖書でアダムとイブが性差を自覚して追放され
た楽園。追放以前は、性差別のない世界だった。現在の年風俗の最前線新宿と日本の
最前線沖縄。フロントとフロンティアは、同義語。ゲイたちは、大きな円環を描き出
した。

伝統的な沖縄の衣装で着飾ったアカネの結婚式。披露パーティでの「モダンガール」
の唄と踊り。そこから飛び出しての、伊豆の下田でロケをしたという浜辺の行進とい
うラストシーン。押し寄せる浪が高い。台風が近づいている。ゲイたちのパレード
は、円環という閉塞感のある現代社会からの噴出か。

この映画は、11月17日から、東京の新宿K’s Cinemaほかでロードショー公開さ
れる。
- 2012年10月16日(火) 16:10:47
9・XX * 映評「最初の人間」

 
「最初の人間」とは、カミュの未完の自伝的小説のタイトルだ。フランス領アルジェ
リアで1913年に生まれたカミュは、1957年、43歳という史上2番目の若さ
でノーベル賞(文学賞)を受賞し、3年後の1960年に46歳で交通事故に遭い、
死亡してしまった。その際残された未完の小説のタイトルが、「最初の人間」という
ものだった。自伝的な小説であり、アルジェリアが、フランスからの独立戦争を闘っ
ている真っ最中だったこともあって、政治的な利用を懸念した家族や友人たちが死
後、30年以上も出版を認めなかった。1994年になって、漸く出版された。タイ
トルが意味する「最初の人間」とは、フランスの植民地アリジェリアという土地に初
めて根を下ろしたカミュ家の第一世代を意味するとも、植民地の貧しい環境で生ま
れ、育った自分自身のことを意味するものとも言われている。植民地の被植民者でも
豊かな植民者でもない、貧しい植民者がゼロの地点から出発したという点で「最初の
人間」というタイトルを付けたと言われている。

いずれにせよ、カミュは、我が世代では、「異邦人」、「シーシュポスの神話」(当
時は、「シジフォスの神話」だった)、「ペスト」「反抗的人間」など、サルトルな
どと並ぶ実存主義の作家であった。「不条理」を直視し、「反抗」というキーワード
を通じて「連帯」を求めて行くというもので、当時、実存主義は、マルクス主義とと
もに、若者たちの間で一世を風靡した。人を殺すに値する思想はあるか、というカ
ミュの問いかけは、「アンガジュマン」を主張するサルトルとの間に論争を引き起こ
すことになる。

映画の筋は、小説に忠実で、小説は自伝的要素に忠実で展開する。生まれた翌年、兵
役に取られた父親を戦争でなくし、それがショックで聴覚障害になったスペイン系の
母親と母親に実家で暮らす。実家には、母親の弟と母親の母が同居していた。母親の
母、カミュ、映画の中ではジャック・コルムリにとって祖母は、幼い孫への体罰も辞
さない厳格な女性として描かれる。孫の進学を許さない祖母を押さえて、小学校の教
師が、コルムリの才能を見抜いて上級学校への進学を薦める。さらに、高等中学校の
教師も、コルムリの大学進学を薦める。

映画では、そういう幼い頃の追想を入れながら、40歳代になった作家が、今も母の
住むアルジェリアへ帰郷する物語が描き出される。物語は、カミュのアイデンティ
ティを追求する。

1957年夏、作家のジャック・コルムリは、ブルターニュのサン・ブリューにある
フランス軍人墓地の中の父親の墓前に佇む。自分の誕生の翌年、戦死した父親をコル
ムリは、知らない。墓石を見てコルムリは、自分が既に父親の年齢を越えていること
に改めて気がつく。数日後、コルムリは、今も母親の住むアルジェリアを尋ねるた
め、アルジェリア空港に到着する。出迎えたのは、コルムリに大学での講演を依頼し
た学生たちだ。当時、フランス領であったアルジェリアでは、独立を望むアルジェリ
ア人と植民者であるフランス人との間で激しい「紛争」が起きていた。車の車窓から
見る街には、軍人の姿も目につく。

大学で行った講演では、政治的な発言を押さえ、フランス人とアルジェリア人との共
存を唱える発言をするコルムリを支持するリベラルな学生とフランス領アルジェリア
を支持する保守派が対立し、混乱してしまう。「作家の義務は、歴史を作る側ではな
く、歴史を生きる側に身を置くことだ」と、コルムリは、主張したのだ。混乱した講
演会の様子を新聞も大々的に報道する。

翌日、コルムリは、母を訪ねる。幼い頃、コルムリが、母とともに祖母らと同居した
アパートに母親は、今もひとりで住んでいる。部屋にある父親の写真を見つめなが
ら、コルムリは、ここで暮した自分の幼い頃に想いを巡らせる。友だちのこと、祖母
から受けた折檻のこと、進学を希望しながら当時同居していた叔父が働く工場で働か
されたこと。小学校の恩師が、祖母に直談判をし、進学への道を開いてくれたことな
どなど。

小学校時代のアラブ人の旧友の居住区を尋ねる。小学生の頃、旧友は、コルムリがフ
ランス人だと言うだけで、喧嘩をふっかけて来た。「われわれには、友情はなかっ
た」という旧友は、反植民地闘争で過激派のメンバーだとレッテルが貼られて獄中に
居る息子の無実を晴らして欲しいと嘆願する。偉い作家になって政府機関にも知人の
居るコルムリは、息子釈放のために政府の上層部に働きかけるが、間に合わず、旧友
の息子は、処刑されてしまう。

母の住むふるさと、フランス領アルジェリアでは、今、アルジェリア人とフランス人
が争っている。非暴力を主張し、和解と共存求めるコルムリは、ラジオを通じて、皆
に呼びかける。

「分裂ではなく団結せよ。だが、テロには反対する。無差別に起こる爆発はいつか愛
する者に襲いかかるかも知れない。私は正義を信じる。アラブ人に告ぐ。私は君たち
を守ろう。母を敵としない限りは……。母は君たち同様、不正と苦難に耐えて北から
だ。もし母を傷つけたら私は君たちの敵だ」

だが、こういう主張は、当時は、理解されなかっただろう。カミュは、ノーベル賞受
賞後も、プロヴァンス地方の田園地帯ロールマランに居を構えて、パリやアルジェリ
アなどと往復生活を送っていて、1960年交通事故に遭い、亡くなってしまい、小
説「最初の人間」も、未完のまま残された。

1954年、アルジェリアで民族解放戦線が蜂起した。「アルジェリア戦争」が勃発
したのだ。1962年、カミュの死後、2年で、アルジェリアは、フランスから独立
した。アルジェリアの独立よりも、アルジェリア人とフランス人とが共存する連邦制
のようなものを頭に描いていたカミュの限界であった。事故までの「晩年」、カミュ
は、この問題では、沈黙を続けた。ノーベル賞受賞時にも、カミュは、双方の暴力や
殺人を否定したが、それ以上のことは言わなかったという。

カミュの映画を観ていて、私は、何故か、9月に韓国の慶州で出会ったル・クレジオ
のことを思い出した。国際ペン大会が、今年は、韓国の古都・慶州(キョンジュ)で
開かれ、開会式を記念する基調報告などをル・クレジオがしたからだ。ル・クレジオ
は、1940年、フランスのニースで生まれた。1963年、「調書」で本格的に作
家デビューした。「調書」は、私の青春の書だ。65年の「発熱」、66年の「大洪
水」などを私も読んだものだ。ヌーボー・ロマン、アンチ・ロマンの作風は、カミュ
とは違うが、実際にル・クレジオの講演(英語で語りかけていた)を聞いたり、国際
ペンのバスツアーで同行し、身近に歩いている後ろ姿を見たりしたこともあって、な
ぜか、若きノーベル賞作家というようなイメージをル・クレジオにカミュをダブらせ
てしまったからかもしれない。

ル・クレジオは、その後、モロッコの女性と結婚をし、3人の娘がいる。2008年
にノーベル文学賞を受賞している。68歳のときだ。現在は、古稀を越えているが、
慶州のホテルの会場で逢ったル・クレジオは、若々しかった。せいぜい50歳代にし
か見えない長身の美男だった。

映画に戻ろう、主演のジャック・コルムリ(カミュ役9を演じたジャック・ガンブラ
ンは、端正な風貌で、コルムリ役を淡々と演じた。この映画を観ていると、カミュ
は、フランス領アルジェリアというふるさとの中で、フランスにも、アルジェリアに
も与せず、ふるさとにあっても、まさに「異邦人」としてしか生きることが出来な
かったのであろう。母子家庭で、貧しい母とともに暮した幼い日々。厳格な祖母。疎
外感に苛まれた。ふたりの恩師という補助翼を得て、自らの道を切り開いて行ったカ
ミュ。ふるさとが異国という疎外感こそが、カミュの文学観を豊かなものにして行
く。ジャンニ・アメリオ監督は、まさに、それを映像化した。追想も含めて、映画の
画面に映し出されるアルジェリアの光景も忘れられない。

なにもないところから生まれ、自らの力で成長して行く人。それが、最初の人間とい
うわけだろうか。2013年は、カミュの生誕100年に当たる。

この映画は、東京・神保町の岩波ホールで、12月15日から新春ロードショー公開
される。
- 2012年9月30日(日) 18:31:50
9・XX 劇評:青年劇場「十二夜」


シェクスピア劇としての「十二夜」は、1)男女の双子と女性の男装に伴う「人違
い」という登場人物の二重性、2)物語展開の軸となるのは、「思い込み」による三
角関係というもつれ、3)贋のラブレターという小道具を生かした「笑劇(ファル
ス)」、4」2組のカップル誕生という大団円だろう。

2007年7月と2005年7月に歌舞伎座で観た「NINAGAWA 十二夜」
(菊之助主演、蜷川幸雄演出)が、どうしても印象に残っていて、今回の青年劇場の
「十二夜」を観ても、それとの比較をしてしまう。

鏡まで動員したきらびやかな大道具の蜷川版「十二夜」に対して、青年劇場版「十二
夜」は、シンプルな大道具を効果的、効率的に使っている。

例えば、蜷川版では、序幕第一場で幕が開くと、舞台は、左大臣館の広庭。桜の巨木
が、爛漫と咲き乱れる。その後ろの書割、上手の床(ちょぼ)、下手の黒御簾などま
で、全てが鏡張りになっている。舞台背景の書割には、1階席の客席が、場内を飾る
赤い提灯とともに映って見えるので、横長の舞台を挟んで、丸く客席が囲んでいるよ
うに見える。まさに、「円形劇場」の雰囲気で、その意外性が、客の心を一瞬のうち
に掴み取る効果を上げていて、そこまでも演劇空間にしてしまう。

一方、今回の青年劇場版は、柱を思わせる複数の円柱と椅子のみというシンプルさ
で、演劇空間は舞台に限定される。

歌舞伎化した役名、科白の蜷川版「十二夜」に対して、青年劇場版「十二夜」は、科
白劇であるシェイクスピア劇の特徴をベースに小田島雄志訳の役名、科白を生かして
いる。

新作歌舞伎を目指した蜷川版「十二夜」でも感じたが、シェイクスピア劇と歌舞伎の
演出には、共通する部分がある。◯◯、実は、△△という人物の二重性は、歌舞伎で
も、馴染みのある設定。あるいは、同一人物でも、本音と建て前の二重性。これは、
いまだって、多くの人にもある。癖のある人物が、次々と登場して、恋物語の様相で
観客の頭をこんがらからせておいて、次第に整理しながら、物語は展開する。縺れて
いた筈の三角関係は、2組のカップル誕生として大団円となる。

今回のシェイクスピア劇は、蜷川版でも、同じだったが、前半は、趣向と主筋の紹介
のための舞台展開で、癖のある人物の登場、後半の展開のための伏線の提示など、消
化不良のまま、物語は展開するので、観客は、眠気との闘いも必要。私も何度も、眠
気に誘われた。

難破した船から異国の海岸に辿り着いた双子の片割れ・ヴァイオラは、別れ別れに
なった、生死不明の兄・セバスチャンを探す旅に出る。ヴァイオラは、女の身ではき
けんだからと男装になって、シザーリオと名乗り、地域を治めるオーシーノー公爵館
に就職をして、「小姓」になる。公爵は、地元の伯爵家の娘・オリヴィア姫に恋をし
ているのだが、姫は、冷たい。公爵は自己中心的で、周りが見えないタイプ。姫に嫌
われても、嫌われても、しつこさこそ、誠実と錯覚しているような人物。公爵に気に
入られた小姓・シザーリオが公爵の恋の仲立ちの使者となると、オリヴィア姫は、な
んと、使いの小姓に恋してしまう。

公爵→姫→小姓というのが、恋のベクトル。さらに、シェイクスピアは、小姓、実
は、ヴァイオラは、公爵に好意を持つというベクトル、小姓→公爵も加える。男と女
の二重性をベースに、恋する者たちの連鎖のベクトルが、一方向にばかり向いなが
ら、綾なし、環になる喜劇が、「十二夜」の眼目である。結局、大団円は、「女は、
強し」で、女性のベクトルが、実線を描くことになるのだが……。

幕間の休憩の後は、前半の趣向が生きて来て、俄然おもしろくなる。

ヴァイオラの双子の兄のセバスチャンは、海難にめげずに、生きているのだが、舞台
では、暫くすれ違いをさせて、思い込みと人違いという趣向を生かして、混乱が続
き、展開をおもしろくするのだが、結局、小姓はヴァイオラの男装と判り、オリビア
姫→小姓(実は、ヴァイオラ)という恋のベクトルは、オリビア姫→双子の兄のセバ
スチャンというベクトルに整理され、さらに、ヴァイオラ→公爵は、新たに恋仲とし
て受け入れられ、ふた組のカップル誕生となる。この結果、三角関係は解消され、め
でたし、めでたしの2組のカップル誕生で、四辺平穏という大団円を迎えることにな
る。

脇筋を膨らませたのは、オリビア姫の叔父で、飲んだくれのトービー、オリビアの伯
爵家執事のマルヴォーリオらが、贋のラブレターという小道具を使って、笑劇の度合
いを強めて、観客席を笑わせる。もうひとり、唄う道化も、節目節目で、歌を唄いな
がら登場する。

人違い、思い込み、騙し騙され、という「喜劇」としての人生にスポットライトを当
てるシェークスピア劇は、恋というヒューマニズムの視点から「本当の自分とはなに
か」を探し求める旅こそが、人生なのだと教えてくれる。そして、そのテーマは、主
要人物たちよりも、伯爵家執事のマルヴォーリオや道化にこそ、背負わされているよ
うに思えた。特に、騙され役のマルヴォーリオこそが、キーパーソンである。笑いの
後の哀愁。そこに気がつくと、贋のラブレターという小道具が、キーポイントになっ
ているのが判る。

青年劇場の「十二夜」は、東京・新宿の紀伊國屋サザンシアターで23日まで、上演
される。その後、25日には、府中の森芸術劇場ふるさとホールでも、上演される。
- 2012年9月20日(木) 11:43:55
8・XX

国立劇場で、きのう(8・28)、市川染五郎さんが、奈落に転落して、大怪我をし
たという。 第10会「松鸚会」(松本流一門会)で、 宗家(幸四郎)の古稀記念公演
中の事故だった。 家元(染五郎)が、新ジャンルの踊り(傾奇おどり「あーちゃ
ん」)を披露していた。マスコミの報道では、所作をしながら後ずさっていて、空い
ていたせりのスペースから3メートルほど下の奈落に落ちたという。後ずさる足の幅
を思い違えたか。ほぼ無防備で、突然墜落したのでしょうね。頭を打っているのが、
気がかりだが、 怪我が軽く、早めの恢復と後遺症もないことを祈っている。歌舞伎
界に欠かせない中堅の役者である。 心より、お見舞い申し上げたい。
- 2012年8月28日(火) 10:19:54
8・XX  * 映評「石巻市立湊小学校避難所」


2011年3月11日震災で、宮城県石巻市は、使者・行方不明者が、3800人に
上った。震災直後に作られた避難所には、最大時で5万人を超える人々身を寄せたと
いう。震災のニュースや映像で被害を想像していた映画監督の藤川佳三は、友人の監
督が作った「大津波のあとに」を見て、現地を自分の目で確かめたくなった。4月2
1日に、初めて現地に入った。地域社会がずたずたに根こそぎ破壊された様を見た。
さらに、避難所での生活を余儀なくされる人々の実態に接し、心を揺さぶられた。

避難所になっていた石巻市立湊小学校では、生活する避難住民だけでなく、ボラン
ティア、市役所、自衛隊、救護関係、マスコミ関係などさまざまな人々が動き回り、
生きていた。狭い小学校の施設(体躯館や教室を仕切って、多くの人々が雑魚寝の生
活をし、また、それを支援している。藤川監督が、いちばん驚いたのは、住民たちの
明るさだったという。思ったことをはっきり言い、底抜けに明るい。笑っている。笑
わなければ、気持ちが絶望のどん底に届いてしまい、生きていけないのだということ
が後に判る。皆、一日いちにちを精一杯、気を張って生きているのだ。頑張って、明
るく振る舞い、心の奥底を哀しみをしまい込んでいる。先行きの見えない不安ほど、
大きな不安はない。

何気ない日常の大切さは、被災者がいちばん良く判るだろう。3月の発災以来、季節
は巡る。春には、花が咲き、花を見れば、悲惨な現状を忘れて、花が、なんて綺麗だ
ろうと自然と涙が流れてくる人もいる。そういう気持ちへの同感が、藤川監督に避難
所を定点記録することを思いつかせた。一旦、東京に戻り、映画サウ瑛の準備をした
藤川監督は、4月29日に、再び、石巻入りをする。そして、10月11日に湊小学
校の避難所が閉鎖されるまで、半年余り映像を撮り続けた。撮影は、190時間に及
んだと言う。そのうちの95分の1の素材を生かして、124分の映画が完成した。

試写会で観た映像には、テレビの災害ニュースなら、真っ先にカットされてしまうで
あろう「日常的」な光景と人々の本音が記録されていた。非日常の被災生活が、日常
の「ご近所の人たち」で営まれていることが判った。家族ではないけれど、ご近所同
士が家族みたいな人間関係を作りながら、世代を越えて、生き抜いていることが良く
判った。明るく笑っている人々の姿を画面で観ているうちに。こちらも涙が滲み出て
来る。家庭の明るい居間でなく、薄暗い試写室でよかったと、思う。

使い古しの衣料品の山。被災者のために贈ってくれた善意の品。しかし、被災者の気
持ちは別だ。「被災者は、何を貰ってもありがとうと言わなければならないの?」使
い古しの、「要らない」衣料品は、正直言って、被災者も要らない。善意の前に、被
災者が喜ぶかどうかという想像力が欲しい。テレビのニュースでは、被災地でそうい
う声が聞かれたとしても、編輯段階でカットされてしまうだろう。そういう本音を藤
川監督は、丹念に繋げてゆく。

避難所とはいえ、皆さん、顔見知りとはいかない。顔見知りでも、気が合う、合わな
いは、震災がなくても、あり得る話。日常的に親しく接して来なかった人同士が、巧
く行かないことは、筵当たり前だろう。そういう中で、湊小学校の避難所では、世代
を越えた新しい出会いがあり、69歳になる独居のお年寄りの女性が、孫の世代の女
子小学生と肉親のおばあちゃんと孫のような交流を始める。本音のつきあいが、そう
いう関係を生み出す。大家族の生活が普段の日常生活の場から消えて久しいが、69
歳の愛子さんは、9歳の小学生ゆきなちゃん家族とゆきなちゃんを通じて繋がってゆ
く。愛子さんの人柄ゆえだろうが、ゆきなちゃんも、おばあちゃんが欲しかったのか
もしれない。おばあちゃんを愛ちゃんと呼ぶ。あるいは、おばあちゃんを友だちのよ
うに思っているのかもしれない。ふたりのやり取りは、掛け合い漫才のように気さく
にポンポンと続く。小学生が体調を崩せば、おばあちゃんが心配する。おばあちゃん
が階段を下りる時、小学生が、介護をする。それが何とも自然なのだ。学校のトイレ
は、夜は、誰でも一人で行くのは怖い。愛子さんとゆきなちゃんは、そういう時は、
ふたりで行ったと言う。そうやってお互いに同じ町内で顔見知りだったが、親しくは
なかった人たちにも、新しい出会いが生まれてゆく。

愛子さんが、早くから申し込んでいた仮設住宅の抽選に当たったと言う。ゆきなちゃ
んと別れ、避難所で「ご近所付き合い」をした人々と別れてゆく。当たった仮設住宅
を見に行った時、仮設ながら真新しい室内で、愛子さんは、赤い自動車(救護の救急
車か)から、赤い風船を連想し、赤い風船から、優しかった父親の思い出へと連想を
膨らませて行き、幼い愛子に戻ってしまい、涙を流す場面がある。お年寄りは、幼児
退行する。

ゆきなちゃんは、9歳の小学生なのに、このごろ、大人びたことを言いたがるよう
だ。藤川監督が直撃インタビューで、「おとなじみた」小学生に粘着質の質問を繰り
返す。反発するゆきなちゃん。津波のことを聞くと、忘れたと言う。小学生に聞いて
は行けない質問だったのではないか。試写会後、試写会挨拶に来ていた藤川監督に映
画批評家から、そういう趣旨の質問が出た。藤川監督は、確信犯的に、そういう質問
をしたのだという。愛子さんが、幼児退行し、ゆきなちゃんが、大人びたことを言
う。その逆転にこそ、今回の大震災の被害がもたらした深淵があると思ったからだと
いう。

ご近所同士が被災後もお近所同士で支え合う。初めて出会い、親しみ出した人同士で
も支えあう。どちらも、家族のように互いを思いやる気持ちで繋がって行く。藤川監
督は、「避難所は大きな家族のようであった」ともいう。

愛子さんが、避難所を去る日。彼女は、「嫁入りの気持ちです」と、父親への別れの
ようなことを言う。同室の一人の男性が、学校の教室を出て行く愛子さんを長持ち歌
で送るシーンがある。「親類が一杯できた」と感激の愛子さん。哀しみを笑顔に変え
て、愛子さん69歳は、ひとりで嫁入りをする。

そのほか、藤川監督がシナリオを書いた訳ではないのに、ご近所付き合いの人々から
いろいろな場面が飛び出して来る。避難した被災者にひたすら寄り添い、校庭に停め
た車の中、学校に教室、被災して空家になったアパートの部屋を借りたりしながら、
泊まり込みを続け、カメラを廻した半年間の成果が、画面に満ちあふれる。ママなら
ない撮影は、190時間にも及ぶ。「ここで、こんなことしていて、仕事は大丈夫な
の」と、声を掛けられたりもしたという。そこから抽出した2時間の映像。唯一、藤
川監督が撮影したのではない映像が混ざっている。避難所となった湊小学校から40
0メートル離れた建物の上から撮った3・11の津波の映像。エンドのクレジットタ
イトルには、「映像協力 阿部浩一」とあった。津波の実況映像。どのエピソード
に、あなたは気持ちを揺さぶられるのか。それは、観客一人ひとりによって、違うだ
ろう。

この映画は、東京・新宿のK’s cinemaのほか、全国で順次、ロードショー公開され
る。
- 2012年8月22日(水) 9:33:02
8・XX 書評 * 伊藤比呂美「たどたどしく声に出して読む歎異抄」

「歎異抄」とは、弟子の唯円が、師匠の親鸞亡き後、仏教界で流布された「親鸞がこ
う言った、ああ言った」という内容のでたらめさに嘆き哀しみ、嘆くだけでなく、親
鸞の傍にいた弟子として、異端の教えに対して、「これは違う、あれは違う。本当
は、こうだ、ああだ」と批判、糾弾をした書だという。「嘆きながら、異端糾弾」な
ので、「歎異」で、唯円が直接、師匠の親鸞から聞いたり見たりした部分の記録だか
ら、抄録の「抄」ということらしい。

詩人の伊藤比呂美が、親鸞に注目したのは、このところの仏教への関心がベースに
なっているが、それに加えて、親鸞が、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとへに親鸞一人がためなり」と言っていることだという。

「なぜ、一人のためなのか」。その謎を解きたくて、伊藤比呂美は、親鸞の言葉を弟
子の唯円が書き留めた「歎異抄」を伊藤比呂美の言葉で書き直そうとした。書き直し
てみると「違和感が残」ったという。その不満が、親鸞の声を想像しながら読むとい
う行為だった。それでも、それは、親鸞の声なのか、唯円の「声色」なのか。「たど
たどしく声に出して読む歎異抄」は、そうして出来上がった。

だから、伊藤比呂美は、7月30日に東京駅前の八重洲ブックセンターで、「たどた
どしく声に出して読む」という朗読会を含めて、本書の成り上がるためのエピソード
を直接読者に語るというパフォーマンスを実演したので、聞きに行った。

「アミダがおれたちのために誓ってくださった。かならず救ってやろうと。そのお誓
いの力は量り知れない。おれたちは救われる。」という調子の「歎異抄」になった。

伊藤比呂美に言わせれば、お経は、詩だと言う。お経を読むのは、詩の朗読と同じだ
と言う。

親鸞の書簡。「あの女はいまだに居所もなくて、わびしい暮らしをしている。いたま
しくてならないが、おれの手にはあまることだし、どうしてやることもできない。あ
なかしこ。」

親鸞は、残された姿絵から見ると、「禿頭の、眉毛の太い、目の小さい、頬骨の高い
顔」だという。「禿頭の」という条件を除くと、私には、厳ついある人の顔が浮かん
できた。俳優の渥美清の顔だ。

親鸞は、84歳のときに、息子の慈信坊善鸞を義絶する。その手紙。
「いいか。破僧の罪というのは、五逆のその一だ。おまえについて伝え聞くことは、
こんなことばかりだ。もはや、おれは親ではない。おまえを子とも思わない。…これ
ぎりだ。嘆いても嘆ききれない。」

伊藤比呂美は、お経には、暗喩、記号が多数埋め込まれていると言う。例えば、伊藤
比呂美は、「阿弥陀仏」を「むげんのひかりさま」と置換する。「ひらけずに残して
あった隠語のなかのいちばん手強いものだった。そしたら、ぱあっと光がさしこん
だ。ゆりいかっとお風呂から飛び出して走りまわりたい激情にかられた。」アルキメ
デスのようだなあ。

その結果、「正信念仏偈〈むげんのひかり〉さま」の伊藤比呂美訳は、以下のように
なる。

「〈むげんのひかり〉さまの光とは/どこまでもとどく光でありました。/はかりし
れない光でありました。/さえぎるもののない光でありました。つよくてはげしい、
ほのおの光でありました。/きよらかさにみち、喜びにみち、ちえにみちた光であり
ました。何とも呼びようのない、ふしぎな光でありました。月の光よりも/日の光よ
りも明るく/塵にまみれた世界を照らしました。群がり生きるものたちは/みな/そ
の光をいっぱいに浴びました。」

確かに、お経は、詩になってきた。坊さんたちの姿形を想像し、あるいは、残った絵
姿を探し、背丈、顔つき、声音を想像する。伊藤比呂美は、イケメンが好きなよう
だ。伊藤比呂美が、会場に現れたとき、私は、最前列の端っこの方で本を読んでい
た。伊藤比呂美は、眼鏡をかけたおばさん顔で、「伊藤比呂美さんです」と司会者が
紹介しなければ、「どこかのおばさん」という印象であった。眼鏡が余計そういう印
象を与える。しかし、話を始めると、率直で、切り込みの角度が鋭意で、おもしろ
かった。
- 2012年8月3日(金) 6:48:54
7・XX 「真珠の耳飾りの少女」、または、「青いターバンの少女」


東京の上野へ行き、東京都美術館で、マウリッツハイス美術館展を観る。入場するま
で、20分待ち。
 
お目当ては、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」、または、「青いターバンの少
女」と呼ばれる絵。青いターバンは、ウルトラマリンブルー。
 
この絵の前は、長蛇の列。テープで通路がジグザグに作られている。やっと辿り着い
た絵画の前、1列目は、係員がいて、立ち止まらないように急かされる。
 
2列目は、立ち止まれる。皆、動かない。こちらも、その塊に身を投げ込み、暫くほ
とんど動かずにいる。20分か30分くらい、じっくり観て来る。
 
黒っぽくみえる背景(黒、緑、インディゴブルーの重ね塗り)の前で、輝ける若さの
見返り少女がいる。強い眼差し。濡れ手てかすかに開かれている唇。絵を観ていた
ら、彼女の声が聞こえてきた。
 
「もう、私逝くわよ」という死に行く言葉を言っているように聞こえる。若さの向う
にある死。「メメントモリ」(死を忘れるな)。
 
じっと観ていたら、さらに、妄想というか、幻聴が拡大された。
 
一旦死に、黄泉の国から帰ってきた少女が、再び、黄泉の国へ帰らなければならない
ので、「もう、戻って来れないわよ」と、永訣の言葉を言っているように見えてき
た。濡れた唇から、生への執着と本当の別れの言葉が漏れる。神話時代から続くエロ
スとタナトス。
 
耳に付けた直径3センチもあるという大きな真珠の首飾り。ああ、彼女の魂が宿って
いるようだ。
- 2012年8月1日(水) 10:38:19
7・XX 国会包囲

7月29日、日曜日。午後3時半、東京の日比谷公園で、国会包囲デモ集結という。
日比谷公園中幸門(日比谷公会堂裏)集合。午後2時半頃に帝国ホテル側から公園に
入る。木陰で涼をとりながら、水分補給をしていると、次々と人々が来る。3時半に
なり、集会が始まる。落合恵子さんが、自称「やまんば」という髪を振り乱しなが
ら、すっかりアジテーターになっていた。次いで、女性コーラス。「上を向いて歩こ
う」を唄い出す。50年前の中学生の頃聴いた歌。当時の仲間たちが、脳裡に浮かん
できて、困った。ウエザーニューズの社長になった石橋博良が、同級生で、劣等生
だった。なんとか、私立の高校にでも入れるようにと同級生ながら受験勉強の手助け
をしてあげたが、彼が、我が中学同級生では、出世頭か。一流大学に行ったのも大勢
いたけれど、皆、サラリーマンでの出世に過ぎない。石橋は、病気で倒れて、あっと
いう間に、あの世へ行ってしまった。4時半になり、デモの隊列が動き始めたとアナ
ウンスされたが、私の周辺は、亀より鈍い歩み。

デモ開始は、午後4時半。私は、結局、5時過ぎになんとか公園を出る。東電前から
新橋を経て、日比谷公園へ戻る。途中、右翼の街宣活動が喧しい。何度目かの遭遇
だ。

日比谷公園の戻り、流れ解散。そのまま、国会周辺へ。警察官が、国会正面より、首
相官邸前の方が、「空いています」と、ディズニーランドのような誘導をしている。
6時半、いつもの首相官邸前、国会記者会館の前でもある。そこで、待つ。

国会包囲は、午後7時開始。7時から8時まで、シュプレヒコールとペンライトの波
の中にいた。翌日の朝刊によると、きのうのデモは、警察調べで、1万2000人、国会
包囲は、1万4000人。主催者発表で、延べ20万人。私の周辺には、ふつうのおじさ
んおばさん、家族連れ、若い人もいたね。

大鹿靖明「ドキュメント福島第一原発事故 メルトダウン」を読んだので、書評を書
いておこう。

2011年3月11日午後、東北地方をマグニチュード9の大地震が襲い、巨大な津
波も押し掛けた。これらに伴い、あわせて、東京電力(東電)・福島第一原発で事故
が発生し、原子炉が破戒され、特に、12日から15日に掛けて、相次いで原子炉が
爆発し、大量で濃度の高い放射能が、大気中や海洋に漏れ続けた。福島第一原発の放
射能漏れは、今も続いている。

原子炉の破戒は、地震、津波(異論もあるが)によるが、爆発は、地震津波による破
戒の事後対応の過程での「人災」という要素がある。当事者である東電や経済産業省
原子力安全委員会・保安院の対応のまずさがあったように思う。

朝日新聞経済部記者(執筆当時は、「アエラ」出向中)の大鹿靖明記者が、アエラに
記事を書きながら、メルトダウンした原子炉同様に、日本の原子力産業・行政にかか
わる連中に「メルトダウン現象」が見られたのではないかという問題意識で、東電の
経営陣、現場での対応、監督官庁である経産省の官僚たち、原子力安全委員会・保安
院の役人たち、御用学者たち、東電に資金援助をし、東電の経営が危うくなると己の
債権保全にだけは必死となった銀行家たち、未曾有の国難の中にもかかわらず、「政
争」に狂奔する政治家たち、こういう政治家、官僚、経営陣の、軸の折れた対応ぶり
をきちんと報道できない情けないマスコミ(官僚らのリークに踊らせれているな
ど)。

同じマスコミの一員として、「エリート…たちの、能力の欠落と保身、責任転嫁、そ
して精神の荒廃を、可能な限り記録しよう」という問題意識で、大鹿靖明記者は、事
故発生から当時の首相の菅直人内閣の総辞職までの軌跡を書いたのが、「ドキュメン
ト福島第一原発事故 メルトダウン」で、今年度の講談社ノンフィクション賞受賞と
なった。

新聞・雑誌やテレビ・ラジオで断片的に読んだり、見たり、聞いたりしてきた情報を
義憤の燃える一記者の目で再構成直したこの本は、今更ながら、目からウロコが取れ
るように個別の事象の全体像が見え出して来て、おもしろい。匿名を条件に追加取材
した情報や他社の記者が書いた記事、テレビの報道なども、追加して、個人の非力を
補い、短期間(事故発生から9ヶ月間の取材で、一年未満で本書を上梓したこと)の
うちに、全体像を描き出そうとした姿勢は、評価されるだろうし、案の定、評価され
て受賞となった。

ただし、このドキュメントに欠けているというか、情報量が薄いのが、被害者の住民
たちの現況などの情報だろうが、それはそれで、多数のほかの著作が出ているので、
そちらで補えば良いだろうし、いずれは、そちらも検証して欲しい。ここでは、とり
あえず、初動の状況のスケッチというのがスタンスと受け止めたので、無い物ねだり
はするまい。

私が読んだ本の中では、救助の網の目から見捨てられた原発直下の双葉病院の7日間
を描いた森功「なぜ院長は『逃亡犯』にされたのか」、大震災・原発事故などの大状
況が判る人間と違って、何がなんだか判らないまま、突然飼い主がいなくなるという
極限状況に突き落とされたペットの犬猫たちを救済する活動を描いた主森絵都「おい
で、一緒に行こう」、武藤類子「福島からあなたへ」などを本書・大鹿靖明「ドキュ
メント福島第一原発事故 メルトダウン」と合わせ読むと良いと思う。

もうひとつ、欲しいのは、菅降ろしの結果生まれた野田内閣の現況と相も変わらず
「政争」を続けている政治家たちの姿、政府、国会、民間、東電の、いわゆる事故調
査委員会の4つの報告も出そろった(7・23の政府の再最終報告まで)が、事故の
実態(放射性物質の総放出量も、まちまち)、原因(特に、相次ぐ爆発事故が、なぜ
防げなかったか、減らせなかったか)、対応策、評価などのスケッチが、どの報告
も、皆、違っている。ということは、まだまだ真実が掴まれていないということだろ
う。未解明な部分も多い。

だとすれば、本書は、4つの報告書の検証、このところ毎週金曜日の夜に首相官邸周
辺で繰り広げられている市民のデモなど事故後の市民活動や本書で不足いている被災
家族の軌跡も含めて、是非とも、「続編」を書く責務があるのではないか、と思う
が、いかがだろうか。同じタッチで、菅降ろし以降の世界を描き出して欲しい。菅内
閣も問題があったが、伝えられているのとは、違うし、菅がいなければ出来なかった
場面もあった。今の野田には、それが何より欠けている、と思う。事故の実態、原因
が、解明できていない段階で、問題点を置き去りにしたまま、経済性という別次元の
要素を最優先して、原発再稼動などの政策を決めるというのは、国民の命を軽視いて
いる、と思う。東電も、経産省も、誰も責任を取っていない。「更迭」された筈の経
産省の官僚たちも、割り増しを含めて6000〜7000万円の退職金を貰って辞職
している、というのは、なんという厚顔無恥な振る舞いだろう。
- 2012年7月30日(月) 21:53:47
7・XX

7・21の朝刊が、玉三郎の人間国宝認定の報。まずは、おめでたい。
 
 
ご本人の弁:「お恥ずかしゅうございますが、今後とも(宜しく)お願い申し上げま
す」。
 
 
歌右衛門、芝翫亡き後の真女形の立女形を重視したのだろう。歌舞伎役者では、菊五
郎以来の人間国宝認定。現在の人間国宝は、藤十郎、田之助、菊五郎、吉右衛門。玉
三郎は、5人目。
 
 
これはこれで嬉しいが、来年は、仁左衛門の人間国宝を期待。
- 2012年7月21日(土) 20:50:18
7・XX  *サイレント作戦

午後5時前、メトロの国会議事堂前駅から地上へ出て官邸前へ。6月末に行ったとき
と違って、改札から地上への出入り口が、規制されている。警察の警備が、先週の1
3日から厳しくなったという。

国会議事堂前駅は、メトロの階段の通行規制で一方通行にしている。警察官の数も多
い。地上に出ると、雨が降り出している。メトロの階段は、出口専用と入り口専用に
分けている。歩道を分断し、交通規制用のコーンで通路を作り、通行人と参加者を分
ける。6月末、歩道に溢れた参加者を見かねて、警察が、交通規制用のコーンを外
し、参加者を車道に入れていたが、きょうの車道には、簡易パイプで、柵を作ってい
て、車道に溢れ出させないようにしている。

官邸前から、ぐるりと一周してみる。路上は、どこも警察官の姿が目立つ。特に、国
会との間の道路には、警備の車を並べて、壁を作っている。警備車には、「車で規制
をしています」という趣旨の貼紙がある。

経産省の脱原発テントの集会では、マイクから、女性の声で、「雨が降っているが、
負けません」と呼びかけている。雨は、弱まったり、強まったりしているが、大勢の
人が次々とやって来る。午後6時から8時まで、人々は、いつものように声を出す。
6時過ぎから雨もやんだ。

官邸前の人々の声を「大きな音」と嘯いた男は、60年安保の際、安保反対の声よ
り、後楽園球場で野球の試合を観ている多数の「声なき声」(サイレントマジョリ
ティ)は、自分を支持する声だと嘯いた岸首相に、なんと似ていることか。

いっそのこと、官邸前に集まった10数万人が、何も言わずに、2時間黙って抗議を
する作戦を展開しても良いのではないか。その人々の列が、首相官邸前に拘らずに
霞ヶ関の官庁街、日比谷、新橋、東電前、銀座へと音も立てずに繋がってゆく。やが
て、東京から各地に繋がってゆく。各地の集会に繋がってゆく。名付けて、「サイレ
ント(音なし音)作戦」。あるいは、「机龍之介流デモ」か。
- 2012年7月21日(土) 10:46:27
7・XX  * 変わってきたデモのスタイル

去年の3・11福島原発事故以降、日本列島では、脱原発の集会やデモ行進が、各地
で絶えず開かれたり行われたりしている。東京でも、7・16の、そう、梅雨明けし
たと見られると気象庁が発表した炎天の日に代々木公園周辺に17万人が集まった。
集会後は、3つのコースに分れてパレードという名のデモ行進が行われた。猛暑の中
を人々は、アスファルトの輻射熱をものともせずに、3キロ前後のコースを歩き続け
た。

東京では、今、毎週金曜日の夜に、仕事帰りの大勢の人々が首相官邸前に集まり、
「歩かないデモ」をしている。こちらも、10万人とか、15万人とか言われてい
る。集まる人の数が増えてしまい、「官邸前」だけでは、入りきれず、人々は、「官
邸周辺」という空間に流れ込んでいる。デモと言っても、ほとんど歩かない。いや、
歩けない。そこにいるだけ。そこにいて、「再稼動反対」「原発要らない」などとい
うシュプレヒコールに唱和している。それだけで、皆、上気しているように見える。

歩かないデモ。パレードという名のデモ。いずれにせよ、デモの概念を書き換える新
しいスタイルの「デモ」には、間違いない。1960年代に青春時代を送った身に
は、デモ体験と言えば、以下のようなことぐらいだろうか。大学の授業料値上げ反対
ストライキに伴う集会や学内のデモ、その延長線上に出て来た大学改革ストライキ
(いわゆる、全共闘運動の発生と展開。ジクザグデモ、フランスデモ、ゲバ棒を持
ち、ヘルメットを被り、眼を覗いて手拭いで顔を隠したりしていたね)、1960年
代のベトナム反戦デモ(整列して車道を歩く、おとなしいデモだったけれど、卵やト
マトを投げつけられる妨害もあったらしい)、大学法反対集会や学内デモ、日韓条約
反対デモなど、大学内とその延長線上のデモを体験し、卒業・就職してからは、職場
のベア闘争・ストライキなど。

これらのデモ体験が多いのか少ないのか。「一般学生」だった同世代の人ならば、似
たような体験だろうし、「学生運動」に没入した人ならば、逮捕経験を含めて、もっ
と過激な体験をしているだろうし、今時の若い人たちならば、「学生運動」なんて、
「なんのスポーツをしていたのか」と聞くかもしれない。東大では、学生のサークル
が、「体育会系」という名称ではなく、「運動会系」というそうだから。そもそも、
若い世代では、デモ体験などない人が多いだろう。だから、パレードという名のデモ
にも、抵抗感はないのだろう。

さて、我がデモのスタイルを紹介しよう。私は、去年からの脱原発集会やデモに、時
折、参加している。私は、そこに行くことを重要視している。だから、プラカードも
用意して行かないし、会場で、簡易なプラカード用の紙など貰ったら、それを掲げ
る。なければ、掲げない。シュプレヒコールも、積極的には声を出さない。慣れてい
ないと、声を出しにくいものだ。その場の雰囲気に慣れて来たら、周りの声に合わせ
て、小さな声で「原発要らない」と呟いてみる。調子が上がって来たら、時々、もう
少し大きな声を出す。調子が悪ければ、小さな声で言う。沿道を行く人たちに訴える
というより自分に言い聞かせるために声を出すだけだ。

山梨県北杜市で、3ヶ月に1回、脱原発のデモが行われている。一度参加したことが
ある。100人くらい参加していただろうか。JRの長坂駅前から、シャッターの降り
た店の多い駅前商店街を通り抜け、農業用の溜池のあるところまで歩く。一応、デモ
行進だから、参加者は、手製のプラカードを持ち、シュプレヒコールも上げるけれ
ど、それは、行進の前の方だけで、後ろの方は、黙ってついて歩くだけだ。溜池を半
周し、商店街裏側の住宅地を通り、住宅地の中の公園で、ミニ集会。デモ行進の隊列
の中から見ていても、シャッターの降りた店の多い駅前商店街では、道行く人の姿を
ほとんど見かけなかった。良く見ると、沿道の家の2階からデモ行進を見ている人も
いない訳ではなかった。デモ行進の隊列の中にいて、このデモは、周りの人に私の主
張を伝えるということよりも、私自身に言い聞かせるためのデモなのだなと思った。
デモ行進の後のミニ集会では、何人かがそれぞれの思いを伝え合った後、デモ行進に
参加せずに数人が準備してくれていた鍋(お汁粉、煮物など)から、各自が持ち寄っ
た器(そういえば、事前に手製のプラカードのほかに箸と碗を持参せよと言われてい
たっけ)に軽食を入れて頂き、舌鼓を打った。

首相官邸前の歩道に立ちながら、「原発要らない」「再稼動反対」を自分に言い聞か
せる。声は、出したり、出さなかったり。但し、体では、シュプレヒコールに同調し
ているのが判る。

このような運動は、多分、可能な限り、続けられるだろう。少なくとも、野田政権を
倒すまでは続けなければならない。

今年の4月にチェルノブイリに行ってきた。表現者の団体のチェルノブイリ原発視察
団に参加したのだ。1986年4月26日の事故から26年経ったウクライナ。チェ
ルノブイリ周辺では、未だに、居住制限区域がある。事故を起こした原発の廃炉作業
も続いている。事故を起こした原発をコンクリートで全面的に覆う石棺は、ヒビが入
り、再び、放射能漏れを引き起こしかねないので、石棺を覆うシェルターの工事が始
まることになっていた。有害な核燃料も、まだ、取り出せずにいる。決定的な処理方
法がないまま、試行錯誤の後処理が、現在進行形であった。そのために、事故から四
半世紀経った現在でも、交替で、毎日3000人が、廃炉処理作業に当たっていると
いう。

チェルノブイリ原発では、この後も、少なくとも、一世紀規模で後処理が続くという
見込みだ。原発は、領土を破戒し、地域社会を破戒した。地域住民は、強制移住させ
られ、あるいは、移住先のインフラが不十分で、戻らざるを得なかったり、移住した
くても、移住先が決まらずに、待機させられている住民もいた。移住先にも、放射能
は、住民に健康被害という形で、つきまとって来る。放射能の害からは、何年経て
ば、解放されるのか。どこへ逃げれば、解放されるのか。使えなくなった地域社会、
そこで営まれたであろう経済活動、そのための逸失利益は、いかばかりか。その期間
を倍数にしなければならない。

原発は、毒のあるエネルギーだと政権の責任者は認識しなければならない。まず、原
発との決別。脱原発の方向性を政策的に打ち出さなければ、この問題処理のためのス
タートラインに立てない。政治家は、そのスタートラインに並んだ後に、生活、経済
性などとエネルギー政策の関係を考えるべきだ。東京電力の値上げ案を決めたようだ
が、地域社会の逸失利益との比較は、なされていない。これでは、真の国民的な経済
性の計算とは言えないだろう。

脱原発というスタートラインに立ち、エネルギー政策を変えさせるまで官邸前の「歩
かないデモ行進」は、続けられるだろう。福島原発事故の実態、原因の究明もせず
に、まして、予防策も皆目分からないままなのに、ほかの原発を再稼働するとはない
ごとだ、という怒りが、官邸前の人々の胸には蟠っている。

これは、日本の民主主義のありようを問いかける運動だ、と思う。地震列島の上に5
4基(最近、福島原発の4基を引き算して、マスコミは伝えるようになったが、再び
の地震・津波、あるいは、台風などの災害で、放射能漏れ事故を起こしかねない原発
には、福島の4基も入れるべきだろう)もある原発の放射能漏れ事故に対する国民の
懸念を無視して、勝手に政策推進するのは、民主主義的に見て、手続き上、間違って
いる。政権を担う与党、あるいは、政権を批判する野党とも、今の政治家たちは、間
違っている。ネットによる民主主義。それが、今、官邸前に集う人々の思いだろう。
炎天下の集会に集ってきた人々の思いだろう。ひとりひとりが、勝手に考えたら、
皆、同じことに気がついた、というだけだ。マスコミが伝えるべきは、◯万人の集
会・デモのニュースではなく、ひとりひとりが勝手に考え、勝手に集まってきた結
果、大勢の運動になっただけという、現象の分析をきちんとすることではないか。

さて、きょうは、金曜日、官邸前に行ってみようか。ネットで検索すると、以下のよ
うな文章に出会ったよ。

△官邸前 デモ」の記事をお探しですか?
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- 2012年7月20日(金) 11:32:56
7・XX* 映評「放射線を浴びたX年後」

日本では、被爆(あるいは、被曝)は、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマと言われる。
いや、未だあった。1954年3月から5月まで、アメリカが中部太平洋、マーシャ
ル諸島のビキニ環礁という世界遺産的な豊かな自然環境で行った水爆実験(爆発は6
回に及び、「キャッスル作戦」と呼ばれた)の際、マグロ漁操業中に実験海域の近海
で放射性降下物(いわゆる「死の灰」)で被曝(3・1の実験)した第五福龍丸(乗
組員23人)の事件だ。無線長の久保山愛吉さんが亡くなり、その後、第五福龍丸
は、検査と放射能除去を経て、東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」になるなどし
た。1967年老朽化で廃船となる。東京の夢の島隣の埋め立て地に廃棄されていた
が、「再発見」され、保存運動が起きた。その結果、夢の島公園の「第五福龍丸展示
館」に保存展示された。

日本の反核運動のきっかけとなった第五福龍丸事件は、あたかも、実験海域近海にい
た第五福龍丸だけが、被曝したような感じがあるが、アメリカは、当初、水爆実験の
威力を過小評価し、危険区域を狭く設定していたため、危険区域の外の安全区域にい
た数百隻の漁船も、実は被曝に巻き込まれていた。その後の調査で、死の灰を浴びた
漁船の乗組員などは、2万人を超えると言われる。

敗戦後9年足らずという日米関係の中で、反核運動が反米運動に拡大しないようにと
アメリカは、日本政府との間で、被爆補償の交渉を急ぎ、「アメリカ政府の責任を追
及しないこと」を条件に、実験の翌年の1955年には、200万ドルが日本政府に
支払われた。この金は、操業中に被曝した漁船が所属する全国の関係漁協などを通じ
て、値下がりしたマグロの差損を補填する見舞金という名目で配分(船主や船員に6
対4の分配率)されたというが、映像に出てくる遺族の証言では、漁船員への配分は
なかったと言っている。数百隻が被曝した事件は、日米関係が「対等」ではない状況
下で事後処理がなされ、それ以降、歴史の闇に紛れ込んでしまった。そういう知識を
踏まえて、映画「X年後」を観る必要がある。

高知県で高校の教師をしていた山下正寿さんは、高知県内の多くの漁船(被曝した漁
船は、東北から九州まで。うち、3分の1が、高知船籍だった)が、この水爆実験で
被曝していることを知り、第五福龍丸同様に調査すべきと痛感し、高校生たちに「足
もとから平和と青春をみつめよう」という「地域の現代史」ゼミナールを1983年
に開き、教え子たちと一緒に学び始めた。さらに、1985年以降は、漁船の乗組員
たちを捜して、被災状況や健康状態の調査を始めた。その結果、多くの漁船員たち
が、40歳代、50歳代で、癌を患い、若死にしていることが判って来た(消息が分
かったのは、241人、うち、3分の1が、既に死亡していた。その後も、病死する
人が多かった)。

四国・愛媛県の松山市にある南海放送のディレクターが、山下先生らの活動を知り、
8年前の2004年から活動の様子などを描くテレビ番組を作り放送して来た。番組
は、2004年「地方の時代映像祭大賞」、2008年「地方の時代映像祭奨励賞」
受賞などを経て、2012年1月、日本テレビ系列の「NNNドキュメント」で「放
射線を浴びたX年後」というタイトルで全国放送された。さらにそれを再構成し、未
公開映像や新たな映像も加えて映画化された。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ、フク
リュウマル、そして…、という視点で。

映画は、生き残り漁船員の今を描き、定年後の生活をこの調査に捧げている山下先生
や生き残った漁船員が、かつての仲間の消息を頼りに、訪ね当てた遺族の話を聞き、
資料を発掘して行く様子を描く(「放射性物質による白血球減少症の疑い」という診
断を受けながら、広島、長崎の被爆者ではないという理由で、被ばく者健康手帳の交
付申請を却下された漁船員もいた)。また、南海放送は、アメリカの機密文書(アメ
リカエネルギー省が、1984年公開した)を検証して、新事実(水爆実験による放
射能の1日ごとの拡散状態を示す図。それによると、1954年の一時期、日本列島
全体が放射性降下物で覆われていたことが判るなど)を積み重ねて行く。被曝した漁
船員たちのX年後は、ほとんど鬼籍に入ってしまったが、それは、フクシマのX年後
を二重写しにして来る。

映像の中で、亡くなった漁船員の妻が言う。福島の原発事故以来、政治家や専門家と
称する人たちが言うことは、私らが感じることと違うことばかりだという。彼らは、
いつも言うことが、一緒(同じことばかり言う)。という趣旨の言葉が、印象に残っ
た。この映画は、9月15日より東京の「ポレポレ東中野」、愛媛の「シネマルナ
ティック」で、ロードショー公開した後、順次全国公開予定という。
- 2012年7月19日(木) 11:46:35
7・XX  脱原発10万人集会(7・16)

きのうは、東京の代々木公園とその周辺に集まった17万人の輪の中にいた。代々木
公園の近くには、JR、メトロ、私鉄の、大雑把に言えば、3つの駅があるが、午後1
時からの集会を前に、どの駅も午前中から大混雑であった。私たちは、メトロの代々
木公園駅で降りた。ホームから階段を上がって改札口へ辿り着くのにも、時間がかか
る。地上へ出ると、もう、人の波。

昔の代々木深町交番(今は、代々木公園前交番)から、原宿へ抜ける道を上ることに
したが、会場に近づくだけでも、のろのろ歩きで、時間がかかる。集会後のデモ行進
(最近は、パレードというけれど、「デモ」でなぜ悪いのだろう)が、午後1時半か
ら3つのコースに分れて出発するというので、今回は、最初から集会の会場には入ら
ず、会場を横目で見るだけで通り過ぎ、代々木公園の緑陰をゆっくりと辿って、明治
公園(代々木公園から3キロのデモ)へ向かうコースの先頭集団に入ることにした。 

途中、代々木公園に入って、軽い昼食をとるために、小休止。暑い日差しが照りつけ
るので、日射病、熱中症に要注意。主催者側も、水分補給をと訴えている。「もう、
2リットルも呑んだ」と、人ごみの整理に声を枯らす男性は、水分補給、帽子、タオ
ルなどについても参加者の注意を促す。風があるので、緑陰は涼しい。家族連れなど
ピクニック気分でなかなか宜しい。

1時半過ぎから、デモ行進が始まる。原宿駅前から、表参道、青山通り、外苑西通り
を辿って、明治公園へ。原宿駅前の歩道橋の上には、大勢の人が鈴なりになって、デ
モ行進を見つめている。警察の警備陣は、指揮者に女性警官を乗せて、「交通量の多
い通りを通行します。交通安全のためにも5列を守って下さい」と言う。「交通安全
のためにも」の「も」に、警備陣の本音が滲み出ている。歩いて、声を出して、沿道
の人たちに思いを伝えるというのは、最も、素朴な意志表明だ。庶民は、こういうこ
とぐらいしかできないが、大勢集まれば、こういうこともできるという思いを抱きな
がら、長々と続く行列の中にいた。大きな道路との交差点、曲がり角、横断歩道など
で、止められるので、自分のペースで歩けないという「行進」は、結構疲れるもの
だ。 

午後3時過ぎ、無事、明治公園着。流れ解散で、公園内に入ってゆくところで、警察
の指揮者に乗っている若い男性警官が、えらそうに命令口調で指図をする。路上の警
官たちも、その「指揮」に従って、無用の規制をする。集会とデモ行進を主催した団
体の中年の男性が、警察の「指揮ぶり」に注文を付ける。主催者が、気を使って、混
乱がないように「流れ解散」の整理をしているのに、警官が、デモの隊列に無用の渋
滞を起こしているのは、どういうことかと、マイクを通じて、叱りつける。「そう
だ、そうだ。十手を持っているからって、偉そうな物言いはするな」と、同調し溜飲
を下げる。「溜飲を下げて」空いたスペースに、早く、ビールを入れたい。 

明治公園では、「赤旗」が号外を配っていて、早くも、集会とデモ行進の記事や写真
を満載した新聞を配っていた。それに比べると、翌日の新聞朝刊は、写真も記事も少
なすぎるのではないか。 

去年の原発事故以来、多数の集会が開かれているが、主催者発表で17万人(警視庁
の発表でさえ、7万5000人。警視庁は、面積辺りの人数を数え、会場などの広さ
を倍数ととして、人数を推定しているから、正確とは言えない)という、過去最大の
盛り上がりとなった割には、NHKの夜のテレビニュースは、オーダーがおかしかっ
た。
- 2012年7月17日(火) 10:16:58
7・XX  「幸四郎と観る歌舞伎」(小野幸惠著)

高麗屋幸四郎さん(以下、敬称略)から「幸四郎と観る歌舞伎」(小野幸惠著)とい
う本が送られて来た。

弁慶役の真髄として、1000回勤めた「勧進帳」、大星由良助を演じ続ける「仮名
手本忠臣蔵」、「十六年はひと昔、ああ、夢だア、夢だア」の,熊谷直実の科白の度
に涙が滲む「熊谷陣屋」など、28の演目が掲載されている歌舞伎案内の本だ。

それぞれの演目の観どころ、登場人物と粗筋の紹介、エピソード、藝談、幸四郎のイ
ンタビューなどで、構成されている。

歌舞伎座のさよなら公演、そして、来春から始まるこけら落とし公演、若い女性客が
劇場に足を運び、一見ブームに見える歌舞伎だが、高麗屋は現在の歌舞伎に危機感を
抱いている。「演劇としての歌舞伎」と「荒唐無稽な歌舞伎」が、本当の「大」歌舞
伎を育てるための2本柱だと高麗屋は言う。

ところが、現在の歌舞伎は、「台詞ひとつ、演じ方ひとつとっても、本物の歌舞伎か
ら逸脱しかかってい」ると言うのだ。

高麗屋の言う「本物の歌舞伎とは、なにか」。古いままきちんと演じて、それが新し
いと感じさせるということだろう。過去の古典の持つ普遍性をきちんと伝承しながら
演じることで、現在から未来へと繋がる普遍性の幅を広げること。私は、そのように
思いながら、今、「幸四郎と観る歌舞伎」という本を読んでいる。
- 2012年7月11日(水) 21:08:32
6・XX    『王の挽歌』大友宗麟の足跡を訪ねて 〜角力灘から日向灘へ〜


*移動する!
 長崎、佐賀、福岡、熊本、大分、宮崎。今回の旅で足を踏み入れたのは、鹿児島を
除く九州6県だった。まさに、大友宗麟の大版図とほぼ同じ。バスの走行コースは、
九州の地図にアラビア数字の「7」を書いたような感じだった。

*飛ぶ!
 羽田から長崎へ。ANA便で飛ぶ。長崎の大村空港からバスで移動。まず、角力灘に
面した長崎・外海(そとめ)の遠藤周作文学館へ。第7回企画展のテーマは、「遠藤
周作と長崎」。


*バスは走る!
 バスは北部九州を西から東へ九州自動車道を走る。途中、九バスのなかでに参加者
全員で『王の挽歌』(1992年刊)の作品解説セミナー開催。文藝評論家の高橋千剱
破さんが大友宗麟を軸に大友三代記論(義鑑よしあき・義鎮よししげ=宗麟・義統よ
しむね)、研究者の山根道公さんが周作実父・常久(銀行員退職後筆名・「白水甲
二」で宗麟論「きりしたん大名 大友宗麟」を書く)と息子・周作を絡めて親子論じ
る(『王の挽歌』の最終章は、「父と子」がタイトル)、作家の加賀乙彦さんがザビ
エルの視点を強調し宣教師論(節目節目に引用される複数の宣教師たちの書簡を元
に)を踏まえ多重的な作品構成が特徴という解説。具眼の士たち三者三様でとても興
味深かった。バスは日田ICで下車、熊本県と大分県の県境がホテル内にあるという杖
立温泉の旅館に到着。

*観る!
 『王の挽歌』を訪ねる旅の本番を前に竹田城下町と臼杵石仏を訪ねたので、簡単に
書いておく。20日、生憎の曇り空、杖立温泉からくじゅう連山の雄大な景色を楽し
みながら竹田へ向う。黒川温泉入り口のバス停には寅さんのロケ地という看板(あ
あ、あのシーンだ!)。竹田では武家屋敷や歴史の道、岡城趾などが見ものだが、今
回は武家屋敷の風情を楽しみながら散策。鶯の声を聞きながらやや急な坂を登ると、
住宅地の裏山に「かくれ切支丹(遠藤表記)」のための「キリシタン洞窟礼拝堂」が
ある。地元研究者の説明を聞きながら見学。岡藩には8000人から最大で15000人の
信者がいたという。洞窟礼拝堂は宣教師を保護するために岡藩の家老が1617年頃に
建設したと推測されている。礼拝堂は建物の断面図のような形で、岩に彫り貫かれて
いる。入り口から4メートル奥には祭壇がある。岡城趾は、山城なので、登らなけれ
ばならないので、省略。
 竹田から途中吉四六大橋を渡って臼杵の石仏へ。凝灰岩に直接彫り込んだ国宝の磨
崖仏群(60余体)が新緑の美しい山裾に分散している。平安時代後期から鎌倉時代
の作という。山王山石仏が気に入った。邪気の無い童顔で「隠れ地蔵」と呼ばれる。
この後、臼杵市中心街にある臼杵城へ。

*追う!
 宗麟の足跡を追うバス巡行の順序とは異なるが、本番セミナーなので、史実の時系
列順に記したい。

1)大分の大友館跡へは臼杵ICから東九州自動車道・大分自動車道を経て大分ICで下
車した。豊後府中の館は、住宅地に埋もれていた。大分市上野丘西。天満社の鳥居を
潜り石段を登ると館跡を示す石碑と教育委員会の説明板がある。登ったところは土塁
の遺構。説明文によれば、東西130メートル、南北150メートルの敷地が館跡だとい
う。ざっと*2万平米。現在地が南の土塁の東端と判ると、土塁の北側に二階建ての
館が広がっていたことを想像する。今は住宅地の家並が続く。大友宗麟の父らが「二
階(楷)崩れの変」で横死し、家督を継いだ宗麟はその後居を臼杵に移す。

2)臼杵城趾は現在陸続きだが、本来は臼杵湾の丹生(にゆう)島に1556年築城さ
れた。1559年宗麟は豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の守護職となり、日向、
伊予のそれぞれ半国も支配した。優秀な家臣団と海外貿易で得た富が宗麟を支えた。
古橋を渡り、ヘアピンカーブの急な鐙(あぶみ)坂を登る。小高い丘の上には明和年
間再建の畳櫓、11年前再建の大門櫓があり、時鐘櫓跡が鐘楼になっている。二の丸
跡には宗麟の青銅レリーフ。本丸跡は運動公園になっている。

3)この旅のハイライト、無鹿(むじか)は21日に訪問。別府から車で2時間半。
きのう通った大分自動車道を途中まで戻り、国道10号、326号を通り延岡の無鹿へ。
途中、「唄げんかの里」(子守奉公の子どものふるさとで過疎の村)宇目(うめ)に
ある「唄げんか大橋」を渡り、水位の下がった北川ダムから下流の無鹿を目指す(宗
麟軍の敗走のコースを逆に行く格好だ)。ダムの下の河原は久住山の噴火で出来たと
いう大岩がゴロゴロしている。1578年日向に進攻した宗麟は私たちとは逆コースで
海路、白地に真紅の十字架の旗を掲げた船で臼杵から延岡入りをした。北川沿いのム
ジカ(務志賀)の丘陵地に陣屋を構え、古い寺を壊した跡に仮会堂を建設した(後
に、邪宗を受入れ、仏教をないがしろにしたと非難される)。宗麟はこの地に切支丹
の「汚れのない理想王国」をつくろうとしたという。
 延岡からバスに乗った遠藤周作が降り立ったバス停前で私たちもバスを降りる。北
川にかかる川島橋の脇の右にカーブした坂を降りる。住宅の塀にトケイソウが咲いて
いる。北川は左へゆったりとカーブしている。暫くして道を右に曲がると右側に妻耶
(つまや)大将軍神社がある。石段を上って東50メートル先に見える小高い丘が宗
麟の陣屋跡という。住宅の密集した辺りにこんもりとした森が見える。それが陣屋
跡。私有地に囲まれていて道が無いので登れない。見えないが、北川は、急角度でさ
らに右にカーブして流れている。その向うに東海(とうみ)山がなだらかな山稜を示
す。さらにその向うは日向灘だろう。

4)耳川(*みみがわ)を渡る。午後0時50分、無鹿から国道10号を宮崎空港へ向
う。1時間ほど行くと日向灘に注ぐ河口が耳川だ。宗麟が日向進攻、無鹿に陣屋を建
ててから僅か2ヶ月。この地で島津にやぶれ、ラテン語の音楽という意味で名付けた
無鹿王国というユートピアも消え去った。耳川は、『王の挽歌』で描かれたように、
雨だった。                              (了)

- 2012年6月30日(土) 17:19:41
6・XX * 写真展「重々」

先の戦争中、侵略する日本軍とともに戦地を転戦する従軍慰安婦と呼ばれる女性たち
がいた。「慰安婦」とは、売春行為をさせられた女性たちのことである。「慰安」と
は、ここでは、戦闘行為で疲弊した軍人の「性欲」を慰安し、戦闘意欲を恢復すると
いう意味であろう。名古屋在住の韓国人の写真家・安世鴻(アンセホン)さんは、帰
国できず、望郷の念に苦しむ中国在住の元従軍慰安婦の朝鮮人女性たちの、その後の
写真を撮り続けて来た。各地で、写真展を開いたり、写真を持ち回って、講演会を開
いたりしている。

今回は、6月26日から東京・新宿のニコンサロンで、「重々」というタイトルで写
真展が始まったので、見て来た。会場には、安さんが撮影した37点の写真(モノク
ロ、全て、無題)が展示されている。年齢が80歳から90歳くらいのおばあちゃん
たちが被写体である。「元従軍慰安婦」だったという経歴を持つ高齢の女性たちを捜
し出し、撮影をするということで、安さんは、ここ10数年、中国に何度も渡ったと
いう。

女性たちは、自宅(あるいは、自室、あるいは、施設の部屋か、病室か)の内外で、
撮影されているようだ。そのうちの施設「道河鎮敬老院」という、おそらく、老人
ホームと思われる建物をバックに老女が写っている写真があった。この老人ホームに
は、被写体の女性のほかにも、「元従軍慰安婦」だったという経歴を持つ女性がいる
のかもしれない。室内写真は、場所が特定しにくい。戦後も置き去りにされ、中国籍
に替えた人もいる。「中華人民共和国許可入籍証書」という書類をカメラに向けてい
る女性もいる。証書には、「姓名、年齢、職業、原国籍、随同入籍人…」などが記入
されている。1957年3月2日という日付があり、中華人民共和国内務部部長(氏
名、印)がある。

顔には深いしわがあり、粗末な衣装を着ている人が多いように見受けられる。中に
は、撮影のために、とっておきの衣装を身にまとったと思われる女性もいる。点滴を
受けて、横たわっている女性もいる。晴れ着のチマ・チョゴリに身を包んでいる女性
もいる。自室とおぼしきところで、安さんを接待したのだろう、スイカや判別できな
いが果物やお菓子のようなものを4枚の皿に載せて出している。4枚の皿の真ん中に
ペットボトルがあるのが、現代風だ。おばあちゃんは、昔の苦労話をしていて感極
まったのかもしれない。流れ出た涙を拭いているのだろう、布で隠された顔の表情は
判らない。苦渋の涙を流す別の女性の表情をアップした写真もある。

チマ・チョゴリの女性は、屋内と屋外とで写した2枚の写真になっている。屋外で
は、彼女の背景に、彼女が暮らしていると思われる街の光景が写し出されている。貧
しい街並だ。このほかの屋外の写真では、被写体は、皆、別々だが、やはり貧しい家
が写っている路地、石ころが多い荒れた畑、森の見える河原など。戦時中も苦労をし
ただろうけれど、彼女たちの戦後の暮らしも決して楽ではなかっただろうと推測され
る。いや、現在の生活だって、大変そうだ。壁に貼った故国朝鮮半島と中国の地図を
手で触っている女性。望郷の念のなせる姿だろう。施設というより、アパートの2
階、階段の階上から安さんを寂しそうに見送っていると思われる老女が写っている。
階上の手摺に掴まっている姿を振り向いた安さんが写真に収めたと思われる写真だ
が、この写真を見て私は、施設にいる実母(90)の姿と二重写しになって見えて、
仕方が無かった。物質的に恵まれた老後を送っていても、老後は、寂しい。この世代
は、先の戦争中に「青春」を送っている。いずれにせよ、戦争に運命を大きく
左右された世代だ。

若い頃、姉妹で取ったのだろうか、幸せそうなふたりの女性を写した写真を安さんは
撮影している。道路に置かれた家族と思われる人々が写された一枚の写真を安さん
は、撮影している。現在と過去の落差。そう言えば、女性たちの部屋に飾られた写真
も、私の興味を引いた。多数の家族の写真を一枚の額に収め、それを壁に飾っている
人が何人かいた。雑誌のグラビアから切り抜いたと思われる「スター」(だろう、
「アイドル」という感じではない)の写真も貼られている壁もあった。

屋内外を問わず、煙草を吸っている女性たちの姿が写っている写真が、何枚もあっ
た。「朝鮮人」の女性たちは、煙草が好きなのか、元従軍慰安婦時代からの嗜好が続
いてしまったのか、判らないが、日頃、私の身近で見かける老女で煙草を吸う人がほ
とんどいないので、そういう「感想」が脳裡をかすめた。そう言えば、私の子どもの
頃のおばあちゃんは、煙草好きが今より多かったように思う。なにか、タイムスリッ
プしたような気分になった。安さんが撮影した後、亡くなってしまった女性も多いと
いう。生き証人たちが消えて行ってしまう。

安さんの写真は、「元従軍慰安婦」という女性たちの歴史を顔に刻んだような表情を
巧く切り取っているが、写真の背景に写っている、さまざまな、いわば「小道具」の
扱いも巧いと思った。画面に偶然入ったということではなく、巧に計算をして取り入
れているように感じた。それが、彼女たちの生活ぶりを静かに主張している。

無題の写真ばかりで、文字情報の無い会場に飾ってあった唯一の文章から書き写して
みよう。安さんからのメッセージである。

「写真の中で真実を探し出すことほど、難しく、そして楽しいことはない。目に映る
ものごとは異なる内面の真実を写真におさめるために、撮る対象との繋がりを作って
いく。ハルモニたちとの縁は偶然のものではない。(略)彼女たちはここからどこへ
行かなくてはならないのか、歴史の裏道へと散ってしまうのだろうか。安世鴻」

この写真展は、東京・新宿のニコンサロンで、7月9日まで開かれている予定だが、
報道された事情により、開催中止か開催かが直前まで不透明で、東京地方裁判所の仮
処分にゆだねられた経緯(未だ、係争中)があるので、見に行かれる人は、事前にニ
コンサロンに問い合わせた方が良いかもしれない。
- 2012年6月30日(土) 11:21:17
5・XX  * 青年劇場「臨界幻想2011」

1981年に東京で初演(ふじたあさや原作、千田是也演出。1982年2月から4
月、全国公演)された原発事故の芝居が、1986年のチェルノブイリ原発事故、2
011年福島原発事故を経て、2012年5月、再演(ふじたあさや作・演出)され
た。演出は、「時:現在、もしくはかつての未来」「所:主に日本のどことも知れぬ
地方の原子力発電所」という想定だそうだが、福島を推測させる方言の科白でやり取
りされる。原発で働く青年が死んだ。医者が母親に告げた死因は、心筋梗塞というこ
とだった。将来性のある企業に憧れ、原発に就職して7年目で亡くなってしまった。
残された母は、心臓など悪くなかったという息子の死因に疑問を持った。息子を思う
母親の愛情が、母親の原発に対する知識を増やし、原発への疑問を深め、会社の責任
を追及するようになるという物語。その挙げ句、原発は、事故を起こす。見えない放
射能がまき散らされる中、芝居は、幕を閉じる。そして、芝居は、2011年3月1
1日以降の福島の現状に繋がって行く。ふじたあさやは、アメリカのスリーマイル島
の事故の後、原発事故を扱った芝居を発想したという。東海村の実験炉や福島原発も
取材した。原発という労働現場で働く期間労働者の体験談の本も読んだ。本工、下請
け労働者、孫請け労働者の目を通じて、原発の現場を描く。安全基準無視の下請け、
孫請けの経営者との確執。放射線被曝による労働者の健康被害。安全神話の虚構性。
廃棄物処理の杜撰さ。原発周辺にばらまかれる現ナマ攻勢。神話の嘘くささ、現実の
生臭さ。そして、最後には、原発事故発生へと場面は展開する。

初演時の演出がどうであったかは知らないが、好評であったらしい。翌1982年の
全国公演では、原発の所在地や誘致予定地を軸に24ヶ所で、巡演された。上演妨害
もあったという。

以来、30年ぶりの再演である。「(台本を)読み返してみたが、基本的に直す必要
がないのが口惜しい」とは、原作者のふじたあさやの弁。「三十年前にわれわれが舞
台から警告したことが、何一つ改められていないではないか」。ふじたらは、去年の
秋、ウクライナの首都・キエフにある「チェルノブイリ博物館」に行ったという。私
も今年の4月にチェルノブイリ原発周辺の規制区域に入り、事故を起こした原発の4
号機の間近まで視察に行った際、キエフの「チェルノブイリ博物館」も、訪れた。博
物館は、チェルノブイリの悲劇を繰り返さないようにと、事故を再現する部分と事故
直後の処理作業に従事させられて犠牲になった退役軍人や消防士、警察官などの遺品
や身分証明証、写真などが展示されている。博物館の入り口附近には、日本語とウク
ライナ語(ロシア語に似ている)で書かれた「キエフの栗の木から日本の桜の木へ」
が、モニュメントや千羽鶴とともに飾られている。日本の被災者、犠牲者へのメッ
セージである。

ふじたあさやは、劇中で、国会議員を登場させて1950年代の国会論議を再現す
る。茨城県の東海村の実験原子炉で事故が起きたことを想定する報告を元に岸内閣の
対応を質している。当時の国家予算のおよそ2倍という被害想定額に驚愕した岸政権
は、「想定外にしよう」と、葬り去ったという。日本の政府の対応は、最初の実験原
子炉から、ボタンをかけ違えて来たということだ。肝腎なことは周辺住民や国民に知
らせないという権力側の姿勢は、初めから変わっていない。これを忘れてはいけない
と舞台からのメッセージが客席に確実に届く。

3月の被災1年の追悼の日では、福島原発30キロ規制(当時)区域に隣接する福島
南相馬市の現場を訪ねた。地域社会が、産業だけでなく、教育現場、家庭などを含め
て、立体的に、ずたずたにされていることを私は感じた。その思いは、福島の事故に
25年先行するチェルノブイリ周辺でも、今も、変わらないという現実に直面をし、
福島の未来に危惧の念を感じて帰国した。25年程度では、1年の福島の現実と余り
変わりがないという実感は、私の体内の底から身が震えるような不安感を湧出させ
る。ふじたあさやは、自分が30年前に「臨界幻想」と題して、「おずおずと」(違
うかもしれないが)差出した「幻想」であって欲しいという思いが、残念ながら「臨
界現実」として突きつけられた思いをしていることだろう。しかし、改めて、舞台か
ら警告し続けなければならない現実が控えている。「おずおずと」など、言っていら
れない。

今回は、原発事故だけでなく、福島周辺では地震(津波)の余震が、未だに続いてい
る。大きな余震(津波)があれば、壊されたまま放置されている福島原発の複数の原
子炉は、いつでも、地獄の釜の蓋を開けようと「待機」している状態なのだ。「待機
解除」に至らなければ、今回の原発の後処理は終わらない。全国に54基(福島の4
基を除くデータがマスコミを通じて出回っているが、廃炉になっていない4基をなぜ
除いて平気なのか、マスコミの神経を疑う。肝腎なことを国民に伝えないという権力
の姿勢に同調しているだけだ。社会の「窓」だった筈のマスコミが、いまや、社会の
「壁」になりさがってしまった)ある福島を含めた原発は、地震列島の上に林立して
いて、いつでも、福島原発の後に続きかねない状況が継続されている。

チェルノブイリでは、事故を起こし廃炉にされた4号炉の廃炉管理のために、被曝量
を管理された作業員が、交替しながら、今も常時、3000人が滞在している。廃炉
管理は、簡単には済まないのだ。チェルノブイリでは、4号炉は建屋がコンクリート
で固められた「石棺」(窓のないコンクリートの塊という建造物)に覆われている
が、廃炉になっても、原子炉の中にある高熱で溶けた核燃料物質を取り除き、安全な
場所に保管するというような措置をとらない限り、事故処理が終わったとはいえな
い。チェルノブイリは、まだ、事故処理が、現在進行形であった。 事故を起こした
4号炉をコンクリートの「石棺」で固めたものの、20数年経って、コンクリートの
劣化とともに、ひび割れや崩落が始まっている。廃炉の手順も、未だ進行中で、いつ
対応策が完了するのか、先行きも見えていないというのが実情だった。

老朽化した石棺の近くでは、石棺の上を新たに覆うためのシェルターづくりが始まっ
ていた。シェルターは、鉄骨を組み立て、この骨組みにパネルを組み合わせて、カマ
ボコ型にするという。高さ105メートル、幅257メートル。4号炉に隣接する敷
地でレールに載せたまま組み立て、完成後レールの上を移動させて、4号炉に被せよ
うという工事だ。このシェルターの耐用年数は、100年という。シェルターの完成
は、3年後の2015年を予定している。

ロシアの民芸品の人形で、「マトリョーシカ」がある。人形の中に、段々小さくなる
相似形の人形がいくつも入っている。つまり、入れ子構造になっている「だるま」の
ようなかたちをした人形だ。「マトリョーシカ」という女性の名前で判るように女性
をかたどったものが多い。原発の廃炉も、逆の入れ子構造にならざるを得ないのかも
しれない。建設を始めたシェルターも、いずれは、今の石棺同様に老朽化してくれ
ば、また、その上に新たなシェルターを被せなければならないかもしれない。キリが
無い作業をチェルノブイリは、強いられているのかもしれない。

4月27日の新聞報道によると、ウクライナ当局は、4号炉の解体は、さらに5年後
の2020年からの予定で、約10年かけて解体を終える計画だという。メルトダウ
ンし高熱で溶けた核燃料物質が固まって出来た「ゾウの足」と呼ばれる物質の取り出
しは、今から30年後を目処に着手するという。原子炉から「ゾウの足」の摘出が完
了するのは、さらに60年ほどかかるという。そういう現実は、日本人は、どれだけ
知っているのか。

こういう現実を前に、青年劇場の舞台を見ると、この芝居は、今も、いや、未来に
亘って、30年前の役割を果たし続けなければならないということが、ひしひしと伝
わって来た。多くの人に観て欲しい舞台である。

初演時の千田是也の演出写真から見ると、今回は、大道具がかなり抽象化されたよう
だ。原発の「檻」のようなイメージのネット(野球場のバックネットのようなもの
が、舞台の上手、下手、奥を覆っている)が、抽象化された舞台中央(手術室になっ
たり、茶の間になったり、原発=日電という=の事務所になったり、街路になったり
する)では、さまざまな場面が演じられる。ネットの外、特に、上手と下手には、ほ
ぼ常時俳優たちがいる。観客のように舞台を観ているように見える。終幕近く、原発
事故発生の場面後、客席の通路から防護服を着た男たちが、ネットの後ろや客席にい
る私たちに退避勧告をするために乗り出して来る。客席の私たちも、「あすは我が
身」という「悪夢」を忘れてはならないだろうと思った。
- 2012年5月23日(水) 11:40:22
5・XX  2012年4月・チェルノブイリ報告


廃都

ウクライナのチェルノブイリで、原発の爆発事故が起きたのは、26年前、1986
年4月26日の未明だった。当時、ウクライナは、旧ソヴィエト連邦の一つだったの
で、社会主義体制下で言論統制がしかれる中、事故処理がなされた。住民に正しい情
報が、迅速に伝えられず、初めて体験する原発事故ということで政権側の対処も適切
に行われなかったことから、甚大な健康被害をもたらすことになった。 

特に、その後、幼児たちを中心に甲状腺に癌が発症した。当時、0歳から18歳の青
少年たちが、生育するに連れて癌患者が増え続け、2009年現在で、6029人が
甲状腺癌の手術を受けたという。 

爆発事故は、土曜日の未明に起きているが、周辺住民には、火事としか伝えられず、
暑い日だったこともあって、発生から避難までの1日半は、土曜日と日曜日の午前
中、窓を開けたまま過ごしていた人も多く、被曝の度合いを余計深刻なものにした。 

特に、チェルノブイリ原発から西へ3キロほどしか離れていない原発職員の家族が住
む街、つまり、「炭坑住宅」ならぬ「原発住宅」の街・プリピャチ市は、1970年
につくられた若い街であったが、原発事故発生の後、1日半で、皆、強制移住させ
ら、廃都となった。僅か、16年の命しかない街になってしまった。 

当時のプリピャチ市の住民の平均年齢が、26歳という若い労働者の街だっただけ
に、ベランダから火災の様子を見ていた若い妊婦もいたという。若い母親は、その
後、様々な病気を発症し、生まれて来た子どもも胎内被曝をしていて、原発事故から
4〜6年経つと甲状腺が膨れ上がるなどの異常を示すようになった。単純にはいえな
いだろうが、フクシマも、後3年〜5年後に、チェルノブイリの「4〜6年後」を迎
える。強制的な移住の対象になった地域で胎内被曝をした子どもは、7歳児の健診で
は、ほとんどが健康ではなかったという(ウクライナ・キエフの放射線医学研究所の
話)。 


2012年4月(1)

2012年4月17日から23日まで、私たちはウクライナを視察した。このうち、
19日には、30キロ圏の検問所で許可証を貰う。チェルノブイリ国家委員会のメン
バーが、車に同乗して来る。さらに、10キロ圏の検問所も通り、原発の敷地に近づ
き、20日までの2日間に亘って、圏内に止まり、今も廃炉関連作業で多くの人が働
いているチェルノブイリ原発も間近に見て来た。国家委員会のメンバーは、30キロ
圏の案内人も兼ねていて、2日間、私たちを監視・規制をすることはほとんど無く、
可能な限り便宜を図ってくれたと思う。

30キロ圏の内側に入ると、まっすぐ原発に通じる道は、どこまでも直線の道路だ。
その道路を疾駆する間、車窓から見える光景は、荒涼とした平野の向うに森は見える
ものの山塊は一切見えず、原発事故さえ起こらなければ、豊かな穀倉・酪農地帯で
あっただろう。山塊の島国である日本とは大違いの恵まれた土地だったことが知らさ
れる。この地形では発電としては、水力は考えられず、火力か、風力か、ということ
なんだろうと思う。そういえば、ウイーン空港に着陸する前、航空機の窓からは、多
数の風力発電施設が見えた。ウクライナは、どうなっているのか。 

さらに核心に向けて車は進む。原発から3キロ離れ、事故後、廃都となったプリピャ
チ市も訪れ、避難以来26年振りに自宅だった場所を訪れたという婦人らと共に、芽
吹いたばかりの新緑の雑木林に占拠された街のかつての目抜き通りも歩いてみた。2
6年前以前は、目抜き通りだったという証拠に、雑木林の中には不似合いな街路灯
が、点々と残っている。街路灯を越えて、街路樹は、かつての目抜き通りの中まで浸
食しているのだった。

彷徨する婦人たちに連れられて、私も不思議な空間の迷路に踏み込んだ。 

雑木林という「紗の幕」越しに、舞台の大道具のような職員住宅という書割が見え、
舞台からは、平穏なころの街のざわめき、あるいは、爆発事故から避難までの喧噪の
うなり声などが、聞こえてくるような気もしたが、目を凝らすと書割と思ったのは、
壁や窓が崩落している侘しげな廃屋だと判り、放射能にまみれた土壌にしっかりと根
を張った樹木が、アスファルトに裂け目をつくり、とんでもない場所からはい出して
いるのだということが判る。 

耳を澄ませば、いくつかの野鳥の声が、雑木林のあちこちから聞こえて来るばかり
で、幻影のような廃屋街には、静寂が襲いかかり、見える人影も婦人とともに幻の町
を彷徨う私たちだけだった。

原発城下町の5万人の人々がすべて消えてしまった廃都は、昼間だから歩けるもの
の、夜間になったら、そこにいるだけで、恐怖に襲われそうな気がする。叫び出し、
逃げ出すにしたって、真っ暗で、道も判らず、一晩を過ごすことも出来ずに簡単に発
狂してしまいそうで、心底不気味だった。

 プリピャチ市は、原発の西側にあり、事故の後、高い濃度の放射能を含んだ雲が、
プリピャチ市へ通じる道路と橋の上を通過したようで、道路沿いの松林は、一瞬でオ
レンジ色に変わってしまい、そこは、「オレンジの森」と呼ばれようになったとい
う。


「安全神話」=「神風神話」の夢の跡

日本は、自ら仕掛けた戦争に負けて、平和で安全な生活が、如何に大事かを学んで戦
後の再建に乗り出したのだろうに。その戦後は、原発54基(事故を起こしたフクシ
マの4基も含む)に象徴されるように、戦前の「神風」同様の、根拠の無い、あるい
は、ねつ造された「安全神話」に寄りかかり、地震列島の上に多数の原発を張り巡ら
してしまった。 

ひとたび、「安全神話」が崩れてみれば、そこは、戦後の焼け跡よりもひどい荒廃の
地になってしまった。フクシマでは、見て見ぬ振りをしているようなことも、チェル
ノブイリに行ってみれば、いやでも、眼前に見せつけられる。
 

廃炉管理の難しさ

26年前に発生したチェルノブイリの原発事故の現場は、廃炉になっても、原子炉の
中にある高熱で溶けた核燃料物質を取り除き、安全な場所に保管するというような措
置をとらない限り、事故処理が終わったとはいえない。チェルノブイリは、まだ、事
故処理が、現在進行形であった。 事故を起こした4号炉をコンクリートの「石棺」
で固めたものの、20数年経って、コンクリートの劣化とともに、ひび割れや崩落が
始まった。廃炉の手順も、未だ進行中で、いつ対応策が完了するのか、先行きも見え
ていないというのが実情だった。

私たちは、事故を起こした4号炉の200メートルのところまで近づいた。大気中の
放射線量を測ると、4〜5マイクロシーベルトという数字が、表示された。老朽化し
た石棺の近くでは、石棺の上を新たに覆うためのシェルターづくりが始まっていた。
シェルターは、鉄骨を組み立て、この骨組みにパネルを組み合わせて、カマボコ型に
するという。高さ105メートル、幅257メートル。4号炉に隣接する敷地でレー
ルに載せたまま組み立て、完成後レールの上を移動させて、4号炉に被せようという
工事だ。このシェルターの耐用年数は、100年という。シェルターの完成は、3年
後の2015年を予定している。4月27日の朝日新聞によると、ウクライナ当局
は、4号炉の解体は、さらに5年後の2020年からの予定で、約10年かけて解体
を終える計画だという。メルトダウンし高熱で溶けた核燃料物質が固まって出来た
「ゾウの足」と呼ばれる物質の取り出しは、今から30年後を目処に着手するとい
う。原子炉から「ゾウの足」の摘出が完了するのは、さらに60年ほどかかるとい
う。総工費は、約1620億円。当初想定の2倍近いという。

チェルノブイリ原発では、事故を起こした4号炉のほかに、事故当時は、1号炉から
3号炉があり、さらに5号炉と6号炉が建設中で、90パーセントの完成度であった
という。未完成の5号炉、6号炉を含めてすべて廃炉にされた。


五十歩百歩

いずれにせよ、チェルノブイリの先行例を見ると、ひとつの原子炉廃炉の手順でも、
100年の計であることが判る。このことから、フクシマとチェルノブイリの25年
くらいのタイムラグでは、五十歩百歩、非常事態省が管轄するチェルノブイリも緊急
事態真っただなかのフクシマと変わらないということが判った。チェルノブイリで事
故を起こしたのは、4号炉だけだったが、フクシマは、1号炉から4号炉まで4基の
原発が事故を起こしている。原発維持派と脱原発派では、事故の認識について考えは
変わるだろうが、いずれにせよ、どっちが、五十歩なのか、百歩なのか、判断は難し
いだろう。 

逆に言えば、チェルノブイリの試行錯誤を学んで、もう少し上手にフクシマで対応で
きたとしても(対応するのが、人類共通の智恵だろう)、やはり、25年や50年が
経っても、まだまだ、先行き不透明なのではないだろうか。この目でチェノブイリ5
0年後、フクシマの25年後を見てみたいと思うが、私の年齢では、90歳、100
歳まで長生きしないと無理。フクシマでは、本当に、人類史上、千年万年の対策が必
要な事故を起こしてしまったのだということをチェルノブイリの現場で、つくづく感
じた。 
 

経済性とは?

廃炉になった原発の管理にも多数の人々が、年間被曝量をコントロールするために、
つまり、一人当たりの年間の被曝量が越えないようにしながら一定期間の就労を繋ぎ
合わせて、交替で現場に入り、今も作業を続けている。廃炉も、簡単には出来ないの
だ。

石棺の莫大な建設費ばかりでなく、今後の管理運営の費用も見込めば、いったい、い
くらかかるのだろう。一部の国土は、住めなくなった。いつまでこの状態が続くの
か。失われた地域社会の本来の生産性(逸失利益)を考えれば、その損失は、無限大
に、永続的に、可及的に増え続けるのではないだろうか。「経済的にも、原発がコス
ト安」などという主張は、「安全神話」とは、また、別な新たな「神話」ではないだ
ろうか。 


2012年4月(2)

10キロ圏から外に出ても、30キロ圏の間には、強制的な移住対象地域である。こ
の地域にあるいくつかの廃村を通り過ぎる。この辺りの被災地は、ソ連当時、国有地
だったので、当局は、除染処理に莫大な経費を掛けるよりも、住民を追い出し廃村に
するという、「棄村」政策を取ったという。幹線道路から村に至る路は、バリケード
で封鎖されているところもある。幹線道路から垣間見える廃村は、いずこも荒れてい
る。雑木林の間に廃屋となった家々が見える。中には、屋根毎建ち崩れている家もあ
る。汚染の酷い地域では、建物を壊した上、地中に埋めたところもあるという。ウク
ライナ側の廃村は、全部で、168の市町村に及ぶ。40万人が、ふるさとを捨て
た。チェルノブイリ原発は、ウクライナの国境近くにある(事故当時は、ソ連邦とい
う一つの国であった)ので、隣接するベラルーシ、ロシアを合わせると、原発事故で
廃村になったのは、500の市町村を数える。

こうした地域の中には一旦移住したものの、移住先の生活に馴染めずに、あるいは、
移住先のインフラの不備、増えた家族の対応など、様々な理由で、元の家に戻って来
ている人たちが「お目こぼし(?)」で住む村もあるというので、住民のいる村を訪
れた。パールシフ村は、原発から15キロしか離れていない。

移住先の生活に馴染めず、廃村に戻って来て、自給自足で生活しているおばあちゃん
たちにも逢ってきた。事故直後、行政の指示に従って移住させられ、それまで飼って
いた家畜もどこかへ連れ去られてしまったという。青く塗られたドアや箪笥、家族の
多数の写真が飾られた居間でマリーア・ウルーパさん(77歳)は、「騙された。
1ヶ月で戻って来たら、ここで暮せた。移住しなければ良かった」と当時の実情を強
い調子で話していた。独居生活の友として同居している犬が、盛んに吠え立てる。

「お目こぼし(?)」の「帰村」に当たっては、地域を管理していた警察に一筆書か
されたというが、兎に角、戻れた。その村では、一時は、百数十人も生活をしていた
というが、その後、歳を取るとともに、おじいちゃんは、ほとんど死に絶えてしまっ
た。現在も残っている女性たちが、互いに助け合っているという。彼女は、独りにな
りながらも20数年間を立ち退き地域で暮して来たことになる。


除染の難しさ

フクシマでは、除染を済ませて帰還するということを政権は、宣伝しているが、除染
は、本当に効果があるのだろうか。実証試験によると、土壌除去で放射能をへらすこ
とが出来るのは、半分の効果も無いという。例え、一時的に住居地域の除染が出来た
としても、除染が出来にくい、あるいは、出来ない、周辺の里山や森の地面に沈殿し
ている放射能は、風が吹けば、里に流れ込んで来るだろう。森の除染では、土壌や落
ち葉層の除去をすると、土砂流失や斜面崩壊などの別の危険性も指摘されている。森
の土壌に含まれた養分や貴重な微生物も除去されてしまうと、生態系への悪影響も心
配される。

上流の放射能が次々と流れ込んで来る河川。河川から海に流れ込み、河口付近の水底
に堆積する放射能汚染土壌が、新たな問題になっているが、それと同様に、除染され
た住居地域には、新たな放射能が流れ込み、やがて、森や河川など周辺の地形とも均
一化してくるのでないか。

ウクライナでは、特に、森や山野の除染は、かなり難しいという話を聞かされた。除
染は、なんといっても、土壌汚染だが、これが厄介なことは、以上の指摘で判るだろ
う。その結果、除染、一時移住、除染後の帰村というプランは、ウクライナでは、す
でに放棄されている。

ウクライナでは、森の除染をあきらめて、環境モニタリングで、警戒している。つま
り、森の放射能を除くのではなく、放射能の移動を警戒しているのだ。除染しても除
染しても、河川を通じて、あらたな放射能が補給されているという。地面に堆積して
いる放射能も、強い風が吹けば、舞い散ってくる。警戒するのは、山火事などの二次
災害で、環境に残存している放射能が、煙とともに、改めて、広く、遠くへ飛び散る
のを防ぐだけだ。森林警備隊が、立ち入り禁止区域に常駐して、山火事を起こさない
ように、起きてしまったら、最小限度で消火するようにと警戒している。 というこ
とは、森の除染は、事実上不可能で、放射能の環境汚染をモニタリングしながら、2
次被害を予防するという対策が、除染や移住より有効だということを示しているので
はないかと思った。ソ連時代のウクライナの場合、「棄村」の方が、「除染」より安
上がりという面もあっただろうが、「除染+帰村」という、日本と同じような政策を
取っていたとしても、成功していたかどうかは、疑問だ。
 

2012年4月(3)

ウクライナの廃村では、屋根から崩れ落ちた建物や荒廃とした荒れた建物も目にした
が、森は、手入れがされていないため、倒木や枝折れした木々が、あちこちに動物の
遺骨のように横たわっていた。畦道も、人が通らないため、雑草が生い茂っている。
森の木々の間には、不気味な苔も破れた絨毯を敷き詰めたように生え茂っていた。ま
るで、ゾウの墓場ならぬ、森の墓場のように見えた。廃炉の原子炉には、ゾウの足、
周辺の廃村には、ゾウの墓。立ち退き対象地域に戻った村人たちも、森には近づかな
いようにしているという。特に、キノコの放射線量は、四半世紀経った今も、異常に
高い。

チェルノブイリの非常事態省の宿泊施設(プレハブの建物)で一夜を明かした翌日、
ふたたび、10キロ圏の検問所を出るとき、被曝量を測る機械に頭から足まで全身を
押し付けた結果、15マイクロシーベルト以下で、グリーンランプが付き、無罪放
免。30キロ圏の検問所でも、車総体の被曝量が量られ、これもクリアして、圏外に
出ることがゆるされたが、引っ掛かれば、除染をさせられる。


自主避難地域では、避難「継続中」

30キロ圏の外には、26年前の放射能雲の通過コースに当たったため放射能汚染が
酷かった地域では、自主的に避難しなければならない地域として区分けされている。
強制的ではないが、移住の対象地域だった。避難する人には、助成金が出るという。

原発から80キロ離れたオブルチ市を訪れた。現在も自主避難地域であるオブルチ
市。30キロ圏内の廃村地帯を抜けて、穀倉地帯に入っても、耕作をしている光景に
は、出会えない。東西南北を見渡しても、山一つ見えない平原が続く。道は、相変わ
らず、まっすぐだ。もともと、こういう幹線道路は、モスクワから治安部隊が出動す
る際、最短距離で来れるようにまっすぐにしたという。遠くには、森が見える。

オブルチ市に入ると、車が行き交う交差点で、荷馬車が割り込んで来る光景に出会っ
た。自転車に乗る人も多い。バス停に集う人たち。事故当時の人口9万5000人か
ら、現在は、6万人になった。3分の2の居住者は、当時から残ったままか、その後
生まれたか、一旦別の地域に移住して、それぞれの事情を抱えて戻って来た人たち
だ。オブルチ市では、市の衛生疫学研究所を訪ねた。ここでは、事故当時から現在ま
で、食品の放射能を測り続けている。「地産地消」の多いウクライナの農村地域で
は、地産の農作物の放射能監視が、ゆるがせに出来ない。特に、キノコ類は、当時で
10万ベクレルだったものが、今も7万6000ベクレルにしか下がっていないとい
う。キノコは、極端だが、ほかの食品は、当時の汚染度から見れば、10分の1から
100分の1に減っているという。しかし、ウクライナでは、日本のように全国から
流通経路がある訳ではない。自主避難地域に居住しながら放射能汚染の食品に怯えな
がら人々は今も生活している。

こういう地域では、受け入れ先の住宅の問題、病院や学校などのインフラの問題、家
族の問題などがあり、四半世紀経っても順番が回って来ず、移住のめどが立たないま
ま、地域に止まっているという事情も聞かされたし、一旦移住したものの、戻って来
た人たちもいるということで、移住問題も、現在進行形であることが判った。原発事
故後の処理は、まだまだ、終わっていないし、この先、いつ終わるのかの見通しも立
たないのが、実情のようだ。


不健康との出会いの旅

今回の旅では、いろいろな人に逢ったが、健康な人は少なく、病気に苦しんでいる
人、それも多重な疾患に苦しんでいる人、癌などの重篤な病気、様々な恢復の難しい
障害に苦しんでいる人などに出会った。

原発から西へ60キロ。30キロ圏外だが、強制移住の対象地域の、ナロヂチ市。こ
こでは、地区の病院を訪れた。特に、事故当時の幼児から青少年の世代も大人にな
り、その世代の子どもら(いわゆる二世世代)にも影響が出ている。障害者として、
月に日本円で1万円程度の年金は支給されながら、原発被害者として認定されている
訳ではなく、苦しい生活を余儀なくされている。障害者となってしまった「結果」
(体が、不健康ということ)に対する年金は、余りにも少ない。障害者にさせられた
「原因」(被曝が、障害を生んだということ)について、行政側は、何をしているの
だろうか。「被曝認定」などという措置は、何もしていないのかもしれない。ナロヂ
チ市では、地区の病院で小児科医に話を聞いた。「今、この地域に住む子どもで、健
康な子どもは一人もいない。うち、13人は、先天的な障害がある」、女医のマレー
ナ・ミシュークさんは、そう断言する。病院で話を聞いた後、そういう子どものいる
ふたつの家庭に案内してくれた。一人は、8歳の少年がいる家庭。母親が、18歳で
被曝し、8年前に子どもが生まれたが、多重疾患で、将来生き続けることを誰も保証
しなかったという。それでも、心臓、涙腺など5回の手術をして育っている。小学校
にも入学した。今後も、摂食障害(食べ物を噛んだり、飲み込んだりできない)を起
こしている顎の手術、脳の手術などが必要だという。「学校は、楽しいかい?」と聞
くと、元気な声で「楽しい。と言ってくれた。次の訪問先へ移動する私たちを窓から
見送ってくれる姿が見えた。周りの住宅からは放し飼いされたアヒルや鶏が飛び出し
て来た。

次に訪ねた家庭では、20歳の長女と17歳の長男がいる。長女は、脳性麻痺。長男
は、生まれた時は、正常に見えたが、後に、発達障害が出てきたという。母親の父親
は、寝たきり。父親は、アルコール依存症。母親も、さまざまな癌が転移してしま
い、病院から追い出されたという。ウクライナでは、社会主義時代の制度が残ってい
て、保険制度は無いが、医療費は無料。しかし、無料というのは、診察代だけのこと
で、薬代や手術代は、別途掛かる。これが、馬鹿にならない。この母親の場合も、医
療費が払えず、病院から追い出されたらしい。

ウクライナの首都・キエフでは、放射線研究所のほかに、内分泌研究所も、訪れた。
ここでは、ウクライナで被曝し、甲状腺癌を発症した人たちの手術を集中的に行って
来た。高汚染地の1万3000人を対象に継続観察を続けている。毎年2回調査を
し、甲状腺は、精密検査をしている。その結果、チェルノブイリ原発事故のあった1
986年、ここで行った甲状腺癌の手術は、4例だったが、事故から4年経った19
90年には、1年間で62例に増加した。以後、年々増え続け、2011年の年間手
術は、700件に及んだという。年々増える傾向が、今も続いているという。被曝し
た子どもに多いと言われる甲状腺癌の推移観察は、むしろ、今後の課題だろう。

研究所には、クリニックが併設されていて、甲状腺癌の手術も実施している。手術で
癌を摘出した後は、患部に残った癌を死滅させるために高濃度の放射線ヨウ素の錠剤
を服用させて体外に排出させる治療方法をとっているという。患者は、鉛を張り巡ら
した隔離病棟で5日間を過ごす。被爆時、8歳だったという男性が、隔離入院してい
たが、この男性は、キエフから10キロほど離れた村に住んでいて、事故当時は、原
発事故処理班の車が村に出入りするのを見かけただけだという。それが、去年の秋、
突然、甲状腺癌が見つかり手術を受け、治療を続けているということだった。この男
性は、錠剤服用中だったので、線量計はピーピーという大きな音を立てて、30ミリ
シーベルトという数字をはじき出した。


日本とウクライナ

日本のような地震列島の上に林立する原発は、一旦事故が起こった場合の総費用を考
えれば、経済的にも原発を無くし、一日も早く、別の発電手段に切り替えることが、
結局、安く上がるのではないかと思った。

フクシマでは、ウクライナと同様の汚染の可能性に加えて、再び、地震・津波があれ
ば、原発建屋の崩壊の危険性、放射能の再噴出というチェルノブイリには無い地震列
島日本の独自の危惧もある。そういうことに気がついていれば、再稼動どころか、フ
クシマの原発対策こそが、焦眉の急だろう。政権の原発担当者は、チェルノブイリに
行かなければならない。放射能から身を守るのは、究極的には、原発を無くさなけれ
ば、不可能なのだろう。 

国土の一部が使えなくなる。住み慣れた懐かしいふるさとに近づけなくなる。永久的
な地域社会の喪失は、経済的な財政負担として数字化すれば、莫大な損失だろう。社
会福祉対応だけでなく原発後始末の消費税増税も必要になってくるのではないだろう
か。そういうことも計算に入れて見れば、原発推進派のしているようなエネルギー政
策だけの損得勘定では、この問題の真相は見えて来ないと思う。

そういうことをトータルで考えると、経済的効果の損得勘定もさることながら、原発
から身を守るためには、原発を一日も早く無くすことが人類の命を守るために効果的
で、それを実現させるために努力するしかない進むべき道は無いと感じた。 

ウクライナでは、チェルノブイリ原発は、廃炉にしたものの、別の場所に新たな原発
を建設・稼働させているということで、エネルギー政策について、価値観を変えて、
脱原発路線に変換したという訳ではないのだ。最近の新聞報道でも、ウクライナのア
ザロフ首相は、「原発放棄は、ウクライナは出来ない」と改めて、強調したという。
首相は、原発による電力価格は、太陽光発電の50分の1だと指摘し、経済性を理由
にあげたという。

キエフで放射線医学研究所や甲状腺がんの手術をするクリニックが併設されている内
分泌研究所などの幹部(副所長や所長)の話を聞いたが、日本とチェルノブイリの比
較をする質問をすると、日本「ダイジョウブ派」の(例の)医者や学者たちの情報
が、サウンドされているらしく、日本では、専門家たちが「適切」に対応しているの
で、チェルノブイリの「10分の1」程度の被害で済んでいる、日本の技術水準は、
高いからダイジョウブだろう。食を巡る環境がウクライナの地産地消とは違い、流通
が広域的だから、ダイジョウブ。事故後の処理も適切に推移しているから、ダイジョ
ウブなどというリサウンドされた答が返って来て、日本では、「ダイジョウブ派」の
言説などに惑わされないのに、ウクライナからも同じような内容の説明がされると惑
わされる人も出てくるのではないかと、危惧した。 


ヨーロッパを徘徊する怪物

キエフには、原発事故を証言するチェルノブイリ博物館がある。事故を再現する資
料、犠牲になった人々(国家の命令で事故処理に借り出された退役軍人が多い。消防
隊や原発労働者も事故処理に当たったので多い)の顔写真や衣服、持ち物などが展示
されている。この博物館では、原発事故で発生した放射能雲の動きが、黒い塊で描き
出されているアニメーションを絶えず映し出しているコーナーがあった。画面では、
チェクノブイリから発生した黒い点が、忽ち塊となり、形を変化(へんげ)させなが
ら、まず、北へ膨らみ、次いで、北東、北西へ、さらに、西へ、南へ、北西へと、2
0世紀の世紀末のヨーロッパを徘徊する怪物のように動き回る様を再現している。黒
い雲の形状も、頭から布を被った西洋の幽霊のようだったり、横向きの老婆になった
り、ゾウのようになったり、後ろ姿の男性になったりしてみせる。影に覆われるの
は、ウクライナ近辺の北欧各国ばかりではない。南欧のイタリアも、フランスも、海
を越えたイギリスも、スカンジナビア半島も巻き込んでヨーロッパ各地に汚染を拡げ
ていったことが判る。
- 2012年5月10日(木) 10:56:51
5・1 チェルノブイリは、今(1)

ウクライナのチェルノブイリで、原発の爆発事故が起きたのは、26年前、1986
年4月26日の未明だった。当時、ウクライナは、旧ソヴィエト連邦の一つだったの
で、社会主義体制下で言論統制がしかれる中、事故処理がなされた。住民に正しい情
報が、迅速に伝えられず、初めて体験する原発事故ということで政権側の対処も適切
に行われなかったことから、健康被害をもたらすことになった。 

特に、その後、幼児たちを中心に甲状腺に癌が発症した。当時、0歳から18歳の青
少年たちが、生育するに連れて癌患者が増え続け、2009年現在で、6029人が
手術を受けたという。 

爆発事故は、土曜日の未明に起きているが、周辺住民には、火事としか伝えられず、
暑い日だったこともあって、発生から避難までの1日半は、土曜日と日曜日の午前
中、窓を開けたまま過ごしていた人も多く、被曝の度合いを余計深刻なものにした。 

特に、チェルノブイリ原発から西へ3キロほどしか離れていない原発職員の家族が住
む街、つまり、「炭坑住宅」ならぬ「原発住宅」の街・プリピャチ市は、1970年
につくられた若い街でであったが、原発事故発生の後、1日半で、皆、強制移住させ
ら、廃都となった。僅か、16年の命しかない街になってしまった。 

当時のプリピャチ市の住民の平均年齢が、26歳という若い労働者の街だっただけ
に、ベランダから火災の様子を見ていた若い妊婦もいたという。若い母親は、その
後、様々な病気を発症し、生まれて来た子どもも胎内被曝をしていて、原発事故から
4、6年経つと甲状腺が膨れ上がるなどの異常を示すようになった。 

4月17日から23日まで、ウクライナを視察し、30キロ圏の検問所で許可証を貰
い、2日間に亘って、圏内に止まり、廃炉関連作業で多くの人が働いているチェルノ
ブイリの原発も間近に見て来た。 

廃都となったプリピャチ市も訪れ、避難以来26年振りに自宅だった場所を訪れたと
いう婦人らと共に、芽吹いたばかりの新緑の雑木林に占拠された街のかつての目抜き
通りも歩いてみた。彷徨する婦人たちに連れられて、私も迷路に踏み込んだ。 

雑木林という「紗の幕」越しに、舞台の大道具のような職員住宅という書き割りが見
え、舞台からは、平穏なころの街のざわめき、あるいは、爆発事故から避難までの喧
噪のうなり声などが、聞こえてくるような気もしたが、書き割りは、壁や窓が崩落し
ている侘しげな廃屋だと判り、放射能にまみれた土壌にしっかりと根を張った樹木
が、アスファルトに裂け目をつくり、とんでもない場所からはい出しているのだとい
うことが判る。 

耳を澄ませば、いくつかの野鳥の声が、雑木林のあちこちから聞こえて来るばかり
で、幻影のような廃屋街には、静寂が襲いかかり、見える人影も私たちだけだった。 
- 2012年5月1日(火) 17:49:24
5・1 (続き)

チェルノブイリは、今(2)

日本は、自ら仕掛けた戦争に負けて、平和で安全な生活が、如何に大事かを学んで戦
後の再建に乗り出したのだろうに。その戦後は、原発54基に象徴されるように、戦
前の「神風」同様の、根拠の無い、あるいは、ねつ造された「安全神話」に寄りかか
り、地震列島の上に多数の原発を張り巡らしてしまった。 

ひとたび、「安全神話」が崩れてみれば、そこは、戦後の焼け跡よりもひどい荒廃の
地になってしまった。福島では、見て見ぬ振りをしているようなことも、チェルノブ
イリに行ってみれば、いやでも、眼前に見せつけられる。 

26年前に発生したチェルノブイリの原発事故の現場は、廃炉になっても、廃炉の手
順は、未だ進行中で、いつ対応策が完了するのか、先行きも見えていないというのが
実情だった。 

コンクリートで固めた石棺は、20数年経ち、ひび割れていて、さらに大きな石棺を
上から被せなければならないということで、新たな工事が続いていた。廃炉になった
原発の管理にも多数の人々が、年間被曝量をコントロールするために、交替で現場に
入り、今も作業を続けている。廃炉も、簡単には出来ないのだ。 

石棺の莫大な建設費ばかりでなく、今後の管理運営の費用も見込めば、いったい、い
くらかかるのだろう。失われた地域社会の本来の生産性(逸失利益)を考えれば、そ
の損失は、無限大に、永続的に、可及的に増え続けるのではないだろうか。「経済的
にも、原発がコスト安」などという主張は、「安全神話」とは、また、別な新たな
「神話」ではないだろうか。 

30キロ圏の検問所でパスポートなどをチェックされ、強制的な移住対象地域にある
いくつかの廃村を通り過ぎるとともに、さらに、一旦移住したものの、移住先の生活
に馴染めずに、あるいは、移住先のインフラの不備、増えた家族の対応など、様々な
理由で、元の家に戻って来ている人たちが「お目こぼし(?)」で住む村も訪れた。 

廃村では、屋根から崩れ落ちた建物や荒廃とした荒れた建物も目にした。森は、手入
れがされていないため、倒木や枝折れした木々が、あちこちに動物の遺骨のように横
たわっていた。木々の間には、不気味な苔も生え茂っていた。まるで、像の墓場なら
ぬ、森の墓場のように見えた。 

さらに、10キロ圏の検問所も通り、原発の敷地に近づき、原発から3キロ離れた原
発城下町の5万人の人々がすべて消えてしまった廃都は、昼間だから歩けるものの、
夜間になったら、そこにいるだけで、恐怖に襲われそうな気がする。叫び出し、逃げ
出すにしたって、真っ暗で、道も判らず、一晩を過ごすことも出来ずに簡単に発狂し
てしまいそうで、心底不気味だった。 

チェルノブイリの非常事態省の宿泊施設(プレハブの建物)で一夜を明かした翌日、
ふたたび、10キロ圏の検問所を出るとき、被曝量を測る機械に頭から足まで全身を
押し付けた結果、15マイクロシーベルト以下で、グリーンランプが付き、無罪放
免。30キロ圏の検問所でも、車総体の被曝量が量られ、これもクリアして、30キロ
圏の外に出たが、そこも、強制的ではないが、移住の対象地域だった。こういう地域
では、受け入れ先の住宅の問題、インフラの問題、家族の問題などがあり、四半世紀
経っても順番が回って来ず、移住のめどが立たないまま、地域に止まっているという
事情も聞かされた。 

今回の旅では、いろいろな人に逢ったが、健康な人は少なく、病気に苦しんでいる
人、それも多重な疾患に苦しんでいる人、癌などの重篤な病気、様々な恢復の難しい
障害に苦しんでいる人などに出会った。特に、事故当時の幼児から青少年の世代も大
人になり、その世代の子どもら(いわゆる二世世代)にも影響が出ている。障害者と
して、月に日本円で1万円程度の年金は支給されながら、原発被害者として認定され
ている訳ではなく、苦しい生活を余儀なくされている。 

そういうことをトータルで考えると、原発から身を守るためには、原発を一日も早く
無くすことが効果的で、それを実現させるために努力するしかないと感じた。 

日本のような地震列島の上に林立する原発は、一旦事故が起こった場合の総費用を考
えれば、経済的にも原発を無くし、一日も早く、別の発電手段に切り替えることが、
結局、安く上がるのではないかと思った。
- 2012年5月1日(火) 17:48:25
5・1 チェルノブイリは、今(1)

ウクライナのチェルノブイリで、原発の爆発事故が起きたのは、26年前、1986
年4月26日の未明だった。当時、ウクライナは、旧ソヴィエト連邦の一つだったの
で、社会主義体制下で言論統制がしかれる中、事故処理がなされた。住民に正しい情
報が、迅速に伝えられず、初めて体験する原発事故ということで政権側の対処も適切
に行われなかったことから、健康被害をもたらすことになった。 

特に、その後、幼児たちを中心に甲状腺に癌が発症した。当時、0歳から18歳の青
少年たちが、生育するに連れて癌患者が増え続け、2009年現在で、6029人が
手術を受けたという。 

爆発事故は、土曜日の未明に起きているが、周辺住民には、火事としか伝えられず、
暑い日だったこともあって、発生から避難までの1日半は、土曜日と日曜日の午前
中、窓を開けたまま過ごしていた人も多く、被曝の度合いを余計深刻なものにした。 

特に、チェルノブイリ原発から西へ3キロほどしか離れていない原発職員の家族が住
む街、つまり、「炭坑住宅」ならぬ「原発住宅」の街・プリピャチ市は、1970年
につくられた若い街でであったが、原発事故発生の後、1日半で、皆、強制移住させ
ら、廃都となった。僅か、16年の命しかない街になってしまった。 

当時のプリピャチ市の住民の平均年齢が、26歳という若い労働者の街だっただけ
に、ベランダから火災の様子を見ていた若い妊婦もいたという。若い母親は、その
後、様々な病気を発症し、生まれて来た子どもも胎内被曝をしていて、原発事故から
4、6年経つと甲状腺が膨れ上がるなどの異常を示すようになった。 

4月17日から23日まで、ウクライナを視察し、30キロ圏の検問所で許可証を貰
い、2日間に亘って、圏内に止まり、廃炉関連作業で多くの人が働いているチェルノ
ブイリの原発も間近に見て来た。 

廃都となったプリピャチ市も訪れ、避難以来26年振りに自宅だった場所を訪れたと
いう婦人らと共に、芽吹いたばかりの新緑の雑木林に占拠された街のかつての目抜き
通りも歩いてみた。彷徨する婦人たちに連れられて、私も迷路に踏み込んだ。 

雑木林という「紗の幕」越しに、舞台の大道具のような職員住宅という書き割りが見
え、舞台からは、平穏なころの街のざわめき、あるいは、爆発事故から避難までの喧
噪のうなり声などが、聞こえてくるような気もしたが、書き割りは、壁や窓が崩落し
ている侘しげな廃屋だと判り、放射能にまみれた土壌にしっかりと根を張った樹木
が、アスファルトに裂け目をつくり、とんでもない場所からはい出しているのだとい
うことが判る。 

耳を澄ませば、いくつかの野鳥の声が、雑木林のあちこちから聞こえて来るばかり
で、幻影のような廃屋街には、静寂が襲いかかり、見える人影も私たちだけだった。 
- 2012年5月1日(火) 17:41:39
4・XX  * 映評「キリマンジャロの雪」

フランスのマルセイユで働く労働者の家族の物語。会社側のリストラ要員の数を減ら
すことは出来たが、リストラそのものは阻止できなかった。労使の協議で20人の退
職者を実際に選び出すのは、労組の委員長である主人公ミシェルに託された。委員長
は、公平に考えて、くじ引きにした。埠頭の作業現場に組合員全員を集めてのくじ引
きの場面から映画は始まる。名前を読み上げ、人数を数えながらのくじ引きには、委
員長自身も選ばれてしまう。ミシェルは、ロッカーを整理し、ヘルパーで働く妻マリ
に告げるべく、仕事先に迎えに行く。気骨ある夫の対応を受入れる妻。ふたりは、結
婚30年になる。リストラも、早期退職の範囲で受入れられる年齢でもある。

後日、ふたりの結婚30年を祝うパーティが自宅で開かれる。ミシェルは、リストラ
された仲間も呼ぶ。子どもも孫もいるミシェルとマリ。孫や子どもたちは、1966
年にフランスでヒットしたパスカル・ダネルの歌「キリマンジャロの雪」をふたりへ
の祝歌として合唱する。歌の文句は、キリマンジャロは、人生の終焉の地、いわば墓
所だというもの。子どもたちは、両親の第2の人生の旅として、皆で金を出し合っ
て、キリマンジャロのあるアフリカ・タンザニアへの旅費と航空券を贈る。義弟から
は、無くしていたスパイダーマンのコミックを古本屋で見つけて来たとして、プレゼ
ントされる。なぜか、幼い頃にミシェルが書いた自分の名前があるコミックだ。

順調にスタートしたと思われるミシェルの第2の人生。自宅で、妹夫婦とカードゲー
ムをしているところに2人組の強盗が押し入り、キリマンジャロ行きの現金や航空
券、コミックを奪って行く。第2の人生を襲うアクシデント。リストラで早期退職し
たとはいえ、ほぼ計画通りにスタートした第2の人生。自分たちの病気や事故、子ど
もや孫の病気や事故というならまだしも想定できるが、強盗に襲われるという想定外
のアクシデントに戸惑うミシェルとマリ。妹は、これを機に精神を病んでしまう。

数日後、ミシェルは、バスに偶然折り合わせた子どもたちが読んでいるコミックがス
パイダーマンと知り、見せてもらう。表紙の裏には、ミシェルの署名があった。ミ
シェルは、子どもたちがバスを降りると、後を付けて、子どもたちの住居を見つけ
る。ふたりの兄は、なんと、リストラ仲間の青年クリストフであった。犯人を突き止
めたミシェルは、警察に通報する。クリストフは逮捕され、共犯も手配される。

クリストフは、幼い弟たちの面倒を見ていたが、リストラされて借金と生活苦から逃
れようとパーティで見せつけられたキリマンジャロ行きの金とチケットに眼がくらん
で、仲間を誘って、元労組委員長宅を襲ったのだと判った。折角、公平にとくじ引き
でリストラ要員を選び、自分もそのなかに入ってしまったので、責任は果たしたと
思っていたが、クリストフから見れば、リストラ要員は、家庭の事情などを調査し
て、配慮した上で、選ぶべきだったと不満を抱いていたのだ。リストラ仲間といえど
も、恵まれたものと恵まれないものがいる、という想像力に欠けていたのだ。それを
知ってショックを受けるミシェル。被害届を取り下げようとするミシェルだが、刑事
事件は、捜査が進んでいて、後戻りが出来ない。このままでは、クリストフは、長け
れば15年の刑に処せられる見込みだ。残された幼い弟たちの生活をどうするのか。
強盗の被害者という立場を取り除けば、労組の元委員長としては、元組合仲間の残さ
れた子どもたちの養育という問題に直面する。

航空券を払い戻し、幼い子どもたちに生活費として渡そうとするミシェル。ヘルパー
の経験を生かして、すでに子どもたちの面倒を見に通い始めていたマリ。夫婦は、期
せずして、加害者の幼い弟たちの面倒を見ようとしている。夫婦は、労働者の連帯感
というヒューマニズムの持ち主らしく、それぞれ、加害者の家族の面倒を見ようとす
るのである。

人と人の繋がりを求めて、寛容と善意の精神で、突き進んで行くふたりの勇気。「勇
気とは、自身の欠点を克服し、苦しみながらも重荷とせず、自分の道を行くことであ
る」(ジャン・ジョレス=1905年、フランス社会党結成に参加した左翼政治家、
1914年7月31日、サラエボ事件から第一次世界大戦が始まるのに反対していた
とき、右翼青年に暗殺された)。ジャン・ジョレスとヴィクトル・ユーゴーに架橋を
かけようとするロベール・ゲディギャン監督は、映画のなかで、勇気とは、個人レベ
ルで責任を負うということだと強調する。

このエピソードは、ヴィクトル・ユーゴーの長編詩「哀れな人々」を元にしていると
いう。19世紀の貧しい漁師が、自分たちの生活もままならないのに、隣家に残され
た遺児たちを引き取ろうと決心するが、そのとき既に、漁師の妻は、遺児たちを家に
連れて来ていたというエピソードが詩に出て来るという。夫婦が、別々に、しかし、
ほぼ同時に選んだ善意の選択というテーマは、閉塞感のある現代社会では、ことさら
に輝かしい。

懸命に生きてきて、やっと第2の人生の安寧を手に入れたかに見えたが、それは、い
とも容易く壊された。壊されたことに怒ったミシェルだが、壊されたということは、
実は、自分たちの人生の懸命さが、まだ、足らなかったのではないかと気付かされ
る。公平で、正義と思ってやったリストラのくじ引きは、委員長にも自己犠牲を誇る
ような気持ちがあり、決して公平でも、正義でもなかったのではないか。強盗の犯人
になってしまった元組合員の同僚から教えられた苦い真実。

21世紀の「哀れな人々(階級意識の無い労働者階級という問題意識がゲディギャン
監督にはあるようだ)」が、生活する場に立ち返り、現在の社会状況を観察し、幾つ
もの普遍的なテーマをつかみ取る。映画は、市井の人々の心温まる家族の物語であり
ながら、グローバル化している若者と団塊の世代の経済格差の問題や組織と個人の問
題、恵まれたものと恵まれないものに二分化する現代社会の実像などをきちんと描い
ている。ゲディギャン監督の視線は、確かである。

俳優たちも良い。ミシェルを演じたジャン=ピエール・ダルッサン。マリを演じたア
リアンヌ・アスカリッドは、ゲディギャン監督夫人。ミシェルを演じたジャン=ピ
エール・ダルッサンは、舞台俳優から映画俳優になった。「マルセイユの恋」では、
1997年セザール賞助演男優賞にノミネートされた。厳つい風貌だが、秘められた
優しさが滲み出てくる味のある顔が印象的だった。アリアンヌ・アスカリッドは、
「マルセイユの恋」では、1997年セザール賞主演女優賞を受賞した。今回の「キ
リマンジャロの雪」では、2012年セザール賞主演女優賞にノミネートされてい
る。小柄だが、優しい妻、独立した息子や娘たちにも、肝っ玉母さんぶりを発揮する
母親の像をくっきりと演じる。

「労働運動の歴史における国家概念」というドクター論文を書き、労働運動にも積極
的に関与し、あわせてブレヒトの演劇論も学んで来たというゲディギャン監督。30
年前から映画づくりを始め、故郷のマルセイユ周辺を舞台にした地域と家族という
テーマに拘ったゲディギャン監督は、1997年「マルセイユの恋」に結実する。地
方の小さな街を舞台に労働者の身の回りの問題を市井の人たちの生活の中に描いて行
くというスタイルが、定着している。

この映画のもう一つの魅力は、背景の映像。人々の生活の背後に見えるマルセイユの
海もいい。海と光。白砂青松ではない海岸線で、海水浴をする人々。港や出入りする
船、クレーン。それが見える労働者のアパート。バーベキューとブイヤベースなどの
野外パーティの料理。ミシェルのアパートのベランダから見下ろされるマルセイユの
路地。路地を行き交う人々。街頭の何気ない風景。ああ、マルセイユの街角に立って
みたい。

この映画「キリマンジャロの雪」は、6月9日より、東京神保町の岩波ホールでロー
ドショー公開される。
- 2012年4月13日(金) 14:27:40
4・XX * 映評「この空の花 長岡花火物語」

2011年3月11日から未来をどう構築するか。大林宣彦監督は、そういうコンセ
プトで、「この空の花」という映画を製作したという。映画は、長岡の空襲と花火を
描く。長岡の花火は、1947年の夏から、毎年、米軍による長岡空襲のあった19
45年8月1日午後10時30分と同じ時間にあわせて8月2日と3日に打ち上げら
れるという。2009年8月3日に初めて長岡の花火を見た大林宣彦監督は、この花
火に感動した。「映画のような花火」。「単に咲いて開くばかりか、散って消えた後
の暗闇に、花火の心が見える」と感じたからだ。

長岡と言えば、幕末の戊辰戦争で焼けた城下町である。支援に送られて来た米百俵を
ただちに「お助け米」として使わず、「復興とは未来を生きる子どもを育てること」
と主張して庶民の子どもも入学できる学校を作った小林虎三郎の精神を尊しとする気
風があるという。長岡花火は、その象徴だという。

かつて長岡を訪れたことのある放浪の画家・山下清は、「世界中の爆弾を花火に変え
て打ち上げたら、世界から戦争が無くなる」として、貼絵で「長岡の花火」を描い
た。

花火と戦争。長岡には、米軍の空襲より前に、原爆の模擬弾が落とされた亡くなった
人たちがいる。その模擬弾は、1945年8月9日午前11時2分、長崎に落とされ
た原子爆弾と同じ「ファットマン」だという。長崎の原子爆弾は、模擬弾と違って、
プルトニウム239が使われていた。こうして、花火と空襲の街・長岡は、被爆の
街・長崎と繋がる。そして、2011年3月11日の大震災で、福島は、県内にあっ
た原子力発電所の事故で、放射能を浴び、被曝した。被爆と被曝。ヒロシマーナガサ
キーフクシマと、日本列島は、わずか66年の間に、3回も放射能を浴びた。

福島から放射能を逃れて長岡に避難して来た人たちがいる。長岡市には、2005年
4月から、山古志村も編入された。山古志村は、2004年10月23日、震度6強
の強い地震に見舞われた。新潟県中越地震である。地震被災ということで、長岡は、
福島とも繋がる。福島で被災した人々が避難もしている。

大林宣彦監督の頭の中で、三角形が出来上がった。長崎に落ちたのと同じ原爆の模擬
弾の空襲で被害を出した長岡→原爆で「被爆」した長崎→原発で「被曝」した福島・
震災に見舞われた福島→福島の被災者が避難した長岡・大地震に見舞われた山古志村
(長岡)。三角形の映画。

2011年3月11日を体験した私たちは、被爆から被曝へ、戦後の復興に名を借り
て、いとも安易に軸足を移してしまったのではないか。戦後の復興のありようは、間
違っていたのではないか。地震列島であり、被爆国でありながら、なぜ、日本は、戦
後、54基もの原発を持ってしまったのか。その原発の一つが、大地震に揺すぶら
れ、いとも簡単に事故を起こし、核の恐ろしさを改めて知らしめした。それでいなが
ら、経済優先、電力会社という独占企業の利益優先で、原発「復興」という名の「再
稼動」を始めようと民主党政権は、ゴーサインを出している。懲りない人々。懲りな
い日本。

そういう日本の現状に対する問いかけが、この映画にはある。「これでよいのか。戦
争を繰り返し起こすように、人間は、原発事故も繰り返し起こすのではないか」。
「戦後」への問い直しは、66年経って、改めてリセットされた。日本の未来を平和
で安全な国の構築へと再スタートするために、日本人は、3月11日という日を記憶
しなければならない。


大林宣彦監督は、多分、そういうコンセプトで、長岡を舞台にこの映画を作ったので
はないか。映画の粗筋は、こうだ。

長崎県天草の地方新聞の記者・遠藤玲子(松雪泰子)は、長岡を訪れた。長らく音信
の途絶えていたかつての恋人・片山健一(高嶋政宏)から手紙が来たのだ。自分が教
師をしている高校の女生徒・元木花(猪俣南)が書いた脚本「まだ戦争には間に合
う」を舞台に掛けるので、観に来て欲しい。長岡の花火は、長岡の空襲、地震で亡く
なった人たちへの追悼の花火なのだ、という記述も玲子の胸に響いた。2011年
夏、長岡を訪れた玲子は、地元の地方新聞の記者・井上和歌子(原田夏希)ととも
に、「伝説」の花火師(柄本明)、花火を恐がりながら、長岡空襲を子ども達に伝え
る紙芝居活動をしている老婦人・木元リリ子(冨司純子)、ついでに「放浪の画家・
山下清」とも、巡り会うという、虚実の皮膜を自在に行来する大林ワールドで再構築
された「長岡物語」(三角形の映画!)の世界をふたりは取材して回ることになる。

8月1日に上演された劇中劇「まだ戦争には間に合う」は、高校生の演劇。原作者の
女子高校生は、過去から来た謎の少女・木元花(乳幼児時代に亡くしたリリ子の
娘)。一輪車に乗った幽霊。「この空の花」という映画のタイトルの「花」は、意味
が多重だ。花は、木元花。花は、長岡花火の花。花は、未来の、平和な社会の象徴。

長岡の歴史を知り、未来の平和を願う長岡花火が、夜空を彩る下、公園に設えられた
野外舞台で繰り広げられる舞台も含めて、長岡という街のノンフィクションも含めて
(花火師や老婦人のモデルになった人々も、実名で登場する、花火大会の直前、未曾
有の水害に襲われ、大会会場の河川敷も浸水したが、それも登場するなど)、セミド
キュメンタリータッチで描き出された長岡物語・大林ワールドは、大林節の科白廻し
に載せて、テンポ良く、2時間半という長さを感じさせない映画になった。
- 2012年4月12日(木) 20:26:23
4・XX 東京・赤坂のホテルのパーティで、2月の歌舞伎座以降、襲名披露の興行
が続いている中村勘九郎に逢えたので、新・勘九郎に祝意を込めて、聞いて見た。

新橋演舞場の2月歌舞伎の筋書にこうある。「勘三郎は祖父が久しぶりに復活した名
跡ですから、中村屋には『家の芸』は、ありません。(中略)父も祖父も演じていな
い『土蜘』を、勘九郎の最初に勤めるのは中村屋らしからぬことかもしれませんが、
勘太郎の最後の舞台も、祖父も父も手がけていない『関の扉』でした。僕はそういう
道を突き進んでいるようです」。

勘九郎という名前が、父親の勘三郎が子役時代から大成するまで長く背負って来た名
前だから、勘九郎というと父親のイメージが、今は強い。「そういう道」とは、なに
か、ひと言だけ聞きたいと思っていた。

「新しい勘九郎としては、父親のイメージと違うものも加えようとしたいのか」と、
問うて見た。「そういうつもりはありません」。重ねて、「それでは、勘九郎という
名前に、さらに幅≠持たせたいという気持ちは?」と、畳み掛けて聞いたら、
「新しいイメージというより、『土蜘』も『関の扉』も、歌舞伎の古典演目ですか
ら、手がけておいてよいものだと思ったのです」。模範生の答えであったが、「中村
屋らしからぬことかもしれませんが、(略)僕はそういう道を突き進んでいるようで
す」という筋書での強いトーンからは、大分ダウンしているように感じられた。

歌舞伎役者の嫡男として、父親の芸を引き継ぐのは、当然として、祖父の芸(先代勘
三郎:中村屋)、祖父の兄の芸(初代吉右衛門:播磨屋)・同じく祖父の兄の、三代
目時蔵(萬屋)、父方の曾祖父(六代目菊五郎:音羽屋)、母方の祖父(七代目芝
翫:成駒屋)など、改めて数えてみれば、勘九郎がチャレンジすべき目標となる先達
は多いから、トータルでは、「家の芸」候補の演目は、イロイロあるのではないか
と、思った。是非、チャレンジして欲しいなあ。

ところで、七之助は、将来、どうするのか、「もしほ」などを目指すのだろうか。そ
れとも、襲名では、ウルトラ技があるかもしれないね。
- 2012年4月2日(月) 8:56:00
3・XX  * 映評「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」

3つの柱を立てて、書いてみたい。2つは、人間誰にでも共通する、極めて普遍的な
こと。ひとつは、優れた女優の演技について。

マーガレット・サッチャーは、1925年生まれ。ことしの10月が来れば、87歳
になる。1979年、54歳でイギリスの保守党の首相になり、3度の総選挙を勝ち
抜きながら、1990年、60歳で首相を引退した。保守的な考え方と信念を曲げな
い強靭な姿勢から、「鉄の女」と呼ばれた。2002年、健康上の理由で公式の場に
出ないと宣言、2008年、娘が書いた回顧録で、認知症と公表された。女性監督の
フィリダ・ロイドは、若い日の町会議員で、雑貨店経営者の娘・マーガレット・ロ
バーツからオックスフォード大学を卒業し、政治家を志し、政界で揉まれ、デニス・
サッチャーと結婚をし、下院議員に当選、やがて首相になり、輝かしい歴史を刻み、
そして、政界引退後の老いた日々まで、女性らしいこまやかなカメラアングルで、丁
寧に描いて行った。

だが、フィリダ・ロイド監督は、マーガレット・サッチャーの伝記映画を作ったので
はないと思う。描き方を見ていると、マーガレット・サッチャーの輝ける部分は、そ
れなりに描いているけれど、輝いていない部分こそ、普遍的だとばかりに、きちんと
描いていると見た。特に、冒頭の部分、孤独な老婆が、スーパーで牛乳を買い、レジ
で精算する場面。もたもたと金を払い、牛乳を受け取るだけのシーンだが、レジの後
ろに並んだ、いかにも現代っ子らしい、黒人の青年が、自分の精算をさっさと済ませ
て引揚げて行く部分という、なんともさりげない、重要ではない部分の描写に、私
は、頭をごつんと叩かれたような衝撃を受けた。間もなく、90歳になる自分の母親
の姿と、あまりにも似て見えたということだった。

そう、1の柱:老いるということ。孤独な老婆は、スーパーを出ると、ひとりで歩道
をよたよたと歩いて行く。引いた画面で映画は、老婆の後を追って行く。その後ろ
姿。雰囲気。メリル・ストリープは、実年齢より20歳以上老けた老婆の役をリアル
に演じて行く。一人暮らしの老婆の自宅。ヘルパーや娘が、ときどきは、世話をしに
来ているが、惚けていて、ひとりでは、家事もままならない感じで、暮していること
が判る。先立たれた夫の遺品の整理も、やりかけるが、決心がつかない。しょっちゅ
う、亡夫の幻を見ては、会話をしてしまう。夫は、いつだって、老婆の傍にいて、彼
女を見守って暮れているのだ。優しかった夫。可愛かった子どもたち。家族は、彼女
が政界に乗り出すことに反対した。老婆を客観的に見れば、幻視、幻聴、独り言(妄
言)の類いの症状であろう。老いは、病と道連れで忍び寄って来る。惚け、認知症。
老いてくれば、誰でも、なりうる病気。イギリス史上初の女性首相だって、市井の女
性だって、差別無しに老いは襲って来る。たまたま、マーガレット・サッチャーとい
う一人暮らしの老婆は、かつて、首相だったという違いがあるだけだ。フィリダ・ロ
イド監督は、そういう淡々としたタッチで、老婆の現在と過去を描いてみせる。

2の柱:現役を引退するということ。順序が逆になったかもしれないが、組織の中で
職業を持っていた人間は、老いる前に、まず、現役を引退する。男でも女でも、それ
は変わらない。国会議事堂という男社会で、女性が上り詰めて行くということは、大
変なことだろうが、「臆病な男どもが決断できないことを私は、決断する」という調
子で、フォークランド紛争に勝利し、労働組合制度を変え、低迷する経済を立て直
す。3度の総選挙に勝利し、イギリスの政界に、いや、国際政治の舞台に名を残し
た。そして、「鉄の女」と呼ばれた。強引な思考や政治姿勢だけに、国民から愛され
もしたが、嫌われもした。テロにより身の危険も感じた。それほど、強烈な現役時代
を退くだけに、引退後の虚脱感は、凄まじいものがあったであろうと容易に想像され
る。現役時代の緊張感と引退後の虚脱感の激しい落差。高見にまで上り詰めて、落ち
たという経験は、人生にどれだけの衝撃を与えるのか。それが、後の惚けや認知症発
症への引き金になったかもしれないなどと私は想像する。その落差を埋めるのは、惚
けた頭に浮かんで来る優しい夫の幻影であろう。政界入りに反対しながらも、現役時
代を支えてくれた優しい亡夫。「自分も、夫も、幸せだったのだろうか」。今頃に
なって、気付いても、答えは返って来ない。

3の柱:2度目のアカデミー賞主演女優賞受賞女優の演技。アメリカ生まれのメリ
ル・ストリープ。アカデミー賞の主演女優賞と助演女優賞に今回で17回目のノミ
ネート(史上、最多記録)をされた。1979年の「クレーマー、クレーマー」で、
助演女優賞。1983年の「ソフィーの選択」で、主演女優賞を受賞しているベテラ
ン女優にとって、輝けるサッチャーの現役時代は、極端に言えば、「素顔」でも、こ
なせたのではないか。ところが、老いたサッチャーを演じた部分が、難しかっただろ
うと思う。メリル・ストリープの美しい素顔を忘れさせるようなリアルな表情と演技
が、私の目に焼き付いている。1949年生まれ、63歳は、老けてはいない。20
歳以上の年齢の差を埋めるメリル・ストリープの老いの演技は、素晴らしかった。

歌舞伎でも、老け役は、なかなか難しい。特に、女形の老け役は、難しい。森鴎外原
作・宇野信夫脚色の新作歌舞伎「ぢいさんばあさん」で、私も、玉三郎や福助、菊五
郎で「ばあさん」の演技を観てきたが、これがなかなか難しい。玉三郎は、顔を老け
役の白塗りをしても老けなかった。まだ、落第。人間国宝の菊五郎は、さすが巧かっ
た。最近観た福助の「ばあさん」役は、菊五郎と玉三郎の間を狙っていて、初役なが
ら、巧かった。玉三郎のように美しすぎると老婆には、なれない。メリル・ストリー
プも、玉三郎、福助、菊五郎という歌舞伎役者に例えれば、玉三郎タイプだろうに、
菊五郎のような演技をしていた。だから、メリル・ストリープは、2回目のアカデ
ミー賞主演女優賞をとったのだろうと思う。

亡夫役は、イギリスのジム・ブロードベント。彼の優しさが、政治家・サッチャーの
伝記ではなく、政治家でもあったサッチャーという女性の老後を通じて、その女性を
包み込むように過ごして来た家族の物語を浮き彫りにしてくれた。優しい夫への愛の
物語。フィリダ・ロイド監督は、夫婦愛の物語を描き、メリル・ストリープは、普遍
的な女性の孤独な老いを描いたと思う。私は、スクリーンに、市井で老いたわが母の
姿を観た。悲哀と喪失。でも、寿命尽きるまで生き続ける。わが母も、イギリスの元
首相も、同じ思いの中で、日々を送っていることだろうと思った。

アカデミー賞には、賞金が無い。受賞者には、オスカーと呼ばれる高さ30センチ余
りの金色の人物像が贈られる。オスカーとは、なに者ぞ。かつて、アカデミー賞の事
務局にいた女性が、名無しの人物像を見て、「知り合いのオスカーおじさんにそっく
り」と言ったから、その後、愛称になったというとか。

普遍的な女性の孤独な老いを描いた女優が、市井のオスカーおじさんの像を3度(た
び)胸に抱いた。ご同慶の至り、としよう。

ところで、この映画の配給会社。GAGAの試写会。そこで、一足早く、優れた映画を
見せてもらった。GAGAの配ったプレス(マスコミ用の映画パンフレット)には、映
画のシーンの写真が、たくさん掲載されていたが、メリル・ストリープの老いを演じ
た、今回の映画では、いちばん肝心の写真が、一枚もなかった。これは、何処の意向
なのだろうか。不思議である。
- 2012年3月7日(水) 15:51:45
1・XX * 映評「オレンジと太陽」

イギリスの暗い歴史をひとりの女性が告発し、終結させたという物語の映画化。16
18年、イギリスから100人ほどの子どもたちがアメリカに送られた。孤児の保護
政策という美名の元に、親が育てられないと認定された子どもが孤児院に送られ、そ
こからさらに、教会や救世軍、慈善団体などの手で、外国の施設に送られた。

“good, white British stock”として、1970年までの350年余りの年月に、イギ
リスからカナダ、ニュージーランド、旧ローデシア、オーストラリアに13万人を超
える3歳から14歳の子どもたちが、「移民」させられたという。大半は、7歳から
10歳くらいであったという。植民地無き後も続いた優秀なイギリスの白人の子ども
の強制移住であった。子どもたちは、二度とイギリスの戻らないという想定で、家族
から切り離されて移住させられ、時には、移住先の施設で過酷な環境での生活や労働
を強いられた。カナダの農場では、便利で安い労働力として、旧ローデシアでは、白
人の経営エリート保護対策として、さらにオーストラリアでは、戦後の人口増加政策
に利用された。心身に障害のある子どもや黒人の子どもは、除外されたという。差別
的な人権無視のナチスの選良政策と戦時中の日本の朝鮮人強制徴用政策の両面を持つ
ような政策だったのではないか。「大英帝国の民族的統一」という、近代化の中では
後ろ暗い植民地政策の典型のような政策が、戦後も戦後、1970年まで続いていた
というのは、ショックである。戦後だけでも、オーストラリアには、およそ3300
人の子どもたちが送られたという。もっとも幼かった子どもでも、いまでは、50歳
前後になっている。

この問題に立ち向かったのは、マーガレット・ハンフリーズという女性で、ソーシャ
ルワーカーとして、子育てができない家庭の子どもを保護するために、親の意志に背
いてでも施設に送る仕事をしていた。1986年、養子に出された人たちのその後の
サポートをする会の集まりに参加した夜、会場の外でひとりの女性(シャーロット)
から声をかけられた。その女性は、「自分の出自を知りたい」と訴えてきた。彼女
は、児童養護施設にいた4歳の時に数百人の子どもたちと一緒に船に乗せられ、オー
ストラリアに送られたという。親も保護者もなく、養子縁組でもなく、子どもたちだ
けで集団移住させられたという信じられない話だった。

さらに、マーガレットは、1週間後、同じ会の女性(ニッキー)から、数年前に、女
性の弟(ジャック)と称する未知の男性から、「私は、多分、あなたの弟ではない
か」という手紙が届いたという話を聞かされた。その「弟」は、オーストラリアに住
んでいるという。先の女性同様、「移住」させられた可能性があることにマーガレッ
トは気付く。そして、調査を始める。

まず、シャーロットの出自を調べてみると、死んだと聞かされていた生母が生きてい
ることが判る。マーガレットは夫とともにシャーロットの生母(ヴェラ)に逢いに行
く。ヴェラは、娘は児童養護施設から養父母に貰われたと信じていて、オーストラリ
アに送られていたことは、知らなかった。母子は再会を果たす。

さらに、マーガレットはニッキーとともに、オーストラリアのジャックに逢いに行
く。ジャックは自分の出自が判らず、心に空洞を抱えていた。ジャックのオーストラ
リアでの受け入れ先の慈善団体の集会に参加したマーガレットはジャックと同じよう
に自分の出自を知り、家族と会いたがっている人たちが大勢いることに気がついた。
マーガレットは「植民地への児童の強制移住」という大きな問題が大英帝国という、
イギリス連邦の近代史の闇に隠されていると予感し、社会福祉の予算を取り付け、
「児童移民トラスト」という組織を1987年に立ち上げ、調査に乗り出すことにし
た。オーストラリアの新聞に「大英帝国の迷子たち」という広告を載せると、反響の
手紙が多数届いた。強制移住で入れられた施設で、施設の支援者に性的虐待を受け
て、心の病になり、入退院を繰り返している男性なども判った。一方、慈善事業の名
の下に子どもたちの強制移住を受入れて来た教会の関係者からは、マーガレットへの
嫌がらせも始まった。オーストラリアに設けた自宅兼事務所には、脅迫電話や直接的
な暴力行為も繰り返された。マーガレットは「心的外傷後ストレス障害」になってし
まう。強制移住の闇は、歴史の課題ではなく、現実の課題だったのだ。

マーガレットらの調査が進むにつれて、イギリス政府も動き出す。非協力的だった移
住児童出身の男性も協力的になり、男性が収容されていたオーストラリアの教会訪問
に同行してくれる。敵陣に乗り込むという心境だが、マーガレットは挫けずに敢行す
る。

2009年11月、オーストラリアのケヴィン・ラッド首相が、次いで、2010年
2月、イギリスのゴードン・ブラウン首相が、それぞれ、「児童の強制移住」の事実
を認め、正式に関係者に謝罪したという。

マーガレットは、その後、「児童移民トラスト」の活動を邦題「からのゆりかご ―
大英帝国の迷子たちー」という著作にまとめる。邦訳は、今月末刊行予定。映画は、
マーガレットの活動を追いかけるというスタイルで、この問題を描いた。長く、暗い
近代史の闇に立ち向かったひとりの女性の人生の軌跡を静かだが、良く通る声で描き
切った感動的な作品だと思う。マーガレットは、イギリスの女優、エミリー・ワトソ
ンが演じた。テレビの演出家としてドラマやドキュメンタリー番組を作って来たジ
ム・ローチという新人監督の映画デビュー作である。4月14日から、東京・神保町
の岩波ホールでロードショー公開される。
- 2012年1月16日(月) 12:17:51
12・XX  映評「汽車はふたたび故郷へ」

原題の「シャントラパ(歌えない人、巧く生きることができない人、役立たず、跳
ねっ返り、屈しない人など、意味は、多重らしい)」。20歳から30歳代で、日本
社会でもニート状態の青年が急増しているが、この映画は、日本流にいえば、今年喜
寿(来年2月で78歳)の老監督オタール・イオセリアーニの、その世代の頃の
「シャントラパ(巧く生きれない人)」状態を赤裸々に描いた、半ば自伝的な作品
だ。

50年も前に映画監督になったものの、旧ソ連邦のグルジア(ゲオルギア、スターリ
ンの出身地)共和国では、「病的な」体制に拠る検閲や思想統制で、自由に映画が作
れなかった。イオセリアーニ監督の身替わりとして画面に登場するニコこと、ニコラ
ス(演じるダト・タリエラシュヴィリは、監督の孫)は、体制に伴うニート状態から
「シャントラパ(巧く生きれない人)」状態になってしまい、その挙げ句、故国を追
われ、国外に亡命せざるを得なくなる。ところが、亡命先では、資本主義という別の
「病的な」体制があり、商業主義のプロデューサーたちに勝手な要求に翻弄されて、
やはり自由に映画が作れない。「シャントラパ(巧く生きれない人)」状態のまま帰
郷するという、曲折する人生を送ったイオセリアーニ監督青年時代が描かれる。

監督の心の支えは、幼少期を過ごした友達との思い出。男ふたりに女ひとりの幼友達
たちとの、特に「悪戯」は、貴重な思い出だ。貨物列車のタンク車の梯子に3人が縦
になって掴まり、重厚な貨物列車の動きとともに軽々と空間を飛んで行くような子ど
もたちの移動ショットが特に美しい。線路がくねくねとカーブしているのだろう。
カーブに沿って、うねうねとゆっくり動いて行く様を固定したアングルで撮り続け
る。ああ、いいなあ。自分の幼年期の夢でも見ているような、気持ちのよさを感じさ
せる印象的なショットだ。

途中で止まった貨車から降りて、子どもたちは、線路際の教会に忍び込み、成人がを
盗み出す。男の子たちは、煙草を盗み飲みしたり、酔いどれの爺さんたちの仲間に加
わり、強い酒を飲んだり、「悪儀」こそ、子ども時代の幸福さのバロメーターとで
も、イオセリアーニ監督は、考えているのかもしれない。

やがて、青年になったニコは、映画監督になる。今回の作品の中で、随所に紹介され
る監督の映画作品の一部は、一般の観客にも、どういう映画なのか良く判らないよう
な形でしか提供されない。冒頭で紹介されるイオセリアーニ監督の処女作の一部だ。
美しい芥子やひまわりの花が、重機で押しつぶされ、整地されて行くのは、象徴的
だ。この映画のテーマを明示して印象的だが、そのほかのロケのシーンや森の中で兵
士たちが執行する銃殺刑の場面など、余りに断片的で、判り難い。

映画は、大きく分ければ、グルジアの幼少年期、映画製作に取り組む青年期(盗聴や
監視などのカットで象徴される検閲と思想統制の果ての挫折)、亡命後のフランスで
取り組む映画製作、そして、失意の帰郷後の生活(イオセリアーニ監督自身は、今
も、生活の拠点をふるさとに戻してはいない)と、おおざっぱには、3つの時期が描
かれる。

登場人物たちも、主人公のニコの人物像は鮮明だが、多くは、誰が誰やら判り難い。
幼少期、青年期、挫折して帰郷した時期とニコの人生の時間は流れているのだろう
が、画面のカット割は、時空も含めて新旧混交の状態で、主人公ニコなど一部の人を
除けば、私などには、混乱してくるばかりだ。舞台となる場所も、人も、グルジアな
のか、フランスなのか判らなくなって来る。時間が流れた筈なのに、青年のニコが戻
るふるさとには、幼少年期のままの祖父らが出迎えてくれる。

いちばん判らないのが、突如、池から登場する人魚。ニコを水中へと引き込む。一旦
は、池から助けられたものの、この人魚は、終末近く別の川か池にも姿を見せ、ニコ
を再び水中へ引き込む。ラストカッとは、水中を人魚とともに手を取り合うよう泳ぎ
去って行くニコの姿だ。人魚とは何なんか。

正直に筋を追い、つじつまの合うように映画を観続けようとすると混乱して来る。無
造作で、何の計算もせずに、監督の感性のまま、コラージュのように動画を繋げてい
るだけなのか。なんという難解な映画だろう。

完成上映会で、不評でと途中退場する観客が続出する場面があるが、上映会の映画館
の入り口に「人魚」の絵が掛かっているのに気がついた。絵の中の人魚は、あるいは
「映画の女神」の記号なのかもしれない。それにしても、2回も姿を見せた人魚は、
実は、ニコにしか見えていない、ほかの登場人物は、人魚など見えていないと気がつ
けば、この難解な映画は、合理的に理解しようとすれば、難解になるばかりであるこ
とに気がつくだろう。人魚が見えているのは、ニコと観客の我々だけだ。イオセリ
アーニ監督は、気がついた人にだけ判れば良いというシグナルを画面の向うから送っ
ているようだ。

その上で、「シャントラパ(巧く生きれない人)」をそのまま受容せよ、というのが
監督からのメッセージだと思えば、この映画は、無造作で、ちゃらんぽらんで、一
見、計算されていないように見えていながら、実は、隅々まで計算されている、時空
を超えて重層的な構造を持つ映画だということが判って来る。

特に、帰郷したふるさとでは、人々は年を取っていない。子どもの頃、自分たちの悪
戯を太っ腹に擁護してくれた靴修理の老人は、ニコの自宅近くの路上で相変わらず靴
の修理をしている。挫折して帰郷したニコを迎える家族も、幼少期の家族のままだ。
従って、これは現実のふるさとではなく、夢の中のふるさとなのだろう。現実のふる
さとは、既に無くなっている。何度もの戦火に見舞われて荒廃してしまったし、ソ連
邦崩壊後は、資本主義の波に洗われ、無機質な高層ビルが乱立している。

動画のコラージュ。そう思いを定めてしまえば、オタール・イオセリアーニ監督の2
010年完成の作品は、そういう計算され尽くした作品として、判り難さが、ジェッ
トコースターに乗って下降するように、一気に氷解するのが判る。そこにあるのは、
豊饒なまでの時間の流れ。帰れないふるさとへの喪失感に裏打ちされた空虚な豊饒さ
とでもいえば良いのかもしれない。

病的なふたつの体制。共産主義と資本主義。このふたつの主義が世界を二分し、戦争
をしたり、戦争をやめた後も、「冷戦構造」を構成したり、「冷戦」が無くなって
も、相互監視の状況は続いている。まるで、世界全体が、グローバル化した「ニー
ト」状態になっているのではないのか。

青年たちの「ニート」状態、この映画のタイトルを思い出せば、「シャントラパ」状
態。この映画は、そういう病的な時代を生きる我々に対して、皆さんが、喪失してし
まったものとは、こういうものだったのではないかというメッセージを静かだが、聞
き取り易い声で伝えているように思える。特に、2011年3月11日の東日本大震
災やそれに伴う東電原発事故で故郷を奪われたひとびとに向けて、2010年完成の
映画は、巧く生きることができなくても、「めげずに、あきらめずに」したたかに生
き抜こうと語りかけているように思える。

映画「汽車はふたたび故郷へ」は、2012年2月18日から、東京神保町の岩波
ホールでロードショー公開される。
- 2011年12月3日(土) 12:24:41
12・XX  映評「わが母の記」

井上靖原作「わが母の記〜花の下・月の光・雪の面〜」の映画化。監督は、原田眞
人。井上靖をモデルにした作家・伊上洪作に役所広司、伊上の母・八重に樹木希林、
娘(三女)・琴子に宮崎あおいほか。認知症になり、過去の記憶が薄れて行く母と幼
少期兄妹のなかで、ひとりだけ養子に出されたことから、自分は母親に捨てられたと
いう意識が強い洪作との、いわば「記憶の擦り合わせ」は、残された時間が少なく
なって行くなかで間に合うのか、というのがひとつのポイントになっている。

映画は、両親が住む伊豆の湯が島、東京世田谷の洪作の自宅、別荘のある軽井沢、特
に、渓流沿いにワサビ田が広がる湯が島、伊東のホテルや沼津の海、海から臨む富士
山など伊豆半島周辺の美しい風景を背景に家族の絆とはなにか、どうあるべきかが描
かれて行く。

家族の絆は、いわば、「過去の家族」として、洪作と母を軸に、妹の志賀子、桑子と
いうのがひとつ。次に「現在の家族」として、洪作と妻の美津、3人の娘(長女・郁
子、次女・紀子、三女・琴子)というのがひとつ。「過去の家族」の父親は、間もな
く亡くなり、母をどうするかが、洪作と妹たちの課題となる。母と身近に接触するよ
うになり、洪作は、幼少期の記憶を思い出す。5歳から8年間、伊豆の山奥の土蔵
で、曾祖父の妾・おぬいに預けられた日々のことだ。おぬいとの思い出を大事にし、
実母の八重には捨てられたという意識が、洪作にはトラウマになっているのが判る。
「自分だけが捨てられた」と平気で妹たちにも実母にもいうが、八重が、はぐらかし
てまともに答えない。

湯が島で、志賀子夫婦と暮らす八重。志賀子の夫が交通事故に遭い自宅療養になった
のをきっかけに八重は、洪作の家族と暫く一緒に住むようになるが、ずうっと母親へ
のわだかまりを抱き続け、距離を置いて来た洪作の思いが、「おばあちゃん(洪作の
母親)の心をこじらせている」と見抜いた末娘の琴子が父親の洪作を批判したのを
きっかけに家族を素材にして小説やエッセイを書く作家・洪作への不満が、爆発す
る。末娘の提案で、八重は、軽井沢の別荘で琴子らと暮すようになる。

そのことで、家族の絆は、過去の家族と現在の家族が重なり、重層化する。それに逆
らうように、八重の記憶は薄れて行く。夜間、家中を徘徊する母親。八重は、何かを
探し求めているらしい。

「息子さんを郷里に置き去りにした」と八重に問いつめる洪作。「おぬいに息子を奪
われた」という八重。

幼少期一家で台湾に渡ったことがある。海を異常に怖がっていた八重は、万が一の船
の事故を恐れて大事な一人息子を郷里に残し、そのまま、おぬいになついた息子を取
り戻せなかったという八重の思い。八重の徘徊は、奪われた息子を捜しているのだと
悟った洪作は、号泣する。母との和解。1959年から69年までの洪作一家を家族
の絆とはなにかという視点で描き出す。脚本・監督の原田眞人の目配りは、隅々まで
届いている。更に、美しい映像は、女性カメラマン・芦澤明子が、計算尽くして撮っ
ている。撮影期間は、2011年2月3日から3月10日まで。つまり、東日本大震
災の発生する前日までの映像ということだ。

第35回モントリオール世界映画祭で審査員特別グランプリ受賞作。映画は、201
2年のゴールデンウイークにロードショー公開される。
- 2011年12月2日(金) 7:59:52
9・XX  * 映評「明日泣く」

伊集院静の小説「いねむり先生」のモデルになった色川武大原作の短編小説「明日泣
く」(1986年発表)が映画になった。内藤誠監督作品。内藤誠監督は、東映時代に
「不良番長」シリーズや「番格ロック」、さらにポルノ映画の作品を製作し、B面映
画の奇才として鳴らし、その後フリーになり、脚本、著述、翻訳、大学で後進を指導
したりしてきた。75歳。1986年の「スタア」、1987年の「春らんまん結婚記」以
来、今回、24年振りに映画を作った。

タイトルの「明日泣く」は、色川武大原作のまま。この作品には、軸となる要素が、
4つあると思う。ひとつは、細部にわたって拘った昭和レトロ調の画面づくり。
17、18歳くらいか。高校時代の文学少年が、麻雀をしながら小説家になるまでを描
く。高校生ながら雀荘に入り浸りで、かけ麻雀をしている。いかさまも仕掛けるとい
う悪ぶり。少年が出入りする喫茶店、雀荘、ジャズクラブなど、昭和30年代を思わ
せる背景が,見逃せない。色川武大は、1929年生まれだから、高校生の頃なら、戦
後闇市の時代だろうし、内藤誠は、1936年生まれだから、高校生の頃なら、昭和20
年代後半だろうから、映像が描き出す背景は、色川より内藤の世代に近いと思われ
る。色川武大は、いまの都立文京高校の卒業生。高校生の場面で、校舎の屋上で本を
読んだり、寝転んだり、プールで水に足をつけたまま本を読んだりという場面は、何
処でロケをしたか知らないが、昭和30年代当時の都立高校の屋上を忍ばせる。神田
川、郊外の私鉄沿線の線路の風景など細部の映像が,見逃せない。

2つ目の軸は、色川の自画像に近い少年・武。少年は、作家志望の気持ちを持ち続け
るが、不器用にしか生きられない。やがて、色川同様に少年は、22歳で新人賞を取
るが、その後、まったく小説が書けないまま、雀荘やスナックに入り浸り、賭け麻雀
で負けた分の借金を依頼したりで、気分次第のその日暮らしで、担当編集者を泣かせ
ている。高校生を演じる斉藤工は、存在感があって、好演。だが、画面を良く見てい
ると作家志望の少年は、主人公ではないようだ。主人公というより、傍観者という感
じが強いからだ。ならば、傍観者は誰を見ているのか。少年の視線の先を辿る
と……。

さらに、3つ目の軸が見えて来る。高校時代の同級生が登場する。女生徒のキッコ。
学校のピアノの前で、音楽教師からクラシック演奏の特訓を受けている。だが、キッ
コは、ジャズピアニスト志望である。少年と少女は、ともに不器用にしか生きられな
いという、似ている部分があるが、だからといって、親密に付き合う訳ではない。そ
の辺りも、ふたりとも不器用。

作家・色川武大が見ているのは、この少女の成長の物語。傍観者として、距離を置き
ながら、少女を見ている。タイトルの「明日泣く」は、泣くのは明日だから、きょう
は泣かない。きょうは、「笑って生きてやる」というわけだ。社会からはみ出して生
きて行く若者像は、現代にも通じる。ただし、当時のはみ出し者には、はみ出し者を
受入れる「居場所」があったが、今の若者たちには、「居場所」がない。あるのは、
閉塞感ばかりなのではないか。そこは、大きな違いかもしれない。

しかし、明日は,いつまでも明日だから、要するに、私は泣かないという女性ピアニ
ストが、主人公。作家は、傍らで共に生きながら、そういう少女を見ている。つま
り、少年と少女の青春期の彷徨がテーマ。やがて、少年は、無頼派を看板にした小説
家になって行く。

数年後、欠けない作家生活をしている武は、知り合いのドラマーに連れられて入った
ジャズクラブで、偶然にも店でピアノを弾くキッコに出会う。化粧をした少女は、大
人びていて、クラブというほど大きな店ではないようだが、スナックというより,も
う少し広い店で、ジャズのライブをするピアニストになっていた。

「生きたいように生きて、泣いたりなんてしない。好きなことをしたから泣きをみ
る。それじゃ人生つまらない。私は後悔なんてしない絶対しない」というキッコの科
白が、キーワード。

少女から大人の女に成長して行く女性を演じるのは、モデル出身の汐見ゆかり。高校
生の制服を着ている場面では、地味目の少女だが、ジャズピアニストになり、化粧を
した顔は,別人のように派手だ。その落差には、驚いた。ただし、少しバター臭い顔
は、ちょっとイメージが違うような気がした。

そして、4つ目の軸は、ジャズ。ジャズピアニストで作曲家の渋谷毅が、オリジナル
楽曲を提供し、もう一つの主人公となる。ジャズ・パンクバンド「勝手にしあがれ」
のリーダー・武藤昭平が、武の知り合いで、売れっ子ドラマーの島田を演じ、演奏
シーンを披露する。

昭和30年代、40年代に青春時代を送った世代には、昭和レトロが懐かしく、現代の
閉塞感にうんざりしている若い人たちには、息抜きと希望を感じさせてくれるのでは
ないだろうか。

このほか、梅宮辰夫、島田陽子、坪内祐三、杉作J太郎が、存在感を漂わせながら、
脇に出て来るのも、見逃せない。

色川武大は、1989年、旅先で心筋梗塞の発作を起こして倒れ、1週間後に入院先の
東北の病院で逝去。私は、渋谷で、生前の色川武大に逢ったことがあるが、大きな体
で、はにかんだまま話をする姿を思い出す。

映画は、11月19日から,東京・渋谷のユーロスペースで、レイトショー公開され
る。
- 2011年9月29日(木) 11:43:14
9・XX  基地と原発がダブルイメージされる青年劇場「普天間」の舞台


「軍用」という名の放射能は、地域住民をふるさとから遠ざけ続けている。原子力に
よる放射能も、地域住民をふるさとから遠ざけている。青年劇場公演「普天間」を観
た。劇中の科白にも明確にあったが、演劇「普天間」では、原発と基地のアナロジー
を節目節目にダブルイメージしながら、進行した。それが非常に印象に残った。

舞台は、イントロダクションのほか、全10場で構成される。イントロダクション
は、2004年8月13日午後に起きた大型輸送ヘリコプター墜落「事件」を描く。
普天間基地に隣接する沖縄国際大学(沖縄県宜野湾市)の本館に墜落衝突炎上した
「米軍ヘリ墜落事故」の場面だ。事故処理もアメリカ軍に囲い込まれてなされてし
まった。音と群像劇の科白で、そういう事件の実態が再現される。

舞台では、アメリカ軍の基地に占拠される沖縄をどう描くのか。原作者の坂手洋二
は、基地周辺で生活する庶民の日常生活という空間、沖縄戦以降の沖縄の歴史という
時間を織り込むようにしながら、3時間のドラマを構成した。丹念な取材で集められ
た情報。普天間基地にふるさとを奪われた90歳の婦人からの聞き書きなど。「ウチ
ナーグチ」を活かした科白廻し。主人公とも言うべき普天間基地は、ゲイトと鉄条網
の一部が、大道具で提示されるが、それだけだ。舞台背景へと黒い闇のようにしか見
えはしないが、膨大な基地の空間ははっきりと観客の目の前に広がっているであろう
と想像される。そう、まるで影絵(シルエット)のように、普天間基地は役者たちの
芝居の背後に浮き上がって来る。

その基地のさらに後ろに浮き上がってくる別のものが、私には次第に見えて来た。

黙認耕作地(アメリカ軍に接収されている土地の元々の地主たちが、アメリカ軍に
黙って耕作している畑)に自動車を使った移動サンドイッチ店(サンドイッチシャー
プ)が登場する。この店は、舞台の展開にあわせて、普天間基地ゲート前、我如古の
家の庭、キャンプ・フォースターが見下ろせる国道81号線街道沿い、夜の飛行場の
滑走路近くなどを移動しながら、舞台廻しに使われる。

普天間基地は、戦前は、元々畑作地が広がる丘陵地だった。1945年の沖縄戦の最
中にアメリカ軍に接収され、アメリカ軍の「日本本土決戦」(連合国側は、「ダウン
フォール作戦」と呼んだ)に向けて、日本本土に侵攻する兵員や物資の輸送に使える
ようにと2400メートルの滑走路を持つ飛行場の建設が進められた。

役者たちは、多弁だ。原作者は、科白にたくさんの情報を詰め込む。沖縄戦、199
5年9月のアメリカ軍兵士による少女暴行事件、普天間基地の返還問題、「返還」
は、普天間から辺野古への移設にすり替えられるというまやかし。役者たちの口から
は、年号やデータが溢れる。舞台には、沖縄の歴史と現状を伝えようとする科白が、
早口で連打されてしまい、観客は、情報を受け止めることがなかなか難しいのではな
いか。

それでも、基地は、沖縄の人たちのふるさとをいまも奪い続けていることが判る。サ
ンドイッチシャープを経営する若者とその家族。店に来る客たち。劇中のゲートや鉄
条網の向うに、姿形は変わってしまったが、親たちのふるさとがあることを皆は知っ
ている。見えるのに近づけない。

そのなかで、「基地は、原発と似ているのよ」という科白も聞こえて来た。福島原発
周辺で始まったのは、見えているのに近づけないという生活だ。普天間基地周辺で
は、66年も、ふるさとから遠ざけられる生活を住民たちは、強いられている。いつ
果てるとも知れないという沖縄の基地周辺の日常。福島原発の放射能激甚地は、今
後、何年間ふるさとから遠ざけられる生活を強いられるのか。

特定の地域に原発や基地を押し付けるという日本社会の差別的構造も浮き上がって来
る。そういう問題提起が、舞台から明確に伝わって来る。

舞台の終幕近くの場面。我如古の家の庭には、いまもある「ガマ」。沖縄戦の最中に
住民たちが戦火を避けて逃げ込んだ「ガマ」と呼ばれる地下壕が登場する。老人たち
の述懷とそれを受け止める若者たち。しかし、だからと言って、「ガマ」は、過去に
さかのぼれても、基地内の幻のふるさとには、近づけない。

「ガマ」は、基地の沖縄と原発の福島を結びつける。

普天間基地は、現在、日米間の大きな外交課題となっている。政権交代しても、解決
できない政治課題になっている。沖縄全体の基地問題の象徴にもなっている。戦中、
アメリカ軍は、住民たちを収容所に入れ、「不在」を強いられた住民の意向を無視し
て、多くの基地群を建設した。そして、現在まで続くのは、住民たちが、いまも、ふ
るさとに帰りたくても帰れないという現実だ。

沖縄の基地と福島の原発事故は、日本社会全体の構造的な転換の必要性を指摘してい
る。

沖縄国際大学では、ことしも、8・13には、「普天間基地を使用する航空機の飛行
中止を求める学内の集い」を開いた。

東京の紀伊国屋ホールで9月13日に開幕された青年劇場公演「普天間」は、この
後、12月にかけて、各地で上演される。
- 2011年9月15日(木) 10:30:49
9・XX  *映評「風にそよぐ草」

アラン・レネ監督作品「風にそよぐ草」は、歌舞伎の如く、荒唐無稽である。この場
合、荒唐無稽は、シュールと翻訳されるかもしれない。画面は、アスファルトの隙間
で育つ草のアップから始まる。雑草は、風にそよぐ。草むしりをした人間ならば、誰
でも知っているように、こういう雑草は、抜いても抜いても生えて来る。生命力が強
く、しなやかである。雑草に勝つのは、唯一、季節だけだ。気温を下げて枯らさない
限り絶えない。いや、季節も負ける。翌年になれば、また、同じように生えて来て、
風にそよいでいる。

映画では、さらに、画面いっぱいの丈の伸びた雑草のイメージショットが、いわば、
キーワードとなるが、キーワードは、解き明かされない(ようだ)。

偶然の出来事がきっかけになって、初老の男は会ったことも無い女に興味を持つ。
ショッピングセンターの駐車場に停めてあった車のタイヤの傍に落ちていた女物の財
布を男が拾う。財布には現金は入っていなかったが、男の気を引いたのは、身分証明
書の写真2枚。特に、ゴーグルを額に載せた小型飛行機操縦免許の写真が、男の気を
引いた。男のなかで、「非日常」が弾ける。実は、この財布は、女性の歯科医の持ち
物だが、靴を買った後、街を歩いていて、トラースケートで付け狙っていたひったく
り男に肩に掛けていたバッグを奪われてしまう。ひったくり男はそのまま逃げて、現
金を抜いた財布を蛛車上に投げ捨てたのだ。画面には、女の顔がなかなか出て来な
い。

初老の男・ジョルジュは、電話帳で調べて女医・マルグリットに財布を拾ったことを
直接告げて、それをきっかけに、女医と付き合いたいという妄想を抱くが、実際に
は、電話をかけられず、拾得物として警察に財布を届ける。ひったくりの件をあす警
察に届けようと思いながら、自宅のバスタブで湯の泡のなかに顔だけを浮かべている
女のショットが、やっと画面に出て来る。中年の女だ。

警察からの連絡で、財布が戻った女医からジョルジュに電話がかかって来る。「お礼
を」「それだけ?」「ほかに何を」「会いたいとか」「ノン」「がっかり」と、ジョ
ルジュは、写真だけで不倫を妄想し、会ったこともない女に「欲望」を燃やして行
く。見知らぬ女との初めての電話にしては? 電話のやり取りを反省したジョルジュ
は手紙を書き、直接相手のポストに入れに行く。投函すると、書いた手紙の内容を反
省し、取り戻そうとして、女のマンションの居住者に怪しまれる。ジョルジュはス
トーカーの典型的な行動をし始める。「気にしない」という女からの返事の手紙に気
を良くしたジョルジュは自分の人生について、昔、飛行機の操縦を夢見たことについ
てなど、長い手紙を書くが、女からの返事は来ない。優しくされると勝手に舞い上が
り、冷たくされると、逆に燃え上がる。女の留守電になんどもメッセージを残し、反
応がないとなれば、女の車のタイヤを切り裂く。「犯罪行為」にまで暴走する。

独身の歯科医・マルグリットは男の行為を警察に相談する。警察は、男を自宅に訪ね
る。警察官の事情聴取に動揺する男。女は犯罪行為を告訴しないと言っているが、接
触するなと警察官は、アドヴァイスする。男からの執拗な接触がなくなると、マルグ
リットは警察に相談したことを後悔し始める。マルグリットは男の自宅に電話をし、
電話に出た男の妻から男の外出先を知らされると、街へ出る。男が、映画館から出て
くるのをネオン輝く「13区の映画館」の前のカフェで待つ。この面画が、華やかで
印象的だ(ネオンは、かつての輝かしい繁栄を誇った映画界、という感じ)。映画が
はねて、客たちが出て来る。面識も無いのにマルグリットはその中の男の一人をジョ
ルジュだと判定し、後を付けて声をかける。ジョルジュはマルグリットに驚く。「愛
の告白?」「違うわ」「なに」「心配になっただけ」「確かに愛さなくても心配は出
来る」「そうね」「用件は?」「コーヒーでも」。ふたりは先ほどまでマルグリット
が待っていたカフェに戻る。マルグリットがジョルジュに夫妻で飛行場に来ないかと
誘うと、憤慨をして帰ってしまう。不倫欲望の妄想を抱くジョルジュはマルグリット
の「日常的な」誘いに逆上する。拒否されると燃えるのが、男女の心理の妙だろう。

嫌がっていたのに、マルグリットの心理逆転。今度は、マルグリットがストーカー行
為へ走る。ジョルジュの自宅に電話をし、妻が出ると、妻と話がしたいと申し入れ
て、歯科の同僚の若い女医とともにジョルジュの自宅へ向かう。マルグリットは、
ジョルジュの妻と話をする。外に停めた車のなかで、マルグリットの同僚の若い女医
が待っていると、ジョルジュが帰って来る。不倫欲望の妄想を抱くジョルジュはその
女医に近づき、甘い言葉をささやき、キスをする。

女医と共に自宅に入り、リビングで妻と話をしているマルグリットを見かけると、突
然怒り出し、マルグリットを追い出す。拒絶されればされるほど燃え上がるのは、マ
ルグリットの方だ。仕事も手につかなくなったマルグリットは、同僚の女医を介し
て、ジョルジュ夫妻を飛行場に招待する。飛行機に乗る前に、事務所のトイレに行く
ジョルジュ。小用を済ませたが、なぜか、ズボンのジッパーが、引っ掛かって閉まら
ない。つまり、「社会の窓」が半分開いたまま。小型機に先客を乗せていたマルグ
リットが降りて来る。事務所に向かうマルグリットとトイレ帰りのジョルジュが、長
い渡り廊下で出会う。目が合い、歩み寄り、抱擁をしキスをするふたり。ジョルジュ
の背中に、「終(Fin)」のマークが輝く。

映画の結末は、シュール。自分の小型機にジョルジュ夫妻を乗せて、男の昔の夢を実
現させようと、ジョルジュに操縦桿を握らせるマルグリット。「社会の窓」が半分開
いたままなのにマルグリットも気がつく。

素人の操縦で、曲芸飛行のように舞い狂う飛行機。その挙げ句、小型機は、急降下を
し、墜落したように見える。冒頭含めて、何度か画面に出て来ていた、画面いっぱい
の丈の伸びた雑草のイメージショットが、また出て来る。事故後の飛行場周辺の雑草
の荒れ野だったような気がする。雑草は、フランス語では「狂った草」の意味もある
という。狂った草の荒れ野。

→ジョルジュ夫妻と共に飛行機事故で、死亡(あるいは、マルグリットによるジョル
ジュ夫妻連れの心中? しかし、動機は? ストーカー行為のように、欲望が欲望を
再生産し、不条理な行動に駆り立てるから、動機はない?)。

しかし、ラストショットは、全然違う。
→「猫になったら、私も猫の餌を食べることが出来るの」と幼女が母親に聞く場面が
インサートされている。輪廻転生で、マルグリットは幼女になったのか? 幼い時代
から人間は、不条理な行動に駆り立てられている。それが、人生さ、というのが、監
督からのメッセージというわけか。画面には再び「終」のマークが輝く。

アラン・レネ監督は、どちらを本当のラストカットと考えているのだろうか。「い
や、両方さ」という答えが返ってきそうだな。シュールレアリストの同調者であるア
ラン・レネ。映画の撮影時は、86歳。老いて益々、映画製作という不条理な行動に
駆り立てられている。

映画は、原作の小説に忠実に映像化されているという。原作は、クリスチャン・ガイ
イ。この映画には、出演者のほかにナレーターがいる。エドゥアール・ベール。彼
が、原作のテキストを忠実に画面に響かせる。ガイイの文体に声を与える役割をして
いる。アラン・レネ監督は、ガイイの文体に声を与え、文字で描かれた作品世界をき
め細かく映像化する。肯定と否定が共存するガイイワールド。小説と映画の幸福なる
融合の世界が、画面に繰り広げられる。

この映画は、12月17日から、東京の岩波ホールほかで、順次、ロードショー公開
される。
- 2011年9月5日(月) 6:17:50
8・XX * 映評「恋谷橋」


リストラ、帰郷、寂れた温泉街、老舗の旅館、幼なじみとの恋、板前とお嬢さん、姉
の離婚騒動、父の病気、旅館の経営不振、廃れ行く伝統工芸、後継者問題、町おこし
のイベントなど、とこの映画に出て来るキーワードを並べると、なにか、手垢にまみ
れた言葉で世界を再構成しているような気にならないだろうか。

後藤幸一監督作品「恋谷橋」の試写を見た。東京のデザイン事務所で働いていた島田
朋子(上原多香子)が、不況によるリストラで解雇され、故郷の鳥取県三朝町に帰っ
て来た。実家は、三朝温泉の老舗の旅館だが、ここも不況で寂れている。

映画製作に当たって、ロケ地候補選択に当たって、全国から「すっかり寂れた温泉
街」を「募集」して、三朝温泉を選んだという。

5年振りにふるさとに帰って来た朋子は、幼なじみで初恋の相手だった実家の旅館の
板前・圭太(水上剣星)と再会し、恋心に火をつけなおす。さらに、大阪で暮してい
る朋子の姉が、夫と離婚したいと言って、戻って来る。旅館の資金繰りに追われる父
親が、脳梗塞で倒れる。母親は、離婚して実家に戻って来るなら旅館の女将を姉に任
せ、自分は、父親の代わりに経営に専念したいと思っているが、姉の離婚話は、なん
か、不確かで、曖昧なようだ。案の定、姉は、ほとぼりが冷めたらしく、大阪の夫の
元へ帰ってしまう。

朋子と圭太は、お互いの恋心を育てながら、温泉町の地域おこしのためのイベント
(地域の伝統工芸である和紙を活用した灯りフェスティバル)を計画、実行に移そう
とする。恋を育て、若女将として、老舗旅館を立て直し、あわせて町おこしも探る。
それがダブルイメージとなり、映画は、三朝温泉周辺の豊かな自然環境(三徳山の断
崖に建つ投入堂、清らかな流れの三朝川、恋谷橋)を映し出しながら、展開するが、
若い人の故郷へのUターンというメッセージも含めて、なんか、ドラマ仕立てなが
ら、自治体のピーアール映画のような感じがしませんか。やはり、冒頭でキーワード
を並べ立てたような印象に集約されてしまうと、私は思う。

若いカップルを囲む脇役は、松田美由紀、小倉一郎、石橋蓮司、吉行和子、松方弘樹
などと実力俳優が並ぶ。

この映画は、11月12日より、東京のシネマート系などの映画館で、ロードショー
公開される。
- 2011年8月31日(水) 8:17:29
8・XX * 子供歌舞伎の劇評


松竹に所属する歌舞伎役者が演じる歌舞伎は、「大歌舞伎」と呼ばれる。江戸時代、
常打ちの官許の芝居小屋で上演された芝居以外は、「小芝居」と呼ばれた。寺社の境
内で臨時の小屋を立てて演じられたので、「宮芝居」、「宮地芝居」、「笹幕芝居」
(蓆掛けか)、「百日芝居」(常打ちではない、期間限定)などと呼ばれた。官許の
芝居小屋の上演は、「大芝居」と言う。その流れが、「大歌舞伎」と言うのだろう。
「小芝居」は、幕末、明治、大正、昭和と戦前まで、東京でも生き残った。東京の最
後の小芝居の小屋は、本所の「寿劇場」で、1945年3月10日の空襲で焼失し、
消滅してしまった。

今も、実は、「大歌舞伎」ではない、歌舞伎を観ることができる。今上映中の映画
「大鹿村騒動記」で描かれている長野県の大鹿村に伝承される「大鹿歌舞伎」(村の
中にある2つの神社に廻り舞台を備えた伝統的な舞台があり、年2回春秋に上演され
る)など、「地歌舞伎」と呼ばれる歌舞伎だ。映画は、村の食堂を経営する男(7月
に亡くなってしまった怪、あるいは、快優の原田芳雄)が、地歌舞伎の役者を演じて
いて、熱演だった。また、毎年8月、大阪の国立文楽劇場や東京の国立劇場(小劇
場)で上演される松尾塾子供歌舞伎も、私は、毎年拝見している。大阪在住の小中学
生が、本格的な歌舞伎を演じる。国立の劇場を使用し、大歌舞伎同様の道具や衣装を
用い、人間国宝の太夫を始め、演奏の連中も、歌舞伎座や国立劇場に出演するクラス
が、顔を揃えるという豪華なものだ。子供たちも、いわゆる「子供の科白廻し」では
ない形で、科白を言う。

