*月はふたつ出ているか?

 村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」書評

4月12日(金)に売り出された50万部は、東京の大型書店で観測すると、14日
(日)には、完売してしまったようだ。15日開店の店頭には、もう、無かったよう
に思える。

多崎つくるは、ひとり東京の大学に進学した後、名古屋で過ごした高校時代の「仲良
し5人組」(男3人、女2人)から、訳も判らず、20歳の時、絶交された青年。当
時は、鬱状態になり、希死念虜に苛まれた。その後、立ち直り、大学を卒業し、鉄道
会社には入り、子どもの頃からの夢だった駅整備・建設事業に携わっている。現在は
36歳になり、未だに独身。

恋人ができ、その恋人に16年前から抱えている「心の傷」を打ち明けたところ、是
非、真相を解明すべきだ。記憶はごまかせても、歴史は変えられない。恋人は、イン
ターネットなどを駆使して、「仲良し5人組」の4人の現況を調べ上げてきた。男ふ
たりは、名古屋で働いている。女ひとりは、既に亡くなっている。もうひとりは、
フィンランド人と結婚し、フィンランドに渡っている。

そのメモを元に、独身男は、ふるさと名古屋に帰り、16年前の「経緯」を4人に尋
ねる「巡礼」の旅に出るというのが、この物語の骨格であり、タイトルの由縁であ
る。

主人公は、名古屋で働いている男ふたりに16年振りに会った。その結果、16年前
の絶交事件の経緯が判った。仲間の女性のひとりが、「主人公にレイプされた」と訴
えたことから、仲良し組から主人公は追放されたと言うのだ。主人公には、全く身に
覚えがない。何者かにレイプされた女友達は、レイプ事件をきっかけに精神に異常
(病名は書いていない)を来たし、被害妄想が募ったのだが、彼女に同情した仲間た
ちと主人公は、絶交状態になり、16年が経ってしまった。

その女性は、その後、浜松で独居生活を送っていて、何者かに殺されてしまう。いま
だに、未解決。主人公は、残されたもうひとりの女友達に会うためにフィンランドに
出かける。フィンランド人と結婚をし、ふたりの子どもがいうかつての女友達が、真
相を語る。帰国後、主人公は、恋人に「巡礼の旅」の報告をする。

小説の中で、私が書き留めた文章は以下の通り。

「どんなに穏やかに整合的に見える人生にも、どこかで必ず大きな破綻の時期がある
ようです。狂うための期間、と言っていいかもしれません。人間にはきっとそういう
節目みたいなものが必要なのでしょう。」

「いくら薄っぺらで平板であっても、この人生には生きるだけの価値がある。」

「時間の流れがどこかで左右に枝分かれしてしまったような奇妙な感覚があった。」

「ぎりぎりの端っこまで行って、中を覗き込んで、そこから目が逸らせなくなってし
まった。でもなんとか元の世界に引き返してくることができた。」

主人公は、枝分かれして、予期せぬ、端っこまで行ったが、なんとか元の世界に引き
返して来た。しかし、何者かに殺された女友達は、端っこまで行って、中を覗き込ん
で、そこから目が逸らせなくなってしまい、そのまま、戻って来なかった。この小説
には、主人公と主人公にレイプされた上に、殺された(という被害妄想)を持ったま
ま、枝分かれの先の、「別の世界」に行ってしまった女性との二重構造の物語であ
る。二重構造には、精神疾患がキーポイントになっているように思う。ルナチックな
「別の世界」では、月がふたつ出ているのかもしれない。
- 2013年4月16日(火) 9:23:41
響もす効果  加賀乙彦「ああ父よ ああ母よ」書評


中国の近現代史、特に戦前(日中戦争)から戦後(解放後)へと激動する歴史の大波
に翻弄されながら生き延びたある中国人一族の物語。中国の近現代史。14年に及ぶ
日本の侵略統治、国共内乱、4年間の国民党の統治(国民党政権はその後、台湾へ亡
命)、新中国の建設、3年間の回復期、1953年からの5カ年ごとの建設計画。文化
大革命の経緯など。

一族は、台湾への逃亡(5人兄弟の三男家族)、その他は、大陸残留などと分断分散
を余儀なくされた。解放前、地主の四男として生まれた小説の主人公「私」(「文工
団=文芸工作団」、後の北京国家劇院のヴァイオリニスト。1927年?生まれ)の人
生も、歴史に翻弄される。「三反(反汚職、反浪費、反官僚主義)」「五反(反賄
賂、反脱税、反怠業、反横領、反情報漏洩)」運動と主人公への「反革命分子」批
判。こうした批判の果て、とうとう反右派運動の一環に巻き込まれ、中国東北部、黒
竜江省の「北大荒」という流刑地として有名な北の大地へと下放される。開墾地での
寒冷、飢餓、困苦の生活の21ヶ月に及ぶ場面は、この小説の山場になる。

次いで、文化大革命の場面。毛沢東の指導の下、「四旧打破(旧い思想、旧い文化、
旧い風俗、旧い習慣を打破・改革する)という運動が、紅衛兵(多くは、農民)によ
る「黒六類(地主、富農、反革命、資本家、右派、悪者=破戒分子)」吊るし上げ闘
争という形で進行し、「反革命分子」というレッテルがどこへ行っても付いて廻る主
人公も巻き込まれる。そして、文化大革命を指導した「四人組」の失脚。それに伴う
主人公らの名誉恢復。さらに、10年。1987年、定年退職後まで、波乱に満ちた主人
公の人生が描かれる。

中国では、なぜ、「大躍進」「革命」というスローガンによる党の指導の下に国民を
苦しめるような歴史を辿らざるを得なかったのか。ある家族の歴史を通じて、加賀乙
彦(1929年生まれ)は、その歴史に立ち向かう。自伝的大河小説として、「永遠の
都」に続く「雲の都」を執筆する傍ら、10年の歳月をかけて、加賀とほぼ同年齢の
中国人を主人公にした書き下ろし小説「ああ父よ ああ母よ」を書いて来たという。

日本人にとっても中国人の歴史を知らなければ、今の日中台の関係を理解することは
できない。東アジアに置ける日本の今後のありようを考える場合に必要な知識が小説
の形でぎっしり詰まっている。自伝的大河小説で描いた日本、今度は、著者とほぼ同
年齢の中国人を主人公にして描いた中国。自伝的大河小説を書き進む中で、加賀乙彦
の小説世界は、近現代史の日本と中国の二本柱を必要としたのだろう。日中を映しあ
う合わせ鏡。ふたつの小説が、互いを響もす。

出来うれば、時代背景と主人公の生活を示す年表、主人公が移動した広大な中国の関
係地図が掲載されていれば、より理解がし易かっただろう。
- 2013年4月11日(木) 9:05:46
松本侑子「神と語って夢ならず」書評

隠岐島コミューン 「伝説」と「小説」の狭間で読む

◎用意したもの。
メイン・ディッシュ:松本侑子「神と語って夢ならず」(2013年1月、光文社
刊)。以下「小説」とする。
隠し味:松本健一「隠岐島コミューン伝説」(1994年1月、河出書房新社刊)。以
下「伝説」とする。

「伝説」は、中央の歴史を照らした灯明の陰に隠されていた幕末・明治維新期に隠岐
島で発生した事件について、乏しい人民側の史料を補うために、隠岐島に何度も通
い、関係者所縁の人たちから聞き取りをして「伝説」を集大成しようとした。

「小説」は、著者初めての時代小説で、島根県出身の小説家という基底を踏まえて、
幕末・明治維新期の幕府側の松江藩、官軍(新政府軍)側の鳥取藩・長州藩との力関
係の中、隠岐島で発生した「事件」を主軸で支えた個人たちの生涯を追いかける形で
描いた「シュトルム・ウント・ドランク」の小説である。

「事件」とは、1868年(慶応4年・明治元年)3月19日から5月10日まで、「81
日間」続いたコミューンの物語のことである。それが、暦の字面にごまかされて、こ
の事件を取り上げた人たちは、コミューンの期間を「51日間」と誤記していたとい
う。この年は、閏年で、4月と閏4月があったことを知らなかったからだ。それほ
ど、この事件は、以前は、史実を精査されなかったということなのだろう。慶応4年
は、9月8日から明治元年となった。

いくつかのキーポイントを押さえておこう。
*「島」 隠岐島は、島根県隠岐郡に所属している。島根半島の北、約50キロの日
本海にある諸島。辺境の島である。諸島の中心は、島前(とうぜん)、島後(とう
ご)という島である。その昔、後鳥羽上皇(18年間)、後醍醐天皇(1年間)が流刑
された島。それゆえ、島民には、勤王思想が根強かったという。

*「時代」 幕末から明治維新期。幕末から明治維新へと大きく変わる歴史の縮図を
隠岐島という定点で観察したということになる。

*「位置」 勤王思想を育んで来た辺境の島は、この時期、日本海の国境の島でも
あった。辺境から最前線へ。露西亜、中国・朝鮮との関係に加えて、巨大な鋼鉄の
船、黒船が姿を見せるようになった。日本海防衛の最前線として、「隠岐国」意識の
強い隠岐島には、緊迫感も高まっている。隠岐島を幕府からの預かり地とする松江藩
の国防対応に不満を抱いた庄屋など島民の間では、「海の勤王隊」という意識が広
がっていった。

*「三角関係」 外様大名の多い西国にくさびを打ち込む役割の幕府派の松平家松江
藩。水戸徳川家所縁故の勤王派の鳥取藩、外様の長州藩。両藩とも後の官軍派とな
る。その間で、翻弄される隠岐島。実際、隠岐島は、徳川幕府の直轄領から、松江藩
の預かり地、天朝領、松江藩の預かり地に戻る、さらに鳥取藩、そして、廃藩置県へ
など、「政治」に翻弄され続けた。

*「コミューン」 隠岐島が、松江藩の預かり地から天朝領になったということを
きっかけとして、「朝敵」徳川家の預かり地を管理する松江藩の郡代・山郡宇右衛門
(出張所長のような立場の役人)を追放する、という形で、勤王派の庄屋を中心とし
た島民は、「世直し」(維新)に蜂起し、朝廷をバックボーンに掲げて、自主政府
(コミューン)を設立した。政府組織:会議所(立法、長老4人で構成、合議制)、
総会所(行政府、内閣)、文事頭取(内閣官房、文部)、算用調方(大蔵)、廻船方
頭取(運輸)、周旋方(外務)、目付役(司法)、軍事方頭取(防衛)など70人が
役に就いた。三権分立体制。当面の課題は、松江藩の逆襲をいかにして防ぐか。しか
し、防ぎ得ずして、逆襲を受けて無抵抗のうちに崩壊した。島民は、朝廷の太政官通
達により「刑法に応じて処罰」された。


「小説」は、井上甃介(しゅうすけ)、中西毅男(はたお)、横地官三郎ら庄屋の息
子や若い庄屋などが、こうした激動する時代に翻弄されながら青春時代を駆け抜ける
ように生きる様を描く。

「小説」では、1853年(嘉永6年2月)から、明治、大正年間まで取り上げられる
が、大きな山場は、「十四 島燃ゆ」「十五 自治政府、立つ」「十六 松江藩の逆
襲」という、コミューンの81日間が描かれる。その後、「小説」では、1869年(明
治2年)、1871年(明治4年)、1877年(明治10年)が点描され、1924年(大正
13年)。主人公井上甃介の死で幕を閉じる。

基本的な隠岐島の歴史の史料は、「小説」も「伝説」も、ともに「隠岐島誌」に依拠
しているので、時間経過の骨格は、同じである。「伝説」は、いま流行の言葉を使え
ば、「政権交代」「中央より地方重視(地方自治)」を先取りしたコミューンの創設
をトレースする。「伝説」では、事件の経緯もさることながら、庄屋組織を活用し
て、島民自らが運営した「コミューン」を描いているのに対して、「小説」では、事
件を主軸で支えた青春群像を縦軸に据え、読み物の魅力も満載してヴィヴィッドに描
いて行く。「史実3割、創作7割の小説」(著者・松本侑子)という。

書名となった「神語夢不成」(神と語って夢ならず)は、東京に住んでいた横地官三
郎が、1908年(明治41年)、71歳で亡くなったという訃報を受け取った隠岐島に住
む長男が漢詩に認めた一行からとっている。

贅言;それに、女性の作家らしく、物語のアトモスフィア(環境、雰囲気)を彩る描
写に、さまざまな色合いを添えているのも興味深く感じた。水の都・松江、海に浮か
ぶ隠岐島が主要舞台になるだけに、水辺の色合いについて、色彩の描写を読むのも楽
しかった。
- 2013年2月1日(金) 16:36:37
9・XX  演劇評論家・戸板康二の書いたものは、歌舞伎に対
する深い識見が、随所に滲み出ているので、何を読んでも、滋味
がある。戸板は、また、1959(昭和34)年に「團十郎切腹
事件」という小説で、第42回直木賞を受賞した作家である。中
村雅楽という老優を主軸にしながら、「私」こと、竹野記者とい
う、新聞社を定年退職した後、嘱託として、かなりフリーな形
で、取材を続けている老演劇記者が、「主人公」になっている一
連の歌舞伎推理小説群を、戸板は残している。いわば、雅楽と竹
野記者という、ふたつの中心を持つ楕円形の世界のなかで、歌舞
伎をテーマにした、「トイタワールド」とも言うべき、一味違う
推理小説の世界を構築している。その作品群を再編集したもの
が、「創元推理文庫」の「中村雅楽探偵全集」(全5巻)とし
て、刊行されていて、最近、第四巻が、発刊された。第1巻から
タイトルを上げてみると、「團十郎切腹事件」、「グリーン車の
子供」、「目黒の狂女」、「劇場の迷子」、11月に刊行が、予
告されている最終巻が、「松風の記憶」である。

そもそも、演劇評論家の戸板康二に「車引殺人事件」という推理
小説を書かせ、旧「宝石」という雑誌に載せたのが、江戸川乱歩
というから、昔の話だ。シリーズの作品は、タイトルからも判る
ように、当初は、「推理小説」らしく、芝居小屋で起こった「殺
人」など、血腥い素材を扱っていたが、途中から、歌舞伎や歌舞
伎役者がからむ、日常的な話題の謎解きに重きを置くようにな
り、評論やエッセイでは、書き難い、フィクションを交えた形
で、歌舞伎の滋味を醸し出すという独特の作品群を積み重ねて
行った。最終巻の「松風の記憶」を除けば、すべて短編小説であ
り、このうち、先に触れたように、「團十郎切腹事件」という作
品で、第42回直木賞を受賞したほか、「グリーン車の子供」と
いう作品で、第29回日本推理作家協会賞を受賞している。

私は、単行本としては、どの作品も読んだことがなかったが、今
回の「創元推理文庫・中村雅楽探偵全集」の刊行を知ってから
は、毎回の刊行を愉しみに読み続けている。戸板の分身である竹
野記者(イニシャルに直せば、いずれも、Tである)は、現役記
者から嘱託記者へと立場を変えながらも、雅楽とは、昵懇の関係
を維持して来た。

「高松屋(雅楽の屋号)と十何年もつきあっているので、門前の
小僧、そんな風に頭がすこしは廻るようになっていますよ」
(「劇場の椅子」所載の「日曜日のアリバイ」)と、竹野記者が
言うように、雅楽とは、ほぼ、一心同体のセンスの持ち主になっ
ている。竹野記者も、名演劇評論家の分身だから、歌舞伎に対す
る造詣は、並々ならぬものがあるし、雅楽は、実在の、何人かの
歌舞伎役者をモデルにして作り上げた人物だけに、歌舞伎史への
識見、先輩やお仲間の役者論、実演者としての演技論など、含蓄
のある人物になっている。私は、雅楽シリーズの作品群では、こ
のふたりに逢うことを愉しみに、読んでいるような気がする。ま
た、歌舞伎絡みのエピソードや話題が、随所にちりばめられてい
るので、細部も読み落さないように心がけながら読んでいる。

雅楽の魅力は、役者論、演技論もさることながら、舞台の表や裏
で見聞きした長い人生経験から醸し出される、芝居ばかりではな
い、人生全般に通じる普遍的な識見の見事さが、最大だろうと思
う。これは、まさに、戸板康二という作家の魅力にほかならな
い。それでいて、推理小説、いまの言葉なら、ミステリ小説、探
偵ものという、エンターテインメント色も、盛り込まれていて、
肩を凝らさずに読み進むことができるから、愉しい。雅楽ものの
短編小説群は、第4巻「劇場の迷子」で終る。ミステリ短編小説
群なので、ルールに従って、個々の小説の内容の紹介はしない。
長い小説では、「雅楽老人が、くたびれるような気がする」(講
談社版『劇場の迷子』後記)と、戸板自身が書いているが、最終
巻の、雅楽シリーズ唯一の長編小説「松風の記憶」も、愉しみに
して、11月を待とうと思う。
- 2007年9月30日(日) 12:33:45
8・XX  今期芥川賞受賞作の諏訪哲史「アサッテの人」は、
ある種の「藝談」である。「アサッテ」とは、「ねじれ」であ
り、きょうあすというような真っ当、あるいは、真直ぐなベクト
ルとは異なる所作、科白のことである。それは、「私」の叔父の
得意な藝である。私は、それを行方不明、昔の言葉でいうなら、
「蒸発」してしまった叔父の代りに、「私」の目撃証言(記憶、
あるいは、それは、既に亡くなっている叔父の連れ合いの朋子さ
んを語り手として、「私」の手で小説化を試みたが、巧く行か
ず、「草稿の山」となっているものも含む)をベースに、叔父が
書き残した日記(大判ノート3冊分)などをコラージュしなが
ら、再構成して行く。

叔父の科白は、使われるシチュエーションも、突然であって、良
く判らないし、意味も不明であるが、列挙してみると、次のよう
なものである。「ポンパッ」「チリパッハ」「ホエミャウ」「タ
ポンテュー」。「私」は、それぞれの科白の発音及び使用例」を
解説するが、なかなか、読者である私には、伝わって来ない。

「私」の記憶によれば、叔父は、昔、「ング−ギ・ワ・ジオン
ゴ」と言っていたことがあり、これも、件の科白の一種かと思っ
ていたら、実在するアフリカの作家の名前であった。読者である
私は、先日、タイの警察官の出て来る新聞記事を読んでいたら、
「ポンパット」という名前の警察官が出てきたので、「ポン
パッ」「チリパッハ」「ホエミャウ」「タポンテュー」などが、
「ング−ギ・ワ・ジオンゴ」同様に、何処かの国の実在する人た
ちの名前であるという可能性も否定していない。

しかし、叔父が残した大判ノート3冊分の日記のほかに見つかっ
たと「私」が言う「一枚の大便箋」のことが、今回の小説「ア
サッテの人」の、いわば付録として巻末に出て来る。大便箋の右
半分には、文章が、左半分には、叔父の部屋の平面図が書いてあ
る。

文章には、「ポンパッカポンパ、ポンパッカポンパ。・・・へ
えー、だって。」「ポンパッカポンパ、ポンパッカポン
パ。・・・へえー、だって。」などというようなことも書いてあ
る。平面図には、アコーデオンカーテンの入り口から、部屋に入
ると、部屋に敷き詰められた古い絨緞の上に、★のマーク(これ
には、「踏み出し地点」という注がある)。「1」から「16」
までの番号順に、部屋の中を壁や窓に沿って、四角く移動するよ
うに指示されていて、「3」と「4」の間には、「朋子さんの鏡
台」があると、図示されている。「8」の所では、「朋子さんの
ピンナップ」が、明記されている。「16」は、★マークと隣り
合っている、というか、スタート地点に戻っているから、
「16」は、とりあえず、ゴールなのかもしれない。