松尾塾子供歌舞伎は、旅回りの役者から身を起こして、興行師として独立をし、戦前
から歌舞伎の地方興行などで松竹と関係を結んで来た松尾國三が作った芸能振興財団
が、1989年から毎年夏に公演をしている。松尾芝居ともいうべき独特の台本で、
子供たちに演じさせるときもあり、大歌舞伎では、上演されない演目を観ることが出
来るので、愉しみにしている。


今年の出し物は、「神霊矢口渡」「傾城阿波の鳴門」「釣女」。国立劇場で、27日
と28日の週末に上演された。


「神霊矢口渡」は、06年12月の歌舞伎座で観ている。「神霊矢口渡」は、177
0年人形浄瑠璃初演。歌舞伎では、1794年初演。良く上演されるのは、時代浄瑠
璃全五段のうち、四段の切り「頓兵衛住家」。原作は、福内鬼外(ふくうちきが
い)。節分に因んだ筆名。江戸の科学者(本草学、蘭学)で、マルチ人間の平賀源内
である。新田神社の神職に源内が依頼されて原作を仕上げた。竹本「琥珀の塵や磁石
の針、粋も不粋も一様に、迷うが上の迷いなり」などと、当時の常人には、考え出せ
ない科白も散見するが、その割には、荒唐無稽な物語であり、そもそも外題にある
「神霊」とは、なんとも非科学的である。しかし、娘役に仕どころが多い(「さわ
り」「手負い」「立ち回り」「殺し」)ため、娘の大役として、花形の若女形が、良
く演じるために、歴史のなかを生き抜いて来た。

今回も上演されるのは、見せ場の「頓兵衛住家」。「頓兵衛住家」は、六郷川(今の
多摩川)にある矢口の渡守・頓兵衛の家である。時は、南北朝時代。南朝方の新田義
興が、朝敵足利尊氏討伐のため、矢口の渡を渡ろうとしたところ、足利方に裏切った
頓兵衛は、舟の底に穴を開け、義興を殺す。その褒美を元に大きな家を立てたのが、
俄成金の頓兵衛という男だ。舞台下手に「矢口の渡し」と書かれた杭が立っている。
上手の竹本出語りは、東太夫(「人形振り」の場面のみ、葵太夫が語る)。三味線方
の鶴澤慎治。

芝居の主役は、頓兵衛の娘・お舟である。頓兵衛が留守で、お舟が留守番をしている
と義興の弟・義峯が、花道から恋人の傾城うてなを連れた道中(逃避行)の体で、宿
を探して川端まで来ても宿が無く、一夜の宿を借りに来る。ふたりは、黒地に露芝の
紋様の縫い取りという、典型的な道行(比翼の衣装)のこしらえ。宿屋ではないの
で、お舟は、一旦、断るが、戸の隙間から覗き見た美男の義峯に一目惚れ。いかにも
貴人で、新田方と判りながら、一目惚れしたお舟のエネルギーが、物語を一気に展開
させる。恋人うてなを妹と偽り、お舟の恋心を利用しようとする義峯。お舟は、義峯
への思いと南朝方の新田一族を成敗しようとする親への思惑に悩む。

この場面を今回は、お舟の人形振りで、演じる。定式通りに人形遣の口上があり、東
太夫から交代した竹本の葵太夫と三味線方の鶴澤慎治を改めて紹介して、「東西東
西」となる。やがて、ふたりは、新田家の御旗の威力に当てられ、気絶してしまう。
江戸の科学者の筆は、どこまでも、非科学的である。

この家の下男・六蔵は、義峯の正体を悟り、義峯を捕らえて、己の手柄にしようとす
るが、お舟は、身体を張って義峯らを逃がそうとする。六蔵から注進を受け、夜にな
ると白髪頭(「銀薬缶(ぎんやかん)という鬘)に赤銅色に日焼けした、いかにも憎
まれ役「大敵(おおがたき)」という扮装の父親・頓兵衛が帰って来る。舞台下手の
薮の中から姿を現す。家の戸が開かないので、横の壁を刀で壊し、自分の家に忍び入
る。下手の薮が、引き込まれ、舞台が回ると住家裏手になる。裏手に廻って来た頓兵
衛は、二階(歌舞伎独特の二階構造なので、せいぜい「高床」のような感じ)の寝所
にいるはずの義峯を殺そうと、床下を破り、そこから二階の座敷に刀を突き刺し、寝
ている義峯を襲う。

ところが、義峯の身替わりに寝ていたのは、お舟で、父親の刀で刺されてしまう。逆
海老ぞりになるお舟に頓兵衛が、刀を持ったまま、覆い被さる。人非人・頓兵衛は、
娘の命など物ともせず、「矢口の渡し」の柱を斬り付けると、大きな音を立てて、の
ろしが上がる。のろしの合図で仲間を集め、逃げた義峯らを舟で追い掛けようとす
る。

じゃらじゃらと「鳴り鍔(つば)」の刀を鳴らしながら頓兵衛が、花道を引っ込むの
は、「蜘手蛸足(くもでたこあし)」(あるいは、「蜘手蛸手(くもでたこで)」)
という特殊な演出(舞台上手で附け打ちが打つ附けの音と鍔が鳴らされる音が交錯す
る。役者は、首を振りながら向う揚幕に引っ込む)。13歳の中学生が、頓兵衛の
引っ込みを定式通りにきちんと演じる。

一方、瀕死ながら、恋心に燃えて気丈なお舟は、住家の裏の六郷川に突き出た櫓に向
かおうとする。櫓の太鼓(落人、つまり義峯確保の偽の知らせ)を叩いて、包囲網を
解かせ、父の仲間たちを引き上げさせ、父の企みを阻止しようとするお舟。この辺り
が、芝居のクライマックス。命を掛けて、自分が一目惚れした貴人義峯らを逃がそう
とする娘心が哀れである。お舟は、遂に太鼓を叩く。この「太鼓叩き」の場面を、
「人形振り」にする演出もあるという。

上手から出て来た船上の頓兵衛は、執拗に義峯らを追っている。花道七三では、頓兵
衛に殺された新田義興の亡霊が、すっぽんから現れ、弓を引き絞っている。頓兵衛の
首に突然、白羽の矢が刺さり、極悪人は、滅びるという話。竹本「怪し、恐ろし」
と、最後まで、江戸の科学者は、非科学的な話を展開する辺りも、「おもしろし」。

ところで、この芝居(1770年人形浄瑠璃初演。1794年歌舞伎初演)には、さ
まざまな狂言の有名場面を思い出させる場面がある。例えば、お舟の義峯一目惚れの
辺りは、「義経千本桜」の「すし屋」(1747年初演)を下敷きにしているのだろ
う。つまり、弥助とお里の場面だ。ここの下敷き説は、判りやすい。

竹本「薮よりぬっと出たる主の頓兵衛」という場面で、舞台下手に設えた薮から帰宅
する頓兵衛の出の場面は、「絵本太功記」(1799年初演)の十段目、通称「太
十」、「尼ケ崎閑居」の光秀の出にそっくり。さらに、光秀が、久吉(秀吉)と間違
えて母の皐月を殺してしまうという状況設定まで、初演時期を見れば、頓兵衛による
お舟殺しの方が、先行作品だろうが、そっくり。

お舟が、川に突き出た櫓の太鼓を叩く場面は、「伊達娘恋緋鹿子」(1773年)の
八百屋お七、通称「櫓のお七」の場面を彷彿とさせるではないか。これも、初演時期
では、お舟の方が、先行している。

いろいろな狂言が、重層的に連なって、歌舞伎の狂言ができ上がっていることは、容
易に想像できるが、どちらが先かは、単に初演の時期だけでは、簡単に決められな
い。繰り返し上演される中で、後に、「入れ事」として、新たな演出が、付け加えら
れる事があるからだ。そういうところも、荒唐無稽で、おもしろければ良いというと
ころが、歌舞伎の奥深さだからである。


「傾城阿波の鳴門」は、「どんどろ大師の場」。通称「どんどろ」。近松門左衛門作
「夕霧阿波鳴渡」を元に近松半二らの合作で、「傾城阿波の鳴門」に改作した。今回
の上演は、更に改作された「国訛嫩笈摺(くになまりふたばおいずる)」で、大坂上
本町の「どんどろ大師」(土井大炊頭(おおいのかみ)の屋敷にあった「どい殿大
師」の「どいどの」が、「どんどろ」に訛ったと言われる)の門前が舞台になってい
る。本来は、全十段の浄瑠璃の八段目「大坂玉造の十郎兵衛内の段」。そこを歌舞伎
は、「入れ事」で、父親の自宅ではなく、「どんどろ大師」門前という公衆の場での
母と娘の出会いと別れに変えた。

主家から盗まれた家宝の刀探索を命じられた両親が、6年前大坂に出てしまい、それ
を追って、母親に実家に預けられていた娘のおつるが、巡礼の旅をしながら大坂に出
て来る。門前の茶店で、ふたりの尼が、軽妙な大坂弁でやり取りする場面が、チャリ
場。その後、花道から出て来たのが、おつる。9歳である。両親を捜しながらの一人
旅。「巡礼にご報謝」。大師の境内から出て来たのが、母親のお弓。尼と一緒に参詣
に来て、幼い巡礼に話を聞いていると、両親の名から巡礼が自分の娘だと判る。しか
し、父親の十郎兵衛は、今や、名前も「銀十郎」に変えて、盗賊になっている。お弓
と夫婦で、盗人稼業をして、家宝の刀を探しているから、母子と言えども、本名を名
乗れない。盗人夫婦の娘と判れば、おつるにも危害が加わりかねない。名乗らないま
ま、娘を花道から去らせるが、幼い娘の後ろ姿を見ているうちに、母情は募り、お弓
は、お鶴を追って、花道を追いかけて行く。

贅言:今回は、子供歌舞伎なので、おつるを演じる少女も、8歳。ほかの巡礼は、5
歳、6歳、8歳と、皆、小さくて可愛らしい。そういう子供たちの熱演を見ながら
も、いつもの大歌舞伎の舞台同様の真面目さで、端正な葵太夫が、要所要所の語りを
受け持つ姿が、微笑ましい。


「釣女」は、河竹黙阿弥作。狂言の「釣針」を歌舞伎舞踊に仕立てた。1901(明
治34)年東京座で「戎詣恋釣針」という外題で、初代市川猿之助らの出演で初演。
大名と家来の太郎冠者、上臈(美女)と醜女という典型的な4人の登場人物が、繰り
広げる悲劇というか、喜劇だ。西宮の戎神社に詣でた大名と太郎冠者が、嫁探しを祈
願する。神のお告げで授かった釣竿を使って、大名は、美女を釣り上げて、喜んで、
その場で祝言を挙げる。それを見て真似ようと太郎冠者が同じように釣竿を使って嫁
を釣り上げると、何と、醜女。神さまから授かった縁だと醜女は、太郎冠者から離れ
ない。婚礼だけは、勘弁してと逃げる太郎冠者。それだけの話。逃げる太郎冠者は、
醜女に釣り上げられる。だから、「女釣り」の筈が、「釣女」になってしまう。大歌
舞伎では、観たことがない演目だった。
- 2011年8月30日(火) 10:06:53
8・XX * 映評「大鹿村騒動記」

遅ればせながら、原田芳雄の訃報を聞いてから、すでにあちこちの映画館で上演して
きた「大鹿村騒動記」を観る気になって、新宿まで行って来た。監督が、「どついた
るねん」などの作品を持つ阪本順治。主演が先日亡くなった原田芳雄。共演人が、癖
のある役者ばかり。その上、大鹿歌舞伎が、物語の主軸になるというのだから、原田
芳雄ファンやあるいは、(地)歌舞伎ファンには見逃せない映画だろう。まず、長野
県大鹿村と大鹿歌舞伎の概要を頭に入れておこう。

「南アルプスと歌舞伎の里」、大鹿村は、長野県下伊那郡にある山村だ。3000
メートルから2000メートル級の山々が連なる南アルプス連峰の西側の谷間(たに
あい)にある。大雨が降ると川が氾濫し、時には土砂崩れも発生する。この村には、
毎年、5月(大磧神社)と10月(市場神社)に地歌舞伎が、上演される。演じる役
者たちは、地元の人々である。神社の境内などに今も残る舞台は、7つあるという。
人力で動かす廻り舞台も使える舞台もある。大磧神社と市場神社の舞台は、いずれも
間口6間(10・8メートル)、奥行き4間(7・2メートル)で、中央には、奈落
の中で、二人掛かりで動かす廻り舞台がある。短いが、長さ4間の花道もある。幕末
から明治期には、大鹿村には、13の舞台があったという。

大鹿村の地歌舞伎は、1767(明和4)年の地元の名主の家の古文書に奉納芝居上
演の記録が残っているという。元禄期になると、江戸や上方の歌舞伎が、旅興行など
を通じて、地方に広がって行く。大鹿村の歌舞伎は、地元に言い伝えでは、300年
以上は続いているという。戦争で男たちが兵隊の取られたときは、村の女たちだけで
上演したという。1957年には、「大鹿歌舞伎保存会」が、できた。大鹿歌舞伎の
演目は、丸本もの(義太夫狂言)を中心におよそ30演目があるという。松竹が明治
以降徐々に乗っ取った大歌舞伎では、演じなくなった演目もあるということだ。観た
ことがないので、実際の大鹿歌舞伎のレベルは判らないが、衣装などは、本格的なも
のに見える。映画では、歌舞伎役者ではないとしても、本物の役者が地歌舞伎らしく
演じるので、演技の方は判らない。

映画は、大鹿村「騒動記」というタイトルだから、「騒動記」も説明しなければなら
ないだろう。「仇(あだ)も恨みも是(これ)まで是まで」という映画の中で上演さ
れる歌舞伎「六千両後日文章(ろくせんりょうごじつのぶんしょう)」の景清の科白
が、キーワードになっている。

大鹿村でシカ肉料理店「ディア・イーター」を営む初老の男の風祭善(原田芳雄)
は、大鹿歌舞伎の主役を勤めて来た。年2回の地歌舞伎上演では、脚光を浴びるが、
実生活では、女房が幼なじみの親友と駆け落ちをし、以来ひとりで生活をしている。
山間の村にバスが着いた。運転手の一平(佐藤浩市)も、大鹿歌舞伎の女形を演じて
いる。数少ない乗客のひとりは、都会から田舎の村に逃げて来た青年(冨浦智嗣)
で、「ディア・イーター」(ロバート・デ・ニーロら出演、1978年公開のアメリ
カ映画「ディア・ハンター」の捩り? いや、単なる「鹿狩人」の捩り? 映画
「ディア・ハンター」は、ベトナム戦争の過酷な体験で、心身に後遺症を持った3人
の若いベトナム帰還兵の物語。風祭善も、幼なじみの親友と妻が、駆け落ちをしてし
まったという体験から立ち直れずにいることを思えば、やはり、アメリカ映画「ディ
ア・ハンター」の捩りだろうか)のアルバイト募集に応募し、やがて、善とふたりで
暮らしを始める。「誰も知っている人がいない所へ来たかった」という青年は、「性
同一性障害」だという。中年のカップルも降りて来る。サングラスを掛けている女
が、サングラスを外した所を見た一平は、女が、18年前駆け落ちした善の元女房の
貴子(大楠道代)ではないかと思い、声をかけるが、黙って行ってしまう。連れの男
は、善の親友の治(岸部一徳)だろう。治は、貴子と同棲していたが、「認知症」に
なって、自分が駆け落ちをしたことも判らなくなってしまった貴子を善に返しに来た
のだ。治は、善に会うとこう言う。「ごめん、どうしようもなくて……返す」。怒っ
た善は、治に対して、「目ん玉くり抜いてやる」と殴り掛かるが、無邪気な少女に
戻ってしまった認知症の元妻の姿を見て、怒りも燃え上がらない。

村では、大鹿歌舞伎の上演を5日後に控えて、出演する村民たちを中心に稽古に追わ
れている。その上、村を通るリニア新幹線の誘致問題を巡る賛成反対で村を二分して
もめている。「駅ができれば、若い連通が戻って来る」というのが、不動産屋の権三
(石橋蓮司)で、歌舞伎では、源頼朝の家臣・畠山重忠を演じる。「農業を捨てる人
間だけが増えることになる」と反論する農業の満(小倉一郎)は、同じく源頼朝の家
臣・三保谷四郎国俊を演じる。対立するふたりをなだめるのは、村の萬屋店主の玄一
郎(でんでん)は、源頼朝を演じる。村役場の職員健太(加藤虎ノ介)は、ひょうき
ん役の大鹿軍内を演じる。善は、主役の景清を演じる。重忠の妻・道柴を演じるの
は、一平の予定だが、歌舞伎上演本番の前日に村を襲った暴風雨で起きた土砂崩れに
巻き込まれて怪我をしてしまい、出演不能に陥る。助っ人で、道柴を演じることに
なったのは、認知症で記憶力や判断力が衰えたとはいえ、昔演じた道柴の科白だけ
は、鮮明に覚えているという貴子であった。

ということで、大鹿歌舞伎の上演を控えて、村は、稽古で忙しいし、リニア誘致問題
で揺れているし、善と治と貴子の、18年振りの駆け落ち出戻り問題もややこしい。
村の職員美江(松たか子)は、東京に出て行った男を思い切れずに思案顔。バスの運
転手の一平は、美江に好意を寄せているが、言い出せない。貴子は、善が好きな烏賊
の塩辛を商店から黙って持って来てしまうし、台所の食材を片っ端から食べてしまう
などなどいろいろ問題行動ありで、まさに「騒動記」ということになる。果たして、
歌舞伎は、無事に幕が開くのか。上演される演目は、「六千両後日文章 重忠館の
段」。

「六千両後日文章 重忠館の段」」は、何故か、歌舞伎なのに「段」となっている
が、歌舞伎ならば「場」であろう。「段」は、人形浄瑠璃の用語だ。源平合戦も終わ
り、平家は滅亡し、源氏の世になる。舞台は、源頼朝の重臣・畠山二郎重忠の屋敷。
重忠は、大歌舞伎でも登場する人物。同じく源頼朝の重臣ながら、重忠をライバル視
する梶原平次景高が、偽のお墨付きを持って、重忠館を訪れる。景高も大歌舞伎に登
場する人物。重忠館に匿われている平清盛の嫡孫・六代の君の首を差し出せと迫る。
歌舞伎で良くあるパターンの筋立て。しかし、重忠は、頼朝から六代の助命の約束を
取り付けているから、お墨付きが、偽物だと看破しているので、景高を追い返す。

夕暮れ、大雪の中、ひとりの修験者が訪れ、一夜の宿を乞う。平家方の武将・悪七兵
衛景清(善・原田芳雄)だ。応対にでた道柴(貴子・大楠道代)は、修験者を景清と
見破り梅の枝を差し出して、泊められぬと断る。景清は、立ち去ろうとしたが、梅の
枝を見て、六代の君が匿われていることを知る。

修験者の困惑を見とがめた重忠(権三・石橋蓮司)は、それが景清と知らずに、一夜
の宿を提供する。来客に清盛の髑髏で作った杯で、もてなす重忠。それとしり拒絶す
る景清。修験者の正体を怪しむ重忠。修験者の装束を脱ぎ、正体を顕した景清。道柴
に六代の君を連れて逃げるように伝えるが、時すでに遅し。重忠の手勢に囲まれてし
まう。景高の手勢も、頼朝(玄一郎・でんでん)も家来を連れて登場する。頼朝の家
臣、三保谷四郎国俊(満・小倉一郎)と立ち回りを演じる景清。勝敗はつかないが、
源氏の世は見たくないと自ら両眼をくり抜く景清。「仇も恨みも是まで是まで」。そ
のさまを見て、頼朝は、「あっぱれ」と、景清に日向の国を与える。盲目の琵琶法師
となって日向に下る景清という「景清伝説」を下敷きにした演目も、幕。

「景清伝説」の歌舞伎は、大歌舞伎では、「嬢景清八島日記(むすめかげきよやしま
にっき)」を下敷きにした松貫四(吉右衛門のペンネーム)書き下ろし新作歌舞伎
「日向嶋景清(ひにむかうしまのかげきよ)」を05年11月歌舞伎座で、観たこと
がある。主役の景清は、もちろん吉右衛門が演じた。人形浄瑠璃では、「嬢景清八嶋
日記」を10年2月国立劇場で、観ている。

「嬢景清八島日記」は、1764(明和元年)年、大坂豊竹座の初演。全五段の時代
物。「嬢景清八嶋日記」の主人公は、平家の残党、悪七兵衛景清(あくしちびょうえ
かげきよ)で、景清は、源頼朝暗殺を企てながら、失敗をし、投降の勧めに反発を
し、抵抗の証に、自ら己の両目をえぐり、盲目の身になり、日向嶋(ひゅうがじま)
に流されている。いわば、囚われのスパイのような立場である。だから、源氏方は、
景清から目を離せない。実際、景清は、密かに平重盛の位牌を隠し持ち、命日には、
供養をしている。源氏への強烈な反抗心を秘めながら暮らしている。鬼界が島に流さ
れた俊寛のような身の上だ。幼い頃父と別れた娘の糸滝が、景清を訪ねて来るという
話だ。自ら身を廓に売り、その身代金を父に届けようという糸滝を景清は、追い返し
てしまう。

映画では、原田芳雄の存在感を堪能した。70歳を超えて、俳優・原田芳雄の「第3
期の始まり」と原田芳雄自身は、言っていたが、実際には、「終わりの始まり」で第
3期を構築せずに亡くなてしまった。残念。第1期、第2期では、私は、原田芳雄の
出演した映画を何本見ただろうか。漏れているものもあるが、いまも印象に残る作品
を上げれば、次の通り。

「八月の濡れた砂」「赤い鳥逃げた?」「竜馬暗殺」「祭りの準備」「ツィゴイネル
ワイゼン」「美しい夏 キリシマ」「父と暮せば」「実録・連合赤軍 あさま山荘へ
の道程」「火垂るの墓」「黄金花」などなど。そして、今回の「大鹿村騒動記」。
「仇も恨みも是まで是まで」とは、風祭善の人生とダブルが、原田芳雄の役者人生と
も、ダブるのではないかと、思った。

このほか映画に登場した役者では、貴子の父で、大鹿歌舞伎保存会会長に三国連太
郎、満の息子で郵便局員、黒衣役の寛治に瑛太、治が住み込む旅館の主人に小野武彦
らが出演する。映画の中で、「一度目は、悲劇。二度目は、喜劇」(カール・マルク
ス)と呟くようにいうのは、確か、この旅館主人。クライマックスの大鹿歌舞伎上演
シーンで、観客を演じるのは、地元を中心とした850人のエキストラが、雰囲気を
盛り上げている。「騒動記」が描き出す現代の村の人間模様。歌舞伎が描き出す「伝
説」の人間模様。いつしか、ふたつの人間模様が重なって来る。

監督の阪本順治は、この作品の「世界観はフェリーニ」と言ったという。役者原田芳
雄の醸し出す「独特の不良性」、原田芳雄は、「サングラスとテンガロンハットを身
につけた“カブキ者”なんです」という阪本監督の言葉。過疎の村とそこに伝わる伝統
の地歌舞伎という祝祭的な演劇空間が、原田芳雄という役者を異空間へ送り届ける
「棺桶」(タイムマシーン)になったのかもしれない。

「風の中に聞こえる 君の声が聞こえる よみがえるよ 遠いさすらい さがし求め
る 太陽の当たる場所」

画面に合わせて流れてくる曲は、今は亡き、忌野清志郎作詞作曲、歌の「太陽の当た
る場所」。

急峻な谷間の村。急斜面には棚田や河川。大磧神社の舞台機構。オールロケーション
で撮影された映像は、日本の風景を映し出す。
- 2011年8月24日(水) 6:29:58
7・XX * 映評「沈黙の春を生きて」

ドキュメンタリー映画である。坂田雅子監督作品「沈黙の春を生きて」は、タイトル
からも判るように1962年に出版されたアメリカの作家で、海洋生物学者のレイ
チェル・カーソンの「沈黙の春」という農薬の危険性を告発した名著から借用してい
る。その結果、以降、DDTの使用が、禁止された。「沈黙の春(Silent Spring)」
とは、春が来たのに生物が死に絶えて「もの言わぬ春」の意である。この映画では、
農薬の一種である「枯葉剤」の危険性を告発している。こちらは、猛毒のダイオキシ
ンである。

映画は、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」出版当時の反響とレイチェル・カーソ
ンのインタビューを納めた当時の実写映像で、始まる。「化学物質は、放射能と同じ
様に不吉な物質で世界のあり方、そして生命そのものを変えてしまいます。いまのう
ちに化学物質を規制しなければ大きな災害を引き起こすことになります」(レイチェ
ル・カーソン)。次いで、ベトナム戦争当時のアメリカの枯葉剤散布の実写映像が、
映し出される。複数のプロペラの軍用機が、両翼から枯葉剤を散布する様がスクリー
ンいっぱいに広がり、まるで、波をけたてて水上飛行機が滑走するような気がする。
その映像に枯葉剤を散布しても、自然環境への影響は、少なく、1年程で、土壌も恢
復し、人体など生命にも影響はほとんどないという内容の米軍の見解が、ナレーショ
ンとして被さって来る。枯葉剤は、ベトナムのゲリラ軍が身を潜める隠れ場所を一掃
しようと米軍が編み出した戦略である。絨毯散布の結果、ベトナムに住むおよそ40
0万人の頭上に直接散布された。その被害は、戦後35年経っても、継続している。
まるで、放射能の被害と同じではないのか。ジャングルの枯れ木しか生えていないベ
トナムの山野のモノクロの映像が映し出され、やがて、それが、緑のカラー映像に変
わる。

坂田雅子監督は、2003年からベトナム戦争で使用された枯葉剤の被害者や家族、
ベトナム帰還兵、科学者を訪ねて、ベトナムやアメリカの各地で取材をし、2007
年には、映画「花はどこへいった」を製作した。2011年には、「枯葉剤の傷痕を
見つめて〜アメリカ・ベトナム次世代からの問いかけ」を制作し、NHKのETV特集
で、放送された。今回は、「花はどこへいった」で登場したベトナムの被害者や家族
たちのその後を伝えるとともに、2010年、この映画の撮影のために、アメリカ人
の枯葉剤被害者の女性(50歳で亡くなった帰還兵の父親を持ち、誕生時に右脚の膝
下、左足の爪先、両手の複数の指の欠損という障害がある)と同行取材をし、彼女と
その夫の癒しの旅、ベトナムの被害者宅の訪問など一部始終を撮影し、「沈黙の春を
生きて」という映画を完成させた。

ベトナム側の元兵士にベトナム戦争の体験や地上から目撃した枯葉剤散布の様子を語
らせ、元兵士の家に行くと枯葉剤の毒性に体を冒されて寝たきりの息子がいる。目が
見えなくなった娘のいる住民の家。皮膚を冒され、顔を含め体中が、黒いまだら模様
に汚された姉と弟のいる家族。頭が異様に大きくなった青年。両脚が、途中から欠損
している青年。枯葉剤の恐ろしさは、絵が見えなくなる、手足の欠損、内蔵や脊椎の
不具合、頭、頭骨の変型、皮膚の異常など……、症状が、違うという程、多様な被害
だということだろう。

間に、アメリカ人の枯葉剤被害者の女性、ヘザー・A・モリス・バウザーの父親のこ
と、ベトナム戦争から帰還した後、38歳で発症し、50歳で亡くなるまでの様子、
39歳になった自分のこれまでの人生のことなどが、語られる。加害者として、米軍
で枯葉剤を散布する作業に携わった兵士たちも、汚染され、後に発症し、生まれて来
る子どもたちの健康を奪った。加害者が被害者になる枯葉剤の恐ろしさ。全身の発毛
阻害や性器欠損を抱える帰還兵の娘のインタビュー。帰還兵と結婚をして、娘を出産
したら、体が、前面で二つに割れて内臓器がむき出しになるという障害があり、結婚
もせずに、死亡してしまったという母親の思い出話など、坂田監督は、枯葉剤の被害
の多様性を被害者や家族のインタビューで描いて行く。

今の日本人にとって、映画で描き出される農薬、枯葉剤等の化学物質の暴走は、福島
原発事故以来の放射能の暴走と二重写しになって、見えて来る。文明の進歩、利潤の
追求、便利な生活という「明るい未来」は、2011年、安全性をないがしろにした
原発震災で、制禦できずにダッチロールを始めた結果、吹き飛んでしまった。放射
能、水俣病、枯葉剤、遺伝子組み換えなど、「明るい未来」を求めて来た筈の人類
は、制禦できない暴走をしてしまったようだ。

映画「やがて来たる者へ」を製作したジョルジョ・ディリッティ監督のことば。「子
供たちを育て、恋をし、要するに生きたいと望み、ごく普通の生活を送ろうとしてい
たのに、時代の趨勢で瞬く間に命を奪われてしまった人びと」というメッセージは、
こちらの映画でも、通用する様に思う。

映画の最後のシーンで、盲目のタイン・トゥンさんが、ベトナムの一弦琴で「アメイ
ジング・グレイス」を演奏してくれる。それに合わせて、ヘザー・A・モリス・バウ
ザーさんが、歌を口ずさむシーンがある。癒しの旅の主人公、ヘザー・A・モリス・
バウザーさんが、いかなる悲惨な場面に出会っても、明るく振る舞っていたことに命
の崇高さを感じる。

この映画は、9月24日から、東京の岩波ホールほかで、順次公開される。
- 2011年7月27日(水) 10:59:40
7・XX * 映評「やがて来たる者へ」


この映画は、1944年9月29日にイタリア北部の都市ボローニャに近いマルツァ
ボット村のモンテ・ソーレ(太陽山)という山間部の集落に侵攻したドイツ軍によっ
て、住民が虐殺されたという事件を描いている。「マルツァボットの虐殺」という、
イタリアでは、良く知られた事件だ。脚本と監督を担当したジョルジョ・ディリッ
ティは、1959年、ボローニャ生まれだ。事件から、15年後に生まれた。

映画は、史実に架空の家族を紛れ込ませるという手法で、二つの状況を観客に伝えて
くれる。ひとつは、スクリーンに描き出される事件の経緯だ。1943年12月のク
リスマス直前の山村で生活する大家族が登場する。8歳の美少女マルティーナが、主
人公だ。彼女は、幼い頃、生まれたばかりの弟を自分の腕の中で亡くしてしまい、そ
れがショックで、以来、自閉してしまい、口がきけなくなっている。そのために、学
校では、同級生の少年たちからいじめを受ける。家族は、両親のほかに、親戚も同居
する大所帯だ。貧しいながらも、農業をし、牛や豚を飼育し、出稼ぎにも行き、近づ
く戦争の予兆も感じながら、なんとか、平穏に暮している。季節が、移ろう。村の若
い男女が踊る夜の集い、初聖体拝領を迎える子どもたちの儀式、生まれ出ずる者への
慈しみを込めた安産祈願などが、淡々と描かれる。少女の母が、妊娠をし、あらたな
弟か妹が、生まれることになるかもしれない。弟を失った哀しみで口がきけない少女
にとって、なによりの朗報だろう。

しかし、戦況は、いつの間にか悪化し、村の近くにも、「戦場」が忍び寄っている。
ドイツ軍が侵攻を始め、連合軍が、対応するという戦場だ。都会から村に行商に来て
いた男の家族が、疎開して来る。地元住民のうち、若者たちは、村や地域を守ろうと
連合軍とともに、ドイツ軍に対抗するパルチザン軍に参加する者も出始める。普段
は、村民として生活をし、ことがあれば、パルチザンとして銃を持ち、ナチスに対抗
するということだ。少女には、ドイツ軍も連合軍やパルチザン軍も、どちらが敵か判
らない。

ジョルジョ・ディリッティ監督は、8歳の少女の目から見た史実という視点を崩さず
に事件を描いて行く。ドイツ軍が、山間部の谷に侵攻し、地元のパルチザン軍が、迎
撃する様を少女は、山の上から見ている。「戦場」が、近づいて来ると女性や子ど
も、老人たちは、村の教会に逃げ込む。男たちは銃を取り、森に潜む。そういう様
も、少女は見ている。村に入り込み、パルチザンをいぶり出そうとするドイツ軍の兵
士たちの行為を少女は見ている。ドイツ軍兵士に穴を掘らせ、銃殺するパルチザン兵
士たちの行為も少女は、遠くから見ている。「戦場」は、暴力に慣れていない少女に
は、過酷なものを見せつけ続ける。8歳の美少女は、時に、陰影を感じさせるよう
な、大人びた表情を見せる。

9月29日の朝、少女の母は、少女にとってふたり目の弟を生む。そういう家族に
とって、輝かしい日に、事件は起った。

やがて、戦況が悪化し、いらだったナチスの兵士たちは、パルチザンと村民の区別が
つかなくなり、29日から村民虐殺を始める。教会に逃げ込んだ村民たちを引きずり
だし、ナチスの兵士たちは、村民たちを追い込み、銃殺をする。生まれたばかりの赤
子とともに家にいた少女の母も、引きずり出され、抵抗すると殺されてしまう。その
様を遠くから少女は見ている。ドイツ軍から逃れていた父親も、兵士たちに見つけら
れ、殺されてしまう。大家族の中で、母親と共に少女の面倒を見ていた優しい叔母
は、銃殺される集団の中で、怪我をしたものの一命をとりとめる。ナチスの軍医の気
まぐれからだ。自分の妻に似ているという軍医は、村民の遺体の中から叔母を救い出
し、怪我の治療をしてくれる。下心があるのだろう。子どもも平気で殺す軍医に憎し
みを感じた叔母は、軍医が、子どもを殺して部屋に戻って来た所で、抵抗して、殺さ
れてしまう。

兵士たちの目を盗んで、生まれたばかりの弟を救い出し、逃げる少女。この事件で
は、9月29日から10月5日まで、村民の虐殺が続き、771人が、殺されてしま
う。12歳以下の子どもたちは、189人、12歳から60歳までが、476人、6
0歳以上が、76人だったと記録にはあるという。一方、ドイツ軍の記録では、パル
チザンが、497人。その同調者が、221人と記されていると言う。男女ともの成
人が、パルチザンで、子どもや老人などが、同調者という訳だ。

もうひとつの状況は、虐殺を生んだ背景だ。イタリアは、第2次世界大戦では、ドイ
ツ、日本と三国同盟を結んでいた。枢軸側だ。そして、アメリカ、イギリスなどの連
合国側と対抗していた。イタリアは、ムッソリーニが率いていた。イタリアとドイツ
は、同盟側だったのに、なぜ、ドイツ軍によるイタリア人の大虐殺が起ったのか。

1943年7月10日に、連合軍は、シチリア島に上陸し、イタリアでの地上戦が始
まった。ムッソリーニが逮捕され、9月8日には、イタリアと連合軍との間で、休戦
協定が結ばれた。イタリア軍は、混乱をし、事実上の解体状況になった。連合軍は、
イタリアの南部を占領する。ドイツ軍は、イタリア北部を占領する。ムッソリーニ
は、ドイツ軍に救出されてしまい、ファシスト軍を編成し、ドイツ軍と協力するよう
になる。この結果、イタリアでは、連合軍とドイツ軍、さらに、地元住民からなるパ
ルチザン軍の対抗という図式が出来上がる。パルチザン軍は、イタリア各地にできた
「国民解放委員会」と連繋し、ドイツ軍やムッソリーニのファシスト軍と対抗する。
「戦場」は、イタリアの外国軍からの解放戦争とファシスト軍に対する内戦というふ
たつの意味を帯びて来る。これが、「マルツァボットの虐殺」という悲劇へと進んで
行くことになる。

連合軍は、パルチザン軍と対抗しないが、味方でもなかった。ドイツ軍は、パルチザ
ン軍を殲滅しようとした。ドイツ軍は、連合軍と対抗するため、アペニン山脈を生命
線とし、「ゴートライン」を死守しようとした。モンテ・ソーレ(太陽山)の集落の
パルチザン軍は、まさに、この「ゴートライン」の中で、ドイツ軍と対抗した。ドイ
ツ軍は、この地区のパルチザン軍を一掃し、自分たちの安全を確保しようとし、パル
チザン軍掃討とともに、村民虐殺になだれ込んで行った。「マルツァボットの虐殺」
は、大状況的にいえば、そういう背景があった。

タイトルの「やがて来たる者へ」が、ちょっと、判り難い。多重的な意味があるよう
だ。ひとつは、8歳の美少女マルティーナにとって、「やがて来たる者」であるの
は、亡くしてしまった弟の代わりに生まれて来た赤子だろう。幼い弟を抱えて、虐殺
を逃げ延びて、木に腰掛けた少女の後ろ姿というラストシーンが、溶暗するまで印象
的だ。監督にとっては、虐殺を免れて逃げ延びた人たち、あるいは、後に、史実とし
て事件を知る後世の人たち、あるいは、この映画を見る観客としての私たち。

ジョルジョ・ディリッティ監督は、「戦争のことなど頭になく、子供たちを育て、恋
をし、要するに生きたいと望み、ごく普通の生活を送ろうとしていたのに、時代の趨
勢で瞬く間に命を奪われてしまった人びと」を描こうとしたのだという。

覇権を求める戦争がもたらす悲劇。日本では、いま、利潤を追求したばかりに、大震
災の打撃を受け、原発事故を起こしてしまった政権と電力会社がもたらした悲劇が進
行している。そういう目で見れば、この映画は、普遍的なテーマを描いていると思
う。

この映画は、10月22日から東京の岩波ホールほかで順次公開される。
- 2011年7月27日(水) 7:40:54
6・XX フクシマの詩人・和合亮一さん(以下、敬称略)の続報。 和合亮一が、
2005年10月刊「地球頭脳詩篇」は、翌年だか、土井晩翠賞を受賞した詩集の筈だ。
その詩集に所収されている「ザ・カレーライス・センセーション」から引用してみ
た。原文は、一部、ゴチックになっている。「/」は、改行。 

「な 鍋は何処ですか 巨大な衝撃が近づいて来る/刃先は尖る 見たことのない海
が丸々と 太って目の前に転がる 思惟の底でジャガイモが洗われている それを剥
きたい/のだけれど 刃先は鋭くなります その先を過激に移動 

詩がジャガイモよりもいびつになって 水と混ざり合い やがて 見たことのない沖
が流し場の見えないところ嘗めて 消/えた 世界のいろんなところ 黄色く汚れて
いる はしたないなあ 食欲が人の形をして 燃えている もう 嫌だ料理」 

5年半余前の詩句に、私の深読みかもしれないが、津波と放射能として、読める部分
があるように思えるので、引用した次第。
- 2011年6月24日(金) 18:58:05
6・XX フクシマの県立保原高校で、高校の先生をしている詩人の和合亮一の「黄
金少年」(2009年10月刊)を読んだ。今回の大震災を、被災地の今を、鋭い詩の言
葉で書いているが、過去の詩は、どうかと思って、読んでみた。 

例えば、「ゴールド・ゴールド・ゴールド」。「ああ助けて下さい どうするお積り
なのでしょうか/五十年後の福島市は砂漠となり 金色の雨が降っているということ
です」。 

まるで、大震災に伴う原発事故を予言しているような詩だ。本当に、50年後のフク
シマは、どうなっているのか。私は、母の実家が、保原高校のある伊達市保原町なの
で、親戚も大勢いる。 

それもあって、余計、50年後の「フクシマ」が、気になる。「福島」に戻っている
のか。戻っていて欲しいが、詩人の感性が、直感したように、2059年、フクシマ
は、「砂漠」になってしまっているのか。「金色の雨が降」り続いているのか。無人
の荒野を思い、身が震えるような不安感に襲われる。
- 2011年6月24日(金) 14:06:41
6・XX 日本ペンクラブ環境委員会主催の講演を聞きに行った。講演は、ペンの会
員向け(有料)。講師は、原子力資料情報室共同代表(3人)の一人、ジャーナリス
トの西尾漠さん。「はんげんぱつ新聞」編集。「原発を考える50話」、「漠さんの
原発なんかいらない」などの著書がある。 

会場は、定員100人の部屋で、立ち見は無かったが、ほぼ、満席と言える状態だっ
た。 

「原発の現実」というタイトルで、1時間の講演。引き続き、1時間半の質疑を入れ
て午後8時半まで。会場からの質疑が、時間いっぱいまで途切れずに、次々と出て来
たのが、この事態の深刻さ、国民の不安感を象徴していると思う。 

西尾さんのレジュメから、キーワードを探すと、「先が見えないという意味で空前の
重大事故」、「『想定外』にしてしまった『人災』」、「4基の原発がそれぞれに危
険/相互に影響」、「世界初の『原発震災』」「事故の実情はなお不明」、「子ども
たちにも高線量被曝の危険」、「浜岡原発停止」、「津波対策だけでよいのか」、
「全原発の段階的廃止」、「原発はとめられる」「『節電』から効率向上による低エ
ネルギー消費へ」などなど。 

事故の実態、放射能汚染(地図の不備)実態がはっきりしない以上、未だに今回の事
態の実像が見えていないというのが、現在の段階。事態は深刻化しているが、収束時
期、収束と呼ぶ状態の認識がはっきりせず、不安感ばかりが募る。東電が、対応にも
たもたしている間、当初程の高濃度ではないにしろ、放射能は、日々確実に漏れる続
け、まき散らされているのだから。 

首都圏でも、このまま汚染が続けば、「いずれ、避難すべき事態が来るのでは」とい
う会場からの質問に対して、それは、まだ個人の判断の段階という答え。乳幼児のい
る家庭など避難する人は、すでに避難しているが、多くの人は、いろいろな事情で、
簡単には避難できないし……。講演を聴いても、その点は欲求不安のまま残った。 

今後、再臨界や新たな水素爆発事故という最悪の事態は、なさそうだというのが、西
尾さんの見込み。これだって、判らない。反原発ながら、慎重な物言いをする彼とし
ては最大限の安心情報の提供だったのだろう。講演は、京大の小出さんや評論家の内
橋さんなら違う内容だろうが……と、思いながら拝聴。 

収束のイメージがつかめないということが、講演者も聴衆も、共通の認識というのが
怖い。世界各国の核実験の度に抗議声明を出して来た日本ペンクラブも、福島原発事
故とその後の状況を見据えて、脱原発なり、反原発なり、理事会で議論をし視点を定
めて、東電や政権の今回の情報の出し方の問題性について、表現者の集まりならでは
の声明を発信すべきではないのか、と思った。 

それにしても、事態は深刻化する一方なのに、日本の政治屋どもは与野党ともなにを
とちくるって、田舎政治ごっこをしているのだろうか。菅もレイムダック(差別
語?)になってしまったのだから、辞める者の強みを発揮して変な格好をつけずに、
民主党を含めて政治屋どもを相手にせずに、市民運動家の原点に戻り市民感覚で、国
民に向けて国民の判る言葉で原発事故の深刻化を率直に述べたら、よい。 

政治屋どもには判っていないようだが、大局的に見れば、なにが最優先の課題か、国
民は皆、判っているだろう。こういう政治屋どもしか持っていなかったということが
判ったのが、悲しいかな、日本国民にとって最大の収穫。 

菅さん!! あなたがやるべきことは、レイムダックらしく名付けて「醜いアヒル」
反撃作戦だ。国民だけを見て率直に語れ。そして、後継者を指名せよ。キングメー
カーなど気取らずに、(功名心で)やりたい人より、(この事態を収束できる)やら
せたい人の名を挙げよ。後継イメージが掴めないなかでの、茶番劇など演じないでほ
しいなア。
- 2011年6月7日(火) 11:53:23
* 映評「遥かなるふるさと 旅順・大連」

「痴呆性老人の世界」、「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」「元始、女性は太陽であった
―平塚らいてうの生涯」、「嗚呼 満蒙開拓団」など、ドキュメンタリー映画を長年
撮っている羽田澄子監督作品「遥かなるふるさと 旅順・大連」を観た。

この映画は、2008年に公開された「嗚呼 満蒙開拓団」の系譜の作品で、自伝的
な要素を加味している。この映画には、3つの柱がある。ひとつは、自伝的な要素に
関わる。1926(大正15)年、中国東北部(旧満州)の大連市で生まれたという
監督は、中国に対して「ふるさと」の意識を持っている。1926年は、年末に短い
が、昭和元年がある年である。つまり、羽田監督の、ことしの誕生日で86歳になる
人生は、昭和の時代をまるまる呑み込み、さらに、現代を見つめ続けていると言える
だろう。

映画のチラシには、羽田監督自身の文章で、「満州事変」(「事変」とは、当時の大
日本帝国の用語だが、要するに、「戦争」である)、「日中戦争」、「太平洋戦争」
を列挙し、「戦争に明け暮れた時代でした」とある。19歳まで、高等女学校の教師
をしている父親の転勤で、一時、日本(当時は、「内地」と言った。満州などを「外
地」と言った)で、暮したこともあるが、ほとんどを中国で暮したという。中でも、
旅順・大連での生活が長かったという。敗戦時には、大連にいた。「そんな私にとっ
て、懐かしい故郷は、多感な時代をすごした、旅順そして大連なのです」と、書いて
いる。父親は、40代、母親は、30代、小学校から女学校生活まで過ごした羽田監
督にとっても、また、家族にとっても、「最も穏やかに、幸せに暮らせた時代だっ
た」という。今は、両親もおらず、当時、小学生だった妹も、もう、いない。

長年、旅順の映画を撮りたいという夢を抱いていた羽田監督は、「旅順の町の美し
さ」を記録しておきたいという思いからだったという。旧市街は、賑やかな商店街。
新市街は、美しい住宅地。当時から、車道と歩道に分けられた広い道路、歩道に続く
アカシア並木、帝政ロシア統治時代のロシア風建築物、日本統治時代の建物も、洋風
の建築物が多かったという。「美しく、懐かしい思い出の地」旅順。そういう意味
で、生まれ育ち、青春時代を過ごした旅順・大連への旅は、羽田監督にとって、「セ
ンチメンタル・ジャーニー」の色彩を濃いものにせざるを得ないだろう。これが、こ
の映画のひとつの柱である。

もうひとつは、「戦争の跡」という史実とどう立ち向かうかという柱である。「戦争
に明け暮れた時代」へ、タイプトリップするからには、旅順・大連の街に今も残る戦
争の傷跡に遭遇し無いわけにはいかない。軍港・旅順は、遼東半島の戦略的に重要な
ポイントだった。清の首都・北京を防衛する半島の突端に位置するからだ。大連は、
旅順をサポートする商港。港と港を結ぶのは、鉄道。日本が、支配していた時代に
は、満鉄(満州鉄道)王国の中心地となった。そういう構図の中で、ふたつの都市
は、歴史を刻んで来た。

敗戦後、日中国交断絶という時代があり、中国の政策として、東北部の地には、日本
人が、長い間立ち入ることができなかった。羽田監督も、「ふるさと」を訪れること
はできなかった。1972年の日中国交回復後も、旅順は、重要な軍港という性格を
持っていることから、外国人は、自由には、入れなかった。1990年代に入って、
部分開放されたものの、自由な行動は、制限されていた。この地域が、外国人に全面
的に開放されたのは、2009年の秋からである。まだ、ことしの秋を迎えても、開
放後2年にしか、ならない。

羽田監督は、2010年、「日中児童の友好交流後援会」の旅順ツアーという企画を
知り、ツアーに参加し、およそ60年振りに、「ふるさと」訪ねることができたし、
撮影機材を持ち込めたことで、この映画を作ることもできた。心筋梗塞の持病と当
時、膝の関節を痛めていた羽田監督は、車椅子に乗ったという姿で、成田空港を飛び
立っていった。ツアーに参加した人たちは、羽田監督同様、旅順に郷愁を感じる人た
ちで、限られた時間の中、日露戦争や日中戦争の戦跡、子ども時代や青春時代を過ご
した家や学校など、それぞれの思い出の場所を歩き回り、自分の人生の記憶をたどっ
た。そう、この映画は、ツアー参加者のそれぞれの「センチメンタル・ジャーニー」
が、描き出され、戦争の跡が、浮き彫りにされる。そういう人たちと同行すること
で、羽田監督の「センチメンタル・ジャーニー」は、ツアー参加者共通のものとな
り、個人的な、特殊性が、薄められる。

中国という国家が、当時は、日本が侵略をして、植民地化した「外地」として、日本
が統治していた時代であるから、「センチメンタル」な思いだけで、日本人に懐かし
がられても、今の中国人にとっては、迷惑な面もある。しかし、ツアー参加者の「か
つての自宅」は、残っていれば、当然、今の住民も暮している。しかし、映画を観て
いると、突然、何の前触れも無く訪れた、かつての侵略者たちの郷愁を、住民たち
は、気さくに受け入れて、中国人が住み易いように、リフォームされている室内を案
内してくれる。ツアー参加者の、何人もが、そういうセンチメンタル・ジャーニー」
を体験できた。中国人を下働きにさせて、築き上げられた当時の日本人たちの「良い
暮らし」の思い出にも、かかわらず。羽田監督も、幸い、かつて移り住んだ何軒かの
「自宅」を、場合によっては、外部から、場合によっては、室内まで、見ることが出
来、その様子を映画に記録することができた。戦争の跡は、必ずしも、幼い頃の記憶
とは違っている場合もあったが、それでも、辿ることができた。

日清戦争、日露戦争、日中戦争、そして、日露戦争の勝利から太平洋戦争で敗北する
まで40年に及ぶ日本の植民地統治、日本の敗戦後の、ソビエトの統治など(つま
り、旅順・大連は、この時期、ロシア→日本→ソビエトと統治権は、移動した、太平
洋戦争後、ロシア(ソビエト)は、に再び、この地を「奪還した」のだ。ロシア人の
「意識」においては。本来の主権者・中国に戻されたのは、1955年だ)外国勢力
に侵略された、この地の傷跡は、何層にも複合化された歴史として、今も残ってい
る。日本人の多くが、知らないようなそういう傷跡が、改めて、カメラで、記録され
る。激動の歴史を刻み込んでいる戦跡を羽田監督は、淡々と事実として描写して行
く。そういう柱が、この映画の2つ目の柱である。

3つ目の柱は、現在の中国の姿である。日露戦争の最大の激戦地・旅順は、古都の風
貌で立ち現れ、高齢者が多いツアー参加者には、遠い記憶を思い出し易い懐かしい光
景が、結構残っているようだったが、大連は、現代中国の発展の、ひとつの典型を示
すように、発展著しい。日清戦争後の、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉の結
果、租借した当時の帝政ロシアによって作られ、「ダーリニー」と呼ばれた。さら
に、日露戦争後、帝政ロシアに代わって、租借した日本によって変えられた都市の風
貌も残っていない訳ではないが、今では、町中のあちこちに超高層のビルが林立し、
海岸べりには、現代的なリゾート地の風景が広がっている。

活気溢れる大連。明るく暮す現代の中国人の生活。羽田監督は、ツアー参加者と別れ
て、撮影のために、居残った。大連の街には、あちこちに日本人の郷愁を断絶させる
ような、そんな新しい現代中国の光景が、ある。センチメンタル・ジャーニーなど、
寄せ付けないほどの変貌が、広がっている。

街の光景からは、逞しく生きる現代中国の庶民の生活も、浮き彫りにされて来る。中
国人のグループが、公園の四阿で、中国の楽器の演奏に合わせて、中国語で、「北国
の春」を熱唱している。これから、この映画を見る人たちは、この場面で、東日本を
襲った今回の大震災と、その後も続いている放射能汚染の拡大・蓄積という、鬱陶し
い現代日本社会の直面する事態を思わずには、いられないだろう。

映画は、現在、羽田監督が住む東京郊外の自宅の前にいる監督自身のシーンから始ま
り、自宅前に戻って来た監督自身のシーンで終わる。監督の自宅付近も、住民の世代
が替り、街は、変貌し始めているらしい。

この映画は、6月11日より、東京・神保町の岩波ホールで、ロードショー公開さ
れ、その後は、全国各地の映画館や自主上映会でも、公開される予定。
- 2011年6月2日(木) 14:59:09
5・XX  雨の東京・渋谷:「5.7 原発やめろデモ!!!!!!!」が、午後3時過ぎ、
代々木公園内ケヤキ並木(私の元の職場の前、NHKホールの横)から、雨の中を出発
した。「超巨大サウンドデモ」ということで、鐘や太鼓が、チンチン、どんどん。そ
ういえば、昔懐かしい「チンドン屋」も、デモの行列にいた。雨に祟られ、サウンド
は、押さえ気味であった。

デモのコースは、次の通り。
渋谷区役所前交差点→原宿駅前→表参道→青山通り→渋谷中心部へ→109前→ハチ
公前スクランブル交差点→明治通り→渋谷区役所前(つまり、スタート地点に戻
る)。

参加者は、労組の旗もめだったけれど、プラカードも何も持たない、私のような、一
個人も、大分いたようだ。折悪しく、放射能の雨が、強くはないが、降り続くので、
傘は、手放せない。

私は、大型の傘をさし、ビニールのレインコート、帽子、マスクという出で立ち。槌
田敦さんの「原発事故の防災対策 放射能の種類と安全な逃げ方」というパンフレッ
トで、紹介されている逃げのスタイルでは、さらに、ポリの手袋を着け、靴は、ポリ
袋で二重に包み、滑り止めにゴムで止めるとあるが、その八分目のスタイルという印
象が、私流であった。

傘をさしている人も、傘に小さなプラカードをぶら下げたり、透明なビニール傘の内
側に、紙に書いたスローガンを貼付けたり、それぞれ工夫している人もいる。反原
発、反放射能なのだろうに、傘もささずに、放射能の雨に平気で濡れている人もい
る。参加者たちは、概して、メーデーのノリで、労組仲間のほかに、家族や知人同士
で、参加しているという感じだった。手作りの小さなプラカードが目立った。
歩道に沿って、デモの外を歩いたり、デモの列に加わったり、適当に列から離れたり
する人もいる。歩道橋の上から、手を振る人もいる。

珍しく、NHKが、19時のテレビニュースのトップで、このデモをふくめて、きのう
の菅の「浜岡原発の全原子炉停止を中部電力に要請」の波紋を放送。「浜岡原発停止
要請」という菅の発言は、これこそ、きちんと実現できれば、「政権交代」の意義こ
こにありで、民主党政権発足で、最大のヒット発言ではないか。

NHKの「波紋」ニュースでは、地元自治体や経済界の(浜岡停止の)「懸念」の代弁
のような印象の内容であった。菅発言への懸念も、滲んでいたか。更に、中部電力の
取締役会でも、停止要請への懸念が相次ぎ、結論が出ず、継続審議になった、という
ことであった。福島原発の二の前になったら、会社はつぶれるという危機感が無いの
だろう、中部電力の取締役たちには。

しかし、「浜岡原発停止要請」が、実現すれば、東海地震の巣の上にある浜岡原発
が、万一の地震のときでも、福島原発の二の舞を避けられる見通しということで、首
都圏の住民に取っては、もうひとつの大きな懸念が払拭されるわけで、デモの参加者
のインタビューにもあったように、「心配事が、一つなくなる」というのは、正直な
気持ちだろう。

福島原発も、ただでさえ、今も、毎日、放射能が、拡散され続けている実情は変わり
がないけれど、余震による津波、あるいは、台風による強風被害などで、建屋などが
壊されて、さらなる放射能が、これ以上拡散しないようにしてほしいが、これに加え
て、東海地震(あるいは、南海地震などとの3連、4連の地震)で、浜岡原発が、福
島原発と同じ状態になったら、東京は、東と西から放射能まみれになり、壊滅するだ
ろうし、日本列島のほとんどが、放射能汚染される恐れがある訳だから、政権を持っ
ていても、それは、ごめん被りたいのが、菅の本音だろう。この人は、社会市民連合
出身の政治家だけに、デモ参加者が共感するような、こういう市民感覚が、本来は、
あるのだろうけれど、その後の政治家生活で、市民感覚は、摩耗してしまった。政治
家菅にとって、歴史に残るのは、厚生大臣時代の薬害対応指揮と今回の発言だけだ
ね。今のところ。それでも、未曾有の国難をよそに、「政局」を企む与野党の輩など
の政治屋どもよりは、ましというものだ。
- 2011年5月7日(土) 20:49:26
5・XX  江戸の闇から逆照射 「写楽」展

1794(寛政6)年5月、江戸三座の歌舞伎役者の絵を個性豊かな表情で描いてデ
ビューし、閏月を含めて、10ヶ月役者絵を出し続けて、翌年1月には、こつ然と姿
を消してしまった写楽は、220年近く経った今でも、正体不明で、消えたままだ。

写楽は、140図以上の版画作品を残しだが、その作風は、10ヶ月間の間に、大きく変
わり、通常4期に分けて論じられている。いちばん知られているのは、第1期の、
「大首絵」であり、背景を黒雲母摺(くろきらず)りで塗りつぶし、個性豊かな役者
の瞬時の表情を似顔絵で描いていて、衝撃的である。特に、眼と口の表情、そして掌
の描写が、優れている。写楽の印象的なデビューを目論む吉原在住の版元であり、今
でいえば、プロデューサーの役割を担った蔦屋重三郎の企画なのであろう、大判錦絵
は、28図一挙出版で、話題を呼んだ。

第2期には、もう、作風を変えている。旧暦の7月8月の歌舞伎の盆興行の演目に合
わせて、今度は、「全身像」の作品である。当時の消費者には、趣向の変化は、歓迎
されたかもしれないが、作品としては、残念ながら、全身像ゆえに、顔が小さくなっ
たため、写楽作品の個性豊かな似顔絵の表情は、おもしろみが抑制されてしまった。
特に、細版では、窮屈さを感じさせる。大判では、全身像で描かれている長所として
は、役者の所作、動きは、他の絵師の構図よりすぐれている。手足の動き、特に、手
足の指の動きは、「大首絵」で、写楽の魅力となった観察力の鋭さを、個々でも、見
せていると思う。

第3期は、第1期同様の「大首絵」に戻る。大判ではなく、間版の大首絵が、11図
描かれた。細版の全身像は、47図あるが、第2期と違って、舞台の背景が描かれ、
芝居のなかの役者が、強調されている。それだけ、演目と芝居小屋との結びつきが、
強調されている。人気絵師になって、作品が量産された結果、作風が、一定しなく
なってしまった。役者の表情も乏しくなった。第1期の大首絵のような、表情を構成
する顔の下の骨格や筋肉を描き、表情に下にある内面的な心情を描こうという意欲が
乏しくなったか、多忙で、「そこまでやってられない」という手抜きを強いられた
か、したのかもしれない。

第4期では、第3期よりもさらに、舞台の説明的な要素が、描き込まれるようになっ
ている。ある意味で、芝居小屋の宣伝チラシの役者絵という印象が強い。
それは、写楽の、衝撃力はあるが、決して、巧みではない実力を見抜いていた蔦屋重
三郎の企図に添って、「写楽退場」の期間も見据えながら、作風を変えさせたからか
もしれない。

今回の「写楽」展の特徴は、140図以上あると言われる写楽の作品のほとんどが、一
堂に展示されていること。また、同時代の絵師たちが描いた同じ演目、同じ役者の絵
を比較して展示していることで、写楽の人物描写の特徴が良く判ることだ。さらに、
私が、興味を持ったのは、写楽が描いた役者たちは、1794(寛政6)年から、
1795(寛政7)年まで、江戸三座に出演した人たちしか出てこないことだ。そこ
で、描かれた役者の名前も、その時期のままだ。それを解きほぐしながら、見るとお
もしろいと思った。

例えば、今回の特別展「写楽」のポスターやチラシで、写楽作品の代表と位置づけら
れている「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」の、「三代目大谷鬼次」は、いまでは、全
く、知られていない名前だ。「市川海老蔵」ならぬ、「市川蝦蔵の竹村定之進」の、
「市川蝦蔵」って、知ってますか。

ということで、調べてみた。「三代目大谷鬼次」は、写楽に描かれた後、1794年11
月(旧暦)に、二代目中村仲蔵を襲名している。中村仲蔵の襲名は、江戸系と大坂が
あり、江戸系は、1766(明和3)年9月の市村座の舞台で、「忠臣蔵」五段目の斧
定九郎の扮装を、今のような演出に工夫したと伝えられる初代仲蔵以来、4代続い
た。三代目仲蔵は、藝談を書き、後世に名著として残った「手前味噌」の著者となっ
た。一方、大坂系も、幕末・明治期に活躍した4代目まで、続いた。

「市川蝦蔵」の方はと言うと、五代目團十郎が、養子に六代目を継がせた後の、
1791(寛政3)年に襲名した名前で、いわゆる「後名」である。五代目團十郎は、
当代まで12人いる團十郎代々でも、名優の一人、四代目の実子で、安永・天明期の
江戸歌舞伎の美学を代表する名優であった。1796(寛政8)年には、引退し、向島
の「反古庵」に隠居し、簡素な生活をしながら、俳諧、狂歌を嗜み、当時の一流の文
人と交わった。

「初代市川男女蔵の奴一平」に描かれた「男女蔵」は、当代も名を引き継いでいる。
「二代目市川門之助の伊達の与作」の「門之助」も、当代がいる。以下、当代に名が
あるものは、「三代目坂東彦三郎の鷺坂左内」の「彦三郎」、「三代目
市川高麗蔵の志賀大七」の「高麗蔵」、「四代目松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛」
の「幸四郎」、「六代目市川團十郎の不破の伴作」の「團十郎」、「二代目坂東三津
五郎の百姓深草の次郎作」の「三津五郎」、「三代目瀬川菊之丞のけいせいかつら
ぎ」「三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵女房いすづ」などの「菊之丞」(当代は、前進座
の役者)などなど。

「初代尾上松助の松下造酒之進」の「松助」、「三代目澤村宗十郎の名護屋山三元
春」「三代目澤村宗十郎の大岸蔵人」などの「宗十郎」などは、近年、亡くなってし
まった。

当代には、不在だが、大名跡では、「八代目森田勘弥の駕かき鶯の次郎作」の「勘
弥」、「三代目市川八百蔵の田辺文蔵」の「八百蔵」なども、歌舞伎史上、團十郎門
下では、團蔵と並ぶ歴史的な家系の名前だ。市川団蔵は、当代もある。

興味深いのは、写楽が役者絵を描かなければ、歌舞伎の歴史の闇に埋もれていった脇
役や大部屋の役者たちの名前が、姿絵と共に、残されたことだ。例えば、「三代目大
谷鬼次の江戸兵衛」の鬼次の師匠の、三代目大谷広次も描かれている。「三代目大谷
広次名護屋が下部土佐の又平」の「広次」。大谷広次は、二代目と三代目は、俳名を
「東洲」と言ったが、写楽の画名の「東洲齋」と関係があるのかないのか。広次の五
代目は、幕末から明治期の五代目大谷友右衛門の後名。大谷友右衛門は、七代目が、
後に、中村雀右衛門を襲名、七代目の長男の八代目が、当代である。

写楽が描いたが、歌舞伎史上では、闇に埋もれた役者たちでは、「初代大谷徳次の奴
袖助」の「徳次」、「三代目坂田半五郎の藤川水右衛門」の「半五郎」(半五郎の姿
絵は、北斎も描いている)、「二代目嵐龍蔵の金かし石部の金吉」の「龍蔵」、「二
代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木」の「富三郎」、「初代中山富三郎の松下造酒
之進娘宮ぎの」の、もうひとりの「富三郎」、「三代目佐野川市松の祇園町の白人お
なよ」の「市松」(初代の市松は、「市松」模様として、今の名前が残る市松模様の
衣装で、今も知られるが、初代は、1762年没)などなど。

この他、私が気になったのは、「谷村虎蔵の鷲塚八平次」の絵の内、大英博物館に所
蔵されている作品には、この作品だけ、「中村歌右衛門」という添え書きがあること
だが、意味が分からない(「写楽」展の図録には、書いていないようだが、学説的に
は、答えが出ているのかもしれない)。中村歌右衛門は、この時代なら、大坂の名優
で、1791(寛政3)年11月に三代目を襲名した中村歌右衛門しかいないが、三代目
歌右衛門は、初代の実子で、前名・加賀屋福之助である。俳名が、梅玉。それゆえ、
通称加賀屋歌右衛門、梅玉歌右衛門。歌右衛門が、今のように、女形の代表的な藝名
になるのは、五代目と近年亡くなった六代目の時代であり、この時代は、立役であっ
た。

写楽が姿を現した1794(寛政6)5月頃は、幕藩体制再建を目指す「寛政の改革」
を進めてきた松平定信が、1793(寛政5)年7月に失脚した直後の時代と重なる。
前の田沼意次時代(1767―1786)の積極消費(奢侈)政策の反動として展開された
「寛政の改革」の倹約政策の下、歌舞伎は、不調、苦境となり、江戸三座も、控櫓に
興行権を移している時代であった。

絵師は、肉筆画家が、本来の絵師(画家)であり、版画の下絵を描く絵師は、「下絵
師」といって、画家というより、職人であって、いちだん下に見られていた。役者絵
は、絵というより、芝居の宣伝ポスターの類い。江戸の悪所・吉原(色町)と芝居町
に通じた蔦屋重三郎は、芝居再興も含めて、歌舞伎の興行主たちとの共同企画とし
て、下絵師たちに絵を描かせた宣伝ポスターを、独立した商品として、売りだそうと
した。無名の写楽売り出しは、まさに、そういう戦略で、企画され、短期決戦で、売
り抜こうとしたのではないか。

蔦屋重三郎に使い捨てにされ、疲れ果てた写楽は、江戸の闇に消えていったが、近代
の審美眼が、写楽を再評価し、闇の中に据えたまま、新たな光源として、写楽は、歌
舞伎の大部屋役者を従えて、闇から私を逆照射しているように見える。

特別展「写楽」は、6月12日まで、東京・上野の東京国立博物館で、開催。
- 2011年5月6日(金) 10:33:05
5・XX  * 映評「一枚のハガキ」
新藤兼人監督は、2011年4月22日広島県生まれ。今年、99歳になった。最後の監督
作品と銘打った映画「一枚のハガキ」(114分)は、歌舞伎役者なら、畢生の演目の
「一世一代」演じ納めと言ったところか。99歳の監督は、それを自分の兵隊体験、
戦争体験をコミカルに描くことで、骨太の反戦映画に仕上げた。

戦後世代の私たちでさえ、あるいは、戦後など歴史の彼方という若い世代たちにとっ
て、戦中、戦前派の「戦争体験」は、なぜか、「一枚岩」のような、全体像が窺える
ような、あるいは、平均的で、均質の、普遍的な体験のようなイメージを抱きかねな
いという危惧が、私にはある。実際に66年前に終わった「戦争体験」を含めて、99
年間生きている新藤兼人という監督は、まず、その間違いを、極めて、喜劇的なタッ
チで、私たちに突きつけて来た。それが、「兵隊と籤」という仕掛けだった。

1945年に負けて終わる戦争の末期に中年で(30代だろうと思われる)召集された主
人公・松山啓太(豊川悦司)は、特攻隊のための宿舎となる天理教の建物を100人の
兵隊の一員として、掃除させられる。掃除後終わり、100人は、新しい任地に赴任さ
せられる。赴任先を選ぶのは、上官たちが、兵隊の代理で、籤を引くという。60人
が、フィリピンの激戦地に行き、残りは、国内の別のところに赴任する。掃除の終
わった「打上げ」で、1合の酒とスルメ一枚が、兵隊に支給される。上官の命令で、
歌の自慢な中年兵隊・森川定造(六平直政)は、「なにかやれ」と言われて、得意な
歌を歌う。明日は、戦地に赴くという晩、松山は、森川から一枚のハガキを見せられ
る。森川の妻・智子から届いたハガキだ。ハガキには、大きな字でこう書いてある。
「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので、何の風情もありません。友
子」。

森川は、ハガキの返事を書こうにも、検閲されて、本当に書きたいことは書けないだ
ろうから、返事を出していない。自分は、フィリピンに行くことになったので、多
分、死ぬだろう、生きては返られないだろうから、国内に残るお前が、生き残った
ら、このハガキを妻のところへ持って返って欲しい。そして、お前に口から、森川
は、このはがきを確かに読んだと伝えて欲しい、と頼まれたのだ。翌朝の未明、森川
ら、フィリピンへ赴任する60人の兵隊たちは、軍歌の音を残して、出発して行く。

場面は、替わって、山村の一軒の百姓家。森川の自宅だ。ここからは、戦死していっ
た戦友の残された家族の物語(パート・1という感じだ)。この家には、妻の友子
(大竹しのぶ)、両親(柄本明、倍賞美津子)が住んでいる。森川の弟・三平(大地
泰仁)も徴用に出ている。まず、森川の出征の場面が、描かれる。村の役場の男(大
杉漣)の掛け声と太鼓の音に送られて、森川は出征して行く。妻の友子も、途中ま
で、付いて行く。場面が、替わると、次は、「骨」になって、帰って来た森川の名誉
の戦死の儀式の場面。出征と戦死が、映像的にも、コミカルに描かれる。妻から嫁の
立場になった友子。森川の年老いた両親は、自分たちだけでは、自立して暮せないの
で、友子に森川の弟と再婚して、この家にとどまって欲しい懇願する。貧しい実家も
無くなってしまった友子は、帰るところもないので、両親の意向を承諾する。弟と再
婚。しかし、その弟にも、召集令状が来て、兵隊に行かされる。やがて、弟も戦死の
報が入る。この場面は、森川同様に、出征と戦死の帰還の様子が、パロディで、出征
する森川と弟が入れ替わっただけで、全く同じ場面として、描かれる。新藤兼人の演
出の面目躍如のシーンだろう。両親のうち、父親は、息子たちの相次ぐ戦死がショッ
クで、実りの秋に、発作を起こして亡くなってしまう。母親は、密かに蓄えた臍繰り
の在処を嫁の友子に教えた晩に、首つり自殺をしてしまう。誰もいなくなった婚家だ
が、本当に行くところの無い友子は、この家で生きて行く。後家になった友子に、以
前から横恋慕していた役場の男は、なにかと親切めかして、寡婦の家にやって来る
が、友子は、男を以前から嫌い続けていて、厳しく拒絶をする。

一方、籤運には強かったが、家族運は、薄い主人公が、瀬戸内の海辺に近い家に帰っ
て来る。宝塚で、同じく、特攻隊のための宿舎の掃除という任務を遂行し、敗戦を迎
えて、帰って来た。兵隊の帰還を待っているはずの家族は、不在だった。夫が、出征
中に、父親と性的な関係を結ぶようになっていた妻(川上麻衣子)は、父親と手に手
を取って、関西へ逃げてしまったという。戦死を逃れて無事帰還した松山の広い家に
は、誰もいない。親戚の叔父(津川雅彦)が、そういう事実を松山に告げるために、
待っていた。海に出ても、何もやる気のしない松山。キャバレーで働いている妻に三
行半を突きつけるが、キャバレー近くのアパートに住むという父親とは会わずに帰っ
て来る。多くの戦友たちが、死に、結局、戦後まで生き延びたのは、松山ら4人とい
う。96人対4人。生き残ったのが幸運なのか、不運なのか。96人の多くは、愛する
家族を残して、戦死したのにも拘らず、自分は、故郷で待っている者が、誰もいな
かったのに、籤運が強いばかりに、生きて帰って来てしまったという後ろめたさを松
山は、抱いている。その挙げ句、ブラジル移民に応募しようと決意し、叔父に家屋敷
を20円で売り払う松山。戦後は、物価激変の世の中。20円で、中古の家屋敷を買っ
てと、夫に文句を言う叔母(絵沢萠子)に、叔父は、今なら、80円で売れると嘯
く。

そういう故郷を後にし、松山は、戦友森川宅へ、ハガキを届けに行く。

再び、画面は、戦死していった戦友の残された家族の物語(パート2)。一枚のハガ
キを届けてくれた松山から森川の話を聞く友子。貧しいながら、一宿一飯で、松山に
お礼をする友子。松山は、ブラジルに行こうと思っている話す。客の松山を座敷に寝
かせ、友子は、日常生活通り、別棟の物置で寝る。孤独な、後ろめたさを抱いて、や
けを起こしかけている男。愛する人を次々と亡くし、戦争を憎みながらも、その憎し
みさせも、生きるエネルギーに変えている女。戦争という運命に翻弄される中、男
は、脆し、女は、強し。これが、新藤兼人の人生観であろう。全てを失っても、逞し
く生きようとする女の姿。

夜が明けて、松山を風呂に入れ、朝食をごちそうする。友子は、一緒に、ブラジルに
行きたいという。連れて行ってくれという。そういう二人だけの朝食風景を覗きに来
た役場の男は、松山に喧嘩を売る。役場の男を叩きのめす松山。この辺りも、かなり
喜劇調で描かれる。

松山は、友子を連れて、ブラジルに向かうことにする。森川と弟三平の骨箱を前に、
最期の別れをしようとするが、誤って、火が飛んでしまい、百姓家は、全焼してしま
う。意外な結末。そして、……。

原始時代のように、そこには、大地があり、太陽があり、男と女が、いる。焼けてし
まった家の後を畠にするという松山。それを手伝う友子。新たな夫婦の誕生。男と女
は、原始時代のように、裸一貫で、ここから、出発する。これは、「裸の島」
(1960年作品)ならぬ、「裸の村」だ。そして、麦秋の季節。豊かに実った麦畑の
向うで、互いに感謝しあい、癒しあう男女の遠景は、人生再興というメッセージだろ
うと、思う。これは、新藤兼人監督からの、スクリーンを通じての最後のメッセージ
になるのかもしれない。

戦争は、籤は、人生を左右した。しかし、男と女は、原始に立ち返り、戦争という、
この時代に生きた運命に負けず、偶然という籤にも負けず、戦争や籤運という愚かし
さを笑い、逞しく生きて行く。

この映画のテーマは、戦争体験を次世代にどう受け渡すか、というのが、テーマだ。
それも、しかつめらしい表情は消して、笑い飛ばすような、コミカルな演出で、骨太
に提起する。

戦争を、今回の東日本の大震災と津波、それを最悪なものにした原発事故に拠る被曝
という、今、目の前にある現実に置き換える時、この映画は、いまの日本人への応援
歌として、スクリーンから、語りかけてくることを観客たちは、知るだろう。この映
画は、8月6日、広島に原爆が落ちた日の、66年後に、ロードショー公開される。
- 2011年5月4日(水) 15:10:14
4・XX  * 映評「祝(ほうり)の島」。

何故か、同じ時期に同じ島の生活を描いた、二つのドキュメンタリー映画が、3月の
福島原発事故による放射能汚染の広がりという社会状況をバックに上映中で、いずれ
も、連日満員の観客が詰めかけている。

二つの映画は、1982年に計画が明るみに出た後、30年近い反原発建設運動に取り組
んでいる山口県の「祝島」の島民たちの生活を描いた映画で、先に映評を書いた鎌仲
ひとみ監督作品「ミツバチの羽音と地球の回転」(135分)も、纐纈(はなぶさ)あ
や監督作品「祝(ほうり)の島」(105分)も、同じテーマを扱っている。二つの映
画は、女性監督の作品という点でも、同じだ。

二人の監督は、同じ素材をどういう形で作品にしているのか。

まず共通していることは、基本的にどちらも、祝島にカメラを据えて、島民の生活を
描くことで、反原発というメッセージを滲ませている。撮影の時期も、ほぼ同じだと
思うのは、以下の、三つの出来事が、双方の映画に登場するからだ。2008年9月、
原発建設予定地の田ノ浦の埋め立ての是非を審議する上関町議会、2009年9月、中
国電力の灯浮標(ブイ)設置阻止行動(ブイは、海の上に工事杭域を示すために、設
置される。ブイが設置されると、次は、埋め立て開始という段取りになるという)、
4年ごと、うるう年に開催される「神舞」は、千年続いている島独特の祭りで、
2008年に開かれた。原発建設を巡り島民間に亀裂ができて、2000年と2004年の祭
りは、中止されたというから、久しぶりの開催となる。2008年から2009年の祝島。

しかし、二つの映画は、それぞれ、独立した別の作品であることが、判るのは、不思
議だ。恰も、お互いに連絡を取り合って、テーマは、同じだが、作品は、違うように
しようと、調整しあったようにさえ思える。映画に登場する島民たちの顔ぶれは、当
然、同じだが、描き方が違う。光と陰。片方の作品で、光を浴びれば、もう片方の作
品では、陰に沈む。それが、巧くバランスしている。二つの映画を観て、祝島の立体
感も、増して来るから不思議だ。二つの映画を観ても、飽きない。むしろ、二つの映
画を同時に上映するとそれぞれの映画のお互いに補いあうような感じが判って、おも
しろいかもしれない。

「ミツバチの羽音と地球の回転」では、2000年に島に戻ってきた若い家族が、主人
公となるが、「祝(ほうり)の島」では、幾人もの島民たちが、それぞれの生活を背
負って、素描される。つまり、「ミツバチの羽音と地球の回転」は、離島で暮すある
家族の物語であうが、「祝(ほうり)の島」は、ある島に暮す人びとの生活振りを群
像として描いて行く。

この違いが、いちばん大きく、「ミツバチの羽音と地球の回転」という、家族の物語
の方は、都会から戻り、離島で生活を始めた家族の長の、いわば、決意の確認の物語
になっているのに対して、「祝(ほうり)の島」では、都会の日本の生活では、とう
に失われた地域の日常生活が、タイムマシーンに乗って訪れたかのように、観客に見
せてくれる。反原発運動の節目は、別として、島民たちが、見せてくれるのは、家族
親戚も大事だが、近隣の人びととの緊密な生活振りも大事だということだ。

そういう緊密さが、そのまま、反原発の主張に繋がって来る。原発によって、海の環
境が壊され、汚されれば、漁業はもとより、城の石垣のような大きな石で組み上げら
れた段々畠、棚田を利用している農業も、成り立って行かないかもしれないという不
安が、島民の間にはある。島民の緊密な生活を寸断して来る恐れがあるから、島民た
ちは、原発に反対しているのだろうということが判る。

また、「ミツバチの羽音と地球の回転」では、脱原発以降のエネルギー政策として、
スウェーデンの試みを紹介する。エネルギー政策を軸に「持続可能な社会」のイメー
ジを積極的に提案する。「祝(ほうり)の島」では、そういうメッセージ性は、抑制
しているように思える。恰も、「原発以前」の素朴な島民の生活こそ、「原発以後」
に失われた、大切なものだということを低いアンングルで、淡々と描いているように
見える。500人の島民たちの生活。

印象に残った人びとの生活。一人暮らしが、寂しくないように、毎日のように、ある
家に集まる。夜のお茶会。上がり込んでは、茶の間の炬燵を囲んでテレビを見てい
る、時々、冗談を言うというだけの近隣の老人たちの暮しぶりの豊かさ。

「祝島」は、岩の島だ。水も乏しく、耕地も少ない。先人たちが、手塩に掛けて岩を
砕き、荒れ地を耕してきた。台風の通過することも、多い。棚田の石垣に自分が作っ
た短歌を彫り込むおじいさん。おじいさんのおじいさんの時代に、つまり、先人のお
じいさんが、30年かけて、人力で整備したという棚田。ざっと見積もっても、100年
くらい昔の話だろうか。その棚田で、いまのおじいさんが丹誠を込めて米を作る。お
じいさんの子どものころの思い出。棚田には、いまも番小屋がある。電気が引けない
棚田の番小屋だから、いまも、ランプがある。子どもの頃、おじいさんと泊まり込ん
だ思い出を語る。字の読めないおじいさんのために、子どもの頃、本を読んで聞かせ
たこと。薄暗い灯りで、良く字が読めたと、おじいさんは、子どものころの、自分の
視力の良さに感心する。老いた自分を改めて、思ったかもしれない。

棚田の石垣は、高さが、おじいさんの身の丈の、3倍も4倍もある。大きな石にへば
りつくようにして、這い登って、石垣に絡まった蔦などを鎌で切り取る。石垣も棚田
も、人力で整備をしている。米さえあれば、人は生きていける。子や孫に棚田を残し
たい。おじいさんは、一人暮らし。都会へ出てしまった子が、棚田を引き継ぐことも
無いであろうし、孫が、引き継ぐこともないであろうと独白する。それでも、おじい
さんは、日々、田を耕し、稲を育て、田畑や石垣の整備を続けながら、歳を取って行
く。引き継ぐ者がいなくなれば、田や石垣は、山に返って行くだけだと、おじいさん
は、言う。実際に島には、休耕田になって、荒れてしまった棚田も多い。しかし、自
分が元気で、畠仕事が出来る間は、きのうの続きをきょうやるように、きょうの続き
を明日やるように、ひたすら、働き続けて行く。

島でもただひとりという女性の漁師。漁期には、海に潜り、ウニを捕ったりしてい
る。ひょうきんで、島に趙博という歌手が、ツアーで来て、公民館のような建物で、
ショーを開いていると角隠しの花嫁姿にサングラスという出で立ちで現れ、ショーに
飛び入りする。大喜びをする島の観客たち。一騒がせした後、途中で、引揚げるが、
なんと建物の外に出るとその扮装のまま、バイクに乗って、立ち去ってしまう。

網を使わずに、一本釣りという漁法で、舟に座り込み、1尾1尾、船端から次々とつ
り上げる漁師。「いらっしゃい。良く来てくれたな」と魚に呼びかける。漁の出来る
海さえあれば、島では、生きていけると語る。

蛸を姿のまま、拡げて干すおばちゃんたち。風にあおられて揺れる一夜干しの蛸の群
像。「本当の蛸踊り」という、柔らかい方言の、おばちゃんのつぶやきがカメラワー
クの外から、聞こえて来る。

3姉兄弟だけの小学校。島の小学校の入学式。大人の方が、多い。3姉兄弟が、きょ
うは、主役だ。下の弟が、新入生として入学して来る様子を描くのも、微笑ましい。
新入生を迎える上級生として、緊張している姉と兄。校長先生の祝辞も、紋切り型で
はなく、直接、子どもたち、親たちに語りかける。都会では、考えられない親密さ
が、画面から伝わって来る。

互いに助け合い、なにごとも、分かち合う共同体という結びつきを大事にした生活。
そういう、今の都会では、とうの昔に無くなってしまったような場面が、淡々と描か
れ、毎月定期的に行われている原発反対のデモや埋め立て認可を審議する町議会の傍
聴、中国電力のブイ設置反対闘争等が、時々、インサートされて来る。カメラは、人
間の視線の位置に拘るようにしながら、淡々と島の人びとの暮らしを追いかけて行
く。

田舎で暮らすお年寄りたちが、中国電力や行政という権力に不服従を貫いて、間もな
く、30年になるという。昔からの生活を、ひたすら、未来に生きる子や孫たちに伝
えて行きたいというだけの、素朴で、ささやかな願いだが、素朴で、ささやかなだけ
に、シンプルで、判り易く、守り易いという力強さを感じる。

今、福島の原発事故による放射能汚染が広がっている中で、この映画を見る人たち
が、各地で増えている。島の人たちのように素朴な日常生活を守るということが、ど
れだけ、大事かということが、声高に叫ばなくても、伝わって来る。島から、東に4
キロ離れた原発予定地から、昇って来る朝日の美しさ。朝の日差しに照らし出される
島の佇まい。

素朴な日常生活の貴重さ。これこそ、まさに、反原発映画だ、これが、命を守るとい
うことだということを、映画を観た私たちは、改めて、確認しないわけにはいかな
い。

きょう午後、東京・お茶の水の明治大学で、京都大学原子力実験所の小出先生や作家
の広瀬隆さんの講演を軸に、静岡県の浜岡原発を止めようという現地からの報告もあ
る反原発の講演会があった。『「終焉に向かう原子力」チェルノブイリ原発事故25
周年 東海地震の前に浜岡原発を停止させよう』と題する集まりだ。小出さんの講演
は、「悲惨を極める原子力発電所事故」というタイトル。広瀬さんの講演は、「原子
炉時限爆弾 年々迫る東海大地震と、浜岡原発の危機」というタイトル。開場時間に
合わせて、大学に行ったら、ものすごい人の行列で、待っている間に、どんどん人が
集まって来る。1200人収容のホールは、私たちの少し前で、満席となり、私たち
は、1250番目くらいかな、入場できなかった。後から聞くと、200人くらい立ち見
で、追加して入れたと言うから、1400人くらい入ったのだろう。私たちの後ろに
は、数百人の列ができていたから、2000人くらいが集まったのかもしれない。ある
いは、その後も、人が来ていたようだ。後日、インターネットで動画を流すので、そ
れを見て下さいというのが、主催者からの伝言であった。
- 2011年4月29日(金) 20:32:48
4・XX  東京の渋谷で、鎌仲ひとみ監督作品「ミツバチの羽音と地球の回転」
(135分)という映画を観て来た。タイトルの「ミツバチの羽音」は、小さくても、
「地球の回転」にすら影響を与えているかもしれない、ということらしい。なぜ、そ
ういうタイトルがついたのかは、映画を見なければ判らない。

映画は、瀬戸内に浮かぶ祝島の反原発運動を描いたドキュメンタリーだ。

山口県の光市の近くに上関(かみのせき)町がある。山口県の最南端、瀬戸内海に突
き出た室津半島の南端部と瀬戸内に浮かぶ長島、八島、祝島などの島々が、町域とな
る。下関(下関市)、中関(防府市)、上関ということで、毛利藩の周防灘「三海
関」(上関、中関、下関は、京に近い順で、名付けられた)のひとつが置かれてい
た。北海道などから日本海沿岸沿いに南下して来る北前船などは、瀬戸内海に入ると
立ち寄る寄港地のひとつ。参勤交代の九州の諸大名や朝鮮通信使を乗せた船も、立ち
寄ったという。賓客を接待する御茶屋(迎賓館)などもあったという歴史の町。年長
の人なら、1974(昭和49)年に放送されたNHKの朝の連続テレビ小説「鳩子の海」
の舞台となったというと、知っている人もいるかもしれない。上関町の公式ホーム
ページの記述は、以下の通り。

「現在は、透き通る海と緑豊かな島々に囲まれた海産物のまちとして観光客を集め、
とりわけフグでは全国的に名を馳せています。また、かつて村上水軍の砦がおかれて
いたことにちなみ、毎年7月下旬に開催される「水軍まつり」には、花火大会、御座
船による歴史探訪クルージング、漁船パレードなど盛りだくさんのイベントに多くの
人が集まります。
 さらに原子力発電所の立地も計画されており、21世紀に向けて新しいまちの未来
が始まろうとしています」

この最後の一行だけを読んでも、町当局の原発に対する姿勢が、透けて見える。映画
「ミツバチの羽音と地球の回転」は、町当局が描く「新しいまちの未来」とは、全く
逆の「未来」を描こうとする祝島の人びとの生活と意見を淡々と描いて行くことにな
る。

ドキュメンタリー映画は、島に帰り、ひじきの収穫をしている30代の男性・山戸孝
さんが、主人公。家族を連れて故郷に戻って来た。一人で島に残っていた父親と同居
している。漁業が出来る訳ではないから、季節には、ひじきを取り、煮て、天日干し
をする。また、枇杷をつくり、枇杷茶にして、ひじきと共に島の特産品として、イン
ターネットで、販売している。

祝島の向かいには、田ノ浦という長島の湾があり、淡水と海水が混じりあうため、多
様な生物が、棲息している。この田ノ浦では、28年前から中国電力が、原子力発電
所建設を計画している。山戸孝さん父親で、町議の貞夫さんは、25年前から「上関
原発を建てさせない祝島島民の会」の代表を務めている。孝さんも、島で生活をして
行こうと決意した以上、原発から4キロ程度しか離れていない地域で、子育てを含め
て、生活して行けないから、原発建設には、反対だ。島の人の9割は、原発建設に反
対している。

「島民の会」では、原発建設計画を撤回させようと反対運動を続けて来たが、山口県
知事は、最近、埋め立てを認可してしまった。反対運動は、追いつめられているが、
父親の貞夫さんは、一日でも、建設を引き延ばししていれば、いつかは、世間の流れ
が変わるかもしれないと高齢化した島民を引っ張って、反対運動を続けている。島で
は、4年に一度、「神舞」という祭りが催される。昔、九州の国東半島に帰る途中の
神職が、時化で遭難したのを島民が助けたことがある。神職は、お礼に島民に農耕の
技術を教えた。それに感謝し、五穀豊穣を祈り、祭りは、千年も前から続けられて来
たという。映画は、漁船を使って、海上で繰り広げられる「神舞」も含めて、漁業に
従事する人の生活、先人たちが作った棚田が荒れ果てたのを整備して農業に取り組む
人たちの姿を描いて行く。美しい海、日の入りの素晴らしさなどの映像も、インサー
トされている。

「ミツバチの羽音」とは、こうした島民たちのささやかな日常生活がたてる音のこと
だろうという思いが、次第に判って来る。ならば、「地球の回転」は、「ミツバチの
羽音」のような、島民たちのささやかな叫びを強引に無視して、回転し続け、原発建
設を押し進める中国電力とそれを追認する山口県や上関町の行政当局だろうか。い
や、「地球の回転」は、「羽音」に同調しているように見える。人工的な原発に頼ら
ない自然エネルギーで自立した生活を営もうという志が、見えて来る。

映画は、一気に、島を離れ、スウェーデンに飛ぶ。スウェーデンの最北端、北極圏に
位置するオーバートオーネオ市へ。ここでは、風力発電、バイオマス地域暖房など、
すでに電力の半分を自然エネルギーでまかなっているという。スウェーデンでは、環
境に良い電気を地域で選ぶことができるという。大手電力会社で、独占されている日
本では、自然エネルギーを利用した発電施設が地域にあったとしても、自由に利用す
ることができない。

映画は、再び、祝島に戻って来る。35年振りに島に戻り、休耕田で豚を放牧してい
る島民の生活を紹介する。孝さんは、びわを収穫する。島の田圃には、稲も実った。
県知事の埋め立て認可を受けて中国電力が動き始める。島の漁師もおばあちゃんたち
も総出で、船を繰り出し、浜を埋めて、作業阻止に立ち上がる。

原発優先の国、電力会社に対抗して、映画では、地域分散型のエネルギーに日本のエ
ネルギー政策を変換させようとしている「環境エネルギー政策研究所」の飯田哲也さ
んの活動を紹介する。「地球の回転」は、「ミツバチの羽音」に共振して、回転して
いるのではないか。映画は、そういうことを主張している。

ミツバチの羽音の「ブンブン」は、英語では、buzzで、buzz communication
は、いわゆる「口コミ」という意味だ。福島の原発事故による放射能汚染が広がって
から1ヶ月以上が経ち、原発立地の危険性が、改めて浮き彫りになっているが、それ
でも、原発推進を変えようとしない政府や電力会社に対して、脱原発、社会が持続可
能なエネルギーへの変換を訴えるこの映画は、口コミ、ミニコミ、マスコミで広がり
始めている。

「まあ、全世界、全部、別に、全てを知っているわけじゃないけど、まあ、生きるな
らここじゃろうなっちゅう感じですわ」と、ひじき漁を続けながら、呟いた孝さん。
父親の貞夫さんが、「一日でも、建設を引き延ばししていれば、いつかは、世間の流
れが変わるかもしれない」という思い通りに、不幸ながら、福島の原発事故で世間の
意識は、変わりつつある。それを裏付けるように、原発に放射能汚染を恐れる人びと
が、この映画を観ようと行列を作り始めた。

纐纈(はなぶさ)あや監督作品映画「祝(ほうり)の島」(105分)は、観ていない
ので、観る機会があったら、観てみたい。こちらも、上映活動が続いている。
- 2011年4月21日(木) 7:24:28
3・XX  
☆ 劇評「青ひげ先生の聴診器」
青年劇場の103回公演「青ひげ先生の聴診器」を、東京の紀伊國屋サザンシアターで
観た。高橋正圀=作、松波喬介=演出。窓の外に雪の山並みが見える花里市の花里病
院院長室が舞台。院長は、癌の治療をしながら、診療を続けている。ひげ痕が、濃い
ので、青ひげ先生というニックネームが付けられている。

地域の中の市民病院を標榜しているのだろう。医師や看護士、レントゲン技師など
で、素人劇団を作り、春の市民祭りで公演をしているのだが、医師も看護士も不足し
ているので、ぎりぎりのシフトの中で、なかなか、全員が揃わず、稽古も、進まな
い。それでも、なんとか時間の隙間を見つけて、稽古をしている。出し物は、「水戸
黄門」というまげものコメディ。しかし、途中で、医師や看護婦の携帯電話が鳴り、
患者の容態か、呼び出しとなるので、稽古も中断する。院長室とはいえ、病院で、携
帯電話? という気もするが、そういう演出である。

認知症の身寄りのない老女が、ベッドごと、院長室に運ばれて来て、院長が、応対す
る羽目になる。身寄りのない老婆の身寄り探しも、しなければならなくなる。重篤な
末期癌で、ひとりでの歩行も出来ない患者の、「最後の望み」とあって、パチンコに
連れて行ったりもする。患者たちの人生に出来る限り寄り添うというのが、どうも、
この病院の院長の人生哲学らしい。

青ひげ先生の後輩で、一時は、「神の手」と呼ばれた優秀な外科医が、都会の病院
で、手術後に死亡した患者の遺族から「医療ミス」だとして、提訴されて、先輩に相
談に来る。別の病院の研修医をしている院長の息子も、研修後の進路の悩みを持ち、
青ひげ先生のところに帰って来る。都会の病院で先端医療に取り組むべきか、過疎地
の医療現場に出向くべきか。

大雑把に言って、そういう登場人物たちが、地域の病院の抱える様々な問題を観客に
訴えかけて来る。

実質的に、青年劇場の座付き作者の立場にある原作者の高橋正圀は、庶民が生活の場
で出会う問題を巧みにテーマにして、劇作を続けて来た。20年間で、10本。ほ
ぼ、2年に1本のペースで、作劇している。これまでのテーマは、「遺産」「愛情」
「障害者」「商店街」「沖縄」「病院の患者」など。そして、今回は、「病院の医
師」。

患者も、病人である前に人間なら、医師も、医師である前に人間だよ。そういうメッ
セージが、伝わって来る芝居。現場の医師が、原作者の背後から「医師不足」「医療
崩壊」などの情報を補強し、疲れ切っている医療現場をきちんと踏まえながら、それ
でも、希望に繋がるユーモアのある芝居を構成していたように思う。

いつもながら、メッセージ性のはっきりした舞台というが、青年劇場の特徴だが、今
回は、少し、あれもこれもテーマを入れすぎた嫌いがあり、ごった煮という印象が免
れなかったのは、残念。

院長役を演じた葛西和雄は、自分の人柄を滲ませて、院長を演じていた。認知症の孤
独な老婆を演じた小竹伊津子は、ユーモアのある「抵抗」振りで、存在感を出してい
た。こういうおばあさんは、何処の病院にも、いそうな気がする。

身寄りの不明だった認知症の老婆に、秋田から探し出した姪が訪ねて来て、「秋田音
頭」を歌うことで、老婆の記憶が甦る場面で、幕ということになり、深刻な医療崩壊
の現場も、最後は、笑いで包まれていた。

青年劇場の「青ひげ先生の聴診器」は、13日まで、東京新宿の紀伊國屋サザンシア
ター、14日は、タワーホール船堀(大ホール)で、それぞれ、公演される。
- 2011年3月8日(火) 21:51:21
3・XX  3月の、新橋演舞場の歌舞伎を観て来た。まず、昼の部の劇評をサイトの
「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。10年前の3月31日に亡くなった歌右衛門の十年
祭追善狂言を含む、三月代歌舞伎興行。やはり、ハイライトは、歌右衛門の養子、魁春
初役の政岡だろう。渾身なるか、魁春というテーマで、書いてみた。
- 2011年3月4日(金) 15:01:00
3・XX  東京・池袋の「東京芸術劇場」で開かれた「池袋落語会 春待宵二ツ目
噺」を聞きに行った。落語家になって、10年前後のキャリアで、現在、二ツ目。真
打ち昇格も、向う数年のうち、ということで、いわば、落語家人生の、前方の「視
野」に入って来たという辺りの修業振りか。

得意は、新作落語で、高座を飛び出し、唄を歌い出すという桂夏丸。相撲の幕下付け
出しのように、大学の「落研」出身者も多い中で、30歳代半ばで、落語家入門した
橘ノ圓満は、古典落語の「時蕎麦」。粋な(あるいは、粋を装った)蕎麦食(そばっ
く)いが、天秤棒担ぎの蕎麦屋を、褒め上げ、その挙げ句、騙して(担いで)、蕎麦
代をごまかす。それを見ていた男が、真似をするが、まずい蕎麦を食ったあげく、1
6文の代金を4文多い、20文を支払わされてしまうという噺。当時の1両が、およ
そ10万円という換算で、400円の蕎麦に、500円支払ったということになる。
真似男が、無愛想な蕎麦屋を褒め上げながらも、まずい蕎麦を食わされるときの表情
が、何ともリアルで、おもしろかった。人情噺の雷門花助は、私は、初めて、拝見す
るが、途中で、無気力観客になり、眠ってしまったので、批評は、今回パス。漫才の
宮田陽・昇は、前回同様、好調で、おもしろかった。

トリは、知り合いの笑福亭里光の「池田の猪買い」。これは、桂枝雀で何回も聞いた
ネタ。それだけに、私には、枝雀のイメージが、刷り込まれていて、どうしても、そ
れと比較してしまうので、批評し難い。噺の枕で、「池田」と「大坂」(大阪)の位
置関係を説明していたが、マスコミの記者新人時代に、大阪空港とその周辺の地域を
担当していたので、落語に出て来る、豊中の岡町も、空港敷地のある3市(池田、川
西、伊丹)も、皆、馴染みのある地名なので、懐かしかった。大阪空港自体、猪名川
沿いの河川敷をベースにした空港で、本来的に、猪名川沿いの水の良いところで、地
下水を利用して、池田も、伊丹も、醸造の町。

里光さんへのメールでは、次のように、やんわりと書いた。

あなたの「猪買い」も、牡丹鍋のように、次第に味が出てくるようになるでしょう。
それを愉しみにしています。
皆さん、10年前後のキャリアで、二つ目も、間もなく卒業ではないでしょうか。
ここ数年間で、皆さん、上手くなっているのが、良く判り、愉しみです。

この日、東京は、午後、雪がちらついていたが、落語会が撥ねて、外に出ると、池袋
西口、ウエストゲートパークは、雨も止んでいた。春宵値千金までは、まだ至らず、
ちょっとばかり早い、寒さだった。
- 2011年3月1日(火) 14:06:35
1・XX  1月は、12日に新橋演舞場の通し、13日に国立劇場、17日には、
大阪に出没して、国立文楽劇場と、芝居小屋を彷徨した。

17日夜に、帰京してから、日付順に、それぞれの劇評を構想し、書き始めた。初見
の演目は、自分自身の記録ために、できるだけ、舞台を再現するように、薄暗闇の座
席で、ウオッチングして来たことを書き留めるようにしている。

見どころ、発見箇所、役者評などを書き記(しる)して行く。昼の部、夜の部で、ふ
たつに数える方法で、「ひとつ」の劇評を書くのに、1日か、半日か、いや、3分の
2日くらいは、かかる勘定だ。

書くポイントが、見つかっているときは、キーボードを打つ指の動きも、捗るが、書
きあぐねていると、滞るようになる。

「日記」に劇評を掲載すると、覗いて下さる人が、一気に増えるのが、「足あと」を
見れば、判る。ただし、コメントを書き付ける人は、少ない。

感想などを書いて下さる方も、ときおり、いらしゃる。それが愉しみ。こちらとして
は、「継続は力なり」で、とにかく、書き続けることが大事と思っている。


歌舞伎界は、歌舞伎座建替えに伴う、「さよなら公演」で、一見、フィーバーしたよ
うに見えたが、ほとんど、同じ人たちが、繰り返し、観に来ていたか、フィーバーに
浮かされて、観に来ていた、いわば「支持無し層」が、動き回っていただけか、その
後の、新橋演舞場や国立劇場など、限られた定点しか見ていないので、いい加減な印
象だが、歌舞伎ファン層が、「さよなら公演」後、あらたに、膨らんできているよう
には、見えないが、いかがだろうか。

「海老蔵事件」、富十郎逝去、芝翫休演、勘三郎休演などが続く中、歌舞伎座不在の
期間、後2年余の、この「空白期間」を考えると、歌舞伎界には、懸念される状況
が、相次ぎすぎるように思う。特に、海老蔵事件は、決着を図りたいという松竹・海
老蔵側の、記者会見(東京プリンスホテル・鳳凰の間)に立ち会った身には、よけ
い、強く感じる。

こうした中で、歌舞伎の魅力にとって、大切な「悪」への挑戦を、2月、3月と、仁
左衛門が、大阪と東京で、しようとしていることは、注目に値するように思う。

江戸時代、徳川幕府に弾圧されながら、「工夫魂胆」で、生き延びて来た歌舞伎界の
先人たち。

御曹司に成り上がって、はき違えるのは、「悪」でも、何でもない。それは、「醜」
なことである。

「悪」とは、傾(かぶ)く、歌舞伎の原点であり、「醜」とは、対立するが、「美」
とは、融合するものであろう。世間をはばかる海老蔵が、「醜聞」から、再生し、仁
左衛門の目指すような「悪」を演じられる歌舞伎役者に生まれ変わる時、歌舞伎界
は、再び、代々のエネルギーを蓄え始め、「美しい悪」の花を咲かせるようになるの
ではないか。

日本ペンクラブ会員に加えて、日本映画ペンクラブ会員になった。映画が始まる前の
300年も、昔から、歌舞伎は、フィルムのような編集も出来ないまま、ズームイ
ン・ズームアウトの出来るようなレンズも、スポットライトのような灯り(十分な光
量)も、ないまま、「映画的な手法」を、生の舞台で、リアルタイムで、いろいろ工
夫して編み出して来た芸能なので、「歌舞伎と映画の演出方法」の共通性の分析を、
己のテーマとして、歌舞伎の視点で、映画を観、映画の視点で、歌舞伎を検証する作
業を、ことしから続けてみたいと思っている。
- 2011年1月23日(日) 18:44:21
1・XX  新年の歌舞伎初め。歌舞伎観劇は、12日に、新橋演舞場の昼夜通し。
13日に、国立劇場。

まず、12日、新橋演舞場へ向かう。1月3日に、富十郎が、81歳で、逝去。寂し
い新春の舞台。

夜の部、富十郎が出演を予定していた「寿式三番叟」では、梅玉の「翁」が、ひとり
で、舞う。一見、同じようにみえるデザインのチラシが、微妙に違うことに気がつい
た。開演前のチラシは、「寿式三番叟」の項では、富十郎と梅玉が並んで載っていた
が、開演後では、富十郎の顔写真と名前が、消えている。そこまでは、誰でも気がつ
くだろうが、実は、……。

良く見ると、そればかりでなく、まず、「御摂勧進帳」の役者名が4人から10人に
増え、次いで、「対面」は、9人から11人に増え、また、「実盛物語」は、6人か
ら10人に増え、ということで、結構、さし替えられている。「御殿」と「浮世柄比
翼稲妻」は、替わらず。

このほか、橋之助の写真が、取り替えられている。ほかの役者の写真の幅が、すこし
ずつ、大きくなっている。富十郎一人の名前の変更で、これだけ、大きく替わると言
うことは、富十郎の存在の大きさを改めて、感じさせるとともに、チラシ担当者の苦
心も、忍ばれる。

さて、富十郎不在の舞台だが、一人踊る附千歳の鷹之資には、「若天王」「天王寺
屋」などの声が、大向うから掛かっていた。

昼の部では、「御摂勧進帳」が、いくつか、「暫」のパロディの要素を含んだ芝居だ
ということが良く判った。「御殿」は、体調崩したという芝翫が、休演、橋之助の代
役。「対面」は、吉右衛門、三津五郎、歌昇の科白廻しをそれぞれ楽しむ。

昼夜通しで、印象に残ったのは、夜の部の「浮世柄比翼稲妻」では、初見の「浅草鳥
越山三浪宅の場」を堪能した。
- 2011年1月13日(木) 9:50:28
1・XX  歌舞伎の人間国宝のひとり・中村富十郎が、1月3日に亡くなっていた
ことが判った。81歳。 

私は、10年11月の新橋演舞場の夜の部の初日に、「逆櫓」の畠山重忠役を観たの
が最後になった。富十郎は、11月は、この後、17日から休演した。 

今月(11年1月)も、2日から始まる新橋演舞場・初春大歌舞伎(夜の部)の「寿
式三番叟」に、翁役で出演予定だったが、初日から休演していた。 

口跡の良い、メリハリのある演技が出来る数少ない役者だった。存在感のある役者
が、歌舞伎座の再開を待たずに亡くなってしまった。12歳の息子・鷹之資が、残さ
れた。


私は、歌舞伎界の関係者では、ないけれど。歌舞伎や人形浄瑠璃について、劇評を書
いたり、講演をしたりしているので、今年の年賀状では、「ひとこと書き」に、私の
執筆活動のほか、歌舞伎について触れているものが目についた。 

そのうちから、一部を紹介すると、 

「歌舞伎の世界も政治の世界も困ったものです」 

「市川海老蔵の事件で、歌舞伎界も大ゆれですね」 

本当に、真摯にこの問題を取り上げて、歌舞伎界全体で、揺れてくれるなら、海老蔵
の「貢献度」も、上がるというものだが、海老蔵個人の資質や性癖に問題を矮小化し
て、さらに、ご本人も、誰かが、「そろそろ謹慎が明けた」と宣言をしてくれたら、
それに従って、幕引きというのが、いちばん、困ると言うものでは、ないか。

宝のような役者は、寿命で、亡くなってしまうし、若手は、不祥事を起こして、謹慎
生活。およそ2年後の、13年春に歌舞伎座が再開された時点で、「歌舞伎役者地
図」は、どうなっているのだろうか。
- 2011年1月4日(火) 11:32:25
1・XX  年頭にあたり、「海老と橙(代々)」。

1月1日、NHKハイビジョンで、「伝統芸能の若き獅子」という番組の再放送を見
た。人形浄瑠璃の吉田簑助の弟子で、足遣い10年という人形遣いの簑次の生活振り
を見た。簑次は、桐竹勘十郎の息子だから、歌舞伎界なら、まさに、梨園の御曹司の
立場だが、厳しい修業生活を送っているのが、伝わって来た。

梨園の御曹司で、いま、一番話題になっている人物を思い浮かべた。

12月28日、東京プリンスホテルの鳳凰間で開かれた市川海老蔵の会見。記者から
の質問にときどき、絶句し、宙を見上げながらも、「父が、父が……」という言葉
が、相次いだ。弁護士の示談成立(2つある。海老蔵が、「加害者」かも知れない示
談と「被害者」となった示談)の説明を受けて、発言した海老蔵は、示談成立と謹慎
生活を強調し、幕引きをしたがっているようだった。海老蔵事件は、アホな御曹司の
起こした個人的な事件ではないのだろうに、歌舞伎界全体として我がこととして受け
止めるような危機感が乏しく、そちらの方が心配だ。

歌舞伎座閉場を機に、歌舞伎ファンのサイトが閉じているのが、私の廻りでは、目立
つ。2013年春の歌舞伎座再建まで、まだ、長い時間があるなかで、海老蔵事件を
軸に、歌舞伎を取り巻く多角的な状況を合わせて、今後を見通して行くことが大事だ
ろうが、どれだけの、歌舞伎関係者が、そういう思いを抱いているだろうか。

2011年、年頭の外題は、「双面兎角月照月(ふたおもてとかくたいしょう)」と
してみた。時代は、「交代」から、「対立」へと変化し始めたような気がするから
だ。この1年は、政治経済から芸能まで、社会に起こる様々な現象を見据え、「交
代」という大雑把な、「オール・オア・ナッシング」、あるいは、「あれがだめな
ら、これで」、というシンプルな期待感にさよならして、個々の対立軸をいちいち見
極めながら、我が身と社会(双面)を相互に写す鏡(月照月)として、情報を活用
し、あちこちで、発言をして行きたいと思う。念頭の外題も、歌舞伎の外題のもじり
で、原典は、判り易いが、「月照月」は、村上春樹の世界。

市川團十郎は、江戸歌舞伎の宗家である。海老蔵から團十郎を継ぐことが多いが、團
十郎から海老蔵になったケースもある。松本幸四郎から團十郎を襲名した場合もあ
る。それだけ、海老蔵も、團十郎も、幸四郎も、歌舞伎にとって、大事な名跡であ
る。 

助六の揚巻の衣装の模様ではないが、正月のお飾りには、海老も橙も重要なエレメン
トだ。 

橙と言えば、團十郎代々は、12人がいる。初代は、B級グルメ全国一のモツ煮や幻
の魚・クニマスで、最近知名度アップの「甲州」に父祖の地があり、江戸歌舞伎の特
徴を決定づけた荒事の創始者である。だが、1704年、江戸・市村座に出演中に舞
台で、弟子に刺殺されてしまった。40歳代半ばでの死であった。 

二代目は、非業の死を遂げた父親の藝を完成させ、歌舞伎十八番の「原型」を作り上
げた。 

三代目は、養子で、15歳で、團十郎の名跡を継いだが、若くして病死してしまっ
た。 

四代目は、初代松本幸四郎の養子だが、二代目の実子ともいう。二代目幸四郎から四
代目團十郎を襲名。親分肌で、弟子たちの面倒を良く見たので、住居に因んで、「木
場の親玉」と呼ばれた名優だった。 

五代目も、名優。四代目の実子。團十郎から鰕蔵に改名している。俳名が、「白猿」
で、文化人であった。 

六代目は、五代目の養子で、14歳で、團十郎を継いだが、22歳で、早世。 

七代目は、名優。10歳で、海老蔵から團十郎へ。小柄ながら、多才多能な人であっ
たが、贅沢等を理由に、幕府から江戸追放の罰を受けてしまった。團十郎の名跡を息
子に譲り、再び、海老蔵を襲名。二代目團十郎荒事の藝に磨きをかけ、敬意を表する
ために、「歌舞伎十八番」を制定したことでも知られる。 

八代目は、七代目の長男。10歳で、團十郎を襲名したが、巡業先の大坂で、自殺し
てしまった。32歳であった。当代の海老蔵より、1歳若い。 

九代目は、七代目の五男。つまり、八代目の弟。名優で、明治期の「劇聖」と呼ばれ
るほどの実力者であった。「團菊左」、九代目團十郎、五代目菊五郎、初代左團次
で、明治期の歌舞伎界で、一世を風靡した。 

十代目は、九代目の女婿(むすめむこ)で、三升を名乗ったが、大成せず。没後、十
代目團十郎を追贈された。 

十一代目は、七代目松本幸四郎の長男で、三升の養子になり、1940年に海老蔵を
襲名。「海老さま」で、親しまれた。当代海老蔵が、尊敬をして止まない「祖父」
が、この人である。22年間、海老蔵で、人気を呼んだが、十一代目團十郎を襲名し
て、わずか3年で、病没してしまった。 

十二代目は、当代の團十郎で、十一代目の長男。十代目海老蔵から、十二代目團十郎
を襲名。白血病を克服し、團十郎としては、数少ない、還暦を通過し、頑張っている
のに、息子の十一代目海老蔵は、不祥事を起こしてしまった。 

こうして、團十郎代々を見て来ると、名優の團十郎の狭間に、不幸な團十郎が、とき
どき、顔を覗かせているのが判る。海老蔵から團十郎へ、という名跡の継承は、地道
な藝の精進なくして、担保されないということを改めて、十一代目海老蔵は、肝に銘
じる必要があるだろう。藝の精進は、謹慎をして、例えば、寺や山にこもったり、漂
白の旅に出たりしても、達成できない。観客の厳しい目に曝されながら、10年、2
0年と精進を重ねるしか、途はない。 

「海老と橙(代々)」と名付けた由縁である。
- 2011年1月2日(日) 22:14:33
12・XX  映評「木漏れ日の家で」

人生最後の時間をどう過ごすか。これは、万人共通のテーマである。ポーランドのド
ロタ・ケンジェジャフスカ監督は、91歳の女優ダヌタ・シャフラルスカを主役にし
て、モノクロの映像で、このテーマに挑んだ。主要な役割で共演するのは、ワルシャ
ワの森の中にたつ古い木造の屋敷と愛犬フィラ。そのほか、道路を挟んだ隣人たち。
金網の塀の破れ目から出入りしていた隣地に建つ音楽クラブの子どもたち。老女の息
子の家族などが、脇を固める。

愛犬フィラは、名演で、老女・アニエラの終生のガイド役を「演じ」切った。そし
て、古い家と老女の人生の最後の時間は、同調する。それをドロタ・ケンジェジャフ
スカ監督は、静かではあるが、懇切丁寧な映像で、丹念に描いて行く。

88歳の母の人生の最後の時間をどう構築してあげようかと考えて、試行錯誤を覚悟
し、老母と共に、「老いを生きるとは、……」という未知の世界へ一歩一歩踏み出し
ながら、日々実践している身には、なんとも、身につまされる映画だ。試写室の狭
く、暗い空間に押し込められて、画面を見続けるのは、時に、苦痛になる。明るい外
へ逃げ出したくなる。その一方で、外へ逃げても、一時的なごまかしでしかなく、何
の解決にもならないという意識もある。明日は、我が身だから、瞠目して、画面をき
ちんと見続けなければならないという思いにも襲われる。なんとも、重い映画だ。

冒頭、アニエラは、クリニックを訪ねる。診察室にいた女医は、アニエラが、老女で
あると見て取ると、「服を脱いで、横たわれ」とだけ、ぶっきらぼうに言う。その言
葉だけを繰り返す女医に、プライドを傷つけられたアニエラは、啖呵を切って、診察
室を飛び出す。街の雑踏の中で、アニエラは、独りで、女医への呪詛の言葉を繰り返
す。

映像は、切り替わり、森の中の家に入って行くアニエラをカメラは追う。鉄の門を入
り、雑草の生い茂った通路を通り、アニエラは、木造の古い屋敷に入って行く。屋敷
のガラス窓には、木漏れ日が、照り輝く。午後も遅い時間だろうか。木漏れ日は、柔
らかく、優しい。

ここに、アニエラは、愛犬フィラと暮している。先日、第2次世界大戦後、当時の共
産主義政権から強制されて、長い間、同居を余儀なくされていた間借り人の引っ越し
があった。事実上、接収されていたピアノも戻って来た。しかし、重くて、老女に
は、ピアノは動かせない。でも、自分の家を取り戻した喜びはある。

木造の総二階の家は、戦前に両親が建ててくれた家だ。アニエラは、ここで、生まれ
育ったのだろう。両親との思い出、そして、なによりも、夫と過ごした家。生まれた
一人息子を育て上げた家。そういう回想を挟み込みながら、アニエラは、今は、別居
している息子の家族とここで住みたいという希望を持っている。しかし、息子から
は、何も言って来ない。電話をかけても、話し中か、留守がちで、連絡が取れない。
たまに、電話がかかって来ても、大きな家なので、老女の足で、二階から階段を下り
て来るまでに、大概切れてしまう。日がな一日、家の中にいて愛犬とのみ話をしなが
ら生活しているアニエラは、古い双眼鏡で隣人たちの姿を見ている。

息子が、孫娘を連れてアニエラを訪ねて来たが、孫娘が、古い木造の屋敷や手入れの
行き届いていない荒れた庭などを嫌がっているので、母との同居を息子は、拒絶す
る。

さらに、金網の塀の破れ目から出入りしていた隣地に建つ音楽クラブの子どもたち
は、勝手にアニエラの庭に入り込む。双眼鏡で、子どもたちのやんちゃ振りを観察す
るアニエラ。子どもたちは、かつては、アニエラの幼い息子も乗ったであろうブラン
コに乗ったり、庭で遊んだりして、アニエラを悩ませる。

また、道路を挟んだ隣家の男は、金の力で、アニエラの家を買い取ろうと業者に仲介
させる。思い出の多い家を手放す気のないアニエラは、それを拒絶する。しかし、ア
ニエラは、息子の家族たちが、隣家の男と親しそうに話している姿を双眼鏡で見つけ
てしまう。ガラス窓を開ければ、息子たちと隣家の男の会話も聞こえて来る。息子
は、老母との同居は、拒んだが、古い家を相続し、売り払おうという肚らしいことが
判った。息子たちに裏切られたことを知った老母は、ある決断をする。

公正証書で、家屋敷の相続を一人息子には、許さず、隣地の子どもたちのための音楽
クラブに寄付するというアイディアだ。弁護士を同席させて、音楽クラブの共同経営
者の男女に家屋敷の寄付を申し出る。共同経営者の男女の姿に、アニエラは、若い日
の自分と夫の姿を認めたのだろう。音楽クラブのやんちゃな子どもたちのひとりが、
窓をよじ上り、アニエラの家の二階のベランダに入り込んで来て、老女と話すように
なったことも、あるいは、幼い頃のひとり息子の姿が、重なって来たのかもしれな
い。アニエラは、現実の一人息子の家族よりも、若き日の夫と自分、そして幼い息子
を忍ばせる音楽クラブの共同経営者と子どもたちの方に共感するものがあったのだろ
う。

最後に、久しぶりに着飾り、化粧をし、黒い靴下を履き、ヒールの高い靴を履いて、
若返ったアニエラは、ベッドに横になる。そのまま、穏やかに死ねれば、人生は、美
しいままで、幕を閉じることが出来るかもしれない。

「木漏れ日の家で」というのは、邦題である。英語訳のタイトルは、Time to Die
で、「死までの時間」ということだろう。「木漏れ日」も、午後の遅い柔らかい優し
い日差し。古い家の女主人は、やがて、自然に死んでしまうが、子どもたちに引き継
がれた古い家は、修理され、管理され、生き延びて行くだろう。

映像は、二階のベランダで、一人静かに死んで行った老女の姿を隠すように、クレー
ンで持ち上げられ、どんどん、上空へ上がって行く。モノクロの映像だが、花盛りの
森の木が、どんどん画面に入って来る。森の木の外に出たカメラは、画面一杯に広が
る森の遠景を映し出し、やがて、空を映し出す。アニエラは、静かに昇天をし、画面
の外に取り残された私たちは、空漠とした空を見つめるばかりだ。人生の最後の時。
残された短い時間をどう生きるのか。91歳の名優・ダヌタ・シャフラルスカは、第
2次世界大戦後のワルシャワ市民を代表するように、静かなる抵抗精神を胸に秘めた
ような、気丈さを見せながら、明晰な、そして、実に、可愛らしい老女を等身大で、
自然に、演じ切っている。また、愛犬フィラは、何処までが演技なのか、継ぎ目のな
い所作で、これもまた、自然に振る舞っている。ダヌタ・シャフラルスカとのふれあ
い振りは、演技とは思えない。フィラの目の動きが、特に、素晴らしい。

この映画は、11年4月16日(土)から、東京・神保町の岩波ホールで、ロード
ショー公開される。
- 2010年12月29日(水) 18:01:31
12・XX   映評「僕と妻の1778の物語」

眉村卓「日がわり一話」(がん告知で、余命1年と宣言された妻・悦子のために、原
稿用紙およそ3枚のショートショートを書き続けた。1778話になった、その作品
の極一部を収録した作品集)や「妻に捧げた1778話」(同じく、作品の極一部と
余命1年の予想を越えて続いた5年間闘病生活、2002年に亡くなるまで、40年
以上連れ添った愛妻との物語を描いたエッセイ)などの原作が、映画化された。現実
の眉村夫妻は、当時60歳代だろうが、映画では、亡くなる夫人が、30代後半で、
ふたりは、高校時代の同級生として知り合った仲睦まじい夫婦というように設定され
ている。短いサラリーマン生活をへて、SF作家になった牧村朔太郎(サク)と銀行に
勤める妻・節子は、結婚生活を含めて、高校時代から、通算16年の付き合いにな
る。サクに草g剛、節子に竹内結子という配役。 

がんの宣告、闘病生活、笑うことで免疫力が高まるという担当医の意見を受けて、
ショートショートを愛妻というただ一人の読者に捧げるという形で書き続け、妻の闘
病生活を支えたSF作家。その結果としての、余命1年予想から5年に延びた妻の闘病
人生は、悲惨な結末が、予想されるだけに、星護監督は、コミカルな色合いも、適
宜、混ぜながら、物語を展開させる。

創作開始から1周年を迎え、余命予想を乗り越えた。親しい人たちが、お祝いのパー
ティに参加してくれ、牧村夫妻も楽しい時間を過ごす。ショートショート執筆は、2
年、3年と延びて行く。作品は、原稿用紙に書き継がれ、脱稿すると妻に読ませた。
幼い子どもの「丈比べ」(背比べ)のように、着実に高くなって行く原稿用紙の山に
も、「柱の傷」のように、高さを示す1年、2年、3年の印が、標高のように付加さ
れて行く。

仲間の作家からは、「書き続けることで、妻が死に向かっているという現実から目を
背けようとしているのではないか」「作品を終えるときは、どういうときなのか、
判っているのか。早く、止めろ」などと言われる始末。牧村が、作品を書くことは、
本当に妻の闘病の支えになって行くのか。眉村卓と夫人との実話は、映画では、若い
夫婦の純愛物語に昇華したようだ。

随所に眉村ワールドと言うべき、SF的なシーンが挟み込まれ、お馴染みの火星人が、
集金人に化けたり、ロボットたちも、笑う宇宙人の人形も、健気に闘病するふたりを
支えたりするユーモアも生きている。

星護監督は、草g剛主演で、眉村卓原作のテレビドラマ「僕の生きる道」(胃がん
で、余命1年と言われた高校教師)「僕と彼女と彼女の生きる道」(妻に離婚され、
幼い娘と残された銀行員)「僕の歩く道」(先天的な障害のある自閉症の青年)=そ
れぞれの設定は、変えているが、テーマは、同根だろう=を作り、人気を呼んだ。
「僕シリーズ」の、いわば集大成というような形で、ベースになった眉村夫妻の実話
は、設定が工夫され、ショートショート執筆でがんと闘う作家夫妻というテーマに磨
きがかかり、映画「僕と妻の1778の物語」になったと思う。

監督と脚本家は、闘病生活という辛い体験を、若くても、密度の濃い結婚生活を送る
夫婦というように捉え直そうとしたのだろう。牧村が毎日書くショートショートは、
世界に二つとない愛妻へのユニークなプレゼントであり続けた。ユニークなプレゼン
トは、夫の熱い思いを妻の胸に生きる力として注ぎ込む。

1778話にふくれあがった作品群は、極一部は、刊行され、また、1000話まで
は、自費出版されたが、778話は、原稿のままだという。星監督は、その貴重な7
78話を映像化し、随所に流し込んでいる。映像的には、青空と光と緑が、眉村ワー
ルドを象徴する。

この世では、間もなく、死に別れてしまうふたり。北海道の(宇宙が透けて見えるよ
うな)黒を秘めた青空の下。
サク「もう一つの世界にも僕と節ちゃんがいて、また、別の世界にも、僕と節ちゃん
がいる」
節子「そこで、なにしているんだろう。私たち」
サク「やっぱり、節ちゃんを見つけて、一緒に暮らすよ」

「もうこの世では、逢わねえぞ」(あの世で、逢おう)と三千歳に別れを告げる、歌
舞伎「三千歳直侍」の片岡直次郎の科白が、私の耳にダブって聞こえて来た。「直
さーん」という三千歳。「節ちゃーん」というサク。パラレルワールドは、江戸時代
とも,交錯する。

映画「僕と妻の1778の物語」は、2011年1月15日から全国の東宝系で、
ロードショー公開される。
- 2010年12月17日(金) 21:53:13
12・XX    映評「わが心の歌舞伎座」

歌舞伎の外題なら、さしづめ、「角書」のように副題がついている映画が、「わが心
の歌舞伎座」だ。ついている副題は、「歌舞伎座さよなら公演 記念ドキュメンタ
リー作品」とある。歌舞伎座の「さよなら公演」なら、ご承知のように、09年1月
から10年4月まで、16ヶ月間、歌舞伎座で繰り広げられたロングラン公演のこと
だ。私は、幸いにして、すべての舞台を観ることが出来た。それについては、すべ
て、舞台ごとに、ここの「劇評」にまとめてある。

ところが、映画「製作」の松竹は、歌舞伎も「製作」しているから、ドキュメンタ
リー作品とは言え、客観的なドキュメンタリーには、なり得ない。まず、監督は、松
竹に気を使っている。また、インタビューの場面を観ていると良く判るが、インタ
ビューを受けた11人の主要な歌舞伎役者に気を使っている(因みに、皆、自分のこ
とを「役者」とは言わずに、「俳優」と言っている人が多い。歌舞伎役者が、集う団
体は、「日本俳優協会」だから。「役者」という言葉を使っていたのは、團十郎ぐら
いだったか)。上映時間、2時間47分という長大な映画は、そういう意味では、イ
ンタビューとそれぞれに役者に因んだ舞台のダイジェストで、主に構成されていて、
松竹と役者のコマーシャルとも言える内容だ。それはそれで、おもしろい。劇場では
見られないような、大アップの映像は、映画ならではの、迫力があるからだ。

また、数々のドキュメンタリーを「制作」してきた十河壮吉(そがわそうきち)監督
は、大コマーシャルになりがちな映画の中で、歌舞伎座の裏側の素顔を巧みに挿入す
ることで、ドキュメンタリーのおもしろさを垣間見せてくれている。大部屋の役者
(楽屋での様子、劇場裏での、トンボの稽古風景など)、大道具方、小道具方、衣
装、床山、竹本、囃子方など、幹部役者の楽屋のシーンの合間に、それぞれ、短い時
間ながら、垣間見ることが出来るのは、貴重な映像だ。裏方のみが知っている劇場の
裏側、天井近く、あるいは、天井裏に広がる光景が、芝居の世界とは、どういうもの
であったのか。そういう、いまでは、「失われてしまった世界」を覗き見ることが出
来る。

私も、以前に歌舞伎座で見せてもらったことがあるが、ロビーを使っての「顔寄せ」
という「幕開き」前に毎月行われる、古来の儀式。稽古場に加えて、ロビーでの稽古
風景。幹部役者の楽屋での日常「生活」。今回限りの映像では、取り壊し前の大千秋
楽(私も、かろうじて、大千秋楽の昼の部を体験できた。夜の部、閉場式は、チケッ
トが取れなかった)、関係者だけの修祓式、一般公開した閉場式、それも終えて、役
者たちが、歌舞伎座の楽屋口を最後に出て行く光景など、貴重なシーンを見ることが
出来る。

映画は、つなぎのナレーターに、松竹の看板女優・倍賞千恵子を起用。映画の中では
11人の役者が、次々に、登場し、歌舞伎座への思いを語る。藝へのこだわり。役へ
の一念。受け継いで来た藝への思い、親や先輩、いや、祖先、先達など名跡を守るゆ
えの思い。初舞台や思い出の舞台の回想。幼年時の歌舞伎座体験。奥方(管理者)、
裏方など関係者への思い出などなど。役者は、自分が主役というプライドがあるの
で、ここでも、自分に与えられた時間を工夫魂胆で、仕切って行く、という感じだ。
特に、11人の主要な役者の、オムニバス映画という趣きもある。

それに、ひとり当たり、2つないし、3つの出演演目の紹介映像がつく。1番バッ
ターの芝翫の場合なら、歌舞伎座舞台でのモノローグに加えて、08年の「藤娘」
(*をつけるが、*は、いずれも、歌舞伎座だが、「さよなら公演」以外の舞台を示
す)と「さよなら公演(09年1月から10年4月まで)」中の、09年の「雪傾
城」が、紹介される。以下、映画での登場順に、役者と演目を紹介してみよう。

吉右衛門は、09年の「義経千本桜 大物浦」、03年の「平家女島 俊寛」
(*)、10年の「一谷嫩軍記 熊谷陣屋」。團十郎は、03年の「暫」(*)、1
0年の「助六由縁江戸桜」、10年の「勧進帳」。玉三郎は、09年の「天守物
語」、同じく「海神別荘」、07年の「壇浦兜軍記 阿古屋」(*)。富十郎は、0
9年の「祝初春式三番叟」、98年の「種蒔三番叟」(*)、10年の「文殊菩薩花
石橋 石橋」。

勘三郎は、09年の「春興鏡獅子」、同じく「野田版 鼠小僧」、同じく「仮名手本
忠臣蔵 三段目 四段目」。幸四郎は、10年の「菅原伝授手習鑑 寺子屋」、09
年の「仮名手本忠臣蔵 四段目、同じく「勧進帳」。梅玉は、07年の「頼朝の死」
(*)、09年の「浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森」。仁左衛門は、10年の「菅原伝授手
習鑑 道明寺」、09年の「女殺油地獄」。

坂田藤十郎は、09年の「心中天網島 河庄」、同じく「曾根崎心中」、99年の
「恋飛脚大和往来 封印切」(*)。菊五郎は、08年の「雪暮夜入谷畦道」
(*)、同じく「新皿屋舗月雨暈 魚屋宗五郎」(*)、10年の「弁天娘女男白
浪」。

このほか、インタビューの真ん中、富十郎と勘三郎の間に、「さよなら公演」には、
病気休演中で、出演しなかったため、インタビュー無しで、舞台映像だけ(従って、
すべて、*)で登場するのが、猿之助、雀右衛門。まず、猿之助は、92年の「義経
千本桜 川連法眼館 蔵王堂花矢倉」、95年の「黒塚、86年の「慙紅葉汗顔見勢
 伊達の十役」。雀右衛門は、02年の「本朝廿四孝 十種香」、98年の「妹背山
婦女庭訓 三笠山御殿」、97年の「英執着獅子」、03年の「祇園祭礼信仰記 金
閣寺」。

「さよなら公演」の「記念ドキュメンタリー」(副題)なので、09年、10年の公
演期間中の演目だけで、第4期歌舞伎座(1951年から2010年)に別れを告げ
る役者、「わが心の歌舞伎座」(主題)なので、それ以前の演目を狩出して、懐かし
い歌舞伎座に別れを告げる役者。思いや映画出演の趣向は、それぞれだ。

全部は、紹介しきれないので、印象に残った役者のみを書き記す。まず、印象的だっ
たのは、團十郎。「勧進帳」の弁慶の、花道の引っ込み。2度目の白血病を克服して
の復帰の舞台。20キロか、30キロか知らないが(「助六」の揚巻の衣装は、鬘な
ども含めて、全重量が、40キロという)、重いリックを背負ったような状態で、全
力で、トラックを走り込むような、「飛六法」で、長い花道をかけ戻って来る團十
郎。揚げ幕の鳥屋(とや)の中で、弟子の裃後見が、待ち構えている。飛び込んで来
る團十郎を、弟子の方からぶち当たるようにして受け止める。そうしないと、弟子は
吹き飛ばされてしまうだろうし、鳥屋の壁に、ふたりとも衝突してしまいかねない。
そういう勢いが、画面から伝わって来る。息が切れて、ものも言えない團十郎。荒い
息をしながらも、鳥屋から奈落へおりる階段をくだる團十郎と弟子。後を追うカメ
ラ。花道分の奈落の通路を歩く。本舞台下から、廻り舞台の横を通り、また、階段を
上る。くねくねとしたコースを早足で歩みながら、團十郎は、楽屋へ戻る。楽屋へ戻
り、ほかの弟子にも助けられながら、やっと、重い衣装を脱ぐ團十郎。まだ、息が切
れていて、苦しそう。はあ、はあ、言いながら、少しでも早く楽になりたいと、鬘を
取り、衣装を脱ぐ。その間に、出演を終えて、團十郎の楽屋入り口で、挨拶する人
に、苦しい息の下ながら、挨拶を返す團十郎。この場面が、圧巻だった。江戸歌舞伎
の宗家は、こういう思いをしながら、連日、歌舞伎座への別れを伝えていたのかと思
うと、涙が出て来る。息子・海老蔵は、玉三郎の「天守物語」、「海神別荘」の相手
役として、登場する。「事件」を起こした海老蔵のために、團十郎の体調には、い
ま、大きなストレスが掛かっているのではないか。ストレスが、少しでも、少ないこ
とを祈りたいが、まあ、無理か。 

もうひとりは、坂田藤十郎。「心中天網島 河庄」の紙屋治兵衛の、花道の出。気の
抜けたような心の演技が、難しい役。藤十郎は、楽屋で、しっかり手拭いで頬被りを
している。それを鏡でチェックした後、楽屋から、階段をおりて、花道下の奈落の通
路を歩いて行くが、もう、気の抜け始めたような歩き方をしている。歩くに連れて、
ますます気が抜けて行くように見える。コンクリートがむき出しの地下の通路を、江
戸時代、上方の天満に住む紙屋治兵衛という商人は、好きな女のことに気を抜かれた
様子で、すたすたと歩いて行く。そこは、タイムトンネルの通路か。ちょうど、息を
切らしながら、團十郎が歩く筈のコースの逆を、藤十郎は、その3ヶ月前に、歩いて
行く。階段を上るころ、紙屋治兵衛の歩みは、億劫そうになっている。向う揚げ幕の
鳥屋に、治兵衛は、やっと、たどり着く。花道への出まで、まだ時間があるようだ
が、藤十郎は、鳥屋の中で、すっかり、紙屋治兵衛になり切っているようだ。もう、
誰も声を掛けられそうも無い。そして、揚げ幕が開くと、紙屋治兵衛が、虚ろな足取
りで、花道をうろうろと歩いて行く。

「さよなら公演」の千秋楽の前日。第3部の幕間の短い時間に、実は、私も、歌舞伎
座の関係者に連れられて奈落の通路を歩いた。壊される歌舞伎座への御名残りに見せ
て頂いたのだ。地下食堂横の通路から、花道下の奈落の通路に入れるようになってい
たので、そこから、入れてもらった。入った途端、通路のところで、椅子に座り、煙
草を吸いながら、休憩している大部屋役者が居た。その脇を通り、地下の通路を本舞
台の方に行き、右側が、廻り舞台の仕掛けのあるところと案内された。あちこちで、
大部屋の役者衆が、同じように休憩している。気さくに応える役者衆に軽く声を掛け
ながら、通り過ぎ、階段を上り、1階のフロアーに出て、案内されるまま、扉を開け
ると、外は、土産物屋などのある、見慣れた西側のロビーだった。そういえば、以前
にも、歌舞伎座の別の関係者に案内されて、2階の照明室から劇場の裏側へ入り込
み、階段をおりて、楽屋の通路を通り、舞台の袖へ、「船弁慶」の出を待つために、
「鏡の間」で、煙草を吸っていたのは、彦三郎だった。そして、奈落へと案内された
ことがあった。もう、あの時、見た空間は、永遠に失われたのだと、映画を観なが
ら、改めて、思った。

そして、仁左衛門。「道明寺」の大道具方に、庭の遠見の、空の色を、もう少し青く
して欲しいと、注文をつけているシーンが出て来る。演出臭い感じも、ないではない
が、私も、似たような場面に出くわしたことを思い出した。以前、初日前に、舞台稽
古を見せてもらったことがある。演目は、幸四郎主演の「俊寛」。都から来る御赦免
船の件(くだり)で、船の綱を結びつける島の浜辺の岩(上手の小さい岩)に、舞台
下の座席の間に立ち、道具方に注文を付けている浴衣姿の人物が、居た。誰かと思っ
たら、幸四郎だったのを、私のほかに数人しか居ない2階席の最前列から認めたこと
があった。幸四郎は、細かいところまで、注文を出すのだなと感心したが、この映画
では、仁左衛門も、細かな注文を出している。歌舞伎は、主役となる役者の考えや趣
向で、背景も、工夫するという。書割りなどの背景画も、舞台の度に作り直すのは、
そういう主役の役者の細かな注文に応えるためだというナレーションが流れていた。

もうひとりは、吉右衛門。「熊谷陣屋」の熊谷直実で、花道七三での科白。「ああ、
十六年は、一昔。夢だあ、夢だああ」と言うときの、画面一杯にアップされた吉右衛
門の顔。眼からは、涙が流れ出して来る。この場面での直実役者の涙は、実際の舞台
でも、何人かの役者で、何度か見ているが、映画の大画面で見る吉右衛門の表情と涙
は、さらに、迫力がある。

印象に残った役者の最後は、菊五郎であった。菊五郎は、歌舞伎座が無くなり、新し
い歌舞伎座が再開されるまでの3年間は、歌舞伎にとっても、歌舞伎役者にとって
も、大事な期間だと言う。一種の「空白期間」ともいうべき期間が、終わった後、再
建された歌舞伎座で、いまの歌舞伎ブームを維持し続けていられるのか、あるいは、
歌舞伎離れという状況になってしまったりしないのか。確かに、歌舞伎の人気は、浮
沈があり、それをくぐり抜けて、継続して来たという歴史がある。歌舞伎座は、歌舞
伎座だ。東京で言えば、新橋演舞場やテアトル劇場、日生劇場などで、完全に、歌舞
伎座の無い3年間をカバーできるものではない。菊五郎は言う。「新しい歌舞伎座
が、出来ても、結局、問われるのは、そこで演じられる歌舞伎の中身であり、質であ
る」。それは、「空白期間」中に、歌舞伎役者が、藝の精進を重ね、新しい劇場に相
応しい、藝の充実の成果を見せることだと言う。まさに、その通りだろう。そういう
意味で、海老蔵の「事件」は、役者の精進とは、真逆な方向に向かう「事件」だろ
う。今後の展開次第では、海老蔵本人にとどまらず、父親の團十郎など成田屋一門に
も波紋を広げ、さらに、歌舞伎界全体に影響を及ぼして来る危険性も、あるのではな
いかと、私は、危惧する。歌舞伎座再建を目指す松竹の舵取りも難しい。

映画では、第4期歌舞伎座(1951年から2010年)を支えて来た先達たち22
人の演技を記録した資料映像も、挟み込まれている。初代吉右衛門、三代目時蔵、七
代目三津五郎などが、次々に紹介される。そういう人たちの藝の精進の積み重ねが、
本当の歌舞伎座の歴史だろう。再建される歌舞伎座にも、そういう積み重ねを継続し
て欲しい。そのためには、歌舞伎役者や関係者は、菊五郎に代表される決意を実践し
て欲しいと思う。

この映画では、大部屋役者含めて、歌舞伎役者総出演と、銘打っている。映画に記録
された歌舞伎界を背負うひとりひとりが、まだ、2年半近くが残っている歌舞伎座の
「空白期間」を乗り越えて、13年春再開の、第5期歌舞伎座という彼岸へ、無事に
たどり着いて欲しい。
- 2010年12月10日(金) 10:49:15
12・XX 市川海老蔵の「事件」の詳細は、まだ、良く判らないので、そこには触
れないで、書いてみる。

事件に関して、ワイドショーや新聞、週刊誌などで、芸能評論家が、なにか言ってい
るようだが、あまり参考にならないと思うので、耳も傾けていない。また、歌舞伎に
詳しいという演劇評論家なども、いろいろ論評しているが、これも、また、大事な点
を押さえていないので、ことの一面しか見ていないように、私には、思える。

海老蔵の事件について、まだ、私は、語らないが、語るならば、以下の点をきちんと
論証する必要があると思っているので、とりあえず、整理してみた論点を列挙してお
きたいと思う。

1)断片的に、垣間見た情報(正しいかどうかは、確認していないが)では、海老蔵
は、酒癖が悪く、悪評があるようだが、アルコール依存症ではないのか。

2)それに加えて。梨園の御曹司ということで、幼い頃から、ちやほやされ、人格的
に未熟なまま、育ってしまったのではないか。

3)藝の未熟。歌舞伎十八番に代表されるような、主人公が、光り輝く、「助六」
「暫」などの荒事では、大分巧くなって来たが、世話物は、まだまだ。特に、科白が
未熟。時に、原題劇的な科白を言うときがある。

4)逆に言えば、「荒事」では、元々、稚児的な意味合いが、スーパーヒーローの魅
力になるので、父親の團十郎より、存在感のある舞台を見せてくれることがある。若
さ故、逆に、「荒削り」なりの魅力もある。

5)藝の力が、アンバランスだが、実力より、人気が先行している。人格的に未熟な
本人は、それを勘違いをし、驕ってしまった。

6)海老蔵の出演禁止の波紋は、どんどん広がっているが、これは、父親の團十郎と
松竹に配慮だと思う。江戸歌舞伎宗家の面子が優先されているのではないか。酒に拠
る不行跡で、舞台に穴をあけ、皆に迷惑をかけ、世間を騒がせた以上、謹慎は、必要
だが、出演禁止の間に、何をするかが、課題だろう。

7)この期間中に最優先でなすべきことは、もし、私が心配するように、海老蔵が、
「アルコール依存症」なら、これを治癒することだ。

8)人格的な未熟や藝の未熟は、出演禁止期間をどれだけ設けても、直らない。歌舞
伎役者にとって、人格的な研鑽や藝の精進は、舞台でこそなされるべきだからであ
る。役者仲間と藝を競い合い、観客の視線に耐えながら、藝を育てる以外に、処方箋
は無いだろう。だとすれば、出演禁止期間が、長引くことは、海老蔵にとって、プラ
スにはならないだろう。父親の團十郎が、2度も、難病の白血病を克服して、舞台復
帰を果たしたのを傍で見守ってきながら、何を見て来たというのだ。團十郎は、わが
息子ながら、いや、わが息子故に、はらわたの煮えくり返る思いをしているだろう。
今回の事件が、團十郎の体調に悪影響を与えないことを祈るばかりだ。

9)「アルコール依存症」の治癒のほかに、出演期間中になすべきがあるとすれば、
それは、将来の十三代目團十郎を見据えた海老蔵という役者像を、自分なりに再構築
することではないか。

10)歌舞伎役者として、荒削りながら、逸材の片鱗を見せている海老蔵なのだか
ら、舞台に復帰し、藝の精進ができるように、役者人生をリセットし、再出発して欲
しい。

11)歌舞伎界は、歌舞伎座の再建という、3年間の、ある種の「空白期間」をどう
過ごすかで、再建後の歌舞伎座で繰り広げられる歌舞伎のありようが変わってくる可
能性がある。歌舞伎役者は、「空白期間」を空白で終わらせないように、この期間こ
そ、皆々、精進すべき大事な時期へ乗り出している。そういう自覚のある役者も居る
が、海老蔵は、今回の事件を含めて、全く、逆の方向に動いてしまっている。空襲で
焼失した60年前の歌舞伎座再建では、六代目歌右衛門襲名披露が、軸となったよう
に、2013年春の歌舞伎座再建(第5期)以降では、七代目歌右衛門襲名披露のほ
か、菊五郎、團十郎などの大名跡を引き継ぐ襲名披露興行なども、視野に入ってくる
のではないのか(つまり、かつての「三之助」脱皮の時代の再現)。海老蔵の今回の
事件は、團十郎家、海老蔵個人というレベルを超えて、そういう歌舞伎界の歴史的な
流れにも、大きな波紋を投げ掛けてしまった。

まあ、とりあえず、思いつくままに。いずれ、上記の点をきちんと検証してみたい
と思っている。
- 2010年12月9日(木) 9:45:31
11・XX 「サラエボ、希望の街角」を試写会で観た。

ムスリム(キリスト教からイスラム教に改宗した)の兵士として過酷な戦場を体験
し、弟を失ったという戦争体験の後遺症で、アルコール依存症になってしまい、その
挙げ句、勤務中の飲酒が発覚し、半年間の停職処分を受けた航空管制官・アマル。ビ
エリナに住んでいた少女の頃、目の前で、セルビア人の準軍事組織に両親が殺され、
強制的に追い出され、祖父母や親族とともに、セルビアに避難して来たという航空会
社の客室乗務員のルナ。若いカップルは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都・サラ
エボのアパートで、同棲生活をしている恋人同士だ。結婚を前提に同棲生活を続けて
いるが、ルナは、アマルの子供を産みたいと念じている。子供が出来ないふたりは、
人工授精を受けるか、迷っている。

停職処分に伴う条件は、禁酒セラピーへの参加なのだが、アマルは、最初参加しただ
けで、馴染めず、それ以降の参加を拒否してしまった。ということは、アマルは、元
の職場に戻ることを拒否したことに繋がる。停職処分中も、生活費を稼ごうと、アマ
ルは、イスラム原理主義の教徒という兵役の時に知り合った戦友の誘いで、サラエボ
から遠くはなれたヤブラニッツァ湖畔に設営されたイスラム原理主義の教徒たちの
キャンプで、子供たちにパソコンを教えるという仕事をすることになる。

アマルは、キャンプ生活で、アルコール依存の生活から脱することには、成功する
が、替わりに、イスラム原理主義への宗教依存が始まる。アマルのことを心配したル
ナは、アマルを取り戻そうとイスラム原理主義の教徒たちのキャンプを訪れる。久し
ぶりに会ったアマルは、キャンプでの生活にすっかり馴染んでいた。同じイスラム教
徒ながら、リベラルなイスラム教徒の家庭で育ったルナは、イスラム教ながら、厳格
なイスラム原理主義の教えには、馴染めない。原理主義への対応を巡って、ルナとア
マルの間に、すきま風が吹き始める。

ひとり、キャンプを去るルナは、イスラム原理主義への傾斜を強めて行くアマルへの
違和感が強まる。ルナを車やボートを引き継いで、送り迎えしてくれたイスラム原理
主義の教徒の女性は、「イスラム女性の義務は、出産よ」と言う。人工授精をしてで
も、愛するアマルの子供を欲しいと思っていたルナは、宗教依存を強めて、以前のア
マルとは違う感じになってしまった恋人の態度とこの原理主義者の女性の助言を聞
き、ますます、違和感を強めて行く。

数週間後、サラエボのルナの元に戻って来たアマルとルナは、当初は、別れていた寂
しさから来る熱情のままに、以前のように激しく抱擁を交わし、ふたりは、セックス
に耽るが、喜びは、長続きしなくなっている。さらに、ルナの親戚一同が集まった、
断食明けを祝う場で、感情を高ぶらせて、突然、原理主義の主張を声高に、説教し出
したアマルには、皆が、反発をする。祖母に「出て行け」と言われ、祝いの場で、浮
いてしまったアマルは、突っ張ったまま、退出してしまう。

その後も、アマルは、原理主義者の集まるモスクに熱心に通い出し、自宅のアパート
でも、パートナーを無視して、祈りを捧げるようになる。結婚前のセックスも拒否す
ると宣言する。子供も作らないと言う。

トラウマを克服するように、両親を殺され、強制的に追放された生まれ故郷のビエリ
ナに、今も残るかつての住まいを高校時代の女友達と訪れるルナ。そこで、ルナは、
当時の自分の年齢くらいの少女と出会う。少女は、ルナに取っては、嫌な思い出の残
るかつての家の、今の住人なのだ。先住者を強制的に退去させたことを知らない少女
は、「どうして出て行ったの?」と問いかけられ、絶句するルナ。戦後、15年で、
既に風化している戦争体験。少女たちは、教育の場でも、自分たちの民族の行動の正
当性が、教えられているという。

寛容性を失った内戦後の社会。癒されない思いを厳格な原理主義の規律で支えようと
するアマル。それに対して、自分の自由な判断と良心に従って、新しい自分の行くべ
き道を探るルナ。同じイスラム教ながら、穏健派と過激派という溝が横たわっている
ことに気がついたルナ。変わって行く恋人の姿に絶望したルナは、人工授精ではない
かたちで、自分の妊娠が、判ったにもかかわらず、自立を求めて、アマルとの同棲を
解消する決意をする。

ふたりの恋人の物語に焦点を当てれば、戦争体験からアルコール依存症になった男
が、アルコール依存を宗教依存に乗り換えたことをきっかけに、女性の方が、男性に
失望し、違和感を抱いて、別れを決意するという物語が、展開するが、その背景に垣
間見えるサラエボの街は、1992年から95年にかけて続いたボスニア内戦の影を
落としている。野菜や果物の豊富な賑わう市場、若者の集うカフェやクラブ、高層の
集合住宅群、イスラム教のモスク、主人公の仕事柄の空港、航空機から眺められる街
の遠景などのほか、所々で、高い位置からのアングルで、カメラは、若い恋人たちの
ドラマを追いかけるが、そこに見える「遠見」の光景は、監督の心象風景でもあるよ
うに見受けられて、意味深いと思う。かつて爆撃や銃撃といった戦禍で破壊された街
は、復興したように見えるが、イスラム教徒の移住者が増えたことで、そこに住む
人々の生活では、宗教的な対立を深め、紛争以前のような民族の違いや宗教の違いに
対する寛容性を失った街に変わってしまっているという。

戦前の1991年に、人口の半数だったムスリム(イスラム教徒)は、ボスニア内戦
を挟んで、戦後、2年経った1997年には、9割近くにまで、増えた。サラエボ
は、戦前は、ムスリム、セルビア人(3割、セルビア正教徒)、クロアチア人(10
数%、カトリック教徒)、ユダヤ人(数%、ユダヤ教徒)が、混在する街で、顔つき
や言語では、わずかな差しかないゆえに、皆、多様性を許容していた。違いは、宗教
だと言って、過言ではない。そういう社会が、戦争を契機に、大きく変わってしまっ
た。

内戦で、セルビア人などは、難民として、サラエボを去り、替わりに、戦後は、ボス
ニア国内のムスリムが、避難民として、サラエボに流れ込んで来た。特に、アマルの
ように、失業に追い込まれた若いムスリムたちは、コミューンを作り、より過激な思
想を育んで行く。多数を占めるようなったイスラム教徒の社会で、穏健派と過激派の
対立が、逆に、深まっているという。

女性監督のヤスミラ・ジュバニッチは、1974年、サラエボ生まれで、紛争の時代
を10代末から20代の初めに経験して来た。2006年にベルリン国際映画祭で、金
熊賞を受賞した「サラエボの花」に続いて、第2作も、サラエボを舞台にして、若く
美しいルナの目から見た紛争後のサラエボを描いている。

ヤスミラ・ジュバニッチ監督は、ボスニア紛争の過酷な傷跡を、アマルというアル
コール依存症から脱するために、宗教依存症に逃げ込むしかなかった男の姿に、浮き
彫りにするという方法をとった。アマルの悲劇は、ボスニア紛争の傷跡を残すサラエ
ボの悲劇なのだろう。アマル、「サラエボの悲劇」。ルナ、「サラエボ、希望の街
角」というのが、邦題を付けた関係者の思いかもしれない。ヤスミラ・ジュバニッチ
監督が付けた原題は、ボスニア語の「Na putu」で、英語なら、「On the Path」。
「途上にて」というような意味。同棲生活を送り、結婚を前提に、子供を欲しがって
いた若いカップル。その途上に影を落として来た戦争体験は、男性をアルコール依存
症から宗教依存症に追い込んで行く。それに嫌気がさした女性は、男性との別離とい
うかたちで、新たな人生に一歩を踏み出して行く。ボスニア語の「Na putu」には、
実は、「赤ちゃんが、もうすぐ生まれる」という意味もあると言うが、終末近くで妊
娠が判ったルナだが、ルナは、アマルとの子供を望まず、別れて行く。もうすぐ生ま
れるのは、赤ちゃんではなく、一人で生きて行くことを決意したルナ本人だったのだ
ろう。ルナの希望ともに、サラエボの街角は、変わって行くのだろうか。

この映画は、来年の2月19日、東京・神保町の岩波ホールほかで、全国順次ロード
ショーされるという。
- 2010年11月20日(土) 9:10:41
10・XX  10月の新橋演舞場の舞台を、昼夜通しで、18日に観に行った。昼の
部は、「頼朝の死」、「連獅子」、「加賀鳶」。「頼朝の死」は、真山青果原作だか
ら、今月は、国立劇場とあわせて、3つの青果ものを拝見したことになる。「連獅
子」は、大和屋親子。高麗屋親子の「連獅子」は、何回か観ているが、大和屋親子
は、初見。「加賀鳶」は、團十郎主演で、抜群におもしろかった。 

夜の部は、「盛綱陣屋」、「どんつく」、「酒屋」。「酒屋」は、上方の世話物で、
歌舞伎で観るのは、初見。人形浄瑠璃では、観たことがある。歌舞伎評の「酒屋」
は、どういう趣向にしようか。 

いずれにせよ、劇評の組み立てを、これから考えるので、劇評は、近日公開。
- 2010年10月19日(火) 9:30:54
10・XX  歌舞伎座、今は、新橋演舞場の歌舞伎公演の際に、筋書に掲載されて
いる番付の文字。歌舞伎文字・勘亭流の師匠として、番付の文字を書いたり、後継者
の育成をしたりしている伏木亭さんの指導しているグループの作品展が、ことしも、
東京の浅草公会堂で開かれたので、覗いて来た。 

お弟子さんたちの工夫を凝らした作品の数々を、1時間ほど拝見して帰って来た。 

浅草は、仲見世に限らず、大勢の人たちが繰り出していて、賑わっていた。外国人観
光客の姿も目立つ。ひところ、閑古鳥が鳴いていて、仲見世辺りでも、人影が、まば
らだった頃を思い出すと、まさに、隔世の感がある。 

向島に建設が進むスカイツリーも浅草からは、手に取れるよう近さで見えるが、吾妻
橋辺りでは、例の、黄金の「う◯こ」のような屋上モニュメントも含め、キッチュな
墓石のような構造物に見えるビル群の中に、すっぽりと収まってしまい、なんとも、
落ち着かない気分にさせられる。 

浅草から日本橋に戻る東京メトロの車内は、外国人観光客ばかりというと大げさだ
が、あっちの席にも、こっちの席にも、外国人の姿が、という感じで、目につく。東
京も、浅草も、国際化が、一段と進んだのだろう。そういえば、浅草には、昔から、
「国際通り」があったっけ。
- 2010年10月17日(日) 17:20:06
10・XX  * 映評「クレアモントホテル」

ロンドンにある長期滞在型の小さなホテルが舞台。このホテルは、実質的には、ホテ
ル型の老人ホームである。介護要員は、いないものの、食事、ベッドメーキング付き
の老人ホームである。ホテルについたタクシーから降りて来た老婦人は、夫に先立た
れて、スコットランドの娘との同居を止めて、自立した老後生活を送ろうと、とりあ
えず、一ヶ月契約で、このホテルに宿泊することにしたのだ。老婦人は、呟く。「こ
れまでの人生、私はずっと誰かの娘で、誰かの妻で、誰かの母親だった。だから、残
りの人生は、私として生きたい」。

最初は、老婦人・パルフリー夫人のホテルへの違和感が描かれる。宿泊者は、年寄り
の単身者ばかり。パルフリー夫人は、ロンドンにいる孫の電話をするが、留守電に
なっていて、孫と直接、連絡が取れない。朝食の席で、パルフリー夫人は、孫のこと
を同宿者に話してしまった。皆が、「異常に」興味を持つ。孤独な年寄りばかりが、
宿泊しているクレアモントホテルでは、宿泊者に掛かって来る電話や訪ねて来る訪問
客が、注目の的なのだ。つまり、クレアモントホテルは、実質的な老人ホームで、
「宿泊者」は、ホームの「入居者」という訳だったのだ。パルフリー夫人も、直接電
話で話せない孫からは、何も言って来ない。皆と同じ孤独な「入居者」になるのは、
時間の問題だった。過ぎ去った日々の思い出だけをよすがに、年を取り、近づいて来
る死におののきながら、孤独な日々を過ごす人々。パルフリー夫人も、そのひとりな
のだ。

郵便局に行った帰り、パルフリー夫人派、道路でつまずいて転んでしまう。近くの家
の中から、偶然、それを目撃して、パルフリー夫人を助けてくれた青年がいる。自宅
に連れて行き、休息させ、脚の擦り傷の手当をしてくれた。小説家志望の青年で、
ルードビック・メイヤーと名乗った青年は、孫と同じ、26歳であった。

パルフリー夫人は、お礼にとホテルでの夕食に青年を招待した。青年の招待を同宿者
に伝えると、話題の孫が、遂に姿を見せると勘違いされてしまった。パルフリー夫人
が、ルードビックに、苦境を話すと、ルードビックは、「孫の振りをしよう」と提案
してくれた。

ホテルにやって来たハンサムな孫として、ルードビックは、パルフリー夫人の同宿者
ばかりか、ホテルのメイドの人気の的となる。こうして、パルフリー夫人と偽の孫と
の交流が、コミカルに描かれて行く。

ルードビックにとって、パルフリー夫人から聞かされる亡き夫との思い出話は、彼の
作家としての創作意欲を刺激する。パルフリー夫人にとっては、ハンサムな青年との
交流は、若き日の夫と自分たちの思い出を呼び覚ます記憶装置になる。夫とふたりで
観た映画「逢びき」、ふたりで行った旅行の思い出、思い出の曲「フォー・オール・
ウィ・ノウ」など。ルードビックは、今は亡き夫同様に優しい。パルフリー夫人は、
ルードビックを通して、亡き夫の思い出を紡ぎ出す。青年は、老女の語る人生の軌跡
から、自分の人生の未来を眺望する。老女と孫のような青年との間に、恋愛感情とは
違うが、慕情のような感情が、深まって行くのが判る。

ルードビックは、パルフリー夫人の好きな映画「逢びき」の内容を知りたいと、ビデ
オショップで、DVD「逢びき」を探しに行き、チャーミングな若い女性と知り合う。
ルードビックは、パルフリー夫人にも、彼女を紹介する。おばあちゃんと孫、そし
て、そのガールフレンド。3人は、自然な共感の中で、親愛の情を育てて行く。パル
フリー夫人の若い日の夫と共に旅した場所に、3人で出かけて行く。ルードビックと
彼女のふれあいをあたたかく見守るパルフリー夫人。本物の孫が、ホテルに訪ねて来
たり、偽の孫のことが発覚しないようにと、追い返されたりするエピソードを挟みな
がら、ロンドンの片隅の小さなホテルを舞台に繰り広げられる物語は、人生の機微を
語り続ける。

ルードビックは、彼女との新しい生活を愉しみ始めるが、パルフリー夫人への気遣い
も忘れない。ホテルの階段を踏み外して、腰を打ち、病院へ運ばれるパルフリー夫
人。見舞いに来たルードビックとふたりでワーズワースの詩編「水仙」を暗唱する場
面が、ハイライトだ。

パルフリー夫人を演じるのは、1929年10月生まれというイギリスのベテラン女
優、ジョーン・プロウライトで、エレガントで、上品。彼女の珠玉の演技が、何とも
良い。ルードビックを演じたのは、1981年生まれのルパート・フレンド。パルフ
リー夫人にとって、優しい孫であり、時には、恋しい若き日の夫である。

映画は、孤独な老いに日々にも、新たな慕情は生まれうる、ということを淡々と描い
て行く。老いも若さも、それぞれ、人生の味わいだということが判る。そういう心温
まる映画が、「クレアモントホテル」である。原作は、エリザベス・テーラー。映画
女優ではない、もうひとりのエリザベス・テーラーの1971年発表の小説だ。イギ
リスの作家で、1975年没。原作では、1960年代のロンドンが描かれていた
が、シナリオは、現代に移し替えられている。ただし、時代から取り残されることに
価値を置いているらしく、古いロンドンのイメージを大事にしているように見受けら
れた。

「クレアモントホテル」は、東京・神保町の岩波ホールで、12月4日(土)から、
トードショー公開される。
- 2010年10月15日(金) 12:14:25
10・XX  厚生労働省の局長逮捕事件(無罪確定)に関連して、捜査を担当した
大阪地検の特捜主任検事が、押収資料を改ざんした容疑で、逮捕された。

だが、逮捕は、まさか、身内の身柄保護ではないのだろうか。

20日には、主任検事は、地検に事情聴取されているが、その時点で、容疑が濃くな
り、21日の逮捕に繋がる可能性があったのか。

それとも、21日の朝刊で、新聞にすっぱ抜かれて、逮捕を急いだのか。そうだとす
れば、逮捕は、マスコミなど、世間の目から、身内の身柄を「保護」「隔離」するた
めに急遽取った対策となるのではないか。

新聞の記事に拠ると、特捜検事の前田恒彦容疑者は、20日の大阪地検の調べに対し
て、「遊んでいて、誤って書き換えてしまった」と答えているという。もし、容疑者
が、そういう説明をしたとき、担当の前田主任検事は、「馬鹿なことを言うな」と、
容疑者を怒鳴りつけたのではないか。「遊んでいて」などという妄言を、誰が信じる
と言うのか。前田容疑者が、「もてあそんだ」のは、フロピーディスクなどではな
く、『国家権力』そのものだったのではないだろうか。

この問題の背景には、検察の近代史が横たわっているように思う。大逆事件、横浜事
件などのでっち上げをして来た歴史のなかで、現在でも、検察の体質は、変わらない
ということを印象づける事件だ。

元朝日新聞記者の田中伸尚さんが書いた「大逆事件」は、良い本だ。田中さんは、大
阪時代からの知り合い。同じ取材対象をいっしょに取材した期間がある。

大逆事件、横浜事件など、警察・検察、つまり国家権力のでっち上げ事件という系譜
の中で、今度の押収資料改ざん、証拠隠滅事件を見なければならない。

当面のマスコミの論調は、「組織的な犯罪か、一検事の犯罪か」にとどまっている
が、「検察の歴史と体質の問題」という視点を踏まえて、検察の捜査だけでなく、マ
スコミも、独自に調査報道をすべきだ。私たちは、見守る。
- 2010年9月22日(水) 8:19:00
9・XX * 劇評「島」
青年劇場の102回公演「島」を観た。堀田清美原作、藤井ごう演出。

広島県呉市と音戸瀬戸を挟んで向き合う倉橋島は、原作者の堀田清美の故郷だ。島で
暮す母をモデルにした家族の芝居。主人公は、息子で、教師をしている栗原学。学
は、1945年8月6日に広島で、20歳の時に被爆している。舞台は、1951年、つま
り、被爆から6年経っているという設定だ。舞台は、3月、5月、そして、翌年、
1952年の3月が、描かれる。学は、被爆で、体の皮膚がはがれたが、その後の治療
で、恢復し、いまは、一見、健康であるように見える。被爆後、故郷の島に戻り、中
学校の教師をしている。実家で、母や妹とも同居して暮している。島では、前年に始
まった朝鮮戦争の特需で、景気が恢復している。妹は、進駐軍の臨時雇いの職を得て
いるし、母方の叔父は、「魚雷ばらし」と呼ばれる魚雷処理の請負仕事で、生活して
いる。かつての教え子の木戸玲子に慕われ、学も、結婚しても良いと思っているよう
だ。実家の隣家の川下家は、母子家庭だが、肝っ玉母さんの「きん」が、ふたりの息
子と暮している。なかでも、次男の邦夫は、高校入学が決まって、嬉しい春である。

学の同級生で、互いにライバル視をしていた清水徳一が、島に里帰りして来た。翌
日、ふたりは、島の天辺の山の上で、出会う。東京の大企業の関連会社で働き、羽振
りの良い清水。島の中学の先生をしている学の実況に、清水は、改めて、優越感を
持ったようだ。しかし、学の被爆体験を聞き、愕然とする。被爆の瞬間、地面に倒れ
込み、必死の思いで、地面に、「昭和20年、8月6日、栗原学」と書いたという話
を聞かされたからだ。マハトマ・ガンジーの「非暴力」を引き合いに出して、「原子
力に原始的な抵抗を示す」と学に言わせる、という科白は、原作者からの最大のメッ
セージだろうと受け止めた。「人間の生命力を、幸福に生きたいと願う人間の意志を
絶対に信じる。(略)『くそッ!生きて見せるぞ!』」。演説に疲れたのか、鼻血を
出す学の胸中には、原爆症の発症という不安が渦巻いているが、それに打ち勝とうと
いう気持ちも、沸き上がっている。

5月。春には、希望に燃えて高校に進学したのだが、上手く行かなくなった隣家の邦
夫。母のきんが、心配をして、学に説教を頼みに来る。父親が、叔父の戦後処理の
「魚雷ばらし(解体)」の事故で、亡くなっている邦夫も、そういう理不尽なものへ
の恨みが、叔父への感情の屈折となっている。その辺りにも、原因がありそうだ。学
も、体調が思わしくないようだ。両家には、嫌な影が差し始めた。

最初は、人間関係が、判り難く、筋立てが、すとんと落ちて来なかったが、見ている
うちに、判って来た。テーマは、青年教師の過去・現在・未来。学の被爆の不安。過
去の被爆体験が、前半のハイライト。特に、島の天辺の山の上での、清水との対話の
場面。そして、現在。原爆症の発症におびえながら、元教え子の玲子との結婚問題に
悩む。教師のままでは、玲子と結婚し難い。島を出て会社勤めをして、玲子と結婚し
たい。旧家の玲子は、家を抜け出せるのか。見合いの話も出て来ている。学の気持ち
を確かめようとする玲子。原爆症の発症という不安から、結婚に踏み切れない学。

そして、学の未来は、隣家の主婦・きんの白血病の発症と、その後の死という形で、
予兆される。1年前元気だったきんは、その後、体調を崩し、島伝統の「清盛祭」の
時期に亡くなってしまう。きんの死は、後半のハイライト。

そう、学の人生の時間軸ときんの人生の時間軸は、同じ方向性を持っている。このふ
たつの時間軸が、「現在」というところで、接ぎ木されていたのだ。学の人生は、被
爆体験で苦しむ青年教師の過去と現在を示す。きんの人生は、原爆症の発症で、死ん
で行くかもしれない学の未来を示す。ふたりの人生が、接ぎ木されているが、芝居の
主人公の人生としては、過去・現在・未来として、ひとすじに描かれているようだ。
そこが見えて来たとたんに、私には、この芝居のテーマがくっきりと見えて来た。

幕切れは、隣家の主婦が亡くなり、家の者たちが、その対応に追われて、姿を消して
しまった実家の部屋に佇む学の姿に、強い光が当てられ、学の陰が、黒々と浮かび上
がるシーンで終わる。まるで、「暗転」ならぬ、「明転」で、終幕となる。強い光
は、原爆を象徴することは、明らかだろう。原爆の強い光は、1945年8月6日に広
島を襲っただけではない。いまも、被爆者の体の中で、いつ、再び、襲って来るか判
らない強い光なのだ。被爆者は、いまも、まだ、核兵器が存在し続ける、この社会の
中で、放置され、新たな強い光の来襲という不安におびえている。

青年劇場の公演は、東京・新宿の紀伊國屋サザンシアターで、9月12日まで。
- 2010年9月9日(木) 7:09:10
9・XX 子供歌舞伎の劇評

松尾塾子供歌舞伎は、一般家庭の子供たちが、専門家の演出・演技指導で、毎年夏休
み中に、大阪と東京で公演しているもので、今年で、22回目。第1回は、大阪の中
座で公演し、翌年の第2回は、東京の新橋演舞場で公演した。現在は、大阪では、国
立文楽劇場、東京では、国立小劇場で、定期的に公演している。私は、10数年前か
ら、縁があって、ほぼ毎年、拝見している。

今回の演目は、黙阿弥原作の「実録先代萩」、並木宗輔ほか原作「双蝶々曲輪日記〜
引窓〜」、舞踊の「藤娘」「越後獅子」。「実録先代萩」は、大歌舞伎では、1回だ
け、それも、最後の歌舞伎座の舞台。今年(10年)の4月の歌舞伎座さよなら公演
の「第三部」で観ている。大千秋楽の「第三部」のチケットが取れなかったので、千
秋楽前日の舞台を拝見。

1876(明治9)年、初演で、黙阿弥原作の新歌舞伎。初演時の外題(名題)は、
「早苗鳥伊達聞書(ほととぎすだてのききがき)」で、まだ、こちらの方が、芝居の
内容のイメージに相応しいと思う。要するに、仙台藩伊達家の乳人「浅岡子別れ」と
いう筋書だ。1893(明治26)年に、「実録先代萩」に改められたという。「伽
羅先代萩」の実録版ということで、改題したらしいが、あまり、良い改題ではない。
「実録先代萩」は、職業婦人である浅岡の、職場への忠節を守りながら、我が子への
情愛を抑圧するという筋立てで、浅岡の心中の、葛藤と苦しみを描いているので、芝
居としての動きのおもしろさは、少ない。

子供歌舞伎でも、ほぼ筋書は、同じだ。伊達家のお家騒動は、幼君を亡き者にし、家
老の原田甲斐が、権力を握ろうとしているという展開だ。原田甲斐に対抗するのが、
重臣の一人、江戸詰めの伊達安芸で、安芸の娘が、浅岡ということになる。浅岡とと
もに幼君を守るのが、松前鉄之助というわけだ。奥御殿に籠りきりの幼君を慰めよう
と、江戸名所の桜木(上野、飛鳥山、御殿山、墨田の桜の小枝)を局たちが持って、
やって来る。「花献上」という場面だ。

やがて、そこへ、国元から家老のひとり、片岡小十郎が、やって来たという知らせが
入る。小十郎は、人払いをさせた後、浅岡と松前鉄之助に原田一派の連判状を見せ
る。浅岡の父親の伊達安芸に連判状を届けるため、鉄之助は、使者に立つ。さらに、
小十郎は、幼君にお目見えさせたい者がいるという。浅岡の子で、事情があって、小
十郎が、子育てをして来た千代松という少年のことだ。実母・浅岡に逢いたいという
千代松を同道させて来たので、逢ってほしいという頼みである。

幼君への忠義大事の浅岡は、別れた我が子と逢うのは、奉公への妨げになると、拒絶
する。母は、死んだと伝えてほしいと言う。そのやり取りを聞いていた幼君・亀千代
は、浅岡の子ならば、逢いたいと言う。

久しぶりに見る我が子だが、職業婦人の浅岡は、仕事優先で、主君に挨拶する千代松
に、「母と思うな」と言い聞かせる。悲しむ千代松。同情する亀千代。幼君ながら、
器量の大きな主君に忠義を尽くしたいと千代松は言う。忠心を褒め、伊達家の実情を
我が子に伝える浅岡。忠義が大事と思うなら、祖父の伊達安芸にも逢わずに、国元に
帰れ、と諭す浅岡。

涙ながらに承知する千代松。亀千代は、そういう千代松を側近として、置きたいと言
い、ふたりの幼子は、浅岡に頼み込む。困惑する浅岡。その様子を別間で窺っていた
国家老の小十郎は、千代松を促し、帰って行く。千代松の姿が、見えなくなると、耐
えきれなくなった浅岡は、泣き崩れる。


「双蝶々曲輪日記」は、並木宗輔(千柳)、二代目竹田出雲、三好松洛という三大歌
舞伎の合作者トリオで「仮名手本忠臣蔵」上演の翌年(1749年)の夏に人形浄瑠
璃として、初演されている。相撲取り絡みの実際の事件をもとにした先行作品を下敷
きにして作られた全九段の世話浄瑠璃。八段目の「引窓」が良く上演されるが、実
は、江戸時代には、「引窓」は、あまり上演されなかった。明治に入って、初代の中
村鴈治郎が復活してから、いまでは、八段目が、いちばん上演されている。

この芝居は、「引窓」だけ見れば、主役は、無軌道な若者の一人で、犯罪を犯して母
恋しさに逃げてきた濡髪長五郎の母恋物語である。その母・お幸を含め、善人ばかり
に取り囲まれた逃亡者を皆で逃がす話。お幸の科白。「この母ばかりか、嫁の志、与
兵衛の情まで無にしおるか、罰当たりめが……(略)……コリャヤイ、死ぬるばかり
が男ではないぞよ」が、「引窓」の骨子である。

今回の子供歌舞伎の出演者は、4歳から15歳。つまり、幼稚園クラスから、中学3
年生までの子供たちが、大歌舞伎同様の大道具・小道具で、歌舞伎を演じる。浄瑠璃
は、歌舞伎座などでもお馴染みだった葵太夫らが勤めるという本格的なものだ。

だからといって、江戸時代から代々の歌舞伎役者たちが演じる大歌舞伎、花形歌舞伎
などと比べられる訳がない。そういう藝を見せる舞台ではなく、日本の伝統的な古典
劇としての歌舞伎を演じるということで学ぶものがあるというのが、松尾塾の狙いで
ある。従って、子供たちが演じるのは、藝ではないが、その代わり、プロの役者たち
とはひと味違う歌舞伎のテキスト重視という姿勢が見えていて、シンプルで清々し
い。本来の先行テキストでは、こういうところを重視していたのだなということが、
子供たちの率直な演技(ということは、指導者の原理原則志向なのだろう)で、浮き
上がってくるように思えた。次回、同じ演目を大歌舞伎の舞台で観る時に参考になり
そう。

また、舞踊などでは、大歌舞伎のように、一人の有能な役者の力で、最後まで、踊り
通せる訳ではないので、付け加える演出があった。例えば、「藤娘」では、男女合わ
せて、7人の藤娘が出て来て、バリエーションの舞台を展開する。舞踊劇は、いわ
ば、分身作戦と観た。「越後獅子」では街頭演芸らしさを強調するため、9人の街の
子(4歳から9歳)が、出て来て、舞台に座り込み、演芸を観る風という、江戸の都
会らしさを補い、越後から、親方が引き連れて来た4人の角兵衛獅子という田舎の子
らとの対比を見せるなど、大歌舞伎では、絶対に取らない演出が、披露される。都会
と田舎の対比という「越後獅子」のベースは、伝わって来た。最後の、「布晒し」
も、親方を含めて、5人で見事に披露できた。
- 2010年9月5日(日) 11:01:16
8・XX   9月に実施される民主党の代表選挙は、菅と小沢の一騎打ちという構図
になったようだ。「ようだ」というのは、政治は、一寸先は闇だから、まだ、まだ、
変化する可能性がある。

そこで、問題なのは、マスコミが、この問題を正しく報道している、つまり、国民に
本質的なことを判り易く伝えているかどうか、ということだ。

菅は、参議院選挙を前に、「消費税増税」などと時期を弁えない発言で、墓穴を掘
り、その後始末も、していない。沖縄の基地問題を含めて、野党時代の菅らしい見識
(政治センス)を示さなくなっている。

小沢と小沢出馬を指示した鳩山は、3ヶ月前に、政治と金の問題、沖縄に基地の問題
で、引責辞任したカップルだ。なかでも、鳩山は、首相辞任後は、政治家を辞めると
言っていた筈だ。それが、菅と小沢の対立軸の中で、調整役というキーマンを任じ
て、得々としているように見える。その政治センスのなさには、あきれかえる。

この問題の象徴的なシーンは、軽井沢の鳩山別荘で、小沢支持のグループが、地ビー
ルを片手に、「気合いだ!気合いだ!」と気勢を上げていた映像だ。今回のマスコミ
報道で、私に取って、唯一、貴重な情報だったのは、この映像だけだ。まるで、お祭
りで見越を担ぐ連中のノリではないか。涼しい軽井沢での一幕。下界では、うだるよ
うな連日の猛暑、先の見えない円高とその悪影響、いつ果てるともない失業、高齢者
の不明事件(一部は、白骨化した高齢者の遺体が見つかったりしている)。神輿に乗
る人、担ぐ人、周りで、煽る人。まさに、国民をおよそに、勝手にお祭り騒ぎをして
いるように見える。いずれも、政治センスゼロの連中で、見ていて、不愉快になる。
猛暑の不快指数を、民主党の不快指数が、促進する。自民党の民主党批判も、己につ
ばをするような批判を得々としているので、「よく言うよ」という科白が、出て来
る。

自民党では、だめだということで選ばれた民主党政権。自民党と何等変わらないこと
を自ら暴き出した、この1年。日本の政治は、どうころんでも、ダメだと、言いたく
なる。でも、こういう政治が、国民生活に打撃を加えて来るから、ダメだとは、言い
ながらも、私たちも、出口を模索するしかない。

民主党の代表選挙の結果如何では、「政界再編成」が、出てくる可能性がある。参議
院選挙を前に、選挙結果如何では、有権者の投票行動とは別の結果で、「政界再編
成」となり、誰もが予想していなかった政界地図が描かれることになる可能性がある
と、当時、この「日記」でも書いたが、その懸念に近づく恐れが出て来た。どういう
政界再編成になるかで、国民の生活は、今以上に、深刻な影響を受ける可能性もあ
る。

民主党の代表選挙の、これまでの真相、さらに、選挙結果次第での、そういう予測を
含めて、マスコミは、この問題について、国民に本質的なことを判り易く伝えて欲し
い。上っ面の、時系列的な報道では、マスコミの責務、つまり、国民の知る権利に答
える報道をするという責務に答えたことにならないからだ。
- 2010年8月27日(金) 8:17:37
8・XX  映評「スープ・オペラ」の試写を観た。

阿川佐和子原作の「スープ・オペラ」の映画化。30歳代半ばで独身、親もなく(母
は、幼い頃死亡、父は、不明)、幼い頃から叔母に育てられて来た。生きることに意
欲的ではないが、さりとて無気力でもなく、つまり、良く見かける、フツーの女性
が、自分の人生をどう切り開いて行くか、というのが、テーマの作品と原作者の阿川
佐和子は、強調する。監督は、瀧本智行。

東京の古い家に同居していた叔母(加賀まり子)は、還暦を前に、長かった独身生活
に終止符を打ち、若い医師(萩原聖人)に恋をして、医師の赴任先の北海道へ行って
しまう。30数年、叔母と一緒に暮らしていた古いが、広い家に一人残された娘(坂
井真紀)は、空虚感を抱えながら、勤め先の図書館で本の整理の仕事を続けている。

叔母が出て行って、寂しくなった、その家に画家と称する初老の男(藤竜也)が、突
然闖入する。娘に取っては、父親の年齢に当たる男だ。他人(ひと)の家の庭に入っ
て絵を描いていた男を娘は、追い出すが、なぜか、数日後、男は、また来る。今度
は、ふたり分の弁当持参で。

娘には、学生時代からの友人で、編集者の友人(鈴木砂羽)がいる。友人に誘われて
人気作家の接待ディナーに誘われ、編集部の若い男性(西島隆弘)と同席となる。男
性に送られて帰宅すると、初老の男は、留守番をしていて、若い男性からは、父親と
間違えられる。初老の男は、「今晩泊めて下さい」と言い出す。家を追い出されて来
たらしい。

翌日、娘が家に帰ると、初老の男と若い男が、楽しそうに夕食の準備をしている。娘
の作った鶏ガラのスープがおいしいので、同居したいと言い出す男たち。呆れる娘。
そういうコメディータッチで、ふたりの同居人と暮すようになる娘の生活を描いて行
く。

そう、「擬似家族」を通じて、家族とはなにか、人と人の関係とはなにかを問いかけ
る作品。娘への見合い話が、隣家の夫人から持ち込まれ、擬似家族のまま、見合いの
席に連なる男たち。初老の男は、身許不明のままだが、現在、3回目の離婚の危機に
あるという。いつもニコニコだけが取り柄の若い男は、経営不振の編集部を首になっ
た。男たちの危うさ。地道に、しかし、平凡に図書の出し入れという図書館の仕事を
続ける娘。