平面図には、叔父の筆跡で、「一歩目(パッカ)」で「1」、
「二歩目(ポンパ)」で「2」とあり、さらに、「手はクロール
のコマ送り。首をカクカク曲げながら、小さく抜き足、大きく差
し足」と書き込まれている。続けて、「初めのパッカ、ひしがた
踏んだ。二歩目のポンパ、つるくさ踏んだ。三歩目パッカ、猫足
さすり、四歩目ポンパ、猫足さする」とある。図示された古い絨
緞の「1」と「2」の場所には、「ひしがた」と「つるくさ」の
模様があると、「私」は、気がつく。さらに、猫足は、「3」と
「4」という数字の位置と「朋子さんの鏡台」の「猫足」の位置
の近接を思えば、鏡台の猫足注意という意味だと、「私」は、理
解する。ここまで判ると、大便箋の右側の文章と左側の平面図
は、連動していて、「ポンパッカポンパ、ポンパッカポンパ。」
で、★のマークから、「4」まで、移動すべしという叔父のメッ
セージが、明確になる。「4」で、「ピタリ止まる」とあり、さ
らに、「顔右向けてこんにちは。ニッコリ笑って、へえー、だっ
て」と続いている。部屋の角で、右に顔を向けた先に、朋子さん
のピンナップがあるのが判れば、「こんにちは。ニッコリ笑っ
て、へえー、だって」とは、朋子さんのピンナップへの、お愛想
だと判る。「飽きるまで、飽きてもなお、くりかえし」と叔父の
筆跡の注が、書き込まれている。つまり、大便箋は、叔父が、部
屋の中を四角く経巡りながら、亡くなった妻の朋子さんへの鎮魂
の所作事を書き記した、ある種の「藝談」の覚書だということが
判る。

「アサッテ」流家元の叔父の藝談覚書が、「ポンパッ、ポン
パッ」というわけだ。「私」は、確かに叔父の「家の藝」を引き
継ぎ、「傾(かぶ)く」世界に向って行く。「ポンパッ」という
張り裂けるような絶叫の声が、聞こえる。
- 2007年8月12日(日) 20:44:47
7・XX  EDO NOVELS 江戸小説がブームである。
書店の時代小説のコーナーが、活況を呈している。江戸小説=時
代小説+剣豪小説+捕り物帳+歴私小説+武士道小説+股旅物+
忍法物+市井人情物ほか、という「数式」を最近の新聞の広告特
集のページで見たが、随分乱暴な定義である。要するに、江戸時
代や江戸を舞台とした小説は、皆、江戸小説(エドノベルズ)と
して括り、ブームに、さらに火を付けたいという意図ありありの
「数式」であろう。読者は、サラリーマンが多いそうだ。多く
は、書斎(大都市圏の住宅事情を考えれば、マイホームや賃貸住
宅に「書斎スペース」など望むべくもない)で読むような本では
無く、通勤の行き帰りに、あるいは、出張の車中や機内で読み、
場合によっては、読み終われば、新刊古書店に払い下げて、幾許
かでも、返金を期待するという類いのエンターテインメント系の
読み物であろう。チャンバラ、勧善懲悪、人情など、現実の生活
の閉塞感からくる酸欠状態を一時忘れて、江戸時代にタイムス
リップし、新鮮な酸素を補給したいという向きに歓迎されている
のだろうとは、容易に想像がつく。お家騒動、家督相続、浪人
(就職)、汚職、派閥争い、身分格差、職人堅気など、現代、特
にサラリーマンの生活に通じるテーマを積極的に描く。舞台とな
る江戸は、例えば、歌舞伎の舞台を見たことがある人なら、容易
に想像できるだろうが、現代社会がとっくに失ってしまったよう
な、粋な生活術、武士の矜持、商人、職人などの町人の誇り、庶
民の人情などに溢れたスペースが、再現されている。

私も、朝夕の通勤電車という、動く書斎を利用している身であれ
ば、この空間での読書では、哲学書や、純文学書より、時代小説
の方にテが伸びやすい傾向にある。今回も、いつものように読み
溜まった時代小説の書評をまとめて書き込もうと、思う。東映な
どの時代劇映画が、廃れて久しい。テレビの時代劇も、「水戸黄
門」、「鬼平犯科帳」など、高齢者向きのものに限られて久しい
上に、民放では、これらの時代劇ドラマ自体の先行きが、心もと
ない状況になっている。NHKでも、大河ドラマなどの時代劇
が、頑張っている程度で、映像メディアの時代劇は、低落傾向に
あるようだ。一方、時代小説はと眼を転じれば、雑誌掲載→単行
本→文庫本という以前からの流れに加えて、いきなり、文庫本書
き下ろしという大きな流れが、ここ数年前から、奔流となって来
ているように見受けられる。文庫本書き下ろしという大きな流れ
は、読み捨てのエンターテインメント作品として、時代小説が、
特に、中高年の読者層、それもサラリーマン層に受け入れられて
いるようである。

すでに亡くなってしまった隆慶一郎は、「単行本→文庫本」系統
に属しながら、作家としては、遅咲きだったが、独特の史観で、
独自の世界を築き、彗星のごとき航跡を遺して、逝ってしまっ
た。やはり、すでに亡くなっているが、峰隆一郎は、初期には、
「単行本→文庫本」系統に属しながら、途中から、「文庫本書き
下ろし」系統として、多数の作品を送りだし、現在のようなエン
ターテインメントの時代小説は、「文庫本書き下ろし」本流とい
う流れを築いて来たと思われる。現在、この流れの、まっただ中
で、健筆を振るっているのが、佐伯泰英であろう。多数のシリー
ズものを同時併行させながら、それぞれが、激流のごとき勢いを
失わずに、独自の世界を築いている。そういう時代小説を取り巻
く、大きな図式を見据えながら、以下、最近読んだ時代小説の書
評を書き留めておきたい。

まず、単行本派の時代小説から。
山本一力「まとい大名」と「銀しゃり」、北重人「白疾風」と
「夏の椿」、その続編の「蒼火」、高橋義夫「七・五・三は悪の
香り」、歌舞伎の世界が描写される芦辺拓「からくり灯籠 五瓶
劇場」、物書同心居眠り紋蔵シリーズの佐藤雅美「物書同心居眠
り紋蔵 向井帯刀の発心」や早瀬詠一郎「日本ばし芳町おふさ」
にも、歌舞伎が点描される。出久根達郎「ぐらり! 大江戸烈震
録」、「信長の棺」、「秀吉の枷(上・下)に続く、「本能寺」
三部作の加藤廣「明智左馬助の恋」、宇江佐真理「花嵐浮世困話 
十日えびす」などを読了。

いちいち個別の書評をするのは、避けるが、例えば、山本一力
「銀しゃり」は、山本お得意の江戸の職人気質を解きほぐす。今
回は、寿司職人の巻というわけだ。職人の藝の工夫、人情、恋情
などを江戸深川う舞台に展開する。知行取旗本(4500石)の
家臣で、俸給100俵の勘定方祐筆も登場し、職人物語にサラ
リーマン物語も付け加える。江戸庶民の生活の細部を丹念に描
き、サラリーマンへの応援歌も忘れない、江戸の人情噺で、ほろ
りとし、現代社会の浮世の憂さを晴らす。まあ、典型的な江戸ノ
ベルズ作品だろう。

次に、文庫本書き下ろし派の作品から。
佐伯泰英の諸作品を読む。往復通勤電車の中で、1日に、ほぼ1
冊を読む。「居眠り磐音 江戸双紙」シリーズの「野分ノ灘」、
「鯖雲ノ城」、「荒海ノ津」。「吉原裏同心」シリーズの「流
離」、「足抜」、「見番」、「清掻」、「初花」、「遣手」、
「枕絵」、「炎上」。「酔いどれ小籐次留書」シリーズの「御鑓
拝借」「意地に候」「寄残花恋」「一首千両」「孫六兼元」「騒
乱前夜」「子育て侍」。佐伯は、目下、6つの出版社から、10
のシリーズで書き下ろし「大河小説」を刊行し続けている。総発
行部数は、1000万部を超えるという。

鈴木英治は、中央公論文庫書き下ろしシリーズで、ひとひねりし
た主人公を軸に展開している。例えば、「手習重兵衛」シリーズ
は、いわば、「学習塾」の先生が、子どもを相手に読み書きを教
えながら、剣豪として、チャンバラを披露し、お家騒動を軸にし
た「剣豪ミステリ」として、紆余曲折の展開となって行く。「手
習重兵衛」シリーズの「闇討ち斬」、「梵鐘」、「暁闇」、「刃
舞」、「道中霧」、「天狗変」を読了。また、「無言殺剣」シ
リーズの「大名討ち」、「火縄の寺」、「首代一万両」、「野盗
薙ぎ」、「妖気の山路」、「獣散る刻」も読み上げたが、こちら
は、喋らないのか、障害があって、喋れないのか、最後まで、種
明かしが無かったが、そういう「無言」武士のチャンバラ小説で
あった。

こういう時代小説ブームの背景を探るのに役立つのが、数年前に
新書で刊行された小沢信男、多田道太郎、原章二共著の「時代小
説の愉しみ」である。当時は、まだ、いまのような江戸小説ブー
ムは、出現していないから、話題に登場する作家たちの名前を見
ても、時代認識は、少しずれ込むが、それでも、小沢の次のよう
な発言は、近未来を予想してている慧眼であろう。

「時代小説の今後ということで言えば、やっぱり山田風太郎みた
いな天才があらわれると、またパッと広がるんじゃないかという
気がします」

小沢のいう、「山田風太郎みたいな天才」というのは、佐伯泰英
であろう。かの国民的な時代小説作家の吉川英治作品の総刊行数
が、1億部だそうだが、吉川英治の時間の長さと佐伯泰英の時間
の短さを比較すれば、吉川英治の10分の1の1000万部とい
う部数は、やはり、驚異だろう。吉川英治、山本周五郎、藤沢周
平など、大衆時代小説の巨峰に続いて行く作家は、佐伯泰英ほ
か、現在の江戸小説ブームの中から、何人が、生き残って行くの
だろうか。
- 2007年7月1日(日) 21:54:18
6・XX  今期、中原中也賞受賞した須藤洋平詩集「みちのく
鉄砲店」初版を入手し、早速読みはじめる。

須藤洋平は、兄・雄一郎が書いた「あとがき」によると、「トゥ
レット症候群」という病気と闘っているという。「トゥレット症
候群」とは、「運動チック」(まばたき、顔しかめ、首振り、体
のねじり、ジャンプ、人や物に触れるなど)と「音声チック」
(咳払い、叫び声、卑猥な言葉や不謹慎な言葉を発する、自分や
他人が言った言葉を繰り返すなど)の行動を主な症状とする神経
の病気だという。併発症に、強迫性障害、注意欠陥・多動性障
害、学習障害、睡眠障害などがあり、学校、職場、家庭での生活
に支障を来す。普通、10代前後で発症し、治療により、数週
間、数カ月程度で、症状が消えたり、軽くなったりすることが多
いが、人により、大人になっても症状が続く場合もあるという。

須藤洋平は、なぜか、20数年も、この病気に苦しんでいる。病
状に対する周囲の無知、偏見、誤解があり、患者をより追い詰め
ている。原因は、脳内の神経伝達物質の異状によるという。

須藤洋平は、闘病しながら、苦しい中で、詩を書くことで、生き
ている。閉じ込めてきた自分の思いを詩に書き綴る。「もう、書
けない」「一段落をつけたい」と20編の詩を選び、一冊の詩集
を上梓した。初版は、07年4月30日発行。タイトルは、「みち
のく鉄砲店」である。

表題作では、鉄砲店の女主人が、「火薬を買いなよ、負けとく
よ!」と言う。

「みちのく鉄砲店で/火薬を/買った」で、詩は、終る。

須藤にとって、「火薬」は、閉じ込められている自分を解放させ
るための、言葉の発火装置なのだろうと思われる。

「こぶし」という詩。

「よつんばいにされてみんなにおしりの穴を/みられたときはど
うにかがまんできたけど/今日がけからおとされた自転車のこと
を思うと涙がとまらないんだ/兄ちゃんにゆずってもらったばか
りの3だんへんそくの蒼いやつ/『だいじにつかいなよ』って兄
ちゃんいってたんだ・・・

先生が『ベランダに犬でもいるの?』/なんていってみんなをわ
らわせるから/みんあをあおるから・・・/

ぼくのあのこぶしの木が兄ちゃんのみたいに大きくなって/枝が
太くなったらぼくはそこで首をつろう/みんなにこうかいさせて
やるんだ!

涙が/とまらないよ・・・」

「孤独とじゃれあえ!」という詩には、「トゥレット症候群と闘
う勇者たちへ捧ぐ」というサブタイトルが付いている。その詩の
一節に次のような言葉がある。

「芸術なんだ!僕の身体は芸術なんだ!/それがその時の僕の唯
一の逃げ場だった。/『生きるという事は恐ろしいね』/祖母が
畑にはびこる雑草を見て言っていた事を同時に思い出してい
た。」

「トゥレット症候群」に併発した根の深い神経症からくる鬱病と
闘いながら、そういう苦しみの身体を芸術と理解し、詩を書き続
ける30歳の須藤洋平。その処女詩集に、第12回中原中也賞が
贈られた。「汚れちまった悲しみ」から、立ち上がれ。

「涙が/また/あふれた。」

- 2007年6月14日(木) 21:46:34
6・XX  丸山健二「荒野の庭」など、丸山流作庭術の本を読
む。「安曇野の白い庭」で、自宅の庭作りについてエッセイを書
いた作家は、その後、庭作りの結果を写真で示しながら、花や自
然、それに関わる思索などを書き綴り、「夕庭」、「ひもとく
花」、「荒野の庭」、「神々の指紋」と、同趣旨の本を次々と刊
行してきた。写真も、最初こそ、専門のカメラマンに撮影させて
いたが、最近は、作庭、写真撮影、文章とすべてひとりでこなし
ている。作庭を最後に支配するのが、自然(神)だとしても、そ
れにどこまで、人智で対抗できるか、丸山は、挑戦をし、その結
果を、写真・文章で記録しているのかも知れない。だから、それ
は、多数の箴言を含んだ宗教書のような印象の本になっているよ
うに思える。

この世は地獄、世界は、不毛の荒野。その地獄に踏み止まり、小
説を書く作家は、地獄の荒野に抗うように庭を作る。極楽の花園
なんて、ありはしないのだろうが、闇夜の一灯のごとき、ワンポ
イントの世界の構築に、作家は、命を削る。

「私の小説は一作に一年半ほどかかる。私の庭には少なくともあ
と百年は欲しい」と丸山は書く。作庭とは、不可能への挑戦なの
である。

安曇野に住み続け、文壇などとは、無縁な生活をし、自分の庭を
ひとりで作り続け、四季折々咲き巡る花々の写真を撮り続け、
日々変化する花の表情を見抜く文章を書き続ける。

井の中の蛙が、井戸の水を「大海」と思いながら、見続けるよう
に、自宅の庭を「この世」と思いながら、花々を咲かせては、枯
らし、世界を見続ける。これは、そういう庭の花々の記録であ
り、この世の記録である。庭の中に、天地創造を想像する。だか
ら、記録は、宗教書のようになって来る。

「自分の人生を生きるのに何の遠慮がいるものか。ここら辺りで
ひとつ居直ってみよう。そして、生きたいように生きてみよう」
と丸山は、書いている。

05年2月刊行の本を07年5月に読んだ。07年5月30日に
開かれた日本ペンクラブの総会で、私は、理事に就任した。阿刀
田高15代会長の就任に伴い、理事会のメンバーになった。あわ
せて、電子文藝館委員会委員長にも就任する。

世相、時代に対する日本ペンクラブの敏感なセンサーが、「言論
表現委員会」の役割で、いわば、直接話法で、メッセージを発信
するなら、電子文藝館委員会は、先人たちの諸作品を掲載するこ
とで、間接話法で、メッセージを発信する。「言論表現委員会」
活動と「電子文藝館委員会」活動は、メタルの裏表であろうと思
う。「志のある電子文藝館」を、さらに、目指したい。

丸山の、先の文章は、そういう気持ちを持つ私の背中を、ぐいっ
と力強く押したような気がする。

丸山は、さらに、書く。「白い花を演じられるのは白い花だけ。
赤い花を演じられるのは赤い花だけ。私を演じられる者は私だ
け」。

- 2007年6月3日(日) 15:35:08
5・XX  浅田次郎「月島慕情」を読む。大正時代の吉原が出
て来る。吉原の太夫が、落籍される。身請けするのは、月島に住
む時次郎で、背中に「南無妙法蓮華経」という題目の彫り物をし
ているやくざの幹部だが、無口な、様子の良い男で、男気のある
紳士風。夢見心地で、事前に月島の時次郎の家を下見に行った太
夫こと、ミノは、自分のために、家族離散の実状を時次郎の子ど
もたちから知らされる羽目に落ち入る。男の実像が見えてしまっ
た太夫は、さっぱりした気性ゆえ、人を不幸にして、自分が幸福
になることができない。

「あたしね。この世にきれいごとなんてひとっつもないんだっ
て、よくわかったの。だったら、あたしがそのきれいごとをこし
らえるってのも、悪かないなって思ったのよ」

表題作を含めて、7つの短編小説が、浅田節で奏でられる。ミノ
の科白に見られるように、浅田節とは、いわゆる「泣かせ節」で
ある。

なお、表題作の「月島慕情」のみは、日本ペンクラブの「電子文
藝館」の「小説」部門にも収録されているので、インターネット
でも、読むことができる。
- 2007年5月10日(木) 21:17:14
5・XX  鴨川達夫「武田信玄と勝頼 ーー文書に見る戦国大
名の実像」を読む。信玄、勝頼関連の古文書を取り上げ、古文書
の真贋の見分け方、崩し文字の判読のコツ、年代の判別など、古
文書解読のノウハウの記述が半分を占める。その上で、古文書か
ら浮かび上がって来る信玄とは、どういう人物だったのか、筆跡
や文書の構成などから推察する。さらに、信玄の後を継ぎ武田家
滅亡の最後の首領となった勝頼の生涯を通説に捕われず、むし
ろ、文書から見えて来る人物像を追跡する。

大学の先生が、学生のセミナーで使った原稿を元に新書を書いて
いるので、前半のノウハウは、いかにも、セミナーという感じ
だ。それだけに、新書という分量で、前半のセミナーと後半の
「文書に見る戦国大名の実像」というテーマの読み物とでは、ど
ちらも、消化不良で、中途半端になってしまっている。第1部と
第2部を分けて、それなりの分量の単行本にするか、新書にこだ
わるなら、テーマを一つに絞り込むべきだった。
- 2007年5月8日(火) 21:22:25
5・XX  高山文彦「麻原彰晃の誕生」は、似非宗教家の実像
を描く。1955(昭和30)年に熊本で生まれた眼の不自由な
少年は、いかにして、似非宗教グループを創り、一流大学の出身
者たちを巻き込み、「オウム真理教」という宗教団体をでっち上
げ、大量無差別殺人行為を犯すようになったのか。少年は、後
に、麻原彰晃と名乗るようになるが、その生涯は、社会の中で差
別されつづけたことで、社会への反抗心を育み、「狂気」の果て
の殺人者になりながら、「異常」のふりをして、罪から逃れよう
と足掻いている、というように総括されるかも知れない。似非宗
教家は、「オール、オア、ナッシング」という二元論を武器に信
者たちをまとめたことで、「成功した似非宗教家」なりの動物的
な勘で、社会もまとめることができると思い込んだのだろう。麻
原とほぼ同年の高山は、1995年3月の地下鉄サリン事件の1
年後、月刊誌「現代」の1996年5月号から8月号にかけて、
連載した文章と2001年6月から8月にかけて、週刊誌
「フォーカス」に連載した文章を元に、2006年2月に本書を
刊行した。

10年ほど前に書いた文章を加筆訂正して、刊行するということ
は、出版社の事情も、これありで、何も珍しいことでは無いが、
去年の12月に「乱読物狂」に書評掲載した藤原新也の「黄泉の
犬」も、似たような経緯で、本が刊行されていたことを思い出し
た。「乱読物狂」には、以下のような文章が掲載されている。

*1995年7月から96年5月にかけて、藤原新也は、週間プレ
イボーイという雑誌に「世紀末航海録」という連載を載せた。と
ころが、松本智津夫の生涯を追い掛けている内に実兄の満弘さん
の居場所を突き止め、インタビューをしたが、インタビューの際
の実兄との約束で、インタビューの内容を雑誌に掛けなくなり、
連載が中断したままになった。以来、10年の歳月が流れ、満弘
さんも亡くなり、藤原新也は、連載の続きを書き下ろし、「黄泉
の犬」というタイトルで、刊行した。これは、1995年1月
17日朝の阪神淡路大震災、95年3月20日朝の地下鉄サリン
事件など一連のオウム真理教事件、2年後の、1997年春の神
戸連続児童殺傷事件、いわゆる「酒鬼薔薇聖斗事件」という時代
の世相を大掴みしようという作品だ。そしてまた、それは、いま
の世相、前ファッショというべき思潮、戦争へ傾斜する法案が
続々と成立しているのを見ようともしない大衆たち、そういうも
のへのいら立ちを書き留めた時代の書である。インド、チベット
放浪から、34年間も、精神的な放浪を続けている思索家・藤原
新也の魂の記録は、オウム真理教の松本死刑囚の記録とも二重写
しになりながら、ここに、刊行された。2006年の収穫のひと
つだろうと思う。」

高山文彦にも、藤原と似たような事情があるのでは無いか。ふた
りの優れた世相ウオッチャ−が、同じような軌跡を残して、麻原
彰晃について、改めて、メッセージを発信したことの意味は、出
版社の事情だけで無く、前ファシズム時代といわれる現代日本社
会に向けて、似非宗教とファシズムの類似性を危惧したからでは
無いのだろうかと、私には思えてならない。

- 2007年5月6日(日) 21:34:32
5・XX  秦恒平「愛、はるかに照らせ 愛の歌・日本の抒
情」は、「湖(うみ)の本」という、私家版の全集を作家自ら
が、編集をし、出版をしているというユニークなシリーズの、第
90巻に当る。1986年に創刊した「湖(うみ)の本」は、
21年間で、創作シリーズ50冊とエッセイシリーズ40冊を刊
行した。骨肉の争いをテーマにした小説「逆らひてこそ、父」、
インターネット上で公開している日記をベースに愛孫娘の病死を
記録した「かくのごとき、死」に続く詞華集「愛、はるかに照ら
せ」は、骨肉の愛の酷い実相を描いた「三部作」であるという。

ただし、詞華集「愛、はるかに照らせ」では、「愛と友情の 詩
歌日本の抒情」という講談社から1985年に刊行された本が底
本になっている。22年前に刊行された本が、争いの今日を予兆
していたということだろうか。その講談社版は、「日本の抒情」
シリーズの一分冊であった。その「あとがき」が、「愛、はるか
に照らせ」にも、再録されている。それには、次のように書かれ
ている。「昭和60年6月8日 娘・朝日子が華燭の日に  著
者」。

本書は、「男女の愛」「夫婦の愛」「子への愛」「親への愛」
「血縁の愛」「友の愛」「師弟の愛」「さまざまな愛」という8
つのテーマに分類されて、詩、短歌、和歌、俳句、川柳、歌謡な
どの分野から、選別されている。

★ 花嫁の初々しさを打ち見つつ身近く吾娘(あこ)といふも今
日のみ                            山下 清

「我が家に適齢期の娘が射た。朝日子(あさひこ)という名のそ
の娘を、親はちいさくから「あこ」と呼んできた。佳い縁が欲し
いと心から願っていたら恵まれた。その嬉しい思いが、この歌の
「吾娘」とあるルビに結ばれた。半ば同情し半ばよろこばしく、
この歌を採った」と秦は、書いている。この「佳い縁」の筈だっ
た娘夫婦との骨肉の争いこそが、「三部作」のテーマとなってい
る。

★ 人の世のこちたきことら娘(こ)にいひて娘が去りゆけばひ
とり涙す                           村上一郎
★ 今にして知りて悲しむ父母(ちちはは)がわれにしまししそ
の片おもひ                          窪田空穂
★ 百石(ももさか)ニ八十石(やそさか)ソヘテ給ヒテシ、乳
房ノ報ヒ今日ゾワガスルヤ、今日ゾワガスルヤ、・・・
                             百石讃歎(和讃)

親の子への愛は、片思いであって、子には通じにくい。子が親の
「片思い」のような、無償の愛に気がつくのは、子が子を持っ
て、親の立場を知った時か。いや、それでも気がつかないから、
骨肉の争いとなってしまうのか。「生みの父母には死なれ・死な
せてしまった。八十路を超えて生きにあえぐ育ての父母は、遠く
故郷にうち捨てて顧みていない。胸の内に、すでに地獄が在る」
と秦は、書く。「地獄は一定すみかぞかし」を、私は、思い出
す。 

★ 家族(うから)とも言えど異なる部屋に居て人はひとりで生
きているなり                         冬道麻子
★ 白きうさぎ雪の山より出でて来て 殺されたれば眼を開き居
り                           斎藤 史
★ 春昼(しゅんちう)の校庭に立つ足裏にさくらさくらと散る
ものの声                           東 淳子
★ 我よりも長く生きなむこの樹よと幹に触れつつたのしみて居
り                              斎藤 史
★ 死の側(がわ)より照明(てら)せばことにかがやきてひた
くれなゐの生ならずやも             斎藤 史

娘婿が介在したことで、骨肉の争いに巻き込まれ、孤独な心境に
追い込まれている。秦の場合、「夫婦の愛」が、頑丈なのが救い
だが、離れてしまった「子への愛」、亡くしてしまった「親への
愛」、幼児期より薄い「血縁の愛」のなかで、孤独な作家の魂
は、何処へ行こうとしているのか。

「電車では、『愛、はるかに照らせ』を念のために読んでいた
が、自分で言うのもおかしいいが、ずんずん読めて、同感する。
あたりまえか」と、秦は、インターネットで公開している「生活
と意見」で書いていた。自死した上方落語家の桂枝雀が、自分で
語った落語のビデオを見て、「おもしろい、波長が合うんです
わ」という趣旨のことを枕で振って、お客を笑わせていたのを思
い出す。落語家は、お客を笑わせるために言っていたが、秦は、
本気も本気、真面目に言っているところが、この作家らしい。
- 2007年5月5日(土) 20:54:10
5・XX  日本国憲法は、60歳を迎えた。日本の憲法は、立
憲主義である。憲法は、国家権力が法律を通じて、国民の生活を
規制することを正当化するために、国民の権利を護る目的で、権
力を規制するというフィクションの上に構築される。歴史上、権
力は、しばしば、腐敗してきた。そういう歴史的な体験を積み重
ねて、人類は、憲法が、権力の腐敗を予防するというシステムを
生み出してきた。憲法は、権力を規制するのである。これを判り
やすく、図式化すると、

憲法→国家権力→法律→国民→憲法

というサイクルで、意志の伝達が「循環」する。国民主権は、意
志の伝達が、制度的に循環するところに初めて成立する。これ
が、近代の「立憲主義」の美しい姿だった。

ところが、いま、与党が目論んでいる憲法改定では、このサイク
ルが、変って来る。

憲法←国家権力→法律→国民←憲法

国家権力は、法律だけでは無く、憲法にも意志を発信する。つま
り、「循環」構造を断ち切って、「双方向に触手を伸ばす」。こ
の結果、意志の伝達は、「循環」せず、国民は、法律だけでは無
く、憲法からも、規制されることになる。つまり、国民は、「双
方向から触手を伸ばされ、絡め採られる」。

さらに、憲法をそういう形に改定するために、与党が、今回、衆
議院を通過させた「国民投票法案」は、最低投票率の規定も無
く、投票率が低くても、投票総数の過半数で憲法を改定するとい
う、「形式的過半数」という考え方に立っている。安倍政権や与
党は、自分たちの「天下」が永遠に続くと思っているのかも知れ
ないが、世の中の「有為転変」は、古来よりの習いである。「奢
る平家は久しからず」で、望月の夜も、いつかは、陰る。今の政
権に都合の良いようにとばかり、考えていると、大変なことにな
る。いずれ、政権が変れば、当然の事ながら、与野党は逆転す
る。価値観や世界観の異なる政党が、政権を握ることもあり得
る。かつてのナチスを思い浮かべても良いかも知れない。国家の
制度とは、民主主義である限り、どういう政党が政権をとって
も、最小限の政治のルールは、共通するもので無ければならな
い。立憲主義とは、国歌の制度に、そういう歯止めをかける理念
である。そういう背景が、マスコミによって、きちんと国民に伝
えられているだろうか。

町田康「真実真正日記」は、「虚構虚偽日記」であるが、虚構虚
偽の果てに真実真正に通じるという摩訶不思議な日記である。以
下のような、作家の直感的な、鋭い洞察が出て来ることでも、そ
れは判る。作家の直感は、鋭くて、深い。

「というか最近、新聞やテレビの様子が変だ。なにかが起きてい
るようなのだけれどもそのなにかというのが分からない。ますま
す先行きが不安だ。肩が痛い」

世の中、右傾化をし、キナ臭い時代に突入しているが、「新聞や
テレビ」では、ほとんど、伝えられない。伝えられないから、多
くの人は、危機的な時代状況を深刻に受け止めないまま、日々
を、のんべんだらりと過ごしている。例えば、選挙の期間中に、
市長候補が銃撃されて、暗殺されてしまうということが、つい最
近も、起こった。武士が、剣を持って、殺しあいをした戦国時代
ではあるまいし、あるいは、西部劇の時代やギャングが暗躍した
アメリカの暗黒時代ではあるまいし、現代日本で、実際に起きて
いるのだが、「新聞やテレビ」では、こうした事件の背景に迫る
ような報道をしないまま、上っ面だけに情報が流れて、おしまい
で、もう、事件も事件の衝撃も、「風化」してしまっているよう
で、結局、「なにかが起きているようなのだけれどもそのなにか
というのが分からない」まま、日々が過ぎてゆく。

「憲法」も、外堀を埋めるように、「解釈」を積み重ねて、事実
上の「解釈改憲」状態を構築して来たと思ったら、その究極の果
てに、「集団的自衛権」を「解釈改憲」で、「憲法」を維持した
まま、可能にさせようという、「有識者」会議なるものを、時の
権力者が、発足させたというから、驚きだ。「有識者」も、軽く
見られたものだ。その一方で、「国民投票法」を選挙前に成立さ
せて内堀を埋めるように、「改憲」への途を進もうとしている。
外堀も埋めて、内堀も埋めて、時の権力者は、時代遅れのアメリ
カ追随主義で、「戦争放棄」という傘の外へ出ようとしている。
いまのアメリカは、単独覇権主義で、一所懸命、墓穴を掘ってい
る。そういうアメリカに追随して、「戦争放棄の傘の外」に出れ
ば、「戦争」という荒野が待っているだけという想像力が働かな
いのか、「新聞やテレビ」も、「なにかが起きているようなのだ
けれどもそのなにかというのが分からない」ままに、ほったらか
しにしている。残された国民の一部は、「ますます先行きが不安
だ。肩が痛い」という町田康の嘆きに、そうだそうだと同意する
だけましな方で、国民の多くは、「なにかが起きているようなの
だけれどもそのなにかというのが分からない」けれど、自分の生
きている間くらいは、大丈夫だろうと、タカを括り、全く、根拠
のない理由の上に、胡座をかいている。
- 2007年5月1日(火) 21:28:06
4・XX  武田百合子については、最近、「富士日記(上・
下)」を再読したので、印象に残っている。日記には、中央公論
「海」編集部の編集者として、富士山麓にある武田泰淳の別荘
「武田山荘」をときどき訪れた村松友視の姿も、断片だが、描か
れている。「富士日記(上・下)」は、30年も前に刊行された
本で、田村俊子賞受賞。日記は、富士山麓に建てた別荘で過ごす
武田夫妻の10数年が、記録されている。東京・赤坂の自宅と山
荘を行き来し、山荘での生活のみが、細かく描かれている。村松
友視は、その後、「百合子さんは何色」という武田百合子論を書
いている。「富士日記(上・下)」に続いて、「百合子さんは何
色」も再読した。

終生、武田百合子ファンという立場で、武田泰淳夫人の百合子に
温かな気遣いを見せて、亡くなった埴谷雄高は、若い頃の泰淳、
百合子の生活を知っていて、武田と同棲するようになってからの
百合子の立場を「一種の妾」だったと書いている。1947年か
ら50年の間に、「死ぬ苦しみで四度目まで子供を堕した」とい
う百合子は、修羅の女だったのだろう。鈴木家という、お金持ち
の家庭のお嬢様として育った百合子だが、幼くして、母を亡く
し、18歳の秋、直前の横浜空襲で焼け出され、敗戦の前年に
は、父を亡くした。その挙げ句、鈴木家は、没落するなど、武田
泰淳と出逢うまでにも、修羅を生きて来た。

鈴木家の悲劇は、百合子の祖父の時代から始まる。1919年5
月31日、横浜の外米商人の鈴木弁蔵が、農商務省外米課の技師
山田憲とその友人の農学士渡辺惣蔵によって惨殺された。山田は
死刑に処され、渡辺は、懲役15年の刑罰を受けたが、二人と
も、「正義の犯罪」めいた意識を持っていたという。祖父惨殺の
事件が起きた頃、世間には、1918年夏の「米騒動」後の、騒
然とした雰囲気が残っていたのかも知れない。米屋の丁稚から叩
き上げた一代の成り金米穀商の米の買い占めのよる米価高騰を不
満とした民衆の暴動が、「米騒動」だった。鈴木弁蔵も、一代で
財を築いたという。弁蔵の娘婿が、百合子の父親で、この父親
が、妻の死去後、後妻に迎えた女性との間に百合子が生まれてい
るから、百合子と祖父の弁蔵との間には、血の繋がりは無い。

百合子は、武田泰淳と出逢う頃、駿河台下の酒も出す喫茶店「ら
んぼう」のウエイトレスをしていたが、年上で、若い頃より、大
人(たいじん)の風格のある泰淳の前に付き合っていた旧制高校
の生徒がいた。「らんぼう」は、経営者が、出版社も経営してい
たことから、文学青年、同人誌愛好家などの溜り場になっていた
ようだ泰淳の世代から見れば、一世代ほど下になる旧制高校の生
徒とは、山形高校の生徒で、後の戯曲家・八木柊一郎。1946
年12月刊行の「世代」12月号に発表した「放心の手帖」のほ
か、「三人の盗賊」などの作品で知られる。

貧しい百合子は、泰淳と知り合った当時、いつも腹を空かせてい
た。泰淳は、口数が少ないものの、百合子に逢うと、なにか、食
べ物を奢り、自分は、煙草を吹かして、おいしそうに物を食べる
百合子を、にこにこしながら、見ていたという。泰淳は、後に、
百合子の一族の話を「血と米の物語」として、作品化するが、こ
の作品は、全集には、入れなかった。

武田百合子は、泰淳に薦められて、新編雑記として書いていた
「富士日記」を泰淳の死後、中央公論の編集者に薦められなけれ
ば、出版しなかったかも知れない。「富士日記」が、出版されな
ければ、百合子は、目配り、気配りのできる作家夫人のままで生
涯を終えてしまったかも知れない。しかし、誰にも似ていない、
独特の輝ける感性の持ち主であり、他人(ひと)と違う独特の眼
差しが、他人の眼から鱗を剥がす文章は、世に出て、その後の、
寡婦の文学活動は、泰淳の文学活動とは、違う存在感で、私たち
の前に諸作品を遺した。放心の人・武田百合子。百合子が言うよ
うに、「糸が切れて漂うごとく遊び戯れながら」私も、物を書い
てゆきたい。

- 2007年4月30日(月) 12:14:40
4・XX  森村誠一「地の果て海尽きるまで 小説チンギス汗
(ハン)」(文庫版で上・下)は、映画「蒼き狼 地の果て海尽
きるまで」の原作本という。映画は、「モンゴル建国800年記
念」と銘打たれている。

チンギス汗については、井上靖の「蒼き狼」という優れた先行作
品があり、私も、以前に読んだが、井上作品が、引き締まった文
体でモンゴル帝国の創始者の生涯を描いたというなら、森村作品
は、モンゴル帝国の叙事詩の人間群像を饒舌な文体で、文字どお
り、「地の果て海尽きるまで」広大に描いたと言えよう。

覇道を行くチンギス(鉄木真=テムジン、幼名。1162ー
1227。65歳で没)の躍進を始め、オゴデイ、グユク、モン
ケなど後に続く者たちの混乱振り、中興の祖、クビライの活躍な
どが描かれる。モンゴルの統一から世界制覇の野望と挫折、およ
そ130年の物語だ。特に、日本と関係が深いのが、クビライで
ある。南宋を滅ぼし、中国に元王朝を築き、日本遠征を図った。
いわゆる、「蒙古襲来」で、日本でいえば、「文永の役」、「弘
安の役」と言われた。時の、若き執権・北条時宗が、対抗し、2
度とも台風に助けられ、日本側が、防御した。
- 2007年4月30日(月) 11:10:53
4・XX  北杜夫「どくとるマンボウ回想記」は、北杜夫が、
日経新聞に連載した「私の履歴書」を主軸に、同じようなテーマ
で断片的に書いて来た数編の短文などをベースにして、さらに、
隙間を埋めるような書き下ろしの短文10数編を加えて、一冊の
本に仕立てたというもの。従って、一部には、ほとんど同じテー
マで書いていて、内容がダブるものの、角度が違うので、別の作
品として認定せざるを得ないような文章も混じっている。興味深
く読んだのは、躁鬱の症状と文学の日々の交錯が、ユーモラスに
回想されている点であった。