北海道で楽しい同棲生活を送っている叔母のシーンも、ときどき、差し込まれる。長
い坂を自転車にふたり乗りしている。突然、ブレーキが故障し、効かなくなる。医師
は、けがをしてしまう。療養のための休暇の間、叔母は、久しぶりに家に帰って来る
ことになった。それを聞いた初老の男は、なぜか、姿を消す。

ふたりきりになった娘と失業中の若い男は、居酒屋へ飲みに行った勢いで、帰宅後、
関係を持ってしまうが、翌朝には、気まずい思いを抱く。気まずいまま、黙って、家
を出て行く若い男。

初老の男の残した持ち物の中から叔母の手紙を見つける娘。初老の男とは、実は、娘
の父親で、叔母が、頼んで、娘に逢わせたのだ。つまり、叔母の家出、初老の男の出
現も、叔母の差し金。行方不明だった父親と娘の出会いの物語。擬似家族の物語は、
実は、本物の家族の再生の物語ということだったという仕掛け。

家族であっても、なくても、恋人であっても、なくても、他人とひととの繋がりで
は、大切な人がいる。大切な人を見極め、それを大事にすることが、人生を切り開く
ということではないのか。というのが、原作者の阿川佐和子からのメッセージと受け
止めた。それは、鶏ガラのスープの味。安いけれど、美味しい。飽きない味。ときど
きながら、継続して飲み続けたい味。それがいちばん大事な人生の味。スープ皿の周
りで、展開する日常生活。人生は、回転木馬。スープ皿の回転木馬。いとおしい人
生。哀しみと可笑しみを載せて回転する木馬。

映画では、主役グループのほかに、味わいのある脇役人が、存在感をみせて、鶏ガラ
のように、隠し味の効果を上げる。初老の男の妻(余貴美子)、人気作家(平泉
成)、図書館長(塩見三省)、教授(菅原大吉)などなど。

オリジナルスープ皿、手刺繍のランチョンマット、画面に登場する小道具も、隠し
味。東京の新宿中井で見つけたという古い家。90歳のおばあさんが住む築90年とい
う家を借りた。これは、もうひとりの主役か。古い遊園地の回転木馬。こちらは、ま
さに、回転する大道具、舞台廻しの役割。宮城県大崎市の閉園遊園地。

実は、本当の隠し味がある。画面に登場する「料理」の数々。東京・六本木のレスト
ランのオーナーシェフの味。

隠し味のお勧めという映画であった。
- 2010年8月5日(木) 6:26:28
7・XX 2度目の映画化となった「カラフル」の試写会に行って来た。1998年に
出版された中学生を主人公にした小説。森絵都(1968年生まれ)原作。99年に、
NHK・「青春アドベンチャー」で、ラジオドラマ化。2000年に、中原俊監督作品
で、実写映画製作。今回は、原恵一監督(1959年生まれ)の作品で、アニメ映画製
作。

自殺予防映画。家族再生の物語。実人生ではあり得ない、2度生き直すというアイ
ディアを生かしたファンタジー。「二子玉川」の地域の物語。あるいは、今は無き、
「じゃまでん」こと、「玉川電車」への郷愁(1969年に廃止。私の大学卒業年。
「玉電」は、いまの「田園都市線」の前身)。原作者は、1980年代への郷愁。監督
は、1970年代への郷愁を込めている。私は、1960年代への郷愁をかき立てられた。
それぞれの「郷愁」を登場人物の中学生、特に、自殺しながら、甦った主人公の、新
たな親友となる同級生が、熱っぽく語る「玉電」論議。実に、「カラフル」な衣装を
まとった映画だ。

ストーリーは、コンパクトに。自殺した中学生の魂にあの世へ行く途中、「天使?」
から、課題が出される。

課題:「自分は、大きな罪を犯して死んだのだが、どういう罪を犯したのか、前世の
記憶を思い出して、考えよ」。

その方法として、もう一度、この世に引き戻されるが、自殺をして死んだ中学生の遺
体に入り、その中学生として、生き直す過程(期間限定の「ホームステイ」というシ
ステム)で、その解答を見つけ出せ、という。「知らない家族」の中に、甦り、他人
を生きることで、「生きるという意味を考える」という仕掛けだ。ホームステイ先の
「知らない家族」だったはずなのに……(ここを書いてしまうと、原作、あるいは、
映画のおもしろさを半減してしまうので、書かないが)。なにごとも、一色と決めつ
けないで、「たった一色だと思っていたものがよく見るとじつにいろんな色を秘めて
いた、という感じに近いかもしれない」(原作より)というのが、「カラフル」とい
うタイトルに秘めた原作者・森絵都のアイディア。中学生を主人公にしたことで、
「この世があまりにもカラフルだから、ぼくらはいつも迷ってる。どれがほんとの色
だかわからなくて。どれが自分の色だかわからなくて」という青春時代の不安感、不
安定感などの思いに原作者の思いが重なって来る。

その原作者は、魂の再チャレンジを仕切る「天使?」のプラプラ(彼も、実は……、
というように、歌舞伎的な、人物の二重性を持つ登場人物だが、これも、種を明かせ
ない)か、あるいは、生き返った主人公に対して、「なにか、変!」と直感して、ま
とわりつく同級生の佐野唱子か、というのが、私の目に映った原作者像。「眼鏡を
とっても、ブスか」と主人公に言われてしまう佐野唱子だが、なかなか、可愛い顔を
している。プラプラは、少年だか、大人だか不明で、関西なまりの科白を言う。

一方、原恵一監督は、アニメ界の異端児のようで、それ故に、アニメに新風を巻き起
こしているが、経歴を見ると、子どもの頃から、挫折を重ねながら、また、アニメ映
像の世界に入ってからも、屈折しながら、力をつけて、生き抜いて来た辺りは、主人
公の中学生の「挫折」からの立ち直り人生に重なって見えて来る。

平凡な家族、日常生活、丹念な絵コンテによって、隅々まで手を抜かずに作画された
画面、精緻な二子玉川附近の光景、それを後ろから支える実写映像を生かした背景の
描き方。そう。この映画のもうひとつの魅力は、アニメ映像と実写映像のバランスの
妙→実写映像のアニメ化の妙味。アニメの作画と実写映像に手を加えたCG画像の、
バランスを欠く、ぎりぎりの線での背景画の妙味が、この映画の魅力。それは、アニ
メに新風を巻き起こして来た原監督作品の妙味である。

10年前の「カラフル」の実写映画を見ることができたとしても、……。待てよ、そ
うすると、余計に、このアニメ映画のおもしろさを感じそうだが、一面、見たくない
という感じを抱く。アニメ映画の印象に混乱を来すか。そういうインパクトのある映
画に仕上がっている。原監督の作風に取って、典型的な原作に出会ったという思いが
強い。「カラフル」な思いを引き出してくれる映画。

もうひとりの「プラプラ」から、映画を見る私たちに投げかけられた「課題」(物語
か、映像か)があるとすれば、私の答えは、「森絵都の小説というより、原恵一のア
ニメ映画」という色合いが、強いということになるか。

この映画は、8月21日から、全国の東宝系で、ロードショー公開される。
- 2010年7月16日(金) 7:06:43
7・XX  映評「冬の小鳥」

孤児院出身の著名な小説家・劇作家が、4月に亡くなり、そのお別れの会が、東京で
盛大に開かれた翌日。愛する父親の手で、孤児院に捨てられた少女の物語という、映
画を観た。1966年、韓国生まれ、フランス在住のウニー・ルコント監督作品「冬の
小鳥」。

「お別れの会」で、会費を支払った替わりに戴いたお別れの会実行委員会製作の冊子
の表紙と裏表紙に掲載されている写真と映画の演出の共通性の偶然さに気がついた。
冊子の表紙の写真は、作家が、色紙に識語を書いている手元をアップしたもので、
「むずかしいことをやさしく/やさしいことをふかく/ふかいことをゆかいに/ゆか
いなことをまじめに書くこと」と書いている。色紙の最後に作家は、名前を途中ま
で、書きかけている。顔は、写っていない。というか、トリミングされていて、判ら
ない。

裏表紙には、並木道を一人で歩み去って行く作家の後ろ姿が写っている。顔は見えな
い。全身像だが、左肩が、下がっていて、猫背である。黒っぽい替え上衣を着てい
る。モノクロの写真なので、作家が歩く道路に落ちているのが、なにかは、判らな
い。満開を過ぎて散り始めた桜の花びらなのか。落葉した木の葉なのか。並木道に
は、ほかに人影は見えない。作家の孤独さが、滲み出てくるような後ろ姿だ。

冊子には、作家の略歴とともに、子どもの頃からの写真がいくつも掲載されている。
1949年、仙台のラ・サール会経営の「光が丘天使園」という孤児院に作家が入園し
た時、仲間とともに写っている写真やラ・サールハーモニカバンドで、仲間と演奏中
の写真、仙台一高時代に「光が丘天使園」の裏庭の柿の木に登って、友人とふざけ
あっている写真も、ある。1934年生まれの作家は、5歳の時に父親を亡くし、10年
後、15歳(高校入学時か)に「光が丘天使園」に入園した勘定になる。


映画「冬の小鳥」は、自転車に乗せられて、楽しさを満喫している少女のシーンか
ら、始まる。自転車を運転しているのは、成人の男性である。映画は、少女の楽しげ
な表情ばかりを映し続け、男性の顔を見せないようにしている。首から上が、画面か
らはみ出している。あるいは、鏡に映る後ろ姿。俯き加減の顔などなど。

1975年、9歳の少女・ジニは、新調したよそ行きの洋服と靴を身につけて、父親と
一緒にバスで、ソウルの郊外に向かっている。田圃に囲まれたところで、バスが止ま
り、ドアが開くと、少女は、駆け下りて来て、田圃の中の藁ぽっちの蔭で、小用を足
す。戻る足元は、田圃の粘り着く土に絡められて、新調したばかりの靴は、ドロドロ
になってしまっている。バスの中に残っている父親は、全身像では映し出されるが、
アップには、ならない。

大好きな父親と「小さな旅」に来た筈なのに、行き着いた先は、遊園地でもなく、観
光地でもなく、高い鉄格子の門のある場所だった。庭で、幼い少女たちが遊んでい
る。正副を来た修道女が、ジニを迎える。途中で、父親が買ってくれたバタークリー
ムのケーキもジニに取って、輝きを失い始めている。ジニは、父親と離される。ジニ
を残して部屋を出て行く際、初めて、父親の顔が、スクリーンに映し出される。最後
の父親の顔とも知らされずに、ジニには、一生忘れられない父親の顔が、観客にも、
印象付けられる。

ジニは、建物の中を案内され、幼い少女たちのいる部屋に連れて行かれる。不安に苛
まれ、父親を捜そうと部屋を飛び出す。ジニの目に映ったのは、高い鉄格子の門を逃
げるように歩み去って行く、猫背の父親の後ろ姿だった。ジニは、思春期までの少女
たちばかりが収容されたカソリックの児童養護施設に取り残されたのだったのだ。

父親が、再婚をし、新しい母に子どもが生まれ、ジニは、家族の厄介者にされ、優し
い筈の父親に捨てられたのだ。しかし、ジニは、自分は、孤児ではない、父親は、迎
えに来ると約束したのだから、連絡を取って欲しいと院長に頼む。食事をとることも
拒絶し、反発するジニ。年長の少女たちから、苛めも受ける。門をよじ上り、脱走さ
え試みる。しかし、門の外に出されても、どこへ行けば良いのか、判らない。日曜日
に、皆と一緒に、教会に連れて行かれる。神父の唱える「父は、なぜ私を見捨てられ
たのか」という聖書のイエスの言葉が、身に沁み込んで来る。

年上の孤児のスッキが、ジニに優しい。反抗的なジニの面倒を見てくれるようにな
る。施設には、大使館ナンバーの大型車が、時々訪れる。孤児たちの里親志願の外国
人たちだ。施設で、少女たちと面接をしたり、個別に付き合ったりして、少女たち
は、海外へ移住して行く。スッキは、英語を勉強したりして、養子縁組みに熱心だ。
ジニにも、一緒に行こうと誘う。ジニは、どこへも行かないという。施設に出入りす
る青年に恋をして、ラブレターを渡すが、拒否の手紙が来て、自殺未遂をしてしまう
脚の悪い年長の少女。次々と養父母に見初められて、仲間の少女たちと別れを告げ
て、大型の外国車に乗り込んで行く少女たち。幾つも、同じような場面が繰り返され
る。いつか、自分たちもと、少女たちは、思っているのだろう。

スッキにも、ジニと別れて、一人で、大型車に乗り込んで行ってしまう。そこで歌わ
れるのは、「蛍の光」の韓国版の歌詞であり、「故郷の春」という韓国の童謡だ。
「私の故郷は花咲く山里/桃の花アンズの花/小さなツツジの花/色とりどりの/花
御殿のような村/故郷で遊んだ頃が懐かしい」。

傷つき、冬の寒さに負けて死んだ小鳥の墓。スッキにと世話をし、埋葬した小鳥の
墓。父親に続いて、スッキににも捨てられたジニは、小鳥の遺骸を掘り出し、その穴
を拡げ、掘り下げて、やがて、持て余した己に体を埋葬する。裏切られるのが、ジニ
の人生なのか。2回も、死んでしまった私の魂。それは、埋葬するしかないのだろう
か。しかし、顔に掛けた土は、息苦しく、ジニは、土を払ってしまう。青空を見つめ
るジニの瞳に、なにが映っているのか。置き去りにされた者の、再生の物語。

やがて、冬が終わり、春の訪れが、告げられる頃、ジニも、フランスの養父母の元
へ、一人で旅立って行くことになった。施設に連れてこられた時、父親が買ってくれ
たよそ行きの洋服の丈も短くなった。施設の寮母が、丈を伸ばしてくれる。ジニは、
父親に捨てられた時、捨てられるのにも、気づかずに父親に歌ってやった唄「あなた
は知らないでしょうね」を洋服の丈を直してくれる寮母に聞かせてやる。

「あなたは知らないでしょうね/どれだけ愛していたか/時が流れれば/きっと後悔
するわ/寂しい時や/沈んでいる時は/名前を呼んでください/私はそこにいるわ」

大使館ナンバーを付けた大型の外国車に乗せられて、ジニは、施設の門から出て行
く。空港からジェト機に乗り、思い出すのは、大好きだった父親の背中。大きな広い
背中。そのぬくもりだけが、顔を忘れてしまった父親に対するジニの記憶だろう。や
がて、フランスの空港に着き、写真付きの身分証明所証を首からぶら下げた少女は、
出口のゲートに近づいて行く。

韓国では、1950年から始まった「朝鮮戦争」で、戦争が「休止」状態になった1953
年以降、さらに、ベトナム戦争で韓国に派遣されたアメリカ軍兵士との間に生まれた
者も含めて、これまでに16万人とも20万人とも言われる戦災孤児が、海外に養子縁
組されているという。国際養子縁組には、高額な手数料も支払われているという。
「奉仕会」と名乗る団体が、孤児院と外国人養父母との間を取り持っているという。
数は、縮小されたが、それは、現在も、連綿と続いているという。実は、ウニー・ル
コント監督も、9歳で、児童養護施設に入れられ、間もなく、フランス人の養父母に
引き取られ、以後、フランスで育つ。1966年生まれのウニー・ルコント監督は、9
歳で施設に入れられ、9歳のうちに、フランスに渡ったが、その年、1975年という
のは、ベトナム戦争が終わった年でもある。現在、40歳を超えているウニー・ルコ
ント監督は、すでに、韓国語も忘れ、だからといって、フランス語も、母国語には
なっておらず、アイデンティティを失っていると言う。

映像こそが、母国語だと言うウニー・ルコント監督は、韓国でのロケ、スタッフとの
交流を映像という言語で、対応して来たという。そうして再構築された映像世界が、
「冬の小鳥」である。だから、「冬の小鳥」は、ウニー・ルコント監督の「自伝的要
素」を濃く残しながらも、決して、「自伝」ではない。韓国語も忘れ、短期間で、通
過した施設のことも、監督の記憶から薄れている。施設の野外で寮母の手で、散髪さ
れるジニのおかっぱ頭、刺繍やアップリケのついたセーターやスカート。多分、監督
の記憶とは別に、優秀なスタッフが、時代考証に基づいて再現したであろう細部のリ
アリティの充実さ。そういう映像言語が、「言葉という障害物」を乗り越えて印象深
い映像世界を再構築した。死から生へ。捨てられたことで、獲得された子どもの強靭
な復元力という感性。そこに、この映画の見所がある。

「お別れの会」の冊子の表紙を開けると、正面を向いた作家の顔を見ることが出来
る。井上ひさし。2007年、9月の仙台一高の校庭でのスナップ写真。裏表紙の写真
は、仙台の秋の落ち葉が敷き詰められた並木道だった。
- 2010年7月3日(土) 11:37:32
6・XX   詩人で、彫刻家である高村光太郎の「九代目團十郎の首」を読む。詩
人の直感(洞察力)、彫刻家の視覚(観察力)、触覚(表現力)で表現された歌舞伎
役者の藝を見ぬく力が、感じられて、誠におもしろかった。随時、補足の解説を入れ
ながら、読み解いてみた。


高村光太郎「九代目團十郎の首」

 九代目市川團十郎は明治三十六年九月、六十六歳で死んだ。丁度幕末からかけて明
治興隆期の文明開化時代を通過し、國運第二の発展期た る日露戦争直前に生を終っ
たわけである。彼は俳優という職業柄、明治文化の総和をその肉体で示していた。も
うあんな顔は無い。之がほんとのところである。 明治文化という事からいえば、西
園寺公の様な方にも同じ事がいえるけれど、肉体を素材とせらるる方でない上に、現
代の教養があまねく深くその風 丰(ふうぼう)に 浸潤しているので、早く世を去っ
て現代の風にあたる事なく終った團十郎よりは複雑である。團十郎はこの点純粋の明
治の顔を持っていて、女でいえば洗髪のお つまのような其の世代の標式といえるの
である。五代目菊五郎についても素より團十郎と同じ事が言えるわけであるが、菊五
郎の方は余りに多く俳優であり過ぎ て、その現われ方がむしろ旧幕の延長として意
味があり、当代の文化一般を肉体化していたような趣のある包摂的な團十郎に比べる
といささか世代の標式とはな し難い。
 私は今、かねての念願を果そうとして團十郎の首を彫刻している。私は少年から青
年の頃にかけて團十郎の舞台に入りびたっていた。私の 脳裡には夙(はや)く すで
に此の巨人の像が根を生やした様に大きく場を取ってしまっていた。此の映像の大塊
(たいかい・大きな塊)を昇華せしめるには、どうしても一度之を現実の彫刻に転移
しなければ ならない。私は今此の架空の構築に身をうちこんでいるけれど、まだ満
足するに至らない。私のもまだ駄目だが、世上に幾つかある團十郎像という記念像も
みな 物になっていない。浅草公園の「暫」(歌舞伎の「暫」の主人公・鎌倉権五郎
に扮した像)はまるで披け殼のように硬ばって居り、歌舞伎座にある胸像は似ても似
つかぬ腑ぬけの他人であり、昭和十一年の文展で見 たものは、浅はかな、力み返っ
た、およそ團十郎とは遠い藝術感のものであった。其他演劇博物館にある石膏の首は
幼 穉(ようち)で 話にならない。ラグーザの作というのはまだ見ないでいる。團十
郎は決して力まない。力まないで大きい。大根(下手な役者)といわれた若年に近い
頃の写真を見ると間抜けな くらいおっとりしている。その間ぬけさがたちまち溌刺
(は つらつ)と生きて来て晩年の偉大を成している。一切の秀れ た技巧を包蔵して
いる大味である。神経の極度にゆき届いた無神経である。彼の第一の特色はその大き
さにある。いかにも國運興隆の大きさである。彼の実際の 身の丈けは今の吉右衛門
よりも小さい。五代目菊五郎と並んだ写真では菊五郎の方がわずかに背が高い。その
短 躯(たんく)が 舞台をはみ出す程大きいのである。彼は肥っても居ず痩(や)せ 
ても居なかった。彼の大きさは素質から来ている。深みから来ている。血統から、荒
事師の祖先から来ている。絶体絶命の大きさなのである。
 團十郎の顔はぽかりと大きい。その一つ一つがゆったり出来ていて、此は隈(く 
ま・歌舞伎独特の化粧、登場人物の性根などを類型化した化粧、窓から差し込む天然
の光や蝋燭の光という、電気が無い時代の不十分な灯りしかない、薄暗い舞台で、ク
ライマックスを観客に印象づけるための表情を、いわば固定化したような化粧)取ら
れるために生みつけられた特別製の素材(化粧のし易い、十分な広さのある顔)で
あった。 其上に舞台上の修練(演技)によるあらゆる顔面筋の自由な発達があっ
た。すべてが分厚で、生きていて、円融無礙(え んゆうむげ、えんにゅうむげ。仏
教語。完全で、円満融通)であった。
 團十郎の顔は全体には面長である。横から見ると、後頭よりも顔面の方が勝ってい
る。正面から見るとやや鉢開き(鉢開き坊主、鉢坊主、托鉢して歩く坊主。頭が大き
い上に、面長)の形をしていて頬が何処 までも長く、滝のようにつづいている。前
額の高いのを除いてはこれといって目立つ急な突起は無い。顴骨(か んこつ、けん
こつの慣用読み。頬骨=きょうこつ。ほほぼね)も出ていない。下 顎(したあご)
に も癖がない。その幅のある瓜実顔(瓜の種に似た、色白く、中高=なかだか・鼻
筋の通った=で、やや細長い顔)の両側に大きな耳朶(み みたぶ)が少し位置高く
開いている。おだやかな眉弓(まゆゆみ・眉毛)の下に ある両眼は、所謂(い わゆ
る)「目玉の成田屋」ときく通り、驚くべき活殺自在の 運動を有(も)っ た二重瞼
の巨眼であって、両眼は離れずにむしろ近寄っている(團十郎家伝来の「睨み」の出
来る眼、当代の團十郎も、その息子の海老蔵も、眼が大きく、「睨み」は、お得意で
ある。江戸の庶民は、新年の舞台で、團十郎に睨んでもらうと、向こう1年、無病息
災と言われた)。(以下は、顔の解剖学的な専門用語が、ポンポンと出て来る
が……)眼輪匝筋(が んりんそうきん・眼輪筋=主として眼窩=がんか、めだまの
あなからまぶたを輪っか状に囲む筋肉)は豊かに肥え、上眼瞼(じょうがんけん、う
わまぶた)は美しく盛り上って 眼瞼軟骨(がんけんなんこつ・まぶた)の発達を思
わせる。眼瞼の遊離縁(ゆうりえん?)も分厚く、内眥外眥(な いしがいし・まな
じりの両端)の釣合は上りもせず下りも為(し)ない。そして涙 湖(るいこ?)、
涙阜(るいふ?)(涙をためる下瞼の内側を湖に例えれば、その阜(おか)という
か、岸辺のような部分か?)が 異様な魅力を以て光っている。下眼瞼(したまぶ
た)の下に厚い脂肪層が一度陰影を作り、それから直ぐ鼻翼(びよく・鼻先の左右両
端、こばな)の上の強いアクサン(アクセント)となる。此の目玉に隈を入れて舞台
で彼が見得 を切る(江戸の荒事の出し物だろう)時、らんらん(光輝く)と言おう
かえんえん(火が盛んに燃え上がった)と言おうか、又城外の由良之助(「仮名手本
忠臣蔵」の城明け渡しの、城外の場面で、主君の仇討を決意する)のように奥深く
じっと見つめる時、それは世紀の奥を貫く眼だ。鼻 梁(びりょう・はなすじ、はな
ばしら)は 太く長いが、別に高くはない。高過ぎて下品になる鼻ではない。むしろ
なだらかで地道である。顴骨(かんこつ・ほほぼね)から鼻の両側に流れる微妙な
肉、そして更に下顎に及ぶ間延 びのした大顴骨筋とそれを被う脂肪と、その間を縫
うこまやかな深層筋の動きとは彼の顔に幽遠の気を与え、渋味を与え、或時は悽 愴
(せいそう)直 視し難いものを与える。團十郎は鼻下長(びかちょう?・鼻の下が
長い)である。彼の長い鼻下と大きな口裂(こうれつ・口の開き)と厚い唇とはあら
ゆる舞台面上工作の根拠地である。彼の口辺(こうへん・口の辺り)の筋肉の変化と
強い頤(しん・眉を上げて人を見る) 唇(しん・くちびる)溝(こう・みぞ?)の
語るところは筆で書けない。此所は造型上でも一番手こずる難所である。とにかく清
正(加藤清正)の髯(ひ げ)は此所に楽に生え、長兵衛(幡随調長兵衛)の決意は
此所でぐっと きまり、鷺娘(さぎむすめ・舞踊劇の娘役)の超現実性も此所からほ
のぼのと立ちのぼるので ある。そしてあのムネ スウリ(?)も及ばないめりはり
が此所から出るのである。滝壺のようにとどろく声が生れるの である。團十郎の首
はまだ出来ない。

作品解説

この文章のおもしろさ:彫刻家は、團十郎という名優の顔つきを観察し、目(視覚)
と手(触覚)で役者の藝論の歴史(藝の蓄積)をつかみ取ろうとしていることだろ
う。

まず、先の文章に、あったように、大づかみに、團十郎の顔は、「純粋の明治の顔」
であって、「女でいえば洗髪のおつま(吉田俊男著『天下之怪傑 頭山満』という玄
洋社の頭山満の人物伝らしい本が、1912(明治45)年に刊行されていて、そのなか
に、「怪傑頭山満対洗髪おつま恋物語、おつまのことばとして、「頭さま」は大切の
大切の旦那様、とある。当時の人は、洗髪おつまと言えば、例えば、芝居の「お富さ
ん」のように、誰もが、知っていたのでしょう」のような其の世代の標式)。つま
り、團十郎の顔は、彫刻家の直感から、時代や世代を代表するスタンダードとなりう
る顔だと光太郎は言うのである。

これまで、いろいろな人が作った團十郎の顔(首・かしら)や胸像は、皆ダメであ
る。「青年の頃(から見続けた)團十郎の舞台」の印象の蓄積を一つの顔(首)に詰
め込まなければ、團十郎の顔は、作り上げられない。小柄な團十郎の大きさは、顔の
大きさでもあるが、藝の大きさでもある。

「その短 躯(たんく)が 舞台をはみ出す程大きいのである。彼は肥っても居ず痩
(や)せ ても居なかった。彼の大きさは素質から来ている。深みから来ている。血
統から、荒事師の祖先から来ている。絶体絶命の大きさなのである。」と光太郎は、
断じる。初代から、代々の團十郎の体を通して伝えられて来た、そういう江戸歌舞伎
の荒事の精粋を表現しなければ、九代目團十郎を表現したことにはならない。そうい
う大きさを表現した團十郎の首は、未だかつて無い。ならば、自分で作り上げよう。
光太郎は、そういう決意表明をしている。

代々の藝の精粋を表現する九代目團十郎の顔を凝視する光太郎は、顔の細部を解剖学
的に分析しつつ、その特徴のよって来たるところは、團十郎代々の藝の蓄積であると
見抜くのである。顔面の筋肉などを目、鼻、口と細部にわたって、解剖学的に精査す
る。そして、そのひとつひとつが、荒事の「隈」という化粧や、様々な役柄に取り組
んだ演技の工夫の果てに生み出された成果だと言う。

辛抱立役の由良之助、清正、長兵衛などの実事、あるいは、可憐な娘役の鷺娘という
女形など、舞台の修練が生み出す歌舞伎役者としての風貌、そういうものが、幾重に
も重なり重なりして、團十郎の顔を作り上げている。若い頃から團十郎の舞台を見続
けた光太郎は、若い頃からの歌舞伎好きとして、詩人として、彫刻家として、そうい
う藝の印象を團十郎の顔の上に、浮き彫りにするような塑像に作り上げたいと思って
いる、そういう全身芸術家の血が通った文章が、全身芸術家の鋭い感性が、横溢して
いるように思うが、肝心の團十郎の首は、まだ、完成していない。そういう時点で、
この文章は書かれている。是非とも、光太郎作の九代目團十郎の首を見てみたいもの
だと思うのは、私だけではないだろう。皆さんは、いかがですか。どこかにあろので
あれば,是非とも見たいと思いませんか。

その後、智恵子の発病で、光太郎の團十郎の首作りは、中断する。智恵子の病は、当
時は、精神分裂症と呼ばれたが、いまでは、統合失調症と呼ばれる。現在の治療方法
なら、智恵子の病気は、治ったのではないかといわれている。しかし、智恵子は、病
を深めて、亡くなってしまう。光太郎は、智恵子の発病に責任を感じて、誠心誠意、
看病する。その愛情の結晶が、後に、「智恵子抄」として、まとめられる智恵子との
日々を読み上げたいくつもの詩編となる。アトリエには、光太郎が、己だけが作りう
る團十郎の顔と思いながらも、作りかけのまま、未完成で團十郎の首の塑像が残され
ていたが、その後、手を加える暇のないまま、塑像は、乾いて、ひび割れてしまい、
最後は、東京の空襲の際に焼失したアトリエとともに、この世から消えてしまい、光
太郎作の團十郎の首は、とうとう、後世に残されなかった。私たちは、團十郎の首を
見ることが出来ないのです。私は、光太郎が、この文章の通りの狙いを生かし切った
團十郎の首を見ることが出来れば、光太郎の彫刻家としての力量をまざまざと感じる
ことが出来たろうにと、残念に思う。
- 2010年6月4日(金) 7:41:22
5・XX  閉場式で、「劇場」としての使命を終えた歌舞伎座。月が変わって、
きょうも、用事で、銀座界隈に出向いたので、歌舞伎座の近くに行って来た。 

歌舞伎座は、劇場から「観光スポット」へ、ということで、建物をバックに、記念写
真を撮る人が、大勢いた。その隙間を縫うようにして、歌舞伎座の玄関前には、大型
トラックが、横付けされて、引っ越しが始まっていた。 

建物の周りをぐるりと廻ると、脇にも、引っ越しのトラックが、何台も並び、椅子や
机などが運び出されている。楽屋口では、松嶋屋の荷物(これは、引っ越しではな
く、次の劇場行きか)、黒御簾の大太鼓などが、通路に置かれていた。 

歌舞伎座の取り壊しはまだ始まらないが、周辺のビルの一部は、すでに、取り壊され
ているし、新たに取り壊される予定のところは、松竹の名前で、取り壊しの告知板が
出ていた。松竹が、買い上げたのだろう。立て替えが、予定より遅れたのは、「近隣
対策」に手間取ったのかも知れない。 

取り壊されたところから、改修前の、劇場の古風な手すりが、姿を見せたり、歌舞伎
座裏側では、役者衆が入る大風呂の煙突が見えたりしていて、これはこれで、おもし
ろい。 

歌舞伎座の敷地は、現在より増えるのだろう。松竹とは、別に、その場所で、建替え
るビルも一部あるが、ほぼ、昭和通りと晴海通り、それぞれの脇の路(ひとつは、木
挽町通り)までが、新しい歌舞伎座の敷地に生まれ変わるということだろう。歌舞伎
座の建物の後ろに高層ビルが立ち上がるが、周辺にも、敷地を拡げるということだろ
う。 

これまで、支障のあった大道具の出し入れも、これで、少しは、し易くなるのかも知
れない。歌舞伎は、このところ、若いファンも掴んでいるが、主体は、年配の人たち
だから、これまで、階段の上り下りが、苦痛になっていたに違いない。劇場内にエレ
ベーターやエスカレーターが、据え付けられれば、楽になる。できれば、東銀座の駅
からも、そのまま、劇場前に着けるように、エレベーターやエスカレーターが、欲し
い。もうひとつ、ついでに、若い人も座り易いように、座席周りのスペースも十分な
余裕がほしい。 

昼夜通しで舞台を観ていると、腰が痛くなるという苦痛からも、新歌舞伎座では、解
消してもらえると、何よりの、観客サービスになると思うのだが……。
- 2010年5月1日(土) 20:46:25
4・XX 新橋演舞場の澤潟屋一門の芝居「四谷怪談忠臣蔵」を千秋楽に観て来た。
歌舞伎では、珍しいカーテンコールが、2回あった。 

「今日は、これぎり」の口上で、幕が閉まった後、カーテンコールに応じて、幕が開
いた。1回目は、主役を演じた右近を軸に、春猿、笑三郎ほか、最後の場面に出演し
ていた役者だけであった。 

定式幕が、再び閉まると、また、カーテンコールが、始まり、2回目は、全員の役者
だろうと思うが、大勢出て来て、更に、右近の上手には、猿之助が、立っていた。皆
といっしょに拍手をしている。 

手の動きは、やや、ぎこちなく感じたが、往年の精悍さには、欠けるものの、表情
は、しっかりしていて、しっかり、立っていて、無事千秋楽を迎えて、嬉しそうだっ
た。 

閉幕後も、しつこくカーテンコールをしている人がいたので、カーテンコールは、千
秋楽の、きょうだけではなさそうな雰囲気だったが、猿之助が出て来たのは、きょう
だけかも知れない。
- 2010年4月23日(金) 19:41:04
4・XX 映評:「セラフィーヌの庭」。岩波ホールの試写会で、「セラフィーヌの
庭」を観た。2009年、フランス・セザール賞で、主演女優賞や作品賞など7部門
の受賞を果たした作品。フランスの女流画家・セラフィーヌ・ルイ(1864年〜1
942年)の生涯を描いた映画。「モダン・プリィミィティブ」系統の画家だが、家
政婦(掃除婦)として働きながら、自己流で、絵を描いて来た。貧しさ故に、絵の具
も手作りで、花や果実、葉を幻想的、神秘的に描くのを得意としていた。大きなキャ
ンバスに、下から上に向かって、ということは、地上から天空に向かって、突き上げ
るように、上昇する木の姿が、そこには、ある。まさに、「聖なる木」。

アンリー・ルソーを発見し、最初の評伝を書き、さらに、ピカソをいち早く評価した
ドイツ人の画商で、コレクター・ヴィルヘルム・ウーデ。セラフィーヌは、彼の家の
通いの家政婦として働いていて、ウーデに見いだされるが、第1次世界大戦勃発で、
フランスとドイツが敵対関係になったことから、ウーデは、財産を差し押さえられた
上に、フランスを去らざるを得ない状況に追いやられてしまう。10数年後、再会を
し、セラフィーヌは、ウーデの本格的な支援のもと、画業に専念するようになり、い
くつもの傑作を生み出すが、今度は、世界恐慌が、ウーデの経済力を直撃し、再び、
絵画などの財産を押さえられ、支援が叶わなくなってしまう。

その後、セラフィーヌは、精神を病み、78歳で、孤独のうちに、精神病院で亡く
なってしまう。そういうユニークな女流画家の生涯が、20世紀前半の時代背景とと
もに、マルタン・プロヴォスト監督の手で、丹念に描かれて行く。

フランス・セザール賞では、撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、作曲賞、脚本賞など
も、あわせて受賞したことでも判るように、細部にまで、それぞれの専門家の神経が
行き届き、見応えのある映像世界を構築している。特に、セラフィーヌを演じ、主演
女優賞を受賞したフランスきっての実力派女優・ヨランド・モローの、セラフィーヌ
に乗り移られたような、体当たり的な演技は素晴らしい。マルタン・プロヴォスト監
督は、ヨランド・モローが、「セラフィーヌの化身」だと、絶賛したという。それほ
どの存在感のある人物造形に成功したのだと思う。

しかし、私が、注目したのは、セラフィーヌの精神病の症状だった。ウーデと再会を
果たし、毎月、決まった額の支援を受けて、経済的に安定した生活の中で、画業に専
念しはじめたセラフィーヌは、アパートのフローアーを借り切る。やがて、広い家を
借りるようになる。広い家で使うための食器や調度品をむやみと買いあさる。手作り
の画材だったのが、たくさんの画材を買い込むようになる。部屋に閉じ籠り、昼夜分
たず、己の心中を覗き込み、心象風景画を描き続ける。

これは、躁鬱病(双極性障害)の症状そのものではないか。特徴的なのは、制禦なき
買い漁り、寝ないで活動を続けるなど。躁状態のときに出て来ると言われる症状に似
ている映像が、次々と続く。躁の病相と鬱の病相が、交互に現れる病気が、躁鬱病
(双極性障害)だ。

セラフィーヌの場合、映画の中で、精神病を発症するのは、1929年の世界恐慌
で、ウーデの経済力が直撃され、支援が叶わなくなってしまった後という想定になっ
ているが、その2年前、ウーデとの再会で、支援が始まった後、こういう症状は出始
めて来ていると思う。世界恐慌の影響で、1930年、己の財産状況が悪化し、セラ
フィーヌの浪費をたしなめたウーデの言うことが理解できず、彼をののしり、不安と
無理解の果ての激しい動揺、画商との別離を経て、セラフィーヌの心が、次第に壊れ
て行き、「迫害妄想」「幻覚」「感受性障害」などの精神病発症に繋がるような描き
方をしているが、ここは、違うのではないかと思った。

躁鬱病(双極性障害)の発症は、遺伝的な体質がベースにあり、何かが契機となっ
て、起こるといわれている。貧しさと闘いながら、隙を見つけて、絵を描き続けてい
たセラフィーヌの長年の生活習慣そのものが、躁鬱病(双極性障害)の発症を促した
ように思われる。

1932年、精神病院では、絵を描かなくなったセラフィーヌだが、パリでは、「モ
ダン・プリミティブ」の絵画展が開かれ、以後、1942年にセラフィーヌが亡くな
るまで、パリ、チューリッヒ、ニューヨークなどで、彼女の作品を含む絵画展が開催
される。没後の1945年、ウーデの提唱で、セラフィーヌの初めての個展が、パリ
で開かれる。2年後、ウーデも、亡くなる。

最近観た映画で、画家の生涯を描いたものでは、「カラヴァジョ」のものが印象に
残っているが、犯罪者で画家のカラヴァジョと今回のセラフィーヌの生涯は、これま
で観た画家の評伝ものとしては、歴史に残る作品に仕上がっていると思う。

セラフィーヌの絵は、東京・世田谷美術館にも、1点あるという。一度、原画を観に
行きたい。

「セラフィーヌの庭」は、東京.神保町の岩波ホールで、8月7日より、ロード
ショー公開される。
- 2010年4月22日(木) 10:35:51
4・XX 劇評:青年劇場「太陽と月」。ジェームス三木作演出である。太陽は、大
日本帝国、月は、中国では、偽満州と呼ばれる満州。舞台は、1934(昭和9)年
3月の満州。南満州鉄道(満鉄と呼ばれた)の理事・山倉誠二郎の自宅。22歳の長
女と27歳の婚約者の結婚式の準備の話題で、盛り上がっている。長女は、満州の
「協和会」の職員、婚約者は、満州国政府のエリート官僚である。山倉家には、長男
と次女、三女がいる。長男は、関東軍の将校、次女は、遠く離れているが、教師をし
ている。三女は、生徒だ。満州に移住して来た日本人のエリート家族という設定で、
山倉の科白にあるように、山倉家が、満州国家の縮図のようなものである。満鉄理事
は、ヤマトホテルでの結婚式や満鉄の「あじあ」号という特急列車のことを自慢して
いる。

しかし、山倉家にとって、暗転するような事件が、数日後に、起こった。宣撫活動
で、出張中の長女の乗った協和会のトラックが、抗日活動をしている武装農民に襲わ
れ、運転手は、射殺され、長女は、行方不明になってしまうのだ。家族も婚約者の官
僚も、必死になって、長女の行方を探すが、どうも、長女は、武装グループに拉致さ
れたらしいということが、だんだん、判って来る。山倉は、長女と官僚との結婚を破
棄しようとするが、それでも、官僚は、長女との結婚をあきらめない。

2年9ヶ月後、行方不明だった長女が、突然帰宅する。無事だったようだが、抗日の
反乱事件「土龍山事件」に巻き込まれ、指導者であった謝文東に、「洗脳」されて、
帰宅させられたという想定だ。謝文東は、当時の満州の内外で、中国人には、良く知
られた英雄的な人物であったという。「満州国」の矛盾を家族や婚約者の官僚に、ず
けずけ言うようになった長女の姿が描かれる。行方不明の届けを受理していた警察
が、長女帰宅を察知して、乗り出して来る。長女の発言をそのまま警察に聞かせた
ら、「非国民」として、長女の逮捕は免れないと心配した家族の手で、長女は、無理
矢理、屋敷の一室に「監禁」されてしまう。離れて住む双子の次女を呼び寄せて、長
女の身替わりをさせようと画策をする家族。長女の説得をあきらめない官僚の婚約
者。そういう周囲の動きも、描かれる。「満州国の矛盾」が、山倉家で、象徴的に描
かれて行く。山倉家の中国人の使用人の手で、長女は、監禁から抜け出すが、やが
て、逮捕され、刑務所に送られる。そこからも、脱獄を図り、銃殺されてしまう。長
女を救えなかった満州国政府のエリート官僚は、官僚らしくなく、長女を救い、守れ
なかったことで、自責の念に苦しむ。満州の荒野に沈もうとしている真っ赤な、大き
な太陽が見える長女の墓地で、官僚は、自問する。

舞台と歴史年表を重ねて見る。1934年1月、満州国に帝政が敷かれる。3月、山
倉家は、長女の結婚式の準備で盛り上がっている。数日後、「土龍山事件」(土地の
強制買収に、地区の農民が抗して、蜂起した)。長女を乗せた協和会のトラックが、
事件に巻き込まれる。11月、満鉄の特急「あじあ」号が、新京ー大連間で、運転開
始。1936年2月26日。2・26事件。12月、行方不明だった長女が、突然、
帰宅をする。1937年以降、日本は、更に、戦争へと傾斜する。

原作者のジェームス三木が、私たちに投げかけるメッセージは、「あなたは誰を守ろ
うとしたのか」というものだった。舞台の主筋から伝わってくる答えは、官僚は、婚
約者を守れなかったということだ。一方、舞台から通奏低音として、聞こえ続けるの
は、婚約者の長女(良心的な日本人)が、「五族協和」という幻想の矛盾から、満州
の人たちを守れなかったという思いが強かったのだろう。

建国宣言から13年で、国際連盟に認知されないまま、消滅した偽国家・満州。青年
劇場の舞台の袖には、上手に「満州国旗」、下手に日の丸が飾られていた。「満州国
旗」を初めて見たが、赤、青、白、黒の横線が、アメリカ国旗の「星」の部分に描か
れ、「条」の部分が、黄色無地だった。これが、「五族協和」をデザイン化した「国
旗」だったのかと、改めて、感心した。

時代精神が、狂気化する時、真っ当な人は、真っ当さを守り通すことができるのか。
「太陽と月」という芝居は、過去の歴史認識を正すというだけでなく、現在も、将来
も、再び起こりかねない「時代の狂気」と抗することを肝に銘じることの重要さを低
いが、確実に響いて来る音の中から、聞き届けた思いがする。
- 2010年4月22日(木) 7:34:18
4・XX 今月の歌舞伎座は、初日前に、全席売り切れとなって、連日、木挽町は、
大勢の人たちが、壊される歌舞伎座に別れを惜しんでいる。歌舞伎座の玄関前で、写
真を撮る人が、多いには、もちろんだが、晴海通りの向こう側でも、写真を撮る人、
スケッチをする人が、目立つ。場内でも、あちこちを写真に撮っている人の姿が目に
ついた。 

第一部「御名残木挽闇争」「熊谷陣屋」「連獅子」と第二部「寺子屋」「三人吉三巴
白浪」「藤娘」を観て来た。劇評は、後日、まとめたい。第三部「実録先代萩」「助
六由縁江戸桜」は、大千秋楽(28日)にと思っていたが、誰もが、同じ思いらし
く、早々と売り切れになったのが、28日の第三部であったので、27日の第三部を拝
見することにした。 

28日の大千秋楽に、歌舞伎座を見に行かないのも、淋しいので、28日には、第一部
をもう一度観ることにした。「熊谷陣屋」は、私が、歌舞伎を観るようになった所縁
の演目である。 

94年4月の歌舞伎座。幸四郎の直実、雀右衛門の相模のほか、梅幸が、義経、又五
郎が、弥陀六を演じていたっけ。今の建物の歌舞伎座とのおつきあいも、思えば、あ
れから、16年。 

「十六年は、一昔。ああ、夢だあ、夢だあ」は、今月の吉右衛門の科白だが、16年
前に初心で舞台を観た私が、最近では、フランス人の団体を相手に、歌舞伎の講演を
し、それが、同時通訳で伝えられるということをしているのだから、私にとって
も、16年は、一昔の感が強い。 

商売上手な、松竹は、歌舞伎座の「閉場式」を30日に2部制で行う。こちらも、即
日完売。私は、本興行で、歌舞伎座にさよならしたい。 

そういうことで、追々、さよなら公演の各部の劇評を書きたいと思い、目下、劇評の
組み立てを構想中である。ゆるりと、じっくり。
- 2010年4月15日(木) 11:36:25
3・XX

きのう、東京の青山葬儀所で開かれた「立松和平を偲ぶ会」は、主催者の発表だと思
うけれど、およそ1000人が、参列し、焼香したという。つぶさに見た訳ではない
が、一般のファンは、立松さんと同世代、つまり、私同様の世代の人が多かったよう
に、見受けられた。 

きのうの報告で、漏らしてしまったが、弔辞の後に、宗次郎さんが、オカリナを吹い
てくれた。「献奏」と言っていた。哀切とした、澄み切った高い音色が、場内に響き
渡り、しみじみとした気分にさせてもらった。 

辻井喬さんの弔辞にあったように、立松さんは、頼み事を持って来た相手には、出来
ることならば、役に立ってあげたいと思う人だったという意味のことを言っていたけ
れど、そういう立松さんの誠実さというか、サービス精神というか、そういうもの
が、体力を越える多忙な状況を生み出し、己の命を削ってしまったのかも知れない
と、思う。 

私も、フリーになって、時間が自由になったと思うのに、逆に、いろいろな予定が
入って来てしまい、結構、「多忙」なんで、びっくりしている。「多忙」だからっ
て、それで、稼いでいる訳ではないので、立松さんのように、「断ると仕事が来なく
なる」という強迫観念とは、無縁なのだが……。それでいて、可能な限り、対応して
あげたいと思ってしまう。 

また、世代特有の、いろいろ厄介なことも処理しなければならない年代なので、こう
いうことにも、時間が取られる。あれもしなければ、これもしなければで、「せっか
ち」になってきているようで、気をつけなければ行けない。任せられることは、信頼
できる人に任せて、「全体を鳥瞰する」という、個々の業務では、カバーできない、
全体を見ながら、隙間を埋めるようなところに目配りをするという姿勢を持つことが
必要だろうと思っている。 

立松さん。昔のあなたに逢いに、初期の本を読みに行こうと、思う。 

ほなら、ワッペイさん。改めて、さようなら。
- 2010年3月28日(日) 13:52:16
3・27 「立松和平を偲ぶ会」に出席

「立松和平を偲ぶ会」(実行委員長は、北方謙三)が、きょう、午後2時から、東京
の青山葬儀所で、開かれた。私は、午後1時半頃、会場に着いたので、会場にいた日
本ペンクラブの事務局の人の案内で、まだ、空いていた席に導かれたので、座ること
が出来た。実行委員会は、「偲ぶ会」と名付けたが、「偲ぶ会」というよりは、「お
別れ会」だろうな、私にとっては。「偲ぶ」前に、「お別れ」が、言いたくて、会場
にやって来たのだから。「偲ぶ会」は、来年以降だね。それにしても、立松さん、随
分、早々と、あちらに行ってしまった。

今年の2月8日の午後に立松さんが亡くなった後、1ヶ月半余りしか経っていないの
で、私には、「偲ぶ」というような時間感覚になれない。まだ、まだ、「死なれてし
まった」という、悔しさと生々しい感じが、強いのだ。一般読者も含めた「お別れ
会」には、大勢の人が、参加していた。私が、焼香を終えて出て来たら、外には、長
蛇の列が出来ていたもの。

立松さんとは、日本ペンクラブの理事会やことしの9月に開催する国際ペン東京大会
の実行委員会でも、同席することが多かったので、最近は、しばしば、元気な顔を見
せて下さったりしていただけに、今になっても、すでに亡くなってしまったというこ
とが、信じられない。日本ペンクラブの会議室に早めに来て、原稿用紙にペンで、書
いておられた姿を見かけたこともあった。去年の秋に、間もなく、「全集が出るんで
すよ」と、誇らしげにおっしゃっていたのが、印象に残っている。最近の作家は、全
集の出せない時代に巡り会わせているのだから。 

立松さんと私は、大学も、学部も、同窓生で、私の方が、1年上と近かったものの、
大学時代から、旧知という訳ではない。なんせ、マンモス大学だったからね。旧知で
はなかったけれど、同時代に、同じ場所で、それも、青春の時期に、同じ環境で生き
ていたということだけでも、私の方では、立松さんへの親近感を持っている。最初に
逢った時、そういう話をして、本名を伝えたら、「聞いたことがあるなあ」などと
言っていたが、本当かどうか。私の方は、学生時代に横松君(立松さんの本名)に
逢ったという記憶はないからだ。

さて、きょうのお別れ会だが、盛大だった。出席した人が何人いたかは、テレビの
ニュースか、明日の朝刊が、伝えてくれるだろう。日本ペンクラブからも、何人も、
列席していた。

立松さんが、理事長を務める「認定NPO法人ふるさと回帰支援センター」事務局長
の高橋公さんの司会で、お別れ会は、始まった。

法要では、8人の導師の一群に、歌人で、東京・入谷の法昌寺住職の福島泰樹さんが
入り、福島さんが軸となって読経をし、途中から、福島さん自身の弔辞の内容に変わ
るというスタイルであった。読経に加えて、短歌の「絶唱(絶叫)コンサート」で、
鍛えた渋い喉を披露した。学生時代からの付き合いと言う福島さんは、立松さんを
「最期まで、仏道志向であった」という。「300冊を越える著作を刊行した立松
は、万巻の子どもたちを通じて、これからも、時代を糾弾し続けろ」と呼びかけてい
た。

弔辞のトップバッターは、「お別れ会」の実行委員長で、作家の北方謙三さん。「君
はいま、どこを旅しているのだ。和平さん、君の人生は、旅であった」。お互い「作
家としては、惨めだった。惨めさを共有した唯一の友人が君だったと改めて思う。惨
めさの共有はまた、純粋さの、そして一途さの共有でもあった。没原稿の量を競い、
この没原稿の山が俺たちの青春ではないか、と君が言ったことを思い出す」。

次いで、作家の黒井千次さん、三田誠広さん。三田さんは、若い頃から、同世代の作
家として、「早稲田文学」を軸に、立松さんと付き合いがあった。

三田さんの弔辞。40代の作家たちが、「内向の世代」と呼ばれ、新人作家扱いされ
ていた当時、「文学が、老人たちとともに滅びるのではないか」と危惧されていた。
そうした中で、立松和平の登場は、「同世代の書き手たちに刺激を与えた」という。

「立松は、独特の空気を纏った、不可解な人物だった」。「真の客賓(まれびと=ま
ろうど、まれうど。稀に来る人)」で、不意にいなくなって、去って行ってしまっ
た」。

次いで、評論家の黒古一夫さんは、「失踪する文学精神=立松和平」は、「『文学』
という荒野を休むことなく走り続けてきたのではないか」と語りかけた。「三田文
学」の編集長で、作家の加藤宗哉さんは、三田文学への初めての作品掲載の頃を思い
出、その後の「晩年まで」連載のエピソードなどを披露した。

次に立った映画監督の高橋伴明さんは、映画「光の雨」の裏話や「時間がない」が口
癖で、時間の隙間を見つけると書き続けていた立松さんの姿を語っていた。詩人で、
作家の辻井喬さんは、日中作家交流のエピソードを披露した。最後に、司会席から降
りて来て、弔辞のマイクの前に立った高橋公さんが、「和平(わっぺい)、もう、お
まえには、逢えないんだな」と絶叫していた。

遺影とともにあった位牌には、「遥雲院和平日心居士」という戒名が、書かれてい
た。

遺族を代表して、最後に挨拶した息子の林心平さんは、「300冊を越える著作を出
した父は、死後も、40冊の本を出す予定だ。立松の思いは、作品の中に残されてい
る」と語った。

帰りに渡された「立松和平追想集」(非売品)の表紙には、「流れる水は先を争わ
ず」と書かれていた。初期の短編集に署名をしてもらったときに、見返しにも、同じ
言葉を書いてくれていたのを思い出す。
- 2010年3月27日(土) 20:43:17
3・XX   映評「パリ20区、僕たちのクラス」

まるで、パリの中学校の教室を覗いているような、迫力のある映像が展開する。

2008年5月に開催された第61回カンヌ国際映画祭で、21年ぶりにフランスがパル
ムドール(最高賞)を受賞した映画が、「パリ20区、僕たちのクラス」であった。

自身の教師体験を元に演じる原作者のフランソワ・ベゴドーの演技は、リアルだし、
一方、自分ではない自分とでも言うべき体験をフィクションで演じる生徒たちも、迫
真に演技で、教師に迫って来る。

「教室の中のドキュメンタリー映画」という印象の、ドキュメンタリー・フィクショ
ンとでも言うべき、現実感と虚構が、渾然と一体化した世界が映画の中に再構築され
ている。実と虚の対立と融和という、この緊張感が、見事に画面に定着されて、「パ
リ20区、僕たちのクラス」は、第61回カンヌ国際映画祭では、パルムドールを競う
22の候補作品の中から、審査員たちの激賞を浴びた。

パリの中学校のあるクラスが、舞台。主演した原作者のフランソワ・ベゴドーは、元
教師で、自身の体験を元に、中学校での1年間を綴った小説「教室へ」を書いて、話
題を集めた。その元教師が、主演をし、生徒役には、パリ北東の端にある「20区」
のフランソワーズ・ドルト中学校の、実際の生徒たちが、出演する。画面に登場す
る、そのほかの教師、保護者も、皆、この中学校の関係者ばかりだ。

主演した教師の担当科目は、国語、つまり、フランス語の授業だ。母国語を別に持ち
ながら、移民たちが、フランスの社会に溶け込むためには、フランス語を学ばなけれ
ばならない。特に、中学生たちにとっては、言葉を学ぶということは、他人とのコ
ミュニケーション術を身につけることであり、社会へ旅立って行く手段を身につける
ことである。まして、外国で生きていかなければならない移民の子どもたちの苦労
は、並大抵ではない。言葉を学ぶ場で、生徒と教師という立場を守りながら、人間と
して対等に付き合おうという教師は、試行錯誤を続ける。その過程で、傷つき、反発
する生徒も出て来る。

パリ20区は、移民の多い地域だ。その縮図とも言うべき中学校の、ひとつのクラ
ス。さまざまな人種の移民たちの子どもは、出身国も、生い立ちも、移民してきた事
情も、皆、違う。それぞれの親の事情も親たちの子どもたちへの期待も違う。子ども
たちは、互いにぶつかりあいながら、教師や親との関係も、図りながら、教室の中
で、日々生活を続けている。

ローラン・カンテ監督は、テレビ番組のドキュメンタリー畑のディレクター出身。
「ヒューマンリソース」という作品で、フランス映画アカデミー・セザール新人監督
賞を受賞した俊英である。素人の出演者の良さを引き出し、ドキュメンタリータッチ
のドラマを作るテクニックは、巧みである。映画では、生徒役の中学生たちが、ド
キュメンタリーそのものという手触りで、出色の演技をする。だが、生徒たちが背
負っている「事情」は、すべて、フィクションだと言う。

フィクションを自然な演技と感じさせるところに、この映画の魅力がある。今回も、
撮影前のワークショップを活用して、中学校の映画出演希望者を募り、毎週1回、お
よそ7ヶ月間、生徒ひとり一人の個性や能力を探り出し、24人を選び抜いたとい
う。

ハイライトは、教師が生徒たちに出した作文の課題だ。「自己紹介」は、まさに、生
徒たちのアイデンティティを抉り出す爆弾の役割を持つ。正しいフランス語による自
己紹介という行為は、言葉を学びながら、人格形成にも波及せざるを得ないから、生
徒たちの中には、自己を韜晦したり、沈黙したりする者も出て来る。文章は苦手だ
が、写真で、自己紹介することに能力を発揮する者もいる。

教師は、言葉としてのフランス語を教えながら、生徒たちの可能性を引き出す努力も
しなければならない。信頼関係が、生まれそうになると、些細なことで、つまづくな
ど、多難だ。暴力事件を引き起こし、「退学」させられる生徒も出て来る。その背景
には、家庭の事情が、透けて見えて来る。地域社会が見えて来る。国際社会が見えて
来る。

そう。地域の中学校というのは、まだ、高校や大学のようには、「選抜」されていな
い場での教育であるだけに、そこは、地域社会の実相を映し出す「装置」になりうる
からだ。そこに目をつけた原作者と監督の、二人三脚が、見事成功し、脚本をベース
にしながら、脚本を越える仕掛けとしての「装置」を通して、スクリーンに映写され
た光と陰は、地域を越えて、グローバル化した国際的な移民社会という巨大な像を、
見事に浮き上がらせたと思う。

言葉尻を捕えて、意図的に仕掛けられた「葛藤」の場面もある。しかし、それは、逆
に見れば、優れて、ディベート的でもある。そうだとすれば、それは、教師としての
フランソワの教育の成果でもあるのだ。そういう、いわば、螺旋階段を上るように、
この映画の「論争」は、発展的であったと言えるだろう。そして、発展的な進行の上
に見えて来たものは、なんと、終業式も終わり、無人となった教室の乱れた机と椅子
の数々。突然出て来た、このシーンは、暫く、無人のまま見せられ、その後、画面
は、暗転する。

そこへ、クレジットタイトルが、流れ始めてきたとき、もう、この映画は、教室で起
こったことに何の解決策も提示せずに終わってしまうのか、という思いが一瞬、湧き
出してきたのだが、この映画は、教育の場を現実以上にリアルに、ということは、本
質的に提示することが狙いであり、教室内の「葛藤」や「紛争」の解決策の提示とい
う、プロパガンダの映画ではないというメッセージを送りつけて来たのだと言うこと
を、長々と続くクレジットタイトルの流れを見つめながら、観客は、知ることになる
だろう。

この映画は、東京・神保町の岩波ホールで、6月12日からロードショー公開され
る。
- 2010年3月27日(土) 9:20:23
3・XX  1945年以降、数々の名作の美術を担当して来た日本映画界を代表す
る美術監督で、5年前から、80歳代の後半から映画監督をするようになった木村威
夫さんが、3・21に亡くなった。91歳。

木村さんの映画監督作品は、「夢幻彷徨 MUGEN-SASURAI」が、最初で、監督の戦
争体験を軸に作品を作り上げたという。私が初めて見たのは、おととし(08年)初
の劇場用の長編劇映画として公開された「夢のまにまに」(それ以前に数編の短編映
画を監督している)であった。戦争体験をひきずる映画学校の学院長・木室創を主人
公に妻のエミ子、映画学校の学生・村上大輔を軸に展開する、木村の自伝的な作品で
あった。

去年の11月に公開された長編劇映画の第2作は、「老人たちのユートピア〜黄金
花〜」で、「夢のまにまに」の、いわば、続編、その後の人生を描いていた。木村監
督の夫人は、認知症になり、老人ホームに入っているという。3日おきに訪問する監
督に対して夫人は、家に帰りたいと言う。自分たちのような老夫婦。連れ合いに先立
たれ、孤独な老後を老人ホームで過ごす人たちを日常的に見ていて、監督は、ドキュ
メンタリータッチで、この光景を映画化しようと決意したのが、「老人たちのユート
ピア〜黄金花〜」であった。

去年、9月の試写会に顔を出し、試写の前と後に、私たちに自作解説をして下さった
木村監督の姿を思い起こす。長編映画のキーポイントは、樹木のイメージ。前回は、
冒頭シーンで、根元にごつごつした奇妙な瘤を持つ巨木が映し出された。今回は、山
並みから、山の木々の遠景にクローズアップする。

映画の一シーンを思い出す、深夜、老人ホームのトイレの扉を開けると、そこは、時
空を超えて、過去に繋がる世界。夜の道を、雑木林の道を彷徨いながら、歩いて行く
と、己の送って来た人生の断片の数々と遭遇する。母と過ごした少年の日々。留学生
に恋した青春の日々。そういえば、あの頃には、閉塞感も強迫感も、なかった。上空
には、すかっとした、抜けるような青空が、広がっていた。木村威夫監督は、いま、
その青空から、私たちを見ているような気がする。合掌。
- 2010年3月26日(金) 9:30:37
3・XX 映評の続き。

「ノン、あるいは支配の空しい栄光」から17年後に製作された「コロンブス永遠の
海」は、どういう構造になっているだろうか。


ポルトガル・フランス合作映画「コロンブス 永遠の海」は、新大陸を発見したクリ
ストファー・コロンブス(1451年〜1506年)が、イタリア人とか、スペイン人と
かいわれる通説と違ってポルトガル人だという、2006年に唱えられた新説に触発さ
れて、作られた映画だ。いわば、「コロンブスの卵」のように、意表をついて、出生
の謎の隙間に入り込み、もうひとつ「コロンブスの卵」を立たせてみせようという狙
いの映画だろうと思う。新説を唱えた歴史学者・マヌエル・ルシアーノ・ダ・シル
ヴィアという名前に因んで、「コロンブス 永遠の海」の主人公は、マヌエル・ルシ
アーノという。映画は、シンプルに、主人公の五つの時代を描いて行く。

まず、1946年。マヌエル・ルシアーノ青年は、弟とともに、ポルトガルのリスボン
から、船に乗って、ニューヨークに向かう。戦争で離散した家族をニューヨークに呼
び寄せたいという父の思いに応えての、不本意な船旅である。

数年後、ニューヨークで、病院の勤務医として働きながら、歴史研究もするマヌエ
ル・ルシアーノ。研究のテーマは、クリストファー・コロンブスは、ポルトガル人だ
という仮説を証明するということだ。

1960年.ポルトガルに戻り、ポルトで、女性教師と結婚をしたマヌエル・ルシアー
ノは、新婦のシルヴィアととも、ポルトガル国内のコロンブス所縁の地を車で廻る。
マヌエル・ルシアーノは、コロンブスの足跡を辿る形で、大航海時代のポルトガルの
歴史を語る。映画とは、歴史を語ることだとオリヴェイラ監督はいうのだろう。

まずは、マヌエル・ルシアーノが、コロンブスの生地と想定するクーバへ。古い教会
を訪ねるが、手がかりは、見つからない。ポルトガル王家のフェルナンド1世の墓の
あるベージャの美術館へ。コロンブスの洗礼名は、サルヴァドール・フェルナンデ
ス・ザルコ。サルヴァドール・フェルナンデス・ザルコは、フェルナンド1世とイザ
ベル・ザルコの息子だという。コロンブスは、私生児ながら、フェルナンド1世の息
子だという。マヌエル・ルシアーノとシルヴィアは、さらに、南下して、大航海時代
に活躍したエンリケ航海王子が亡くなったサグレス岬へ。ポルトガル最南端の岬から
大海原を眺め、大航海時代の先人たちの偉業に思いを馳せる若い夫婦。

時代は、一気に、47年後のニューヨークに、飛ぶ。2007年。映画が製作された時点
で言えば、「現在」である。若夫婦は、年老いた夫婦になっている。マヌエル・ルシ
アーノ、80歳である。ここは、オリヴェイラ監督夫妻(オリヴェイラ監督と夫人の
マリア・イザベル)が、年老いたマヌエル・ルシアーノとシルヴィアの夫婦を演じ
る。監督は、98歳である。

アメリカに渡った老夫婦は、自由の女神を船上から眺めながら、ポルトガル移民の詩
を思い浮かべる。老夫婦は、自分たちの人生とポルトガル人の歴史を重ねあわせるた
めに、カリフォルニアのバークレーへ向かう。98歳の監督は、夫人を乗せて、車で
廻る。

バークレーでは、大航海時代の帆船の模型を見る。ヴァスコ・ダ・ガマは、インドに
到達した。カブラルは、ブラジルに到達した。マゼランは、世界一周をした。ピント
は、中国と日本に到達した。コロンブスが、ポルトガル人なら、5大陸に到達した
ヨーロッパ人は、全員が、ポルトガル人ということになると老夫婦は、思いを馳せ
る。

最後に、老夫婦は、ポルトガルの西にあるポルト・サント島に渡る。コロンブスが、
大航海に出発するまで、家族と過ごした家が、博物館として、残っているという。老
夫婦は、案内役の館長に対して、ポルトガルにも、大航海時代の英雄をたたえる記念
碑や博物館を作るべきだと主張する。ポルトガルでは、コロンブスは、「ブス」がつ
かないで、コロンと言う。没後500年を記念して、クーバにクリストファー・コロン
の名前を入れた彫刻ができたと館長は説明する。
コロンブスは、ポルトガル人という仮説に取り付かれた歴史学者でもあるマヌエル・
ルシアーノの半世紀に渡る歴史の謎解きへの挑戦の旅が、描き出された。


オリヴェイラ監督は、「ノン、あるいは支配の空しい栄光」では、「植民地支配国
家」や「戦争」の空しさを主張したが、「コロンブス 永遠の海」では、「郷愁(サ
ウダーデ)」への思いを訴える。ラストシーンでは、オリヴェイラ監督夫人のマリ
ア・イザベルが、哀切を込めた声音で、次のような唄を歌う。

「郷愁という言葉/この言葉を紡ぎ出した人よ/初めて呟いたその時/涙を流したこ
とでしょう」

「郷愁」。それは、故郷への思いばかりではない。過ぎ去った人生の日々への思い
も、ある。郷愁。青春への回帰願望。

特に、100歳を超える監督の郷愁は、豊饒であるだろうし、それは、過ぎ去った人生
の日々への思いだけではない。オリヴェイラ監督と夫人のマリア・イザベル、間もな
く、ふたりは、結婚70周年を迎えようとしている。これは、たぐいまれな、長寿夫
妻への祝福の物語でもある。

科白は言わないが、「コロンブス 永遠の海」では、若い女性が扮する天使が、時空
を超えて、画面に登場する。原作にない、映画オリジナルのアイディアである。画面
の節々に登場するが、勿論、登場人物たちには、見えない存在だから、やり取りする
こともない。赤と緑の衣装を半々にまとい、剣を持った天使は、映画の後半から、オ
リヴェイラ監督夫妻のドキュメンタリーの色彩を強めて来たのだから、オリヴェイラ
監督の人生への象徴でも、あるだろう。それと同時に、本来的には、コロンブスを魅
了した永遠の青海原の象徴でも、あるのだろうと、思う。

「コロンブス 永遠の海」は、東京・神保町の岩波ホールで、5月1日から、ロード
ショー公開される。
- 2010年3月9日(火) 9:10:34
3・XX   映評「コロンブス永遠の海」と「ノン、あるいは支配の空しい栄光」
を2日続けて、掲載したい。

ポルトガルの巨匠、オリヴェイラ監督は、1908年12月生まれだから、現在、101
歳。世界最高齢の映画監督と言われる。今も、毎年1本の映画を作っているという。
今回、公開される映画は、1990年製作の「ノン、あるいは支配の空しい栄光」と
2007年製作の「コロンブス永遠の海」であり、2作とも、主要登場人物が、「歴史
を語る」ことが、映画だと主張しているように見える。1931年から映画を撮り続け
ているオリヴェイラ監督は、サイレント映画からトーキー映画になった直後から、
「映画とは何か」を考え続けているのだろう。30年代に3本、40年代、50年代に
は、それぞれ2本、60年代、70年代には、それぞれ3本、80年代に、7本、90年
代には、10本と、毎年1本イペースに乗り、2000年代には、ということは、90歳
を超えてからは、16本という驚異的なペースに「加速」し、年に2本製作という年
が、6回もある。95歳以降が、多いのも、驚異的だ。体力、気力、判断力が、超人
的なのだろう。81歳の作品が、「ノン、あるいは支配の空しい栄光」で、98歳の作
品が、「コロンブス永遠の海」であり、特に、「コロンブス永遠の海」では、後半の
場面では、自身と夫人、つまり、オリヴェイラ監督夫妻が、主人公になって、「歴史
を語り合う」のだから、オリヴェイラ監督の「映画とは、歴史語り」という信念が、
映画作りのエネルギーになっているとともに、長寿の秘訣なのだろうと推察する。
トーキー以降、映画が、カラーになったが、カラーではないモノクロの映画が、今で
も、製作されるが、トーキーではないサイレント映画が、製作されることはないだろ
う(よほど、実験的な映画製作は、別として)。ならば、映画にとって、必要不可欠
なものは、色彩よりも音声であるという主張は成り立ちうるだろう。映画の登場人物
が、「語る」ということは、なによりも、映画を映画たらしめていると言えよう。オ
リヴェイラ監督の作品を見ていると、「ノン、あるいは支配の空しい栄光」で
は、1974年のアフリカの植民地戦争に従軍しているポルトガルのカブリタ少尉が、
語り手であり、「コロンブス永遠の海」では、青年期から老年期までのマヌエルが、
語り手である。

それでは、彼らが、何を語るのか。それぞれの「語り」に耳を傾けてみよう。

ポルトガル・フランス・スペイン合作映画「ノン、あるいは支配の空しい栄光」で
は、かっての植民地時代のポルトガルの栄光の歴史は、侵略である以上、植民地側か
ら見れば、押し付けられただけで、一時の栄耀栄華も、結局は、何も残さない、残す
のは、廃墟と化した遺跡でしかないという、テーマが、浮き彫りにされて来る。語り
手の時点は、先に触れたように1974年のアフリカ植民地戦争の時代だ。主人公のカ
ブリタ少尉は、歴史を勉強して来たという人物で、軸になる設定は、ポルトガルの植
民地であるアフリカに従軍し、サバンナの中をトラックで移動しているときや駐屯地
についてから、「退屈さ」を紛らわそうと兵士たちと議論をするという場面だ。テー
マは、「戦争とは、なにか」、「植民地を守るとは、どういうことか」、「愛国心と
は?」など。兵士との自然なやり取りを経て、少尉は、自説の歴史観を語り始める。
映画は、少尉の語りを「説明」するために、随所に、映像を差し挟んで行く。少尉に
よって語られるポルトガルの戦争の歴史は、紀元前2世紀の侵略ローマ軍との抵抗の
戦争、そして、それを指揮した英雄・ヴィリアトの死。15世紀後半の、アフォンソ
5世の時代。スペイン侵略を狙うが、1475年の「トロの戦い」での敗北とアフォン
ソ5世の死。その後を継いだジョアン2世は、1490年、自分の王子と相手方の王女
の政略結婚で、勢力拡大を狙うが、結婚後、数ヶ月で、王子が、落馬して、亡くなっ
てしまい、野望は、頓挫する。海洋帝国を目指し、植民地獲得を始める。16世紀後
半では、セバスチャン王が、モロッコ遠征を企て、1578年、アルカサル・キビルで
敗北、国王も、戦死する。1580年、ポルトガルは、スペインイ併合されてしまう。

少尉の語る戦争は、結末だけ見れば、皆、敗北である。支配するということは、一時
的には、成功しても、結局は、敗北となる「空しい栄光」に過ぎないというのが、カ
ブリタ少尉の信念であり、「カブリタ少尉は、私だ」というオリヴェイラ監督自身の
つぶやきが、低い声ながら、明確に伝わって来る。栄光の歴史は、裏返せば、敗北の
歴史でもある。それは、ポルトガルに限らず、人類の歴史が示して来た普遍的な「公
理」だろう。

監督は、戦争に従軍している現役の軍人として、カブリタ少尉にも、「結末」を用意
している。カブリタ少尉の中隊は、緊急の命令を受けて、出撃する。その挙げ句、植
民地側のゲリラから襲撃を受ける。応戦する中隊の面々。カブリタ少尉も、木の上か
ら銃を構えるゲリラ兵士を銃撃する。木の上から、滑り落ちるゲリラ兵士。身を起こ
して、「戦果」を確認しようとしたカブリタ少尉は、別のゲリラ兵士から銃撃を受け
て、重傷を負う。ゲリラ兵士が潜むブッシュを攻撃する中隊の兵士たち。負傷して、
叫び声を上げて、ブッシュの向うを通り過ぎるゲリラ兵士。植民地支配の空しさを語
るカブリタ少尉と部下の兵士たちだったが、実際の戦闘行為になれば、「人殺し」を
することになるという現実からオリヴェイラ監督は、目を背けない。

ゲリラを退けた後、従軍病院に運ばれたカブリタ少尉だが、治療も空しく、亡くなっ
てしまう。少尉の死は、1974年4月25日。死に際に、カブリタ少尉が見る夢は、無
謀なモロッコ遠征を強行して、自らも、亡くなったセバスチャン王の幻影であったと
いうのは、語り部としての「カブリタ少尉は、私だ」というオリヴェイラ監督の、ポ
ルトガルという国家への思いがあるであろう。というのは、1974年4月25日という
のは、ポルトガルで、40年以上も続いたサラザール独裁政権が、倒された日である
からだ。つまり、ポーランドの敗北の歴史を語ったカブリタ少尉は、語り部として
は、オリヴェイラ監督自身の代役であったが、語り部とともに、現役の戦闘要員でも
あったカブリタ少尉には、もうひとつの「代役」もあったのだ。それは、戦争、ある
いは、独裁という国家の代役だろう。映画の中で、カブリタ少尉1974年4月25日
は、先にも触れたように、サラザール独裁政権が、倒された日であり、ポルトガル
が、それまでの植民地支配国家に終止符を打った日でもあり、この日から、ポルトガ
ルは、大きな変化に向けて、歩み出した日でもあるからだ。

オリヴェイラ監督は、「ノン、あるいは支配の空しい栄光」という長いタイトルの冒
頭に、「ノン」という短いタイトルを付している。これは、17世紀のポルトガルの
作家・アントニオ・ヴェイラ神父の言葉からの引用であると言う。

「ノンとは恐ろしい言葉だ。そこには前も後もない。どちらに行っても、永遠にノン
なのだ」。

抽象的なタイトルは、カブリタ少尉の「語り」に先導されて内実化され、映像が、そ
れを具体化して行く。オリヴェイラ監督作品は、そういう重層的な構造の映画だ。
「ノン、あるいは支配の空しい栄光」は、東京・神保町の岩波ホールで、4月17日
から、2週間限定で、公開される。
- 2010年3月8日(月) 22:57:33
2・XX 先日、東京の京橋で、映画を観て、その足で、上野の東京都美術館で、イタ
リアのバロック期を軸とする絵画展を観て来た。映画と展覧会の狙いは、カラヴァジョ
という画家である。その批評を、先ほど、書き込んだ。
- 2010年2月27日(土) 17:05:36
12・XX

* 映評「カラヴァジョ 天才画家の光と影」と「ボルゲーゼ美術館展」

イタリアの画家・カラヴァジョの没後400年ということで、日本とイタリアの関係を
見直すこともあって、日本では、カラヴァジョブームのようである。映画「カラヴァ
ジョ 天才画家の光と影」が、「大ヒット上映中」だそうだ。また、東京・上野の東
京都美術館では、カラヴァジョの絵画1点を含むおよそ50点の作品を公開展示する
「ボルゲーゼ美術館展」も、開催中ということで、映画「カラヴァジョ 天才画家の
光と影」と「ボルゲーゼ美術館展」を観に出かけた。

カラヴァジョは、本名が、ミケランジェロ・メリージと言うのだが、それは、父の名
前でもある。ミラノの近郊の町・カラヴァジョで、生まれ、育ったことから、「ミケ
ランジェロ」では、イタリアのルネッサンス期の著名な芸術家(大理石像の彫刻や絵
画「最後の晩餐」、ローマのサン・ピエトロ大聖堂のドームの設計など、多方面で活
躍した)と、紛らわしいので、「カラヴァジョのミケランジェロ」と呼ばれ、通称、
「カラヴァジョ」になったと思われる。1571年9月の生まれで、1610年7月に
は、亡くなっている。39歳の誕生日を目前にして、亡くなったというわけだ。生涯
で描いた作品は、60点ほどだが、現存する作品は、ローマのほか、ミラノ、マド
リード、ロンドン、パリ、ベルリン、ニューヨークなどの美術館に散在する形で、保
管されている。ベルリンの美術館にあった「聖マタイと天使」は、第2次世界大戦
後、ソビエト占領下で、無くなってしまったというものもある(同じテーマで描かれ
た作品は、ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂の礼拝堂に飾られ、現
存している)。

カラヴァジョの作品は、宗教画のテーマを描くのに、娼婦や知り合いの男女などをモ
デルにしたり、自画像をはめ込んだりして、徹底的な写実主義で通し、人間臭い感情
表現に加えて、ドラスティックなまでの明暗効果を狙って、光と影と、さらに闇を巧
みに配した画面が、特徴である。光と闇の描法は、後の世代のレンブラント、ルーベ
ンス、ベラスケス、フェルメールなどにも、影響を与えたといわれる。絵画史上で
は、カラヴァジョは、ルネッサンス期(13世紀末から15世紀末)後、近代絵画誕生
の前、バロック期(17世紀初めから18世紀半ば)の、初期の画家という位置づけ
で、短命な生涯だったが、バロック絵画の巨匠と呼ばれ、かつてのイタリア紙幣で
は、高額な10万リラ札の「顔」になったことがある。

しかし、実生活では、有能な芸術家に見られるように、一種の生活破綻者で、犯罪歴
が多く、殺人者として、逃亡生活を送ったこともある。当時の画家の習いとして、教
会や貴族などの有力なパトロンに恵まれたことから、生前はまだしも、名を知られた
が、没後は、評価が下がり、特に、19世紀のアカデミズムでは、絵画を現実的にし
てしまったと非難されたりして、一時は、忘れ去られた。破滅型の現実の生活を裏書
きするように、絵画的にも、毀誉褒貶の多い画家である。その後、写実主義、反アカ
デミズムの前衛主義などで、再評価され、特に、20世紀後半からは、海外でも、展
覧会が開催されるなどして、評価が定まって来たと言える。

映画「カラヴァジョ 天才画家の光と影」は、まさに、毀誉褒貶の天才画家・「カラ
ヴァジョの生涯の光と影を描くのと同時に、スクリーンそのものを、絵筆を使わず
に、「光と影」(映画そのもの!)で、描いている(撮影監督は、ヴィットリオ・ス
トラーロ)ので、「動く」カラヴァジョ作品という趣向で、先ほど述べたように、世
界各地の美術館に点在する24点の作品が、映画に中に登場する。それも、作品を誕
生させたエピソードなどが、ストーリー展開のうちに、巧く溶け込んでいる。イタリ
アのカラヴァジョ研究の第一人者と美術史家が、監修に当たっているので、美術映画
としても、第一級の出来映えになっている。  

日本では、現在、神戸大学の宮下規久朗准教授が、若い頃から、カラヴァジョに関す
る本を何冊も書いているけれど(私も、何冊かの著書を持っている)、世間的には、
あまり、知られていないのではないかと思われる。

今回、映画公開と同時期に開催されている「ボルゲーゼ美術館展」の「ボルゲーゼ美
術館」というのは、元々イタリアローマの名門貴族「ボルゲーゼ家」歴代のコレク
ションを展示する美術館で、特に、ローマ教皇パウルス5世の甥の、シピオーネ・ボ
ルゲーゼ枢機卿(1576年―1633年)が、優れた審美眼と豊かな財力で、美術品の
収拾に情熱を燃やしたことから、バロック期の優れた美術品が、集められている。美
術館の建物も、ボルゲーゼ家の元宮殿(「夏の離宮」)である。シピオーネ・ボル
ゲーゼ枢機卿も、映画「カラヴァジョ 天才画家の光と影」の中に登場し、カラヴァ
ジョの作品を気に入り、殺人後の恩赦では、ローマ教皇に働きかけて、それを実現さ
せる人物として、描かれている。ローマのボルゲーゼ美術館には、カラヴァジョの作
品のうち、「病めるバッカス」、「果物かごを持つ少年」、「蛇の聖母」、「ダヴィ
デとゴリアテ」(斬首されたゴリアテの首は、自画像)、「洗礼者ヨハネ」などがあ
り、今回、日本での公開では、このうちの、「洗礼者ヨハネ」1点だけが、日本では
初となる公開展示が、されている。

まず、なにより、本物のカラヴァジョの作品を観てみたいと思い、また、映画の背景
の時代が判るとも思い、観に行って来た。

「洗礼者ヨハネ」野外の、丸太を組み立てたと思われる木製の椅子に真っ赤の布をか
け、陰部だけを布で被ったキリスト12使徒のひとり、ヨハネが、全身に光を当てら
れるようにしながら、闇に浮かび上がり、左手の持った細い杖も重たげに、疲れた表
情で、座っている。足元と背景には、濃い緑色の葉を付けた草が、見えるが、その背
景は、暗い茶色の暗闇に沈んでいる。ヨハネの横には、後ろ姿の羊が描かれている。
妖艶というような雰囲気があり、宗教画の域を脱しようとしているのが、判る。特
に、東京都美術館の会場に入り、15世紀「ルネッサンスの輝き」、16世紀「ルネッ
サンスの実り」というフロアーを抜けながら、16世紀後半の、ほかの作品では、宗
教画のテーマの背景に、遠景の山々や海原を描き込んだ宗教物語色の強い作品を観て
きただけに、背景が、溶暗した作品に出逢い、人間臭い、若者「ヨハネ」の裸体と
真っ赤な布のコントラストは、衝撃的だった。

さて、映画に戻ろうか。映画の中で、描き出されるカラヴァジョの生涯は、史実を元
にしながらも、史実通りではなく、映画的に、デフォルメされている。しかし、部分
的ながら、カラヴァジョが辿った足跡を追いかけ、カラヴァジョが生きた時代の旧跡
は、そのまま、背景に使っているので、ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェー
ジ聖堂を始め、サンタンジェロ城、ファルネーゼ宮殿などが、撮影されている。ス
トーリー的には、無理なところも、散見されたが、光と影と闇を巧く使い、画面的に
は、見応えはあった。

修業時代のミラノの援助者・コスタンツァ・コロンナ侯爵夫人への崇高な愛。ローマ
で知り合い、何回も絵のモデルにもなってもらった画家のマリオ・ミンニーティとの
友情。破滅的な放蕩無頼生活で知り合った高級娼婦のフィリデとの愛憎。娼婦を取り
仕切る街のボス・ラヌッチョ・トマッソーニとの対立の果ての殺人行為。ローマでの
最初のパトロンとなったデル・モンテ枢機卿の援助。

カラヴァジョを世に押し出した作品、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂の礼
拝堂の壁画「聖マタイの召命」、「聖マタイの殉教」(カラヴァジョの自画像も、滑
り込ませてある)などの作画、公開の様子も描き出される。

公開斬首や公開火あぶりなどの刑の執行の場面に触発されるカラヴァジョ。カラヴァ
ジョが描いた「聖マタイと天使」は、裸足に「がに股」の聖人像を描いたとして、注
文主の教会に拒否された。

宗教界の改革運動にも翻弄される。スペイン派の台頭とフランス派の退潮なども、無
頼生活の果てに、殺人事件(実は、殺された相手は、これも、スペイン派の街のボ
ス)を起こしたカラヴァジョは、擁護者で、フランス派のデル・モンテ枢機卿の援助
の網から、転げ落とされてしまい、南イタリアへの逃亡生活を余儀なくされる。逃亡
生活の中で描かれた「洗礼者ヨハネの斬首」(切り取られたヨハネの首を盆に受ける
サロメの姿は、良く知られている)、「聖ルチアの埋葬」など、名画の誕生秘話も、
随所に、はめ込まれている。

支援者のさまざまな努力で、恩赦となるが、ローマに戻る途中で、のたれ死にするカ
ラヴァジョ。呪われた画家・カラヴァジョ。

暗闇から浮かび上がる人物像は、宗教的なテーマの登場人物だが、聖母は、娼婦がモ
デル、使徒は、名もなき庶民がモデルなどなど。権威をものともせずに、感じるまま
に立ち向かい、破滅して行った天才画家の生涯が、スクリーンの光と影で構成され、
暗闇の中に浮き上がって来る。
- 2010年2月27日(土) 17:02:17
2・XX  歌舞伎座の「さよなら公演」、2月の夜の部は、「壺坂霊験記」と「籠釣
瓶花街酔醒」を繋いで、芝居に置ける「男女のありよう」を論じてみた。純愛物語が勝
つか、商売女の手練手管が勝つか。そこでは、芝居ならではの、時空が、味わえる。
- 2010年2月17日(水) 14:31:53
2・XX  歌舞伎座の「さよなら公演」を観て生た。最近は、一等席など一部の席
を除けば、既に、予約で売り切れという状態だろう。幕間のロビーなども、特に、売
店の辺りは、体が、ぶつかるほどの混雑になる。歌舞伎ファンばかりでなく、歌舞伎
座ファンなども、詰めかけているように見受けられる。

さて、2月の歌舞伎座の劇評のうち、昼の部の劇評をサイトに書き込んだ。歌舞伎役
者が、華やかに、広い舞台に座り込む「口上」は、歌舞伎ならではの華やかさ。15
人のうち、女形の衣装で、鬘に、帽子を着けて出てくるのは、4人である。玉三郎、
魁春、秀太郎、福助。いまは、女形でも、先祖が立役だと、立役の扮装で出て来るこ
とになる。「口上」という、昔なら、役者は、「素顔」で出てくる訳だから、それ
も、理屈である。

昼の部のハイライトは、勘三郎の襲名後、初めての歌舞伎座公演の「俊寛」と仁左衛
門・玉三郎の「ぢいさんばあさん」だろう。その辺りを軸に、劇評を書いてみた。
- 2010年2月16日(火) 20:02:31
2・XX  国立劇場の人形浄瑠璃第3部「曾根崎心中」の劇評を書き上げ、サイトの
劇評コーナーに書き込んだ。近松原作の持ち味を残す人形浄瑠璃の演出と坂田藤十郎
が、扇雀、鴈治郎、藤十郎と、半世紀以上を掛けて、洗練して来た新作歌舞伎としての
演出との違いを論じてみた。歌舞伎座のさよなら公演の、2月の舞台は、昼の部、夜の
部とも、すでに、観て来たので、後日、劇評を書きたい。きょうは、午後から、日本ペ
ンクラブの理事会に出席する。夜は、遅ればせの新年会を兼ねた、ことし最初の例会が
ある。
- 2010年2月15日(月) 12:09:44
2・XX  歌舞伎座さよなら公演、2月の夜の部に続いて、昼の部を観て来た。体調
を崩して、昼の部の「口上」を休演していたという芝翫が、今回は、出演をし、15人
の歌舞伎役者の軸になって、司会進行をしていた。「口上」は、十七代目中村勘三郎の
二十三回忌追善である。

今回の歌舞伎座の劇評は、今後書くとして、とりあえず、国立劇場の人形浄瑠璃の第1
部に続いて、第2部「大経師昔暦」の劇評を、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込ん
だ。このあと、近日中に、人形浄瑠璃の第3部「曾根崎心中」の劇評を書き上げたら、
引き続き、歌舞伎座の劇評を昼の部、夜の部の順で、書いて行きたい。
- 2010年2月14日(日) 21:08:04
12・XX  青年劇場「三年寝太郎」の劇評。みぞれまじりの寒い一日。旧甲州街
道に通じる内藤新宿宿の大宗寺という信州高遠藩の菩提寺(江戸時代から、閻魔様や
江戸六地蔵で有名だった)の近くにある「秋田雨雀・土方与志記念青年劇場」の稽古
場「スタジオ結(ゆい)」に行ってた。地下鉄の新宿御苑駅から近い、青年劇場の稽
古場「結」では、青年劇場創立45周年、土方与志没後50年の特別企画の公演とし
て、「先駆けるものー秋田雨雀 人と作品」(第一部)、「三年寝太郎」(第二部)
が、12日から始まったので、観て来た。

このうち、第一部の「先駆けるものー秋田雨雀 人と作品」は、秋田雨雀の人となり
と作品世界の概略を、朗読劇というスタイルで紹介している。 第二部の「三年寝太
郎」は、優れて現代的なテーマを扱った芝居だと思った。木下順二原作の民話劇の古
典のような作品だが、「三年寝太郎」を3年間の「引きこもり」の果てに「悪」知恵
を含めた知恵の力で、「社会復帰」を果たした青年の物語と読み替えれば、これほ
ど、いまの社会の病理の一面を鋭く告発した芝居は、少ないのではないか。

3年間の「寝たろう」=「熟考」の末、(知識人とひと味違う、庶民らしい)「ずる
賢い知恵」(世間知)までも使って、空白の3年間を、笑いながら、取り戻した、
「人生・リセット」という物語で、とても、面白かった。世間の、引きこもり青年た
ちよ。悪知恵を使って、堂々と、社会復帰せよ、という青年劇場からのメッセージ
だったのではないか。 

寝太郎の、すべての言動を受け入れている「ばあさま」の、懐というか、器という
か、その大きさが、「引きこもり」青年の恢復という処方箋のキーポイントと思っ
た。これは、現代にも通用する大事なポイント。

どういうテーマの芝居にしろ、時代設定を越えて、常に、現代社会と向き合うメッ
セージを滲ませる演劇活動をしようという青年劇場らしい試みで、大変感銘を受け
た。
- 2010年2月13日(土) 20:25:57
2・XX  国立劇場小劇場で、吉田蓑助文化功労者顕彰記念の人形浄瑠璃公演を第1
部から第3部まで、観て来た。とりあえず、第1部の劇評を、このサイトの劇評コー
ナー「遠眼鏡戯場観察』に書き込んだ。次いで、第2部、第3部と書き込んで行きた
い。

きょうは、これから、歌舞伎座へ。歌舞伎座さよなら公演も、今月を含めて、3ヶ月を
切った。きょうは、昼の部が、貸し切りということで、夜の部のみ、拝見し、後日、昼
の部を観に行く。芝翫が、病気休演とか。心配だが、きょうは、どうであろうか。
- 2010年2月12日(金) 13:44:56
2・XX (続き)立松和平さんは、本名が、横松和夫で、作家を志したとき、本名
のままでは、岡松和夫という、芥川賞受賞作家と一字違いにしかならないので、立松
和平としたとご本人が話してくれました。

私は、中上健次が登場したとき、同世代の作家が出て来たなと思いながらも、作品の
世界が、同世代としては馴染みのあるものではなかった、それが中上文学の独自性で
もあるのですが、そういうわけで、中上文学には、私たちの生活と意見を描いてくれ
ているという要素が薄く、私としては、同世代としての意識が、稀薄でした。

そして、高橋三千綱、立松和平、三田誠広らが、出て来て、初めて、我らが世界を描
く書き手が現れたと思い、なかでも、立松和平とは、大学も、学部も一緒ということ
で、早くから、私が、同世代意識を持ち続けた作家でした。

「途方にくれて」という最初の作品集の初版から、私は、立松和平作品に接し始めま
した。一時期までは、ほとんど同伴するように、彼の作品を読み続けました。それだ
けに、彼の、早すぎる逝去は、ショックですね。

去年、「全集が出るんです」と、嬉しそうに話してくれましたから、楽しみにしてい
たのですが、全集が刊行され始めたと思ったら、亡くなってしまった。根をつめた仕
事の仕方をしていたのではないかなと危惧します。
- 2010年2月9日(火) 21:45:06
2・XX 作家の立松和平さんが、きのう、亡くなったという。そういえば、ことし
に入ってから、顔を見ていなかった。去年は、私を通じて依頼した、名古屋の大学で
の講演を引き受けて下さったり、日本ペンクラブの理事会やことしの9月に開催する
国際ペン東京大会の実行委員会でも、同席することが多かったので、しばしば、元気
な顔を見せて下さったりしていたのに、誠に残念。日本ペンクラブの会議室に早めに
来て、原稿を書いておられた姿を見かけたこともあった。「全集が出るんですよ」
と、誇らしげにおっしゃっていた。 

大学も、学部の同窓生で、私の方が、1年上だったから、大学時代から、旧知という
訳ではなかったけれど、同時代に、同じ場所で、生きていたということが、立松さん
との場合は、20歳前後の早稲田と60歳前後の茅場町と2回有り、最近の方は、お互
いに元気なら、この後、ずうっと続いて行く筈だったのに……。 

時空共有というのは、結構、大事な要素で、歌舞伎などでも、どういう役者と時空共
有できるかで、生の舞台という、歌舞伎の味わい方が、まったく、違って来るから、
恐ろしい。名優の生の舞台を観たことを自慢する歌舞伎ファンを、團菊じいさん、菊
吉ばあさんなどと言うけれど、こればかりは、もう、運命共同体。 

2回も、私の人生で、時空共有して下さった立松さん。ありがとう。あなたの、あの
笑顔を思い浮かべる。悲しみは、これから、じわりと肚の底から私を襲ってくるだろ
う。私は、きのう、東京会館で開かれた早乙女貢さんを偲ぶ夕べに出席していたのだ
けれど、早乙女さんを偲ぶ、その日に、あなたも、逝かれてしまったとは、なんと
も、残念。 

哀悼、限り無し。 

立松作品の読書の方は、「途方にくれて」という作品集の初版からのおつきあいだっ
た。
- 2010年2月9日(火) 21:42:30
1・XX  映評「抵抗 死刑囚の手記より」(1956年のフランス映画)


「夜明けは近い」のか。「抵抗」の果て、夜明けは来るのか。「明けない夜は無い」
とも言うが、苦境の「夜」に長い間、居続けていると、夜は、いつ明けるのか、はな
はだ、心もとないという思いにかられがちだ。この映画は、そういう思いにかられて
も、おかしくない環境にいる「死刑囚」の、ひとつの体験の物語である。

「夜明けは近い」という歌が、唄われた時代。1960年代後半に青春時代を過ごし
た私は、「夜明けが近い」や「ウィ・シャル・オバーカム」という歌を、街頭デモや
集会で、良く唄わされた。中学生時代に迎えた安保反対の60年は、真相をほとんど
知らないまま、過ぎ去っていたが、大学生になっても、その余波は、残っていた。ベ
トナム戦争が、盛んな頃で、安保反対の代わりに、ベトナム戦争反対を学生なら唱え
ていた時代だ。「ベトナムに平和を!市民連合」、通称、「ベ平連」のデモ行進に
は、ガールフレンドから恋人になりつつあった女子大生と一緒に、デイト代わりに参
加し、土橋で、デモ行進が、「流れ解散」すると、そのまま、喫茶店などで、個人的
な話もしていた。そんな時代があった。

「夜明けが近い」、「ウィ・シャル・オバーカム」、あるいは、「インターナショナ
ル」なども、このデモ行進や新宿の西口広場で、繰り広げられていたフォーク‥ゲリ
ラの集会で、覚えた。武装派のデモ行進には、参加しなかったが、「おとなしいデモ
行進」には、「一般的な学生」でも、時間が許す限り参加する雰囲気の時代だった。
「東京―北京」「ワルシャワ労働歌」「国際学連の歌」なども、唄わされた記憶があ
るが、「東京―北京」は、「民青」(「民主青年同盟」、共産党系の組織であった)
のデモ行進で、唄わされたように思う。ほかの歌は、どうであったか。いずれにせ
よ、この時代の青春の歌の、代表は、「夜明けは近い」であったことには、間違いは
無いだろう。その頃、「北爆」という、アメリカ軍の大型の軍用機が、巨大な爆弾を
積んで、北ベトナムを非戦闘員も、戦闘員も、かまわずに攻撃していた。対する、北
ベトナム軍は、ゲリラ戦で、兵士が、兵士を撃ち殺すという判り易い戦法で、対抗し
ていた。北ベトナムにとって、夜明けなど、簡単に来そうも無いと、正直、思いなが
らも、「夜明けは近い」という希望を失わないためにだけ、この歌を唄っていた。そ
して、本当に「北爆」が、停止された時は、「夜明けは近かったのだ。世の中、捨て
たもので無い」と、思ったものだ。

映画「抵抗」は、「夜明けが近い」ことを立証したレジスタンス映画だ。岩波ホール
「抵抗と人間」シリーズの第2弾。原題は、「ひとりの死刑囚が逃げた、あるいは風
は自ら望むところに吹く」というように、長いが、映画を観終わると、なるほど、そ
の通りの内容だなと納得されるし、邦題の「抵抗」も、沈黙した抵抗、執拗なほど継
続した抵抗、そして、その抵抗の成功としての、脱出という結果が判り、簡にして、
押さえどころを押さえているというタイトルだと判るだろう。原題の後半は、聖ヨハ
ネ福音書からの引用だという。

物語は、1943年、ドイツ占領下のフランスのリヨン。映画の冒頭に、「これは実
在の話である ロベール・ブレッソン」というクレジットが、差し込まれる。原作
は、アンドレ・ドゥヴィニー少佐が書いた手記であるが、ロベール・ブレッソン監督
も、ドイツ軍の捕虜になった体験の持ち主である。最初のシーンは、ナチス・ドイツ
の軍隊に捕えられたフランス人の青年が、搬送中の護送車から脱出を試みて、失敗す
る場面である。青年は、レジスタンス軍の将校・フォンテーヌ中尉。彼が、新たに収
監されたのは、モンリック監獄で、映画の撮影も、戦後のモンリック城塞刑務所とい
う実際の場所で、ロケーションが行われた。

さて、画面を観てみよう。フォンテーヌ中尉が、送り込まれた独房は、奥行き3メー
トル、幅2メートル、という広さしか無く、そこにベッド、毛布、用便用のバケツ、
物置用の小さな棚、それに中庭が覗ける小さな窓があるだけ。中尉は、手錠をはめら
れたまま、押し込まれてしまった。モンリック監獄は、堅固で、脱走を企てると皆処
刑されたという「地獄」だ。セットではない、実際のモンリック城塞刑務所での撮影
ということは、カメラも、フォンテーヌ中尉と一緒に、この独房に押し込められてい
るから、カメラマンにとっても、これは、地獄同然だろう。

レジスタンスの兵士であるフォンテーヌ中尉は、レジスタンス(抵抗)という堅固な
意志の上に、有能、冷静、沈着な性格の持ち主であり、脱走を成功させる。映画は、
このひとりの男の行動を、男の代わりに記録するという感じで、克明ながら、むし
ろ、淡々とそのプロセスをひたすら追いかけて行く。まず、手錠を外す工夫をし、看
守が来そうになったら、手錠をし、去ってしまえば、手錠を外す。この映画は、有能
な死刑囚が、脱獄に成功するまでを、恰も、有能なビジネスマンが、手際良く、あら
ゆる職務上の、いわば「関門」を確実にすり抜けて、業務をこなし、きちんとした成
果を上げて行くのを描くように、描いて行く。

「脱獄」というサスペンスを原題のアメリカ映画なら、実行する側とそれを妨害しよ
うとする側の動きを対比的に描き、緊迫感を盛り上げ、空撮や特殊撮影、デジタルな
映像処理など、いわば「厚化粧」をして、描くだろうが、ブレッソン監督は、万が
一、映画が製作された1956年に、そういう技術的な対応や予算が許したとして
も、そういうことには、背を向けて、この完成された映画の通りの手法で、「手記も
の」らしく、いわば、「一人称」で、「素顔」のままで、同じ映画を作ったかもしれ
ない。人間は、身の丈のサイズでしか、生きて行けない。デジタル化が進んで、自分
を軸にしながら、世間も、世界も、何でも把握できると思っている現代人の思いは、
幻想でしかないということを、1999年12月に、98歳で亡くなったブレッソン
監督は、21世紀の、そういう現代人の思い上がりを50年以上も前に、予見してい
たのかもしれない。

小さな窓から中庭を覗き、そこに出て来た3人の捕虜の一人の老人と意思疎通を図り
ながら、独房の外という大状況を把握し、再度の「脱獄」を決心し、周到緻密な計画
を立てる。老人は、模範囚らしく、融通が効き、中尉の同士や家族など外部との連絡
も果たしてくれれば、鉛筆、紙、カミソリの刃などを調達してくれる。

監獄に押し込まれてから、15日が経った。フォンテーヌ中尉は、外面は、服従タイ
プなので、最上階の独房に移され、手錠も外される。一日に一度は、用便用のバケツ
の清掃のために、集団行動ながら、中庭に出られるようになる。数人の同僚囚人と
も、意志の疎通を図り、周りの情報を共有化しあう。

フォンテーヌ中尉の脱獄準備は、本格化する。独房のドアの板を外す工夫をする。ま
ず、食事のときに看守の隙を盗んで、くすねたスプーンを床の石で研磨して、鑿に改
造する。次に、その鑿を使って、羽目板の端を削る。音を出さずに、また、削った箇
所を気づかれずにしながら作業をする訳で、極めて困難である。

しかし、一ヶ月も経つと、羽目板は、何枚も、外れるようになり、また、元に戻すと
看守が気がつかないような仕掛けを作ることが出来た。その結果、フォンテーヌ中尉
は、看守たちの動きの音から判断して、大丈夫というときには、自由に、独房の外の
廊下には、出られるようになった。

監視は厳しく、階下には、降りられないと断念した。屋上の天窓から屋根に出て、屋
根伝いに外に抜け出る方法は無いかを、考えるようになった。しかし、屋根の外に出
ても、地面に降りるためには、12メートルの丈夫な綱が必要だろう。どうやれば、
綱を作ることが出来るのか。

フォンテーヌ中尉は、枕の生地とベッドの枠の金網からとった針金で、長さ「12
メートルの丈夫な綱」を作ってしまう。そのころ、仲間の囚人が、無謀な脱獄を試み
て、銃殺される。中庭から、銃殺の音が聞こえて来る。緊張感が高まる。それでも、
動揺しないフォンテーヌ中尉は、淡々と準備作業を積み重ねて行く。隣室の囚人が差
し入れてもらった服も、綱の材料になった。綱を掛ける鉤は、採光窓の窓枠を再利用
した。これで、脱獄に必要な道具は皆揃ったことになる。後は、いつもにも増して沈
着冷静な判断力のみだろう。

そして、フォンテーヌ中尉の死刑が宣告された。残された時間は、少ない。冷静な状
況判断が、蟻の穴のような長い隙間を縫って、フォンテーヌ中尉を穴の外に出させて
くれるだろうか。

この映画の、いちばんの特徴は、フォンテーヌ中尉以外の人物が、ほとんど出てこな
いということだろう。もちろん、手助けしてくれた老人の捕虜とのやりとり、用便用
のバケツの処理のために、監獄の中庭に引き出されるときに出逢うほかの囚人たちの
姿。あるいは、洗面などの際の仲間の囚人との、監視の目を盗んでの情報交換、
時々、差し挟まれる看守たちの姿などのシーンが、全くない訳ではないが、基本的な
スタンスとしては、ほとんどのシーンを、フォンテーヌ中尉の「行動」の記録とし
て、位置づけているように思える。主人公のいない場所は、描かれない。そういう意
味では、この映画には、大所高所からものを観るという意味での、「神の視点」は、
皆無だ。ひたすら、フォンテーヌ中尉の身の回りのみが、描かれる。それは、古典的
な歌舞伎の演出同様に、心理描写をせずに、外形的に人間の動きのみで、物語を再構
成しようとするのに似ているように思う。をそういう意味では、非常に、自然体で、
判り易い映画だと言えるし、それだけに、誰もが、作れるような映画ではない、とい
う意味で、恐ろしい映画だとも言える。

万が一、監視たちの姿が、多数、画面に出てくるようなことがあれば、それは、フォ
ンテーヌ中尉の「脱獄」が、頓挫した時だけであろう。そのときには、脱獄は失敗
し、ほかの脱獄失敗の例と同様に、脱獄犯・フォンテーヌ中尉は、直ちに、銃殺さ
れ、この映画は、成り立たなくなる。

さらに、その夜から、独房ではなく、少年囚人と同居させられた。相互監視か。フォ
ンテーヌ中尉は、当然のことながら、少年を監獄川のスパイではないかと疑う。少年
の態度を確認する。殺すか、脱獄仲間に引き入れるか、脱獄を断念するか。選択肢
は、3つしかない。持続した他者との関わり。この映画の文法は、ここで、変わるか
のように見える。

数日後、フォンテーヌ中尉は、少年にすべてを話し、ふたりは、助け合いながら、脱
獄を決行することにする。ブレッソン監督の映画の文体は、やはり、変わりはしな
い。少年囚人の参加も、フォンテーヌ中尉の身の回りの出来事として、最後まで、同
伴することになるのだろう。監視の隙を縫い、屋根に出て、中庭に下り、高い塀を乗
り越え、ふたりは、夜明けの、外の世界に降り立つ。
自由の天地。「夜明けは近い」と思い続けて、脱獄に成功したフォンテーヌ中尉。だ
が、夜明けは、本当に近いのか。ふたりは、レジスタンス運動の戦線に復帰すること
になるだろうという予感を残しながら、薄明の街を用心深く歩いて行くふたりの姿を
映して、映画は、終わる。

繰り返して、強調するが、映画は、ほとんど、フォンテーヌ中尉ひとりの行動を凝視
し続けるだけだ。そこに、この映画の、独特の世界が構築される。スプーンを削っ
て、鑿を作り、その鑿で、板を削り、布地を裂いて紐を作り、その紐に針金を巻き付
けて、綱を作る。職人の手順を記録する映画のようにカメラは、即物的なそれらの物
体を映し続ける。「脱獄」と言う、生と死を掛けた、誰もが体験できるようなことで
はない特異な行動だから、映画にするのではなく、誰もが体験している日常的な行
為、朝起きて、顔を洗い、歯を磨き、というような、人生の、特別の目的を持った行
為ではない、「普通の行為」であっても、それをゆるがせにしないことが、皮膚病を
防ぎ、虫歯を防ぐ、健康を守る第一歩、というように、ブレッソン監督は、人生の大
事なことは、そういうなにほどのこともない行為を積み重ねて、積み重ねて、生きて
行くことに意味があり、その結果として、あるいは、その果てにでも良いが、「彼
岸」という、人生からの「脱獄」に繋がる境地があるのではないか、とでも、主張し
ているように私には、思える。生きている限り、どんな人生にも、起伏がある。その
起伏は、その時点で判る起伏もあれば、己の命が、消える寸前で、初めてあれが起伏
の伏線であったと判るものもあるだろう。己の人生で、やるべき時に、やるべきこと
をやれたかどうか、気づきながら、やろうとしたかどうか、気づかないまま、やれな
かったかどうか。

大胆なクローズ・アップというカメラのアングルが、材料と両手の動きを克明に映し
出すのは、人生の細部にこそ、神は宿りたまうとでも、カソリック信者のブレッソン
監督が、言っているように見える……。

先の「海の沈黙」のメルヴィル監督も、素人の出演者を使って成功したが、「抵抗」
のブレッソン監督も、ソルボンヌで哲学を専攻する27歳の学生・フランソワ・ルテ
リエを主役に起用して、成功している。演技をせずに、監督に全面的に身を委ね、演
技を抑圧するように、という演技指導をしたらしい。それが、冷静沈着な中尉像を
くっきりと浮かび上がらせたのだと思う。ほかの配役も、皆、素人たち。

この映画に出演したことがきっかけで、ルテリエは、後に、監督デビューを果たし、
「さよならエマニュエル夫人」(1977年作品)などを監督した。

寡作ながら、内実性のある映画を作ったブレッソン監督の作品を同時代ではないと
は、言いながら、観ることができるのは、観客冥利である。

と言うのは、この映画は、現代のような社会全体が、閉塞感に被われている時代に
は、50年の時空を超えて、理解される映画だろうと思う。

現代。アメリカに左右されるという、いびつなグローバルな状況、特に、経済におい
て、直撃された社会。日本でも、影響は、極めて大で、特に、「失われた10年」
「就職氷河期」に直撃された「団塊の世代ジュニア」の第一子の30代の世代、第二
子、第三子の、20代の世代には、気の毒だけれど、それが現実だ。そういう閉塞感
のなかで、派遣など、正規の社員になれずに働いている若い人たち、あるいは、異常
な職場で、鬱病を併発して、非正規どころか、失業してしまった若い人たちに、この
映画を見せてあげたい。閉塞感から、「脱獄」するのは、容易ではないだろうけれ
ど、その解決策は、「一点突破全面展開」や「革命」といった、「逆転ホームラン」
を期待するよりも、即物論的になるが、手作りの小道具を利用して、一つ一つの、目
の前にある小さな課題を解決して行く、その、いくつもの結果を積み上げるという、
フォンテーヌ中尉のような、地道な努力の上にこそ、花開く可能性があるということ
を、この映画は、示してくれるからだ。

そう、やはり、地道な努力と希望を持ち続ける意志さえあれば、「夜明けは近い」の
だろうし、「明けない夜は無い」のだろう。テーマの重苦しさをよそに、意外と、明
るい気持ちになれる映画だった。

「抵抗 死刑囚の手記より」は、東京・神保町の岩波ホールで、3月20日からロー
ドショー公開される。
- 2010年1月23日(土) 22:10:41
1・XX 映評 「海の沈黙』1947年のフランス映画。

原作は、1941年10月に書かれたヴェルコール「海の沈黙」で、フランスが、ナ
チスドイツに占領されていた時の、抵抗文学作品で、地下出版の「深夜叢書」の第1
作として、42年に刊行された。沈黙の抵抗活動が、テーマだ。ヴェルコールは、画
集数冊を刊行した版画家だった。当時フランスの抵抗勢力の軍人であったジャン=ピ
エール・メルビルは、イギリスで、英語版「海の沈黙」を読み、映画化の夢を膨らま
せたという。

物語は、1941年、夏。ナチス・ドイツ占領下のフランスの地方都市で始まる。映
画は、その物語を時間を追って描かずに、冒頭で路傍に立った一人の老人の半年前の
回顧話という体裁を取る。モノクロの映像が、老人の回顧話に相応しい。しばらく、
老人の回想話に耳を傾けてみよう。

ある冬の日。老人(伯父)と姪の若い女性のふたり暮らしの家にドイツ兵が車で訪れ
る。赴任して来るドイツ軍の将校のために、部屋を提供しろという申し入れだった。
占領下で、諾否の自由も無いので、無言で応対する老人と姪。姪は、かなりの美人で
ある。2階の部屋に荷物か運び入れられる。

3日後の夜。ナチス・ドイツの将校が、訪れる。美男で紳士的な態度の青年将校で、
流暢なフランス語で、「ヴェルナー・フォン・エーブルナック」と名乗り、勝手に同
居する非礼を詫びるが、老人と姪は、抵抗もしない代わりに、挨拶もしない。無言で
応対するだけだ。そういうふたりの態度を見て、将校は、「自国を愛する人尊敬す
る」と述べる。姪は、無言で、将校を2階の部屋に案内する。将校は、足が不自由
で、歩くと、床に独特の音を響かせた。以後、映画は、この3人の関係を描き続け
る。

その後、毎日、将校は、帰宅すると、軍服姿のまま、居間の暖炉の前で座り続ける老
人と姪のふたりに挨拶をするが、ふたりは、沈黙という「抵抗」を続ける。ふたり
は、将校など、いないかのように振る舞い続けるが、将校も、いっこうに気にしたそ
ぶりを見せない。毎夜、「おやすみなさい」と丁寧に挨拶するだけだ。

1ヶ月後、態度を変えて来たのは、将校の方だ。寒い夜。将校は、ずぶぬれで帰宅し
た。濡れた軍服を私服に着替えた後、将校は、暖炉の前のふたりのところへ姿を見
せ、暖まらせてくれと頼み込む。老人と姪のふたりは、拒否もしないが、話しかけも
しない。

勝手に自分のことを話し出す将校。彼は、本来は、作曲家で、父親の影響を受けて、
子どもの頃から、フランス文化に憧れていたという。だから、ドイツとフランスが、
「結婚」することで、より優れた文化が生まれると力説する。美女は、フランス、野
獣は、ドイツという譬え話まで持ち出す。フランスの文学、ドイツの音楽との共存と
も、言う。将校からは、フランス文化へ敬意は、感じられるものの、勝手な理屈を述
べる様に、しらけた表情をしている老人と姪にも、気づかずに、ナチス・ドイツの残
虐な性格を矯正するためには、両国の相互愛しか無いと、熱心に自説を主張し続け
る。それは、愛の告白に似ている。美男の将校は、うつむいたまま、美しい横顔を見
せる姪に、求婚しているように思える。しかし、独りよがりな言葉が、熱狂的にぶつ
けられても、相手の心には、響いて行かない。従って、ふたりは、沈黙の抵抗を続け
る。だからといって、将校は、反応のないふたりを気にもせず、相変わらず、毎晩、
最後には、「おやすみなさい」と言って、2階へ上がって行く。

ある日、将校は、居間のオルガンを借りて、バッハの前奏曲を演奏し、「自分は、人
間の音楽を書きたい」。軍人としての行動も、苦悩だという。演奏を聴いても、打ち
明け話を聞いても、ふたりは、沈黙のまま。

将校は、2週間の休暇で、パリに行った後、居間に姿を見せなくなった。ある夜、久
しぶりに、ドアをノックする音が聞こえると、老人は、初めて「アントレ・ムッシュ
ウ(入りなさい)」と答えてしまった。老人が、将校に言葉を発したのだ。軍服姿の
まま、現れた将校のヴェルナー・フォン・エーブルナックは、こう言った。「半年
間、私が話したことは、忘れて下さい」と、前置きして、パリでの体験を話した。

パリを見て歩き、パリのナチスの将校クラブで、久しぶりに仲間に逢った。2000
人殺せるガス室の話を楽しげに話す仲間。ドイツとフランスの融合など必要ない。フ
ランス占領は、フランスを根こそぎになくすことだ、フランスの「魂」を破壊し尽く
すことだ、と反論された。ナチスの残虐性を浮き彫りにする将校たちの言葉。街で体
験した被占領民の厳しい視線。自分の甘い夢は、崩れ去ってしまった、ナチス・ドイ
ツの弾圧懐柔政策を非難し、明日、この家を引き払い、自分は、志願して地獄の東部
戦線に向かうと、ふたりに告げる。ドイツとフランスの「結婚」が、夢破れたという
ことは、将校の姪への求愛の心も、破れたということだろうか。ふたりは、言葉を発
しないが、特に、姪の表情は、苦しそうだ。

将校は、いつものように、「おやすみなさい」と言ったが、すぐには、出て行こうと
しなかった。姪を見つめていた。姪の目を見て「アデュー(さよなら)」とつぶやい
た。そのまま、暫く動かない。緊張した表情で、黙って、動かずにいる。姪も、思わ
ず、「アデュー」とつぶやく。将校の目が輝く。老人は、将校にかける姪の最初で、
最後の声を、確かに聞いた。将校の自殺行為とも思える最前線志願は、老人と姪に沈
黙を破らさせたのだ。占領下でなければ、国家が敵対する関係でなければ、結ばれた
かもしれない男女。作曲家と伯父と同居する娘。

翌朝。老人と姪の住む家を出ようとした将校は、机の上に置かれた本に気がつく。ア
ナトール・フランスの本だった。「罪深き命令に従わぬ兵士は素晴らしい」という記
事が、挟まれていた。老人が、将校に贈った餞の言葉だった。

老人の回顧談は、これで終わった。老人と姪の生活は、元に戻った。

以下は、スクリーンの裏側の事情だが、作品世界を理解する上で、必要な情報だろう
と、思う。

回想を語ってくれた老人、それは、原作者のヴェルコール自身であろうか。というの
は、映画は、ナチス・ドイツの将校が実際に間借りしたヴェルコールの家を使って、
撮影されたという。版画家ヴェルコール自身は、「沈黙」をせずに、戦時中の地下出
版で、原作を刊行した。抵抗の背景にある沈黙を描いて、レジスタンス文学の旗手に
なった。

撮影に掛かった期間は、27日間。戦後間もない時期の撮影で、フィルムも、十分で
はなく、ジャン=ピエール・メルビル監督は、あちこちの製作会社から端尺のフィル
ムを払い下げてもらい、それを寄せ集めて、撮影を続けた。従って、フィルムによっ
て、画調が異なるので、それをごまかすというか、画調を整えるというか、撮影に当
たったカメラマンのアンリ・ドガは、全体のトーンを暗くして、撮影したという。暖
炉の前の薄明のシーンは、こうして生まれた。

乏しい予算の中で、スタジオを使わずに、実体験のあった家を使ったことや全体の
トーンを暗くして撮影したことが、ナチス・ドイツ占領下のフランスの物語という作
品の、禁欲的な世界に、抑制的な映像をもたらし、文学と映画が、巧くマッチしたと
思う。

老人を演じたジャン=マリー・ロバンは、メルビル監督の戦友、つまり、レジスタン
軍の戦友だ。また、美しい姪を演じたニコル・ステファーヌは、監督の家族ぐるみの
友人ということで、俳優ではなく、素人だった。ナチス・ドイツの将校役を演じたハ
ワード・ヴェルノンは、スイス人の舞台俳優。

「海の沈黙」とは、サルトルが書いたようにナチス・ドイツ占領下のフランスの4年
間は、「沈黙の共和国」であった。沈黙は、海のように、広大で、どんな言葉より
も、美しい。抑圧する立場の者が、心を打ち明けて、語りかけても、海は、決して答
えようとはしない。海にとっては、それしか、真意を伝える途は、ないからだ。

被占領という極限状況の下で、生きねばならなかった、人間のぎりぎりの尊厳として
の「沈黙の抵抗」を描いた名作。いまの現代社会も、別の意味で、極限状況にあると
言えるだけに、63年という時空を超えて、私たちに迫ってくるものをきちんと受け
止めなければならない。古い映画でも、普遍的な事柄を映像化していれば、それは、
決して滅びない。

映画の世界は、だからこそ、素晴らしい。

この映画は、「抵抗と人間」というシリーズの作品として、東京・神保町の岩波ホー
ルで、2月20日からロードショー公開される。
- 2010年1月19日(火) 6:48:20
1・XX  新年最初の書き込みとなった。新橋演舞場で、上演中の「伊達の十役」
を観て来た。11年前の99年7月の歌舞伎座で、猿之助の「一世一代」の舞台を観
ているので、海老蔵版「伊達の十役」を楽しみにして観て来た。

99年12月の60歳の誕生日を前に、「一世一代」として、演じ納めた猿之助は、
今回、海老蔵を指導する形で、猿之助歌舞伎の代表作の一つである「伊達の十役」を
復活させた。演じるのは、江戸歌舞伎の宗家・市川團十郎家の御曹司、海老蔵であ
り、猿之助型の歌舞伎として継承したいということであり、猿之助は、かなり喜んで
いる。

33歳の海老蔵が、仮に、猿之助並みに、これから60歳までの、20数年の間に、
「伊達の十役』を何回演じてくれるのだろうか。猿之助は、自ら復活上演してから、
本興行で、9回演じている。

海老蔵には、合計で、10回程度は、演じてほしい。2年に一回くらいの割合か。そ
の都度、創意工夫して、さらに、磨きをかけてほしい。猿之助の復活の苦労より、ブ
ラシュアップの苦労の方が、難しいのか、容易なのかは知らないが……。

「伊達の十役」のような演目は、体力と技量の両方が必要で、そのバランスを取れる
年齢は、30歳代から50歳代くらいまでであろうと、思われるからである。
- 2010年1月10日(日) 17:45:48
12・XX  歌舞伎座の千秋楽は、過ぎてしまったが、夜の部の劇評を先ほど、サイ
トに書き込んだ。今回の目玉は、念願かなってクリスマスイブに大団円となる「野田版
 鼠小僧」の劇評を書いたこと。以前に、歌舞伎座の納涼歌舞伎で、8月に上演したと
きは、私は、観ることが出来なかったので、今回、劇評を書くのも、思いは、一入(ひ
としお)であった。

ただし、観客席は、上演中、真っ暗なので、メモは取れないので、ウオッチングとして
は、不十分であり、残念であった。
- 2009年12月27日(日) 17:52:24
12・XX 12月の歌舞伎座は、場内のロビーも、すし詰めなら、歌舞伎座玄関前
も、昼の部と夜の部の観客の入れ替えの時間帯は、ここも、すし詰め。外に開かれた
路上なのに、すし詰め。道路にこぼれたら、交通事故に遭いそうな感じ。歌舞伎座や
松竹関連会社の人たちが、路上でも、客の入りと出を整理して、なんとか、すし詰め
状況が、事故に繋がらないようにしているようだ。

そういう歌舞伎座の賑わいは、だからといって、昼の部の宮藤官九郎の新作歌舞伎初
演の「大江戸りびんぐでっど」とか、夜の部の野田秀樹の新作歌舞伎再演の「野田版
 鼠小僧」の、芝居としての出来の良さかどうかということとは、直接繋がらないだ
ろうと思う。出来具合より前に、まず、新作ものを観たいという若い人たちが、大勢
歌舞伎座に詰めかけた故の、現象なのだろうと思う。

とりあえず、昼の部の劇評をサイト「遠眼鏡戯場観察」にさきほど書き込んだので、
読んで下さい。夜の部の掲載までには、暫くかかりそう。構想を練り始めよう。
- 2009年12月20日(日) 21:16:37
12・XX  師走に入って、国立劇場へ行った。午前11時から大劇場で、歌舞伎
を観た。出し物は、全て新歌舞伎という「特集舞台」。真山青果「頼朝の死」、坪内
逍遥「一休禅師」、岡本綺堂「修禅寺物語」。午後3時半前に終演。引き続き、小劇
場で、午後5時から、人形浄瑠璃を観た。開場は、人形浄瑠璃の鑑賞教室開催中と
あって、4時半過ぎになった。演目は、「近江源氏先陣館」、「伊達娘恋緋鹿子」。
いずれも、劇評は、目下構想中。歌舞伎は、二日目、人形浄瑠璃は、初日を拝見。

この、3時半から4時半までの、1時間が、吹きっさらしの国立劇場前は、寒かった
ので、避難をして、暖をとった。それでも、開場前に戻ったら、鑑賞教室が、押して
いて、また、結構、大勢入っていて、入れ替えに時間がかかったので、寒かった。

人形浄瑠璃の鑑賞教室は、今月は、「仮名手本忠臣蔵」なので、先月の歌舞伎座の歌
舞伎の「仮名手本忠臣蔵」と、何処が違うか、何処が同じかなど、見比べる楽しみが
あるが、鑑賞教室に参加するなら、そういう配慮をした、学校などあったのだろう
か。

歌舞伎座の、昼と夜の通しは、今月は、半ばに拝見に行く。宮藤官九郎、野田秀樹
も、俎上に載せる。従って、今月は、いつもより、多めの劇評を、皆さんにお届けで
きるだろうと思っている。

新橋演舞場は、来月拝見の予定。
- 2009年12月5日(土) 16:27:49
11・XX  去年から始めたフランス人のための歌舞伎・人形浄瑠璃観劇会。3回
目の今回は、歌舞伎座の食堂を借りて実施した。演目は、「仮名手本忠臣蔵」の昼の
部。大序から、道行旅路の花聟まで。

富十郎の高師直、勘三郎の塩冶判官、幸四郎の大星由良之助、魁春の顔世御前、菊五
郎の勘平、時蔵のお軽などという顔ぶれ。

午前9時前に歌舞伎座に集合。在日フランス人協会などの人たちの挨拶の後、9時半
から、私の講演が始まる。

今月の歌舞伎座は、ふたつのポイント。現歌舞伎座では、最後の、顔見世月の興行、
歌舞伎座さよなら公演で、取り壊しまでのカウントダウンは、175日。まず、そう
いう注意を喚起。舞台ばかりではなく、劇場の天井の鉄骨(東京タワーを設計したし
た人が、手がけた)やロビーに張り出された明治以降の名優たちの写真なども、見落
とさないで。

講演の内容は、「仮名手本忠臣蔵」の見所だが、まず、外題に、多重的に込められた
暗号を解読。ダビンチコードみたいだとは、講演後寄せられた感想の一つ。

同時通訳付きで、およそ1時間。10時半過ぎ、劇場に移動。幕開き前の口上人形
も、見落とさないで、観てもらった。昼食を挟んで、午後4時近くまで観劇。その
後、5時まで、茶話会で、質疑応答や歌舞伎座物語、勘亭流歌舞伎文字物語を、やは
り、同時通訳付きで、対応。

講演のレジュメと劇評は、近日公開の予定。
- 2009年11月8日(日) 12:08:18
10・XX  歌舞伎の劇評を「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。3日間続けて、歌
舞伎座と国立劇場に通ったので、劇評書きも大変だ。特に、今月は、後半に,海外に
出かけるので、その準備もあり、多忙なのだ。

歌舞伎座では、昼の部が、演目のバランスも良く、役者も良く、おもしろかった。夜
の部は、「義経千本桜」の半通しで、吉右衛門の知盛、菊五郎の狐忠信も、安定して
いて、見応えがあった。

国立劇場の方は、高麗屋意欲作の乱歩歌舞伎。暗転の場内で,ウオッチングのメモが
取りにくいので、いつもの、精密さが欠ける劇評となっているのは、残念だ。

11月に歌舞伎座で、在日フランス人の皆さんと歌舞伎鑑賞会を催す。3回目とな
る。観劇前に、同時通訳付きで、1時間ほどの講演をする。観劇後は、お茶会で、質
疑応答をする。その打ち合わせも,歌舞伎座での観劇の合間を縫って、無事済ませ
た。講演用のレジュメも、第3案まで、練り上げた。

10月18日から、オーストリアのリンツへ行く。ことしの国際ペン大会に派遣され
る。来年は、東京で、四半世紀ぶりの国際ペン大会が、開かれる。そのためのピー
アールなどに出かける。月末に,帰国する予定。
- 2009年10月9日(金) 8:28:27
10・XX  10月の歌舞伎座、とりあえず、昼の部を観て来た。いつもは、高い
席(天井に近い)で、昼夜通しで拝見することが多いのだが、きょうは、初めて歌舞
伎を観るという人を連れて行ったので、高い席(料金が天井)で、昼の部だけ、観て
来た。本舞台と花道の両方が,全景で見えるので、舞台が、とてもワイドに感じる。
2倍近いという実感。歩く藝という花道の演技も、じっくり拝見した。花道の出端の
藝を披露することは少なくなっていて、七三ばかりだが、出端も、工夫が、欲しい。 

歌舞伎十八番の内「毛抜」、「蜘蛛の拍子舞」、「河庄」、「音羽嶽だんまり」。
「毛抜」は、三津五郎が、本興行初役。「蜘蛛の拍子舞」は、玉三郎。「河庄」は、
鴈治郎時代含めて、藤十郎で、3回目。「音羽嶽だんまり」は、私は、初見で、今回
は、松緑長男藤間大河初お目見えの口上のための舞台。 

今月の歌舞伎座の昼の部は、演目にバラエティとバランスがあり、見応えがあった。
夜の部は、「義経千本桜」の半通しで、あさって,拝見しに行く。 

国立劇場は、あす行く。乱歩歌舞伎の第2弾で,完結編。「京乱噂鉤爪」。こちら
は、高麗屋一門ほか。 

いずれも、後日、劇評をまとめ、公開したい。
- 2009年10月4日(日) 21:04:08
9・XX  映評「老人たちのユートピア〜黄金花〜」を書き込む。

91歳の映画監督・木村威夫。日本映画界を代表する美術監督は、1945年以降、
数々の名作の美術を担当して来た。5年前から、ということは、86歳から自分で映
画作品の監督をするようになった。

「夢幻彷徨 MUGEN-SASURAI」が、最初の作品。監督の戦争体験を軸に作品を作り
上げたというが、私は、見ていない。私が初めて見たのは、去年(08年)初の劇場
用の長編劇映画として公開された「夢のまにまに」(それ以前に数編の短編映画を監
督している)であった。戦争体験をひきずる映画学校の学院長・木室創を主人公に妻
のエミ子、映画学校の学生・村上大輔を軸に展開する、木村の自伝的な作品であっ
た。

今回は、長編劇映画の第2作。いわば、続編、その後の人生を描いているように思
う。木村監督の夫人は、認知症になり、老人ホームに入っているという。3日おきに
訪問する監督に対して夫人は、家に帰りたいと言う。自分たちのような老夫婦。連れ
合いに先立たれ、孤独な老後を老人ホームで過ごす人たちを日常的に見ていて、監督
は、ドキュメンタリータッチで、この光景を映画化しようと決意したが、なかなか、
神輿が上がらない。自分も、いつのまにか、惚けてしまい、認知症と診断されるかも
しれないという、不安感がある。しかし、監督は、やはり、映画作りを止められな
い。

深夜、老人ホームのトイレの扉を開けると、そこは、時空を超えて、過去に繋がる世
界。夜の道を、雑木林の道を彷徨いながら、歩いて行くと、己の送って来た人生の断
片の数々と遭遇する。母と過ごした少年の日々。留学生に恋した青春の日々。そうい
えば、あの頃には、閉塞感も強迫感も、なかった。上空には、すかっとした、抜ける
ような青空が、広がっていた。

主人公の牧草太郎(原田芳雄・69)は、植物学者。人生の大半を植物の観察と研究
に費やして来た。いまは、老人ホーム「浴陽荘」の住人で、ことし、80歳になる。
ホームの職員の青年と施設の裏山に自然藷を掘りに行き、青年の冗談(嘘)を真に受
けて、泉(池)を探り当て、博士が、長年探し求めていた不老不死の幻の黄金花
(蓮)を遂に発見する。この辺りは、すでに、博士の脳内の幻想の世界が、入り込ん
でいる。植物学者・牧草太郎というネーミングは、日本の孤高の植物学者・牧野富太
郎をイメージさせる。

老人ホームでは、牧博士の80歳の誕生日の祝いに、言葉のしゃべれない唖者の看護
士長(松坂慶子)が、お茶会をしてくれる。にこやかで、落ち着いていて、牧にとっ
ては、母のイメージがあり、密かに、慕っている。ここに同席するのは、ホームの住
人たち。いろいろな老人たちが、登場する。おそらく、監督夫人のいる老人ホームの
住人たちのなかにも、モデルになっている人もいるかもしれない。

川津佑介、松原智恵子、三條美紀、野呂圭介、絵沢萠子。川津佑介(74)は、大島
渚監督作品「青春残酷物語」で、注目され、その後も、テレビや映画で活躍してい
る。今回は、己を演じるように「役者老人」として、登場する。松原智恵子(63)
は、日活時代、吉永小百合、和泉雅子とともに、「日活三人娘」と呼ばれたアイドル
女優である。その後も、テレビや映画で活躍している。今回は、「小町婆さん」とし
て、老いても、可愛らしいおばあさんを演じている。三條美紀は、大映、東映の女優
として、鋭角的な美しさを見せてくれたが、ことし80歳の彼女は、ふっくらしたお
ばあさん「おなお婆さん」になっている。大河内伝次郎とともに出演した無声映画の
思い出。セピア色のブロマイド。ここは、監督自身の映画人生も、重なって見えて来
る。

野呂圭介(72)は、日活時代は、石原裕次郎らと共演した。その後、郷里の鹿児島
に引き上げ、やがて、引退して、陶芸家になっている。久しぶりの映画出演。今回
は、「ピーナッツ老人」ということで、ピーナッツを食べながら、鹿児島弁でまくし
たてる。絵沢萠子(70)は、日活ロマンポルノのスター時代の印象が、強烈だが、
その後は、実力は女優として、テレビや映画で存在感を感じさせてくれた。今回は、
「おりん婆さん」。車椅子に乗り、身近に迫って来る老いの閉塞感、不安感を体現す
る役どころ。他人の悪口を言うばかりで、可愛げのない嫌われ者だが、いちばん、孤
独感が強い。

映画の中で、貴重な脇役として活躍した俳優たちも、出演している。例えば、夜中
に、おりん婆さんに手相を見てとせがまれて、見てやっているうちに、発作を起こし
て、死んでしまう「易者老人」を演じた飯島大介(59)。大島渚、野村芳太郎、藤
田敏八、崔洋一らの監督作品で、貴重な脇役として、重宝がられた。映画の中で、老
人が、ふたり死ぬが、そのひとり。

「質屋老人」として、登場するのは、牧口元美(74)。劇団の俳優出身で、テレ
ビ、映画で、脇役として、出演している。牧博士の追憶のシーンで、質屋の主人をし
ている。鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」でデビューし、藤田敏八、阪本順治、
若松孝二、黒木和雄、森崎東らの監督作品で、脇を固めた中沢青六(55)は、今回
は、「板前老人」として登場する。ほかに、真実一路(「」物理学者老人)、小林三
四郎(追憶シーンの大学教授)など。もうひとり、牧博士の追憶シーンのクラブで、
声量豊かな歌声を披露するのは、あがた森魚(61)。ということで、ひとくせも、
ふたくせもある老人たちが、登場する。

そうだ。忘れてはならない舞台廻しが居る。巡礼(麿赤兒)が出て来た。山伏のよう
な巡礼。老人たちを此岸から彼岸へ導く巡礼だろうか。「巡礼にご報謝」。

老人ホームの日常風景。能の舞は、形を変えた巡礼かもしれない。巡礼が、生から死
へと辿るなら、能は、死から生に迫って来る。追憶シーンは、廻り舞台を活用したド
タバタ劇。老いた脳が、想起させる思い出の数々。

あるいは、能の舞とドタバタは、タイムトリップのための、「転換装置」として、活
用しているのかもしれない。

能は、死と生を繋ぐ「橋懸かり」。廻り舞台を使ったドタバタは、現在と過去を結ぶ
「花道」。

牧博士を軸にして描かれるのは、老人たちの見果てぬユートピアだろう。能の舞やド
タバタをくぐり抜けて、転換装置を逆手に取り、牧博士の行動のみを定点観測してみ
れば、その実相が、浮き上がって来るように思える。ヒマラヤの山中に住む聖女の傍
らに咲くと言われる不老不死の花・黄金花を求めるが、そういうものは、俗世にはな
い。それにもかかわらず、裏山の池(泉)に浮かぶ、打ち捨てられた葬式用の金色に
塗られた蓮の造花。ゴミを黄金花と見誤り、老人ホームを抜け出し、夜中に彷徨い出
た老人は、池にはまって、死んでしまう。ぽっくり、突然の死。それこそが、老人の
廻りに忍び寄っていた閉塞感、不安感を解消してくれる、まさに、黄金花ではなかっ
たか。

死の瞬間、甦るのは、青年時代に好きになった留学生の女性の面影。植物学研究一途
で、恋の成就も結婚もなかった牧博士。老人ホームの個室に置かれた小さな仏壇様の
ものの中には、その女性の写真が飾られていた。松坂慶子は、博士の少年時代の追憶
シーンでは、優しい母親として出て来る。突然死、できれば、安楽死という老人たち
のユートピア(関西には、通称「ポックリ寺」という老人の安楽死願望を叶えてくれ
る寺があった筈だ)。自分も、監督夫人ように、いずれ、惚けるのではないかという
監督の強迫感が、生み出した幻影。惚けることの対局にあるのが、突然死、つまり、
安楽死としての突然死願望なのかもしれない。いずれ、我が身の思いが、ふつふつ
と、沸き上がって来る。皆、いずれ、老人になるのだ。

牧博士の遺体を悼むシーンで、松坂慶子は、唖者ではなく、言葉を話す。「みんな、
嘘、うそ……」。老人たちの追憶は、嘘と誠の混在。皆、それぞれのユートピアを描
いている。迫り来る死の恐怖にうち震えながら、日々、生きながらえるのは、「嘘、
うそのユートピア」の構築しかないではないか。夢と現実(うつつ)。虚と実。死と
生。過ぎ去った青春といま、そこにある老い。忍び寄る死。死も、また、見果てぬ夢
であろう。

前回、木村監督作品「夢のまにまに」で主演した長門裕之が、老人ホームの老人の一
人としてではなく、ホームの施設長の役割で、助演する。日常と非日常を結ぶ人物と
見受けた。

今回も、試写会に顔を出し、試写の前と後に、私たちに自作解説をして下さった木村
監督は、前作同様、今回も、自伝小説のような、ドタバタの転換装置は、前回にはな
い趣向だが、自伝映画をきっちり、見せてくれた。キーポイントは、前回同様の、樹
木のイメージ。前回は、冒頭シーンで、根元にごつごつした奇妙な瘤を持つ巨木が映
し出された。今回は、山並みから、山の木々の遠景にクローズアップする。今回は、
木と水が、キーワード。

木村監督は、「在来の映画文法を少々壊してみて、どうにかフォルム主体の作品に
なった」と言っていたが、91歳、この懲りないアバンギャルド精神の発露こそ、ま
だまだ、廃れない老監督の、見果てぬ夢。銀幕の光りの束の隙間に育む夢は、時空を
越えて、過去ばかりでなく、未来への飛翔する。

この映画は、11月下旬から、東京のシネマート新宿、銀座シネパトスで、ロード
ショー公開される。
- 2009年9月26日(土) 6:58:44
9・XX  青年劇場の公演が、今回で、100回となった。まず、おめでとうを伝
えたい。青年劇場の舞台を観るようになって、10数年になる。この間には、地方在
勤の時期も挟んでいるので、全ての公演を見ている訳ではないが、「青年劇場100
回公演のあゆみ」という記録を見ると、90%以上の舞台は、観ている。

青年劇場の活動は、東京での公演も大事だが、それと同じくらい全国各地で公演して
いることも大事だと思う。東京の公演しか観ていない私は、地方の公演の様子は、想
像するしかないが、次のようなイメージで、想像している。

青年劇場にとって、地方公演は、ふたつの意味がある。ひとつは、東京公演同様に、
舞台を通じて、観客に向けて、メッセージを送る。もうひとつは、観客から、劇団に
向けて、地域の課題などメッセージを受け取る。そういう双方向性のあるメッセージ
の交換をして、地域から東京の本拠地に戻り、その成果を次の出し物の検討に活かし
ている。

そう、青年劇場の出し物には、大まかに言えば、翻訳劇、名作の劇化、地方の課題の
劇化という、3種類がある。前の、ふたつは、何処の劇団でも、手がけるだろうが、
3つ目の地域の課題の劇化を、明確な意志を持って、上演する劇団は、そう、多くは
ないのでないか。

地域の課題の劇化、まさに、今回の「結の風 らぷそでぃ」が、そうだ。農業と作家
活動を両立させている山下惣一さんが、公演パンフレットに文章を寄せているが、今
回の公演の背骨のところには、山下惣一さんが、どっしり、控えているだろう。山下
さんの視線が、青年劇場のパースペクティブになって、劇的構造を支えている。

ことしの6月「農地法改正案」が、国会を通り、企業の農業への参入が認められるよ
うになった。その結果、農業に大資本の論理が導入され、小さな農家は、つぶされる
危険性がでてきた。そういう農業の「規模拡大路線に未来はありません。これは、植
民地思想です。世界でも先住民族を殺戮、略奪した農業の規模が突出して大きいだけ
なのです。わが国もかつて同じ道に踏み出し、国民は悲惨な目に遇わされました。そ
の歴史を忘れてはなりません。すなわち、小規模農業こそが、反戦、平和、共生の農
業なのです。ぜひ、これを支えてください。日本型小規模農業に愛を込めて!」(山
下惣一)

青年劇場では、農と食をテーマにした出し物は、「らぷそでぃ3部作」と呼ばれる。
1990年の「遺産らぷそでぃ」、2000年の「菜の花らぷそでぃ」、そして、今
回が、「結の風 らぷそでぃ」である。私は、残念ながら、1990年の「遺産らぷ
そでぃ」は、拝見していないが、残りのふたつは、拝見した。いずれも、明確なメッ
セージが伝わって来た。背年劇場では、農業問題ばかりではなく、07年の「シャッ
ター通り商店街」のように、地域の商業問題も、取り上げている。地域にこだわり、
情報を発信しようという明確な意志を青年劇場は、持っていることが、よく判る。

さて、今回の「結の風 らぷそでぃ」だが、山下惣一さんの生まれ故郷の佐賀県唐津
市の郊外の農家が舞台である。農業一筋に人生を歩んで来た祖父とおじいちゃん子
だった孫娘の結が、軸になって、舞台は展開する。東京の短大に進学し、就職もした
が、有機農業がやりたい故郷に戻った。父親は、地元の市役所の課長。農業は、祖父
が、細々と続けているが、もう、自分の代で、終わりと覚悟をしていただけに、内心
では、嬉しいのだが、有機農業の大変さを知っているだけに、孫娘に久郎はさせられ
ないと、祖父は、反対している。両親も、親戚も、大反対。そういうことを考えるよ
り、はやく、結婚しろ! という。結は、老人ホームのお年寄りたちに、おいしいお
米を食べさせたいと思っているが、志だけでは、米作りは、なかなか、巧く行かな
い。

農地解放で没落した地主の息子で、子供の頃から、悪ガキぶりを発揮して、評判の悪
い男が、「農業コーディネーター」という名刺を持って、農地の集約化、つまり、農
地の買いあさり(農地法の改正を受けて、大規模農業で、一儲けしようという大企業
の、お先棒を担いでいるようだ)をするために、結の祖父に農地を売れと交渉に来
る。絶対に農地は売らんという祖父。祖父の78年の歴史では、戦後の農業は、「農
地解放」、「農業の近代化(機械化)」、消費者の「米離れ」、アメリカ追従の日本
政府の「減反政策」などに翻弄されて来たという苦い体験があるからだ。今回の法改
正も、そういう日本の農家を虐める路線の延長線上にあると祖父は、見抜いているの
だ。こうした中での、結の有機農業にかける熱い思いが、描かれて行く。

農家にとって、大きな問題は、後継者育成だが、この問題は、長男の嫁不足という課
題でもある。今回は、有機農業に未来を夢見る結の結婚問題という形で、浮き彫りに
なる。青年劇場では、農業問題を、ある農家の物語、農家の家族の物語、祖父の個人
史、孫娘の結婚問題など、個別具体的なエピソードを幾重にも、塗り込めながら、同
時代史として、農業者も消費者も、ともに、問題意識を育てられるように、立体的に
描いて行く。その辺りの作劇(高橋正圀脚本、松波喬介演出)は、お手のものだ。

その結果、結は、地域で、有機野菜の産直活動をしている30代の男性と結婚し、有
機農業を続けて行く道へ歩み始めるということになる。山下惣一さんを思わせる有機
農業の先達も、登場し、結の思いを手助けする。

農家の家族の物語は、秋から始まり、翌年の秋で終わる。農家の庭にある柿の木は、
実をつけ、実を落とし、葉を枯らせ、若葉を茂らせ、再び、実をつける。遠く山の見
える空も、刻々の変化を見せていた。最後は、結の結婚式の朝の場面で、終わる。め
でたし、めでたしだが、結たちの未来も、決して、平坦ではない。山あり、谷あり
が、予想されて、むしろ、これからが、大変だろうが、がんばってほしいと、観客に
思わせる大団円となる。

「らぷそでぃ3部作」は、終わるが、青年劇場の地域の課題の劇化は、これからも続
くだろう。

今回の青年劇場の第100回公演は、東京の紀伊国屋サザンシアターのほか、大田
区、府中市などで、10月1日まで、続けられる。
- 2009年9月19日(土) 12:36:20
9・XX  映評「ヴィヨンの妻」

生誕100年ということで、今年の前半は、太宰治ブームが、仕掛けられた。根岸吉
太郎監督作品「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜」も、そういう流れの中で、生み出
された。08年9月のクランクイン、11月のクランクアップ。上映時間、1時間5
4分。

太宰治本人をモデルにした破滅型の小説家・大谷穣治、その妻、佐知の物語。原作
は、太宰治の「ヴィヨンの妻」だが、映画「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜」は、
田中陽造脚本で、太宰のほかの作品やエピソードをもりこんでいる。さまざまな太宰
作品(「ヴィヨンの妻」のほかに、「思い出」「二十世紀旗手」「燈籠」「きりぎり
す」「姥捨」「桜桃」など)が、ブレンドされて、オリジナルな脚本が、作られた。
その証左は、サブタイトルに結晶されている。「桜桃」は、もちろん、太宰治の作品
にもあるし、「桜桃忌」でも知られる通り、太宰治の象徴である。ここでは、太宰文
学の特徴の、傷つき易いが、甘美であるというイメージだろう。タンポポは、妻の佐
知の、破滅的で、家族を顧みない太宰に何処までも付いて行く優しさ、誠実さ、どん
な環境にも負けない、たくましさ、そして、美しさを象徴する。

戦後、1947年暮れから翌年の秋辺りまでが、描かれる。才能がありながら、創作
に苦しみ、酒を飲み、借金をし、挙げ句は、知人お店の金を奪って逃げる、酒場の女
性と心中を企てるなど、戦後の破滅型作家の典型の太宰治をなぞった人物が、大谷穣
治(佐野忠信)である。

ある夜、大谷は、借金取りに追いかけられて家まで逃げ帰って来た。夫の付け馬の飲
み屋「椿屋」の夫婦(伊武雅刀と室井滋)。夫婦の話を聞き、夫の代わりに謝罪する
とともに、借金を返すために、店で働かせてほしいと頼み込む妻の佐知(松たか
子)。美人で、誠実、誰にも愛想の良い佐知は、たちまち、店の人気者になる。戦後
の闇市のひとつマーケット街、中野駅前のマーケット街のたくましさ、客の賞賛、作
家の世話をする専業主婦から、社会に組み込まれた働く女性として立ち位置を獲得し
た佐知は、生き生きとし、日々、美しくなる。大谷文学ファンの青年・岡田(妻夫木
聡)で、店の常連客から行為を持たれる。雨の夜に、傘に入れてやったのが縁で、以
後、閉店後、中央線で武蔵小金井の自宅に帰る佐知と同行するようになる。大谷と知
り合う前に、マフラーを万引きしてまで、佐知が尽くそうとした苦学生の辻(堤真
一)は、弁護士になり、改めて、佐知に接近して来る。それを知り、自分の愚行を棚
に上げて、妻に嫉妬する大谷。そういう大谷を変わることなく愛し、ふたりの幼子の
世話をする佐知。死にたい死にたいという大谷は、新宿の酒場の女給(ホステス)の
秋子(広末涼子)と、谷川温泉で、心中を図り、失敗してしまう。そういう夫婦の関
係が、「ヴィヨン」(15世紀のフランスの詩人。学識豊かながら、強盗殺人の罪を
犯し、入獄、その後の放浪の生涯を送った)とその妻になぞらえられながら、描かれ
て行く。

性格俳優・佐野忠信は、いつもながら、肩の力を抜いたような、淡々とした演技で、
存在感のある大谷像を刻んで行く。松たか子は、幼子を抱えながら、夫を助けて、け
なげに生きて行くたくましい若妻を演じる。甘えや弱さが、持ち味の大谷。それを包
み込む器の大きな佐知。ふたりの対比は、意外と揺るぎがないが、破滅型の人間は、
破滅するしかないのが、性向だから、他人には、どうにもしようがない。しかし、ラ
ストシーン。マーケット街の、高架下でサクランボをつまみ合う大谷と佐知。佐知
が、「私たちは、生きていさえすればいいのよ」と、家族で、平凡に生きて行くこと
の大切さを、さりげなく言うシーンは、説得力があった。佐知の科白を借りて、根岸
吉太郎監督からのメッセージと受け止めた。だが、歴史が示す通り、太宰治は、39
歳で、何度かの、心中未遂を繰り返した果てに、本当に、5回目で、心中してしま
う。

実際の太宰治は、1938年に、井伏鱒二の世話で、甲府の石原美知子と結婚、19
41年に長女、1944年に長男(映画に出て来る幼子は、1946年の時点で、2
歳と言っていたから、この長男に該当するだろう)、1947年に次女(津島佑
子)、1948年に三女(太田治子)をもうける。太宰の自殺の理由の一つに、長男
のダウン症を苦にしたという説もあるらしい。映画の中の幼子は、ダウン症とは思え
ないが、おとなしく、描かれていた。太宰治は、1948年6月、「グッド・バイ」
連載中に、入水心中で、没。

広末涼子は、実際に、太宰治が、心中した相手・山崎富栄をモデルにしながら、不思
議な魅力を滲ませる愛人の秋子を好演する。脇で、滋味を出しているのが、飲み屋
「椿屋」の夫婦を演じる伊武雅刀と室井滋で、特に、伊武雅刀の演技が、光る。風格
が、滲み出るようになった。

ここからが、今回の、私の本論。この映画は、実写のロケもあるが、スタジオセット
やロケセットを多用している。そのセットが、素晴らしい。途中から、演技をする俳
優たちより、私の目は、背景に映し出される光景に目がいってしまう。

スタジオセットでは、大谷の住む家。武蔵小金井という設定。歪んでいる古い借家。
継ぎ接ぎのある壁、古びた木戸、障子、すり切れた畳、詩や大谷の自画像と思われる
落書きされた襖などなど。家の中にある卓袱台、火鉢、薬缶などの小道具。

中央線の中野駅前のマーケット街。「中野新生マーケット」というアーチ。戦後の闇
市を再現するセットだ。配給所、大衆食堂、屋台、往来する人々、店店で、働く
人々。闇市は、この映画の主役の一人だろう。佐知が働く小料理屋「椿屋」も、この
マーケット街の中にある。店の中に張られた品書きも、戦後の物価高騰の痕跡を示す
ために、物語が進むに連れて、値段の部分が、張り直されているという。新宿の酒場
街。秋子が勤める酒場の店の外。佐知が、戦中に、万引きで捕まり、取り調べを受け
る下町の交番。大谷との出逢いの場面でもある。その後の、佐知の住まいの辺りの下
町の長屋。

映画は、冒頭のスーパーで、1946年12月末という設定が、呈示される。これ
が、個人的には、切実だった。というのは、私が、生まれるのが、1947年1月5
日であり、それだけに、セットの場面の背景など、非常に興味深い。画面のなかに私
も入り込み、自分の誕生前後の時代へタイムスリップしたような、奇妙な感じに包ま
れてしまった。特に、「椿屋」の場面が絡むところは、年末の数日間の描写が続く。
年明の正月の場面が、描かれていないように見える。私には、年末年始が、いつまで
描かれていたのかというのが、分かりにくかった。最後は、1947年秋の銀座だ
う。1946年〜47年の東京。闇市や銀座銀座の光景の中に、若き日の両親が、出
てきそうで、主役たちより背景の方に目がいってしまった。

下町の長屋の場面は、戦中で、1946年〜47年ではないのだろうが、古い着物を
再活用したオムツなどが、長屋の物干し竿に干してあると、ああ、あれは、いずれ、
私が使うのだという思いにかられてしまった。私自身は、未生以前と誕生後の半年間
ぐらい、母親の実家の福島県に行っており、この時期の東京には、父親ひとりしか居
なかったのだが……。

このほか、セット内に作られた一両の客車の車両と10メートル弱のレール。中央線
の武蔵小金井と国分寺駅のホーム、それに、国分寺駅のホームから線路へ降りる場面
は、国分寺駅に見立てた静岡県の大井川鉄道の新金谷駅でのロケと組み合わして使用
されている。CGも、活用される。駅の近くの屋台は、ロケセット。

佐知が訪ねる銀座の弁護士事務所のあるビル。茨城県水戸市の「三の丸庁舎」の一郭
を使って露天の並ぶ戦後の銀座を再現され、その一郭という設定。進駐軍の米兵。当
時、「パンパン」と蔑称された女性たち、当時の乗用車、ジープなども走り抜ける。
皆の服装からして、秋の気配がある。

大谷が、秋子と心中するための温泉行の列車の場面は、大井川鉄道で見立て、谷川温
泉周辺の山中での心中の場面は、ロケ。旅館の場面は、静岡県修善寺の旅館で、ロ
ケ。心中未遂の果てに、殺人の容疑で、大谷が留置される水上警察署の場面は、外観
は、茨城県でのロケ。署の内部や面会室は、スタジオセット。冒頭のモノクロの大谷
の少年時代のシーンは、静岡県小山町のロケ。卒塔婆に組み入れられた「後生車」を
廻すシーン。「廻して、止まってから、少しでも逆に戻ると、地獄に堕ちる」と叔母
が言う。少年は、2回廻すが、2回とも、逆に戻る。少年の胸に死への恐怖が埋め込
まれる。巧みな冒頭シーンである。

この映画は、10月10日から、全国の東宝系映画館でロードショー公開される。
- 2009年9月18日(金) 14:25:26
9・XX  歌舞伎座の劇評を昼の部、夜の部とも、このサイトの劇評コーナーに書き
込んだ。今月の歌舞伎座は、「秀山祭」ということで、初代吉右衛門所縁の、当代吉右
衛門と幸四郎が、軸となる舞台が続く。 
- 2009年9月18日(金) 14:19:00
9・XX  このサイトの劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」に、9月の国立劇場小劇
場、人形浄瑠璃の劇評を書き込んだ。シェイクスピア原作の翻案劇という意欲的な新作
ものよりも、古典的な、古くさい価値観のものが、時空を超えて、おもしろく見えてく
ることがある。今回が、そういう体験をした。その辺りに、人形浄瑠璃の奥深い、おも
しろさの秘密があるような気がしたので、関心のある人は、読んでみて下さい。
- 2009年9月13日(日) 18:09:15
9・XX  9月7日に、国立劇場で、人形浄瑠璃の第2部と第3部を続けて観て来
た。第2部では、竹本も三味線も、人形遣も実力者が揃う、「沼津」と「酒屋」を観
て来た。第3部は、シェークスピア原作の翻案劇という新作である。人形遣が、主遣
も含めて、顔を隠しているので、人形の動きが、くっきりと伝わって来る。

9月の9日と10日に分けて、9ヶ月目と折り返し地点に入った、歌舞伎座の「さよ
なら公演」を観て来た。9月は、「秀山祭」である。播磨屋、高麗屋が、軸となる舞
台。9日が、夜の部。10日が、昼の部。いつもなら、昼夜通しで、拝見するのだ
が、最近は、歌舞伎座の狭い座席が、苦になり始めた。リニューアル後は、バリアフ
リーを含めて、居住性の良い劇場に変身してほしい。

人形浄瑠璃から、劇評を書き始めた。まだ、まだ、脱稿していないが、推敲をへて、
原稿が、完成したら、掲載するので、乞う、ご期待!!

11月の歌舞伎座は、「仮名手本忠臣蔵」の通し上演だが、昼の部は、「在日フラン
ス人協会」の人たちを相手に、「忠臣蔵」について講演をし(フランス語は、同時通
訳付き)、一緒に、観劇した後、質疑の時間をとる予定で、目下、講演のベースとな
るレジュメ案を構想中。目下の、仮タイトルは、「忠臣蔵は、ミステリー」となって
いる。
- 2009年9月11日(金) 21:28:21
8・XX 「政権交代」とは?