「のちにウツ病になったとき、初めはジタバタしたが、やがて
『虫の冬眠』と称して、ひたすらじっと寝ていて、必然的にやっ
てくる春を待つ術を私は覚えた」とあったが、「鬱病で自殺」、
「いじめで鬱病に」などと新聞の社会面の記事に混じって来る最
近の事象も、北杜夫の、この本を読んでいて、別の解決策がある
のではないかと思った。この一文に出逢っただけでも、「どくと
るマンボウ回想記」は、私にとって、価値があった。
- 2007年4月29日(日) 21:37:25
4・XX  柳美里「石に泳ぐ魚」は、柳美里の幻の処女作。モ
デルがあり、小説化されたことで、プライバシーが、侵害された
として、94年、雑誌「新潮」に掲載後、単行本の刊行が、差し
止められ、損害賠償が請求される裁判ざたとなった問題作。結
局、裁判は、8年間に及び、02年9月、最高裁判所は、出版の
差し止めと損害賠償を柳美里と出版社に対して命じる判決を言い
渡した。一方、裁判の過程で、柳美里は、雑誌掲載とは違った形
で、「改訂版・石に泳ぐ魚」を提出し、これについても、原告と
の間で、争いになり、原告側は、出版の差し止めを請求したが、
東京地裁は、1審判決で、原告側の請求を棄却した。その後、
「改訂版」についての争いがなく、「改訂版」は、02年10月
に新潮社から出版された。

主人公は、ソウルに住む韓国人で、彫刻の勉強をしている朴里花
(ぱくりふぁ)は、日本の美術大学を受験するために来日する。
在日韓国人で、演劇をやっている戯曲家の梁秀香という女性の眼
で、里花を見るという形で、物語は進行する。作者と等身大の秀
香と小説のモデルとなった韓国人女性の関係、韓国人女性の経歴
や風貌描写から、韓国人や在日韓国・朝鮮人では、里花のモデル
の実在の女性は、良く知られてしまった。

「岩陰に潜む沈み魚のような里花の顔」という表現があり、主人
公は、顔の左側に痣があるが、右側は、美しい人だとある。「魚
がだんだんと変化して鳥になってゆく過程を、三十四インチテレ
ビ程の大きさの石版に彫り込んである作品」が出て来る。「海底
に隠れる魚、水面に浮かびあがる魚、海と空の境界線、水平線に
躯を分断された魚、飛び魚のように胸鰭を開き水上を跳ねまわる
魚、空に浮いた魚、鳥になって空を自在に泳ぐ魚。鳥が墜ちて海
に沈み、魚になってゆく過程のようにも見える。グレイの石板が
海の冷たい碧から、空の落陽の瞬間の黄色に移り変わるグラデー
ションのようにも見えて、とても美しい」と秀香が誉める里花の
作品が、小説のタイトルを暗示するように、巧く使われている。

「私にとってあなたは魔除けなの」と秀香が里花に面と向って言
う。「他者に見捨てられそうになった時、憎悪をかきたてて自分
を防御する」という性癖のある秀香は、作者そのものを思わせ
る。親友との訣別の物語は、作品化されたことで、8年に及ぶ裁
判を二人の間に残した。それにしても、柳美里にとって、「魚」
という言葉は、キーワードになっているようで、岸田國士戯曲賞
受賞作品が、「魚の祭」、エッセイ集のタイトルが、「魚が見た
夢」。小説の結末部分で、「彼女の顔の中に棲む魚」という表現
が出て来るが、「魚」とは、柳美里にとって、痣なのかもしれな
い。人間関係を壊すのが、柳美里の体内にある座であり、その痣
こそが、柳美里の創作のエネルギー源なのかもしれない。そうい
う意味でも、「石に泳ぐ魚」は、柳美里文学の原点であると言え
よう。
- 2007年4月28日(土) 22:12:55
4・XX  書庫を整理していて、未読の本を見つけて、読みは
じめたら、おもしろくなり、同じ作家のものを続けて読みふけ
る、ということは、よくあることだ。今回は、石和鷹の作品が、
そうだ。まず、東京・神田の古書店で、付いている定価の半額と
称して、店の前の台に載っていたのが、「茶湯寺(ちゃとうで
ら)で見た夢」というタイトルで刊行された短編作品集であっ
た。実は、石和鷹の作品を読んだことが無いまま、過ごして来た
のだけれど、近しい作家の河野修一郎から読むことを薦められた
ことがあり、名前だけは、承知していて、何冊か本を買ったこと
がある。それらが、未読のまま、書庫に埋もれていたと言うわけ
だ。

標題になっている94年の作品「茶湯寺(ちゃとうでら)で見た
夢」は、下咽喉癌が発覚された後の不安定な日常を描いている。
放射線治療をしたが、全治せず、下咽喉を全摘出する。つまり、
声帯を失った上、咽喉に10円玉大の穴が空く。以後は、筆談を
するか、「銀鈴会」という、同病者の集まりで、食道発声を訓練
し、声帯の代りに食道を使って声を出せるようにするかしなけれ
ばならない。これが、なかなか難しいらしい。私の大学の先輩
が、同じ病気になり、声帯を取る手術をし、「銀鈴会」に入り、
見事に食道から声を発している人がいる。しわがれた独特の声で
あるが、この人の場合は、電話でも、きちんと聞き取れるほど熟
達したが、石和は、なかなか巧く行かないようだ。

それでも、体調が回復し、以前は、行き着けだった居酒屋に行
き、周りの人の話に耳を傾けることが好きで、ときどき行くよう
になる。ある日、そこで、「大山参り」の話をしているグループ
の話を聞き取り、大山にある涅槃像で知られる茶湯寺の「百一日
参り」に自分も行ってみようという気になり、家族に黙って出掛
けてしまう。「百一日参り」では、亡くなった人にそっくりな人
に出逢うという奇遇があるという。果たせるかな、主人公も、同
年齢くらいの婦人と出逢うが、話をしている内に、自分が、その
婦人の亡くなった夫にそっくりだということが分かって来る。つ
まり、婦人が、主人公の妻であり、妻の夫である主人公は、自分
の死後の姿だという、いわば、ブラックユーモアの作品というわ
けだ。

93年の作品「利根大漁歌」は、埼玉県の北東部、利根川沿いの
街、羽生出身の石和の世代が、還暦を迎えたことから開かれた小
学校の同窓会に初めて参加したときの話だ。主人公は、還暦を迎
え、腰痛には、悩まされているものの、まだ、癌は、発覚してい
ない。椎間板ヘルニアに拠る座骨神経痛だが、これが痛い。

石和は、還暦を迎えた93年の5月末に下咽喉癌が発覚し、放射
線治療と声帯の摘出手術を受け、死の恐怖に震える姿を直視し、
それを文学作品に昇華させて行く。石和は、病気の進行に合わせ
て文学的営為を深めて行き、95年には、私は未読の「クルー」
で芸術選奨文部大臣賞を受賞する。さらに、ライフワークとなる
「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし 小説暁烏敏(あけが
らすはや)」を97年に刊行し、伊藤整文学賞を受賞したもの
の、命永らえず、97年4月に逝去する。4年間の実に濃い文学
的営為が続く。そして、死後の、97年7月に刊行されたのが、
「茶湯寺(ちゃとうでら)で見た夢」という短編作品集というわ
けだ。

さて、また、「利根大漁歌」に戻ろう。小学校の同窓会を前に主
人公は、奥利根紀行を試みる。自分が、高校生まで親地域の利根
川の、いわば、青年期のような若々しい流れの表情を見たいがた
めに上流に遡る。そして、小学校の同窓会。小学生時代の初恋の
想い出とその相手との再会。「利根川土手の陽だまり」のよう
だ。同窓会後に発覚した癌を退治に主人公が受けた放射線治療
は、月ー金の毎日治療で、病院に通い続け、4週間で、20回照
射を受けるという過酷なものだ。「村の渡しの船頭さんは今年六
十のお爺さん」という童謡が、低奏音として、聞こえて来る作品
だ。

「ババジェフスカ」は、95年の作品。病院の「リニアック治療
室」という、放射線治療が主軸となる。この病院では、放射線治
療の際、患者の気分を紛らわすために、放射線照射に合わせて、
「乙女の祈り」の音楽を患者に聞かせるという。この治療室で、
主人公は、まさに「馬があわない」という性格不一致の典型的な
人物と同席する羽目に落ち入る。「ベレー帽をのせた赤黒い野卑
な顔」の男は、見知らぬ患者なのだが、「馬があわない」と、主
人公は、直感してしまう(こういう直感は、相手も、同じように
直感するから、更に馬があわなくなる)。見たくも無いと思いな
がら、治療室の待合所で良く鉢合わせをする。あるときなど、隣
り合わせて座ってしまい、お互いに放射線治療の時に聞かされる
「乙女の祈り」の作曲者の若い女性の名前を「ババジェフスカ」
「バダジェフスカ」「バダルチェフスカ」だと論争になる。癌治
療の放射線照射という不快感が生み出したかもしれない、馬のあ
わない者同士の鉢合わせという更なる幻想なのかも知れない話な
のだ。

同じく95年作品の「甚兵衛広沼のブラックバス」も、奇妙な味
の短編だ。印旗沼を舞台に、ブラックバス釣に友人と出掛けた主
人公が、沼に落ち、咽喉に空いた10円玉大の穴に泥水が入り、
死んでしまう幻想的な作品だ。これも作品集の標題作「茶湯寺
(ちゃとうでら)で見た夢」同様の、死の影、あるいは、死後の
世界への恐怖がテーマだったのだろうと思う。

96年の作品「おばんの湯の町」は、主人公を証券会社で知り
合った株売買の仲間の70歳と74歳のおばあさんたちに設定し
ている。70歳の桐代は、肺癌の告知をされたのだが、仲良しの
74歳のとみに言い出せないまま、二人で、湯河原温泉に旅行に
来ている。「かまやしないよ。七十すぎたらなにをしたっていい
んだ。これまでさんざっぱら世のなかのお役に立ってきたんだか
ら」というのが、作家の開き直りでもあるのだろう。97年の作
品「平成七年のネバーダイ」の5つが、短編作品集に所収されて
いる。

97年に刊行された「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし 
小説暁烏敏(あけがらすはや)」を書庫で見つける。読まなくて
も、ちゃんと石和の問題作は、入手してある。買い求めてから、
10年経って読みはじめるというわけだ。「地獄は一定(いち
じょう)すみかぞかし」は、サブタイトルに「小説暁烏敏(あけ
がらすはや)」とあるように、怪僧・暁烏敏を主軸としながら、
無頼派作家・石和鷹の人生を二重写しにしている。つまり、フラ
ンス写実主義文学の旗手・フローベールの「マダム・ボヴァリ−
は、私だ」と言うように、「暁烏敏は、私だ」という作品。下咽
喉癌で声帯を失った晩年の石和の、いわば、末期の眼で戦前か
ら、戦中、戦後にかけて、独特のセンスで、仏教の近代化運動に
取り組む一方で、若い女性たちを巻き込んだスキャンダルを公言
して憚らない、強かな浄土真宗大谷派の怪僧の生涯を追跡する。

ユニークな暁烏敏という名前は、実は、本名で、父親の代に新内
節で流行り、江戸の市村座で清元の歌舞伎化もされている「明烏
春淡雪(あけがらすはるのあわゆき)」の「明烏」に因んで戸籍
名を「暁烏」にしたという。「明烏春淡雪」は、別名「浦里時次
郎」という恋物語で、雪のなかで遊女の浦里が、折檻される場面
で知られる。

暁烏は、親鸞の「歎異鈔」を原典として、念仏を重視しながら、
仏教の近代化運動に取り組み、大谷派の改革を目指した。暁烏敏
の代表作「歎異鈔講話」は、今も講談社学術文庫で刊行されてい
る。そこには、暁烏敏の虚像がある。石和は、暁烏敏を担ぎ出
し、自分と同じように、癌手術で声帯を失い食道を使った発声法
を学ぶ「銀鈴会」に通う老女の湯浅よね子という、多分、石和が
こしらえた架空の人物と石和本人と等身大の主人公との、いわば
「三角関係」のなかで、執拗に暁烏敏の実像を追い続ける。畢竟
するに、「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし 小説暁烏敏
(あけがらすはや)」とは、そういう作品だろう。

石和は、癌という病魔に襲われた後、それと正面から向きあい、
いくつもの作品を生み出し、大きな文学賞を受賞したが、それら
の作品は、ほとんど入手困難で、新刊本の書店どころか、古書店
でも、なかなかお目にかかれない。

私の書庫には、これまでのところ、3冊の石和作品の単行本があ
り、芥川賞候補作品となった「掌の護符」と「果つる日」のふた
つの作品が所収されている短編作品集「果つる日」も、書庫に
あった。これまで取り上げて来た2冊の単行本は、石和自身の癌
との戦いで生まれて来た作品だが、短編作品集「果つる日」は、
それより、10数年前に石和を襲った妻の病魔との戦いの物語で
ある。

肺癌で死に行く妻、小学生の娘と息子を抱えながら、妻の入院す
る病院近くのホテルで人妻との情事に耽る夫。破滅型の作家が描
いた、癌という病。癌死する妻を看取りながら、立ち往生する
男。生来の性的欲望から破滅を承知でもコントロールが効かない
人生を送る男。そういうオーバーアクションになりがちなテーマ
を抑制の効いた(それゆえに、命を縮めたのだろう)小気味の良
い文体で私小説作家は、活写して行く。死に行く妻の姿を描いて
いた頃、石和は、後年、自分も癌で死ぬとは、夢想だにしていな
かっただろう。

映画監督の浦山桐郎も、女性関係にだらしなく、破滅型の人生を
送った人だが、石和鷹も、戦中の世相のなかで、「破滅型」と呼
ばれた葛西善蔵などに繋がる作家系の人だと思った。石和の作品
は、古書店で探して、もう少し読んでみたいと思った。
- 2007年4月11日(水) 22:29:30
3・XX  今期(06年度下期)芥川賞受賞の青山七恵の受賞
作「ひとり日和」と05年度文藝賞受賞作の「窓の灯」を続けて
読む。

「ひとり日和」は、高校を卒業したあと、大学に行かず、正規に
就職もせず、フリーター生活を続けている女性が、高校の国語の
教師をしている母が中国に留学するのを切っ掛けに母子家庭を飛
び出し、東京で独居生活を送っている遠縁の老女のところで一緒
に住みはじめる。男友達との別れと出逢い、また、別れというエ
ピソード(そうなんだ、男友達とのことは、エピソードでしかな
い。ここが、青山作品の新しさだ)を交えながら、四季を過ごし
た老女との生活からも、巣立って行く。正規社員登用という道へ
踏み出す。若い女性の魂の自立の物語。選考委員のひとり、村上
龍が言うように「嘘のない自立を描いた、希有な作品」かどうか
は知らないが(青春の自立というのは、古来、文学作品の永遠の
テーマではないか。それとも、「嘘のない」のが、希有なの
か)、細部の描写が的確なことと会話のテンポが良く、あらゆる
ことから自立しようという若い女性の積極的な生き方というテー
マが明確に伝わってきて、良い作品であった。

「窓の灯(あかり)」は、大学を辞めて、喫茶店でアルバイトを
している。喫茶店の経営者の「姉さん」の好意で、その喫茶店の
2階にある部屋を借りることになった。その部屋は、向いの建物
とも近いので、向いにある2階建てのアパートの部屋の動きも、
分かってしまいそうだ。当初、そこは空き部屋だったのだが、1
ヶ月ほど前に、引っ越してきた人がいる。若い男性で、ときど
き、少女が泊りに来る。カーテンを閉めないと、丸見えになって
しまう。それは、お互いさま。やがて、主人公は、こっそり、向
いの部屋の窓の中を覗くことが、「日課」になってしまった。姉
さんは、男たちと奔放に付き合っている。窓の灯の向こうに繰り
広げられる他人の世界。若い女性による「覗き行為」。やがて、
主人公は、夜の街を徘徊し、「覗き」は、主人公の、社会との独
特の関わり方として、続けられる。それは、また、若い女性の、
一種風変わりな自立の方法なのかも知れない。そういう意味で、
「窓の灯」は、第2作「ひとり日和」のテーマに繋がって行く。
姉さんは、71歳のおばあさんに変って行くが、映像的な、ビ
ビッドな描写力のある文章が、この若い作家の持ち味だと言うこ
とが判る。
- 2007年3月11日(日) 14:30:02
3・XX  田月仙(チョンウオルソン)「海峡のアリア」は、
在日韓国人のソプラノ歌手が、自分の家族の歴史を軸に南北に分
断され、特に北朝鮮に非情な独裁者を抱える祖国の実状を描いた
ノンフィクション作品。06年度の小学館ノンフィクション大賞
の優秀賞受賞作品。

作品の記述によると、1982年、東京と大阪で、在日韓国・朝
鮮人が主体となった音楽祭「アリランの夕べ」が開かれることに
なり、その準備をしている過程で、大阪在住の詩人・金時鐘(キ
ムシジョン)と作家の梁石日(ヤンソギル)が、プロの歌手デ
ビュー前の田月仙と出逢ったとある。その頃、私は、取材で知り
合った金時鐘に連れられて、西新宿(十二社)のスナックで、金
に紹介された梁石日とそこのスナックでアルバイトをしていた田
月仙に逢ったことがある。これも、1982年頃のことだ。梁石
日は、確か、作家デビューする前で、タクシーの運転手をしなが
ら、ものを書いていた頃だと思う。金さんは、私を梁さんに紹介
するため、そのスナックに私を連れて行ったのだと思う。後に、
梁さんに再び逢う機会があったとき、四半世紀前に、金さんに紹
介されて、新宿で逢ったことがあるけれど、覚えてますかと聞い
たら、全く、覚えていないようだった。まあ、閑話休題。

田月仙は、総連の活動家一家で高校まで民族学校に通い、日本の
大学受験の壁に突き当たりながら、なんとか音楽大学に進み、
1983年、リサイタルで、プロのオペラ歌手デビューを果た
し、1985年、北朝鮮の平壌で開かれた「春親善芸術祝典」
(世界音楽祭)に招かれ、金日成の前で、北朝鮮の革命歌劇「血
の海」のアリアを歌ったという。この際、すでに北朝鮮に帰還し
ていた四人の兄たち(彼らは、母親が前の夫との間にもうけてい
た異父兄弟であった。母親は、数年前、北朝鮮訪問の際に、息子
たちとすでに再会している)に25年ぶりに再会できたが、兄た
ちは、強制収容所に容れられ、その後、出所していたが、痩せ細
り、母親が日本から送ったスーツを着ていた。一人の兄は、すで
に収容所時代に亡くなっていた。その後、1990年、2001
年と、二人の兄も、相次いで亡くなり、四番目の兄は、その後、
音信不通となってしまったという。

その後、1994年、ソウル定都600年記念公演として、オペ
ラ「カルメン」が、上演されることになり、田月仙は、主役のカ
ルメンを演じるため、韓国に渡った。さらに、父母の故郷・晋州
(チンジュ)を訪ね、先祖の墓参りをし、親戚とも逢った。その
際、ソウルで買い求めた古いレコードやテープのなかから「高麗
山河わが愛」を見つけだし、朝鮮半島の南北分断を悲しむ歌とし
て、甦らせ、1995年、東京で開かれたリサイタルで披露し
た。その後、田月仙は、「高麗山河わが愛」の作詞・作曲した歯
科医を探し出し、1996年、アメリカまで逢いに行っている。

海峡を越えて、アリアを歌いつづけた田月仙は、ひとりの在日の
オペラ歌手の物語という、自伝的記述をベースにしながら、北朝
鮮当局による拉致事件も視野に入れながら自分の家族を取り巻く
南北朝鮮の現状(南北分断で、家族が引き裂かれる、恐らく在日
韓国・朝鮮人にとって、どこの家庭にも、似たような状況がある
のではないか)を書き込んで行く。ただ、記述方法が、一部客観
的でないため、歌手としての成功譚という印象が残り、下世話に
言えば、「自慢話」めいた違和感があり、損をしていると思う。
悲劇の主人公の自慢話という印象は損である。自分を突き放し
て、書き切れていれば、ドラマチックな内容だけに、もうちょっ
と、感動を呼んだのではないかと、残念だ。こういう物語は、書
き方が難しい。
- 2007年3月6日(火) 21:00:15
3・XX  「不在っていうのは影みたいなものだ。エスケイプ
したら不在が残る」