30日に投開票された総選挙の結果、民主党が、308議席を獲得した。マスコミ、あ
るいは、ネットでの発信など、さまざまな論調が出ているが、この結果を踏まえて、
私見をまとめておきたい。

各政党の得票数や得票率を見ていないが、選挙前後の政党間の議席の変化を見ると、
自公の議席減が、ほぼそのまま民主党の議席増になり、共産党や社民党は、変わらず
という結果だった。

これは、何を意味するかというと、今回の選挙結果が、有権者の「民主党への政権選
択」というより、「郵政民営化選挙」というフィクション選挙で、自民党の議席を増
やしてしまった有権者が、この4年間の自民党の政治の実態を見て、また、最後の首
相だった麻生の言動を見て、これに「ノー」というカードを突きつけた末の、「自公
政権批判選挙」だったということだ。数の上にあぐらをかいていた自公政権を打ち壊
しただけで、必ずしも、すべてが、民主党に万全の期待感、信頼感を示したというば
かりではない。

今回の選挙の、こうした本質を見誤り、民主党を軸にした政権が、この4年間の自公
政権と同じように、失政などで、有権者の支持を低下させても、4年間も、政権にし
がみつくようなマネをしたら、今回の「風」と同じような強い風が、次回は、民主党
に「逆風」となって吹くだろうと思う。民主党を軸にした政権は、自公政権の轍を踏
まないために、こまめに、民意をくみ上げ、柔軟に政権運営をしなければならないだ
ろう。それが、できなければ、有権者は、自公政権に対してみせたと同じような不信
感を募らせて、4年後に、同じような投票行動をとることになるだろう。

「権力は腐敗する」という哲理は、古今東西、歴史の示すところだ。民主党を軸にし
た政権は、これを肝に銘じてほしい。政権を取って初めて判る官僚や行政の実態もあ
るだろう。野党時代よりも多くの情報が、与党には、入って来るだろうから、腐敗し
た既成体制の情報は、積極的に、国民に開示し、腐敗している部分を大胆に摘出して
ほしい。そして、透明性の高い政権運営をしてほしい。

それが出来なければ、民主党ばかりでなく、自民党も含めて、「政治家は、頼むに足
らず」という意識が、国民の間に湧出して来るだろうし、戦前と同じような社会情勢
ならば、国民の政治家失望論をベースに、軍部が、政治は、政治家に任せていられな
いと、クーデターを起こして、政治家を暗殺し、政権奪取、あるいは、政権介入して
くる事態を招くだろう。そういう戦前の「軍事政権」への道がはじまった時代の前、
大正昭和初期の時代に、「憲政の常道」という二大政党に拠る政権交代の時代があ
り、それが巧く機能しなかったことから、軍事政権への道を加速したという歴史が、
日本には、あったことを思い出す必要がある。

だとすれば、今回の「政権選択選挙」は、本当は、政権選択選挙ではなく、政権選択
のための「予備選挙」なのではないか。本当の政権選択選挙は、むしろ、民主党を軸
にした政権の運営ぶりを見極めた上での、次の総選挙ではないのか。真の政治改革を
含む政権交代は、次の選挙でという予測が、私にはある。

私は、学生時代より、政治思想史、政治哲学の学徒であった。記者になってからの3
0有余年は、選挙を含めて、政治や行政の実態を中央、地方とも、見続けて来た。そ
のなかで、私が、持論として培って来たのは、日本の政治風土には、あれか、これか
という二大政党制度では、政治家と官僚との癒着は、断つことが出来たとしても、政
治が硬直化して、民意を柔軟に反映できないだろうという考えであった。その上で、
私は、多党制の政治こそ、日本の政治風土に合うと思っている。複数の選択肢を掲げ
られる政治風土が、絶えざる政権再編を含む、国民にとって、風通しの良い政治状況
を生み出す。それは、非効率かもしれない、手間がかかるかもしれないというデメ
リットもあるが、郵政民営化選挙に象徴されるように、一つの争点で、民意を問いか
けた選挙結果をバックに自公政権が、その後、生まれたほかの争点を掲げる野党との
「政治」(政治とは、利害の調整である)と真摯に対峙せずに、調整無視で、自我を
通すというような弊害は、除去できるというメリットがある。多党制による政治改革
こそ、柔軟な政権交代を実現するために、日本の政治風土に相応しいと思う。あれ
か、これかの二大政党制度は、日本政治風土では、この4年間の自公政権を再生産す
る危険性がある。それは、民主党を軸にした政権であっても、同じだろうと危惧す
る。非効率でも、手間がかかっても、民意を主とする、「民主主義」の政治を実現し
なければ、日本の社会は良くならないだろう。放っておけば、軍部やヒトラーのよう
な「スーパーマン待望論」が、出てきかねない。いや、既に、出始めている。

「郵政民営化選挙」が、「民営化」とか、「構造改革」というキーワードを操る小泉
マジックに踊らされた有権者たちのファッショ的な雪崩現象であったとすれば、今回
の政権選択予備選挙も、「政権交代」というキーワードを操る民主党マジックに踊ら
された有権者たちのファッショ的な雪崩現象であったという側面を警戒しなければな
らない。最近の日本は、重苦しい閉塞感のなかで、なにがなんでも、出口を求めると
いう性急さが、滲み出し始め、「プレ・ファッショ」的な、時代相を帯び始めている
と私は、感じている。あれか、これかではない、冷静な選択こそ、人類が試行錯誤の
末に気づき上げて来た歴史の軌跡ではなかったか。

それにしても、共産党や社民党も、「政権交代」というキーワード選挙がもたらし
た、この雪崩現象に巻き込まれて、党勢拡大が出来なかったのは、残念であった。有
効な多党制政治を実現するためには、中小政党が、多元的な民意を汲み取り、それを
政治に反映しなければならない。共産党や社民党も、その他の政党も、民主党を軸に
した連合政権に参加し、民主党ペースに巻き込まれず、それぞれの存在感を発揮する
こと。多元的な価値観をもとに、利害調整をしながら、それを政権に反映すること。
それは、まず、共産党や社民党に要求されるし、解党的な打撃を受けた自民党も、多
党制の政治のなかで、政権の一翼を担う新自民党として、生まれ変わることができれ
ば、未来が開けるだろう。極右の、スーパーマン待望論のような政党の出現だけは、
あってほしくない。
- 2009年8月31日(月) 10:53:15
8・XX 松尾塾子供歌舞伎公演「菅原伝授手習鑑」(増補「松王下屋敷」「寺小
屋」)の劇評を書いておく。

国立劇場小劇場で、09年8月29日と30日に、松尾塾子供歌舞伎東京公演があっ
た。松尾塾子供歌舞伎とは、10数年のおつきあいである。

今回は、「菅原伝授手習鑑」だが、大歌舞伎でも、しょっちゅう上演される「寺子
屋」の場とあわせて、大歌舞伎では、上演されない増補版の「松王下屋敷」が、同時
に上演されるという、おもしろい試みなので、楽しみにして国立劇場小劇場に入っ
た。

並木宗輔らが書いた「菅原伝授手習鑑」は、歌舞伎や人形浄瑠璃の歴史のなかでも、
三大演目といわれる名作である。今回、軸になっている四段目の「寺子屋」は、親た
ちによる子殺し、それも、「身替わりもの」なので、特に、良く上演される。しか
し、増補版の「松王下屋敷」は、滅多に上演されない。「増補」ものというのは、後
世の狂言作者が、母屋の軒先を借りるというように、大歌舞伎の人気演目の、いわば
「威光」にあずかろうという魂胆で作り上げた演目である。幕末から明治期の大歌舞
伎狂言の名作をたくさん書いた河竹黙阿弥も、「増補」ものを書いていて、「増補桃
山譚(ぞうほももやまものがたり)、通称「地震加藤」などが知られる。

しかし、普通、「増補」ものは、常打ちの芝居小屋で上演される大歌舞伎(大芝居)
よりも、「宮地芝居」と呼ばれて、寺社の境内や門前などに小屋掛けされた芝居小屋
で、上演される演目である。江戸でいえば、大歌舞伎は、三座(四座のときもあっ
た)にしか、興行が許されていなかった時代に、「宮地芝居」は、祭礼、勧進、開帳
などの寺社の行事の人出を当て込んで、臨時に幕府から認可された興行形態で、人の
集まり安い便利な場所で、入場料も安く、「大芝居」(大歌舞伎)に対して、「小芝
居」などと呼ばれて、人気があった。演目の方も、大歌舞伎の人気演目の「本編」
に、いわば、付け足すという関係で、「増補」と呼ばれた。

松尾塾子供歌舞伎では、増補版の「松王下屋敷」は、実は、2回目の上演で、私は、
前回の、2000年8月の公演(国立小劇場)の舞台も、拝見している。ただし、この
時は、みどり上演で、「女夫ばやし」「松王下屋敷」「浮気聟」という演目で上演さ
れ、「松王下屋敷」は、単独に一幕ものとして上演された。

「松王下屋敷」は、「寺子屋」で、松王丸の、「本心の主君」(表向きの主君は、藤
原時平)である菅丞相(菅原道真)の嫡男・秀才を救うために松王丸の長男・小太郎
が、犠牲になる経緯を予め知らせる内容になっている。松王丸は、菅丞相に対抗する
左大臣・藤原時平の家臣だが、梅王丸、松王丸、桜丸という三つ子の、次男である。
菅丞相の領地に住む百姓の四郎九郎の息子たちのうち、長男の梅王丸は、菅丞相に仕
え、次男の松王丸は、藤原時平に仕え、三男の桜丸は、天皇の弟・斎世親王に仕えて
いた。三つ子たちは、基本的には、「反藤原」であるが、松王丸だけは、本心は別に
して、藤原に仕えているのである。菅丞相は、対抗する藤原時平との政争に負けてし
まい、太宰府に流されることになった。菅丞相の御台所・園生の前と嫡男の秀才は、
それぞれ、藤原時平の手を逃れて、潜伏している。従って、藤原時平の手の者は、手
分けをしてふたりの行方を探している。実は、松王丸は、菅丞相の御台所・園生の前
を自分の下屋敷に匿っているし、秀才の行方も知っている。

時平の忠臣・春藤玄蕃(赤面=あかっつら)が、松王丸の下屋敷にやって来る。秀才
の居場所が判ったのだが、自分は、秀才の顔を知らないので、秀才逮捕の場面で、本
物の秀才かどうか、首実検をしてもらいたいと頼みに来る。一つの山場となる。秀才
逮捕の正使は、春藤玄蕃で、お付きの検分役が、松王丸なのだが、大歌舞伎では、松
王丸は、座頭の役者が演じるので、芝居のなかでの役どころとは、別に、衣装も立派
で、仕どころも多い、格上のキャラクター(主役)になっている。

松王丸は、宮仕えの身であるから、それを承知せざるを得ない。上司である春藤玄蕃
は、これで、お役目が果たせると安心して、帰る。これを聞いて、松王丸の女房の千
代が怒る。いくら、藤原時平に仕えている身とはいえ、本心の主君の若君を殺す場に
立ち会うとは、なんという、恩知らずと嘆き、抗議する。それくらいなら、自分は、
生きていられないから、自分たちの息子の小太郎ともども自害すると嘆き、訴える。

それを聞いた松王丸は、あることを思いつく。それは、秀才を助けるために、我が
子・小太郎を身替わりにするという策略である。千代は、若君を助けるのは、良いと
しても、小太郎を殺すことになるのはと、悩む。

主君への忠義のために、子供を犠牲にせざるをえない親たちの苦悩が、第二の山場で
ある。悲しみに包まれた松王丸一家。親子の今生の別れ。匿われていた園生の前も、
松王丸一家の決断を知り、ともども、涙に暮れる。やがて、千代と小太郎が、秀才の
匿われている京都郊外の芹生の里にある武部源蔵(菅丞相の旧臣)の経営する寺子屋
へ秀才の身替わりとなるべく、出かけて行く。さらに、松王丸も、春藤玄蕃と落ち合
うために、出かけて行く。幕、というわけで、次いで、幕間を挟んで、芝居は、「寺
子屋」のいつもの場面に繋がる。

松尾塾子供歌舞伎で、歌舞伎を演じる子供たちは、6歳から14歳の男女で、本物の
歌舞伎役者の演技と比べるなど出来ないが、それぞれ、熱演であり、かえって、歌舞
伎の基本に忠実に演じるように指導されているようで、未熟さを補って、くっきりと
した科白廻しや所作などで、歌舞伎の原型を教えてくれるようで、私には、楽しい。

「寺子屋」については、普通の上演形態なので、今回は、述べないが、演目として
は、「松王下屋敷」と「寺子屋」を続けて観たことで、話の展開が、判り易くなって
いるという反面は、あるというものの、本来なら、伏線として、観客に徐々に判らせ
る場面が、多弁的に描かれていて、説明的すぎる。それは、また、省略とクローズ
アップという点から見れば、芝居のメリハリが、削がれたことで、やはり、原作通り
に「松王下屋敷」無しで、演じた方が、芝居としては、伏線が活かされていて、印象
的だという思いが強かった。

ただし、一つ気がついたことがある。それは、小太郎と両親の関係である。「寺子
屋」の場面でも、千代は、小太郎を連れて、「寺入り」するので、ふたりとも生きて
いるが、松王丸は、「寺子屋」の場面では、自分が仕掛けたこととは言いながら、死
後の小太郎の首としか、面接しないのである。それを思えば、「松王下屋敷」の場面
での、松王丸と小太郎のやり取りと別れは、この親子に取っての、生きている間の、
最期の別れなのだということである。そういう思いで、「松王下屋敷」の父と子の場
面を振り返れば、これはこれで、涙する観客もいるのだろうということが、判って、
感慨深い。今回の、私の発見は、この一点であった。

「夕顔棚」も、上演された。
- 2009年8月30日(日) 16:34:13
8・XX 映評「カティンの森」を書く。

ずっしりと重い映画である。国家権力に隠蔽された断片的な史実を越えて、想像力が
映像を再構成し、正しい歴史認識を確立するような作品になっている。

「地下水道」(1956年)、「灰とダイアモンド」(1958年)、「鷲の指輪」
(1992年)、「聖週間」(1995年)などの作品で知られるアンジェイ・ワイダ監
督の作品「カティンの森」(2007年)を試写会で見た直後の、私の思いである。

この映画は、ポーランドの近代史、1939年の独ソによるポーランドの分割占領から
始まって、ソ連の捕虜になった夫が、「カティンの森」で、大勢の将校とともに、虐
殺されるが、真相が判らないまま、それに翻弄されるポーランド人の家族の姿
を、1945年まで描いた物語である。映画の大きなテーマの一つは、今なお、国家権
力に隠蔽され続けて、断片的な史実しか判らないままになっている「カティンの森事
件」の真相に近づこうという試みである。

だが、監督自身は、「事件の真実を明るみに出すことだけであってはならない」と強
調する。映画を見る観客を感動させるためには、史実だけではダメで、永遠に引き離
された家族の運命を描かなければならないという。

そういう監督自身の問題設定を元に、観客は、映画を観て、解答を引き出さなければ
ならない。それが、この映画のポイントだと思う。

ならば、映画は、どういう描かれ方をするのか。薄暗闇の試写室のなかで、多くの人
とともに見つめるスクリーンに向かいながら、私は、解答用紙に取り組む。

1939年8月の独ソ不可侵条約締結の後、独ソが行ったポーランドの分割占領
(1939年9月28日)では、アンナの夫で、ポーランド軍将校のアンジェイが、ソ連
の捕虜として、連れ去られ、やがて、捕虜収容所に入れられる。

夫を心配して、後にドイツ領(ドイツ軍は、1939年9月1日侵攻を始めた)になる
ポーランドのクラフクから、アンナは、娘を連れて、やがて、独ソの占領地区の境界
線(1939年10月―41年6月)となるブク川の橋を大勢の人々とともに、自転車で
渡ろうとしている。後にソ連領(ソ連軍は、1939年9月17日侵攻を始めた)となる
橋の向う側からも、大勢の人が逃げて来る。映画は、そういう冒頭シーンで始まる。

なんとか、列車で連行される夫の最後の姿を見送ったアンナだが、その後、設定され
た境界線に阻まれて、クラフクに戻れなくなってしまった。11月、クラフク在住の
アンジェイの父親(大学教授)は、多くの教授たちとともに、ナチスに逮捕され、ド
イツの収容所に入れられてしまう。夫の実家には、母親が一人取り残される。こうし
て家族は、4カ所に引き裂かれた。

1940年初め、アンナと娘は、境界線を越えて、クラフクに戻るが、同年3月、父親
は、収容所で死亡し、遺骨が送られて来る。4月、アンジェイは、「カティンの森事
件」に巻き込まれて、虐殺される。ポーランド軍将校約3万人のうち、半数の約
15000人は、カティン(現ロシア共和国)、ピャチハトキ(現ウクライナ共和
国)、メドノエ(現ロシア共和国)で、虐殺された。アンジェイは、そのうちの一人
であった。実は、アンジェイ・ワイダ監督の父親、ヤクプ・ワイダも、ピャチハトキ
で虐殺されている。つまり、この映画は、監督の自分史とも重なる。ベースは、私小
説ならぬ私映画である。だが、ワイダ監督は、「私映画」を越えて、「史劇(史映
画)」として、「カティンの森事件」の全体像を描こうと試みる。

映画が伝える史実のポイントを、引き続き、整理しておこう。1941年6月ドイツ軍
は、ソ連領に侵攻する。それを受けて、ソ連は、ポーランドと外交協定を結び、ソ連
に抑留されていたポーランド軍の捕虜に大赦を与える(事件に巻き込まれずにいた残
りの将校は、後の、1942年、親ソ・ポーランド軍を再編成する)。1941年秋、カ
ティンは、ドイツが、占領した。そして、1943年4月、ドイツは、「カティンの森
事件」を知るところとなり、調査を始める。その結果、「1940年春に、ソ連が虐殺
した」と発表し、事件の記録映画を作り、反ソ宣伝に利用した。

しかし、同年6月、カティンは、ソ連に再占領された結果、ドイツの調査は、中断さ
れてしまう。同年9月、ソ連が調査をする。1944年1月、ソ連が、調査結果を発表
したが、「1941年秋に、ドイツが虐殺した」と報告。「ドイツは、1943年の調査
の際、遺体から1940年4月以降の日付のある一切の記録を取り除いて、再び、墓に
埋め戻した」と付け加えた。ここでも、反独宣伝のために、記録映画を作っている
が、一説に拠ると、「映画作りのために、新たに、1000人の捕虜を殺して(殺人の
再現)、フィルムに収めた」と伝えられているという。

つまり、独ソで、国家権力を背景に、虐殺の責任を互いに争い、証拠隠滅に奔走する
形となる。権力は、腐敗し、史実をねつ造する。1945年、クラフクも、ソ連領とな
り、同年5月8日、ドイツ降伏。ポーランドは、全域が、ソ連の影響下に入り、さら
に、ポーランドは、ソ連の衛星国の一つになる。1946年のニュールンベルク裁判で
も、事件は、解明されず、以後、米ソの冷戦体制の下、「カティンの森事件」の真相
究明は、ポーランドでは、長年、タブーとなる。1981年、ワルシャワに、ポーラン
ド最初のカティン記念碑が建てられたが、クレーンで、撤去されてしまう。1983
年、ソ連は、カティンの森に事件を伝える記念碑を建てたが、「カティンの地に眠
る、ヒトラーのファシズムの犠牲者・ポーランド兵のために」と、ねつ造の文字が刻
み込まれた。

真相が明らかにされるのは、1990年、ソ連のゴルバチョフ大統領の時代になってか
らだ。それも、1989年秋、ポーランドの雑誌が、事件の真相を伝える記事を掲載し
た結果に拠る。ゴルバチョフ大統領が、自国の犯行と認め、ポーランドに謝罪し
た。1991年、ピャチハトキ、メドノエでも、発掘調査が始まる。さらに、1992年
には、ロシアのエリツィン大統領が、スターリンの署名のある命令書に基づいて、虐
殺が行われたことを公式に表明した。

スターリンは、なぜ、ポーランド軍将校を虐殺したのか。スターリンは、1920―21
年のポーランド・ソ連戦争の敗戦以降、ポーランドの軍人に対して、強い不快感を抱
いていたので、虐殺の命令をしたといわれる。実際の犯行は、ソ連共産党政治局の決
定により、ソ連の内務人民委員部(NKVD、後のKGB=国家保安委員会)の手で行わ
れた。権力者の不快感、それを実行する党と機関。それはおそらく、権力者の意向を
過剰に実現しようとするだろう。

「カティンの森」では、3人のアンジェイが、関係している。アンナの夫、アンジェ
イ大尉、もう一人は、アンジェイ・ワイダ監督自身、さらに、もう一人は、原作とな
る小説「死後(ポスト・モルテム)」を書いたアンジェイ・ムラルチク(1939年―
 )。3人のアンジェイの力が、集められて、映画は、完成した。主人公のアンナ
は、アンジェイ・ワイダ監督と重なり、アンジェイ大尉は、アンジェイ・ワイダ監督
の父親と重なる。

その結果、見えてきたものは・・・、
「カティンの森事件」を描くために、アンジェイ・ワイダ監督は、自分史を含めて、
史実の断片を丹念に拾い集めながらも、その「寄せ集め」としての事件を再現するの
ではなく、想像力を駆使して、映像を再構成することで、真相を伝えるという方法を
とったということだ。史実の真相は、特に、今回のような、強力な国家権力が、ねつ
造をしまくった事件では、史実の断片を集めても、浮き上がってこない。想像力を駆
使し、映像化することで、軸となるアンジェイ・ワイダ監督の家族の物語は、事件に
巻き込まれた多数の家族の物語に昇華し、史実の寄せ集めから、正しいパースペク
ティブを持つ「歴史認識」の形成へと成長して行く。

アンジェイ・ワイダ監督の個人的な体験を越える映画が、薄暗闇の試写室のスクリー
ンに映し出され、史実とフィクションが、ないまぜになった映像世界が、事件ばかり
ではなく、ソ連という国家権力がしでかした巨大な虚偽を暴き、さらなる真相究明
を、私に呼びかけて来る。アンジェイ・ワイダ監督は、苦労して集めた、断片的な史
実の集成を、一つの「史劇」という歴史認識として、私に突きつけて来た。

それは、今を生きる私たち、未来を生きる人々、一人ひとりに、歴史に埋もれた史実
の闇に惑わされずに、正しい歴史認識を持ち、「カティンの森事件」を伝えていって
ほしいというメッセージだろうと、感じた。

映画「カティンの森」は、スターリンによるポーランド軍将校虐殺事件の再現ではな
く、埋もれた事件の真相究明の第一歩を大地に記したのだと思う。

過去に対する正しい歴史認識だけが、未来の進むべき正しい道を指し示す。それは、
なにも、ポーランドだけの問題ではない。人類は、それぞれの国で、同じような過ち
を犯している。これは、日本の過去の戦争にも、含まれている問題である。今を生き
る人たちの「戦争責任」とは、歴史の体験を伝承しながら、体験を越えて、正しい歴
史認識として、未来の道しるべを探ることにこそあるのだろう。

映画「カティンの森」は、12月5日から、東京神保町の岩波ホールで、ロード
ショー公開される。
- 2009年8月30日(日) 13:55:27
7・XX  新宿で、青年劇場公演「キュリー×キュリー」を観て来た。「喜劇キュ
リー夫人」が、リニューアルされて、「キュリー×キュリー」となった。原作は、
ジャン=ノエル・ファンウイック。青年劇場では、黒柳徹子のキュリー夫人で、19
92年から2006年まで、15年間、299ステージを上演して来た。その実績を
踏まえて、「キュリー×キュリー」が、誕生した。

「キュリー×キュリー」とは、ふたりのキュリーのことだろう。つまり、キュリー夫
人のマリー・キュリーと夫のピエール・キュリーのこと。「喜劇キュリー夫人」の舞
台を観ていないので、正確ではないが、多分、「喜劇キュリー夫人」では、黒柳徹子
の演じるキュリー夫人を中心に芝居は進行したのだろう。それが、「キュリー×キュ
リー」では、キュリー夫妻の物語に変身したことが、推測されるからだ。

ロシアが支配するポーランドを逃れて、フランスに渡って来た女性。言葉も判らない
まま、パリ物理化学学校(パリ大学理学部)の学生になり、不安定な社会情勢、圧倒
的な男社会、不自由な言葉、孤独を乗り越えて、マリー・スクロドフスカは、研究熱
心なピエーリ・キュリーと研究の日々をともにする。いつしか、恋が芽生え、ふたり
は、結婚する。貧しい研究室、お粗末な実験材料の中で、黎明な知能を持つふたりの
研究者は、後に、放射能と呼ばれる「ラジウム」を発見し、後に、ノーベル賞を受賞
する。放射線治療の基礎を築いたからだ。マリー・キュリーは、1867−193
4。明治維新の前年に生まれたマリーは、研究していた放射線に殉じるように、白血
病でなくなった。

私の印象に残った科白は、不純物の中に、なにかがある、という趣旨の科白だ。なに
かがある、という可能性に掛けて、信念を持って、追究して行く。それは、失敗する
可能性も無くはないが、失敗は、貴重な判断材料となり、失敗された部分を除けば、
残りの部分に真実が隠されている可能性があるという希望にも繋がるということだろ
う。

演出を担当した板倉哲は、マリー・キュリーの言葉から、「ある計画を無欲に追究す
ることに魅せられ、自分自身の物質的な利益にそれを結びつけることなどとうていで
きない夢想家もまた、必要なのだ」。

夢想家は、おぼろげな未来を見つめる。現実家は、目の前の堅実なものしか見つめな
い。それでは、未来につながらない。未来につなげるものは、夢想家を許容する社会
だろう。今の社会で夢想家は生きて行けるのか。現実適応が出来ない夢想家を「非正
規」なものとして、「正規」な現実家たちが、切り捨てているのが、今の社会ではな
いのか。正規の果てに、混迷に、混迷を重ねて、夢想家たちを隅に追いやっていやし
ないだろうか。

「キュリー×キュリー」では、研究者夫妻の真理を探究する姿を描きながら、それを
取り巻き、時には、阻害する俗物たちとの対立を浮き彫りにする。風刺が効いている
ばかりでなく、当時の民族差別などの時代背景にも目配りされている。

マリー・キュリーを演じた江原朱実、ピエール・キュリーを演じた清原達之、勲章と
利益を生む研究しか頭に無い俗物の代表、物理化学学校の校長のロドルフ・シュッツ
を演じた島本真治などが、切れ味の良い演技で、テーマのコントラストをくっきりと
見せてくれた。

喜劇は、客席を笑わせながら、現代社会の問題性を浮き彫りにし、その底に潜む、真
面目で、新国な問いかけを観客の胸に残して来たように思う。
- 2009年7月16日(木) 10:48:04
- 2009年7月15日(水) 14:14:29
映評「アニエスの浜辺」

アニエス・ヴァルダ監督。81歳。映画監督になって、55年というベテラン。連れ
合いは、1963年製作「シェルブールの雨傘」などの作品で知られるジャック・
ドゥミ監督で、監督夫妻として、活躍した。彼女の作品としては、1985年製作、
ヴェネチア映画祭で、金獅子賞を受賞した「冬の旅」などで知られる。私が、観たも
のでは、2000年製作、「落穂拾い」がある。「アニエスの浜辺」は、2008年
製作作品。

「アニエスの浜辺」は、自分史、作品史、そして、2008年の世界を描く。監督、
脚本ばかりでなく、自ら出演し、ナレーションも担当する。現在、東京神保町の岩波
ホールで、上演されている羽田澄子監督作品「嗚呼 満蒙開拓団」を思い出した。こ
ちらも、女性監督の作品で、自分史と時代史、そして現在を一人称で、描いているか
らだ。奇しくも、東西のベテラン監督が、同じような手法で、自分史を軸にそれぞ
れ、作品史、時代史を描き、現在という時代を問いかけている、という「偶然」に、
おもしろいものを感じたのだ。

さて、「アニエスの浜辺」である。これに登場するアニエス・ヴァルダ監督の作品
は、38作品のうち、20作品ということで、製作した作品の半数を超える。監督
は、映画の中で、「パズル」という言葉を使っているが、自作の一部をジクソーパズ
ルのピースのようにはめ込み、あるいは、コラージュのようにちりばめて、巧く使っ
ている。

38の作品は、アニエス・ヴァルダ監督にとって、浜辺に打ち寄せる波なのかもしれ
ない。それを象徴するように、アニエス・ヴァルダ監督は、ノワールムチエという島
の浜辺で、自分が、これまでに立ち寄ってきた、いくつもの浜辺が、自分の人生に影
響を与えて来たことに気がついたという。浜辺は、知人や家族とともに過ごした場
所。浜辺に立つと過去のさまざまな浜辺を思い出し、そこで一緒に過ごした人々や時
代を思い出す。80年の人生、いくつもの浜辺、すでに逝きし人々の面影。そう思い
至った彼女は、自伝的な、あるいは、自画像的な映画を作ろうと決心する。

そこで、映像作家が、考えたことが、おもしろい。浜辺に鏡を持ち出し、それを絵画
に見立てて、画架に立てかける。そして、そこに映し出される浜辺の光景を撮影する
という試み。20〜30枚の鏡は、海を映し出し、波を写し出し、空を映し出す。あ
わせて、撮影をするスタッフ、監督自身をも映し出す。映画学校の生徒たちも、強風
の中、浜辺を横切る。その姿は、鏡の中に入ったり、消えたり。鏡相互の光景も、永
久運動のように互いを映し出し続ける。過去も、現在も、その不思議な鏡の群れは、
映し出す。鏡は、画架の後ろの光景と鏡の中の光景を分断する。後ろの実景は、途中
で断ち切られ、鏡に映る別の光景が、コラージュされる。監督の茶目っ気は、そのな
かに、鏡ではない、枠だけのフレームを忍び込ませる。すると、そこでは、当然のこ
とながら、後ろの実景と地続きの実景が「映し出される」ことになる。すでに、これ
だけで、アニエス・ヴァルダ監督のコラージュ手法を暗示するイントロとなるから、
おもしろい。鏡は、これから、更に作られるであろう映画作品の象徴なのかもしれな
い。80歳を超えても衰えないアニエス・ヴァルダ監督の創作意欲が、伝わって来
る。

映画では、新たに撮った映像と過去の監督作品の映像が、自由闊達にコラージュされ
る。監督の思い出のままに、シーンとシーンが、新旧無関係に繋がれる。繋ぐのは、
監督の意識の流れそのもの。ときに、時空は、反転もする。作品は、フィクションも
あれば、ドキュメンタリーもある。それが、違和感なく混在する。繋ぐのは、主演す
る監督であり、ナレーションを流す監督である。

映画監督になる前、写真家としても活躍していたアニエス・ヴァルダ監督だけに、さ
らに、自分が撮影した一枚写真が何枚も、映画に入り込んで来る。オリジナルの音楽
も、過去の作品で使われた音楽も、映像同様に、コラージュされて入り込む。映像も
音楽も、ナレーションの音質も、自由自在に、コラージュされる。映画監督、写真
家、ヴィジュアル・アーティストとして、それぞれ、一流の活動をして来たアニエ
ス・ヴァルダ監督ならではの、作品世界が広がる。

そこを貫く、棒のごときものは、アニエス・ヴァルダ監督の自分史だ。ジャック・
ドゥミ監督との出逢い。ともに暮らした日々。先夫の子ども、ジャック・ドゥミ監督
との子どもたち。旅の思い出は、人生の思い出。混沌とした、豊かな映像群。その中
を、1990年、エイズで亡くなったジャック・ドゥミ監督などの映像が、太く、
きっちりとした実線で描かれる。自分史とともに、戦前、戦中、戦後と移り住んだ各
地の過去と現在、映画作家として通り抜けたヌーヴェル・ヴァーグの時代など、同時
代史が、映し出される。フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、
ジャック・リヴェットなどなど。私自身の青春も重なって見えて来る。

アニエス・ヴァルダ監督が子ども時代を過ごしたベルギーの浜辺。戦火を逃れて疎開
したフランスの港町・セートの運河。多感な思春期を過ごした街だ。子どもの頃、彼
女の一家は、そこで、船上生活を余儀なくされた。それが、今の子役たちで再現され
る。運河では、伝統の祭りのイベント、船を使った水上での槍の試合が映し出され
る。槍でつつかれて、運河に落ちる人々。ここは、また、初監督作品「ラ・ポワン
ト・クールト」の舞台でもあった。

その後、移住したパリ、さらに、ハリウッドから白羽の矢が立った夫・ジャック・
ドゥミ監督と渡ったアメリカ。その頃過ごしたロサンゼルスのビーチ。再び戻った本
拠地のパリ。映画の撮影のために、パリの自宅近くのダゲール通りに作られたスペー
ス。監督の自宅と編集室の中間に生まれたのは、なんと、「人工の浜辺」で、その浜
辺は、監督の事務所の体(てい)であり、そこで働く女性たちが使うパソコン、電
話、机、椅子、くずかご、もの入れなどが、設えられる。使われた砂は、トラック6
台分という。

監督の自宅も、さまざまな映画に使われて来た。自宅のドアが、おもしろい。観音開
きのドアは、左が、黒、茶、萌黄という、細い縦縞の配色で、右は、黒、萌黄、茶と
いう、細い縦縞の配色。映画のなかでは、全く説明されていなかったが、これは、歌
舞伎の常式幕の配色であり、左は、歌舞伎座と同じ、つまり、江戸時代の森田座の配
色。右は、国立劇場と同じ、つまり、江戸時代の市村座の配色というから、おもしろ
い。

ラストシーンは、ノワールムチエ島の浜辺に作りあげた小屋。壁が、映画のプリント
で作られた部屋。外からの光りが、怪しい雰囲気を作り上げる中で、たたずむアニエ
ス・ヴァルダ監督。映画を愛する人々のための小屋。それは、映像も、音楽も、断片
をコラージュして、新たな作品を作り上げたアニエス・ヴァルダ監督らしい趣向だろ
う。80歳を過ぎても、瑞々しい感性、ユーモア、知的好奇心、斬新なコラージュ手
法の映画製作など、見所は、全編にあふれている。何よりも、没後、20年近くたっ
ても、変わらないジャック・ドゥミ監督への愛。多彩に交流した人々。多角的な作品
群。この映画は、一度では、見切れない、そういう魅力たっぷりの映画だ。
- 2009年7月15日(水) 13:59:39
7・XX  歌舞伎を続けて、観た。まず、国立劇場の歌舞伎教室では、矢の根と藤
娘。いずれも、若手が、初役で、挑戦。左團次長男の男女蔵が、五郎を、時蔵長男の梅
枝が、藤娘を演じた。劇評は、先ほど、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に掲載した。この
あと、歌舞伎座の昼の部と夜の部を通しで観て来たので、引き続き、劇評をまとめてみ
たい。昼の部が、「五重塔」「海神別荘」。夜の部が、「夏祭浪花鑑」「天守物語」。
- 2009年7月9日(木) 13:33:54
6・XX  「未来の食卓」(フランス映画)という映画の試写会に行って来たの
で、映評を掲載する。


ゴッホが、ひまわりの絵を描いたフランス南部アルルの近くにあるガール県バル
ジャック村。古くからブドウの栽培をして来た農家が多い村だ。近くには、世界遺産
で有名なポン・デュ・ガールの水道橋がある。がルドン川に架かる石造の神殿のよう
な、優雅な二重橋で、子どもたちが、学校の遠足などで訪れる景勝地だ。古代の人た
ちは、遠方から、貴重な水を運ぶために、巨大な構築物を作った。古代人たちは、貴
重な、命の水に敬意を払うために、神殿のような作りにしたのかも知れない。

このバルジャック村では、1970年以降、大量生産、大量消費の時代にあわせて、
伝統的なブドウ栽培方法から効率的、低コストの生産方法に切り替え、化学肥料や農
薬を使うようになったら、農家の人たちや子どもたちの体調不良が増えたという。癌
で亡くなる人も目立つようになった。

栄養士の発案で、村人の健康を取り戻すために、オーガニック給食を始めようという
動きが出始めた。相談を受けた村役場では、村長が先頭に立って、地元の農家が栽培
する有機食材を使って、オーガニック給食を始めることにした。栄養士たちも、調理
に手間のかかる給食作りに協力した。有機食材は、栽培にも手間がかかるので、値段
も高い。でも、給食を食べた子どもたちには、好評だ。子どもたちは、家に帰り、家
族たちに家庭でも、オーガニック料理に切り替えてほしいと言い出した。

村の給食センターでは、毎日、200食から250食(公立私立の、4つの学校と一
人暮らしの高齢者が給食の対象)の需要がある。調理スタッフたちは、子どもたちの
喜ぶ姿を見て、給食は、教育の一部だと気がついた。村長は、給食も、ちいさな消費
市場だという認識で、農家にピーアルした。農産物は、過剰に生産されているが、有
機農産物は、不足しているからだ。従来の農法で生産している組合の関係者と有機農
家の話し合いの場を設定した。組合の関係者は、農産物の生産量は、3万トンだが、
有機農産物は、数10トンに過ぎない。有機農産物だけ作っていたら、農産物が不足
してしまうのではないかと懸念を表明した。有機農家は、農業界で取り除くべきは、
固定観念だ。農業に従事する人は、10年前に比べて減っているのに、農薬などの化
学薬品の消費量は変わらないか、増えていると、警告した。

有機農家の畑は、野草やミミズ、カタツムリなどの生物と共生している。除草剤、殺
虫剤を使う普通の農家は、生き物との共生を断絶した世界だ。微生物などが死んだ土
地で栽培される農作物は、不健康なので、それを補うために、農薬を使う。ミミズの
穴の無い畑は、水が浸透しないので、雨が降ると土が流れてしまう。

オーガニック給食を始めた小学校では、校庭の一部を畑に変えて、ブロッコリーやイ
チゴなどの有機栽培と生育の観察を始めた。

学校給食のオーガニック化は、児童たちの家庭の食生活を変え、農家の有機農産物生
産を促し、有機農法の学校農園での栽培観察という教育の場を増やした。
学校の年度末のイベントでは、有機食材を使ったレストランが、人気で、村の人たち
だけでなく、近隣の村の人たちも、有機食材のおいしさを堪能した。

映画は、ドキュメンタリーで、オーガニック給食を導入した村の様子を1年間追いか
けた。それを軸に、映画では、ユニセフの、「人間の行動が、病を生む。その最たる
ものが、化学汚染だ」という専門家の発言など、それに基づくデータの呈示など、硬
派の場面も、随所に挟みながら、展開する。

大量生産される低コストの食材か、高くても、安全な有機食材か。映画を見ている人
たちに、こう問いかける。給食は、未来を背負う子どもたちの食生活を支配する。だ
から、オーガニック給食は、「未来の食卓」に繋がるという訳だ。子どもたちが大き
くなり、それぞれの家庭を営む時代には、どこの家庭にでも、オーガニック料理が、
食卓を飾っているだろうという願いが、このタイトルには、籠っている。

2004年に、結腸癌に侵され、手術を受けたというジャン・ポール・ジョー監督か
らのメッセージが発信された。農村の美しい自然の陰で忍び寄る科学汚染、それを断
ち切り、目に見える通りの美しい自然に戻すためには、化学物質を使わない有機農業
に切り替えて行くことが、必要だ。

オーガニックとは?という問いかけに、「自然のまま」という子どもたちの答えは、
シンプルだが、明確で、揺るぎが無い。

この映画は、今夏、東京の「シネスイッチ銀座」などで、ロードショー公開される。
- 2009年6月18日(木) 11:44:50
6・XX  歌舞伎座の「夜の部」の劇評で、訂正があります。「その字組」(幼稚
園、いや、保育園の同級生?)は、染五郎さんのファンクラブでした。金太郎さんも、
子役として活躍し、ファンクラブが、早くできるといいですね。
- 2009年6月17日(水) 18:18:05
6・XX  今月の歌舞伎座の劇評を昼の部、夜の部とも、「遠眼鏡戯場観察」に書
き込んだ。最近は、ここの劇評は、何回かに分けて、MIXIの日記に転載しているの
で、以前に書いたことも含めて、いわば、書き換え劇評として、書いている。もちろ
ん、初見の芝居は、文字通り、書き下ろしであるが、歌舞伎座のように馴染みの演目
を贔屓の役者が、何回も演じるシステムをとっている芝居小屋の演目は、同じもの
が、繰り返し上演されるから、劇評が書きにくい。

普通の劇評のように、役者論、演技論に徹してしまえば、楽なのだが、それでは、ど
うしても、印象論になってしまうから、主観的で、おもしろくない。初心の人たちに
歌舞伎の魅力を知ってもらうためには、舞台から、驚きが伝わってくるような劇評を
書かなければ行けないと思っている。例えば、一緒に並んで、舞台を観ていても、私
が書いた劇評を読むと、「いやあ、そういうことには、気がつかなかった」というよ
うなことが、少しでもちりばめられれば良いと思う。

もちろん、歌舞伎の基礎知識も増やしてもらいたいし、あらすじも、毎回、繰り返し
になるが、きちんと理解してもらいたい。そういう思いが、あふれてしまい、いつも
いつも、前の劇評を下敷きにしながら、長大な劇評を書き上げることになってしま
う。

こういうやり方って・・・。そう、江戸時代の狂言作者たちは、実は、私と同じ方式
で、次々と、新たな狂言を書き続けていったのである。
- 2009年6月14日(日) 14:45:18
6・XX  6・4に歌舞伎座で、「さよなら歌舞伎座公演 六月大歌舞伎」を昼夜
通しで、拝見して来た。玄関ロビーで、高麗屋の御内儀にお会いし、孫の金太郎丈襲
名初舞台のお祝いを申し上げた。あわせて、先にいただいたご丁寧な挨拶状のお礼も
申し上げた。今の歌舞伎座が無くならないうちに、親子孫、3代の歌舞伎役者デ
ビューをし、ここ、歌舞伎座で済ませて、高麗屋を軸に歌舞伎の世界を背負って行こ
うという意気込みが、感じられた。御内儀は、いつも通りの、にこやかな、美しい笑
顔で終始し、そういう「生な」意気込みなど感じさせはしないのだが・・・。 

ところで、高麗屋一門の頭である九代目松本幸四郎さんが、句集「仙翁花(せんのう
か)」という最新句集をまとめられた。144句が、集められている。 

初版の発行日が、2009年6月3日で、俳句群には、「花舞台」から7つのサブタイ
トルが付けられていて、最後が、「初舞台」。4つの句が、納められている。ご自分
の初舞台の思い出かと、思いきや・・・。 


(平成二十一年六月 歌舞伎座) 

初夏の光りの中の初舞台 

名を襲ふ孫初舞台花菖蒲 

初舞台浴衣姿の金太郎 

四代目の金太郎なり風薫る 

巧拙は、差し置いて、祖父の孫の初舞台を見る優しい眼差しが感じられる。だが、
「待てよ」である。冒頭の俳句に添えられた「平成二十一年六月 歌舞伎座」は、実
は、今月の歌舞伎座であり、きょうが、3日目で、孫の舞台を観てから詠んでいる訳
が無いし、初版の刊行日が、歌舞伎座の初日というのも・・・。ということで、これ
らは、実は、フィクションである。想像力が、詠ませた俳句である。こうしてこちら
も想像力を膨らませると、高麗屋一族の大変な意気込みが伝わってくるではないか。 

私は、冒頭触れたように、きのう、2日目の舞台を観て来た。夜の部、高麗屋3代の
舞台「門出祝寿連獅子」の、四代目金太郎は、襲名披露の口上「松本金太郎です」
も、無事に済ませ、父親、祖父の白獅子に挟まれて、赤獅子の毛を振っての「髪洗
い」なども、テンポは、まだしも、手順は、間違えずに、最後まで、高麗屋の先代た
ちについていったのは、4歳としては、立派だった。 

御内儀から戴いた「仙翁花」という句集のタイトルは、「マツモトセンノウ」という
花の名前に由来するという。その姿が、高麗屋の家紋に似ているそうである。家紋
は、「四ツ花菱」。花菱4つであるが、その花菱が、「マツモトセンノウ」に似てい
るということだろう。 

歌舞伎座の劇評は、これから、批評組み立ての構想を練るが、昼の部の「女殺油地
獄」では、仁左衛門の、「一世一代」の、見納め河内屋与兵衛の姿をきちりと網膜に
納めて来たとだけ、前触れしておこう。劇評入稿まで、暫く、時間をいただきたい。
- 2009年6月5日(金) 18:01:56
5・XX   映評「ポー川のひかり」を書き込む。

晴れた朝、満員電車を乗り換える駅で、ふと、青空に誘われて、職場に向かう電車と
は違う方向の電車に乗ってしまいたい、などと考えたことがあるのではないでしょう
か。社会的、あるいは,経済的にも恵まれる生活をしている,家庭には、家族もい
る、職場にも、これと言って不満も無い。そういう状況で、私も、すがすがしく晴れ
上がった朝、青空に吸い込まれるように、ふっと、いつもの朝と違う行動をとってみ
ようかと思ったことが,無い訳ではない。

イタリアのエルマンノ・オルミ監督作品「ポー川のひかり」の原題は「百本の釘」と
いう。原題で、監督は、物語の端緒を象徴するカットを強調している。にもかかわら
ず、邦題では、物語の結末を象徴するポー川というイタリアの北部を西から東へ流れ
る大河の名前をつけた。この差は、大きいが、それは,後述する。

私の以前いた職場は、職員が、1万数千人いた(今は、リストラに継ぐ、リストラで
少なくなっているが、それでも、1万人以上はいるだろう)ので、中には、変わった
人もいた。突然、無断で職場を辞めて、つまり、昔流行った言葉を使えば、職場ばか
りでなく、家族にも黙って、「蒸発」してしまうという人が、相次いだ。職場の上司
や同期が探索したら、以前、転勤で勤務したことがある土地のパチンコ屋で,住み込
み店員をしていたという例があった。

日常生活を断ち切りたくなったら、どうするか。
「蒸発」して、違った職に就く、だめなら、ホームレスになる。あるいは、持ち金を
使い果たしたら、自殺でもするか。

「ポー川のひかり」の主人公は、ヨーロッパ最古の大学、ボローニャ大学の哲学科の
教授。有能な教授は、近く論文を発表することになっていた。その論文で、彼は、更
なる飛躍が期待されていた。夏休み前の最後の授業で、彼は、ヤスパースを引用し
た。「純粋性が失われた時代には、我々の実存を解明するのは狂気なのか?」

映画の冒頭のシーン。夏休みに入って、人気(ひとけ)の無いボローニャ大学。守衛
が、見回った大学図書館で、彼は、大変な物を見てしまった。図書館の床に散乱する
多数の書物。貴重な古文書は、なんと、皆,釘で打ち抜かれ床に止められている。書
物の磔のようだ。キリスト同様に処刑された書物たち。だから原題は「百本の釘」。
カソリックのイタリアでは、物議をかもすトップシーンだろう。

大学の関係者が呼び出され、警察も駆けつけた。調べて行くと、哲学科の教授が怪し
いと判る。将来を嘱望され、哲学科ばかりではなく、大学をも背負って立つような人
物が、なぜか、「犯行」後、姿をくらましてしまったらしい。

そのころ、教授は、・・・。車を走らせ、途中では、たどり着いたポー川のほとりの
橋の下で、その車も、乗り捨てにした。車のキー、身分証明所、ジャケット、幾ばく
かの金を抜いた後、財布も、橋の上から、川の中へ投げ捨てた。そして、川をさかの
ぼって、歩き始めた。空は、晴れている。この文章の冒頭、私が書いたように、理由
なき「蒸発」のようだ。教授は、己の業績を自ら破壊した。その象徴が、古文書に打
ち込んだ百本の釘だ。「犯罪者」になり、追われる身を自殺偽装で、逃れようとして
いる。つまり、なぜか、順調に歩んで来た人生途上で、彼は,リセットボタンを押し
たのだ。

やがて、教授は、ポー川の川岸に朽ち果てた廃屋を見つけると、そこに住む決意をし
たようだ。廃屋に近い町まで歩き、郵便配達の青年に生年が食べているパンを売って
いる店を聞き出す。パン屋では、店を手伝っている若い娘と知り合いになる。川岸の
廃屋を住めるように修理をしていると配達で通りかかった娘が、声をかける。毎日の
パンの配達を申し出る。郵便配達の青年は、元煉瓦工だったから、家の修理を手伝う
と申し出てくれる。「アシジの聖フランチェスコの伝説」が、重なる。

そのころ、ポー川の下流では、教授のジャケットなどが見つかり、警察では、教授が
自殺したのではないかと疑い始める。教授の思う通りに展開しそうな気配だ。

廃屋の近くの川沿いにある国有地に住む老人たちは、教授の行動に関心を持ち始め
る。教授の風貌から、老人たちは、いつか、教授を「キリストさん」と呼び始める。
老人たちも、廃屋の修理を手伝い、完成を祝う。一人の老人が、教授に「ワインの奇
跡」の話をせがむ。教授は、静かに語り始める。監督は、聖書の世界、つまり、「キ
リストの復活」を物語のベースに置いているようだ。ほかの老人とのからみでは、さ
らに、「放蕩息子の帰還」の話が、浮き彫りにされる。教授から「キリストさん」に
変身した男は、廃屋の近所の人たちとすっかり溶け込んで来たようだ。特に、老人た
ちの所作、言動の描き方が良いと私は思った。主役と脇役、この両者が、齟齬をきた
さなくなると映画だろうと芝居だろうと、奥行きと幅を増す。「ポー川のひかり」の
良さは、こういう老人たちの生き生きとした表情をさりげなくあちこちに埋め込んで
いることだろうと思った。老人たち、それは,キリストの12人の使徒たちのよう
に,示唆に富む。さらに、キリスト教,特に、カソリックに詳しい人が、この映画を
見れば、聖書のエピソードが、あちこちにちりばめられていることを見抜くだろう。

ある日、老人たちの住む地域に、ポー川流域管理局の職員たちが、訪れる。この地域
に港を建設するので、立ち退けという。川沿いの地域は、国有地で、そこに住むこと
は、違法な居住地となるから、立ち退かなければならないと宣言する。立ち退きを拒
否する請願書を作成しようと「キリストさん」に依頼する老人たち。「キリストさ
ん」は、自分の言葉で、請願書を作るべきだと助言する。豊かな言葉で語り出す老人
たち。国家は、違法に国有地を占拠していたとして、罰金を課して来た。金がなく、
追いつめられた老人のために、「キリストさん」は、持っていたキャッシュカードを
差し出す。

立ち退きを強制するショベルカーの来襲。抵抗する老人たち。次いで来たのは、警察
車両。カードの使用から、逃亡者の教授にたどりついた警察官たちだ。「犯罪者」
は、捕まり、ポー川のほとりから姿を消してしまう。ポー川周辺では、やがて、「キ
リストさんの復活」が、噂され、廃校だった小屋までの道に蝋燭がともされる。「キ
リストさん」に好意を寄せる娘が、希望を持って、待っている。ポー川の川面が、ぼ
うと光る。娘は、「マグダラのマリア」なのだろう。警察から釈放された「キリスト
さんを見かけたとか、川のほとりをこちらに向かってくるという子どもの証言「キリ
ストさんを見たよ、新しい背広を着て、土手を歩いていたよ」(キリストの復活は、
純真な子どもの目にしか、見えない)などというショットが積み重ねられるが、「キ
リストさん」は、もう、映画には姿を見せない(新約聖書「エマオへの旅人」)。
「キリストさんの復活」は、映画には、無いのだ。エルマンノ・オルミ監督は、こう
いう結末(ポー川)よりも、冒頭(書物の磔)を明確に意識していたのだろうと思
う。

いや、教授から蒸発をして、キリストさんになった男は、再び、蒸発をして、どこ
か、別の場所で、再び、「キリストさん」になっているのではないか。今度は、犯罪
者ではないので、男は、捕まらないだろう。そう、永遠の「キリストさんの誕生」。
現代の寓話。聖書の世界を借りて、病める時代の根源に向けて、処方箋を書いた。優
しい映像の積み重ねのからから聞こえてくるエルマンノ・オルミ監督からの明確な
メッセージ。

人間に受け継がれて行くものは、伝統の上に、新しいものを取り込みながら、川の流
れのように、絶えること無く、目の前にあり続ける。そう、私たちには、いまは、見
えないだけであるが、それは、そこに、あるのだろう。

エルマンノ・オルミ監督が、自分が作る最後の劇映画という「ポー川のひかり」は、
8月1日、東京神保町の岩波ホールで、ロードショー公開される。
- 2009年5月3日(日) 18:01:46
4・XX  青年劇場98回公演「ばんさんかい」は、4・17から26まで、東
京・新宿の紀伊国屋ホールで、上演中。


「メビウスの輪」のような芝居であった。ひとひねりされた輪は、輪の片方をたどっ
て行くと、いつのまにか、ひねられた側にたどり着く。「ばんさんかい」は、豪華な
「晩餐会」などではなく、卓袱台を囲んだ簡素な食事と「擬似家族」による会話でし
かない。そういうささいな会話の場に、外側(社会)が、内側(食卓)に、いつのま
にか、入り込んでくるということ。それが,テーマだろうと受け取った。どこの家庭
の内部にも、外側の橋頭堡が、いつのまにか、作られていて、そこが社会との通底装
置になっているというのが,現代の家庭の現状だろう。我が家にだって、テレビで伝
えられていたような状況が、2年も前から、入り込んでいて、実は,「今も2階に居
るのです」(つげ義春「李さん一家」でしたっけ)。

都会の、どこかの家庭の食卓、あるいは、昔懐かしい卓袱台かもしれない。「おー
い、ごはんだよー」と、「主婦」(あるいは、下宿のおばさん)が叫ぶと、周りから
男女が集まって来て、食事を始める。家族? いや,違うようだ。会話の内容を聞い
ていると、田舎暮らしの体験の有無など、皆、違うようで、家族ではないことが,判
る。「主婦」以外に、まかないを手伝う女性も居る。このふたりは,食事はしない。
食事をするのは、正確には、年齢が違うだろうが、大雑把に言えば、「若い」男女
だ。男4人女3人、計7人。これらの人たちが、いわば、「疑似家族」となって、食
卓を囲む。「ぜんまいと油揚の煮物」「ひじき」「切り干し大根」など食材の話から
会話が始まる。様々な人が住んでいる「下宿屋風」の食卓と言えば、いちばん,イ
メージが近そうな気がする。つながりを求めても、つながれないのが、擬似家族。会
話を中心にした「ばんさんかい」芝居は、食材から、人生論まで、今の社会状況への
批判も出てくる。「たとえ話」で、それぞれの価値観を問う場面もある。

一方、舞台の大道具は、下手が、高架下の空き地の佇まい。中央が、時空不明のくだ
んの食卓。上手が、歩道橋と街路の佇まい。ということで、舞台空間は,実は、三つ
に分割されている。やがて、高架下のホームレスの男女の夕食風景が、擬似家族と
は、対比的に、描き出される。東京に出稼ぎに来て、そのまま、田舎に帰らず、やが
て、家族離散で、音信不通。ホームレスになった男。親を殺して、逃げて来た女。こ
ちらの男女が、会話するときには、中央の擬似家族は、フリーズしている。さらに、
歩道橋の上と下には、正体不明の男女がいて、やがて、ふたりも会話をする。男は,
ホームレスのようだ。仲間のホームレスを殺して逃げているらしい。その間、先の,
ふたつの芝居の役者たちは、フリーズしている。そう、3つの芝居が交互に進行す
る。歌舞伎の「てれこ」の演出のよう。しかし、いつしか、3つの芝居の登場人物た
ちは、ひとつになる。間に戦争が、挟み込まれる。食卓は、いつしか、農村の食卓に
(「戦前」に戻るということか)。囲炉裏には、懐かしい自在鍵が、ぶら下がってい
る。食卓を囲むのは、11人になった。こちらは、山村の「民宿風」の食卓。宿泊客
という、他人同士が、ひとつの食卓を囲んでいるように見える。

どこの食卓でも、給仕をし続けるのは、同じ女性。まかないの手伝いをするが、本を
読む女性。じつは、この本を読む女性が、芝居の最初と最後を軸のように貫いて出演
している。原作者の分身のように思われる。食卓を守るとは、家庭を守るということ
が、テーマか。かつて、人々は、自分たちの手で、食事を作り、年代の違う多数の家
族が、同じ食卓を囲み、会話をする。いまは、調理された料理を買い集めて、会話も
無く、ひとりで食事をする人が増えて来た。金を稼ぎ、それでものを買うことが、豊
かさだと思われていたが、そういう状況が実際に出現してしまうと、それは、豊かさ
なんてものではなかったということが判る。3つの芝居が、同時に存在する舞台を見
ていると、中央に、どっしりと腰を据えて、食卓を囲む擬似家族の芝居が、幻で、上
手と下手という、いわば、「隅っこ」で、それぞれ、進行する芝居が、現(うつつ)
だと、見えてくる。巧い演出だと、感心する。要するに,生きがたい社会は、どちら
が、幻で、どちらが、現か判らない社会のことだ。

食卓を囲んで、会話をしていた人々は、やがて,それぞれの方向を向き、自分の道に
向かっていったようだ。でも、どこへ。出口はあるの?

一人残されたのは、本を読む女性。文学座の演出家・原作者で、今回の「作・演出」
担当の高瀬久男は、そういう食卓の現実にひとり向き合いながら、本を読む女性に、
もやっとした思いを重ねたのだろうと、思った。
- 2009年4月18日(土) 9:37:55
4・XX  「嗚呼 満蒙開拓団」の試写会。1926年、旧満州(現在の中国東北
部)生まれ。岩波映画製作所に入社し、1957年「村の婦人学級」以来、90本を
超すドキュメンタリー映画を作って来た日本の女性映画監督としては,パイオニアで
ある羽田澄子監督が、自分の故郷を含む「満蒙開拓団」を映画で取り上げた。

試写会が開かれたので、拝見した。この映画は、3つの状況を描いていると思った。
それを書いてみたい。

ひとつは、「中国残留婦人、孤児たちという大状況と国の責任放棄」という問題であ
る。
二つ目は、「満蒙開拓団のツアーに参加した人たちの物語という中状況」である。羽
田監督は、2回続けて、カメラとともに、ツアーに参加した。
三つ目は、「旧満州の大連で生まれ、育った羽田監督の個人史という小状況」であ
る。


「満蒙開拓団」の「満蒙」とは、当時の、いわば「合成語」であるから、今は、死語
になっている。1931(昭和6)年9月18日。日本の関東軍が、「満州事変」
(当時は、「戦争」を「事変」と言い換えて、繕った)を引き起こし、翌、1032
(昭和7)年3月に、満州国という、「傀儡(かいらい)国家」をでっち上げた。満
州国は、「五族協和」というスローガンを掲げて、「国」を構成する5つの民族(日
本人、満州人、漢人、朝鮮人、蒙古人と呼んだ)は、平等であるという「国家理念」
で、事実上、日本の植民地として、占拠した。

以下、映画の中にも、登場する「人間文化研究機構 国文学研究資料館 助教」の加
藤聖文さんの「満蒙開拓団とは何だったのか」をもとに、私のいう「大状況」をス
ケッチしてみたい。

当時の「満州国」の人口は、およそ3000万で、日本人は、およそ20万。0.6
パーセントほどの日本人が、指導層を形成するために、「満蒙」移民計画が、策定さ
れた。それは、当時,飽和状態に達していた農村人口のはけ口として、1929(昭
和4)年の「世界大恐慌」で打撃を受けた日本経済、特に、養蚕農家の経済的救済の
解決策として、政治的にしかけられた計画であった。さらに、移民計画が、「満州
国」の治安維持と対ソ防衛に役立つと見た関東軍が、後押しをした。1936(昭和
11)年2月に起きた軍人によるクーデター「二・二六事件」後に発足した広田弘毅
内閣は、20年かけて、500万人を「満州国」に送り込むという国家プロジェクト
計画した。国家権力によって、動き始めたプロジェクト計画は、県市町村を動かし
て、移民の送り出しを推進し、当時の通称で「満蒙開拓団」(正式には、「満州移民
団」「満州開拓団」)として、喧伝された。なかでも、養蚕で打撃を受けていた長野
県の下伊那地方の農家は、多くが、開拓団に入り、長野県は、「満蒙」移民全国一に
なった。

一方、「満州国」では、日本農民を受け入れるために、未開墾用地だけでは足らず
に、現地の農民の耕作地を買いたたき、開拓団に割り当てるという、むちゃくちゃな
対応をしていた。しかし、日中戦争が、激化すると、開拓団の成人男子が、徴兵さ
れ、当然、開拓団の男手の不足が深刻になる。そこで、国家権力は、青少年に目をつ
け、1938(昭和13)年には、「満蒙開拓青少年義勇軍」(正式には、満州開拓
青年義勇隊)が、創設された。さらに、日本本土の空襲が激化すると、被災者が、
「満蒙」移民に組み入られた。つまり、社会的な弱者が、次々と「満蒙」に送り込ま
れたと言える。1945(昭和20)年、ソ連の満州侵攻では、「満蒙開拓団」は、
老人と女性と子どもばかりで、対応せざるを得ないから、集団自決、遠距離の逃避行
など悲劇を大きくした。親や夫を失い中国に残留した女性と子どもは、「残留孤児」
「残留婦人」(随分、露骨な表現だと思うが)として、戦後も、中国にとどまらざる
を得なかった。亡くなった人たちも、多く、当時、「満州国」に居た日本人およそ1
55万のうち、開拓団は、17パーセントのおよそ27万人なのに、亡くなった人の
割合では、開拓団員は、30パーセント近くに上るという。遺骨は、ほとんど,未だ
に「満州」(中国東北部)の地に、埋もれたままだという。1972年の日中国交回
復後、「残留孤児」「残留婦人」たちの肉親探しが始まったが、国による補償は、未
だに十分ではない。「中国残留婦人、孤児たちという大状況と国の責任放棄」。そう
いう状況が、訴訟敗訴という映像で、映画では、まず,冒頭に報告される。この問題
は、いまも、継続中なのである。

二つ目の、「満蒙開拓団のツアーに参加した人たちの物語という中状況」は、ハルピ
ンから東におよそ180キロの地にある、当時の「方正(ほうまさ)」というところ
へ集結した人々の現地訪問と墓参りのツアーに同行した羽田監督の姿も含めて、描か
れる。現在の中国黒竜江省の奥地の開拓団に所属していた人たちだ。遅くなったが、
映画で、ナレーションを務めるのは、羽田監督自身だ。

「方正」では、冬期、零下40度まで下がるという。飢えと栄養失調、発疹チフスで
多くの人が亡くなった。春になると、多くの遺体が,解け出した。方正県人民政府
が、遺体を収容して、焼いた。4500柱に及んだという。

1963年春、山に入った「残留婦人」が、野ざらし状態の累々たる同胞の遺骨を見
つけた。日本婦人の願いは、県政府、省政府、中央政府と伝えられ、最後は、当時の
周恩来総理に届いた。「開拓民は、日本軍国主義の犠牲者」という明解な考えを持っ
ていた周恩来は、日中国交回復前の。1963年に「方正地区日本人公墓」という高
さ3.3メートルの石碑を建立する。1966年、文化大革命の嵐が襲ったとき、日
本人公墓は、紅衛兵の手で、破壊されそうになったし、かの「残留婦人」は、日本人
のスパイという理由で、死刑にされそうになったが、またも、周恩来が、墓と日本婦
人を救う。そういう方正を訪問する人たちのツアーを羽田監督は、ツアーに参加した
何人かの、個人史を追いかけながら、それぞれの物語を丹念に描いて行く。複数の
「残留孤児」「残留婦人」の日本に帰国するまでの様子や帰国後の苦労、現在の状態
までが,浮き彫りにされてくる。

「満蒙開拓団」の募集は、戦争末期まで、行われていて、ある一家が、「満州国」の
開拓地にたどり着いたのは、1945年5月26日。2ヶ月半後には、敗戦を迎え
る。開拓団から避難命令を受けたその日に、日本からの荷物が届いたというから、敗
戦の混乱に巻き込まれるために、「満州国」へ行ったようなものだと女性は、インタ
ビューで話していた。移民を担当した官僚たちは、「満州国」の当時の状況や戦争の
情勢を知りながら、なぜ、この家族を「満州国」へ送り出したのだろうか。女性は、
父母と妹らを亡くすことになる。

ある女性は、敗戦時、8歳。母と姉妹、近所の女性、子どもたちとともに、逃避行を
始める。飢えと疲労で泣き叫ぶ子どもたちが、犠牲になって行く。厳しい寒さの中で
亡くなっていった人たちも,多い。「お芋がたべたーい」と言っていた幼い妹も、逃
避行の途中で、行方が判らなくなった。母も,方正の避難所で亡くなったという。

「満州国」へ行ってから、夫は、徴兵された。非難した方正で、一人娘を失う。自身
も病気になった。助けてくれた中国人と再婚して、その後は、中国で暮らした。戦
後、10数年経ったころ、山の麓の畑を開墾していて、日本人の遺骨を見つけて、方
正県政府に日本人の墓を作ることを申し出た。この女性は、後に、文化大革命のさな
かでは、日本人のスパイという理由で、死刑にされそうになった、あのご本人であ
る。

方正を訪ねる監督の旅は、最後は、長野県の山村に向かう。「満蒙開拓団」送り出し
全国一だった長野県の村のひとつ、泰阜(やすおか)村出身の人とともに、山間部の
生家を訪ねる。急峻な傾斜地に建つ家々。それが、地平線が広がる「満州国」の開拓
地に貧しい人々を連れて行って、悲劇に巻き込んだ出発点だったことが、判る。

「大状況」の構図が、「中状況」で,具体的に肉付けされて行く。大状況と中状況
は、実は、小状況に立てられた軸が、安定しているから、ぶれずに鳥瞰することがで
きるのである。

三つ目は、その軸。つまり、「旧満州の大連で生まれ、育った羽田監督の個人史とい
う小状況」である。「満州国」の最南端、関東州の大連で生まれ、学校は、小学校か
ら女学校まで、旅順に通ったという。そして、敗戦後の、引き上げ体験。「満州国」
の奥地の、悲劇は、知らなかったという。知るきっかけになったのが、「中国残留孤
児国家賠償請求訴訟」だったことから、羽田監督の「小状況」と「大状況」が、重な
り始める。裁判に関心を持ち、「大状況」を見守るうちに、「方正地区日本人公墓」
について、偶然のきっかけで知り、ツアーにも、同行するようになり、「中状況」
も、重なって来たということが,判る。

「嗚呼 満蒙開拓団」は、6月13日より、東京・神保町の岩波ホールで、ロード
ショー公開される。
- 2009年4月18日(土) 6:09:24
3・XX  東京・神田の神保町に開設された「神保町シアター」では、日本の文芸
映画特集を続けていて、28日間ごとに「1巻」(4章立て)というクルーで、さま
ざまな特集が組まれている。現在、第12巻として、「浪花の映画の物語」(4月10
日まで)が、上演されている。私は、今回は、見なかったが、すでに終了した第1章
「男と女・世話物の町」では、堀川弘通監督作品「女殺し油地獄」、内田吐夢監督作
品「浪花の恋の物語」(冥途の飛脚)、篠田正浩監督作品「心中天網島」、増村夜保
造監督作品「曾根崎心中」という、近松門左衛門原作作品の映画が、かかっていた。
それぞれの監督が、近松門左衛門作品をどのように映像化したかを改めて、集中的に
見て、比較するとおもしろいだろう。

私が見たのは、「ドヤ街慕情」という第3章で、大島渚監督作品「太陽の墓場」、中
平康監督作品「当りや大将」、今村昌平監督作品「人類学入門」を連続して,拝見し
た。40年近く前、新人記者として赴任した大阪の町。当時は、「釜ヶ崎」というド
ヤ街で、当時の言葉を借りれば、いわゆる「暴動」(日雇いの労働者が、搾取などに
対する不満を爆発させていた)ころで、新人として、職場に挨拶やら手続きやらに
行った後、当面、加わる警察担当グループの先輩記者たちに挨拶するためには、現場
の釜ヶ崎に行かねばならず、その日のうちに、西成警察署に行かされたが、その西成
警察署が、「当りや大将」という作品には、出てくるので、懐かしかった。「釜ヶ
崎」の三角公園やドヤ街、近くを通る電車や蒸気機関車も、懐かしかった。若者を軸
に、ドヤ街でしぶとく生き抜く人たちを描いた「太陽の墓場」も、釜ヶ崎が、活写さ
れている。

「人類学入門」は、野坂昭如の「エロ事師たち」の映画化だ。以前見た時の印象は、
すっかり忘れていたが、役者のやり取りという映画本来の場面が、スクリーンの中心
にありながら、例えば、主人公を演じる小沢昭一らが、首だけ出すサウナ風呂に入り
ながら、エロ事師としての作戦を練っている場面では、サウナ風呂の室内を外から窓
越しに撮影しているのだが、そのサウナ風呂のある建物は、川の上にあるように見
え、その川に架かっているコンクリートの橋は、画面の左端に4分の1ほどだけ見え
るのだけれど、やけに、人通りが多いことから、例えば、道頓堀に架かる橋なのかも
しれない。画面の一部を左右に行き交う人たちの映像が気にかかる。

そういう目で見ていると、小沢昭一の妻を演じる坂本スミ子が営む理容室の場面や入
院した坂本がいる病室の場面などは、やはり、外から撮影されていて、役者のやり取
りの場面の前にある窓ガラスには、外の風景が映っている。あるいは、役者がやり取
りする場面の背景に窓があり、その窓の外の光景が見える。多くは、人が通ったり、
車が通ったりするばかりなのだが、テニスコートを石のローラーを引いて整地する男
女の姿が映っていたりして、おもしろい。今村昌平は、かなり,意識して、そういう
雑な情報を持つ映像を画面のどこかに組み入れているので、それが、期せずして、
今、ここで、映画を見る人間を恰も、タイムトリップさせてくれているような気がし
て、不思議な思いを味わった。もちろん、「人類学入門」も、「太陽の墓場」、「当
りや大将」も、町の外形そのものを「きちんと」映す場面もふんだんにあり、映画の
出来映え、あるいは、場面展開のおもしろさとは別に、そういう当時の風景に再会す
る楽しみがあったと、書いておこう。「神保町シアター」では、映画に登場するキャ
ストの配役表を無料で配布しているので、すでに鬼籍に入っている懐かしい役者、あ
るいは、年輪を重ねて、若い頃の顔を見てもすぐにピンとこないような役者の名前
も、再確認することができるので、とても,便利だ。
- 2009年3月29日(日) 13:11:15
3・XX  3・28に封切りとなったロン・ハワード監督、ピーター・モーガン原
作作品「フロスト×ニクソン」を封切り直前の特別試写会で拝見した。映画を見終
わって、まず、印象に残ったのは、「政治とメディア」、特にテレビとの関係であ
る。1974年8月、ウオーターゲート事件の責任を取って、アメリカ憲政史上「自ら
辞任した最初の大統領」となった第37代アメリカ大統領ニクソンが、真相を語って
いないと思ったコメディアン出身のキャスター(オーストラリアとイギリスで放送す
る番組を持つが、ワールドワイドなキャスターではない)が、自力で、インタビュー
を実現し、1977年、アメリカで放送されたのインタビュー番組で、「大統領の真
相」を引き出したというエピソードを映画化した(その前に、同じ原作者、同じ主要
な配役で、2006年にロンドンで舞台化されている)。

まず、冒頭提起した「政治とメディア」、特にテレビとの関係でいうと、テレビの記
者を長年やってきたジャーナリストによる映画評論という特性を生かした視点で、気
がついたことを列挙してみたい。

テレビは、政治家の言葉よりも、表情という「情報」を正確に伝えてしまうので、そ
のことを十分に理解してないと見受けられる政治家は、言葉でいかに抗弁しようと
も、ご本人が思っている以上に映像からダメージを受けてしまう恐れがある。いつま
でも,「権力の座に恋々としている」というイメージを国民に抱かせると、ニクソン
同様の目に遭うのではないか、ということだ。映像は、優れて,情報そのものであっ
て、ニクソンの真実を言わない時の、表情のクローズアップは、「表情という真相」
という特ダネ情報を明確に見ている者に伝えてしまう。

江戸時代に発達した歌舞伎は、照明などの「光量」が少ない中で、また,映画などの
クローズアップ技術が使えない中で、「見得」(主役のクローズアップ)「隈取り」
(顔の表情のクローズアップ)「トンボ返り」(立ち回りのクローズアップ)「付け
打ち」(所作のクローズアップ、音で、所作に、いわば,傍点を振る)など、観客の
目を引きつける演出を考えていたように、近世から「クローズアップ」効果は、演劇
的には、注目されていた。その後、近代に入って、映画、テレビなどの映像文化は、
演劇的な着目点をベースに新たに開発された技術的な支援を受けて、「クローズアッ
プ」演出をより効果的なものに洗練する工夫を重ねてきたと言えるだろう。

次に、テレビメディア論として見ると、インタビューとは、適切な質問しないと、ま
ともな答えは、もらえない、ということが、改めて、浮き彫りにされた。特に、イン
タビューの時間が制限されたフイルム時代(映像とともに音声も撮れる16ミリの同
録フイルムでは、収録時間は、5分が限界だったので、的を得た質問がインタビュー
の成否を決した)と違って、ビデオフイルムの時代になって、同録できる時間が、大
幅に増えたことで、テレビ報道のインタビューが、下手になっているから、この映画
は、最後の場面で見せる、相手から真実を引き出すという、適切な質問が重要とい
う、インタビューの原則論を、改めて、強調してくれていると感じた。

また、テレビの演出論としては、4回に亘ってインタビューした番組で、どういう形
で、実際に放送したのかは,判らないが、3回は、内容に乏しく、最後の1回のみ、
特ダネ情報があったという収録結果から見れば、再構成して放送しないとインパクト
がないだろうと思われるし、そういうことは、高額の出演料(60万ドル)もさるこ
とながら、視聴者を引きつけるためには、「再構成」という編集が大事になる。とな
れば、いろいろな場面を繋いで(編集して)放送ということになるだろうから、イン
タビュアーと相手の服装が、4回とも、同じ方が、繋ぎ易い。番組の担当ディレク
ターとしては、事前にそういう注文を両者に出していると思われる。少なくとも、フ
ロストは、いつも、同じワイシャツ(襟と袖が、白で、その他は、太めの水色のスト
ライプ入り、という或る時期、アナウンサーや、キャスターが、好んで着ていたワイ
シャツ)に、紺のダブルのジャケットで一貫していたの、テレビの演出のことがよく
判っていると感心しながら、見ていた。

ただし、こういう、言葉による「真剣勝負」の用な場合、テレビの演出家は、生放送
という条件を出したがるものだが、描かれていないが、ニクソン側から、条件でも付
いたのだろうか。それにしては、インタビューの途中で、資料映像を両者で見るとい
う、生放送風の場面もあったが、これは、私の目には、違和感があり、そぐわないと
いう感じがした。そういう意味では、テレビ番組の現場の場面では、1970年代から
実際の収録現場を長年体験してきた私の目には、細部のリアリティに濃淡があるよう
に思えたが、フロストのワイシャツの印象が、それを隠す効果があったように思う。
さらに、1969年以降、ニクソンが使用したというカリフォルニア州サンクレメンテ
の別荘は、その後のオーナーたちの手で、規模は縮小されたものの現在も残ってい
て、そこで映画のロケも行われたということからもたらされたリアリティは、大きい
し、映画の展開にあわせて、随時,挟み込まれる資料映像の効果も、舞台化では、な
し得ない映画ならではの魅力を、この作品に付け加えた。

また、先ほどの「適切な質問」と裏表の関係になるが、ジャーナリズムとしてのキー
ワードは、情報ということが、改めて,強調されていることも大事だ。フロスト側の
参謀の一人、ニクソンの権力乱用と不正の本を書いているノンフィクション作家が、
新事実を発掘し、それをフロストが、最後に切り札として使う場面は、それを浮き彫
りにしている。演出やキャスターの力量も、特ダネ情報には、負けるということだろ
う。私も若い頃は、「記者は、情報を取ってこい」と、いつも、先輩記者やデスクに
言われていたし、私も、デスクになってからは、後輩の記者やディレクターたちに同
じことを言ってきた。もちろん、最近では、テレビの報道番組やワイドショー番組の
情報の分析力、判断力など情報を精査する能力が、低下し、誤報や偽装番組が相次
ぎ、社長などが引責辞任するという、なんとも、情けない状況になっているので、
取ってきた情報を精査する重要性も,改めて、強調しておきたい。

演技的には、ニクソンを演じたフランク・ランジェラは、抜群で、これは、フロスト
を演じたマイケル・シーンを遥かに凌駕していたように思う。亡くなったニクソンを
演じるより、現存しているフロストを演じたマイケル・シーンの方が,やりにくかっ
ただろうし、実際のフロストが、どういう人物かもしらないので、ここは、あまり踏
み込めないけれど、印象的には、フランク・ランジェラの演技は、素晴らしかった。

フランク・ランジェラは、決して、ニクソンに似ていないし、物まねもしているわけ
ではないのだけれど、フランク・ランジェラから、いつのまにか、ニクソン(あるい
は、ニクソンの本質的なもの)が浮き上がってくるという感じがした。役者根性に脱
帽というところだ。この感じは、試写を見た、あるいは、劇場で映画を見始めた多く
の人が容易に抱くだろうと思われるので、簡単に触れておくだけにとどめたい。
- 2009年3月29日(日) 13:08:39
3・XX  建て替えられる歌舞伎座の「さよなら公演」は、1月から始まっている
が、今月は、3回目。新歌舞伎の巨編、真山青果原作の「元禄忠臣蔵」の登場だ。私の
好きな歌舞伎味には、乏しいが、近代的な科白劇、心理劇である。

国立劇場が、2年あまり前の、10月から12月に、3ヶ月間をかけて、全10演目を
上演した本当の「通し」上演には、及ばない6演目の「通し」上演だが、最初の「大石
最後の一日」から、75年の間に、この6演目の通し上演は、歌舞伎座では、3回目と
いう事であれば、やはり、「さよなら公演」に参加する新歌舞伎の代表というべき演目
の上演であろう。とりあえず、昼の部の劇評をまとめたので、サイトの劇評コーナー
「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。引き続いて、夜の部の劇評に取りかかる。
- 2009年3月11日(水) 17:25:36
2・XX *青年劇場「博士の愛した数式」公演の再演を観た。歌舞伎などの舞台と
違って、一般演劇では、再演を観るというチャンスは、少ない。私の場合も、そうで
あった。2月17日に青年劇場シアターサンモールの舞台を観た。前回は、3年前の
8月、青年劇場のスタジオ(由結)の舞台であった。普段は、稽古場に使っているス
タジオでの舞台より、シアターサンモールは、スペース的には広いだろうと思われる
が、そこで繰り広げられる物語の印象は、あまり変わらないように見受けられた。

家政婦をしながら、息子と生活をしている女は、シングルマザーとして、ルート君と
いう小学生の息子(10)がいる。自我が目覚め、親の言う事を聞かない年齢になっ
ているので、よく対立している。息子との関係がこじれているようで、絶えず喧嘩を
している。緊張した関係が続いている。家政婦が、+なら、ルート君は、―。あるい
は、逆か。家政婦が、働きに行く博士と呼ばれる数学者は、17年前に交通事故に遭
い、その後遺症で、記憶が、80分しか続かないという難病になっている。博士は、
夫人と住んでいるが、敷地内の別の離れに住んでいて、事実上の、「敷地内別居」の
ようである。老人同士の介護の問題もあるようである。従って、身の回りの世話をし
てもらう為に、家政婦を雇っているのだが、自分の部屋にひきこもりがちな博士は、
家政婦との人間関係が、巧く築けないので、派遣されてくる家政婦が、居着かない。
家政婦とは、巧く行かないので、これまでに、9人が首になっている。家政婦の隣人
の吉田さんも、そのひとりだ。吉田さんという家政婦の先輩のおばちゃんは、母子の
緊張関係を和らげてくれている。博士は、―。家政婦は、+。さらに、博士の夫人
が、口うるさい。これも、家政婦から見れば、―。

博士の方も、女が、家政婦で行くと暫くは、良かったが、子どもに留守番をさせて、
仕事に来ている事を知ると、母子は、一緒の時間を大事にすべきだと、子どもを「職
場」に連れてくるようにと言う。ルート君は、博士とは、野球をしたり、数学を教え
てもらったりして、打ち解けるようになる。父親のいない少年にとって、博士が、自
己を肯定してくれる優しい擬似父親になって行くのが判る。博士は、ルート君を数式
の項のように、公平に見てくれる。ひとつの人格として扱ってくれる。母親は、息子
を支配しようとしているが、博士は、少年と対等に付き合おうとしてくれる。また、
博士にとっても、ルート君が、自分を信頼して、慕ってくれる擬似息子になり、家政
婦を含めて、擬似家族の構築を求め始めて行く様子が、明らかになってくる。だが、
博士夫人に職場に家政婦が親子で来ている事を知られ、一旦は、首になるが、また、
博士の要求で、職場復帰を果たす、というような感じで、舞台は展開する。そこで、
物語を「数式」で表すと、次のようになる。

家政婦=博士×ルート君(家政婦息子)ー博士夫人+吉田のおばちゃん(隣人で、家
政婦の先輩)

この数式では、部分だけでは、+とーで、対立している関係が、全体では、―×―
で、+になるように、相互が、作用し合い、別の次元に登場人物たちを押し上げて行
く。つまり、トラブル+トラブル=アンサンブルという感じで、博士:離れの独居老
人は、家政婦とトラブル続き。博士の夫人が、口やかましく、そのトラブルを増幅さ
せる。家政婦は、母子家庭で、ルート君とトラブル続きだったが、隣人の吉田さん、
博士が、ふたりの関係を柔軟にしてくれる。孤立化していた博士の夫人も、柔軟な
る。つまり、登場人物は、皆、孤立化していて、トラブル続きだったのだが、自己を
肯定する数式を知らされ、それぞれが、孤立から、独立の関係になり、独立の項が、
連携の関係となり、ということで、皆が、呪縛から、解放されて行く。対等の人間関
係の数式が、成立するようになる。その秘密は、ルート君の存在というところ。

人間関係の数式の正解は、擬似家族の構築による癒しというところか。無限循環など
数学では、「無限」が表現できるように、世界には、無限と有限がある。同じ登場人
物でも、小説の人物は、イメージだから、無限である。しかし、舞台の人物は、具体
的な役者が演じるから、有限である。芝居が成功するかどうかは、小説を読み、自分
なりの登場人物のイメージを持って劇場に来る観客から、舞台の役者たちが、イメー
ジ的に負けない必要がある。つまり、小説の舞台化とは、無限の有限化であり、有限
化された、つまり、役者が演じた人物イメージが、観客の、脳のなかで構築された登
場人物のイメージに立ち向かえるかということにかかっている。私の印象では、ルー
ト君を演じた蒔田祐子は、小学生になりきっているように見えた。また、博士を演じ
た森山司も、前回にも増して、「ああ、博士だ」と思われた。このふたりは、私のイ
メージに勝っていたが、女を演じた湯本弘美が、やや弱かった。博士の夫人を演じた
井上昭子は、出番が少ない割には、印象に残った。吉田さんは、小説のイメージが、
少ないので、得している。(小説にもあるが、これほど重要ではない)家政婦の隣人
(吉田のおばさん)は、数学(幾何学)の問題の解答に導く、いわば「補助線」で、
女にとっては、家政婦の先輩で、ルート君にとっては、トラブルのない母(の代
用)→バランス維持装置(博士とも過去、1週間、家政婦として勤めた経験がある)
である。博士とルート君のイメージの豊穣さと一人で対決する女の役は、大変だろ
う。

舞台の大道具は、前回同様、シンプルである。長椅子、テーブル、電話台兼務のもの
いれ、冷蔵庫、流し:階段と居室(ベッド)くらいで、この同じセットが、いわば、
入り口の違いで、家政婦の家になったり、博士の家(離れ)になったり、数式のよう
に、融通無碍である。
- 2009年2月20日(金) 7:57:58
2・XX 18日に国立劇場で、人形浄瑠璃の「女殺油地獄」を観た。その劇評を歌舞
伎と比較ながら、書いてみた。「心中もの」で人気を取っていながら、晩年の時期に、
無軌道な青年ものを書いた近松門左衛門の事を想像しながら、最後に、そういう視点で
の小論をつけてみた。関心のある人は、読んでみて下さい。   
- 2009年2月19日(木) 17:14:58
2・XX  歌舞伎座の昼の部は、12月の国立劇場の人形浄瑠璃観劇会同様に在日
フランス人協会のフランス人数十人の人たちと一緒に観劇した。開幕前の地下食堂
「花道」を借り切って、1時間あまり歌舞伎についての講演をした。同時通訳付きで
対応したので、正味の話は、30分あまりだろう。

歌舞伎の芸域の広さ、古くて新しい、デフォルメ(その極みは、女形)、荒唐無稽、
すべて、正面から四つに組むというより、傾(かぶ)く、斜に構えることで、見えて
くる、独自の美意識のなせる技、というあたりが、落としどころとなる話をした。

その成果をふまえての、リポートのような劇評になったので、過去の「人形浄瑠璃
評」という付録も含めて、膨大な分量を入れ込んでみた。
- 2009年2月15日(日) 21:53:32
1・XX  国立劇場の正月歌舞伎の劇評を先ほどサイトの「遠
眼鏡戯場観察」に書き込んだ。「双蝶々曲輪日記」を書き換えた
南北劇の27年ぶりの再演である。病気休演から半年ぶりの舞台
復帰をした團十郎、並木宗輔劇と鶴屋南北劇の比較などという視
点で、まとめてみた。
- 2009年1月18日(日) 7:25:58
1・XX  歌舞伎座、1月興行の夜の部についても、劇評をサ
イトの「遠眼鏡戯場観察」に、先ほど、書き込んだ。
- 2009年1月11日(日) 9:37:35
1・XX  09年、最初の日記。歌舞伎座では、建て替えのた
めの取り壊しが、10年5月行こうと決まり、現在の劇場での公
演は、10年4月までということで、今月から向こう16ヶ月間
の「さよなら公演」がスタートした。

今月は、富十郎、菊五郎、幸四郎、吉右衛門、梅玉、玉三郎、勘
三郎らが、出演している。

このサイトの劇評「遠眼鏡戯場観察」に、とりあえず、昼の部の
劇評を書き込んだ。引き続き、夜の部を書きはじめた。

今月は、この後、難病を克服した團十郎の舞台を見るため、国立
劇場の観劇をする予定。
- 2009年1月11日(日) 6:32:37
12・XX  12月の国立劇場の歌舞伎公演は、「通し狂言 
遠山桜天保日記」であった。50年ぶりの復活上演ということ
で、千秋楽の前日の席を取り、見に行った。先きほど、サイトの
劇評「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。

12月は、国立劇場の人形浄瑠璃(フランス人およそ60人を相
手に、講演をし、皆さんとともに、観劇をした)、歌舞伎座の昼
の部と夜の部、最後は、国立劇場の歌舞伎、ということで、4つ
の劇評を掲載した。

「思えば思えば」。08年は、世界的な金融恐慌、日本の国内
も、影響大で、我が家も、多事多難であった。そういうなかで、
私は、37年勤めた職場をやや早めに退職し、フリーのジャーナ
リストとして、著述活動に専念しはじめた。

09年は、日本ペンクラブのメールマガジンに、私のロングイン
タビューが掲載される予定。1月は、ペンクラブ主催の死刑制度
を考えるシンポジウムが、31日に、東京のプレスセンターで開
かれるが、当日販売されるパンフレットに死刑制度と表現活動に
ついて書いた私の文章が掲載される。2月には、歌舞伎座で開か
れる、フランス人と日本人相手にした歌舞伎についての講演と観
劇会の講師を勤める。新年早々から、多忙な年の予兆があるが、
08年のような多事多難は、避けたい。良い年になりますよう
に、また、皆様も、良いお年をお迎え下さい。
- 2008年12月27日(土) 10:20:18
12・XX  12月歌舞伎座夜の部の劇評をサイトの「遠眼鏡
戯場観察」に書き込んだ。

夜の部は、「籠釣瓶花街酔醒」が、江戸の「吉原案内」という華
やかさで、大道具を載せた舞台は、右へ右へと廻るが、演じられ
る芝居は、裏切られた実直男の復讐殺人という狂気の世界への転
落譚ということで、左へ左へと廻る。江戸時代の芝居小屋には、
回り舞台が、蛇の目という仕掛けで、大きな円は、右へ廻り、中
の小さな円は、左へ廻るというのが、あったそうだが、そういう
感じの芝居である。

熟成の富十郎の、10年ぶりの「石切梶原」も、静かな湖面のよ
うな演技で、良かった。
- 2008年12月18日(木) 18:30:36
12・XX  12月の歌舞伎座の昼の部の劇評を、先ほど、サ
イトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。今月の、昼の部の目玉
は、三津五郎の「娘道成寺」である。女形の大曲であり、選ばれ
た女形しか、歌舞伎座では、演じることが出来ないのに、立役の
三津五郎が、何故、演じることを許可されたのか。その秘密を解
くように書いてみた。

「活歴もの」として、不評の「高時」も、反面教師の「反権力
劇」という光の当て方をすれば、結構、おもしろく観る事ができ
る。もうひとつの「反権力劇」である「佐倉義民伝」は、親子の
別れという、涙涙の人情劇になってしまっている。そういうとこ
ろが、歌舞伎らしい、荒唐無稽さで、かえっておもしろい。
- 2008年12月17日(水) 18:05:24
12・XX  青年劇場公演/真船豊原作「鼬」を観た。

囲炉裏のある座敷が、薄暗い明かりの下に浮かんでいる。客席の
ざわめきをよそに、
そこは、しいんとしている。

第一幕。

時代は、明記されていないが、初演が、1934(昭和9)年な
ので、同時代だろうか、ト書きに拠ると、「東北地方」の、農村
が、舞台。「鉄道から五、六里離れた、ある旧街道に沿うた村」
の古い農家の話である。東北地方の農家らしく、「だるま屋」と
いう屋号のある農家には、夫を亡くした67、8歳の老婆・おか
じが独りで住んでいて、長男・萬三郎が、家を担保に200円の
借金をしたが返済できず、南洋に出稼ぎと称して、夜逃げをして
しまった挙句、3年近くの利子が嵩んで、1252円余となった
借金のかたに家屋敷が、取られようとしている。

農家は、黒光りのする大黒柱に象徴されるように、元は、旧家
だったようで、後に、昔、旧街道を領主が往来した際には、家老
が定宿とした格があったことが判る。萬三郎の妹で、32、3歳
の長女・おしまは、土木の「板倉組」の兄貴分の山城の嫁になっ
て、ふたりの娘を産んだが、山城が、人殺しをして獄に入ったた
め、実家に戻って来たが、毎日、焼酎を飲んで、飲んだくれてい
る。

さらに、老婆に小金を貸していたらしい連中(馬医者・山影先生
や女地主など)が、借金のかたに、箪笥、長持ち、葛の中のがら
くたから古畳まで、持ち去ろうとしている。その仲立ちを務める
近所の調子者の百姓男・喜平。老婆は、母屋を追い出され、馬を
連れ去られた跡の、馬小屋へ引っ越すための準備をしている。

そこへ、男関係がだらしなく、10年近くも前に夫(おとりの
兄)から家を出された老婆の義妹・おとりが、何故か帰ってく
る。20数キロ離れた停車場まで出迎えに行った馬車引き・弥五
を共に連れて、「町場の奥様」のような風だが、50女は、目つ
きが鋭く、成金趣味と判る着物を着て、登場する。なにか、肚に
一物の風情がある。姉(兄嫁)の老婆は、義妹の本心を見抜いて
いるのか、反発しているが、他の連中は、皆、おとりの外見や態
度に目を眩まされてしまい、へいこらしている。

第二幕。

南洋から萬三郎が、帰って来て、囲炉裏のそばに座っている。
40歳くらい。南洋焼けした黒い顔の、がっしりした体格の男で
ある。囲炉裏の向こう側では、おとりが、札束を勘定している。
それを萬三郎が、頼もしげに見ている。ふたりのやりとりを聞い
ていると、どうやら、おとりが、夜逃げをしていた萬三郎の借金
1252円余を肩代わりする約束で、萬三郎を呼び寄せたらしい
と判る。

萬三郎は、叔母のおとりに助けてもらう上、さらに見栄を張り、
自分が南洋の出稼ぎで大金をこしらえて来たというようにしてほ
しいと頼み込む。なぜか、あっさりと萬三郎に花を持たせる約束
を承知するおとり。家屋敷の権利は、萬三郎が維持したまま、無
利子で、甥に大金を貸す代わりに、借金が返せない限り、家屋敷
の管理は、任せろと一筆書けというのが、条件だと言う。不安を
感じながらも、再び、家族のいる南洋に戻らなければならない萬
三郎は、承知をする。おとりは、現在は、不便な地域だが、将来
旧街道沿いに鉄道が敷かれると、近くに停車場ができるという情
報を持っているようだ。そうなれば、1250円程度の投資が、
何倍にもなって戻ってくると胸算用しているようだと判ってく
る。

百姓の喜平が、債権者宅に出向き、萬三郎の借金の始末を付けて
帰ってくる。債権者から端金の2円50銭を負けてもらい、意気
揚々と戻って来た喜平をおとりは、叱りつけるが、喜平は、既に
その金で、酒を買って来てしまった。

喜平に借金返済の「祝い酒」と持ちかけられ気分の良い萬三郎
は、盆踊りを見に行くなど、皆がいなくなると、おとりは、残っ
た馬医者の山影先生に、ある魂胆を打ち明け、片棒を担がせる。
ふたりは、どうやら、昔に訳ありの仲だったようだ。萬三郎の妹
のおしまが、叔母に借金を申し込むが、断わられ、余計に、飲ん
だくれる。一反歩の田持ちの馬車引き・弥五の借金の申込には、
承知する。姪という肉親より、金銭感覚優先という価値観が、露
骨である。

第三幕。

萬三郎が、南洋に戻る朝が、やって来た。南洋に行って、借金完
済の大金を持って帰って来たという「ふれこみ」の萬三郎は、村
の英雄になった。皆が、英雄の、再度の旅立ちを見送りに来てい
る。馬医者の山影先生も現われ、土間の隅で、おとりとなにやら
密談を始めた。おとりに頼まれた仕掛けを済ませたらしい。2通
の書類が、その仕掛け。1通は、債権者に借金を返した萬三郎の
ための家屋敷の権利書。もう1通は、10年以内に借金が返せな
かったら家屋敷は、萬三郎からおとりの手に渡るという不動産売
買契約書である。家屋敷の権利書は、萬三郎に見せるが、権利書
作成と同時に、萬三郎の印鑑を勝手に使って作成した不動産売買
契約書は、萬三郎には、見せない。おとりと山影先生だけの秘密
である。ふたりは、旧家の家屋敷を利用して、将来の鉄道開通後
の青写真を既に作っている。

おとりは、馬医者との関係の他、色々男関係があったようだ。磐
城の炭坑の飯炊きとなり、そこの親方の妾となり、親方が亡く
なって、遺産を分けてもらい、上州へ流れ、機織女工となり、工
場が不景気で潰れると、長屋で、人絹機の賃仕事をした。小金が
貯まり、家を借り、女工を雇い、機織の請負をし、女工仲間に、
小金を貸し、人絹ブームに乗って、財を成し、女工場主となっ
て、故郷に「凱旋」したということらしい。実家の家屋敷を乗っ
取り、女手一つで、老後の人生設計をするというのが、おとりの
本音だと判るが、おとりは、海千山千、本音は、漏らしはしな
い。したたかで、生活力のある女だ。

おとりの性根を昔から知っている老いた兄嫁・おかじの死を待
つ。姉(兄嫁)の子どもの、萬三郎、おしまの兄妹の自滅を待
つ。獲物を目の前に置き、じっくり、好機を狙う鼬。それが、お
とりの正体だ。まず、兄嫁のおかじの息の根を止める好機到来と
ばかりに、おとりを追い出そうとするおかじに対して、おとり
は、おとりの金を借りて、「南洋の英雄」となった、いわば、張
り子の虎という、萬三郎の実像を暴露してしまう。「おらが二千
両、立替へてやつたのよ。そんで話は分かつたべ」。

老いた兄嫁は、息子の真実を知り、体調がおかしくなる。それで
も、渾身の力を出し、梯子を厩の2階にある鶏小屋に掛けようと
している。「鶏は、おらのもんだ……鶏は、おらのもんだ……う
ぬに盗まれて……堪るもんか……トトトトウ、トトトトウ……」
と、しきりに呼びたてる。やがて、おかじは梯子の下にのけぞ
る。

「鼬」は、真船豊の原作で、1934(昭和9)年6月に「劇文
学」に発表され、3カ月後の、9月24日から26日まで、創作
座で、初演された。演出は、意外な感じがするが、久保田万太郎
である。農民の、家屋敷をめぐる骨肉の争いをリアルな科白で描
いたとして、好評を博し、32歳の真船豊は、劇作家としての地
位を築いた。

世界恐慌が巻き起こした失業と貧困、労働争議、小作争議の頻
発、生糸や米の値段の暴落、それがもたらす地域社会の崩壊、そ
うした昭和初期の世相を東北地方の農家のなかに描いた作品であ
ることは、おとりの科白の端々から伺える。おとりは、まさに世
間であり、そういう世間の実相を知らない農村の人達は、皆、翻
弄される。不景気な世の中を、女であることを武器に目敏く渡っ
て来たらしい50女のたくましさ。真船豊の芝居には、物欲、色
欲など、体臭の濃い人達が、多数登場する。今回のおとりも、世
渡りで身につけた自分の価値観で力強く人生を歩む。おとりの底
力には、農民の生活力がある。

真船豊は、そういう農民の生活力をリアルに描くような体験があ
り、また、それを表現する力があった。都会人の持つような、羞
恥心、諧謔、節度、余韻などというものをかなぐり捨てて、むき
出して、人生を泳ぎ渡ってくる。おとりも兄嫁のおかじも、むき
出しで、向き合い、火花を散らす。人間の業のようなものが、舞
台から、浮き彫りにされて、新宿御苑に近い青年劇場の稽古場で
もある「スタジオ結(ゆい)」の臨時の座席を埋め尽くした都会
人の観客に迫ってくる。世界的な不況という現代との類似性もさ
ることながら、いつの時代にも共通する人間の業を描く芝居とし
て、「鼬」は、見応えがあった。

その魅力は、多分、寡黙な農民像とは懸け離れた、真船農民劇
の、饒舌とも言える科白にあるだろうと思う。真船豊劇をいろい
ろ演じた俳優の松本克平は、真船戯曲の謎は、「句読点と……の
解読にある」と「真船戯曲の妙味」と題した短文に書いている。
饒舌な科白の句読点の意味、そして、能弁な科白の後に続く、
「……」の意味。登場人物の科白の、饒舌さは、芝居を観ていれ
ば判るが、句読点や「……」の意味は、科白の間合いに苦労する
役者じゃないと判りにくい。

ついでに言えば、真船戯曲を目で読むと、句読点や「……」のほ
かに、「ムム」、「!」、「ヽヽ」などの記号が多数出てくる。こ
れを、どう科白廻しに生かすのか、まさに、役者の創意工夫ぶり
で、力量が計られると言うものだろう。内容の濃い科白を能弁に
語り、観客に真意を伝える。都会人とは違う農民の感情を露骨に
ぶちまける。それでいて、さまざまな記号に込められた意味や強
弱、間合いなどを科白の緩急の間で滲ませる。さらに、ト書き
も、演出の示唆だから、要チェックだろう。役者は、皆、陰翳の
多い複雑な演技を要求される。

ここで、思い出したのが、江戸時代の歌舞伎の台本の「○」とい
う記号である。これは、「○(思い入れ)」で、狂言作者が、こ
こは、演じる役者が、「思い入れ」で演じてほしい、その出来具
合は、役者の力量次第だよと投げてよこす記号なのだ。松本克平
が、「解読の苦しみによって真船戯曲の妙味を会得できた」と後
年書いているように、江戸時代の歌舞伎役者たちも、「○」の解
読で、苦しんだ果てに、芝居の妙味を味わったことだろう。

そこで、今回の青年劇場の「鼬」の役者たちの出番となる。今回
の配役は、次の通りである。まず、女優陣。おとり:藤木久美
子、おかじ:小竹伊津子、おしま:大嶋恵子、古町のかか様:名
川伸子、伊勢金のおかみ:上甲まち子。軸となるのは、おとりと
おかじの義姉妹。兄嫁と妹。互いの本性を見抜いているから、争
いも鋭い。ふたりとも、ベテランらしく、迫真の演技で、それぞ
れの人物造形をくっきりと際立たせていた。おしまは、外形的に
は、演じているが、本音の切迫感が伝わって来ない。古町のかか
様は、もっとずるい人物ではないのか。女地主としての、ゆった
りした味わいは出ていたが、馬医者・山影先生との悪巧みぶり
が、弱かった。伊勢金のおかみは、おかじの味方として、正義感
と損得勘定の逞しさをもあわせて感じさせて、存在感は、あっ
た。

男優陣。萬三郎:島本真治、喜平:原陽三、山影先生:富田祐
一、弥五:中川為久朗。男優陣は、どちらかというと、脇に回っ
ている。萬三郎は、長男ながら、頼りない男だとは、判るが、母
親に良い顔をし、近所に良い顔をし、それでいて、自分のだらし
ないところを隠すことは、おとりの侠気に期待しているというよ
うな男だが、南洋に妻子を置いて来て、母親を騙しに帰って来
て、叔母にだまされたまま、また、南洋に戻って行くという後ろ
めたさが、滲んで来ない。喜平は、調子の良いだけの男だが、こ
れは、原が、過不足なく演じていて、男優陣のなかで、一番存在
感があったように思う。山影先生は、馬医者でありながら、登記
の「妙味」なども知っている、悪知恵の働くインテリで、農民劇
の中では、異色の都会人である。能弁な人達のなかで、寡黙で、
その寡黙さが、まさに、ずるさの象徴となっているような男だ。
もう少し、その辺りをメリハリを付けて、演じた方が良かったよ
うに思う。もうひとり、脇の脇というような位置で、印象を残し
たのは、弥五であった。半裸で、四角い空き缶を叩いて浮かれて
いたが、農村の馬車引きの青年は、近い将来、地域に鉄道が敷か
れ、停車場が近くにできると、5、6里も離れたところへ送り迎
えするような仕事が無くなるだろうに、新たに借金をして馬など
買ってしまえば、おとりに田圃を取られてしまうのに、しっかり
しろよと言いたくなるような、リアリティを感じさせてくれた。

青年劇場の軸となる演出家、松波喬介の演出は、総じて、真船豊
の意向に忠実に指導しているようで、全体的には、青年劇場、選
りすぐりベテラン俳優たちが、初日から、力一杯の迫真の演技
で、登場人物たちの個性をくっきり浮き彫りにしていて、見応え
があった。

東京・新宿御苑近くの青年劇場・スタジオ結(ゆい)で、12月
21日まで公演。
- 2008年12月16日(火) 15:27:38
12・XX  映評「シリアの花嫁」を掲載する。

ゴラン高原は、1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領
したため、シリアと係争中の地域だ。停戦ラインで、地域社会が
分断され、家族、親戚が、離ればなれに生活している人たちも多
い。停戦ライン沿いに「叫びの丘」があり、谷越しに住民らが、
家族、親戚の近況を確かめあっている。お互いの姿も見え、拡声
器でのやりとりも可能だが、逢うことが出来ないといういら立ち
が募る。分断された最前線には、地雷が埋まっている。

ゴラン高原にあるマジュダルシャムス村に住む、イスラムの少数
派とされるドゥルーズ派の家族の結婚式の一日を描いた映画が、
「シリアの花嫁」である。

元々シリア領であった土地だが、イスラエルに占領されたまま
だ。イスラエル国籍への転籍を拒否した住民たちは、皆、無国籍
になっている。境界線を隔てて行き来もままならない生活を強い
られている。

モナは、きょう、境界線の向うにいる親戚の男タレルの所に嫁い
で行く予定だ。父親のはハメッドは、親シリア派で、政治活動も
辞さない気性なので、保護観察かに置かれ、警察からマ−クされ
ている。境界線に近付けないかもしれない。

姉のマアルは、妹を気遣っているが、保守的な夫との関係に悩ん
でいる。モナの長兄は、父親の反対を押し切って、ロシア人の妻
をめとり、勘当されて村を追われたが、妹の結婚式に出席しよう
と家族をつれて、8年ぶりに戻って来た。次兄のマルワンは、外
国で商売をしているが、お調子者で、恋愛も上手くいっていない
ようだ。やはり、妹の結婚式に出席するため、帰国して来る。

モナは、姉に付き添われて、村の美容院に行くなど結婚式の準備
にとりかかっている。白いウエディングドレスに身を包んでも、
モナの心は晴れない。というのは、ひとたび、境界線を越えて、
嫁いでしまうと、シリア国籍が確定し、イスラエルが占領してい
る村に帰ることが出来なくなってしまうからだ。つまり、結婚を
して、境界線を越えると、故里に戻れないという、一方通行の結
婚式に臨もうとしているのだ。

結婚式のパーティーは、村では、花嫁側だけでしか開けない。シ
リア側の新郎の方も、新郎側だけでしか開けない。モナは、嫁ぐ
ために、やがて、境界線に向う。父親は、何処までいけるのか。
勘当された長男一家は、長老や、父親の意向で、境界線まで、近
付けないかも知れない。姉のアマルが、そういうあちこちの「亀
裂」を埋めようと警察に行ったり、兄一家を車に乗せて境界線に
向ったり、しているが、なかなか、上手く行かない。警察も、父
親の行動を監視して、境界線に近づいて来る。華やかな結婚式の
筈なのに、緊迫感が高まって来る。

ゴラン高原にある国連事務所の国際赤十字のスタッフであるジャ
ンヌが、モナの通行証を持って、イスラエルの係官とシリア側の
係官との間に入って調整をしているが、手続が、スムーズに行か
ない。イスラエルの係官は、モナの通行証に出国スタンプを押す
が、シリアの係官は、イスラエルの占領を無視して、境界線を越
えても、「シリア国内」を移動するだけだから、出国印を押した
通行証は、認められないと突っ返す。間に入って、苦労するジャ
ンヌ。ジャンヌは、どうやら、モナの次兄の元の恋人だというこ
とが、判って来る。今日中に結婚式ができるのかどうか、双方
が、やきもきする中、時間が、ドンドン経って行く。

境界線を挟んでの国際事情、官僚主義、敵意、一家の、それぞれ
の家族の事情が、問題を余計混迷させる。

そうした中、何時の間にか、花嫁のモナの姿が消えていることに
気付く。係官の隙をついて、モナは、誰にも見送られずに、単
身、境界線を越えて、嫁いで行くのである。モナの大胆な行動に
気付いた姉のアマルは、そんな妹を暖かく見送っている。それに
気付いて、モナも、姉に微笑みを返す。

そう、この映画は、さまざまな「境界線」を越えて、一人の女性
が、新しい世界に向って、生きて行こうと行動を起こす映画なの
だということが、判って来る。不確かなのは、結婚式の一日だけ
ではないのだ。続く、未来の日々も、毎日が、不確かなのだ。そ
れに負けていては、生きてはいけない。だから、一日一日を自分
の足で歩いて行くしか無いのである。

どの人の人生にも、さまざまな境界線があり、皆、不安なまま、
日々、境界線を越えて歩んで行く。それが、生きるということだ
とエラン・リクリス監督は、言いたいのだろうと思った。自分の
人生の居場所を求めて、歩いて行く。モナも、私も。モナの姉の
名前、アマルは、アラビア語で、「希望」という意味だという。

「シリアの花嫁」は、09年2月21日より、東京神保町の岩波
ホールで、ロードショー公開される。
- 2008年12月7日(日) 17:40:13
12・XX  4日から始まった国立劇場の「第40回文楽鑑賞
教室」で、「寺子屋」を観て来た。11月の歌舞伎座では、仁左
衛門の松王丸で、「寺子屋」を観ているので、歌舞伎と人形浄瑠
璃の演出の違いを中心に劇評を書いてみた。

12月は、歌舞伎座で、昼の部=「高時」「京鹿子娘道成寺」
「佐倉義民伝」、夜の部=「名鷹(なもたかし)誉石切」「高
坏」「籠釣瓶花街酔醒」を通しで観るほか、国立劇場の通し狂言
「遠山桜天保日記」を拝見する予定。歌舞伎座は、「たか」が、
多いのが、特徴。
- 2008年12月7日(日) 12:18:34
11・XX  国立劇場の公演は、新作歌舞伎。江戸川乱歩原作
の「人間豹」の舞台を幕末期の江戸に移して上演した。幸四郎と
染五郎に、春猿がからむ。劇評を書き上げて、先ほど、サイトの
「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。関心のある人は、読んでみて
ください。
- 2008年11月20日(木) 13:07:56
11・XX  歌舞伎座の顔見世興行、11月の舞台は、南北原
作「盟三五大切」に源五兵衛の初役で仁左衛門が挑戦。良い舞台
になっている。そこで、今月は、劇評にも、力が入り、サイトの
「遠眼鏡戯場観察」には、付録付きで、3回に亘って連載した。

続いて、夜の部の劇評も、書き始める。12月の国立小劇場の
「文楽鑑賞教室」(演目は、「寺子屋」など)を在日フランス人
協会の人たちといっしょに拝見する予定なので、同じ、「寺子
屋」を仁左衛門の松王丸で、上演中の、歌舞伎座夜の部は、2回
拝見して、予習に努めた。1階花道横の席と3階の天井に近い席
と2ケ所で拝見した。それぞれ、そこでしか見えないものがあっ
たのは、楽しかった。そういう点も含めて、劇評をまとめてみた
い。近日公開。ご期待を乞う。

12月の国立小劇場では、鑑賞教室の前に、講演(フランス語の
通訳付き)をした後、鑑賞教室の講師も勤めるので、そのレジュ
メも準備している。
- 2008年11月15日(土) 13:28:32
11・XX  11月の歌舞伎座は、夜の部の「寺子屋」で、仁
左衛門が、松王丸を演じる。12月の国立劇場は、人形浄瑠璃の
二本立て興行で、文楽の鑑賞教室の方では、「寺入り」と「寺子
屋」が、上演される。

12月は、国立劇場で、在日フランス人協会のフランス人の人達
に講演をした上で、いっしょに、鑑賞教室の人形浄瑠璃の舞台を
拝見することになった。

そこで、今月の歌舞伎座には、来月の予習を兼ねて、「寺子屋」
の舞台を2回観に行くことにした。花道の隣の席と3階席をそれ
ぞれとって、このうち、花道の横では、先日、舞台を拝見した。

このサイトの「遠眼鏡戯場観察」には、座席の角度を変えて、2
回の舞台を観た上で、劇評を書き込みたいが、予習の成果を生か
して、いつもとは、違う味を劇評に出せればと、思っている。

人形浄瑠璃の舞台と歌舞伎の舞台との、演出の違いなどを改めて
復習しながら、舞台を観て来たい。

さらに、フランス人達からの、あらゆる角度の質問に答えられる
ように、目下、想定問答集を作っている。

子殺しをするグロテスクなふた組の夫婦の物語、封建的な忠義と
普遍的な倫理、いや、近代的なデモクラシーの原理と現実の人権
の状況、「時代物」の、荒唐無稽さや二重の時代性などと、仮想
質問を考えながら、レジュメ作りに励んでいる。
- 2008年11月9日(日) 14:33:53
10・XX  11月に国立劇場で上演される新作歌舞伎は、江
戸川乱歩原作「人間豹」をベースにした「江戸宵闇妖鉤爪」であ
る。高麗屋が軸になって、意欲的な取り組みをしている。「乱歩
歌舞伎」に意欲を示していたという染五郎が、人間豹・恩田乱学
と神谷芳之助のふた役を演じわける。明智小五郎は、幸四郎であ
る。女形の軸は、春猿が、三役で、高麗屋陣を支える。 

乱歩の原作と高麗屋の演出の、橋渡しをするのが、脚色を担当し
た岩豪友樹子さん。古くからの知り合いである。大分市の居を構
え、九州を中心に演劇活動をしているが、国立劇場で、新作歌舞
伎を上演するのは、最初に公募台本が入選して以来、今回で3回
目という快挙である。脚色は、今回が、初めて。 

昭和初期を江戸時代に移した、いわば「時代物」である。不忍
池、江戸橋、大川、団子坂、笠森稲荷、浅草奥山などで、明智小
五郎と殺人鬼・人間豹の闘い。大凧による宙乗りまであるという
から、1等席ばかりでなく、2等席、3等席も、場面によって
は、「特等席」に変身することになる。 

11月22日には、演劇フォーラム「乱歩が歌舞伎になった」
が、国立劇場で開催される予定という。 

- 2008年10月26日(日) 11:45:25
10・XX 映画「懺悔」の試写を観たので、映評を書き込みた
い。


これは、歌舞伎の時代物のような作品。

1987年にカンヌ国際映画祭で審査員特別大賞などを受賞した
テンギス・アブラゼ監督作品「懺悔」の試写を観ての、第一印象
が、なぜか、そうだった。

ソ連邦崩壊前夜の、グルジア共和国で制作され、84年に完成し
ながら、当時のソ連邦では、なかなか公開されなかった映画だ。
モスクワで一般公開されたのは、87年1月だった。というの
は、スターリン時代に辣腕を振るったラブレンチ・ベリアという
権力者をモデルにした独裁告発映画だったからだ。ラブレンチ・
ベリアが、掛けていた角張った縁無し眼鏡、鼻の下には、ヒット
ラー似のちょび髭、ムッソリーニを思わせるサスペンダーを付け
た黒い扮装の市長ヴァルラム・アラヴィゼという男が、主人公
だ。市長の死を告げる新聞記事から物語が、ほぐれる。

市長という権力は、この国では、警察権力も握るので、ヴァルラ
ムは、長年に亘って、市民を粛清する恐怖政治の体制を敷いて来
た。「名誉」とともに葬られたはずの、その男の墓が暴かれ、遺
体が市長邸の庭に持ち込まれるという事件が起こる。埋め戻して
も、再三、掘り返される。墓を鉄の檻で囲っても、暴かれる。警
察が、警戒するなか現れた犯人は、やっと、逮捕される。犯人
は、幼い頃、父親が、教会堂を擁護したが故に、あるいは、ヴァ
ルラムが、市長になった儀式の最中に、演説するヴァルラムの声
が煩いとばかりにアパートの窓を閉めたが故にか、権力者に勾引
された画家の父親を始め、両親が、市長によって虐殺された体験
を持つ女性ケテヴァンと判る。墓を暴くことで、積年の恨みを表
ざたにした女性は、裁判という公開の場を利用して、市長の権力
犯罪を白日の元に暴き出そうとした。人々は、果たして、素直に
耳を傾けただろうか。

裁判は、市長の息子夫婦と孫(独裁者アラヴィゼ一家の親子三
代。市長ヴァルラムと息子のアベルは、一人ふた役)を巻き込ん
で行き、市長の犯罪に罪の意識を持つようになった孫が父親(市
長の息子)アベルを批判したが、無視された挙げ句、自殺してし
まった。父親の市長ヴァルラムと価値観を同じくしていたはずの
息子アベルは、価値観の混迷に見舞われ、(神に、つまり、「映
画」の観客に)「懺悔」をすることになるという図式だ。懺悔と
は、過去の苦い記憶を忘れずに、告白し、公開すること、という
意味だろうか。

ラスト近く、父親ヴァルラムの遺体を掘り起こしているのは、息
子のアベルであり、アベルは、街を見おろせる山の上から、掘り
起こして運んで来た父親の遺体を谷底に放り落すというシーンま
である。しかし、懺悔さえすれば、だれでも許されるのか。独裁
者「アラヴィゼ」という一家の名前は、「アラヴィン(だれでも
ない)」というグルジア語から、監督が考えだした架空の苗字だ
という。つまり、時空を超えて普遍的に、過去でも、未来でも、
独裁者には、誰でもがなる可能性があるということだろう。懺悔
の後に、私たちは、何をすべきなのか、テンギス・アブラゼ監督
は、それを指摘しているようだ。

日本では、92年4月の国際映画週間に1回だけ特別上映された
だけで、実質的に20年余も未公開だった。その間に、映画「懺
悔」は、ペレストロイカの波に押され、独裁者の時代という、人
民にとって痛ましい記憶は、活用され、歴史は、見直され、社会
は、変革され、87年の受賞、91年のソ連邦解体があった。そ
れが、92年までの事情だ。それ以後も、別次元の事情があり、
日本での映画公開は、見送られた。94年には、テンギス・アブ
ラゼ監督が、病没した。監督は、88年には、レーニン芸術賞を
受賞するなど、ペレストロイカを象徴するひとりとして、足跡を
残した。

スクリーンに展開される映像は、筋の紹介でイメージするような
重苦しいものではなく、随所にカリカチュアライズされたシーン
が、ふんだんに挿入されていて、歌舞伎のように荒唐無稽で、
シュールで、グロテスクで、キッチュな感じさえする。あるい
は、スペインのカタルニアの建築家・ガウディ設計で、いまだに
未完成の「神聖家族聖堂」のような、デコデコの構造物を思わせ
る映画と言えば、イメージが伝わるだろうか。

ソ連邦の権力批判の映画は、裁判での被告ケテヴァンの回想陳述
という形で、人々の共通した苦い粛清の記憶をも甦させられる展
開となる。馬車や中世の騎士の甲冑をつけた扮装の治安機関員が
出て来たりして、歌舞伎の時代物のように、意図的に、時代設定
を「違えて」の演出をしているのが、おもしろい。独裁者の市長
も、「公家悪(くげあく)」(「アラヴィゼ」という名前が、
「アラヴィン(だれでもない)」という意味であることから、歴
史の時空を超えた権力者=「公家悪」という普遍性が指摘され
る。テンギス・アブラゼ監督は、インタビューのなかで、過去の
歴史ばかりではなく、さらに、「将来も起こるであろう」と予言
さえしている)のような人柄(にん)の芝居となっていて、歌舞
伎的で、おもしろかった。

スクリーンに、これでもか、これでもかと登場する、幾重もの時
代錯誤とは、それが深刻なリアリズムであった時代の独裁制度へ
の、シュールで、それでいて、ラジカルな批判になっているの
が、判る。さまざまなエピソードが、実は、実際にあった話を種
に膨らませたものだという監督の話に驚かされる。角張った眼鏡
とちょび髭は、歌舞伎の「隈取り」という、一種の「仮面」のよ
うにさえ見える。市長ヴァルラムと息子のアベルは、アフタン
ディル・マハラゼという役者が、一人ふた役で務めているのも、
なにやら、歌舞伎的ではないか。

ラストシーンが、象徴的。冒頭のシーンと同様に、ケテヴァン
が、自宅の台所で、ミニチュアの教会堂を模したケーキを作って
いると、窓が叩かれる。ケテヴァンは、裁判の前も、後も、相変
わらず、ケーキ作りで、生計を立てているのだ。教会堂への道を
尋ねる巡礼の老婆に対して、ケテヴァンは、「この通りは、教会
堂に通じていない」と答えると、老婆は、「教会堂に通じていな
い道が、なんの役に立つのか」と呟く。教会堂は、宗教というよ
りも、思想信条、つまり、言論表現の象徴ということだろうと
思った。つまり、老婆の「批判」は、「言論を目的としない表現
なんて、なんの役に立つのか」という、テンギス・アブラゼ監督
の明確な問題意識に裏打ちされた映画なのだろうと思ったのだ。
歌舞伎の花道の引っ込みのような、老婆の歩み去る姿(老婆を演
じた女優のヴェリコ・アンジャパリゼは、最期の映画出演となっ
たという)が、眼底に、強烈に残った。

そういう意味では、20数年前の映画という古さなど、微塵も感
じさせない、極めて今日的な作品だと思った。問題の状況は、全
く変わっていないか、もっと、悪くなっているかも知れない。映
画「懺悔」は、12月20日から東京・神保町の岩波ホールで公
開される。
- 2008年10月23日(木) 16:41:02
10・XX  歌舞伎座の劇評は、昼の部に続いて、夜の部も、
脱稿したので、先ほど、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込ん
だ。日本版「おれたちに明日はない」である、「直侍」は、何時
観てもおもしろいし、特に、今回のように菊五郎の直次郎は、堪
能する。三千歳は、今回、息子の菊之助が演じたが、菊之助は、
最近色気のだし方が、巧くなって来た。眼の表情が良いのだ。菊
五郎は、世話物では、ほかの役者より、巧いから、やはり、見応
えがある。
- 2008年10月8日(水) 21:21:31
10・XX  10月の歌舞伎座は、「芸術祭」。6日に昼と夜
の通しで拝見して来た。芝翫を上置きにして成駒屋と音羽屋(菊
五郎、菊之助、松緑)、加えて、田之助、左團次、玉三郎が、柱
となっている。

今回は、あまり新しい演目はなく、馴染みの演目を違った役者が
やるという歌舞伎興行の妙があるばかり。まあ、それも、一興
か。

取りあえず、昼の部の劇評をサイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き
込んだ。続いて、夜の部の劇評を構想中。
- 2008年10月8日(水) 14:02:06
9・XX   12日の初日に拝見した「青年劇場」の劇評を掲
載したい。


時代と格闘した芥川龍之介の自死の謎を解く 


青年劇場第97回公演「薮の中から龍之介」を新宿の紀伊国屋サ
ザンシアターで拝見した。没後、81年。1927(昭和2)年
7月、35歳で自殺した芥川龍之介の「死」の意味を探る。原
作・篠原久美子、演出・原田一樹。

開幕すると、舞台では、芥川龍之介が、東京・田端の自宅で死ん
でいる。ラジオは、早々と、芥川の死を報じている。やがて、時
空を超えた衣装の、不思議な人物たちが、何ものかの声に導かれ
て、「現場」に集まって来る。

「死んでるよな?」「死んでますね」。

集まって来たのは、11人。会話を聞いていると、どうやら、芥
川龍之介が書いた作品のなかの登場人物らしい。それも、主役と
いうより、傍役たち。この辺りに「工夫魂胆」の味わいがある。

青年劇場のチラシから、11人を紹介しよう。「羅生門」の「下
人」という青年、「手巾(ハンケチ)」の「婦人」、「偸盗
(ちゅうとう)の沙金(しゃきん)という娘、「地獄変」の
「猿」と「小女房」という娘、「蜘蛛の糸」の「お釈迦様」、
「奉教人の死」の「ろおれんぞ」という少年、「杜子春」の「杜
子春の父」、「薮の中」は、タイトルに、「将軍」の「騎兵」と
いう軍人、「桃太郎」の「鬼の酋長」という男、「歯車」の「レ
エン・コオト男」。

作者は、創造主、神様だから、作者が死ねば、登場人物たちも、
書物の世界も、消えるはず。なのに、皆が、ここに集まってい
る。ということは、

「死んで、ねぇよな?」「死んでまへんな」

ということになり、登場人物たちは、それぞれ芥川龍之介を含め
て、芥川家やその周辺の人物となり、生前の芥川の、「末期」の
時間を再現し、龍之介の死の真相を解明しようとする、そういう
歴史ミステリードラマ。

そちらの登場人物は、12人。芥川龍之介、妻の文(ふみ)、伯
母で、事実上の育ての母のフキ、養父の道章、養母のトモ、実父
の経営する牧舎の従業員で、無政府主義者の久板(ひさいた)卯
之助、刑事の武藤、未完の作品「美しい村」のモデルになった村
の小作の青年・石田平六、平六の恋人のお嬢様・森田幸子、龍之
介が出逢った女流歌人で、愛人の秀(ひで)しげ子、編集者の中
田、中国の文人政治家・章炳麟。

青年劇場のチラシに刷り込まれた龍之介を巡る系図が、判りやす
い。精神を病み自殺した実母、実父の後添えの義母、伯母で育て
の母、実母の死後、養子縁組をした養母という4人の母。芥川家
に婿入りした実父、養父という2人の父。妻と愛人。3人の子
供。そういう複雑な人間関係。さらに、大正という時代背景。作
者,演出家は、そういう情報を観客に提供する。

さて、薮の中から、飛び出して来るのは、どんな真相か。

まず、タイトルの「薮の中から龍之介」が、良い。開幕後の、こ
うしたやりとりを含めたイントロが良い。センスがある。登場人
物たちの会話も、テンポがある。

その結果、観客に見えて来たものは、プロレタリア文学の隆盛に
付いて行けず、創作が行き詰まった、「厭世家で、芸術至上主義
者」という芥川龍之介のイメージを一新する。身近に居た無政府
主義者、社会主義への関心、1921(大正10)年の中国視察
旅行。それを踏まえて、帰国後、生み出された作品「将軍」「桃
太郎」「湖南の扇」などの主張。関東大震災での朝鮮人虐殺への
鋭い批判。

芥川龍之介は、大正という時代と格闘したのではないか、という
イメージ。その大正時代は、経済恐慌、関東大震災、大正デモク
ラシー、自由と抑圧、日清・日露戦争の「戦後」にして、太平洋
戦争の「戦前」。戦争への傾斜が、次第に濃くなる「昭和初
期」。「鬱」を抑圧し、「躁」を駆り立てる時代。鬱を置去りに
する時代。鬱病気質の龍之介は、「将来に対する漠然とした不
安」を感じて、自死した。「躁」の時代の後、「鬱」の時代が来
るのも、知らずに。

作者の篠原久美子は、「大正時代」と現代との類似を強調する。
不況、閉塞感のなかで、頭を持ち上げはじめた愛国心、戦争願
望・・・、現代と似てはしないか。現在は、鬱の時代と言われ始
めた。龍之介は、「早く来過ぎた青年」だったのかもしれない。

「薮の中から龍之介」という芝居は、大正時代と格闘し、自死し
てしまった芥川龍之介の軌跡を辿り直すことで、現代と格闘して
いる私たちの「将来に対する漠然とした不安」を解消する道を探
る芝居となっているように思われる。

芥川の軌跡は、生と死、理性と信仰、自由と抑圧、愛と性など、
時空を超えて、今も格闘すべき、普遍的な課題への、芥川龍之介
なりの解答の軌跡なのだから。
- 2008年9月16日(火) 11:35:40
9・XX  「秀山祭」。9月の歌舞伎座の夜の部の劇評を先ほ
ど、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。詳しくは、そち
らを読んで頂きたいが、今月は、吉右衛門の時代、世話とも、緩
怠ない科白廻しを堪能させてもらった。それでいて、夜の部など
は、空席のまま終幕を迎えるなど、「勿体ない」。

歌舞伎ブームで、同時にあちこちで歌舞伎が競演されるのは、嬉
しいことだが、良い舞台は、やはり、多くの人に観てもらいたい
という思いを強くした。私も、長年勤務した職場を退職し、給料
を稼ぐ、「レ−バー」は、なくなり、7月からは、フリーの
ジャーナリストとして、当面、社団法人・日本ペンクラブの理事
という、ボランティア活動に絞っているのだが、四半世紀ぶりに
開かれる、2010年の国際ペン東京大会開催を控えるととも
に、電子文藝館委員会委員長などの、「ワーク」が、忙しく、歌
舞伎の競演を観て歩き、劇評を書き綴るということが出来ないで
いる。ものを書くという、「ワーク」も、十全には、できそうも
ない。そういうなかで、フランス人を相手に人形浄瑠璃や歌舞伎
の観賞会に同行して、観劇を挟んで、通訳付きで、講演をすると
いう仕事が飛び込んで来た。それについての詳細は、またの機会
ということで。
- 2008年9月15日(月) 17:50:42
9・XX  11日に歌舞伎座へ行った。いつものように、昼の
部と夜の部を通しで、拝見。今回は、昼の部を見終った後、前の
方の席から立上がった男性が、大学時代のゼミの仲間だと判り、
吃驚しながら、声を掛けた。昼の部は、休憩が、2回あって、私
も彼も席から出入りしていたであろうに気が付かず、終演後に
なって初めて気が付くという体たらくであった。昼の部だけで、
帰るという彼と続けて夜の部も見る私では、時間がないが、取り
あえず、夜の部のための入れ替えの時間を利用して、歌舞伎座近
くの喫茶店で、久闊を叙した次第。

さはさりながら、昼の部の劇評を先ほど書き上げ、脱稿した。こ
のサイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだので、関心のある方
は、読んでください。「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだものは、
少し遅らせて、あるいは、分載の形で、最近は、MIXIにも、
流している。まあ、以前からある、こちらの「遠眼鏡戯場観察」
を優先する形は、今後も続けるつもりだ。引き続き、夜の部の劇
評にとりかかりたい。
- 2008年9月14日(日) 12:55:21
9・XX  1945年から美術監督として、日本映画の巨匠た
ちを支えて来た映画美術の木村威夫が、初めて長編映画の監督を
務めた(それ以前に数編の短編映画を監督している)。戦争体験
をひきずる映画学校の学院長・木室創を主人公に妻のエミ子、映
画学校の学生・村上大輔を軸に展開する、木村の自伝的な作品で
ある。満員の試写会では、上映を木村監督から挨拶があり、自伝
小説ならぬ、自伝映画だという旨の発言があった。

映画は、冒頭、根元にごつごつした奇妙な瘤を持つ巨木が映し出
される。木の後ろから、戦時中の服装をした若い男女(永瀬正
敏、上原多香子)が現れる。やがて、戦闘機による空襲や炎上の
場面が、二重写しになり、巨木の根元に蹲っていた青年が、機関
銃の空襲で、足に怪我をする。後に、足を引きずって歩く老人・
木室創(長門裕之)の姿から、足に怪我をした青年こそ、若き日
の木室だと知れる。ならば、怪我をした木室創を気遣っていなが
ら、いっしょに居た若い女性は、妻のエミ子かというと、そうで
もないらしい。

根元にごつごつした奇妙な瘤を持つ巨木は、いまは、町中の公園
の一郭にある。木室は、戦後の60年余りも、この町に住み続
け、映画学校に通って来たようだ。だから、巨木は、木室にいつ
でも戦争体験を思い出させるとともに、あの時の若い女性を思い
出させる。ある日、木室は、公園近くのパチンコ店の前で並ぶ映
画学校の学生・村上大輔(井上芳雄)を見かける。剽軽なところ
もあるが、何故か、うち沈んだところも、ほの見える村上に、木
室は、関心を持つようになる。村上は、左腕にマリリンモンロー
の刺青をしていることが、判る。また、村上は、戦没画学生の作
品を展示する「無言館」という実在の美術館(長野)に異常な関
心を持っていることが判る。芸術を志した青年が、戦場に追いや
られ、殺されてしまうという不条理。それだけに、木室の戦争体
験と村上の戦没画学生へのこだわりは、どこか、奏通低音を奏で
はじめる。さらに、村上は、統合失調症という精神病で、入退院
を繰り返して来たことが判る。そして、ある時から、学校に姿を
見せなくなるが、木室との文通で、細い線が繋がって行く。入院
中も、自死願望があり、病院の屋上から飛び下りようとしたりす
るようになる。

木室は、戦争中、巨木の根元に蹲って、いっしょに空襲を避けた
若い女性、その人に似ている銅版画家の中埜潤子(宮沢りえ。宮
沢は、若き日の木室を見守った飲み屋のママ=巨木の下の若い女
性は、このママか=、村上の美のシンボル・マリリンモンローの
幻像というように、過去と現在、時空を越えた3役を演じる。宮
沢は、木村監督の、時空を越えた人生の女神であるのだろう)の
作品「夢のまにまに」を妻に黙って購入して来る。自宅のリビン
グに飾る木室。瘤のある巨木をイメージしたこの作品には、とき
どき、さまざまな男女が、描かれる。描かれた巨木を軸に、まさ
に木室の見る夢のまにまに、二重写しで、木室の青春時代から現
在までの人々が、絵の中に参加して来るというイメージである。
空襲を避けた戦時中の巨木、町中にある現在の巨木、絵の中の巨
木。この3つの巨木のイメージは、木室の人生そのものなのだろ
う。「木室=木村」であろうが、巨木の榁、あるいは、洞(う
ろ)のうちに宿る戦中、戦後のイメージもあるような気がする。
しかし、妻のエミ子(有馬稲子)は、この絵に拒否反応を示す。
その挙げ句、夫と争う形になり、倒れて、怪我をしてしまう。も
ともと、老齢で、足が不自由で、車を押しながらでないと歩行困
難なのである。エミ子が入院した病院の屋上で、突然、戦闘機の
黒い影が、ふたりを襲うようなイメージが描かれる。失われた青
春、忍び寄る老い、消えない戦争体験。エミ子も、夫である木室
とは別の青年を60年前に戦争で亡くし、その写真をいまも大事
に保管している。ふたりの老人にとって、戦争によって、青春
は、違う道を歩みださせられたという思いがあるのだろう。そこ
が、判らないながらも、ふたりの違和感、あるいは、齟齬感の源
泉になっているように思える。やがて、エミ子も、大事な写真を
家庭の手伝いの女性に頼んで、土の中に埋めてもらい、それなり
の決着をつける。しかし、途中までしか弾けないピアノ曲は、い
くら練習を繰り返しても、同じ部分で、挫折してしまう。

村上大輔からの手紙は、木室にとって、青春と戦争体験を忘れな
い大事なよすがとなってきたが、ある日、村上の母親(桃井かお
り)から手紙が届く。不安に駆られて手紙の封を引きちぎる木
室。手紙は、大輔の自室での突然の自死を告げるものであった。

慟哭する木室。青春と老い。戦争体験。過去と未来。生と死。村
上の死は、木室にとって、自分の青春の死であり、若いまま死ん
で行った同世代の改めての死、迫って来た老いの果ての死でもあ
るのだろう。90歳の老監督の胸底に今も蟠る戦争体験のイメー
ジが、喪失感とでもいうのであろうか、それが、こういう形で、
噴出したのであろう。木村の分身は、木室ばかりではなく、村上
も、そうなのであろう。村上の左腕に刺青されたマリリンモン
ローは、木室の女神なのだろう。

木室が、村上青年に託そうとした思いを充分に受け止めていなが
ら、病気の村上は、病気の故に、期待に応えられず自死してしま
うが、それは、まさに、喪失感の洞(うろ)に呑み込まれるよう
にして、自死してしまうのである。心身が健全なら、どれだけ、
木室の期待に応えたかったであろう村上の無念さがひしひしと伝
わって来て、この場面では、私は、涙が止まらずに、困ってし
まった。

去年急逝した観世榮夫が、「無言館」の館長役で出て来たり、映
画撮影の場面では、監督役で、鈴木す食清順監督が出て来たりす
るほか、脇を固めて、浅野忠信、小倉一郎などが、出演してい
る。

木室が、妻と共にいる病院の屋上から見える周辺の山々の景色に
既視感があったと思っていたら、最後のクレジットロールの中
に、山梨県甲州市の文字を見掛けたので、甲府盆地の北東部から
見た周辺の山塊と知れた。

車が、ひっきりなしに通るのが伺える丸い鉄橋が、遠くに見え
る。蛇行する川のこちら岸で、妻を乗せた車椅子を押して来た木
室が佇んでいる。ラストカットで、映画は終る。

映画「夢のまにまに」は、10月18日、東京神保町の岩波ホー
ルで、特別上映される。11月14日まで。
- 2008年9月3日(水) 17:19:43
9・XX  国立劇場小劇場で、松尾塾子供歌舞伎(東京公演、
8・31)の舞台を拝見した。毎年、拝見しているが、今回は、
意欲が感じられて、興味深かった。

松尾塾は、歌舞伎を通して、伝統と文化を学ぼうと設立され、去
年、創立20周年を迎えた、公演の方も、今回で、20周年と
なった。松尾塾子供歌舞伎では、去年、「扇的西海硯」を41年
ぶりに復活公演したが、今年は、三大歌舞伎のひとつ「義経千本
桜」の「釣瓶鮓屋の場」という1時間半余りの長丁場の舞台を息
を漏らさない緊張を維持して演じたほか、「身替座禅」で知られ
る狂言の大曲「花子」を独自にアレンジした新作「浮気聟」を上
演するなど、大歌舞伎でも、観ることが出来ない演目を掲げ、5
歳から15歳までの、幼少年少女たちの舞台とは信じられないよ
うな出来栄で、意欲が感じられた舞台であった。

今回の演目を紹介しよう。
「京人形」。江戸時代の舞踊劇。作詞は、三代目桜田治助。歌舞
伎座では、「銘作左小刀 京人形」と題して、ときどき上演され
る。常磐津と長唄の掛け合い。甚五郎によって、魂を吹き込まれ
た京人形だが、男の魂は、女性化せず、ということで、京人形に
似合わない男っぽい動き。それが、女の命という手鏡を人形の胸
に入れると、恰も電池を入れたロボットのように、活発に動き出
すという趣向。木彫りの人形は、左甚五郎が見初めた京の廓の遊
女・小車太夫に似せて作った。しかし、男の魂を入れて作った、
左甚五郎入魂の人形だけに、命を吹き込まれると同時に、男の気
持ちも封じこまれてしまった。それが、手鏡を胸に入れると女っ
ぽくなる。人形の動きは、男女の所作を乗り入れている形だ。

松尾塾のものは、竹本と常磐津の掛け合いという、オリジナル作
品で、1995年に上演されていて、今回は、再演となる。前半
は、甚五郎の仕事場で、ここでの展開は、大歌舞伎とほぼ同じ。
後半は、吉原仲の町、つまり、遊廓の華やかな場面になり、甚五
郎が、人形相手に御大尽遊びをしてみせるという趣向。古典を
ベースにしながら、シュールな作品となっている。大歌舞伎の向
うを張って、独自の作品を仕立て上げるというのは、松尾塾に
脈々と流れている江戸・東京の「小芝居魂」を見るようで、私な
どは、その意気や良しと、それだけで嬉しくなる。

竹本が、竹本幹太夫、三味線、鶴澤慎治。常磐津の3人の太夫の
ひとりは、常磐津一巴太夫(人間国宝)というから、子供たちの
舞台も、侮れない。下座音楽も、皆さん、本格的なメンバーであ
る。

次いで、先に簡単に紹介した「義経千本桜」の「釣瓶鮓屋の
場」。14歳少年の「いがみの権太」、13歳少年の「弥助」、
同じく「弥左衛門」、14歳少女の「お里」、15歳少女の「梶
原景時」、12歳少女の「若葉内侍」、5歳少年の「六代君」な
どという配役。こういう幼少年たちの「役者衆」が、大歌舞伎に
負けずに、きちんと長丁場の舞台を維持するから、興味深い。

さて、最後は、「浮気聟」。「身替座禅」で知られる狂言の大曲
「花子」を独自にアレンジした新作。「身替座禅」は、主人の山
蔭右京、奥方玉の井、家来の太郎冠者、愛人の花子(はなご)
が、登場する。右京は、座禅をするといって、玉の井を騙して、
花子に逢いに行くために、太郎冠者を身替わりにするが、その
「仕掛け」が、奥方にばれて、奥方が、太郎冠者の身替わりに座
禅をするという趣向。座禅の主が、太郎冠者から玉の井に替った
のを知らずに、良いご機嫌で、逢引から戻ってきた右京は、浮気
がばれて、玉の井に追い回されるという筋立てだ。

松尾塾版は、太郎冠者と花子が、相思相愛の関係で、玉の井を加
えて、3人が、大名藤枝左近(右京同様の人物造型)を懲らしめ
るという趣向。前半は、狂言をベースにした作品らしく、松羽目
ものの大道具だが、後半は、桟敷、屏風という簡略な道具立て
で、花子のいる座敷という趣向。灯火をつけない酒宴。薄暗い灯
の元、花子と玉の井を見間違える左近、やがて、月が出て来て、
明るくなると、浮気がばれるという展開。新しい、未見の演目を
観るのは、いつもワクワクする。

こちらの、常磐津の太夫は、さきほどと、皆同じで、常磐津一巴
太夫(人間国宝)も、参加している。作曲も、一巴太夫が担当し
た。
- 2008年9月3日(水) 14:57:33
8・XX  27日の、歌舞伎座の雨量歌舞伎の千秋楽より前
に、第1部から第3部までの劇評を本日、先ほど、一気に掲載し
た。目玉は、「野田版 愛陀姫」か、「らくだ」か、はたまた、
別の演目か。どれからでも、お読み下さい。
- 2008年8月22日(金) 18:56:57
8・XX  「民衆の鼓動 韓国美術のリアリズム 1945ー
2005」という美術展を見て来た。第2次世界大戦の戦後
(1945年〜)、朝鮮戦争(1950年6月ー1953年7月
休戦)の戦後を含めて、韓国の歴史が、韓国の美術界に残して来
た爪痕が、絵画、版画、彫刻、写真、映像など、およそ110の
作品をトレースすることで、理解できる。特に、1980年代の
韓国は、民主化運動や高度経済成長が、社会を激動させてきただ
けに、当時の作品には、生々しい爪痕が残っていた。しかし、こ
うした爪痕は、日本では、これまでは、あまり、大系だてて紹介
されて来なかった。今回、焦点を当てられたリアリズム系の「民
衆美術」は、それ以前のモダニズムへの反発と共に、当時の激動
する韓国社会を映し出して来たと言われている。リアリズムは、
韓国では、北朝鮮の社会主義リアリズムに通じるとして、「反
共」の視点から、弾圧の対象になった。リアリズムの画家たち
は、北朝鮮へ渡ったり、日本へ密航したりした。

主催の府中市美術館、韓国国立現代美術館が、まとめたパンフ
レットには、「知られざる『民衆芸術』の全貌を初めて紹介する
展覧会」と、強調している。

1947年に作られた金萬述(キムマンスル)作の「解放」とい
う男性のブロンズ像は、縛られていた縄をほどき始めた姿が描か
れている。右手は、後ろ手のままで、未だ縛られている。やっと
自由になって、前に廻された左手は、ほどかれた縄の一端を持っ
ている。高さ、70センチの像。痩せた裸の上半身。猫背。喜び
というより、まだ、怨念が強く出た顔の表情。私が何よりも印象
深く思ったのは、裸足の、足の指の節くれだった。このごつごつ
した節くれが、この男性の戦争中、日本軍に迫害された苦難を雄
弁に物語っているように思えたのだ。

1953年発表の写真。街角の壁に、ひとりで寄り掛かっている
帽子の青年。着古した服装が、貧しさを示している。無言のま
ま、俯いて、立っている。胸には、「求職」と書いた紙をベルト
代わりの、細い紐で、結わえ付けている。職を求めて、動き回っ
たり、声を出したりする元気もないように見受けられる。街角の
背景には、職を持っていると思われる中年の男が、生き生きとし
た表情で、知り合いと立ち話をしている姿も見える。その後ろに
は、歩いている人の後ろ姿が、顔にかかっているため、表情が判
らないが、白い帽子を被り、白い制服姿の、軍人と思われる人物
が、歩いて来る。青年の周りだけ、半径数メートルで、誰も寄り
付いていないような感じである。林應植(イムウンシク)の「求
職」という写真だ。

40代で、肝硬変で亡くなった呉潤(オユン)の作品は、絵画や
版画など多数が出品されている。「晩年」となってしまった
1980年代の作品が、多い。リアリズムを標榜するグループ
「現実」の中心として活動し、「民衆芸術」のシンボルとなって
いる作家だ。詩人の金芝河とも交流を深めた。出品された木版画
の「踊り」(1985年制作)では、彫り残された太い線が、激
動へ向けて噴出する民衆の姿を鮮やかに切り取っている。

1990年制作の油絵。金宰弘作の「空」。直径2メートル44
センチの丸い大作。どうやら、画家は、穴のなかから空を見上げ
ているようだ。一方、外から穴のなかを見下ろす白いワイシャツ
姿の男、女、子供の姿が、見える。左端には、穴のなかを覗かず
に、頭を抱えて、上を向き、歎き悲しんでいる男がいる。晴れ上
がった空は、雲があるものの、明るい。だが、穴のなかから見え
る光景は、誰が見ているのだろう。画家の視点は、誰の視点だろ
う。そう。それは、墓穴に埋葬されようとしている死者の視線で
はないのか。良く見ると穴のなかを見下ろしている白いワイシャ
ツ姿の男の背景には、黒い楯に隠れて見えにくいが、複数の制服
姿の、警察の機動隊員のような人たちが、描かれている。死者
は、国家反逆の罪で、虐殺された犠牲者かも知れないし、あるい
は、デモで暴行を受けて、倒れているけが人が見た空かも知れな
い。

1996年制作の絵画(ミクストメディア)。洪成潭(ホンソン
ダム)作の「浴槽ー母さん、故郷の青い海が見えます」は、浴槽
の断面のなかに、両目を開いた裸の青年の姿が、描かれている。
浴槽の水面と同じレベルの高さで、故郷の空が描かれ、青年の視
線の先には、故郷の、懐かしい青い海が、松の生えた崖や離れ小
島と共に描かれているが・・・。どうも、青年の表情や姿勢がお
かしい。絵の上半分には、青年の上にのしかかるように、黒い人
影が描かれていて、このうちの一人は、見えないが、後ろ手に縛
られていると見られる青年の身体を浴槽の水面のなかへ押し込ん
でいるように見える。つまり、これは、都会に出た青年の、望郷
の絵ではなく、反逆の罪で国家権力に捕らえられた青年に加えら
れている「水拷問」の様子を描いた絵なのだ。青年の視線の先に
あるのは、拷問による苦悶の果てに青年が、末期の意識のなか
で、感知した最期の光景(幼い頃見た懐かしい光景)なのであろ
う。青年とは、画家本人であるという。

「韓国近現代史」や「韓国現代史」など歴史と民衆のかかわりを
寓話的なテーマに昇華させて描いている申鶴●(《徹のギョウニ
ンベンがサンズイ》、シンハクチョル)も、2メートル×1メー
トル22センチの油彩カンヴァスを16枚、横に繋げた大作の
「韓国現代史」シリーズの「甲●(《石の下に乙》、カプトリ)
と甲順(カプスニ)」を出品している。2002年の作品。日本
でいえば、「太郎と花子の物語」というような、タイトルだが、
左から、故郷の農村光景。村を出ようとしている若いふたり。男
の胸を掴む太い手。左から右へ。戦車のような、列車のような、
黒々とした巨大な機械が、延々と続く。機械の上には、歴代の権
力者たちの群像。下には、民衆の群像。繁華街の夜景。男女たち
の裸像。セックス。スーパーマン。スーパーウーマンもコラー
ジュされている。韓国の現代をごッた煮のように、イラスト画の
ようなタッチで、描いている。スーパーリアリズムの画法だ。申
鶴●(《徹のギョウニンベンがサンズイ》、シンハクチョル)の
「田植え」は、上半分の「収穫」と下半分の「田植え」に絵柄を
分けて、作家の故郷の田植えを描いた作品だが、上半分が、北朝
鮮の白頭山の金日成の生家を讃えた絵柄だとされて、画家は、連
行され、国家保安法違反の判決を受けたため、作品は、いまも、
ソウル地検の倉庫に押収されたままになっているので、それを再
生した絵が、今回は、出品されている。

「民衆の鼓動 韓国美術のリアリズム 1945ー2005」展
は、府中市美術館で、8月24日(日)まで開催。
- 2008年8月16日(土) 20:52:10
7・XX  7月の歌舞伎座の劇評は、昼の部、夜の部とも、サ
イトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。昼の部:狐忠信編の
「義経千本桜」と、夜の部:泉鏡花劇二題という組み合わせであ
る。
- 2008年7月26日(土) 21:23:01
6・XX  6月の歌舞伎座は、27日に千秋楽を迎えたけれ
ど、我が方のサイトの「遠眼鏡戯場観察」は、本日、やっと、夜
の部の劇評を書き込み、なんとか、6月中に、千秋楽を迎えるこ
とができた。さきほど、劇評を書き終え、サイトに書き込んだの
で、関心のある人は、見てください。

今回は、馴染みの演目が多く、劇評を書く視点を見つけるのに苦
労した。目玉は、21年ぶりの上演ということで、初見の「生き
ている小平次」で、シンプルながら、奥行きのある舞台で、読み
込み甲斐があった。「すし屋」は、30年ぶりという吉右衛門
が、二代目松緑の舞台を再現させたという。「身替座禅」では、
仁左衛門が、歌舞伎座では、初演という、滑稽味のある右京を演
じて、観客を笑わせた。
- 2008年6月29日(日) 12:45:30
6・XX  宮城県と岩手県の計境に近い内陸部で、大きな地震
が起きた。大勢の人が亡くなり、山塊も破壊された。被害は、調
査が進むに連れて、さらに、拡がりそうである。

その日、朝の一報に接しただけで、歌舞伎座に行った。昼と夜の
通しで、歌舞伎を観た。幕間に、東北の知人にお見舞いのメッ
セージを送りながら、落着かない観劇となったが、その劇評を書
いた。取りあえず、昼の部の劇評をこのサイトの「遠眼鏡戯場観
察」に書き込んだ。慌ただしい、劇評になったかも知れない。
- 2008年6月15日(日) 22:20:29
6・XX  「ふるあめりかに袖はぬらさじ」(有吉佐和子原
作)は、07年12月の歌舞伎座で、生の舞台を観ているが、
「シネマ歌舞伎」という高性能デジタル映像で舞台を再現した映
画を試写会で観た。試写会の映像を元に映評を書こうと思いなが
ら、忙しさにかまけて、書き出さないうちに、東劇でのロード
ショー公開が、5月31日から、始まってしまった。

主演の玉三郎は、新派劇として、杉村春子から受け継ぎ、舞台の
軸になって、何回も、主役の「お園」を演じて来たが、歌舞伎役
者だけの配役で、それも、歌舞伎座の舞台で演じるのは、07年
12月の舞台が、初めてであった。玉三郎は、9回目のお園役で
ある。

演劇的に、新派劇か、新作歌舞伎か、といえば、まだ、新派劇。
歌舞伎の世界では、歌舞伎というのは、幕末以前(あるいは、明
治期の演劇改良運動以前)から遡った演目を指す。それを古典と
いう。新歌舞伎とは、明治以降、戦前までに、劇場外の作者の手
で作られた演目であり、戦後(と言っても、もう、60年を越え
る)に作られた演目は、新作歌舞伎という。新歌舞伎、新作歌舞
伎となるに連れて、歌舞伎味の乏しい、歌舞伎役者が演じる劇
も、歌舞伎の範疇に入れたりしているが、本来は、演出、様式
性、大道具などの使い方から見れば、厳密には、区別されてしか
るべきだろう。

「シネマ歌舞伎」は、2005年1月、3年前からスタートした
という、最近の試みで、高性能デジタルカメラ(1秒間に60フ
レームで、普通の24フレームの2・5倍)を使って、歌舞伎の
舞台を撮影し、音響も、数十本のマイクで収録し、映画館の最新
音響設備で6チャンネル再生をするもので、舞台より、アップで
見られると共に、科白もハッキリ聞えるという作りになってい
る。アップとロングで、舞台に強弱を入れるのは、映画独特の演
出とは言える。ただし、舞台構成は、歌舞伎の舞台を忠実に追跡
していて、映画として、編集をし直すようなことはしていない。

「シネマ歌舞伎」作品では、これまでに「野田版 鼠小僧」
(2005年1月公開)、「鷺娘」、「日高川入相花王」
(2006年4月公開)、「京鹿子娘二人道成寺」(2007年
1月公開)、「野田版 研辰の討たれ」(2008年1月公開)
があり、「ふるあめりかに袖はぬらさじ」は、6作品目となる。
さらに、「人情噺文七元結」が、今年の秋に公開が予定されてい
るという。

例えば、歌舞伎の舞台と違って、本舞台奥に書割りが無く、違っ
た趣向の大道具が置いてある。第一幕の「横浜岩亀楼の行灯部
屋」の場面など、観客席から見て部屋の向う(つまり、舞台の
奥)には、雨戸と障子があり、最初は、朝を迎えたばかりで、雨
戸が閉まっているから、部屋の様子さえ、暗くて良く見えない。
病気で寝ている花魁の亀遊(七之助)の様子を見に来た芸者のお
園(玉三郎)の声は、聞こえるのだが、姿が、はっきりしないと
いうほどの暗さであるが、これは、元々、映像的な演出なので、
映画には、むしろ、ぴたりとしているように思える。

やがて、雨戸が明けられ、朝の灯が、部屋の中に射して来るとい
う趣向である。さらに、障子が開けられると、空が見えるし、そ
こに立って、窓の外を見ているお園に言わせれば、横浜に港が見
えるという。この行灯部屋は、屋根裏にあるのだろう。お園と亀
遊とのやりとりの後、岩亀楼のお抱えの通辞(通訳)の藤吉(獅
童)が、部屋に入って来る。お園は、若いふたりの仲を素早く察
知する。吉原時代から姉妹のように付き合って来たお園と亀遊。
蘭学を学び、将来は、アメリカに渡り、医学を治めて、医者にな
りたいという藤吉。藤吉の渡した薬(と愛情)で、恢復しつつあ
る亀遊。物語の軸になる主要な人物たちの関係が浮き上がって来
る。

第二幕は、翌年2月の「横浜岩亀楼の引付座敷扇の間」。第一幕
から、3ヶ月後。岩亀楼があるのは、横浜の港崎(みよざき)遊
廓。安政6(1859)年、横浜開港に伴って作られた廓であ
る。岩亀楼は、実際にあった大きな遊廓。七之助演じる亀遊は、
実在の人物とも伝えられるが、アメリカ人の身請けを嫌って自害
した際に遺したとされる「露をだにいとふ大和の女郎花 ふるあ
めりかに袖はぬらさじ」という辞世の和歌は、攘夷論者によっ
て、作られたものといわれている。ここでは、第一幕の3人に加
えて、アメリカ人を案内して来た客の薬種問屋の主人(市蔵)、
アメリカ人(弥十郎)、岩亀楼主人(勘三郎)、芸者(笑三郎、
春猿)、幇間(猿弥)、唐人口(外国人専用)の遊女(福助、吉
弥、笑也、松也、新悟、芝のぶ)らが登場し、歌舞伎座の本舞台
一杯に設えられた「扇の間」は、大賑わい。その挙げ句、唐人口
(外国人専用)の遊女が気に入らないアメリカ人は、薬種問屋の
相方として現れた亀遊に一目惚れをしてしまい、六百両で、身売
りする話が、まとまってしまう。藤吉と恋仲で、アメリカ人の囲
い者になりたくない亀遊は、自害をしてしまう。開化横浜の風俗
が、描かれる興趣ある舞台である。

第三幕は、2ヶ月後の、同じ部屋。亀遊の死を報じる瓦版が出
て、記事には、辞世の歌が添えられて、攘夷遊女の死が称えられ
ていて、話題になっているという。その影響が出始めていて、早
速、浪人の客たち(権十郎、海老蔵、右近)が、亀遊自害の部屋
を見せて欲しい訪ねて来る。現場となった亀遊の部屋を見せる
と、あのような部屋で亀遊を死なせるとはけしからんと浪人たち
は怒り出す。岩亀楼主人(勘三郎)は、苦し紛れに、「扇の間」
を亀遊の死に場所だと偽りを言い、自害の様子の一部始終を見届
け人としてお園を指差してしまう。お園も主人の意向を受けて、
偽りの話をでっち上げると、浪人たちは、満足して帰って行く。
次の客たち(友右衛門、亀蔵、男女蔵)が来るとお園は、攘夷遊
女亀遊の一代記を得々と話すようになる。虚偽を語るときの、お
園の生き生きとした表情は、玉三郎の当り役としての輝きが加
わっているようだ。この辺りは、アップで、表情豊かな玉三郎
が、スクリーンに大写しされるので、生の舞台より、映画の方
が、迫力がある。

こうして、「ふるあめりかに袖はぬらさじ」という新作歌舞伎の
テーマは、次第に鮮明になって行く。つまり、「虚偽を売り物に
する人たちの物語」である。何やら、マスコミを騒がせている各
地の老舗の食品店の虚偽騒動という、いまの話題と直結してくる
ではないか。

第四幕は、5年後の、同じ部屋である。「烈女亀遊自決之間」と
いう看板が架かっている。牢内で獄死した攘夷派の大橋訥庵が主
宰した「思誠塾」の塾生たち(三津五郎、橋之助、門之助、勘太
郎、段治郎)が、亡き先生の祥月命日の集いをしている。攘夷遊
女亀遊の話が聴きたいということになって、お園が呼ばれ、定席
の亀遊の一代記を語る。まさに、この場面は、映画の真骨頂で、
玉三郎の魅力たっぷりの場面が続く。お園は、得意の余り、勇み
足。お園が、1862(文久2)年に亡くなった亀遊の辞世の歌
を1857(安政4)年に、吉原で馴染みとなった大橋訥庵から
教わったといったから、岩亀楼の仕組んだ「虚偽」が、「思誠
塾」の塾生たちには、ばれてしまう。お園は、塾生らに斬られそ
うになるが、攘夷派が攘夷遊女亀遊を喧伝したお園を斬って捨て
るのも、問題になるということで、助けられる。雨が降る中、ひ
とり酒を呷り、自分の話は、全て本当だと嘯くお園の孤独な姿
が、印象に残る。

勘三郎が演じる岩亀楼主人の嘘は、攘夷遊女という虚偽を、商売
として利用するための虚偽で、分かりやすい儲け主義だが、玉三
郎が演じるお園の嘘は、フィクションを語ることの快楽としての
虚偽。虚偽は、いつの間にか、虚実の裂け目をすり抜けて、嘘か
真か、判らなくなってしまっている。麻薬としての虚偽。それ
は、玉三郎の科白廻しの巧さが、大いに力を発揮しているように
思えた。玉三郎の自然な科白。力みがなく、サラッとしているの
だが、説得力がある。当たり役の自信が滲み出ている。新派劇で
あれ、新作歌舞伎であれ、そういうことに対するこだわりを忘れ
て、玉三郎に注目し続けさせた舞台であった。

勘三郎は、狡い岩亀楼主人を演じていて、巧みであった。唐人口
遊女マリアを演じた福助は、「笑われ役」で、リアリティがあ
り、最近の福助は、どんな役柄でも、力を抜かずに演じていて、
地力を確実に身に付けていることが伺われる。七代目歌右衛門襲
名が、近づいているように思われる。花魁の亀遊を演じた七之助
は、行灯部屋で、儚げに病んでいて、好演。女形の味が、滲んで
いた。

舞台より映画の画面の方で、私が、好印象を抱いたのは、獅童で
あった。亀遊の恋人で、岩亀楼のお抱えの通辞の藤吉を演じた獅
童は、玉三郎、七之助、勘三郎を相手に仕どころの多い役で、お
いしい役どころ。きちんと演じていて、好感が持てた。

「思誠塾」の塾生たち役者のうち、三津五郎、橋之助、門之助、
勘太郎、段治郎らは、大団円への伏線を作る。その前の浪人客で
は、権十郎、海老蔵、右近らが、また、旦那衆では、亀蔵、男女
蔵、友右衛門が、唐人口の遊女らでは、吉弥、笑也、松也、新
悟、芝のぶが、それぞれ笑劇の役割を担う。ひとり洋服を着て、
件の外人客イルウスを演じた弥十郎、狂言廻しの薬種問屋の市
蔵、幇間を演じた猿弥、芸者群のうちの、笑三郎、春猿、女中の
歌女之丞、遣り手の守若、帳場の寿猿など、随所に、澤潟屋一門
が、顔を出していた。

贅言:見えない海。舞台の奥、大道具の窓の光だけで、描かれ
る。しかし、最後に、窓の外に大写しにされるのは、船か。老
練、戌井市郎の演出の妙なのか、どうか。抽象的で、良く判らな
い演出だったが、玉三郎の演技の妙を妨げはしない。「シネマ歌
舞伎」は、役者の表情を大写しするアップでは、舞台よりも、迫
力がある。歌舞伎の特等席といえども、舞台と同じ平面で、役者
の演技を観ることは出来ないからだ。それでいて、ときどき入る
ロングの映像で、舞台のざわめきが入ると、とても、臨場感があ
る。歌舞伎も、見得、隈取り、睨みなどは、映画的な手法のアッ
プが、物理的に使えなかった時代の「アップの演出」(詳しく
は、拙著「ゆるりと江戸へ ーー遠眼鏡戯場観察(かぶきうおっ
ちんぐ)参照)というのが、私の持論であるが、映像的なアップ
は、生の舞台と違って、やはり、「シネマ歌舞伎」の大きな魅力
になるだろう。

東劇でのロードショー公開は、6月27日まで。本編は、上映時
間が、160分で、途中休憩が入る。そのほか、梅田ピカデ
リー、MOVIX京都などで順次全国ロードショー展開の予定。
- 2008年6月2日(月) 18:58:07
5・XX  多忙で、自分のサイトは、ほったらかしで、日本ペ
ンクラブの電子文藝館の仕事をしている。サイトの日記への書き
込みも、5月に入って、きょうが、初めてという体たらく。

今月の歌舞伎座の舞台は、10日に昼と夜の通しで、観に行った
のだが、劇評をまとめる時間が取れず、やっと、きょうまでに、
昼と夜の劇評を脱稿した。

今回は、馴染みの演目ばかりの上演なので、馴染みの演目を贔屓
の役者たちで演じる舞台を観る場合の楽しみ方というテーマを設
定して、劇評を書いてみた。

興味のある人は、当サイトの「遠眼鏡戯場観察」のコーナーを覗
いてください。
- 2008年5月19日(月) 17:57:45
4・XX  大型連休の前半、連休の谷間にも、休暇を取れたの
で、きのう、きょうと歌舞伎座の劇評まとめに集中した。4月の
歌舞伎座は、26日に千秋楽を迎えてしまい、劇評は、開演中に
は、間に合わなかったが、舞台を観た人には、いくらかでも、参
考になるだろう。夜の部の劇評も出揃った。夜の部は、異色の配
役の妙の「勧進帳」が、おもしろかった。

5月の歌舞伎座は、團菊祭。昼の部が、海老蔵の「義経千本桜〜
渡海屋・大物浦〜」、5人の役者による変化舞踊の「喜撰」、團
十郎の「幡随長兵衛」。夜の部が、菊五郎、團十郎らの「白浪五
人男」、松緑の「三升猿曲舞」。
- 2008年4月28日(月) 16:26:41
4・XX  連休の前半の休みを利用して、滞っていた映評、劇
評をこの「双方向曲輪日記」と歌舞伎劇評「遠眼鏡戯場観察」
に、書き込んでいる。「遠眼鏡戯場観察」では、26日に千秋楽
を迎えた4月の歌舞伎座の劇評のうち、昼の部は、さきほど、書
き込んだ。夜の部は、この後、手をつけるが、あすにでも、書き
込みたい。
- 2008年4月27日(日) 19:31:17
4・XX  青年劇場公演「呉将軍の足の爪」を観る。韓国で、
朴祚烈原作の「呉将軍の足の爪」が、発表されたのは、1974
年であった。しかし、台本は、事前検閲で、上演禁止処分とな
り、日の目を見なかった。いま、日本では、中国人の李纓監督作
品の映画「靖国YASUKUNI」が、相次ぐ政治家の介入で、
上映禁止に近い状態になっていることを思い出してしまう。初演
されたのは、14年後の、1988年で、前年の1987年6月
は、全斗煥政権から廬泰愚政権に替り、民主化運動が展開された
ことが、大きい。「呉将軍の足の爪」は、韓国の大きな演劇の賞
である百想芸術大賞の大賞、演出賞、戯曲賞を受賞し、現代韓国
演劇のスタンダード的な作品として知られ、日本語以外にも、英
語、ドイツ語、フランス語にも翻訳されている。

朴祚烈は、1930年、現在の北朝鮮に含まれる咸鏡南道に生ま
れた。中学校教員などを経て、1950年、朝鮮戦争勃発時に一
兵卒として韓国軍に入隊した。戦後(朝鮮戦争は、1953年、
休戦)は、北朝鮮に帰れず、家族とも離別したまま、12年間の
軍隊生活を送る。1963年、ドラマセンター演劇アカデミー研
究過程(現ソウル芸術大学)入学、65年、「ウサギと猟師」
で、東亜演劇賞受賞。現在、韓国芸術総合学校演劇院客員教授。
大韓民国芸術院(アカデミー)会員。

初演時、「呉将軍の足の爪」は、韓国の巫女(ム−ダン)を劇の
進行役に見立てて、主人公の死に関わる死霊たちを呼び出す形
で、過去を物語らせるという演出で、劇全体を死者の魂を慰める
鎮魂儀式に見立てたという。

今回の瓜生正美演出では、巫女(ム−ダン)の代りに音楽担当
(クラリネット:白川毅夫、ハミング:五十嵐暁子)のふたりを
劇の進行役にしながら、主人公の農民・呉将軍(姓名である)と
その家族(母親、妻、牛)の悲劇を、コミカルに描いた。農民・
呉将軍は、未明に、星を見上げながら野良に出て、昼日中は、牛
を使って、畑を耕し、夕方、月を見上げながら家に帰るという貧
しいながらも、長閑な生活を送っていた。なにしろ、家から一里
四方の外には出たことが無いという小作人生活を送っていた。

牛が、人を愛し、お日さまが、笑い、木々が、歩き回る。メルヘ
ンタッチの開幕だ。ところが、ある日、郵便配達が、一通の召集
を配達して来る。実は、これが、同名異人宛のもので、つまり、
誤配達だったのだが、なぜか、すんなり、軍隊に入隊してしま
い、悲惨な下等兵隊生活を強いられることになる。

現在の日本では、虚偽のオンパレードで、「虚偽国家」というよ
うな名称も、最近では、見かけるようになったほど、深刻な社会
現象になっているが、この「呉将軍の足の爪」は、国家の虚偽、
軍隊の虚偽を浮き彫りにする、風刺の効いた悲喜劇的な不条理劇
である。そこには、原作者の朴祚烈の身に起きた、不条理そのも
のの、戦争体験が色濃く裏打ちされているように思う。

ある分断国家がある。「東の国」と「西の国」が、対立してい
る。東西の軍隊が、戦争状態に入っているが、「東の国」の小作
人・呉将軍は、貧しいながらも、おっ母や婚約者のコップン、牛
のモクセとともに平和に暮らしていたのだ。そこへ、誤配達され
た召集令状で、軍隊に入れられた呉将軍にとって、戦争など怖い
だけで、日々の訓練でも、失敗ばかりしている。呉「将軍」は、
姓名であって、位階ではない。個人名の、虚偽の将軍というわけ
で、原作者の皮肉は、役名からして、効いている。同名異人宛
の、東軍からの召集令状の誤配達も、まさに、虚偽の召集令状
で、東軍での生活、小作人・呉将軍二等兵は、落ちこぼれ兵士、
つまり、虚偽の兵士同然で、ここでも、虚偽のオンパレード。ま
あ、兵士は、「駒」の代用品なんだから、むしろ、本質をついて
いるということか。ならば、次のようなエピソードも、本質的か
も知れない。

東軍では、兵士たちに爪を切らせた。戦死した場合に、戦場で
は、必ずしも、遺体を収集することが出来ない。頭髪、同様爪
は、遺体の一部として、遺族の元に届けられる。上官から、そう
命じられた時、小作人・呉将軍は、足の爪を切った。足の爪も、
手の爪、頭髪の代わり、つまり、足の爪=虚偽の遺骨(遺骨の代
用品)となるだろうという発想である。劇のタイトル「呉将軍の
足の爪」は、日本語にして、7つの文字だが、真ん中の「の」の
字を挟んで、左右は、虚偽の「位階」、「遺骨」ということで、
ほとんど、虚偽だけで構成されているというから、原作者の、軍
隊生活へのルサンチマンの深さを浮き彫りにしているのが、判
る。

東軍では、戦況が芳しく無いため、二等兵を使って、贋の情報を
西軍に送り込み、戦況の打開を図る作戦を立てた。根は善良だ
が、無能な兵士の利用法を思いついた司令官がいるのだ。思いつ
かれた無能な兵士とは、我等の呉将軍であった。二等兵を東軍の
工作員に仕立てて、西軍の捕虜にさせる。捕虜となるスパイとし
て、利用され(「虚偽の情報を敵陣に伝える」)、最前線に置き
去りにされるのだが、積極的に残置したように見せかける作戦
だ。

西軍は、東軍の工作員と誤認したまま、戦場に残置された無能な
兵士の呉将軍を捕虜にする。まんまと、東軍の作戦は、成功す
る。知らないということは、有能な武器になる。西軍から、呉将
軍のスパイとしての役割は、見抜かれる。が、呉将軍は、口を割
らない。知らないのだもの、口を割れない。とほほの、呉将軍
(そうでも無いよ、知らなくても、冤罪に仕立て上げられる例
は、日本の裁判史上多数あるから)。

西軍では、呉将軍は、有能なスパイと見て、呉将軍を拷問にかけ
る。朴訥な兵士も、演技の巧い、有能なスパイとして誤認され
る。朴訥な兵士という本質は、変わらないのだから、無能な振り
をした有能なスパイとして、西軍は、とうとう、呉将軍を銃殺刑
にしてしまう。虚偽のスパイの死である。

そのころ、最近、手紙が、途絶えた呉将軍のことを心配している
留守家族の元へ、改めて、東軍からの、本物の呉将軍宛の召集令
状が届き、先の召集令状は、誤配達だったことが、判るが、まさ
に、後の祭。虚偽の召集令状によって仕立てられた虚偽の兵士。

やがて、東軍から、呉将軍の遺骨、つまり、虚偽の遺骨(そう、
例の、足の爪)と感状が、おっ母と身重の妻のコップンのところ
に届けられる。虚偽の栄誉である。後の祭りの虚偽の宴である。

牛のモクセが、怒りまくる。軍事国家体制の中で、怒れない遺族
の怒りを代弁する。呉将軍の一家は、未だ、牛が怒ってくれたか
ら、溜飲が下がったけれど、偽装だらけの現代日本社会に住む私
たちは、溜飲も下げられないまま、虚偽の生活を強いられる毎日
である。牧歌的に幕を上げたメルヘンタッチの演劇空間は、幕切
れでは、軍事体制の、管理社会を皮肉る不条理劇に変身してい
る。不条理劇を得意とする朴祚烈の韓国風刺劇は、痛烈な実体験
に裏打ちされているだけに、普遍性を持って、私たちに迫って来
るように思えた。
- 2008年4月26日(土) 21:37:33
4・XX  今夏、封切り公開される日向寺太郎監督作品「火垂
るの墓」の試写会に行って来た。野坂昭如の小説「火垂るの墓」
の実写映画である。1945年6月の神戸の空襲で被災し、およ
そ3500人が無くなった。主人公の兄妹の母親も、亡くなっ
た。この空襲で、神戸は、半分以上が、灰燼に帰したという。軍
人の父親は、出征したまま、音信不通である。戦禍の、混乱の極
みの中で、孤児になった14歳の兄・清太と4歳の妹・節子の物
語。幼い妹を養い切れずに、亡くしてしまう兄の悲哀は、根底的
に戦争の悲哀と通じていることで、戦後文学のなかでも、記念す
べき反戦文学のひとつになっている作品である。

以前に、アニメ映画で評判を呼んだが、今回は、実写映画であ
り、反戦映画3部作「TOMORROW/明日」(88年)、
「美しい夏キリシマ」(03年)、「父と暮せば」(04年)を
遺して、06年4月に亡くなった黒木和雄監督の下で、助監督を
務めていた日向寺太郎が、黒木監督の仕事を受け継ぐというか
ら、見逃せない作品だ。戦争体験のない者も、戦争体験を風化さ
せずに、引き継がなければならないが、41歳の日向寺監督は、
それを、どのようにして果たすだろうか、という点も、興味があ
る。

まず、第一に感じたのは、「水面」の描き方が、効果的だという
印象だった。最初は、なぜか、水面のシーンが、よく出て来るな
という程度に感じただけだったが、やがて、どうも、この水面の
シーンの繰り返しは、かなり意図的だぞ、と感じるようになっ
た。そこで、考えた。私の推論は、以下のごとし。

原題の「火垂るの墓」は、もちろん、第一義的には、作中にも出
て来るように、兄と妹が、戦後の焼跡でも、健気に生息する螢
の、多数の墓を作るというエピソードの象徴されるように、
「螢」の意であるが、野坂が、敢えて、「火垂る」という字を宛
てたように、「火が垂れる」、つまり、空から、火が垂れる=空
襲という意味であろうし、「火垂るの墓」は、空襲で犠牲になっ
た、自分達の親を始めとする多くの人々を鎮魂する墓という意味
であろう。

黒木和雄監督は、声高には、反戦と叫ばなかったかも知れない
が、遠い戦争の影の下で、犠牲になって行った人々の姿を3部作
で、淡々と描いていた。それを学んでいる日向寺太郎監督も、
「火垂るの墓」の烈火のイメージに対して、水のイメージを随所
に入れることで、淡々と反戦メッセージを送り込んでいるように
思えたのだ。被災後、西宮の遠縁の親戚を訪ねる兄と妹は、おば
に邪険に扱われる。町内会の人たちも、いろいろな人がいるの
で、暮らしずらい。そうした中で、清太らに気遣いをしてくれる
中学校の校長先生の一家がいる。校長一家の、清太と同じ年頃の
娘への、ほのかな恋心が、清太に芽生える。ふたりで、歌を唄う
場面には、池が出て来る。歌は、「濡れた子馬の鬣を・・・」と
いう軍歌なのだが、背景が、静謐なだけに、少年少女の、淡い恋
心をさり気なく映し出す。

さらに、預けていた母の着物を勝手に食料に変えられたりして、
怒った清太は、とうとう、おばの家を出て、節子とふたりだけ
で、池のほとりの横穴式の防空壕で暮らし始める。というよう
に、節目節目で、日向寺監督は、池の「水面」を巧く使ってい
る。水面は、また、原作も、映画も、コアとなる生き物にとって
も、母体となる空間であるが、それは、また、後ほど。というこ
とで、「火垂るの墓」の映像化のポイントは、「火と水」という
思いがあるのだろうと、感じた。そう思えば、その思いが、ひし
ひしと伝わって来る。映画「火垂るの墓」は、「火と水の狂想
曲」というイメージが、ぴたりと当てはまって来ることだろう。

まず、冒頭の、雨のシーンがある。焼跡のぬかるみ道を歩く少年
は、妹を背負っている。神戸の街の炎上空撮シーンが、遠い戦争
を俯瞰させる。火の海となった街の光景は、私には、先の阪神淡
路大震災を思い出させる。清太ら兄妹が、やっとの思いで立ち
戻った御影の実家、焼け崩れ、辺りには、焼け跡が広がっている
ばかり。かろうじて、避難所に救出されていた母親(松田聖子)
も、全身火傷で、瀕死の状態。死に目には、あえたものの、間も
なく、母親は、息を引き取ってしまう。夙川の親戚を頼るよう、
母親は、言い残す。

焼け残ったおばの家に辿り着くが、おば(松坂慶子)も、半年前
に夫を亡くし、兄妹より、幾分年上の従兄弟たち、ふたりの育ち
盛りの子どもを抱えて、ぎりぎりの生活をしている。最初、けん
もほろろに清太らを拒絶する未亡人のおばは、清太が持っていて
食料に気がつくと、ふたりの居候を許すのだが、やがて、食料が
乏しくなると、本心を剥き出しにして、ふたりを邪見に扱うの
で、妹の節子が、居たたまれなくなってしまう。幼子の心には、
大人たちのごまかしを許容できるスペースは、無いのだ。そし
て、ふたりは、池の傍の防空壕で、夜露を凌ぐ生活を強いられる
ようになるというわけだ。4歳の節子は、戦争を超越し、時代を
超越し、世相を超越し、大人の都合を超越して、生きている。

夜になると、池の畔では、茂みから沸き上がって来た螢が水面を
乱舞する。そう、水面は、螢の本拠地だ。無数の螢の乱舞は、先
に観た神戸の街の炎上空撮シーンを思い起こさせる。清太は、節
子のために、捉まえた螢を暗い防空壕の中で、解き放す。壕の中
で、螢を夢中になって追い掛ける節子。兄妹、ふたりだけの愉し
い時間が、過ぎる。ひとときの、心の平安が、幼いふたりを満た
す。心優しい節子は、そういう不自由な生活でも、綺麗に輝いて
いた螢が、死ぬと、ひとつひとつに名前を付けた螢のために、小
さな墓を作り始める。小さな墓は、戦争で、犠牲になった人たち
が、増えるように、増え続ける。小さな墓標群は、戦争で命を亡
くした人たちの鎮魂の空間である。蛍の明りは、美しいが、炎の
象徴でもあるのだろう。池や水面、つまり、水は、当然ながら、
炎の対極にある。螢は、火と水を結ぶ。戦争と平和を結ぶ。螢
は、また、ふたりの兄妹の儚い生涯を象徴しているかも知れな
い。戦争は、幼い子どもらにも、過酷な人生を強制している。

しかし、兄妹が過ごした愉しい時間。それは、幻想でしかない。
やがて、ふたりの持っていた食料も尽きる。空腹感が、ふたりを
襲う。兄は、同じような少年から食べ物を奪ったり、空き巣をし
て、食料を盗んだりして、妹を必死に養おうとするが、節子は、
次第に食べることを拒否するようになり、衰弱して行く。

やっと、戦争の終る日がやって来たけれど、妹は、それから、数
日後に亡くなってしまう。兄は、池の畔の、螢の墓群の隣に穴を
掘り、小さな妹の遺体を埋める。

再び、雨のシーン。ひとりぼっちになった清太が、歩いている。
やがて、精根尽きて、倒れる。地面に着けた清太の横顔に雨は、
容赦なく降り続く。なんとか、起き上がって、ひとりで歩いてゆ
く清太だが、どこまで歩けるというのか。

節子を演じた5歳の畠山彩奈は、愛くるしいだけで無く、女優と
しても、天賦の才が感じられた。清太を演じた吉武怜朗は、妹に
優しい兄の中学生を、粛々と演じていた。憎まれ役の未亡人のお
ばを演じた松坂慶子は、好演。先の「母べえ」で、優しい母親を
演じた吉永小百合も、たまに、こういう憎まれ役を演じると女優
としての幅が広がるのに、残念。7年ぶりの映画出演という兄妹
の母親を演じた松田聖子の、女優としての姿を、私は、初めて観
たが、儚げで、悪くは無い。その母親のところに兄妹を案内する
神戸の町内会長を演じた長門裕之は、味のある人情派であった
が、西宮の町内会長を演じた原田芳雄は、時代精神に洗脳され
て、軍国主義の最先端を行く庶民派の実相を、独特の味付けで、
こってり滲ませていて、存在感があった。

黒木和雄は、自家薬篭中の手際で、静謐で、美しい映像で、遠い
戦争の影を描くのが巧かった。日向寺太郎も、若い感性で、師匠
の手法に近づこうとしているが、まだ、黒木演出をなぞっている
だけという印象が、拭えなかった。兵庫県内の各地を巧く使い、
オールロケで作品を仕上げたという。黒木和雄組からは、ベテラ
ン俳優たちが、脇を支え、撮影、美術、録音、照明など、製作ク
ルーも、生前の黒木が、「年少の友人」と呼んだ日向寺太郎の仕
事を、ぎりぎり精一杯支えたことだろう。戦争体験も、そうだ
が、師匠からの伝承も、リレーになぞらえれば、バトンを受け取
る側の、認識の問題だろう。積極的に「後ろに」踏み込んで、バ
トンを受け取るのか、先行走者が、バトンを手渡しに来る位置
で、待っていて、バトンを受け取るのか、という認識の問題だろ
うと、思う。今回の、日向寺太郎は、予め、決められた位置に
立ったままでは無かったか。それが、私には、黒木のような、
「余白」が、感じられなかった、という印象になったのでは無い
かと、思う。「余白」、あるいは、「糊代」のようなものが、感
じられると、安心してみていられる。日向寺太郎の、さらなる、
精進を期待したい。

1945年6月から8月。神戸・西宮。幼い兄妹の「儚い夏」を
描いた「火垂るの墓」は、ことしの7月、東京・神保町の岩波
ホールで、封切り公開される。
- 2008年4月26日(土) 18:35:23
4・XX  4月の上旬から公開予定の靖国神社をテーマとした
ドキュメンタリー映画「靖国YASUKUNI」(李纓=リ・イ
ン監督作品)は、製作費の一部を文化庁が管轄している助成金の
「日本芸術文化振興基金」を受給していることを理由に、政治家
が、映画の公開前に介入した結果、当初予定していた映画館が、
上映を自粛するところが相次いだ。5月から、改めて、上映を開
始する映画館が出始めたが、さらに、別の政治家が介入し、出演
者とその家族に圧力をかけて、出演シーンの削除を申し出させる
という事態になっている。いずれも、政治家が、未公開の表現作
品である映画を日陰に置いたまま、日の目を見ないようにさせよ
うとしているように、私の目には、映る。中国人監督が、靖国神
社をテーマに取った映画だからか、という疑問が、さらに強く
なった。

映画「靖国YASUKUNI」では、大きく分けて、3つの映像
の塊がある。

1)2005年8月15日を中心とした靖国神社の、「祝祭的空
間」ともいうべき毎年類似した現象が繰り返されているという10
年の及ぶ現況の記録を淡々と映し出し、当時の総理大臣であった
小泉純一郎(在任期間は、2001・04・26〜2006・9・26)という政治家
の参拝の模様を取材した映像も、挟み込みながら、ナレーション
に頼らずに、映像を積み重ねるという手法で、靖国神社の本質に
迫ろうとしている=出てくる映像で、印象に残ったものを記録し
てみると、以下のようになる。旧日本軍の軍服姿で、日章旗を持
ち、「天皇陛下万歳」を繰り返す人々(幾つかのグループが、交
代で集団行動をしている。当日軍服を着て行動に参加していた僧
侶の、後日のインタビューも挟み込まれている)。星条旗と日本
語で書かれた「小泉首相の参拝を支持します」というプラカード
を掲げるアメリカ人は、英語で質問をする日本人に調子よく答え
ていたが、別の日本人から、「その旗は何だ。日章旗じゃない
じゃないか。帰れ、帰れ」と、境内の外に押し出される。当日、
境内で開かれていた全国追悼集会に抗議した妨害青年は、集会参
加者によって、袋叩きにされて、鼻血を流しながら、やはり、追
い出される。日本政府に勝手に魂を「合祀」されたため、故国に
帰れないから、合祀から除外し、肉親の魂を返せと迫る台湾や韓
国の遺族たちが、神社側に抗議する場面も、ある。やりとりを聞
いていると、毎年、抗議に来ているのが、判る。夜に入って、境
内を移動する神職らの姿もある。都会とは思えない、森の中にあ
る神社の空撮映像もある。

2)靖国神社の御神体である日本刀(御神刀)を作る刀鍛冶の作
業とインタビュー(インタビュアーは、監督自身らしく、あまり
巧く無い日本語で、繰り返されるし、刀鍛冶は、口下手なのと質
問が難しい所為か、ほとんど、答えにならない場面が多い、笑っ
て誤魔化してしまう。その代わり、御神刀を鍛錬する手さばき
は、自信に満ちている。

3)戦時中の日本軍と日本刀(日本刀を使った訓練、虐殺、天皇
の行動など→戦争中の日本刀の果たした役割というメッセージの
ある黒白資料映像場面。

大きく言って、この3つのパートの組み合わせから、映画は、構
成されていて、特に、1)と2)は、交互に、繰り返される。歌
舞伎で言う、「てれこ」構造で、いわば、同時併行的に画面は、
進む、それぞれは、互いに、関わらないが、構成上は、層をなし
て、積み上げられて行く。

3)は、ほとんど、最後の部分で、付け足されるされるようにし
て、集中的に使われる。

その結果、極めて、明確なメッセージが、中国人の監督から、観
客に通達されているように、私には、受けとめられた。

まず、刀鍛冶からは、靖国神社の御神体である御神刀を作ってい
るという明確なイメージが伝わって来る。

靖国神社の祝祭的空間からは、一部の日本人にとっては、靖国神
社は、「今も変らず」、英霊の守護神であり続けているという
メッセージも、明確だ。

さらに、戦時中の黒白の映像は、日本刀が、侵略戦争の中で、虐
殺行為に使用されたという、明確なメッセージを、最後に印象づ
ける。

それが、「てれこ」構造と組み合わされて、構築されると、どう
なるかというと、

一部の日本人にとって、今も変らぬ靖国神社の御神体である、日
本刀が、戦時中に、侵略戦争の中で、虐殺行為に使用されたとい
う、資料映像が、まとまって付加され、日本刀=靖国神社の役割
の、いわば「だめ押し」となった結果、中国人監督からの明確な
メッセージとして、私の胸には、日本刀の切っ先の如くに、突き
刺さって来た。表現作品にあえて、政治的介入をした政治家たち
は、私同様、このような中国人監督から、日本人観客へのメッ
セージを敏感に感じ取り、「拒否」の声を出したのではないか。

さらに、あれだけ、口下手な刀鍛冶は、最後に近い場面で、詩吟
を詠じるが、これが、何とも、巧く、滑らかで、力強く、メリハ
リがあることか。それまで、口下手だっただけに、余計、印象に
残る。その文句の最後に、「・・・容易に穢す勿れ日本刀」(記
憶で書いているので、不正確かも知れない)とある。

「日本刀」を穢すなという意味に取れば、靖国神社を「穢すな」
という右翼的なメッセージとも取れる。
「日本刀よ」、安易に穢すなという意味の取れば、二度と虐殺を
してはいけない、という反軍国主義とも、取れないことも無い
が、私には、靖国神社の10年の映像と日本刀を鍛える刀鍛冶の
姿、戦争中の日本刀を軸とした資料映像のイメージを踏まえて
の、詩吟の文句という「文脈」を考えれば、李纓監督は、中国人
監督としての明確なメッセージ(つまり、靖国神社=日本刀→侵
略戦争)を、さらに、強調しているように、私には、受け取れ
た。

最後の最後は、夜の靖国神社の空撮映像である。先に見せられた
昼間の空撮で、土地勘を与えられた観客は、森に囲まれた社殿
は、庭に面した部分のみ明るく、周りは、暗くても、奇異ではな
いし、明るみの部分を、私のように、巨大な魂(火の玉)のよう
に、感じる人がいても、奇異ではないかもしれない。そういう空
撮映像は、パーンをすると、靖国通りから東京の街の夜景の映像
へと繋がって行く。

現代の東京、そのなかの靖国神社。今も変らぬ「靖国」は、一部
の日本人だけでは無く、多くの日本人にとっても、「変らぬ」と
いう状況に繋がって行く危惧を孕んでいる、靖国神社(御神刀)
→日本刀の果たした戦争中の役割(=靖国の役割)→日本人に
とって靖国の本質は、戦前も今も変らない(夜景空撮は、現況の
靖国神社も東京の夜景に繋がっているさまを示す、というのが、
李纓監督から、私の胸に、最終的に、突き刺さって来たメッセー
ジだったと思う。私には、素直に李纓監督の思いが伝わって来
た。

その上で、最後に、一番重要なことを書きたい。
映画「靖国YASUKUNI」騒動(あえて、「騒動」と言お
う。普通に、封切られていれば、こういう騒ぎにはならなかった
と思われるからである)の問題は、こういう内容そのものにある
のでは無く、未公開の映画(表現作品)を政治家が介入して、公
開を中止させ、さらに、別の政治家が、出演者(刀鍛冶)の家族
(夫人)に「圧力」を掛けて、撮影前にオーケーをしていた出演
者に、公開前になって、ダメと言わせて、表現作品を公開させず
に、そのまま、闇に葬ろうとしている状況にこそ、問題があると
思う。

重要なのは、これが、映画「靖国YASUKUNI」に止まら
ず、蔓延してゆきそうな「空気」が、いまの、日本には、あると
いうことだ。これは、表現活動の危機だし、ドキュメンタリー全
体の危機、さらには、報道活動全般の危機、最終的には、国民の
知る権利の危機というのが、この問題の本質だと改めて、強く、
私は、認識した次第である。
- 2008年4月25日(金) 21:36:06
4・XX 官能の実用性〜「ウルビーノのヴィ−ナス」を観て〜

ルネッサンス・16世紀イタリアでは、ヴェネツィア派という一
派が、イタリアでは、初めて油絵の具を使って、色彩豊かな人間
讃歌のテーマで、絵を描いた。ヴェネツィア(英語名では、ヴェ
ニス)は、イタリアの北東部に位置し、ヴェネツィア湾を囲み、
町は、本土とともに、120近くの島も巻き込んで形成された港
湾都市であった。それゆえ、町の至る所に、運河があり、運河の
数は、170を超え、島々を結ぶ橋は、400を超えたという。
商工業が盛んで、シェイクスピアは、「ヴェニスの商人」とい
う、ヴェネツィアの商工業の主達を活写する名作を残した。商人
たちは、豊かな財力を元に、寝室を大きな絵で飾ったり、天井に
絵をはめ込んだり、嫁入りの道具の長持の蓋の裏に絵を描かせた
りした。その際に、テーマとして選ばれたのが、性愛の讃歌で
あった。官能的な裸婦をベッドやソファーに横たわらせた。性愛
の官能性を高めようという、実用性の発想さえ、見て取れる。寝
室の窓は、開け放たれ、多島海のと「遠見」のような風景が見え
る。それは、芝居の舞台で演じる役者たちの所作を写し、舞台の
背景の「遠見」を垣間見せるような感じさえする。見られること
の快楽を意識した寝室の様子が、浮き彫りになる。

微睡む裸婦が、前面に描かれていると、「遠見」の光景は、窓か
ら見える実写の風景というよりも、微睡む裸婦が、夢見ているで
あろう夢の内容を想像しているようにさえ、見える。

ヴェネツィア派を代表する閨秀画家のティツィア−ノ・ヴェ
チェッリオの描いた「ウルビーノのヴィ−ナス」は、豊かな全裸
を曝け出しながら、まず、絵を描く人を挑発しているような、鋭
い眼差しで、見つめている。その眼差しは、絵描きを貫き、時空
を超えて、絵と対面する私たちをも、貫き通して来る。ほかの
ヴィ−ナスたちが、神話性や夢魔などを引きずっているのに対し
て、「ウルビーノのヴィ−ナス」は、その鋭い眼差しからも判る
ように、覚醒している。異性の視線を意識した自意識の強そうな
女性像が、浮き上がって来る。父親の愛人とも、あるいは、高級
娼婦とも、息子の嫁とも、言われる「ヴィ−ナス」を演じている
女性は、誰なのか、いまだに、不明だ。だが、「ヴィ−ナス」と
名付けられた女性は、正体を超越して、古代からルネッサンスに
系譜する代々の愛の女神を演じている。その原型は、ギリシャ神
話の女神「アフロディテ」であることには、間違いはない。「ア
フロディテ」は、愛と美、という人間なら、女も、男も、憧れる
テーマを象徴する女神である。豊饒の女神である。

「ウルビーノのヴィ−ナス」は、縦119センチ、横165セン
チの、大作で、臙脂色の分厚いマットを二重に敷き詰めたベッド
の白いシーツの上に全裸で横たわり、枕に手を掛けた右手には、
赤い薔薇を軽く握り(それゆえに、一部の花は、落ちている)、
伸ばした左手は、軽く交叉させた太ももの付け根の陰部を隠して
いるが、眼差しに羞恥心は感じられない。それどころか、形の良
い乳房と豊満な腹部は、眼差し同様に、異性を挑発して来る。足
元には、犬が、イヌ鍋のように身体を丸くして眠り込んでいる。

画面に描かれた上半身の後ろは、半分が、真っ黒く塗りつぶされ
ているように見えるが、枕の後ろの部分は、黒いカーテンが閉め
切られているのが、判るし、カーテンの後ろは、黒い引き戸が閉
まっているように見える。ヴィ−ナスを女体として対峙する時に
は、引き戸も閉め切られ、黒いカーテンも、閉め切られするので
はないか、という推測がよぎるような、シチュエーションではな
いか。情報が、たっぷりあるのは、太ももの付け根から下半身に
広がる後ろの画面で、イヌ鍋の犬の姿の後ろに広がる空間は、リ
ビングのような部屋で、仕事着に身を包んだ召使と思われるふた
りの女性が、嫁入り道具のようないくつかある長持のうちのひと
つの蓋を開けて、ひとりは、衣装を探しているようであり、立っ
ているひとりは、探し出した衣装を左肩に掛けている。リビング
の壁には、豪華なタピストリーが、何枚も、飾られている。召使
の立ち居振る舞いをものともせずに、全裸で横たわっている
「ヴィ−ナス」は、すでに入浴を済ませて、身体を浄めていて、
これから、召使たちに助けられながら、豪華な花嫁衣装を着るこ
とになっているのかも知れない。リビングの大きな窓からは、テ
ラスの柱頭とテラスに置かれた鉢植えが見え、その向うには、夕
景のような落日前の空が見える。

東京・上野の西洋美術館では、日本初公開の「ウルビーノのヴィ
−ナス」を始め、古代、ルネッサンス、バロック初期までに、さ
まざまに絵画や彫刻に写し取られた美の女神たちの肢体を豊潤に
展示している。ヴィ−ナスの系譜、代々が、己の裸身を曝け出
し、時には、キューピッドを従え、時には、無気味な獣の下半身
を持つサテュロスに裸身を覗かれ、時には、無気味な仮面ととも
に、時には、恋人のアドニスの死におののきながら、結婚したウ
ルカヌスと浮気相手のマルスまで、およそ70点が展示され、女
神という存在にインスピレーションを刺激された作家たちの、エ
ロチックな、見果てぬ夢の系譜として、あるいは、極めて実用的
な発想で、性愛の道具の意匠として、彼女たちは、現代に繋がっ
て来ていることを明確に顕わしている。

この美術展は、東京・上野の国立西洋美術館で、5月18日ま
で、開かれている。
- 2008年4月12日(土) 23:02:06
4・XX   若松孝二監督作品「実録・連合赤軍 あさま山荘
への道程」を新宿テアトルで見て来た。あいにくの雨の日であっ
た。入り口から地下へ降りる新宿テアトルには、午前11時に着
いたが、階段からチケット売り場へ繋がる辺りは、もう、行列が
出来ている。ロビーにも、すでに、大勢いる。団塊の世代には、
連合赤軍とともに、「あさま山荘への道程」をリアルタイムで、
体験しているわけだから、暗い事件とは言え、郷愁もあるのだろ
う。私と同世代の、50代後半から、60代前半と思われる初老
の人たちも、目立つが、1972年、事件の当時、私は、25歳
だったが、あさま山荘に閉じこもった青年たちは、加藤3兄弟の
末っ子の、高校生、加藤元久は、別としても、20代前半ばかり
だったろうから、いまの20代前半の青年たちも、共感するもの
があるのかも知れない。そういう世代の姿も目につく。そういう
大雑把にいえば、二つの世代の塊が、観客層を形成しているよう
に思われた。真面目に世直し、つまり、革命を夢見た真摯な青年
たちが、何故、仲間を殺しあい、最後は、警察の機動隊と、10
日間も、銃撃戦を繰り広げたのか。老と青の世代が、ともに、考
える映画だろう。

かろうじて、11時半の部は、空席があったが、前の方の席ばか
り。私は、最前列ではないが、2番目の列の席。指定席なので、
空席があれば、席は、確保できるが、ほど良い位置の席は、予約
でいっぱいだった。週末なので、午後、夜の部は、すでに、満席
とのこと。

若松孝二監督の偉さ、あるいは、ユニークさは、クライマックス
のあさま山荘の、警官隊と連合赤軍の銃撃戦の場面を、山荘内だ
けに視点を置いて、描き切った点にあると思う。同時代を生きた
仲間たちの軌跡を自分しか映画で表現できないという、「当事者
意識」に象徴されるように、若松は、思想的に連合赤軍と親密感
を持ち続けているということだろう。ひとり人質となった山荘管
理人の女性への坂口弘らの配慮ぶりなど、権力側の資料に依拠し
たものとは違う、独自の視点が、印象に残る。坂口の最新歌集を
先に読んだが、映画で、改めて、彼の軌跡を思い至ると、感慨深
いものがある。

戦前の日本は、国家が国民のマインドコントロールをした歴史が
あるが、連合赤軍では、永田洋子、森恒夫が軸になって、共産主
義の原理を利用して、仲間の兵士たちをマインドコントロールし
ていた。こういうマインドコントロールは、その後、オウム真理
教が、擬制の宗教原理で、信者をマインドコントロールしたとい
うことを私たちは知っているから、何時の時代にも、形を変えな
がら、マインドコントロールという病は、ぶり返して来る。

映画は、3時間余の大作であったが、退屈しなかった。本編が始
まる前に、場内で、流されていた当時の報道の映像は、我が世代
の若き日を映し出しているように思われ、思わず、画面を凝視し
てしまう。己が出て来るのではないかとは、思わないまでも、実
写映像に、知り合いが写っていてもおかしくはない世代なのだ。
そういう時代背景は、本編が始まると、実写映像とナレーション
で、要領良く、コンパクトに説明される。実写映像の等身大に、
重なるようにして、重信房子役と、後に判る女優の伴杏里と、同
じく、遠山美枝子役の坂井真紀が、登場する。巧みな導入部分
だ。赤軍派の学生や活動家たちの議論の場面などに展開して行
く。そういういくたてが、テンポ良く、描かれて行く。

1972年2月、銃の強奪事件や、郵便局での現金強奪事件など
を起こしながら、逃亡し続けた連合赤軍の一部が、雪の別荘地、
軽井沢の会社の寮「あさま山荘」へどのようにして辿り着き、山
荘に入り込み、室内にひとり残された女性の管理人を人質に山荘
に立てこもり、山荘を取り囲んだ機動隊の警察官たちと猟銃やラ
イフル銃で、銃撃戦を展開した。銃撃戦は、10日間に亘った。
人質の身替わりを申し出た市民を巻き込み、警察官たちにも死者
が出たほどの激しい銃撃戦であった。テレビは、一旦、現場の中
継を始めると、何時、場面が急展開するかも知れないということ
で、生中継を止めることが出来なくなり、テレビ報道史上、屈指
の長時間生中継が続けられたのを、私も、新人記者時代の最初の
冬を大阪で過ごしていたが、取材活動をしている警察も市役所
も、あるいは、職場も、皆、テレビに釘付けになっていたことを
思い出す。クレーンに吊された大きな鉄の球を山荘の外壁にぶつ
けて、室内に入り込む突破口を作ろうとする警察側の動きを捉え
た映像が印象に残っているが、当時の映像の記憶は、いずれも、
「突入派」、つまり、山荘の外側、あるいは、警察側のモノばか
りだことに気が付く。

今回の若松孝二の映像では、そういうモノは、ほとんど出て来な
い。唯一、警察官たちの姿が出て来るのは、機動隊が、室内にな
だれ込んだ場面だけだった。それほど、若松孝二の視点は、揺る
ぎがない。

で、あれから、36年が、流れ去ったのだ。「実録・連合赤軍」
制作委員会のホームページを覗くと、若松孝二のつぶやきが聞こ
えて来た。「・・・俺は、オトシマエをつける。真実を伝えたい
んだ」。赤軍派のあさま山荘への道程、山荘のなかで、どう過ご
したのか、山荘立てこもりは、どういう形で、終焉したのか。若
松は、1972年を、どう描いたのか、というのが、いわば、論
文なら、問題の所在と名付けるところだ。

赤軍派議長の塩見孝也は、去年の6月27日に映画の完成試写会
を見たという。その感想が掲載されていた。「超、素晴しい映
画」だったと書いている(この人に逢ったことはないが、昔か
ら、変らないキャラクターなんだろうと思う)。連合赤軍事件
は、「光と影は実に描きにくい」という。「ドストエフスキーが
幾人居ても、描けないほど」連合赤軍事件は、「人を寄せ付けな
いような」「高峰」だったという。塩見は、「亡くなった同志
達、今も獄で苦しみながら、不屈に闘い続けている同志達、
(略)、外国の地で、祖国日本を憧憬しつつも、帰れず、今も苦
闘している同志達」「に対する、何よりもものはなむけ」と言っ
ている。本当に、そういう映画なのか。

私には、印象に残る場面が、あった。革命兵士になりながら、女
の色気を棄て切れずにいた美人の遠山美枝子が、森恒夫とともに
赤軍派の実権を握っていた永田洋子から憎しみを受けて、己の両
手で己を打ちのめすという「リンチ」を受けている場面である。
自分の顔が変るほど打ちのめしてしまった遠山美枝子に、永田が
鏡を持ち出して、遠山の顔を鏡に映し出し、遠山自身の目で、膨
れ上がった顔の、変形ぶりを確認させるという場面である。小岩
さんのように、醜く変形した遠山の顔が、鏡に映し出される。一
瞬の間を置いて、遠山は、何とも、悲惨な悲鳴を発揮する。その
絶望的な声(遠山美枝子は、まだ、健在なのだろうなあ)。若松
孝二の、凄さは、こういう女性の感性とともに、革命軍であれ、
権力を握った者のおぞましさを描き切るということなんだろうと
思った。権力が、腐敗するのは、国家権力ばかりではない。あら
ゆるヒエラルヒーで持たれる権力は、必ず、腐敗する。

加藤3兄弟の末っ子、加藤元久は、最後に、兄貴分の兵士たちに
叫ぶ。「皆、勇気がなかったんだよ」。すぐ上の兄・倫教が、リ
ンチで殺されるのを止めることが出来なかった元久の無念の思い
を若松は、すでに画面のなかで描いていた。権力を持つ森恒夫、
永田洋子が、次々と仲間たちを粛正し、殺して行くのを誰も止め
られなかった。権力が、腐敗して行く様を見ながら、国家権力に
のみ、対抗して、朽ち果てたことへの、無念さ。「我々は、あら
ゆる権力に対抗して、抗うために、革命の道程を突き進んで来た
のではなかったのか」という思いが、若き兵士の、元久の「叫
び」となって、スクリーンに向き合う観客席に押し寄せて来る。
普遍的なヒューマニズムを求めて、手段としての対抗暴力を最小
限度に許容していたはずなのに、対抗暴力は、国家権力に向けら
れる前に、仲間を殺すことに振り向けられてしまったのだから、
その「叫び」は、必然的に、慟哭とならざるを得ないだろう。

ここで、忘れてはならないのは、そういう状況は、36年前に
終ったわけではなく、むしろ、始まったのであり、今も、続いて
いるということであろう。そういう問題提起をしているのが、若
松孝二監督作品「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」の腐ら
ない意義なのだということだろう。そこにこそ、この映画の、今
日的な意味があると、私は、痛感した。

楽器会社の別荘寮であった「あさま山荘」は、その後、壊された
が、壊される前、25年ほど前になるが、私は、軽井沢に行き、
事件後、使われてはいなかった「あさま山荘」を見たことがあ
る。これが、あの「あさま山荘」だと言われなければ、判らない
ような、平凡な会社別荘寮であった。建物としての「あさま山
荘」は、すでにないけれど、歴史的な事件としての「あさま山
荘」は、いまも、私たちの前に立ちはだかっていると言えよう。
- 2008年4月11日(金) 21:13:13
3・XX  雨、のち、後、晴れ。東京の桜は、週末が、見頃
か。夜は、赤坂のANAコンチネンタルホテルでの第29回松尾
賞の受賞式。ホテルの傍の桜並木が、ライトアップされていて、
ピンクの塊が、夜空に浮き出ていた。