ある人が、エスケープすると、ある人がいた場所からみれば、あ
る人は、アブセントになる。

絲山秋子「スモールトーク」は、外国車のカタログ的紹介に別れ
た男との「より戻し」の話が絡む。絲山って、車と乗馬にのめり
込んでいるだね。新人ながら、短編の名手で、「スモールトー
ク」を車のカタログ的エッセイにせずに、小説としても読ませて
しまう手腕は、確かなものがある。その割には、正体不明の本と
いう印象が抜けずに、この本は、損をしている。「外国車を絡め
た小噺」が、「小説・スモールトーク」というわけだ。

別れた男と言うのは、いわば、女の前から、エスケープしたわけ
だから、アブセント(欠席)な状態にあるが、寄りを戻すと、
戻ってきて、出席することになる。しかし、おおっぴらに戻って
きたと言うのも気恥ずかしいので、出欠を取るとき、「はーい」
と元気良く、大声で返事もできず、小声で話すことになる。

引き続き、同じ絲山の最新作「エスケイプ/アブセント」を読
む。2006年、40歳になった双児の兄弟の話。18歳まで仙
台で育ち、それぞれ東西に別れて暮らしながら、学生運動の果て
に、潜伏生活20年という双児の兄の主人公が、東京から旅に出
る。兄に付きまとっている公安刑事に挨拶をして、現状からのエ
スケイプ(「エスケープ」なら、ワープロで一発で変換できるの
に、なぜか、絲山は、「エスケイプ」なので、「エス系プ」と
なってしまう。実は、「エスケイプ」とは、兄が20年間探して
いるロバート・クインとジョディ・ハリスのレコードのタイトル
なのだ)というわけだ。

旅先の京都のレコード店で怪し気な西洋坊主(神父)と出逢い、
坊主のいる教会の居候となる。奇妙な同居生活。どちらもユニー
クな男たち。さらに教会の信者や近所の人たちも巻き込む。実
は、京都大学の学制だった主人公の双児の兄弟が、数年前、この
界隈に住んでいたことが判る。主人公は、セクトの活動家、弟
は、ノンセクト・ラジカルというアナーキストの活動家。双児だ
から、二人は、長い間逢っていないとは言え、いまも瓜二つらし
い。主人公は、髪が短い。物心ついた頃から、髪を伸ばしたこと
がない。居酒屋の親父に、突然「髪、切ったんやな」と言われ
る。(おれじゃない)と思いながら、弟のことだと感じ取り、
「ああ」と気の無さそうな返事をする。4年前、京都の、この界
隈に弟はいたようだ。「少なくとも、四年前には生きていた。何
の用事だったのか、京都に来た、或いは京都に住んでいた。それ
だけ生き抜きゃ、今だって生きているだろう、多分、きっと」と
兄は、思う。

双児の兄は、叡山電鉄のケーブルカーに乗り、比叡山の山頂か
ら、京都の街を眺めたら、東京に戻るつもりになった。山頂から
は、京都が見えるのではなかった。琵琶湖が見えるのだ。ここま
でが「エスケイプ」。

一方、京都の街にいなかった双児の弟は、2002年現在、「ア
ブセント」というわけで、仙台18年、京都3年半、福岡15
年。不在生活を送っている(と言っても、作品「エスケイプ」か
ら、4年前の話だ)。

最近は、本屋でバイト。大分出身のガス会社の正社員の恋人と付
き合って、2年、現在、36歳。働いている書店に学生運動仲間
で、いまは京都の私立大学の助教授をしているのが、出張で福岡
に来て、この書店に立ち寄り、偶然現われた。その夜、その同級
生から電話。二人の知人の大学時代の友人が交通事故で死んだと
言う。弟は、その友人から10万円を借りたまま、返さずに、エ
スケープしていたのだ。大津まで香典を届けに行き、つまり、
10万円を返しに行き、京都の助教授とも逢うことにする。恋人
の実家に結婚を申し込みに行く予定だった休みを利用して。京都
で助教授と待ち合わせをして、双児の兄が4年後に行くことにな
る居酒屋に久しぶりで行ったのだ。つまり、ふたつの作品の接点
が、居酒屋なのだが、4年の時間がずれている。

「不在っていうのは影みたいなものだ。エスケイプしたら不在が
残る」ということだ。

死んだ友人の家に香典を届け終えて、弟は、琵琶湖まで歩いた。
すぐだった。湖畔で、弟は、比叡山を眺める。4年後に、双児の
兄が、山頂から琵琶湖を眺め下ろすとも知らないで。「早く帰っ
てやんなきゃなー」。大分まで行き、恋人の両親に結婚を申し込
まなければならない。双児の兄弟にとって、人生は、これから
だ。人生は、まだ、たっぷり残っている。
- 2007年3月5日(月) 21:20:18
3・XX  吾妻ひでお「逃亡日記」を読む。漫画家が書けない
と、アルコール依存症になり、たびたび、失踪し、ホームレス生
活を送っていた漫画家が、失踪中の実体験を漫画作品「失踪日
記」として、刊行したところ、日本漫画家協会大賞受賞、文化庁
メディア芸術祭マンガ部門大賞受賞、手塚治虫文化賞マンガ大賞
受賞など立て続けに「大賞」を受賞した。その経緯やらをロング
インタビューし、幕間に書き下しの漫画と撮り下しの写真(ホー
ムレス時代の現場再訪)という、タイトルからして、まさしく、
「柳の下の泥鰌」を狙った「便乗本」である。

幾分、開き直っている吾妻とインタビュアーの編集者(「柳の下
の泥鰌」を狙った張本人だろう)の温度差が、透けて見える本で
ある。1950年、北海道生れの漫画家は、ほとんど、私と同世
代。医療保護入院までしてアルコール依存症は、治癒したようだ
が、喫煙依存症は、続いているようだし、鬱病もあるようだし、
気をつけて、お過ごし下さい。自画像のイラストとサイン入り
の本を入手。「柳の下の泥鰌」を狙った編集者の執念が、漫画家
に多数のサイン本を仕立て上げさせたのだろうが、狙い通りに、
売れている気配。鬼編集者には、負けるよ。
- 2007年3月3日(土) 10:29:40
3・XX  谷川俊太郎・太田大八「詩人の墓」、谷川俊太郎・
荒木経惟「写真ノ中ノ空」。最近、ほかのジャンルとの競演に積
極的に乗り出している詩人・谷川俊太郎の本。前作は、言葉を操
る詩人の運命を「自虐的」とも言える視点で作った詩に絵本作家
が絵を添えたもの。詩しか作れない詩人に飽き足らない女の嘆
き。詩人は、ほかの人の墓碑名を刻んだが、詩人の「墓には言葉
はなにひとつ刻まれていなかった」。

「その墓のかたわらに/気がつくとひとりぼっちで娘は立ってい
た/昔ながらの青空がひろがっていた」

抽象画の絵本は、そういう詩人の魂に触れて、色鮮やかなコンポ
ジションで、要求に答えようとした。

後作は、詩人の書き下ろしの詩のほか、既に書いてある詩から、
空をテーマに再構成したもの。それに、荒木が撮りためた空の写
真、つまり、「写真ノ中ノ空」とを組み合わせた。

「あの青い空の波の音が聞こえるあたりに/何かとんえもないお
とし物を/僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で/遺失物係の前に立ったら/僕は余計に悲しく
なってしまった」

失われても、失っても、人間は、悲しむ。1931生まれ。詩人
は、今年、76才になる。喜寿まで、もう1年。悲しみの1年が
続き、やがて、喜びの年が来る。禍福は糾える縄のごとし。有為
転変の世の中じゃなあ。いや、人生は、螺旋状に昇って行く。
- 2007年3月3日(土) 9:47:06
3・XX  北井一夫「80年代フナバシストーリー」を読む。
この本は、1989年に六興出版から刊行された写真集「フナバ
シストーリー」の復刻版で、冬青社からの復刻に当りタイトルの
頭に、「80年代」というのがつけられた。というのは、冬青社
では、北井が若干32歳で、1976年、第1回の木村伊兵衛賞
を受賞した作品「村へ」を軸にした写真集「1970年代
NIPPON」と「1990年代北京」を2001年に刊行して
いて、その、いわば第3弾として、「80年代フナバシストー
リー」が位置付けられるからだろう。

たまたま、写真集の販売に力を入れている渋谷の大型書店の写真
集コーナーを覗いていて、知り合いの北井の写真集を見掛けたの
で、とりあえず、「80年代フナバシストーリー」を購入し読ん
で見たというわけだ。書店の写真集のコーナーは、嫌いではない
ので、ときどき覗くのだが、最近は、専ら洋書写真集の方ばかり
で、国内の写真家の方は、とんとご無沙汰していたので、北井一
夫の近作も、知らなかった。実は、北井とは、20年ほど前に知
り合っている。というのは、北井が、船橋市の要請を受けて、
「フナバシストーリー」1984年から87年に掛けて、「船橋
の表情」を写していた頃、その撮影ぶりをNHKのニュース番組
で紹介する取材を私がしていたのだ。私が同行したのは、85年
の冬ぐらいか。船橋の団地などに撮影に行く北井と2、3日行動
をともにしたような記憶がある。4階建てくらいの団地の吹きさ
らしの階段を思い出すから、筑波颪の吹く寒い冬の日だったので
はないか。

北井によると、撮影を始めて1年ほどで、市役所から頼まれたイ
メージ(撮影の方向性)が、まだ腑に落ちない時期で、試行錯誤
しながら撮影していたようだ。団地、新旧住民の融和辺りが、市
役所の注文だったような気がする。北井によると、「結局、撮れ
たと思えたのは最後の半年」だったということだから、私が、
ニュース番組の企画リポートで放送した頃は、悩みながら写真を
撮っていた時期だったようで、私の取材は、かえって、北井の悩
みを倍加させていたのかも知れない。だから、いつまで撮影行が
続くのかもはっきりしていなかったし、私の企画リポートは、船
橋在住の木村伊兵衛賞受賞カメラマンが、「船橋の表情」を写真
に撮りつづけているという辺りを伝えただけだったような気がす
る。

結局、北井は、船橋の団地の内外をいろいろ撮影して廻り、首都
圏の郊外都市に住む家族というのは、地方の農村で跡継ぎになれ
ない次男、三男が、都会に出てきて、朝早くから夜遅くまで働き
ながら、船橋の様な新興住宅地の狭い団地住まいに、新たな
「村」を作っているという辺りに撮影のポイントを絞り込んで
行ったのだろうと思う。そうであれば、東北の田舎の村を4年間
掛けて、丹念に撮影した作品、「村へ」、「そして村へ」で、第
1回の木村伊兵衛賞を受賞したモチーフと同根であることに気が
付くだろう。つまり、都会の中の「村へ」が、船橋の郊外の団地
のなかで、浮き彫りにされたということだろう。

私は、86年の夏に東京の社会部に転勤してしまったので、87
年に船橋市役所で開かれた写真展「フナバシストーリー」は、取
材ではなく、拝見に行っただけだったかも知れない。いずれ、写
真集を刊行したいと北井は、言っていたと思うが、88年には、
東北地区担当のニュースデスクになり、仙台に転勤してしまった
ので、89年に六興出版から刊行された写真集「フナバシストー
リー」は、知らされなかったと思われる。

あれから、20年以上が過ぎ去っているので、記憶も曖昧だが、
今回、復刻版を書店で購入して、読んで見たけれど、以前から見
掛けているという印象はなかった。この写真集には、かなり長い
文章が、57ページもあるので、撮影の意図や苦心談などが判
る。首都圏の典型的な新興住宅地船橋を浮き彫りにすべく、団
地、そこに住む若い家族、子育て、子どもたち、団地の事件、事
故、噂、教育問題などを住民のロングインタビューを交えなが
ら、模索しているのが判る。

私が、千葉県を取材していたのは、82年から86年の4年間
で、主に、船橋、市川、浦安、松戸、柏など千葉県の北西部の地
域を取材で飛び廻っていた。東京の社会部の記者をしていた私
は、千葉県の担当になる前から市川の住民として千葉県内に住ん
でいて、地域で起こる新旧住民の軋轢などを肌で感じながら、首
都圏の郊外都市に共通すると思われるおもしろいニュースがいろ
いろあるのに、あまり伝えられていないなあと思っていた。同じ
千葉県の松戸に住む社会部の先輩記者が管理職デスクとして千葉
県担当になったときに私も連れて行かれたのは、千葉県のニュー
スをおもしろくしたいと思っていたことが、その先輩記者に伝
わっていたのかも知れない。それで、デスクと二人で千葉県の北
西部のニュースを発掘しては、東京に売り込み、次々に企画リ
ポートを放送して行った。千葉県は、当時、人口が500万ほど
だったが、北西部の人口は、200万以上と半分近い人が、この
地域に集中的に住んでいて、7割から8割は、俗に、「千葉都
民」と呼ばれた、新住民であった。圧倒的に新住民の方が、多い
のだが、地方議会は、少数派の旧住民が、牛耳っているというの
が、何処の自治体でも共通していて、それが、新旧住民の軋轢を
産んでいたのだ。なんとか、新旧住民のバランスがとれた新しい
地域社会像を提供する、そのための事実をニュースにして提供す
るというのが、地域ジャーナリストの仕事だろうと思っていた私
は、積極的に地域に入り込み、おもしろい人たちをどしどし紹介
して行った。そのひとりが、北井一夫だったというわけだ。だか
ら、北井が、団地の内外、家族、子どもたち、風呂場の煙突に掛
けられた洗濯物、埋め立て地、東京湾、花火大会、地方競馬場、
ストリップ小屋、商店、街工場、駅、通勤電車など、細部にも眼
を光らせて、「船橋の表情」を点描した写真集は、私の当時の取
材モチーフとも重なって来るのが判る。

あれから、さらに、20年が過ぎ去り、写真集に載っているもの
や人たちは、どう変っただろうか。1枚目の写真の空に浮かぶ白
い雲は、変らないだろうが、2枚目の新生児(女の子)は、すで
に成人式を終えている。ベランダに干された蒲団、洗濯物、鳥籠
のある部屋は、いま、だれが住んでいるのだろう。子どもたち
は、独立して狭い団地を抜け出して、何処か別の場所に住んでい
るかも知れない。だとすれば、還暦を過ぎた親たちが、ひっそり
と住んでいるかも知れない。あるいは、親たちは、第2の人生を
田舎暮しに切り替えて、あるいは、すでに亡くなってしまい、子
どもたちが、新たな家族を構成して住んでいるかも知れない。
20年後の姿は、写真集には、入っていないが、それは、まさ
に、私たちの、いまの生活の姿かも知れない。

江戸時代は、成田山新勝寺参詣の人たちが行き交った、佐倉街道
(成田街道)、江戸と行き来する行徳街道、房総方面を結ぶ上総
街道を結ぶ要の宿場町が、船橋であった。東京湾に面した漁業の
街という顔もある。近代化して、鉄道網が伸び、新興住宅地とし
て団地が次々に誕生し、「80年代フナバシストーリー」撮影時
は、人口50万だった船橋は、いまは、58万近い。数年の内
に、60万を超えるだろう。若かった新住民も、還暦を迎える。
新旧住民の間に、「中二階」のような、年を取った新住民層が入
り込んでいる。いま、新たな視点で、「フナバシストーリー」を
再構築したら、また、違った光景が見えて来るだろう。

団地は、一般の街の戸建て住宅のように、簡単に建て替えられな
いから、街並が、あまり変らない。しかし、街路樹などは、20
年も経てば、20年分、幹も太くなるし、背丈も高くなる。街並
が、変らないまま、樹木だけ、太く逞しくなっているというの
も、奇妙なものだ。私は、それを記者になって最初に住んだ大阪
のニュータウンの団地を阪神淡路大震災の前年に久しぶりで訪れ
た時に味わったことがある。あのとき、ついでに見て廻った神戸
の街は、半年後の冬に大破してしまった。
- 2007年3月2日(金) 22:47:36
2・XX  田山力哉「小説 浦山桐郎」を読む。映画「キュー
ポラのある街」で監督でビューと同時に寡作だが、丹念な演出で
知られる名監督となった浦山桐郎の生涯を描く。生涯に作った映
画は、第2作の「非行少女」(これぞ、浦山の最高傑作だと私は
思っている。和泉雅子主演)のほかに、「私が棄てた女」、「青
春の門」、「青春の門・自立篇」、「夢千代日記」など。酒乱
で、酒を呑むと人格が変り、優しさ故に女性との縁が複合してし
まう生活破綻者。映画「キューポラのある街」は、「双方向曲輪
日記」に詳細な映評を書き込んだので、関心のある人は見て欲し
い。

「小説 浦山桐郎」を読んでも判らなかったことは、なぜ、浦山
は、評判を呼んだ「キューポラのある街」の続編「未成年 続・
キューポラのある街」(吉永小百合主演、浜田光夫は出演してい
るが、そのほかのキャストは、第1作と替っている。野村孝監督
作品)を作らずに、「非行少女」を作ったのかということであっ
た。
- 2007年2月28日(水) 9:34:04
2・XX  俳句は、カメラのようなものである。一瞬の光景や
心情をカメラの代りに言葉で写し取る。私は、「こころあまりて 
ことばたらず」というような性向の人間なので、昔から五七五の
俳句では物足りなく、プラス七七の短歌が好きであった。七七の
魅力こそ、短歌の魅力だと思ってきた。とは言っても、自分で短
歌を詠むほど好きだったわけではない。他人の短歌を読むのが好
きだっただけだ(それも、系統だてて読んでいるわけではな
い)。そういう意味で、短歌には、物語のはじまりがあるという
説には、うなずける。

松村由利子「物語のはじまり」は、そういう説をベースに、構築
されている。サブタイトルが、「短歌でつづる日常」とある。
「働く」「食べる」「恋する」「ともに暮らす」「住まう」「産
む」「育てる」「見る」「老いる」「病む、別れる」という10
のテーマを詠んだ短歌が、取り上げられ、それを解釈し、さらに
そのテーマなり、短歌なりと松村の生活のかかわりを赤裸々に語
る。短歌の解説と人生エッセイを合わせたような文章が綴られ
る。そういう意味では、この「物語のはじまり」で言う「物語」
も、広辞苑が解説する「話し語ること」というより、短歌という
「詠うもの」を小道具にしながら、主役の松村が、想い出や心情
を「語る」という意味で、歌舞伎の古風な時代物の演出と通じる
趣がある。

「物語」というのは、古来、人形浄瑠璃や歌舞伎の時代物の演出
のひとつを示す言葉であり、主役が、想い出や心情などを語る一
段のなかの、重要な場面で、見どころ、聴きどころの演出をい
う。例えば、「熊谷陣屋」では、戦場から戻ってきた熊谷直実
が、父親とともに出征したひとり息子の小次郎を案じて東国から
やってきた妻の相模に平敦盛討ち死の場面を物語るが、敦盛の母
である藤の方が障子の陰で聴いていて、直実に斬り掛かるという
場面などで使われる。
  
松村は、新聞記者出身の歌人であり、歌詠みを生活の軸にするた
めに1年前に新聞社を退職した。例えば、「働く」では、同じ新
聞記者出身の歌人・島田修二の歌を取り上げ、読売新聞社を辞め
て大学の先生に転職したころを詠った歌に出て来るサラリーと語
源の「ソルト(塩)」を興味深く解きほぐす。松村の短歌解説で
は、単に歌の解釈だけでなく、一般に馴染みにくい語が出て来る
とコンパクトに解説して、取り上げた短歌の背景などを分かりや
すく説明するという、いかにも記者らし目配りが感じられて嬉し
くなる。私も、現役の記者のころには、どんなに難しい政治や経
済のニュース原稿であっても、中学生に判るように書くことを心
掛けたものだ。

先に松村由利子の「鳥女」という06年度「現代短歌新人賞」受
賞歌集を取り上げ、書評したが、松村の短歌には、独特の眼差し
があり、さらに松村には、それを的確に表現する感性がある。こ
の「物語のはじまり」には、松村の短歌は、一首も登場しない
が、10のテーマに分けられた、およそ二百首の短歌が、百十数
人の歌人(インデックスに、歌人の名前とともに生年、人によっ
ては、没年も明記されているのは、便利だ)によって詠われて登
場する。つまり、松村由利子の人生エッセイのなかに多数の歌人
の短歌が詰まっている。短歌の解釈は、31文字という短歌の文
字数に拘束されるから、古来より、歌枕、季語など、短い表現な
がら、共通の認識の広がりを担保する言葉(約束ごと=言)が使
われ、ときには、31文字で宇宙や世界までも表現する。また、
解釈は、ときに、多義になり、解説する人により、解釈が違って
来る。それはそれで、短歌の奥深いところであり、短歌鑑賞の愉
しみでもある。そういう意味で、この「物語のはじまり」のよう
なスタイルの本は、いわば、短歌の解釈を松村由利子の色に染め
ることに通じる。そういう本を私が松村とのかかわりを軸に私が
批評するということは、また、「物語のはじまり」を私の色に染
めるということにも通じる。私→松村→歌人たちという、染め
(嗜好)が濃淡に連鎖する構造だと言える。

これは、恰も、ロシアのユニークな人形である「マトリョーシ
カ」ではないかと気がついた。「マトリョーシカ」とは、ロシア
の民族衣装を着飾った、ちょっと太めの女性の人形の胴体部が上
下に割れると、中から、少し小ぶりの同じ女性の人形が現われ、
また、人形の胴体部が上下に割れると、中から、さらに小ぶりの
同じ女性の人形が現われるという、「入れ子構造」の人形であ
る。通常、六重構造になっている。

「物語のはじまり」では、例えば、「恋する」「ともに暮らす」
「住まう」「産む」「育てる」は、テーマさえも、五重の「入れ
子構造」になっている。記事やニュースの主張と違和感があるほ
ど、前近代的な職場であるマスコミの記者になり、いつものハー
ドルを越えながら記者活動を続け、結婚をし、子どもを産み、同
じころ、短歌結社の「かりん」に入り、歌を詠みながら、子育て
をした。記者も続けたが、離婚をし、子別れを余儀無くされ、と
いう松村由利子の人生と同伴する5つのテーマが、入れ子のよう
に続く部分だ。松村は、いまは、淡々として、テーマにそって、
自分の人生の軌跡を述べながら、短歌の解釈を続ける。いくつも
のハードルを越えて、やさしさと逞しさを両立させてきた松村の
独特の眼差しからアンラーンされる(学びほぐされる)短歌解釈
の一つひとつは、私には、ほとんど砂地に染み込むように、良く
理解できた。

しかし、たまには、私の解釈と違う解説に出逢うこともある。例
えば、

*子守唄うたい終わりて立ちしとき一生(ひとよ)は半ば過ぎし
と思いき                            花山多佳子

「子どもが寝入ってから立上がるとき、途方もなく深い疲れと孤
独を感じる」と松村は、解説する。「半ば過ぎし」は、若い母親
の「人生の午後」の始まりだと言う。

私は、「一生(ひとよ)は半ば過ぎし」=「人生の午後」が比喩
なのではなく、「子守唄うたい終わりて立ちしとき」が、比喩
で、子育てを終え、子どもは、就職か、結婚をして、もう家には
いない。うたい終った子守唄は、象徴的である。作者の「一生
(ひとよ)は半ば過ぎし」という初老の母親の感慨を詠んだ歌と
いう風に理解してしまった。

私は、ひとり息子の子育てしか手伝っていないが、本当に子ども
は、3歳までは、天使で、子育てさせてもらった至福の時間は、
子どもから親への恩返しのようなもので、親冥利に尽きる。わた
しの息子が、1歳になる前くらいで、「這いはい」をしていたの
が、なにかの拍子に私の手を掴み、そのまま、私に向って、初め
て立上がってきたときの感動は、いまも、鮮烈に印象に残ってい
る。あの場面を見せてくれただけで、もう、この子から貰うもの
は、充分という気がしている。子育てとは、子どもの成長を支
え、成長ぶりを目の当たりにする喜びのことだから、親の苦労も
苦労と感じない。かなうことなら、いまからでも、もう一度、子
育てをしたいと思う(そういえば、子どもの健康を思い、子育て
を切っ掛けに、禁煙を始め、以来、25年間も禁煙が続いてい
る)。3年間、子育てという至福の時間を経験させてもらえた親
は、子からの「一生分の恩返し」を貰っているのである。

子どもは、「17歳にして親を許す」という言葉(出典不明)が
あるようだが、子どもは、親を選べない(親も、子どもを選べな
い)。17年経ったら、親も子どもも、対等な人格を持つように
なる。親だから、子どもだからと甘えるなというような意味なの
だろうと私は、解釈している。

もうひとつ。

*とげとげしき心おとろへてわが妻と親しみゆくもあはれなりけ
り                                斎藤茂吉

「若い頃かなり癇癪もちだった」茂吉が、「五十代に入った頃」
詠んだ歌で、「気の強かった夫婦がもう頻繁に衝突し合うことも
なくなり」「年齢を重ねることで変る部分もあるのだなあと興味
深い」と松村は解説する。

私は、老年になって、謹厳で厳格な歌人である反面、女性の愛弟
子との情事に溺れた茂吉の手紙(いま、そのエピソードを掲載し
た本が手許にないので正確には引用できない)を思い出し、「と
げとげしき心」=情慾も、「おとろへて」、「あはれなりけ
り」、つまり、「ああ、情けないなあ」という、茂吉の身勝手さ
が、浮き彫りにされて来るように読んでしまった。

私の解釈は、掲載された一首に対する直感的なもので、松村のよ
うに、掲載された短歌を含む歌集や歌人の作品全体を読んだ上で
解説しているのとは、違うので、間違った解釈になっている可能
性が高いが、まあ、印象論として述べておこう。

ほかのテーマでは、「見る」のうちの芝居が幾分弱い。解説が、
ブッキシュで、舞台を見ていないまま、本で調べて、解説を書い
ているような感じが強く、まだ、血肉化されていないというよう
な印象が残る。

「老いる」「病む、別れる」は、松村も、これから、歌材として
も、人生としても、直面するテーマだから、松村が、今後、この
テーマをいかに豊饒に詠むか、期待したい。「別れる」とは、
「死別」という、人生最大の修羅と立ち向かうことを滲ませてい
るのも、松村らしい心配りだろう。

「老いる」では、岡本かの子の「いよよ華やぐいのちなりけ
り」、斎藤史の「ひたくれない(旧字)の生(せい)」、同じく
「老いてなほ艶(えん)とよぶべきものありや」は、老年の、豊
饒の時間(第二の思春期)が予感されて、嬉しい。「不良老年
(あるいは、定年)は、沃野を目指す」が、私の、目下のモッ
トーなので、豊饒な時間が沃野を約束してくれそうで、意を強く
した次第。退職後の私の理想は、「糸の切れた凧」になり、それ
も、切れた糸を操る凧になり、大空を漂いながら、遊び戯れるよ
うな生活をしたい、ということだ。そう、後白河法皇の「梁塵秘
抄」の今様歌謡の文句のように。

なお、松村が取り上げた百十数人の歌人のうちに、塚本邦雄、春
日井建、岡井隆が入っていたのは、嬉しいが、福島泰樹、道浦母
都子(例えば、逆説的ながら、「四十代この先生きて何がある風
に群れ咲くコスモスの花」)、寺山修司、中井英夫らが登場して
来ないのは、私には、淋しい。松村が、彼らや彼女をどういう色
に染めて解釈したか知りたかったとだけ、告白しておこう。

さて、最後に、松村由利子の「鳥女」で、私がいちばん好きな歌
を改めて、書き留めておこう。

*指先まで力を込めよ負荷をかけ負荷をかけ人は美しくなる
- 2007年2月2日(金) 22:01:02
1・XX  1月には、毎年、箱根駅伝がある。前に、箱根駅伝
をテーマにした三浦しをん「風が強く吹いている」を読んだが、
今期の直木賞候補で落選した、佐藤多佳子「一瞬の風になれ」
(1、2、3)を読了。高校の陸上競技部のメンバーを主軸に据
えた青春スポーツ小説。というか、スポーツものの漫画の原作の
ような作品。名もない神奈川の県立高校陸上競技部。そこにサッ
カー少年崩れと中学の陸上エリート挫折の二人が入部。ほかの部
員にも、好影響を与えながら、二人を軸に、試行錯誤を繰り返し
ながら、3年間に、地区大会、県大会、関東大会と上り詰めて行
く姿を、汗と涙、そして、ちょっぴり、御法度の、恋愛模様も絡
ませながら、展開して行く。全体的には、まさに、青春、スポー
ツ根性漫画。だが、細部の描写には、ときどき、光るものがあ
り、その辺りが、人気小説になった由縁か。

同じく今期の直木賞候補で落選した、荻原浩「四度目の氷河期」
は、ロシア人と日本人の女性研究者の間に生まれた少年が、自分
のルーツを探す話。母親は、ロシアのシビルスク研究センターに
勤めていたが、未婚の母となり、帰国し、少年と二人で慎ましく
生きている。シビルスク研究センターの近くでクロマニヨン人の
ミイラが見つかったという科学雑誌の記事を見つけた少年は、不
明の父親像をクロマニヨン人になぞられるという荻原文学一流の
「付加」で、物語を展開させて行く。少年は、スポーツに才能が
あり、やがて、槍投げの選手になって行き、ロシアまで、父親に
逢いに行くことになる。こちらも、半分程度は、槍投げを軸にし
たスポーツ小説風である。それにしても、お話しをおもしろくす
る能力は、荻原は、実に巧いが、技巧的な作品は、文学作品とし
ては、どうしても、構成が、スカスカとなりがちである。三浦、
佐藤、荻原と筆力のある作家たちの、スポーツ小説を読んでみた
が、薄っぺらな感じは、最後まで残った。佐藤、荻原が、今期の
直木賞受賞せずというのは、当然の結果だったと思う。

それにしても、スポーツ小説が、何故、流行るのか。かってのよ
うなスポーツもの=根性ものではないのだが、時代の世相と通底
しているようなところがあるような気がする。この問題は、暫
く、意識化に置いておき、いつか、分析してみよう。

1・XX  逢阪剛「道連れ彦輔」は、時代小説。逢阪は、最
近、時代小説に新境地を開いている。父は、徒目付の御家人だ
が、そろそろ三十の声を聞く鹿角彦輔(かづのひこすけ)は、三
男坊で、父の跡継ぎは、嫡男、部屋住みも次男がいるからままな
らず、モラトリアム人間の典型のような境遇。身の置きどころが
ないから、家をでて、湯島妻恋坂の町家の長屋住まい。そこで考
えた商売が、道連れ屋稼業。用心棒というほど、武ばってはいな
いが、女性の、遠出のお出かけ、寺参り、温泉巡りなどの小旅
行、たまには、関所手形の必要な旅もないわけではないという程
度、のボディガードという仕事。まあ、余り金にはなりそうもな
い。冷えた甘酒が好きという、変った侍。

彦輔の知人、小人目付神宮迅一郎の手下で、めくぼの藤八という
小者が、ときどき、仕事を持って来る。長屋の隣人に、扇師の勧
進かなめという狂歌が趣味の大年増がいて、どうも、彦輔に気が
あるようで、ときどき、飯を持ってきたり、なにかと世話を焼
く。勧進かなめの姉御は、金貸の鞠婆(まりばば)とは、狂歌連
の「騒婦連」のお仲間。この辺りが、彦輔を軸に江戸の町をうろ
つき、事件に巻き込まれる。今後の、シリーズ化が、予感され
る。江戸の西部劇という感じの、ノリが、楽しみ。
- 2007年1月30日(火) 20:55:31
1・XX   歌人・松村由利子は、「八重桐(やえぎり)」では
ないか。近松門左衛門原作の人形浄瑠璃、歌舞伎の「嫗山姥(こ
もちやまんば)」の主役、大坂の遊女荻野八重桐である。いまは
恋文の代筆をして歩いている。亡くなった夫の魂を取り込み、大
力無双の山姥に変身し、さらに、金太郎(後の坂田金時)を生
む。八重桐には、やさしさと逞しさがある。

松村由利子の第2歌集「鳥女」を読む。「鳥女」は、06年現代
短歌新人賞受賞(07年3月に表彰式)歌集である。松村は、
94年短歌研究新人賞を受賞しており、今回、ふたつ目の「新人
賞」受賞。新人賞を取ってから、さらに12年後にも、また、新
人賞というところが、おもしろい。短歌界のことは判らないが、
そこが、短歌界の懐の深さ、奥行きの深さかもしれない。98年
には、第1歌集「薄荷色の朝に」を刊行している。07年1月
「物語のはじまり」を刊行した。毎日新聞の元記者。「薄荷色の
朝に」は、刊行時に読んでいるが、今回は、「物語のはじまり」
にも、触れず(それは、また、別途、書評しよう)、「鳥女」だ
けを素材にして松村由利子論を書いてみたい。

「鳥女・松村由利子論の試み」

松村由利子には、あるシステムがある。

○松村由利子式短歌システム:松村の体内には、「井戸」があ
る。井戸には、修羅を沈める。

* 井戸ひとつ吾の真中に暗くあり激しきものを沈めて久し

新聞社という「男社会」(毎日新聞の記者になり、主に、生活家
庭部、科学環境部に所属、20年勤務し、管理職デスクまで勤め
て、06年退職した。新聞社の女性記者は、私がいたテレビ局
は、私がデスクになったころは、まだ、東京の報道局には、女性
記者は皆無だった。私が、デスクになる直前くらいに、少数の女
性記者の新規採用が始まり、地方局には、毎年、女性記者が赴任
していた。彼女たちが、東京の報道局に攻め上って来るまでに
は、まだ、数年かかる。女性記者の赴任が決まると、男性記者
が、多数の電話やファックスが並ぶ机群の側に設えた組み立て式
のソファーベッドで仮眠をしていたような職場では、徹宵勤務の
女性が仮眠するコーナーを作るなど、慌てたものだ。新聞社は、
家庭部、文化部などがあり、私の職場よりも早くから、少数の女
性記者がいたが、松村は、私がデスクになる直前のころ、各社に
入社した組の女性記者のひとりではないのか)の修羅場をくぐり
抜けて来るだけでも大変なのに、その後の、私生活の修羅場(松
村は、赤裸々に短歌に詠んでいるでいるが、ここでは触れない)
も含めて、その「修羅」をエネルギーとして、歌を詠んできたよ
うに見受けられる。松村の修羅とは、「抱き柱」を放棄して立ち
向かう強靱な歌こころである。その意味で、松村は、修羅の歌人
である。

さて、松村由利子式短歌システムとは、こうである。修羅場から
出されるさまざまな毒、松村の体内にある井戸に毒が溜まると、
修羅の毒は、鬼に変身する。井戸から鬼のマグマが噴出するよう
になると、松村の方は、「鳥女」に変身し、鬼との争いを攻撃的
に防御する。その防御行為が、歌詠み行為となる。松村の中で、
そういうシステムができ上がっているようだ。

* 夜になると嘴(くちばし)ずんと伸びるゆえ吾うつむきて仕
事するなり

松村の短歌には、表現に特徴がある。ひとつは、「○○にて」と
いう表現。例えば、「私も会社員にて」「疎と密の刻々変る電車
にて」「星座のひとつにて」など。この「にて」という表現に
は、新聞記者の「客観的な冷静さ」が伺える。と同時に、なんと
も言えないリズムがある。ふたつ目は、繰り返し(リフレイン)
の表現。31文字という短歌の世界を考えれば、同じ言葉の繰り
返しは、盛り込める情報量が、それだけ減るから得策ではないで
あろう。例えば、「くりのき栗の木なにも語るな」「くりかえし
繰り返す朝」など。だが、この繰り返しの表現には、母親として
の優しさが滲む。幼子との対話の気配が、しのばれる。これも、
リズミカルである。記者と母親は、松村短歌の特徴をなす。理と
情と言い換えても良い。そして、ふたつに共通するものは、リズ
ム。そういう意味で、松村は、リズムの歌人かも知れない。

「鳥女」に集められた短歌は、406首。それは、おおまかに
は、8つのグループに別れる。

1)職場詠は、同業の私の眼から見ても、共通する体験が、詠い
込まれていて、貴重である。報道の現場や職場の短歌は、あまり
お目にかかれない。報道現場に長くいた私も、現場や職場で写し
た写真など、ほとんどない。まして、短歌、俳句、詩のようなも
のを書くという発想もなかった。だれもしないことを松村はし
た。記者らしく、時事詠も含まれる。<scrapbook>として、囲ま
れている。06年3月で、新聞社を辞めて、歌人に専念している
から、今後は、職場詠が、少なくなりそうな予感「にて」・・・
淋しい。一方、退路を断って、表現と向かい合う生活を始めた松
村の勇気を讃えたい。

2)女性の自立詠。働く女性として、仲間への激励のメッセージ
が込められている。

3)恋心詠。

4)母情詠。別れた夫と暮らす一人息子への情愛。ときどき逢う
と、そろそろ、少年から青年になりかける年齢ゆえに、「まはだ
かの子に」「青年の骨などくわっと現れんかと」凝視してしま
う。

5)自分史詠。幼かった日々を詠う。「日曜学校」のお茶目な女
の子が、可愛い。

* 聖歌隊の最後列で友達のお下げをひっぱっていたのはわたし

6)生物学、遺伝子工学、考古学など、科学部詠とでもいうも
の。恐竜好きは、子どもからの影響?母・松村からの影響? こ
れが、松村由利子の、個人、母親、女性、人間、生物へという普
遍性に繋がる、独特な連鎖感となっている。

7)フラメンコ詠。修羅退治の補助エンジンか。

* ニッポンの働く女苦しくて仕事帰りにフラメンコ習う

20年くらい前に、私はフラメンコの長嶺やす子さんにインタ
ビューしたことがある。私が訪ねたマンションには、まだ、多数
の猫はいなかった。情熱的な女性で、フラメンコにかける熱き思
いを語ってくださった。招かれて一度だけ、長嶺さんの舞台も拝
見した。長嶺さんは、70歳を越えたいまも、毎日5キロを走
り、体力を培っているが、フラメンコは、もう、踊っていないよ
うだ。松村も、06年には、フラメンコの舞台に立ったという。
フラメンコの修業詠は、歌舞伎の所作事に私が感じていることと
共通するものがあり、おもしろく読む。基礎体力作りの詠があれ
ば、なお、共通性が強調されるように思える。