松尾賞の奨励賞受賞の、歌舞伎役者・中村芝雀さんと話す。10
年前の、第19回松尾賞授賞式では、大賞受賞した父親の雀右衛
門と同じ会場でお話しをしたのを思い出す。当時、刊行されたば
かりの著書「女形無限」を読んでいて、手許に持っていたので、
サインをして頂いた。小物入れに入れて、携行していた筆で、達
筆のサインをして頂いた。いずれ、芝雀さんも、お父上のよう
に、大賞受賞して欲しいと伝えた。

私が毎月、歌舞伎の劇評を書いている「歌舞伎めでぃあ」という
サイトがあることも、紹介した。携帯のカメラで記念写真を取ら
せて頂き、松尾賞の記念のパンフレットにサインをして頂いた。
翌日、芝雀さんは、芸術院賞受賞の発表ということで、おめでた
いことが続いた。芝雀さんに戴いたサインは、グッドタイミング
であった。芸術院賞受賞は、歌舞伎では、私も贔屓の中村時蔵さ
んも、いっしょであった。おふたりとも、おめでとうございま
す。今後とも、良い舞台を期待をしています。

もうひとり、松尾賞奨励賞受賞の桂歌丸さんとも、話をした。歌
丸さんは、最近、圓朝ものの、大作人情噺に挑戦するなど意欲的
な落語を演じている。実は、20数年前の小円遊さん逝去の際
に、夜のNHKニュースに間に合わせるために、寄席の楽屋に電
話を入れて談話取材をして、記事を書いたのは、私だったという
話をした。

今回の松尾賞受賞では、歌丸さんを始め、五大路子さん、草笛光
子さんの3人に共通していることがあった。3人とも、横浜在住
だった。今夜は、横浜の人が多いですね、と歌丸さんに振った
ら、「そうなんです。3人も」と、いつもの口調でおっしゃって
いた。あと、100年生きるそうだから、小円遊さん逝去も、夢
の、また、夢になるか。

一期は、夢よ。ただ狂え。
- 2008年3月29日(土) 11:11:41
3・XX  3月歌舞伎座の夜の部の劇評も、先ほど書き込むこ
とが出来た。書いているうちに、今月は、やはり、昼も夜も、坂
田藤十郎と市川團十郎が、軸になって舞台を支えているというこ
とが、判った。そういう劇評になってしまった。
- 2008年3月23日(日) 21:11:21
3・XX  3月の歌舞伎座、昼の部の劇評をサイトの「遠眼鏡
戯場観察」に書き込んだ。何回も観た演目だが、歌舞伎の魅力
は、毎回、何らかの新しい発見があるということだ。私の観劇力
が、未熟で、前回まで、気が付かないままだったことが、場数を
重ねることで、今回、やっと、見えて来たということもあるだろ
うし、「傾(かぶ)く」、つまり、「斜(しゃ)に見る」芸能ゆ
え、斜に見る角度で、見えて来るモノが違うという、おもしろさ
もあるのかも知れない。

山田洋次監督、吉永小百合主演の映画「母(かあ)べえ」の映画
論をサイトの「双方向曲輪日記」に書き込んだ。映画論は、浦山
桐郎論に続いて、山田洋次論と続いた恰好になった。

歌舞伎座の劇評は、引き続き、夜の部の構想を練っているので、
暫く、時間を戴きたい。忙しい日々を駆け抜けるようにして、生
きている。
- 2008年3月18日(火) 20:56:58
映画論・山田洋次 


山田洋次監督・吉永小百合主演の映画「母(かあ)べえ」は、戦
前の時代ぐるみの集団マインドコントロールの様子を活写してい
た。正気を欠く時代を家族は、結束して生き延びる。なぜ、集団
マインドコントロールに巻き込まれずに、家族は、生き延びるこ
とが、出来たのか。それは、この家族が、時代の欠落感を客観的
に眺めることが、出来たからでは、ないか。


文学者で、反戦の論文を書き、治安維持法違反の思想犯として逮
捕され、刑務所に入れられる夫であり、父親。父親を欠いた家族
の欠落感=正常ではないという意識=が、時代の欠落感=正気を
欠いた時代という意識=をリアルに持ち続けるエネルギーになっ
たのではないか。二重性の欠落感を山田洋次は、巧みに構築す
る。

小さな母子家庭の中を大きな時代が、土足で、通り抜けて行っ
た。1940年2月の未明に大勢の特高が、父親(坂東三津五
郎)を検束するために土足で家の中に上がり込んで来る。傍若無
人な振る舞い。縄を打たれ、連行されてしまう。嵐の過ぎ去った
後、汚された畳を雑巾で拭く母親(吉永小百合)。不安そうに見
守る子どもたち。このシーンは、とても象徴的で、重要だ。山田
洋次監督は、ディテールを大事にしながら、大きな時代の足跡を
庶民の視点から丹念に描く。

脇役、鶴瓶は、定職を持たない、金が、すべてという哲学の持ち
主だが、それゆえに、時代の狂気の外にいる人物として描かれ
る。母親方の奈良の叔父さんという想定だ。山田洋次の庶民像の
理想である車寅次郎に連なる系譜の人物造形である。街頭の婦人
たちの「贅沢追放運動」「貴金属供出運動」での、拒絶のシーン
で、持ち味を発揮する。

庶民が、思い通りに生きられない時代。知らず知らずに大政翼賛
に利用される庶民。遠い雷鳴のような戦争の影が、シルエットの
ように、浮き上がって来る山田演出は、巧みだ。


浅野忠信が演じた山崎も、また、寅次郎の分身で、マドンナ母親
への淡い恋心を滲ませていて、良かった。浅野の本名は、佐藤忠
信。歌舞伎の「義経千本桜」の狐がなりすますのが、佐藤忠信
だ。父親が映画好きで、半強制的に映画俳優にならされたそうだ
が、子どもの名前の付け方には、歌舞伎の影響はなかったのか。
若い頃、無名の若手監督の映画に多数出演したというが、私も誰
の作品か、覚えていないが、浅野忠信を認識したのは、そういう
映画での、独特な味わいの演技であった。


檀れいが演じた父親の妹久子は、山崎への慕情を秘めながら、山
崎が、恩師の妻であり、幼い姉妹の母親への献身的な慕情を忍ば
せているのを見抜いて身を引く。そういう立場の女性を演じるた
めに、メイクアップをせずに素顔で演じたという。宝塚娘組トッ
プスターらしい役者魂というか、きつい化粧のトップスターらし
からぬ英断というか、素晴らしい。素顔でも、横顔は、綺麗だっ
た。凜としていて清々しさがあり、年齢のある吉永小百合より綺
麗だった。

吉永小百合は、若々しく、余り年齢を感じさせないとは言え、
10代の小学校の姉妹の母親役は、やはり厳しいのではなかった
か。吉永も、最初は、年齢を理由に断ったという。山田洋次は、
戦争中の母親は、大変で、疲れていたから、ちょうど良いと言っ
て口説き落とした。10代の姉妹の母親なら、30代後半から
40代後半といった年まわりだろう。吉永小百合は、20歳から
30歳も若く見せなければならない。吉永は、それでも、熱演で
あった。子どもたちへ注ぐ慈愛、毅然とした夫への尊敬、そうい
う心根が、きちんと伝わってきた。特に、山崎が、出征を告げる
玄関先の別れの場面の表情の変化、真情のほとばしりの場面は、
印象に残った。愛は、相手を慈しむ心、相手を愛しいと思う気持
ちが、なければ成り立たない。そういうメッセージが、吉永小百
合から発信されてきた。


志田未来、佐藤未来が、演じた二人の姉妹役。もともと、妹の視
点が、物語の縦軸となる。母(かあ)べえ、父(とう)べえ、初
べえ(姉)、照べえ(妹)などと、家族に「べえ」を付けて、愛
称としたのは、家族(野上家)の習慣であった。姉を演じた志田
未来は、少女から女へ成長して行く年齢の微妙な心理の揺れを巧
みに演じていた。佐藤未来は、色気より食い気の、おてんばな、
ある意味で、傍若な年齢を素直に演じていた。スカートの下が、
カメラに映りそうなシーンでは、母親吉永が、母親らしい配慮
で、さりげなくカバーをしていた。

野外ロケーションのセットの一部が、くまれたのは、埼玉県川口
市のスキップシティーの空き地。職場が近かったので、昼食時の
外出の際、たまたまロケ中という場面に何度か出くわした。自転
車に乗った男が、あわただしく商店街の角を路地の方へ曲がる
シーンが、何度も繰り返されていたのを覚えている。完成した映
画を見たら、代用教員の母親が過労で倒れたので、心配して駆け
つけて来た山崎(浅野忠信)が、医者(大滝秀治)を自転車の後
ろに乗せて行く場面であったことが、判った。また、商店街から
母子家庭が住む家に行く路地の角には、交番があるのだが、ロケ
セットでは、屋並みは、そこで終わる。しかし、映画では、夜の
シーンで、交番の向こうに線路(中央線だろう)のようで、暗い
中を明かりのついた電車が走っていた。ロケセットの実写映像と
CG映像が、うまく合成処理されているのだろう。

昭和15年頃の街並みが、再現されていたのも、見どころとな
る。卓袱台を中心に置く茶の間の佇まい。成人になって、学校の
美術教師になった妹の記憶力に基づく精緻なスケッチ画を見る機
会があったが、生活の細部、服装、家具、道具などの復元に威力
を発揮したようだ。

最後に山田洋次監督。ロケの場面では、黄色のウインドゥブレー
カーをいつも着ていたので、遠目から見ても、居場所は、すぐに
判った。それにしても、ロケ現場には、クレーン車のような大型
重機が、いろいろ使われているのに気がついた。山田洋次監督の
原点には、車寅次郎の物語が、相変わらず、燃え続けていること
が、良く判った。

例えば、手紙。「男はつらいよ」でも、旅先から寅さんの手紙や
ハガキが、良く届いた。場面展開や結末に上手く利用していた。
今回も、獄中にいる父親からの手紙が、上手く使われている。検
閲のため、黒く塗られ手紙は、アップで見せるだけで、通信の自
由のなかった時代の閉塞感を巧みに浮き彫りにする。子どもたち
から父親宛ての手紙は、親を思う姉妹の温かさと父親不在の寂し
さが、滲み出ている。

くすぐりを含めて、「母べえ」には、寅さんの地下水が、滔々と
流れていた。





- 2008年3月18日(火) 20:47:55
映画論・山田洋次 


山田洋次監督・吉永小百合主演の映画「母(かあ)べえ」は、戦
前の時代ぐるみの集団マインドコントロールの様子を活写してい
た。正気を欠く時代を家族は、結束して生き延びる。なぜ、集団
マインドコントロールに巻き込まれずに、家族は、生き延びるこ
とが、出来たのか。それは、この家族が、時代の欠落感を客観的
に眺めることが、出来たからでは、ないか。


文学者で、反戦の論文を書き、治安維持法違反の思想犯として逮
捕され、刑務所に入れられる夫であり、父親。父親を欠いた家族
の欠落感=正常ではないという意識=が、時代の欠落感=正気を
欠いた時代という意識=をリアルに持ち続けるエネルギーになっ
たのではないか。二重性の欠落感を山田洋次は、巧みに構築す
る。

小さな母子家庭の中を大きな時代が、土足で、通り抜けて行っ
た。1940年2月の未明に大勢の特高が、父親(坂東三津五
郎)を検束するために土足で家の中に上がり込んで来る。傍若無
人な振る舞い。縄を打たれ、連行されてしまう。嵐の過ぎ去った
後、汚された畳を雑巾で拭く母親(吉永小百合)。不安そうに見
守る子どもたち。このシーンは、とても象徴的で、重要だ。山田
洋次監督は、ディテールを大事にしながら、大きな時代の足跡を
庶民の視点から丹念に描く。

脇役、鶴瓶は、定職を持たない、金が、すべてという哲学の持ち
主だが、それゆえに、時代の狂気の外にいる人物として描かれ
る。母親方の奈良の叔父さんという想定だ。山田洋次の庶民像の
理想である車寅次郎に連なる系譜の人物造形である。街頭の婦人
たちの「贅沢追放運動」「貴金属供出運動」での、拒絶のシーン
で、持ち味を発揮する。

庶民が、思い通りに生きられない時代。知らず知らずに大政翼賛
に利用される庶民。遠い雷鳴のような戦争の影が、シルエットの
ように、浮き上がって来る山田演出は、巧みだ。


浅野忠信が演じた山崎も、また、寅次郎の分身で、マドンナ母親
への淡い恋心を滲ませていて、良かった。浅野の本名は、佐藤忠
信。歌舞伎の「義経千本桜」の狐がなりすますのが、佐藤忠信
だ。父親が映画好きで、半強制的に映画俳優にならされたそうだ
が、子どもの名前の付け方には、歌舞伎の影響はなかったのか。
若い頃、無名の若手監督の映画に多数出演したというが、私も誰
の作品か、覚えていないが、浅野忠信を認識したのは、そういう
映画での、独特な味わいの演技であった。


檀れいが演じた父親の妹久子は、山崎への慕情を秘めながら、山
崎が、恩師の妻であり、幼い姉妹の母親への献身的な慕情を忍ば
せているのを見抜いて身を引く。そういう立場の女性を演じるた
めに、メイクアップをせずに素顔で演じたという。宝塚娘組トッ
プスターらしい役者魂というか、きつい化粧のトップスターらし
からぬ英断というか、素晴らしい。素顔でも、横顔は、綺麗だっ
た。凜としていて清々しさがあり、年齢のある吉永小百合より綺
麗だった。

吉永小百合は、若々しく、余り年齢を感じさせないとは言え、
10代の小学校の姉妹の母親役は、やはり厳しいのではなかった
か。吉永も、最初は、年齢を理由に断ったという。山田洋次は、
戦争中の母親は、大変で、疲れていたから、ちょうど良いと言っ
て口説き落とした。10代の姉妹の母親なら、30代後半から
40代後半といった年まわりだろう。吉永小百合は、20歳から
30歳も若く見せなければならない。吉永は、それでも、熱演で
あった。子どもたちへ注ぐ慈愛、毅然とした夫への尊敬、そうい
う心根が、きちんと伝わってきた。特に、山崎が、出征を告げる
玄関先の別れの場面の表情の変化、真情のほとばしりの場面は、
印象に残った。愛は、相手を慈しむ心、相手を愛しいと思う気持
ちが、なければ成り立たない。そういうメッセージが、吉永小百
合から発信されてきた。


志田未来、佐藤未来が、演じた二人の姉妹役。もともと、妹の視
点が、物語の縦軸となる。母(かあ)べえ、父(とう)べえ、初
べえ(姉)、照べえ(妹)などと、家族に「べえ」を付けて、愛
称としたのは、家族(野上家)の習慣であった。姉を演じた志田
未来は、少女から女へ成長して行く年齢の微妙な心理の揺れを巧
みに演じていた。佐藤未来は、色気より食い気の、おてんばな、
ある意味で、傍若な年齢を素直に演じていた。スカートの下が、
カメラに映りそうなシーンでは、母親吉永が、母親らしい配慮
で、さりげなくカバーをしていた。

野外ロケーションのセットの一部が、くまれたのは、埼玉県川口
市のスキップシティーの空き地。職場が近かったので、昼食時の
外出の際、たまたまロケ中という場面に何度か出くわした。自転
車に乗った男が、あわただしく商店街の角を路地の方へ曲がる
シーンが、何度も繰り返されていたのを覚えている。完成した映
画を見たら、代用教員の母親が過労で倒れたので、心配して駆け
つけて来た山崎(浅野忠信)が、医者(大滝秀治)を自転車の後
ろに乗せて行く場面であったことが、判った。また、商店街から
母子家庭が住む家に行く路地の角には、交番があるのだが、ロケ
セットでは、屋並みは、そこで終わる。しかし、映画では、夜の
シーンで、交番の向こうに線路(中央線だろう)のようで、暗い
中を明かりのついた電車が走っていた。ロケセットの実写映像と
CG映像が、うまく合成処理されているのだろう。

昭和15年頃の街並みが、再現されていたのも、見どころとな
る。卓袱台を中心に置く茶の間の佇まい。成人になって、学校の
美術教師になった妹の記憶力に基づく精緻なスケッチ画を見る機
会があったが、生活の細部、服装、家具、道具などの復元に威力
を発揮したようだ。

最後に山田洋次監督。ロケの場面では、黄色のウインドゥブレー
カーをいつも着ていたので、遠目から見ても、居場所は、すぐに
判った。それにしても、ロケ現場には、クレーン車のような大型
重機が、いろいろ使われているのに気がついた。山田洋次監督の
原点には、車寅次郎の物語が、相変わらず、燃え続けていること
が、良く判った。

例えば、手紙。「男はつらいよ」でも、旅先から寅さんの手紙や
ハガキが、良く届いた。場面展開や結末に上手く利用していた。
今回も、獄中にいる父親からの手紙が、上手く使われている。検
閲のため、黒く塗られ手紙は、アップで見せるだけで、通信の自
由のなかった時代の閉塞感を巧みに浮き彫りにする。子どもたち
から父親宛ての手紙は、親を思う姉妹の温かさと父親不在の寂し
さが、滲み出ている。

くすぐりを含めて、「母べえ」には、寅さんの地下水が、滔々と
流れていた。





- 2008年3月18日(火) 20:47:18
3・XX  映画論・浦山桐郎

早世した映画監督の浦山桐郎の作品は、9つしかない。ビデオ、
アニメを含めての生涯作品数だ。私は、浦山作品の一部(「青春
の門」は、五木寛之の未完成の大河小説の原作は、すべて読んだ
けれど、浦山映画は、見残している)しか見ていないから、偉そ
うなことは、言えないけれど、浦山映画のベスト3は、「私が棄
てた女」、「非行少女」、「キユーポラのある街」の順かなと
思っている(「青春の門」を見たら、順位が替わるかもしれな
い。織江役が、大竹しのぶだもの)。いずれの作品も昔見たが、
「キユーポラのある街」のみ、機会があって、去年の冬に、ま
た、見ることができた。良かった。吉永小百合が演じた女子中学
生が通った中学校のロケに使われた川口南中学校(建物は、も
う、ないが学校は、いまも、ある。)と荒川河川敷、荒川に注ぎ
込む農業用水用の人工の川・芝川の佇(たたず)まいは、ロケ当
時の面影を、いまも残している。

吉永小百合は、可愛いかったけれど、優等生だから、小悪魔に
は、なれない。私は吉永小百合より、実は、「非行少女」に出演
した和泉雅子が、好きなのだ(好きなのは、この時の和泉雅子。
大人になり、更に、冒険家になった和泉雅子では、ない。面影も
無いだろう)。可憐で、小悪魔的だったという印象が残ってい
る。

映画では、「続・キユーポラのある街」というのがある。「未成
年」が、メインタイトルで、吉永小百合、浜田光夫が軸になって
いるけれど、監督は浦山ではない。ほかの傍役も、幾分替ってい
る。何よりも、浦山桐郎の、丹念な映像作りが、無い。だから、
続編だが、後世に残らない。浦山の「キューポラのある街」は、
去年見ても、充分に見応えがあった。

そもそも原作の「キユーポラのある街」は、「青春の門」のよう
に大河小説なのだが、原作者の早船ちよが、共産党系の人で、共
産党の青年向けの新聞に続編を連載し続けたが、北朝鮮礼賛もあ
りで、第1部(映画になった部分)のみ、残った次第。

浦山の「私が棄てた女」。女=森田ミツは、浦山にとってなんだ
たのか。

遠藤周作の原作でも、主人公は、森田ミツで、映画でも、同じだ
から、浦山が、この名前を選んだ訳では、ないが、私には、ミツ
=蜜のイメージが湧いてきた。遠藤のミツは、文章による表現だ
から、読者の脳裏に描かれるミツ像を支配することは、できな
い。ところが、浦山にとっては、小林トシエという、女優を1年
かけて探し出し、更に独特の言い回しで罵倒しながら、「演技指
導」をして、浦山のミツ像に仕上げて、銀幕に登場させた。それ
は、格好は不細工でも、美味しい、甘い果汁たっぷりの果実だっ
た。その果実は、蜜たっぷりの継母の慈愛だったのでないか。慈
愛に満ちた継母(実母の妹)は、小林トシエ演じるミツに似てい
たと、浦山の継母を身近に知る人は、言ったというから、ミツ像
は、母への屈折した浦
山の慕情を具現化したものにほかならないのではないか。こうい
う芸当は、映画監督浦山には、できても、作家遠藤には、逆立ち
をしてもできない。浦山は、継母=女の理想(蜜)を私たちに投
げて寄越したのであろう。そういう意味でも、「私が棄てた女」
は、浦山桐郎の、理想の映画だったのかもしれない。
- 2008年3月16日(日) 22:29:19
3・XX  昨夜の激しい雨も、上がった。歌舞伎座で、昼と夜
の通しで、一日を過ごす。

昼の部は、「春の寿」(三番叟、萬歳、屋敷娘)、「陣門・組
打」、「女伊達」、「吉田屋」。團十郎と藤十郎の「陣門・組
打」、仁左衛門と福助の「吉田屋」が、ようござんした。

夜の部は、「鈴ヶ森」、「娘道成寺」、「お祭り佐七」。富十郎
と芝翫の「鈴ヶ森」は、歌舞伎の生きた手本のようで、科白真回
しが、立派。味わいがある、滋味豊かな芝居であった。藤十郎と
團十郎の「娘道成寺」も、良かった。近いうちに、じっくりとし
た劇評を書く。
- 2008年3月15日(土) 22:18:05
2・XX  今月の歌舞伎座・夜の部の劇評を先ほど、サイトの
「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。このサイトの読者には、申し
訳ないが、「遠眼鏡戯場観察」以外のコーナーは、開店休業の状
態が続く。去年から、日本ペンクラブの理事、電子文藝館員会委
員長、言論表現委員会委員としての仕事が、プライベートな時間
の大半を占拠するようになったからである。特に、ホームページ
運営は、ここより、電子文藝館運営に時間を割いているのが、実
状だ。

本業の「勤め」の方も、未だ、現役で、通勤時間を入れて、週日
は、最低でも、1日のうち、12時間は、取られる。もう暫く
は、こういう生活が続く。

それにしても、今年に入って、職場の知り合いが、2人も亡く
なってしまい、葬儀が多い。人間還暦過ぎてから、豊饒な時間を
元気で過ごさなければ、人生の総括は出来ないというのが、私の
哲学。せいぜい、健康に気を付けながら、表現活動を続けて行き
たい。皆さんも、元気で、お過ごしを。
- 2008年2月19日(火) 22:41:30
2・XX  歌舞伎座の二月興行は、初代白鸚二十七回忌追善興
行である。高麗屋一族を軸に所縁の役者たちなどが、共演する。
16日に、昼と夜の部を通しで拝見した。17日には、昼の部の
劇評を6時間ほど掛けて、集中して、一気に書き上げたので、ま
ず、サイトに掲載した。夜の部については、これから、毎日、夜
の時間を調整しながら、小間切れに書き継いで行くことになるだ
ろうから、暫く時間がかかるかも知れない。

22日から25日は、日本ペンクラブ主催で「災害と文化」とい
うテーマの国際フォーラムが、東京の新宿で開かれるので、私も
参加する。そういうことで、次の週末は、私用できる時間が少な
いので、夜の部の劇評の脱稿は、いつになるか、見込みが立たな
いのが、実状である。
- 2008年2月17日(日) 22:28:53
1・XX  今年は、元日から、慌ただしく、そう言えば、この
「双方向曲輪日記」は、今年に入っても、ずううっと、白紙のま
まだったのを忘れていた。実は、大晦日の未明に母が、起き上
がった寝床で転び、腰を痛めたのだ。たまたま、その日の午前中
に、実家に電話をしたところ、「電話口まで、這って来た」と母
が言うので、急いで、都内の実家まで駆け付け、様子を見ると共
に、掛かり付けの医院は、とうに年末年始の休業に入っており、
「昼までしかやっていない」と看板が出ていた整骨院に飛び込
み、事情を話して、治療してもらったのだ。以降、この整骨院
は、親切にも、1・1〜3の休みも返上して、母のために、毎
日、午後治療をしてくれた。さらに、念のため、休日期間の救急
対応の大学病院にも連れて行き、レントゲン写真も撮り、整形外
科医にも診察してもらった。私も、そのまま、大晦日から実家に
泊まり込み、整骨院や病院への付き添いもした。骨折などの異常
は無かったが、慌ただしい年越しとなった。

母の症状が、落ち着いて来たので、12日の歌舞伎座、19日の
国立劇場と、当初の予定通り、歌舞伎を拝見することができた。
そして、夜の時間帯に、小間切れで、劇評を書き続け、蓄積し、
先週末でやっと、歌舞伎座の昼の部、夜の部、国立劇場と3つの
劇評を脱稿させたので、順次、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に
アップしたという次第。

書き上げてみると、歌舞伎界の、世代交代が進んでいるのが、透
けて見えるような劇評になっていることに気がついた。どうぞ、
関心のある方は、読んでみてください。
- 2008年1月22日(火) 20:31:02
12・XX  東京の東中野まで、映画を観に行った。


「オレの心は負けてない 在日朝鮮人『慰安婦』宋神道のたたか
い」


16歳で、中国に連れて行かれ、7年間も従軍慰安婦をさせら
れ、戦後のどさくさのなかで、結婚しようという軍人に連れられ
て、日本に来たが、帰航の偽造結婚だったらしく、日本に着いた
途端、引き上げ証明書も盗まれた挙げ句、軍人にも逃げられ、身
寄りのない日本に置去りにされてしまった23歳の女性は、その
まま、在日朝鮮人の男性と結婚し、宮城県で、戦後を生きて来
た。夫に死なれ、その後は、いろいろな仕事をしながら、生きて
来たが、生活保護を受けるようになる。

従軍慰安婦問題が、社会的に注目されるようになり、市民グルー
プが、「慰安婦110番」を設置して、情報収集をしていたとこ
ろ、匿名の男性から、宮城県に元従軍慰安婦がいるという電話が
あった。市民グループで検討したところ、第三者の匿名の電話で
あり、本人が直接言って来たわけではないからと躊躇していた
が、グループのひとりの女性が、自分の判断で、会いに行き、こ
の従軍慰安婦の存在が明らかになり、やがて、女性は、1993
年、国の責任を追及する裁判を起こすようになる。

日本に来て、50年近く経って、宋神道は、初めて、自分が、元
従軍慰安婦であったと公言するとともに、日本国家を相手に、謝
罪と補償を求めて、戦いを始める。市民グループの女性たちは、
「在日の慰安婦裁判を支える会」を作り、宋神道の戦いを支援し
て行くようになる。映画は、最高裁まで、3回敗訴する裁判の記
録である。特に、補償要求は、民事の20年で時効という壁に阻
まれて、退けられるが、宋神道は、裁判の活動を軸にしながら、
従軍慰安婦問題の、いき証人として、語り部として、全国各地の
人々と触れあって行く。

情の濃いい人柄で、怒るし、泣くし、笑うし、冗談も言う。その
基盤には、苦労した人生の中で、鍛えられ、研ぎすまされて来た
生来の洞察力、人間観察力の鋭さがあると思う。まるで、渥美清
が演じる「寅さん」の女性版のような、ユニークなキャラクター
で、自分も変えながら、周りも、変えて行く。「人の心の一寸先
は闇だから。オレは絶対人を信じない。神も信じない。信じるの
は、自分の心だけだ」と、彼女は言う。そういう彼女を丸ごと受
け止め、彼女から影響を受けながら、自分たちの生き方を考えて
行く9人の「支える会」の女性たちは、映画の中で、宋神道と関
わる自分たちの有り様を問いかけて行く。

10年に及ぶ裁判は、2003年の最高裁の上告棄却の決定で、
彼女たちの敗訴に終るが、宋神道という元従軍慰安婦の人生を跡
づけしなおしたという意味で、裁判で、3回負けながら、「二度
と戦争はしないこと、戦争は国のためじゃなくて、しないのは自
分のためなんだから」という境地に到着するという意味で、慰安
婦生活7年(軍人に日本刀で斬られた傷がある、左腕には、慰安
所で入れられた源氏名の「金子」の入墨がある、何度も妊娠させ
られた身体がある)、さらに在日を50年生き、生活保護を受け
るようになり、蔑まれた日々の中で、人間不信の塊になっていた
女性が、他者への信頼を取り戻し、自らへの信頼も取り戻して行
く過程を追い掛けた映像は、素晴しい。それは、人間にとって、
尊厳とは、なにかを追及した映画であった。

今月一杯、東京で上映されていた映画は、きょうが、最終日。こ
いう映画は、全国を巡回して、より多くの人に観て貰いたいと思
う。
- 2007年12月30日(日) 18:05:14
12・XX  来年の4月に東京・神保町の岩波ホールで公開さ
れる「ランジェ公爵夫人」の試写会を覗いて来た。

ナポレオン軍のモンリヴォー将軍は、パリの社交界で出逢った人
妻・ランジェ公爵夫人に恋をしたが、夫人の思わせぶりな振る舞
いに翻弄され続けた。追い詰められた将軍は、仲間の手助けを得
て、ある夜、舞踏会帰りの夫人を強引にも、誘拐してしまう。隠
れ家に連れ込んだ夫人の額に星形の焼ごてを当てて、自分に従わ
せようとする将軍に対して、夫人は、恍惚の表情を浮かべて、む
しろ、積極的にそれを望むとともに、絶対者と化した将軍への恋
心を素直に打ち明けた。予想に反する夫人の行動に驚いた将軍
は、指一本触れずに、夫人を解放するとともに、それ以降、夫人
から一気に遠ざかった。このため、それ以前の態度とは、逆に、
恋心を燃やしてしまった夫人は、連日、将軍宛に手紙を書き送っ
た。

男と女の恋愛の心理ゲームは、求める者の恋心が燃えれば燃える
ほど、求められる者は逃げを打つ。バルザックは、「十三人組物
語」シリーズの一つとして、「ランジェ公爵夫人」を書き、19
世紀前半のパリの社交界を舞台に、そういう普遍的な恋愛心理
ゲームの物語を書き上げた。

兼ねてから、バルザック作品の映画化に取り組み、上映時間12
時間40分という「アウト・ワン」を70年に公開したリヴェッ
ト監督は、91年には、「美しき諍い女」を公開し、カンヌ映画
祭でグランプリを受賞した実績を持つ。リヴェット監督は、ヌー
ベル・ヴァ−グの生き残りで、79歳だが、若々しい映像センス
は、衰えを知らない。今回、ヴァルザック作品としては、3作目
の映像化を試みた。

セックス・レスの恋愛心理ゲームは、欲望に裏打ちされながら
も、純粋心理ゲームとして、攻守ところをかえながら、展開す
る。将軍に夢中になる夫人。冷たい態度を取り続ける将軍。だ
が、心の奥底では、互いに恋心を燃やしながら、相手を求め続け
る気持ちには、変わりが無い。バルザックの男女心理の機微は、
こういう展開を示す。その挙げ句、夫人の最後の手紙に書かれた
タイムリミットを時計の遅れに気が付かずに見過ごしてしまうと
いう失策を犯す。結局、このミスが、心理ゲームにオフサイドの
ホイッスルを響かせる。ふたりは、不本意にも、別れてしまう。
以来、5年の月日が流れる。

5年後、スペインのマヨルカ島という孤島の絶壁の上に建つ修道
院で、修道女になっている夫人を偶然見つける将軍。男性禁制の
修道院の面会用の鉄格子越しに再会するが、ふたりとも、もは
や、5年前に戻ることはできない。将軍は、再び、夫人を誘拐す
ることを試みる。船で絶壁に近づき、絶壁をよじ登り、夫人のい
る部屋に辿り着く将軍と仲間たち。ゴールに辿り着いたと思った
ら、夫人の居た部屋は、霊安室であった。綺麗なまま、横たわる
夫人の遺体。純粋な恋愛は、こういう形でしか、結晶しないのか
も知れない。いまどき、希有な、情慾場面のない恋愛映画。バル
ザックの恋愛方程式の、こういう答えを映像化したリヴェット監
督は、氷の炎のような、なんとも、美しい映像で、美しいが、危
険きわまりない恋愛純粋型を示したと言えよう。137分の映像
は、見ている者の官能をくすぐるのは、真っ赤に焼けた星形の焼
ごてを持った将軍が近づくのを、恍惚とした表情で見つめる夫人
の表情のシーンだけであった。この夫人の恍惚とした表情こそ、
恋愛の極地。セックスを伴わない恋の心理ゲームこそ、男女の機
微の極北というメッセージが、明確に伝わって来た。来年は、
セックス・レスの、純粋恋愛が、流行るかも知れない。

不可解という解が用意された恋愛方程式。紺碧の地中海に浮かぶ
真っ白いマヨルカ島のシーンから始まった映画は、夫人の遺体を
乗せた船からのパーンで、広漠とした海原の上に広がる白っぽい
空のシーンで終る。夫人の愛は、自分の死によって達成された。
将軍にとって、愛は、何も無くなって、空漠として、戻って来
た。愛しい公爵夫人といえども、海に放り捨てるしかない。

将軍を演じたギョ−ム・ドパルデューは、存在感があり、実際に
バイク事故を起こして、4年前に失った片脚の義足の音を将軍の
心理描写に巧みに取り入れて熱演した。公爵夫人を演じたジャン
ヌ・バリバールは、妖艶な肢体を始終、19世紀の衣装に包みな
がら、「包み込まれた官能」の妖しい魅力を振りまいていた。狂
言廻しに使われる「ランジェ公爵」という人物は、一切、登場し
ない。映画「ランジェ公爵夫人」は、08年4月5日から、東京
の岩波ホールで、ロードショー公開される。
- 2007年12月28日(金) 20:43:49
12・XX  東京・六本木の国立新美術館へ行って来た。17
日で、最終日というフェルメールを中心としたオランダの風俗画
展を観て来たのだが、最近は、本業のほかに、日本ペンクラブの
理事・委員長の仕事忙しく、サイトの管理も、本来のホームグラ
ウンドの、この「歌舞伎めでぃあ」を、いわば、開店休業にした
まま、ペンクラブの「電子文藝館」の運営に追われている。

本業でも、先日、休日出勤をしたので、年末年始の休暇を前に、
一日分の代休を付け加えて、年末年始休暇期間を1日間増やした
ので、溜まっていた雑用、メモになぐり書きをしていた未公開の
「裏日記」の未記入分のまとめ書きなどを一気に済ませた。その
一環として、「フェルメール」の感想を書くことが出来た。


フェルメール「牛乳を注ぐ女」

目につくのは、台所で働く女たち。室内で、くつろぐ男女など、
当時の庶民を活写したオランダ風俗画。軸となるのは、17世紀
のフェルメールである。同時代に、同じような素材を描きなが
ら、フェルメールが、斬新なのは、「牛乳を注ぐ女」に象徴され
るように、画面の明るさだ。美術館で、順を追って絵画や版画を
観て行ったが、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」を遠くから目に
した途端、視界に飛び込んで来たのは、真っ白い背景に浮き上が
る「牛乳を注ぐ女」であった。それ以前の画家たちの作品は、薄
暗い室内、分けても、一段とくらいには、女たちの仕事場である
台所であった。ところが、「牛乳を注ぐ女」の画面は、左上か
ら、右下に斜めの線を引くと良く判るのだが、斜めの線で区切ら
れた右は、中央に立ち女の身体を除けば、ほとんど真っ白い画面
になっている。これが、ほかの画家たちの作品の暗い、あるい
は、ほぼ真っ黒い背景と異なる、フェルメールの作品の明るさを
際立たせる。さらに、女の立像を軸にして、画面を縦に線を引く
と、画面左側の、いろいろなものが描かれた密な画面と、画面右
側の、ほとんど何も描かれていない空な画面の対比から、フェル
メールが、なににこだわって、画面構成を腐心したかが、判る。
遠近法と省略。省略こそ、フェルメールが工夫した画面構成で
あったのではないか。対比と省略。永遠の定着。

その永遠を象徴しているのが、女性が、牛乳を温めるためにか、
壷から鍋に注ぎ込んでいる白い牛乳の、細い線である。細い線
は、流れ込む牛乳を過不足なく描いている。止まらない流れは、
永遠の象徴。白く、煌めく線は、永遠の動きを表現しているよう
に見える。零さないように静止している女性。逞しい左腕は、水
平に保たれ、壷の重さを支える(左腕の線をフェルメールが、何
度も描き直した跡があるという)。壷の中には、まだ、大量の牛
乳が入っているのだろう。画面手前に描かれたテーブルの上に準
備されたパンの塊の大きさから見ると、この家は、大家族のよう
だ。寒い朝、家族のために朝食を準備する。貧しくは無いが、そ
れほど豊でも無いかも知れない。素朴な台所の片隅で、女性の右
腕は、壷の傾け具合を慎重に測っている。貴重な牛乳を零すわけ
にはいかないだろう。ふたつの腕のバランスに保護されて、白く
細い牛乳の流れは、永遠の空間の中を時間を超えて、途絶えるこ
とが無い。

その他の、オランダ風俗画については、省略。やはり、「牛乳を
注ぐ女」は、平凡な表現を使うが、別格であった。
- 2007年12月28日(金) 20:39:40
12・XX  歌舞伎座の劇評のうち、「昼の部」を12・17
に書き込んでから、10日経ち、「夜の部」の劇評を、先ほど書
き上げ、サイトの劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」にアップし
た。07年の歌舞伎劇評の掉尾を飾るには、もうひとつ力が入り
難い感じがしたが、取りあえず、毎月欠かさず、歌舞伎座の舞台
を観続け、劇評を書き続けることができたことは、還暦の1年間
を無事に過ごせたことと合わせて、嬉しいと思う。

というのは、同じく、ことし還暦を迎えた知人が、夏に受けた人
間ドックで、初めて、癌が見つかり、入退院を繰り返しながら、
治療を続けているにもかかわらず、最近、脳溢血で倒れ、半身に
影響が残り、癌との戦いと合わせて、からだの麻痺状態を克服す
る戦いを始めたのを知り、恐らく、去年の今頃は、健康について
は、なんの陰りも無く日々を過ごしていただろうと思うと、我々
の生活は、一寸先は、やはり、闇なのだろうと思い、感慨が、新
たになる。

年の瀬も、押し詰まり、いずれ、大晦日を迎え、除夜の鐘を聴
き、健康で、新しい年に出会える喜びを大事にして、日々を過ご
したい。闘病中の知人も、癌に打ち勝ち、麻痺をも乗り越えて、
新しい地平に立つことができる日が、いずれ来ることを祈りたい
と、思う。
- 2007年12月27日(木) 21:49:14
12・XX  12月の歌舞伎座の劇評のうち、とりあえず、昼
の部の劇評を書き込んだ。「鎌倉三代記」では、主役の時姫を、
これまで、雀右衛門で、3回観ているが、福助の時姫は、初めて
なので、その辺りを軸に立てて、書いてみた。

「信濃路紅葉鬼揃」は、玉三郎意欲の新作舞踊劇だろう。能回帰
による求心力狙いか、男女の愛憎劇という近代的な心理劇を視覚
化した舞踊か、という問題設定で、解析してみた。

「水天宮利生深川」は、陰々滅々した世話物を先代の勘三郎は、
当り役に変えて来たが、当代勘三郎を意欲的に家の藝に取り組ん
だ成果は、いかにという視点で、批評してみた。関心のある人
は、読んでみてください。続いて、夜の部の劇評にも、取りかか
るので、もう、暫く、待ってください。
- 2007年12月17日(月) 20:33:23
12・XX  日曜日に歌舞伎座へ。昼と夜の通し。とりあえ
ず、印象論を書いておく。まず、昼の部では、新工夫の「鬼揃」
は、玉三郎と海老蔵の組み合わせ。「紅葉狩」の古怪な味わいが
なく、近代的な、男女の愛憎劇になってしまった。勘三郎の「筆
屋幸兵衛」は、陰々滅々の話で、うんざり。

夜の部の、「寺子屋」も、松王丸・勘三郎の達者さが、逆に、こ
の演目にあわない。海老蔵、勘太郎の源蔵・戸浪夫婦は、弱い、
軽い、なぞっているだけという感じで、味わいには、まだ、程遠
い。「ふるあめりかに袖はぬらさじ」は、玉三郎を軸に歌舞伎座
初公演。見応えがあった。早速、劇評の構想に取り組むことにす
る。
- 2007年12月10日(月) 7:59:50
11・XX  11月歌舞伎座、顔見世興行の劇評は、昼の部に
ついて書いた後、間が空いていたが、週末の時間を利用して、夜
の部も、書き上げた。サイトの劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」
に先ほど、書き込んだ。夜の部は、「宮島のだんまり」や「三人
吉三」など、いわば、グラビアページのような演目が多い。文字
どおり、役者の顔見世の度合いが、濃厚。「山科閑居」は、ふた
つの家族の物語という視点で、劇評をまとめてみた。「土蜘」
は、菊五郎の家の藝のひとつだが、今回初めて、当代菊五郎の主
演で観たので、その辺りを軸に劇評を書いた。

12月の歌舞伎座は、前売りも好調である。昼の部では、福助の
時姫。玉三郎と海老蔵の「鬼揃紅葉狩」。勘三郎の「筆屋幸兵
衛」。夜の部では、勘三郎と海老蔵の「寺子屋」。澤潟屋一門を
交えた玉三郎、勘三郎、三津五郎らの新歌舞伎「ふるあめりかに
袖はぬらさじ」。それにしても、猿之助の舞台復帰が、待たれる
澤潟屋一門であろう。
- 2007年11月18日(日) 14:07:29
11・XX  顔見世の歌舞伎座の舞台を観て来た。早速、昼の
部の劇評を書き継ぎ、きょう、脱稿し、サイトの「遠眼鏡戯場観
察」に書き込んだ。今月の歌舞伎座は、昼と夜とも、4演目ず
つ、顔見世らしく、大勢の役者衆が、勢ぞろいしたが、雀右衛門
の姿が見えないのが、淋しい。

馴染みの演目を贔屓の役者衆が演じるという愉しみ。同じ演目で
も、毎回、違った顔をして出て来るのが、歌舞伎という座敷童子
(しばいこぞう)かもしれないと思いながら、劇評の方は、少し
でも、違った顔を見せようと努めているが、この劇評は、今年か
ら、そのまま、MIXIにも転載しているので、新しく、初めて
読んでくれる多くの人たちのために、基本情報は、同じにせざる
を得ないというのが、辛いところだ。

続いて、夜の部の劇評を書きはじめるが、いま暫くのご猶予を頂
戴したい。
- 2007年11月8日(木) 22:07:11
10・XX  10月の歌舞伎座は、26日が千秋楽だったが、
その翌日に歌舞伎座の夜の部の劇評が、サイトの「遠眼鏡戯場観
察」に、やっと、書き込めた。今月は、日本ペンクラブの電子文
藝館委員会は、開催しなかったが、言論表現委員会には、参加し
た。理事会にも、出席した。

特に、言論表現委員会は、ミャンマーの軍事政権による国民の意
志表現活動に対する武力弾圧のなかで、取材にあたっていた日本
人ジャーナリストが殺されたことに対する抗議声明文案検討、奈
良の少年事件での調書漏洩で精神艦艇を担当した医師が逮捕され
たことは、国民の知る権利のために情報提供をした人を守れな
かったジャーナリストの問題性や、それにもかかわらず、表現活
動に強制捜査が入ることの非などについて、抗議声明対応検討な
ど、言論表現委員会にとって、原則論からみても、ゆるがせに出
来ない課題が相次いだので、委員会参加だけでなく、日頃のメー
リングリストでの意見表明など多忙な日々が続いた。

その合間を縫って、少しずつ、書き溜めた歌舞伎の劇評を週末を
利用して、書き上げ、推敲し、やっと、脱稿に漕ぎ着け、先ほ
ど、サイトに書き込んだというわけだ。

11月は、吉例顔見世興行である。歌舞伎座には、早々と3日
(土)に伺うつもり。11月の劇評は、10月よりは、早めに、
サイトの「遠眼鏡戯場観察」に載せたい。劇評の軸になるのは、
昼の部なら、仁左衛門、菊五郎らの「御所五郎蔵」か、夜の部な
ら、芝翫、菊之助、幸四郎、吉右衛門らの「仮名手本忠臣蔵・九
段目」か、孝太郎、松緑、染五郎の清新な「三人吉三」か。
- 2007年10月27日(土) 21:58:17
10・XX  今月の歌舞伎座の舞台を昼夜の通しで拝見。早
速、昼の部の劇評をサイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。
木下順二の民話劇の「赤い陣羽織」は、歌舞伎味は少ない笑劇
(ファルス)。

「恋飛脚大和往来」は、「封印切」と「新口村」の通し。通し
は、19年ぶり、藤十郎になってからは、初めてという藤十郎が
忠兵衛を上方味たっぷりに演じる。梅川は、時蔵。扇雀、鴈治郎
時代に続いて、藤十郎になっても、3回目の共演である。

「羽衣」は、玉三郎の天女が、天を舞うように見えるかどうか
が、ポイント。引き続き、夜の部の劇評も構想中。
- 2007年10月15日(月) 22:25:10
9・XX  先日、この「双方向曲輪日記」で、当サイトの書評
コーナー「乱読物狂」が、暫くの間、いわば、「開店休業」にな
ると書いたが、07年09月の書評として、戸板康二の「中村雅
楽探偵全集」を取り上げて、書いてみた。さきほど、書き込ん
だ。

シリーズ全5巻という全集の、第4巻「劇場の迷子」が、最近、
発刊された(第1巻からタイトルを上げてみると、「團十郎切腹
事件」、「グリーン車の子供」、「目黒の狂女」、「劇場の迷
子」、11月に刊行が、予告されている最終巻が、「松風の記
憶」)ので、それをきっかけとした。戸板康二の演劇評論とは、
また、違った滋味があるので、歌舞伎に関心のある人には、お勧
めする。
- 2007年9月30日(日) 12:43:11
9・XX  東京・神保町の岩波ホールで新春ロードショーとし
て公開されるボスニア・フェルツェゴビナ映画「サラエボの花」
の試写会に参加した。74年サラエボ生れのヤスミラ・ジュバ
ニッチという、32歳の女性監督の作品。06年ベルリン国際映
画祭で、金熊賞(グランプリ)ほかを受賞した映画である。

ボスニア・フェルツェゴビナと言えば、1992年、旧ユーゴス
ラビアが、解体して行くなかで勃発した「ボスニア紛争(独立に
伴う内戦に、いずれも隣国のセルビアとクロアチアが介入し
た)」を思い出す。イスラム教徒のムスリム人(最近では、ボス
ニア人と呼ぶようになって来たと言う)、セルビア正教徒のセル
ビア人、カトリック教徒のクロアチア人という、3つの民族と宗
教が複雑にからみ合って、一応の決着となった95年まで続いた
紛争(事実上の戦争)で、20万人が死に、難民や避難民は、
200万人に及んだと言われる。第2次世界大戦後のヨーロッパ
では、最悪の紛争になった。

ヤスミラ・ジュバニッチ監督も、10代の時に紛争を体験してい
て、自分の恐怖の記憶を掘り起こし、改めて、自己の体験と向き
合いながら、この映画を作った。山々に囲まれたサラエボは、当
時、セルビア人勢力に包囲され、長期間に亘って、市民は、砲
撃、狙撃の的にさらされた。紛争の悲劇のなかで、改めて、生命
の尊さを知ったヤスミラ・ジュバニッチ監督は、紛争の犠牲者と
なった市民の12年後の姿を描いた。ヤスミラ・ジュバニッチ監
督は、紛争の悲劇を生々しく描くのではなく、悲劇から12年
後、平和を取り戻そうと懸命に生きる人々の日常生活を淡々と描
くことで、よりリアルに紛争の悲劇を浮き彫りにするという手法
を取った。

テーマは、愛である。冒頭のシーン。紛争によって、心に深い傷
を負った女性たちが、自らの忌わしい過去(つまり、敵兵による
レイプ体験など)を告白し、お互いの痛みを分かち合う集団セラ
ピーの場面が、映し出される。中年にさしかかったエスマ(ミ
リャナ・カラノヴィッチ)は、過去を語る仲間たちを虚ろな目で
見ているだけ。セラピストは、参加者に呼び掛ける。「どうか口
を閉ざさないで。話さなければ、傷は、癒えないわ」。シングル
マザーのエスマは、12歳のサラという娘がいる。紛争から12
年。12歳の娘。

ふたりが住むサラエボのグルバヴィッツァ地区は、紛争時に大き
な被害をこうむったが、いまや、一見平穏な街の光景を取り戻し
ているように見える。しかし、良く見れば、建物には、12年前
の戦禍の跡が残っていないわけではない。雪景色とともに映し出
されるサラエボの光景を見ていて、私は、2年間生活をした札幌
の街を思い出した。余談だが、グルバヴィッツァ地区は、サッ
カー日本代表チームのオシム監督の出身地である。

エスマは、政府から支給される生活補助金だけでは、ふたりの生
活がなりたたないため、夜遅くまで、ナイトクラブでウエイトレ
スをして、働いている。心身とも、疲れが蓄積しているようで、
娘にあたったりしてしまう。ヤスミラ・ジュバニッチ監督は、通
勤バスのなかで、目の前に来た毛むくじゃらな男に脅えて、次の
バス停で降りてしまうというような、エスマの繊細な情緒不安さ
を、恰も、彼女の内面に潜り込み、寄り添うようにしながら描い
て行く。男性に対するエスマのトラウマは、どういう体験から生
み出されたのだろうか。

一方、娘のサラは、男勝り。学校では、男子たちに混じって、
サッカーに興じているうちの、クラスメートとトラブルを引き起
こす。それをきっかけに男子生徒サミルと親しくなって行く。ふ
たりを親しくさせたものは、お互いに父親を先の紛争で亡くして
いるということであった。父親は、紛争のために死んだ「シャ
ヒード(殉教者)」だというのが、ふたりの絆となった。しか
し、実は、サラには、父親にまつわる一切の記憶がない。母親の
エスマも、語ってくれない。「シャヒード(殉教者)」としての
父親というのは、サラの思い込みのなかで、膨れ上がって来たイ
メージなのだ。修学旅行が、近づいて来た。ボスニア・フェル
ツェゴビナでは、先の紛争で、戦死した父親のいる家庭には、修
学旅行の費用を減免する制度があるなど、さまざまな優遇措置の
制度がある。サラは、母親の負担を少しでも軽くしようと、修学
旅行の費用を減免するため、父親が、「シャヒード(殉教者)」
だという証明書を学校に提出したいと母親に頼み込むが、母親
は、父親の遺体が見つからないため、証明書を取得できないなど
と消極的だ。その代わり、働く仲間たちに頼み込んで、修学旅行
の費用を捻出しようと金策に駆け回る。仲間の女性たちは、エス
マ親子のために、なけなしの金をカンパしあう。

父親が、「シャヒード(殉教者)」だという思い込みが、アイデ
ンティティの原点になって来ているサラは、そんな母親の行動に
不信感を募らせる。ナイトクラブの用心棒の男性と親しくなり、
車で送って来てもらった母親の姿を見たサラは、母親に噛み付
く。母娘喧嘩の末に、母親は、サラの「父親」の真相を吐き出し
てしまう。それは、サラには、想像もつかなかったような「真
実」であった。

集団セラピーの場で、エスマは、重い口を開けて、収容所時代の
忌わしい体験を告白する。何人もの敵の兵士たちにレイプされた
という過去。その挙げ句、身ごもり、何度も流産しようとした
が、果たせず、サラを産み落としたこと。それなのに、生まれて
来た赤ん坊を見て、これほど美しいものが、この世にあるだろう
かと思ったこと。「ボスニア紛争」では、期間中に、2万人の女
性が、レイプの被害にあったと言われている。女性に敵の子供を
産ませることで、民族間の和解の芽を摘みとり、後世に「影響」
を残そうという作戦が、組織的に実行された結果だと言う。

バスに乗って修学旅行に出発する子供たち。そのなかに、頭を丸
坊主にし、気持ちを新たにして、晴れやかな表情に戻ったサラも
いた。バスの中から手を振るサラ。バスを見送るエスマら、母親
たち。

ヤスミラ・ジュバニッチ監督は、癒えない傷を抱えながらも、紛
争の災禍を乗り越えて、一歩一歩前進して行く市民たちの強い決
意を、エスマの母性を軸に描いていったと思う。憎しみの中から
生まれた美しいサラには、ボスニア・フェルツェゴビナの未来が
託される。後世への悪影響作戦という悪魔の目論見を踏み潰すよ
うに・・・.

戦禍の跡を残す背景の映像も、言葉少なに反戦の意志を伝えて来
る。エスマを演じたミリャナ・カラノヴィッチは、実は、映画で
「敵」として描かれたセルビア(旧ユーゴスラヴィア)のベオグ
ラード出身というところに、ボスニア・フェルツェゴビナという
国の国情の複雑さが、浮き彫りにされて来る。映画の日本語のタ
イトルとなった「サラエボの花」とは、エスマのような女性の生
き方、あるいは、もっと、直接的に、レイプという悲劇から生ま
れでたサラという花を象徴して付けられたのかもしれないが、原
題は、「グルバヴィッツァ」という映画の舞台となり、ヤスミ
ラ・ジュバニッチ監督自身が住んでいるサラエボの地域の名前で
ある。街は、平穏に復興しているが、復旧に至らない戦禍の跡
が、残されている地域の歴史とエスマの人生(「グルバヴィッ
ツァ」という地名の語源には、「こぶのある女性」という意味が
あるそうで、レイプされ、娘とふたりで生きるエスマの人生を象
徴している)とに二重写しになった悲劇こそ、この映画のテーマ
だったのではないか。

「サラエボの花」は、12月1日から、東京・神保町の岩波ホー
ルで、公開される。
- 2007年9月29日(土) 21:38:48
9・XX  歌舞伎座の千秋楽。6月以降、本業のほかに、社団
法人「日本ペンクラブ」の理事、電子文藝館員会委員長、さら
に、9月からは、言論表現委員会委員となり、余暇の時間が、極
めて多忙となり、私のサイト「大原雄の歌舞伎めでぃあ」を更新
する時間が、めっきり減ってしまった。「遠眼鏡戯場観察」だけ
は、毎月の歌舞伎座の舞台ぐらいは、最低でも、書き込みたいと
思っているが、サイトへの掲載までに時間がかかるようになっ
た。

今回も、早めに舞台を観て、昼の部は、それなりの時期に劇評を
掲載したが、夜の部の掲載は、今夜になってしまった。歌舞伎座
の千秋楽の舞台も、間もなく終る時間だ。まあ、記録として、掲
載しておかないと、私自身も、後で困るので、なんとか、頑張っ
て掲載を続けたい。

その代わり、書評の「乱読物狂」は、暫く、開店休業とならざる
を得ない。通勤時間などを利用して、読書の方は、それなりに進
んで行く。書評を書きたいと思う本も、いくつかあり、構想は、
湧き出て来るが、書評をまとめる時間がないので、仕方がない。
また、この「双方向曲輪日記」も、飛び飛びの書き込みとなる。
将来、生活環境が変わったら、元のペースに戻したいと思う。
- 2007年9月26日(水) 20:27:25
9・XX  9月の歌舞伎座は、「秀山祭」ということで、初代
吉右衛門縁の舞台を再演する。当代の吉右衛門を軸に芝翫、富十
郎、團十郎、玉三郎、左團次らが出演する。思い入れとリアリズ
ムの初代吉右衛門の藝を伝承しようとするせいか、吉右衛門も、
いつもより、実線の、くっきりした演技で、初代色を強めてい
る。とりあえず、昼の部の劇評をサイトの「遠眼鏡戯場観察」に
書き込んだ。11回目の拝見となった「熊谷陣屋」は、これまで
と違ったことを、もう書けないから、ほかの劇評のように、役者
論、演技論、印象論にならざるを得ないだろうと思いながら、歌
舞伎座の舞台に向き合ったが、いままで、気がつかなかった場面
などを観て、また、テキスト論を書き換える羽目に落ち入った。
どういうことが見えて来たのかは、劇評を読んで欲しい。
- 2007年9月12日(水) 22:38:02
8・XX  8月の最終週末に歌舞伎座へ納涼歌舞伎を観に行っ
た。納涼歌舞伎は、若手、花形の役者を中心にした興行で、普段
の昼と夜の2部制とは異なり、一日の舞台を3部構成で見せる。
早速、第1部から劇評を書きはじめ、先ほど、やっと書き上が
り、サイトの劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」にアップした。馴
染みのない演目、更に、劇場内が暗いため、ウオッチングのメモ
を残せないということで、記憶に頼らざるを得ない恨みがある。
それでも、なんとか、初見の舞台の記録を残した。
- 2007年8月26日(日) 19:53:21
8・XX  国立劇場(小劇場)に、松尾塾子供歌舞伎創立20
周年記念公演を観に行く。松尾塾子供歌舞伎は、毎年夏休みの時
期に、東京は、国立劇場(小劇場)で2日間、大阪は、国立文楽
劇場で2日間の公演をする。

1989年8月に、大阪中座で、第1回の公演をして以来、こと
しで19回目の公演となる。私は、縁があって、10数年前か
ら、子供歌舞伎を拝見している。松尾塾子供歌舞伎の特徴は、本
格的な歌舞伎の上演であり、けっして、子役の歌舞伎では無いと
いうことだ。塾生は、幼稚園児から中学生までだから、小さな幼
稚園児が、小粒ながら本格的な大人の衣装同様の扮装で登場して
来るので、それだけで、会場の笑いを誘うが、決して、彼らは、
子役では無い。どうどうとした一人前の役者衆である。もちろ
ん、「傾城阿波の鳴門」、「恋女房染分手綱」など子役の役柄の
ときは、子役が出て来るが、それは、大歌舞伎と同じである。

また、竹本は、例えば、今回でいえば、葵太夫が、山台に座り、
隣には、鶴澤慎治が三味線を抱いて座っているなど、歌舞伎座や
国立劇場(大劇場)の舞台と変わらないし、舞台を飾る大道具
も、劇場の間口の大きさに従って、小ぶりにはなっているかも知
れないが、本格的なものである。長唄、三味線、鳴物なども、本
格的である。演ずるのは、子供達だとしても、それに合わせて、
歌舞伎をもり立てる人たちは、大歌舞伎同様の、皆、プロフェッ
ショナルなのである。今回でいえば、山台の上の、葵太夫は、歌
舞伎座で観る時と同じ、熱演振りであり、子供達も、プロの熱演
に答えるようにきちんと演じていた。もちろん、子供達は、プロ
の役者とは違うから、いくら、この1年、熱心に稽古に励んだと
しても、プロのように巧くは無い。しかし、とちらずに、プロの
太夫を困らせるような、間の悪さは、演じなかった。

さて、今回の出し物は、並木宗輔原作「扇的西海硯(おうぎのま
とさいかいすずり)」ほか。なかでも、今回のメインの演目、
「扇的西海硯」は、通称、「乳母争い」。那須与市のふたりの子
息とそれぞれの乳母の物語。那須与市と言えば、源平合戦の屋島
の戦いで、平家の小舟から女官が掲げる竿の先に付けた扇の的
を、義経に命じられて岸辺から、海中に馬で乗り入れて、射落と
して、名を上げた源氏方の武将。この史実を元に那須与市の子
息、小太郎、駒若の兄弟とそれぞれの乳母という4人を軸に、並
木宗輔は、乳母の母性をテーマに1734(享保19)年に「那
須与市西海硯」という狂言を書き上げ、初演した。並木宗輔の作
品は、「双蝶々曲輪日記」にも見られるように、初演後、江戸時
代には、ほとんど上演されずに、埋もれてしまい、明治期に入っ
て、復活上演された演目が幾つかあるが、これも、そのひとつ。
復活後、五代目歌右衛門、三代目時蔵らのよって、断続的に上演
されたが、最近の大歌舞伎では、41年前の1966(昭和
41)年、当時の東横ホールで、当代の澤村田之助が演じて以
来、上演されていない。

大阪を軸に活動をしていて、最近は、毎年夏に、東京と大阪で、
公演活動を展開している松尾塾子供歌舞伎には、私は、以前か
ら、「東京小芝居」の色合いを感じてきた。大歌舞伎に対抗し
て、寺社の境内で開催された江戸時代の宮地歌舞伎は、近代に
入っても、小芝居という形で、脈々と流れている。小芝居では良
く、「増補もの」と呼ばれる「下屋敷もの」を演じる。別称、
「増補忠臣蔵」とも言われる「本蔵下屋敷」は、通し狂言「仮名
手本忠臣蔵」の「山科閑居」の前の状況を芝居にした。「松王下
屋敷」は、「寺子屋」の前の状況を芝居にしている。「本蔵下屋
敷」は、人形浄瑠璃で観た。「松王下屋敷」は、松尾塾子供歌舞
伎で観た。このほか、子供歌舞伎では、「八百屋の献立」など大
歌舞伎では、あまり上演しない演目にも、果敢にチャレンジす
る。このチャレンジ精神に、私は、「東京小芝居」の心意気が、
脈々と流れているのを感じるのだ。

それは、松尾塾子供歌舞伎の母体である松尾芸能振興財団の歴
史、特に設立者夫妻の略歴を見れば、伺える。財団の設立者の松
尾國三は、旅回わりの役者から身を起こして15才で興行師とし
て独立し、戦前から歌舞伎の地方興行などを通じて、松竹との関
係を築いたという立志伝の持ち主。夫人の松尾波儔江(はつえ)
は、子役から中山延見子(後の市松延見子)の芸名で一座を率い
た役者出身で、夫の死後、85才の時、松尾塾子供歌舞伎を始め
たからだ。旅回わりの役者の心意気、一座を率いたこともある女
役者の意地などが、滲み出て来る。私は、松尾塾子供歌舞伎の、
もうひとつの魅力は、大歌舞伎では、味わえない、あるいは、お
目にかかれない演目の上演という、こういう小芝居の伝統を大事
にする果敢な精神に触れる機会があるということだと、思ってい
る。

さて、「扇的西海硯」を簡単に紹介しておこう。那須与市は、合
戦に参加するにあたって、小太郎、駒若の兄弟のうち、ひとり
は、連れて行くものの、もうひとりは、家督相続のために残して
おきたいと思っている。父親の心情としては、長男の小太郎を残
したいと思っている。小太郎は、弟が、父親とともに戦場に行く
のに、自分が居残るのは、腰抜けと思われるので嫌だと思ってい
る。小太郎の乳母・篠原、駒若の乳母・照葉は、それぞれの若君
を応援している。だから、演目の通称は、「乳母争い」。そこ
で、与市は、兄弟に弓矢の勝負を命じる。屋敷の庭に、ふたつの
扇の的を立て、射させる。小太郎の矢は、反れ、駒若の矢は、射
当てる。

悲嘆にくれ、自害しようとする小太郎を乳母の篠原が慰め、知恵
をつける。与市邸の奥庭に出没すると言われる変化(へんげ、化
性=けしょうのもの)を退治して、汚名挽回をしろというのだ。

「化性屋敷」(三段目)の奥庭、古い社殿から現れた狐面の化性
のものを小太郎は、討ち取る。物音を聞き付け、駆け付けた両親
らの前で、化性の面を取ると、面の下から現れたのは、乳母の篠
原であった。篠原は、己の命を犠牲にして、小太郎に手柄を立て
させ、与市に小太郎を戦に連れて行ってほしいと頼むのであっ
た。与市は、「いかにも乳母が忠義にめで」と言い、小太郎の出
陣を許可し、実は、小太郎に家督を継がせたいばかりに、小太郎
の弓矢に仕掛けをして、的に当らないようにしていたのだと告白
する。小太郎には、実母の駒の井が、いるが、子育ては、乳母と
いう封建時代の話。乳母こそ、母性を持ち続けるが、実母は、父
親の妻に過ぎないので、子に対しては、夫=子の父親を通じてし
か、対応しないという封建時代の道徳感が、古臭い。そこは、母
性重視の並木宗輔の原作だけに、実母、乳母の区別無く、母性を
発揮する篠原を軸にした狂言に仕立てたという次第。

子供歌舞伎ゆえに、役者の演技論には、筆を及ばせないが、4才
から14才までの役者たちは、それぞれの柄を生かして、会場の
笑いを誘う場面が、いくつもあり、愉しい舞台であった。
- 2007年8月11日(土) 11:57:43
8・XX  午後から、小田実の葬儀出席のため、青山葬儀所ま
で出向く。開始の午後一時ちょうどに到着したが、会場の中に
は、中には、入れず。外のテントで、音声のみ拝聴。ここだっ
て、座れる椅子席は、数が少なくなっていた。私より後に来た人
たちは、立ったままだし、その後に来た人たちは、炎天下で、
立ったままである。参列者は、およそ800人。葬儀所を取り巻
く木々からは、蝉の声が、喧しい。葬儀の冒頭では、アウシュ
ビッツのユダヤ人虐殺の現場を再訪したNHKの番組や亡くなる
前に病室で撮影した小田の映像と声が流された。アウシュビッツ
の現場を訪れる度に、生きる勇気が湧いて来ると若々しい小田の
声が言う。独裁者に抵抗して、最大限に生きた人々の思いに突き
動かされて、自分の心の内に勇気が湧いて来るのだと言うのであ
る。この番組「わが心の旅」は、8月11日(土)に再放送され
るという。これにくらべると、最近の病室でのインタビューの声
は、弱々しいが、「あと6カ月だけ生きて仕事がしたい。最後ま
でいろいろ出かけてしゃべっていたい」と、気丈に語る。最後の
最後まで、十全に生きようとする小田の姿勢に、私のなかから
も、胸を突き上げるものが込み上がって来る。周辺から、すすり
泣く声が聞こえてきた。

葬儀委員長の鶴見俊輔が、幕末から現代までの150年間で、小
田は、ジョン万次郎に並ぶ偉大な人だと言っていた。そのほか、
多くの弔辞が続く。評論家・加藤周一、日本文学研究者・ドナル
ド・キーン、体調を崩したということで作家・瀬戸内寂聴は、欠
席、韓国の出版社(玄岩社)の社長、「ベ平連」事務局長の吉川
勇一らが、弔辞。ほかに韓国の金大中元大統領など、弔電多数が
世界各国から届く。偉大な市民運動家。志を持続した作家などな
ど。井上ひさし、和田春樹、佐高信、坂上弘、小中陽太郎、吉岡
忍らの姿を見かける。

葬儀後、葬儀所から青葉公園(青山一丁目)まで、小田追悼のデ
モ行進。行進で、ウイ・シャル・オーバーカムを歌おうという誘
いもあったが、遠慮した。ベトナム戦争に反対した世代の同窓会
のような葬儀だった。兎に角、暑い。梅雨の末期に逝去。梅雨明
けて、猛暑の中の葬儀。喧しい蝉の声は、最大の弔辞ではなかっ
たか。

小田の連れ合い(小田は、「人生の同行者(フェロートラベ
ラー)と呼んだ)の玄順恵さんの挨拶文から。「共有した時間は
けっして短いものではありませんが、かと言って長すぎるもので
もありませんでした。地上の生きものは誰であれ百年もともに過
ごしことは出来ないのですから、これでよしとしなければなりま
せん。しかし、私の「人生の同行者(フェロートラベラー)」と
の魂の旅は、この後永遠に続くものと思っています」。

小田実さん。―ホナ、サイナラ。

- 2007年8月4日(土) 21:11:44
7・XX  8月の歌舞伎座、納涼歌舞伎は、前売り状況が、凄
いですね。特に、第2部「ゆうれい貸屋」は、山本周五郎原作の
新作歌舞伎で、江戸の長屋を舞台にした庶民喜劇。三津五郎、福
助に勘三郎らが絡む。前売りから1週間もたたないうちに、第2
部は、全日、全席売り切れです。

私など、第2部より、第3部の「裏表先代萩」の方に関心が行き
ます。表の「伽羅先代萩」の政岡、弾正と裏の市井の小悪党小助
と、あわせて3役早替りで演じる勘三郎の演技やいかにと思うけ
れど、いまの歌舞伎ブームを支えている人たちは、「ゆうれい貸
屋」好みなのだろうと思います。

納涼歌舞伎も、花形、若手の修業の舞台という色合いが、濃かっ
たのですが、八十助が、三津五郎になり、勘九郎が、勘三郎にな
りで、ランクアップし、「中堅」役者の充実の舞台が、3部制と
いう、いつもより格安の値段で観ることができるので、人気が高
まるのも、頷けます。その上、意欲的に、新作歌舞伎などに取り
組んでいるのですから、見逃せません。

さらに、福助が、歌右衛門になり、扇雀が、鴈治郎になり、とい
う時代が、やがて来るでしょうが、そうなれば、いま、軸になっ
ている役者衆は、大名跡がずらりということで、納涼歌舞伎の担
い手も、早晩、世代が若返って来るでしょうね。

まあ、私も、無理をして、第2部のチケットも確保しましたか
ら、いずれ、第1部から第3部までの劇評を、ここの「遠眼鏡戯
場観察」に書き込むことになります。ただし、夏休みは、東京を
離れますので、歌舞伎座の観劇は、月末になります。8月中に、
全ての劇評を書き込めるかどうかは、難しいかも知れませんね。
- 2007年7月23日(月) 15:00:49
7・XX  歌舞伎座で、「NINAGAWA 十二夜」の初日
を観てきた。劇評を早速、このサイトの劇評コーナーに書き込ん
だので、関心のある人は、見てください。

2年前の7月の歌舞伎座で初演された「NINAGAWA 十二
夜」が、贅肉を落し、ブラシュアップされ、先月の博多座での助
走をして、その勢いを駆って、歌舞伎座に凱旋してきた。菊之助
が主演し、蜷川幸雄が演出をするするシェイクスピア劇の歌舞伎
化の試みである。この試みには、勢いがあり、今回も、見応えの
ある新作歌舞伎の舞台が展開されたと、思う。

今回は、『「2×3×2=12」夜』という、構想が頭に浮かん
できた。

本記部分は、1)登場人物の二重性、2)物語展開の軸となる三
角関係、3)カップル(2)×2組=4で、四辺平穏(大団
円)、4)結論=「2×3×2=12」夜、という構成だ。

詳しくは、サイトの「遠眼鏡戯場観察」へ、どうぞ、いらっしゃ
い。

- 2007年7月8日(日) 18:06:53
6・XX  久しぶりの、ゆったりした休日。複数日かけて、書
き綴ってきた6月の歌舞伎座「夜の部」の劇評を、午前中かけ
て、ブラシュアップし終えたので、先ほど、サイトの劇評コー
ナー「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。6月に入って、現職の仕
事に加えて、社団法人「日本ペンクラブ」(阿刀田高会長)の理
事・電子文藝館委員会委員長の仕事が加わり、とりあえず、向こ
う1年間ぐらいは、このサイト「大原雄の歌舞伎めでぃあ」の運
営に注ぐ力が、激減するだろうと予想している。理事会と委員会
の出席だけで、1年間の有給休暇は、ほぼすっ飛びそう。去年か
らの使い残しがあるので、余裕はあるけれども。

しかし、サイト運営は、私にとって、原稿簿の意味合いもあるの
で、歌舞伎の劇評などは、継続したいと思っている。犠牲になっ
ているのは、書評コーナーの「乱読物狂」への書き込みが、ほと
んどできないことだろう。数年前から、都会の勤務に戻り、往復
の通勤時間は、たっぷりあり、「動く書斎」での読書は進むの
で、本は、相変わらずのペースで読んでいるから、これを後追い
で、書評にまとめて行くのは、ほとんど絶望的である。まあ、こ
れは、是非とも、書いておきたいという本の書評くらい書くこと
ができれば、良い方かも知れない。
- 2007年6月30日(土) 12:27:36
6・XX  歌舞伎座、6月の舞台から、昼の部の劇評をサイト
の「遠眼鏡戯場観察」に、さきほど、書き込んだ。「妹背山」
は、3回目拝見の「吉野川」を中心に、初見の「小松原」と「花
渡し」を添える。

夜の部は、劇評の筋立ての軸を構想中。もう暫く、時間がかかる
見込み。お待ち下され、道玄どの。
- 2007年6月19日(火) 22:34:18
6・XX  日曜日は、歌舞伎座で終日過ごす。昼と夜の通し。
昼の部の「妹背山」は、初見の「小松原」「花渡し」があり、お
もしろい。歌舞伎の舞台の中でも、屈指の華やかで、美しく、大
きな舞台である「吉野川」は、3回目。いろいろと良く工夫され
た芝居である。「侠客春雨傘」は、染五郎長男、齋(2歳)の初
お目見得の舞台。

夜の部は、仁左衛門の「綱豊卿」が、絶品。科白劇だが、これ
も、良く出来た芝居。特に、最後の場面が、秀逸。染五郎の助右
衛門も、熱演。ただし、「船弁慶」の染五郎、特に、静御前は、
未だし。
- 2007年6月18日(月) 22:05:21
6・XX  1泊2日で人間ドックに入ってきた。人間ドック
は、前の日から早めに夕食を済ませなければならないなど、生活
のリズムを制限される。私の場合、給料を貰うためには、職場で
8時間労働を義務付けられているが、現在の職場に辿り着くため
には、2県と1都を繋ぐ朝晩の通勤に、往復4時間近くかかる。
つまり、毎日、12時間は、給料のために拘束される時間帯とな
る。 

人間ドックに入る前日は、午後7時までに夕食を済ませなければ
ならないから、午後6時まで職場に居て、通常のように帰宅すれ
ば、午後8時にならないと帰宅できない。普通は、8時の帰宅
後、まず、夕食ということになるのだが、人間ドックの前日は、
それをしていると、午後7時前に夕食を済ませるというわけに
は、行かなくなる。従って、今回も、午後6時に職場を離脱し、
帰宅途上で、夕食を済ませなければならない。 

夕食の外食といえば、普通なら、「ちょっといっぱい」というこ
とで、夕食の前に、いまのシーズンなら、生ビールのジョッキを
ぐいっと空けたくなるところだが、翌日は、人間ドック入り、ま
して、中高年の人間にとっては、アルコール、肥満、過労、心労
などから来る生活習慣病のチェック こそ、人間ドック入りの目的
なのだから、わざわざ、検査値を悪くするようなものを呑みたく
も無い。ということで、皆が、いっぱいやっているような店で、
素面で、栄養のバランスの取れそうなものを注文して、黙々と夕
食を済ますことになる。味気ないこと、甚だしい。 

寄り道をして帰宅をすることになるので、いつもより、1時間ほ
ど遅く家に着くことになる。午後11時までは、水とお茶ならか
まわないというが、水とお茶ばかり呑む気にもならない。入浴を
し、早々と寝床で、本などを読む。こういう姿勢で本を読むと、
私の場合、いつの間にか、同じところばかりを読んでいて、前に
進まなくなり、意味が、渦巻きのように頭の中で、回転し始め、
やがて、本が、顔の上に、どさりと墜ちて来るという仕儀にな
る。本当に、寝床での読書ほど、私にとって、最高の催眠剤は、
ない。 

人間ドック入りする病院は、職場より、はるかに自宅に近いので
あるが、今度は、病院に入る時間が、職場に入る時間より、1時
間半も早いから、結局、いつもの出勤時間より、1時間ほど早め
に出かける。これの良いところは、いつもの満員電車に押し込め
られるよりは、若干、社内が空いているということである。だか
らといって、座席に座れるような状態では、勿論無い。近間の人
と肩が触れあわない程度の混雑である。それでも、手と足が、バ
ラバラになりそうな、いつもの満員電車とは違っているから、気
分的には、落ち着けるというものだ。 

人間ドックに入り、病院のお仕着せを来て、さまざまな検査のた
めに、待機する部屋に入り、リクライニングシートに座って、い
くつかの検査を待っている間の空き時間が、私は、好きだ。いつ
もの、時間に追われるようにして仕事をしているのと違って、他
律的に2日間の予定を決められていることからくる諦めは、心地
よいものだ。こちらの都合では、どうにもならない時間というも
のは、いつも自律的に螺子を巻いている身には、螺子を緩めるよ
うな効果があり、それが、この快適さの由縁なのだろうと思う。
リクライニングシートに身を横たえて、持ってきた本を読み、途
中で眠くなれば、うとうとし、検査の順番が来れば、看護士さん
に起こされ、検査の場所まで着いて行けば、良いのだ。 

人間ドックの、こういうゆったりとした時間の流れは、検査と
か、検査の結果の良さとか、人間ドックには、本来の目的がある
のだけれど、そうではない、付随的に生まれて来る、こういうゆ
るりとした時間が、人間ドックの、もうひとつの魅力かも知れな
いと、私は、年に1回ずつ、人間ドック入りするたびに思う。 

そういう時間が、1日半控えているから、人間ドック入りする前
夜の、不自由さも、我慢できるのかも知れない。 
- 2007年6月16日(土) 21:50:41
6.XX  阿刀田高新執行部による第1回の理事会が開催され
たが、私は欠席。半年前に予約した人間ドックの予定と重なって
しまい、人間ドックの予定を変更しようと思い、病院に連絡を入
れたら、6、7ヶ月後、つまり、年末か、年明けにしか日程が取
れないと言われ、残念ながら、理事会を欠席した。ペンクラブ声
明の「自衛隊による国民監視」は、由々しきことなので、個人的
にも、事前に言論表現委員会の委員長に働きかけていたのを実行
してもらった。理事会には、電子文藝館委員会の新委員名簿を提
出した。

人間ドックの方は、一泊2日コースで、きょうの午後には、終
了。既に結果の判った部分では、特段の異常は、なしであった。

あすは、今月の歌舞伎座観劇で、昼と夜の通しで拝見する。昼の
部は、「妹背山」以外は、初見。夜の部は、皆、馴染みの演目。
役者が違えば、舞台も違う。歌舞伎のおもしろさは、そういうと
ころにもある。7月歌舞伎座の「蜷川版十二夜」のチケットは、
すでに予約した。2年ぶりの舞台で、どのようなブラシュ・アッ
プが楽しめるか。

とりあえず、今月分の歌舞伎座の劇評を早めに、「遠眼鏡戯場観
察」に書き込みたいと思う。

- 2007年6月16日(土) 19:57:28
6・XX  5月30日付けで、社団法人「日本ペンクラブ」の理
事に就任した。日本ペンクラブは、作家や評論家、研究者の集ま
りで、会員が、およそ2000人いる。07年度の総会(5月30日開
催)で、作家の井上ひさし会長から作家の阿刀田高新会長に引き
継がれると同時に、理事の改選も行われ、私も、新たに理事の一
員に選ばれた。任期は2年間。

あわせて、電子文藝館委員会の委員長にも就任した。インター
ネット上での、日本文藝の活性化、世界の中の日本ペンのプレゼ
ンスを強めるために努めたいと思っている。
- 2007年6月3日(日) 15:40:27
5・XX  勝手に、「ばとんバトン」ということで、「きもの
バトン」から、自分にバトンタッチしてしまった。

「ばとんバトン」と言っても、どたんばたんとあばれているわけ
ではない。「きものバトン」に絡むコラム(別に、韻を踏んでい
るつもりは無い)で、「きもの」と「バトン」を分けようとした
だけだ。だから、「ばとんバトン」。

ところで、「バトン」の意味を調べてみると、バトンには、リ
レー競技で使う筒状の棒、たすき、指揮棒(タクト)、パレード
の指揮棒などという意味がある。たすき(襷)も、バトンなの
だ。選挙で立候補すると、襷をかけるが、あれも、「バトン」と
言うわけだ。今年は、4月に統一地方選挙があったが、7月22日
には、参議院選挙がある。選挙で不利になるかららと政治資金を
誤魔化し、さらに収賄疑惑まで出てきた農林大臣を総理大臣が、
己の責任回避のために、「庇う」振りして、「退路を断って」い
たら、当の本人は、逃げ場が無くなって、自殺してしまった。戦
国時代の城攻めだって、必ず、退路を確保し、逃げ道に誘導する
のが、戦術の常識であったのに、いまの「戦国武将」たる政治家
も、地に墜ちたもので、総理大臣は、織田信長のように非情では
無いのか。

襷と言えば、正月の「箱根駅伝」に思いが走る。箱根駅伝を」
テーマにした小説では、直木賞受賞作家の三浦しをん「風が強く
吹いている」が思い浮かぶ。名も無い大学の、素人駅伝部員たち
の奮励努力で、箱根駅伝ンで、頭角を現すというスポーツ小説
だ。こういう裏話は、まさに、お話しであろうが、こういうもの
を読むと、来年の箱根駅伝の味わいが違って来るだろうと、今か
ら楽しみにしている。そういえば、三浦しをんは、最近「あやつ
られ文楽鑑賞」という本を出した。人形浄瑠璃の魅力を初心者の
立場で書いた本である。そういえば、歌舞伎や人形樹瑠璃では、
「平家物語」の世界をベースに物語を再構築した芝居の場合、源
氏の白旗、平家の赤旗が出てきて、「だんまり」という歌舞伎独
特の演出で、襷のリレーのように、白旗、赤旗を奪い合う場面が
出て来る。そもそも、運動会の、「赤勝て、白勝て」というの
は、まさに、源平合戦の再現では無いのか。日本人の多くが、先
祖を辿れば、皆が、平家か、源氏に辿り着くといわれるが、それ
ほど、日本人は、「源平」にトラウマを持っているのでは無いだ
ろうか。つまり、日本人は、バトン民族なのではないか。古い世
代から、伝統という襷を受け取り、走りながら、新たな創意工夫
をして、次の世代に襷を手渡して、人生を終える。歌舞伎や人形
浄瑠璃の伝承の仕方、新しい工夫の仕方を観ていると、そういう
バトンリレーの姿が、舞台の向うに浮き上がって見えて来るよう
な気がする。

NHKのラジオ番組で、「郷土の話題」=リレーニュース(ある
週は、北から、翌週は、南から、ということで、NHKの地域局
を繋いで、リレー式に原稿を読むことから、リレーニュースと言
われた)というのが、日曜日の早朝に流される。最近は、1分半
程度の、単なる話題ニュースになり、つまらなくなったが、私た
ちが新人記者のころ(もう、数えるのも嫌になるが、幾星霜が流
れ、30数年も前のことだ)には、ひとつの話題に3分ほどの時
間をくれたので、一ひねり、二ひねりして、話題を展開し、最後
に「落ち」をつける工夫をして、原稿を書いたものだ。

新聞社も通信社も、NHKも、東京で研修を受けた記者の卵は、
先ず、地方に赴任する。地方記者として数年間修業時代を過ご
し、「それなりの記者」になり(あるいは、なったつもりにな
り)、東京に攻め上って来るシステムになっている。私は、当
時、朝日新聞社が刊行した「地方記者」「続地方記者」という本
を中学生のときに読んで、感動し、さらに、これらを原作とし、
当時の日本テレビで、ドラマ「地方記者」を放送し、小山田宗徳
という、江戸時代なら、どこかの殿様のような名前の俳優が主人
公を演じ、水木麗子という女優が、地方記者の妻を演じたテレビ
ドラマに感動し、都会で活躍する事件記者(当時、NHKテレビ
では、山田吾一などが出演する「事件記者」というドラマが人気
をよんでいた)だけが記者では無い、新聞の片隅で、涙を流す、
ヒューマンな記事を書く記者もいるのだというような、いまから
考えれば、お涙ちょうだいのナレーションに負けて、将来は、地
方記者になりたいと思い立ってしまい、本当に、大学を出ると地
方記者になったのだ。私の場合、地方記者といっても、初任地
が、大阪で、地方=田舎というイメージには、当てはまらなかっ
たのだが、生まれてから、東京育ちという身には、大阪といえど
も、異境の地で、赴任するときは、いまは亡き、父親も含めて、
家族全員が、東京駅で新幹線に乗る私を送ってくれたことを思い
出す。

そして、大阪での新人記者生活時代、「ゴミネタ」という、どう
でも良いような原稿ばかり書かされていた私は、一念発起して、
新人用の「ゴミネタ」もこなしながら、合間を見て、このリレー
ニュースの原稿を書きはじめた。最初は、いくら書いても、デス
クに、没にされて、「涙さしぐみかえりきぬ」をくり返していた
が、半年ぐらい経つと、ぼつぼつ採用されるようになり、1年も
経つと毎週採用されるようになり、そうなって来ると、おもしろ
くなりということで、毎週リレーニュースを書き続けた。そうし
たら、リレーニュース担当のデスクが、喜んで、特ダネ原稿を書
くと戴ける「取材特賞」(なぜか、サントリーオールドというウ
イスキー1本だった)を新人ながら、特ダネも書いていないの
に、申請してくれて、戴いた記憶がある。私の特賞人生(といっ
ても、そんなに多数貰ったわけではないが)のスタートであっ
た。バトン、襷、リレーという連想は、私の場合、こういうこと
になる。それにしても、往時茫茫。

「バトン」は、涙の彼方で、歪んで見え始めたではないか。

- 2007年5月29日(火) 22:45:22
5・XX  MIXIで、「バトン」が手渡されたので、次のよ
うなことを書いた。こちらの「日記」にも、転載しておこう。


「バトン」のテーマは、「きもの」らしい。題して、「きものバ
トン」。「きものバトン」とは、「きもの」をテーマにした「バ
トン(リレー)」で、次の走者を指名しているということらしい
のだが、「バトン」のルールが良く判らない。香魚さんのコラム
にあるように、「幾つか設問」が共通してあり、皆が、それに答
えながら、自分らしいコラムを書き継ぐのか(そんな気がする
が)。

幾つかの設問とは、次の通りである。1、最近思う【キモノ】。
2、この【キモノ】には感動。3、直感【キモノ】。4、この世
に【キモノ】がなかったら? 5、【キモノ】をマイミクさんに
譲渡するとすれば誰にあげる? 7、(なぜか、「6」がない)
次に廻す人10人【指定】付きで流れを汲んで、カップリング指
定で廻しましょう。

それとも、「幾つか設問」は、たまたま、香魚さんのコラムが、
設定したスタイルで、次の人が、真似なくても良いものなのか、
つまり、自由に書いて良いのかが、私には判らない。

たかが、【キモノ】。されど、「きもの」である。

「きもの」などとんと縁が無く、若い頃、母が創ってくれたウー
ルの着物(アンサンブル)を正月に着たり、同じく白地の浴衣を
着たりしたことがあるくらいで、なんとも、バトンの受けようが
無い。きもの断片、つまり、「端切」のような話にしかならな
い。

歌舞伎の着物、というより、この場合は、「衣装」か。衣装の話
をするにしても、衣装に詳しい専門家がいらっしゃるだろうか
ら、衣装について、中途半端な話をするぐらいなら、パスした方
が悧巧というもの。そこで、衣装そのものには縁のない、衣装
「がらみ」の話で、お茶を濁そう。

先日の元暴力団員で、家庭内暴力の「おやじ」(50歳)の自宅
立てこもり事件では、SAT(特殊急襲部隊)の若い警察官が、
暴力おやじの撃った、いわば、流れ弾が、防弾チョッキの隙間
(チョッキの前と後ろを繋ぐ紐)から入り込み、というより、撃
ち抜き、射殺されたが、これでは、防弾チョッキの役に立ってい
ないことになる。そのSAT隊員が、身に付けている防護服の重
さが、20キロだということから、実は、女形の衣装の重さに話
が飛ぶ仕掛けだ。

雀右衛門の「女形無限」という本に書いてあったと思うが、「助
六由縁江戸桜」の「揚巻」の衣装の重さが、40キロと言うか
ら、SAT防護服の2倍の重さもある。それでいて、「道行」で
は、三枚歯で、高さが6寸5分(約20センチ)もある黒の「傾
城下駄」(いっとき、現代のギャルたちも、同じような厚底の靴
を履いていたね)を素足に履いて、「外八文字」という歩き方
(下駄を外側に廻して歩を進め、爪先を外に向けた八の字に結
ぶ。江戸の遊女型。上方の遊女は、爪先を内に結ぶ「内八文
字」)で、漢字の八を描きながら、花道を歩くという重労働を演
じる。揚巻の「道行」と「送り出し」、そして「水入り」のとき
の衣装は、合わせて「五節句」の見立てとなる。まず、「道行」
の衣装。揚巻が、舞台中央で後ろ向きに決まる「裏見得」は、正
月の注連飾りを模している。「揚巻が悪態の初音」という科白で
打掛けを脱ぐと、重ね着の打掛けが、弥生の節句で花見の幔幕に
火焔太鼓となる。大きく前に抱えた俎板帯は、端午の節句の鯉の
滝昇り。これで、1月、3月、5月の分。「送り出し」では、白
の精好(せいごう)に墨絵で孔雀と牡丹が描かれた打掛け、七夕
の短冊を描いた俎板帯。これで、7月分。「水入り」の夜着の打
掛けは、浅葱繻子地に重陽の節句に因んだ菊の花を縫い取ってい
る。胴抜きの衣装にあんこ帯を締める。これで、9月分というわ
けで、締めて、「五節句」の見立て。髪は、大きな円盤のような
「伊達兵庫」。「傾城の本飾り」という、3つ揃えの鼈甲の櫛、
琴柱(ことじ)の挿し櫛が12本もある。赤い玉櫛と松葉の立櫛
も挿す。因に、「送り出し」のときの履物は、6枚重ねの草履。
どのときの衣装が、40キロなのか、判らないが、どれも、重そ
うだというのは、容易に想像できる。「道行」のときの衣装が、
いちばん重そうな気はする。揚巻さんが、花道を歩くとき、彼女
は、SAT隊員2人分の防護服の重さを付けたまま、そんな重さ
を感じさせずに、さっと、歩いてゆくんだね。

さて、いよいよ、山場。とっときの話を披露しちゃおう。楽屋
で、見聞した話なら、楽屋に入ったことが無い人には、珍しかろ
うということで、国立劇場の楽屋の話。

中村時枝さんから、「話したいことがあるので、時間があると
き、国立劇場の楽屋に来て欲しい」という電話が自宅にかかって
きた。国立劇場の楽屋は、劇場の真裏にある。玄関から入り、玄
関番の人に行き先を言い、中村時枝さんと約束をしていると断る
と、簡単に入れてくれた。国立劇場の場合、大部屋は右側の一番
奥だ。長い廊下を進んでゆくと、中ぐらいの部屋が、幾つもあ
り、中村時蔵などと書いてある。大部屋の前に着いたので、暖簾
を分けて入ると、時枝さんが普段の格好で出迎えてくれた。大き
な部屋に鶴枝さん(だと思うが、時枝さんには聞かなかった。時
枝さん同様のおぢいさん)のほかにすでに女形の化粧を終えた比
較的若い人がいた(名前は、判らない)。

時枝さんは、私の本(「ゆるりと江戸へ 遠眼鏡戯場観察(かぶ
きうおっちんぐ)にも書いた通り、役者絵師である。彼の話は、
戦後占領軍のマッカーサー司令官の副官だったフォービアン・バ
ワーズ氏のことを、NHKのBSで放送していたのを見たのだ
が、自分もバワーズ氏を知っているので、ニューヨークに連絡を
取り、「自分の絵の個展を開けるように協力してくれ」と彼に
言ってくれないかというものだった。

私も、「歌舞伎を救った男」という毎日新聞の元記者が書いた本
を読んだが、それをベースにした、その番組を見たし、その後、
この記者が書いた最近の文春の記事も読んでいたので、老後の厳
しい生活をニューヨークで送っているバワーズ氏に、そういうこ
とを頼むのはかなり難しいと、率直に申し上げた。時枝さんもほ
かでもその話をして、私と同じような返事をもらっていて、難し
いことは承知しているようで、一応言ってみたという感じだっ
た。

部屋の天井からは何時しか舞台の幕が開く音が聞こえている。そ
の後は雑談に終始したが、話の途中で時枝さんは着ていた着物や
肌着を脱ぎ出した。ゆっくりした動作なので、見かねて「手伝い
ましょうか」と言うと、「ぢいさんだから、ゆっくりなの」と言
いながら動きを止めないので、私は、手を出さずに、黙って拝見
していた。顔や背中も一人で白粉を塗って行く。体が柔軟なのに
驚いた。「元気なのですね」と言うと、本来なら「養老院(老人
ホーム)の年なのにね」と答える。時枝さんは役者名鑑では「大
正10年生まれ」と年を偽っていると言う話だったので、良い機
会だと思って本当の年を聞いたら、教えてくださったけれど、女
形なので少しでも若く見せたいと言うことのようなので、ここで
は公表しないことにする。化粧をしながら、話が続いていると、
今度は腰巻きを着けたりし始めたので、私も目のやり場に困った
が、時枝んは平気で作業を続けていく。女形は、下着から、「女
装」をするのだと判る。そのうち衣装係の女性が来て、時枝さん
に紫の舞台衣装を着ける。頭には鬘をつけるための羽二重。

暫くすると今度は床山さんが来る。これも若い女性。時枝さんの
頭に鬘を載せると鬘が取れないように鬘の内側についている紐を
ギュウっと、という感じできつくきつく締め付けた。両の手の化
粧が施されていないので、「手は塗らないのですか」と聞いた
ら、最後に塗っていた。赤江瀑の最新刊の作品集「狐の剃刀」所
載の「夜を籠めて」を読んでいたら、次のような場面が出てき
た。

「『よろしく』と、白塗りの手首の太い男の手がさし出された
時、秋彦は、その手を握りはしなかった。白粉手(おしろいで)
で握手を求めるなど、なんて失礼なやつ。手の白塗りは、鬘や衣
装を汚さぬためにも、顔や着付けのすべてが終った最後にするく
らいのものだ。秋彦はむしろ不快げに相手を睨みつけ、顔をそむ
けた」

衣装と鬘を着けると結構な重さになると言う。毎日こういう運動
をしていたら元気なはずだと思った。そうした作業が終わると、
時枝さんが言った。「(舞台の)袖で、見ますか」。そうした
ら、さっきから出たり入ったりしていた若い役者さんが、「二階
の席で、見たら」と言ってくれたので、私は劇場の二階席の隅で
「草履打の場」だけ、一幕を拝見した。本当は時蔵の「お初」が
登場する次の幕も拝見したかったのだが、時枝さんが楽屋に戻っ
ているので、「草履打の場」だけは、最後まで拝見し、「岩藤」
に草履で打たれて、苛め抜かれた「尾上」の松江が花道を、すご
すごと戻っていく、含蓄のある場面も拝見できたので、満足し
た。

「岩藤」は、いろいろ見ているが、当代仁左衛門が、これまで私
が見たうちでは最高だった(97年10月歌舞伎座)ので、團蔵
の「岩藤」は、スケールが小さいと思った。再び時枝さんの楽屋
に戻ると、時枝さんは、もう素顔に戻っていた。午後2時になっ
ていたので、時枝さんの出番も終わったことだしと思い、一緒に
食事に行きませんかと誘ったら、舞台が終わるまで外に出られな
いと言うことだった。後から考えたら、二階席なら、お金を出せ
ば何時でも見られるのだから、舞台の袖で、見せてもらえばよ
かったなと思った。また、機会があるだろうと、このときは、
思ったのだが、2001年6月に時枝さんは、87歳で亡くなっ
てしまい、結局、舞台の袖から芝居を観ないまま、今日に至って
いる。時枝さんの死については、歌舞伎座から求められて、
2001年7月筋書(後半版。当月の舞台写真が入る版)に追悼
の文章を書いた。興味のある方は、歌舞伎座の筋書のバックナン
バーを探して、読んでください。
- 2007年5月28日(月) 22:30:24
5・XX  MIXIの「マイミク」さんの「日記」のコメント
に書いた内容をベースに、曖昧だった部分を調べたので、こちら
にも、掲載しておく。昔、都内の駅のホームから、ふらっと、反
対行きの電車に乗り、小淵沢界隈まで、日帰り旅行をしてきたそ
うだ。


『初夏の小淵沢』

山梨県の高原の駅、中央線の小淵沢駅前には、驛停から、八ヶ岳
を背にして、南を向き、甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山などの南アルプス
を向うに観ながら、谷あいを詠った歌碑が建っている。「アララ
ギ」の編集に携わった歌人・島木赤彦が詠んだ短歌が、刻まれて
いる。ちょうど、いまの時期の光景だ。

「小淵沢にて」
若葉する駅の前の渓ふかし雪の残れる山々に向かふ 

小淵沢駅のホームには、中央線と併行して、小海線のホームがあ
る。中央線のホームの中央付近から、跨線橋を渡って行かなけれ
ばならないく。小海線は、2両電車が、いまも、ことこと走って
いるが、小淵沢駅を松本方面に向って、少し行くと右に大きく
カーブしている。その後、八ヶ岳南麓をまわって、長野県の小諸
まで走る。列車の車窓は、いまの時期なら、芽吹きはじめたばか
りの新緑が、とても綺麗だ。柔らかい緑のシャワーを浴びなが
ら、ゆるりと列車は、走る。夏が、深まってゆけば、緑が、いち
だんと濃くなる。秋になれば、見事な紅葉で有名な沿線地もあ
る。雪の間を走るのも、風情がある。 

最近の小海線と言えば、中村獅童と竹内結子が出演した映画「い
ま、会いにゆきます」(04年10月公開、その後、テレビドラ
マにもなり、こちらは、05年7月の放送)のロケ地が、小海線
沿線を含めて、山梨県北杜市のあちこちである(ふたりは、この
映画の共演で仲良くなり、男児までなしながら、離婚協議中との
こと)。宿痾の「乱読派」として、私は、「世界の中心で、愛を
さけぶ」(01年刊行)という大仰なタイトルの小説を書いた市
川拓司原作(03年刊行。小説の舞台は、「ある町」という設定
で、市川が在住していた埼玉県と言われている)は、たまたま、
読んだけれど、映画は観ていない。歌舞伎役者・獅童にも、いま
の程度では、あまり、関心もない。今後の精進を期待している。
- 2007年5月19日(土) 14:13:51
5・XX  半世紀以上途絶えていた南北朝鮮を繋ぐ鉄道を試運
転列車が、走った。ソウルからピョンヤンを経て、中朝国境の新
義州(しにじゅ)を結ぶ京義線と猪津と金剛山を結ぶ東海線。朝
鮮半島の東と西で、列車は、それぞれ、軍事境界線を越えた。い
つの日か、南北朝鮮を結び鉄路は、物資や人を運ぶようになるだ
ろうか。この鉄路は、南北朝鮮にとって、意味があるばかりで無
く、将来は、極東の地域を結び、日本、中国、ロシア、ヨーロッ
パをも結び付けるようになるかもしれない。もちろん、そのため
には、北朝鮮の核の影を無くし、平和な極東を築き上げねばなら
ない。

さて、悲しい訃報が、昼間、飛び込んできた。作家の藤原伊織
が、食道癌で逝去した。生前に一、二度逢ったことがある。日本
ペンクラブでは、所属する委員会が違っていた。電通に勤めてい
た頃は、歌舞伎座の裏の書店に良く立ち寄っていた。

今月の歌舞伎座の劇評、夜の部を先ほど、「遠眼鏡戯場観察」に
書き込んだ。夜の部は、十七代目羽左衛門の七回忌。彦三郎、萬
次郎、権十郎の3兄弟が、軸になって、父親を追善する「女暫」
を演じる。十七代目の、いぶし銀のような演技を思い出す。今の
役者には、あの味を出せる人がいなくなった。重厚な、貴重な立
役が亡くなって、早、6年。息子たちの間からは、十八代目は、
出て来ないだろう。だからといって、いつまでも、空席で良いと
いうような大名跡では無い。
- 2007年5月17日(木) 22:36:14
5・XX  午後から、用事があるので、きょうは、代休。連休
中の休日出勤の代休である。きのう、一日中、歌舞伎座に居た。
5月恒例の「團菊祭」観劇である。昨夜のうちに劇評の構想を練
り、けさ、早起きして、昼の部だけだが、午前中に一気に書き上
げた。先ほど、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだとこ
ろ。夜の部は、これから。従って、まだ、暫くかかるだろうが、
昼の部ほど、重みが無いので、コンパクトになるだろう。
- 2007年5月14日(月) 11:54:40
5・XX  MIXIの尾上俵緑の「日記」では、「歌舞伎襲名
披露の舞台」シリーズを連載している。このサイトで、99年3
月以降、日付け順に9年近く連載している歌舞伎劇評のコーナー
「遠眼鏡戯場観察」に掲載したもののうちから、「山城屋」「中
村屋」「成田屋」「音羽屋」「加賀屋」「大和屋」「松嶋屋」の
襲名披露の舞台の劇評を集中的に再掲載している。現在、「成田
屋」、海老蔵襲名披露の舞台まで、遡ってきた。12回の連載が
終った。さらに、音羽屋から、松嶋屋まで遡ると、後、10回程
度の連載となる。襲名披露の舞台の劇評を集中的に読み直すと、
結構、おもしろい。お陰さまで、読者の数も、日々、増えている
から不思議だ。

そのかわり、ホームページ本家の、こちらのサイトは、読みため
てきた書評をコンパクトにまとめながら、随時、書評コーナーの
「乱読物狂」に書き込んでいる。
- 2007年5月10日(木) 21:30:45
5・XX  連休は、休日出勤も多く、このサイトも、「乱読物
狂」にいくつか、乱読物狂を書いた程度だ。歌舞伎座には、中旬
の週末に行く予定なので、劇評が、「遠眼鏡戯場観察」に掲載さ
れるのは、まだ、先になる。

MIXIの「尾上俵緑」の「日記」には、「歌舞伎襲名披露の舞
台」シリーズが、8回分掲載された。「山城屋」の項では、四代
目坂田藤十郎の舞台が2回に亘って、「中村屋」の項では、十八
代目中村勘三郎の舞台が6回に亘って、掲載された。次は、「成
田屋」の項で、十一代目市川海老蔵の舞台が取り上げられる。
- 2007年5月6日(日) 21:45:36
4・XX  4月も、きょうで晦日。あすからは、爽やか5月。
溜まっている本の山を横目で睨みながら、書評を幾つか書き、サ
イトの「乱読物狂」に書き込む。

MIXIの方は、二代目中村錦之助の襲名披露の劇評を掲載した
のを切っ掛けに、山城屋、中村屋という順で、逆戻りするよう
に、「大原雄の歌舞伎めでぃあ」の「遠眼鏡戯場観察」に掲載し
てある襲名披露の舞台の劇評を長期シリーズで、再掲載すること
にした。松嶋屋まで戻るつもり。

但し、松嶋屋の歌舞伎座の襲名披露(98年1、2月)の舞台
は、劇評が無い。このサイトの前身の「大原雄の部屋」が、始
まったのが、99年3月以降なので、劇評の掲載も、当然なが
ら、それ以降となる。歌舞伎の襲名披露の舞台だけを扱った劇評
を集中的に読むと、初心者には、歌舞伎の何かが、少しは、判る
かも知れない。そういうおもしろ味は、ありそうな気がする。
- 2007年4月30日(月) 18:21:48
4・XX  今月の歌舞伎座の劇評は、夜の部を目下書いている
が、未だ暫くかかりそう。「実盛物語」と「口上」を取りあえ
ず、これまでに、書き上げたところ。さらに、「角力場」「魚屋
宗五郎」を書き、全体的に見直し、練り上げの作業がある。

秦恒平さんの湖の本シリーズ、90巻に当る「愛、はるかに照ら
せ」を読んでいる。

斎藤 史の歌の引用が多い。

白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り

うさぎと雪の白ということで、骨肉の争いの果てを象徴している
ようにも、思える。不思議な歌だ。
- 2007年4月23日(月) 22:59:32
紀伊国屋ホールの青年劇場公演「修学旅行」を観る。1年に42
万人が、修学旅行に訪れる沖縄。4泊5日で、沖縄へ修学旅行に
行った青森の県立高校(共学)の女子高校生たちのある班の5人
が、宿泊する旅館の一室「ゴーヤの間」が舞台。修学旅行も、3
日目。平和学習も終え、疲れも、溜まって来ている。箸の上げ下
ろしも、気に食わなくなる人も出て来る頃合だ。「ゴーヤの間」
には、天井から大きなゴーヤが吊り下げられている。これはなに
か。沖縄の天にあるもの、つまり課題の象徴だろうか。共学なの
で、男子生徒も、傍役で登場する。疲れて、不機嫌なルームメイ
ト。盛り上がりに欠ける就寝前の時間を、なんとか盛り上げよう
と、班長は、工夫する。「好きな男の子(同級生)は、誰?」と
いう遊びを提案するが、恋のライバル。かえって、喧嘩の種に
なってしまう。宿の上空を滑空し、たびたび響く米軍機の轟音
が、彼女たちのいらいらを募らせる。

原作者の畑澤聖悟は、現職の高校教師、演劇部の顧問。「日本の
高校生と現代の戦争」というモチーフで、「修学旅行」を書いた
という。最初は、高校生がカンボジアに地雷撤去のボランティア
に行く物語を構想したが、多分、ストレート過ぎたんでしょう、
挫折。次に、沖縄の米軍基地からの脱走兵を「ゴーヤの間」の押
し入れに隠すが、それを巡って、女子高校生たちが喧々囂々する
物語を構想したが、女子高校生たちが喧々囂々している隙に脱走
兵は、いつの間にか、物語から脱走してしまい、喧嘩ばかりして
いる女子高校生たちが残ったという。地雷も脱走兵も登場しなく
なったが、戦争の影は、舞台に残った。戦争を直接描かないこと
で、戦争を考える芝居は、こうして誕生した。

女子高校生たちの遊び。ハイライトの「古今東西」という連想
ゲームで、沖縄から世界各国の名前を言い続ける遊びが、秀逸。
イラクの後が出て来ない、という高校生の誠実さ。最後の最後に
なって出て来た日本という国名の危うさ。アメリカの単独覇権主
義の尻尾にぶら下がったまま、アメリカからも置き去りにされそ
うな、安倍主導の日本という現実が、浮かび上がる。孤立化する
日本。置去りにされる日本。アフガニスタン、イラク、何処かで
進行している戦争。かって見た「遠い雷鳴」というインド映画を
思い出す。見えないが、遠くに確実に起こっている戦争。無縁な
ようで、決して無縁では無い、日本の戦争観。このデタラメさの
深刻な影響を受けるのは、いまの大人たちよりも、むしろ、高校
生の世代なのだということをどれだけの人が、実感しているだろ
うか。

女子高校生たちには、恋があり、勘違いがある青春、宿の上空を
滑空し、たびたび響く米軍機の轟音、校長に象徴される教師の理
不尽と生徒の誠実、笑いを接着剤として演劇構造のベースに使い
ながら、エピソードをつなぎ合わせて行く巧さ。終演後、あちこ
ちから「おもしろかった」という声が聞こえて来た。懐かしの枕
投げも登場し、団塊の世代の郷愁も満足させ、青年劇場にとっ
て、狙い通りの観客の反応が見られた舞台では無かったか。
- 2007年4月17日(火) 21:14:22
4・XX  歌舞伎座の劇評のうち、昼の部をさきほど、「遠眼
鏡戯場観察」に書き込んだ。引き続き、夜の部の劇評は、構想中
で、後日、書き込みたい。
- 2007年4月15日(日) 15:59:35
4・XX  週末の一日を歌舞伎座で過ごして来た。昼の部と夜
の部を通しで拝見。今月の歌舞伎座は、萬屋一門の中村信二郎
が、以前の時代劇映画でお馴染みの中村錦之助(晩年は、萬屋錦
之介)の二代目を襲名することになり、その披露興行が行われて
いる。昼の部では、「菊畑」のなかで、「劇中口上」があり、夜
の部では、普通の「口上」がある。夜の部の口上には、普通と
違って、若い役者も祝の口上を述べるので、いつもの幹部のみの
「口上」より、一段と人数も多く、若やいでいる感じだ。その辺
りも含めて、劇評をまとめたい。目下、構想中。歌舞伎座の知り
合いに久しぶりに逢ったら、おととし、記者会見で発表された歌
舞伎座の建て替え計画は、実力者・永山武臣会長の逝去後、動き
が止まっているようだと話していたが、経営陣の動向など詳しい
ことは判らないので、はっきりしない。歌舞伎座の興行予告は、
7月まで公表されていて、7月は、シェークスピアの「十二夜」
の再演だ。
- 2007年4月14日(土) 23:22:57
4・XX  ことしの1月末から、MIXIにも「日記」を書い
ているので、本拠地の「双方向曲輪日記」が、疎かになっている
嫌いがある。MIXIでは、洒落で、「尾上俵緑(ひょうろ
く)」という看板を掲げて、日記を公開している。ただし、「日
記」と言っても、ここのような日記を書いているわけでは無く、
「日記」というタイトルのコーナーに、歌舞伎評、劇評、映評、
書評を随時掲載している。だから、こちらの「歌舞伎めでぃあ」
の各コーナーと同じものを掲載するときもあるし、バリエーショ
ンのあるものを掲載するときもある。こちらのサイトを覗いても
らうこともできる。こちらから、MIXIへ行くことができない
だけだ。もちろん、すでにMIXIに入っている人ならば、私の
看板を訪ねれば、辿り着けるだろう。私の「マイミク」に参加し
て頂いても良いだろう。

さて、読み終わり、書評すべき本は、山のように溜まっている
が、なかなか、突き崩す暇が無い。今月の歌舞伎座にも、行かな
ければならない。信二郎の二代目中村錦之助襲名披露の舞台だ。
私は、14日に昼と夜の通しで、拝見する予定だ。先月の劇評を
私の印象に残った科白を軸に再構築してみたら、意外と評判が良
いようなので、今月も、同じ手法で、劇評を書こうかなと思って
いる。まあ、舞台を見たら変るかも知れないが、いまのところ、
そう考えている。まとまった時間が取れないと、集中力が高まら
ず、劇評も書きにくいが、そちらの方も、努力をしてみよう。
- 2007年4月12日(木) 21:45:14
4・XX  3・31と4・1の週末を、甲斐路花紀行。短歌
は、専ら、読む側で、決して、詠む側には、廻ったことがない人
なのに、今回は、下手な短歌で、「双方向曲輪日記」を構成して
みた。素面の素人が、花に酔い、俄歌詠みとして、戯れ歌を披露
する。

わに塚の桜木ひとり凛と立つ桜満開八っつの峰峰

茶色き畑景色に桃色滲む杏花咲き李も綻ぶ

南風(はえ)強し絵筆のごとき振る舞いで茶色き庭に桃白黄色

南風強く一点一描色を置く菜の花連翹梅雪柳

杏梅李連翹雪柳ちひさき花の名を呼んでみる

白塗り砥の粉 ちひさき顔の花々よ李は小春連翹治兵衛

浄瑠璃が聞こえて来ます里の春李はお初連翹徳兵衛

白塗の娘傾城老女形(ふけおやま)婆に莫耶(ばくや)に 首
(かしら)が咲いた

おちこちに甲斐の里山花の乱南風(はえ)吹き抜けて彩り残す

南風よ吹け百花繚乱甲斐の春曇天山稜雪のモノトーン

折から甲斐の国は花の里 おちこち桜が咲いて居るなり

春満てり甲府盆地は桃李桜菜の花天に迫れり

甲斐路走る高速道路裁ち切るは天まで迫る桃の絨緞

甲斐相模国(くに)のさかいの山路にて桜木桜木山に点打つ

甲斐信濃国境(くにさかい)にて春満てり桜木桜木枝を伸ばして

ほっこりと芽吹き出でたり若狭之助 桜花(おうか)のごとく山
笑うなり
- 2007年4月3日(火) 20:42:06
3・XX  結局、昼夜の食事の時間を含めると、3月の歌舞伎
座の劇評「義経千本桜」を書きはじめて、書き終るまで、12時
間かかった。特に、今回は、場面毎に、科白を選んで、それを軸
に批評を書くと言う新機軸を試みてみた。巧くまとまったかどう
かは、読者の判断。疲れたので、簡単だが、これぎり。
- 2007年3月21日(水) 22:39:02
3・XX  土曜日に歌舞伎座の通し狂言「義経千本桜」を観て
きた。通しでも、何回も観てきたし、「みどり」では、各場面を
かなり観ている。歌舞伎400年の歴史のうち、3大歌舞伎の演
目だもの、原作も良いし、代々の役者の演技の積み重ねも洗練さ
れているし、大道具・小道具も工夫されているんだもの、何度も
上演されるわけだ。

そこで、私も考えた。いくつもの劇評を書いてきたけれど、今回
は、工夫をして、趣向のある劇評にしないと、書く方も、おもし
ろくない。そこで、一工夫。あすの休日を使って、劇評を書いて
みよう。先月の「仮名手本忠臣蔵」同様に、昼の部と夜の部を分
けずに、劇評は、1回の読みきりスタイルにしようと思う。今日
は、これぎり。では、あす。
- 2007年3月20日(火) 19:24:39
3・XX  溜まっていた書評をいくつか書きまとめることがで
きたので、このサイトの「乱読物狂」のコーナーに書き込んだ。
特に、木村伊兵衛賞の第1回受賞者の写真家・北井一夫さんの復
刻版写真集「80年代 フナバシストーリー」は、20年以上前
に、船橋の団地など彼の撮影行に同行し、私は、私でテレビの
ニュース番組の企画リポートにしているので、おもしろく読ん
だ。
- 2007年3月5日(月) 21:43:35
2・XX  通し狂言としてだけでも、5回拝見している「仮名
手本忠臣蔵」ゆえ、同じことをできるだけ書かないように、ま
た、単なる役者の演技の印象論にならないように、工夫しなが
ら、なんとか、劇評を書き終え、さきほど、サイトの「遠眼鏡戯
場観察」に書き込んだ。題して、「現代人としての『仮名手本忠
臣蔵』」である。劇評として、成功したかどうかは、読者の判断
にゆだねるしかない。まあ、関心のある向きは、読んでくださ
れ。
- 2007年2月27日(火) 21:55:20
2・XX  映画「キューポラのある街」考(了)
5回に亘って、「団塊の世代に贈る4つの物語」として分載して
きた映画「キューポラのある街」考の最終回は、番外篇


贅言(1):小説と映画の違い

小説に描かれただけで終っていて、映画化されていなければ、原
作の「キューポラのある街」は、いまのような全国規模の知名度
は持たなかっただろう。「キューポラのある街」は、実は、
400字詰め原稿用紙に換算して3000枚を越す大河小説で、
17年かけて、第6部まで書き続けられた(第6部が、外伝であ
ることから、5部構成という説もある)。ジュンの人生で表わせ
ば、15歳から22歳までの7年間の物語である。

映画化されたのは、このうちの第1部と第2部で、雑誌連載の
後、61年に単行本となり、たまたま、監督デビュー作品を模索
していた浦山桐郎に書店で見い出され、朝鮮人の少年少女への浦
山独自の共感が、小説「キューポラのある街」を映画「キューポ
ラのある街」として、転生させ、永遠の生命を与えたことになっ
た。それがなければ、小説「キューポラのある街」は、とうに忘
れられた小説になっていただろうと思う。第2部は、「未成年 
続・キューポラのある街」(日活 1965年作品。野村孝監
督、脚本・田村孟)として、映画化されたが、何故か、浦山は、
メガホンを持たなかった。野村監督は、吉永小百合が出演する映
画を6本作っている。このうち、吉永が、第1ヒロインを演じる
作品は、63年の「いつでも夢を」など4作品。「博徒百人」な
ど、やくざ映画の作品も、結構ある。

配役では、ジュンが、吉永小百合、克巳が、浜田光夫、北朝鮮に
渡ったヨシエ、サンキチの日本人の母親・金山美代が、菅井きん
などは、第1部と同じだが、ジュンの両親、石黒辰五郎とトミ
は、それぞれ、宮口精二、北林谷栄、弟のタカユキは、松原マモ
ルなど、すっかり替ってしまっている。

原作では、59年12月から、2年半後、つまり、62年半ばこ
ろ、北朝鮮に帰還した金山一家のヨシエから、ジュンと中島ノブ
子宛に北朝鮮を賛美する手紙が届く。「私たちの祖国が、どんな
に発展したか。来て見てほしい。特に、父親は、川口時代は、雑
役しかやらせてもらえなかったが、今では、工場の一部を任され
て仕事に打ち込んでいる。人間が変ってしまった。一家は、新築
の労働者アパートに住んでいて、自分も専用の部屋がある」など
と自慢している。そういう処遇は、今から見れば、考えられない
作りごと(まさに、北朝鮮当局が、国家権力を使って、幻想を振
りまいていたことと同根のメッセージである)なのだが、早船
は、こういう手紙を挿入しているという。映画では、どういうふ
うに処理されたのだろうか、観ていないので、判らない。また、
映画では、北朝鮮のヨシエからの連絡だとして、崔一郎という高
校生がジュンの元に現れ、母親の美代を探して欲しい、ヨシエの
父親が病気で倒れて、母親に逢いたがっていると伝える。ジュン
は、ひとり日本に残って、旅館の女中をしていた美代を探し出
し、崔とともに、挑戦へ行くように説得する。その結果、美代
は、朝鮮の向うという。結局、金山一家は、全員が、北朝鮮に囲
い込まれてしまう。

小説「キューポラのある街」は、読んでいないので、梗概を参考
にする。第2部「未成年」では、ジュンの定時制高校での生活と
働きはじめた大宮の製糸工場での生活が、ジュンの成長とともに
描かれる。大学受験も夢見て、貯金をしている。あわせて、北朝
鮮に帰還した金山一家との、その後も、挿入される。第3部「赤
いらせん階段」は、中学時代の親友、技師の娘で全日制高校に進
学したノブ子とジュンの交流が描かれる。第4部「さくらさくら」
は、ジュンが、製糸工場で直面する労働問題、定時制高校での教
育の問題など。第5部「青い嵐」では、鋳物工場の工員寮の寮母
に転職したジュンの職場の問題、政治、労働運動の問題など。第
6部は「キューポラ銀座」は、ジュンの友だちリスを中心にし
た、いわば「外伝」だという。原作は、党派性のある青年向けの
新聞に連載されたというから、筋立てにも、党派の青年向けのア
ピールが、盛り込まれているようだ。

そういう意味では、早船ちよの構想した大河小説「キューポラの
ある街」と、浦山桐郎が作った映画「キューポラのある街」は、
根っこは、同じかも知れないが、大輪となった花は、全く違う作
品だと言えるのではないか。

贅言(2):50年後〜現代と「キューポラのある街」〜

あれから、半世紀近い時間が流れた。ジュンは、吉永小百合と同
年だから、ことし、62歳になる。平板に想像すれば、例えば、
還暦を過ぎたジュンは、小説「キューポラのある街」とは違っ
て、働きながら、定時制高校を卒業し(あるいは、当初の夢の通
り、大学にも進学し)、工場の総務課勤務の大卒の青年と結婚
し、その後の経済成長の波に乗った夫とともに、埼玉県の郊外の
一戸建てに住んでいるかも知れない。弟のタカユキは、59歳。
一時は、非行化も心配されたが、根っからの男気が、幸いして、
無事成長し、意外と、平凡な初老の男になっているだろうか。そ
して、二人の老いた両親は、生きているかどうか。酒乱気味だっ
た父親は、死んでしまったかもしれない。母親だけが、生きてい
て、老人ホームに入っているかも知れない。老いた母親を気遣う
のは、(課長夫人になっている)ジュンよりも、タカユキかもし
れない。

北朝鮮に帰った金一家は、悲惨な生活をしているだろう。帰還列
車に乗りながら、親友のタカユキから託された伝書鳩を車窓から
飛ばした後、鳩が川口の方へ向って帰って行くさまを見ていた
ら、日本にひとり残った母が恋しくなり、途中で列車を降り、川
口へ戻る息子のサンキチに父親は、次のように言う。「君が朝鮮
に帰って来るころには、住み良い国にしておくよ」。その言葉の
虚しさを私たちは、知っている。金一家を含めて、帰還者たち
は、当時の在日朝鮮人の置かれていた民族差別と「絶対的貧困」
という生活苦から抜け出したい一心で、金日成将軍にすがったの
だが、その夢は、実に儚かったということを。サンキチは、間も
なく、父親らを追い掛けて、新潟に向う列車に乗り、親友らと別
れるラストシーンになるが、引き裂かれた家族(つまり、再婚し
た日本人の母親)も、第2部では、北朝鮮の魔の手につかみ取ら
れてしまっている。何という、悲惨さ。


62年の2月〜3月にかけて、川口で撮影されたロケ現場のその
後は、大きく変貌してしまった。中学校は、建て替えられ、土手
という感じが強かった堤防は、埋め立てられ、スーパー堤防とい
う「台地」に変り、学校、公園(学校のグランド)、自動車教習
所が、その上に整備されている。キューポラのある鋳物工場は、
郊外に移転したり、跡地はマンションに建て替えられたり、工場
の屋根の上に、キューポラ独特の煙突が残っていても、コークス
炉は、なくなって、電気炉になったために、煙を吐かなくなって
いる。埋め立て地は、マンション建設で、掘り返したときに、6
価クロム鉱さいによる土壌汚染騒動もあったと聞く。川口は、人
口も、映画撮影当時の3倍近くに増えて、いまや、50万を超え
ている。在日朝鮮人も多く住む。東京の新宿区など4区と並ん
で、川口は、韓国・朝鮮人が多く住む街だという。鉄道網も、
JRのほかに、都心と結ぶ地下鉄も通り、首都圏のベッドタウン
として大きく変貌を続けている。

(注)田山力哉「小説浦山桐郎 夏草の道」(講談社文庫)参
照。
- 2007年2月22日(木) 7:25:03
2・XX  映画「キューポラのある街」考(第4回)

吉永小百合が、「キューポラのある街」以来46年ぶりに埼玉県
の川口で映画ロケをしたという記事が今朝の新聞に載っていた。
今回の作品は、山田洋次監督作品「母(かあ)べえ」。40年前
の東京・中野の商店街と横丁が、ロケセットで再現されている。
吉永小百合は、16歳のとき、川口でロケをした。映評の第4回
は、子役論。


(4)「少年たち」の物語〜逞しく、生き抜く〜

そして、第4の物語。私がいちばん強調したい物語とは、弟のタ
カユキとその友だちの物語である。タカユキ、サンキチ(金山一
家の子息、日朝混血)、弟、ズク、シミズなど少年たちが、見せ
てくれるシーンの、なんと、生き生きとしたことか。59年当時
の、子どもたちのさまざまな遊び、伝書鳩を育て、鳩の雛を売る
ために、屋根の上や物干し場に鳩を飼う、荒川の堤防とおぼしき
雑木林のなかに設えた隠れ家(私も、埼玉県の父親の実家で、い
とこたちと隠れ家作りをして遊んだ記憶がある)、小使稼ぎのた
めの、タカユキ、サンキチらの新聞配達(顔を隠すサンキチの風
呂敷を使った覆面の仕方には、私も覚えがある。チャンバラごっ
この「鞍馬天狗」の覆面の仕方だ。鞍馬天狗を演じた映画俳優の
嵐寛寿郎は、1927年〜53年くらいまで、4半世紀も、鞍馬
天狗を演じ続け、60歳以上なら、皆、覚えているのではない
か。59年という年は、実は、少年雑誌の週刊誌が、相次いで創
刊された年でもある。それまで、少年雑誌は、月刊であった。
「冒険王」「少年」「少年ブック」「野球少年」などが、頭に浮
かんで来る。3月に創刊された週刊誌は、「週刊少年サンデー」
「週刊少年マガジン」であり、当初は、今のような漫画主体では
なく、まさしく「雑誌」で、漫画を含めて、いろいろな記事があ
り、別冊付録も付いていた。因に、少年サンデーの表紙は、巨人
の長嶋茂雄選手と少年、少年マガジンの表紙は、朝汐。少年サン
デー連載の「月光仮面」を真似て、子どもたちは、風呂敷を使っ
て、マントにして遊んでいた)、鉄屑拾い(鉄屑を廃品回収業者
に売り、小使を稼ぐ。私たちも、子どものころ、拾った。特に、
「アカ」と呼ばれる銅線は、高価だった)、稼いだ金で、映画を
観に行く。当時は、映画が、娯楽の王様であった(ただし、貧し
い石黒家にも、なぜか、テレビが登場していたが、やがて、映画
は、テレビに娯楽の座を奪われることになる)。

3本立て、「小人料金」が、55円という場末の映画館の料金を
思い出す。タカユキは、サンキチら友だちに映画代を奢ってやる
(55円は、少年にとっては、大金だ。当時の少年サンデーは、
30円、少年マガジンが、40円だったのだから)。貧しいなが
らも、少年の、この「男気」、これぞ、タカユキの魅力だ。牛乳
瓶窃盗や同級の女子児童のスカートめくりという悪戯、牛乳を盗
まれた牛乳配達の青年(中学生だろうか)、旧芝川や荒川の河川
敷の舟溜まりか、汐入りの池のような入江などでのタカユキ、サ
ンキチの舟遊び(荒川堤防は、いわゆるスパー堤防に作り替えら
れ、「池」は、埋め立てられて、いまは、自動車教習所の敷地の
一部になっている、旧芝川の舟溜まりは、水門がつけられ、汚濁
浄化の排水機場になっていて、水路が荒川に通じているが、舟溜
まりからタカユキ、サンキチが舟を漕ぎだし、橋の上からそれを
見ていたジュンに叱られる場面に使われたと、私が推測する「門
桶橋(もんぴはし)」は、架け替えられ、両端にモニュメントの
ある橋になっている)、タカユキの欲しかった白いトレパン(体
操ズボンのこと。いまは、品物もないだろうし、「トレパン」と
いう言葉も、死語になってしまっただろう。この大事なトレパン
を穿いたまま、学芸会の演劇で「にんじん」が取り上げられ、サ
ンキチが主役の「にんじん」を演じている時、場内にいた児童の
一人が、「朝鮮にんじん」と差別的な大声を出すと、舞台にいる
サンキチの代りにタカユキは、その児童を校庭にまで追い掛けて
行き、トレパンが汚れるのもかまわずに、児童と取っ組み合いを
する)などなど。

こういう生き生きとした少年たちの動作、表情は、原作に加え
て、兵庫県相生で過ごした浦山監督の少年時の体験が生かされて
いる。社宅住まい父子家庭(父親は、「播磨造船」という会社の
課長だった)で、社宅の子どもらとは、遊ばずに、近所の不良少
年仲間や朝鮮人の少年たち(戦争中とあって、造船業界は好況
で、朝鮮人労働者も大勢働かされていて、同級生にも、彼らの師
弟が多くいたという)と遊び過ごした浦山監督の感性が、映像で
描く少年たちに投影されていると思う。全編を通じて、タカユ
キ、サンキチの友情には、いさかかの陰りもないことは、注目に
値する(二人の姉同士、ジュンと金山ヨシエとの間の友情も、ま
た、然り。田山「小説浦山桐郎」で、浦山の言葉として、次のよ
うに述べられている。「やっぱり朝鮮人の子がいることが、この
映画化を非常にやりたいと思った最大の原因だった」。田山は、
さらに、浦山の朝鮮人の少女への思慕にも触れ、小説のなかの
ジュンと少年時代に憧れた朝鮮人の少女のイメージをダブらせた
と推定している)。

浦山桐郎が監督デビュー、吉永小百合が映画主演女優デビュー
(それ以前は、松竹などの映画に端役で出演、日活入社後は、小
林旭、宍戸錠らが主演するアクション映画の傍役、それも、第2
のヒロイン役、あるいは、「草を刈る娘」などの青春映画のヒロ
イン役などだが、日活に入社して、1年半で、26本に出演、い
ずれも、使い捨ての、駄作ばかりというこき使われ方をしてい
て、エース女優には、なれずにいた)なら、名子役となった市川
好郎、森坂秀樹も、実は、映画デビューであった。30歳そこそ
この新人監督・浦山は、子役たちに懐かれ、敬愛されていたので
はないか。そうでなければ、子役たちが、あれだけ、自然な演技
ができるとは思えない。むしろ、子役たちは、ドキュメンタリー
の素人の子どものように、自然にカメラの前で、遊んだり、喧嘩
をしたりしているようにさえ見える。そう言えば、浦山桐郎と合
作で脚本を担当した師匠の今村昌平監督作品「にあんちゃん」
(1959年日活作品)でも、子役が素晴しかった。沖村武が、
佐賀県の鶴ノ鼻炭坑で働く安本家の次男(二番目の兄さんゆえ
に、愛称が、「にあんちゃん」)を演じるが、これが、また、名
演技であった。

父親が、亡くなり、20歳の長男・喜一(長門裕之)、長女・良
子(松尾嘉代)、次男・高一(沖村武)、次女・末子(前田暁
子)という安本一家の4人兄弟が、両親がいないというハンディを
克服して、健気に生きて行くさまを10歳の末っ子の「日記」と
いう視点で描いて行く。実際に原作は、安本末子である。子役の
使い方が巧いのは、師匠ゆずりか、あるいは、実体験に裏打ちさ
れた浦山の感性の為せる業か。両方の要素があったと推測する
が、浦山の感性も、鋭かったのではないか。

浦山は、実生活では、酒乱で、泣き上戸、素面のときと、まさに
人格が変るというタイプの酒飲み。さらに、幼くして実母を亡く
した所為か、女性に母親の情愛を求め、女癖の悪い、生活破綻者
で、死ぬまで28年連れ添った妻のほかに二人の愛人がいて、子
どもも妻と愛人にそれぞれ一人ずついた(ほぼ同時期に出産、本
妻は、男子、愛人は、女子を産む)という火宅の人だから、潔癖
な吉永は、浦山の実人生は、好ましくないと思っていただろう
が、浦山の芸術家魂に裏打ちされた感性、あるいは、大幅に年下
の吉永には、優しかったようで、浦山には、子どもや女性を引き
付ける魅力があったのではないだろうか(浦山の女性に対する優
しさは、女性関係を自分からは切れないという形でも、表れたの
かも知れないが、これは、当事者たちには、地獄だったであろ
う)。

これは、全くの推測以外の何ものでもないが、吉永小百合は、
「15歳年上」の浦山桐郎の感性(優しさ)に、恋心ではないか
も知れないが、尊敬、憧れの気持ちを持ったのではないかという
想像である。というのは、後年、1973年、吉永小百合が、
「ジャガ薯のような人」が好きと宣言して、視聴率は芳しくな
かったフジテレビの帯ドラマ「愛がはじまるとき」(4・2〜
7・30放送)に出演し、ドラマの演出をしていたディレクター
の岡田太郎と番組の放送中に婚約(放送終了直後の、8・3結
婚)をしたが、岡田太郎氏(後に、共同テレビ社長)が、実に、
浦山桐郎同様に、「15歳年上」なのだ。

いずれにせよ、浦山は、吉永小百合だけでなく、第2作の「非行
少女」(1963年作品)では、和泉雅子、第3作の「私が棄て
た女」(1969年作品)では、小林トシエ、第4作の「青春の
門」(1975年作品)、第5作の「青春の門・自立篇」
(1976年作品)では、大竹しのぶを育てるなど「新人女優育
ての名手」と言われたが、新人女優ばかりでなく、子役の演技力
も引き出す名人であったように思う。例えば、ジュンの弟・タカ
ユキを演じた市川好郎は、先ほども触れたように、「キューポラ
のある街」が、映画デビューであった。市川は、初めての映画出
演とは、思えないような、したたかで、逞しく、味のある少年を
生き生きと演じていた。「天才子役」と言われた市川好郎は、
「煙の王様」(日活、1963年作品)で、川崎の工場地帯で逞
しく生きる少年の役を演じるなど、この後、数年間は、タカユキ
のイメージの切り売りのような形で、売れたが、その後は、消え
てしまった。実際には、映画やテレビドラマの端役で、91年6
月封切りの「新・極道の妻たち」の砂岡亮一役まで30本余りの
作品に出て、93年、40歳代半ばで亡くなっている。

北朝鮮に帰還する金山一家のサンキチという日朝混血児を演じた
森坂秀樹は、市川好郎といっしょに「煙の王様」に出たほか、
62年から63年にかけて、5つの作品に出たが、その後は、消
えてしまったようだ。サンキチの姉のヨシエを演じた鈴木光子
は、63年の「青い山脈」まで、62年、63年に4つの作品に
出て、消えてしまった。因に、「にあんちゃん」の名子役の沖村
武が、57年から60年にかけて、5つの作品に出た(いずれも
60年作品の「路傍の石」と「筑豊のこどもたち」。実は、沖村
は、映画で活躍していた当時、私と小学校が同じだったが、学校
では、ほとんど見かけなかった)が、その後は、消えてしまった
のと同じ印象を受ける。

「僕は、お母さんが病気だから、牛乳配達をしているんだぞ。お
前らが牛乳を盗むと、給料から引かれてしまい、薬も買えないん
だぞ。恥ずかしくないのか」と、牛乳を盗んで、追い掛けられ、
舟に乗って、旧芝川へ逃げたタカユキとサンキチに対して、土手
の上から泣きながら、訛りのある口調で訴える牛乳配達の少年役
を好演した手塚央も同様で、62年の2作品で、消えている(そ
ういえば、小林トシエも、69年の「私が棄てた女」のほか、
90年の小栗康平監督作品「死の棘」まで、7本の映画に出演し
たほか、テレビドラマの端役などに出ていたが、いつのまにか、
消えてしまった。小林トシエばかりではない、日活映画のスク
リーンを彩った女優たちは、吉永小百合や浅丘るり子など一部を
除けば、皆、消えてしまった。例えば、1935年生れの芦川い
ずみは、ことしの誕生日を迎えれば、72歳、彼女は、藤竜也夫
人になった時点で、山口百恵のように、完全引退をした。
1940年生れの笹森礼子は、67歳、彼女は、サラリーマンと
結婚したと聞く。1945年生れの松原智恵子は、吉永小百合と
同じで、62歳。ルポライター夫人。1947年生れの和泉雅子
は、ことし、還暦。冒険家になったりして、テレビタレントとし
て、太った身体を曝していた時期があるが、最近は、見かけない
ようだ)。

さて、「キューポラのある街」は、子役たちが素晴しかったが、
吉永小百合を含めて、フレッシュな少年少女の役者たちを脇から
支えたのが、実力派の役者たちであった。

加藤武(ジュンの通う中学校の担任教師、野田先生。誠実で、教
育熱心な先生。映画のなかでは、ジュンの自立心に御墨付きを与
えるような正論を吐く高潔漢という得な役回り)
殿山泰司(松永親方。石黒辰五郎、塚本克巳が働く鋳物工場・松
永鋳工の経営者)
東野英治郎(鋳物職人の石黒辰五郎、ジュンの父親、労働者意識
より、職人意識が強い。酒癖が悪く、家庭内暴力を振るう。失業
中だったが、組合に助けられて復職する)
杉山徳子(石黒トミ、ジュンの母親、1女2男の上に、最近、男
の赤ん坊を産んだ。内職をして、家計を支えているが、夫の悪行
については、おろおろするばかり。息子のタカユキとしっくり行
かないようで、ジュンは、自分の進路の問題とともに、弟の非行
化も心配している)
北林谷栄(塚本克巳の母、うめ。ちょい役)
浜田光夫(塚本克巳、長屋の隣家の青年労働者。組合活動で、失
業した石黒辰五郎を救済しようとし、実際、成功する。原作者の
早船ちよは、彼をジュン一家の白馬の騎士として描きたかったの
かも知れない)
浜村純(朝鮮人・金山一家の家長。韓国南部の慶尚南道馬山出
身。南に合浦湾と北に舞鶴山がある街。脚本に唯一、役名がな
く、ただ「父」とあるだけ。北朝鮮帰還運動に乗って、北朝鮮へ
渡る。帰還後の彼らの悲惨な生活は、容易に想像される。特に、
日本人との混血の子どもたちを抱えて、子どもたちともども、差
別されたことだろう)
菅井きん(金山の日本人妻、美代。北朝鮮に帰国する金山一家の
家族と別れる。家族の見送りもできず。後に、再婚すると言っ
て、姿を晦ます。第2部「未成年」では、父親が病気で倒れた、
逢いに来て欲しいヨシエという願いを受け入れて、北朝鮮に行く
ことになっているから、彼女も、北朝鮮では、差別されたことだ
ろうし、金山一家全員の悲惨な生活が、想像される)
小沢昭一(浦和少年鑑別所の教師、ちょい役)
吉行和子(ジュンが見学に行くトランジスタ工場の女工。定時制
高校に通う)
下元勉(中島東吾、鋳造試験場技師。失業中の石黒辰五郎に就職
の世話をする)

ただ、子役たちが生き生きと逞しく、それぞれ個性的に描かれて
いたのに対して、大人たちの人物像は、役者の演技以前の問題と
して、脚本段階からして、人物造型が類型的であったようで、芸
達者なバイプレイヤーたちも、演技力をあまり発揮できなかった
のではないか。

ところで、小学6年生と設定されているタカユキの世界は、
1959年当時、12歳で中学1年生になったばかりの私と同世
代の世界だ。つまり、中学3年生のジュン、中学1年生の私、そ
して、小学6年生のタカユキという関係だ。このころ、私は、夏
休みや冬休みなどの長めの休みというと父親の実家のある埼玉県
の田舎町に行き、従兄弟や近所の少年たちと遊んでいたし、京浜
東北線と私鉄を乗り継いで行く私は、川口駅も、しょっちゅう通
り過ぎた。しかし、ジュンとタカユキが、貧しいながらも、生き
生きと生活する物語が、映画のなかで、展開しているのに、私だ
けが、画面の何処にも、姿を見ることができないというのは、当
然のことながら、なにか、淋しい感じが残る。
- 2007年2月21日(水) 7:05:23
2・XX  雨の降る、「東京マラソン」の開催の日に、歌舞伎
座に行って、「仮名手本忠臣蔵」を昼夜通しで拝見した。通し狂
言として見るだけでも、今回で、5回目。「六段目」「七段目」
「九段目」などの見取り上演を観ることも多いわけで、というこ
とになると、そうそう新しい視点で劇評を書くというのも、苦し
くなる。いちばん安直な手は、役者の演技の印象論で、これなら
ば、毎回いろいろ顔ぶれが替るので、書きやすい。同じ役者で
も、前回との異同があるだろうから、それなりに書けるというこ
とで、普通の劇評は、役者の演技の印象論ばかりとなる次第。

まあ、そうは言っても、「その手」は、劇評家の、いわば「生活
の知恵」であるので、私も、前回当たりから、「忠臣蔵」は、
「この手」に引っ張られているので、今回も、「この手」ど、ゆ
るりと参ることにして、「裏」で劇評を書きはじめた。「表」の
お店に、お見せするのは、数日後になる予定。カミング・スーン
(近日公開)ということで、先ずは、先触れ。拍子幕。

- 2007年2月19日(月) 22:50:17
2・XX  映画「キューポラのある街」考(3)


(3)「時代」の物語〜貧しくとも、皆で力を合わせて〜


第3の物語は、1959〜60年(小説連載)と1962年(映
画撮影)という「時代」の物語だろう。先の述べた「川口物語」
は、川口という街を知らなければ、おもしろくないかも知れない
が、時代は、生きてきた人なら、何処に地域の人であろうと共通
の体験として理解される。つまり、川口という地域に映し出され
た「時代」もまた、もうひとつの物語の主人公なのである。ここ
で注意しなければならないのは、「キューポラのある街」の雑誌
連載の原作が書かれた1959〜60年という時代(特に、小説
のなかで描かれた時期は、59年の夏から冬の時期)である。
59年という年は、2・16のキューバ革命で、カストロが首相
になった。4・10は、皇太子が結婚した(結婚の中継をきっか
けに、日本社会にテレビ受像機が、一気に普及した。NHKの受
信契約数で見ると、58年には、約100万件だったのが、62
年には、約1000万件と10倍に増え、テレビの世帯普及率
は、ほぼ50%になった)。8・21は、ハワイが、アメリカの
50番目の州になった。9・26には、伊勢湾台風が上陸し、多
大の被害を出した。12・14には、北朝鮮帰還者を乗せた第1
船が新潟を出発した。帰還者たちの川口駅東口での、出発の光景
が、映画でも描かれる。このシーンの撮影は、サラリーマンらの
帰宅時間が過ぎた、夜の9時以降に、4夜連続の徹夜で、行われ
たという。ジュン、タカユキの姉弟と仲の良かったヨシエ、サン
キチの父親・金山=金某は、亡くなった自分の父親に似ているか
らといって、浦山監督作品には、必ず出演している浜村純であっ
た。そして、なぜか、浜村純の役名だけが、名前がない。早船の
原作からして、そうなのかも知れないが、ただ「父」となってい
るだけだ。

まずは、59年から62年と厳密に言うより、60年前後と大掴
みにした方が的確だろうが、ボンネットバスや行き交う車、自転
車、駅前のロータリーや商店街の佇まい、商店の看板文字のスタ
イル、粗末な作りの低い家並、鋪装されていない道路、鋳物職人
らが住む長屋の佇まい、街行く人々の服装や表情、「1女高」へ
の進学を断念するために学校を見に来たジュンが、校舎の石垣を
上り、校庭の金網越しに眺めた校庭でダンスを演じる県立浦和第
一女子高校の生徒たちの服装、通学する中学生たちの服装、子ど
もたちが見ているテレビ画面のなかの相撲中継(それにしても、
物語の時代が、59年だとしたら、貧しい鋳物職人の家にテレビ
受像機があったというのは、信じられない。先ほども、触れた
が、大半の一般家庭にテレビ受像機がお目見えするのは、62年
以降である。それ以前は、早めにテレビ受像機を入れた家庭に
は、近所の子どもがテレビを見せてもらいに来るという現象が続
いていたはずで、家族だけで、テレビを見るようになるのは、小
説「キューポラのある街」も、映画「キューポラのある街」も、
ともに、無理だったろうと思う)、ジュンと日朝混血のともだち
金山ヨシエの二人がアルバイトで働くパチンコ店のパチンコ台の
裏側の、玉入れ作業(当時は、自動化されておらず、玉溜まりに
玉を入れていても、当りが良ければ、玉を放出してしまうため、
やがて、「おい、玉がないぞ」と客に怒られる、ビリヤードをす
る若者たち、ジュンとタカユキが、中華料理屋で食べるラ−メン
(ラーメンは、庶民にとって、たまにしか食べることのできない
高価なごちそうだった。この当時、ラーメン一杯、40円から
50円だった)、映画館の入り口の佇まい、タカユキらの新聞配
達するスタイル、牛乳配達の青年、少年たちの鉄屑拾い、少年た
ちが、屋根や物干台で飼う鳩(育てて、売る)、あるいは、伝書
鳩の飼育と訓練(帰巣訓練)、企業の合併と労働者の失業、それ
の解決策としての組合活動ヘの期待(原作の早船ちよの「党派
性」も、滲んでいるようだが)、北朝鮮帰還運動(*)で「帰
還」する川口在住の朝鮮人たちとそれを見送る日本人や朝鮮人の
服装などなど。高度経済成長期が近づいている時代を色濃く反映
する、さまざまなトピックスが、60年前後の暮らしの記憶を持
つ人なら、ノスタルジーを感じざるを得ないような、共通の体験
として、映し出される。

(*)北朝鮮帰還運動では、59年12月〜67年10月まで
で、合計155便、8万8611人が帰還。その後、中断を挟ん
で、84年まで続き、あわせて、約9万3000人が帰還したと
いう。これは、映画のラストシーン(「絶対的貧困」とそれから
の脱出志向という、映画「キューポラのある街」の究極のテーマ
でもある)として、明確に1959年12月を意識している。
バックに流れるのは、「金日成将軍の歌」であり、60年から
61年は、ピーク(帰還者の70%は、この時期に集中してい
る)を迎え、各地で、同じような見送り風景が、展開されたこと
だろう。

このシーンで、浦山作品が、優れているのは、「金山」一家の、
日本人の母親・美代が、サンキチに持たせようと荷物を持って来
るというエピソードを挿入していることだ。実は、それを口実
に、母親は、家族との最後の別れをしに来るのだが、ヨシエ(帰
還を勧める「朝鮮総連」の北朝鮮賛美にどっぷり漬かっている)
は、母親に対して、涙ながらに、次のようなことを言う。「今、
逢ったら、父ちゃんもサンキチも帰れなくなる。だから、逢わず
に帰れ」。要するに、朝鮮半島の南部出身者が、ほとんどという
在日朝鮮人が、日本での民族差別、高度経済成長期前の、「絶対
的貧困」ともいうべき、貧しさから抜け出すためには、南部に
「帰国」できない(南部、つまり、いまの韓国に帰ったものの、
当時の韓国は、北朝鮮より経済力がなかったために、生活ができ
ず、日本に逆戻りした人たちもいた)以上、見知らぬ土地、見知
らぬ体制、見知らぬ人たちの住む北部に「帰還」するしか、道は
なく、皆が皆、社会主義の「地上の楽園」を信じて、主体的に北
へ渡ったわけではないということを金山一家の象徴させて描いて
いる。

また、そのシーンの一部始終をジュンに、しっかり見せていると
いうことだ。ジュンたちの石黒一家も、貧しいが、家族がバラバ
ラになってでも(しかし、金山一家も、ヨシエ以外は、帰還に対
する本音は違うから、心が揺れ動いている)、「絶対的貧困」か
ら抜け出ようとするしか道がないという現実が、当時の在日朝鮮
人たちにはあったということを浦山は、言いたかったのではない
か。映画「キューポラのある街」のテーマは、貧困だと言った浦
山の真意は、まさに、ここにあると思う。今から考えれば、労働
力の欲しい北朝鮮当局と民族差別の壁で、就労がままならないた
め、生活保護者が多い在日朝鮮人を「厄介払い」したい日本政府
との利害が一致した結果、新潟まで行く交通費や宿泊費を日本政
府が負担し、新潟から北朝鮮までの船賃を北朝鮮が負担するとい
う帰還運動は、大きく広がったのだろう。それはまさに、権力同
士の経済的理由と政治的理由の融合の結果であった。

59年を描いた「小説の時代」、それと映画が撮影された62年
という「映像の時代」というふたつの時代が、映画「キューポラ
のある街」では、微妙に異なることに気を配って欲しい。59年
という「小説の時代」(従って、「60年安保」は、出て来な
い。浦山監督作品で、「60年安保」が、出て来るのは、第3作
の「私が棄てた女」(1969年作品)まで、待たねばならな
い)と、62年2月〜3月撮影という「映像の時代」で大きく違
うのは、実は、バックに流れる流行歌である。パチンコ店の店内
に流れている小林旭の「ダンチョネ節」は、1960年2月封切
りの日活映画「海から来た流れ者」の主題歌、植木等の「ス−ダ
ラ節」は、1961年に大ヒットした流行歌、もつ焼きの「山一
屋」で、酔っ払いの客やジュンとタカユキの母親トミたちが唄う
「ノーチョサン節」も、1960年封切りの、小林旭の映画「東
京の暴れん坊」の主題歌であり(そう言えば、映画「キューポラ
のある街」は、日活アクション映画のスター俳優・小林旭をさり
気ない「宣伝」を滲ませているようだ。五社に遅れをとっている
日活としては、石原裕次郎の人気に陰りが出始め、小林旭を売り
出し、さらに、赤木圭一郎を売り出ししているころで、赤木が、
ゴーカートの事故で死亡(61年2月)してしまい、ということ
で、経営陣に「あせり」のようなものがあったかも知れない。

その代りというと変だが、ジュンが、浦和第一女子高校の受験を
断念し、働きながら定時制へ通おうと決意して、トランジスタ工
場を見学に行った際、屋上で女子工員たちが、「手のひらの歌」
の合唱練習をしている場面がある(その歌詞は、次の通り。「苦
しい時には見つめてみよう/仕事に疲れた手のひらを/一人だけ
が苦しいんじゃない みんなみんな苦しんでいる/話してみよう
よ語り合おうよ/積もり積もった胸のうちを」)。当初から、こ
のシーンは、いわゆる「歌声運動」の情宣活動のようで、不評
だったらしい。私も、改めて、今回、観ても違和感が残った(一
方で、映画「キューポラのある街」のテーマソングだという説も
あった。なぜなら、このシーンのほかに、北朝鮮に帰還した金山
ヨシエがジュンに遺して行った自転車にジュンが乗るシーンで、
ジュンが、この歌の3番を唄うからだ。その歌詞は、次の通り。
「みんなで笑いあって見つめてみよう/汗に濡れた手のひらを/
一人いては何にもできぬ みんなみんな手を結べ/話してみよう
よ語り合おうよ/積もり積もった胸のうちを」。この歌詞は、父
親の自己中心主義を批判し、父親の復職を勝ち取った組合主義を
賛美することに通じている。あるいは、日活の「宣伝」の場面と
歌声運動の「情宣」の場面を並立させることで、浦山は、反骨精
神から、いわば「バランス」をとったのかも知れないという気も
するが・・・)。さはさりながら、パチンコ店で流れたいずれの
歌も、59年の「小説の時代」には、登場しては、いけない。
62年の「映像の時代」にのみ許される音楽なのである。因に、
60年以降の流行歌では、ほかに、60年安保を象徴する西田佐
知子(確か、関口宏夫人)「アカシアの雨が止む時」、61年で
は、坂本九(航空機事故で死亡)の「上を向いて歩こう」などが
ある。

ドラマ映画ながら、ドラマのなかに実写されるさまざまな背景
は、もう、ドラマではない。ドキュメンタリー映像そのものであ
る。
- 2007年2月19日(月) 21:09:12
2・XX  映画「キューポラのある街」考(第2回)

(2)「川口」の物語〜高度成長前夜、取り残される貧困〜

もうひとつの主人公は、タイトル通り、「キューポラのある街」
で、つまり、第2の物語は、川口という地域の物語である。印象
的なのは、まず、冒頭のシーンである。当時の国鉄(いまの
JR)の荒川鉄橋(当時は、川口鉄橋)の空撮シーンで映画は始
まる。キャスティングなどを見せながら、背景は、東京側から鉄
橋の「トラス(構造骨組。荒川鉄橋の場合、高さが約10メート
ルのトラスが、橋の両側に6連ずつある。1連が、60メートル
前後の長さだ)」を映し出し、その向うに「キューポラ」という
溶銑炉のある鋳物工場が、独特の形をした煙突を林立させた川口
市が、迫って来る。当時の川口は、東京近郊の(荒川を挟んで、
東京都と接している)、中小企業の街であった。タイトルクレ
ジットは、白いワイシャツやブラウス姿で、通学する男女の中学
生たちの群像に被る。中学生たちが通る道の後ろには、鋳物工場
独特の煙突が林立し、煙突から、黒煙が立ちのぼっている。当時
の川口の人口は、約17万、それが、2007年1月では、50
万を超えている。

映画は、貧しい長屋のシーンは、ロケセット、あるいは、室内
は、スタジオセットで撮影されただろうが、野外のシーンは、荒
川下流の左岸の川口市のうち、当時の国鉄鉄橋と国道122号線
の通る新荒川大橋に挟まれた部分に貧しい職工の住む長屋街を設
定しているようで、荒川の堤防を中心に撮影されて行ったものと
思われる。画面には出て来ないが、金山一家が住む朝鮮人長屋
は、旧芝川沿いの土手下にあるという想定だった。実際、3年生
のジュンが通う中学校は、いまもある川口市立南中学校の当時の
木造校舎が使われ、地元の中学生たちが、多くエキストラ出演し
ているという。なかでも国鉄の川口鉄橋、及び、そこを走り抜け
る旅客列車や貨物列車は、重要な背景を支えている(古い列車の
種類が、判るようなマニアなら、貴重な映像ではないか。東北線
では、1955年以降、中卒者などを乗せた「集団就職列車」
が、川口鉄橋を渡って行ったことだろう。「キューポラのある
街」の雑誌連載が始まる1年前の、1958年には、東北線最初
の特急列車「はつかり」が、走りはじめている。因に、京浜東北
千線の「南浦和」駅は、1961年7月1日の開業である)。堤
防を歩くシーンでは、画面の右側に工場や貧しい家並が見え、左
側に河川敷の存在を想像させ、画面奥には、左右に移動する列車
が見えるというシーンが、多数ある(鉄橋の東側で撮影してい
る)。ただし、ときには、画面左側に工場や貧しい家並が見え、
右側に河川敷の存在を想像させ、画面奥には、左右に移動する列
車が見えるというシーンもある(鉄橋の西側で撮影している)。

当時の国鉄の鉄橋は、貨物線、東北・高崎線、京浜東北線の3本
の鉄橋である(いまも、鉄橋は3本で、鉄道網の拡充により、列
車の本数は、増えている。現在の鉄橋の形になったのは、68年
というから、映画が撮影された62年初めは、違っていたことに
なる)。一方、国道122号線の通る新荒川大橋も、中学校など
のシーンの背景で活躍する(国道122号線は、明治通りとJR王
子駅周辺で分岐し、岩槻街道、日光御成街道と呼ばれ、さらに、
日光街道として日光東照宮へ通じる「将軍家の道」であり、ある
いは、日本の近代化を支えた足尾銅山に通じる「銅山街道」「あ
かがね街道」とも呼ばれる街道であった)。長い橋の上をゆっく
り走るトラックや車の黒い影が見える。撮影当時も、日本の産業
を支える道路であった)。この新荒川大橋も、1928(昭和
3)年に架橋された荒川大橋の上りが、改築されて、1966年
にいまの形になったし、下りは、1971年に改築された。つま
り、映画が撮影された62年初めは、橋の形も、違っていたこと
になる。

ジュンの生活の主要舞台の一つ、川口市立南中学校は、その後、
荒川の堤防が、「スーパー堤防」という、堤防というより、「台
地」とでも呼ぶべきものに作り替えられた後、このスーパー堤防
の上に改築されたから、撮影当時の面影はなくなっている。ジュ
ンが、ソフトボールの試合で、逆転打を打った学校のグランド
は、変ってしまっただろう(南中学校は、鉄筋コンクリート建て
になり、いまの学校には、グランドなどない。狭い校庭があるば
かり)。ジュンの弟のタカユキが友だちのサンキチと瓶に入った
牛乳を盗んで、牛乳配達の青年に追い掛けられて逃げ込んだ舟が
舫ってあった入江(あるいは、汐入り池)の舟着き場は、いま
は、自動車教習所の敷地の一部になっているという。橋(付近の
水路の形から推測して、多分、「門桶橋(もんぴはし)」ではな
いか)の上からジュンが舟で遊んでいるタカユキたちを叱った旧
芝川も、芝川(江戸時代からの農業用排水路)が、新芝川
(1954年に放水路が完成した)と旧芝川に分かれる上流の青
木水門と下流の領家水門で、ふたたび、新芝川(放水路)と合流
するまで、約5・5キロを水門で閉ざされた淀みとなっていて、
悪臭と汚れの川になっている(近年、旧芝川の再生を図るプロ
ジェクトが、活動している)。

堤防の向うに見えていた屋根の大きな善光寺という寺は、映画の
撮影の、6年後に火事があり、焼失してしまい、いまは、改築さ
れている。JRの車窓から、今も見える善光寺は、1195年の開
創で、信州の本家の善光寺、武田信玄が、開いた甲府の善光寺と
並んで、「三善光寺」として知られ、特に、江戸時代は、近間の
善光寺として、江戸庶民に愛されたという。旧日光御成街道の宿
場である岩淵宿と川口宿の間を流れる荒川には、「川口の渡し」
があり、安藤(歌川)広重が1857年に刊行した「名所江戸百
景」のなかに「川口のわたし善光寺」という1枚の浮世絵があ
る。絵柄は、赤羽側から川口を望み、荒川を渡る渡し船ばかりで
なく、幾つもの、行き交う筏流しの光景が描かれ、対岸の川口側
には、林のなかに善光寺の大屋根が見えることから、川口側の渡
し場が、寺の近くにあったことが判る。この辺りの光景は、その
後も、錦絵や版画に描かれている。日光御成街道の旧街道の一部
が残っている位置からすると、渡船場は、川口市立南中学校の下
辺りの川岸だろう。「川口の渡し」の渡船場は、江戸時代には、
実は、ふたつあり、ひとつは、一般用だが、もうひとつは、将軍
用であった。将軍一行が、御成りの場合は、渡し舟は使わずに、
幅3間(約5・4メートル)、長さ65間(約117メートル)
の「船橋」が架けられ、一行の行列が、延々と渡ったという。
ジュンたちが通った堤防の辺りをその昔には、将軍一行の長い行
列も通ったと思うとおもしろい。

さらに、上野・熊谷間(いまのJR高崎線)を走った日本最初の
私鉄「日本鉄道」の蒸気機関車は、「善光寺号」という。この
「善光寺号」は、実は、川口の善光寺と所縁がある。荒川の水運
を利用して、英国製の蒸気機関車の部品がこの辺りで、陸揚げさ
れ、善光寺の裏で組み立てられたことから寺の名前をつけられた
という。映画「キューポラのある街」では、いわば、「ちょい
役」並の、遠景に過ぎなかったけれど、いろいろエピソードを
持っている寺だ。

低い家並に混じって見えていた鋳物工場の「キューポラ」という
溶銑炉の独特の煙突もなくなり、跡地には、高層マンションも含
めて、幾つものマンションが立ち並んでいる。ジュンが母親と歩
く商店街の栄町も、日本の各地の商店街同様に、街の表情は、全
く変ってしまっている。ボンネットバスが走るロータリーがあ
り、北朝鮮への帰還者を見送ったり、修学旅行へ出発するジュン
同級生たちが集合したりした川口駅東口も、ペデストリアン・
デッキのある駅前広場を囲むようにデパートなどの大型店舗が連
なるビル街に変貌してしまった(映画撮影当時の面影をしのばせ
るのは、隣の西川口駅東口の方だが、ここも、いまは、駅ビルの
工事が始まっていて、いずれ、駅前も面変わりしてしまうだろ
う)。

つまり、映画スクリーンに映し止められた「キューポラのある
街」は、もはや、幻の街になっている(面影を留めているのは、
ラストシーンの川口陸橋ぐらいか(ジュンたちの住む長屋は、線
路の東側にあったのか、西側にあったのか。私は、東側説を取っ
ているのだが、ラストシーンで、新聞配達途中のタカユキが陸橋
の赤羽寄りの真ん中辺りで待っているところへ東側からジュンが
駈け上って来る。赤羽側から近づいて来る列車。列車の窓から、
身を乗り出して手を振っているサンキチ。列車が陸橋の下に入
る。ふたりは、陸橋の川口が側に移動する。陸橋下から、再び、
列車。窓から身を乗り出し手を振るサンキチ。列車が、行ってし
まう。線路際の背景は、当時あったビール工場の建物が見える。
二人が、陸橋を西側にかけ降りて行くと、画面左下にエンドマー
クが浮き出て来る)。現在、陸橋の背景をなしている高層マン
ションやビルは、当然、当時とは異なった光景だ)。それは、恰
も、撮影が終ってロケセットの街が取り壊されたような感じがす
る幻の街だ。いや、いまの高層ビルやマンションが林立する川口
の街の方が、幻のような気がする。それゆえに、いま見ると、封
切り当時には、映画の舞台、背景に過ぎなかった川口という街
が、いまや、この映画の主人公になってしまっているという感じ
が強くなる。
- 2007年2月18日(日) 8:44:09
2・XX  何回かに分けて、以下を連載したい。タイトルは、

団塊の世代に贈る4つの物語〜映画「キューポラのある街」〜で
ある。
 

映画「キューポラのある街」は、団塊の世代向けに情報が詰まっ
たタイムカプセルではないか。

久しぶりに機会があって、浦山桐郎監督のデビュー作品の映画
「キューポラのある街」(日活、1962年作品)を観た。映
画、テレビ放送、そして今回の映画ということで、3回は観たこ
とになる。映画「キューポラのある街」は、1962年4月8日に
封切られている。物語は、北朝鮮への帰還運動が始まった(第1
船が新潟を出航したのが、1959年12月14日)ことに触れ
ていることから、1959年の夏から冬(12月)にかけてとい
うことが判る。早船ちよが、雑誌「母と子」に原作を連載したの
が、1959年から60年であり、単行本が弥生書房から刊行さ
れたのが、61年(後に、大幅に書き直され、定本として63年
に理論社から刊行)というから、封切りの時期から逆算しても、
撮影は、61年の後半から62年の初めくらいの期間だろうと推
定した。当時の日活映画作品は、小林旭、宍戸錠らが主演する
「無国籍アクション」路線という、訳の判らないものが多かった
が、記録を見ていると、約3ヶ月で、新しい作品が、次々と封切
られているのが判る(一説によると、封切り後、2週間で、次の
作品に切り替えられたケースもあるという。粗製濫造の時代だっ
たようだ)。従って、日活資本の路線からすれば、浦山監督作品
も、撮影期間は、「アクション映画」と似たり寄ったりではない
かと思ったのだ。その後、田山力哉「小説 浦山桐郎」を読んで
いたら、今村昌平「豚と軍艦」の助監督をしていた浦山桐郎が、
「豚と軍艦」終了後に、自分の監督デビューが勧められ、61年
秋に書店で見つけた弥生書房版の早船ちよの単行本「キューポラ
のある街」を読んで、在日朝鮮人が多数登場する部分に共感し、
自分の監督デビュー作品は、「キューポラのある街」だと決意し
たとある。その上、撮影は、62年2月からということが判っ
た。撮影に入る前に、3ヶ月ほどかけて、舞台となる川口を調査
し、脚本を書いている。脚本は、今村昌平・浦山桐郎の合作。

主役のジュンという女子中学生(3年)を演じた吉永小百合は、
撮影時は、16歳(高校2年生)であり、封切りを前にした3月
13日(1945年生まれ)に17歳になったばかりであった
(吉永小百合は、1957年1月、ラジオドラマの「赤胴鈴之
助」出演でデビュー。吉永は、私より2歳上だが、デビューのラ
ジオ番組を私は、聴いている。さらに、後年、吉永は、早稲田大
学に入学するが、私とは、学部こそ違え、入学と卒業の年次は、
同じであるから、同級生ということになる)。封切られた映画
は、好評で、撮影時31歳の浦山桐郎監督は、監督デビュー作
で、63年1月に、32歳でブルーリボン作品賞をとり、吉永小
百合は、17歳という史上最年少で主演女優賞を取り、天性の女
優として認められた。

(1)「ジュン」の物語〜処女性の潔癖さ〜

まず、「映画の主人公は?」という、問いかけで、この映評の筆
を起こしたい。普通に考えれば、17歳で主演女優賞を獲得した
吉永小百合が演じたジュンの物語という答えが出て来る。その場
合、テーマは、女子中学生(3年)の自意識・自立心の目覚めと
でも、設定すれば、座りがすこぶる良い。厳しい環境に負けず
に、積極的に自分の将来を切り開いて行こうという新しい少女像
の形成。貧しい鋳物職人の家庭に育った、頭の良い、美貌の少
女。企業の合理化で父親が失業し、貧しさは、さらに極まる。
ジュンは、59年に中学3年生という設定だから、吉永小百合の
実年齢と重なる。

ジュンを巡る幾つかの問題を整理すると、以下のようになる。埼
玉県の女子の名門公立高校である埼玉県立浦和第一女子高校に合
格できそうな学力なのだが、貧しさ故に、進学か、就職か悩む。
貧しさのなかの親子関係、父親の酒癖の悪さ、家長意識がもたら
す家庭内暴力(いわゆるDV、唐突ながら、東野英治郎が演じる
頑迷な父親は、「自己中心主義」と子どもたちから批判される。
早船ちよにとって、「自己中心主義」は、どうやら、「組合主
義」と対極をなす概念らしい)、父親を通じての企業の合理化と
失業問題、組合問題、長屋の隣の模範的な工員(浜田光夫が演じ
る好青年は、父親の同僚でもあり、組合活動家でもある)との純
愛感情、初潮を迎える少女の性への不安、弟を絡めた小中学生の
非行問題、朝鮮人差別問題(中学生の民族差別と友情、北朝鮮へ
の帰還運動、帰還者の家庭問題)など。さまざまな問題に直面し
ながら、ジュンは、自意識・自立心の目覚め、実像が見え出した
社会と戦いはじめる。

ドラマとは言え、鋳物職人の家庭の日常生活を丹念に描いて行く
ことで、60年代の時代考証にも通じる演出ぶりは、特筆に値す
る。そこに描かれて行くのは、少女を取り巻く1959年の日本
社会の現実が、川口の貧しい労働者の家庭で育つ少女の眼を通じ
て再確認される(原作者の早船ちよは、党派性が強く、小説全体
を通じて、労働運動評価を主張している)。貧しさのなかで、進
学か、就職かで悩んでいたジュンは、自分も働き、経済的にも自
立しながら、定時制高校に通うという第3の道を自ら選択するこ
とで、当面の人生の課題を解決する道を見つける。就職試験を受
けに行く朝、北朝鮮に帰還する弟の友だちを当時の国鉄線路を跨
ぐ陸橋の上から弟とともに見送るシーンで映画は、終るのであ
る。

不安定な思春期、貧しさに負けず、純粋な正義漢を燃やして大人
たち、男たちに立ち向かって行く少女の眼の輝き、吉永小百合で
なければ、表現できなかった少女像が描かれて行く。そういう意
味では、日本映画史上に残る名作の一つだと言える。しかし、吉
永小百合の起用は、浦山の希望ではなく、当初は、日活からの押
し付けであった。自分の出産時に母親を亡くし、高校3年生のと
きに、父親に自殺され、不幸な家庭環境と戦いながら、自立を目
指してきた浦山桐郎監督から、「この映画は、貧困がテーマだ。
貧乏というのはどういうことか考えてごらん」と問われたとき、
家の経済が破綻していた吉永小百合(外務省出身の父親は、出版
社を起こすが倒産していた)は、「私、ずいぶん貧乏しました」
と答えた。それに対して、浦山桐郎監督は、「君のは山の手の貧
乏なんだ。どうにもこうにもしようがないというぎりぎりの貧乏
とはちがう」と言ったという(浦山は、映画のなかで、59年
12月の、朝鮮人たちの北朝鮮への帰還運動のシーンを描いてい
るが、差別と絶対的貧困=「ぎりぎりの貧乏」からの脱出志向と
しての、朝鮮人の真情を描いていたのかも知れない)。そういう
監督との受け答えを経て、吉永小百合は、監督の出した宿題に、
映画のなかで、きちんと答えを出した。それが、史上最年少のブ
ルーリボン主演女優賞に繋がったと思う。これが、第1の物語。

浦山は、吉永小百合では、どうしても鋳物職人の娘になりきれな
いと見極めをつけ、ジュンの持つ別の面、処女の積極性を打ち出
すことにしたという。それは、内職では、失業中の夫に代って、
家計を支えられないため、飲み屋に働きに出るが、酔客と戯れて
いる母親の姿、あるいは、飲み屋に働きに出る支度をしていると
きの、母親のうきうきした表情に、大人の女の嫌らしさを感じ
て、友だちに貰った口紅を母親に投げ付ける場面などで、浦山
は、こうしたテーマを表現している。結局、この転換が、吉永小
百合のキャラクターの持ち味という鉱脈を引き出し、小説
「キューポラのある街」とは異なる、映画「キューポラのある
街」の女子中学3年生のジュンを正義感の強い、それだけに気も
強い美少女像として描くことに成功したことになる。
- 2007年2月17日(土) 16:40:07
2・XX  先日、機会があって、浦山桐郎監督デビュー作品、
吉永小百合主演の映画「キューポラのある街」を観たばっかり
に、「キューポラのある街」に嵌ってしまい、目下、大長編映評
「キューポラのある街」を執筆中。映画「キューポラのある街」
は、団塊の世代向けの情報が、ぎっしり詰まったタイムカプセル
という視点で書き出したから、60年前後のことを調べるのに、
時間がかかり、ホームページの更新ができなくなっているという
のが、実状。今週中に、映評ができ上がると良いのだが・・・。

また、田山力哉「小説浦山桐郎 夏草の道」も読んでしまい、書
評としても成り立ちそうな気配。従って、我がホームページとし
ては、映評を「双方向曲輪日記」に掲載し、書評を「乱読物狂」
に掲載し、どちらかしか覗かないという人の眼にも触れてもらう
つもり。歌舞伎座は、18日の日曜日に拝見に行く。今月中に
は、劇評を「遠眼鏡戯場観察」に掲載したい。もう暫く、ご猶予
を。
- 2007年2月13日(火) 22:10:23
1・XX  関西テレビの番組で、納豆でダイエットというの
が、ブームを呼び、各地の店頭で納豆が品薄になったそうだが、
大本のテレビ番組で伝えた内容のデータやインタビューが捏造し
た架空のものだったという。先日も、ここで書いたように、皆
が、消費者を軽視している風潮が、いま、日本列島のあちこちに
噴出していて、マスコミも、例外ではないということが判ったと
いうことだろう。ここ数年の、国民軽視の政治動向が、諸悪の根
元のような気がしてならない。政治資金を誤魔化していた政治家
たちの進退は、どうなったのか。消費者=国民は、あちこちで、
軽視され、馬鹿にされている。これを怒らずに、何を怒るという
のか。

生きることは、毒を貯えることだというが、軽視されることに慣
れることも、一種の毒を溜め込むことだ。毒が、致命的にならな
いうちに、解毒剤を呑まなければならない。

さて、歌舞伎は、日本の庶民が、400年掛けて育ててきた解毒
剤だ。国立劇場開場40周年記念公演の通し狂言「梅初春五十三
驛(うめのはるごじゅうさんつぎ)」の劇評をさきほど、サイト
の「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。大南北の「独道中五十三驛
(ひとりたびごじゅうさんつぎ)」を書き換えた狂言だが、小粒
な門下生たちが、大南北亡き後、憑依状態で生み出したような、
綯い交ぜ狂言だけに、場面場面は、おもしろい。こちらも、憑依
状態で、一日がかりで書き上げた。読んでみてください。
- 2007年1月21日(日) 21:59:18
1・XX  歌舞伎座の夜の部の劇評も、さきほど、サイトの
「遠眼鏡戯場観察」に書き込む。ハイライトは、初見の「切られ
お富」。お富の二重性を、福助が、もう少し、掘り下げて表現で
きるようになったら、この出し物は、福助の人気演目になるので
はないか。勘三郎の「鏡獅子」は、堪能した。劇評を書くのは、
舞台を再現するようなもので、書く時間と舞台の時間は、ほぼ同
じで、それぞれ、半日の作業となる。食事をする以外は、パソコ
ンに向っている。きょうも、ふたつの劇評を書き、疲れた。「こ
んにちは、これぎり」。国立劇場の劇評の書き込みは、あすにな
る。

北海道の北見市で、ガス洩れ。北海道ガスの、対応の杜撰さが、
段々、浮き彫りになりはじめた。不二屋の、杜撰な製品管理とい
うか、確信犯的な消費者軽視意識、三菱ふそうの、相変わらずの
トラック車輪のハブ事故リコールなど(この問題をモデルにした
今期の直木賞候補作品・池井戸潤「空飛ぶタイヤ」は、おもしろ
かった。いずれ、「乱読物狂」で、書評する)、すべて、共通す
るのが、消費者軽視に到達する。教育基本法改悪の、子ども軽
視、教師軽視(こういう法律を造った大臣の政治資金感覚は、有
権者軽視)、憲法改悪論者たちの憲法軽視(憲法は、国家権力を
監視する)など、「本末転倒の軽視ムード」が、総無責任体制を
作り上げていやしないか。マスコミは、国民の立場にたった社会
監視をちゃんとしているのか。していないとすれば、マスコミ
も、読者、視聴者軽視ではないか。
- 2007年1月20日(土) 22:46:11
1・XX  歌舞伎座の劇評、とりあえず、昼の部を書き込む。
今月は、昼も夜も、馴染みのある演目が目立つので、書きにく
い。昼の部は、取りあえず、新解釈を含めて、「俊寛」を軸に、
書いてみた。さきほど、「遠眼鏡戯場観察」に劇評を書き込ん
だ。夜の部は、この後、書きたい。国立劇場で、166年ぶりの
復活上演という「梅初春五十三驛(うめのはるごじゅうさんつ
ぎ)」を観てきたので、こちらの劇評も書かねばならない。

知り合いの歌人・松村由利子さんが、06年の「現代短歌」の新
人賞を受賞した(3月表彰式)。94年にも、「短歌研究」の新
人賞を受賞している。12年経っても新人賞という辺りに、短歌
界の懐の深さ(?)を感じるが、とにかく、おめでたい。受賞作
「鳥女」(本阿弥書店刊)という歌集も、拝読しているので、い
ずれ、書評を「乱読物狂」に書き込みたい。小山田二郎という異
形を幻視した画家の絵を表紙とタイトルに使う。元新聞記者。
「物語のはじまり」(中央公論新社刊)という短歌+人生エッセ
イとでもいうべき本も、最近、刊行したばかり。鼠歳ながら、亥
歳に飛躍というのも、「2段飛び」の勢いがあるではないか。
- 2007年1月20日(土) 17:52:38
1・XX  亥歳。5回目の年男になる。そこで、私も、還暦を
短歌に読んでみた。


螺旋上昇/通過・・・ 還暦の朝は 栄螺堂のごとく 立ち居れ
り


さて、インターネットのオピニオンページの「萬晩報」にドイツ
在住のジャーナリスト・美濃口 坦さんがフセインの処刑の様子
について、次のように書いている。

* 縄を首に巻きつけられたフセイン「神よ」とつぶやき、その
場にいる何人かの人々がお祈りを唱える。突然誰かがシーア派民
兵組織の指導者ムクタダ・サドルの名前を繰り返して叫ぶ。それ
に驚いたフセインが「お前たちはこうして男としての勇気をしめ
すのか」という。叫んだ男が「地獄に落ちろ」と罵ると、フセイ
ンが「それがアラブ人の勇気なのか」と今一度ただす。その男は
「地獄に落ちろ」という罵りをもう一度繰り返す。それに対して
フセインは「地獄とは今のイラクではないか」とこたえる。
(略)その後フセインが眼をつぶりながら祈りはじめるが、最後
に「アラー」という文句をいう前に、落とし戸が開き彼の身体が
猛烈な勢いで落下。人々が「独裁者は倒された。神よ、この男を
呪え」とか「つるしたままにしておけ」とか叫び、誰かが死者と
しての冥福を祈ろうとするが、人々から罵倒される。

イラクの政府高官が、処刑の場にカメラ付きの携帯電話を持ち込
み、フセイン処刑の場面を映し取り、その映像が、音声付きで、
インターネットに(故意に)流出している。それを美濃口さん
は、文章に書いたのが、上記のものだ。

これは、アメリカが、シーア派とスンニ派の対立を呷り、「分断
して支配する」という植民地統治時代からの支配者の原理を忠実
に護り、イラクを支配しつづけていると美濃口さんは、伝えてき
たのである。日本のテレビや新聞は、独裁者の最後をきちんと伝
えていない。

歌舞伎座には、8日に行き、昼と夜を通しで拝見してきた。何回
も拝見して、馴染みのある演目が多くて、あまり期待しないで
行ったのだが、すべてを忘れ、舞台に集中して観ていた吉右衛門
の「俊寛」がすこぶる良く、極めて劇評心をそそられた。最後に
喜悦の表情を浮かべた吉右衛門からは、大量定年時代を迎える団
塊の世代への応援歌というメッセージが、私の胸に伝わった。近
松のいう「思い切っても凡夫心(ぼんぷしん)」という、「凡人
の悲しさよ」という「諦念」ではなく、まさに、「定年」世代へ
の激励である。さて、どういう分析で、吉右衛門の演技をとらま
えて、劇評をまとめるか、それは、「遠眼鏡戯場観察」にて、お
目に掛けまする。

ところで、独裁者フセインを擁護する気持ちは、全くないが、非
民主的な手続の果ての、処刑の場面でのフセインと彼を取り巻く
イラク政府高官たちのやり取りの場面を読んでいると、フセイン
の方が、肚が座っているのが判る。フセインには、「思い切って
も凡夫心」という感じは、ないなと、感じた。
- 2007年1月11日(木) 21:57:29
1・XX  中学時代の3年次の学級担任で、美術の先生だった
佐藤美智子さんの個展が例年通り、東京・有楽町のギャラリー日
比谷で開かれているので、仕事帰りに覗く。

71歳で、年末に72歳になる(つまり、亥歳の歳女。私が還暦
だから、ちょうどひとまわり違う。私が、12歳から15歳の中
学生の頃、先生は、大学を卒業したばかりの、24歳から27歳
だった。その後、都立高校の美術担当として、また、画家として
活躍しながら、定年退職。以後は、画家に専念)という佐藤先生
は、絵のテーマを求めて、毎年海外に取材旅行に出る。

例えば、ことしの案内状によると、1、2月にアルジェリアに行
き、「砂と岩の裂け目から忽然と現われるイスラムの要塞都市ガ
ルダイア」、「南東部リビアと国境を接するタッシリア・ナ
ジェールの古代壁画群」、「山の斜面に広がるジェミラ、ティム
ガッド、ティパサ」、7月には、中国四川省最高峰「貢嗄山(ミ
ニアコンカ)・海螺溝大氷河」などを「杖と酸素ボンベに助けら
れて」取材をしてきたというから、驚きである。

取材の成果は、毎年1月にギャラリー日比谷で開かれる個展で発
表される。画廊の絵に添えられた説明文を読んでいると4千数百
メートルの標高の場所が、次々と出て来る。銀嶺の高峰、瀑布、
棚田、高山植物、パンダ、仏像、人びとの顔など。

地球のあちこちに出掛け、まるで、鳥の眼、虫の眼で、景色を観
つづけ、切り取り、その結果として、人間を、動物を、植物を、
それぞれ画布や紙に写し変える作業をつづけている。

佐藤美智子個展は、11日(木)まで。JR有楽町駅、地下鉄日
比谷駅近くの晴海通りに面したギャラリー日比谷(有楽町1ー
6ー5)で開催。
- 2007年1月5日(金) 22:13:37
1・XX  3が日は、天気にも恵まれ、国内は、平穏な正月。
箱根駅伝は、順天堂大学の往路5区で、今井選手が、山道で4人
抜きの大活躍。山道でも、足取りが変らない選手で、去年も、お
ととしも、多数を抜いた。4年生、最後の駅伝も、素晴しい走
り。結局、順天堂は、復路は、首位のまま完走。見事なチーム
ワーク。今井選手は、4月から、トヨタ九州に就職し、今度は、
マラソンに挑戦するという。今後の活躍が、期待される。

2日夜、歌舞伎座の中継などを見る。勘三郎の「春興鏡獅子」、
福助の「切られお富」ほか。勘三郎は、襲名披露巡業で太ったよ
うで、身体の切れが、もうひとつ。今月の歌舞伎座は、8日
(月)に、昼、夜通しで拝見する予定。今月は、東の歌舞伎座、
西の大阪・松竹座とも、「勧進帳」。下旬には、国立劇場も観る
予定。
- 2007年1月3日(水) 14:59:43
1・1  晴れ。大晦日の、午後11時20分、家族と近所の人
といっしょに出かける。いつものように自宅近くの寺で除夜の鐘
を叩き、甘酒と蜜柑を戴き、さらに、近くの神社で、お汁粉とお
神酒を戴く。除夜の鐘は、いつもより、少し早めに出掛けたの
で、一般の部では、2番目のグループになった。コツは、紅白歌
合戦の終了の前に、列に並ぶように心掛けることだけ。11時
45分から鐘衝きが始まった。神社の方は、初詣の長い行列。そ
こには、並ばないし、初詣も、しないが、お神酒とお汁粉を戴
き、焚火にあたって帰ってきた。それでも、帰宅は、午前1時
前。

午前9時過ぎに起きる。朝刊で、新藤兼人(94)と市川崑
(91)の長寿現役監督の新春対談。年上の新藤の方が、元気が
よい。
市川 この作品で最後だと絶えず考える。しかし、最後にしたい
作品にはなかなか巡りあえない。
新藤 「最後にしたい」と思って始めても、済んでしまうと、ね
(笑)。


新藤の言葉「めめしく生き続けたい」が、印象的。きめ細かく、
予防策を講じ、病魔を遠ざけ、健康で、長生きをするということ
だ。

私も、1月5日で、やっと、還暦。亥年の年男。2月以降、一部
の年金の支給が始まる。いずれ、豊饒な時間が始まる。10年間
の助走期間は、二足の草鞋で、苦しかったが、なんとか、乗り
切ったのだから、後は、健康にだけは、留意し、「女々しく生き
続け」、豊饒な時間を満喫して、新たな人生を再構築したい。と
りあえず、この1年は、助走期間の仕上げをしたい。
- 2007年1月1日(月) 11:05:50
12・XX  家の大掃除。障子の張り替えをした。午後、教育
テレビで、京都南座の歌舞伎顔見世興行のうち、勘三郎の「川連
館」と坂田藤十郎の「雁のたより」を観る。勘三郎は、前に観た
狐忠信よりも、今回は、オーソドックスに演じていて、外連(け
れん)味も、おもしろ味も少ない。仁左衛門が、義経。静御前
は、勘太郎。

「雁のたより」は、「五右衛門狂言」の一部で、コテコテの上方
和事の喜劇。有馬温泉を舞台に、髪結いの五郎七(藤十郎)と湯
治客の大名・前野左司馬(愛之助)の愛妾・司(扇雀)の三角関
係を軸に、五郎七を罠に掛ける偽の、司からの恋文が、一騒動を
起こすが、前野の家老・高木(段四郎)が、五郎七を助けると共
に、五郎七の本名と証拠の品から、高木と五郎七が、叔父と甥の
関係、さらに司と五郎七は、許嫁の関係と判るという、荒唐無稽
な、ハピーエンドもの。ストーリーより、細部に亘る、上方和事
の味わいが売りの笑劇。二代目実川延若の当り役だったとか。藤
十郎の上方和事のレパートリー。

おとといときのうの休日2日間を利用して、溜まっていた書評を
一気にサイトの「乱読物狂」に書き込む。

今夜は、午後11時を過ぎたら、自宅近くの寺と神社に行き、寺
では、除夜の鐘を突かせてもらい、神社では、汁粉などを振舞っ
てもらうつもり。日中、晴れていたので、冷え込んでいよう。
- 2006年12月31日(日) 17:29:49
12・XX  公私ともに大車輪だった師走も押し詰まり、あす
から、年末年始休暇に入るので、溜まったまま、山と積まれてい
る本の書評を書きたい。しかし、次々に読んで来た本は、早、印
象も薄れがちで、簡単にまとめて、書評というより、読書の記録
をしてしまおうと、思う。年内に読んでいたものは、年内に読書
の記録だけでも、まとめ、サイトの「乱読物狂」に書き込んでお
きたい。
- 2006年12月28日(木) 20:39:56
12・XX  12月の歌舞伎座の劇評の夜の部も、先ほど「遠
眼鏡戯場観察」に書き込んだ。戦後の歌舞伎興行の浮き沈みを水
面下から持ち上げる努力をし続けて来た松竹の永山武臣会長が亡
くなり、歌舞伎興行の世界は、曲り角を曲がった。建築以来、
56年経って、すっかり老朽化した歌舞伎座の建物も近く建て替
えが始まるという。数年先には、歌舞伎座の建物も新しくなるだ
ろうが、歌舞伎座の歴史も曲り角を曲がろうとしている。

戦後社会を支えて来た憲法に先立って、教育基本法が、改悪され
た。キナ臭い社会が、目の前に迫って来ている。一介の首相の独
断で、曲がっては行けない横道に日本は、入り込もうとしてい
る。戦後社会の原理を学んで来たはずの戦後生れの政治家が、戦
前生れの先輩を出し抜いて、虚勢を張っているような、漫画の図
柄が浮かんで来る。世界各地と同じように、アジアでも、アメリ
カの力が弱まり、アジアのことは、中国、韓国、日本を軸にアメ
リカ抜きで考えて行かなければならない時期が迫って来ていると
いうのに、独断偏見の首相が、二代続き、日本は、アジアの孤児
として、横道へ、横道へと漂流しはじめたようだ。これじゃ、ま
るで「宙乗り」のようで、地に足がついていないじゃないか。
- 2006年12月16日(土) 22:20:33
12・XX  教育基本法改悪の参議院本会議でも、強行採決。
キナ臭い時代の幕開きは、まず、日本の未来を背負う子どもたち
を引っ張り出した。このおとしまえは、どうつくのか。

いま、日本の若者たちは、ニートだ、フリーターだと所得を制限
され、真面目に働いても生活が楽にならないシステムが、企業を
中心に形成されているが、若者に苦しい生活を強いておき、正社
員は、無理だけれど、正規兵なら、楽に暮らせるとばかりに、徴
兵制や志願制の兵役制度を国家は、憲法改悪後、導入するつもり
なのかも知れない。子どもや若者の受難時代。

愛国心などとことさらに振りかざさなくても、日本の伝統的な芸
能は素晴しい。歌舞伎も、そのひとつ。今月の歌舞伎座の昼の部
の劇評を先ほど、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。昼
の部は、女形の競演。菊之助の八重桐、時蔵の如月と滝夜叉姫、
魁春の女房おたつ、雀右衛門の芸者お京。
- 2006年12月16日(土) 16:20:44
12・XX  歌舞伎の襲名披露の舞台で、襲名の口上をする役
者たちが、必ず出す名前がある。「松竹の永山会長」のお許しを
得て、大きな名前を継がせてもらい、光栄だというような趣旨の
ことを言う。その永山武臣会長の逝去を報じる朝刊の記事が載っ
た。81歳。急性白血病。京都大学の学生時代から歌舞伎座でア
ルバイトをしていて、1947年、そのまま松竹に入社。一貫し
て歌舞伎興行に携わり、米軍の空襲で焼失した歌舞伎座再建の一
翼を担い、近く、改築のため、取り壊される予定の歌舞伎座を見
ることなく、亡くなった。そういう意味では、今の歌舞伎座の建
物とともに送った人生だったと言えるかも知れない。興行師とし
ても卓抜な能力を持ち、戦後歌舞伎の歴史を役者とともに背負っ
て来たと言える。歌舞伎座が、永山会長のお陰で、国民的伝統芸
能歌舞伎の殿堂になったことは、間違いない。歌舞伎界の巨星墜
つ。合掌。

冷たい雨が降るなか、14日、午後6時、参院特別委員会で教育
基本法「改悪案」可決。ポイントは、「国民の立場に立って、教
育の場で、国家権力行使を拘束し、戦後民主主義を育てて来た教
育の憲法」、教育基本法が、一介の首相である安倍の独断で、改
悪され、美しき教育の現場に、泥靴で踏み込むような真似をし
て、「国家が、国民に命令するような悪法」に変えられてしまっ
た。これは、将来の憲法改悪を先取りするように、戦後社会を支
えて来た国民原理を、戦前同様の国家原理に逆転することを意味
している。にもかかわらず、新聞、テレビとも、マスコミは、今
回の物事の本質をきちんと伝えて来なかった恨みがある。マスコ
ミは、すでに、「前ファッショ」状況にあるようだ。この結果、
多くの有権者は、このことを忘れずに、次の選挙で、自分の投票
行動を考えなければならなくなったと言える。

- 2006年12月14日(木) 21:45:07
12・XX  一日中歌舞伎座。まず、昼の部。「嫗山姥」の菊
之助が、良かった。いつ観ても、安定している。「将門」の時蔵
も、芸域が、拡がっている。「芝浜」は、菊五郎と魁春の夫婦愛
が、きちんと伝わって来る。庶民版「賢婦伝」。脇に達者な役者
を揃え、師走に相応しい内容の芝居。皆、鮮魚のように、生き生
きしている。夜の部も、やはり、菊之助の「矢口渡」が、良い。
江戸の「科学者」平賀源内が、ペンネームで書いたにしては、話
自体は、荒唐無稽。それを、菊之助、富十郎らが、歌舞伎の枠
に、きちんと抑え込んでいる。池波正太郎の新作歌舞伎「出刃打
お玉」は、菊五郎、梅玉を軸に展開。人間の変容と変らぬ志が、
テーマ。「出刃打」という女曲芸の業と女心が、落ちという趣
向。海老蔵が更科姫を演じる「紅葉狩」は、まだまだ。先月の新
橋円舞場の「四の切」の素晴しさに比べるだけ、可哀想。じっく
り、ひとつひとつ、着実に取得して欲しい。海老蔵の妹・ぼたん
が、更科姫の侍女野菊を演じて、踊りを披露している。写真で見
た素顔の方が、白塗の化粧顔より美人。海老蔵が、祖父似なら、
ぼたんは、團十郎似だ。劇評は、順次書きはじめる。
- 2006年12月3日(日) 22:37:55
12・XX  11月の歌舞伎座の劇評は、夜の部も、先ほど、
サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込む。あすは、12月の歌舞
伎座の2日目の舞台を拝見に行く。いつもどおり、昼と夜の通し
だ。12月の歌舞伎観劇の前に、11月の劇評を書き込めて、
ホッとしている。12月の昼の部は、お馴染みの演目ばかり。逆
に夜の部は、歌舞伎座では、あまり上演されない演目だ。どうい
う舞台が、展開するか。きょうが初日だから、あすでは、まだ、
科白が入っていない役者もいるかも知れない。
- 2006年12月2日(土) 22:20:46
12・XX  久しぶりに週末の時間にゆとりがあり、遅れてい
た11月の歌舞伎座の劇評のうち、昼の部をサイトの「遠眼鏡戯
場観察」に、先ほど書き込んだ。仁左衛門軸の「先代萩」論をま
とめたが、折しも、仁左衛門の芸術院新会員内定の報が朝刊に掲
載されていた。ほかの分野の内定者と比べて、仁左衛門の年齢
は、いちだんと若い。今後とも、末永く、活躍して欲しいという
願いが込められていると見た。引き続き、夜の部の劇評に取りか
かる。

作家の秦恒平さんのHPに「海のない甲州で、何故、鮑料理が名
物なのか」という記述があったので、以下のようなメールを送っ
た。前段は、世相批判。

*防衛「省」昇格関連法案、教育基本法の改悪など、安倍政権
は、キナ臭いことばかりやり、実に、うさん臭い限りです。嘘を
つき、本音を隠して、ことに当る「狡い大人」の典型的な行動パ
ターンです。若者がいちばん嫌うタイプです。

防衛「省」昇格は、小泉政権のときの、自衛隊のイラク「派兵」
方法に対して、100万票あると言われる防衛族有権者の機嫌を
損ない、04年7月の参院選挙で立候補した防衛族候補3人の全
員落選(合計30万票)という結果を踏まえて、来年、07年7
月の参院選挙で、100万票以上を取り戻すための、「お供え」
ということのようです。

それにしても、自民党の復党問題(有権者に背を向けて、安倍に
誓約違反の時は、辞職を誓うと言うのは、なんとも、有権者を馬
鹿にした話ではありませんか)にせよ、なんでも、選挙対策に利
用されるデタラメさに、いつまでも有権者は、馬鹿にされ続ける
のでしょうか。目覚めよ、有権者というところです。

それでいて、この「お供え」は、やがて、集団的自衛権の行使解
禁から、憲法9条の蹂躙、改憲に繋げようとしているのは、見え
見えです。

さらに、教育基本法の改悪も、改憲への流れです。ある意味で、
安倍政権は、「着々と」ひとつの流れを作っています。それを許
しているのも、多くの有権者です。ひとつひとつに執拗に「拒
否」の意志を示して行かないと日本は、大変なことになります。
きょうの中国残留孤児対応策について、政府の敗訴は、一服の清
涼剤になりました。裁判官には、まだ、人物がいるのですね。

さて、がらっと、変りますが、甲州の「鮑」(煮貝と言います)
が、なぜ、山の中の、名物料理かという疑問にお答えします。武
田信玄は、ご承知のように、一時、駿河まで侵攻しました。海の
ない甲州の武将にとって、海は、憧れでした。

撃ち破った今川家臣の「今川水軍」を軸に、信玄は、伊勢水軍を
加えて、「武田水軍」を作りました。武田水軍は、「北条水軍」
や信長の「九鬼水軍」と対抗しました。

その武田水軍の秘中料理が、「煮貝(にがい)」なのです。

鮑の鮮度を保つために、独特の醤油漬けにし、駿河から中道往還
を走り抜け、府中(甲府)の信玄に海の珍味を届けたのです。
甲州では、北寄貝を甲州の寒暖の差と八ヶ岳颪の強風に晒して乾
燥させて作る「姥貝(うばがい)」も、名物です。ふたつとも、
いろいろなメーカーが、作っていますが、山梨県でもデパートや
スーパーでは売っていない「みな与」という店のものが最高で
す。昔ながらに伝統的な製造方法をとっていて、もちろん、保存
料など添加物が入っていないため、賞味期限が限られています。
また、かなり高価で、万円単位なのが、残念ですが、おいしいで
す。

「煮貝」も「姥貝」も、超高級つまみですが、煮貝は刻んで、煮
汁とともにご飯に炊き込むとおいしいですし、「姥貝」(一片
が、数百円から千円相当)も、つまみでたべるのも良いですが、
もったいない。細く削って、お茶漬けにするのもおいしいです。

甲州は、葡萄、桃、サクランボなど四季を通じて採れるいろいろ
な果物、ワインは、名物として知られていますが、海のない甲州
の「煮貝と姥貝」は、隠れた名物です。このほか、地酒、ウイス
キー「白州」など、山間地の地下水の良さを利用した酒類、幻の
寿司米こと、武川米、武川の長芋、納豆、豆腐(つまり、大
豆)、あるいは、小豆を利用して作った餡を使った大福などの和
菓子も、おいしゅうございます。手打ちの蕎麦もよいですね。

12月の歌舞伎座は、3日(日)に昼夜通しで拝見に参ります。
11月は、新橋演舞場の「海老蔵忠信」も、荒削りながら、「成
田屋による澤潟屋型外連の継承宣言」で、なかなか良かったで
す。海老蔵の若さは、猿之助の熟成とは、違った清新さを感じさ
せました。」

裁判所の判断といえば、先日の「住民基本台帳ネットワークの個
人情報によるプライバシー侵害は、違憲」という大阪高裁の判決
(11・30)も、判りやすい、良い判決だった。小泉、安倍と
続く政権による時代の閉塞感で息苦しい思いをしていただけに、
すうっと新鮮な空気が入り込んだようで、なんとも、気持ちがよ
い。中国残留孤児の判決は、神戸地裁(12・1)だったし、東
の政権に対して、西の司法が、明解な「ノン」を宣言してくれて
ようで、立ちはだかる壁に穴が開いたような気がするのは、私だ
けではないだろう。
- 2006年12月2日(土) 17:16:41
11・XX  公私ともに多忙な日々が続き、11月に観た歌舞
伎の舞台の劇評も、なかなか、サイトに書き込めないまま、11
月も大晦(おおつごもり)を迎えてしまった。なんとか、新橋演
舞場の「花形歌舞伎」の劇評は、顔見世月に間にあったが、歌舞
伎座の劇評は、師走にこぼれてしまった。できるだけ早く書き込
みたいが、12月の観劇予定も迫っている。まあ、12月分と合
わせて、年内には、書き込もう。
- 2006年11月30日(木) 22:04:09
11・XX  レイバー・サンクスギビング・デイだが、休日出
勤。それゆえ、まとまった時間が取れず、歌舞伎の劇評は、ま
だ、完成していない。サービスに、今回の劇評のさわりをちょっ
と紹介しておこう。  

「頭の丸いのを幸いに、東叡山寛永寺の御使い僧に化けて乗り込
む肚をきめた時から、生命はすてる覚悟はできているんだ。だ
が、かりにもあいつが河内山かと人に指さしされるように名を
売ったこの悪党が、ただで命をすてるものか。これでも天下の直
参だぜ。白洲で申しひらきをたてる時にゃ、松平出雲守の城を抱
きこんで心中してやる方寸だぐれえ、おい、てめたちにゃ見ぬけ
ねえのか。三十俵二人扶持が、二十万石と心中するんだ。こいつ
をそっくり芝居にくんで、団十郎に演(や)らしてみねえ、中村
座の鼠木戸まで客があふれて、やんやの大喝采だろう
ぜ。・・・」

とは、柴田錬三郎の「真説河内山宗俊」のなかの、河内山の科白
だ。

江戸期の中村座の舞台には、かからなかったが、「天衣紛上野初
花 河内山」は、河竹黙阿弥が、明治14(1881)年3月に
東京の新富座で初演した。初演時の河内山は、明治期の「劇聖」
九代目團十郎だった。

そして、今回は、十二代目の團十郎が、病気休演、舞台復帰後、
初めて、歌舞伎座の昼の部と夜の部に出演し、夜の部で、主役の
河内山を元気いっぱい演じ、北村大膳へ、「馬鹿め」と、気持ち
良さそうに科白を吐いて、まさに、「やんやの大喝采だ」った。
團十郎の病気には、ストレスが大敵だが、「河内山」なら、ラス
トの、この科白で、ストレス解消、間違いなし!!

因に、「柴錬」の作品にある「鼠木戸」とは、芝居小屋の入り口
のことだ。
- 2006年11月23日(木) 21:46:28
11・XX  あいにくの雨の中、歌舞伎座へ行く。昼の部と夜
の部を通しで拝見。昼の部の演目は、「伽羅先代萩」の通しほか
所作事。「先代萩」の前半は、菊五郎の政岡、仁左衛門の八汐の
女同士の対決。火が出るような素晴しい舞台。後半は、團十郎の
仁木弾正、仁左衛門の細川勝元の男の対決。仁左衛門を軸に菊五
郎、團十郎との、それぞれの対決劇。仁左衛門の悪役は、更に磨
きがかかり、見応えがあった。颯爽とした役は、磨きがかかりに
くいようで、いつもの通り。その辺りの分析は、「遠眼鏡戯場観
察」に書き込みたい。

夜の部は、芝翫と仁左衛門を軸にした「二月堂」、團十郎の「河
内山宗俊」ほか所作事。今月は、昼の部の方がおもしろい。菊五
郎は、女形をやると、一段と父親の梅幸に似て来た。夜の部は、
團十郎復活を告げる「河内山宗俊」が、おもしろかった。詳しい
劇評は、後日、「遠眼鏡戯場観察」で、まとめる。先に観た新橋
演舞場の花形歌舞伎「夜の部」の劇評も、早く書かなければなら
ない。
- 2006年11月19日(日) 23:04:08
11・XX   新橋演舞場へ、花形歌舞伎の夜の部を観に行
く。松緑の「時今也桔梗旗揚」、菊之助の「船弁慶」、海老蔵の
「義経千本桜〜川連法眼館」という演目だが、お目当ては、「四
の切」こと、「義経千本桜〜川連法眼館」である。病気休演中の
澤潟屋、猿之助が指導したという証拠に「花形歌舞伎」と大書さ
れた筋書には、椅子に座った猿之助の傍で、「かまわぬ」を染め
抜いた浴衣姿で指導を受ける海老蔵の写真が掲載されている。実
際の舞台を観ると、海老蔵の科白にダブルように澤潟屋の声音が
聞こえて来るような錯覚に捕われるほど、海老蔵は、澤潟屋の科
白回しをなぞっているのが判る。それが、ものまねだと判りなが
ら、数回、あるいは、10回も、忠実に、物真似を繰り返しなが
ら、海老蔵が「四の切」を本興行で公演すれば、澤潟屋と並ぶ舞
台になって来るのではないかという予感がする。若さ、強さ、特
に、身体の若さ、強さは、若いころの猿之助は、つゆ知らぬ身に
は、新鮮な驚きとなって、私を襲って来た。これは、猿之助の愛
弟子・右近でも、感じられなかった驚きである。澤潟屋は、海老
蔵の、若さ、強さを見抜き、本腰を入れて、「四の切」の後継を
右近ではなく、海老蔵に決めたのではないか。そういう予感を強
くする、新しい忠信役者の誕生の瞬間に出会えたと思わせる舞台
であった。

これでは、観客が、歌舞伎座より、新橋演舞場に詰め掛けるわけ
だと思う。とは言え、私は、19日には、昼夜通しで、歌舞伎座
の舞台を拝見する。海老蔵の父、團十郎の昼夜への舞台復帰だ。

ところで、歌舞伎座は、来年中には、建て替えの為の休業に入る
予定とか(去年11月の記者会見では、2年以内に着工と言って
いたと思う)。いまの建物の取り壊しと新たな建設工事には、3
年間かかるそうだ。この間、歌舞伎の興行の方は、毎月、都内の
あちこちの劇場で続けられるようだ。

新橋演舞場の劇評も、目下、構想中。できるだけ早く、サイトの
「遠眼鏡戯場観察」に書き込みたい。歌舞伎座の劇評も、あまり
遅れることなく、書き込みたい。

政府与党は、教育現場のさまざまな問題解決策を積み残したま
ま、教育基本法改定の単独裁決を強行した。何故、急ぐのか。良
く判らない対応である。一方で、あちこちの知事たちの犯罪が、
相次いで、明るみに出ている。こうしたなかで、19日に沖縄県
知事選挙の投票日を迎える。教育基本法改定の裁決強行と知事の
犯罪は、沖縄知事選挙を直撃するだろう。安倍は、ブッシュ共和
党のアメリカ中間選挙の敗北劇を再現するのではないかという予
感がしきりにする。皆さんは、どう感じますか。
- 2006年11月16日(木) 22:20:54
11・XX  東京・新宿の紀伊国屋サザンシアターで、青年劇
場第92回公演「族譜」を観て来た。「族譜」は、日本の植民地
下の朝鮮で進められた「創氏改名」がテーマの梶山季之原作小説
を戯曲化した作品。ジェームス三木脚本・演出。

朝鮮総督府の役人で、善人面をした悪人の日本人・谷六郎が出て
来る。谷は、自分の担当する地域の「創氏改名」の率が悪いから
と、地域の有力者で親日家の両班・薜鎮英のところに協力要請に
行く。地域の有力者が、「転べば」、地域のほかの人たちも協力
してくれるだろうという目論見である。しかし、薜鎮英は、
700年に渡って薜家に伝わる「族譜」という家系を記録した文
書を見せられ、朝鮮人にとって、名前を日本風に変えさせられ
る、つまり、名前を奪われることが、どれほど深刻なことかを知
らされる。梶山季之が、この作品を書く切っ掛けになったのは、
「創氏改名」の強制に抗議して自殺した人がいたという事実を元
にしているが、主人公の谷は、「創氏改名」の暴力性を悟りなが
らも、役人としては、なんとか協力してもらえないかと思うばか
り、そのうち、上司の課長が出て来て、薜鎮英に圧力をかけるよ
うになる。さらに、薜鎮英の娘の婚約者で、「創氏改名」に協力
し、「金」から「金田」に替ったインターン生が、官憲に掴ま
り、「志願兵」という名の「徴兵」をされてしまう。谷は、薜鎮
英の「薜」という名字を上下に分解をして、「草壁」という名前
を考えたりするが、「創氏改名」の担当から外されてしまう。
「族譜」を楯に「創氏改名」に抵抗していた薜鎮英も、子どもた
ちが、学校で虐められるようになると、「草壁」という名字を朝
鮮総督府に届けるが、その後、自殺をしてしまう。にもかかわら
ず、谷は、薜鎮英が、遂に、「創氏改名」に協力してくれたとお
礼を言いに来る。谷を糾弾する薜鎮英の娘の舌鋒に谷は、反論を
する。梶山の作品の軸は、植民地朝鮮に住んでいた善人面をした
谷のような日本人の原罪を追及することにあるのだろうと思う。

在日の民族差別の中で、今も「通名」を名乗らざるを得ない状況
があるが、これも、現代に残る一種の「創氏改名」だろうし、政
治や大人に拠る差別感の反影が、学校での、子どもたちへの苛め
に繋がるなどということも考えさせられれば、「族譜」の提起し
た問題の状況は、なにも、植民地朝鮮という過去の話ではなく、
いまも続いている民族差別の現況に通底していることが、容易に
判る。ジェームス三木脚本・演出は、明瞭で、谷に夢を見させ、
その夢の中で、仮面の朝鮮人たちに、日本は、朝鮮の植民地に
なったのだから、名前を朝鮮風に「創氏改名」しろと迫る場面を
挿入している。1910年の「韓国併合」以来の日本の植民地政
策の果てに、南北に分断されたまま、60年が過ぎた朝鮮半島の
現況。言葉を奪われ、名前を奪われ、天皇の軍、「日本」軍に組
み込まれて行った朝鮮の人々。北朝鮮による核実験の強行という
形で、今も蔭を落しているが、その根っこには、日本の植民地政
策という「原罪」が潜んでいることを日本人は、決して、忘れて
はならないだろう。にもかかわらず、北朝鮮の核実験を契機に、
日本の核武装を企む日本人が出て来た。善人面した悪人は、今
も、しぶとく日本人の中に生き続けている。
- 2006年11月6日(月) 22:04:28
10・XX  きのう、神田神保町の古書市を覗いて廻った。三
省堂と東京堂の間にあるすずらん通りでは、出版社が出店を出し
ていて、少し汚れた新刊本の5割り引きとか、定価販売のサイン
本のコーナーがあり、結構、混雑していた。私も、何冊かサイン
本を入手した。きょうは、久しぶりに休暇を取り、すでに26日
で千秋楽を迎えてしまった今月の歌舞伎座の劇評で、まだ書き上
げていなかった夜の部の劇評をまとめあげて、さきほど、サイト
の「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだところだ。

一方、嫁いだ娘夫婦との骨肉の争いに巻き込まれ、民事調停とあ
わせて、娘夫婦の一方的な言い分に押し込まれたプロバイダの対
応で、御自分のサイトを全面削除され、仮処分の申請をし、審尋
をしていた作家の秦恒平さんに以下のようなメールを送った。

このほど、裁判所の判断が出て、その結果、問題は、更に拡が
り、秦さんだけの問題では無くなり、同じように電子メディアを
利用してサイトやブログを作っている個人、団体に影響のある情
勢になって来たので、私が送ったメールが、秦さんのサイトにも
掲載されたのを確認したので、わがサイトでも、掲載し、広くこ
の問題を訴えたいと思う。

○秦さん。

民事調停と審尋、ともにお疲れさまです。

大兄のホームページに以下(*印から、」まで)のような記述が
あってから、電子文藝館のメーリングリストに何らかの告知が載
るのかなと思っていました。大兄からの告知があれば、メイリン
グリスト上で、一言書きたいと思っていましたが、とりあえず、
大兄宛に書くことにします。


* 地裁審訊の判決書が届いていた。大山鳴動して鼠も出なかっ
た。長くて数日ということだったから仮処分申請に同意しお願い
したが、一ヶ月余もかかり、結 局復旧したという画面もみること
なく、BIGLOBEを解約した。何の必要があってわたしのこの六月、
七月、八月の全部の「私語」削除を容認して「和解」 なのか、わ
たしには全然理解できない。わたしのために何の利益をはかろう
と仮処分申請してくれたのか、尽力の成果がどこにあったのか全
く理解できない。

 この事件で法律家とも当事者として話さねばならず、ほとほと
驚愕したのは法律家の言葉はじつに耳に入りにくいと云うこと。
しかし裏返すと、法律家の耳に はわたしのような文学者のことば
はほとんど一顧もされないほど無意味で無効なのである。裁判官
はそういうことには一顧もあたえませんと、さらさらと云われ 
る。ダメダ、コリャと人間を務めているのが情けなくなる。」

プロバイダ責任制限法に基づく、今回の大兄のホームページの全
面削除問題に対する審尋での裁判所の「判断」は、私も腑に落ち
ません。

私の拙い知識で判断するに、「プロバイダ責任制限法」は、免責
手続法なのですね。

迅速な手続きを最優先するため、類型的、形式的な、つまり、あ
まり、判断力を必要としない、機械的な判断で、「迅速かつ適切
な対応」をするように法は、薦めています。

インターネット上での個人の権利侵害が多発する中で、プロバイ
ダに迅速な対応を求める代りに、手続きさえ、ルールに則ってい
れば、最大限に免責する法律のようです。異義申し立てがあった
ら、プロバイダは、発信者に連絡をして、7日間経っても、反論
がなければ、速やかに削除する、という手続きは、この法律が定
めています。

従って、プロバイダには、瑕疵がないというのが、そもそもの裁
判所の前提なのでしょう。

著作権上の問題があるとすれば、当該の日記の引用だけのはずな
のに、一部を削除するという対応ではなく、まったく無関係の
「秦文学館」ともいうべきホームページ全体を削除したという
「過った判断」は、何ら問題にされず、プロバイダには、何のお
とがめもなしということなのでしょうか。せめて、過った判断だ
というような裁判所の見解が示され、その上で、過失の重大性の
有無を判断し、云々という文脈ぐらいには、なるのかなと期待を
しておりました。

プロバイダの問題点は、

1)削除した範囲の是非→これは、明らかに、「非」であって、
過剰な対応です。

2)判断基準の是非→1)の判断をした基準は、なんであったの
か。これは、是非とも知りたいですね。

3)その上で、今回の削除にあたって、プロバイダに「重大な過
失」があったのか、どうか→今回の審尋の結果示された裁判所の
判断を見ると、裁判所は、プロバイダに「重大な過失」があった
とは、認定していないんですね。情報が、プロバイダによって、
「過って削除」されても、ほとんど免責されてしまうということ
のようですね。

プロバイダ責任制限法の「著作権関係ガイドライン」という文書
を読むと、ガイドラインは、「プロバイダ等が責任を負わずにで
きると考えられる対応を可能な範囲で明らかにした」として、さ
らに、「裁判手続においてもプロバイダ等が責任を負わないもの
と判断されると期待される」と明言していますが、今回は、本当
にその通りに進行しています。

さらに、新たに、審尋で示された削除範囲も、プロバイダの全面
削除の「精神」と通底していて、「私語」の、6、7、8月分の
全てという、類型的、形式的、機械的な判断で、規模は、プロバ
イダより小さいものの、「過剰な削除」という点では、同根なの
です。因に、例えば、6月の場合、6・22以降は、日記の引用
などが多用されるものの、それ以前は、「普通」の「私語」とい
う作品です。

審尋の結果、ひとつのプロバイダの問題にとどまらず、プロバイ
ダ責任制限法の問題性の深刻さを改めて浮き彫りにし、この問題
については、裁判所も当てにならないということがはっきりした
わけで、自分のホームページやブログを持つ、私たち(個人も、
ペンクラブのような団体も含む)としては、誰かにいちゃもんを
付けられ、それぞれのプロバイダにたれ込まれたら、7日間以内
に、精々反論をしないと、今回同様の目に遭うこと必定というこ
とです。法も法の番人も、電子メディア時代の情報発信を保護し
てくれないということを社会的に訴えて、問題を顕在化するし
か、私たちの前には、途はないようですね。

民事調停に関する記述も痛ましく、是非とも、いずれは、文学作
品に昇華させてください。ご子息が、冷静に父上を支援している
のには、ホッとします。奥様ともども、心身共に、御自愛専一に
と願っております。


- 2006年10月30日(月) 14:36:23
10・XX  曇り、朝方まで、風強く、肌寒い。晴れはじめた
ら、早い。昼ころには、抜けるような青空。台風ではなかった
が、大雨が降り、風も強かっただけに、台風一過のような青空が
拡がった。通勤の往復の車中では、正月恒例の「箱根駅伝」に参
加する大学生たちを描いた三浦しおん「風が強く吹いている」を
読み継ぐ。

帰宅後、先日観た歌舞伎座の劇評を3日がかりで書きあげ、先ほ
ど、サイトの劇評に書き込む。いずれも、馴染みの演目ばかりな
ので、劇評の新味を出すのに苦労した。朝は、5時から6時の間
に起きる。通勤と職場で、12時間を過ごし、夜は、20時頃帰
宅し、夕食、入浴など。22時から23時の間に寝る。小間切れ
になる時間をパッチワークのようにつなぎ止めて、劇評を書く。

ものを書く時間は、時間があれば良いというものではない。逸早
く、書くものの世界に滑り込み、集中力を高め、飛行機のように
飛翔しないと、ものが書けない。集中し過ぎて、夜明かしをして
しまうと、翌日の仕事に響くから、遅くとも、24時には寝なけ
ればならない。そういう時間のやりくりをしながら、今夜も、歌
舞伎座昼の部の劇評を書き上げた。夜の部の劇評が、サイトに書
き込まれるのは、もう少し時間がかかる。
- 2006年10月25日(水) 22:38:32
10・XX  歌舞伎座で、昼と夜を通しで拝見。夜の部が撥ね
て、劇場の外に出ると、雨が降っていた。帰途、早速、劇評の構
想を練りはじめた。

昼の部では、「葛の葉」は、魁春、門之助などの配役が、芝居の
スケールが小さい。「対面」は、病気休演から復帰の團十郎の歌
舞伎座2回目の出演。回復度を測る。舞台は、三重の透かし絵構
造を解明してみる。「熊谷陣屋」は、オーバーアクション好きの
幸四郎も、こういう時代物では、溶け込める。團十郎に絡めて立
役の義経論。「お祭り」は、自身の病気復帰の舞台の出し物でも
あり、折りに触れて、工夫しながら、この演目を出し続ける仁左
衛門の「美学」解析。

夜の部は、「忠臣蔵」の五段目と六段目を仁左衛門の勘平で描く
「滅びの美学」。「髪結新三」は、初役の幸四郎の世話物論。
「尻尾はいらない〜オチの美学〜」と題して、「髪結新三」の演
出論でも論じようかと考えはじめた。まあ、あすも、もう少し練
り上げようと思う。
- 2006年10月22日(日) 22:46:36
10・XX  朝刊に中村源左衛門の死亡記事が載っていた。
20日、食道癌で逝去。72歳。歌舞伎役者としては、元気な
ら、あと10年は、舞台に立ち、名傍役の一人として活躍したで
あろうにと思う。幹部役者・源左衛門を名乗ってからは、短い
が、前名の助五郎と言った方が、通りがよい。先代の中村勘三郎
の弟子で、当代の勘三郎とは、幼いころからのお守役ともいうべ
き関係。確か、幼い勘九郎が、奈落から落ちそうになったとき、
助けたというエピソードがある。同じ中村屋一門の四郎五郎との
コンビで駕篭かきを演じたときは、日本一の駕篭かきと言われる
など、脇で味のある役を演じて、歌舞伎の舞台の奥行きを深くし
て来た。晩年は、四郎五郎に先んじて、幹部役者になり、四郎五
郎と並ぶような役どころは、なくなったが、それはそれで、寂し
い感じがした。私が観た源左衛門の最後の舞台は、ことし8月、
歌舞伎座の「里見八犬伝」の序幕「大塚村庄屋蟇六内の場」で、
元気に庄屋蟇六を演じたもので、当時の劇評で、私は次のように
書いているので、再録したい(9月の歌舞伎座には、出ていな
い)。

*渥美版と澤潟屋版で、いちばん違うところは、「大塚村庄屋蟇
六(ひきろく)内の場」「同表座敷の場」の有無である。つま
り、澤潟屋版では、割愛する「蟇六内」は、犬塚信乃に恋する蟇
六の娘浜路と代官との無理矢理の婚礼の場面という笑劇なので、
スペクタクル重視の澤潟屋版では、取り上げないが、今回、初め
て観た、この場面で、欲の張った庄屋の大塚蟇六を源左衛門が、
巧みに演じていたのが、印象に残る。憎まれ役、笑われ役の代官
簸上宮六(ひがみきゅうろく)を演じた亀蔵も、彼らしいデフォ
ルメの工夫で、おもしろかった。スペクタクルの中の笑劇は、歌
舞伎の定式から見れば、確かに、欲しい場面だ。九代目團十郎な
どは、好んで、犬山道節と大塚蟇六のふた役を演じたという。そ
れだけに、蟇六は、重要な役どころで、源左衛門は、九代目の役
どころを気持ち良く演じたことだろうと、思う。

舞台以外の源左衛門とは、何度か、歌舞伎座近くの三原橋交差点
で、横断歩道で行き違いになったほか、2階席で舞台を観ている
とき、出番を終えた後、いつの間にか私の後ろの方の席で、他の
役者の舞台を観ている姿が、思い出される。四郎五郎とのコンビ
で、剽軽な役を演じることも多かっただけに、そういうイメージ
が強いが、素顔の源左衛門は、いつも、厳しい表情の哲学者のよ
うな顔をしていたので、この人は、役柄に似合わず、知的な人な
のではないかという印象を抱いたのを覚えている。合掌。
- 2006年10月21日(土) 22:35:00
10・XX  プロバイダ−による作家・秦恒平さんのサイトの
全面削除の問題をきっかけに、「プロバイダ−責任制限法」の問
題の所在について、考えてみた。

総務省の「プロバイダ−責任制限法」の「逐条解説」という文書
を読んだ。それをもとに、ビッグローブという「プロバイダ−の
側に立つ」と想定して、今回のケースを検証してみた。

「プロバイダ−責任制限法」の第3条は、「インターネットの権
利侵害」多発現象に規制を加えるために、

1)プロバイダ−の責任(損害賠償)の制限
2)掲示板の匿名者など、発信者情報の開示
を促進させる(業者の責任を軽減させる)ことを意図している。

今回の秦さんのケースでは、当事者(あるいは、その代理人)か
らの「著作権」の侵害の訴えと秦さんのサイトの送信防止措置
(つまり、削除)を申し出を受けて、プロバイダ−は、発信者
(秦さん)に削除することに同意するかどうか(反論があるかど
うか)をメール(法律では、郵便も視野に入れて、7日間として
いるが、条件付きでメールも可としている)で「照会」したが、
秦さんから7日間以内に「同意しない旨の申出がなかった」の
で、プロバイダ−は、削除しても免責(損害賠償責任なし。今回
のように、当該メールを見落すなどして、何ら応答をしない場合
も、「同意しない旨の申出がなかった」ということになる)され
るので、「迅速かつ適切な対応」(例えば、ニフティの場合で
は、1ヶ月に平均60件の情報削除要求が来ると言う。02年3
月段階の情報だから、現在は、もっと多いかも知れない)とし
て、削除をしたと思われる。

法律制定の趣旨が、権利の侵害による被害の拡大防止に力点を置
いているため、当該情報の内容に関わらない「客観的・外形的な
基準」(つまり機械的。「類型的」、「形式的」な一定の手続き
を踏めば、必ず免責になるというセーフティーバー規定。今回の
場合、対応手続きの合法性=発信者に照会し、意見の表明の機会
を与えたのにもかかわらず、発信者から一定の期間を経過しても
何らの申出もなかった)に従って、削除をしても、プロバイダ−
は、「損害賠償責任」を問われないことになる。

プロバイダ−が、発信者の情報を削除することに「過度に躊躇す
ることなく、自らの判断で適切な対応を取ることが促されてい
る」(いわば、御墨付き)わけだから、ここまでは、「問題な
い」としているのだろう。

問題があるとすれば、削除が、「必要な限度」において行われた
かどうかだろう。「必要な限度」において行われたのなら、プロ
バイダ−は、「損害賠償の責めに任じない」から、責任なし。
(しかし、今回は、申出のあった当該情報のみの削除が可能であ
るにも関わらず、機械的に、発信者の情報の全てを削除してし
まったので、これは、裁判所の判断を待った方が秦さんには、良
いだろう)。

総務省は、削除などの対応は、「表現の自由」との関係で、「で
きるか限り限定的に規定す」べきだとしながら、通常の注意を
払っていたとしてもそう信じたことが止むを得なかったときは、
プロバイダ−の賠償責任を免除すると、どこまでも、プロバイダ
−寄りで、「信じるに足りる相当の理由」の是非は、裁判所の判
断に委ねられているから、「必要な限度」「相当の理由」は、き
ちんとした司法判断を引き出す必要があるだろう。

こうして見て来ると、「プロバイダ−責任制限法」のコンセプト
は、次のようになる。

* 「責任制限法」は、「免責」規定法になっている
* 免責は、「最大に」
* 「情報を過って削除」しても、過失責任の範囲は、「最小
に」←「重大な過失」のみ、責めを任じる(最終的には、司法判
断という、曖昧さ。それも、免責判断が出ると「期待される」と
ある)
    ↓
* 「迅速」を最優先(類型的、形式的、機械的な処理を勧める
ガイドライン。「プロバイダ等が責任を負わずにできると考えら
れる対応を可能な範囲で明らかにした」という) 「適切な」
は、曖昧概念→「適宜見直し」が、必要(発展途上の法律)。
* 判断基準(削除の範囲、範囲判断の是非は、「相当の理由」
の有無) 侵害情報の特定(ファイル名、データサイズ、特徴
等)は、申出人→プロバイダ−は、それの是非を判断する 「著
作権侵害」なら、全面引用でない限り、部分的な措置になるは
ず。全面削除は、「著作権侵害」だけでなく、「プライバシー侵
害」もあるのではないか(あちこちに「プライバシー侵害」があ
り、此処の場所を特定するのは、煩雑として、全面削除をするし
かないと申出たのではないか。申出人側の代理人の知恵か→例え
ば、「ブログに公開された日記に、発信者が、個人情報を付加
し、プライバシーを侵害した」など)

この問題については、サイトを運営しているものすべてに関わっ
て来る可能性があるので、今後とも、継続的に考えて行きたい。
- 2006年10月21日(土) 10:49:24
10・XX  核実験をしたと公表した北朝鮮に対する国連決議
が、中国、ロシアを含めて、満場一致で採択された。是非とも、
継続的に中国、ロシアを実質的に巻き込み、実効のある経済制裁
にし、北朝鮮の金正日体制崩壊に結び付けて欲しい。

日本では、経済制裁のなかで、米軍によって、実施に移されるか
も知れない船舶への「臨検」(軍事行動)に近い船舶検査(立入
検査)に協力するために、「周辺事態」の認定と法的整備に注目
されているが、それよりも、中国、ロシアにも協力を呼び掛け、
経済制裁を徹底することの方が、遥かに大事だろう。なにか、日
本での議論は、焦点が惚けているように思われる。

非軍事的な経済制裁が、徹底すれば、北朝鮮に対して、体制崩壊
に向けて、充分に効果を発するだろうと思う。世界に誇る、平和
憲法の下、戦争回避、軍事的な緊張を高めることなく、事態解決
に向けて、各国と協力して、リーダーシップを発揮することが、
日本の声価を高めることになるだろう。
- 2006年10月16日(月) 21:26:39
10・XX  丹野雅仁監督作品「ラブレター蒼恋歌」の試写会
を観て来た。東京は、あちこちに小規模な試写室があるが、今回
は、表参道の裏にあった。足が不自由な母親を見て育った所為
か、東京の大学で福祉の勉強をしたいという、真面目な女子高校
生の由衣(本仮屋ユイカ)は、従姉妹を頼って上京し、大学の下
見に来た際、好きなグループが出演するライブハウスに足を運ん
だ。夢中で、舞台を見ているうちに楽屋で小火があった。慌てて
出口に向う人の波のなかで、転んでしまった由衣を助けてくれた
のが、バンドでボーカルをやっているという良太(石垣佑磨)。

良太は、本気でやりたいことが見つからないまま、父親の配管業
を嫌々ながら手伝っているので、息子のやる気のなさに怒る父親
といつもぶつかる。実は、バンドの方もいい加減で、楽器の演奏
ができないので、ボーカルをやっているという体たらくで、練習
するスタジオを自腹で借りている仲間からも浮き上がっている。
有料の限られた時間を有効に使いたいのに、良太は、平気で遅刻
をして来る。ある日、仲間とぶつかり、バンドも止めてしまっ
た。

受験勉強に邁進する由衣も、東京の大学に娘が進学することに消
極的な父親と口論になり、家出をしてしまう。ライブハウスで助
けてくれた良太に引かれるものもあった所為か、ライブハウスに
訪ねて来る由衣は、父親と喧嘩をして、殴り倒してしまった良太
とライブハウス近くの路上で再会し、ふたりで、ラブホテルなど
を泊り歩くことになる。互いに行為を持ちながらも、セックスま
でには至らないふたり。しかし、所持金も尽き、従姉妹を頼った
由衣のところには、やがて、心配した両親がやって来て、由衣を
連れ戻してしまう。由衣にも去られ、さりとて、自宅にも戻れな
い良太は、由衣の自宅を訪ねて行く。東京の大学への進学のため
に、真剣に勉強を始めた由衣は、良太に「帰ってくれ」という。
そんな良太の元に、父が倒れるという電話が入る。亡くなった父
親が、使っていた道具箱に大事に仕舞われていたのは、幼いこ
ろ、良太が描いた父親の働く姿の絵。大きくなったら、「お父さ
んのような配管工になりたい」と書き添えられていた。やっと、
自分のすべき仕事に気がついた良太。モラトリアム情況を脱し、
真面目に働きはじめた。

春。建設現場で働く良太。昼休みになり、弁当にしようと車に戻
る良太。現場近くの桜並木の、向うから歩いて来るのは、東京の
大学に合格し、女子大生になったばかりの由衣。

ということで、古臭いまでの、純愛もの。いま、若い人たちの間
で、こういうものが好まれているのだろうか。世界の動き、社会
の動きに、背を向けるような、身近な純愛ものの小説や映画が流
行っている。一方で、北朝鮮が、核実験をしたと発表し、日本も
核武装だ、再軍備だ、集団的自衛権だ。平和憲法では、日本を守
ることができないから、改憲だ。いろいろ喧しい政治情況になっ
て来ている。政治的に右傾化して行く社会情況と若い人を中心に
した純愛ブームとのアンバランス。純愛、真面目→保守的価値観
→右傾化、ということなのだろうか。ファッショ的な思潮は、庶
民の頭上を滔々と流れ、身近な純愛は、日常生活の、目先の幸せ
のみを追求し、大局への関心を失わせるということか。どうも、
今の時代の純愛路線というのは、作品の良し悪しと関係なく、心
を騒がせる。
- 2006年10月14日(土) 17:56:51
10・XX  「プライベート・ヒロヒト」

アレクサンドル・ソクーロフ監督作品「太陽(ザ・サン)」を観
た。戦争という悲劇の中で翻弄され、傷付いた男とその家族の物
語。男とは、昭和天皇・裕仁。1945年8月。宮城は、すでに
焼け落ち、天皇(イッセー尾形)は、地下にあるのか、退避壕で
仮住まい生活をしているようだ。老侍従(つじしんめい)が、天
皇の朝食を運んで来る。現人神に接することができず、ふるえな
がら用を足す老侍従。侍従長(佐野史郎)は、天皇と老侍従の仲
立ちをするだけ。天皇が、「ラジオをつけてください」という。
侍従長が、繰り返す。米軍の日本本土上陸間近を伝える英語
ニュース。天皇の意向を受けて、侍従長は、老侍従に「消してく
ださい」と強く言い切る。こういう印象的なイントロダクション
で、暗闇の中、映画は、始まる。東京の晴海通りの三原橋交差点
に近い地下壕のような小さな映画館「銀座シネパトス」。信号が
変ったのだろう、頭上を通る車から洪水のような騒音が襲いか
かって来る(この騒音は、上映中、映画と無関係に、定期的に頭
上を襲う)。

1930年代に自ら神格化を否定したという天皇。だが、
1945年になっても、侍従長と天皇は、次のような会話を交わ
している。「お上が人間であるかもしれないとお思いになること
自体が、思い過ごしでございましょう」「私の体も同じだ、君の
とね」「それは存知かねます」「神が持つものを何も持たぬ」。

軍服に着替える天皇。通気もままならぬ地下の避難壕の、迷路の
ような通路を通り、御前会議の開かれる部屋に向う天皇。鈴木首
相の進行で始まる御前会議。本土決戦を主張する阿南陸軍大臣。

研究室で、平家蟹の生態を調べる天皇。「甲羅の皺に歌舞伎の隈
取りに似たものが見出せる」。侍従長が、現れる。「お上、米軍
縦隊が東京に近づいているという情報が入りました・・・。避難
壕へお移りくださいませ・・・」。

日程通り、午睡する天皇。夢にうなされる天皇。1945年3月
の東京大空襲を思い描いているのか。CG合成の映像が、夢魔を
生み出す。「戦争に美はない」とアレクサンドル・ソクーロフ監
督は、言ったという。息子、皇太子へ、敗戦の原因分析につい
て、手紙を書く天皇。家族のアルバムを紐解く天皇。着替えをし
て出かける天皇。庭に出るとタンチョウ鶴と戯れる米軍兵士がい
る。シルクハットを被りアメリカ大使館の車に乗る天皇。廃虚と
なった東京を走る車は、アメリカ大使館へ向う。幻想的な遠景
の、たそがれの廃虚・東京。

MPに阻止され、たったひとりで廊下を通り、指定された部屋に向
う天皇。待っていたのは、GHQマッカーサー元帥。午前中、本
土決戦を論議する御前会議があった筈の日の夕方、天皇は、
GHQに出向き、マッカーサーと対面し、英語で会話をするとい
う時制無視のシュールな脚本。にも拘らず、違和感なく映画は進
行する。「ありがとう、陛下。皇居(宮城)までお送りします」
「あっ、そう」。マッカーサーと天皇の対面の場面で、歌舞伎の
後見役のように、重要な補助線を引くのが、副官で通訳を勤める
日米混血の人物。ただし、科白は、佐野史郎が、アフレコで入れ
直したという。マッカーサーが、天皇に贈ったというチョコレー
ト。宮城に戻り、極地研究所所長からオーロラについて、進講を
受ける天皇。

アメリカの従軍記者が、天皇の写真を撮りにやって来る。「闇に
包まれた国民の前に、太陽はやって来るだろうから」と写真撮影
に応じた天皇。この科白故に、ヒロヒトの映画に「太陽」という
タイトルをアレクサンドル・ソクーロフ監督は、つけたのだろ
う。「皇居(宮城)以外は、廃虚ばかり!ここだけが楽園だ」と
言う従軍記者。シルクハットを被った天皇を「チャップリン
だ!」と言う従軍記者たち。このシーンは、映画全体でも、特
に、印象に残る場面だ。夜、アメリカ大使館でマッカーサーと夕
食を共にする天皇。こどもの話が話題に上る。「子どもたちは疎
開させました。恐れたからです。残虐行為を」「残虐行為?何の
ことです?誰が残虐を?」「あなた方が広島に原爆を落して以
来、私たちはケダモノに襲われると脅えました」。史実では、
マッカーサーと天皇は、10回以上逢っているという。

皇后(桃井かおり)が、疎開先から帰宅した。「やっ、ねっ、元
気そう」「はい、元気そうで・・・」「ねっ、長かったね。
あっ、コートを、ねっ」「私はねっ、成し遂げたよ・・・。これ
で私たちは自由だよ・・・」「何をなさったの?」「私はね、も
う神ではない・・・」。大広間にいる子どもたちと再会に出向こ
うとする天皇が、侍従長に尋ねる。「あの録音技師はどうしたか
ね?私の人間宣言を録音したあの若者は?」「自決いたしまし
た」。部屋の外側で、天皇を待ちながら、ふたりの会話に耳を傾
けていた皇后の両眼が、妖しく光る。世界中の女性の思いを込め
て、人殺しの戦争をする男たちに怒りを、皇后の強い視線に込め
たというアレクサンドル・ソクーロフ監督。天皇一家といえど
も、戦争によって引き裂かれていた家族である。母、妻としての
悲しみは、万人に変わりはない。

人間であるのに、人間であってはならなかった天皇の悲劇を描い
た作品。それをアレクサンドル・ソクーロフ監督徹底したフィク
ションながら、天皇の「私事」を描こうとし、それに成功した。
権力の頂点に祭り上げられながら、一人の人間として、孤独に耐
えた天皇。恐れおののき、自分の弱さと戦ったという新しい昭和
天皇像。日本人とアメリカ人だけが登場する映画をロシア人の監
督が作った。イッセー尾形は、時として、昭和天皇に酷似する。
特に後ろ姿。桃井かおりは、ラストシーンの戦争を憎む強い眼差
しを演じるために出演している。侍従長の茫洋さを演じ切った佐
野史郎。マッカーサーの存在感を出したイタリア在住のアメリカ
人俳優ロバート・ド−ソン。役者たちの抑制された演技。静謐な
カメラワーク。プライベート・ヒロヒトの映画は、見応えがあっ
た。
- 2006年10月14日(土) 13:42:33
10・XX  作家の秦恒平さんのホームページが、プロバイダ
−のビッグローブの判断で、全面削除された問題については、こ
こでも、既に書いているが、この問題について討議するため、日
本ペンクラブの電子メディア委員会が、17日に開かれることに
なった。

今回のビッグローブの削除問題の持つ課題は、普遍的であり、深
刻であると認識している。要点は、電子メディア時代の表現媒体
の持つ危うさそのものだ。

この問題のその後の推移を見極める上で、これまでの情報を元に
課題を私なりに整理してみた。以下は、秦さん宛に送ったメール
の内容である。

*秦さん。こんばんは。

ビッグローブの件、ペンとしての対応策を私なりに錬ってみまし
た。
1)ペンとしても、ビッグローブに抗議するとともに問題の所在
を顕在化させる→その上で、秦ホームページを、まず、原状回復
するよう求める。電子メディア時代の表現媒体の持つ危うさをPR
する。

2)ビッグローブの「規約」の是非を問題にする。
*「期間」の是非(7日、3日を延長させ、きちんとした検証期間
を設けさせる)
*意志確認の方法の是非(メールを文書に改めさせる)など
*措置(削除)の判断基準の明確化→対応措置の整理(措置は、
ケーススタディで、部分的、段階的にすべき。例えば、「引用」
と著作権侵害を区別する)。

「規約」は、「あすは、我が身」というあらゆるホームページへ
の普遍的な影響を考えれば、社会的に通用する標準的な規約に作
り替えさせる必要がある。

3)ペンも、「仮処分」を支援する。裁判所の判断、判例を引き
出し、「プロバイダ−責任法」の過剰反応を是正させる。
- 2006年10月14日(土) 11:28:34
10・XX  10・9、北朝鮮が、核実験を強行した。国連安
全保障理事会は、国連憲章第7章に基づき、北朝鮮への経済制裁
を盛り込んだ決議案をまとめるだろう。経済制裁は、北朝鮮の船
を臨検し、核の持ち出しを監視するという目的で、動きを封じる
ことになるだろう。10・13には、中韓首脳会談が開かれ、北
朝鮮への対応が、より明確に示されるのでは無いか。

IAEA(国際原子力委員会)の査察が、北朝鮮に入り、核施設
の破棄が迫られ、非核武装化が、宣言されようになるかどうか。
金正日は、国際的に孤立化するばかりで無く、国内的にも、餓死
する国民が増えるなど、追い詰められ、このまま、金体制の崩壊
に繋がる可能性がある。制裁の効果を見極めながら、北朝鮮の衰
亡を見極める必要がある。そういう大事な時期に、北朝鮮の核実
験を利用して、日本の核武装化などという非現実的な議論が、日
本国内で高まるのだけは、止めて欲しい。日本が核武装すれば、
仮想的国は、北朝鮮だけでは無く、中国、ロシア、韓国なども巻
き込み、日本が自滅する可能性が出て来るからだ。中国やロシア
に原爆を落しても、全国的な破戒には繋がらないが、日本では、
原爆を東京、名古屋、大阪にでも落されたら、全国的な破戒に繋
がる危険性がある。
- 2006年10月10日(火) 22:13:17
10・XX  ウエッブの社会は、現実の社会にもまして、民主
主義が成熟していない。マナーもルールも成熟していない。日本
ペンクラブの電子文藝館委員会で、一緒に活動している作家の秦
恒平さんは、孫娘を骨肉腫で、ことしの7月に亡くしたが、孫娘
の両親(つまり、秦さんの娘夫婦)との間で、孫娘の死を巡っ
て、骨肉の争いが起きている。その挙げ句、秦さんが、長年積み
上げて来たホームページが、娘婿の申し立てを真に受けたプロバ
イダの手で、「突然」削除されてしまった。

以下は、最近の動きを伝える秦さんの報告である(原文のマ
マ)。


*さて、私のホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』完全消
失の実情をお伝えします。ご理解下さいますよう。

私が、1998/3月以来多年運用してたホームページ「作家・
秦恒平の文学と生活」は、今年二○○六年九月二十日、突如、プ
ロバイダ「BIGLOBE」により、事実上「無断」で、私の「確認」を
一度も取ることなく、一方的に
「初期化・全削除」されました。ホームページが読めなくなって
いる、何故か、困る、という読者ほかの皆さんの不審や抗議がた
くさん来ています。

このホームページは、原稿用紙換算六万枚を越すかと思われる私
の創作物を擁し、内容として、「湖の本既刊八十八巻の全電子
化」、八、九年に亘る、日々欠かさぬ日記文藝としての「生活と
意見 闇に言い置く」、三好徹氏、高史明氏ら著名文筆家の寄稿
や一般の投稿作品約二百を含む私の責任編輯「e-文庫・湖
(umi)」、そして私の「書斎作品の多く」を含んでいます。

ところがBIGLOBEは、上の「日録」のなかに、今年七月二十七日
に、癌「肉腫」で急逝しました私どもの「孫」十九歳の生前日記
を転載しているのが、孫の「著作権相続者」と称する者(=ちなみ
に両親は「青山学院大学教授、同妻・私の長女」です。)の権利を
侵害しているとの申し入れを、そのまま受理し、一方的に強行削
除したのでした。しかし、引用・抄出した日記は、全体の極く極
く一部(日記全部から見れば七、八十分の一程度か。原稿用紙に
して十枚余か。私のホームページ全容からすれば、大海の小魚に
もあたらない分量なのです。)
しかも、私はそのようなBIGLOBEの通告など、全然見た覚えなく、
またホームページを全削除してよいなどと意思表示した覚えもく
ないのです(引用者ーー注。BIGLOBEの説明によれば、一方から、
申立があり、7日間以内に被申し立て側から反論が無ければ、削
除する。反論の申し立てがあれば、3日間の猶予のなかで、
BIGLOBEが調整し、削除の是非を裁定をするという、「乱暴な」
ルールがあるようだが、こういうルール、猶予期間で、世間が通
るのかどうか、私個人としては、はなはだ疑問を持つ)。
有るわけが、有るでしょうか。BIGLOBEは、受発信設定が全く出来
ていない、使用していない私のbiglobe.ne.jpメール宛てに発信し
ていたのです。しかし私はパソコン使用以来、一貫してニフティ
のみを全面使用し、私の機械操作能力ではbiglobe受信設定は
「存在しない」のです。
更には機械的一律削除を「日課」にしなければならぬほど「不正
広告メール・SPAMメール」が九割を越す大氾濫の今日です。やた
ら数多い大概の「営業通知」も、私の日常活動からは「ほぼ削除
対象」なのです。

こういう時節に、上のようなBIGLOBEの処置は、遺憾余りありま
す。ユーザーへの親切の為にも、当然もっと確実な「電話」確認
や、「郵便」文書による確認を以て、「ユーザーの正確な意思決
定」を手に入れて為すべきが、理の当然でありましょう、もし一
家で旬日余にわたる旅行でもしていたらBIGLOBEは一体どうすると
いうのでしょうか。
むろん言うまでもなく私が、かほど多年運営のホームページの
「削除通知を、黙過する」わけが無いのです。加えてBIGLOBEは、
私以外にも、他の多くの著作者・寄稿者の権利まで侵しており、
全く言語道断な暴挙、厖大量の「著作権侵害」と抗議せざる
を得ません。

ホームページの此の無道な削除に対しては、地裁に「仮処分」を
申し立て、日本ペンクラブの同僚会員で弁護士の総合法律事務所
に、善処をすべて依頼しました。地裁は事の重大性を慮り専門部
に審訊を託したよし、法律事務所の通知がありました。 

この電子メディア時代に、かかる奇怪に強引なことが、いとも簡
単に為されてしまうおそろしさに愕き呆れながら、ともあれ、事
情を申し上げまして、アクセス不能が只の機械のエラーによるも
のでないことをご通知致します。いずれホームベージは復旧出
来ると確信しています。ご理解ご支援いただけますようにお願い
致します。 

 日本ペンクラブ理事         
 日本文藝家協会会員  作家・秦 恒平     2006/9月末

ことは、「骨肉の争い」に留まらず、電子メディア下の言論表現
の有り様に関わる重大な「事件」だと、私は思う。日本ペンクラ
ブも、言論表現委員会、電子メディア委員会などを軸に、問題の
所在、新たなルールの策定に向けて、発言、提言をすべきでは無
いかと、思う。
- 2006年10月2日(月) 21:57:18
9・XX  日曜日、久しぶりに浅草へ行く。空は晴れ渡り、隅
田川の水も、爽やか。浅草公会堂で開かれている歌舞伎文字光亭
勘亭流の作品展を見に行く。歌舞伎座の筋書の番付を月交代で書
いている伏木寿亭さんからの招待状が届いたのだ。伏木さんは、
受付に居て、今年も元気な顔が、若々しい。一渡り、勘亭流書道
研究会(寿亭さん指導)のお弟子さんたちの作品を拝見。今は亡
き、斎藤龍亭さんの作品も展示されている。寿亭さんと、いつも
のように、会場で立ち話と記念写真。

浅草公会堂を出て、吾妻橋を渡り、アサヒビール直営のレストラ
ンで、特製ランチと地ビールで昼食。

地下鉄で、日本橋に戻り、東西線で、大手町へ。銀座3丁目の青
木画廊で、多賀新、建石修志、中村宏、市川伸彦、川口起美雄の
5人が、「似非機械」(似て非なるマシーン)をテーマに競作し
た作品展を見る。多賀新さんからの招待状だが、作家のうち、多
賀新、建石修志は、旧知の人たちだ。

さらに、東京駅の八重洲口近くの田中八重洲画廊で開かれている
「飛騨の手の仕事人展」を覗く。高山の家具作家・鵜藤清さんか
らの招待状。木工(家具)、木彫、切り絵の4人の作家の作品展
示と即売の会だ。鵜藤さんの作品から「くり抜き額縁」
(18000円)を購入。お気に入りの小さな銅版画の蔵書票で
も入れて、仕事場に飾ろうと思って、買った。鵜藤夫妻とは、2
年ぶりの再会。ここ、3年間で、一日往復6キロほどの徒歩によ
る自然なダイエットの結果、体重が6キロほど痩せてきたので、
驚かれたようだ(徒歩継続を始めて、最初の1年間は、体内の構
造改革の所為か、ほとんど痩せなかったが、2年目は、3キロ痩
せ、3年目は、2・5キロ痩せ、今は、ほぼ標準体重を維持して
いる)。いつも傍にいる人には、痩せてきたのは、判りにくい
が、たまに逢う人の目には、大きな変化として映るのだろう。ま
あ、この日も、さすがに日本橋と浅草の間は、歩かなかったけれ
ど、丸の内、銀座、八重洲界隈は、歩き回り、画廊を覗いたああ
とは、さらに、書店廻りをしてということで、朝、家を出て、夕
方、自宅に帰ったのは、結局、7時間余り後ということで、日曜
日も結構、歩いた、歩いた。
- 2006年9月25日(月) 22:38:50
9・XX  せんぼんよしこ監督作品「赤い鯨と白い蛇」の試写
会を見た。千葉県館山の古い住宅を舞台に、女優5人が登場する
だけというユニークな映画。3日間の物語。テーマは、古い住宅
そのものと女たちの「戦争体験」。テレビドラマのディレクター
出身、78歳の女性監督の初作品である。女性監督の「戦争体
験」を軸に、5人の女性たちは、78歳の監督の人生の各年代を
代表する分身を演じる。現在の監督に近い、つまり、等身大の女
性は、雨見保江という老女。認知症の症状が出始め、独り暮らし
が危うくなりはじめた。香川京子が演じる。孫娘の明美(宮地真
緒)に連れられて、千倉にある息子夫婦の家に向う途中、戦時中
に疎開していた館山駅で列車から降りたあと、疎開先の住宅が、
懐かしくなり、孫娘を引っ張るようにして、古い茅葺きの住宅の
あるところに来てしまう。

建て直すために間もなく取り壊される予定だという古い家には、
夫が3年前に家出してしまったという光子(浅田美代子)と里香
(坂野真理)の母子が住んでいる。早く祖母を千倉の自宅に連れ
て行きたい明美をよそに、保江は、青春時代の想い出が一杯詰
まった古い家に泊りたいと言い出す。快諾する光子。さらに、以
前に古家を借りたことがあるというセールスウーマンの美土里
(樹木稀林)が、取り壊しを前にと、訪ねて来た。70代、50
代、40代、20代、10代という感じで、5人の女性が勢ぞろ
いした。

夕闇が迫り、夕食を共にするうちに、打ち解けはじめる初対面の
女性たち。やがて、保江は、古屋には、150歳になる白い蛇が
いると言い出す。蛇と話をすると幸せになれると保江は、主張す
るが、美土里は、「ぼけっちゃったの」と冷淡に皮肉る。里香
は、「白い蛇なら、見たことがある」と、なぜか、でまかせを
言ってしまう。

懐かしい家に一晩泊った所為か、保江は、昔の事を思い出しはじ
める。15歳の頃、屋敷ないにある水神様の辺りで、見掛けた白
い蛇。蛇は、少女に、「自分に正直に生きろ」と言ったという。
詐欺まがいのセールスで客に追われている美土里。ボーイフレン
ドとのセックスで妊娠したらしい明美は、ボーイフレンドに逢い
に行く。明美を館山駅まで車で送りに行った光子は、駅前で家出
した夫に良く似た男を見かける。過去の記憶に遡る保江をよそ
に、ほかの女たちは、それぞれの現実と向き合っている。

保江が、行方不明になった。皆で探していると、海辺の防空壕跡
に保江はいた。戦時中、保江の家に遊びに来ていた若い将校は、
海軍の特攻隊の少尉だった。恋心を抱いた若い保江。突撃を拒ん
で脱走した兵士を逃がし、自分も逃亡しようとして、処刑された
少尉。その少尉の遺品を保江は、防空壕跡の穴の中に隠していた
のを思い出したのだ。認知症の兆しが出て、過去の大切な記憶が
無くなって行く恐怖を感じている保江。記憶が薄れてゆく前に、
大事なことを思い出そうと、無意識のうちに、館山の古屋に来て
しまった保江の深層心理には、少尉への恋心と秘めていた遺品の
記憶があったのだ。「もう、思い出してあげられないかも知れな
い」。だから、老いの途中で、私は、ここへ来た。保江は、そう
言う。

里香が初潮を迎えた。戸惑う母親の光子。5人の女たちは、老い
による惚けと初潮の間で、生きている。それは、一人の老女の人
生そのものであり、また、5人の女性たちが、それぞれの人生
を、あたかも、バトンタッチのリレーをしているようにも見え
る。2日目の夜、女たちは、館山の海辺へ出た。月が照る海辺。
海中では、海螢が、淡い光をかざす。里香は、保江に「白い蛇を
見たというのは嘘。嘘をついてごめんなさい。でも、私は、おば
あちゃんの事を忘れない」と言う。

翌朝、掘り出した少尉の遺品を燃やす保江。青春の記憶を埋葬す
る。もう、思い出さなくてもよい。燃やそうとした遺品の本から
落ちたのは、若い保江宛の少尉の手紙。手紙には、「戦争のため
に、自分は、正直に生きられなかったが、保江には、自分に正直
に生きて欲しい」とあった。白い蛇の声は、処刑された少尉の声
だったのだ。未婚の母として、生まれて来る子どもとともに生き
ようとする孫娘の明美。自分に正直に生きようと改心した美土
里。「自分に正直に」というキーワードが、5人の女性を一人の
老い行く女性に再構築されて行く。老いた保江は、戦時中、少尉
と見た「赤い鯨」を思い出す。「赤い鯨」とは、人間魚雷と呼ば
れた、帰還不能な泉水兵器のことだったと、思い出す保江。「私
が忘れたら」少尉は、2度死ぬと涙を流す保江。

江戸中期に建てられたという古民家。入母屋の別棟の式台付きの
玄関。玄関の屋根は、扇垂木(おうぎたるき)、出入り口の戸
は、舞良戸(まいらど)。玄関の両脇に鎖樋。母屋は、煙出しの
ある大屋根。日常の出入りに使われた大戸口(おおどぐち)に
は、潜り戸が、仕組まれている。土壁の下は、鎧張りの板壁。室
内は、帯戸(おびど)、腰障子、襖、鴨居の上には、柱と柱を繋
ぐ横木の長押(なげし)。床の間のある座敷。床柱、落掛(おと
しが)け、床框(とこがまち)、天袋、違い棚、床脇など。ドラ
マの背景になりながら、チラチラと見える隠れた主役の古い住
宅。何世代もの人々が、暮らして来た家の息吹が感じられる。

外に出れば、風に揺れる木々のざわめき。女性監督らしい、細や
かな映像のつなぎが、独特の、「間」を構成する。画面に、ゆっ
たりした時間が流れる。香川京子が、ゆったりと惚けて行く女性
の崇高さを演じる。誰もが、老い、やがて、惚け、やがて、死ん
で行く。浅田美代子が、女の一生の中軸となる世代をゆるりと演
じている。騒がしいが、人生に必須の、笑いと滑稽さという薬味
を添える樹木稀林。本当に、この人は、巧い役者だ。存在感があ
る。フレッシュな宮地真緒、坂野真理。そして、ウクレレの音楽
が、さりげなく、隙間という、「間」を埋めて行く。

役者良し、テーマ良し、ストーリー良し、映像よし、古民家良
し、音楽良しで、実に見応えのある映画が仕上がった。誉めすぎ
か。いや、誉めすぎでは、ない。まあ、見てください。東京・神
保町の岩波ホール(03ー3262ー5252)で、11・25
(土)から、新春ロードショー公開。
- 2006年9月23日(土) 18:30:41
9・XX  きょうは、9・11。5年前の、01年9月11
日。ハイジャックされた2機の旅客機が、世界経済の中枢、
ニューヨークの世界貿易センターに突っ込むなど、アメリカで同
時多発テロのあった日。
- 2006年9月11日(月) 21:41:24
9・XX  映画「ミラクル・バナナ」の試写会に行って来た。
「ミラクル・バナナ」は、タヒチと間違えて、大使館のスタッフ
派遣員として、中部アメリカのカリブ海に浮かぶ島(キューバの
隣)、政情不安定なハイチ共和国に赴任した若い女性が、カリブ
でも最貧国といわれるハイチの子どもたちのために、バナナの木
から紙をつくろうと試みる話。脚本と監督は、錦織良成。現地の
大使館員を巻き込み、日本にいる大学の研究者や大学院生を巻き
込み、岐阜の和紙職人を巻き込みしながら、バナナ紙プロジェク
トを動かし、紙作りを成功させる。

政情不安なハイチの現状を背景にさりげなく映し出しながら、戦
後60年の、確かに物質的には豊かになって来た日本と発展途上
の、物質的には、貧しいが、心豊かなハイチ共和国を併置し、日
本に生きる我々の現況感を浮き彫りにして行く。世界の中の日本
は、これで良いのか、という問が、映画を観た後に、残ってい
た。

毎年、一万人以上が、交通事故の犠牲になる。ストレスで、鬱病
になる人が増えている。インフルエンザのように流行する鬱病。
三万人以上が、電車に飛び込んだりして、自殺している。さら
に、新たな戦争に向けて、ナショナルなファシズムの色を濃くし
てきている日本では、すでに「戦前」状況が語られているが、そ
ういう日本人の心の有り様(つまり、国民意識の有り様)に対し
て、錦織監督は、問を投げかけているように思う。

折しも、日本は、自民党の総裁選挙が始まった。最有力といわれ
る候補は、「戦後レジ−ムからの脱却」を言いはじめた。「戦後
レジ−ムからの脱却」とは、パソコンの画面のように、「戦後社
会」にリセットボタンを押して、一旦、全てを消し去り、大日本
帝国憲法下の、戦前日本に立ち返り、新たな戦後レジ−ムを再構
築しようとする意味なのか。戦後日本を否定しようとするのか。

自民党総裁選挙告示以降、安倍の顔、言説を見聞きするのが、嫌
になった。「安倍雪崩」現象は、自民党政治家の民主主義意識の
雪崩的崩壊現象の現れ(一枚岩現象=ファシズム)である。国家
論なき、利権論者たち。醜い顔顔が、引きも切らない。自民党内
での安倍の大勝ち現象が、政権敗北に繋がるような政局をつくり
出さないと、日本国民の民主主義意識の脆弱さも、世界の前に露
呈される。

映画「ミラクル・バナナ」では、主人公のスタッフ派遣員には、
小山田サユリが、扮し、ちょっと、ちゃらんぽらんな大学院生に
山本耕史、見事な和紙漉きの技を見せる和紙職人に緒方拳、大使
館臨時代理大使夫人に宮崎美子などが、脇を固める。

「ミラクル・バナナ」、バナナに拠る奇跡、日本でも、起こらな
いか。映画は、東京・六本木の「シネマート六本木」(03ー
5413ー7711)で、9・16(土)から、ロードショー公
開される。
- 2006年9月10日(日) 18:04:33
9・XX  昨夜から、きょう、一日は、歌舞伎座の劇評執筆に
集中力を高めて、一気に、昼の部と夜の部の劇評をまとめあげ
た。先程、夜の部も、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込ん
だ。新聞の夕刊にも、「秀山祭」の劇評が載っていたが、全く、
参考にしていない。抽象的、印象的な批評というものが、いつま
で通用するのか。

主に、朝夕の通勤時や就寝前の時間を当てている読書は、普通に
進んでいるが、「乱読物狂」に掲載する書評の執筆が遅れてい
る。読み終わった本が、私の横で、山積しているし、試写会に
行って来た「ミラクルバナナ」(「シネマート六本木」で、9・
16からロードショー公開)や、「赤い鯨と白い蛇」(「岩波
ホール」で、11・25からロードショー公開)の映評も、早く
掲載したい。
- 2006年9月9日(土) 20:47:56
9・XX  週末に入り、歌舞伎座の劇評を書きはじめた。今夜
は、昼の部の「車引」のみ、ざっと、書いてみた。あすは、一
日、自宅にいることができるので、昼の部、夜の部とも、劇評を
書き上げ、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込みたいと思って
いる。今回は、初めて、「歌舞伎登場人物事典」を使ってみる。
人物の説明に、深みがないのが、残念。
- 2006年9月8日(金) 22:42:12
9・XX  歌舞伎座の秀山祭(初代吉右衛門生誕120年)の
舞台を3日の日曜日に昼夜通しで観て来た。昼の部は、1階も2
階も補助席が出る程の大入満員。当日券は、「1等席でも補助席
になります」とチケット売りの窓口で言っていた。夜の部は、2
等席も1等席も、若干の空席があった。初代吉右衛門が好評だっ
た演目を並べているので、馴染みのある芝居や踊りが続く。筋書
の上演記録が、いつもの月よりページが多い。全部で16ページ
もあった。その分、記事が少なくなったか。

昼の部は、「引窓」も「寺子屋」も見応えがあった。雀右衛門、
86歳の小野小町の所作事も愉しく拝見した。これでは、昼の部
に人気が集中するのも、判る。

いや、夜の部だって、悪くない。「籠釣瓶」は、陰惨な人殺しの
話だが、そこは、吉原の遊廓の裏表を廻り舞台で、次々と見せる
のだから、視覚的な華やぎがある。舞台展開としては、極めて歌
舞伎向きだと言うのが、改めて認識された。初代に縁の無い演目
は、「鬼揃紅葉狩」だけであったこれは、定番の「紅葉狩」では
なく、新作歌舞伎(「新歌舞伎」よりも新しい、戦後の作品)
で、私も初見。

いずれにせよ、劇評の構造は、メモができ上がったので、後は、
時間の調節をし、集中力を持続できる時間の塊が、どれだけとれ
るかで、劇評の仕上がり時間が違って来る。とりあえず、「近日
公開」としておこう。
- 2006年9月5日(火) 21:03:17
9・XX  晴れ。暑い一日。きょうは、7・19に亡くなった
義母の納骨式で、四谷の聖イグナチオ教会まで行く。午前中は、
あす行く予定の歌舞伎座のための予習をし、溜まっていた書評を
書くための準備をしたが、殆ど準備で終ってしまったので、一部
の書評を「乱読物狂」に書き込んだものの未完。続きは、後日、
書き継ぎたい。野坂昭如の三島論ほか。久しぶりに野坂節を堪能
した。最近刊行される本では、こういう濃というか、癖という
か、独特の味わいのある作品を味わえない。ほかに、飯尾憲士
「1940年釜山」、辺見庸「いまここに在ることの恥」とい
う、ユニークな作品も、この時期に、合わせて読んでいるので、
戦争体験といまの政治状況について、考えてみたい。
- 2006年9月2日(土) 13:24:39
8・XX  遅れていた歌舞伎座「納涼歌舞伎」の第3部「南総
里見八犬伝」の劇評をさきほど、やっと、サイトの「遠眼鏡戯場
観察」に書き込んだ。今回の「南総里見八犬伝」は、私が2回観
た澤潟屋版ではなく、澤潟屋一門以外が演じる渥美清太郎版で
あったことが、ポイントだろう。澤潟屋では、割愛する「蟇六
内」が、演じられているのが、私にとって、何よりの収穫であっ
た。九代目團十郎は、笑劇の主人公・蟇六とスペクタクルの主人
公・犬山道節のふた役を好んで演じたという。澤潟屋版のおもし
ろさと渥美版のおもしろさは、別物である。

きょうは、休みを取り、午後、所用で、歌舞伎座の近くに行っ
た。歌舞伎座では、9・2の初日を前に、舞台稽古の最中で、歌
舞伎座玄関の内側には、浴衣姿の役者衆が、何人か見えた。9月
の歌舞伎座は、3日の日曜日に通しで拝見する予定である。9月
の劇評は、早めに掲載したい。
- 2006年8月30日(水) 22:03:30
8・XX  残暑厳しい中、きょうは、休みを取る。歌舞伎座の
「納涼歌舞伎」は、26日に千秋楽を迎えたが、こちらのサイト
の劇評「遠眼鏡戯場観察」は、第1部のみ掲載で、その後が、続
かなかった。きょうは、早起きをして、遅ればせながら、取りあ
えず、第2部の劇評を書き込んだ。次いで、第3部も、早めに書
き込みたい。
- 2006年8月30日(水) 9:30:07
8・XX  青年劇場スタジオ結(ゆい) 第1回公演を観て来
た。青年劇場の稽古場だった場所をスタジオ公演のスペースとし
てリニューアルスタートをする最初の公演は、小川洋子原作の小
説「博士の愛した数式」の劇化であった。確か映画化もされてい
るが、私は、原作の小説をかなり前に読んでいるが、映画は観て
いない。「数式」の話なので、劇評も、数式的に趣向を凝らした
ものにしてみた。それが、以下の通り。

○数式からのアナロジー

青年劇場スタジオ結(ゆい)の舞台を数式的に表現すると:家政
婦=博士×ルート君(家政婦息子)ー博士姉+吉田のおばちゃん
(隣人で、家政婦の先輩)

そもそも、無限循環など数学では、「無限」が表現できるよう
に、無限と有限がある

同じ登場人物でも、
小説の人物は、イメージだから、無限である
舞台の人物は、具体的な役者が演じるから、有限である

小説の舞台化→無限の有限化
芝居は、人生と同じ
舞台は、有限の空間
人生は、有限の時間

舞台の大道具は、シンプル
長椅子、テーブル、電話台兼務のものいれ、冷蔵庫、流し:階段
と居室(ベッド)
家政婦の家、博士の家(離れ)の融通性

○トラブル+トラブル=アンサンブル

博士:離れの独居老人は、家政婦とトラブル続き
博士の姉が、トラブルを増幅する

家政婦:母子家庭で、息子(ルート君)とトラブル続き

*博士とルート君は、馬が合う→キャッチボール、数学→擬似父
子
*博士にとっては、家政婦は、家政婦=家政婦は、息子にとっ
て、当然、母

●人間関係の数式→擬似家族の構築による癒し

◎(原作にない)家政婦の隣人(吉田のおばさん)は、数学(幾
何学)の問題の解答に導く、いわば「補助線」
家政婦の先輩、ルート君にとっては、トラブルのない母(の代
用)→バランス維持装置(博士とも過去、1週間、家政婦として勤
めた経験がある)

*補助線を考案した福山啓子の脚本と演出は、優れていた。テン
ポのある舞台運び

*役者では、ルート君を演じた蒔田祐子が、好演。少年に見え
た。森山司の博士は、あまり数学者としての味が薄い。家政婦の
湯本弘美は、熱演過ぎていて、浮き気味。もう少し抑えた方が、
リアリティがあったのではないか。博士の義姉の井上昭子は、憎
まれ役だが、存在感があった。
- 2006年8月18日(金) 22:14:40
8・XX  歌舞伎座の納涼歌舞伎、第1部の劇評を4日がかり
で書き継ぎ、けさは、早起きをして、仕上げたので、サイトの
「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。第2部と第3部の書き込み
は、暫く遅れるので、ご容赦願いたい。特に、第2部は、今月の
興行では、いちばんのお勧めの舞台となった「吉原狐」は、初見
なので、じっくり書き込みたいと、思っている。
- 2006年8月17日(木) 6:07:00
8・XX  日曜日に歌舞伎座で、第1部から第3部まで、通し
で拝見して来た。三津五郎、福助、橋之助、染五郎、扇雀、孝太
郎らの舞台。第1部の「たのきゅう」は、予想通り、私の好みに
合わず。

一番おもしろかったのは、第2部の「吉原狐」で、おきちは、福
助の任に合い、滑稽人情噺で、楽しんで来た。橋之助が、珍しい
女形の役だが、滅多に聞けない彼の甲(かん)の声は、父親の芝
翫に良く似ていることを発見した。

第3部の「南総里見八犬伝」は、夏休み向けの、盛りだくさんな
舞台であったけれど、普通より上演時間が短い、いわばダイジェ
スト版とあって、少しせわしなかった。ここでは、第2部とは逆
に、福助、扇雀という女形が、立役を演じ、立回りをするので、
舞台では珍しい彼らの地声を聞くことができて、これも、おもし
ろい。

3部とも、劇評の構想がまとまったので、第1部から順番に書き
はじめた。と言っても、まだ、第1部の一部を書いているとこ
ろ。とりあえず、劇評執筆の途中経過報告。

首都圏は、けさ、旧江戸川での、クレーン船による送電線接触事
故で大規模停電で半日混乱。「テロ」で送電線を狙われたら、簡
単に大混乱必死と判明。中東の戦争は、第3次世界大戦という様
相が濃くなっていて心配していたが、とりあえず、停戦となっ
た。果たして、本格的に収拾するのかどうか、まだ、見守る必要
がある。あすは、8・15。ダッチロール状態の政治家、小泉
は、靖国神社参拝をしそうな気がする。大局の見えない人を首相
に持つことの悲哀を感じる。
- 2006年8月14日(月) 23:36:36
8・XX  今月の歌舞伎座は、きのう、初日。納涼歌舞伎で、
3部制。第1部は、「慶安太平記」、つまり、丸橋忠弥物語。
「近江のお兼」、「たのきゅう」。第2部は、「吉原狐」、「団
子売」「玉屋」「駕屋(かごや)」の所作事3題。第3部は、
「南総里見八犬伝」。三津五郎、福助、橋之助、染五郎、扇雀、
孝太郎らという顔ぶれ。私は、13日に、3部通しで拝見する予
定。
- 2006年8月9日(水) 21:45:14
8・XX  1945年8月6日、広島に原爆が落ちた。それか
ら、1年経った同じ日、七代目松本幸四郎の長男から堀越家に養
子に入り、6年前に九代目市川海老蔵を襲名し、「海老さま」の
愛称で親しまれていた歌舞伎役者の家に待望の長男が誕生した。
8月生れ故に、夏雄と名付けられた。夏雄は、後に、十代目海老
蔵を継ぎ、十二代目團十郎を継いだ。当代の團十郎である。

近年、不幸にして病魔に犯されたが、白血病を克服して、二度の
舞台休演を経て、ことしの5月に歌舞伎座で舞台復帰を果たした
團十郎。團十郎は、実は、8月6日に還暦を迎えたことで、代々
の團十郎が、なしえなかった偉業を達成した。十二代続く團十郎
の系譜で言えば、確か、九代目以外は、團十郎として60歳を迎
えていない。若死が多いが、そうでなければ、60歳を前に息子
に八代目團十郎を譲り、自身は、海老蔵に戻った七代目など、と
いうばかり。長寿の團十郎現役は、意外と少ないのだ。

従って、300年余続く、「團十郎代々」で、2人目という「還
暦團十郎」が、ことし、誕生したことになる。難病を克服した当
代團十郎の精神力に脱帽すると共に、私たちは、歴史的な團十郎
を見ることになる至福を喜ぶべきだろう。それだけに、涼しく
なったら、團十郎の次の舞台が愉しみだ。
- 2006年8月8日(火) 22:10:22
8・XX  きのうときょうと休暇を取り、人間ドック入り。血
液、内臓、特に、循環器、消化器、内視鏡、超音波なども使っ
て、年に一回の総点検。特に、ことしに入ってからの半年間は、
公私ともに、ストレスを感じることが多く、遠泳中、やっと向こ
う岸が見えて来たと思ったら、手が岸に届かないうちに、溺れる
のではないかと、不安になったことも、しばしばあり、それが、
体調の不調に出てきていないといいが・・・と、思いながら、
次々と検査を受けた。まあ、速報データでは、大過なさそうで、
一安心だが、ことしの後半戦は、気を付けてゆき、なんとか、無
事に向こう岸に辿り着きたい。向こう岸には、豊饒な世界が待っ
ていることを期待しているので。

さて、今月最初の書評は、車谷長吉「世界一周恐怖航海記」を取
り上げた。きのう、人間ドックの一日目の検査が終って、病院か
ら、宿泊先のホテルに入る前に、余裕のできた時間を利用して、
神保町に立ち寄り、東京堂書店で、サインが入ったばかりの車谷
の最新刊「世界一周恐怖航海記」が並んでいたので、入手。車谷
が「世界一周恐怖航海記」を連載していた「文学界」(三月号〜
六月号。これも、4冊とも、サイン入り)も、まだ、在庫が残っ
ていると言うのに、加筆した単行本を刊行してしまっては、「文
学界」は、売れ残ってしまうのではないかと、老婆心ながら心配
になる。ホテルで読み始め、きょうも、検査の待ち時間に読み続
けて、読了。帰宅後、早速、書評を書いて、サイトの「乱読物
狂」に書き込んだという次第。時間に余裕があると、なにごと
も、素早く、豊かにできるのに。ああ、豊饒な時間よ!!
- 2006年8月1日(火) 21:55:53
7・XX  日本ペンクラブの電子文藝館委員会で、御一緒して
いる作家の秦恒平さんの孫の19歳になる女子大生が、骨肉腫と
いう病魔に負けて、けさ、亡くなったという。9月の20歳の誕
生日を前に、数カ月の闘病生活の果て、母親の誕生日の朝まで、
頑張って生き続けて、亡くなった。

秦さん
とうとう、けさを迎えてしまったのですね。
お孫さんのご逝去、心から哀悼の気持ちをお伝えします。
私も、先週、7・19の夜、連れ合いの母を亡くしました。92
歳でした。いまも、遺骨と遺影が、私の傍にあります。

親しい人に亡くなられると、心に穴が空いたような空漠感に襲わ
れます。空があり、地があるということの不思議さ。世界が存続
しているのに、あの人はもういないということが、不思議な気が
します。

まして、若くて、未来のある人に先立たれると大きな空漠感で、
心が潰れる思いだと思います。御心痛をお察しいたします。
奥様ともども、御身御大切に。切に、切に、祈ります。
大原 雄

ところで、7・27という日付けは、忘れられない。
30年前の7・27の朝、7時27分。東京地方検察庁に田中角
栄元首相が、検事に伴われて、出頭して来たのだ。大勢の報道陣
が、待ち受けるなか、黒塗りの検察の車から降り立った田中元首
相は、思わず、いつもの癖で、片手を上げて、私たちに挨拶をし
たのをきのうのように覚えている。私も、大勢の報道陣のなかに
居て、この光景を目に焼きつけた一人だ。報道陣のなかに居たカ
メラマンたちも、一瞬の間を空けた後、カメラのシャッターを切
りはじめる程、政治家のなかで、検事に最初に同行されて来るの
が、田中首相だとは、誰もが、意外だったからだ。

私は、直ちに、手に持っていた、無線機(当時は、携帯電話など
なかった)で、社会部に連絡を入れた。無線機の向うに居た先輩
記者の返事をいまも忘れない。「本当に田中角栄か」と先輩記者
は、聞いて来たのだ。田中元首相は、特徴のある人だし、誰だっ
て、間違得ようがない人物だが、そう思うのが、当然なほど、意
外に逮捕が、早かったからだ。「間違いありません」と答える
と、無線機の向うで、「田中、出頭」と社会部内に大声で告げる
先輩記者の声が、聞こえ、さらに、社会部内から、どっと沸き上
がるようなどよめきが上がった様子が、伝わって来た。

秦さんの孫の女子大生の死は、日付けとともに、義母の死を思い
起こさせ、私は、生涯忘れないだろうと思う。
- 2006年7月27日(木) 22:14:57
7・XX  歌舞伎座の泉鏡花劇の劇評をサイトの「遠眼鏡戯場
観察」に書き込んだ。玉三郎対猿之助一座(病気休演中の猿之助
を欠く)では、レベルが違い過ぎるが、玉三郎は、根気良く、7
月の歌舞伎座(猿之助が、元気な頃は、7月の歌舞伎座といえ
ば、猿之助を座頭に独特の猿之助歌舞伎を上演していた)に、猿
之助のいない猿之助一座に付き合っている。

猿之助が、元気に舞台の軸を演じていたときも、軸となる猿之助
とそのほかの役者のレベルが違い過ぎるため、独楽の左右のバラ
ンスが取れず、軸は、傾いていた。傾きながらも軸の猿之助が、
バランスを保つよう努力し、左右の群像から笑也、右近が、目
立って育って来た。やがて、女形たちから笑三郎、春猿が、抜け
出し始めて来た。しかし、立役は、右近しかいなかった。ほか
が、抜け出して来なかった。

それにしても、巨星の猿之助にくらべれば、若い役者たちは、衛
星であって、巨星の廻りを廻っているばかりであった。その猿之
助が、病に倒れ、いまだに舞台復帰がかなわない。猿之助に替る
巨星が、玉三郎であったことから、玉三郎を見習い、若い女形た
ちが、力を付け始めたし、立役も、去年から段治郎が抜てきされ
るなど、右近以外の立役にも、少しは、厚みが出始めた。

先に書き込んだ劇評は、玉三郎、海老蔵を別格とした上で、玉三
郎には、観たまま、海老蔵には、将来の十三代目團十郎を意識し
て、厳しく批評しているように思う。また、猿之助一座の役者た
ち、右近、段治郎、笑三郎、春猿には、成長途上ゆえ、甘く批評
している。しかし、一枚のシートに評価を書き込むと、なかな
か、そういう立体的な位置付けは、判りやすくは、書けないもの
だといつも思うので、劇評とは別にここで書いておく。

そういう意味では、「山吹」は、猿之助一座対玉三郎ではなく、
歌舞伎役者を揃えて、例えば、縫子=玉三郎、藤次=菊五郎、島
津=幸四郎などというような配役で、観てみたいものだと思う。
そうすれば、鏡花劇の系列の中での「山吹」は、黄金色に輝いて
来るのではないだろうか。

前回、玉三郎が、「山吹」に出演したときは、相手役は、歌舞伎
役者ではなかったのだから、玉三郎には、是非とも、挑戦して欲
しいと思う。玉三郎の心中には、歌舞伎劇として「山吹」を上演
したいという思いが、隠されていると思うし、理想の配役も考え
ていると思う。まだ、機が熟さないだけだろう。

「夜叉ケ池」だって、今回初めて、歌舞伎役者ばかりで演じられ
たが、玉三郎こそ、以前に、3回、百合、白雪姫のふた役を演じ
ているが、相手役は、皆、歌舞伎役者ではなかった。これも、い
ずれ、玉三郎を軸に歌舞伎役者ばかりで、上演したいと玉三郎
は、思っているに違いない。
- 2006年7月24日(月) 21:02:55
7・XX  92歳になる義母が、亡くなり、葬儀などを終えた
ばかりで、多忙。去年の10月に体調を崩し、一旦退院、ことし
3月から入退院を繰り返し、3月末からは、4ヶ月の入院生活を
続け、その果ての逝去であった。尊厳死を望む本人の意向を尊重
しての看護であったが、日々、衰えて行く様を見守り続ける。人
間が生まれるのは、10月10日という大事業だが、人間が、自
然に衰えて行くのも、また、大事業であるとつくづく感じた。苦
しまず、最後まで、意識があり、蝋燭の灯りが消え入るような、
呼吸の納まり方で、静かな死であった。冥福を祈りたい。

その後、日本ペンクラブの電子文藝館に掲載する原稿の校正を済
ませた。目下、先日拝見した歌舞伎座の泉鏡花劇について、劇評
の下書きを書き始めたところ。「遠眼鏡戯場観察」への劇評の掲
載は、もう暫くかかるだろうが、待っていてください。とりあえ
ず、近況報告まで。
- 2006年7月23日(日) 13:20:21
7・XX  梅雨が明けないまま、ここ2、3日、猛暑が続いて
いる。きょうは、久しぶりに休暇を取り、一日中、歌舞伎座で、
避暑。昼の部と夜の部で、泉鏡花劇を4つ通しで拝見。

みえない鏡花哲学を役者の肉体で表現することの難しさ。科白に
頼る、対話劇が、ほとんどということで、眠気も襲って来る。ま
た、演劇には、なっていても、型、形を重視する歌舞伎劇として
は、どういう形になってくるのか。様式美や定式の世界の歌舞伎
から、歌舞伎役者の肉体を通じて、鏡花の思惟が、滲み出てくる
というのが、いちばんの理想だが、果たして、大原流のウオッチ
ングの眼にどのような光景が残されたか。早速、劇評の構想を錬
り、なるべく近い内に「遠眼鏡戯場観察」に掲載したい。
- 2006年7月14日(金) 22:33:37
7・XX  公私ともに多忙な日々が続き、7月も半ばだという
のに日記の更新がなかったことに気が付く。さて、あすは、久し
ぶりに休暇を取り、歌舞伎座へ行く。昼と夜の通しで、泉鏡花劇
を拝見する。昼の部の「夜叉ケ池」は、初見。春猿ふた役の若
妻・百合と後シテの白雪姫の対比が楽しみ。百合と白雪姫を演じ
たことのある玉三郎監修、石川耕士演出。百合の夫の萩原晃は、
玉三郎お気に入りの段治郎。そして、7月のハイライト「海神別
荘」は、2000年に日生劇場で見ているが、今回は、大舞台の
歌舞伎座という劇場空間を生かして、日生劇場版とは、一味も、
ふた味も違う舞台を期待したい。6年ぶり、2回目の玉三郎、海
老蔵コンビの進化も、楽しみ。すでに、観た人!どうでしたか?

夜の部は、歌舞伎初演で、私も初見の「山吹」。このところ、味
な老け役を演じて来た歌六が、門付の人形遣の老人・辺栗藤次を
演じる。子爵夫人の縫子は、笑三郎。同宿の洋画家島津正は、段
治郎。没して、紛れ込むエロスの魔界。「天守物語」は、以前に
歌舞伎座で観ている。白鷺城の天守閣に住まう妖怪たち。玉三郎
の富姫、海老蔵の図書之助。猿之助病気休演中で、主なき猿之助
一座は、このところ、玉三郎に率いられて、7月の歌舞伎座公演
を重ねているが、主の舞台復帰も、望まれる。

そういえば、白血病を克服して、5月に歌舞伎座で舞台復帰を果
たした團十郎。團十郎は、8月6日に還暦を迎える。十二代続く
團十郎の系譜で言えば、確か、九代目以外は、團十郎として60
歳を迎えていない。若死か、60歳を前に息子に八代目團十郎を
譲り、自身は、海老蔵に戻った七代目など、というばかり。従っ
て、あと、一ケ月も経たないうちに、300年余続く、團十郎
代々で、2人目という「還暦團十郎」が、誕生することになる。
私たちは、歴史的な團十郎を見ることになるのだ。
- 2006年7月13日(木) 21:37:04
6・XX  チャンネ・リ−(在米韓国系作家、高橋茅香子訳)
「空高く」を読みはじめる。高橋さんから贈呈された本だ。「恥
ずかしくもあとほんの少しで六十歳(言うのも抵抗がある年齢
だ)になる私」という主人公は、私と等身大の年齢だ。

4半世紀前の妻を亡くし、家業の造園業を息子に譲り、自家用に
中古のセスナ機を買い、操縦を習い、上空半マイル(800メー
トル)から見下ろす地球、世間、そして人生をリーは、主人公の
視点で、描いて行くようだ。「人生はらせん階段、ですね」と
は、訳者の高橋茅香子からの識語である。「螺旋(らせん)階
段」とは、同じ位置にありながら、時の経過とともに、高さが異
なって来る階段のことだ。父親が起こした家業を引き継ぎ、同じ
地域に住みながら、私、そして、息子、娘に引き継がれて行く人
生の営み。それを螺旋階段に見立てたのかも知れない。

息子に引き継がれた家業は思わしくない。結婚を控えた娘も重篤
な病に襲われる。老父は、衰え、介護施設のベッドに横たわって
いる。母は、5年前に亡くなった。妻の死後、長年のパートナー
だった女性も去った。800メートルの上空にいるときは、かり
そめの自由の身となり、地上の憂さを忘れるが、セスナ機は、や
がて、地上に降り立たなければならない。降り立てば、家族のた
めに、もう一頑張りしなければならない。そういう年齢を描く。
この年齢の私たちの人生も、主人公の置かれた立場と大同小異だ
と気が付く。そう思いながら、「空高く」を読み始めた。読後、
いずれ、きちんと、書評にまとめたい。
- 2006年6月24日(土) 12:47:12
6・XX  7月の歌舞伎座は、玉三郎と海老蔵を軸にした公
演。昼の部の「海神別荘」の人気が、先行している。6・15か
ら、チケットの一般販売が始まったが、売れ行き好調で、桟敷
席、3階A、B席などは、早々と売り切れそうな勢い。夜の部の
「天守物語」も、いずれ、売り切れるだろう。私も、早速、イン
ターネットでチケットを入手した。

「海神別荘」は、前回の舞台を日生劇場で観ているが、大きな歌
舞伎座の舞台を生かせば、玉三郎と海老蔵が、どのように「変
成」してくるか、いまから、楽しみにしている。当時の劇評は、
このサイトの「遠眼鏡戯場観察」に掲載されている。興味のある
人は、「検索」で探して、読んでみてください。

「天守物語」は、歌舞伎座の舞台で観ている。これは、このサイ
トの劇評掲載が始まる前の舞台なので、劇評は、ない。今回、初
めて、劇評を書くことになる。
- 2006年6月15日(木) 21:19:15
6・XX  今月は、歌舞伎座夜の部の劇評もはやばやとまとま
り、先程、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。4人を殺
すという丑松の陰惨な殺人事件を取り扱った「暗闇の丑松」ほか
の劇評だが、今の日本も、子どもが殺される陰惨な事件が、跡を
絶たない。秋田の小学生殺しは、事件の一ヶ月程前に小学生の女
児を「水死」させたという母親が逮捕されたが、容疑の通りだと
すれば、暗闇は、丑松の時代から現代まで延々と続いていること
を示している。理念なき社会としての、現代社会の暗闇が、ぽっ
かりと口を開けている。

共謀罪法は、継続審議となったが、次の国会でも、眼が離せな
い。教育基本法の改定、国民投票法の制定、最後は、憲法改定な
どへ、強引に突き進もうという風潮が強まって来ているこれも、
人類の理念をないがしろにする動きに繋がりかねない危険性を持
つことを忘れてはならない。平和で、共存を目指すという、単純
で、当たり前のことが実現できないようでは、人類の未来は、暗
闇しか、待っていないだろう。
- 2006年6月5日(月) 22:51:56
6・XX  今月の歌舞伎座は、2日目にあたる3日に拝見し
た。今月は、昼夜とも、2時間を超える世話物が軸になってい
る。昼の部では、「荒川の佐吉」を仁左衛門が演じる。幸四郎、
染五郎の親子共演の妙が売り物の「角力場」も、おもしろかっ
た。吉右衛門の意欲作「藤戸」は、吉右衛門の演じる老婆・藤波
が、もうひとつの感じで、「船弁慶」のバリエーションの要素が
眼に付き過ぎる。「松竹梅」は、どうということなし。

昼夜通しでは、夜の部最初の「暗闇の丑松」の、幸四郎が見応え
があった。こういう陰惨な芝居は、オーバーアクション向きと
あって、適切な配役であった。幸四郎も力が入っていて、迫力あ
る演技であった。「身替座禅」は、陽気な菊五郎と憎まれ役に実
力を発揮する仁左衛門の底力を見せつける。「二人夕霧」は、
「廓文章」のパロディのおもしろさ。こまった伊左衛門は、梅玉
のニンにあう。

とりあえず、昼の部の劇評は、5月とは異なり、先程、はやばや
とサイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。続いて、夜の部の
劇評も構想中。
- 2006年6月4日(日) 18:20:24
5・XX  團十郎さん。あなたの1年ぶりの復帰の舞台。心配
していた5月の「團菊祭」、歌舞伎座の劇評が、なんとか、5月
中に書き込めたので、ホッとしています。

それにしても、難病克服の團十郎さんの姿には、頭が下がりま
す。あなたと私は、同学年です。あなたの方が、半年近く早いで
すがね。間もなく、還暦です。

癌と戦うことは、大変だと思いますが、それを克服し、再発にも
めげず、長期間の闘病生活を送り、再び、克服する。そして、舞
台に立ち、相変わらずの横溢なオーラを発している。そういう姿
を今回、久しぶりに舞台で観ることができて、感激しました。

あなたのこうした姿は、同じような境遇で、癌に立ち向かう人た
ちに、どれだけ勇気を与えていることか。いや、闘病生活をして
いる人ばかりではない。何ごとかに躓き、めげそうになっている
全ての人に元気を与えているような舞台姿であったと、思いま
す。どうぞ、無理をせずに、再発しないように身体を厭いなが
ら、末永く舞台を拝見させてくださいませ。昼の部のみの出演と
は言え、1年ぶりの舞台出演で、疲れたことでしょう。どうぞ、
疲れを残さずにお過ごし下さい。またの、舞台での再会を楽しみ
にしています。
- 2006年5月30日(火) 21:38:55
5・XX  歌舞伎座の千秋楽は、終ってしまったが、團十郎が
1年ぶりに復帰した歌舞伎座昼の部の劇評を、さきほど、書き込
んだ。公私ともに多忙な日々が続いていて、劇場に通う暇を作る
のも難儀だが、劇評を書く時間を生み出すことも難儀な始末であ
る。先に観た夜の部の劇評は、もう少し、待って欲しいが、5月
中に書き込めるかどうか。

共謀罪法とか、世の中、なんともキナ臭くなって来ているが、皆
さん、世相の変化が、ある方向に片寄り始めていることに気が付
いていますか。
- 2006年5月28日(日) 22:42:38
5・XX  青年劇場公演で観たシェークスピア劇「尺には尺
を」は、風刺が効いていて、おもしろかった。「尺には尺を」と
は、お望みの寸法に合わせて、如何様にも仕立てます、というほ
どの意味か。

シェークスピアとは、因に、「槍持ち」という意味。400年前
の劇場から投げられた空飛ぶ槍は、時空を超えて、普遍性の風を
孕み、現代に突き刺さり、今を装おうから、不思議だ。1604
年に上演された「尺には尺を」は、ウイーンを舞台に、自らの
「寛大政治」の結果、招いてしまった「形骸化した法」の社会を
テーマにした劇で、憲法改定論議のある日本にも当てはまるよう
に見受けられた。あるいは、「心に抱いた罪状」などという科白
は、「共謀法」論議の国会を連想させる。

400年前と言えば、日本でも歌舞伎が発祥している。青年劇場
の舞台を観た翌日、歌舞伎座で、團十郎復帰の舞台を観たから、
余計、歌舞伎とシェークスピア劇の類似を連想してしまうかもし
れない。「騙し、騙され」という演劇構造は、両者とも良く似て
いる。偽首の登場も、極めて、歌舞伎的だ。

「尺には尺を」では、ヴィンセンシオ公爵が、「形骸化した法」
を立て直すために、謹厳な副官のアンジェロに全権を委任して、
旅に出てしまう。ところが、旅立ちは、「偽装」(耐震偽装の現
代日本社会を皮肉っているのだろう)で、神父に化けて、アン
ジェロの執政振りを監視している。偽装に加えて、謀略。策士の
神父は、何をしようとしているのか。

実は、この芝居は、3組の男女の「愛の物語」でもある。恋人を
妊娠させてしまったという、アンジェロが復活させた「婚前交渉
の罪」、まさに、男女「共謀の罪」で、死刑が宣せられた兄ク
ローディオを助けようとする妹イザベラに権力を笠に着て言い寄
るアンジェロは、婚約者を裏切っている過去を持つ。そういう全
てを見通すヴィンセンシオ公爵こと、神父は、策略を巡らし、ク
ローディオと妻とお腹の子どもを救い、アンジェロと婚約者の愛
を復活させると共に、「権力を笠に着て」イザベラに言い寄ると
いう結末を用意する。シェークスピアの芝居心は、風を孕む。権
力者の本質は、仇役となるアンジェロも、正義漢面のヴィンセン
シオも、皆、同じ。「癪には癪を」、つまり、「癪に障る奴は、
癪に触る」。同じ穴の狢も、いいところ。さすが、シェークスピ
アは、人間観察が鋭い。

シンプルな舞台装置は、公爵の宮殿から、街路、修道院、監獄、
郊外の野原、市の大門と、これもまた、時空を超えて有為転変の
世の中のように、転変とするから、不思議だ。「谷間の女たち」
に続いて、青年劇場の衣装を担当した前田文子の衣装でザイン
も、独特の雰囲気があって、良かった。主役のヴィンセンシオ公
爵を演じた葛西和雄や女郎屋の客引きポンピーを演じた吉村直な
ど、いつも達者な藝を見せる役者たちが、20日初日の舞台を
23日に観た所為か、一部、科白を言い淀む場面があり、ちょっ
と残念。青年劇場の芝居は、いつ観ても、明確なメッセージを伝
えてくれる。

- 2006年5月25日(木) 22:27:40
5・XX  銀座の画廊で、四谷シモンのサイン入りカタログ
(数年前、大分市などの美術館で開かれた人形展)を購入。写
真、原稿とも、充実した豪華なカタログで、5000円。その
後、歌舞伎座へ行き、夜の部を拝見。病気から復活した團十郎の
舞台は、昼の部だけなので、夜の部では、お目にかかれないが、
昼の部は、いずれ観に行くとして、取りあえず、夜の部を観た。
夜の部の演目では、予想通り、菊之助の「保名」は、見応えが
あった。「アンドロギュノスの死」というようなテーマで、菊之
助の保名論を書いてみたいと、思った。

助六パロディで、私は、初見の「黒手組の助六」(「黒手組曲輪
達引」)も、それなりにおもしろかったが、黙阿弥が、幕末の小
團次の肉体表現に当てて書き上げた芝居の毒は、当代の菊五郎で
は、薄められているのではないかと感じた。小團次、演目の趣向
など、いろいろ調べながら、近いうちに、劇評はまとめてみた
い。このほかの演目は、「傾城反魂香」、「藤娘」。

- 2006年5月14日(日) 22:52:41
5・XX  今月の歌舞伎座の昼の部は、殆ど売り切れてしまっ
たようだ。私は、14日にとりあえず、夜の部を観に行く。お目
当ては、菊之助の「保名」の舞台は、父親の菊五郎の舞台を超え
るかどうかという関心である。どの部分を見るかは、観劇の後の
劇評で明かすつもりだが、以前の劇評で菊五郎の「保名」のとこ
ろを読んでいる読者は、見当がつくかも知れない。次いで、「黒
手組曲輪達引」が、初見なので、楽しみ。知られているように
「助六」のパロディで、趣向だけの作品で、内容はないという
が、そういう「無内容、趣向のみ」というコンセプトで、黙阿弥
が、小團次のために、どんな舞台を構築したのか、これぞ、歌舞
伎の醍醐味となるかどうか。

人気の昼の部は、久しく病気休演中だった團十郎の復帰の舞台な
ので、いずれ、拝見するつもりである。拝見し次第、劇評を書き
たい。
- 2006年5月12日(金) 22:00:23
5・XX  連休に入った。5・1は、水俣病が、50年前に熊
本県の保健所に公式に記録された日である。水俣病は、企業が工
場の塀の外に垂れ流した有機水銀による集団食中毒事件であった
が、行政を巻き込んだ企業と地域住民の力関係のなかで、企業責
任が、長いこと隠蔽されていた。そして、いまなお、行政が、立
ちはだかり、企業責任の隠蔽が続いている。そういう事件だ。

5・3は、憲法記念日。憲法とは、国民が権力者に国の有り様を
従わせる基本的な約束事を書いたもの。人類は、13世紀の初頭
から、そういう約束事を憲法と称して制度化し始めた。権力者
は、自分に有利な憲法に改めようとして来たし、国民(つまり、
被支配者)は、権力者の専断から逃れる保障を憲法に求めて来
た。従って、憲法は、支配者と被支配者のぎりぎりの緊張関係の
なかで、成立して来た。権力者は、憲法を自分たちに有利なよう
に解釈しようとし、その解釈が限界に来たと思えば、それを都合
良く改変しようとする。支配者は、被支配者の利益になるような
憲法を欲しない。それは、13世紀初頭から続く各国の憲政史を
紐解けば、良く判る。

2001年に亡くなった政治学者の岡本清一さんの論文「ブル
ジョア・デモクラシーの論理」という、1954年に刊行された
の本のなかの、「憲法をめぐる争い」という文章を読むと、そう
いうことが、簡潔に書かれている。50年前に、いまの日本の改
憲論儀の争点が、実に判りやすく書かれているから、不思議だ。

また、1959年に書かれた「自由の問題」という本のなかの、
「現代アメリカ的自由の限界」という論文では、単独覇権主義に
陥り、デモクラシーから、もっとも遠い国のひとつになりさがっ
たアメリカの現況を、やはり、50年近く前に予言している。と
いうか、アメリカのブッシュが、今やっていることは、アメリカ
が、50年も前からやっていることに、忠実に載っかっているだ
けだということが、判る。アメリカは、50年も前から、すでに
病んでいたのだ。その路線に載っかたまま、アジアの孤児になろ
うとしているのが、小泉外交路線ということになり、米軍再編
は、こうした路線の上にあり、日本国民は、ゆえなき巨大な税負
担を強いられているというわけだ。

ふたつの岡本論文の抜萃は、「デモクラシーをめぐる争い」とい
うタイトルをつけて、日本ペンクラブの電子文藝館に、近く、掲
載する予定である。
- 2006年5月3日(水) 21:54:28
4・XX  雑誌「夜想」の最新刊は、特集が、「耽美(SENSE 
OF BEAUTY)」で、「三島由紀夫/死の美学」などの小特集が組み
込まれている。関連特集のひとつに画家・山本タカトの「月逍遊
戯〜アンドロギュノスの柩〜」という書き下ろし作品とインタ
ビューが掲載されている。三島由紀夫の写真をモチーフにしたと
思われる「聖セバスチャン」など、三島の耽美感をトレースする
ような作品もある。

「夜想」刊行にあわせて、「山本タカト大展覧会」が、JRや都
営地下鉄の浅草橋駅に近いにギャラリーで開かれていて、山本タ
カトさんから招待状が届いたので、行ってみた。会場の「ルーサ
イト・ギャラリー」は、往年の芸者歌手・市丸さんの旧居(柳橋
1丁目)が、そのまま、ギャラリーになっている。一部二階建て
の日本家屋の部屋が、持ち味を生かしたまま画廊になっている。
市丸さんの旧居は、蔦に絡まれた、最近は少なくなった仕舞屋風
の家屋で、壷庭のような裏庭の向うは、隅田川である。あいにく
の雨となった初日、夕方から始まったオープニングパーティに顔
を出した。

会場となった5つの部屋(1階が、3部屋。2階が、2部屋)と
急な木の階段で降りる地下の物置きには、「夜想」の最新刊特集
「耽美」に掲載された「グロテスク」「殉教者の首」「聖セバス
チャン」「法悦の円環」ほか多数の作品が、展示されている。山
本タカトは、鉛筆で下絵を描いて、それをトレースし、できた溝
にペンや筆で墨を入れて行くという。今回は、珍しく、その下絵
の一部も展示されている。

繊細な線を生かし、極彩色の浮世絵のような版画的なタッチで描
かれた日本画。極彩色のものは、線も色も素晴しい山本タカト独
特の世界を構築している。天草四郎の最期を描いた極彩色のもの
は、特に、素晴しかった。多数の歌舞伎役者が、全員で引っ張る
「絵面の見得」の場面を観ているようであった。

そういえば、アンドロギュノスと女形の藝(男性が、藝名を持
ち、男名前の藝名で女形役者になり、女形が、男を演じる弁天小
僧などの世界は、両性具有だ)は、通底している。歌舞伎は、舞
台の役者絵が、錦絵になるが、豊国の絵のように、実際、一枚の
錦絵が、歌舞伎の狂言になったこともある。

山本タカトの世界は、歌舞伎の世界と背中合わせになっている
が、向き合ったことはないようだ(会場で、山本さんにも話して
みたが、やはり、ない)。歌舞伎のただならぬ仲の男女は、愛情
の表現を互いに背中をあわせる所作で表現するから、山本タカト
もいずれ、歌舞伎と向き合うようになるのではないかという気が
する。かつては、六代目歌右衛門がいたが、いま匂い立つような
アンドロギュノスは、尾上菊之助だろうか。玉三郎にも、まだ、
アンドロギュノスの残り香は、充分にあるだろう。そういえば、
「明烏夢淡雪」の図柄(色彩)も、あったではないか。

会場にあった、小品では、黒と白の線と塗りだけで、モノトーン
の対比で、もうひとつの山本タカトの世界を主張する。ビアズ
リーの版画を思わせる。「ヨナカーン」に刺激されて、テーマを
和風化した作品もあった(これは、色彩)。

雨が上がって、夜、帰宅したのだが、傘をギャラリーに置き忘れ
てしまったので、翌日、連絡をした。確かに傘を置き忘れていた
というので、昼間、柳橋まで取りに行った。市丸さんの旧居は江
戸通りの裏手にある。旧居の裏庭の向うは、隅田川の堤防で、画
廊を出た後、裏手の堤防に廻ってみると、遊歩道が整備されたそ
の辺りは、両国橋と蔵前橋の中間で、JR総武線の鉄橋も近い。
市丸さんの旧居は、蔦の絡まった2階からベランダが造られてい
て、ベランダに出て椅子にでも座れば、堤防越しに隅田川が見え
るような感じだった。

柳橋の「ルーサイト・ギャラリー」での、「山本タカト大展覧
会」は、5月9日まで開かれている(11時〜19時。会期中無
休。入場料800円)。問い合わせは、ステュディオ・パラボリ
カ 03・3847・5757
- 2006年4月30日(日) 20:43:46
4・XX  大型連休に入った。読んだまま書評を書かずに溜
まっていた本の山を崩した。いつものように、硬軟取り混ぜた書
評が、このサイトの「乱読物狂」のコーナーに書き込まれた。大
型連休期間中に、何か読みたいと思っている人に参考になるかも
しれないと思い、掲載してみた。まさに、乱読の果ての、物狂の
ような書評である。お気に召すやら召さぬやら、判らないけれ
ど、まあ、読んでみてください。

前にも書いたけれど、日本ペンクラブの電子文藝館の最新掲載作
のひとつとして、「遠眼鏡戯場観察(かぶきうおっちんぐ) 
抄」も、掲載したことを大型連休前の、この時期に、再度、宣伝
しておく。関心のある人は、覗いてみてください。私の作品以外
にも、選りすぐりの作品が、多数掲載されている。
- 2006年4月29日(土) 12:12:31
4・XX  遅れていた4月の歌舞伎座夜の部の劇評は、25日
の千秋楽に間に合わなかったが、きょう、サイトの「遠眼鏡戯場
観察」に書き込んだ。4月の舞台を観た人が、自分の感想と比べ
ながら、読んでいただければ嬉しい。

5月の歌舞伎座は、病気休演中の團十郎が、昼の部の「外郎売」
で、舞台復帰するので、昼の部のチケットの売れ行きが、好調で
ある。5月は、新橋演舞場でも、歌舞伎公演で、東銀座界隈は、
歌舞伎色が、いちだんと濃くなるだろう。
- 2006年4月27日(木) 21:12:06
4・XX  日本ペンクラブの電子文藝館に拙著「ゆるりと江戸
へ 遠眼鏡戯場観察(かぶきうおっちんぐ)」から、「口上」
「十一段目」「大詰」の3編を、いわば「見取(みとり)」狂言
のように採録した。電子画面で、文字も横組である。読みやすい
ように幾分文章もいじった。あわせて、小山内薫の翻案劇で新歌
舞伎仕立ての「息子」も、掲載した。先日、染五郎の息子と歌六
の老父という配役で、歌舞伎座で上演され、好評だったのと翻案
劇の新歌舞伎仕立てということで、新歌舞伎というジャンルの幅
を拡げていると思うので、電子文藝館委員会に掲載を推薦した。

今月の歌舞伎座の劇評は、昼の部のみ、「遠眼鏡戯場観察」に掲
載しているが、多忙で遅れていた夜の部も観ているので、近いう
ちに書き込みたい。魁春と吉右衛門の「井伊大老」、歌右衛門五
年祭の「口上」、それに、歌舞伎座の2階ロビーで開かれていた
歌右衛門の資料展のことなど書いておきたい。
- 2006年4月26日(水) 22:55:38
4・XX  代休を取り、午前中から昼過ぎまでは、歌舞伎座の
劇評を書き、午後は、神保町界隈の書店を廻る。夕方から、築地
の松竹試写室で、4・12に75歳で亡くなった黒木和雄監督の
最後の作品となった映画「紙屋悦子の青春」の試写会に出席。

劇作家・松田正隆の同名戯曲を原作に忠実に映画化した作品とい
うことで、極めて演劇的な映画になった。鹿児島県出水市の紙屋
家の茶の間と座敷、そして玄関先に桜の木という、3つの場面で
芝居は進行する。従って、ほとんどが、セットで撮影されてい
て、奇妙な、しかし独特の日常感を醸し出す。

茶の間では、悦子と悦子の兄夫婦(兄嫁は、悦子の同級生)、座
敷では、悦子の初恋の人で特攻隊で出撃する明石少尉と悦子の見
合いの相手となる明石の親友の永与少尉、玄関先には、役場の人
や郵便配達も来るが、桜の木が、それぞれ主役になる。茶の間で
は、夕食のシーン、座敷では、一回目が、見合いで、お萩などを
食べるシーン、二回目は、出撃の別れの挨拶の席で、焼酎が酌み
交わされるシーン、桜の木は、咲き始め、満開になり、散りはじ
めるという具合で、映像的には、極めてシンプルなシーンばかり
で、決して映画的ではない。

それでは、芝居は、どうなるのかというと、会話劇になる。冒頭
と結末に、悦子と結婚した永与の、歳とった現在のふたりが、病
院の屋上で話をしているシーンがあり、やがて、ふたりの回想に
繋がる。ふたりが回想するのは、太平洋戦争末期(1945年の
3月末から4月半ば)の、鹿児島米ノ津町という田舎の家庭(紙
屋家)での日常生活。黒木は、日常生活を愚直なまでに日常的な
会話のやり取りで描いて行く。それが、奇妙なリアリティを生
み、ユーモラスな人間関係を浮かび上がらせて行く。

時に兄夫婦の夫婦喧嘩が混じる会話を軌道に載せるのは、妹・悦
子の役割。古くなってちょっと酸っぱくなっている芋の味加減、
急な見合いで接待に何を用意できるか、美味しいお茶があるかど
うかなど、食料事情など、敗戦色が庶民の日常生活にも滲み始め
た戦争末期。熊本の工場に徴用で行くことになったとか、学校の
後輩が、特攻隊で出撃するために別れの挨拶に来るとか、悦子の
両親が空襲で亡くなったとか、戦争がらみ、あるいは、戦争によ
る直接影響する話題も出てくるが、それ以外は、しつこいぐらい
に淡々と日常生活の会話が続く。

ある地方の家庭の茶の間や座敷でなされる会話劇。それでいて、
影絵のように、戦争末期の時代の全貌が、浮き上がってくるから
不思議だ。戦争末期の宮崎を描いた「美しい夏キリシマ」広島の
原爆を描いた「父と暮らせば」、そして特攻隊の基地のあった鹿
児島を描いた「紙屋悦子の青春」。戦時下とは言え、庶民にとっ
て、戦争とは、自分が兵隊に行くか、戦災に遭うかしない限り、
遠い存在だったのだろうが、それでいて、戦争は、ボディブロー
のように庶民の生活を根っこの処で規定して来ているのが、判
る。

黒木和雄の戦争をテーマにした作品のうち、長崎の原爆を描いた
「TOMORROW/明日」だけ、見逃しているが、日常生活か
らは、遠い戦争を描くことで、庶民の戦争体験を風化させまいと
する息の長い黒木の志は、根強く生きているということが良く判
る。配役では、悦子を演じた原田知世が、抑制の効いた演技で
光っている。
- 2006年4月19日(水) 22:26:56
4・XX  休日出勤が多く、きょうは、代休。今月の歌舞伎座
の劇評のうち、とりあえず、昼の部の劇評を「遠眼鏡戯場観察」
に書き込んだ。魁春の頑張りが目立つ。そのあたりを軸に劇評を
まとめあげる。
- 2006年4月19日(水) 14:02:36
4・XX  雨。きょうは、一日中、歌舞伎座。六代目歌右衛門
五年祭追善興行。玉太郎の松江襲名披露。昼夜通しで拝見。通し
で観たなかでは、「井伊大老」が、いちばんの出来と観た。吉右
衛門の井伊直弼、魁春のお静の方の上々。いつもより、登場人物
を絞ったことで、ふたりの大人の男女の命を掛けた愛情がクロー
ズアップされて来た。今回の魁春は、いちだんと六代目歌右衛門
に似て来たように思う。そういえば、吉右衛門も実父の松本白鸚
に似て来た。近過去にタイムスリップしたような味のある舞台
だった。

初見の昼の部「関八州繋馬」と夜の部「伊勢音頭恋寝刃」は、荒
唐無稽だが、計算された様式美だけで見せる芝居として、おもし
ろかった。昼の部では、本興行初演の「高尾」は、雀右衛門の形
で見せる所作事として、印象に残る。同じく昼の部の「沓手鳥孤
城落月」は、芝翫の成熟した演技と勘太郎の熱演。

夜の部の売りは、「口上」。六代目歌右衛門五年祭追善とあっ
て、各役者からは、歌右衛門讃歌が続いた。玉太郎の松江襲名、
新玉太郎の初舞台。松江の芸名のイメージが、一転することにな
る。

劇評は、先ず、構想を立てて、構想がまとまり次第、執筆開始と
なる。「遠眼鏡戯場観察」に掲載されるのは、まだ、先になろ
う。
- 2006年4月16日(日) 22:27:12
4・XX  溜まっていた読後の本の書評を書き始めた。いずれ
も、できるだけコンパクトにまとめる。但し、本のコアとなるポ
イントは、外さないようにしたい。

下らない本、おもしろい本、本当に玉石混淆の乱読の果ての、物
狂による書評が、連なって出て来るのには、我ながら呆れる。し
あkし、良い本に出逢うためには、下らない本も読まないと良い本
探索に磨きがかからないから不思議だ。玉を磨くのには、石が必
要ということか。数冊の書評を書き足したところで、一息入れる
ために、「日記」で、宣伝をしておこう。「乱読物狂」のコー
ナーも覗いてみてください。「遠眼鏡戯場観察」のコーナーは、
16日の日曜日に歌舞伎座で昼と夜の通しで、舞台を観た後でな
いと、劇評は、書き込まれません。
- 2006年4月15日(土) 16:07:33
4・XX  休日出勤した分の代休を取り、読んだまま書評を書
いていないので、山をなしている本の塊を少しでも崩そうと溜
まっていた書評を書こうか、ストレス解消に本を読もうか(ま
た、書いていない書評の山が高くなる)と、思いながら、一日
中、本を読んでしまった。読んだ本は、いずれも、石田衣良で、
「愛がいない部屋」「アキハバラ@DEEP」「ブルータワー」
の3冊。いずれ、書評を書かねばなるまい。ギリシャ神話のシジ
フォス(最近は、シシュフォス)ように、刑罰として、岩を山に
押し上げては、転げ落されるように、読んでは溜めてから書き、
書いては、更に読み、また、溜めるということの繰り返しが続く
ことになる。

今月の歌舞伎座は、六代目中村歌右衛門の五年祭であり、中村玉
太郎の松江襲名披露の舞台でもある。六代目歌右衛門は、5年前
(神道だから満の数え方で、五年祭だが、仏教だったら、数えで
六回忌の勘定だから、やらずに、七回忌か、あるいは、十三回忌
での追善興行になるだろう)の、01年3月31日の死去。私
は、甲府在勤で、日曜日の朝に、歌右衛門の死去の知らせを聞い
たが、この日は、甲府の地元の山の仲間と思親山(ししんざん)
に登る日だったのを覚えている。

思親山は、山梨県と静岡県の県境に近い山で、若き日の日蓮上人
が、身延山で修行をしている最中に、房州(今の千葉県)は、天
津小湊出身の日蓮が、母恋しさに登った山で、晴れていれば、伊
豆半島の向うに房総半島も見えるという山である。修行の辛さに
耐えながら、日蓮が、母を恋して、登った山だから、「思親山」
と名付けられたという。1000メートル余りの山だったと記憶
しているが、5年前に登った際は、ちょうど雪が降り、新雪の中
を山頂まで登った記憶がある。山頂からは、富士山が良く見え
る。それも、東海道から見る富士山が、「正面」だとすれば、思
親山から見る富士山は、横顔を見ることになり、それも山頂から
下って来て裾野が、駿河湾まで入り込むまで見える。あの日も、
雪になったものの、私たちが山頂に達した頃は、晴れて来てい
て、山頂から駿河湾まで続く富士山が全て見えたので、感動した
ことを覚えている。それが、最近の真女形として孤高の感のあっ
た六代目歌右衛門の死去の日と重なるだけに、私の思い込みは、
深くなる。今月の歌舞伎座は、16日(日)に、昼夜通しで拝見
する予定である。この日に歌舞伎座へ行く予定の人は、私を見掛
けたら、遠慮なく声を掛けてください。芝居の話をしましょう。

- 2006年4月12日(水) 19:58:37
4・XX  最近、機会があって以前NHKの衛星放送で放送し
話題になったミニ番組「深田久弥の日本百名山」(10分番組)
を幾つか観た。

甲斐駒ヶ岳、仙丈岳、北岳、間ノ岳、鳳凰三山、塩見岳、赤石
岳、聖岳(いずれも南アルプス)、八ヶ岳、浅間山、立山、薬師
岳、槍ヶ岳、甲武信岳、奥白根山、赤城山、大菩薩岳、雲取山、
瑞牆山、金峰山、木曽駒ヶ岳などだ。

このうち、立山、薬師岳、槍ヶ岳(いずれも、北アルプス)、甲
武信岳、奥白根山(日光白根とも言う)は、学生時代に登ったこ
とがあり、映像を観ながら、思い出す部分とすっかり忘れている
部分とが、あった。標高3776メートルの富士山、標高第2位
で、3192メートルの北岳(間ノ岳、農取岳をまとめて、白根
三山という)は、登ったことがないが、3180メートルの槍ヶ
岳は、20歳の時に登っている。山頂は、6畳間ほどしかなかっ
たことを覚えている。

そのほかは、登ってはいないが、山梨などで、地縁などの縁があ
る山である。なかでも、山梨県の甲斐駒ヶ岳は、標高2967
メートル、隣り合う長野県の仙丈岳は、3033メートル。標高
が、3000メートルを基準にして、片方は、33メートル低
く、もう片方は、33メートル高いことが判り、こういう記憶の
仕方をすれば、標高を忘れなくて済むだろうと、思った(実際、
いまも空で覚えたまま、標高を書いているから、あるいは、記憶
違いがあるかも知れぬ)。

さらに、仙丈岳は、堂々たる山容から、「南アルプスの女王」と
呼ばれていることを知った。甲斐駒ヶ岳は、南アルプスの「團十
郎」だから、そうするとふたつの山は、南アルプスという、いわ
ば「花道」を行く團十郎と「女王」、つまり、「勘平とお軽」、
あるいは、「狐忠信と静御前」といったところになる。「いよ
う、ご両人」と大向こうから声がかかりそうだ。立役より、女形
の方が、66メートルも標高が高いというのは、ご愛嬌か。なら
ば、仙丈岳は、南アルプスの玉三郎かもしれない。

- 2006年4月9日(日) 21:27:05
4・XX  晴れ、一時雨。先月、開花した首都県南部の桜は、
3週目も半ばを過ぎたというのに、まだ咲いている。花吹雪が舞
い、葉桜になっているものが多いが、まだ、小手鞠のような花弁
の集まりが枝のあちこちに付いている木もある。我が家のマン
ション6階のベランダから、斜め下に歌手の佐々木功さんの家の
庭が見える。この庭には、桜の木があり、いまも、かなり花を付
けていて、まだ、見応えがある。

日本ペンクラブの電子文藝館に拙著「ゆるりと江戸へ 遠眼鏡戯
場観察(かぶきうおっちんぐ)」の抄録を載せることになり、3
ケ所ほど「見取(みどり)」をして見た。プリントアウトした原
稿を何回か校正して、日本ペンクラブの電子文藝館のホームペー
ジの、いわば「裏」にある「校正室」に上げてもらい、さらに校
正をしたのだが、それでも、電子表現の不具合や誤字脱字が見つ
かる。猛ないだろうと思い、先ほど、電子文藝館へ送信した。い
ずれ、日本ペンクラブの電子文藝館のホームページの表に掲載さ
れるだろう。見取(みどり)で抄録しているので、全文の載って
いるオリジナルな本(現代企画室刊)と違い、文脈上、意味の通
じないところが出て来るので、若干、補正して、掲載することに
した。タイトルは、「遠眼鏡戯場観察(かぶきうおっちんぐ)」
だけとした。

このところ、読み溜めた本の書評もまとめて書いて、そろそろ、
「乱読物狂」に掲載しなければならない。今月の六代目歌右衛門
追善興行の舞台も早く歌舞伎座へ観に行きたいが、公私ともに多
忙で、思うように時間が自由にならない。先日も、パソコンに
向っていて、文章を打ちながら、うとうととしてしまい、未整理
の文章が、そのまま「書き込み」のキーボードを押して、掲載さ
れてしまった。それも、2つ続けてである。疲れが溜まっている
のだろうと、思う。春だけに、「ある狂人の日記」として、掲載
しておいた。坂口安吾ではないが、桜は、狂気を呼び醒ますのだ
ろうか。
- 2006年4月8日(土) 15:27:05
4・XX  4月に入り、桜は、一気に満開になったが、きょう
のように強い風が吹くと、桜吹雪は、路上を彷徨い、川面には、
花筏が連なる。ある公園では、桜と柳が、青空をバックに春爛漫
を演出していた。桜の木の下には、雪柳が、白い小さな花を付け
ている。日中は、気温も上がり、暖かかったのだが、風が強く、
吹き荒れていた。まさに、花に嵐という定式どおりの展開になっ
た。夜は、気温も下がり、冬に逆戻り。健常ではない人たちに
は、辛い季節の変わり目である。

次の「4・XX」の日記は、「ある狂人の日記」であり、何を書
いているのか、意味不明だ。意識が、寸断されたように、あるい
は、混線したように思える。春の嵐は、ウエッブ上にも、吹き荒
れたのかもしれない。
- 2006年4月3日(月) 22:33:16
4・XX  きょうは、晴れていて、日中は、気温も上がった
が、風が強かった。路上に止めてあった自転車が倒れたり、家の
軒先きの植木鉢が、倒れたりしていた。首都圏は、電車のダイヤ
も乱れた。夜に入っても、依然として、風は、強い。

日本の政治は、与野党とわず、「強風」に振り回されてしまい、
その結果、国民生活のありようが、きちんと議論されず、政治家
たちを脆弱にしているように思う。野党は、訳が判らない。野党
の一部も、訳が判らないのか、あなたからの手紙を待って舞い
る。脱亜論は、過去も異物、いまもっとも、自民党が大勝しそう
な友人を顎を引き絞り、完全犯罪を目指すというのが、われら
が、手づくり寄席のつよみなのだ。

地域の病院は、老人のためのホスピス化している。
- 2006年4月3日(月) 22:20:48
4・XX  きょうは、晴れていて、日中は、気温も上がった
が、風が強かった。路上に止めてあった自転車が倒れたり、家の
軒先きの植木鉢が、倒れたりしていた。首都圏は、電車のダイヤ
も乱れた。夜に入っても、依然として、風は、強い。

日本の政治は、与野党とわず、「強風」に振り回されてしまい、
その結果、国民生活のありようが、きちんと議論されず、政治家
たちを脆弱にしているように思う。野党は、訳が判らない。野党
の一部も、訳が判らないのか、あなたからの手紙を待って舞い
る。脱亜論は、過去も異物、いまもっとも、自民党が大勝しそう
な友人を顎を引き絞り、完全犯罪を目指すというのが、われら
が、手づくり寄席のつよみなのだ。

地域の病院は、老人のためのホスピス化している。
- 2006年4月3日(月) 22:18:01
3・XX  3月も最終日。きのう、きょうと風が強く、寒い日
が続いている。東京の桜は、満開か、場所によっては、散り始め
ている。桜は、六、七分咲きで、間もなく満開か、というくらい
が好きだという人も入るだろうし、やはり、満開が最高という人
もいるだろう。いや、桜は、散りどき、特に、風に煽られて、桜
吹雪となっているときが、最高だという人もいるだろう。いや、
桜の咲く時期は、ことしもそうだったが、暖かさが不安定で、い
やだ。桜が、散って、若い葉が出て、葉桜になってしまうと暖か
さが、安定して来るので、葉桜も悪くないという人もいるだろ
う。まあ、桜もそうだが、ものごとは、多面的で、いろいろな角
度から見て、いろいろなおもしろさがあるというのが、良いので
はないかと、私などは、思っている。

パソコンに向い、日記を書いている机の横に読み終えた本が、山
をなして来て、倒れそうになって来たので、本の山をふたつに分
けたが、書評の方は、進んでいない。そのうち、まとめて、「乱
読物狂」に書き込むことになるだろう。

さあ、あすから、4月。桜の季節は、入学式や入社式の想い出と
繋がっている場合と卒業式と繋がっている場合とふたつあるが、
ことしは、どちらの想い出が、多かったのだろうか。







- 2006年3月31日(金) 21:54:40
3・XX  先日、今月の歌舞伎座夜の部の劇評をこのサイトの
「遠眼鏡戯場観察」に書き入れた。もうすでに読んで下さった方
が多いようだが、私としては、初見の演目が、ふたつもあり、こ
この「遠眼鏡戯場観察」にも、初登場とあって、いつになく、力
が入った。だからといって、劇評として成功しているかどうか
は、読者の判断にゆだねるのみ。

ところで、東京の桜は、きのう、きょうの暖かさで一気に満開
か、それに近い状態になったようだ。谷川俊太郎の詩「まだ」を
読む。

*死を報(しら)せる短い手紙が/路傍の名も知らぬ小さな花の
ように思えた/窓の外の豪奢な夕焼けを見ながら/死んだ友人の
控えめな笑顔を思った(略)霧雨のような後ろめたさをに包まれ
て/私はまだ 生きている/(略)

逝く空を控えながら、病に苦しんでいる人もいるかも知れない
が、また、桜の季節を迎えた。迎えながらも、病床にいて、こと
しの桜を見ることができない人もいるかも知れない。

市ヶ谷から四谷に向う電車のなかから、堀端に連なる桜並木が見
えた。薄いピンクの花が、枝枝に手鞠のように群なっている。

嵐に見舞われなくても、強い風が吹けば、花は散ってしまうかも
知れない。桜の花弁よ、せめて、風に乗り、いま生きて、病床に
いる人に命の片として、届いて欲しい。ことしの花弁よ!

大病を克服し、5月の歌舞伎座の舞台で復帰する市川團十郎は、
60日間の抗癌剤治療を、嵐に見舞われ、波に翻弄される船の船
底にいたような境地だと言ったという。その苦しみを克服して、
04年10月、06年5月と2回目の復活する。何ごとも、前向
きで、逃げずに、正面から突破する。それは、團十郎の藝風に
も、なって来るだろう。元気になった團十郎から、さらなる元気
を貰いたい。それこそが、江戸の荒事の真髄に違いない。
- 2006年3月28日(火) 21:41:47
3・XX  講演中に脳出血で倒れ、半身不髄になり、目下リハ
ビリ中の作家辺見庸の最新刊「自分自身への審問」を読んだ。な
んと、リハビリ中に大腸の癌が見つかったという。突き上げて来
る死の恐怖と戦いながら、迫り繰るアメリカの破局(同伴してい
る日本の破局に繋がる可能性がある)を告発する強靱な精神力。
私よりちょっと年上の、元共同通信記者であるから、同業の先輩
である。面識はないが、著作は、殆ど読んでおり、最近の発言内
容も、ジャーナリストとして、共感する部分が多い。辺見より先
に半身不髄になり、幾つもの病魔に犯されているかも知れない日
本のジャーナリズムの現況を直視する彼の視線の鋭さ。

歌舞伎座の夜の部の劇評は、今夜までに、「二人椀久」と「近頃
河原の達引」まで、一応、草稿はできあがった。あと残るのは、
「水天宮利生深川」の幸四郎論だ。これを書き上げたら、サイト
の「遠眼鏡戯場観察」に掲載しようと思う。

そういえば、拙著「ゆるりと江戸へ ーー遠眼鏡戯場観察(かぶ
きうおっちんぐ)ーー」(現代企画室刊)を最近も、東京・丸の
内の丸善の歌舞伎コーナーで、見掛けた。日本ペンクラブの電子
文藝館にも、前から掲載をと、呼び掛けられていたのだが、近い
うちに「口上」「十一段目」「大詰」のみを抄録して、掲載する
ことにした。目下、これの原稿も校正中。
- 2006年3月24日(金) 22:12:31
3・XX  東京の飛鳥山の桜が、きょうあたり、遠目には、枝
の周りが、赤く膨らんで来た。徳川吉宗が、植えさせたと言う染
井吉野が、全山のあちこちにある飛鳥山は、音無川という石神井
川の下流を挟んで、向側に王子権現、その向うに王子稲荷、さら
に王子七滝と言われた名主の滝が、地形の隆起に沿って、続いて
いる地域だ。

昨夜来の雨も、朝方まで残ったが、やがて、上がり、日中は、晴
れの穏やかな一日となり、気温も上がった。ここ数日は、良い天
気が続きそうとは、気象庁の予報。週末には、東京の桜も、一気
に、見ごろになるところが、多いのではないか。

歌舞伎座「夜の部」の劇評も、毎夜、少しずつ書いている。私と
しては7回目の拝見となった「二人椀久」の劇評を先ず書いた。
次いで、初見の「近頃河原の達引」の劇評の構想を錬っている
し、同じく初見の「水天宮利生深川」の劇評の構想へ繋げようと
思っている。テーマは、「藝」か。他人を演じる、他人になりす
ます、他人になりきる、というあたりを軸に3つの演目を分析し
てみたいと思っている。特に、初見の演目は、批評しがいがある
ので、構想を錬るのも愉しければ、批評を書くのも愉しい。その
上で、読んでいただき皆さんに喜ばれるのも愉しいというもの
だ。

日本ペンクラブの電子文藝館に掲載するかどうか、委員から読ん
で欲しいという原稿のコピーも幾つか送られて来る。新歌舞伎、
新国劇の台本も混じっている。これも、愉しみだが、なかなか、
時間が取れないのが、悩みのタネ。
- 2006年3月23日(木) 22:17:35
3・XX  春分の日。午後から、日本橋の「お江戸日本橋亭」
へ、日大落語研究会のOBで、プロの落語家になった人たちの寄
席(「すえひろがりの落語会」)を拝見に行く。二ツ目が中心
で、前座も混じる。二ツ目の人たちの高座(瀧川鯉橋、笑福亭里
光、春風亭笑松)は、ここ三年ほど観て来たが、若手の成長は著
しく、皆、それぞれなりに、巧くなって来ていて、感心した。

昼前から、3月の歌舞伎座昼の部の劇評を書き始めた。途中、日
本橋へ落語を聞きに行くため、中断したが、帰宅後、引き続き書
き続け、先ほど、「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。

きょうは、朝、作家の童門冬二さんから、「人生で必要なことは
すべて落語から学んだ」という書き下ろしの文庫最新刊が、ほか
の単行本と一緒に送られて来た。タイミングが良すぎるが、日本
橋に向う地下鉄のなか、さらに、日本橋のスパーで買った小田原
名物の鰺の押し鮨の駅弁を戴きながら、ビールも飲みながら、読
み続けた。落語的人生論である。おもしろくて、一気に読了。

うらやましいのは、父親に連れられて、子どものころから、下町
の寄席に通い、かぶり付きの席で、五代目古今亭志ん生、六代目
三遊亭円生、八代目林家正蔵、八代目桂文楽らを直に聴いたと書
いてあること。テープではなく、「直」だというから、凄い。
- 2006年3月21日(火) 22:24:41
3・XX  きょうは、風が強かったが、一日中、歌舞伎座で過
ごした。昼の部は、仁左衛門と芝翫を軸にした「道明寺」が、圧
巻。夜の部は、「近頃河原の達引」と「水天宮利生深川」が、い
ずれも、初見。「近頃河原の達引」は、心中に向う死出の道行の
話だが、我當の猿曳与次郎が好演で、人情話としても見せる。
「水天宮利生深川」は、幸四郎が熱演過ぎて、いつものオーバー
アクション気味で、観ていても疲れた。「二人椀久」の菊之助の
松山太夫は、期待通り。詳しくは、別途、「遠眼鏡戯場観察」
で、劇評をまとめるが、なるべく早めにサイトに書き込みたい。
夜の部終演後、一階のロビーで、今月の歌舞伎座筋書の番付を書
いている伏木寿亭さんにばったり逢う。
- 2006年3月19日(日) 22:21:00
3・XX  春先の季節の変化は、「三寒四温」と言われる。こ
のところの天気は、まさにそれ。暖かい日もあれば、寒い日もあ
る。きょうは、肌寒い一日だった。今月の歌舞伎座は、片岡仁左
衛門の十三代目の13回忌追善興行。歌舞伎役者の名跡にも、波
乱万丈がある。例えば、代々の仁左衛門という名跡も、「三寒四
温」のようだ。

今月の歌舞伎座は、19日の日曜日に行くことにした。昼の部と
夜の部を通しで拝見する。今月は、昼の部の方が、人気があるよ
うだ。十三代目仁左衛門の13回忌追善狂言として、昼の部は、
「道明寺」の菅丞相を当代の仁左衛門を軸に上演する。晩年盲目
となった十三代目が心眼で演じて、好評だった菅丞相である。覚
寿は、芝翫が演じる。

夜の部は、「近頃河原の達引」の与次郎を我當が演じる。「そ
りゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」の伝兵衛は、坂田藤十郎、お俊
は、秀太郎。与次郎は、十三代目の父親、十一代目が晩年得意と
した役である。

仁左衛門は、十二代目(十代目の子)が、戦後の混乱期の食事の
差別を恨みを持った弟子(座付きの狂言作者)に殺されるという
悲劇があった。前名を我童という名女形であった。次の我童も、
美形の誉れ高いが、死後、十四代目仁左衛門を遺贈された。従っ
て、当代は、十五代目となる。
- 2006年3月14日(火) 22:10:30
3・XX  05年度も残り、1ヶ月を切り、激動の06年度
も、目前に迫って来た。私にとって、人生の大きな節目になるで
あろう年度である。まあ、その謎解きは、新年度の宿題としてお
きたいので、いまは、明かさない。

そういう謎解きの、大きなヒントになるような本を読んだ。本
は、新書判の250ページ足らずの薄い本なのだが、エリート集
団の「恐竜の首」派なのか、不特定多数無限大の「ロングテー
ル」派なのかという選択を迫って来る、非常に刺激的な内容なの
だ。

ウェブは、進化し、世代は交替する。マイクロソフトも古い。グ
−グルは、いま急成長している。しかし、次の世代で、インター
ネット社会の主役となるのは、1991年生まれ、つまり、いま
の中学生の世代が大人になる次の10年後だろうと予言してい
る。

この本については、早速、書評を「乱読物狂」コーナーに書き込
んだので、関心のある人は、読んでみてください。
- 2006年3月2日(木) 21:45:44
3・XX  先日、試写会でアフリカ映画を観た。「割礼」と称
する女性器切除の悪習に立ち向かい、勝利した村の女たちの物語
だ。タイトルは、「母たちの村」。

アフリカでは、54カ国のうち、38カ国で、女子の性器を切除
する儀式が、いまも行われているという。「割礼」という宗教的
な、あるいは、伝統的な意味合いを持たせ、「割礼」をしない女
子、しなかった女性は、結婚できないという不利益を強制される
という。舞台は、西アフリカの小さな村。この村でも、少女たち
の性器切除が、いまも行われている。女性器の外性器を刃物で切
り取り、さらに縫い合わせることもあるという。男たちは、妻
(第1夫人)のほかに、第2夫人、第3夫人を持っている。主人
の我が儘が、家長の「尊厳」と、誤解されている節がある。

コレという名の、第2夫人は、自身は、「割礼」されているが、
娘は、性器を切り取らせなかった。「割礼」ゆえに、妊娠しなが
ら、ふたりの子を流産で亡くし、3番目の娘は、帝王切開で、
やっと生んだからだ。女性器が、自然のままの女性は、「ビラコ
ロ」と呼ばれ、「不浄」視される。その「ビラコロ」の娘、アム
サトゥも、年頃になり、村の長老の息子で、フランスに行ってい
る青年が帰国し次第、結婚する約束になっている。結婚するため
には、アムサトゥも、「割礼」しなければならないかも知れな
い。

ある日、村の少女たち4人が、「割礼」の儀式から、コレの元へ
逃げて来た。娘を「割礼」しなかった母親として、慕われ、緊急
避難して来たのだ。コレは、少女たちの気持ちを汲み取り、「割
礼」の弊害を身を持って知る立場から、少女たちを助けることに
した。家の門に縄を張り、「モーラーデ」(聖域、避難場所)を
宣言したのだ。やがて、「割礼」の儀式から、街へ逃げ出した別
のふたりの少女が、井戸に身を投げて死んでいたことが発覚す
る。なぜか、村の男たちは、「モーラーデ」を止めさせないか
ら、ふたりの少女が死んだとコレを避難し、女たちが、伝統を守
らないのは、ラジオを聴き、外からの情報に騙されているからだ
と村の女たちが、愉しみにしているラジオを取り上げてしまう。
時代錯誤が、男たちの価値観を縛り、浮揚しようとする女たちの
自由な心を引きづり下ろそうとする。

村の長老の息子が帰って来た。成長したアムサトゥの肉体をまぶ
しそうに見るが、「ビラコロ」の娘とは、結婚させないという父
親に、一旦は、刃向かうが、フランス帰りの割には、村の伝統的
な父権制に抗え無さそうだ。息子が、フランスから持ち帰ったテ
レビもラジオも父親には、気に入らないようだ。

やがて、兄に鞭を手渡され、妻を叩けと強制されたコレの夫は、
コレに「モーラーデ」を止めろと言いながら、村の広場で、見せ
しめに、コレを鞭打つ。しかし、コレは、痛みに耐えながらも、
止めるとは、言わない。周りで観ている女たちの多くが、コレを
支援しはじめる。村の男たちや割礼師は、夫を応援する。村に行
商の移動店舗を開いていた男が、あまりの酷さに割って入り、鞭
打ちを止めさせてしまい、コレは、女たちに抱えられるようにし
て助けられる。しかし、村の儀式に口を出したとして、行商人
は、村を追われ、村の外で、村の男たちに殺されてしまう。
「モーラーデ」を止めなかったコレが勝ったのだ。「割礼」の儀
式から逃れた少女たちも助かった。母たちは、娘たちを守った。

因習にとらわれた男たち。自分たちの人権を守り抜いた女たち。
この男女を取り巻く村の自然の美しさ。広大な大地。緑の木々。
青空。夜も、明るい空。ラジオを取り上げられ、寝られないと村
の広場に集まった女性たちのシルエット。

アフリカ映画の父と呼ばれる、83歳のウスマン・センベーヌ監
督の視点は、優しく女性たちを見守るアフリカの大自然のよう
だ。女優たちも、達者だ。表情がとても豊か。主役のコレを演じ
たファトゥマタ・クリバリは、テレビ局に勤めている女性だが、
彼女も、「割礼」され、性器切除されているという。悪習は、い
まも、身近にあるということだ。

「母たちの村」は、6・17から、東京・神保町の岩波ホール
で、ロードショー上演される予定。
- 2006年3月1日(水) 20:37:37
2・XX  2月も、きょうで終り。あすから、弥生。春が近付
いている。さきほど、2月の歌舞伎座の劇評が、やっと、昼も夜
も「遠眼鏡戯場観察」コーナーに掲載された。

玉三郎と菊之助の「娘二人道成寺」は、積み重ねながら、きりき
りと詰めているような出来上がりだった。さらなる極め付けを求
めて、ふたりは、「二人道成寺」の高みに立ちのぼって行くのだ
ろうということを予感させる舞台であった。2年前の舞台、そし
て、今回の舞台。両方が判るように再録も含めて、構成してみ
た。次回は、どういう書き方をしたら、舞台を観た直後の感動を
読者に伝えられるだろうか。ます、ます、難しくなる「二人道成
寺」だと恐れおののくとともに、早く、次の工夫魂胆を観てみた
いと思わせる藝熱心な真女形二人の舞台であった。
- 2006年2月28日(火) 21:50:47
2・XX  歌舞伎座夜の部のうち、「石切梶原」の劇評をまと
めた。サイトの「遠眼鏡戯場観察」には、まだ、書き込んでいな
い。幸四郎は、彫刻の梶原像を刻み込むように、じっくり、ゆく
り演じていて、これが結構効果的だったようで、いつも、幸四郎
のオーバーな演技に辛口の私としては、「意外に」愉しい舞台で
あったと告白しておこう。夜の部でいちばん書き込みたいのは、
「京鹿子娘二人道成寺」なので、今度は、私の方が、じっくり、
ゆっくり書いてみたいと思っているので、もうしばらく待ってい
て欲しい。宇野歌舞伎は、おもしろくなかったので、簡単な批評
となろう。
- 2006年2月27日(月) 22:14:03
2・XX  年度末と新年度の対応が、錯綜するこの時期は、例
年とも忙しいが、ことしは、職場を取り巻く大状況が厳しくて、
特に忙しい。貴重な暇を見つけては、私事を有効に使おうとする
ので、さらに、多忙に拍車をかけることになってしまう。それで
も、仕事で忙しいのと私事で忙しいのとでは、気分が違うから、
それはそれで良いのだろう。ただし、身体に負担をかけないよう
な健康管理、心の管理は必要だろう。幸い、通勤途上の、往復
で、毎日5キロを歩き続けて、2年半で、自然に、いつのまに
か、6キロほど痩せて来た。朝は、5時過ぎに起きているので、
夜は、早めに眠くなる。本を読んでいても、いつのまにか、同じ
ところばかり読んでいて、先に進まず、そのうち、本を開いたま
ま、眠ってしまっている。

普段のストレス解消法は、長時間の電車通勤での、いわば「動く
書斎」での読書三昧。貴重な週末の芝居三昧。その芝居三昧の果
てが、苦しくても愉しい観劇記の執筆。というわけで、今月の歌
舞伎座の昼の部の劇評をまとめあげ、先ほど、「遠眼鏡戯場観
察」に書き込んだ。今夜は、もう、おしまい。あす以降、「娘二
人道成寺」ほかについて、書きたい。


- 2006年2月22日(水) 22:01:49
2・XX  厳しい寒さもゆるんだ。帰宅後、歌舞伎座の劇評を
書き始めた。幸四郎の新演出の「一谷嫩軍記〜陣門・組打〜」を
軸に昼の部を書き始めた。「春調娘七種」は、2回目の拝見だっ
たが、8年前の舞台は、印象が残っていない。私の劇評の記録も
ないので、このサイトは、初出場も同然である。とりあえず、今
夜は、昼の部前半の初稿をまとめたというところ。さらなる推敲
とそのほかの2演目の劇評を書かなければ、サイトへの書き込み
にはならないので、もう少し時間がかかるだろう。
- 2006年2月21日(火) 22:05:58
2・XX  休日出勤した代休を利用して、歌舞伎座へ。外は、
雨。雨を避けて、昼夜通しで拝見。但し、夜の部が、はねて、外
へ出ても、まだ、雨が降っていた。昼の部では、あまり期待して
いなかった曽我ものの所作事「春調娘七種」が、意外と良かっ
た。「一谷嫩軍記〜陣門、組打」は、幸四郎を軸にいつもと違う
演出。菊・吉の「幡随長兵衛」は、いまひとつ。

夜の部は、幸四郎を軸にした「梶原平三誉石切」。今月の極め付
けは、玉三郎と菊之助の「京鹿子娘二人道成寺」。以前に一度観
ているが、さらに工夫魂胆、磨きがかかっていて、良い舞台だっ
た。菊・吉の新歌舞伎「人情噺小判一両」は、おもしろくない。
総じて、初代吉右衛門追善興行の演目が、おもしろくなかった。
今月の興行で言えば、本来軸となるのは、菊・吉だろうに、演目
選択が良くなかったせいで、興味半減。

劇評は、構想を錬ってから書きはじめるが、昼の部は、「一谷嫩
軍記〜陣門、組打」の新演出を分析し、夜の部は、玉三郎と菊之
助の「京鹿子娘二人道成寺」の官能美を論じることになるだろ
う。
- 2006年2月20日(月) 22:54:38
2・XX  2月も下旬になり、暖かい日も混じるようになって
来たとは言うものの、寒い日は、底冷えがする。寒さのなか、久
し振りに芝居小屋にも行かず、遠出もせずで、パソコンに向い、
溜まっていた書評を20冊ほど書き上げ、どんどんという感じ
で、「乱読物狂」に書き込んだ。まさに、物狂いのように乱読し
たものを思い出し、思い出ししながら、また、もの狂わしく書評
を書き続けて、腰が痛くなったので、中断する。あすは、休日出
勤がある。
- 2006年2月18日(土) 16:48:57
今月の歌舞伎座は、初代中村吉右衛門の追善興行。「菊・吉」コ
ンビの芝居が、話題なのだろうが、聞こえて来ない。むしろ
「玉・菊(玉三郎と菊之助)」の「二人道成寺」評判が良いよう
だ。以前のふたりの舞台を見ているが、それは、それで良かった
のだが、今回は、それに輪をかけて良さそうな雰囲気だ。

私は、20日(月曜日)に拝見する。できるだけ、早く、劇評を
書きたい。3月は、仁左衛門の追善興行。歌舞伎は、一面、抹香
臭い興行なのだ。それでいて、21世紀にも生き延びている不思
議さ。でも、最近は、歌舞伎より人形浄瑠璃(文楽)という人
が、何故か、私の廻りでは増えている。私の廻りだけに現象では
無く、もっと、広くブームになっているのかも知れない。歌舞伎
役者よ、浄瑠璃で操られる人形に負けるなと言いたい。
- 2006年2月17日(金) 21:21:16
2・XX  食堂の話。JR中央線の長坂駅というのがある。中
央線と小海線という標高が全国一高い、高原列車の分岐点のある
小淵沢駅の、東京から見れば、一つ手前の駅だ。ローカルな駅舎
とこじんまりした駅前ロータリーを抜けると線路に平行する形
で、商店街がある。田舎の商店街の例に洩れず、シャッターの降
りている店や貸店舗という貼紙がある店が目立つ、眠ったような
商店街だ。線路側を遠く眺めれば、甲斐駒ヶ岳が、甲府盆地から
眺めるピラミッド型の、スマートな三角形と違って、「摩利支
天」というお供を連れた甲斐駒ヶ岳が、ごつごつと男性的な容姿
で見える。「摩利支天」とは、「常にその形を隠し、障難を除
き、利益を与えるという天部(天界の神)。護身、隠身、得財、
勝利などのご利益があるという。日本では、武家が、守り本尊と
して崇めた。二臂、三面六臂で、猪に乗った天女の姿をしている
ことが多い。来年は、猪歳だから、流行りそう。いまの時期な
ら、雪化粧をしている銀嶺が光る。甲斐駒ヶ岳は、南アルプスの
團十郎だと称した作家もいた。甲斐駒ヶ岳から、南には、そのま
ま、南アルプスの山稜が連なっている。

商店街の線路と反対側には、遠く八ヶ岳が見える。武家、剣客、
という連想で、眠り狂四郎をイメージしながら、眠るがごとき商
店街をプラプラ歩いて行くと、「成駒屋」という暖簾を下げた食
堂が眼につく。いつも、店の前を通るだけで、暖簾を分けて、な
かに入ったことが無いので、どういうメニューがあるのかもわか
らないし、旨いのか、まずいのかも判らない。いつか、入ってみ
ようと思っている。

「成駒屋」の前を通り過ぎ、小高い岡を登り、雑木林を抜けて、
坂道を降りしながら(とはいうものの、ここから先は、歩いても
行けないことは無いだろうが、車で行く距離があるだろう)、暫
く行くと、こんどは、「山城屋」という看板を付けた食堂があ
る。ここは、「野菜炒め定食」600円など、安くて、旨い定食
があるので、行きつけの店にしている。先日も、旨い昼食にあり
ついた後、坂田藤十郎の話をし(と、言っても、坂田藤十郎は、
知らなかったので、中村鴈治郎が、と、言うと、さすが、こちら
は知っていた。その鴈治郎が、231年ぶりに上方歌舞伎の最高
の名跡を継いだんだと説明した)、1月の歌舞伎座で、そのお披
露目をした際、歌舞伎座の館内には、「山城屋」「山城屋」とい
う屋号が飛び交ったと教えてあげると、食堂の人は、嬉しそうに
笑っていた。

歌舞伎座は、1月の山城屋の襲名披露興行に続いて、2月は、播
磨屋、3月は、松嶋屋、4月は、東の成駒屋と追善興行が続く。
4月には、成駒屋一門の、加賀屋こと、中村東蔵の長男の玉太郎
が、二代目魁春の前名であり、まだ温もりの残る「松江」の六代
目を受け継ぐという。3月に40歳になる玉太郎は、4月には、
どういう松江になっているだろうか、いまから、愉しみだ。
- 2006年2月13日(月) 22:44:18
2・XX  東京に雪が降り、寒さが、最も厳しい時期になった
が、一方では、厳寒の合間に寒さのゆるむ日も挟まり始め、春遠
からじの感もある。ことしの初めには、異常な冷え込みと消耗の
所為で、南アルプスの麓の駅舎の前に置いてある車のバッテリー
が、上がってしまい、いつもガソリンを入れている駅前のガソリ
ンスタンドに相談をし、駅前の駐車場まで、救援車を差し向けて
もらい、バッテリーを繋いで、エンジンをかけてもらった。その
あと、エンジンを切らないようにして、車のディラ−の事務所の
ある処まで20キロほど走り、バッテリーを新品と交換しても
らった。

それにしても、冬の時期は、それなりに雪の降る南アルプスの麓
は、ことしは、あまり雪が降らず、冬晴れに日々が続いているよ
うだ。もっとも、南アルプスの3000メートル級の山々は、反
対側の長野県から山稜越しに雪雲が溢れ出て来るときがあり、山
頂付近は、いつもより雪化粧が濃いように思える。「姉さんが
た、化粧が濃過ぎやしないかい。恋でもしたか」などと、ほざい
たりしているが、高嶺の、お姉さんたちは、そ知らぬ顔をして、
機嫌良さげに、青空に浮かんでいる。

「探偵小説でしか語れない真実もあるんだぜ」という、探偵小説
で描く昭和史3部作のうち、最初の「ミステリ・オペラ」(山田
正紀)を読んでいる。いずれ、「乱読物狂」に書評を書き込む。
- 2006年2月8日(水) 23:00:10
2・XX  日本ペンクラブの電子文藝館委員会では、ペンクラ
ブの総会報告に向けて、電子文藝館掲載の作品をジャンル別に一
覧できる「全展観」を作成中だが、基本的な方針と表記のルール
などが、徹底していないため、ばらばらなジャンル分け、不統一
な表記など不備が目立つ。「全展観」の校正を頼まれたのだが、
手間ばかりかかって仕方が無いので、問題提起をし、基本方針と
表記の統一を提案した。

小泉政権は、去年の総選挙の「大勝」も、バブルのように消え、
目下、政権末期論が、声高に語られ始めた。マスコミの大局観
は、半年ほど遅れているし、「ホリエモンの落日」がらみでは、
1年ほど遅れているのでは無いか。要は、マスコミの日頃からの
批判精神が、鈍磨しているからだろう。そもそも、大局観に支え
られた批判精神は、マスコミの原理原則だろう。それこそが、国
民の知る権利の付託に応えるということだ。そういう原理原則を
忘れたマスコミなど、マスコミでは無い。いま、巷に流行ってい
る「偽装、偽計」は、マスコミこそ、そのものではないのか。
ジャーナリスト達よ、恥を知り、原理原則に立ち返れ。
- 2006年2月7日(火) 21:16:43
2・XX  2月に入り、寒さも弛む日が入り始めた。東京に雨
が降り続いた日、山は、雪かと思ったが、雪にはならず、山頂付
近は、さらに雪化粧を濃くしたものの、麓は、乾いていた。但
し、冬晴れの日が多く、風が強い。

冬枯れの景色は、茶色一色で、味気ない。無味乾燥とは、良く
言ったもので、乾き切った、荒涼とした、いまのような時期を形
容しているのだろうか。

それでも、寒さが厳しくなる一方だった1月とくらべると2月
は、上旬は、まだまだ、寒さが厳しいものの、中下旬に至れば、
「春遠からじ」で、無味乾燥の茶色い世界も、眼を近付けて、良
く見れば、木々の芽吹きへの準備をする様が透けて見えてくるか
も知れない。

豆本の未来工房と言えば、知る人ぞ知る豆本の出版社だが、豆本
出版活動も30年近くなり、社主も古稀を過ぎ、「豆本稼業から
そろそろ撤退を考えている」との便りが届く。今回は、作家の赤
江瀑の限定20部、肉筆豆本詩集「四月幻穹」の刊行。オーク
ション形式で頒布。桐と木肌を斜に組み合わせた箱入り。タイト
ル署名は、著者肉筆の墨書。表紙は、神代杉。タイトルは、著者
肉筆墨書。本文も、肉筆墨書。荒涼とした季節の無味乾燥を一気
に吹き飛ばす墨痕の鮮やかさに瞠目。
- 2006年2月3日(金) 21:28:15
1・XX  やっと、今月の歌舞伎観劇に基づく、劇評の書き込
みを終えた。多忙で、多忙で、嫌になる。

さて、坂田藤十郎は、どこへ行くのか。鴈治郎の世界を抜けて、
時空を彷徨い、231年前に戻ってもしょうがないし、坂田藤十
郎の二代目、三代目は、手本にならぬ。四代目の当代にとって、
手本は、初代しかいない。初代が亡くなったのは、1709年。
297年前だ。ならば、いっそ、300年後に五代目を迎えるよ
うな、純正坂田藤十郎を目指し、当分は、四代目の後に坂田藤十
郎なし、四代目の前には、初代しかなし。五代目は、宇宙の果て
の果て、当面は、四代目が、初代を凌ぐ芸域に達するしか無い。
上方和言の復活など、小せえ、小せえ。新たな上方和言の創造を
こそ、目指すべきだろう。74歳。これからこれから。藤十郎と
しての第二の人生の成果を愉しみにして、私たちも、伴走しよう
よ。どこまでも。藤十郎とともに。そういうエールを込めて、1
月の劇評は、やっと、閣筆。ト双方愁いのこなしよろしく。拍子
幕。
- 2006年1月29日(日) 20:59:44
1・XX  晴れ。数日前から書き出していた歌舞伎座の昼の部
の劇評が、遅ればせながら、やっと「遠眼鏡戯場観察」に掲載で
きた。軸になるのは、「夕霧名残の正月」と「曾根崎心中」。い
ずれも、「遠眼鏡戯場観察」初登場である。

次いで、夜の部の劇評に取りかかる。「藤十郎の恋」は、菊池寛
原作の新歌舞伎だが、坂田藤十郎の人物紹介を兼ねている。そし
て、「伽羅先代萩」は、「上方歌舞伎の演出とは」という命題に
対する藤十郎の答案用紙だろう。「口上」は、雀右衛門が取り仕
切る。夜の部は、3日と15日と座席を変えて、2回拝見したの
で、それなりに書きたい。歌舞伎の劇評は、調べながら書くの
で、時間が掛る。大体、休憩時間を含めて観劇でかかる時間(お
よそ5時間)と同じぐらいか、それを上回る時間が執筆に必要に
なる。さあ、夜の部を書きはじめよう。




- 2006年1月29日(日) 11:27:33
1・XX  快晴。日中は、風が強く、ときどき、肌寒い。夜
も、風強く、冷え込む。先に、「ライブドア」事件に触れて、
「オウム真理教」との類似性を論じた際に、「オウム」を「オー
ム」としたが、大西巨人の「縮図・インコ道理教」という本を読
んだら、「オウム」は、「インコ」になり、「インコ」とは、
「陰壷(いんこ)」だと書いてあった。「陰壷」の意味は、「乱
読物狂」に掲載した書評のなかで触れたので、ここでは繰り返さ
ない。大思想小説である。上には、上があるものだと、思った次
第。
- 2006年1月26日(木) 22:01:26
1・XX  やっと、劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」に、06
年1月の舞台のものが掲載された。国立劇場で、小泉首相と鉢合
わせになり、SPが、目を光らせているなかでの観劇となった、
あの舞台だ。引き続き、歌舞伎座の昼の部、夜の部の劇評も書か
ねばならない。

ところで、東京地検特捜部の1年余の内定の末の、ライブドア経
営陣の逮捕劇は、メールが、傍受されていたのか。家宅捜索の
際、押収された多数のパソコンに残されていたメールを読んだの
かで、インターネット社会の捜査の在り方と通信の秘密という憲
法にも保障された人権の侵害という別の大問題が浮かんでくる
が。これまでの新聞報道では、あまり、この点が問題にされてい
ないのは、どういうことだろうか。ホリエモンを踊らせたのは、
いろいろな原因があるだろうが、マスコミも原因者だ。自民党批
判もありだろうが、マスコミ批判もありだ。マスコミも、そこを
履き違えると、説得力を欠いて来ることを忘れてはならない。違
法な経済活動は、取り締まらねばならないが、マスコミの暴力も
抑止しなければならない。無責任のなすりあいめいた報道は、慎
まなければならない。





- 2006年1月25日(水) 22:24:35
1・XX  「遠眼鏡戯場観察」のコーナーでは、遅れている今
月の歌舞伎の劇評のうち、とりあえず、国立劇場の劇評が、大分
進んで来たので、近い内に掲載可能になると思う。次いで、歌舞
伎座の昼の部、さらに、3日と15日と、2回拝見した夜の部
と、劇評を書き進めたい。今月も、あと一週間だものなあ。月内
には、掲載しておきたい。

鴈治郎改め、坂田藤十郎は、大晦日に74歳の誕生日を迎えた
後、歌舞伎座で襲名披露興行を打っている。上方歌舞伎の大名跡
を襲名するというのは、鴈治郎の名を後進に譲って、231年ぶ
りに復活した藤十郎という未知の世界、いわば、第二の人生に翔
け昇るという、しんどい選択をしたということだろう。役者魂を
燃え立たせ、燃え尽きる覚悟があるのだと思う。

特に昼の部で観た「夕霧名残の正月」は、30分ほどの短いもの
だが、雀右衛門の夕霧と藤十郎の伊左衛門の官能劇は、素晴しい
の一言に尽きる。これを観るだけでも、価値がある。早く、「夕
霧名残の正月」の劇評を書き、サイトに掲載したくて仕方が無
い。
- 2006年1月24日(火) 22:06:43
1・XX  おとといの大雪があちこちに残っている。通勤の車
窓も雪景色。風が強く、肌を切るような寒さ。往復の車中では、
坂崎重盛「『秘めごと』礼讃」を読みはじめる。途中まで読んだ
ところで、谷崎潤一郎、永井荷風、江戸川乱歩、つげ義春、吉行
淳之介、石川啄木、依田学海、斉藤茂吉、川田順などが登場。男
たちの祕めごと、隠しごと、お忍びなどが暴かれる。根底には、
エロスが息づく。ちゃんと読んだら書評を書こう。

帰宅後、ホリエモン逮捕のニュース。予想通りの展開。人生を甘
く見た男は、地獄に落ちる。調子に乗り過ぎた嫌いがある。ライ
ブドアも、オームも、人を騙して、金を集めるという点では同
じ。はかりごとは、隠しごとにしていたつもりでも、いつかは、
化けの皮を剥がされる。歌舞伎の世界では、何百年も、前から、
舞台で演じられて来たことばかりだ。人間の欲望は、繰り返さ
れ、同じ過ちを犯し続ける。お陰で、歌舞伎の劇評が、なかな
か、進まない。
- 2006年1月23日(月) 22:03:38
1・XX  風が強い上、冷え込む。耐震偽装マンションの決着
も着いていないというのに、ライブドアによる偽計取り引き、粉
飾決算の疑い。「偽装」、「偽計」が、05年から06年の風潮
なのか。かなり前から、一国の首相が、靖国参拝を「心の問題」
などと、偽装偽計し続けるから、こういうことになるのではない
か。

ライブドアが、検察の見解通りなのかどうかは、知らないが、報
道されている情報の通りだとすれば、ホリエモンは、いずれ、逮
捕されるだろう。偽装の先輩、元建築士も、逮捕されるだろう。
偽装、偽計は、トリックを使って、人の盲点を突き、利益をあげ
る輩の手法なのだろう。振り込め詐欺も、そうでした。下火にな
るどころか、どんどん手口が巧妙になっている。

そういえば、「郵政民営化」「改革」などというのも、偽装偽計
では無かったのか。「一点突破全面展開」は、かっては、新左翼
のどこやらのセクトのキャッチフレーズでは無かったか。それ
が、一国の首相のキャッチフレーズになっている不思議さ。選挙
で、一展開したあとは、「わしゃ、知らぬ」といわんばかり。そ
れを許している大衆も、「わしらも、知らぬ」で、一億無責任時
代。

このように、政治から経済まで、偽装偽計ばやり。犯罪にならな
いまでも、偽装偽計は、あちこちに見られる。「偽計ばやり」と
ワープロで打ち込めば、「木競馬やリ」などと、ワープロも、負
けじと偽装してくるではないか。

「偽装偽計」という天眼鏡を覗いてみれば、あれもそう、これも
そうという現象が、クローズアップして見えて来る。

そこで、偽装偽計に引っ掛からないためには、地に脚を付けて、
そこから冷静に物事を見ることだ。利益に預ろうという、当事者
意識を捨てて、第3者で、ものを見続ける習慣を付けておけば、
まず、引っ掛からない。欲望が、目を曇らすからだ。

ジャーナリスト生活、30数年。いまも、記者を目指していた中
学生のとき、卒業の手帳に恩師が書いてくださった言葉を覚えて
いる。

「ものを見る目を養ってください。それが、ジャーナリストにな
る勉強です」

高校、大学を経て、記者になり、16年の記者生活を経て、デス
クになり、10年ので空く生活を過ごし、さらに、現場を離れ、
管理・経営の仕事を続けているが、いまも、一介のジャーナリス
トであり続けたいと思っているが、果たして、恩師の期待に答え
て、ものの見えるジャーナリストであり続けているだろうかと、
顧みることも多いが、いまの現役のジャーナリストたちは、もっ
と、ものが見えていないと思うことがしばしばあるが、これは、
老骨のジャーナリストの眇(すがめ)だろうか。そうで無ければ
良いのだが・・・。




- 2006年1月19日(木) 20:58:25
1・XX  国立劇場の南北劇、歌舞伎座の上方歌舞伎と大きな
テーマの芝居を観たので、いろいろ書きたい劇評の視点が浮かび
上がって来たが、如何せん、厄介な職場の問題に取り組まざるを
絵図、多忙の上に、昼間のうちにエネルギーを使い果たしてしま
う所為か、帰宅後の執筆は、裏の「日記」を書くのに精一杯とい
う体たらくで、劇評を書かないまま、メモのみ積み重ねられてい
る。これではいけないと思い、今夜は、取りあえず、14日に観
た国立劇場の南北劇「曽我梅菊念力弦(そがきょうだいおもいの
はりゆみ)」の劇評を兎に角、書き出してみた。

書きはじめると続いて書きたくなるものだが、今回は、エンジン
がかかるのが遅い。物を書くという行為は、ジェット機が、離陸
をし、上昇し、水平飛行の状態にまで持って行って、初めて、書
きはじめると言えるだろう。そういう意味では、出だしを書いて
みたが、離陸しただけで、まだ、上昇しない。あす以降、再度試
みよう。日本ペンクラブの電子文藝館委員会の仕事も入って来た
が、こちらも、暫く時間がかかりそう。
- 2006年1月18日(水) 22:04:33
1・XX  晴れ。きのうとは、一転して好天になった。きょう
は、歌舞伎座へ。昼の部から夜の部まで通しで拝見。夜の部は、
3日に続いて、2回目。やはり、理解が深まる。

昼の部は、初見の「夕霧名残りの正月」が良かった。夕霧の亡霊
役の雀右衛門の濃密な色気。藤十郎との絡みは、官能の極み。扇
雀・鴈治郎・藤十郎へと定番の「曽根崎心中」も、新演出もあ
り、見応えがあった。きのうは、国立劇場で、歌舞伎好きの小泉
さんを見掛けたと思ったら、きょうは、歌舞伎そのもののような
山川静夫さんを歌舞伎座の2階で見掛けた。新聞の日録による
と、小泉さんは、国立劇場の終演後、場内で、富十郎と菊五郎の
挨拶を受けていたようで、遅くなり、私は、トイレに寄っていて
遅くなり、階段で一緒になってしまったというわけだ。

国立劇場の「曽我梅菊念力弦(そがきょうだいおもいのはりゆ
み)」の劇評は、「南北劇の“愉しさ”」というテーマで、書い
てみたいと思っている。歌舞伎座の方は、鴈治郎から藤十郎へ襲
名披露する意味を軸に昼の部は、「夕霧」と「廓文章」との違
い、登場人物たちは死ぬのに、演劇としては、永遠の命を持つ
「曽根崎心中」の魅力などを論じてみたい。夜の部は、「先代
萩」を元に「上方歌舞伎とは」と問いかけてみたい。「藤十郎の
恋」は、初代坂田藤十郎紹介の劇ということだろう。そのほかの
演目は、共演者の出し物という位置付けで、少し軽めに論じた
い。まあ、いずれにせよ、時間を作らないと劇評は、完成しない
ので、まだ、まだ、時間がかかりそう。
- 2006年1月15日(日) 22:49:09
1・XX  曇り、後、雨。きょうは、国立劇場へ南北劇を観に
行く。早めに着き、ビールをのみ、俗世間からの離脱の儀式をし
ていたら、SPがうろうろしているので、なにかなと思っていた
が、特に、聴かなかった。個人的な儀式も終り、座席に向ったと
ころ、もっと多数のSPがたむろしている場所に出くわしたと
思ったら、あの、歌舞伎好きの小泉さんが、目の前を通り、休憩
室というか、待機室というか、そういう部屋に入って行った。さ
らに、1500円の、いつもの座席に座っていると、また、目の
前を小泉さんが通って行った。2階の最前列で、両脇をSPに囲
まれて、芝居を観ていた。

結局、彼は、休憩(遅めの昼食)時間に出入りをし、その他の休
憩時間は、動かず、最後は、帰るとき。5回も目の前を通るの
で、菊五郎、菊之助を観に来たのに、なんで、小泉さんを5回も
見なければならないのか。SPが、うろうろしていて、折角、江
戸時代の南北の世界に浸りに来たのに、現実に戻されてばかり。
安いとは言え、このような席を取ってしまったのかと悔やんだ。
まあ、大団円で、終りと思ったら、そうではなかった。

終演後、トイレに入り、ゆっくり出て来て、階段を降りていた
ら、また、SPが多数たむろしている場所に出くわし、また、目
の前を例の小泉さんが通った。その後、SPが、通っても良いと
言ったので、一行の後ろを付いて行く格好になり、規制区域の外
に大勢の人がいるのに、内側を歩いて行くというのは、ばつが悪
いものだ。劇場の外では、藤純子が、見送りに出ていた。雨が、
激しく降っていた。