8)小山田二郎画「鳥女」詠。91年に亡くなった異形の画家小
山田二郎。顔に障害のある画家は、頭は鳥、身体は女性という
「鳥女」と名付けた絵を何枚も描き残した。顔の障害という修羅
から逃げずに立ち向かった小山田二郎に修羅の歌人は、共鳴し
た。二人は、魂の色が似ているのかも知れない。05年5月から
7月、松村が勤める新聞社の主催で「異形の幻視力 小山田二郎
展」が、東京と高崎で開かれた。ギャラリーで「鳥女」を見た松
村は、鳥女は、私だと思ったという。その年の8月、松村は、
406首の歌を選び、11月、小山田の最後の作品「舞踏
(1991年)」を表紙に使って、歌集「鳥女」を刊行した。

<間奏曲>406首の色をチェックしてみたら、36首が色を
詠っていた。白:11首(「ミルク色」まで入れると、12
首)。青:5首(「空色」「紺青」まで入れれば、7首)。
黄色:4首、赤:3首というのは、フラメンコの衣装のお陰。そ
のほか、みかん色、銀色、うす茶、緑など。

ならば、松村由利子は、「何色」だろう。白の混じった淡い青色
か。村松友視が武田泰淳夫人の武田百合子について書いた本のタ
イトル「百合子さんは何色」をもじって言えば、「由利子さんは
何色」。松村は、赤、青、黄などという原色や観念的な色より
も、淡い、それでいて具体的な色が好きなようだ。例えば、第1
歌集のタイトルの「薄荷色の朝に」の、薄荷は、具体的なものの
色である。ブログのタイトルの「そらいろ短歌通信」も、空の色
と具体的である。薄荷色は、「ミント・グリーン」で、色は定
まっているが、ブログのタイトルにある「そらいろ短歌通信」の
「そらいろ」の「空色」は、じつは、色が定まっていない。色見
本では、「天色」と呼ばれているが、「空色」には、白昼の
「白」から、山間部の漆黒の闇の「黒」まであり、その途中に
は、夜明け前の色、朝焼けの色、日の出の色、朝から夕方までの
さまざまな色、夕焼けの色、日没後の色、夜の色など、また、季
節によっても、「空色」は、変る。つまり、「空色」は、定まり
がない色なのである。

谷川俊太郎「写真ノ中ノ空」にある詩では、「幼いころ空は不思
議に満ちていた/大人になるといつか空は空っぽになっていた」
とある。

多分、松村は、冬の、からからに乾いた青空が好き。

* 透きとおる鳥の魂集められ冬天かくも深き青なり

北国のスキー場のリフトに乗って山頂に向っていたとき、銀嶺の
上に広がっていた青空。青色の向うに、宇宙の黒い闇が、透けて
見えるように思えるほどの深い青空だったのを思い出す。

あるいは、白ぽくも見えるような淡いスカイブルー。それでい
て、奥深い空。宇宙の空。そう、冬の快晴の、午後2時ころの、
空。こういう「そらいろ」を、なんていうか、知ってるかい?

色見本を見て調べた。勿忘草色が、それに近い。英語名、
「フォーゲット・ミ−・ノット・ブルー」。勿忘草わすれなぐ
さ、忘れてくれるな。

新聞社を辞めて、歌人に専念して、間もなく、1年になる。修羅
が減って、松村の歌風は、変るかも知れない。「一人でことばと
向き合い、小さな世界を作ろうと試みていた」のが、松村の原
点。いまは、感じないかも知れないが、いずれ、10年もすれ
ば、老いが、身近になって来るかも知れない。新たな修羅を呼び
込み、修羅の歌人は、詠い続けるだろう。「鬼は都にありけるぞ
や」。

「井戸」に戻ろう。
「井の中の蛙(かわず)大海を知る」だ。身の回りの、自分に見
える世界を掘り下げながら、詠うこと。記者は、現場で確認した
ことだけを書いてきたはずだ。記者というアンテナと歌人という
システム。井戸の中は、己の身の大きさをコントロールする術
(すべ)さえ身につければ、大海に見える。そうなれば、井戸
は、普遍的な大海に通じる。井戸を変える必要はない。時間が、
さらに、才能に磨きをかけるだろう。普遍を見抜く眼を持つこと
こそ必要。松村由利子の歌の世界は、井戸のなかにこそ、ある。
- 2007年1月25日(木) 21:40:29
1・XX  大晦日、自宅近くの寺に除夜の鐘を叩きに行った。
激動の1年を締めくくるには、寒くもなく、何とも、穏やかな
夜。

帰宅すると、日本ペンクラブの電子文藝館委員会の同僚副委員長
の詩人・村山精二さんから7年ぶりに刊行した詩集「帰郷」が届い
ていたので、読んでしまう。07年最初の書評は、これを書かない
わけには行かない。

私より、2歳下。北海道の赤平で生まれ、10歳のとき、母に死
なれた。青森に居た父と別れ、2歳下の弟とともに青函連絡船に
乗せられ、北海道の芦別にいる叔父(母の弟)のところへ、貰わ
れて行った。学校を卒業し、フィルムメーカーの技術屋になり、
以来、38年間、サラリーマン生活を送り、管理職にもなり、
「下請け会社との宴会のし方 上にしか向かないヒラメの視線 
部下の評価の下げ方 出入り業者の潰し方 それらをひっくるめ
た理数系のモノの考え方を38年も勉強させていただいた」「最
末端の管理職も経験して 特許も取れて思った以上の会社人生で
した」と、退職金のほかに、定年前の給料3年分をくれるという
ので、「この度の会社提案首切りにまっ先に手を挙げた」のは、
「首切りという安易な方向に走る経営に方針転換したトップへの
腹立ちまぎれ」。でも「役員報酬カット5%はいただけません
なぁ 五千人もの首切りやるんだったら50%はカッとしなきゃ
100%だっていいんですよ それでようやく事の重大性が判ろ
うというもの まだまだ甘いなあ」と、下剋上。
村山さんは、会社人間を辞めて、社会人間になった。

村山さんは、技術屋生活の傍ら、28歳で最初の詩集「プラス
チック粘土」という、いかにも技術屋らしいタイトルの詩集を刊
行。多感な青年像が浮かんでくる。爾来、遅筆、多忙の、隙を
縫って、数年ごとに詩集を出しつづけ、小説も書き、詩集は、今
回のものを含めて、6冊になった。私は、7年前刊行の「特別な
朝」以来の、村山詩集の読者。

詩集「帰郷」は、司修装幀、土曜美術出版販売刊行で、「21世
紀詩人叢書・第期」シリーズの第26巻という立派なもの。装
幀も実に良い。

詩群は、退職を軸にしたものと私生活を軸にしたものとふたつに
大別される。退職は、あすは、我が身の、私ゆえに、身につまさ
れるとともにうらやましい。いずれ、私もと、武者震い。特に、
先に長々と引用した「挨拶」という詩が良い。本音と皮肉と混じ
りあった、良い惜別の辞であり、新たな旅立ちへの、決意の辞で
ある。「ともあれこれでサラリーマンとはお別れ 不向きなこと
が出来たんだから これからは何でも出来る気がします まず手
始めは書斎の整理 愛しい詩集たちに安住の地を!」

私生活を詠った詩も、社会情勢への目配りが裏打ちされている。

「変らないものと変ったもの/いつだって〈いい世の中〉なんて
無かったけど/アメリカが変って日本が釣られた/大事なものは
去って行く」(「この冬」)

「先輩が築いた50年の平和を/僕らは君たちに遺せなかった/
いい一日なんて今日だけなんだ」(「2月26日木曜日」)

私にとって、2003年の、2・26(木)って、どんな日だっ
ただろうか。思い出せない。

「薩摩の船尾に掲げられた旗は/いつのまにか武装して/県旗校
旗を従えている/北へ南へ 西へ/駆けぬけた土足の跡を消す日
は/とうとう来なかったというのに」(「花だより」)

日の丸・君が代の卒業式。「保護者席」でも、起立せず。

「すでに 74で死んだお袋と、若くして死んだお袋が入ってい
て/80を過ぎた親父もそろそろ/次はオレか弟の番/子供時代
を思い出しそうな墓だ」(「終の棲家」)

村山さんに赤平、芦別など、炭坑の頃をテーマにした詩を書いて
欲しいと言ったことがある。今回の詩集でも、炭坑の事は、直接
書かれていないけれど、幼い日々の苦労は、滲み出て、伝わって
くる。実母も、継母も、墓のなかで、同居している。

私も、北海道勤務時代に訪れた、夕張の、10数年前の炭住街を
思い出しながら、最近の、財政破綻の、夕張のニュースに心が痛
む。傾斜地に貼り付くように建ち並ぶ家々。映画「黄色いハンカ
チ」のロケに使われた家もあった。

「おまえは無傷か/そうはいかないだろう/余白の人生などと格
好をつけても/そこも例外ではない」(「帰郷」)

「そうはいかない」かもしれないが、村山さんよ!
今後の豊饒な時間を、詩のために、例外的に、最恵国待遇で、
使って欲しい。

辻原登「夢からの手紙」を読み終わった。辻原最初の時代小説
は、新聞連載小説の「花はさくら木」だろうが、読んでいない
(サイン本を購入し、所持している)。それを読む前に、最近出
たばかりの「夢からの手紙」(これも、サイン本)は、読んでし
まった。標題作は、時代小説らしからぬ、シュールな作品であ
る。奇妙な夢を見たという国元から届いた妻からの手紙がある。
その夢というのは、江戸にいる夫が、大きな屋敷の奥まった広間
の集まりに参加している。10人から15人の男たちの中に夫が
いる。皆が、お面を被っている。つまり、一種の仮面パーティで
ある。何が行われているのか、あるいは、何が行われようとして
いるのか、不明だが、何か不安な雰囲気が感じ取れる。そういう
危うい夢であった。

実は、妻が不安な夢を見て、そのことを手紙に書いてきた日付け
の、前の日、夫は、妻の夢と同じ場面といえるような体験をした
のである。昔、国元で幼い日々を親友として過ごした男、父親が
死に、その父親に不行跡の疑いという濡衣が掛けられたことか
ら、主人公の夫より早めに国元を出て、江戸入りしていた男だ
が、不遇らしく、悪い仲間と付き合っている。その男に誘われる
ようにして、夫は、不思議な秘密パーティに参加してしまう。人
が自死する様を見るような不道徳なパーティであるが、夫は、実
は、悪友に誘われたというよりは、悪友に無理強いをして、参加
したのであった。それが、秘密パーティの主題者側に知れて、悪
友は、殺されるが、夫は、警告されただけで、命は助かる。

妻への手紙を書きかける夫。「おまえの夢は正夢だった」と書き
出して、夫は、それを破り捨てる。「世はなべて事もなし」と書
く。日頃、マスコミから私たちに伝えられていることも、悲惨な
事件事故が多いように見受けられるが、実は、「世はなべて事も
なし」としか、伝えられていないのかも知れない。その挙げ句、
ある日突然、憲法が改悪されているのに気づかされ、「おまえの
夢は正夢だった」と告げられるのかも知れない。

「有馬」は、有馬温泉の旅館の女将の着物のツケを取りに行く呉
服屋の主人の話。女将も主人も、一目惚れ。そういう魂胆を胸に
秘めて、主人は、奥方の悋気の目を盗んで女将に逢いに行く。た
だし、手代と丁稚が付いて行く。特に、丁稚は、奥方のエージェ
ント。つまり、スパイ。機転の効く小僧だから、始末が悪い。有
馬温泉に着き、件の旅館に入り、女将と主人の再会の様を見た丁
稚は、奥方大事の意気に燃える。女将との逢瀬のために精力剤を
調合してもらった主人と恋煩いの不眠対策で、睡眠薬を調合して
もらった手代とが、それぞれ持参した薬を丁稚が入れ替えてしま
う。女将との情事の最中に未遂のまま、眠り込んでしまう主人。
睡眠薬の代りに精力剤を呑み、爛々としている手代。主人との情
事不発で、欲求不満オ女将は、不眠の果てに、精力ギラギラの手
代と、丁々発止、朝までという時間を過ごし、機嫌がよい。主人
も、ぐっすり寝て、昨夜の不首尾も思い出せず、元気がよい。手
代も、不眠は治らないが、欲求充実で、機嫌がよい。

両作品に共通するのは、「夢」である。知人が殺されるというの
が、夢か現か、いや、現だろうと思うような、怖い夢が、「夢か
らの手紙」。夢の通りの内容の手紙が来れば、やはり、怖い。も
うひとつは、現か、夢か、判然としないまま、夢であって欲しい
という悪夢。夢が、現実となり、夢の声で、目を覚ます。あるい
は、夢のなかでの行動が、本当の行動になる「レム睡眠行動障
害」を体験した私は、夢を夢と信じられない辻原の世界を信じ
る。夢に色があるように、魂にも、色があるのかも知れない。似
たような色の魂が、同床異夢か、異床同夢か、分岐点を決める。

新年、初夢、皆さんは、どんな初夢を見るのだろうか。さて、夢
から覚めた私は、「花はさくら木」を読んでみるとするか。とこ
ろで、「夢からの手紙」は、6つの短編を収載した短編小説集。
「川に沈む夕日」は、「心中天の網島」の紙屋治兵衛ならぬ、染
屋治兵衛と京の島原遊廓の太夫・小春の物語など、歌舞伎の舞台
のような、荒唐無稽な、シュールな時代小説が、並べられてい
る。
- 2007年1月1日(月) 12:19:38
12・XX  鈴木理生「お世継ぎのつくりかた」を読む。

鈴木理生(まさお)は、江戸と東京を地形学、考古学の立場から
研究している都市史研究家で、「江戸は、こうして造られた」
「江戸の町は骨だらけ」「大江戸の正体」など、ユニークな視点
で再構築した江戸ものを私は、愛読している。今回の「お世継ぎ
のつくりかた」は、刺激的なタイトルで、サブタイトルには、
「大奥から長屋まで 江戸の性と統治システム」とある。封建時
代の政略結婚を経営学的な視点で分析した、極めて真面目な本
だ。

武家は、男子優先で、養子を含めて、「お世継ぎ」を絶やさない
ようにして、いわば、「家」という会社(それは、領地不足のな
かで、信長によって考案された「封」と呼ばれる、ある範囲の経
営権を基盤とするから、そういう経済構造を「封建て」、つま
り、「封建制度」の基礎は、ここにある)を継続させようと努力
する(武家に限らず、男系中心の「お世継ぎ」は、今も皇室を
縛っているのは、ご承知の通り)。

一方、商家は、女子優先で、実子の男子よりも、店の従業員のな
かから、商才に長けた娘婿を選びだし、まさに、店(会社)を繁
昌させようと努めた。こちらでは、「お世継ぎ」は、女子が優先
されている。外向けの「当主」は、男性だが、その出自は、番頭
上がりの婿養子であり、本当の「当主」は、家付きの娘から、当
主の配偶者になった夫人の方なのである。店の経営権は、「腹を
痛めた娘から娘へ」継承される。そういう大店の場合、多くの、
「正嫡の男子は廃嫡されて、一生食うに困らず相当の放蕩もでき
るだけの財産を与えられて隠棲する」という。「東京の筋目の
通った商家の多くは伊勢・近江資本の『江戸店(えどだな)』
(江戸支店)だったから」、こういう形で、財産が相続されて
行ったという。「嫡出男子が店を継承しているという一事だけ
で、金融機関からの信用が各段(格段?)に薄くなったのが商売
の場の原則であった」そうだ。

上方歌舞伎の和事に出て来る若旦那たちは、こういう廃嫡された
放蕩児だったと理解が行けば、女好きの、優男の、色事師(濡事
師)というイメージから、絶望の果ての、自暴自棄的な、茶屋遊
び、傾城狂い→心中行こそ、理想の終局という、「滅びの美学」
の切実さが、浮き彫りにされて、歌舞伎を観る際の、新しいイ
メージが涌いて来る。遊蕩のために勘当されたという設定の「夕
霧狂言」の藤屋伊左衛門などの顔も、「廃嫡された放蕩児」とい
う解釈になれば、また、違って見えて来るというものだ。
- 2006年12月31日(日) 18:52:26
12・XX  工藤美代子「われ巣鴨に出頭せず」、杉田望「天
才大悪党 昭和の大宰相田中角栄の革命」を読んだ。

戦中から戦後まで、総理大臣などを務め、政治的な指導者の一人
として活動し、1945(昭和20)年12月16日、GHQ
(ジェネラル・ヘッド・クォーター=総司令部)のマッカーサー
最高司令官からの逮捕令を受けて、スガモプリズンへ収監される
のを拒んで、青酸カリを呑んで、自死したのが、近衛文磨であっ
た。その文磨の生涯と日本の近代史、特に昭和史とを丹念に跡付
けたのが、工藤美代子「われ巣鴨に出頭せず」である。優柔不断
とか、弱いとか、その性格を断じられた近衛文麿の実像を史実に
即して再構築して行く。天皇との関係は、近衛と天皇それぞれの
戦争責任のありようにも関わって来る大事な論点だ。

12月14日、近衛は、次のように語ったという。
「自分は極刑にはなるまいが、重罪は免れまいと思う。日支事変
後種々失敗を重ねてきたが、自分の志したところは別にあっ
た」。

政治家は、結果責任である。志がどうであれ、政治家の足跡こそ
が、責任の所在である。「種々失敗」という結果をスガモでは、
裁かれざるを得ない。それを予感したからこそ、近衛は、スガモ
に「出頭せず」、自死を選んだのではないか。

だが、工藤美代子は、次のように書く。

「近衛は人生の猶予をも断ち切って、慄然たる死の道を選んだ。
たとえ平素、人から軟弱だと言われようとも、最後に一人で花道
から死出の旅に立つ男の姿は美しい。日本文化の伝統にある死の
形を見事に演じきったことで、近衛の人生は誰はばかることなく
『強い』人間だったと書き換えられるべきだろう」。「昭和の戦
時に火の粉をかぶって天皇を護る覚悟を決めた。その末の自裁
だった。護るべきものを護り通した近衛は、ほかの誰よりもむし
ろ強かったというのが私の結論である」。

果たして、そうか。
教育基本法を改悪し、やがては、憲法も改悪しようとする勢力が
ある。近衛文麿という人物像の書き換えは、戦中戦後史の書き換
えに繋がりはしないか。先の勢力との繋がりは、どうなのだろう
か。工藤美代子の力作を読んで、余計に疑問が膨らむ。

工藤は、また、戦後「直後に再来日したハーバード・ノーマンは
友人の都留重人と二人で何を企んだのか。それが結果的には近衛
の生涯にどのような影響を与えたのか」と書く。

毒を呷り、「米国の法廷」への出廷を拒否し、「天皇の御楯とし
て命を絶った」近衛の矜持。史実は、工藤の、近衛擁護の力作を
読んだ後も、やはり、まだ、明らかにされていない。謎は、深ま
るばかりだ。

杉田望「天才大悪党 昭和の大宰相田中角栄の革命」は、タイト
ルこそ、前段で「天才大悪党」と掲げているものの、「昭和の大
宰相田中角栄の革命」という、後段のタイトルのみに注目をすれ
ば、この本が、田中角栄擁護論の本だということが、容易に知れ
る。