南北劇は、おもしろかった。菊之助が、断然良い。父親の松助を
亡くしたばかりの松也が、頑張っていた。石部屋倅才次郎で、剽
軽な顔の作りで笑わせた後、いわゆる「対面」では、化粧坂の少
将で、美形振りを見せてくれた。健気に舞台を努めている。菊五
郎劇団で、松也を是非とも一人前の歌舞伎役者に育てて欲しいと
思った。いずれ、近い内に、「遠眼鏡戯場観察」に劇評を書き込
みたい。
- 2006年1月14日(土) 21:50:45
1・XX  10度を超える日もあったが、寒い日が続く。風邪
など引いていないだろうか。あすは、国立劇場に歌舞伎を観に行
く。あさっては、歌舞伎座へ。江戸時代にタイムスリップして、
浮世の憂さを忘れ、気持ちをリフレッシュする。歌舞伎の舞台を
ウオッチングするということは、そういう効果がある。現代の歌
舞伎役者が演じる芝居とは言え、歌舞伎には、江戸時代の時間が
流れているので、空間まで、江戸時代に戻っているように感じら
れる。場内が、江戸時代になっているのに、観客のなかには、江
戸時代になれずに、現代の喧噪を引きずっている人が、いる。そ
ういう人が、隣近所に座っているときがある。今月3日の歌舞伎
座がそうだったが、そういう人と隣り合わせると、まあ、不幸に
なる。どうか、あすの国立劇場では、そういう人に巡り会わない
ようにして欲しい。

歌舞伎好きの人で、このごろ、芝居小屋で巡り会わなくなった人
が多いような気がする。たまに、そういう人の消息を聞くと、歌
舞伎から遠ざかり、人形浄瑠璃へ嵌っている人が目立つ。年賀状
にそういう旨を書いて来た人が、目立つようになった。まあ、確
かに、人形浄瑠璃の方が、メリハリが効いているし、奥が深いも
のね。私だって、人形浄瑠璃の方に嵌り込みそうになるもの。仕
方が無いか。来年、人生のリセットボタンを押して、還暦になっ
たら、自由の天地で、芝居三昧、歌舞伎も、人形浄瑠璃も、現代
演劇も、映画も、見放題、劇評、映評も、時間たっぷり書き放題
というようになれば良いが・・・。

月曜日の16日には、休みを取って、日本ペンクラブの電子文藝
館委員会に出席したかったのだが、外せない仕事が入って来て、
休めなくなった。ことし、最初の委員会だったのだが・・・。

さて、目下、通勤時間を利用して読んでいるのは、今期直木賞候
補作で、これまでに読んでいなかった3冊。あと1冊を読み終え
れば、候補作全作品を読んだことになる。その上で、受賞作を予
想しようか。
- 2006年1月13日(金) 22:05:35
1・XX  59回目の誕生日を迎える。あと1年で「還暦」。
早いものである。相変わらず、公私ともに忙しい日々を送ってい
て、こんなことをしていて良いのだろうかという焦燥感に捕われ
ることもある。

職場の同期の元記者たちが、還暦を待たずに、もう、2人も病没
した。記者というのは、「夜討ち朝駆け」と言われるように、取
材対象に肉迫するため、若い頃は、時間に捕われない生活を強い
られるだけに、身体を痛めつける職業だ。だから、皆、若死する
傾向にある。記者の平均寿命は、60歳台の前半という説を聞い
たことがある。還暦後、どれだけ、長生きをして、自由の天地に
遊ぶことができるか。人生の成果は、そこにこそあると、思うよ
うになったのも、還暦が、間近に迫って来たからだろうか。
- 2006年1月5日(木) 22:30:45
1・XX  歌舞伎座、寿初春大歌舞伎の2日目。まず、夜の部
を観に行った。四代目坂田藤十郎襲名披露の舞台。3が日の場内
は、和服に着飾った女性の姿が目立つ。私の両隣りも、和服の女
性だったが、上手側ふたり連れの女性のひとりは、芝居が始まっ
たと思ったら、突如、膝の上の袋からハンバーガーを取り出し、
食べ始めたので、驚いた。バーガーを包んだ紙の音をさせながら
食べている。この女性は、この後も、今月の歌舞伎座のチラシを
袋から出しては、チラシを拡げて見たり、見終ったら、畳んで袋
に入れたり、実に、煩い。幕間でもないのに、缶入り飲料水を呑
む。困った観客だ。前後の人も、時々、この女性に視線を向ける
のだが、本人は、無頓着。よほど、幕間に注意してやろうかと、
思ったが、「煩いおッさん」などと言われて、正月早々、歌舞伎
見物の気分を害されるのも嫌だしと、思い止めた。本当は、注意
してあげるほうが、親切なのだろうが・・・。顔は、あまり見な
いようにした。不愉快が顔に出てしまうだろうから。でも、観劇
マナーの悪い人が増えたね。最近の芝居小屋は。歌舞伎ブーム
は、ご同慶の至りだが、こういう客は、願い下げ。

一方、下手側の女性は、ひとりで静かに観劇。飲み物も、ちゃん
と、幕間に呑んでいたし、舞台を観ているときも、前傾したりせ
ずに、背骨をしゃんと伸ばして、椅子の背に着けて、行儀良く観
ていた。この人は、着物姿も、良かったけれど、姿勢が良いの
で、隣からは、顔が見えにくいし、じろじろ見るわけにも行かな
い。でも、ちらっと見えたときには、なかなか、美人でしたよ。

ひとりで芝居見物に来て、「誰に見しょとて、紅鉄漿(べにか
ね)付けて」、着物を着ているのかしら、などと、おじさんは、
余計なことを考えてしまったの「こころ」だあ(何故か、小沢昭
一調になってしまう)。

そうはいっても、こちらは、いつものスタイルで、双眼鏡、メモ
帳、ボーペンを走らせながら、舞台をウオッチング。両隣りに気
を取られたり、気に触ったりしながらも、なんとか、観劇終了。

主役の藤十郎は、「口上」「伽羅先代萩」に出演。詳しくは、後
日、「遠眼鏡戯場観察」に書き込むが、「伽羅先代萩」の「床
下」が、豪華版。吉右衛門の男之助と幸四郎の弾正という配役。
この兄弟が、同じ興行の、別の舞台に出ることは、ままあって
も、同じ舞台に同時に上がるというのは、珍しい。
- 2006年1月4日(水) 22:55:02
1・XX  新年快楽。謹賀新年。2006年が、明けた。こと
しは、先行きが、厳しそうな予感がする。個人的には、この1年
を飛び越えて、来年、2007年にこそ期待を込めて、努力を続
けたいと思っているが、どうなることだろうか。  

けさは、曇り。年末に続いていた晴天が途切れ、肌寒い一日に
なっている。屠蘇の代りにワインと雑煮で新年を祝う。昼は、義
母のいる老人ホームへ、家族とともに、新年の小宴を張りに行
く。

05年と06年を繋ぐ橋懸かりにとばかりに、夜半、家族ととも
近くの寺に除夜の鐘を突きに行った。僧侶たちの読経の後、午前
零時前から檀家の人たち、次いで、一般の参詣客の順番で、鐘を
突く。早めに行ったので、一般客グループの4番手。「108」
のうち、20番目ぐらいの鐘の音になっただろうか。気が付く
と、後ろに、長い行列ができていた。行列は、鐘突き堂から境内
入り口まで続いているように見える。

鐘を突き終えて、自宅から持って来た去年の飾りを炊き上げても
らう。焚火の炎が妖しく、煌めく。境内では、甘酒、焼そば、蜜
柑が参詣客に振舞われる。

次いで、近くの神社にも立ち寄る。ここでは、お神酒、甘酒、お
汁粉が振舞われる。数年前まで振る舞いの定番に入っていた地元
の会社製の卵焼きが無くなる。寒さのなか、卵焼きで、お神酒を
一杯というのは、風情があったのだが、不況の影響だろうか。今
回は、お汁粉と焚火の暖をご馳走になる。

帰宅途中も、除夜の鐘が、鳴り響く。寒さを切り裂くように、鐘
の音が、後ろから付いて来る。この地域は、旧道沿いに江戸時代
から続く寺が集まって、寺町を形成している。願心寺、法善寺、
徳願寺など。夜半ながら、旧道は、あちこちの寺を行き交う人た
ちが、目に付いた。帰宅後、入浴。
- 2006年1月1日(日) 10:43:19
12・XX  晴れ。穏やかな大晦日。2005年の掉尾を飾る
書評をまとめて、「乱読物狂」に書き込んだ。机の横に読んだま
ま、積み上げられていた本の山は、幾分小さくなった。まあ、兎
に角、ことしの書評は、この程度の止め、まだ、殆ど書いていな
い年賀状でも、書こう。「乱読物狂」は、本にまつわりながら、
日々の世相を書くし、こちらの「双方向曲輪日記」は、本も映画
も芝居にも触れながら、日記風にこだわる記述に努めて来た。
「遠眼鏡戯場観察」は、芝居のなかでも、歌舞伎に特化して、一
味違う歌舞伎評を残そうと努めて来た。「遠眼鏡戯場観察」は、
いずれ、本にまとめたいと思っている。
- 2005年12月31日(土) 16:29:14
12・XX  冬晴れだが、風もなく、穏やかな一日だった。遅
ればせながら、きのう、印刷を終えたばかりの年賀状を書きはじ
める。

年賀状ばかり書いていると単調なので、合間に、サイト用の仕事
もする。仙台在住作家の熊谷達也、伊坂幸太郎の本を読んだの
で、まとめて、書評を書き、「乱読物狂」に書き込む。

日本ペンクラブの「電子文藝館」委員会の委員から提案されてい
た岡本清一論文「ブルジョア・デモクラシーの憲法と自由および
暴力」「現代アメリカ的自由の限界」を読む。いまの日本の「改
憲前夜」状況に警鐘を鳴らす、イラク戦争でのアメリカの単独行
動主義の破綻、孤立の状況を予見する、といった極めてアップ
ツーデイトな論文であり、この順番で、ふたつとも掲載すべきで
あると、思い、その旨の発言を委員会用のメーリングリストに載
せたところ、早速、電子文藝館館長で、作家の秦恒平さんから賛
同のメールが、流れて来た。

年の瀬も、押し詰まったが、アメリカの閉塞状況は、ますます、
押し詰まって来る。それに追従する小泉政権を、日本国民は、来
年で押し詰まらせることができるだろうか。「官から民へ」。建
築確認を民にまかせっきりにしたら、建物の強度偽装という、利
益主義に足元を掬われた建築士や建築業者、不動産業者が、ゾロ
ゾロ出て来たというのが、2005年の歳末光景では、なかった
か。「閉塞の果ての偽装」。来年は、もっと、「偽装社会」の度
合いが強まるのではないかと懸念する。

- 2005年12月30日(金) 17:31:39
12・XX  吹雪の山形で起きた特急電車の脱線事故は、痛ま
しいかぎりだが、首都圏は、冬晴れの天気が続き、寒さも一入の
年の瀬になっている。きょうは、風も弱く、穏やかだ。年末年始
の休暇に入り、やっと、時間的な余裕ができたので、パソコン
で、年賀状作りを始めた。恒例の、7文字外題を作り、ルビを考
える。個人と時代を滲ませるようにしたいが、これが、なかな
か、難しい。取りあえず、印刷をしておこう。年賀状を出すの
は、遅くなる。

福島県いわき市の知人から、太平洋の鰹節が送られて来た。毎年
送ってくださるのだが、本場の鰹節は、やはり、美味しい。

熊谷達也、伊坂幸太郎と仙台在住の作家の作品を続けて読んでい
る。大阪、仙台、札幌、甲府という、転勤生活のなかで、仙台に
は、3年間住んだ。その仙台の街、あるいは、取材で飛び回った
東北の街が出て来る作品だけに、書評も、ふたりまとめて書こう
と、思う。
- 2005年12月29日(木) 16:13:41
12・XX  歌舞伎の味のある傍役だった尾上松助が、26日
死去。59歳。癌。先月の新橋演舞場の舞台が最後。幅の広い役
作りができる役者だった。特に、三枚目の、とぼけた味が、絶妙
だった。「助六」の通人など。毎日新聞は、朝刊。朝日新聞は、
夕刊。

子役のころ、テレビドラマの「赤胴鈴之助」の主役を演じたとい
うが、私は、テレビドラマは、知っているが、松助主役は、覚え
ていない。ラジオドラマの「赤胴鈴之助」には、鈴之助のガール
フレンド役で、吉永小百合が出ていたと思う。ラジオドラマの
「赤胴鈴之助」のテーマソングの快活なテンポが、いまも、耳に
甦る。

来月で21歳になる息子の松也が、女形として、華のある良い感
じの役者として成長中だっただけに、後見役の父親の死去で歌舞
伎界の孤児にならぬよう菊五郎劇団で面倒を見て欲しい。合掌。
- 2005年12月27日(火) 22:51:36
12・XX  山梨県甲斐市という近ごろの合併でできた市に住
む知人から、「鮑の煮貝」が送られて来た。武田信玄の時代に、
海から採れたばかりの鮑を山国でも美味しく戴こうと工夫した武
田水軍の秘中の秘ともいうべき調理法をベースに、いまも生きる
「鮑の煮貝」の新鮮さを保っている「みな与」の元祖「煮鮑」
だ。甲府市内でさえ、デパートでは売っていない老舗の味。ほか
のメーカーの「煮貝」は、デパートやスーパーなどでも手に入る
が、元祖「煮鮑」は、老舗の店売りでしか手に入れることが出来
ない。そういう「鮑」である。

この知人が送ってくださるので、毎年、正月の料理には、欠かせ
ない珍味となっている。醤油をベースに味付けをしているので、
保存料なども混じっていないから、賞味期限が限られる。いわ
ば、生きた加工品である。

森達也「悪役レスラーは笑う」、黒川博行「暗礁」ともに、書評
を「乱読物狂」に書き込む。

- 2005年12月26日(月) 22:30:00
12・XX  黒川博行「暗礁」を読んでいる。「厄病神」「国
境」に続く、シリーズ第3弾。武闘派のやくざ桑原と建設コンサ
ルタントの二宮のコンビが、またも、ずっこけ道中を展開。関西
弁の会話が軽快で愉しんでいる。詳細は、読了後、いずれ、「乱
読物狂」のコーナーで書評をまとめる。

最近読んだもので、おもしろかったのは、森達也の「悪徳レス
ラーは笑う」という、岩波新書。岩波で、初めて出したプロレス
の本というところが、際物だが、確かにおもしろかった。力道山
時代に傍役で異才を放ったグレート東郷の人生を追っかける。す
でに、書評の下書きは、できているのだが、書評にブラシュアッ
プし、「乱読物狂」に書き込む暇がない。これも、いずれ、書き
込みたい。

さて、このサイトの掲示板は、目下、「艶染連(えどぞめれ
ん)」のための会員制になっているので、キーワードを知ってい
ないと書き込めないようになっている。いろいろ事情があります
ねん。ご理解下さい。最近、掲示板に書きたくても書き込めない
という苦情を戴いたのであります。掲示板の代りに大原への「E
メール」をご利用下さい。おもしろければ、この「双方向曲輪日
記」で紹介します。ワンクッション置いた掲示板への回路とし
て、ご利用下さい。これはという方には、「艶染連(えどぞめれ
ん)」の会員になって戴ければ、掲示板のキーワードもお教えし
ます(会員と言っても、入会金とか、会費を取るわけではありま
せん。無料です。ときどき、オフ会にご招待するくらいです。来
なくても結構です。それで、会員特典が無くなるわけではありま
せん)。それで、ご勘弁下され。

雑誌連載中の、私のコラムのころからの、久しい読者である山口
県宇部市の方が、下関の「ふく」の刺身を送ってくださったの
で、きょうは、一日早いクリスマスイブの夕食に利用させていた
だいた。きょうは、休日出勤だったのだが、休日の通勤電車は、
空いているし、ダイヤ通りに走るしで、まことに快調、寄り道も
せずに、まっすぐ帰宅。新鮮な「ふく」の刺身に舌鼓を打った。
宇部のMさん。おいしゅうございました。ありがとう。


- 2005年12月23日(金) 21:47:55
12・XX  別れも、また、愉しい。君へのメッセージ。  

師走は、年の暮れであると共に、別れの時期でもある。職場のス
タッフが、今月で、退職すると挨拶に来た。人との出逢いは、人
との別れでもある。人は、出逢い、そして、別れる。縁があれ
ば、また、出逢う。出逢いまでの期間は、短い人もあれば、長い
人もある。永遠に別れたままの人もあれば、再び出逢って、結婚
し、そのまま、生涯を共にする人もある。すべて、人生。人それ
ぞれ。別れは、たくさんあるが、出逢いは、一度しかないから、
出逢ったことを大事にすれば良い。人生は長いようで、短い。要
は、地道な積み重ねを心掛け、大望を内実化する努力さえ怠らな
ければ、着実にゴールに到達する。その努力は、長くても、10
年である。ゴールに届かない人は、着実に内実化するような積み
重ねをして来なかっただけだと、私は思う。すかすかの内実化さ
え避け、己を信じれば、10年の努力など、達してしまえば、
「邯鄲の夢」のようなものである。努力を続けている間は、地獄
のようなものであっても。過ぎてしまえば、それは、大したこと
ではない。

要は、10年間の努力を続けられるかどうか。続けること自体
が、才能であって、人の能力は、あまり変わらない人でも(大部
分の人の能力は、チョボチョボである)、努力を続けられるかど
うかは、人によって、大いに違う。持続こそ、成功する才能の秘
密である。

今月で、退職する人へのメッセージ。新しい道に踏み出した君、
頑張ってください。私が生きている限り、君の「心」をいつも抱
いていてあげるから、安心して、チャレンジしてください。失速
しそうになったら、遠慮なく、このサイトへメールを下さい。君
の補助エンジンになってあげるから。画面の左下にメールのマー
クがあります。そこへ、メールしてください。

多分、キリストとかお釈迦様とか、宗教は、そういう心の溢れる
人の信条を体系化したものに過ぎないのだろうと思う。信仰心が
なくても、人との出逢いを信ずることはできる。溢れる思いがあ
り、信じれば、救われます。それは、決して、キリスト教の専売
特許ではありません。原始宗教は、人類の智恵です。人間の叡智
です。大胆に新しい道に踏み出しましょう。君は、まだ、若いの
ですから。溢れる思いさえあれば、希望があります。思いを達し
た頃、また、逢いましょう。これは、別れではありません。再会
の日を楽しみにしています。
- 2005年12月21日(水) 22:59:38
12・XX  作家の童門冬二さんから、「異才の改革者 渡辺
華山」という本(PHP文庫)が贈られて来た。「地方自治職員
研修」という月刊誌に02年から05年11月号まで連載されて
いた「日本史のなかの公務員たち 官吏意外史 渡辺華山」をも
とに加筆修正したものだ。蘭学者として、思想を深めながら、洋
画を取り入れた写実的な画家でもあった渡辺華山は、三河の田原
藩の家老になり、藩政改革を推進しながら、幕府の海防政策に批
判した「慎機論」を書き、「蛮社の獄」に連座した。蟄居中に、
49歳で自刃に追い込まれた。江戸時代の武士たちを自分の公務
員体験と照らしながら、役人=公務員として、新たな光をあてる
という手法で、童門さんは、多くの武士たちを見直して来た。上
杉鷹山、徳川家康、勝海舟、細井平洲、宮本武蔵、小栗上野介な
ど。

童門さんんは、美濃部都政のころの都庁職員幹部で、私とは、そ
のころからのおつきあい。もう、間もなく、30年のおつきあい
になる。だから、私にとっては、童門さんとしてよりも、本名の
Oさんとしての方が、馴染みがある。Oさんは、そのころには、
すでに、童門冬二のペンネームを使って、新選組のことなどを雑
誌に連載していたから、二足の草鞋を履いていたことになる。
1979年、美濃部知事が退職したときにいっしょに辞めて、そ
れ以来、筆一本で本を書き継いできた。「書く」というより、本
の内容を録音するという方法を取っている。いまでも、月に1冊
くらいにペースで本を出しているのではないか。テレビ、ラジオ
の出演、各地での講演など、元気で活躍している。1927年生
まれというから、傘寿も、迫って来た。
- 2005年12月20日(火) 22:28:16
12・XX  作家の秦恒平さんから古稀を自祝するための歌集
「少年」(短歌新聞社文庫版)を戴く。お礼のメールを送る。

*秦さん。まもなく、古稀を迎えられることをお喜び申し上げま
す。その記念の歌集「少年」安着しました。ありがとうございま
す。南アルプスの甲斐駒ヶ岳の麓から、夕方、戻って来ました
ら、我が家の郵便受けに入っておりました。

きょうは、全国的に大荒れの天気で、日本海側では、大雪でし
た。南アルプスの向う側、長野県は、海はありませんが、天気
は、日本海側の天気になるので、大雪です。大雪を降らしている
雪雲が、甲斐駒ヶ岳の山稜を越えて、こちら側、山梨県側の谷
に、一気に下って来ている様が、時時刻々と判ります。強い風が
吹いています。山稜に溢れ出た雪雲の上には、青空が拡がってい
るのです。

歌集「少年」を、私は、3冊持つことになりました。初めて手に
したのは、不識書院刊行のものでした。洒落た表紙が印象的でし
た。2冊目は、もちろん、「湖の本版」です。そして、3冊目
は、今回の短歌新聞社文庫です。早速、拝読し始めました。

多感で、優秀で、初々しい少年の息吹が伝わって来ます。「道ひ
とすぢに瞑(く)れそめにけり」と18歳にして、詠みあげた青
年も、無事、古稀を迎えたことを、心から慶賀します。カバーの
写真が良いですね。髪を一部白く染めたような少年の顔に見えま
すよ。

歌集は、じっくり、味わいながら、拝読します。ありがとうござ
いました。   大原 雄

秦さんは、少年のころからの歌心を胸に秘めながら、医学書院の
編集者になり、「清経入水」で太宰治賞(1969年)を受賞し
て、作家になり、多数の小説、評論を書き続けてきた。目下、私
家版の個人全集「湖(うみ)の本」を刊行中で、小説、エッセイ
で、あわせて86冊に達している。こちらは、間もなく、「米
寿」(88)を迎えることになる。
- 2005年12月19日(月) 22:14:43
12・XX  所用があり、休暇をとった。所用を済ませた後、
京橋まで試写会を見に行く。来年の陽春岩波ホールでロード
ショー公開されるイタリア映画「家の鍵」を見る。出産で19歳
の恋人を失ったショックで、生まれて来た息子も恋人の実家に預
けたまま、15年間も、逢ったことがなかった男が、障害のある
息子を連れてリハビリの施設まで旅をする、その数日間が描かれ
る。15歳にして初めて父親に逢った少年は、当然のことなが
ら、父親に馴染まない。父親も、15年もの間、親の責任を放棄
していた疾しさがある。そういうふたりが、ミュンヘンからベル
リンへの列車の旅、施設のある町でのホテル暮し、施設でのリハ
ビリ、迷子騒ぎ、ノルウェーへの船の旅など。15年の空白を経
て、親子が、絆を取り戻すまでが描かれる。男は、すでに再婚を
していて、妻と幼い息子もいる家へ障害のある長男の少年を引き
取る決意をするまでの軌跡の物語でもある。家の鍵とは、新しい
家庭を再構築するための、鍵でもあった。04年のヴェネチア国
際映画祭受賞作品。
- 2005年12月15日(木) 21:18:20
12・XX  きょうは、曇り。一日中、肌寒い。積み上げられ
ていた読書済みの本の山からいくつか引き出し、時代小説論をひ
とつにして、書評をまとめる。先ほど、このサイトの「乱読物
狂」に書き込んだ。このほか、旧式のオートバイがたくさん出て
来るツーリング小説、森のいきものがたくさん出て来る森の観察
エッセイなども、書き込む。電子文藝館掲載への推薦作品も読ま
なければならない。ひと休みしたら、読んでみよう。
- 2005年12月11日(日) 17:20:04
12・XX  劇評を書き続けているうちに、窓の外を見ると、
すっかり、暗くなっている。今月の歌舞伎座「夜の部」の劇評
は、「昼の部」ほど、書き込む情報がないので、比較的早く書き
終えた。「絵本太功記」の十段目「尼ヶ崎閑居」が、「太十(た
いじゅう)」と呼ばれるのに対して、「恋女房染分手綱」の十段
目「重の井子別れ」は、「恋十(こいじゅう)」と呼ばれる。今
回は、福助と児太郎の親子で、「子別れ」が演じられる。「赤じ
じい」「いやじゃ姫」、あるいは「しびれ姫」などという、役柄
に付いての通称もあるほどの人気演目だ。「もうひとつの船弁
慶」は、玉三郎の意欲的な試み。でも、臍になる演目がない感じ
のまま、劇評書き込む。
- 2005年12月10日(土) 17:25:51
12・XX  予定通り、12月の歌舞伎座「昼の部」の劇評を
サイトの「遠眼鏡戯場観察」にさきほど、書き込んだ。このサイ
トの劇評としては、初登場の「盲目物語」を少し詳しく書き込ん
だ。

ひと休みして、「夜の部」の劇評を書きはじめることにしたい。
マンション6階の窓から見える師走の空は、晴れ渡っている。歌
舞伎座の坂田藤十郎の襲名披露興行のチケットの先行発売が、
きょうから始まった。初日の桟敷席は、もう、売り切れだが、勘
三郎の襲名披露興行のときのような勢いは、無さそうな感じだ。
- 2005年12月10日(土) 13:41:33
12・XX  歌舞伎座昼の部の劇評は、やっと、所作事2題ま
で書き進んだ。あす、「盲目物語」を書けば、サイトの劇評「遠
眼鏡戯場観察」に掲載できるだろう。引き続き、夜の部を書き進
めることになる。今週末は、劇評三昧の時間を過ごそうか。

株の市場は、コンピュータ社会だから、ちょっとした操作ミス
が、巨額の損失を生み出すことが分かった。みずほ証券の担当者
が、指値で、1株61万円売りと入力すべきところを、61万株
1円売りと入力してしまい、すぐに気が付いたアシスタントの指
摘で、取り消しをしたのだが、間に合わず、大損したという始
末。インターネットを使った株の売買は、慣れれば、簡単にでき
るだけに、個人投資家も注意が必要だろう。

立川のビラ撒きが、2審で、逆転有罪に。表現の自由の手段とし
て誰にでもできるビラ撒きと住居侵入という財産権侵害、さらに
居住者の知る権利とどれが重要か。表現の自由は、民主主義社会
の根幹に関わるだけに、最優先されるべきではないか。共同住宅
の場合、管理者の意志と居住者の総意とは、どう区別するのか。
この判決の波紋は、大きいと思う。民主主義社会を担保するもの
は、さまざまなチャンネルでの意志の表現の保障であり、知る権
利の保障であろう。何が、最優先されるべき価値かというのが、
この事件の最重要課題ではないだろうか。
- 2005年12月9日(金) 23:25:38
12・XX  わんさか、わんさか。「弁慶上使」、「弁上」、
「かたみの片袖」、「御所三(ごしょさん)」の、おわかの辺り
の劇評を福助の役者論を軸に書いている。次いで、恋する弁慶、
大泣きする弁慶の辺りの劇評は、橋之助の役者論を軸に書くこと
になろう。

卿の君には、さわやか芝のぶが、登場。おわさと弁慶の間にでき
たのが、後の腰元・しのぶ。卿の君の身替わりに殺される、悲劇
の主人公しのぶは、坂東弥十郎の息子新悟が初演。

しのぶ殺しを仕掛けた侍従太郎(弥十郎)は、卿の君殺害の責任
をとって、追い腹を切った形で、実は、鎌倉方を欺く偽首工作を
担保しようとする。息子・新悟の後を追って、切腹する父親・弥
十郎という二重性。

まあ、あまり書くと、「遠眼鏡戯場観察」のおもしろさを殺ぐこ
とになりかねない。続きは、完成稿でお目にかけよう。
- 2005年12月6日(火) 22:36:32
12・XX  歌舞伎座、12月の興行は、襲名で、ことしいち
ばんの人気役者・勘三郎が玉三郎を相手に人気演目「盲目物語」
(谷崎潤一郎原作の新作歌舞伎)を昼の部の軸に据えたほか、夜
の部は、勘三郎が初挑戦する「松浦の太鼓」玉三郎が、ことし6
月、京都南座で新演出で挑戦した「船弁慶」の歌舞伎座での初披
露となるなど、話題満載。以前なら、歌舞伎座の舞台納めは、市
川猿之助一座の指定席だったのだが、猿之助病気休演では、仕方
がない。市川右近ら、猿之助一座の大半は、藤山直美や猿之助夫
人の藤間紫らといっしょに、新橋演舞場で、スーパー歌舞伎なら
ぬ、スーパー喜劇「狸御殿」と、あいなっている次第。歌舞伎座
の方には、玉三郎のご指名で笑三郎が、「盲目物語」で、出演し
ている。猿四郎も、「船弁慶」に出演。

週末に別の用事があったので、その歌舞伎座の舞台を初日の2日
(金)に休暇を取り、昼と夜の通しで、観て来た。「盲目物語」
ゆえに、昼の部の方が人気があり、初日から昼の部は、空席が少
なかったが、夜の部は、空席も結構、あった。しかし、2階席で
は、初日とあって、普段では見かけない光景に出くわしたので、
その辺りは、夜の部の「贅言」で、書いておきたいと、思う。い
ずれにせよ、目下、構想をまとめているので、このサイトの「遠
眼鏡戯場観察」に書き込むのは、もう暫く掛りそう。関心のある
人は、愉しみにしながら、待っていてください。特に、「盲目物
語」は、私は、2回目の拝見だが、このサイトの「遠眼鏡戯場観
察」では、初登場なので、きちんと書きたいと、思っている。
- 2005年12月4日(日) 22:21:31
12・XX  高村薫「新リア王(上・下)」は、2巻で900
ページ近い大著である。その書評を今月の「乱読物狂」の第1号
の書評として、さきほど、掲載した。大著であり、力作であり、
問題作であり、ということなのか、まだ、あまり書評もでていな
いようである。ジクソーパズルのように、仕掛けが考え抜かれて
いるので、ピース一片も疎かにせずに読み込まないと作者の手の
内で踊らされてしまう。そういう怖い作品であるが、私は、果敢
に挑戦をしてみた。その結果が、「乱読物狂」に書き込まれた書
評である。関心のある方は、是非とも、読んで批評して欲しい
と、思う。いま、朝晩の通勤電車のなかが、私の書斎になってい
て、池内紀「森の紳士録」を読んでいるが、これも、もう直、読
了となる。
- 2005年12月1日(木) 23:38:41
11・XX  読み終わったまま、書評が書かれず、私の机の横
に積み上げられたままになっている本の山が、崩れそうになって
来たので、いくつか書評をまとめて書き、このサイトの書評コー
ナー「乱読物狂」に書き込んだ。

日本ペンクラブの電子文藝館の「随筆」コーナーに掲載する予定
の松本幸四郎、藤間紀子夫妻のエッセイの校正も済ませた。新歌
舞伎作品として、「戯曲・シナリオ」コーナーに入れてはどうか
と相談されて、渡された2作品のうち、ひとつは、読んでみた。
読了後、うーん。どうかなと、思っている。もうひとつも、読み
はじめた。これを読み終わったら、どちらかに決めようかとも、
思う。週末は、家に居ればいたで、忙しい。外出したときより
は、時間はゆっくり流れるけれども、やはり、忙しい。最近は、
週末、遠出することも多いので、それはそれで、忙しい。

震度5程度で倒壊する恐れがあるマンションやホテルの建設は、
建築士、建設会社、不動産開発会社、建築確認をする民間の検査
会社・自治体、国を含めて、杜撰さが浮き彫りになり、杜撰さの
構造的な問題が、まるで、戦争中の「無責任の連鎖」構造同様に
明らかになりつつある。この国は、確実に壊れはじめているのだ
ろう。どういう理由であれ、ちょっとした強い地震で、高層の建
物が、崩壊するということが判っていながら、利潤のため、生活
野ためという理由で、それを侵攻させるという精神構造は、理解
できない。まるで、都市のなかに自爆する建物を平気で紛れ込ま
せているというのは、自爆テロ路線を行くテロリストたちのよう
ではないか。発覚しなければ、いまも、未来も続けていたのだろ
うから。この人たちは。
- 2005年11月27日(日) 22:24:22
11・XX  週末の休日、久しぶりに神楽坂に行って来た。毘
沙門天善国寺境内で開かれた二ツ目の落語家5人と前座の落語家
1人の寄席「落語大陸」を聞きに行ったのだ。飯田橋から神楽坂
を昇る。商店街は、人でも多く、賑わっている。いま、都内の商
店街は、どこも、客が少なく対策に苦慮しているが、神楽坂の商
店街は、私の知人で、定年後、「ふるさと帰り」をした講談社の
元編集者らが、地域振興にいろいろ智恵を絞りながら、活動して
いるから、その成果も出ているのだろう。ウイークデイも活況を
呈しているのだろうか。わたしのふるさと駒込の商店街は、閑散
としている。わたしも、自由の天地に住むようになれば、商店街
で苦戦している元同級生たちと力を合わせて、地域振興に智恵を
出そうかなどと考えてしまった。

さて、「落語大陸」である。毘沙門天の境内にある集会所のよう
な建物のなかが、俄寄席に変身していた。床に座布団が敷き詰め
られている。普段なら、善国寺のお坊さんが、信者を前に有り難
い説教を垂れるのだろうが、きょうは、落語家が、笑いを垂れ
る。舞台のようなものがあり、何故か、歌舞伎の市村座の定式幕
がある。神楽坂の商店街が寄贈したものだ。松竹が経営する歌舞
伎座の定式幕は、木挽町所縁の森田座の定式幕を引き継いでい
る。こちらは、私企業だから、他者が、歌舞伎座の定式幕を使う
ことを制限しているのかも知れない。国立劇場は、市村座の定式
幕だが、こちらは、公的だから、ほかでも使って良いとしている
のかも知れない。歌舞伎をイメージする場合、市村座の定式幕に
出会うことが多いのも、そのためかもしれない。

さて、肝腎の「落語大陸」の方だが、開演の20分前、私が会場
に入ったときは、殆どいなかった観客が、次々と入って来た。開
演時は、8分か、9分の入りか。盛況だろう。

前座の駒次「開口一番」は、「出来心」という泥棒見習いの話。
なにごとも、新人は、見習い期間があるというわけだ。次いで、
才紫の「七段目」。歌舞伎好きの若旦那の話。タイトルは、もち
ろん、「仮名手本忠臣蔵」から、付けている。歌舞伎の科白廻し
を言う場面が多いので、歌舞伎の勉強も欠かせない。錦之輔の
「恐怖の初出勤」は、新作。通勤電車が、テログループに乗っ取
られる話。新作は、芝居の世話物に当たるから、世相を写しなが
ら、世相を批判する辛口の笑いが求められる。東京では、珍しい
上方落語の里光は、「宿屋仇」。賑やかな町人3人組と宿で隣り
合わせた武士の騒音防止対策をひねった話。東京の秋葉原の電器
街を大阪の電器街日本橋(にっぽんばし)ヘ繋ぎ、昔の日本橋
が、宿場であり、そこで起きた話として、「宿屋仇」へ入って行
く。兵庫県出身だが、大学時代から関東暮しが続くなか、関西弁
も磨きながら、東西の文化の違いも、若い人たちに判るよう工夫
しながら、枕に入れるというスタイルは、今後も、維持して欲し
い。師匠は、鶴光。天どんの新作「なりものの夕べ」は、今回の
テーマが、「鳴りもの」ということで、新作、古典を問わず、話
に鳴りものを入れるということで、付けたに過ぎず、単なる記
号。夏休み明けの、「一夏の経験」を済ませた女子学生の変化を
男子学生の目で描くという話。小権太は、人情噺「立ち切り」。
遊女との交際を禁じられ、100日間、蔵に押し込められていた
若旦那と待切れずに病死した遊女の話。いずれも入門以来、数年
から10年の二ツ目落語家の精進振り、藝への意欲が感じられる
高座であった。お囃子の、妙齢な女性・太田そのさんの三味線も
交えての「お楽しみ」もあり、休憩を挟んで、4時間近い俄寄席
が終って、外へ出ると、神楽坂の町は、師走の商店街の風情に
なっていた。
- 2005年11月27日(日) 11:38:03
11・XX   歌舞伎座の劇評は、昼の部に続いて、夜の部
も、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込むことができた。夜の
部は、初見の「日向嶋」とサイトの劇評としては、初登場の「大
経師昔暦」に時間を裂いて、じっくり書き込んだ。

いずれ、自由の天地に住めるようになれば、歌舞伎役者論を書い
てみたいが、まず、雀右衛門論、仁左衛門論辺りから筆を取りた
い。そのためには、いまのような長めの劇評を日常的に積み重ね
て、基礎資料にしておきたいと、思う。それゆえ、時間をかけ
て、調べることは、できるだけきちんと調べながら、劇評を書き
続けておきたい。
- 2005年11月23日(水) 22:30:32
11・XX  今月の歌舞伎座の劇評のうち、取りあえず、昼の
部を書き込んだ。「息子」という演目以外は、馴染みのあるもの
ばかりなので、役者論、演技論になってしまうが、お許し戴きた
い。ただし、「人情噺文七元結」の幸四郎は、時代物を演じると
きの、「深刻郎」ぶりは、影を潜めて、世話物の幸四郎という、
新しいイメージ作りに成功していて、見ものであったと思う。あ
さってまで、歌舞伎座で上演しているので、敬遠していた向き
は、観に行かれたほうが良いのではないだろうか。ついで、夜の
部の劇評も、今夜中のサイトへの掲載を目指して、引き続き、書
きはじめよう。
- 2005年11月23日(水) 13:58:04
11・XX  遅れている歌舞伎座の劇評は、今夜も書き継いで
おり、昼の部が、あすには、掲載できるだろう。あすは、休日な
ので、一気に書き進み、夜の部も、サイトに書き込みたい。とこ
ろで、きのうの「日記」の「朱末」は、「週末」の誤り。訂正し
ておく。
- 2005年11月22日(火) 22:32:21
11・XX  朱末は、職場の同期で、青春時代から、記者とし
て、30年以上も似たような体験をして来た男が、57歳で、生
涯を閉じたので、葬儀に参加し、お別れをして来た。同期の死
は、これで、4人目になる。自殺が2人、病死が、2人。考えれ
ば、過酷な職場であった。

きょうは、休暇を取り、東京・茅場町にある日本ペンクラブの会
議室で、日本ペンクラブ電子文藝館委員会に出席して来た。新し
い掲載作品の提案の審議、電子書籍化の動きの最新情報、電子文
藝館ページのあいようなど多角的な話合いが、2時間余り続く。
会議終了後、電子文藝館委員会の前の委員長で、文藝館館長の作
家の秦恒平さんに誘われて、久しぶりに一献傾けあってきた。委
員会では、定期的に顔を合わせているが、一緒に、酒を呑み闊達
に語り合うのは、3年ぶりくらいか。

結局、話は、今週の25日の「ペンの日」で70周年を迎える日
本ペンクラブのありよう(なにせ、初代会長は、島崎藤村、因
に、当代会長は、井上ひさし、というから、古い)とか、電子文
藝館の運用の問題(秦さんは、委員長から館長になったが、その
間、ずうと副委員長として、補佐、と言っても、昼間の職場で
は、「正業」につきと帰宅後、就寝前の時間と休日の時間で「副
業」対応という二足の草鞋を履き続けている身では、十全な対応
などできるはずもなく、どうしたものか、というような批判を含
めた、「相談」を受けると覚悟をしていたが、結局、先日観た、
国立劇場と歌舞伎座の昼と夜の部の批評を含めた歌舞伎談義に花
が咲き、お互いに、身直に良き話し相手がいないために、よそで
ぶつけられないような役者談義に終始し、お互い、日頃の歌舞伎
批評への欲求不満を解消して、良い気持ちで帰宅したようだ(少
なくとも、私の方は、歌舞伎談義に、「話の快楽」を満喫した。
課題は、書く快楽だ)。

いまだに、書き掛けのまま、先に進まない、今月の歌舞伎座の劇
評の続きを書くためには、私にとって、良い刺激を戴いた恰好に
なった。帰宅途上の電車のなかで、そういう思いが、俄然、膨れ
上がり、電車を降りた途端にホームから秦さんの自宅に電話をし
たら、まだ、ご帰還でなく、さらに、久しぶりに話をした夫人に
秦さん本人と間違えられてしまった。なぜか、「酔っぱらった声
が、(秦さんと)似ているとのこと」であった。まあ、体型が似
ているので、喉だけでなく、体内と共鳴する声色は、似ているか
も知れないが、それより、京都の中学生時代から、50年余りも
歌舞伎を観続けている秦さんの歌舞伎の見方と共鳴する部分が多
かったことの方が、嬉しく感じた。遅れている歌舞伎座の劇評
も、裏では、それなりに筆は進んでいるので、間もなく、このサ
イトで、公開できると思うので、待っていてくだされ。
- 2005年11月21日(月) 21:42:24
11・XX  歌舞伎座建て替えの記事が新聞に載っていた。2
年後の着工で、2010年の完成予定という。工事中は、代替え
劇場で歌舞伎公演。いまの歌舞伎座は、楽屋の大道具の出し入れ
が不自由だと聞いていた。裏方の使い勝手の良い劇場が必要だろ
うし、観客席の座席の空間を広げることも重要だ。役者が活躍す
る檜舞台は、もともと、大舞台だし、放っておいても、さらに、
充実されるかもしれない。そこは、心配さえしていない。裏方と
観客を大事にする新歌舞伎座にして欲しい。

ところで、ロイヤル席と3等席の、いちばんの違いは何か、知っ
ていますか。座席の立派さなどではなく、座席の巾の広さが、違
うのです。ゆったり肱が置けるかどうか、膝が窮屈かどうか、数
時間の演劇を楽しむ空間の贅沢さは、肱、膝のゆったり度と、席
の位置関係で、料金が跳ね上がるのです。

さて、職場の同期で、同じ記者なかまで、青春時代から定年期ま
で過ごした友人が、きのう、病死した。57歳。同期では、2人
目の病死。そう、私たちの世代も、老死というには、早すぎる
が、まあ、年齢相当の病死をし始めたということだ。彼とは、歌
舞伎座でも、ときどき、出逢った。記者として、一緒に研修を受
けた頃の彼の表情を思い出す。3年前、癌になり、折に触れて、
病気との戦いの様を他人事(ひとごと)のようにリポートする
メールをよこしたこと。ことしの8月、無事、定年を迎えたこと
を喜んでいた。彼の本心としては、57歳の定年を前に、死を迎
えることも覚悟していたのだろう。それが、なんとか頑張って定
年を迎えたことで、気持ちが緩くなったのか、喜びの便りから、
3ヶ月後の訃報であった。死ぬ直前まで、明瞭な意識があったと
いう。達成感を抱いて、亡くなって行ったことと思う。あさっ
て、横浜まで、葬儀に行く。合掌。
- 2005年11月17日(木) 22:36:15
11・XX  11月は、歌舞伎の顔見世月である。江戸時代な
らば、向う1年間の芝居小屋としての、いわば「所信表明」とい
うか、「経営方針」を発表する月である。我が小屋は、向う1年
間、こういう役者衆という顔ぶれで営業して行きますと宣言する
のだ。

今回は、先日拝見した国立劇場と歌舞伎座の歌舞伎公演のうち、
まず、国立劇場の通し狂言「絵本太功記」の劇評を書き上げ、先
ほど、サイトの劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。
続いて、数日かけて、歌舞伎座の昼の部と夜の部の劇評を順次書
き込んで行きたい。
- 2005年11月15日(火) 23:07:09
11・XX  11月は、歌舞伎の顔見世月である。江戸時代な
らば、向う1年間の芝居小屋としての、いわば「所信表明」とい
うか、「経営方針」を発表する月である。我が小屋は、向う1年
間、こういう役者衆という顔ぶれで営業して行きますと宣言する
のだ。

今回は、先日拝見した国立劇場と歌舞伎座の歌舞伎公演のうち、
まず、国立劇場の通し狂言「絵本太功記」の劇評を書き上げ、先
ほど、サイトの劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。
続いて、数日かけて、歌舞伎座の昼の部と夜の部の劇評を順次書
き込んで行きたい。
- 2005年11月15日(火) 23:06:31
11・XX  休日の一日中、歌舞伎座で過ごす。昼の部は、期
待していなかった幸四郎の世話物「人情噺文七元結」の初役・長
兵衛が、おもしろかった。幸四郎の演技に渥美清の寅さんを思い
出す。「熊谷陣屋」は、仁左衛門の直実、雀右衛門の相模で最
高。この演目は、何度観ても、飽きない。夜の部は、上方歌舞伎
の「おさん茂兵衛」が、演出、大道具が、江戸歌舞伎に比べて、
えぐいが、おもしろかった。幸四郎・染五郎親子の「連獅子」
は、染五郎の元気さが印象的で、良かった。今月は、歌六が、午
前中に歌舞伎座昼の部の「息子」を済ませ、午後は、国立劇場の
「絵本太功記」に出演、また、歌舞伎座に取って返して、夜の部
「おさん茂兵衛」に出演と活躍。いずれも、味のある役柄で、存
在感があった。帰宅後、歌舞伎座の劇評の構想を錬るが、昼夜と
も、良く観る演目が多いので、役者論・演技論が軸になりそう。
いずれのせよ、「遠眼鏡戯場観察」への掲載は、暫く時間がかか
りそう。
- 2005年11月13日(日) 23:26:21
11・XX  国立劇場へ、通し狂言「絵本太功記」を観に行っ
て来た。十段目の「太十」ばかりが、上演されるなかで、国立劇
場らしい存在感を強調して、武智光秀の場面を中心にした通しで
ある。病気休演中の團十郎の代役として、橋之助が、光秀を演じ
る、女形の魁春、孝太郎が、それぞれ、立役を演じるというの
も、楽しみ。魁春は、光秀の息子、武智十次郎、孝太郎は、前半
は、森蘭丸、後半は、十次郎の婚約者・初菊の二役だ。真柴久吉
は、大御所の感がある芝翫、尾田春永は、我當である。今夜は、
劇評の構想を錬っただけに留めて、劇評は、後日書き込む。あす
は、歌舞伎座へ行く。昼と夜の通しで拝見する。来週は、帰宅後
の時間を小間切れにしながら、劇評を書き継ぐことになるだろう
から、「遠眼鏡戯場観察」での掲載は、次の週末辺りか。
- 2005年11月12日(土) 21:28:43
11・XX  浜松と静岡に行って来た。浜松は、若い頃の家康
が建てた城跡が、公園になっている。緑豊かに整備された公園内
には、「若き日の家康」という銅像が立てられていた。復元され
た小振りの天守閣が、小高い丘の天辺にある。

一方、静岡の駿府城は、3つの堀に囲まれた、豪壮な城跡が、や
はり公園になっている。こちらは、東隅に残された門と巽櫓を見
ることができる。江戸城と同じ、「紅葉山」という庭園が整備さ
れている。有料の庭園である。天守閣は、復元されていない。大
御所時代と思われる家康像が、こちらの公園内には、ある。外堀
は、石垣も立派であり、ゆたかな水を貯えていた。本丸を囲んだ
内堀が、発掘され、一部が、復元されている。本丸跡は、なにも
ない。枯葉が、折からの風で、吹き舞っていた。

家康は、今川義元時代に人質として、この城で少年時代を過ごし
た。その後、戦国の群雄割拠のなかで、次第に頭角を現し、今川
氏を破った武田氏を滅ぼして、城主になった家康は、秀吉によっ
て、江戸へ追いやられたが、結局、豊臣方を破り、天下を握り、
江戸幕府を開き、幕府の執権を息子に譲った後、「大御所」とし
て、駿府城で、3回目の城住まいをした。それだけに、駿府城趾
は、江戸城とも比較できるような豪壮さを偲ばせる佇まいだと感
じたが、内部の堀は、埋め立てられていて、城郭も、分りにく
い。公園内に立てられた絵看板で偲ぶしかない。

そういえば、信長は、新歌舞伎に「若き日の信長」(大仏次郎
作)という演目もあれば、信長や秀吉は、変名ながら、歌舞伎に
も良く登場するが、「若き日の家康」どころか、家康は、登場し
ない。江戸期に発展した歌舞伎は、ご政道批判に煩かった徳川幕
府に気兼ねをして、たとえ変名であっても、徳川家の始祖は、登
場させられなかったのだろう。昭和の真山青果の新歌舞伎「将軍
江戸を去る」で、十五代将軍・慶喜が出て来るのは、珍しいと言
えるのだろう。「天正18年8月1日、徳川家康江戸城に入り、
慶應4年4月11日、徳川慶喜江戸の地を退く。・・・江戸の地
よ、江戸の人よ、さらば」という科白ぐらいか、家康が出て来る
のは・・・。

贅言:さて、浜松は、東海道の真ん中に位置する。派松駅前の広
場は、車は、地上、人は、地下というように二重構造になってい
て、車と人が分離されているのだが、地下は、想定されているよ
うな東海沖地震が襲って来たら、却って危険なのではないかと心
配してしまった。

ところで、広場の上と下を結ぶエスカレーターに乗ったとき、
ちょっとした違和感を感じた。それは、エスカレーターに乗った
際、歩かずに立ち止まる人が、東京なら皆、左側に立ち止まる
し、大阪なら皆、右側に立ち止まる。そして、空いた片側を急ぐ
人は、歩いて行くのだが、さすが、東海道のど真ん中のせいか、
左に立ち止まる人と右に立ち止まる人が、それぞれ適当にいるの
で、急いで歩く人は、じぐざぐと歩いて行く。東京と大阪の要素
が、真ん中の浜松では、やはり、入り交じっているのかと思い、
ひとりで、可笑しくなってしまった。

そういえば、昔、「あほばか分布図」というテーマの本があり、
東の「馬鹿(ばか)」西の「阿呆(あほ)」は、どこまで分布し
ているのかを実証的に調べた本があったが、あれでは、やはり、
浜松あたりで、阿呆と馬鹿が混在していたのだろうか。そういう
馬鹿げたことを考えてしまった。阿呆らしい。
- 2005年11月9日(水) 21:09:23
11・XX  「乱読物狂」に、11月最初の書評を書き込ん
だ。荻原浩の「あの日にドライブ」と「さよならバースディ」で
ある。特に、最新作の「あの日にドライブ」は、人生が、過去に
遡れ、何処かの時点から、リセットボタンを押して、別の人生を
やり直すことができたら、どうだろうか、というテーマである。

来年50歳を迎える荻原は、人生80年の現代では、大雑把に、
20歳で社会人スタートと仮定すれば、まさに、社会人人生の、
ド真ん中である。来(こ)し方、30年をベースに、これから来
る30年を迎え撃つ年齢である。それだけに、リセットボタンの
リアリティが、担保される。おもしろく、一気に読んだ。
- 2005年11月3日(木) 21:21:02
10・XX  平城京を俯瞰する。一転すると、したしたした。
雫が落ちる。女性(にょしょう)を思う気持ちが、50年の眠り
を醒ます。俺は、だれなのか。俺は、どこに居るのか。いまは、
いつなのか。甦るのは、死者である。 

折口信夫の小説「死者の書」が、映画になった。それも、アニ
メーション映画。アニメーションといっても、川本喜八郎の人形
を主体とした人形アニメーション。テレビで放送された人形劇
「三国志」と同じ、あの人形たちが、命が吹き込まれ、華麗なア
ニメーションのバックとともに、折口信夫の世界を再構築する。
初めての映像化の試み。川本30年の構想を経ての映画化であ
る。先日、試写会で、作品を拝見。

奈良の當麻寺(たいまでら)に伝わる中将姫(ちゅうじょうひ
め)の蓮糸曼荼羅伝説と大津皇子(おおつのみこ)の史実をベー
スに藤原南家(ふじわらなんけ)の郎女(いらつめ)が生きた奈
良時代を描く。郎女の信仰心が、謀反の罪を着せられ、若くして
非業の死を遂げた大津皇子の彷徨える魂を鎮める。

8世紀半ばの奈良。藤原南家の娘・郎女(声:宮沢りえ)は、
「称讃浄土経」の写経に勤しんでいる。春分の日、郎女は、二上
山の上に荘厳な「俤(おもかげ)」を見た。俤は、瞬時に現れ、
瞬時に消えた。それをきっ掛けに千部写経を発願する。秋の彼岸
中日。郎女は、再び、俤を見る。1年後の同じ春分の日、千部写
経を済ませた郎女は、しとしとという雨の音で気づき、「俤び
と」に導かれるまま、西へ西へと歩き、二上山の麓にある當麻寺
に辿り着く。女人禁制の當麻寺の結界を犯した郎女は、庵室のな
かで、寺の語り部の媼(声:黒柳徹子)から、50年前、飛鳥の
時代に、謀反の罪で処刑された大津皇子(声:観世銕之丞)の悲
劇を聞かされる。

処刑の直前、大津皇子は、処刑を見守る群衆のなかに、耳面刀自
(みみものとじ)という女性を見初め、女性への執心から亡霊
(未完成霊)になっていた。皇子の亡霊にとって、その耳面刀自
は、郎女に重なって見えたし、郎女にとっては、庵室に夜明けに
現れる皇子が、俤に重なって見えた。郎女は、二上山に葬られた
大津皇子の亡霊に誘(おび)かれて、ここまで連れて来られたの
だと、語り部の媼は言う。俤のエロスが、郎女の心に沁み入る。
やがて、郎女は、俤の寒々とした身を覆う衣を作ろうと、蓮の糸
で布を織りはじめる。夢とともに、エロスの饗宴が、機織りに純
化する。織り上げた蓮糸の布に俤の姿を描く。白日夢のように甦
る数千地湧の曼荼羅。

郎女は、大津皇子の亡霊に取り付かれ、神隠しにあったとして、
村人の長老(声:三谷昇)は、村人たちとともに大津皇子の塚に
詣で、魂乞(たまごい)をする。郎女と大津皇子の亡霊の物語を
軸に、大伴家持(おおとものやかもち、声:榎木孝明)と恵美押
勝(えみのおしかつ、声:江守徹)が絡んで織り成す人形アニ
メーションの映像は、繊細華麗である。

テーマは、執心と解脱の曼荼羅。ヒロイン郎女の愛の力が、愛憎
に苦しむ男の怨霊を浄化する。戦乱の果ての、未完成霊を後の世
を生きる者が、鎮魂する。それが、文学、芸能の役割ではないか
という折口信夫の思いが、結晶したのが、「死者の書」だとすれ
ば、折口の問いかけは、いまも、回答を得ないまま、大津皇子の
ように亡霊となって、彷徨った末に、この映画になって甦って来
たのかも知れない。

人形アニメーション映画というのは、人形を少しずつ動かして、
24駒を撮影すると1秒分の映像ができるという手間のかかる映
画製作だ。人形のエロスが、清清しい。布にワイヤーが仕込ま
れ、ワイヤーが少しずつ動かされると、布がはためく動きにな
る。一日かかって、撮影できる映像は、5秒ぐらい。それが積み
重なって、70分の素晴しい映画ができ上がった。精緻な小道
具、大道具の作り。群衆場面では、大勢の人が作った人形が活躍
する。人形アニメーション映画は、集団製作であり、総合芸術で
ある。公開は、来年、2006年2月11日。東京・神保町の岩
波ホール。
- 2005年10月29日(土) 17:59:51
10・XX  折口信夫の名作「死者の書」が、華麗な人形アニ
メーション映画になった。人形製作と脚本、監督は、川本喜八
郎。人形を少しずつ動かして、24駒を撮影すると1秒分の映像
ができるという手間のかかる映画製作だ。一日かかって、5秒ぐ
らい。それが積み重なって、70分の素晴しい映画ができ上がっ
た。先日、試写会に行って来たので、近いうちに、映評を書き込
みたい。
- 2005年10月24日(月) 22:17:03
10・XX  時代小説の書評を「乱読物狂」に書き込んだのに
続いて、杉浦日向子のエッセイとも、掌編小説とも、とれるよう
な洒脱な2冊「4時のおやつ」と「隠居の日向ぼっこ」の書評を
続けて、書き込んだ。いずれも、時代小説好き、歌舞伎好きの人
には、おもしろい本。もちろん、おやつ好きの人にも、小道具好
きの人にも、役に立つ。日向子さんは、あの世で、日向ぼっこを
しながら、この世を見ているかも知れない。彼女の好きな餅など
食べながら。合掌。
- 2005年10月19日(水) 21:56:15
10・XX  前日スケッチをし、一晩寝かせた構想を元に、国
立劇場の劇評を書きはじめる。南北劇「貞操花鳥羽恋塚(みさお
のはな とばのこいつか)」である。午前11時半から書きはじ
めて、終了は、午後8時半。先ほど、サイトの「遠眼鏡戯場観
察」に書き込む。休憩を挟んで、執筆に、ざっと、8時間近く
は、かかったことになる。きのうの観劇が、休憩を挟んで、5時
間。腰が痛くなった。長丁場だった。
- 2005年10月16日(日) 20:48:15
10・XX  ことしは、鶴屋南北が生まれて、250年になる
という。1755年生まれだ。国立劇場では、生誕250年を記
念して、南北54歳の時の作品「貞操花鳥羽恋塚(みさおのはな
とばのこいづか)」を通しで上演しているので、覗いて来た。通
し狂言といって、原作から見れば、半通しといったところ。それ
でも、休憩を挟んで12:00から17:00前までということ
で、実質的に4時間の長丁場だ。袈裟御前、遠藤武者盛遠、渡辺
亘の「鳥羽恋塚」の物語を軸に、崇徳院、阿闍梨と源頼政とい
う、ふたつの物語を綯い交ぜにして、オムニバス構成の展開で、
全体的には、怨念をベースにした怪奇物語になっている。複雑な
構成なので、どういう形で、劇評を書くか、悩ましいが、挑戦し
てみようと思う。
- 2005年10月15日(土) 22:59:30
10・XX  歌舞伎座夜の部の「河庄」に出演していた中村雀
右衛門が、軽い腰痛のため、11日から休演した。代役は、中村
翫雀。雀右衛門は、暫く休演し、都内の自宅で療養するという。

このサイトの「遠眼鏡戯場観察」の読者には、お判りと思うが、
先月の舞台から腰痛は、続いていたようであるから、静養、療養
をきちんとして、徹底的に治して、元気な姿を見せて欲しい。女
形は、重い衣装をきるので、腰痛になりやすい。「助六」の揚巻
役の時は、40キロもの衣装を身に付けるという激務なのだ。女
形と言う仕事は。だから、雀右衛門は、若い頃から、トレーニン
グに励み、身体を鍛えていた。女形ほど、男らしい仕事はない。
オートバイを乗り回していたのは、雀右衛門の、そういう男気の
為せる技だったのだろう。

原寮(「宀」なし)の、デビュー以来、17年間に刊行されてい
る全作品を読み、「乱読物狂」に乱読物狂を書き込んだ。40歳
でジャズピアニストからミステリ作家に転じ、故郷の鳥栖市に
戻って、構築した原ワールドは、皮肉な科白を吐く探偵の男気
が、燦然と輝く。
- 2005年10月12日(水) 22:34:40
10・XX  お待たせしました。10月の歌舞伎座夜の部劇
評、やっと「遠眼鏡戯場観察」に書き込みましたよ。

今月は、15日に国立劇場の鶴屋南北生誕250年 通し狂言
「貞操花鳥羽恋塚(みさおのはなとばのこいづか」を拝見する。
富十郎、梅玉、時蔵、信二郎、孝太郎、松緑ほか出演。書評の方
は、読んだまま、書評を書かずに、山をなしている本を横目に、
原寮(「宀」を取る)の本7冊(長編小説4、短編集1、エッセ
イ増補文庫版では2。これが、デビュー以来、17年の原の刊行
された作品のすべて)をまとめて、読んでいて、一気に書評を書
こうとしている。
- 2005年10月11日(火) 22:08:38
10・XX  10月の歌舞伎座の劇評は、とりあえず、昼の部
をサイトの劇評「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだのに続いて、夜
の部の劇評を書きはじめた。「引窓」を書き上げ、「日高川」に
差しかかっている。「引窓」は、6回目なので、役者論、演技論
を軸にした。「日高川」は、初見だし、全編人形振りという珍し
い演出なので、そのあたりを書きたい。「河庄」は、神業に近い
鴈治郎の、三代目として紙屋治兵衛を演じる最後の舞台なので、
どういう書き方をしようか。

四代目坂田藤十郎への飛躍の舞台。坂田藤十郎は、初代こそ、偉
大な女形だが、二代目、三代目は、立役、実悪などイメージで、
初代とは違い過ぎるので、鴈治郎は、四代目襲名といっても、実
質的には、初代の藝を約300年ぶりに引き継ぐことになる。公
式に使われている「231年ぶり」の襲名というのは、異質な三
代目の次の四代目という数え方による。
- 2005年10月5日(水) 23:26:26
10・XX  歌舞伎座の10月歌舞伎は、きょうが初日。昼夜
通しで観てきた。昼の部は、「廓三番叟」、通し狂言「加賀見山
旧錦絵」。夜の部は、「双蝶々曲輪日記〜引窓」、「日高川入相
花王」、「心中天網島〜河庄」。私の印象では、夜の部の方が、
おもしろかった。特に、三代目鴈治郎最後の「河庄」は、初日か
ら、充実の舞台で、見応えがあった。12月には、京都の南座で
四代目坂田藤十郎を襲名披露するので、歌舞伎座では、最後の鴈
治郎の舞台である。坂東玉三郎が人形振りで演じきる「日高川入
相花王」も、愉しく拝見。何回も観ている「引窓」も、今回は、
配役のバランスが良く、おもしろかった。それに、雀右衛門が今
月も「小春」を演じていて、先月の舞台で心配した体調は、大丈
夫そうだが、やはり、足腰の衰えは、隠せないようだ。元気な舞
台を観続けたいので、無理をしないで欲しい。劇評は、いつもの
ようにウオッチングメモをもとに、批評の構想を錬り、その上
で、書きはじめたい。
- 2005年10月2日(日) 22:14:08
10・XX  (続き)東京上野の池之端で開かれた「金石範作
品集の出版を祝う会」には、約200人が出席していたが、文学
関係者は少なかったのでは無いか。

私が話をした人、主人公の作家の金石範(キムソクポン)を始
め、作家の梁石日(ヤンソギル)、作家の高史明(コサミョ
ン)、映画監督の催(人偏無し)洋一、研究者の催(人偏無し)
碩義(チェソギ)、評論家の針生一郎ほか、編集者らと歓談。金
石範は、あすで、80歳になるという。しかし、10歳は若く見
える。元気だ。「鴉の死」「火山島」などの作品を刊行し、済洲
島を舞台にした全体小説「火山島」は、全7巻が刊行されている
が、さらに、続編を執筆中という。是非とも、健筆を振るってい
ただきたい。私にとっては、最初に読んだ「鴉の死」(講談社
版、71年刊)が、いまも印象に残る。そこで、今回は、71年
刊の「鴉の死」にサインを戴いた。私が、大阪で新人記者生活を
始めた年に刊行された、つまり、34年間保管し続けてきた本で
ある。田村義也装幀の本の表紙の字を金石範は絶賛していたが、
小説読みの私は、34年間本を保管しながら、カバーの下の表紙
の文字は、今回、作者であり、装幀の相談に対応した金石範の指
摘で、初めて、認識したばかりで、全く知らずに過ごしてきた。
味のある字体でタイトルと作者名がデザインされていた。書物の
愉しみの懐の深さを改めて知った次第。本の世界は、ほんに奥深
い。皆さんも、愛読書は、隅々まで、ウオッチングしてくださ
い。

会場で挨拶にたった「月はどっちにでている」(原作は、梁石日
の「タクシードライバー」もの)の映画監督の催(人偏無し)洋
一は、「鴉の死」を3年以内に映画化すると宣言されたので、そ
の旨を「鴉の死」の金石範がサインしたページの隣ページに書き
込み、署名を戴いた。3年以内に完成する映画「鴉の死」に期待
したい。極限状況のある作品を、どう映像化するか、「難しいの
では」と聞いたら、本人は、それは、大丈夫と答えていたが、こ
こ10年ぐらい、仲間内では、近い内に映画化すると宣言してい
ながら、そのまま、という状態が続いていたらしいから、あま
り、信用できないかもしれない。まあ、他人の本に「2005年 
映画化宣言」と明記したのだから、今度は、本物かもしれない。
期待していましょう。

このほかの挨拶では、高史明が、1948年、敗戦から3年後に
作家の武田泰淳が書いた文章を元に、いまのような日本文学の貧
困状況を予言した文章を紹介し、在日韓国人、朝鮮人を含めた日
本の文学の活性化を叱咤したのが、印象に残った。高さんとは、
私が作家の秦恒平さんらといっしょに活動している日本ペンクラ
ブの「電子文藝館」委員会の活動について意見を交換した。在日
文学のおもしろい作品も、電子文藝館に掲載したいと思った。

梁石日とは、彼が、まだ、作家デビューする前だと思うが、タク
シードライバーの体験記出版の初期のころか、大阪から上京した
詩人の金時鐘(キムシジョン)さんの紹介で、当時、新宿十二社
にあった、いまはなき某スナック(ソプラノ歌手の田仙月(チョ
ンウォルソン)が、アルバイトをしていた)で、いっしょに酒を
呑んだことがある。彼が、作家デビューしてからは、連絡こそし
なかったものの、彼の作品は、全て読んでいる。今回は、久し振
りに逢えてよかった。金時鐘は、今回、上京して来なかったが、
梁さんの話では、近く大阪でも「祝う会」が開かれる予定で、金
時鐘は、大阪での祝う会を中心になってとりしきるとのことで
あった。

針生一郎は、金石範同様、ことし、80歳を迎えると言うことで
あったが、美術家を軸に文明評論家として一斉を風靡した彼も、
最近は、あまり活躍の場が無いらしい、「全共闘の時代以来」と
本人は、言っていたが、それは、言葉の綾としても、こういう時
代こそ、彼のような辛口批評が必要なのでは無いかと思った。

最後に挨拶にたった主役の金石範は、出版記念会など、自分の柄
にはあわないと反対したが、出版不況の中で、あなたの本は、特
に売れないのだから、売るために「祝う会」を開いた方が良いと
言われ、しぶしぶ賛同した。文学生活50年のなかで、最初で最
後のつもりで開いた「祝う会」だが、開いてみたら、良いものな
ので、また、来年も開きたいと意欲を見せていた。会場では、9
月、10月と続けて刊行された「金石範作品集(全2巻)」(平
凡社刊)を発売していた。記念に、第1巻に署名を戴いた。


- 2005年10月2日(日) 0:06:14
10・XX  「谷間の文学」と言えば、日本の作家では、私な
どは、すぐに大江健三郎の名前が浮かんで来る。大江の「谷間」
は、大江の生まれ故郷である四国の山あいの集落である。大江文
学の、一つの鉱脈は、その「谷間」を舞台にして、谷間から世界
に通底する普遍性を目指して、独自の文学世界を再構築するもの
である。

谷間は、世界中にある。チリの谷間もその一つである。1960
年5月チリで大地震があった。ロシア系ユダヤ人の両親を持ち、
アルゼンチン生まれで、チリのサンティアゴに住んでいた18歳
の青年は、地震の救援活動に従事するなかで、貧困層の労働者と
知り合う。11月には、チリの60万の労働者がストライキに入
る。不況、大規模なストライキの続発、アジェンデ大統領による
社会主義政権樹立、青年は、アジェンデ政権の文化政策に関わる
ようになる。アジェンデ政権は、外国系資本の銅山を国有化した
り、フォードの工場を摂取したりして、社会主義化を押し進める
が、1973年9月11日、軍事クーデターが、勃発。大統領府
でアジェンデ大統領は死に、社会主義政党は非合法化され、国有
化されていた企業は、資本家に返還される。出版物は、検閲され
るようになる。1974年6月、ピノチェト将軍が、大統領に就
任する。青年は、地下に潜り、3年の曲折を経て、1976年オ
ランダに亡命する。

チリでは、軍事政権下、軍による人権弾圧を帳消しにしようと、
1978年新恩赦法が公布されたり、1979年反共的な新憲法
が公布されたりし、軍事政権による秩序の再構築が進む一方で、
体制に反対する人たちの粘り強い運動が続けられ、1975年イ
ギリス人女医によるチリ警察の拷問の告発、1977年行方不明
家族による抗議のハンスト、1983年6月、軍事政権下で、初
めてのゼネストが起き、11月には、サンティアゴで100万人
が参加して、軍政抗議集会が開かれる。

この間の体験を元に、青年は、亡命先から母国チリとの大きな距
離と空間をものともせず、中年作家アリエル・ド−フマンへと成
長を続け、「母国」の実状の象徴として、ある「谷間」を舞台に
した女たちの物語を構想する。母なる国は、母に象徴される女た
ちの谷間へと結実する。アリエル・ド−フマンは、1978年小
説「谷間の女たち」を書きはじめ、1985年、さらに戯曲化す
る。

先日、東京・新宿で、青年劇場第90回公演「谷間の女たち」を
観た。原題は、「未亡人たち」あるいは「後家さんたち」だろう
が、ある谷間には、女たちしか生きていないという劇だ。アリエ
ル・ド−フマンは、さまざまな体験を咀嚼し、女たちと男たちの
対比が、人民と軍事政権の対立という明確なイメージで、演劇空
間を再構築した。幕が開くと、そこは、谷間。川が大きく曲ると
ころへ、村の女たちが洗濯物を抱えて出て来る。女たちの会話か
ら、谷間の男たちは、皆、8年前のある事件で、軍事政権の軍隊
に強制的に連れ去られ、生死も不明ということが次第に、判って
来る。

新たに谷間にやって来た男たちといえば、占領軍のような、戦後
処理担当の、民主主義を装おった新しい軍隊の指導者、そして、
身元不明の男たちの遺体が、いくつか、川の上流から流れ着いて
来る。さらに、魂を抜かれた身体だけの村の男も、軍に都合の良
い生き証人として帰されて来る。女たちは、それぞれに繋がる男
たちへの思いを胸に秘めながら、悶々としながらも、日常的な生
活を送っている。顔も判らない、一つの遺体が、村の女たち全て
にとって、身寄りの遺体に見えて来る場面は、圧巻である。ある
女は、遺体が父親だと言い、ある女は、夫だと言う。兄弟だ、息
子だ、恋人だ、甥だ、叔父だと、口々に言う。身内が、虐殺され
たことを女たちは、自分のことだと悟る。個別が、普遍に転化し
た瞬間だ。

女たちと男たちの対比が、極めて鮮明なドラマが、展開され、最
後には、男になりつつある村の少年と冷めた視点で大状況を見据
えていた老婆が射殺される。ストーリーが、入り組んでいる割に
は、女たちと男たちの対比が、鮮やかに演じられたため、混乱す
ること無く、抵抗劇の図式が、胸にすとんと落ちてきた。

休憩15分を挟んで、3時間という長時間の上演でありながら、
密度が濃くて、見応えがある舞台であった。谷間の物語は、チリ
の軍事政権下の国情の物語となり、さらに、アメリカによって、
アフガニスタンやイラクで、いまも継続されている戦争状況の物
語となり、さらに、無党派ファッショが権力者によって演じられ
た「日本劇場」の政治の物語へと、語り継がれて行くようだ。谷
間は、ある小さな国の、40数所帯の住む、ある村にある。物語
の谷間は、特定の場所でありながら、演劇空間のなかで、捨象さ
れた結果、どこでも無い場所になり、どこでも無い場所になった
ことで、どこでもある場所に変身する。3時間近いドラマが、観
客の私たちに突き付けてきた問題は、どこでもある場所、つま
り、いま、私たちが住む日本という社会に、時空を越えて、突き
刺さって来る。無党派ファッショによる自民党の大勝という状況
が、「谷間の女たち」のハイライトの場面で、逆照射されるよう
に感じた。日本劇場の第二幕は、私たちも舞台に上がらなければ
ならない。

チリでは、1990年、故アジェンデ元大統領の復権がなされ、
1998年、ピノチェト元大統領が、ロンドンで殺人容疑で逮捕
される。2005年反共的だった憲法が、改正される。
- 2005年10月1日(土) 15:06:05
9・XX  東京・新宿で、青年劇場第90回公演「谷間の女た
ち」を観た。原題は、「未亡人たち」あるいは「後家さんたち」
だろうが、ある谷間には、女たちしか生きていないという劇だ。
谷間の男たちは、皆、8年前のある事件で、軍事政権の軍隊に強
制的に連れ去られ、生死も不明という状況設定だ。新たに来た男
たちといえば、占領軍のような、戦後処理担当の、民主主義を装
おった新しい軍隊、そして、身元不明の男たちの遺体が、いくつ
か、川の上流から流れ着いて来る。さらに、魂を抜かれた身体だ
けの村の男も。女たちと男たちの対比が、極めて鮮明なドラマ
だ。

3時間という長時間の上演でありながら、密度が濃くて、見応え
がある舞台であった。会場で、速記的に感想を書いてきたが、少
し時間を掛けて、後ほど、きちんと劇評をまとめたい。もう少
し、時間を下さい。
- 2005年9月28日(水) 22:13:13
9・XX  前日、書き上げた歌舞伎座夜の部の劇評を一日寝か
し、さらに、吟味をして、ブラシュアップし、先ほど、サイトの
劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。お待たせしまし
た。興味のある方は、読んでください。
- 2005年9月20日(火) 21:24:03
8・XX  歌舞伎座の劇評、夜の部のうち、「平家蟹」をまと
めあげる。芝翫の玉蟲は、狂気の演技が、見事であった。しか
し、夜の部のハイライトは、やはり吉右衛門の「勧進帳」であろ
う。吉右衛門、猿之助、團十郎、幸四郎、三津五郎、松緑と観て
きた弁慶を比較し、吉右衛門弁慶論を書いてみたいと、思い、構
想を錬っている。もう暫く、時間がかかりそう。
- 2005年9月18日(日) 22:10:04
9・XX  掲載が遅れていた9月の歌舞伎座の舞台の劇評のう
ち、昼の部をやっとサイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。
3日に歌舞伎座の舞台を昼夜通しで観てから、いろいろなことが
あり過ぎた。台風14号の被害。総選挙などなど。

それにしても、今回の総選挙の結果には、驚いた。小泉自民党の
雪崩的な勝利である。政権交代を訴えながら、交替すべき政権の
明確な構想を示し得なかった野党は、自民党の雪崩をより大きな
ものにしてしまった。今後の、歴史のなかで、大きな曲り角を
曲ったと歴史家に指摘されそうなエポックであることは、間違い
無い。一票を投じた人も、結果のドラスティックさに驚いたこと
だろうが、そんなつもりでは無かったと言っても、もう、遅い。
「無責任の連鎖」が、日中戦争から太平洋戦争へと雪崩を打って
行った歴史を思い出して欲しい。有権者は、己が引き起こした政
治状況、特に、今後の4年間の権力の動向を監視して行くしか無
い。それが、ひとりひとりの有権者の責務であろうと、思う。そ
れにしても、政治が、劇場になったのは、なんとも、まずい。そ
ういう状況を助長したマスメディアの責任は、特に重いと言わざ
るを得ない。

歌舞伎座、夜の部の劇評は、もう暫く待っていただきたい。吉右
衛門の「勧進帳」を軸に劇評をまとめたいと、思う。危機的状況
を突破する弁慶の智恵、私たち、有権者の智恵も、そういうもの
でなければならない。私も、乏しい智恵を絞り、4年後を迎えた
いが、大きな不安が募る。自ら構築してしまった関所を日本は、
越えられるだろうか。
- 2005年9月13日(火) 22:41:51
9・XX  今月の歌舞伎座の劇評の基本構想がまとまり、劇評
を書きはじめた。まず、「正札附根元草摺」を書き上げたが、何
回も観ている「賀の祝」が、ぱっとしない。週末は、出かけるの
で、劇評掲載は、来週になる。

きのうは、日本橋の「お江戸日本橋亭」へ、落語を聞きに行っ
た。若手の落語家4人(才紫、小蝠、里光、鯉橋)の「たなおろ
しの会」。いわば、勉強会。仕込んだ新ネタの「たな卸し」発表
会というところか。今回が、9回目ということで、皆、それなり
に力を付けてきている。私のお目当ては、里光の「八五郎坊
主」。自殺した天才落語家・桂枝雀が得意とした出し物。全存在
を掛けて熱演した枝雀を思い出しながら拝聴した。いずれ、里光
も、じっくり「話し込んで」、磨き上げ、「八五郎坊主」という
話に枝雀とは違う味を滲ませてくれるだろうと期待したい。


- 2005年9月8日(木) 22:31:16
9・XX  きょうは、昼前に神保町の本屋を廻り、大量の本を
購入し、無料の宅配便を依頼する。その足で、早稲田へ。30年
以上前に卒業した大学のゼミの先生の著作集刊行記念パーティ。
先生は、11年前に50代末で亡くなっている。存命ならば、古
稀の年齢に達する。ゼミの後輩のうち、学者になった人たちが中
心になって、著作集の刊行を始め、すでに4冊出ている。

道半ばということで、刊行記念パーティ開催となった。政治哲学
が専門。私たちは、第1期生ということで、マスコミなどに就職
した4人が出席。いずれも、定年か、定年間際の世代。夕方、無
事終る。パーティの開かれたホテルの喫茶室で、同期でお茶を呑
み、解散し、帰宅。最近は、2次会などには、行かない。淡々と
したものだ。

パーティ会場のホテルに行く前、久しぶりに大学内を歩き、学部
の校舎などの側を通ったが、建物は昔のままながら、30数年の
年月の経過は争えず、太く逞しくなった街路樹が、葉も猛々しく
繁らせて、歳月の経過を顕示していた。
- 2005年9月4日(日) 19:35:34
9・XX  歌舞伎座、九月歌舞伎の2日目を昼夜通しで拝見。
昼の部は、「正札附根元草摺」「賀の祝」「豊後道成寺」、歌舞
伎座29年ぶりの上演である「東海道中膝栗毛」の4本立て。
「豊後道成寺」を踊った雀右衛門は、足元がぎこちなく、足の裾
払いも大儀そう。風邪でもひいて、体調が悪いのだろうかと心配
になる。「東海道中膝栗毛」は、科白の入っていない役者が居
て、芝居が噛み合っていないので、おもしろさの味が、まだ、出
ていなかった。

夜の部は、「平家蟹」、「勧進帳」、「忠臣蔵外伝 忠臣連理の
鉢植 植木屋」の3本。「平家蟹」の芝翫、「勧進帳」の吉右衛
門の弁慶、富十郎の冨樫という、実力派の舞台を堪能。「忠臣連
理の鉢植 植木屋」は、私の実家のある駒込は、染井の、江戸時
代の植木屋の場面が軸になっている。梅玉演じる小春屋弥七、実
は、千崎弥五郎が、上方和事の「つっころばし」の役どころで、
数多い忠臣蔵もののなかでも異色の人物造型。初見の舞台を楽し
く拝見。歌舞伎座上演は、48年ぶり、前回の、いまはなき大阪
中座の舞台からは、17年ぶりというから、今月の歌舞伎座は、
昼夜とも、滅多にやらない演目にお目に掛れる。

7月、8月と連日札止に近かった歌舞伎座だが、今月は、いまの
ところ、空いているようだ。詳しい劇評は、これから、批評の基
本構造を考えた上で、サイトの劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」
に掲載する予定なので、暫く、時間を戴きたい。
- 2005年9月3日(土) 22:54:58
9・XX   30年も前、大阪から東京の社会部に赴任してき
た頃、指導を受けたデスクだった職場の先輩が亡くなり、横浜の
東神奈川駅の近くのセレモニーホールで行われた通夜に出席し
た。初めて、湘南新宿ラインという、東海道線と山手線、東北線
を結ぶ貨物線路を活用した、停車する駅の数の少ない(それゆえ
に、乗車時間が少なくて済む)首都圏の電車路線を利用してみ
た。確かに早いし、車窓の景色も、従来の路線とは、違って見え
る。

会場には、先輩、同僚、後輩の、大勢の通夜客がおり、中には、
何年ぶり、何十年ぶりという懐かしい先輩の顔もあった。読経が
始まり、焼香をし、先輩との別れを済ませた。20歳代後半の社
会部新人記者と40歳になったばかりの先鋭デスクとしての出逢
い。あれから、30年が過ぎ去り、永遠の別れとなった。万感の
思いを込めて、遺影に別れを告げた。合掌。

「最近は、こういう場所でしか逢わないんだよな」と、会場で出
逢ったある人は、つぶやいたが、葬儀とは、亡くなった人が、自
分と所縁の人たちを久しぶりに出逢わせるという役割も持ってい
るという側面を改めて感じさせた。先人たちの智恵が、生活慣習
には、刻み込まれている。
- 2005年9月2日(金) 7:01:36
8・XX  松尾塾子供歌舞伎の舞台を国立劇場(小劇場)で観
た。松尾塾の子供歌舞伎は、ここ10年ぐらい、毎夏拝見してい
る。5歳から14歳までの子供たちが、東京の国立劇場や大阪の
国立文楽劇場で、本格的な歌舞伎を演じる。役者は、子供たちば
かりだが、竹本は、葵太夫や幹太夫であり、三味線は、鶴澤慎治
が勤める。大道具は、金井大道具、小道具は、松竹小道具、衣装
は、松竹衣装などなど。すべて本格的なのだ。子供たちの科白
も、歌舞伎役者顔負けの口跡で堂々としている。いわゆる、歌舞
伎の子役たちの、独特な科白回しなどではない。

今回は、「鏡山旧錦絵」を序幕「営中竹刀打の場」、二幕目「奥
御殿草履打の場」、三幕目「長局尾上部屋の場」「塀外烏啼きの
場」「元の尾上の部屋の場」、そして大詰「奥庭仕返しの場」と
通しでたっぷり2時間半(休憩を挟んで3時間)という、堂々の
上演であった。中学生のお姉さんたち(塾生は、女子が多い)
が、岩藤、尾上、お初らを演じる。女形とは違う女の子たちの、
爽やかな色気が滲み出ている。小学1年生の男児1人、幼稚園の
男女3人の子供たちが、腰元役で出てくると、身長に差があるこ
とと可愛らしさで場内から、暖かい笑いが生まれる。

子供の頃から、本格的な歌舞伎を観るだけでも、随分良いだろう
と思うのに(何故なら、歌舞伎は、子供に媚びない。判ろうが、
判るまいが、本格的にしか演じない)、松尾塾の子供たちは、幼
い頃から本格的な歌舞伎を、竹本を始め、プロの大人たちに支え
られながら、演じることができるから、幸せというしかない。ま
た、観客席にいる私たちも、基本に忠実に演じる子供歌舞伎に
よって、いつもの歌舞伎見物の時より、基本をきちんと見取るこ
とさえできるから、こちらも、幸せというしかない。幸せと幸せ
で、鉢合わせという気分になるのが、子供歌舞伎の良いところで
ある。
- 2005年8月29日(月) 21:40:36
8・XX  久しぶりに週末を自宅で過ごす。午前中、溜まって
いた書評をまとめ、このサイトの書評コーナー「乱読物狂」に書
き込む。午後から、銀座方面に出かける。吉田光彦の絵を買った
まま、預けてあった画廊「スパンアートギャラリー」(銀座2ー
2ー18西欧ビル1階。03ー5524ー3060)に出向く。

「スパンアートギャラリー」は、ドイツ文学者であり、幅広い分
野の評論家でもあった種村季弘氏の所縁のギャラリーで、いま
は、家族が経営している。開廊10年を記念して、「種村季弘 
断面からの世界」展を開催している(9・3まで)。種村さん
は、私の出た都立高校の大先輩であるが、それは、最近知ったこ
と。それ以前から、ユニークな評論家としての氏の著作には、長
年親しんできた。生前にゆっくり話したことはないが、このギャ
ラリーでお見掛けしたことはある。高校の先輩なら、それを口実
に話し掛けておけば良かったと後悔している。

今回の記念展には、種村さんならではの交友関係の広さを象徴す
るように、国内外から25人の画家、作家、漫画家、イラスト
レーターなどが参加して、作品を寄せている。記念展開催に合わ
せて、種村さんの最近著作「断面からの世界ーー美術稿集成」
(平凡社刊)も、同時出版されている。

吉田光彦の絵を受け取り、種村さんも文を寄せている丸尾末広の
最近著作「丸尾画報EX・」の署名入りを購入して、帰宅。帰
宅後、書評の続きを書く。あすは、国立劇場へ、松尾塾子供歌舞
伎の東京公演の招待を受けているので、拝見に行く予定。出し物
は、「鏡山旧錦絵」ほかで、「営中竹刀打」から「奥庭仕返し」
まで、堂々の通し上演である。劇評は、あすにでも、この「双方
向曲輪日記」に掲載したい。
- 2005年8月27日(土) 18:30:35
8・XX  暑さにめげず、休みをとり、一日で、歌舞伎座8月
興行「納涼歌舞伎」の劇評を第1部から第3部まで、一挙に、こ
のサイトの劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」に書き入れた。

特に、第3部の「法界坊」は、「遠眼鏡戯場観察」初登場であ
る。ほかの演目も、初見のものは、もちろん、初めて書き込みと
なるが、何回も観ている演目も、劇評は、できるだけ、以前のも
のとは、重複しないように視点を変えて、書いてみた。しかし、
演目の基本情報になる部分は、変えようがない。

パソコンを載せた机の前に座り続けて、疲れたので、「日記」の
方は、この程度で。劇評に関心のある方は、どうぞ、ご覧下さ
い。
- 2005年8月15日(月) 21:56:30
8・XX  前売りと幕見席のとりあわせで、週末を利用して、
歌舞伎座・納涼歌舞伎の第1部から第3部まで、2日がかりで観
てきた。劇評は、別途、このサイトのコーナー「遠眼鏡戯場観
察」に掲載するので、そちらを見て欲しい。

取りあえず、10日の初日以来、最初の週末を迎えた幕見席の混
雑状況を報告しておきたい。獅童と七之助の演じる「橋弁慶」の
人気で、第1部は、前売りもまっ先に売れていた。幕見席の第1
部は、「金閣寺」(900円)と「橋弁慶」+「雨乞狐」
(700円)で、午前10時半の売り出しでは、「金閣寺」だけ
の900円か、第1部の通しの1600円か、という売り方を松
竹はしているが、観客を整理している掛りと客のやりとりを聴い
ていると、第1部の「橋弁慶」だけを観たいという客が何人か、
いるようで、そういうキップの売り方はできないというのが、歌
舞伎座の掛りの説明であった。へえ、歌舞伎ブームの「一端」
は、獅童も貢献しているのかと、私などは思ってしまう。

そういえば、獅童は、いまのようなブームになる前に、山梨県の
地酒の一つ「春鴬転」の製造発売元の屋号が「萬屋」で、それに
因んで、獅童の山梨県後援会を作っていたが、若い社長に先見の
明があったということか。また、山梨では、獅童主演の映画「い
ま会いに行きます」のロケが、北杜市内の明野町の向日葵畑など
で、行われたということで、明野だけでなく、小海線のガード
下、白州町の公園など北杜市内のロケ地は、どこも、人気になっ
ているそうで、獅童は、山梨県への貢献が、大きいようだ。

第1部の幕見席の先頭に並んだ人は、午前7時には、来たという
から、開演の4時間前か。午前8時半に、歌舞伎座の掛りは、床
几2台(8人から9人座れる)を出してくれた。人数のチェック
は、午前9時半。売り出しの1時間前。キップの売り出しは、午
前10時半。午前11時開演。

第2部は、最後に売り切れになったが、幕見席の行列では、先頭
は、第1部の入れ替えより前に、第1部の行列に混じって並びは
じめているから、午後零時前後から並んでいたようだ。つまり、
第2部開演の、3時間以上前か。人数のチェックは、やはり、売
り出しの1時間前。今回は、午後1時20分。キップの売り出し
は、開演の20分前で、午後2時20分。午後2時40分開演。
「伊勢音頭」は、900円。「蝶の道行」+「京人形」で、
700円。通しで、1600円。

第3部は、人気の「法界坊」ということで、第1部に、余り遅れ
ずに、前売りも売り切れになっていたが、幕見席も、午前中に、
早々と行列の先頭が並びはじめるので、歌舞伎座の掛りは、別
途、立て札を立てていた。先頭は、第2部の先頭と同じ時間ぐら
いから並びはじめているようで、午後6時の開演の6時間前とい
うことか。人数のチェックは、やはり、売り出しの1時間前。今
回は、午後4時40分。キップの売り出しは、午後5時40分。
午後6時開演。「法界坊」は、1600円。
- 2005年8月14日(日) 20:07:42
8・XX  暑い一日が、過ぎた。冷房の効いた職場から、昼飯
を食べに炎暑の巷に出て・・・・。歩いていたら、背中に蝉が止
まっていると声を掛けてきた人が居た。そこで、一首。

* アスファルトジャングル 白シャツに 涼味求めし 蝉 背
に止まる
* 白シャツの 背に蝉止まると 声かかる 炎暑の巷 狂いた
くなる
* 白シャツの 背に止りたる 蝉鳴けば 暑さに負けぬ ミン
ミンか
* 透明の羽を光らせ 白シャツの背に 蝉止まりおる 炎暑か
な
* 透明な羽を光らせ 白シャツの背に 迷い込む 蝉 ミンミ
ンと鳴くか
* 白シャツの背中より 取外されし 蝉一匹 透明な羽 光ら
せて 飛ぶ

ということで、暑さに狂い、短歌ならぬ、狂歌一首か。
 
- 2005年8月11日(木) 21:44:08
8・XX  このところ続いた週末の休日出勤の代休を取る。映
画「誰がために」の試写会(松竹試写室)に行く。黒木和雄監督
作品を助監督として支えてきた日向寺太郎の初監督作品。暴力に
よる欠損。そこからの恢復。キーワードは、風。「誰がために」
は、「鐘が鳴らない」代わりに、「風が吹く」。

千住、面影橋、お台場などから、架空の東京下町を作り上げ、父
親の暴力、離婚という欠損のなかで育った少女は、戦場カメラマ
ンから父親の死去後、写真館を引き継いだ青年と結婚し、妊娠す
るが、父親の暴力で、幼い頃、家出した母親が、欠損状態になっ
ているというトラウマを持つ少年に殺される。

妻と生まれて来るはずの子供の喪失という、新たな欠損と対峙し
ながら、苦悩する青年の物語。亡くなった妻から吹いて来る風を
感じるようになり、青年は、出所した犯罪少年に復讐をしながら
も、恢復を模索する。周りの暴力状況と対峙するという意味で
は、この映画は、今期芥川賞受賞作・中村文則「土の中の子供」
とテーマは、同根と見た。理不尽な暴力がはびこる現代社会。映
画と小説で、若い感性は、告発を始めた。

試写会の後、近くの、納涼歌舞伎初日の歌舞伎座に立ち寄り、幕
見席の待ちの様子を社員に聞く。第1部は、開演2時間前の午前
9時には、およそ30人の行列ができていたという。第2部も、
開演2時間前には、並びはじめたという。私は、週末に歌舞伎座
に通う予定。
- 2005年8月10日(水) 22:18:21
8・XX  郵政民営化法案が、参院で否決され、小泉内閣は、
総辞職を選ばずに、衆院解散を選択した。郵政民営化法案は、与
野党問わず、法案の審議より、小泉政治の手法が問われる形で、
政局を迎えた。今度の総選挙は、投票が9・11。外交を軸に空
白が続いている小泉政治の是非を問う選挙だと思う。

暑い日が続いている。「車内書斎」を利用しての、読書が進んで
いるのだが、書評をまとめる時間がない。もう少し、待っていた
だきたい。納涼歌舞伎も観に行きたい。劇評も書きたい。

- 2005年8月9日(火) 8:43:18
8・XX  連日の猛暑のなか、公私ともに多忙な日々が続いて
いる。通勤時間が長いので、電車内で、本は読めるが、書評を書
く暇がない。8月に入って、日記も更新していなければ、「乱読
物狂」も、更新していないという体たらく。いずれ、休みを取っ
て、まとめて、対応したい。もっとも、日記は、二重帳簿なの
で、実日記は、毎日付けている。

さて、8月の歌舞伎座、納涼歌舞伎は、10日から始まるが、勘
三郎の襲名興行の熱気が続いている所為で、前売り券は、すで
に、「空席なし」となっている。第3部の「法界坊」は、早々と
チケット確保済みだが、第1部と第2部は、幕見席に行くつも
り。前売りの動きを見ていると、まず、第1部が売り切れ、次い
で、第3部、暫くして、第2部という動きだった。人気通りの舞
台展開になるのかどうか。これも、順次、劇評を掲載したい。
- 2005年8月4日(木) 21:42:56
7・XX  浜松市に行ってきた。7月に合併し、人口80万を
超える新浜松市がスタートした。2年先には、政令指定都市も視
野に入っているという。駅前にも、高層ビルが林立し、駅周辺の
人の動きも活発なようだ。

地元の人に勧められて、駅前近くにある浜松市楽器博物館に入っ
てみた。世界の楽器1000点を展示している。展示された楽器
の前には、その楽器で演奏している音楽をヘッドフォンで聴くこ
とができるようになっている。450点が展示されているヨー
ロッパの楽器では、圧倒的にピアノが多い。アジア・アフリカ・
アメリカでは、350点。日本では、200点。

日本のコーナーでは、歌舞伎の下座音楽で知られる「四拍子」
(太鼓、大鼓、小鼓、笛)も、展示されている。黒御簾内で演奏
されるため、実物を目にする機会が少ない「駅路」「時計」「オ
ルゴール」「大太鼓」「半鐘」「木魚」「当たり鉦」「松虫」
「双盤」「銅鑼」などの楽器の実物も、拝見した。

手に取ることができず、また、試しに鳴らしてみることもでき
ず、歯がゆい思いをしたが、写真でしか見たことがないものを目
の前で見ることができたのは、幸いであった。黒御簾内から流れ
る音楽や音を聴きながら、実際の楽器を思い浮かべることができ
るようになれば、歌舞伎の舞台を観る気持ちにも、変化が起きそ
うな予感さえする。
- 2005年7月20日(水) 22:24:52
7・XX  先に書き込んだ「遠眼鏡戯場観察」の7月歌舞伎座
興行「NINAGAWA十二夜」の劇評に読者からメールを戴い
た。菊之助の吹き替えの件である。渡辺保のサイトの劇評には、
吹き替え役者が、マスクを被っていると書いているというのであ
る。

確かに吹き替え役者の、目の表情には、違和感があり、菊之助で
はないことは間違いない。どちらの役を演じても、菊之助本人が
演じている役は、判った。まあ、実験的な「和洋折衷劇」だか
ら、マスクが歌舞伎に登場しても不思議ではない。工夫魂胆こ
そ、歌舞伎の醍醐味。そして、工夫の魂胆は、悪智恵のように、
尽きることはないから、おもしろいのだろう。

吹き替え《菊之助》は、鼻が、本人とは、違っていたから、マス
クではないような気もするが、表情に乏しい場面もあり、マスク
かもしれないという気もする。ああだ、こうだと推量するのも、
観劇の愉しみの内か。

菊之助から直接マスクを採って、吹き替え役者に被せたとして
も、下地の輪郭が、小さい分には良いが(それでも、マスクの隙
間ができてしまうか)、大きければはみ出してしまうから、マス
クをした吹き替え役者も、選定が、限られるだろう。

再演時に、舞台展開、大道具、特にミラー効果の再点検など、演
出をもう一工夫すれば、菊之助の貴重な持ち役になるのではない
かと、思う。歌舞伎は、新しい演目を、確実に増やしたと言え
る。
- 2005年7月19日(火) 22:11:32
7・XX  今月の歌舞伎座は、歌舞伎調シェイクスピア劇とも
いうべき「NINAGAWA 十二夜」が、上演されている。昼
夜同じ演目の上演という歌舞伎座では、珍しい上演形式で、いま
が、「時分の花」であろう、尾上菊之助のふた役早替りの魅力で
満員の観客を沸せている。その所為か、すでに、千秋楽まで、前
売り券は、空席なしになっている。その舞台を観て、劇評をまと
めあげ、さきほど、このサイトの劇評コーナー「遠眼鏡戯場観
察」に書き込んだ。独自の視点もふんだんに書いたつもりなの
で、関心のある人は、早速、覗いてみてください。
- 2005年7月14日(木) 23:37:58
7・XX  歌舞伎座の7月興行を観てきた。本来なら、7月の
歌舞伎座は、澤潟屋一門の指定席であったが、猿之助の病気休演
が、長引き、今回は、音羽屋一門が、菊之助を軸にして、蜷川幸
雄演出で、シェイクスピアの「十二夜」という、実験精神溢れる
意欲的な舞台をぶつけてきた。

舞台全面に鏡を貼り巡らし、シェイクスピア劇場さながらの「円
形劇場」の趣や、蜷川演出と菊五郎歌舞伎のぶつかり合いなど話
題性に事欠かない。昼夜を同じ演目で、上演するという、国立劇
場では、よくやるが、歌舞伎座では、滅多にない上演形式であ
る。普通なら、25回で一月の興行を終えるのが、今回は、43
回も、同じ演目を演じることになる。昼と夜を違う演目で上演
し、昼と夜の舞台をそれぞれ観るという観客の観劇習慣からすれ
ば、昼か夜か、どちらかの舞台を観れば、今月の歌舞伎座は、終
わりというのは、興行的には、松竹にとっても、冒険だったろ
う。だが、前売りは、土日を中心に、3階席から売り切れが出始
め、桟敷席、2等席、そして、1等席が売れていった。ウイーク
デイの席も、じわじわ売り進んでいる。

私の劇評は、目下、構想が固まりつつある。とりあえず、劇評の
骨格をまとめてみたという段階。早めに、書きはじめ、ほかの劇
評が新聞などに載らないうちに、早い段階で、このサイトの劇評
コーナー「遠眼鏡戯場観察」に書き込みたいと思っているので、
関心のある方は、待っていてください。
- 2005年7月10日(日) 21:15:27
7・XX  きょうから、7月。ことしも、はや、上半期が過ぎ
た。空梅雨気味の梅雨だが、このところ断続的に雨が降ってい
る。梅雨空の憂鬱さを吹き飛ばすような話を書いておこう。

原爆の図を描いた丸木位里・俊夫妻は、亡くなってしまったが、
丸木位里の母・丸木スマというユニークな「画家」がいる。学問
もなく、広島の農家に嫁ぎ、農業一筋で生きて来て、楽隠居生活
に入ったが、退屈で退屈で堪らず、炬燵に入って、飴ばかりを嘗
めていたら、胃を壊してしまった。

飴を捨てて、74歳のとき、嫁の丸木俊の勧めで、退屈しのぎ
に、絵を描きはじめた。84歳で没するまでおよそ10年、絵筆
を握り続け、稚拙な筆致ながら、農業生活で鍛えられた鋭い観察
眼で、独特の雰囲気のある絵を描いた。その絵に描かれた動物や
植物の表情が、とても、ユニークで、見ていて、愉しくなる。

大分前に、NHKの「日曜美術館」で放送された、俊が語る丸木
スマの「人と作品」の紹介が、おもしろかった。俊の義母を語る
口調も、愛情溢れる優しさで、好感が持てる。スマは、絵筆を
握った、老後の、豊潤な人生10年間を「いまが、花じゃ」と
言っていたという。老後生活の達人のような婆さんだ。

富岡鉄斎という画家の作品も、80歳台になって発表された作品
が、豊潤である。「スマと鉄斎 老いと充実の80代」という
テーマで、何か書けそうな気がする。

富岡鉄斎の作品も、丸木スマの作品も、古い「日曜美術館」で、
放送されているが、いずれも、NHKアーカイブスに保存され、
「番組公開ライブラリー」へ行けば、見ることができる。「番組
公開ライブラリー」の本拠地は、埼玉県川口市のスキップシティ
にあるが、全国のNHKでも、いくつかの放送局で、川口市の本
拠地のサーバと結んだ「番組公開ライブラリー」の端末が、小規
模ながら、備えられはじめたので、そこでも、見ることができ
る。
- 2005年7月1日(金) 22:49:11
6・XX  きょうは、暑い一日であった。久しぶりに都内の書
店を廻り、本を仕入れてきた。銀座の古書店で、中山幹雄の「下
町舞台切絵図(かわむこうしばいめぐり)」を見つけて、買って
きた。歌舞伎の舞台になっている土地を探訪するという本だ。私
も知っている、いまは亡き今泉清さんが主宰していた「下町タイ
ムス社」が、20年前に刊行した本で、いまは、絶版になってい
る。東京の深川生れで、鴈治郎の「近松座」の文芸部にもいて、
歌舞伎通で、南北研究家(鶴屋南北研究会事務局長)の中山幹雄
さんも、すでに鬼籍に入っている。

帰宅後、読後、書評を書く時間が取れず、溜まって、山積みに
なっていた本と「格闘する」ようにして、書評をまとめ、このサ
イトの「乱読物狂」に書き込んだ。一遍に、10冊以上の本の書
評を書くというのは、腰が痛くなる作業だ。「乱読物狂」のコー
ナーの6月分が、量的にいちだんと充実した(もちろん、質的に
も)と、思うので、関心のある人は、覗いてみてください。中山
幹雄さんの本は、さっそく、読みはじめた。いずれ、「乱読物
狂」に書評を掲載する。
- 2005年6月25日(土) 22:38:46
6・XX  暑い一日。帰宅後、歌舞伎座夜の部の劇評に手を入
れ、先ほど、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込む。南北の埋
もれた傑作である「盟三五大切」だけに、テキスト論は、必要な
のだが、前回の劇評で、詳細に論じているので、新たに書くこと
は、それほどない。参考のために前回の文章を再録してみた。劇
評の「検索」でも、原文を見ることはできるのだが、検索が面倒
だという人のために、再録してみた。いかがだろうか。ついで
に、前回の誤字なども直しながら、訂正・補筆もしているので、
若干長くなっている。
- 2005年6月21日(火) 22:50:00
6・XX  歌舞伎座の昼の部の劇評をサイトの「遠眼鏡戯場観
察」に書き込んだのに続いて、夜の部の劇評の下書きを始めた。
夜の部は、「盟三五大切」を軸に書くことになりそうだ。川岸富
士男の植物画の個展を見て、作家の話を聞き、川岸の「植物画プ
ロの裏ワザ」という本を購入した。さまざまな庭木を植え、育て
ながら、植物を観察し、絵に描く。そういう生活を、いずれした
いと、思う。
- 2005年6月19日(日) 22:38:01
6・XX  雨が、降り続いている。帰宅後、歌舞伎座の劇評
「昼の部」の続きを書く。「恋飛脚大和往来」は、一応、「封印
切」「新口村」とも、まとめた。「信州川中島合戦〜輝虎配膳
〜」は、批評の構想をざっと書いた。「素襖落」は、骨格のメモ
のみで、書くのは、あすになる。昼の部全体の劇評を見た上で、
あす、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込めるかどうか。
- 2005年6月16日(木) 23:32:26
6・XX  今月の歌舞伎座昼の部の劇評は、「恋飛脚大和往
来」から、書きはじめた。「封印切」は、地方公演まで含める
と、6回目の拝見。そして、「新口村」は、4回目。しかし、
16年ぶりの「通し」上演なので、もちろん、私も、通しで、観
るのは、初めての体験だった。まだ、「封印切」の一部しか改定
ないが、松嶋屋を軸とした上方歌舞伎に江戸の花形役者染五郎の
初役での挑戦が、どういう効果を生むか、その辺りにウエイトを
置いた劇評になりそうな予感がする。昼の部の劇評が、書き上が
るのは、まだ時間がかかりそう。ご関心のある向きには、いま暫
くのご猶予を賜りたい。
- 2005年6月15日(水) 22:32:27
6・XX  きのうは、一日中、歌舞伎座にいた。勘三郎襲名披
露の舞台が終り、平常の上演形態に戻った歌舞伎座。昼と夜の通
しで、拝見した。昼の部では、「封印切」と「新口村」の場面を
上演した「恋飛脚大和往来」が、良かった。仁左衛門の八右衛
門、孫右衛門の二役は、充実。孝太郎と染五郎の梅川忠兵衛は、
清新。特に、上方歌舞伎に挑戦した染五郎が良い味を出してい
た。夜の部は、源五兵衛の吉右衛門、小万の時蔵、三五郎の仁左
衛門らが、熱演の「盟三五大切」。いずれ、サイトの「遠眼鏡戯
場観察」に劇評をまとめ、書き込む。
- 2005年6月13日(月) 6:36:46
6・XX  仕事が終り、帰途、東京の日本橋に立ち寄り、「お
江戸日本橋亭」という寄席で、若手落語家の、いわば勉強会、新
しいネタの「たなおろしの会」を聞く。3ヶ月に1回、つまり、
年4回、日頃の稽古の成果を客に披露する落語会だ。今夜は、4
人が出演したが、仕事が終ってから立ち寄ったので、開演に30
分ほど遅れてしまい、4人のうち3人の話しか聴けなかったが、
当人が学生の頃から知り合いの笑福亭里光の枕が終った辺りから
聞くことができた。

出し物は、笑福亭里光「どうらん幸助」、瀧川鯉橋「だくだ
く」、桂才紫「一分茶番」で、いずれも、普段余り聞かれない意
欲作を高座に上げていた(因に、遅れてしまい話が聞けなかった
のは、小蝠「豆や」であった。申し訳ない)。

このうち、「どうらん幸助」は、歌舞伎の、「桂川連理柵(かつ
らがわれんりのしがらみ」、通称、「お半長右衛門」、あるい
は、「帯屋」(演者は、中村鴈治郎が、14歳の幼妻・お半を演
じる歌舞伎の舞台を観ていると、もう少し味や艶が出るのだが、
と思いながら、私は、話を聞いていた)を軸にした話になってい
るし、「一分茶番」は、「仮名手本忠臣蔵」を軸に、芝居好きの
飯炊き権助の田舎芝居が、笑いを誘う。

「だくだく」も、貧乏長屋の、何もない部屋の壁に紙を貼り、桐
の箪笥など豪華な家具類の絵を描いて、まるで、吉原の遊女の部
屋の、芝居の書割(背景画)のような、「豪華な家具類に囲まれ
たつもり」で、男が寝ていると、忍び込んだ泥棒が、絵の箪笥か
ら「衣類などを盗んだつもり」になり、寝ていた男も、「槍を持
ち出したつもり」で、泥棒に襲い掛かり、「槍で腹を抉られたつ
もり」の泥棒が、「腹から流したつもり」の血の音が、「だくだ
く」という芝居のような話。

若手の落語は、成長が著しい、育ち盛りなので、話を聞くたび
に、どこか巧くなって来ているから愉しみだ。皆、人物の演じ分
けが、以前より、くっきりし始めてきたし、情景も目に浮かびは
じめた。もう少し、もう少しと、これからも、成長して行くだろ
う。当分、彼らの成長の度合いを、「人物の演じ分け」と「目に
浮かぶような情景描写」の、2点を、いわば、定点観測をしなが
ら、話を聞き続けてみようと思う。
- 2005年6月7日(火) 23:11:09
6・XX  戦後60年は、広島・長崎に原爆が落とされてから
60年ということでもある。この被爆問題とは、なぜ、アメリカ
は、世界で初めての原爆投下を日本にしたのか、日本が何をした
から原爆が落とされたのか、などという疑問に答えるということ
であろう。それは、いま、小泉首相の靖国参拝とそれを巡る小泉
発言とそれらの一連の言動に不快感を表明し、国家を上げて反日
言動を続けている中国の意向を解明することにも、繋がると思
う。

NHKが、ことし続けている「平和アーカイブス」は、これま
で、NHKが、放送して来た広島・長崎の被爆問題を取り上げた
テレビやラジオの番組を改めて再放送する運動である。被爆50
年の区切り、55年の区切り、そして、ことしの60年の区切り
などで、広島、長崎に勤務したNHKマンが、制作した番組の
数々を観ることができる。

こういう番組を、いま、改めて見直してみると、戦後60年経
ち、薄れ、掠れて来た戦争と人間の歴史というコンセプトを描く
線を、もう一度、濃い線でなぞり、くっきりと焦点を合わせてみ
せる効果があることを知る。こういう番組も作って来たNHKの
再生を、どうすればよいのかという課題は、足をしっかり地に付
けた議論の果てに解答が見えて来るように思う。
- 2005年6月3日(金) 22:12:44
5・XX  はやいもので、もう6月である。積み上げられた読
書済みの本に山を横目に見ながら、古書について書かれた小説、
オンライン古本屋の体験記、古本道を極める小説家の、街角発見
記などの書評をまとめて、「乱読物狂」の6月の最初に書き込
む。長らく日経新聞の記者として、NHKや民放の放送を担当し
ていた松田浩の最新刊、岩波新書の「NHK」を読みはじめる。
本の帯には、「放送の80年とNHKの戦後60年を検証する」
とある。
- 2005年6月1日(水) 22:47:32
5・XX  きょうは、一日中雨。職場では、人事異動に伴う送
別会があった。定年で職場を去る人の感慨。新たな任地やポスト
に向かう人。関連の別の組織に出向する人。ポストの責任が重く
なる人。毎年の事ながら、様々である。人との出逢いと別れ。人
事異動の季節は、サラリーマン生活には、毎年廻って来る。

絶版になっている渡辺保「忠臣蔵」の中公文庫版を東京駅地下道
にあるキオスクの古書店で300円で購入したことを以前に書い
たが、先日、神保町の歌舞伎書専門の古書店で、中公文庫版の親
本である白水社版の渡辺保「忠臣蔵」を見つけたら、2500円
の定価が付いていた。中味は、同じ。この古書店では、宇野信夫
「歌舞伎役者」を1000円で購入した。こちらは、本との出逢
いである。古書との出逢いは、人との出逢いに似ている。
- 2005年5月30日(月) 22:47:18
5・XX  歌舞伎座、夜の部の劇評を脱稿、早速、このサイト
の「遠眼鏡戯場観察」に書き込む。かつて、歌舞伎評論家の渡辺
保が、あれは、バレーだ、歌舞伎ではないと批判した玉三郎の
「鷺娘」を私は歌舞伎の舞踊劇として堪能し、誉め讃えた。

菊五郎の「狐忠信」(四の切)は、猿之助の宙乗りを軸にした外
連の「狐忠信」とは、また、一味違う五代目、六代目の工夫した
音羽流の古怪な味わいの残る「四の切」であった。しかし、猿之
助工夫の演出も、充分に歌舞伎味がすると、思う。

歌舞伎座での勘三郎襲名披露のトリの演目に「出世した」人気沸
騰の「野田版研辰の討たれ」は、おもしろく拝見したが、あれ
は、歌舞伎ではない。歌舞伎の味わいを残した上で、おもしろい
演劇空間を作って欲しいと、思った。歌舞伎の味わいを残すと
は、歌舞伎の制約(約束事)を最大限に「活かしながら」、新し
い、おもしろい、演劇空間を作ることだと、思う。いわば、歌舞
伎の味わい、新しさ、おもしろさ、傾(かぶ)く心での、工夫魂
胆が、歌舞伎の可能性をさらに拡げると、思う。関心のある人
は、読んでみてください。

まあ、そういう気持ちを抱きながら、夜の部の劇評をまとめた。
- 2005年5月29日(日) 21:13:58
5・XX  休日出勤であったので、帰宅後、歌舞伎座の劇評
「夜の部」を描きはじめる。取りあえず、素晴しかった玉三郎の
「鷺娘」について、まっ先に書く。6年前、歌舞伎座で、初めて
観た玉三郎の「鷺娘」を思い出しながら、書いた。言葉より、踊
りが素晴しかったことが、改めて判る。菊五郎の「狐忠信」と勘
三郎の「野田版 研辰の討たれ」の劇評と合わせて、掲載した
い。
- 2005年5月28日(土) 22:50:19
5・XX  3月から始まった歌舞伎座での、十八代目中村勘三
郎襲名披露興行も、きょうで千秋楽。先日、拝見した歌舞伎座の
舞台のうち、取りあえず、「昼の部」の劇評を先ほど、このサイ
トの劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。関心のある
人は、お待たせしました。関心の無い人も、冷やかし半分で、覗
いてみてください。「夜の部」の劇評は、もう少し時間を下さ
い。今月中に書き込みたい。玉三郎の「鷺娘」が良かった。「野
田版 研辰の討たれ」は、おもしろかったが、これは、歌舞伎で
はないだろうと思った。
- 2005年5月27日(金) 22:23:30
5・XX  きょうは、代休。一日中、歌舞伎座。勘三郎襲名披
露興行も3ヶ月目。昼と夜の通しで拝見。昼の部の「車引」は、
松王丸:海老蔵、梅王丸:勘太郎、桜丸:七之助ということで、
浅草歌舞伎の配役だが、フレッシュで良かった。勘太郎の科白回
しが、良くなって来た。「芋掘長者」は、初見。「茶壺」に良く
似た舞踊劇。三津五郎を軸に橋之助らが出演。「弥栄芝居賑」
も、初見。中村勘三郎一門と幹部らが、すべて、劇中趣向の口上
という祝典劇。「髪結新三」は、勘三郎を軸にした世話物だが、
後半の喜劇になってから、俄然おもしろくなる。

夜の部は、玉三郎の「鷺娘」が、断然良かった。傷付いた鷺の精
が、霏々と降る雪に埋もれるように崩れ落ちて行く様は、見事と
しか言い様がない。玉三郎の下半身が、紙の雪片と見分けが付か
ないようにさえ、見えた。菊五郎の「義経千本桜〜川連法眼館
〜」は、音羽屋流の狐忠信で、演出が、猿之助流とは、違って、
古怪で、それはそれなりに味わいがある。

3ヶ月の勘三郎襲名披露歌舞伎座興行のトリは、「野田版研辰の
討たれ」で、生の舞台は、初見。ビデオより、生の舞台の方が、
やはり良かった。芝居としては、良くできており、おもしろかっ
たが、やはり、これは、歌舞伎役者が出演する、歌舞伎とは、別
の演劇だろう。脚本・演出の野田秀樹の才気を感じたし、役者と
しての勘三郎の才気も感じた。いずれにせよ、近日中に、このサ
イト劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」に、詳細な劇評を書き込む
予定。

3月からの歌舞伎座勘三郎襲名披露興行は、チケットの前売り段
階で、早々と満席になり、連日札止の盛況だったので、いつもの
歌舞伎座の観客と違う客層が、詰め掛けた。今月は、特に、「野
田版研辰の討たれ」が、夜の部の軸になったから、それが余計に
拍車がかかり、歌舞伎を見なれていない観客が、目立つ。昼も夜
も、館内放送で、前に身を乗り出す「前傾姿勢をとると後ろの観
客の迷惑になるから止めて欲しい」と盛んに注意をしていたが、
守らない観客が多くて、私も、閉口した。
- 2005年5月23日(月) 22:39:12
5・XX  風の強い日に「風烈廻り与力」を主人公にした「一
風変わった」時代小説を続けて2冊読んだ。弁護士を主人公にし
た法廷小説を手掛けて来た小杉健治は、このところ、時代小説に
新境地を開いている。その小杉の「風烈廻り与力・青柳剣一郎シ
リーズ」を読んだ。「風烈廻り」とは、聞きなれない職位だが、
定町廻り、臨時廻り、隠密廻りという江戸の町奉行所の三廻りと
並ぶもので、通常は、前例を調べる裁判所の書記官のような仕事
をしている例繰方と兼務で勤め、風の強い日に火災予防や放火の
取締をする、いわば、消防署員のような仕事をしている。そうい
う地味な役人に光を当てて、小杉は、「青痣与力」こと、青柳剣
一郎を人気者に仕立て、いまや、第3作まで積み上げて来た。今
回読んだ2冊の書評は、このサイトの「乱読物狂」に書き込ん
だ。
- 2005年5月19日(木) 22:27:41
5・XX  新宿の紀伊国屋サザンシアターで、青年劇場の89
回公演「ナース・コール」を拝見。危機管理の不備な日本社会を
象徴するような芝居。東京近郊の200床ほどの総合病院を舞台
に新型ウイルス騒動が起こる。舞台の軸は、ナースステーショ
ン。本来なら、私語など少ない職場なのだろうが、会話がなけれ
ば、芝居は成り立たないから、ありそうな私語が、仮構される。
病院の医師に医事考証をしてもらった上での演出ということで、
細部のリアリティーが光る舞台となった。看護士(ナース)たち
の科白と科白の間の無言の動作が、きめ細かい。彼女たちの動線
も、リアルに見える。ナース・コールも頻繁にかかる。病院の裏
側が、見えて来るような芝居になった。看護士たちを演じた女優
陣は、リアルに見えた。何時の間にか、芝居を見ているのではな
く、実際にナース・ステーションを覗き見しているような気がし
て来た。そういう意味では、演出を担当した松波喬介の苦労が報
われる舞台となったと思う。新型ウイルス患者を疑う医師の対応
は、保健所という行政が、重い腰を上げないことから、後手に廻
り、看護士仲間も感染、最後は、医師本人も感染する騒動にな
る。日本の病院の危機管理の乏しさを鋭く告発する。

でも、良く考えてみると、危機管理意識が乏しいのは、なにも、
病院や保健所に限ったことではない。鉄道も飛行機も空港の管制
も危機管理が杜撰なニュースが飛び交ったばかり。いや、さまざ
まな商品のメーカーも、危機管理意識は、乏しい。行政も外交も
危機管理意識は、乏しい。放送局も新聞社も乏しい。日本社会全
体的に、危機管理意識に乏しい。この芝居は、そういう普遍的な
危機管理意識の乏しさに警鐘をならしている。ナース・コールを
しているのは、私たち、国民だ。しかし、日本社会は、病院と
違って、ナース・コールをしても、ナースは、来てくれない可能
性がある。そこが、いまの日本社会の危ういところだ。
- 2005年5月14日(土) 23:59:25
5・XX  帰宅途中、座席に座って、本を読んでいた私の乗っ
ていた地下鉄の電車が、急ブレーキというほど衝撃はなかった
が、異常な停まり方をしたなと思ったら、「この電車が、ただい
ま、人身事故を起こした」とアナウンス。地下鉄の線路を歩いて
いる人などいるわけがないだろうから、どうしたのかと思い、窓
を見ると外は真っ暗なので、やはり、駅間での事故なのかと、
思っていたら、先頭車量が、ある駅の構内に差し掛かったとこ
ろ、飛び込みがあったようだ。私は、6、7両目に乗っていたか
ら、窓の外が真っ暗だったようだ。結局、20分ほど、立ち往生
している間に、乗客救出(あるいは、遺体搬送か)で、それほ
ど、電車が移動しないまま、駅に入り、乗客を乗り降りさせた
後、隣の駅まで、安全確認運転。結局、電車の運行は、そこで打
切り。区間不通のなり、隣の駅から咲の区間で折り返し運転とな
り、40分ほど遅れて、帰宅。

一電車早く乗っていたら、事故には遭わずに無事帰宅しただろう
し、一電車遅れていたら、区間不通で、途中で降ろされ、バスに
でも乗り換えて、もっと、帰宅まで時間がかかっただろう。つい
ていないが、少しは、ついていたとも言えるような状況だな。こ
ういうのは。それにしても、自分の乗っていた電車が、人身事故
などというのは、あまり体験したくないものだ。先日のJR福知
山線(宝塚線)の大事故を思い出してしまう。
- 2005年5月12日(木) 21:55:22
5・XX  どうせないだろうと思いながら、いつものくせで、
古書店の文庫コーナーを覗いたら、長らく(6年間ぐらい)探し
ていた絶版の渡辺保「忠臣蔵」の中公文庫版(初版)を遂に見つ
けた。東京駅と大手町駅を繋ぐ地下通路にあるキオスクの古書店
である。

そもそも、中公文庫は、古書店にあまり出ない。いまでは、安易
に刊行されるさまざまな文庫本のなかでも、内容を選りすぐって
いるせいか、中公文庫は、新刊の刊行数も少ない。絶版になって
いるものの復刊も少ない。渡辺保「忠臣蔵」の中公文庫版(初
版)は、20年前の刊行で、当時の価格は、420円(確か、文
庫版になる前の親本は、白水社刊の単行本)。今回は、300円
だが、絶版本として考えれば、高くはないだろう。刊行以来、
20年ということで、それなりに劣化はしているが、美本であ
る。渡辺保「忠臣蔵」そのものは、一度、白水社版を借りて読ん
だことがある。

早速再読し出したが、そういえば、先月から読んだまま、このサ
イトの「乱読物狂」に書評を掲載していない本が、私の傍で、山
になっている。早く、山を崩さないといけないと思いながら、い
ろいろ雑用も多く、取り組めないでいる。
- 2005年5月10日(火) 21:34:12
5・XX  晴れ。大型連休も、谷間の月曜日が過ぎ、第2期の
連休に入るが、きょうも、休日出勤。往復の車中では、辻井喬
「終わりからの旅」を読み継ぐ。職場の人が亡くなり、小平まで
通夜に行く。

憲法記念日に合わせて、日本ペンクラブの電子文藝館委員会か
ら、電子文藝館に掲載する原稿として、松浦喜一「日本国憲法を
護る ーー生き残った特攻隊員、八十一歳の遺書」の校正依頼の
メールが届く。帰宅後、早速、校正のために読み込む。

「憲法とは政府が国民に命令するものではなく、国民が政府の行
動を規制するものであるのに、国民は政府の下にあるものと錯誤
しているのでしょうか」という文章が、印象に残る。

筆者の松浦喜一さんは、長崎県生れの81歳。学徒動員で、軍隊
に入り、特別攻撃隊(特攻隊)の隊員となり、出撃するが、生
還。東京の麻布十番で家業の和菓子製造業に従事して来た。1年
1年を「最期の1年」として生き、05年1月に「遺書」とし
て、「日本国憲法を護る」をまとめ、私家版として刊行した。全
文が、日本ペンクラブ・電子文藝館に掲載されるだろう。
- 2005年5月3日(火) 22:55:16
5・XX  JR宝塚線(福知山線)の列車脱線事故があった月
曜日が、また、やって来た。早くも、一週間が過ぎ去った。今回
は、連休の谷間の月曜日とあって、けさの首都圏の電車は、いつ
もより空いていた。電車の先頭車両や対向する電車がすれ違う側
の座席には、乗ったり、近寄ったりしたくないような心境にな
る。

そういえば、羽田空港では、工事で閉鎖中の滑走路に飛行機を着
陸させた管制官が、18人もいたというから、驚く。工事閉鎖の
連絡が早過ぎて、当日勤務に付いていた18人の管制官が、責任
者も含めて全員失念していたというから、呆れてしまう。ふつう
は、こういうことは、業務で日常的に使用している予定表に書き
込んであるものだ。パソコンのスケジュールの機能の、もっとも
初歩的なことではないか。例え、一年前に連絡が来ても、当該日
に予定を書き込んでおけば、一年後の、その日に忘れたくても、
忘れられないようになっているはずだ。

JRでは、一秒単位で、列車の「遅れ」に目くじらを立てて、結
局、運転士を含めて、107人を殺してしまった。羽田の管制官
は、大勢の乗客乗員の乗ったジェット機を工事閉鎖の滑走路に平
気で着陸させてしまった。事故にならなかった方が、不思議なく
らいだ。
- 2005年5月2日(月) 22:39:18
5・XX  早いもので、きょうから、5月。大型連休とのこと
だが、こちらは、地域に開かれた職場を目指して、職場を舞台
に、「お祭り」をしているので、休日出勤が続く。第1期は、無
事終ったが、連休の谷間の出勤を挟んで、あさってから、第2期
があり、また、休日出勤となる。

さて、閑話休題。きょうは、「との字」の噺。「と」というと、
「いろはにほへと」の「と」の字のこと。そういえば、「と」
は、7番目、つまり、ラッキーセブン。「いろはにほへとちりぬ
るを」を艶っぽく「色は匂えど散りぬるを」と読み替えれば、ご
承知のように、「色は匂えど」、つまり「色は匂うけれど」の
「ど」で、文章は、転調する。つまり、「いろはにほへと」の
「と」は、文章が転調するという、節目の文字なのだ。人生の転
調を夢見る向きには、「と」は、やはり、ラッキーセブンなのだ
ろう。

「と」が、転調というならば、「とちり」は、つまり、「と、ち
り」となる。この「と、ちり」が、実は、芝居小屋の場合、最前
列から順番に列を呼ぶときに使われ、それゆえに、「と、ちり」
は、最前列から数えて、「7、8、9」ということで、舞台が見
やすい席を示す、いわば、隠語として親しまれて来た。「と」
は、見やすい席の代表記号だったのだ。歌舞伎の殿堂、東京は、
東銀座にある歌舞伎座の座席も、少し前までは、「とちり」が通
用したのだが、座席管理をコンピュータで行うことを理由に、
「とちり」が無くなり、「789」になってしまった。
「789」では、隠語にもならない。味気ないだけだ。そのせい
か、歌舞伎座の関係者からは、いまだに反対の声が聞こえてくる
が、経営者らは、コンピュータ処理優先と主張し、断行してし
まった。遂に、「と」の凋落が、始まったのかもしれない。

「と」の凋落といえば、「糸瓜」のことを「へちま」というが、
実は、これが、「と」の凋落を示す言葉だったということを知っ
ているだろうか。私は、つい最近まで知らなかった。「糸瓜」
は、「いとうり」という(当たり前か)。そういう時代が、長く
続いたのだが、それが、いつのまにか、「いとうり」では、まだ
るっこいというわけで、「とうり」と呼ばれるようになったとい
う。「糸瓜」は、元を質せば、熱帯アジアの原産なので、「とう
り(唐瓜)」と呼ばれても不思議ではない。「唐」とは、本来な
ら、唐の時代の中国を指すが、「唐来もの」などに象徴されるよ
うに、「唐」=「異国」=「南国」という意味の普通名詞として
も使われて来たのだ。

また、そういう時代が、何年か続いたが、「とうり」では、ま
だ、まだるっこいというわけで、「うり」になった。というと嘘
になる。「うり」では、「瓜」全般を指す言葉になり、「瓜」の
一種「糸瓜」と識別できなくなってしまう。「うり」がだめな
ら、それではということで、「とうり」は、「と」になった。こ
の「と」は、瓜を扱う業種の人たちの間では、まだるっこくな
く、「いとうり」のことを指す言葉として便利になったと定着し
たので、また、そういう時代が、何年か続いた。しかし、やが
て、「と」が、「いとうり」という意味で、一般にも使われ出す
と、「と」は、「戸」と区別がつかないと、家具業者からクレー
ムがつくようになった。また、「と」は、「都」と区別がつかな
いと、知事を筆頭に東京都の役人からも、噛み付かれるように
なったので、瓜を扱う業界の人たちは、困ってしまった。

その結果、瓜を扱う業界の、文雅の趣味のある人たちが、頭を寄
せあった末に、いい智恵を出した。つまり、「と」が占める、
「いろはにほへとちりぬるを」という文字列のなかの位置に注目
したのだ。つまり、「とちり」より、一歩前進して、「へ・と・
ち」である。そして、「と」は、「へ」と「ち」の間にあるか
ら、「へちま(間)」としようと、文雅人たちは、提案したの
だ。「へちま」なら、「戸」とも間違えないから、家具業者も文
句を言えないだろうし、「都」とも間違えないから、知事を始め
東京都の役人も、黙ってしまうだろうというわけだ。実際、民間
からも、自治体からも、まったく、クレームが来なくなった。

それ以来、日本では、「糸瓜」のことを「へちま」というように
なったという。つまり、「と」は、凋落し、「へちま」政権が、
始まったのだ。そして、その「へちま」の時代も、長くなった
が、果たして、「へちま」は、「いとうり」史のなかで、長期安
定政権なのだろうかどうか。

そういえば、棚にぶら下がり、風に吹かれて、ゆらゆら揺れる
「へちま」は、「と」の時代の「へちま」の祖先たちが味わった
苦労など、すっかり忘れたような、のんべんだらりとした、あの
ようなのんきな顔の形になったという説がある。のんきな顔の
「へちま」は、枯れ果てた後も、繊維だけを残して、乾燥され、
やがて、石鹸を付けられ、裸を撫で摩る風呂の道具として再活用
され、ときには、美女の柔らかな凝脂に触れるという役得もある
という恵まれた一生を送るというのである。

いや、そうではない。「へちま」という呼び名が定着した後も、
実は、「いとうり」は、いまも、だれかに文句をいわれるのでは
ないかと、ヒヤヒヤしていて、いつも、たらり、たらりと冷や汗
を流しながら、さも涼しそうな顔をしているだけだという説もあ
る。この論者は、その証拠として、へちまの冷や汗を集めて、へ
ちま水として、人の顔に塗る「化粧水」が、生産されているとい
う事実に注目すべきだと主張するのである。

つまり、「へちま」政権も、決して安定はしていないというの
が、「いとうり」史研究家の通説になっているのである。それに
しても、「化粧水」になっても、「へちま」は、ときには、美女
の肌に塗り込められる。まあ、どうころんでも、「へちま」の一
生は、恵まれているのではないか。へえ、そうなんだ。私は、最
近、そのことを知り、スポンジより、「へちま」を見直すように
なったのだが(つまり、美女との関係でいえば、どうころんで
も、役得がありそうな「へちま」に、少しでも、あやかりたいと
いうわけで)・・・。さて、皆さんは、どうであろうか。
- 2005年5月1日(日) 22:22:43
4・XX  大型連休スタート。しかしながら、106人の死者
を出したJR宝塚線(福知山線)の事故が、頭の上に重くのしか
かっていて、スッキリしない。私も、きょうから、暫くは、休日
出勤が続く。大型連休も半減。5月の大型連休は、別称、「ゴー
ルデンウイーク」と呼び慣らされているが、新聞は、いざ知ら
ず、注意して聞いていると、NHKのニュースは、絶対に「ゴー
ルデンウイーク」という呼称を使わないことに気がつくはずだ。

というのは、「ゴールデンウイーク」は、昔、客寄せのために、
娯楽の有力なソフトであった頃の、映画業界が、5月の連休を
「ゴールデンウイーク」と呼び、映画館が、「ゴールデン」にな
るようなキャッチコピーとして、使ったのが始まりであり、
「ゴールデンウイーク」などと一部ではしゃいでも、多くのの労
働者は、休めないという実態があると批判された風潮を受けたこ
ともあって、マスコミの多くは、使わなくなったと聞いた。そう
言えば、秋の敬老の日や秋分の日が、土日を挟んで、連休になる
ときに、「シルバーウイーク」と呼ぼうという動きもあったよう
に記憶しているが、秋の場合、大型連休になるのが、稀だったこ
ともあって、定着しなかったように思う。

人生では、老後の時間を過ごす世代を「シルバー世代」などと呼
ぶが、経済的な不安を感じない(最近では、老後の経済的な安定
も、風前の灯火になりかかっているが・・・・)で、自由な時間
が増え、豊饒な人生を送れる可能性があることから、第2の青
春、第2の思春期と呼ぶ向きもある。「シルバー」どころか、
「ブルー」の世代、「ゴールデン」の世代ではないかと、思う
が、いかがであろうか。私など、間もなく、訪れるであろう還
暦、ちまり「リセット」の時期を過ぎれば、色香の残る「残菊世
代」を色っぽく生きたいものだと思っているのだが、実現するだ
ろうか。若い世代と協力しながら、新しい世代観を構築して行き
たい。それが、次に続く世代へのメッセージになると思うから。
- 2005年4月29日(金) 23:35:21
4・XX  JR宝塚線(福知山線)の列車事故による死者は、
100人を超えた。大学生など若い人が、多い。受験を突破し、
1年生になり、数週間で亡くなってしまったという人もいる。朝
の通勤、通学という日常生活を送っていて、列車のスピードが速
いなあと、不思議に思ったのもつかの間、あっという間に亡く
なってしまったようだ。残された者は、悔いても、悔い切れない
思いだろう。

先日も書いたように、「テイコク(定刻)主義」という名の怪物
が、いまの日本社会を徘徊している。JALも、安全性をないが
しろにしてテイコク主義に犯され、経営者たちは、経営責任を問
われたし、今回は、JRが、また、テイコク主義に蹂躙され、運
転歴1年未満の若い運転士が、100人を超える乗客を道連れに
殺された可能性が高まっている。事故の処理が終れば、経営者
は、経営責任を問われるだろう。テイコク主義に象徴されるの
は、ぎりぎりまで上り切った効率化主義ということだろう。長引
く不況を克服しようと仕掛けられた効率化=ベストという価値観
のなかで、日本の社会は、かなり、疲弊してはいないだろうか。
あらゆる分野で、老舗、有名ブランドなど、かつては、優位性を
持っていた企業や組織が、いま、大きく揺らいでいる。そう言う
風に考えれば、今回のJRの事故が、単に、列車の脱線事故など
ではなく、日本社会全体が脱線しようとしているような、奇妙な
軋みの音を響かせていることに気がつかないわけには行かない。

その軋み音は、いま、中国や韓国などアジアの有力国から日本に
向けて発せられてもいる。日本は、国内外の軋み音に耳を傾けな
がら、テイコク主義からの脱却を模索すべき時期に差し掛かって
いるように思う。
- 2005年4月28日(木) 22:58:05
4・XX  兵庫県尼崎市のJR宝塚線(福知山線)で列車事故
があり、一昼夜経っても、乗客の救助作業が続いている。大きな
カーブの線路を曲り切れず、沿線のマンション1階の駐車場に先
頭車両が突っ込み、後続の車両が、大きく脱線している。これま
での死者は、73人、負傷者が、441人という大惨事になっ
た。

私も、30年以上前に大阪で記者生活を始め、やがて、大阪空港
駐在になり、当時大きな社会問題になっていた飛行機の騒音など
からの被害の救済を求めた空港公害訴訟の取材の傍ら、福知山沿
線の伊丹市、川西市、宝塚市など兵庫県側も取材することがあっ
たので、今回事故があった福知山線の沿線は、若干の土地鑑もあ
る(勿論、最近の実情は知らないから、ほとんど役に立たないだ
ろうが・・・)。阪神のベッドタウンとして発展し、JRのほ
か、私鉄網が発達している関西だけに、競合する阪急電車などと
は、せめぎあっていたのではないか。事故の原因は、未だ、解明
されていないが、安全、スピード、快適などが、競合するポイン
トになっているのは、容易に想像つく。特に、スピードの出し過
ぎは、原因のひとつになっているようだ。伊丹駅で、オーバーラ
ンし、そのために1分半遅れて出発した列車。遅れを取り戻すた
めに、スピードを出し過ぎた可能性も指摘されている。定刻どお
りの運行が、競合路線のセールスポイントになっていたとした
ら、航空会社のJAL同様に、「オン タイム」商法が、安全を
脅かした事故といえるだろう。

テレビや新聞の死者や負傷者の名簿には、知人が巻き込まれてい
ないか、心配で眼が行ってしまう。朝の通勤、通学、外出の途上
で、不意の事故に巻き込まれ、命を落とされた方々の無念の思い
が伝わって来る。人は、死ぬときには、死んでしまうものなの
か、とも思う。怪我をされた方たちも、恐怖の瞬間が、いつまで
も、思い出されて、トラウマになり、怖くて、電車に乗れなくな
るのではないか。私も、けさは、電車に乗るのが、嫌な気がし
た。合掌。
- 2005年4月26日(火) 21:29:21
4・XX  山梨の南アルプスの麓まで、花見に行って来た。甲
府盆地の桃の花は、一宮あたりは、終了。山の上の方の桃畑は、
まだ、色付いていた。韮崎の新府のあたりの桃畑は、まだ、花が
残っているが、盛りは過ぎている。畑では、受粉した花の選定を
しているご夫婦の姿を見掛けた。夫婦相和し、果実を育む。

小淵沢の桜も、満開を過ぎ、散りはじめた。小淵沢から清里の方
へ向かうあたりは、桜が満開で、季節を逆戻りしたよう。いずれ
にせよ、標高差のある地域は、上ったり、下ったりすると、季節
(時間)をコントロールしているような錯覚に捕われるから、不
思議なものだ。

山は、一気に芽吹きだした。山笑うの季節到来だ。淡い緑には、
さまざまな緑がある。紅葉の時期より、色彩が豊かに見える。雑
木林のなかの道を走り抜ける。展望の開けるところで、立ち止ま
り、山頂を見ながら、頭を経巡らせば、青空に浮かぶ銀の嶺々。
山国が、天も地も、いちばん、輝く季節を迎えた。
- 2005年4月24日(日) 22:14:22
4・XX  このところ、読んだまま、書評も書かずに置いて
あった本について、メモを元に書評を書き、このサイトの「乱読
物狂」のコーナーに書き入れているが、慌てて書き入れている所
為で、誤字脱字も訂正せずに書き込んでしまっている。例えば、
先日、書き込んだ森詠「少年記 オサム14歳」などは、「少年
記」が、「少年樹」になってしまっている。ここで、訂正をして
おく。

私にとって、読書とは、あるいは、読書の愉しみとは、いかなる
ものなのであろうか。考えてみた。まず、1)本を読むというこ
とは、新しい知識の取得といか、知らなかったこととの出逢いと
いう愉しみがあると思う。次いで、新しいものとの出逢いは、ま
た、これまで構築して来た私なりの、知識の集大成を変える刺激
があるということである。2)いままで見て来た世界が、違って
見えるようになるからだ。
それは、また、私に、3)新しい作品を書かせることになる。新
しいものの見方を自分だけ愉しむのではなく、皆さんにも、伝え
たいと思うからだ。このように、読書は、螺旋状の階段を登るよ
うに、私という、一つ所で、足跡を積み重ねながら、別の高みに
我が身を運んで行くという、そういう効用があると、思う。

今夜は、やくざ映画、西部劇映画、歌舞伎狂言という、3題噺
で、書評を書き込んでみた。
- 2005年4月21日(木) 22:28:46
4・XX  作家の丹羽文雄が亡くなった。100歳であった。
20年ぐらい前から、アルツハイマー病になり、10年ほど前、
長女が、作家の看病体験を綴って本を出し、話題になった。その
後、丹羽の闘病生活が、テレビのドキュメンタリーになったのを
見た記憶がある。

丹羽文雄は、幼くして母と生き別れ、その母への追慕が、文学の
原点になった。同じく母恋が文学の原点にある谷崎潤一郎を思い
出させる。私は、丹羽文学の良き読者ではなかったが、丹羽が、
生母をモデルにして書いた「鮎」は、豆本仕立て(著者署名入
り)で持っている。木の表紙で、鮎の形をした塑像が、はめ込ま
れている。洒落た豆本作りで知られる未来工房の作品である。
- 2005年4月20日(水) 21:15:45
4・XX  先日書いた十八代目勘三郎襲名披露の「6月」興行
というのは、「5月」の誤り。訂正します。6月の歌舞伎座は、
普通の興行に戻り、昼の部が、吉右衛門の「素襖落」、染五郎、
孝太郎の梅川忠兵衛で、「恋飛脚大和往来」の「封印切」と「新
口村」、孝太郎の父・仁左衛門は、憎まれ役の八右衛門と忠兵衛
の父・孫右衛門に廻る。世代の廻り舞台が、一回りする。夜の部
は、吉右衛門の「盟三五大切」、富十郎と息子の大の「良寛と子
守」など。

溜まっている書評は、近く、まとめて書き込み、「乱読物狂」に
掲載の予定。
- 2005年4月18日(月) 21:53:23
4・XX  歌舞伎座、夜の部の劇評を「遠眼鏡戯場観察」に先
ほど、書き込む。「毛抜」は、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に
は、初登場であり、いろいろ書いた。初めて書くのは、書きやす
い。何度も観ている演目は、役者の演技の印象論なら書けるが、
それ以外の要素は、前に書いていることとダブるようになるの
で、書きにくい。前からここの「遠眼鏡戯場観察」を読んで下
さっている人には、重複の情報は要らないが、初めて読む人に
は、簡潔であっても、欲しい情報ではある。その辺りを勘案しな
がら、毎回書いている。劇評書き手の工夫魂胆である。

さて、きょうは、歌舞伎座の6月興行、十八代目勘三郎の襲名披
露興行の3ヶ月目の前売り初日だが、ここ3ヶ月の、前売り初日
を見ていると、どんどん、売り切れ日が早くなっている。きょう
も、初日だけで早くも、6月の歌舞伎座の全席(幕見席と当日券
は、除く)が売り切れてしまった。新勘三郎は、人気先行だ。い
ずれ、人気に実力が追い付くことを期待している。そのとき、勘
九郎は、本当の勘三郎になる。
- 2005年4月15日(金) 22:16:29
4・XX  きょうも、雨が降り続く。桜雨。中村勘九郎、中村
芝翫、中村又五郎らの聞き書きでまとめた「中村屋三代記」を読
みながら、4月の歌舞伎座、夜の部の劇評の続きを書いている。
まず、書きやすい「口上」評を書きあげる。次いで4回目の拝見
となる「籠釣瓶」を書きはじめた。「籠釣瓶」は、勘九郎と今回
の新勘三郎で、2回見ている。いずれも、相手役の八ッ橋は、玉
三郎。

歌舞伎十八番の「毛抜」は、3回目、8年ぶりの拝見。しかし、
弾正役は、團十郎では、初めてだし、去年の歌舞伎座・海老蔵襲
名披露興行という大事な舞台を5月10日から、病気休演して以
来、ほぼ1年ぶりの歌舞伎座復帰だけに、團十郎は、万感の思い
を込めて、「毛抜」という演目を選んでいるようなので、その辺
りをできるだけ、詳しく書いてみたいと、思っているから、時間
がかかりそう。
- 2005年4月12日(火) 22:27:59
4・XX  このところの暖かい陽気で一気に満開となった桜だ
が、きょうは、一転、一日中雨で、気温も上がらず、風も強く、
ほとんどが散ってしまった。きのうの続きで、歳時記などで、桜
を調べてみた。きのうのような、花見は、歩いて見て廻ったか
ら、「花逍遥」という。強風に煽られて、桜が烈しく散る「花吹
雪」は、「花嵐」、または「花の風巻(しまき)」も同じ意味。

散り落ちた桜の花弁は、「花屑」(「星屑」と同じ)、「花の
塵」などとあるが、地面に散り敷き、風に吹き寄せられて、淡雪
のように見えるのとは、ちょっと、違う感じがする。

「花蓆(むしろ)」という言葉があった。花弁の一面に散り敷い
ているさまを蓆に見立てていうとあるから、これに近いか。で
も、蓆と淡雪では、やはり、イメージが違う。「花の雪」とい
う、そのものズバリの言葉があったが、これは、白く咲いた花を
雪に見立てていうとあるから、立ち木に積もった雪のイメージ
で、見立て違い。「花つもる」は、花弁が、地面に降り積もるイ
メージか、とも思う。「積もった後」とは、また、違う感じがす
る。

きのう、淡雪に見えた公園の桜の花弁は、雨に洗われ、茶色に変
色して、枯れ花の屑、塵になっていた。花の命は、短くて、苦し
きことのみ、多かりき。ああ、花の色は、うつりにけりなか、昔
の人は、良く言ったものだ。

歌舞伎座、夜の部の劇評を書きはじめる。吉原の花魁の色香に迷
い、人殺しをする男の話。「籠釣瓶」という妖刀の魔力に負けた
真面目人間の復讐。そう言えば、昼の部の「京鹿子娘道成寺」の
白拍子・花子に化けた清姫の亡霊も、復讐劇。復讐が、大名跡の
襲名披露興行という、祝祭の中心演目になるという辺りが、歌舞
伎の世界の幅に広さ、おもしろさ。劇評の方は、毎日、少しずつ
書き進めたい。
- 2005年4月11日(月) 22:55:11
4・XX  「花ニ嵐ノ例エモアルヨ。サヨナラダケガ人生ダ」
という詩句を思い出すように、きょうの東京は、満開の桜が、強
い風に散らされていた。そう言えば、福島泰樹が、寺山修司を
歌った短歌にも、「コートの襟立てて さよならだけの人生を行
く」というのが、あったっけ。まあ、人生詰まるところ、真髄
は、別離しかないだろう。そういうことを思いながら、風に散る
桜を見ていた。

風に散る桜は、「桜吹雪」だ。ところで、散った桜が、地面に散
り敷き、まるで、淡雪のように見えたが、あれは、なんて言う表
現があるのだろうか。歳時記で季語を探せば、適当な言葉が出て
来るのだろうが、いま、手許にすぐに出せないので、判らない。
水面に散った桜は、「花筏」という美しい言葉があるのだから、
きっと、気の効いた言葉があるだろうと、思う。強い風に吹き寄
せられた桜の花弁が、あちこちの地面に濃淡をつけていて、遠目
には、雪に見えた。

さて、4月の歌舞伎座の昼の部の劇評を、このサイトの「遠眼鏡
戯場観察」に、さきほど、書き込んだ。夜の部は、あすから、書
きはじめるので、サイトの掲載まで、今週一杯かかるかもしれな
い。構想は、すでに固まっているので、期待して、待っていてく
ださい。

拙著「ゆるりと江戸へ 遠眼鏡戯場観察(かぶきうぉっちん
ぐ)」を買って、何ヶ月も懸けて丹念に読んでくださった(たっ
ぷり、付箋が挟まっているので、判る)人から、本への署名を頼
まれた。意気に感じたので、見返しの、2ページを見開きにし、
これを一枚の色紙に見立てて、為書(ためがき)、識語(「傾
(かぶ)く心 傾く花」)、署名、花押。さらに、「助六」の隈
取りスタンプを赤と黒の2色刷りで押して差し上げた。

「傾(かぶ)く心 傾く花」という識語は、伝統を大事にしなが
ら、新奇なものの大胆に取り入れる「歌舞伎の精神」(つまり、
傾く心)は、人生に対する果敢なチャレンジ精神に通じる。そう
いうチャレンジ精神を持ち続ければ、人生にも、歌舞伎美のよう
な可憐で、華麗な花(つまり、傾く花)が咲く、という意味を込
めた。気に入ってもらえただろうか。

私も、今後、自由な時間に恵まれる時期を迎えたら、豊潤な時間
を活用して、頑張って、ペンネームを高める努力をしたい。識
語、署名入りの拙著の、古書価値倍増を目指そうと、思う。こち
らも、乞う、ご期待ということにしておこうか。
- 2005年4月10日(日) 22:58:53
4・XX  4月の歌舞伎座は、2ヶ月目に入った十八代目勘三
郎の襲名披露興行の舞台が、続いている。私も、昼・夜通しで、
観て来た。今月は、勘三郎の襲名披露の舞台であることは、間違
いないが、去年、海老蔵の襲名披露興行の途中で、病気休演した
市川團十郎の歌舞伎座復帰の舞台でもある。昼も夜も出演してい
るが、特に、團十郎は、夜の部では、「毛抜」と「口上」で、歌
舞伎座復帰を元気にアピールしていた。劇評を書きはじめたが、
まだ、脱稿していないので、「遠眼鏡戯場観察」への書き込み
は、もう少し、待って欲しい。

昼の部では、七之助休演の影響で、大役が廻って来た芝のぶが、
「源太勘当」の千鳥を好演していた。仁左衛門・玉三郎のゴール
デンコンビの「切られ与三」も良かった。夜の部では、何と言っ
ても、「毛抜」と「籠釣瓶」と見どころが多かった。七之助は、
夜の部のみ出演で、「口上」と「籠釣瓶」で、久し振りに板に
乗った。
- 2005年4月9日(土) 23:38:35
4・XX  北尾トロ「ぼくはオンライン古本屋のおやじさん」
という本を読んでいる。私も、いつか、オンライン古本屋を開業
したいと思っている。これまでに買ったり、積み上げたり、読ん
だり、見たりした本が、1〜2万冊くらい(正確な数は、判らな
いが、文庫本を入れれば、2万冊は、ありそうな気がする)あ
り、専用の書庫に保管しているが、いずれ、同好の士に分けてあ
げたいと思っているからだ(サイン本など、本によっては、すで
に、複数の在庫があるから、用意周到だ)。

古本屋に安く買い取られるぐらいなら(これでは、金で株を買い
占め、企業を買収する企業家みたいだ)、価値の判る人に適正な
価格で分けてあげたい。写真集、文学書(署名本も多い)、政治
学書、歌舞伎書、そして、文学書の豆本・限定本などの稀覯本、
版画、蔵書票(複数の作家にテーマを決めて作ってもらった特注
品も多い)など、かなり、私の趣味に特化した本が多いので、一
般の業者では、正当に評価しないだろうと危惧するからだ。

将来、時間に余裕ができたら、ウエッブの古書店「白秋雄山房」
開業に備えて、ジャンル別に蔵書リストを整理してみたい(いま
から、古本屋の屋号だけは、すでに決まっているのが、自分なが
ら、「観念的」で、笑える)。まあ、眼の黒いうちに、体力のあ
るうちに、そういう作業をしておかないと、蔵書の正当な価値
が、判らなくなる可能性がないではない。それにしても、読みは
じめたばかりだが、北尾トロ「ぼくはオンライン古本屋のおやじ
さん」は、具体的で、実践的で、将来の役に立ちそうな感じがす
る(北尾は、私より、11歳も年下だから、私も、「おやじ」に
だけは、すでに、充分になっていることになる)。まあ、北尾ト
ロの、この本に刺激されて、胸のうちに秘めていた将来の思い
を、思わず、吐露してしまったという、お粗末。
- 2005年4月6日(水) 22:54:20
4・XX  夕刊に「名張の毒ブドウ酒事件」の再審決定の記事
が、1面トップで掲載されている。44年前の事件だ。1961
年3月、三重県名張市の公民館で、地元の生活改善クラブの懇親
会の席上、農薬入りのブドウ酒を飲んだ女性5人が死に、12人
が中毒症状を起こし、男性が逮捕された。逮捕された男性は、一
旦自白をし、逮捕・起訴されたが、その後、無罪を主張し続け、
一審無罪、二審死刑、最高裁でも、上告が棄却され、死刑が確定
した。しかし、それ以来、7回の再審請求を粘り強く続け、今
回、再審決定を引き出した。

実は、私が、中学生2年生のときに事件は起きている。3年生の
ときに買った本に朝日新聞社が刊行した「地方記者」という本が
あり、この本は、地方で取材活動をしている記者の体験記をまと
めたものだ。そのなかに、朝日の名張通信部の記者が書いた「毒
ブドウ酒事件」の取材顛末記も掲載されていたので、この事件を
良く覚えている。

現在79歳の死刑囚は、「命ある限り無罪を訴え続ける」と言っ
ているらしい。弁護団や支援者の力もあるだろうが、本人の冤罪
の汚名を晴らしたいという強い遺志が、死刑の確定から数えて
も、33年という絶望的な獄中生活を耐えさせて来たのだろうと
思うと頭が下がる。

中学生のとき、出逢った「地方記者」という本。その後、この本
は、続巻も出て、また、正続をあわせた「地方記者」のエピソー
ドを元に、日本テレビが、テレビドラマとして放送した。私は、
小山田宗徳、水木麗子のふたりが、地方記者の夫婦を演じるドラ
マを夢中になって観た。NHKでは、それ以前に「事件記者」と
いうドラマを放送しており、「記者ものドラマ」が、人気を集め
ていた。日産提供のテレビドラマ「地方記者」は、次のようなナ
レーションで始まった。

「大都会で華やかな取材合戦を繰り広げる記者ばかりが、記者で
はない・・・・」。

そして、小山田宗徳がテーマソングを歌っていた。「人の心は、
悲しいけれど、それに負けてはいられないのさ。生きている。生
きているんだ。人間が、ひとり鉛筆握りしめ、・・・活字の片隅
で、涙堪える、時もある」

東京育ちで、地方での生活を知らない中学生の私は、そのころか
ら、大学を出たら、地方へ行き、記者になりたいと思うようにな
り、都立高校時代は、新聞部に入り、記者への憧れをさらに燃や
し、大学時代も、政治学を学びながら、記者への夢を捨てず、初
任地こそ、大阪という大都会だったが、あこがれの地方記者生活
を始め、以来、千葉、仙台、札幌、甲府と地方生活と東京生活を
半々で過ごして来た。

爾来、30有余年。私も、現場の記者は、とうに卒業したが、い
まも、ひとりのジャーナリストとして、このサイトを運営してい
る。それだけに、「名張の毒ブドウ酒事件」の再審決定では、非
常に説得力のある名古屋高等裁判所の小出裁判長の判断に感銘を
受ける。冤罪を晴らすドラマの序幕は、切って落とされた。死刑
囚が、老いとの戦いの果てに、汚名を晴らし、歓喜の涙を流す日
が来ることを祈りたい。
- 2005年4月5日(火) 22:28:57
4・XX  井筒和幸監督の映画「パッチギ!」(2004年作
品。119分)を観る。1968年の京都が舞台。日本の音楽好
きの高校生(京都府立高校)が、その高校の空手部と近くにある
朝鮮高校の生徒たちの対立抗争(まあ、喧嘩ですな)の巻き込ま
れながら、朝鮮高校のリーダー(番長)の妹の音楽好きの美少女
に恋をする話。当時の人気フォークグループのひとつ、「ザ・
フォーク・クルセダ−ズ」(1965年、加藤和彦を中心に結
成)の流行歌「イムジン河」を主旋律にバックに流しながら、日
朝版「ロミオとジュリエット」の物語が進行する。テンポのある
映像展開とユーモラスな会話、演技が、軽快で、愉しみながら、
私も観ていた。

朝鮮高校の生徒とその家族の生活には、北朝鮮への帰国運動が、
まだ、影を落としている。朝鮮人の生活を描く端々に、それは伺
える。例えば、総連の「ウリナラ、楽園や」(ウリナラ=我が祖
国)、民団の「生き地獄や」という科白にも、滲み出て来る帰国
運動の光と影。それは、かっての映画「キューポラのある街」を
私に思い出させる。タイトルの「パッチギ!」は、朝鮮語(韓国
語)で「頭突き」の意味だそうで、いわば、日朝の若者たちの喧
嘩状況を端的に示す言葉。実際に、朝鮮高校のグループのリー
ダーの得意技が、頭突きであった。

「パッチギ!」の脚本のベースになったのが、2002年に刊行
された松山猛の「少年Mのイムジン河」という自伝的小説であり、
松山は、1968年当時、「イムジン河」の訳詞を担当したとい
うから、なんと、36年という長い年月、暖めていた「イムジン
河」への思いが、井筒和幸監督や「パッチギ!」の音楽を担当し
た元祖「ザ・フォーク・クルセダ−ズ」(以下、「フォークル」
と略す)の加藤和彦などを巻き込んでの、まさに、帰って来た
「フォークル」という色合いが濃い作品となった。

実際、映画のなかでは、随所に「フォークル」の歌が流れる。
「フォークル」を関西の小さなグループから、全国版に印象づけ
た大ヒット曲「帰って来たヨッパライ」こそ流れないものの、メ
インテーマの「イムジン河」のほか、「悲しくてやりきれな
い」、エンディングテーマの「あの素晴しい愛をもう一度」など
「フォークル」の歌が流れる。このほか、1960年代後半のグ
ループサウンズのひとつ、オックスの「スワンの涙」、「ダンシ
ングセブンティーン」、都はるみの「アンコ椿は恋の花」など中
年の世代は、一気に、自分たちが過ごした青春時代へ引き戻され
る。

映画では、1960年代後半の世相や風俗が再現される。オック
スが生出演(いまなら、「ライブ」)する京都の「ジャズ喫茶」
の場面では、失神する少女たちが描かれるし、高校での反帝国主
義の立看板(書かれた文句と字体は、独特のもので、当時の大学
から高校まで、拡がった『全共闘』運動を象徴している)や「中
核派」のヘルメット、毛沢東語録など、団塊の世代には、懐かし
い光景が再現される。映画館には、若い人たちの姿が目立った
が、中年もちらほら。団塊の世代も、いまや、中年世代から中高
年世代に近付こうとしているが、まさに、団塊世代向けの映画だ
ろし、時空を越えて、大人への入り口で、苦悩する若者たちの青
春時代を描くという意味では、いまの若い人たちにも受けるテン
ポとスピード、ユーモアのある映画でもある。

人生で、真剣に生死を考える時期は、2度あると思うが、そのひ
とつは、青春時代。人生不可解と、死を考える若者たち。しか
し、若者たちも学業を終えて社会人になると、急激に現実的にな
り、働き蜂になってしまい、生死など考える余裕が無くなる。そ
して、定年になると、身近になった老いや死を考えるようにな
る。定年は、いわば、第2の青春時代。

「パッチギ!」では、団塊の世代という親たちの青春時代が再現
され、井筒和幸作品としては、何時の時代も変わらない青春群像
を描くことで、いまの若者たちの共感も得る。そう、「パッチ
ギ!」は、まさに、親子で観る映画である。団塊の世代とその子
どもたち。普段の親子の断絶を吹き飛ばし、過ぎし日の青春とい
ま目の前にある青春との間に通底する思いを、お互いに共感する
のも、また、一興だろう。

ただし、若い俳優というか、俳優以前の俳優というか、個々の俳
優の演技をチェックすると、芝居になっていない場面も、ないで
はないが、朝鮮人の伯父を演じた笹野高史、朝鮮人の父を演じた
前田吟、日本の高校生の母親を演じた余貴美子、団子屋の笑福亭
松之助、ボーリング場の支配人のぼんちおさむなど、達者な傍役
陣が余白を埋めるし、若い俳優たちの、まさに、青春群像のエネ
ルギーが、そういう演技の荒っぽさに目をつぶろうかという気に
させる。それは、偏に、井筒和幸監督の画面から飛び出してきそ
うな力技の演出の効果であろうか。
- 2005年4月4日(月) 21:47:18
4・XX  青年劇場の第88回公演「青少年劇場公演」で、
「ーー今までになく懸命に生きた一年ーー 3150万秒と、少
し」を東京・新宿のシアターサンモールで観た。

「青少年劇場公演」なので、高校生をテーマに高校生など若い人
たちへのメッセージが込められた演劇であるが、会場には、若い
人も多かったが、中高年も目立った。

舞台は、ラルフ・ブラウン原作の映画「New Year’s 
Day〜約束の日〜」の脚本を元に、藤井清美が、演劇用の脚本
を作り、演出も担当した。

物語は、高校2年生のふたりの女生徒が、クラスの仲間や担任の
先生といっしょに、スキー旅行に出掛け、目的地の近くで、雪崩
に遭い、ふたりを残して全員が、亡くなってしまったというとこ
ろから始まる。

残されたふたりは、病院に運ばれ、家族や校長ほかの先生らに励
まされるが、ふたりのうち、利香は、仲間を失ったという喪失感
から、岬の灯台への自殺行を企てる。もうひとりの悠子は、「一
年間だけ待ってよ。やりたいことがあるから、それをやり終えた
ら、いっしょに岬の灯台へ行こう」と提案する。物語の展開は、
雪崩という始点と岬の灯台からの道連れ自殺という終点の合田
の、いわば、モラトリアムの時間を、どう描くかということにな
る。悠子は、「やることリスト」を作り、利香を連れて、一年間
(つまり、それが、「3150万秒と、少し」というタイトルに
なるわけだ)、モラトリアムの時間を過ごす。「やることリス
ト」が、高校生の受験勉強とか、学校生活とか、いわば、自己の
外から規制された生活とは異なる、自分たちの人生への向きあい
方の提言という、観客の高校生へのメッセージが込められている
ということなのだろうが、私は、違うことを考えながら、舞台を
観ていた。

ことしは、戦後60年になる。ということは、広島、長崎に米軍
により原爆が投下されて60年になるということでもある。機会
があって、このところ、広島長崎に投下された原爆のもたらした
ものを扱ったテレビ番組を何本も観ている。その所為もあり、私
は、スキー旅行で雪崩に遭遇し、ふたりを残して多くの仲間が死
んでしまったという「ーー今までになく懸命に生きた一年ーー 
3150万秒と、少し」という芝居の設定の、「雪崩れ」を「被
爆」に置き換える発想が、舞台を観ながら、自然に湧きだして来
た。私が観て来たテレビ番組では、例えば、広島の場合、午前8
時15分に原爆が炸裂し、中学生や女学校の生徒たち、10代半
ばの若者たちが、「建物疎開」という、本土決戦に備えて、街に
防火地帯を作るため、疎開した人たちの家を取り壊す作業に「学
徒動員」され、集団で亡くなっている例が、多いのだ。そのた
め、若者たちは、家族から切り離された場所で、原爆という巨大
な力による、爆発、熱風などにより集団で殺されたため、身元も
判らないまま、死んで行った。

「ーー今までになく懸命に生きた一年ーー 3150万秒と、少
し」は、高校生たちを対象に、「生きていること」と「生きてい
ないこと」を考えることで、「いかに生きるべきか」を問うとい
う、直接的なテーマの芝居として観ることが、もっともオーソ
ドックスなのは、私も判っているが、私のように、「被爆60
年」という節目の年に、高校生など若い人たちに、「戦争」(い
まのイラク戦争でも良いし、かつての日本がアジアに侵略した戦
争でも良い)を考えたり、「核」(広島、長崎の被爆、あるい
は、これから起こるかもしれない核戦争でも良い)考えるきっか
けを与える芝居と捉えても良いのではないかと、思う。例えば、
60年前、10代の半ばで、多くの仲間たちを被爆で失い、生き
残った「疾しさ」を心に抱きながら、生き続けて来た被爆者たち
は、まさに、自分が「生きていること」と仲間が「生きていない
こと」を考え続け、被爆による死の恐怖に怯えながらも、1年どこ
ろか、「懸命に生きた60年」を体験して来たのだ。

劇場で売っていた芝居のパンフレットに掲載されていた高校の演
劇部顧問の先生方と作・演出の藤井清美らの座談会にも、平和教
育の一環として、全校行事として、戦争体験者から話を聴こうと
提案したら、否決されたという、いまの高校の現況をかいま見せ
る話が出て来る。そこで、提案した先生は、ほかの先生で趣旨に
賛同してくれた3クラスだけで、戦争体験者の話を聴く授業をし
たという。突破口は、叩けば、開かれるということだろう。こう
いう芝居を観て、少しでも、若い人たちが、視野を拡げ、社会や
歴史への関心を深めてくれれば良いと、思う。

4・XX  先日、東京のトッパンホールで、ひとつのコンサー
トが開かれた。「松倉とし子&旅の音人(おとびと)たち
Concert in Tokyo」。第1部は、「『ほしとたん
ぽぽ』 中田喜直と金子みすゞの世界」で、金子みすゞの詩に作
曲家・中田喜直さんが、曲を付けたもののなかから、ソプラノ歌
手・松倉とし子さんが、11曲を歌う。松倉さんのソプラノは、
何時聴いても、年齢を超越した声で童心を揺さぶる。

例えば、「星とたんぽぽ」。
「青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は目に見えぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。」

「私と小鳥と鈴と」。
「私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速く走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。」

金子みすゞ、本名テルは、23歳で結婚したが、童謡詩人に理解
のない夫との生活は、新婚2ヶ月で離婚の話が出るほど不幸なも
のであった。長女・ふさえを生んだ後も、夫婦仲は、上手く行か
ず、ふさえ、ふーちゃんの言葉を詩に変えた「南京玉」を編み、
幼子へ迸(ほとばし)る母の情愛を溢れさせながら、幼子を残し
て、みすゞは、26歳の若さで自殺をしてしまう。1930(昭
和5)年3月のこと。

コンサートでは、松倉さんの語りと歌が、テンポ良く進む。小学
生の男の子のいる松倉さんは、母の情愛を滲ませながら、さきほ
ど指摘したように、年齢を越えた童心を揺さぶる声で、場内を魅
了して行くのが、良く判る。

第2部では、松倉さんが住む山形に縁あって移り住んだことのあ
る中国、ポーランド出身などの音楽家たち、チェロ、ヴァイオリ
ン、ピアノの演奏。はまだひろすけの童話「むくどりのゆめ」の
創作演奏。

第3部では、「小さい秋みつけた」など、中田喜直作曲集という
8曲を松倉とし子さんの歌に、ボニ−・ジャックスのコーラスが
加わる。「ごはんだよー」で知られる「夕方のおかあさん」、
「夏の思い出」など、懐かしい歌が、続く。中高年の多い場内
は、皆、ひととき、童心に返ったよう。2時間のコンサートは、
暖かい雰囲気を満杯にして、終了。

会場をトッパンホールの2階の食堂に移して、出演者と語るパー
ティも開かれる。私は、夕方、突然仰せつかった司会を勤める。
これも、松倉とし子ファンの数十人が参加して、1時間半ほど続
く。挨拶に立つ人たちは、皆、熱っぽく語る。さらに、裏方の
「打ち上げ」のために松倉さんを軸に事務局のメンバーが、神楽
坂の居酒屋に移動。私も同行。気が付けば、日付けを越えてい
た。神楽坂の坂を降りると、すでに地下鉄は、終電が出た後。JR
飯田橋から最終電車に乗り、東京駅まで。そこから、久しぶりに
深夜のタクシーで帰宅。

松倉とし子さんと出逢って、ざっと10年。年を取らない歌姫
は、10年なんて蹴っ飛ばし、・・・・。
金子みすゞの「さくらの木」さながらに、
「もしも、母さんが叱らなきゃ、
咲いたさくらのあの枝へ、
ちょいとのぼってみたいのよ。」

ボニ−・ジャックスのメンバーは、ひとり若手が加わているが、
古くからのメンバーは、もう、70歳前後というが、皆、声が変
わらないし、容貌も変わらない。そして、松倉さんも、いつも、
新しい歌の世界へ挑戦を続ける。それでいて、変わらない暖かさ
を滲ませている。そういうコンサートを久しぶりに堪能した。
- 2005年4月3日(日) 22:37:00
4・XX  きょうから4月。エイプリルフール。歌舞伎座で
は、十八代目勘三郎襲名披露2ヶ月目の舞台の初日を迎えた。私
の方は、やっと、3月の歌舞伎座の昼と夜の劇評を、このサイト
の劇評コーナー「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。

青年劇場の舞台「3150万秒と、少し」の劇評、井筒和幸監督
の映画「パッチギ!」の映評、ソプラノ歌手松倉とし子の「ほし
とたんぽぽ 中田喜直と金子みすゞの世界」コンサートの評も、
「双方向曲輪日記」には、書かなければならないが、週末所用が
あるので、書き込みは、週明けになる。いずれも、思うところの
あるものばかりであり、きちんと書きたいと思っているので、ご
容赦願いたい。
- 2005年4月1日(金) 22:09:10
3・XX  勘三郎の襲名披露興行の3月分は、きょうで千秋
楽。夜の部も終了したことだろう。休むこと無く、来月の準備に
かかるのだろう。4・1(金)は、4月興行の初日となり、25
日まで続く。「口上」は、夜の部に移る。私も、8日には、休み
を取り、歌舞伎座に行く予定。

さて、3月の歌舞伎座の劇評のうち、昼の部は、先ほど、サイト
の「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。今回の劇評のポイントは、
新勘三郎の猿若藝への執着について書いてみた。

4月は、どこにポイントを絞って、新しい勘三郎の魅力を見せて
くれるか。「滑稽味」の次は、「情味」かと、予想している。ま
た、不祥事で、父親の晴れの舞台に並べなかった七之助も、夜の
部「口上」から舞台復帰する。観客への贖罪は、舞台で良い藝を
見せることに尽きる。渾身の舞台を期待したい。七之助の休演
で、来月の昼の部では、芝のぶが、チャンスを与えられた。七之
助も芝のぶも、いや、若手の皆さん。皆、それぞれの居所で頑
張って欲しい。いまから、愉しみにしている。
- 2005年3月27日(日) 22:11:17
3・XX  このところ、1968年の京都を舞台に、日本の高
校生と朝鮮学校の高等部の生徒たちの対立を、当時のザ・フォー
ククルセダ−ズの流行歌「イムジン河」をバックに流しながら描
いた井筒和幸監督の映画「パッチギ!」を観たり、高校生をテー
マにした青年劇場「3150万秒と、少し」を観たり、さらに、
千秋楽前日の、歌舞伎座3月興行、つまり、十八代目中村勘三郎
襲名披露興行の舞台を昼、夜通しで観たり、日本ペンクラブの電
子文藝館の原稿校正をしたりで、この1週間は、夜や休日の時間
が、多忙であった。

順序からいえば、観た順番で、映評、劇評を早めに「双方向曲輪
日記」に書き込みたいが、千秋楽を迎えた歌舞伎評も、「遠眼鏡
戯場観察」に書き込みたい。取りあえず、「歌舞伎めでぃあ」の
看板を重んじて、歌舞伎の劇評から書きはじめる。ご容赦下さ
い。映画も青年劇場の芝居も、いろいろ、示唆に富んでいておも
しろかったので、時間がかかっても、きちんと書き込みたい。
- 2005年3月27日(日) 15:50:25
3・XX  30年以上前、学校を卒業して、記者になり、生ま
れて初めて、東京を離れて生活をはじめた。大阪。取材で知るよ
うになったのが、上方落語。いまも、大阪には、常打ちの寄席は
無いと思うが、当時も、なかった。あるのは、漫才や吉本新喜劇
などの劇場ばかり。そこで、上方落語の協会が考えたのが、船場
の島之内にある教会を日曜日を除いて借りきり、礼拝堂に畳を敷
いて、俄寄席に変身させる作戦だった。その「島之内寄席」を新
人記者の私は、街ダネとして取材に行ったのだ。

そこで、初めて聴いた上方落語は、六代目松鶴(しょかく)、米
朝、春團治、小文枝などの幹部の落語、可朝、仁鶴、三枝、小米
(後の、枝雀)、八方などの中堅・若手の落語であった。いま、
人気のさんまや釣瓶は、下足番をしていた。

なかでも、上方のなまりが、いちばんきつい小文枝の落語が好き
になり、おやっさん、御寮さんなどの、生活感ある描写には、の
めり込んでしまった。4年の大坂暮しを経て、私は、東京に戻っ
た。小文枝は、いつか、五代目文枝になり、10年、大看板を背
負い、72歳の若さで亡くなってしまった。合掌。改めて、聞き
直したい。
- 2005年3月15日(火) 22:40:40
3・XX  演劇評論家の渡辺保さんのインターネット劇評が、
本になって、マガジンハウスから刊行された。「批評という鏡」
(2300円)。私も、99年に「ゆるりと江戸へ 遠眼鏡戯場
観察(かぶきうおっちんぐ)」(現代企画室刊。2500円)を
刊行したころは、渡辺保さんの本をたくさん読んで勉強したもの
だ。しかし、渡辺さんのインターネット劇評は、殆ど読んだこと
が無い。読んで仕舞うと、影響を受けて、似たようなことを書き
かねない。だから、全く読まない。ほかの劇評も読まない。私
は、最近、歌舞伎の舞台だけを睨んでいて、そこから感じるもの
だけを軸にして、私の拙い劇評を書くようにしている。舞台に埋
もれている情報を掘り起こすことに執念を燃やしている。だか
ら、ほかの人が、書かないような劇評が書けたらと思っている。
もちろん、ほかの人と同じように感じることは、多々あるだろ
う。それは、仕様が無いが、極力避けたい。私の劇評を読む人
が、「目から鱗」という読後感を持ってくれるのが、理想的だ。
ただし、事実関係などは、間違えないように、いろいろ参考文献
には、当たる。それでも、間違いや誤読はあるだろうと思ってい
るが、その際は、御遠慮なく指摘していただきたい。再調査し
て、間違いがあれば、訂正します。

最近、私の知らない間に、このサイトが、あちこちにリンクされ
ているのを知った。「大原雄」でインターネット検索したら、い
ろいろ出て来た。まあ、それはそれで良しとする。ただし、私の
サイトは、原則は、公開ページというより、事実上、原稿簿なの
で、誤字脱字も、ないように努めてはいるが、ときに書き込んだ
後に気が付いても、恥ずかしながら、そのままにしてある。いず
れ、刊行時に、きちんと整理したいと、思っているので、いま
は、ご容赦願いたい。

あと、2年して、私も、ゴールデンエイジという人生最良の年代
に入る。そのときになって、時間が自由に使えるようになった
ら、私も、このサイトの「遠眼鏡戯場観察」で書いていることを
加筆訂正、場合によったら、再編成して、インターネット劇評を
本にしようと思っている。99年から2007年までの、大原流
の舞台ウオッチングである。9年分から10年分の劇評の集大成
になろうから、整理するものは整理し、身の引き締まった本にし
たい。歌舞伎観劇に役立つインデックスのような構成にして、歌
舞伎を観る前に予習するときに使うも良し、観劇後のお浚いに読
むのも良し、劇場に持って行って幕間に読むも良し、というよう
な、ものにしたいと、思っている。使いやすいように、インデッ
クスは、いろいろ工夫したと、思っている。見巧者・渡辺保さん
の本との違いが出せるかどうか、いまから、愉しみにしている。
- 2005年3月12日(土) 22:29:29
3・XX  60年前の、3・10、東京は、米軍による空襲で
焼け野原となり、およそ10万人が、亡くなった。多数の怪我人
も出た。私の両親は、新婚早々で、猛火のなかを逃げ回ったそう
だが、なんとか無事で、翌々年の1月、私が生まれた。

父親は、すでに、20年前に他界し、まもなく83歳になる母親
は、いまも、都内の自宅で、独り暮らしをしているが、最近、老
いの気配が、一段と濃くなった。

きょうも、職場の帰りに実家に立ち寄り、様子を見て来た。区役
所からのアンケート、銀行、証券会社、電話会社からのお知らせ
などの、ダイレクトメールが、何と多いことか。ときどき、重要
な書類が紛れ込んでいるので、チェックが、書かせないが、高齢
者には、なんと、生きにくい社会システムであることよと、思
う。

我が母も、大病もせずに、独りで暮らしているが、最近、良く転
ぶ。足元が、危うくなっているのだ。病気ではなく、転んで、寝
たきりというケースも多いはずだ。注意しても、意識と足元の
ギャプが、転倒を誘発し、打ちどころが悪ければ、寝たきりにな
る恐れがあるから、怖い。
- 2005年3月10日(木) 22:44:07
3・XX  暖かい日が続くが、三寒四温の季節であるから、油
断は、禁物。暖かいと思ったら、寒くなる。一筋縄では行かない
季節だ。日本ペンクラブの電子文藝館委員会副委員長の任期が、
間もなく終了する。前の電子メディア委員会の委員から通算する
と、8年になるか。最終の委員会が、11日に開かれると連絡が
あったが、どうしても、休みが取れず、都合がつかないと返事を
出したら、委員会の参加者が少ないとのことで、中止になったと
いう連絡が来た。
- 2005年3月9日(水) 22:38:52
3・XX  池袋の東京芸術劇場小ホールで開かれた変わった落
語会を覗いて来た。瀧川鯉橋という明治時代の文人のような芸名
を持った落語家を筆頭に、東京在住の上方落語家の笑福亭鶴光の
弟子の里光(りこう)、春風亭小まさ、昔昔亭喜太郎という、い
ずれも日本大学文理学部の卒業生、中退生で、プロの落語家に
なった面々の落語会である。そして、ゲストで、寄席なら、落語
以外の出し物として「色物」と呼ばれる演目にあたる「対談」と
して、新宿末廣亭の席亭(社長)の北村幾夫さんが、出演してい
る。北村社長も日本大学文理学部の卒業生だと言う。それぞれの
落語家の、今後の発展を祈願して、また、末廣亭繁昌への願いを
込めて、「すえひろがりの落語会」と、銘を打っての興行であ
る。落語会の命名には、まあ、「日大」の大の字は、「すえひろ
がり」だという説も尤もらしいが、ところが、どっこい、大学の
「大」は、どこの大学でも、「すえひろがり」だから、この説
は、いい加減だ。

さて、今回の落語会メンバーのうち、ナンバー2で、初めの「あ
いさつ」で司会をし、「仲入り」後の、「対談」では、末廣亭の
席亭という偉い人を相手に対談というか、インタビューという
か、をしていた笑福亭里光さんは、実は、日大在学中、私の職
場、つまり、報道局のデスク補助のアルバイトをしていた学生さ
んであり、その縁で、去年、東京に戻って来てから、時間が許す
限り彼の高座を覗いていると言うわけだ。

今回は、チラシを見ると、なにやら、仰々しい。「平成十六年度 
文化庁芸術団体人材育成支援事業」ということで、「落語芸術協
会」が協会に所属する、前座、二つ目などの若い落語家を育成す
る場でもあるというわけだ。

さて、肝心の高座である。4人の元「日大生」のなかでは、2番
目の入学という瀧川鯉橋さんは、落語家としては、先輩格であ
り、さすがに噺は、巧い。私の不明にして、出し物のタイトルが
判らないので(ホールの外にも、演目が書いてなかった)、締ま
らない話だが、笛太鼓の実演を彷彿とさせる場面では、熱演で、
会場の拍手を盛んに浴びていた。端正なマスクに江戸の粋を感じ
させる雰囲気は、亡くなった志ん朝を思い出させる。このまま、
芸道精進で、志ん朝を目指して欲しい。ただ、太鼓の叩き方で、
手付きが、なっていなかったのが、残念であった。手首が違うの
である。どう違うかは、歌舞伎の四拍子の太鼓の演者の叩く様
を、一度見物すると良く判ると、思う。落語は、「お噺」だとし
ても、演じるのは、徹底的にリアルでなければならない。

さて、我が笑福亭里光さんは、以前見たイイノホールでの笑福亭
鶴光一門の落語会のとき、師匠の鶴光さんが演じていた「竹の水
仙」という左甚五郎ものを高座に上げていて、チャレンジ精神横
溢で、「心意気や良し」というところだが、噺の方は、まだ、ま
だ、師匠の足元辺りか。むさ苦しい泊り客が、左甚五郎と知らず
に、最初、ぞんざいに扱い、後に、客が作った竹の水仙が、大名
家に三百両で売れ、手間賃として、百両貰うまでの、どぎまぎし
た、いい加減な宿の主人の変化をいかに生き生きと演じるかがポ
イントの噺である。本来なら、甚五郎、宿の主人、大名、大名の
使いの侍などを演じ分けなければならないのだが、なかで、軸と
なる宿の主人だけでも、くっきりと印象に残るように演じなけれ
ばならない。そこが、未だ、弱い。この人物が、きちんと演じら
れれば、自ずから、ほかの人たちもくっきり違って見えてくるだ
ろう。そうすれば、足元辺りから、師匠の臑ぐらい齧れるように
成長できると思う。まあ、精進しいやあ。

太めで、大柄の春風亭小まささんは、この春、二つ目に昇進する
ことが、内定しているという。彼は、「野ざらし」を演じた。身
体に似た、陽気な芸風だが、里光さんに比べると、まだ、落語に
なっていない。声が、肚に響いて来ない。間が、忙しない。ま
あ、まあ、お気張りきやす。大器晩成型と、見た。

フリータ−をテーマにした新作落語を演じたのが、大学では、い
ちばんの先輩だったというが、落語界に入ったのは、いちばん後
という、昔昔亭喜太郎さん。昔昔亭桃太郎系統の落語家なのだろ
う。こちらは、さらに、落語になっていない。途中で、噺が停
まってしまうか、ハラハラさせながら、まあ、場内が白けること
もなく、無事、高座を降りることができたので、ほっとした。観
客に、そういう思いをさせるのが、狙いというわけではないだろ
うが、心配したぜ。本当に。

定員300人の小ホールは、適当に混雑していて、まずまずの入
だった。高座に上がった皆さんが、じっくり、己の藝を熟成し
て、噺が巧くなり、親戚、友人、親兄弟ばかりでなく、落語家と
してのファンを、さらに増やしてくれる日が、いずれ来ると思う
ので、私も元気で、長生きをし、将来、そういう賑わいのなか
で、皆さんの落語を聴きたいと期待をする。そのためには、新作
落語に限らず、古典ものでも、絶えず、世間とのかかわりを意識
して、いまを生きる噺を高座にあげ続けることだと思う。世相ウ
オッチングを忘れないことが、肝要だろう。
- 2005年3月8日(火) 22:18:01
3・XX  週末の土曜日。東京の銀座にある国立近代美術館フィ
ルムセンターの小ホールで、映画の試写会があった。映画が始ま
り、タイトルクレジットが続くなか、懐かしい音楽が流れて来
た。アニマルズの「朝日の当たる家」である。本当は、「旭楼」
という名の女郎屋を唄った歌だと記憶しているが、なんとも、懐
かしい。この歌を聴くのは、何年ぶりだろうか。最初、タイトル
が思い出せないまま、画面に映し出される出演者の名前をよそ
に、タイムマシーンに乗ったように、私は、一気に「青春時代」
へ引き戻された。  

イタリア映画「輝ける青春」は、1950年生れのジョルダーナ
監督の作品。イタリアでは、1980年代から映画監督として活
躍しているというが、日本では、殆ど知られていないかもしれな
い。脚本を担当したふたりの脚本家は、1947年生まれと
1949年生れというから、同世代の3人が、自分たちの人生と
重ね合わせるように、1948年と1949年生れの兄弟を軸と
するカラーティという家族の3代に亘る物語を作り上げた。

映画で描かれた時代は、1966年から2003年まで。兄・ニ
コラは、18歳から55歳になる。日本でいえば、「全共闘」に
象徴されるような学生運動をしていた医学部の大学生から、精神
科医になり、医療制度の改革に取り組む。弟・マッテオは、17
歳から34歳で自殺するまでを描く。文学部の学生だったマッテ
オは、挫折からやり直そうと「規律」を求めて、学生を辞めて、
軍隊に入り、退役後は、25歳で警察官になる。学生時代の理念
を大事にしながら、精神科医師として、地道な改革運動に取り組
む兄と繊細さの故に、反動的に「規律」を求める生活に飛び込ん
だ弟。ふたりは、監督らにとって、自己の投影だろうと、思う。
さらに、ニコラが、1966年11月のフィレンツェ大洪水の跡
始末のためのボランティア活動中に知り合い、その後、学生運動
の同士となり、結婚するジュリアという女性は、1974年にニ
コラとの間に女の子をもうけるが、3年後、夫と娘を捨てて、テ
ロリストグループ「赤い旅団」に入るため、家出をする。自己の
信念のために、過激な運動に走るジュリア。そう、多分、兄弟と
兄の妻の3人は、監督らの自画像の分裂した投影だろうと、思
う。兄弟は、大学の試験休みを利用して、兄の友人らと北欧への
旅に出るが、精神病院の患者を手助けするボランティア活動で弟
が知り合った精神病患者の少女を救いたいと旅を利用して、少女
を故郷に連れて帰ろうとするが、失敗する。旅も、途中で挫折す
る。

さらに、カラーティ家の家族を紹介しておこう。愛情豊かなのに
家族から疎んじられた実業家の父、小学校の教師をしている情熱
家の母。検事になっている独身の姉、末の妹で、やがて、兄の同
級生で、後にイタリア銀行の幹部になる男性と結婚する。父は、
その後、癌で死ぬ。悩み多き弟は、警察官のまま、飛び下り自殺
をするが、旅先で知り合った女性と再会し、名前を偽ったまま、
一夜の契りの果てに、女性との間に男の子を残して逝く。弟の子
どもの存在が知れ、母といっしょに女性と子どもに逢いに行く
兄。孫に当たる子どもに懐かれた母は、孫たちといっしょに暮ら
すようになり、やがて、孫の元で亡くなる。兄の子は、寺院の絵
の修復をする仕事を通じて、同僚と結婚をし、弟の子は、婚約者
といっしょに父や伯父たちが挫折した旅に挑み、ノルウェーまで
旅に行き、若いころ、伯父が旅先から家族に寄越した手紙にあっ
た「あるものはすべてが美しい」という思いを実感し、「おじさ
んの言うとおり、本当に、すべてが美しい」と伝えてくる。青春
時代に果たせなかった自己実現に向けて、3代の家族の力で果敢
に挑戦した物語が、この「輝ける青春」という作品だろう。

「輝ける青春」は、第56回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部
門のグランプリを受賞したほか、イタリアのアカデミー賞に当た
るダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の6部門で受賞した作品だと
いう。団塊の世代のイタリア版とも言える作品で、イタリアのあ
る家族の37年間の物語は、ところどころで家族が歴史に絡むよ
うに、20世紀後半のイタリアの37年間の歴史を浮かび上がら
せる。ワールドカップ、フィレンツェ大洪水、学生運動・労働運
動の激化、リラ変動相場制へ移行、「赤い旅団」のテロ激化、映
画監督・パゾリーニ殺害、社会党政権樹立、財政赤字、共産党解
体、汚職事件発覚、地震などなど。まさに、事実に語らせる巨大
な叙事詩の世界。それは、また、1947年生れの私の人生とも
絡んで来るように見える。日本や世界の37年の時代状況にも重
なる。半世紀を越えた人生の喜びと悲しみ。国境を越えて、同時
代に生きる同世代ならではの共感が、随所にある。それぞれの
「輝ける青春」。多分、試写会に参加した私と同世代のジャーナ
リスト、映画雑誌の編集者なども同じような思いを抱いたよう
で、腰が痛くなった終演後、腰の痛みも忘れたかのように、場内
から拍手が沸いていたからだ。「輝ける青春」は、「輝ける第2
の人生」へ結び付けなければならない。また、時代の閉塞状況が
もたらす虚無感にめげずに、新たな「輝ける青春」を構築しなけ
ればならない現代を生きる息子と娘たちのためにも、元気を与え
たい。そういう拍手だったと、私は思う。

7月に東京の岩波ホールで公開される「輝ける青春」は、実は、
上映時間6時間6分という大巨編である。途中20分の休憩を挟
んで、3時間ずつ2部に分けて上演された。ローマ、フィレン
ツェ、ミラノ、トリノ、シチリア島のパレルモ、シチリア島に近
いストロンボリ島などイタリアの南北各地に展開される物語。そ
して、果たせなかった青春の旅の目的地ノルウェー(ノース岬を
目指して)。歌舞伎の通し狂言のような上映形式である。
- 2005年3月6日(日) 19:06:05
3・XX  歌舞伎座4月の十八代目勘三郎襲名披露興行は、は
や、昼夜とも全席滿席。3月より、早い。前売り前の、役者や関
係者へのチケット手配が、3月分より多かったのか、3月同様の
配付だが、本当に人気に勢いがあって、早々と売り切れになった
のか、知らないが、長引く不況のなかで、松竹の歌舞伎戦略は、
好調のようだ。歌舞伎座3月の十八代目勘三郎襲名披露興行も、
いよいよ、あすが初日。舞台の出来も、やがて、聞こえてくるだ
ろう。愉しみにしている。
- 2005年3月2日(水) 23:17:50
3・XX  きょうから、3月なのに、逆戻りで、冷え込む。2
月の歌舞伎座の夜の部の劇評を、このサイトの「遠眼鏡戯場観
察」に書き込んだ。お待たせしました。あさって、3日には、い
よいよ、十八代目勘三郎の襲名披露興行が、3ヶ月のロングラン
ンで始まる。七之助が、謹慎休演というのが、残念だが、福助、
上村吉弥が代役を勤める。
- 2005年3月1日(火) 22:46:14
2・XX  3月の歌舞伎座は、3日から十八代目勘三郎襲名披
露興行が始まる。3ヶ月のロングラン。十二代目團十郎の襲名披
露興行以来の3ヶ月興行だ。3月の番付から、七之助が、外され
たのは、残念。初日を前に、すでに昼夜とも全日満席だ。新しい
勘三郎が、どれだけ、勘九郎を凌いでくれるか、愉しみだ。

4月分も、きょうから前売り開始だが、口上のある夜の部は、
きょうですでに満席。私は、3月は、26日、4月は、8日にし
た。新しく始まった松竹Webを利用しているが、以前のように
電話がなかなか架からないで、イライラすることがなくなり、良
かったと思う。

2月も、きょうで終り。書評も、いろいろ書かずに溜まっている
が、取りあえず、3冊ほどまとめて、「乱読物狂」に書き込ん
だ。今期直木賞候補になった2冊を含む時代小説ばかりを取り上
げた。読んだまま、書評を書いていないものは、いずれ、書き込
みたい。2月の歌舞伎座の劇評も、早く、「遠眼鏡戯場観察」に
書き込みたいと、思っている。
- 2005年2月28日(月) 21:20:05
2・XX  春一番の後には、雪。昨夜半から降り出した雪が、
首都圏を白く染めた。今月の歌舞伎座、夜の部の劇評は、「野崎
村」に取りかかったが、まだ、メモ書き程度。「ぢいさんばあさ
ん」が、長めになっている。もう暫く、かかる。
- 2005年2月25日(金) 22:21:20
2・XX  晴れ。街には、春一番が吹き荒れた。北海道や東北
では、大荒れの天気になっている。雪も降っているという。さ
て、歌舞伎座、夜の部の劇評を書きはじめた。とりあえず、「ぢ
いさんばあさん」の初稿をまとめあげた。宇野(信夫)歌舞伎の
ポイントにも触れている。「野崎村」、「二人椀久」は、あす以
降、初稿を書く。その上で、全体を推敲する。そして、サイトの
「遠眼鏡戯場観察」に掲載するという段取り。
- 2005年2月23日(水) 23:10:30
2・XX  晴れ。あさは、風もあり、冷え込むが、日中は、陽
射しがあり、風もなく、暖かい。春近し。帰宅後、今月の歌舞伎
座、昼の部の劇評を脱稿し、さきほど、このサイトの「遠眼鏡戯
場観察」に書き込んだ。いつもより、コンパクトにまとめた。夜
の部は、いろいろ書き込みたいので、掲載まで時間がかかりそう
だが、乞う、ご期待!。
- 2005年2月22日(火) 22:59:04
2・XX  長い通勤時間の往復を利用して、きょうは、まず、
歌舞伎座の劇評の構想をまとめた。きのう、薄闇の客席で書き記
したメモを元にまとめて行く。それも一段落したので、帰途は、
今期芥川賞受賞作品・阿部和重「グランド・フィナーレ」を読み
出した。さらに、帰宅後は、歌舞伎座の昼の部の劇評を書き出し
た。ちょっとした科白を確認するために、名作歌舞伎全集をひも
解いたりして、相変わらず、時間がかかるから、当然ながら、ま
だ、書き上がらないが、昼の部は、コンパクトにまとめるつもり
なので、「遠眼鏡戯場観察」に掲載するのに、そう時間がかから
ないかもしれない。関心のある人は、もう少し待ってください。
- 2005年2月21日(月) 22:58:51
2・XX  歌舞伎座へ行って来た。きのうときょう、久しぶり
に週末を東京で過ごした。人気の昼の部と見応えのある夜の部を
通しで観て来た。劇評の構想は、錬りはじめたが、もう少し時間
がかかる。構想がまとまり次第、劇評を書きはじめるので、この
サイトの「遠眼鏡戯場観察」に劇評が掲載されるのは、もう暫く
後になるだろう。

特に、夜の部は、書くことが多くなりそうだ。3回目の「ぢいさ
んばあさん」は、初めて観た仁左衛門ぢいさんがよかった。10
年ぶりに観た「野崎村」は、5人の人間国宝がひとつの場面に全
員出揃うという豪華版で、歴史に残る舞台であった。全員、風邪
も引かずに元気に舞台を務めてくださったので、感激した。期待
通りの充実の舞台であった。6回目の拝見で、これまで、仁左衛
門と玉三郎のコンビで3回、富十郎と雀右衛門のコンビで2回観
ていて、仁左衛門と孝太郎という親子コンビは、初めての拝見な
ので、失礼ながら、あまり期待していなかったんだけど、「二人
椀久」が、幻想的な演出の舞台であり、孝太郎が、玉三郎とは、
一味違う松山太夫を演じていて、印象に残った。詳細は、「遠眼
鏡戯場観察」に後日、掲載する。
- 2005年2月20日(日) 22:41:16
2・XX  2月の歌舞伎座の舞台は、どうであろうか。まだ、
今月は、歌舞伎座へ行っていない。先日の「日記」を読んでいた
ら、「とんでもない」誤記に気が付いた。

夜の部のうち、「野崎村」では、お染:雀右衛門、久松:鴈治
郎、お染の母・お常:田之助、お光:芝翫、お光の継父で久松の
義父・久作:富十郎という顔ぶれで、5人の人間国宝が出演して
いる。世の中、インフルエンザも流行っている。風邪など召さぬ
よう、千秋楽まで、お元気で舞台を務めて欲しい。

夜の部では、「ぢいさんばあさん」の仁左衛門ぢいさん、菊五郎
ばあさんにも期待している。「二人椀久」の仁左衛門椀久は、ど
うであろうか。

昼の部では、吉右衛門五斗兵衛、「隅田川」の斑女の前の鴈治
郎、「番町皿屋敷」の時蔵お菊、「どんつく」の荷持どんつくの
三津五郎も、愉しみ。
- 2005年2月15日(火) 21:26:03
2・XX  歌舞伎座、3月からの十八代目中村勘三郎襲名披露
興行は、勘九郎次男の七之助の「醜態」で、とんだ味噌を付けて
しまったが、なんとか、中村屋ファミリーの力を出し切って、舞
台で挽回してもらいたい。この世界は、良い舞台を見せること
で、観客に詫びをするしか無いでしょう。

さて、今月の歌舞伎座は、昼の部の「どんつく」で荷持どんつく
を演じる三津五郎の話題が先行し、夜の部より、人気があるよう
だが、私は、夜の部に期待している。その期待の第一は、森鴎外
原作の新歌舞伎「ぢいさんばあさん」なのだが、今回は、ぢいさ
んが、仁左衛門、ばあさんが、菊五郎なので、いまから、愉しみ
にしている。期待の第二が、「野崎村」で、この芝居には、人間
国宝が、なんと5人も出演する超弩級の舞台なのだ。お染:雀右
衛門、久松:富十郎、お光:芝翫、お光の継父・久作:鴈治郎、
お染の母・お常:田之助。

人間国宝の皆さん、まだまだ、寒い日が続きます。病気休演など
しないように、風邪など召さぬように。ファンの一人として、元
気な舞台を期待しています。力一杯の劇評を書かせてください。
- 2005年2月3日(木) 22:00:56
1・XX  溜まっていた書評をサイトのコーナー「乱読物狂」
にまとめて、書き込んだ。1月分の書評は、「これぎり」。後
は、来月回しにしよう。
- 2005年1月30日(日) 16:27:34
1・XX  すでに千秋楽を迎えている今月の歌舞伎座の舞台だ
が、昼の部の劇評を午後1時過ぎに書き込んだ後、構想は、すで
に整理していた夜の部の劇評を書きはじめ、やっと、さきほど、
脱稿し、このサイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。ひとつ
の部の劇評を書くのに、集中しても、数時間以上はかかる。芝居
小屋で、実際に舞台を観続けている時間とほぼ同じ時間を必要と
する。出勤前の早朝や、帰宅後の就寝前の時間を1〜2時間ず
つ、小間切れで書けば、その倍ぐらいかかる。要は、緊張した集
中力を発揮できる状態に持って行くまで時間がかかるし、レベル
を上げた時間を持続するためには、数時間の固まりが必要という
ことだろうと、思う。
- 2005年1月29日(土) 21:28:44
1・XX  諸般多忙で、遅れていた今月の歌舞伎座昼の部の劇
評をやっとサイトのコーナー「遠眼鏡戯場観察」に、さきほど、
書き込むことができた。待ちかねた人には、「済みません」と
謝っておこう。休憩後、夜の部の執筆にとりかかる。きょうじゅ
うには、書き込みたい。

さて、3月の歌舞伎座、勘三郎襲名披露興行のチケットは、取れ
ましたか。私は、なんとか確保しました。3・26(土)、千秋
楽の前日に昼夜通しで観に行きます。劇評を「遠眼鏡戯場観察」
に書き込みます。
- 2005年1月29日(土) 13:35:34
1・XX  けさは、早起きをして、日本ペンクラブの電子文藝
館に掲載する「あたらしい憲法のはなし」の校正をしながら、
「憲法のはなし」と「日本国憲法」の全文を改めて読み直す。
「憲法のはなし」は、1947(昭和22)年8月に文部省(当
時)から、発行された子ども向けの文章だから、57年前のもの
だ。戦後の焼跡の匂いもする文章だったが、一部の表現を除い
て、いまも説得力のある文章だと思った。著明な憲法学者が、子
ども向けに分かりやすくと心がけながら書いたのだろうと、思
う。あわせて、久しぶりに全文を読んだ日本国憲法は、「前文」
が、大事だと改めて確認した。

帰宅後、就寝前までに、遅れている今月の歌舞伎座の劇評を書き
はじめた。週末には、昼、夜とも書き上げ、このサイトの劇評
コーナーの「遠眼鏡戯場観察」に書き込みたい。3月から5月ま
で、3ヶ月間、歌舞伎座で襲名興行が展開される新勘三郎の舞台
だが、きょうから一般向けの前売りが始まったが、「口上」のあ
る昼の部は、すでに、前売り初日で、すべて満席となった。
- 2005年1月27日(木) 22:39:44
1・XX  1947(昭和22)年8月2日に文部省(当時)
が、発行した文書を読んでいる。日本ペンクラブの電子文藝館に
掲載するため、校正をしている。表題は、「あたらしい憲法のな
はし」である。そのなかに、憲法の「前文」の意味について解説
しているところがあった。以下、そのまま、引用する。

*この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、ど
んな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記さ
れています。この前文というものは、二つのはたらきをするので
す。その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうと
するときに、手びきになることです。つまりこんどの憲法は、こ
の前文に記されたような考えからできたものですから、前文にあ
る考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。も
う一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、
この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはな
らないということです。
 それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん
大事な考えが三つあります。それは、「民主主義」と「國際平和
主義」と「主権在民主義」です。


とりあえず、ここまで引用してみた。このなかで、「これからさ
き、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ち
がうようなかえかたをしてはならないということです」という文
章の意味を、いま与党も野党も憲法について議論するときに、き
ちんと考えているのかという重大な疑問が沸き上がって来たとい
うことだ。護憲、改憲、創憲、何でも良いが、この疑問に答えて
から、議論を深めて欲しいと、思った。
- 2005年1月24日(月) 22:14:11
1・XX  晴れ。風強く、寒い一日だった。NHKと自民党の
議員たち。番組と政治介入を巡って、NHKと朝日が、対立して
いる。各紙の記事を読んでいると、朝日新聞、東京新聞、毎日新
聞と産経新聞、読売新聞との対立も、浮かび上がって来る。戦後
の報道の歴史に汚点を残すことになりそうだ。

先日、国立劇場で観た「御ひいき勧進帳」の劇評を書きあげ、さ
きほど、サイトに書き込む。
- 2005年1月21日(金) 22:29:19
1・XX  きょうも、雨。雪にはならず。きのう、国立劇場
で、ことしの初芝居として、「御ひいき勧進帳」を拝見したのに
続いて、きょうは、歌舞伎座の昼と夜を通しで拝見。昼の部で
は、吉右衛門主演の「石切梶原」、夜の部では、三津五郎と時蔵
のコンビで「鳴神」、吉右衛門主演の「土蜘」が、それぞれ良
かった。国立劇場の「御ひいき勧進帳」の劇評は、書きはじめ
た。同時並行的に、歌舞伎座の劇評も、まず、劇評の骨格につい
て構想をまとめる作業を始めよう。

今月、東京では、歌舞伎座、国立劇場のほかに、新橋演舞場、浅
草公会堂と同時に4ケ所で、歌舞伎公演が繰り広げられている。
さらに、京都の南座では、前進座の歌舞伎公演、大阪の松竹座で
も、歌舞伎公演ということで、歌舞伎ブームを裏付けているが、
同時期の演目の重複、あるいは、同じ演目の継続公演など、「薄
味」化が、心配にもなる。歌舞伎ブームの裾野の広がりとともに
山頂の標高の高さも、望みたいという思いを持っているのは、私
だけではないであろう。
- 2005年1月16日(日) 23:43:13
1・XX  関東地方は、正月に入り、比較的晴れの日が多く
なっているが、風の強い日が、ときどきあり、体感温度は、ぐ
うっと冷え込んで来た。底冷えがする。そのせいか、街では、マ
スクをした人が多くなって来た。

そのかわり、関東地方から富士山が、良く見える日も多い。先日
も、富士山の北側に真っ赤な夕陽が沈むのを見ていたら、富士山
の向こう、甲府盆地を挟んで、南アルプスの山脈とおぼしき辺り
に、雪雲のように見える雲が見えた。山は、雪か。

このサイトの書評コーナー「乱読物狂」にいくつか書評を書き込
んだ。ことしの初芝居は、あさって、15日。国立劇場。雀右衛
門の「女暫」が、愉しみ。16日。歌舞伎座の昼夜通しで拝見す
るのを予定しているので、劇評が、「遠眼鏡戯場観察」の載るの
は、暫く、先になるだろうと、思う。皆さんも、風邪を召さぬよ
う、ご自愛下さい。
- 2005年1月13日(木) 21:15:56
1・XX  今回は、年賀状を年の瀬に一枚も書けず、戴いた賀
状の返事を中心に書いた。歌舞伎ファンの賀状では、同じ市川新
之助ファンが、新之助の海老蔵襲名披露興行で、全国の興行を
追っかけをした人たちと、これをきっかけに、歌舞伎を離れて人
形浄瑠璃へ関心を移した人たちとふた通りに分れたことが、興味
深い。

私自身は、海老蔵にも、付かず離れずで通し、観る舞台もあれ
ば、観ない舞台もありで、ひたすら、父親の團十郎の癌克服と舞
台復帰を喜んでいるだけである。そう言えば、今月の新橋演舞場
は、東京での、團十郎復帰の舞台である。

賀状関連。職場の先輩で、放送の仕事を定年退職した後、第2の
人生は、大学の先生を務め、それも、卒業すると、第三の人生で
は、厳しい修行に耐え、資格を取り、僧侶の世界に入った人がい
るので、驚いた。「人生、もう、ひと遊び」というから、「遊び
をせんとや、生れけむ」の「梁塵秘抄」の世界を実践している。
そう言えば、「梁塵秘抄」の編者の後白河法皇は、「義経」の世
界の重要なキーパースンだった。
- 2005年1月5日(水) 22:21:22
1・XX  元日以降、好天が続いている。年末に書けなかった
年賀状を書いている。このサイトからリンクしている山中湖の富
士山も、きょうは、一際、くっきり見える。

多難な年を予感させる2005年だが、首都圏の天気は、連日、
穏やかである。あすから、仕事始め。ことしも、また、元気で過
ごしたいと思っている人が、多いだろう。多難なできごとには、
ひとつひとつ、着実に対応するしかないだろう。足元に注意しな
がら、脇を固めて、前方注意、後ろも注意。交通安全の心がけ
で、人生の通行安全。天地、左右、前後の「六方」の足取り。歩
く姿が、人生の基本。
- 2005年1月3日(月) 11:32:48
1・1  明けましておめでとうございます。
大晦日は、自宅近くの源心寺という寺で、除夜の鐘を突きまし
た。毎年のことです。日中の雪も止み、月も天心にありました。

あさは、少しゆっくり起きました。青空です。初日の出も、あち
こちで見られたようです。散々な年、2004年も終りました
が、2005年も、多難な予感がします。

年頭に当たり、七文字外題を考えてみました。

「重襲十三八大切(かさねがさねとみやたいせつ)」

伝統の歌舞伎の大名跡の襲名披露興行が、東は、3月から5月、
そして、西は、11月からと、2年越しで行われることを読み込
んでいます。ことしも、当サイトをご愛読下されば、幸いと思い
ます。
- 2005年1月1日(土) 19:41:00
12・XX  曇り。きょうも雪になりそうな予報どおり、午後
から雪が降り始める。首都圏の大晦日の雪は、21年ぶりとのこ
と。おとといの雪と違って、冷たく、固い。2004年は、最後
まで、波瀾万丈。夜半前に、例年通り、近所の寺に除夜の鐘を突
きに行く予定。
- 2004年12月31日(金) 19:55:53
12・XX  きょうから、年末年始の休みにはいる。溜まって
いた書評の一部を先ほど、「乱読物狂」に書き込んだ。これか
ら、年賀状の印刷を始める。押し詰まった年の瀬。

2004年は、引き続く不正義のイラク戦争が、途中の、ブッ
シュの再選を含めて、世界を暗く、重く、陰うつにしている。そ
れに追従する小泉政権が、日本にも暗雲をもたらしている。不安
と不正義の21世紀は、いつ、汚名を挽回できるのか。

そういうなかで、スマトラ沖で巨大地震が発生し、インド洋に大
津波が押し寄せた。被害は、さらに拡がって判明してくるだろ
う。日本列島も、多数の台風に襲われた。大地震もあった。殺人
事件も、相次いだ。未解決の凶悪事件も目立つ。大変な年であっ
たという印象が強い。

NHK、UFJ、三菱自動車、三井物産など企業や組織の公共
性、信頼感が、大きく揺らいだ一年でもあった。社会の規範が、
個別具体的に検証されていると思う。

来年は、良い年になりそうもない。もっと、厳しく、多難な年に
なりそうな予感がする。先行きは、余計、不安感が、強まりそう
だ。「百尺竿頭、一歩を進む」。工夫魂胆、足元を固めながら、
一歩一歩、着実に人生を進めたい。そのためには、健康。皆さ
ん、健吾で暮らしてください。
- 2004年12月29日(水) 10:59:07
12・XX  歌舞伎座の座席が、大きく変わるが、あまり話題
にならない。今月の「遠眼鏡戯場観察」にも書いたが、「とち
り」席が無くなるし、上手から下手に「123」となる順番が、
横書きのように、左から右へ、つまり、下手から上手へ、逆流す
る。400年を超える歌舞伎の歴史では、「御一新」のような出
来事である。歌舞伎座でも、現場は、反対したようだが、ほかの
劇場のチケット販売との合理性に押し切られたようだ。私が、永
山会長なら、初めから、歌舞伎の小屋は、全国共通で、「とち
り」と何ごとも、「上手から下手へ」という原理原則で通してい
たのに、残念至極。

また、私が、新聞記者なら、いまの世相と引っ掛けて、また、
04年の一年間の総括と引っ掛けて、ブッシュの当選も皮肉っ
て、「逆転! これでいいの?」というコンセプトで、そういう
現象を書き集めて、社会面(つまり、かっての「3面記事」)の
頭(つまり、トップ記事)を狙って、出稿するんだけれどね。こ
ういう記事は、芝居の舞台にしか目が行かない演劇記者では、駄
目だろうし、社会部記者では、歌舞伎などの知識がないから、こ
れまた、駄目だろうし、・・・ということで、記事にならないの
だろうな。事件を追い、特ダネを狙うのも大事だが、社会現象を
鋭い視点で、切り取って見せるのも、特ダネだ。若き記者諸君、
ものを見る眼に磨きを掛けて、国民の知る権利に答えて欲しい。

元毎日新聞記者で、キャスター、ジャ−ナリストの鳥越俊太郎氏
とは、かつて、私も、同じ記者クラブで一緒に仕事をしたことが
ある。数年先輩の人だが、今回も、頑張っていましたね。
- 2004年12月21日(火) 21:31:40
12・XX  書評をいくつかとりまとめて、「乱読物狂」に書
き込んだ。13冊分。大状況、小状況とりまぜて、書き込んだつ
もりだ。近所の知人が、きのう、亡くなった。今夜は、通夜。隣
の市で開かれる会場まで、家族で弔問に行く。ことしは、特に、
夏以降、知人や知人の親族の死が、相次いでいる。
- 2004年12月19日(日) 15:35:42
12・XX  先週末に2日がかりで歌舞伎座の昼と夜の舞台を
観た。劇評の構想を少しずつ錬っていた。そして、週半ば過ぎか
ら書きはじめた。その上で、きょうは、一気に、昼の部と夜の部
の劇評を書き進め、先ほど、このサイトの「遠眼鏡戯場観察」に
書き込んだ。疲れた。関心のある方は、是非読んでください。

年賀状は、未だ、一枚も書いていない。書く暇が無い。「乱読物
狂」に書き込むべき書評も大分溜まっている。地方勤務と違っ
て、通勤時間が長い分、電車の車中での読書は進むので、書くべ
き書評は、どんどん、溜まって来る。年内には、書評の山を崩し
ておきたい。
- 2004年12月18日(土) 17:58:57
12・XX  今週末は、久しぶりに余裕がある。歌舞伎座の昼
の部を拝見。五代目勘九郎最後の歌舞伎座興行。歌舞伎座では、
来年の3月には、十八代目勘三郎が誕生する。十八代目というの
は、歌舞伎役者のなかでも、最長の代数になる。

大川(隅田川)の場面で、廻り舞台を使った船のすれ違いがある
「梅ごよみ」が上演されるので、いつもと違って、3階の3等席
を取った。「梅ごよみ」は、3回目の拝見だったが、これまで
は、1階か2階でしか観ていなかったので、案の定、廻り舞台の
舞台裏が、上から見えて、愉しかった(これは、3階席でしか味
わえない)。

勘九郎の米八と玉三郎の仇吉という芸者同士の、恋の鞘当ては、
充実の舞台で、見応えがあった(そういえば、私が観た3回の舞
台とも、米八と仇吉は、全て、勘九郎と玉三郎であった)。詳し
い劇評の方は、このサイトの「遠眼鏡戯場観察」に改めて、近日
中に掲載するので待っていただきたいが、勘九郎、三津五郎コン
ビということで期待していた「身替座禅」が、思ったほど、良い
できではなかったのが、残念とだけ、書いておこう。この演目
は、5回観ているので、役者の演技を比較したい。

3階席の前方に、函館のSさんの顔を見かけ、挨拶をする。9ヶ
月振りの再会。Sさんは、けさ、函館から東京に来て、歌舞伎座
昼の部の後は、国立小劇場へ人形浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」を観
に行くということで、立ち話で終ったが、元気そうで安心した。
私は、歌舞伎座の後、新宿の紀伊国屋など書店を廻った。歌舞伎
座の夜の部は、あす、覗くつもり。

日本ペンクラブの電子文藝館委員会で、私もご一緒している作家
の秦恒平さんの長男で、脚本家・演出家で舞台活動を続けてい
て、最近は、人気テレビドラマ「最後の弁護人」「共犯者」「ラ
ストプレゼント」などの脚本を書いていて、極最近は、「推理小
説」というタイトルの作品で、作家デビューした秦建日子(たけ
ひこ)さんから、その「推理小説」(河出書房新社刊。本体価格
1600円)の本が贈られて来た。脚本家・演出家の「つかこう
へい」さんの弟子で、作家の秦恒平(はたこうへい)さんの息子
ということで、ダブル「こうへい」の「子」というのが、ミソ。
作品は、未だ、読んでいないが、ミステリを改革するミステリと
のことで、おもしろそう。読むのが愉しみ。書評は、いずれ、こ
のサイトの「乱読物狂」に書き込みたいので、それまで、待って
欲しい。

山形在住のソプラノ歌手で、金子みすゞの詩を歌にしている松倉
とし子さんのコンサートが、来年の3月30日(水)午後7時に
東京の水道橋にあるトッパンホール(地下鉄丸の内線、南北線
「後楽園駅」下車)で開かれる。コンサートのタイトルは、「ほ
しとたんぽぽ 中田喜直と金子みすゞの世界」。先日、東京でコ
ンサートに向けての発足会が開かれ、私も出席し、2年ぶりぐら
いで松倉さんに逢った。相変わらず、若々しく、元気だったの
が、嬉しい。

コンサートでは、金子みすゞの詩から「ほしとたんぽぽ」「私と
小鳥と鈴と」「大漁」など14曲を披露する。ほかに、「さく
ら」「夏の思い出」「ちいさな秋見つけた」「雪の降る街を」な
ど、四季を歌い上げる。松倉さんの歌声を一度でも聴いたことが
ある人には、説明の必要もないが、透き通った絹のような美声に
は、圧倒される。また、彼女の微笑の優しさも、いつ観ても、心
が洗われる思いがする。その声の圧倒感を再体験したくて、コン
サートを聴きに行くという人も多い。全席自由で、4000円。
チケット希望者は、私まで連絡下さい。
- 2004年12月11日(土) 21:59:22
12・XX  師走。日本ペンクラブの電子文藝館が、充実して
いる。「反戦反核」コーナーに加えて、次の展開として、「自由
民権」コーナーの話が持ち上がっている。

**委員ご推薦の五味川純平作品(短編2つ)のコピーを事務局
に届けてきた。映画やテレビドラマにもなった長編小説「人間の
条件」の原体験をもとに、短編に仕立てたという感じの作品で、
「戦記小説集」という作品集に収録されている「不帰の暦」と
「帰去来」の2つ。「祖国に見捨てられた敗残兵の悲憤と修羅」
というのが、本の帯の惹句。「人間の条件」は、映画では、仲代
達也が、テレビドラマでは、加藤剛が、主役を演じた。

「自由民権」コーナーでは、日本近代史のなかで、国民の権利意
識が、どのような変遷を経て、育って来たかが、トレースされる
ようにしてみたい。例えば、明治期でいえば、中江兆民、植木枝
盛にとどまらず、五日市憲法の草案を書いた千葉卓三郎などの文
章や秩父困民党関係の文章も掲載したいと希望を述べた。植木枝
盛は、私議憲法ばかりでなく、「無天雑録」などにも目配りする
と、おもしろい。この人は、かなりユニークだから。

「自由民権100年」のときに、朝のテレビの全国ニュースで五
日市憲法の経緯について、リポートをした。千葉卓三郎の墓は、
仙台にある。仙台勤務のときに訪れた。秩父困民党の一部は、秩
父から峠を越えて、信州に入り、千曲川の上流の「馬流(うまな
がれ)」とかいう地名の所で、捕縛された。清里から佐久、小諸
を結ぶ国道141号線を行けば、辿り着ける。

村田喜代子「百年佳約(ペン二ヨンカヤク)」読了。「龍秘御天
歌」で朝鮮の葬儀を描いた著者は、今回は、「とも白髪」=「百
年佳約」で、朝鮮の結婚式を描いた。詳しい書評は、いずれ、
「乱読物狂」に書き込む。
- 2004年12月2日(木) 22:15:51
11・XX  師走も目の前に迫り、巷では、早くも、ジングル
ベルの音楽がながれはじめた。東京・新宿の新宿通りに近い太宗
寺という寺に行って来た。太宗寺は、江戸時代の内藤新宿として
新設された宿場の仲町に創設された寺で、江戸の六地蔵の3番手
(巣鴨の棘抜き地蔵は、4番手)として作られた大きな銅造地蔵
像(胎内に6つの小さな地蔵様が入っているという。地蔵像を支
える石垣の石の一つひとつに「上町 何野誰兵衛」「仲町 何野
誰兵衛」「下町 何野誰兵衛」などと石の寄進者の名前が刻まれ
ているのも、歴史が偲ばれる)や小振りな「塩掛け地蔵」(地蔵
様に願をかけるたびに、実際に、地蔵様に塩をかけるのである。
いまも、その信仰は残っているようで、地蔵様は、全身塩まみれ
になっていた)、新宿の七福神のひとつ布袋尊像(これは、小さ
い)、額に銀製の三日月を持つ不動妙王(これは、普通の大きさ
か。市川右太衛門の旗本退屈男のような不動様だではないか)な
どのある寺は、かなりユニーク。江戸の新興宿場町の庶民の信仰
を集めたのだろうということは、容易に推測される。

内藤新宿は、「甲州道中(街道)」の江戸の出入り口として栄え
ながら、飯盛女の風紀の乱れが、眼に余り、20年ほどで、一旦
閉鎖され、数十年後に、再開されたという、いまも、昔も、新宿
は、風紀の街だったのだろう。

内藤新宿の宿場は、四ッ谷の大木戸を「下町」にし、「仲町」を
経て、伊勢丹デパートのある辺りの「上町」まで、そこから、甲
州道中と青梅街道(甲州裏街道と言われた)の分岐する「追分」
まで(当時の角筈村。行政上、「角筈」の地名が無くなって久し
いが、いまでも、歩道橋などに、僅かに名前が残っている)の、
細長い宿場町だったという。いまの新宿御苑は、高遠藩主・内藤
氏の下屋敷の跡地。江戸の御府内、つまり、江戸城を中心とし、
「江戸の内」として、地図に朱引きされたのは、品川大木戸、四
谷大木戸、板橋、千住、本所、深川以内の地域である。内藤新宿
は、品川宿、板橋宿、千住宿など江戸四宿と同様に、「江戸の
外」であった。

太宗寺の境内に立って、銅造地蔵像の石垣の石に刻み込まれた素
朴な寄進の文字を見ていると、いつしか、遠く新塾通りから聞こ
えていたジングルベルの音楽は消え、江戸の昔の、300年前の
内藤新宿という宿場町の喧噪が、問屋場の馬の啼き声や客を引く
飯盛女たちの嬌声とともに聞こえてきそうである。
- 2004年11月28日(日) 22:05:03
11・XX  新宿御苑の近くにある青年劇場の稽古場で定期的
に開かれる小劇場公演を観に行った。今回は、「秋田雨雀・土方
与志記念青年劇場」創立40周年ということで、築地小劇場創立
80周年記念公演として、1928年12月の築地小劇場第81
回公演で演じられた円地文子原作「晩春騒夜(ばんしゅんそう
や)」とチェーホフ没後100年記念公演「結婚申し込み 犬」
(チェーホフ原作、小山内薫訳)のふたつの芝居が上演された。

円地文子の「晩春騒夜」は、上田文子(結婚前の円地文子の本
名)原作ということで、23歳の作品。小説家・円地文子は、
15作の戯曲を書いている。「晩春騒夜」は、築地小劇場では、
初めての女流作家の作品の上演であり、出演は、山本安英、村瀬
幸子、滝蓮子(れんこ)、友田恭助。演出は、北村喜八。この芝
居の千秋楽の後、日本橋の中華料理屋で開かれた小宴に参加した
小山内薫は、持病の心臓発作で、食事の最中に突然苦しみだし、
その場で、亡くなってしまったという曰く付きのものである。

芝居は、女流日本画家と病身の兄、その兄と恋愛関係にあった女
性の弟子という3人の人間関係を軸に、日本画家のお手伝いさん
を絡めて、ある日の夜から未明までの一日の日本画家の家庭を描
く。女流画家の仕事部屋と隣り合う病身の兄の部屋というシチュ
エーション。発作に苦しんだりしている兄。そこへ、女流画家
は、弟子を連れて、帰って来る。そこでの、女性の弟子の、左翼
思想家との結婚への表明、日本画家を辞めて、革命家の妻として
の生活を選ぶという動きを軸に、政治と芸術、革命と伝統、結婚
と独身(兄とともに生きる決意)など、いくつかの対立軸が、重
層的に描かれて行く。舞台は、もうひとつ、盛り上がらないま
ま、終ってしまい、ちょっと、残念。台本も、図式的で、やや、
観念的なせいか、それも、演劇的な盛り上げを阻害したかもしれ
ない。

もうひとつは、チェーホフ原作の「結婚申し込み 犬」だが、こ
ちらは、役者の熱演もあり、おもしろかった。日本で最初に上演
されたチェーホフ劇「犬」は、チェーホフのつけた原題では、
「申し込み」だが、芝居の内容から小山内薫が、邦題をつける際
に「犬」にしたという。

「婚期を逸した」(いまの時代なら、「セクハラ」になる表現だ
ろう)隣家の娘に求婚に行くローモフ、娘の父親・チュブコー
フ、求婚相手の娘・ナタ−リアの織り成す喜劇。本筋は、結婚申
し込みなのだが、すぐに、話題が横道の逸れて、まず、本筋に入
らないまま、土地の所有権争いになり、娘と求婚者は、喧嘩をし
て、追い返してしまう。父親に隣人が、自分に求婚に来たと聞か
された娘は、改めて、隣人を呼び戻すが、またまた、本筋に入ら
ないまま、お互いの犬の自慢で喧嘩になり、隣人の持病の心臓の
発作もありで、てんやわんやの大騒ぎとなる。3人の、欲の突っ
張りあい、見栄っ張り、強情などという性格が、浮き彫りにな
り、喜劇は、脱線すると、とことん脱線する、ということで、一
段と盛り上がる。

特に、ローモフを演じた葛西和雄は、額に汗しての熱演(彼は、
どの舞台でも、熱演派であるが、今回は、熱演振りの、輪が拡
がった)、迎え撃つ娘・ナタ−リアを演じた武田史江も、負けず
劣らず。無事、ふたりの婚約は、成立したようだが、その後も、
お互いの犬自慢では、引く姿勢を見せない。これでは、ふたりの
結婚生活の大変さ、将来の夫婦喧嘩が眼に浮かぶ。いつも娘に肩
を持つ父親のチュブコーフ。というか、将来の夫婦喧嘩を先取り
した芝居ともいえる。義理の父親を交えた夫婦の家庭。こりゃ、
先が思い遣られる。結婚などせずにいた方が、良さそうだわい。
しかしながら、どこの家庭も、所詮は、此所と同様。そうではな
いかね。というのが、このチェーホフ劇のテーマなのだろう。父
親を演じた青木力弥も、熱演では、負けていない。チェーホフ劇
の笑劇(ファルス)のおもしろさ、青年劇場のベテラン俳優らの
力量を感じさせる舞台を堪能した。

このチェーホフ劇は、小山内薫の翻訳で、日本では、1910
(明治43)年に、自由劇場の第2回試演として、上演されたと
いう。出演は、皆、歌舞伎役者で、父親役に二代目市川左團次、
隣人に市川寿美蔵、娘に坂東秀調。築地小劇場では、1925
年、山本安英の娘役で、マチネーで上演された。

今回の上演は、東京・新宿の青年劇場稽古場(新宿御苑そば)
で、12・5(日)まで、上演される。
- 2004年11月27日(土) 22:13:36
11・XX  このところ、天気の良い日が続いていたが、けさ
は、曇っている。とぎれとぎれに書き継いできた今月の歌舞伎
座、昼の部と夜の部の劇評を、やっと、このサイトの「遠眼鏡戯
場観察」に書き込んだ。お待たせしました。
- 2004年11月26日(金) 7:08:48
11・XX  歌舞伎座の劇評は、夜の部の方も、初稿が、3分
の2ほどまとまった。「菊畑」「吉田屋」をほぼ書いた。後は、
「河内山」をまとめ、その上で、全体を調整すれば、できあがり
だ。

今場所の相撲は、19歳の白鵬の大活躍で、おもしろい展開に
なっている。若き大物の風のある白鵬は、「ポスト朝青龍」の時
代の大相撲の台風の眼になるのではないか。そう言えば、村上春
樹「アフターダーク」は、19歳の少女ふたりの物語でもあっ
た。19歳と言えば、我が息子よりも、大分、若い。
- 2004年11月24日(水) 22:25:02
11・XX  きょうは、祝日ながら、職場へ。夕方、帰宅し、
遅れていた歌舞伎座の昼の部の劇評の続きをまとめる。先ほど、
サイトの「遠眼鏡戯場観察」コーナーに書き込む。休日出勤の行
き帰りは、車中で、村上春樹「アフターダーク」を読んでいた。
これから、ひと休みした後、歌舞伎座夜の部の劇評をまとめよ
う。夜の部は、鴈治郎の成駒屋型の伊左衛門と文化勲章受賞の雀
右衛門の夕霧という「吉田屋」と、仁左衛門初役の「河内山」に
ついて、少し詳しく論じたい。「もう暫く、時間をくだせぇ
い」。
- 2004年11月23日(火) 18:35:09
11・XX  歌舞伎座の顔見世興行へ。劇場入り口の上には、
1年間で、11月だけ設置される櫓が、紺の幕も白地の歌舞伎座
の紋を染め抜いて、鮮やかだった。玄関脇には、清酒「大関」の
菰樽の積物で、顔見世ムードを高めていた。あと、一月半で、年
の瀬だ。昼の部を2階席で観て、夜の部は、1階席で拝見。

昼の部は、仁左衛門の孫、孝太郎の息子・片岡千之助の初舞台
で、「お祭り」も、外題を松嶋屋の祝い事らしく「松栄祝嶋台」
としてあり、三代の役者が揃った劇中口上があった。いろいろ、
趣向を凝らした舞台で、昼の部では、これが、いちばん見応えが
あった。だから、昼の部より、夜の部の方が、充実していて、お
もしろかった。特に、鴈治郎と雀右衛門の「吉田屋」と仁左衛門
の「河内山」。詳しくは、「遠眼鏡戯場観察」にまとめるが、劇
評の構想は、これから錬るので、どういう書き方をするか、ま
だ、決めていない。
- 2004年11月13日(土) 22:56:20
11・XX  さて、掲載が遅れていた国立劇場の歌舞伎通し狂
言「噂音菊柳澤騒動」の劇評を、さきほど、このサイトの「遠眼
鏡戯場観察」に書き込んだ。あすは、歌舞伎座の顔見世興行を昼
と夜の通しで、拝見する。鴈治郎、仁左衛門、吉右衛門などを愉
しみに。

あさっては、記者の同期だったのが、亡くなったので、葬儀に出
席するため、目黒の羅漢寺まで、出向く。58歳の誕生日を来月
に控えた57歳での癌死であった。健康に気を付けて、定年後
の、豊饒な時間を少しでも多く過ごさなければと、改めて、思
う。
- 2004年11月12日(金) 23:05:01
11・XX  週末を挟んで、所用で多忙。国立劇場の歌舞伎
「噂音菊柳澤騒動」の劇評を「遠眼鏡戯場観察」用にまとめはじ
めているが、まだ、緒に着いたところ。脱稿まで、まだ、まだ、
時間がかかりそう。とりあえず、経過報告。「遠眼鏡戯場観察」
の読者の皆様、もう暫く、時間を下さい。

アメリカの大統領選挙は、電子投票を中心に不正が行われたとい
う噂があるが、マスコミでは、あまり取り上げない。出口調査で
は、民主党のケリ−優勢だったが、電子投票の地区では、逆転、
記入投票の地区は、優勢そのままの結果で、全体で、ブッシュ優
勢という傾向だったという。ケリーは、早々と敗北宣言。対抗馬
を押し立てた民主党も、世論二分で満足したのか、抗議をしな
い。インターネットの、その筋では、またも、ブッシュの不正選
挙という見解が、広まっている。国連のアナン事務総長の反対も
虚しく、ブッシュ・アメリカは、早速、イラク戦争を激化させて
いる。期待の持てない21世紀は、暫く続きそう。
- 2004年11月9日(火) 22:25:01
11・XX  晴れ。抜けるような快晴。昼前に、国立劇場へ、
河竹黙阿弥原作「裏表柳團画(うらおもてやなぎのうちわえ)」
を元にした通し狂言「噂音菊柳澤騒動」を観に行く。ふたつの全
く違う物語が、交互に、併行して進行するという、「テレコ構
造」の趣向など、アイディアは、おもしろそうだったが、舞台
は、科白劇の部分が多く、幾分単調であった。帰宅後、劇評の構
想を錬り始めた。

この狂言は、将軍綱吉の側近として権力を振るった柳澤吉保が、
綱吉の後釜の将軍に自分の妻と綱吉の間にできた吉里をつかせよ
うとしたというアイディアで構成されている。それに失敗し、吉
保は、仁木弾正のように反抗し、失脚してしまう。吉保は、老中
のときは、甲府藩主だったし、綱吉の跡を継いで、六代将軍の家
宣となる徳川綱豊は、もともと甲府徳川家の出であり、狂言のな
かで、対立する後継争いは、みな、甲府と関係があるので、国立
劇場の1階ロビーでは、山梨県の物産販売のコーナーが、あっ
た。

アメリカの大統領選挙は、開票が進んでも、接戦。イラク戦争を
始めるなど、嘘で固めたような行政手腕しかない、ブッシュが、
相変わらずアメリカでは、人気があるというのが、不思議な気が
するが、アメリカ人は、裸の王様たちの集まりのようで、自分達
の姿が、見えないのだろう。
- 2004年11月3日(水) 19:50:03
11・XX  イラクで武装グループに拉致されていた青年は、
とうとう、虐殺され、遺体で発見された。なんとも、痛ましい限
りだ。インターネットで公開されたビデオのなかで、武装グルー
プの要求を伝えた後、「すいませんでした。あと、また、日本に
戻りたいです」と、俯き加減に呟いた、青年の弱々しい言葉が、
強烈に残る。いまの日本政府では、救出してくれないだろうとい
う絶望感が滲み出ているように思えた。海外邦人の生命を保護で
きない政府の虚しさを感じる。政府は、全力を尽くせたのかどう
か。青年の死に、哀悼の意を表したい。合掌。
- 2004年11月1日(月) 7:53:00
10・XX  イラクで武装グループに拉致された青年は、なに
をしにイラクに行ったのか。パスポートにイスラエルの入国印を
押したまま、イラクに入っている。イラクで、何をしようとして
いたのかも不明で、誠に理解に苦しむ行動を取っているが、それ
はそれとして、日本政府は、青年の無事帰国を実現するために、
全力を注いで欲しい。海外邦人を守るのは、国家の任務だから
だ。しかし、青年の家族には、匿名家の中傷が、相次いでいると
言う。こういう状況での、匿名家の嫌らしさは、なんとかならな
いものか。

新潟の地震では、土砂に巻き込まれた母子の長女も亡くなってい
た。結局、奇跡的に助かったのは、きのう、無事保護された2歳
の長男だけだ。長男以外は、ほぼ即死ということであった。大き
な岩を含む土砂とともに、道路から崖下の河原近くまで、車ごと
落とされて、車の中にまで、岩や鋼材が突き刺さっている状態
で、その上、寒さと頻発する余震のなか、まる4日間も経ってい
るのだから、生きていた方が不思議だ。男の子の幸運と生命力の
強さ。インターネットで新聞社の記事を時系列を遡って読んでい
ると、母子3人の心音確認などという「誤報」が、紛れ込んでい
るのが、判る。母子の死に対して、改めて、哀悼に意を表すると
ともに、男の子と父親の、今後の苦労を思いながらも、挫けず
に、しっかり、生きてくださいとお願いするばかりである。
- 2004年10月28日(木) 21:49:12
10・XX  きょうも、6弱などの余震が続くなかで、新潟の
地震で23日から行方不明だった母子が、崩れ落ちた岩や土砂に
埋もれた車の中で、見つかった。3人は、4日間も生きていた
が、2歳の長男が、救出されたけれど、母は、息子の救出後だろ
うか、力つきて亡くなってしまった。3歳の長女は、まだ、不
明。坊やの恢復を祈る。2歳では、大きくなっても、今回の事
は、記憶に残らないだろうが、これから、大変な人生を送ること
になるだろうと、思う。乗り越えて、生きて行って欲しい。

イラクでは、日本人の青年旅行者が、武装グループに拉致され、
生命の危機に立たされている。きょうのマスコミの報道振りで
は、地震の陰に隠れそうだが、こちらも、大問題。状況判断の甘
い青年のようだが、それはそれとして、日本政府のイラク戦争へ
のかかわりが、問われていると、思う。
- 2004年10月27日(水) 22:34:38
10・XX  さて、国立劇場の通し狂言「伊賀越道中双六」の
劇評をこのサイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。

双六も、上がりなら、今月の歌舞伎見物も、木挽町の昼と夜に続
いて、三宅坂で、上がり、遠眼鏡戯場観察も、上がりと、あいな
りました。いやア、疲れました。

では、拙き劇評を、読んでくだされ。読者どの。
- 2004年10月25日(月) 22:28:39
10・XX  国立劇場へ、通し狂言「伊賀越道中双六」を観に
行く。鴈治郎のふた役、政右衛門、十兵衛も、良かったが、今回
は、何と言っても、平作を演じた我當が、見応えがあった。時代
狂言のなかに組み込まれた世話場としての、「沼津」は、みどり
で「沼津」だけ演じられるときとは違って、「鎌倉」「大和郡
山」「伊賀上野」に挟まれて、上演されると、また、違った味わ
いがある。時代と世話の二本柱は、「沼津」の世界をも、さら
に、大きくして見せてくれたと、思う。劇評は、書きはじめたの
で、近いうちに、サイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込みたい。
- 2004年10月24日(日) 22:56:23
10・XX  東京駅近くの八重洲のギャラリーで、岐阜県高山
で、家具づくりをしている知人らのグループの作品展が、開かれ
ていたので、覗きに行き、久しぶりに知人夫妻に逢う。文机、椅
子、灯り、小箱など丹精を込めて作り上げられた品々が、揃って
いた。

その後、久しぶりに、神保町などの書店を廻り、急いで、帰宅
後、夕食を挟んで、今月の歌舞伎座、夜の部の劇評を書き継ぐ。
そして、さきほど、脱稿。このサイトの「遠眼鏡戯場観察」に書
き込む。途中、新潟で、大きな地震があり、余震も続く。ここで
も、何度も、揺れを感じて、執筆を中断される。新潟を中心に、
被害が出ているようだ。台風で、大量の水を含んでいるところ
へ、大きな地震では、さらに被害を大きくするのではないかと、
心配だ。ことしの秋は、熊だけでなく、人間にとっても、死生を
決する異常な秋になっている。地球が怒っている。
- 2004年10月23日(土) 21:30:46
10・XX  3日間かかって、今月の歌舞伎座、昼の部の劇評
をまとめ、さきほど、このサイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込
んだ。帰宅後、酒も呑まずにパソコンに向かってきた。さて、で
きはどうか。それは、読者の皆さんの判断しかない。

あすは、土曜日でお休みなので、夜の部の劇評を一気にまとめ
て、「遠眼鏡戯場観察」に掲載しようと、思う。そして、あさっ
ての日曜日は、国立劇場の通し狂言「伊賀越道中双六」を観に行
く。鴈治郎と翫雀親子、我當と進之介親子、我當の弟の秀太郎ら
に、彦三郎、魁春、上方の玉三郎こと、上村吉弥、信二郎、亀
鶴、竹三郎らが出演する。いつも、「沼津」ばかり上演される
「伊賀越道中双六」を通しで拝見するのは、初めてなので、愉し
みにしている。
- 2004年10月22日(金) 23:05:43
10・XX  台風23号は、四半世紀振りの、大きな被害を日
本列島に残した。特に、兵庫県舞鶴市で起きた観光バスの乗客
が、バスに乗ったまま、濁流に飲み込まれ、お年寄りが多いとい
う乗客が、バスの屋根などによじ登り、漆黒の闇のなか、濁流の
轟音を聞きながら、立っても臍の辺りまで水に漬かるという、ま
さに、不眠の、恐怖の一夜を明かした挙げ句、全員が無事、救助
されたというニュースには、驚いた。良く、お年寄りの誰一人と
して、濁流に足元を救われなかったものだと、思う。温泉旅行帰
りの公務員OBのグループだったが、よほど、しかりしたリー
ダーがいたのだろう。それにしては、台風のなか、戻らずに、嵐
の過ぎる翌日まで、温泉ホテルでもう一泊すべきではなかったか
とも思う。しっかりしているのか、いないのか、よくわからない
グループだ。まさに、天国と地獄を味わった思いだったろう。

さて、歌舞伎座、昼の部の劇評を書き続けている。きのうときょ
うで、「寿猩々」と「熊谷陣屋」は、脱稿。あすは、「都鳥廓白
浪」を書く予定で、それが脱稿したら、このサイトの「遠眼鏡戯
場観察」に書き込むことになる。
- 2004年10月21日(木) 23:29:19
10・XX  台風23号が、また、日本列島を直撃した。10
個目。今回は、大型で、強風域が、800キロ以上もある。各地
で、いろいろ被害も出ている。うんざりするが、どうして、こと
しは、こんなに台風の直撃が多いのだろうか。気圧配置に拠る直
撃コースができてしまっているようだ。また、海水の温度が、い
つまでも高いのだろう。もう、10月の下旬だというのに。例年
なら、台風が発生しても、ここまで大型化しないのではないか。
台風は、師走になっても発生するから、台風の数には、驚かない
が、日本列島直撃の数の多さには、驚く。

日本列島が、イチロー選手のバットなら、台風というボールを打
ち返すこともできるのだろうが、自然の力には、かなわない。台
風が来ても、災害を最小限度にする施策をとるしかないだろう。
日本政府は、イラク戦争参加とか、アメリカ支援のための安保理
の常任理事国入りを目指す前に、地方自治体を支援しながら、台
風が来ても、被害の少ない国土づくりという「国づくりの基本」
をこそ、最優先にして欲しい。
- 2004年10月20日(水) 20:58:55
10・XX  日曜日に、歌舞伎座の昼と夜の通しで芝居を観た
あと、翌日から、1泊2日の人間ドックに入って来た。毎年入っ
ているのだが、今回は、脳ドックをオプションで付けてみた。一
日目の検査を終えて、病院の近くのホテルに入り、早めの夕食
後、夜は、歌舞伎座の昼夜の芝居の劇評の構成を考えてみた。

今回は、昼、夜通しのうち、「雪暮夜入谷畦道」の直次郎(菊五
郎)と三千歳(時蔵)が、よかった。この芝居は、5回目の拝見
となる。團十郎と雀右衛門、仁左衛門と玉三郎、菊五郎と福助、
吉右衛門と雀右衛門、そして、今回の菊五郎と時蔵と5つのカッ
プルを観て来たが、今回は、悪くない。菊五郎の分別のある悪
党・直次郎と時蔵の幼いが、性愛を覚えたばかりの愛らしい少
女・三千歳のツーショットは、「黙阿弥ポルノグラフィ」で、か
なり良かった。

ローリングプレイゲームの視点で分析してみたい「都鳥廓白
浪」、SF漫画のような視点で再構築を試みる「実盛物語」、大
人の童話のような「寿猩々」など、劇評のポイントを整理しなが
ら、ホテルの夜をゆるりと過ごした。いずれも、詳しくは、「遠
眼鏡戯場観察」にまとめたい。ここは、とりあえず、予告編。

また、台風が近付いている。台風23号は、日本列島に、また、
上陸しそう。ことしは、台風が、日本列島の芯に当たるように、
気圧の道ができてしまったようだ。イチローのバットか、日本列
島で、台風のボールが、バットの芯ならぬ、日本列島の芯に当た
る、という年なのかもしれない。

プロ野球のホークス買収にソフトバンクが名乗りを上げた。い
ま、プロ野球がらみで、動けば、知名度は、さらに揚がるという
状況だ。成り上がりの事業家たちは、さすが、抜け目がない。ど
うころんでも、広告費換算すれば、損はしないと読んだのだろ
う。こうでなくては、成上がれない。群雄割拠の時代の戦国大名
のような猛将たちだ。
- 2004年10月19日(火) 22:08:16
10・XX  きょうは、久しぶりで、日本橋、銀座、神田、神
保町の書店、古書店、画廊などを廻って来た。本などを買い込ん
だ。きのう、久しぶりに快晴の好天に恵まれた東京だが、きょう
は、再び、曇り空が押し包んでいる。

帰宅後は、10月前半分の書評をまとめて、サイトに書き込む。
今月分の「乱読物狂」は、3回目の書き込み。今回は、全部で8
冊。どの本も、できるだけ、歌舞伎に縁があるように書いてい
る。夕食を挟んで、4時間は、パソコンに向かっていた。疲れ
た。

あすは、歌舞伎座、昼夜通しで観て来る。来週末までには、歌舞
伎座の劇評もサイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込みたい。今月
は、さらに24日の国立劇場の観劇も控えている。これも、今月
中には、劇評をサイトに書き込みたい。

そう言えば、歌舞伎座の筋書きの番付を書いていた歌舞伎文字・
勘亭流の斎藤龍亭さんが、亡くなっていた。勘亭流の保存継承に
命を懸けている伏木寿亭さんといっしょに歌舞伎座の筋書きの番
付を隔月で交替しながら書いていた龍亭さんだが、明るい人柄の
裏では、長い病気との闘いがあったという。このところ、番付の
書き手が、寿亭さんばかり続くので、おかしいと思っていたのだ
が、ことしの春に亡くなっていたとは、知らなかったとは言え悔
やまれる。改めて、哀悼の意を表したい。合掌。
- 2004年10月16日(土) 22:02:07
10・XX  一ヶ月ほど先の話。歌舞伎文字・勘亭流の教室開
設30周年を記念する作品展が、11・6(土)〜7(日)の2
日間、浅草公会堂の1階展示ホールで開かれる。毎月、交代で歌
舞伎座の筋書きの番付表を書いている伏木寿亭さんと斎藤龍亭さ
んのお弟子さんたちの作品発表会である。いつもは、毎年6月に
浅草公会堂の会議室で開催しているのだが、ことしは、6月に案
内が来ないので、どうしたのかしらと、思っていたら、30年の
節目ということで、顔見世月にあわせての開催と言うわけだ。い
ずれも、午前10時から開催で、初日は、午後5時まで、2日目
は、午後4時まで、ということだが、私は、ほかの予定が、早々
と入っていて、残念なことに、覗きに行けない。皆さん、行って
ください。入場は、無料です。
- 2004年10月12日(火) 21:53:56
10・XX   團十郎と海老蔵のパリ公演が、始まる。白血病
を乗り越えた團十郎の頭は、剃り上げていて、海老蔵と同じに
なった。歌舞伎座の記者会見では、頭に毛糸の帽子を被っていた
が、今回の記者会見では、爽やかな坊主頭である。癌治療という
過酷な体験の結果が、坊主頭なのだろうが、そこを「親子坊主」
という、爽やかさで見せるところが凄い。この親子の力量という
ものだろう。團十郎の人柄の器量の大きさが自然と判る。

成田屋ファンのなかには、パリ公演にも、追っかけて行っている
人は、多いのだろうが、私の方は、今月と来月は、歌舞伎座の
昼・夜通しと国立劇場というわけで、6つの舞台を観ることにな
る予定だ。1つの舞台の劇評を書くのに舞台の観劇とほぼ同じ
に、数時間はかかるから、大忙しになりそう。それでも、良い舞
台を観ることができれば、忙しさも吹っ飛ぶが、つまらないとよ
けい疲れる。
- 2004年10月8日(金) 21:48:21
10・XX  もう、10月である。あすは、歌舞伎座の初日。
来月は、歌舞伎界の正月に当たる「顔見世月」である。「顔見世
興行」の芝居小屋の前には、御贔屓筋から贈られた酒樽などの積
物が、高々と積み上げられ、前景気を煽った。小屋に向き合う芝
居茶屋には、見世先に御贔屓から役者に贈られた引幕を入れる箱
などが飾られている。

いまの歌舞伎座なら、さしずめ、2階のロビーのショーウインド
ウに当たるかもしれない。役者が、芝居小屋に入る「乗込み」の
儀式が、10月末にあり、11月1日には、太夫元を始め小屋の
関係者が裃、あるいは、羽織り袴で祝儀を述べあう。そして、3
日間は、「戯場国」の一足早い「正月」を祝って、雑煮まで食べ
たと言う。芝居の虚構性を実生活で実践する「傾(かぶ)くここ
ろ」が、ここには、あると、思う。

顔見世狂言としては、「御位(みくらい)争いもの」「前太平記
もの」「奥州攻めもの」「鉢木もの」「東山もの」「出世奴も
の」などの定番のなかから演目が選ばれたという。ちなみに、歌
舞伎座の、ことしの顔見世興行では、昼の部には、鴈治郎の「葛
の葉」のほか、仁左衛門、孝太郎、千之助の三代「お祭り」で、
爺やの仁左衛門が、どんな爺振りを見せてくれるか。いや、颯爽
とした色男であろうなあ。夜の部には、鴈治郎と雀右衛門の「吉
田屋」、仁左衛門の「河内山」などが楽しみ。仁左衛門の「馬鹿
め−」を聞きたい。もう、顔見世狂言の原則は、あまり、考慮さ
れていないのも、時代か。
- 2004年10月1日(金) 22:03:29
9・XX  第55回カンヌ国際映画祭監督賞受賞作品の韓国映
画「酔画仙」(2002年制作。119分)の試写会を観て来
た。監督は、美しいパンソリの伝統民謡を映画に活かし「風の丘
を越えて〜西便制」や「春香伝」という名作を作って来たイム・
グォンテク。主演俳優は、「シュリ」や「オールド・ボーイ」、
「九老アリラン」、「われらの歪んだ英雄」などに出演した
チェ・ミンシク、共演は、「眠る男」や「祝祭」のアン・ソン
ギ、「ラブストーリー」のソン・イェジンという顔ぶれだから、
監督や配役には、申し分がない。

さらに、撮影は、「風の丘を越えて〜西便制」や「春香伝」でも
カメラを廻し、ロケ映像の美しさでは定評のあるチョン・イルソ
ン。今回の「酔画仙」では、漂泊の画家の旅を行く姿が、雄大な
自然を活かしながら、人間と自然の対比をさり気なく主張するカ
メラワークで、魅了した。案の定、韓国国内の映画祭などで「撮
影賞」を受賞している。さらに、ソウル総合撮影所内に22億
ウォンをかけて19世紀末の街を再現するなど巨額の制作費を
使っている。

映画の主人公の張承業(チャン・スンオプ)は、朝鮮王朝時代末
期(日本で言えば、幕末から明治初期)に活躍した画家で、韓国
の絵画史上、朝鮮王朝時代の三大画家のひとりと言われる。貧し
い育ちながら、天才肌の画才を発揮し、異例の宮廷画家にまで
なった人物(1843年〜1897年)。酒と女性と絵を愛し、
その自由奔放な画風で、本人も、「酔瞑居士」などと自称し、民
衆からも支持され、「酔画仙」などとも渾名されたという。つま
り、主人公に選んだ人物も、なかなか、魅力的というわけだ。こ
れでは、映画を観る前から、いやが上にも、期待が盛り上がらざ
るを得ないだろう。

だが、実際に試写会で映画を観ると、観る前のイメージと違うこ
とに気が付いた。映画を観ているうちに、何か、違うんだな、と
いう違和感が沸き上がって来る。どうも、登場人物や時代背景の
描き方が、通俗的な気がし出した。「風の丘を越えて〜西便制」
などでは、押さえたタッチで、描き方に、いわば、低音の魅力が
あったように思う。ところが、今回は、声高なのだ。主人公が、
絵を描くシーンも、同居する妓生(キーセン)との情事のシーン
でも、抑制が足らない。従って、余白、余韻が醸し出されない。
タッチが、通俗時代劇調なのだ。波乱万丈の伝説の画家の人生だ
けに、そこは、抑制的に描いて、画面外への、観客の想像力の飛
翔を誘った方が、的確にメッセージが伝わると思うのに、過剰
で、通俗的に描いてしまうから、観客は、画面に縛られ、想像力
が刺激されない。そういう違和感を私は感じた。

その主な原因は、なにかと考えてみた。それは、天才画家といわ
れたチャン・スンオプのオリジナルな絵が、どういうものかが私
には、伝わって来なかった。元々、朝鮮王朝時代末期の同時代に
もてはやされ、「酔画仙」と渾名されただけに、絵の価格も高
かったそうで、賄賂などに利用されたり、贋作が多数で廻ったり
したそうだが、彼のオリジナルな絵で現存するものは、数が少な
いという。試写会で戴いたマスコミ用のプレス(資料)に掲載さ
れている張承業(チャン・スンオプ)筆の作品「三人問年図」
「山水画」「豪鷲図」(印刷は、モノトーンだが、オリジナルも
モノトーンなのかは、不明)は、さすがに、線描にメリハリがあ
り、リアルでありながら、シュールであるというユニークな現代
的な画風で、覇気や才気を感じさせるが、映画のなかで観ること
ができた作品には、そういうメリハリが、欠けていたように思
う。作品の数が少ないから、映画の展開に合わせて、映画のなか
で、チャン・スンオプが、描いてみせる絵は、オリジナル作品で
はなく、現在韓国で活躍する著明な画家らが描いたということだ
が、それにしても、数少ないチャン・スンオプのオリジナル作品
を観客に判るように見せられなかったのか、と思う。完成してい
るオリジナル作品と映画のなかで制作される経過を見せる作品と
のトーンが違い過ぎるため、そういう「技」を使うことは、禁じ
手としたのだろうか。それだけに、映画のなかでチャン・スンオ
プが書き上げる絵が、伝説の天才画家の、いわば、神業のような
絵というイメージとそぐわないように見えてしまったのが、なに
よりも、私のなかに違和感を生み出したと思う。「朝鮮王朝絵画
の終点であり、韓国近代絵画の起点でもある」と言われるよう
な、「起」と「結」が、同居し、一見写実のなかにありながら、
虚実が逆転しているようにも見える、というようなトリック性を
隠し持っているような作品こそ、チャン・スンオプの特性がある
のではないか。だとしたら、この映画は、チャン・スンオプの伝
えられる生涯は描写し得たとしても、そういう画家の「特性」
は、描けなかった。この映画は、ユニークな画家の、こうした特
性をこそ、観客に伝えるような作り方をすべきではなかったので
はないか。

この映画は、伝説の画家の波乱万丈の人生を描き、いわば、疾風
怒濤の青春時代が軸になるものだろう。「冬のソナタ」で注目さ
れている韓国のテレビドラマ。以前、韓国のテレビドラマで貧し
い生れの少年が、厳しい修行を経て、宮廷医師になるまでの成長
の過程を描いた、長時間ドラマを観たことがあるが、あのドラマ
の方が、感動もあり、いまでも印象的な思いが残っているだけ
に、似たような素材の映画の、こうした違和感が、なんとも残念
な気がする。12月中旬から、05年新春ロードショーとして、
東京・神保町の岩波ホールで上演される。
- 2004年9月25日(土) 18:27:27
9・XX  青年劇場の芝居「夜の笑い」を観る。島尾敏雄の
「接触」という作品を元にした飯沢匡原作の芝居は、1978年
に上演され、その後、1987年に再演、そして、今回は、3回
目の上演となった。26年前、明治時代の尋常高等小学校で起き
たという想定の事件を題材にすることで、過去の時代を皮肉る
テーマを持って上演された筈の演劇装置は、過去に遡ることで、
初演当時の時代状況を映し出そうという目的があったのかもしれ
ない。ところが、その装置は、26年経って、古びるどころか、
いまもなお、現代及び近い将来の時代状況を映し出し、警鐘を鳴
らす装置になっているということを感じさせる芝居であった。こ
れは、かなり、苦味の効いた作品だ。事件は、熊本の尋常高等小
学校で起きた。誰かが差し入れた餡パンを生徒たちが授業中に食
べたことが発覚し、餡パンを食べたと申し出た5人の生徒が、
「授業中に食事したるものは罪万死に価するものなり」という校
則の規程に違反したとして、自決を命じられるという、不条理で
荒唐無稽な物語である。

「自彊不息」と揮毫された額が飾られた一室。床の間には、「天
照皇大神」という掛け軸が掛けられている。「自彊不息」とは、
自ら勉めて励み、止めない、あるいは、休まないことという意味
だろう。「天照皇大神」の掛け軸は、尊王思想の象徴。生徒たち
の最期の夕食が終り、夜明けまでには、自決をせざるを得ないと
いうその過程を描くことから、タイトルの「夜の笑い」とは、
「ある一夜が明けるまでの笑劇」という意味の「夜」でもあると
思うが、また、夜=暗黒という意味では、「ブラックな笑い」と
いう意味も含ませているように思える。

明け方の強制された自決に向けて、着々と準備をする副校長の兵
頭武子(この武ばったネーミングから見れば、副校長は、ある象
徴的な意味をになった「記号」であろうと思う)は、ことの次第
を教育委員会の学務部長に報告に行き、御墨付きをもらい、校則
に基づく「処刑」を合理的なものにしようとしている。強力な指
導力を発揮する副校長の元、夏目漱石の「坊ちゃん」の登場する
学校を連想するような名前の教師たちがいる。教頭の名前は、
「田貫」。数学の「明石」は、「あかしゃつ」、赤いシャツを着
ている。画学は、「のだいこ」ならぬ「野田」。体操は、「やま
あらし」ならぬ「山荒」。国語は、「浦成」。つまり、教師たち
も、寓意を担った記号であることが了解される。

記号たちは、より大きな記号の号令の元、着々と「処刑」の準備
をする。例えば、山荒は、自決する生徒たちの首を刎ねて、介錯
する役目をおおせ使い、嬉々として準備をしている。浦成は、生
徒たちのために時世の歌を代筆している。自分の責任を問われる
ことを忌避しようとのみする教頭ら。

一方、生徒たちは、ひとりを除いて、士族の倅である。空腹を訴
える者がいるぐらいで、自決は、定められた運命として、従容と
して従おうとしている。学校からは、各生徒の家庭に事件の概要
を知らせる手紙が届けられた。平民の生徒の母だけが、5人分の
死に装束を届けに来た。ほかの士族の親たちは、誰も来ない。校
則に違反したのだから、学校の方針が示されたのだから、処刑も
仕方がないと思っているようだ。劇の進行とともに、そういう状
況が、次第に明らかになる。ここまでは、皮肉な視点ながらも、
順調に「起承」して行く。

ところが、「転」が、転がり込む。尋常高等小学校の生徒のひと
りが、「尋常ではない」ことに結婚していて、その妻が、夫救出
のために、作戦を立て、ひそかに準備を実行し、副校長ら教師た
ちに「対決」しに来る。彼女の戦法は、屁理屈を含めた言論であ
る(ジャーナリスト飯沢匡の面目躍如たるものがある)。

その結果、授業中に食べた餡パンという証拠の品も無くなり、校
長が直筆で書いたという校則の原本も、風呂のたき付けとされ、
物的な証拠を隠滅してしまい(協力者は、なんと、学校の小
使)、さらに、屁理屈で教師たちを煙に巻き、夫を含め、生徒た
ちを救い出してしまう。つまり、餡パンも記号なら、校則も記
号。生徒たちも記号。記号が、描き出す笑劇は、時空を超える生
命力を持ち、明治という過去を舞台に上げながら、現在、未来を
睥睨しながら飛び交い、いまや、君が代、日の丸を讃える知事を
戴く某教育委員会が、テーマと言っても通用するような芝居に変
身をして、その建物のある新宿の地に着地したと言うわけだ。さ
らに、この芝居は、時代が芝居の想定した記号の世界に近付いて
来る限り、不幸なことに、無気味さと迫真さをますます高め、永
遠の生命を保ち続けるという苦さを我々に残して、幕を閉じてし
まった。寓意は、永遠不滅なり。

さあ、後は、「結」だが、どうしたら良いのか。それは、いまの
時代に生きる観客が、自ら考え、行動すべきだと、亡くなってか
ら10年経って、いまの時代の有り様など知らないはずの飯沢匡
は、夜の笑いのごとく、ブラックな笑いを我々に投げかけて来
る。でも、皆さん、本当に笑っている場合ではないですよ。状況
は、深刻です。

私は、テレビ局の記者のときに、当時の東京・市ヶ谷の自宅に飯
沢匡氏を訪ねて、インタビューをお願いしたことがある。インタ
ビューの取材が無事終り、雑談になったときに、当時、私が読ん
でいた飯沢さんの「刺青小説集」の話をしたときに、飯沢さん
は、あの微笑の顔に、はにかみを浮かべながら、「変な小説が好
きなんですね」とおっしゃっていたのを覚えている。変な小説
も、永遠不滅のようだ。先日、書庫を整理していたら、「刺青小
説集」を始め、飯沢匡さんの著書が何冊も出て来た。時代が、私
に再読をさせようとしているのかもしれない。
- 2004年9月23日(木) 21:42:04
9・XX  歌舞伎の劇評、岩波ホールの試写会の映評、青年劇
場の劇評、そして、9月後半の書評と書かなければならない原稿
が溜まっている。きょうは、朝から、書かれるべき原稿の見えな
い山を突き崩し、ひとつひとつ、見えるものに変えて行かなけれ
ばならない、という作業に乗り出した。そして、取りあえず、今
月の歌舞伎座の昼の部の劇評をこのサイトの劇評コーナー「遠眼
鏡戯場観察」に書き込んだ。一休みにしたら、夜の部の劇評に取
りかかりたい。
- 2004年9月23日(木) 14:48:53
9・XX  歌舞伎座で、昼と夜の通しで芝居を観て来た。美貌
の女形・五代目福助(芝翫の父)七十年祭追善興行と五代目の曾
孫の宜生(橋之助の三男)の初舞台で、特に、昼の部は、満席売
り切れ。神谷町(芝翫)ファミリーの「口上」が、お目当ての人
たちが、満席盛況を作っているようだ。チケットは、売り切れだ
が、席は、ところどころ空いている。都合で来れず、チケットを
無駄にした人たちだろう。私見では、昼の部より、客席に余裕の
ある夜の部の方が、断然おもしろかった。特に、黙阿弥原作の世
話物、勘九郎、三津五郎ともに、初役に挑む「宇都谷峠」。最近
は、芝居の中味とは、違ったところで、人気が満席状況を作り上
げる。歌舞伎の大衆化現象で、興行的には、何よりだし、興行
が、歌舞伎の役者の力を付けて来たという歴史もあるから、これ
は、馬鹿にできない。歌舞伎の魔力の一つかもしれない。

さて、観劇後、さっそく、昼の部、夜の部とも、劇評の構想を錬
り、先ほど、構想メモをサイトの「裏」に書き込んだところ。サ
イトの「表」の劇評にまで、膨れ上がって来るためには、まだ、
まだ、時間がかかりそう。ところで、今回の昼と夜を繋ぐキー
ワードは、「鱗(うろこ)」。謎解きは、いつもの、「遠眼鏡戯
場観察」で、近日公開。
- 2004年9月21日(火) 22:31:41
9・XX  大阪の大阪教育大学付属池田小学校で、8人の小学
生を殺し、15人に怪我を負わせた宅間守死刑囚の死刑が、大阪
拘置所で執行されたという。刑の確定から1年という異例の早さ
だった。大阪で記者をしていたころ、建て替えられたばかりの大
阪拘置所の所内を見学したことがある。独居房、雑居房、収監者
の食事を作る場所などを見たが、その折に、拘置所にある死刑執
行の部屋も見た。13の階段を登る、いわゆる死刑台ではなく、
ベージュの絨緞が敷かれた部屋の床の一部が下に抜ける部屋だっ
たが、検死のために、係官が床下に降りる階段は、13階段で
あった。

あそこで、死刑が執行されたのだと思うと、特別の感慨がある
し、同じ日に栃木県で行方が不明になっていた幼い兄弟のうちの
弟が、殺され、遺体が見つかったニュースが伝えられたのを思う
と、大人の理不尽さが、子どもの命を安易に奪ってしまってと、
憤懣やるかたない思いが募る。宅間死刑囚には、もっと、長期
間、己の犯行の意味を考えさせ、苦しませるべきではなかったの
かという、思いもする。この事件に刺激されて、3年前、事件の
およそ半年後に発表された石田衣良が書いた短編小説「約束」を
含む短編小説集「約束」をちょうど読んでいたところだけに、一
入、そういう思いがする。
- 2004年9月14日(火) 21:24:55
9・XX  10月の国立劇場の歌舞伎の予約をした。24日の
観劇。鴈治郎を軸とした「伊賀越道中双六」の通し上演だ。いわ
ゆる荒木又右衛門の仇討助っ人の話だが、普通は、三幕目の「沼
津」ばかりが上演されて、全体が見えにくい演目だ。国立劇場
は、通しで上演するケースがほとんどなので、普段は、お目にか
かれない場面を見ることができる。34年ぶりの通し上演だとい
う。鴈治郎は、お馴染みの十兵衛を演じるほか、政右衛門も初役
で勤める。我當初役の平作も楽しみだ。

9月の歌舞伎座は、昼の部が、込んでいる。「菊薫縁羽衣」に出
演する橋之助の息子たちがお目当ての人が多いらしい。歌舞伎
ブームの裾野が拡がるのは、嬉しいが、どうも嗜好が違うので、
戸惑うことが多くなった。そう思いませんか。歌舞伎座は、20
日に昼夜通しで拝見する予定。
- 2004年9月11日(土) 22:07:46
8・XX  きょうは、午後から雨。国立劇場へ、松尾塾子供歌
舞伎公演を観に行く。出し物は、「卅三間堂棟由来」「墨塗」。
いずれも、初見の演目なので、愉しく拝見。「卅三間堂棟由来」
は、序幕「熊野山中鷹狩の場」二幕目「平太郎住家の場」三幕目
「和歌ノ浦木遣音頭の場」を上演。柳の木の精との「異類婚姻
譚」で、「葛の葉子別れ」同様で、二幕目の子別れなどの場面が
売り物。三幕目の「くまのみち」では、切り倒された柳の大木
が、息子の緑丸の綱引きと夫の平太郎の木遣音頭で、三段階ぐら
いでするすると伸びて来る仕掛けは、おもしろかった。

「墨塗」は、狂言の「墨塗」をそのまま、歌舞伎舞踊化した出し
物。1907(明治40)年、竹柴其水作。大名が、都で親しん
だ傾城と別れる場面で、傾城が、「いがみの権太」ばりに、茶碗
の水で嘘の泪を流しているのを見つけた太郎冠者が、茶碗に墨を
入れて取り替えた。それを知らずに、相変わらず、茶碗の水で、
嘘泪を流したため、顔に墨がつくという話。騙した傾城、騙され
た大名、悪戯した太郎冠者の三者三様の笑いが、人間臭い。

国立劇場では、9月は、11日から人形浄瑠璃の「双蝶々曲輪日
記」など(第一部)、「恋女房染分手綱」(第二部)を上演する
ので、席の空き具合を見に行ったら、並木宗輔ら原作の「双蝶々
曲輪日記」の一等席は、ほぼ売り切れ。残っていても端っこの方
などが、極少数しかないので、止めた。8・6電話予約開始だも
の、もう遅いよね。第二部は、未だ空席がある。

歌舞伎では、10月は、鴈治郎一座の「伊賀越道中双六」の通し
上演。11月は、菊五郎劇団の「噂音菊柳澤騒動(かねてきくや
なぎさわそうどう)」の通し上演。12月が、幸四郎らによる上
方歌舞伎の「花雪恋手鑑」(通称「乳貰い」)と「勧進帳」(幸
四郎出演回数、間もなく800回という)。

松尾塾子供歌舞伎では、歌舞伎座の前の支配人と同席。久しぶり
の偶然の出逢い(子供歌舞伎は、あすも公演がある)。自宅が、
近所のため、帰路は、前支配人に車で送っていただく。團十郎の
恢復を互いに喜び、車中では、松竹の部長として、担当していた
十一代目海老蔵襲名披露プロジェクトの裏話などを聞く。興味深
かったが、ここでは、まだ、書かない。
- 2004年8月28日(土) 22:12:39
8・XX  朝刊よると、病気療養中だった市川團十郎が、順調
に恢復していて、9月上旬に退院し、10月9日からの十一代目
海老蔵襲名披露パリ公演で舞台に復帰するという。よかった。パ
リ公演に行くのは、海老蔵ファンのほかに、父親の團十郎ファン
も増えるのではないか。もっとも、いまからでは、チケット入手
も困難だろうが。
- 2004年8月27日(金) 8:42:33
8・XX  サイトの「遠眼鏡戯場観察」に読者からの感想メー
ルを戴く。

*今月は3部ともご覧になってもうアップされており驚きまし
た。早速拝読いたしました。わたしはまだ1部しか見ておりませ
ん。「御浜御殿」は、仰るとおり若さあふれる清新な舞台でし
た。でもわたしは、評判の良い仁左衛門の綱豊を見ましたので、
どうしても満足がいきませんでした。大原さまが’00年10月
のをご覧になられなかったのは、とても残念なことだと存じま
す。

仁左衛門ももちろんですが、助右衛門の段四郎もとても素晴らし
く、白石の我當もやりすぎず、また江島の宗十郎がなんとも言え
ない雰囲気がありました。そのメンバーと比較するのはあまりに
も酷ですね。

何が違うかと言えば、綱豊が台詞をうたっていないのです。仁左
衛門のは、それは聞き惚れる台詞まわしでした。真山青果の台詞
が生き生きと伝わってきました。また勘太郎の助右衛門はバタバ
タとしていた気がいたします。(帰宅して、伝文で録画したその
舞台のテープを見直しました。)
と・・・勝手なことを書きました。

それから、これまた、余計なことですが・・・
「藤松」と言う名前は染五郎の本名の藤間さんの藤に、松は、確
かお祖母様の踊りの流派だか、何だったかから来ているのではな
いでしょうか?妹君の松たかこさんの松はそこからの命名だった
と記憶しております。ミーハーな話題でした。

どうも、ありがとうございました。「藤松」は、ご指摘のよう
に、本名の「藤間」と、いずれ襲名する松本幸四郎の「松本」か
ら、付けたんでしょうね。踊りの流派も、松本流です。染五郎
は、松本流家元三世錦升を襲名しています。暑い日が、続きま
す。お元気で、観劇を続けてください。
- 2004年8月20日(金) 8:45:00
8・XX  晴れ。暑さが、戻って来た。テレビは、オリンピッ
クと高校野球で賑わっている。沖縄で密集地に落ちた米軍のヘリ
コプター事故は、放射物質など厄介なものを積んでいたのではな
いか。「大惨事」を心配している。マスコミの報道振りが、歯が
ゆい。それに、ことしは、豪雨による水害が、各地を襲って、大
きな被害を出している。

歌舞伎座「納涼歌舞伎」の第三部「東海道四谷怪談」の劇評を
「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。今回の「納涼歌舞伎」は、第
一部から第三部まで共通するキーワードは、「仇討物語」という
ことになる。
- 2004年8月19日(木) 6:39:17
8・XX  昨夜の雨も上がり、晴れている。歌舞伎座「納涼歌
舞伎」第二部の劇評を「遠眼鏡戯場観察」に書き込んだ。「蘭平
物狂」と「仇(あだ)ゆめ」。そう言えば、「蘭平物狂」も、仇
討ち失敗の噺で、二つの演目には、「仇」が、共通のキーワード
として、隠されている。続いて、第三部「東海道四谷怪談」の劇
評を書きはじめよう。
- 2004年8月18日(水) 6:51:59
8・XX  東京の真夏日は、連続40日で一旦切れたけれど、
その後も、暑い日が続く。けさは、納涼歌舞伎の第一部の劇評を
「遠眼鏡戯場観察」に書き込む。「綱豊卿」と「蜘蛛の拍子舞」
の組み合わせは、若手らによる清新な新歌舞伎と中堅による古風
な味わいの舞踊劇への「綱渡り」。「綱」の秘密は、劇評に書き
込む。
- 2004年8月17日(火) 6:43:22
8・XX  歌舞伎座の「八月納涼歌舞伎」を観て来た。第1部
は、「元禄忠臣蔵」の「綱豊卿」が、染五郎、勘太郎、七之助、
芝のぶらの若手による熱演で、清新な舞台となった。第2部の
「蘭平物狂」は、三津五郎の安定した演技で、じっくり、充実し
た立ち回りの舞台で、堪能した。第3部は、前売り券完売という
人気の「東海道四谷怪談」。お岩、小平、与茂七の3役早替りの
勘九郎以下、4年前とほぼ同じ顔ぶれだが、前回ほどの舞台にな
らず、残念。詳しい劇評は、後日、「遠眼鏡戯場観察」に掲載す
る。
- 2004年8月16日(月) 6:35:50
8・XX  我がサイトの読者からメールを戴いた。はかの読者
のなかにも、共通する思いを持っている人もいると思うので、私
の返信も含めて掲載したい。

*7月の桜姫の観劇記を拝見して、感じていたことを言葉にして
いただいた気が致しまして、何だか胸の中でもやもやとしていた
ことがスッと致しました。

仁左衛門と段治郎の違いは何だろうと思ってましたが、本当に
「眼が違う」のです。確かに段治郎は頑張っていたようです。
観劇したときはそう思いました。ところが、「演劇界」での写真
を見て、これはちょっ・・・と思いました。眼です。眼が違いま
す。仁左衛門の権助は写真で見ても、桜姫を見る目にゾクゾクし
ます。ゴールデンコンビでの桜姫は残念ながら拝見しておりませ
ん。

今年2月の「三人吉三」を見て吉祥院での「逢いたかった」と
言って見つめ合う姿も何ともいえませんでした。今月歌舞伎チャ
ンネルで放送しておりますが、仁左衛門の玉三郎を見る目はやは
り活きてます。

**「大原雄の歌舞伎めでぃあ」の「遠眼鏡戯場観察」を、いつ
も読んでくださっているようで、ありがとうございます。

「桜姫東文章」の玉三郎は、良かったですね。私も、以前の玉三
郎と仁左衛門の舞台は観ていません。はやく、仁左衛門と共演す
る舞台を観たいと思います。

8月の歌舞伎座は、15日に一部と二部を観に行きます。三部
は、まだ、未定です。

毎月、大原流の独自な視点で劇評を書こうと努めていますが、
二足の草鞋の生活では、じっくり調べたり、書き込んだりする時
間が乏しく、なかなか難しいのが実情です。

まあ、それでも、好きでやっていることですから、愉しみなが
ら、続けて行きたいと思っています。今後とも、ご愛読下さい。

- 2004年8月8日(日) 21:31:37
8・XX  8月の歌舞伎座は、10日が初日。すっかり定着し
た3部制。第一部は、「元禄忠臣蔵」のうち、「御浜御殿綱豊
卿」。これは、甲府徳川家の宰相で、後に六代将軍家宣になる人
と赤穂浪士とのエピソードを真山青果が書いた新歌舞伎の名作。
「蜘蛛の拍子舞」。いずれも、すでに、観ている演目。第二部
は、三津五郎の定評ある「蘭平物狂」。これも、既に、観ている
が、三津五郎の蘭平は、久しぶりなので、いつもにも増して、愉
しみ。家族と3人で観ることにした。このサイトの書評コーナー
「乱読物狂」は、もちろん、これのもじり。「仇(あだ)ゆめ」
は、初見。第三部は、以前にも、勘九郎主演で観たことのある
「東海道四谷怪談」だが、人気で、座席の確保が難しそう。
- 2004年8月4日(水) 22:47:11
7・XX  暑い。連日の猛暑が続いている。ことしの夏は、
40度を超える日も、すでにあった。週末も、忙しい日々が続い
ていたが、やっと、きのう、歌舞伎座の舞台を昼と夜の通しで、
観ることができた。猛暑の晴海通りから歌舞伎座に入ると、そこ
は、南北ワールド。初めて観た玉三郎の桜姫は、見応えがあっ
た。劇評は、「桜姫東文章」を軸にして、早朝から書き続けて、
さきほど、脱稿し、このサイトの「遠眼鏡戯場観察」に書き込む
ことができた。

もし、大向こうから「待ってました」と声がかかるようなら、役
者の気分で、「待っていたとは、ありがてい」とお礼を申し上げ
たい。それにしても、最近は、皆さんと、小屋で逢いませんね
え。ちょっと、寂しい。
- 2004年7月25日(日) 15:31:19
6・XX  6月の歌舞伎座は、5月に続いて、十一代目市川海
老蔵襲名披露興行。昼の部(「外郎売」「寺子屋」「口上」「春
興鏡獅子」で、このうち、海老蔵出演は、「口上」「春興鏡獅
子」)と夜の部 (「傾城反魂香」「吉野山」「助六由縁江戸
桜」で、このうち、海老蔵出演は、「助六」)を通しで拝見。い
ずれも、海老蔵の登場は、最後の演目のみ。先月、体調不充分
で、「口上」以外は、舞台を休んだ雀右衛門が、今月は、夜の部
のみ芝居にも出演。海老蔵は、来月の大阪・松竹座での「勧進
帳」では、仁左衛門の冨樫を相手に待望の弁慶を演じるという。

まもなく、歌舞伎座の劇評を書きはじめたいが、批評のポイント
の構想が、浮かんで来ない。「寺子屋」は、長崎の小学校6年生
の女子児童による同級生殺しがあったばっかりで、どうしても
「子殺し」に目が行く。考えてみれば、「寺子屋」は、殺された
少年を巡って、加害者の夫婦(源蔵と戸浪)と被害者の夫婦(松
王丸と千代)の物語という側面もあるので、その辺りを考察する
か。「春興鏡獅子」は、実は、最初に見たのが、新之助であり、
今回が、新之助改め、海老蔵という辺りが、ポイントになるかど
うか。「助六」は、新橋演舞場で新之助の助六を見ているが、今
回見ると、巧くなっている部分と直っていない部分とが、眼につ
いた。まあ、もう少し、批評のアイディアを温めてから、書きは
じめたい。
- 2004年6月7日(月) 23:18:29
4・XX  梶田征則監督作品「ミラーを拭く男」の試写会を観
る。「サンダンス・NHK国際映作家賞2002」を受賞した脚
本の映画化。監督は、カーブミラーを拭く男を見たことがあると
いう。四六時中、雨風に晒されるカーブミラーだから、汚れるの
は、当たり前。誰かが、定期的にカーブミラーの掃除をしていな
ければ、見えにくくなるだろう、ということは、想像できる。し
かし、私は、実際にカーブミラーを拭いている人を見たことがな
い。カーブミラーを拭いている人を見たことがある人が、実際、
どのくらいいるのか知らないが、あまり、多くはないような気が
する。そういう、レアケースに直面し、カーブミラーを拭いてい
る人の人生を思った。梶田監督の感性の豊かさ。鋭さには、驚
く。

さらに、定年を前に起こした監督の父親の車の接触事故。事故の
処理が終っても、父親は、会社を休み続け、辞職。鬱病になって
いたのだ。定年、日本の企業では、多くの場合、60歳が定年と
なる。つまり、還暦だ。人生、ひとまわり。ゼロに戻って、リ
セットできる唯一の時期。しかし、定年後の、生活設計をするた
めには、私は、10年間ぐらいの準備期間が必要だと思い、すで
に数年前から準備を進めている。後、3年ほどで、私も定年を迎
えるが、いま、その定年が、待ちどうしい心境になっているが、
多分、多くのご同輩は、そういう心境にはなっていないだろう。
むしろ、定年を視野に入れずに、見ないようにしているのではな
いか。そういう態度で、50歳台を過ごすと、定年を控えて、あ
るいは、定年を迎えて、鬱病になったりするのではないか。そう
いうテーマも、この映画にはある。私は、自分の能力を「蓄積」
した学生時代。就職して、能力を発揮しながら、「蓄財」した時
代。定年を迎え、豊饒な時間のなかで、蓄積と蓄財を、自由に使
う老後の時代というように、人生を3区分して、全うすべきだと
いう見解を持っている。もちろん、それを支えるためには、健康
でなければならない。

まあ、それは、さておき、梶田監督は、そういう、自分が身近で
体験したふたつのエピソードを元に、カーブミラーを拭く男の物
語を構築した。ミラーを拭く男というだけの話を膨らませ、2時
間の映画を作った。それでいて、無理に話を膨らませ、絵をつけ
たという感じがしない映像世界を構築した手腕は、目を見張るも
のがある。

主人公の皆川勤は、定年間際に、車を運転していて、近所のT字
路で、出合い頭に来た自転車を避けようとして、カーブミラーに
衝突した。その際、カーブミラーの近くにいた幼女に軽傷を負わ
せてしまった。その幼女の祖父が、再三、脅迫まがいの態度で、
被害の金銭救済を求めて、皆川家に押し掛けて来る。逃げる父
親。応対に追われる母親。息子娘たちの父親を見る目は、厳しく
なるばかり。職場復帰しないまま、暗たんたる日々を送る皆川
は、ある日、事故現場に赴き、カーブミラーを見ている内に、そ
のカーブミラーが、そこで交通事故に遭い、亡くなった子どもの
遺族が建てたものだと知る。そして、自分も交通事故防止に役立
ちたいと思いつき、家族に知らせないまま、また、職場にも復帰
しないまま、市内のカーブミラーの全てを拭きはじめる。事故を
起こした車には、抵抗感があるため、自転車で廻る。

そして、市内のカーブミラーを拭き終った後、皆川は、家族の前
から姿を消してしまう。もちろん、職場も無断欠勤のままであ
る。実は、皆川は、北海道に渡っていた。まず、北海道内の汚れ
ているカーブミラーを拭き始めた。稚内から自転車に脚立を載せ
て、スタート。いろいろあって、北海道のカーブミラーを拭き終
えると、函館からフェリーで青森に渡る。そのころ、皆川の行為
は、テレビ局の取材を受け、放送されるようになる。あるテレビ
局は、追っかけ取材をしている。函館の市場では、買い物客に見
つかり、いっしょに、記念写真まで撮られる。フェリーで一緒に
なった、元役員という3歳上の男に「手伝いますよ」と申し出ら
れたりする。定年前後の男たちの社会参加の運動として評価され
るわけだ。まあ、自分の志と違うということから、協力を断り、
相変わらず、ひとりで、自転車に乗り、カーブミラーを拭き続け
る。しかし、ある日、脚立ごと、車に跳ねられ、怪我をしてしま
う。3年ぶりに、家族にも居場所を知られ、フェリーで知り合っ
た元役員も知られ、皆、見舞いにやって来る。家族からは、事故
の脅迫男も来なくなったとして、家に帰るよう説得される。元役
員からは、定年男性、皆で、カーブミラー磨きをしようと働きか
けられ、人海戦術でカーブミラー符拭きをはじめるようになる。
元役員の男は、さすが経営の才があり、ひとりコツコツとやる平
社員タイプの主人公とは異なり、たちまち、組織力とマスコミを
利用して、カーブミラー磨き運動の全国組織を作り、会長に納ま
る。主人公は、元役員に利用された後、それとは別に、相変わら
ず、ひとりで、カーブミラーを拭き続ける。

単純に、カーブミラーを拭く男を取り上げながら、全国展開、元
役員の男との出会いなどというフィクションを構築し、2時間の
映画を作り上げた梶田監督の手腕は、力強い。兎に角、映像の処
理の仕方が、抜群に巧い。全国展開は、絵になる。海、山、季
節、風景との取り合わせが巧い。カーブミラーは、ただ、そこに
建っているだけだし、ミラーを磨く、あるいは、拭くという行為
も、殆ど変化はない。それでいて、飽きさせないのは、人間よ
り、ミラーを主軸に映像構成を考えたことだろう。ミラー自体
は、変哲もないが、ミラーに写る景色は、さまざまだ。ミラーを
使った人生や現代社会の定点観測、そのあたりの映像処理が、実
に巧い。映画の映像処理の特質を知り抜いた職人芸という感じ
で、観客を飽きさせない映像世界を構築したと思う。ミラーを拭
く男は、己の人生を磨く男でもある。

それを支えたのは、まず、俳優たちだ。まず、主人公の皆川勤を
演じた緒方拳が、巧い。地道の、真面目に生きて来たサラリーマ
ン。危機管理ができていないから、一度、つまづくと収拾が効か
なくなる。多くの人は、このタイプでしょう。皆川とフェリーで
知り合う元役員を演じた津川雅彦が、また、巧い。悪い人ではな
いが、なあ年の役員根性で、主人公を出し抜いて行く。確かに、
いますよ、こういう男。皆川の妻を演じた栗原小巻。息子を演じ
た辺土名一茶。このほか、大滝秀治、岸部一徳、奥村公延、笑福
亭松之助など、ちょっとしか出て来ないが、印象的な演技を散り
ばめてくれた傍役陣の層が厚いのも、映画をいちだんと、見応え
のあるものしている。根底には、家族とは、何か、定年とは、何
か、という普遍的なテーマが、きちんと据えられていると見た。
久しぶりに、見応えのある映画に出会った。

この映画は、8・7から、テアトル池袋ほかで、夏休みロード
ショー。さらに、9・20からは、地方のトップを斬って、長野
で先行ロードショーが始まり、続いて、全国展開をするという。
- 2004年4月25日(日) 22:47:37
4・XX  歌舞伎役者の坂東吉弥さんが、4・23日、亡くな
る。66歳。上方歌舞伎の味を残した名傍役の死。上方ものの上
演では、ただでさえ少ない上方味の役者が減り、歌舞伎の舞台の
奥行きが、狭くなる。04年3月、歌舞伎座の「すし屋」の弥左
衛門役が、最後。

3月の歌舞伎座の「すし屋」の舞台について書いた私の「遠眼鏡
戯場観察」の一部を再掲したい。

*  上方歌舞伎独特の演出が、たっぷり詰まっているのは、何
といっても、「すし屋」の場面。弥助・実は維盛(梅玉)、お里
(孝太郎)は、両方とも持ち味を活かしていて、適役。特に、弥
助・実は維盛は、「つっころばし」、「公家の御曹司」、「武
将」など重層的な品格が必要な役だ。孝太郎のお里は、初々し
い。身分と妻子持ちを隠している弥助・実は維盛への恋情が一途
である。それでいて、蓮っ葉さも見せなければならない。この二
人のやりとりは、江戸歌舞伎も上方歌舞伎も、あまり変わらない
ようだ。
前の場面で討ち死にした小金吾の首を切り取り、維盛の偽首とし
て使って維盛を助けようとするのは、権太の父親・鮓屋の弥左衛
門(坂東吉弥)。吉弥は、熱演。権太との絡みの場面は、江戸歌
舞伎とは、大分違うが、率(そつ)なくこなしていて、上方味に
も欠かせない役者だというのが、判る。

「遠眼鏡戯場観察」から、坂東吉弥のことを検索すると多数出て
来るのだが、もうひとつだけ、03年11月の歌舞伎座の劇評の
一部を再掲したい。演目は、鴈治郎主演の「心中天網島〜河庄
〜」。

*2)鴈治郎(治兵衛)と富十郎(孫右衛門)との大坂弁での科
白のやりとりの滑稽さ。充分煮込んで味の染み込んだおでんのよ
う。死と笑いが、コインの裏表になっている。死を覚悟した果て
に生み出された笑い。この続きの場面、心中に傾斜する「時雨の
炬燵」は、以前に観ているが、「時雨の炬燵」より前段階の場面
の余裕が、笑いを生むのだろう。それに、上方和事独特の可笑し
味が付け加わる。さすが、洗練された芝居だ。これは、鴈治郎で
なければ、出せない味だ。それにさらに旨味を加えた調味料のよ
うな富十郎の演技。その富十郎が、体調を崩して、途中、休演に
なってしまったのが、残念。一世一代の「船弁慶」より、こちら
の孫右衛門が、見られない方が、惜しいと思う。一日も早い恢復
を祈りたい。「船弁慶」の代役は、菊五郎、孫右衛門の代役は、
吉弥だという。
3)今回の配役で、充実の演技は、鴈治郎と富十郎に限らないか
ら、嬉しい。恋にやつれた小春(時蔵)も、良かった。このとこ
ろ充実の舞台が続いている時蔵は、徐々に、皮が剥けて来た感じ
がする。富十郎の代役になった吉弥は、元々、小春を身請けしよ
うとする憎まれ役の江戸家太兵衛を演じる東蔵とコンビを組んで
いる五貫屋善六役だったが、善六は、誰が代役になったのだろ
う。吉弥、東蔵のコンビも、息が合っていて、なかなかよかっ
た。この5人は、役を演じていると言うよりも、そういう性格の
人になりきっていて、いずれも、当人を見るような気さえした。
従って、それは、フィクションと言うより、ドキュメンリーのよ
うな舞台に観えた。それほどの迫真力であった。なぜ、つくりも
のの芝居が、恰も、現実に生きている人たちの世界を覗いている
ように観えたのか。紙屋治兵衛のような女に入れ揚げ、稼業も家
族も犠牲にする駄目男のぶざまさが、観客の心を何故打つのか。
大人子どものような、拗ねた、だだっ子のような男が、鴈治郎の
身体を借りて、私の座っている座席近くの花道を通り、目の前の
舞台の上にいる不思議さ。

来年に迫った鴈治郎の四代目坂田藤十郎の襲名披露という上方歌
舞伎の役者衆にとっては、歴史に残る大舞台に、名傍役として欠
かせない存在だったはずの吉弥の早すぎる死。ご本人も残念だろ
うが、観客のひとりとして、私も衷心から残念無念としか、言い
様がない。

先月末、赤坂のホテルで開かれたパーティで、私は、「河庄」の
相手役・東蔵さんと「歌舞伎の奥行き」の話をしたばかりだけ
に、そのお手本のような吉弥さんの死は、ことのほか、ショック
だ。吉弥さんのご冥福を祈る。逝く吉弥さんの、飄々とした後ろ
姿を思い浮かべながら、劇場では掛けたことのない、大向こうか
らの声を心を込めて、掛けたい。

「大和屋!」
- 2004年4月24日(土) 11:32:03
4・XX  イラクで日本人3人が、誘拐され、犯人グループか
らは、人質の解放と引き換えに、自衛隊の撤退を要求している。
日本政府は、自衛隊の撤退を拒否しながら、人質の解放を求め
て、努力していると言うが、犯人側が、限っていた3日間の期限
を越えても、人質の解放は、実現されていない。誘拐された日本
人は、イラク戦争に反対し、イラク国民の悲惨な実情を日本や世
界に知らせようとしていた人たちであり、一時、犯人グループ
は、日本政府と日本国民の対応の違いを理解して、24時間以内
に3人を解放するとも伝えて来たが、こちらも、期限が切れて
も、解放していない。そういう状況のなかで、先の大戦でアメリ
カが広島に落とした原爆への「精神的な後遺症」(もちろん、肉
体的な被害としての原爆症への恐怖もある)に苦しむ若い女性の
物語(原作:井上ひさし「父と暮らせば」)を映画化した、黒木
和雄監督作品「父と暮らせば」の試写会を観て来た。

元々、1994年にこまつ座で上演された演劇(出演:すまけ
い、梅沢昌代)だが、今回は、演劇性を重視し、芝居を忠実に映
画化したという。映画では、広島への原爆投下から3年経った、
1948年の広島の、元旅館(福吉旅館)の家を舞台にして、原
爆で父を亡くし、独り住まいをしている図書館の司書をしている
若い女性・福吉美津江(宮沢りえ)と父の福吉竹造(原田芳雄)
の幽霊との二人芝居がベースになっている。こまつ座の舞台も観
ていないし、買った原作も、読んでいない(また、原作本は、い
ま、手許にない。後日、読んでみる)ので、それらとの比較が、
いまは、できないので、映画の印象を中心に映評をまとめたい。

映画は、被爆し、雨漏りのする、元旅館が舞台。福吉美津江は、
雷鳴のなか、職場の図書館から自宅に戻って来た。いまは、旅館
の面影を残す大きな家に一人で住んでいる。かつて、陸上競技の
選手もしていて、雷鳴のなかでも、平気で練習をしていたような
スポーツ少女は、3年前の被爆を体験して以来、雷鳴におののく
ようになってしまった。何度も鳴る雷鳴におののく女性を元気づ
けるのは、原爆で亡くなった父である。この幽霊は、少しも幽霊
らしくはない。まるで、生前の父親が、そこにいるようだ。娘も
父親の幽霊に驚いたりはしない。娘が、雷鳴を恐れるようになっ
たのは、被爆体験以後だと、父親は、明確に指摘する。

父親は、何故か、姿を見せた、この元旅館の自宅に居ながらにし
て、娘が、図書館で、きょう、原爆の資料を探しに来た青年・木
下正(浅野忠信)から、饅頭を貰ったことを知っている。戦後の
食糧難が続いている時期に、饅頭は、貴重品である。そればかり
でなく、一人生き残ったことを恥じて、幸せを追求する心を否定
しようとする娘の心情(つまり、木下への愛を隠そうとする心)
を、なんとか、覆させようとする、美津江の「恋の応援団長」自
任する愉快な幽霊である。

物語は、この父と娘の対話で進行する。つまり、二人芝居を忠実
に映像化して行く。木下の出て来るシーンは、基本的に娘の回想
の場面のみである。元旅館の舞台には、木下は、最後まで登場し
ない。さらに、言えば、幽霊の父親も、実は、木下と結婚したい
という娘の心と亡くなった仲間や父親のことを思うと、自分だけ
幸せになれないと思い込もうとする、もうひとつの娘の心でもあ
る。つまり、この「二人芝居」は、実は、娘の「一人芝居」でも
あるわけだ。

その若い女性の心の葛藤が、火曜日から始まり、金曜日まで続
く。木下が集めた原爆の資料を元に、女性が子どもたちのために
活動している昔話を聞かせる会に原爆の話を取り込むかどうかと
いう話が、水曜日には、父と娘の会話のテーマとなる。木曜日、
お話の会が、雨で中止になったため、図書館を早びけして来た娘
は、父に、自分だけ、被爆後も生きている苦痛を訴える。そうい
う娘の心を、なんとかして、変えさせ、前向きに幸せを求めて、
自分の人生を歩ませようとする父。金曜日、一緒に被爆しなが
ら、娘を「生きさせた」のは、父親の自分なのだから、娘は、父
親のために木下と結婚をして、自分のために、孫を見せてくれる
ことが、最大の父親孝行だと諭す。それを聞き、生きる希望に目
覚め、「おとったん、ありがとありました」と幽霊の父親に感謝
する娘。被爆した原爆ドームの廃虚にも夏の花が、咲いたよう
に、死に取り付かれていた娘の心にも、恋を全うし、前向きに生
きる気持ちを咲かせた。そう言えば、元旅館の福吉美津江の家
は、何時の間にか、原爆ドームのなかにあったことが、ラスト
シーンで明らかにされる。

黒木和雄は、処女作「とべない沈黙」(66年作品)でも、広島
を取り上げている。加賀まりこ、蜷川幸雄(演出家・蜷川は、当
時は、俳優だった)らが、出演し、広島ロケがなされている
(「とべない沈黙」「キューバの恋人」「日本の悪霊」「竜馬暗
殺」「祭りの準備」60年代から70年代に公開された黒木作品
は、みな観ている)。今回の「戦争レクイエム3部作」
(「TOMORROW/明日」88年作品、「美しい夏キリシ
マ」02年作品、03年公開、「父と暮らせば」04年作品)で
は、長崎、霧島、広島を描いた。このうち、「TOMORROW
/明日」だけ観ていないが、原爆が投下される前日の長崎の日常
生活を描いた作品だという。「美しい夏キリシマ」は、この「双
方向曲輪日記」に、映評を書いたように、「遠い雷鳴」のよう
に、遠くから聞こえて来る戦争の音を描いている。今回も、
1945年の被爆直後の広島ではなく、3年後の、被爆の影を色
濃く残した日常生活を描いている。そう言えば、黒木は、「美し
い夏キリシマ」で描かれたように、学徒動員先の工場が、空襲に
遭い、同級生たちを亡くしている。原爆で、仲良しの同級生を亡
くして、何故、友達が死んで、自分が生き残ったのかということ
に苦しむ演劇「父と暮らせば」の福吉美津江の苦悩は、黒木自身
の苦悩でもあったのだ。その苦悩の共感が、二人芝居をそのま
ま、映画に仕立てる原動力となったと言える。

一連のごたごた以後、痩せてしまった宮沢りえは、そういう体躯
そのものを活かして、福吉美津江そのもののように、演じてい
た。なかでも、熱演は、父・福吉竹造を演じた原田芳雄だろう。
映画が、時空を自在に滑空できるという特権を捨てて、芝居の舞
台のように、劇場という「額縁」のなかに敢て入り込みながら、
見事に、演劇的時空間をスクリーンに定着させた画期的な演出に
脱帽する。03年キネマ旬報日本映画第一位「美しい夏キリシ
マ」に続いて、74才の黒木和雄監督は、絶えることのないチャ
レンジ精神で、映画らしくない、演劇的な手法を駆使して、全く
新しい映像の世界を構築したことになる。

CGによる原爆投下の瞬間を再現した映像も、衝撃的。青白い閃
光の後、炎が町を飲み込んで行き、キノコ型の原子雲が膨れ上
がって行く様は、背筋が冷ややかになる。そう言えば、世界で初
めて都市に原爆を投下したアメリカが、いまも、イラクで都市を
爆撃していることを改めて、強く認識した。

「父と暮らせば」は、7・31から、東京・神保町の岩波ホール
ほかで全国ロードショー公開される。
- 2004年4月12日(月) 23:08:49
4・XX  岩波ホールで5・1からロードショー公開が始まる
中国映画「上海家族」の試写会に行って来た。「上海家族」の英
語のタイトルは、「シャンハイ・ウイミン(上海の女性たち)」
である。その意味するところは、1)上海という都市に住む3世
代の女性を中心にした物語であり、2)上海という都市と女性の
視点で見た家族の物語という意味があるから、英語のタイトルと
日本語のタイトルの差が出て来たと思う。もうひとつは、実際
に、映画を見て、スクリーンに映し出される映像を確認しないと
判らないのだが、それは、近代的な都市として、急激に変貌を続
ける上海の底辺、というか、背景というか、そこには、かなり特
殊な住宅事情があるということだ。上海という「都市」を遠景に
しながら、「離婚する家族」(父と母娘の乖離)の「住宅事情」
(中国の住宅事情の特徴:住宅の根本的な不足、社会主義から資
本主義的変質のなかでの住宅政策の変更、住宅の絶対的な老朽
化)という近景を映画のカメラを自由自在に操り、映像を組み立
てて行く女性の監督・彭小蓮(ポン・シャオレン)の巧さがあ
る。女性らしい細やかな視点で叮嚀に描いて行く。

祖母・母・娘の3世代の価値観の違いを視点にした映評(これも
大事な視点だ。祖母と娘の新旧の価値観の狭間で母は、迷走す
る)は、多くの人が書くだろうから、ここでは、パス。なにも、
私まで同じ視点で書く必要がないだろうと、思うからだ。

ならば、私独自の視点で、何を書くことができるだろうか。そこ
で、私は、映画のなかで、さまざまな「関係」が、連鎖している
ことに気が付いた。娘を軸に置く。離婚した父・母と娘。再婚し
た母と娘、相手の再婚夫と連れ子の息子(軸となる娘から見れ
ば、義父と義弟)。離婚して出戻り、再婚に失敗して出戻る母と
祖母と弟(軸となる娘から見れば、叔父)と婚約者(後の嫁)の
住む実家と同じアパートに住む娘の幼馴染みの一家(仲の良い父
母と息子)。彭小蓮監督は、そういう関係の連鎖を言葉ではな
く、映画らしく、「構図」の工夫で、静かに提示する。ぼやっと
して観ていれば、きっと、見逃すだろう。そういう淡々とした画
き方だが、気が付いてしまえば、かなり、しつこく、構図にこだ
わってカメラを据えていることが判る。これは、彭小蓮監督のこ
だわりなのか、撮影の林良忠(リン・リャンチョン)のこだわり
なのかは、知らないが、最終的には、監督の判断だろう。つま
り、構図の巧さには、唸った。

例えば、こうだ。「大状況」の上海という高層ビルの林立する大
都会と旧市街地の老朽化した住宅群(ほとんどが、安アパート)
という、都市と住宅の描き方は、それほどでもない。川があるか
ら、橋が多い、川端の公園と住宅との対比。これも、常識のう
ち。まあ、大状況は、ドキュメンタリータッチで、それほどでも
ないが、これに、人間関係が絡むと、構図は、一変する。この監
督は、構図を「ドラマ性」に変貌させる魔法の力を持っている。

まず、狭いアパートの居間で、離婚の話合いをする父母と娘の構
図の取り方が巧みだ。3人で気まずい夕食。涙を流す母。起こり
出す父。始まった夫婦喧嘩に嫌気がさし、カメラの手前の部屋に
引き込む娘。一旦、ドアが閉められるが、父母の喧嘩に気が気で
はない娘が、ドアを開け放つ。父母の喧嘩に焦点が合う場面が続
く。空いていたドアに気付いて一旦、父が閉めたドアが、再び、
娘の手で開けられる。離婚話がこじれると、焦点は、ドア手前の
隅に入て、父母の話に聞き耳を立てている娘に合う。ぼやける遠
景の父母。離婚話が進む父母に、表情の変化をする娘の顔を長廻
しするカメラ。ズーム以外は、腰を据えたカメラアングルが見事
だ。

家出をする母と娘。狭いアパートの左側の部屋には、ぽつんと放
心状態の父がいる。右の部屋では、引っ越しをする母娘。さっさ
と、荷物をまとめて出て行く母親。父への未練を振り切れずに、
うろうろする娘。それでも、娘に言葉ひとつ掛けてやれない父親
の体たらくに娘は、憤然と立ち去る。殆ど科白もないシーンだ
が、巧みなカメラアングルは、言葉の、何十倍もの意味を込め
て、観客にメッセージを伝えて来る。

さらに、母の実家に出戻ったシーン。祖母と孫娘のやり取りなど
が、老朽化したアパートの狭い玄関の場面、開け閉めするドアな
どで、巧みに描き出されて行く。科白より、映像の方が、遥かに
雄弁だと言うことを知り尽した映画監督の面目躍如の場面が、随
所にちりばめられている。再婚した夫と義理の息子の元から逃げ
出す母娘。立ち去る安アパートの階段と廊下は、どう言うわけ
か、廊下に出てから、右の階段を降り、ひとつ下の廊下を右から
左に横切り、次に、左の階段を降り、さらに下の廊下を左から右
に走るという母娘、それを追う義父というシーンが、続く。

このように、「上海家族」では、さまざまな家族たちという関係
の円が、互いに、重なりあい、連鎖しあう。その、文章にした
ら、いろいろ説明を要する内容を彭小蓮監督は、きちんと決めた
カメラアングルで、いとも易々と表現する。それほど、この構図
の取り方には、計算され尽した巧さを感じさせる。

自立を決意して、家を出て、バスに乗る母。雑踏の下町のバスの
停留所。混雑した道路を行くバスの車中に入る母。そのバスを自
転車で追う娘。ドラマと言うより、ドキュメンタリーの手法で描
き出される映像は、観客が、よほど、眼を凝らしていないと、
「ドラマの主人公たち」を見逃してしまう。そういうドキュメン
タリーに埋没したドラマのシーンが、ジクソーパズルのピースの
ように、あちこちに隠されているから、観客も、真面目にスク
リーンを観ていないと見逃す。群像と主人公の関係は、都市と住
宅の関係を象徴する。

離婚した父親が売った自宅の代金を半分貰い、母娘だけの、「老
朽化した新居」を初めて勝ち取ったシーンは、感動的だ。背景の
近代的な高層ビル。手前の貧民窟と思える老朽化した住宅群。そ
の中の一室に辿り着く母娘。窓の外に見える河口に近い水辺の風
景。数日後、室内を精一杯飾り立てた母娘の「城」。窓の外に見
える河口に近い水辺の風景も、室内の華やぎを反映するように、
美しく見える。従来の家族関係を断ち切り、自立した生活を始め
た母娘の将来に祝福あれ!!
- 2004年4月1日(木) 21:12:56
3・XX  雨の降る夜に、東京・赤坂にある東京全日空ホテル
で開かれた第25回松尾芸能賞授賞式と祝賀披露パーティに招待
されたので、参加して来た。ここ10年近く、毎年、招待されて
いるが、去年までの3年間、地方勤務だったので、その間の授賞
式は、欠席している。今回は、大賞が、俳優の仲代達矢、優秀賞
が、俳優の金田龍之介、歌舞伎役者の中村東蔵、俳優の池畑慎之
介、邦楽の中島靖子、特別賞が、狂言の野村又三郎、作曲家の只
野通泰、歌手の八汐亜矢子、新人賞が、宝塚の安蘭けい、舞踊の
西川箕乃助。

この授賞式では、式の後のパーティで、6年前に大賞受賞の中村
雀右衛門と立ち話をし、当時、出版されたばかりの「女形無限」
を読んでいる最中で、パーティの会場にも、読みかけで、持って
いたので、署名をしていただいた。雀右衛門の達筆は、さすがだ
と思った。ここで見掛けた歌舞伎役者では、松本幸四郎、仁左衛
門になる前の片岡孝夫、澤村田之助、市川左團次、片岡秀太郎
(大阪の自宅に強盗が入り、被害にあった直後であり、それを交
えた挨拶をして、会場を笑わせていた)、亡くなる前の(当たり
前か)河原崎権十郎、中村橋之助、市川染五郎、市川猿弥などが
いる。ほかには、人形浄瑠璃の人形遣いの吉田玉男、吉田簑太
郎、俳優の島田正吾、平幹二朗、藤山直美、寺島しのぶ、落語の
桂米朝、狂言の茂山千之丞などを見掛けている。

このうち、こちらから話をしたのは、雀右衛門だけだったが、今
回は、加賀屋さんと立ち話をした。東蔵さんは、3月は、歌舞伎
座・夜の部で「大石最後の一日」に出演し、お目付役で、大石等
への同情を滲ませる良い役どころの荒木十左衛門、同じ夜の部の
「義経千本桜」では、何度も演じている若葉の内侍の役であっ
た。4月の歌舞伎座の出演は無し。趣味で絵と書をするので、そ
の話をしたが、照れくさそうであった。始終、にこにこした人
で、口数は少ない。こちらから、加賀屋さんが舞台に出ていると
芝居の奥行きが深くなると、日頃から私が思っていることを申し
上げたら、嬉しそうに笑っておられた。持っていた携帯電話で記
念写真を撮らせていただいたが、「^_^」した表情が、良く取れ
ている。背景には、授賞式の舞台の様子も看板も構図にきちんと
入っていて、良い写真だと思った。京屋さんのときは、まだ、カ
メラ付きの携帯電話など持っていなかったので、写真は、ない。
達筆の署名本が残っている。
- 2004年3月31日(水) 21:45:00
3・XX  土曜日の地下鉄新宿御苑駅は、新宿御苑の花見客と
思われる家族連れ、若いカップルなどで混雑していた。ホームか
ら改札口、そして出口への長い列に付きながら移動する。出口を
出てしまえば、こちらは、青年劇場のウイークエンドシアター、
要するに週末を青年劇場の稽古場という小さな空間で公演される
演劇鑑賞なので、花見客の行列と、さっさと別れて別方向へ。

青年劇場の稽古場近くに太宗寺という寺があり、その境内にある
桜が、満開に近い。ちらっと見て、ビルの地下にある青年劇場の
稽古場小劇場に入る。今回は、自由席。舞台には、桜ならぬ紫陽
花が咲いている。小山祐士原作、松波喬介演出「雨の庭」は、紫
陽花の季節が舞台だ。1941年12月に勃発する太平洋戦争前
夜の、1940(昭和15)年6月から7月にかけて、東京・山
の手の女流劇作家の家の茶の間で芝居が、進行する。中国への侵
略戦争は、すでに泥沼化している。国家による国民生活のあらゆ
る面での統制も強化されて来ている時代だ。小山祐士は、「男を
書くとどうしても時局便乗劇になりがちな気がして女ばかりの戯
曲を書いた。物を書くのがむずかしい時代であった」と後に回想
しているという。

登場人物は、6人。全員が女性である。茶の間の主で、劇作家の
阿部滝子、同居している滝子の義妹の野枝(夫で滝子の弟は、前
年、ノモンハンで戦死している。いまは、残された子どもを育て
ながら、洋裁で生計を立てている)、滝子の妹で左翼画家と結婚
している渋川くら、くらの知り合いで、新劇女優志願の段原まみ
(滝子は、夫と子どものいるまみの女優志願には反対する。くら
は、暗い時世を超越して、己の夢を追い掛け続けるまみを応援し
ている)、少女小説家の波多米子(野枝に洋服を仕立ててもらっ
ている)、波多の友人で段原の夫(一ヶ月後、赤紙=召集令状が
来る)と不倫をしている友宗(波多は、不倫をする友宗を非難し
ている)。

女性たちの日常的な会話のやりとりを聞いていると、その背景に
「男たちの時代」が浮き上がって来る。「男たちの時代」は、ま
た、当然のことながら、「女たちの時代」を規定している。長引
く戦争は、さらに袋小路に向かっているようで、だんだん、息苦
しくなる時世。そういう時世でも、自立への希望を持っている女
性たちの姿は、鮮やかな紫陽花の花のようだ。舞台に出て来ない
男性たちは、時代といっしょになって女性たちの希望を挫折へと
導く。それは、まるで、紫陽花に降り注ぐ雨のようだ。一ヶ月
後、茶の間に面した庭には、雨が降り続く。紫陽花が雨に濡れ
る。巧みな会話のやりとりで、当時の女性たちの風俗を描いて行
く。小山の作劇術は、巧みだ。松波喬介の演出は、いつものよう
に、手堅く、メリハリが効いている。

女優たちの科白には、何人か、科白を言い直すなど、科白が板に
付いていない場面もあったのは、科白劇が、主体の芝居だけに残
念。しかし、ベテランの女優陣が、重厚な演技を見せた。なかで
は、まみを演じた重野恵が、巧い。まみの人柄を象徴する「頭か
ら抜けるような」(金切り)声も、リアルであった。重野は、以
前に吃音の女性役を演じたときも、巧みであった。時代を超越す
る女性。時代に翻弄される男性に代わる役割を小山は、まみに託
したと思われる。

64年前の戦争前夜の芝居は、平和憲法という人類の英知をない
がしろにして、イラク戦争への自衛隊の派遣、憲法改悪の動きへ
の傾斜など、あらたな戦争前夜の色合いが、いちだんと濃くなっ
てきた現代日本に、紫陽花の花と雨という形で、静かに、しか
し、ハッキリとした反戦のメッセージを託して警鐘を鳴らしてい
る。
- 2004年3月28日(日) 15:00:31
3・XX  Rさんへの手紙。「枕と噺〜人生と藝〜」

Rさん、御一門の東京での旗揚げ公演無事済みましたね。ご苦労
さまでした。「裏方も兼ねてやってましたので、終わった時には
もうくたくたでした」と早速、メールで知らせて下さったよう
に、あなたが、東京での「笑福亭鶴光一門会」の公演では、弟子
のなかでも、軸にならざるをえない立場でしょうから、まあ、頑
張るしかありませんね。でも、「くたくた」になるほど、頑張れ
ば、気持ちも良いでしょう。いずれ、落ち着いたら、「ご苦労さ
ん会」をやりましょう。

6年前、私の職場でアルバイトをして下さったころ、報道局とい
う職場のアルバイトのせいか、卒業後の就職先に、私の職場を含
めて、マスコミ志望のアルバイト仲間が多いなかで、実は、就職
をせずに、落語家に弟子入りしたいとあなたから知らされ、吃驚
したのを、きのうのように思い出します。まあ、その後、音沙汰
もなく、無事、落語家になったのか、それとも、「落伍者」に
なってしまったのかと、気にしながらも、数年が経過してしまい
ました。そして、突然、転勤先の地方の職場に電話があり、無
事、落語家になって、高座にも上がっていると知らされました。
多忙などの理由で、すぐには、高座のあなたを観に行けなかった
けれど、私も、東京の職場に戻り、今回の御一門の東京での旗揚
げ公演の舞台を観ることができて、ほんとうに良かったと思いま
す。

私は、記者になって、最初に赴任したのが、30年以上も前の大
阪では、東京のような落語のための寄席がなく、漫才に押され
て、落語家は、肩身の狭い思いをしていました(いまも、相変わ
らず、寄席がなく、上方落語は、大阪でも、いまも、肩身の狭い
思いをしているようですが)。でも、私が、記者活動を始めた
頃、大阪船場の島之内という地区(まあ、大阪のど真ん中でしょ
うか)にある島之内教会の礼拝堂に畳を敷き詰めて、俄寄席を作
り、上方落語の会を定期的に開く活動が始まりました。私も、記
者として、取材をし、テレビのニュースに仕立てて、全国向けに
放送したのを覚えています。当時、上方落語界の重鎮は、あなた
の師匠の笑福亭鶴光(以下、皆さん、敬称略でお許し下さい)の
師匠の六代目笑福亭松鶴、桂米朝で、軸となっていたのが桂小文
枝、桂春団治あたりでしょうか。桂三枝、笑福亭仁鶴、小米(後
の、人気落語家・枝雀)などは、まだ、若手でしたね。島之内寄
席では、いまや、人気の笑福亭鶴瓶などは、落語をしていたとい
うより、呼び込みかなんかしていたような気がする。最若手でし
たね。まあ、大昔のことです。

さて、Rさん。今回のあなたをふくめた高座(「鶴光一門会」と
言っても、大阪在住の弟子は、1人、師匠をふくめて東京在住
は、3人)の感想は、ここでは、省略するとして(また、別の機
会にということで)、皆さんの落語を聞いていて感じたことを簡
単に書き留めておきたいと思います。

○ それは、まず、「枕」と「噺」の関係です。「噺」は、当然
のことながら、「藝」です。古典落語の場合、江戸(あるいは、
東京)落語も、上方落語も、同じで、先人たちが磨き抜いて来た
噺を、いかに、きちんと語るかということでしょう。しかし、
「枕」は、「藝」であると同時に、あるいは、極端に言えば、藝
と言うよりも、話者(あるいは、演者)の人生を表現するもので
しょう。その人が、持っている知識、体験など(つまり、人生そ
のもの)を巧く滲ませながら、観客を現実から噺の世界へ導く機
能を持っている、能で言えば、「橋懸かり」であり、歌舞伎で言
えば、「花道」の役割を果たす装置です。「噺」とは、話者の頭
のなかにあるイメージを、そのまま、聞き手の頭のなかに移し替
えるメディアです。聞き手に伝わる、本筋の「噺」をくっきりと
したものにするためには、この「枕」で、どれだけ、聞き手に気
付かれずに、伏線を敷き、補助線を引き、という作業ができるか
どうかに懸かっていると私は、思っています。教養がありなが
ら、教養を感じさせない「枕」を、いかに語るかは、まあ、人生
の達人にならないと難しいかも知れませんが、「枕」には、
「噺」よりも怖い魔物が棲んでいます。そういう意味で、「枕」
の秀逸な落語家、落語界のきっての教養人として思い浮かべよう
とすると、私の脳裏には、古今亭志ん生が、浮かんで来ます。ま
あ、そういうイメージの関係が、「枕と噺」の関係だと私は思っ
ています。

ところで、あなたの師匠の鶴光さんが、あなたを紹介しながら、
東京の落語芸術協会の「二ツ目」(02年7月昇進、このとき、
入門4年でしたね。まもなく、入門6年ですか)で、「真打ち」
まで、通常、15年懸かるそうだから、「あと、10年」と言っ
ていましたね(因に、上方落語の世界では、「真打ち制度」は、
ないとも)。16年と言えば、私などは、「あ、あ、十六年は、
一昔。あ、ああ。夢だ。夢だあ」という、「熊谷陣屋」のなか
の、熊谷直実の科白が、浮かんでしまいます。そこで、魔物が棲
む「枕」の充実のために、私が描く落語家の成功への道を書いて
おきたいと思います。

○ まず、Rさん。あなたも言っていたように、師匠をまねる。
師匠の噺をまねる。教えてくれないことは、盗む。藝を盗む。い
ろいろな噺を覚える。先達の藝に学ぶ。まあ、こういうことは、
落語家ならば、誰でもやっていることでしょう。次に、大事だと
思うのは、ほかの芸能を学ぶということです。特に、さきほど、
触れた歌舞伎、あるいは、人形浄瑠璃(上方では、「文楽」と言
います)を学ぶと良いと思います。歌舞伎と落語は、三遊亭圓朝
に象徴されるように共通の演目がある、というか、圓朝原作の人
情噺、怪談噺が、歌舞伎に仕立てられている。落語が、歌舞伎に
なっている。雷門助六などは、「芝居噺」を売り物にして、落語
に芝居(つまり、歌舞伎、人形浄瑠璃)の演出を取り入れてい
る。確かに、役を演じるという意味では、歌舞伎役者も、落語家
も同じです。しかし、このサイトの「遠眼鏡戯場観察」(04年
1月歌舞伎座)の「芝浜革財布」のところで、触れたように、同
じストーリーの噺が、歌舞伎と落語では、恰も、凹凸のように、
歌舞伎では、メインになるが、落語では、簡単に片付けられる、
また、逆に、落語では、メインになるが、歌舞伎では、サブに廻
るなど、演出の力点が、まったく、異なるというあたりが、芝居
と噺の違いでおもしろい(詳しくは、「遠眼鏡戯場観察」に譲り
ます)。そういうように、歌舞伎と落語の類似、相違を知るの
も、「枕の魔物退治」にすこぶる有効な気がいたします。特に、
今回、久しぶりに上方落語を生で拝見して、思い出したのは、江
戸落語より、上方落語の方が、歌舞伎に近いという印象です。つ
まり、歌舞伎なら、「附け打ち」というんですが、舞台上手で、
大道具方が、座り、バタバタと「附け」を打ち、役者の演技にメ
リハリをつけますが、上方落語でも、話者と聞き手の間を遮る
「板」(名称を忘れました)を打ちますね。江戸落語には、ない
演出です。また、「はめもの」という音曲を噺の効果音として、
積極的に使うのも、上方落語の演出ですね。それから、今回の公
演で、まず、「口上」がありましたけれど、師匠の鶴光さんから
して、口上の調子が、もう、ひとつだったけれど、「口上」のハ
イライトは、歌舞伎役者ですね。まあ、そういうことを学ぶ意味
でも、上方落語の落語家は、歌舞伎や人形浄瑠璃など、ほかの芸
能を学んで、自分の藝に活かすことが、必要だろうと思うので
す。歌舞伎は、「入場料が、高い」からって、言うんですか。歌
舞伎座の4階席という自由席、つまり、「幕見席」なら、800
円か、1000円で、1演目見ることができます。

3/29(月)に「お江戸日本橋亭」(地下鉄「三越前」駅近
く)で開かれるあなたがたの「根多下ろしの会」の木戸
(1500円)とは、お仲間のうちの料金でしょう。まあ、「根
多下ろしの会」も、盛況を祈願しますが、歌舞伎の幕見席にも、
足をお運び下さい。

Rさん。次は、三越前か、歌舞伎座前あたりで、差しで、一献
と、行きましょうか。またの、拝眉を愉しみに。

***忘れずに:「根多下ろしの会」に御関心のある方は、電話
してあげて下さい。

03(3428)5258(里光)
- 2004年3月10日(水) 22:30:14
1・XX  2・21から東京・神保町の岩波ホールでロード
ショー公開されるクルド人のバフマン・ゴバティ監督作品「わが
故郷の歌」の試写を観た。イラン映画は、いくつも観ているが、
イランとイラク国境を舞台にした映画は、初めて観た。この映画
で特徴的なのは、3つの対比があることだ。1)イラン・イラク
国境の景色の美しさと荒涼とした厳しさという対比。これは、映
像でくっきりと描き出される。2)困難な生活環境を喜劇的な笑
いで逞しく生きる人たち。困難と笑いの対比。これも、音楽と明
るく暖かなカメラアングルで描き出される。3)音楽を破壊する
のは、空爆で投下される爆弾による破壊だ。これは、一度だけ、
炸裂する居住区の映像で紹介されるが、ほかは、しばしば、映像
に被さって来る軍用機のごう音と音楽との対比で描かれる。

クルド人は、国家がない。クルド人は、中東の山岳地帯に住む先
住民族だが、クルド人の住む地域は、「クルディスタン」と呼ば
れる。この「クルディスタン」を地図で見るとトルコ、シリア、
イラク、イランに分断されているのが判る。人口は、3000万
以上と言われている。例えば、2230万のイラクの人口より多
い。

この映画は、1980年〜88年のイラン・イラク戦争で、戦場
になったクルディスタンのイラン・イラク国境地帯の停戦直後の
状況を描いている。ここでは、88年夏の停戦を前に、3月に
は、サダム・フセインが、イラン軍に占領されていたクルド人居
住区に化学兵器が投入され、5000人以上のクルド人が殺さ
れ、1万人以上が負傷したという。映画でも、空爆で破壊される
様子が描かれ、化学兵器で声や身体を傷つけられた人たちが登場
する。さらに、8月20日の停戦発効後、イラク国内のクルド人に
対しても、化学兵器を含む大規模なゲリラ掃討作戦も展開され、
10万人以上のクルド避難民が、トルコやイランの国境地帯へ逃
げ込んだという。宗教、民族の違いと政治的な思惑から、サダ
ム・フセインは、自国内のクルド人に対して、虐殺行為をとった
ということになる。

この映画では、そういう時期のイラン・イラクの国境地帯に住む
クルド人の生活を描いているが、物語は、この国境地帯に駆け落
ちした元妻の「苦境」(つまり、この苦境は、イラク軍によるク
ルド人居住区への攻撃によって引き起こされている)を伝え聞い
たイランに住むクルド人の有名な老歌手が、同じミュージシャン
の二人の中年息子をつれて、元妻に救済の手を差し伸べようと国
境地帯へ向かう旅として描かれる。当初は、イラン国内での難民
キャンプなどを訪ねながら、難民慰問のために陽気なクルドの歌
を披露したり、結婚式を巡る騒動(果ては、結婚式の新婦に横恋
慕する男と新婦の父親の間で銃撃戦が起こるほどの「騒動」)に
巻き込まれたり、警察官を装った強盗に身ぐるみ剥がれたり、と
いう珍道中であるが、途中から、山岳地帯に入り、画面が、茶色
の世界から、雪深い白の世界に入る辺りから、荒涼とした国境地
帯に入って行く。

当初、乗っていた息子自慢の補助車付きのオートバイを強盗に奪
われてからは、トラックにしがみついてのヒッチハイクになった
り、徒歩になったり苦労して、国境を越え、最後は、老歌手一人
で、イラク側のクルド人難民キャンプに辿り着き、イラク軍の化
学兵器で声も顔も傷つけられたという元妻には、逢えなかったも
のの、元妻と駆け落ちしたミュージシャン仲間の男の遺体を埋葬
し、二人の間にできていた幼い娘を引き取って、再び、山岳地帯
の雪の国境を越えて、イラン側に戻って来る。中年の息子たちの
うち、一人は、息子欲しさに、7人の女性と結婚をし、11人の
女の子を誕生させていた。旅の途中までは、無理矢理旅に連れ出
した父親を呪っていたのが、難民キャンプで働く女性教師にプロ
ポーズした際、結婚の申し込みは、断られたものの、戦争孤児の
男の子を養子にする方法を教えられ、二人も息子ができて喜ぶよ
うになるなど喜劇的なタッチも忘れない。

そういう意味では、この映画は、困難をものともせずに、それを
笑いや陽気な歌に昇華させるクルド民族の逞しさをきちんと描い
ている。それと、いかにも映画らしい特徴は、厳しくも、美しい
イラン・イラク国境地帯のクルディスタンの風景の美しさだ。と
きどき、荒涼とした世界にも関わらず、美しい絵葉書のような風
景を見せてくれる。茶色の世界も美しい。白い世界も美しい。そ
して、陽気な音楽と陽気な人たちの表情をバフマン・ゴバティ監
督は、ふんだんに入れてみせる。この美しさと滑稽さを壊すの
は、空爆による居住区への攻撃や何度も繰り替えされる軍用機の
飛ぶごう音だ。特に、音の使い方が巧い。音楽対ごう音の対比が
絶妙だ。軍用機が姿を見せない空爆の音は、映像と音の対比とい
う優れて映画的な手法で成功していると思った。クルド人の男た
ちは、皆、立派な体格をしている。そして、陽気だ。クルド人の
女たちは、皆、美しい。そして、聡明だ。クルド人の子どもたち
は、皆、明るい。クルドの国土は、荒涼としたなかにも、逞しい
美しさを持っている。それが、今回のイラク戦争でも、又、迫害
を受けている。そういう新たな状況のなかで、この映画は、ロー
ドショー公開される。この映画の明るさは、困難な生活でも笑い
を忘れない、陽気で、明るいクルド民族の希望を描いているから
だろう。間もなく、36歳になる若いバフマン・ゴバティ監督
は、なかなか、強かな力量の持ち主である。
- 2004年1月29日(木) 22:24:30
1・XX  岩波ホールで上映中の映画「美しい夏キリシマ」
(黒木和雄監督作品)を観た。「美しい夏キリシマ」が、03年
度キネマ旬報国内映画ベストテンの1位として発表された直後で
もあり、場内は、込んでいた。相変わらず、中高年の観客が多い
が、こういう映画は、若い人たちに見せたい。岩波ホールは、若
い人たちを惹き付ける必要がある。因に、「キネ旬」のベストス
リーは、2位が、「赤目四十八瀧心中未遂」、3位が、「ヴァイ
ブレ−タ」。黒木監督は、日本映画監督賞を受賞。主演の柄本佑
は、新人男優賞受賞。柄本佑は、俳優・柄本明の息子。

さて、「美しい夏キリシマ」は、本当に美しい農村風景が描かれ
た作品であった。黒木監督の故郷を舞台に、監督自身の少年期を
描いた自伝的作品。去年の岩波ホールの忘年会には、黒木監督も
出席されていたが、その時点で私はまだ、「美しい夏キリシマ」
を観ていなかったので、黒木監督と話をする機会を逃した。観
終ったいまなら、いろいろ話し掛けたいことがある。映画を観
て、いろいろ気がついた点はあるが、ほかの人が指摘している点
は、省きたい。そこで、3つの観点から、私なりの批評をまとめ
たい。

1)時代状況を二重写しにしている。
映画では、1945年8月の宮崎県霧島が舞台。中学校に通うた
め、当時の満州(いまの中国東北部)にいる家族と別れて、父親
の故郷の祖父の元で暮らしている少年・日高康夫(柄本佑)。5
月に学徒動員先の都城の工場で空襲に遭い、同級生を多数死な
せ、そのショックで、体調を崩してしまい、自宅療養している。
霧島高原の遠い山並を掠めるように米軍機グラマンの大編隊が飛
んで行く。自転車に乗った少年は、遠い空の大編隊を気にもせ
ず、自転車を走らせている。鍼灸院に治療に通っている。大編隊
も、少年にとっては、「遠い雷鳴」ほどの関心も引かない。ま
ず、このシーンが、象徴的だと思った。映画は、おととし、02
年に完成している。上演は、03年暮れから04年初め、つま
り、04年の岩波ホールの正月作品として公開された。その橋渡
しを、この映画の音楽を担当した作曲家の松村禎三さんが、岩波
ホールの総支配人・高野悦子さんにしたという。従って、この映
画は、自主制作の作品で無ければ、04年より、早く上映されて
いたかもしれないが、04年1月、自衛隊のイラク派兵の、この
時期に公開された意味が大きいと思う。遠いイラクに自衛隊が、
派兵される。それは、私たちにとって、「遠い雷鳴」であり、近
付いて来る雷鳴であるからだ。

「遠い雷鳴」は、インドの映画監督サタジット・レイが、
1973年に完成させた映画で、日本では、岩波ホールで、
1978年に公開されている。遠い雷鳴とは、映画で描かれる
1970年代のインドの日常生活に遠くから響いて来る戦争の足
音だった。インド・パキスタン戦争は、1971年11月28日
にインド軍が東パキスタンに侵攻し、1972年7月3日にイン
ド・パキスタン平和協定が締結されるまで、続いた。つまり、
「遠い雷鳴」とは、近付いて来る戦争を暗示していた。グラマン
の大編隊にも無関心なほど戦争が、身近になってしまった少年の
心の荒び。イラク戦争という遠い雷鳴の接近にも拘らず、心が荒
んでいるいまの日本の現状。そういう時代状況に向けて、この映
画は、04年正月映画として公開された。02年の完成であり、
構想、制作は、当然のことながら、それ以前だから、イラク派兵
の時期を見据えての公開では無かっただろうが、結果論として、
この時期に「戦争とは何か」「平和な日常とは何か」と、私たち
に問いかける映画が、タイミング良く公開されたことになったと
思う。

1930生まれの黒木和雄、1929年生まれの鷹野悦子、松村
禎三という、3人の同世代の人たちが、この映画の制作、公開に
関わった意味合いが大きいと思う。つまり、戦争時代に多感な青
春期を過ごした3人からのメッセージを、この映画は、伝えてく
れる。戦争は、悲惨なだけだ、二度と戦争を起こしてはならな
い、というメッセージだ。そういう意味では、戦争を正面から描
いてはいないけれど、青春時代に体験した時代状況の事実を思い
起こし、そのディテイルを丹念に描いて行くことで、事実の描写
の上に真実の思いを重ね、それが、明確な反戦のメッセージを観
客に伝える。そう、この映画は、明確な反戦の意志を提示した映
画なのだ。映画を観た私たちは、このメッセージを多くの人、特
に、若い人たちに伝えなければならない。1945年の夏と
2004年の冬。そういう時代状況を、この映画は、二重写しに
していると思った。

2)少年と女たちと戦争と・・・。
この映画は、当時15歳の少年の屈託と憂鬱の日々を描く。少年
の周りでは、戦争が日常化している。遠く山並を掠めて行き来す
る米軍のグラマン大編隊。ソ満国境より転戦し、本土決戦に備え
て霧島に駐屯している日本軍の兵隊たち。そういう日常のなか
で、日高家に関わる女たちの日常生活が、丹念に描き出されて行
く。この映画に登場する女性たちは、まず、嫁いで行った日高家
の娘たち(少年の母も含まれる)。また、従兄弟やおごじょ(お
手伝い)の女性とその家族。少年にとっては、「おばさんたち」
という年齢の女性たちと従兄弟や若いおごじょという同年齢の少
女たちとふたつに分けられる。そして、おばさんたちは、特に、
「性」を通じて描かれる。夫が戦死したため(後に、手紙が来
て、生きていることが判る)、娘を日高家のおごじょに出してい
て、息子とふたりで暮らしているが、男手が無いために、生活が
できず、近くに駐屯している兵隊に売春をし、その代償として、
軍需物資を盗んで来る兵隊から缶詰などを貰っている宮脇イネ
(石田えり)。日高家のふたりのおごじょのひとりで、少年の祖
父と性関係があるらしい藤本はる(中島ひろ子)は、やがて、傷
痍軍人で、性的不能の男のところへ嫁に行く。しかし、その男性
の気持ちの優しさにはるは、だんだん、惹かれて行く。そういう
女性たちの日常が、迫りくる本土決戦という遠い雷鳴のあいま
に、淡々と描かれて行く。また、従兄弟や若いおごじょの少女た
ちと少年の間では、思春期の男女らしい、淡い恋心が生まれてい
る。戦争の時代の日常生活が、少年と女性たちの視点で丹念に思
い出され、掘り返され、ひとつひとつを積み重ねるように描かれ
て行く。日常生活を描くという手法で、反戦というテーマが、静
かに語られて行く。時代状況の二重写しは、こういう日常生活を
丹念に描くという手法で、静かに、しかし、強靱に観客の眼に焼
きつけられる。この映画の表現の優れている点は、ここにこそあ
る。少年期の性への関心の強さが、女性たちのさまざまな性への
思いのある日常に焦点を当てた結果だと思う。

3)死と復活。
この映画の、もうひとつのテーマは、「人間は、生まれ変わるこ
とができるか」ということだろう。11人の中学の同級生たちを
学徒動員先の工場の空襲で亡くした黒木監督。特に、無二の親友
で沖縄出身の石嶺を爆死させたが、その最後を見取ってやれず、
怖くて逃げてしまったという悔いが、70歳代になったいまも残
る(トラウマとなっている)。そういう死ぬまで引きずって行か
ざるをえない思いが、黒木監督にはある。「死とは、なにか」
「生き残るとは、なにか」。それが、少年の部屋の壁に飾られて
いるカラヴァッジオ描く「キリストの埋葬」という、一枚の絵に
象徴される。「復活」を宗教の原理としたキリスト教。

しかし、爆死した親友たちは、甦らない。カラヴァッジオの「キ
リストの埋葬」という絵と聖書を貸してくれたまま、死んでし
まった石嶺は、復活しない。ショックで体調を崩した少年の思い
も、甦らない。少年の視線は、「キリストの埋葬」を描いたカラ
ヴァッジオの視線と重なる。つまり、埋葬されるキリストを墓穴
のなかから描く画家の視線と同じように、少年は、世界を下から
眺める。石嶺の妹が少年尾近くにいる、遠い親戚宅という、少女
の避難先を訪れたときのように、屋根の上に昇ったまま、日がな
一日亡くなった兄を思っている妹と、少年は屋根の下からの視線
で対話をする。その妹から兄の仇をとってくれと言われて、自宅
の竹薮に穴をほり、穴のなかに引き蘢り出した少年の、穴からの
視線は、いつか、カラヴァッジオの「キリストの埋葬」を描く視
線に重なっている。そこには、戦争の日々から、生まれ変わりた
いという少年の思いがあるようだ。しかし、少年は、生まれ変わ
るどころか、戦時中は、軍旗に敬礼しなかったと言って、憲兵に
暴行されても、反抗的な態度を崩さなかったのが、敗戦後、進駐
軍が来ると、竹薮を飛び出し、竹槍を突き出して、進駐軍の列に
突っ込んで行くという「逆コース」の変化を見せて行く。少年
が、生まれかわれるかどうかは、判らない。

一方、女性たちは、どうか。女性たちは、敗戦を境に、生まれ変
わろうとする。例えば、夫が戦死したと思って、食うために、兵
隊相手に売春をしていた宮脇イネは、息子の稔とともに家に火を
つけて、身の回りのものだけをふたりで担いで、どこか、よその
土地に引っ越して行く。イネ:「父ちゃんな、母ちゃんのことを
許してくるっどかい」稔:「・・・どげんかな・・・黙っちょれ
ばよかとじゃなかと・・・」。イネは、生まれ変わったように、
多分、戦後も逞しく生きて行ったことだろう。日高家に残された
イネの娘なつ(小田エリカ)は少年に言う。「私やったち、もう
一度生まれ変わってみたかよ!」

黒木和雄にとって、生まれ変わりの願望は、ずうっと続いてい
て、いまも、模索している途上なのだろう。その生まれ変わりの
願望が、1966年の映画「飛べない沈黙」では、ナガサキアゲ
ハ蝶だったし、今回は、映画の冒頭で、夜の海を渡るアカボシウ
スバシロ蝶なのだろうと思う。そして、蝶は、亡くなった同級生
たちの魂そのものなのではないか。だから、今回の蝶は、三途の
川ならぬ、暗い海を越えて、黄泉の国から戻って来た沖縄出身の
親友・石嶺の霊なのではないか。キリストのようには復活しな
かった親友は、蝶になって、黒木の人生の周りを飛び回ってい
る。蝶という情念の揺らぎが、いまも、黒木和雄に映画を作らせ
ているのかもしれない。そう言えば、蝶の標本は、少年の部屋に
飾ってあったし、竹薮に掘った穴のなかにも飾ってあった。康夫
は、蝶少年であり、黒木和雄少年は、70歳を越えたいまも蝶老
年なのだろう。黒木和雄は、何時の日か、自分自身が、死んで蝶
になる日を夢見ているのかもしれない。空を「飛ぶ」蝶は、沈黙
している。
- 2004年1月15日(木) 6:22:00
12・XX  甥の結婚式に出席した。私には、私の方の兄妹と家
族の姉妹であわせて6人の甥と姪がいる。私の息子をいれると、
あわせて7人の10代から20代の青年男女が私の血縁にいる
が、この甥が、この青年グループで、最初の結婚式を挙げたの
だ。大阪の万博記念公園の近くにあるホテルで行われた結婚式と
披露宴に出席した。ホテルの客室からは、あの「太陽の塔」が見
える。大阪は、32年前から28年前まで、記者として新人時代
を過ごした地域であり、ホテルの場所も、新人時代から、いまの
家族といっしょに生活をした千里ニュータウンも近い場所であっ
たし、往復利用した大阪空港は、当時の出先の職場であった記者
クラブがあった場所でもあり、懐かしい「過去」を思い出す旅と
なった。さらに、結婚式終了後は、家族とともに神戸に行き、旧
友たちと小宴を開き、楽しいときを過ごした。結婚式では、甥の
母親(私の妹)側の親戚を代表して祝辞を述べたので、その草稿
(草稿を元に挨拶をしたが、短かめに刈り込みながら挨拶をした
ので、実際の挨拶とは、内容、表現ともかなり違うが、大意はほ
ぼ同じ)を記念に掲載したい。

「○○さん、○○さん。本日は、おめでとうございます。
窓の外を見て下さい。朝から降っていた雨が上がりました。『雨
あがる』。良い言葉ですね。雨の日こそ、やがて来る晴れの日の
ために、力を貯える時間があります。降り続く雨は、ありませ
ん。必ず、晴れます。きょうのふたりの門出を祝うように(この
あたりは、草稿にはない。即興)。

挨拶は、難しい。作家の丸谷才一のように、挨拶が、いかに、難
しいか。関西弁なら、『むつかしいか』というだけで、一冊の本
を書いてしまいます。挨拶の仕方とは、それほど、大きなテーマ
です。私は、人前で話すのは、慣れています。例えば、ときど
き、講演に招かれて、話をします。講演は、テーマがあり、聴衆
も、テーマに惹かれて話を聞きに来てくださるので、話しやす
い。しかし、結婚式の披露宴は、違います。新郎新婦のどちらか
について、良く知っている人が集まっています。良く知っている
といっても、いっしょに生活をして来た家族のように本当に良く
知っている人もいれば、昔のことは知らないが、最近のことは
知っている。最近のことは知らないが、昔のことは良く知ってい
る。そういう情報の遍在している人たちが、集まって来るのが、
結婚式です。それに、大抵、披露宴のテーブルに座っている人た
ち相互は、初対面という人が大勢いる。そういう人たちの集まり
が、結婚式の披露宴である。例えば、私も、いま司会の方から新
郎の母の兄であるというご紹介を戴いたが、皆さんには、私が何
者かも知られていない。共通の話題もない。普通に生活をしてい
る人が、挨拶をする機会としては比較的多いかも知れない、こう
いう披露宴の場での挨拶が、実は、いちばん難しいのではないで
しょうか。頷いている方もいらっしゃいます。そこで、こういう
場での挨拶の要素を考えてみました。

まず、ひとつ、私の簡単な自己紹介は必要だろう。ただし、自慢
や自分の会社のピーアールは、しない方が、好感が持てる。ふた
つ、新郎新婦との関係、できれば、心温まるエピソードの紹介が
あると良い。みっつ、結婚生活の先輩として、新郎新婦へのアド
バイスがあれば良い。よっつ、また、そのアドバイスが、新郎新
婦だけではなく、披露宴に出席されている皆さんにも、役に立つ
情報であれば良い。ひとつ良いことを聞いた。きょうは、すでに
お酒が入っているので、勘弁してもらって、あすから、実行しよ
うと思うようなことであれば、なおさら良い。この4つぐらいの
要素を考えて挨拶をすれば、新郎新婦だけでなく、見知らぬ出席
者の皆さんにも、好感を持たれるのではないでしょうか。

ただし、スピーチの時間は、短いほど良い。そして、話は判りや
すく。私は、長いことテレビの記者とデスクを仕事としてきまし
たが、難しい原稿も、中学生に判るように書けと先輩に言われも
し、後輩に教えもして来ました。いまでは、中学生の方が物知り
です。小学生でも高学年になると、結構、物知りです。ですか
ら、いまでは、難しいことを、おじいさん、おばあさんにも判る
ように書いたり、話したりするように心掛けておくと喜ばれると
思います。おじいさん、おばあさんというのは、いまでは、65
歳以上?、70歳以上でしょうか。まあ、それは、さておき、ス
ピーチは、この、ふたつが肝腎です。

さあ、挨拶に入ります。自己紹介(略)。

新婦の○○さんとは、初対面ですが、新郎の甥は、私の甥と姪、
私の息子のあわせて7人のなかで、結婚第一号です。余談ですが、
甥と姪という字は、おもしろいですね。「男に生まれて、女に至
る」と書きます。実は、私は、甥の誕生のころと少年のころを
知っておりますが、青年、成人になってからは、知りません。大
人の○○さんは、ほとんど初対面です。ご両親を始め、多くの方
に支えられて、おふたりは、今日まで成長してこられたと思いま
す。心温まるエピソードの紹介もなく、心苦しいのですが、若い
ふたりを支えて下さった皆様に、改めて、感謝を申し上げます。
ありがとうございました。

肝腎のアドバイスです。実は、ことしは、京で発祥し、大坂、江
戸で育てられた歌舞伎の生誕400年の年です。大阪では、「太
閤さん」との関係で、あまり、ピーアールされていないと思いま
すが、実は、ことしは、徳川家康が、江戸に幕府を開いて400
年の年でもあるのです。京で歌舞伎が生まれたころ、家康さん
が、江戸に幕府を開いたんですね。そういう記念すべき節目の年
に結婚されたおふたりに、改めて、祝福の拍手を送りたいと思い
ます。

さて、私は、ペンネームで、歌舞伎や映画の批評、エッセイな
ど、ものを書いています。3年前の地方勤務のときから、朝5時
に起きて、ものを書いてきました。ホームページ「大原雄の歌舞
伎めでいあ」も、主宰して、「遠眼鏡戯場観察」という、歌舞伎
の劇評を毎月連載しています(12月の歌舞伎は、13日に、昼
夜通しで拝見して来ました。この日だけ、特別に、役者の歳末
チャリティ−サイン会が、歌舞伎座1階のロビーで開催され、あ
の、睨みの團十郎さんの大きな目で見つめられながら色紙にサイ
ンをしていただいて来ました。サイン会は、開かなかった芝翫さ
んのサイン色紙も買って参りました。勘九郎、左團次、扇雀、東
蔵さんのサイン会は、脇で拝見だけして来ました。素顔の役者衆
も、観察しているとそれぞれ、個性があっておもしろいですね。
さて、目下、劇評執筆中です。近日、「遠眼鏡戯場観察」のコー
ナーに掲載します。待っていて下さい−−大原・注)。インター
ネットで読むことができます。

私の老後は、ものを書くことを生活の軸にしようと思っていま
す。人生には、いろいろな節目があります。結婚も、そのひとつ
です。若いおふたりは、これから、さまざまな局面に立ち会うで
しょう。それらの局面で、的確に対応して、実り多き人生を送
る。そのためにも、できるだけ、将来の局面、状況を予測して、
準備をすることが、大事だと思います。「準備」、「心構え」、
あるいは、「じょそう」という言葉を使っても良いでしょう。走
り幅跳びの「助走」ですね。そういうことを日頃から心掛けてい
ると、本番を迎えたときに楽になります。思う通りにならないの
が人生ですが、思う通りに近付ける努力をするのも、また、人生
だと思います。そのためには、なにごとによらず、来るべき本番
に備えて、「助走期間」を設ける努力を続けることが大事だと、
私は思い、実践もしています。私の、ものを書くという「助走」
も、本番に結び付けられるか、どうか判りませんが、結果を出す
か、出さないか、ということより、結果に結び付けようと、「果
敢にチャレンジする」という気持ちを持ち続けることが大事だと
思っています。必要なのは、なにかをするために、絶えず、「助
走」するという気持ちを持ち続けることだと思います。若いおふ
たりと出席者の皆さんにとって、私の拙い話が少しでも役に立て
ば良いなと、思います。今日(こんにち)は、これぎり。どう
も、おめでとうございました。
- 2003年12月17日(水) 22:13:54
11・XX  91歳の新藤兼人監督作品の映画「ふくろう」を
観る。映画の魅力を知り尽した監督は、物語を単純化させ、判り
やすい映像表現で、連続殺人事件という悲劇を喜劇的に描いた。
1980年の夏。事件は、東北地方の過疎化した開拓村のあばら
家で起きた。最後まで村に残っていた母子が、引っ越して1年
後、廃屋のあちこちで、9人の白骨遺体が見つかった。警察の捜
査では、母子の引っ越しと事件の関係性は、不明という。

しかし、実際は、37歳の母と17歳の娘が、過疎の村で、飢え
に苦しみ、挙げ句の果てに、近くのダム工事の労働者らを相手に
売春をすることを思いつき、売春をしては、金を巻き上げた客や
不明者の捜査をしにきた駐在の警察官らを毒殺していたという連
続殺人を犯していた。

映画が描くのは、省略とデフォルメを駆使した演出だ。まず、飢
えている母子(大竹しのぶ、伊藤歩)の様子から、描きはじめ
る。次いで、売春を思いつき、体を洗い、化粧をする母子。葬式
の幕を切り取って、母のワンピースを作る。開拓団の旗を使って
娘のタンクトップを作る。残されていた貯金箱を土間に叩き付け
て壊し、出て来た2枚の百円玉で、近くのダム工事の現場に電話
を掛けて、売春客を誘う。そして、芋づる式に客たちが来る。売
春をし、金を取り、毒入りの焼酎を呑ませて、次々と殺して行
く。金が入ったので、電気、水道を再開する。そのためにやって
来た男たちも誘惑をして、売春をする。そして、殺す。そういう
母子の犯行を近くに棲むふくろうが見ている。そういう様が、コ
ミカルにデフォルメされて描かれる。映像化しない部分は、会話
の展開で、観客に知らせる。映像的には、完全に省略される。す
べて、そういう演出で映画は進む。映画というより、あばら家を
舞台にした芝居の演出としても、通用する。新藤兼人監督は、今
回、脚本を書き下ろし、美術監督も勤めた。

連続殺人事件は、あばら家を訪れる男たちが、母子を相手に買春
に応じ、寝室に入り、ことが済んで、母子から特別サービスと勧
められる毒入り焼酎を呑んでは、蟹のように泡を吹いて狂い踊
り、やがて、絶命するという形で描かれる。6人は、このワンパ
ターンで死んで行くが、これらの6人を演じるのが、木場勝己、
六平直政、田口トモロヲ、柄本明、魁三太郎、原田大二郎という
芸達者な人たちばかりで、ワンパターンな演技を飽きさせずに見
せる。また、あばら家近くの森のなかで、事件の一部始終を見続
けるふくろうも、芸達者で、緩急自在な映像構成に一役買ってい
る。もちろん、主役の大竹しのぶ、伊藤歩の熱演は、凄まじいほ
どだ(特に、大竹しのぶは、この作品で、03年モスクワ国際映
画祭最優秀主演女優賞受賞)。事件の背景には、戦争で、引き上
げて来た開拓団の歴史がある。母子の連続殺人事件と過疎の村の
戦後史。新藤兼人監督のメッセージは、明確だ。さて、白骨遺体
は、すべてで9体だったはず。残りの3体は、どのようにして出
来たのか。それは、事件の結末とも、絡んでくるが、その事件の
結末とは・・・?。まあ、これは、明かさないのがエチケットと
いうものだろう。04年新春ロードショー公開作品。
- 2003年11月15日(土) 22:20:29
11・XX  歌舞伎なら、同じ演目を二度も三度も観ることは
あるが、一般の演劇で、同じ演目を二度観るというのは、今回が
初めての経験であった。青年劇場公演「銃口−−教師・北森竜太
の青春−−」。新宿での公演を拝見した。1937(昭和12)
年、北海道の炭坑町・幌志内の小学校にひとりの青年教師・北森
竜太が赴任する。良心の尊さを教えてくれた恩師・坂部久哉の教
えを実践しようと、志に燃えた青年教師は、子どもたちに綴り方
を教えることを通じて、自分で考えることの大切さを身に付けさ
せて行く。4年後、そういう綴り方教育を巡って、青年教師は、
突然、治安維持法違反で逮捕される。竜太の行方不明を心配する
旭川の実家・北森質店の人たち。そして、恋人。青年の家族とと
もに心配をして質店に来ていた恩師も、やがて、警察に逮捕され
る。警察が、弾圧して来たのは、良心の尊さを教える、恩師と青
年教師の志そのものであったことが判る。警察で、恩師ともど
も、拷問され、教師を退職するように迫られる。

いまなら、考えられないような、デタラメな時代が、この国に
は、わずか、50年余り前まで、20年間も、治安維持法の下
に、あったのだということをこの芝居は、私たちに突き付けてく
る。退職した元教師のところへ、召集令状が届く。戦場での体
験。文字を知らない上官の伍長に母への手紙の綴り方を教える青
年。そして、朝鮮抗日パルチザンとの遭遇、助命(パルチザンの
隊長が、かって、旭川の実家の質店で働いていたことが判る)、
そして、復員。戦死した伍長の故郷へ上官の最後の手紙を届けに
行く青年は、再び、教師として、人と人の心を結ぶ仕事に就くこ
とを決意する。世界と日本の歴史を踏まえながら、時代状況に翻
弄される質店の家族の姿を青年教師を軸に描く三浦綾子の原作を
舞台化した。

北村竜太役の船津基とその恋人役の重野恵が、若いカップルを爽
やかに演じている。印象に残った役者たち。竜太の父親役の葛西
和雄、竜太の上官・近堂伍長役の吉村直。特に、吉村は、出番は
少ないが、「軍隊での綴り方教室」ともいうべき場面で、この芝
居の本質を示す重要な役柄を演じていると思う。この人は、ほか
の演目でも、味のある傍役を演じていることが多い。

「再び銃口に怯えることのないように」という思いから、「銃
口」という小説を書いたという三浦綾子の思いは、届いただろう
か。自衛隊のイラクへの派遣が、迫っている。与党も野党も改憲
論儀が盛んになっている。憲法も、教育基本法も、危ない状況に
なっている。ふたたび、この芝居で描かれた世界が近付いている
のかも知れない。芝居の内容は、変わらないが、前回、拝見した
ときより、時代状況は、いま、もっと、生臭くなっているように
思える。そうしたなかでの「銃口」の再演である。多くの人に、
この芝居を観てもらい、こういうきな臭い時代状況が、このま
ま、進んで良いのか、是非とも、いっしょに考えてほしいと思っ
た。
- 2003年11月4日(火) 7:02:58
9・XX  青年劇場の第84回公演「キジムナー、キジム
ナー」を新宿駅南口の紀伊国屋書店にある劇場「サザンシア
ター」で拝見。沖縄を舞台に引き蘢りの青年と沖縄の精霊・キジ
ムナーとの心の交流を描いた物語。舞台の上手半分を占領したガ
ジュマルの巨木と物語の家族らが住まう住居の舞台装置が印象的
だ。場面展開毎にこの舞台装置を効率的、効果的に使う演出がテ
キパキしていて、気持ちがよい。高校2年生のときから3年間の
引き蘢り生活を続けているという青年・浜比嘉信一。県庁に勤め
る父親は、東京の一流大学を出ているだけに、息子の引き蘢り
が、弱者の証明のようで、もどかしい思いを抱いている。いろい
ろ意見をするが、それが逆効果になっていることに気づいていな
い。そんな父子を見て、気をもむ母親。台風で停電になった夜
も、父親に説教され、果物ナイフで襖に傷をつけるなど大暴れを
する。台風一過の庭先。台風とともに凶暴な気持ちも行ってし
まったのか、庭に降り立ち、ガジュマルの太い枝にロープを掛け
て、自殺をしようとする信一。ガジュマルに棲みついていると言
われる精霊のキジムナーが、そんな信一に声をかける。「なにし
てんだい」。精霊の世界でも、沖縄でサミットが開かれるという
噺をする奇妙な精霊・キジムナー。そういう噺をしたせいか、自
殺をする気がなくなった信一の所へ信一の部屋で遺書を見つけて
慌てて駆け付けて来た母親には、ガジュマルの木の上にいるキジ
ムナーは、見えないらしい。信一の引き蘢りは、部屋から、ガ
ジュマルの太い枝の上に造った小屋へと続くが、夜毎、キジム
ナーが、小屋に現れるので、信一の気持ちは、だんだんほぐれて
ゆく。弟のことを心配して東京に住む姉も帰って来た。住宅の裏
に住む高校時代の担任とユタである叔母との結婚話が持ち上がっ
たり、12年前にお爺を捨てて初恋の人の所に走ったお婆も戻っ
て来たりなどする話を交えながら劇は進む。キジムナーは、しか
し、信一にしか見えないらしい。やがて、信一の眼にも、キジム
ナーの影が薄くなって来ていることがわかるようになる。信一
が、そう言うと、キジムナーは、奇妙なことを言う。「それは、
お前が、自殺しようとする心がなくなってきたからだ」。心が
弱っている人を助けるためにキジムナーは、その人の眼にだけ見
えるようにして現れるというのだ。

「引き蘢り」は、沖縄だけにある訳ではない。全国的な問題だ
が、沖縄では、地域の精霊・キジムナーが現れて救ってくれる。
この芝居では、キジムナーという沖縄的な情念が、引き蘢り青年
を救う訳だが、キジムナーという沖縄的なものが、ほかの地域に
は、あるのだろうか。あるとすれば、それはなんだろうと考えな
がら、芝居を観ていた。お爺の信造役を演じたのは、「琉球チム
ドン楽団」のボーカル・藤木勇人が客演で参加。藤木は、実は、
「りんけんバンド」などを経て、沖縄音階のオリジナル曲を唄い
演奏している「琉球チムドン楽団」をボブ石原とともに立ち上げ
たマギー儀間でもある。藤木は、マギー儀間として、演奏活動を
続けるとともに、一人芝居と「ゆんたく(トーク)」活動を展開
している。NHKの朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」にも出
演、「ゆがふ店長」役を演じたので、顔を知っている人も多いだ
ろう。演劇のつなぎ的な形や高校時代の担任とユタである叔母と
の結婚式というフィナーレで、「琉球チムドン楽団」の唄と踊り
が賑やかに入る。

キジムナーは、人を襲う悪い奴でもあり、漁師が捕った魚を奪っ
たりもする。藤木によれば、藤木の祖父は、気が狂ったようにお
びえたキジムナーを見た翌日、新聞で関東大震災の報に接したと
いう。キジムナーは、漢字で表現すると「鬼人(きじん)」とで
も、書くのだろうか。キジムナーは、沖縄県内でさえ、地域に
よって、呼び名もイメージも違うという。ならば、多角的なイ
メージのキジムナーは、ほかの地域でも、姿形を変えて存在する
かもしれない。青年劇場の芝居は、全国各地を廻る。廻る先々
で、その地域にとって、キジムナーは、存在するのか。存在する
とすれば、それは、なんなのかを是非とも問いかけてほしいと思
う。

9・XX  モーツアルト原作の「フィガロの結婚」を三軒茶屋
まで観に行く。「オペラシアターこんにゃく座」の公演。林光に
よれば、「モーツアルトは学問をしなかった。そのかわり、世間
という大学に通って学んだ」という。それならば、モーツアルト
は、鶴屋南北に似ている。それが、私の第一印象である。「フィ
ガロの結婚」は、「或いは狂おしき一日」というサブタイトルを
持っている。それを訳&演出の加藤直は、二つの「フィガロ」と
して、つくり出す。ひとつは、「赤いフィガロ」。徹底的にドタ
バタ喜劇にしたという(私は、観ていないので、なんとも言えな
い)。もうひとつは、「黒いフィガロ」。「破廉恥と狼狽をポ
ケットに入れ、国家や制度を破壊へと誘惑する別名婆娑羅」であ
る(私は、こちらのバージョンを拝見)。まあ、こちらも、畢竟
するに、ドタバタ喜劇。それゆえに、今回の劇評は、題して、
「春画周到(しゅんがしゅうとう)」とした。

と言うのは、世田谷区の三軒茶屋にある「世田谷パブリックシア
ター」での公演では、シンプルな大道具(台形と長方形の板、後
は、下手の楽壇の「山台」と上手の、自由な山台か)に、舞台中
央奥のスクリーンのみ。スクリーンには、浮世絵(諸丸出しの男
女の春画)が、逐次投影される。この春画については、全く説明
がないが、「春画」というものは、そもそも、説明に入らない絵
である。その春画を巧く背景に使っているので、私の脳裏には、
早々と「春画周到」という劇評のタイトルが浮かんだと言う次
第。

赤と黒の趣向。鶴屋南北の得意の「綯い交ぜ」(ふたつの狂言を
一緒にする演出)なのか、「てれこ」(ふたつの狂言を交互に並
行して演じる演出)なのか、私は、9月11日の「黒組」の
「フィガロ」しか拝見していないので、詳細は、判らない。しか
し、随所に「工夫魂胆」の加藤直演出は、意図ありありで、光っ
ているので、南北顔負けの趣向と観た。これぞ、「傾(かぶ)く
心」である。南北の芝居では、廻り舞台は、「鷹揚に廻る」もの
だが、今回の大道具も、「シンプル・イズ・ベスト」で、極め
て、「鷹揚」とお見受けした。まして、舞台奥の「書き割り」が
わりに、映し出された映像は、春画そのもの。「春画周到(「春
夏秋冬」。南北が、夏と冬を象徴するとすれば、春画があれば、
後は、「あきない(秋無い、商い)」で、春画があれば、後は、
要らない。まさに、春を謳歌、という舞台。

モーツアルトの「フィガロの結婚」は、加藤直の演出で、「赤と
黒のフィガロ」に変わり、「赤と黒のフィガロ」は、恰も「仮名
手本忠臣蔵」と「東海道四谷怪談」のようなものに変わり、とい
うように、私は思う。「黒組」の「婆娑羅」は、どこまで確信犯
か知らないが、「婆娑羅」は、まさに、歌舞伎の原点、「傾(か
ぶ)く心」そのものだと思う。そう言えば、今回の、終幕近くで
の演出は、「だんまり」の演出と観た。また、ヴェールの取り替
えによる、人違いは、「身替わり座禅」の、あのコミカルさに通
じると思う。

さらに、加藤直の言葉を借りれば、「現在(いま)の世界は 
たった一人のヒーローやヒロイン たった一人の悪漢に思いをこ
める時代ではない。世界は決して一つではない。或いは世界を一
つの価値観に閉じ込めてはならない。無数の現実があることを認
識し そのことにどう興味を持つかが肝心なのだ。矛盾こそ自由
の隣人という訳だ。(略)二つの作品が、お互いに異文化、他人
同士として存在するといい。『こんにゃく座』の撞着・この世界
の混迷を対象化させてみたいのだが」というが、まさに、文化
は、多元的でなければ、文化じゃないと、思っている私として
は、諸手を上げて賛成する。

そういう視点で、世界のものごとを国際政治の劇場として観れ
ば、アフガン戦争、イラク戦争と21世紀の変わり目で起こった
戦争を「主導」しようとするアメリカの「単独行動主義」は、ま
さに、時代状況とは、逆走していることは、誰の眼にも明らかそ
うなのだが、世界の指導的立場にいる政治家どもには、そうは、
見えていないようだから、世の中は、怖い。いま、世界を覆って
いる難題は、北による価値観の押し付けという「南北問題」であ
る。

「フィガロの結婚」は、「伯爵」の、まさに、そういう単独行動
主義への、勝れた批判になっている。「伯爵」の後ろに、「矍鑠
(かくしゃく)」を装おうアメリカの自信の無さげな、姿が、見
えて来た私だけではあるまい。加藤演出で、いちだんと明確に
なったモーツアルトの「多元的価値観」の提示。それこそが、
21世紀のいまも世界が、求めているものだと思う。

「こんにゃく座」の、この舞台は、21世紀の南北誕生を告げて
いる。これこそ、アメリカの価値観とは、異なる視座から眺め
た、新しい「南北問題」である。「南北問題」を解決するのは、
南北(あるいは、モーツアルト)しかいない。

9・XX  先週末に歌舞伎座で、9月の出し物を観た。昼、夜
とも、それぞれ、今回の劇評のキーワードを決めたので、目下、
劇評をまとめつつある。間に、青年劇場とオペラシアター「こん
やく座」の舞台も拝見したので、そちらをまず、アップ。今週中
には、歌舞伎座の劇評もアップしたい。特に、何度も拝見してい
る「河内山」「俊寛」については、違った視点で書いてみたい。
もう少し、お待ちください。「乱読物狂」は、今月の上半期分を
アップした。
- 2003年9月15日(月) 21:27:23
8・XX  「天地人戯場にあらずといふことなし。声ありて形
なきを影芝居といひ。形ありて声なきを壬生狂言といふ」(山東
京伝)
これをもじるならば、人生は、戯場。人生は、影芝居。声なく
て、形なくて、あるのは、影ばかり・・・。「だんまりもどき」
の影芝居といふ。

ホームページも、電子の影。かつての、私のコラムに「電影由縁
幕間噺」という外題を宛てていた。「電影」とは、中国語なら、
「映画」だが、私のコラムの場合は、テレビを意味していた。テ
レビ情報誌の連載コラムだったからだ。

だが、電子の影なら、パソコンも入るだろう。ホームページも、
入るだろう。私のサイトから相互にリンクしていた、ほかのサイ
トも、連絡もないまま、いつの間にか、消えていた。「網模様花
紅彩画」を開けてご覧になればよい。いくつかのサイトは、ク
リックすると、もう、見つからないとメッセージが出て来る。儚
いものだ。まさに、電子の影。どうせ、影ならと言いながら、し
ぶとく再開した私のホームページは、せめてもの、儚さにと、外
題を変えることにした。

新しい外題は、「大原雄の歌舞伎めでぃあ」である。リニューア
ルしたのは、書評コーナー「乱読物狂(らんどくものぐるい)」
(02年9月から、書きためてきたたものを鋭意連載中。03年
6月まできた)。これは、以前から、歌舞伎、人形浄瑠璃・批評
コーナーの「遠眼鏡戯場観察(かぶきうおっちんぐ)」と双璧に
なるように書評の専門コーナーを造りたかったので、リニューア
ルをきっかけに新設した次第。ご愛読を期待したい。通勤時間
が、伸びた分、車内書斎での読書量が増えたが、その分、物を書
く時間が、反比例して、減少した。まあ、一日は、24時間。
皆、持ち時間は一緒だもの、仕方がない。あとは、工夫魂胆で、
如何に時間の隙間を利用するかだろう。

一方、私のホームページでは、老舗の「双方向局輪日記(ふたつ
ほうこうくるわにっき)」は、これまでの、何でもありの「日
記」を止めて、ときどき、日付けありのエッセイコーナーに衣替
えをしたい。これが、その第一弾になる。

ホームページ再開は、本名の世界から、ペンネームの世界への飛
躍を決意するきっかけになっている。日本ペンクラブの登録名
も、これまでの本名から、ペンネームに変えた。日本ペンクラブ
に「電子文藝館」というサイトがある。03年5月から、私は、
ペンネームで副委員長になった。幕末から現代までの作家、評論
家、戯曲家、翻訳家、詩人、歌人、俳人らの作品が掲載され続け
ている。さまざまなタイトルが、そこにはある。

タイトル。歌舞伎なら、名題、外題。作品が、タイトルをきめる
場合があるし、タイトルが、作品をきめる場合がある。それは、
作家が、作品の本性をきめる場合もあれば、作品が、作家の本性
を暴く場合もあるというのと同断だ。そのあたりは、私のホーム
ページの新しい外題解説を含めて、またの機会に書き込むことに
しよう。まずは、こんにちは、これぎり。
- 2003年8月27日(水) 22:27:51