杉田は、「悪党」とは、「革命家」だと言う。この本は、そうい
う視点で、田中角栄像を再構築することを狙っている。「田中角
栄は昭和を生きた革命家だ。すなわち、人びとの暮らしに心し、
新しい制度や仕組みを作る革命家だ。革命家の末路は悲惨であ
る。角栄の最期も、その例外ではなかった」。「小泉がぶち壊す
と宣言したのは、角栄が遺した政治遺産のすべてだ。すなわち、
道路、鉄道、橋、用水路、港湾、郵便局、放送、健康保険、年金
制度など人びとの暮らしと安心を確保する制度と仕組みだ。その
ぶち壊しを『構造改革』と呼んだ小泉政権。(略)はっきりして
きたのは、貧者の拡大再生産だ。たぶん、日本は行き着くところ
まで行くに違いない。そう考えるとき、万民の幸せを第一義にお
く田中角栄の政治思想がにわかに光芒を放つ」。

果たして、そうか。
小泉の「構造改革」は、挫折し、中途半端になりつつあるが、小
泉政権を継承しながら、小泉の「構造改革」を挫折させつつある
のは、安倍政権である。その一方で、極めてナショナルで、観念
的な安倍政権は、支持率を急激に落しながらも、教育基本法の改
悪、憲法改悪のための、国民投票法の成立を着々と準備を進めて
いる。

工藤美代子は、木江文磨の復権を目指して、「われ巣鴨に出頭せ
ず」を書き、杉田望は、田中角栄の復権を目指して、「天才大悪
党 昭和の大宰相田中角栄の革命」を書く。閉塞感が強まる一方
の時代状況のなかで、ふたりが空けた風穴は、果たして、国民の
ための風が吹く穴なのだろうか。あるいは、国民へ向けては、冷
たい北風が吹き募るばかりという、現実を私たちの前に突き付け
ているのだろうか。2006年も、間もなく、暮れるが、暗い年
の瀬は、息苦しいばかりだ。

きょう、イラクのフセイン元大統領が、死刑に処せられた。フセ
インの犯罪は、許し難いが、死刑を実行した側にも、民主的な手
続が充分だったと、後世の歴史家に誇れるような対応ではなかっ
たように思うのは、私だけではないであろう。日本も世界も、何
処へ行としているのか。日本も世界も、「行き着くところまで行
くに違いない」のだろうか。方向感覚を失ったまま、人類は、破
滅に向って進んでいるのだろうか。人類は、万物の中でも、叡智
なき種族なのだろうか。
- 2006年12月30日(土) 21:12:56
12・XX  小沢昭一「老いらくの花」、車谷長吉「文士の生
魑魅(いきすだま)」を読んだので、敢て、2著を並べて、書評
を試みてみよう。その結果、秦恒平「かくのごとき死」が、顕在
化してきた。

小沢昭一「老いらくの花」は、「咲いてよし、咲かぬもよし」と
いう、余裕の花。「散る桜、残る桜も、散る桜」同様、花があれ
ば、めでたいし、ないからと言って、がっかりする必要もない。
「生涯現役」などと粋がるより、「退役悠々」が好きという小沢
昭一の面目躍如の随想集。エッセイなどという構えたものではな
く、そのときどきに、心に移り変わり行く、よしなしごとをあち
こちに書き散らし、また、寄せ集め、同じような話は、ひとつの
グループにして、例えば、「老いらくの花」などと名付け、ある
いは、「忘れられない人」、「懐かしい場所、懐かしい歌」とし
てしまえば、まあ、なんとか、恰好がつくというものだ。

もう余禄どうでもいいぜ法師蝉  変哲
寒月やさて行く末の丁と半    変哲

「変哲」とは、小沢昭一の俳号である。
変哲もない人生なんて、という小沢の声が聞こえて来るようであ
る。生臭さが、年をとって枯れて来ると、「老いらく」となるの
かもしれない。「老いらく」とは、老年のことだけれど、「老楽
(おいらく)」となると、「老後の安楽、老年の楽しみ」と広辞
苑は、説明する。

さて、すでに老境に入っているはずの、車谷長吉(くるまたに
ちょうきつ)の「文士の生魑魅(いきすだま)」は、生臭い。
「俗物は、私が会社勤めをしていた時にも、ゴミ捨て場の蠅のご
とく、うようよいた。そういう男は、ほとんどが田舎者の東京人
であった」。車谷の読書遍歴。書評と私小説の融合のような本。
「当節は功名心のために、あるいは金が欲しいがために、作家に
なりたがる手合いが覆い。これは文学の堕落である。文学とは本
来、(略)人の苦痛が一ト時の慰めを求めて手を伸ばすものであ
る」。

テーマは、「病者の文学」、「近代的自我の滑稽と悲惨」、「宗
教と文学」、「意地悪な目」、「人間の愚かさ」、「故里の文
学」、「短編小説の切れ味」、「史伝」、「幻想文学」、「私小
説」などと、真っ当なものばかりが、並ぶ。

「人間の剥き出しの姿を書くのが、私(わたくし)小説である。
だから私小説は面白く、書かれた人は厭がるのである」

かつて、私は、ある作家にこういったことがある。「純文学」な
ど、姿を消した「純喫茶」と同じように、やがて、姿を消してし
まうだろうが、私(わたくし)小説は、永遠に不滅でしょうね。
私小説は、ジャンルを越えて、生き残るでしょう。

文士という言葉も、すでに死語になっていると思う人もいるかも
しれないが、文士は、私(わたくし)小説が不滅な限り、やは
り、不滅なのではないか。

タイトルの「生魑魅(いきすだま)」とは、生霊(いきりょ
う)、つまり、生きている人の怨霊、恨み、辛み。

ところで、日本ペンクラブの電子文藝館活動をご一緒している作
家の秦恒平さんが、「かくのごとき死」という本を私家版「湖の
本」シリーズの一巻として刊行した。ご自分のホームページの
「私語の刻」という、日記体裁の文章群を、そのまま刊行したの
である。2006年は、彼にとって、過酷な1年間であった。タ
イトルの「かくのごとき死」とは、06年7月27日の孫娘の難病
による死を意味している。この死を巡っての、孫娘の両親(つま
り、秦さんの長女夫妻)との訴訟沙汰が展開している。06年か
ら07年へと続いて行くであろう骨肉の争いの断面、苦しく、忘
れてしまいたいような、この1年の記録、記憶を、文士魂は、1
冊の本にして、世に問うた。長女夫妻との争いの火種を大きくす
る危険性を犯してでも、本にして出さざるを得なかったのであ
る。この作品は、私小説ではないが、私小説のような衝撃力を秘
めた文学作品である。車谷の言う「私小説」作家と「書かれた人
は厭がる」ということの争い。プライバシー訴訟こそ、この問題
の本質だろう。プライバシーの侵害、名誉毀損は、どちらが被害
者か。文士の抵抗は、表現の自由と骨肉の争いの是非を、敢て、
白日の下に曝け出したのである。車谷長吉「文士の生魑魅(いき
すだま)」は、秦さんの文学行為は、永遠なりと、宣言している
ように読むことができる。
- 2006年12月30日(土) 17:27:33
12・XX  大崎善生「パイロットフィッシュ」は、アダルト
雑誌の編集者が、主人公。ある夜、と言っても、午前2時、仕事
場の電話がなった。高校時代の同級生が、こちらの都合や時間を
考慮することなく、よく電話をして来るようになった(大手カメ
ラメーカーの営業マンだが就職して、19年、つまり、中間管理
職の年代か、最近、彼の様子がおかしくなった。昼であれ、夜で
あれ、いつも、泥酔しているのである)。だから、そのときの電
話も、彼からだと思った。電話器を取ると、女性の声で、「わか
る?」と、言った。「ああ、わかるよ」。19年ぶりの元恋人の
声だ。「私、今二人の子供の母親なのよ」。41歳の中年男女の
物語は、過去と現在を交錯させながら、展開する。

石持浅海「セリヌンティウスの舟」は、「走れメロス」の友、セ
リヌンティウスの真情をキーワードにしたミステリー小説。セリ
ヌンティウスは、メロスが、絶対に約束を守るために、友のとこ
ろに帰って来るという意志を信じた。人の心を疑うということ
は、最も恥ずべき悪徳だ。だから、友を信じる。6人のダイバー
たちは、石垣島の海で遭難したが、皆の信頼で、遭難を克服し、
助かった。しかし、何故か、ダイビング打ち上げの後、ひとりの
女性が、青酸カリを飲んで自殺してしまった。彼女の自殺の謎。
残された5人の仲間たちは、メロスに試されるセリヌンティウス
の心境なのだ。密室殺人事件など、密室状況の解明を得意とする
石持ワールドは、信じると言うことが、ミステリーを解き明かす
というアイディアで、小説の世界を構築した。
- 2006年12月30日(土) 16:12:18
12・XX  趣を変えて、エンターテインメント作品の書評。
ここで取り上げるのは、いずれも、達者な売れっ子作家の作品。
以下の通り。

大沢在昌「Kの日々」、石田衣良「美丘」、浅田次郎「あやしう
らめしあなかなし」、そして、嵐山光三郎「よろしく」。ただ
し、この後に、おまけというか、もうひとつ趣向を凝らしたいの
で、こちらも、「よろしく」。

大沢在昌「Kの日々」は、ミステリー。Kという謎の女性を軸に
ストーリーは、展開する。3年前、やくざの組長が誘拐され、身
代金が奪われた。当時の犯人グループは、4人。メールで仲間に
指示を出すが、姿を見せない謎の「メール男」とKの恋人の中国
人青年(その後、遺体となって東京湾に浮かんだ)。そして、最
近出所したばかりのやくざの組員2人。やくざの組員2人が、奪
われた身代金を取り戻そうと、Kの身辺調査に依頼したのが、主
人公の探偵・木(もく)というわけだ。Kに近づき、身辺調査を
しながら、次第にKに好意を寄せる木。サスペンス溢れるエン
ターテインメント作家らしい作品だ。ミステリー故に粗筋の紹介
は、控える。

石田衣良「美丘」も、エンターテインメント作家としての力量
は、大沢に劣らない。石田も、量産する作家だ。表題の「美丘」
とは、女性の名前。「みおか」と読む。幼児の頃、交通事故で頭
蓋骨骨折をし、輸入した硬膜を移植した。その際、ヤコブ病に感
染した。発症すると、3ヶ月から数年で脳から身体を動かす信号
が発っせなくなり、やがて、息をすることも食事をとることもで
きなくなるという難病だ。そういう危険性を秘めた女性を愛した
青年太一の純愛物語。純愛小説の流行に乗ろうと石田も、純愛小
説に挑戦したのが、この作品。一種の「心中行」だろう。それな
らば、「美丘太一」の物語。現代の「心中行」の花道は、病室に
向う。愛する人との約束を守るために、延命装置をはずすこと。

浅田次郎「あやしうらめしあなかなし」も、達者な作品。7つの
短編作品。生者と死者の邂逅、奇蹟と奇譚。あやし、うらめし、
かなしの世界。怪奇譚は、いつも愉しくて怖い。お話しが語り継
がれる限り、怪奇な話は、不滅である。こういう作品集も、ミス
テリーの結末同様、紹介できない。

嵐山光三郎「よろしく」は、老人介護の物語。東京・国立市とお
ぼしき、K立市の、嵐山家とおぼしき、A山家のぼく(小説家)
は、ノブちゃんと呼ぶ父親を看取ることになる。ノブちゃんは、
新聞社勤務の後、多摩美術大学とおぼしき、T美術大学の教授と
なったが、そこも退職し、いまは、若干の惚け老人で、油断をす
ると徘徊もする。ノブちゃんの連れ合い、つまり、ぼくの母親
は、トシ子さん。妻は、月子さん。一橋大学とおぼしき、H橋大
学も出て来る。近所には、新潮社とおぼしき、S潮社のY村さ
ん、小説家の山口瞳とおぼしき、Y口瞳さん、漫画家のT田ゆう
さんなどという名前も出て来る、嵐山光三郎の、いわば「ご近所
小説」というわけだ。嵐山節だから、どこまでが、事実で、どこ
からが、フィクションか、そのあわいも定かではない。ぼくとノ
ブちゃんの物語が軸になるので、老人ホームの問題も、リアルに
描かれる。そういう意味では、「老人介護小説」でもあるという
ことになる。病院での最後の筆談で、父親のノブちゃんは、メモ
用紙に「よ ろ し く」と書き、「うん」とうなずくだけで、
精いっぱいだったぼくを残して、逝ってしまった。飄々とした嵐
山節が、一人の老人を看取った。「よろしく」。

ついでに、もうひとつ書評を併載しておこう。こちらは、小説で
はない。作者は、校條剛。誰も、この名前を読めないのではない
か。「めんじょうつよし」と読む。校條剛は、S潮社の編集者。
校條剛が書いた本のタイトルが、「ぬけられますか」。知ってい
る人には、説明の必要もないが、知らない人には、判らないの
が、「ぬけられます」という看板。昔、「玉の井」という向島に
あった私娼街は、路地が入り組んでいて、迷路のようになってい
たが、客を引き込むために、恰も通り抜けられる道路を装うため
に、このような看板を掲げていた。その私娼街を舞台に町内でス
タンドバーを営む一家の少年「キヨシ」を中心に描いたのが、滝
田ゆうの「寺島町奇譚」だった。だから、「寺島町奇譚」の背景
には、私娼街が独特の線描で描かれ、背景の中には、「ぬけられ
ます」という看板も描かれた。つまり、「ぬけられます」は、滝
田ゆうの漫画の象徴になっているというわけ。その結果、校條剛
の「ぬけられますか」は、編集者として付き合った滝田ゆうの生
涯を描いた作品ということになる。嵐山光三郎「よろしく」の表
現を借りれば、漫画家の「T田ゆう」さんの登場となる。

滝田ゆうは、国立と飲み屋街の、新宿ゴールデン街を行き来しな
がら、空襲で焼けてしまった幻のふるさと「寺島町」の三角形を
結んで、螺旋状に駆け登り、挙げ句の果てに、昇天してしまった
漫画家だったのかも知れない。校條剛は、愛情を込めながら、遅
筆の上に、編集者の目を盗んで、酒場に逃げ出すという、編集者
泣かせの滝田の姿を赤裸裸に描いて行く。懐かしき、滝田の漫
画。独特の線は、浮遊するごとくに画面を埋める。私のところに
も、多数の滝田ゆう作品が、所蔵されている。
- 2006年12月29日(金) 22:21:16
12・XX  男性の感性も、女性に負けず、劣らず、時代や世
相の断片を鋭く切り取る。12月に読んだ本は、以下の通り。

阿部和重「ミステリアスセッティング」、大江健三郎「『伝える
言葉』プラス」、奥野修司「心にナイフをしのばせて」、藤原新
也「黄泉の犬」、伊東乾「さよなら、サイレントネイビー」。阿
部は、小説。大江は、エッセイと言うより、評論。奥野は、ルポ
ルタージュ。藤原と伊東は、オウムものの体験記をベースにした
ルポルタージュ。

阿部和重「ミステリアスセッティング」は、いじめ問題を小説家
の想像力を働かせると、スーツケース型の核爆弾が出て来て、実
際に東京の地下鉄網のなかで爆発してしまうという小説に昇華す
る。「2011年の『マッチ売りの少女』というのは、本の帯に
書かれた惹句である。つかの間の幸せを売るマッチ売りの少女に
なぞらえられたのは、シオリという少女。少女は、マッチを売る
代りに歌を唄うのだが、これが、音痴。それゆえに、虐められ、
その果てに、正体不明の外国人から預ったスーツケース型の核爆
弾のスイッチを過って入れてしまい、核爆弾の爆発とともに、東
京メトロの地下鉄網の、暗闇のなかで消えてしまう。だが、この
物語を語ったのは、公園を根城にする爺さん。そう、爺さんの話
す話が、シオリ物語というわけだ。実際にあったことなのか、将
来起こるできごとの予言なのか、それは、漠としている。

だが、阿部には聞こえるらしい。「絶体絶命の危機に瀕しながら
も、打ちひしがれまいとして懸命に恐怖に耐える女の子の、いじ
らしく麗しい鳴声が」。

ええっ、なに?。「絶体絶命の(支持率低下という)危機に瀕し
ながらも、打ちひしがれまいとして懸命に恐怖に耐える権力者
の、いじましく嗄れた鳴声が」

あべは、そういう声を発しているらしいが、国民には、まだ聞こ
えて来ない。

大江健三郎「『伝える言葉』プラス」は、朝日新聞に連載された
「伝える言葉」とそのほかの文章(講演の記録)をプラスして、
刊行したので、こういうタイトルになった。刊行を記念するサイ
ン会に参加した人は、「為書き」で、名前を書いてもらう代り
に、大江健三郎作品では、小説やエッセイ、評論というジャンル
を越えて、大江文学のキーワードになっている「新しい人」に因
んで、「新居仁」様、つまり、「新しく居る人(仁)」様と、大
江健三郎に書いてもらったと言っていた。その本が、私の所へ
廻って来たのである。

大江文学の世相へ、特に戦争や暴力の世相、あるいは、それに傾
く世相に対しては、厳しく抵抗する作家の目が、隅々に感じられ
る好著である。「もう一度、新しく」「受忍しない」など、キー
ワードが目立つ。衆議院、参議院ともに、人気急落の安倍政権の
下で、強行採決された教育基本法改悪について、大江は、その後
の連載のなかで、現場では、前基本法を心のなかに持ち、教育を
実践しようと呼び掛けている。しなやかに、「もう一度、新し
く」現実を「受忍しない」で、前教育基本法を再構築しよう、そ
して、戦争や暴力を憎む心を育もう。そう「心に前基本法をしの
ばせて」。

奥野修司「心にナイフをしのばせて」は、犯罪の被害者にあった
家族の物語。28年前に少年を殺した同級生は、関東医療少年院
を出所し、大学に入り、弁護士になり、殺した少年の遺族には、
謝罪すらせずに、法の番人として、金儲けをしていた。遺族とと
もに歩んで来たフリーライターが、やっと元同級生を探り当てこ
とから、連絡をとった殺された少年の母に対して、元同級生の弁
護士は、「少しぐらいなら貸すよ、印鑑証明と実印を用意してく
れ、五十万ぐらいなら準備できる」と言い、金より謝罪をと言う
母に「なんでおれが誤るんだ」と居直った。わが子を殺され、
30年近く経ち、一緒に茨の道を歩んで来た夫に先立たれ、年金
だけで、細々と暮らす老いた母親。

歳月は、被害者の遺族たちを癒さない。癒されない歳月は、まだ
まだ、死ぬまで続く。「心にナイフをしのばせて」。凶器を持ち
続ける生活は、狂気にまみれた生活だ。狂気のなかで暮らすこと
の苦しさ。

狂気と言えば、オウム真理教のマインドコントロールは、まだ、
続いている。1995年7月から96年5月にかけて、藤原新也
は、週間プレイボーイという雑誌に「世紀末航海録」という連載
を載せた。ところが、松本智津夫の生涯を追い掛けている内に実
兄の満弘さんの居場所を突き止め、インタビューをしたが、イン
タビューの際の実兄との約束で、インタビューの内容を雑誌に掛
けなくなり、連載が中断したままになった。以来、10年の歳月
が流れ、満弘さんも亡くなり、藤原新也は、連載の続きを書き下
ろし、「黄泉の犬」というタイトルで、刊行した。これは、
1995年1月17日朝の阪神淡路大震災、95年3月20日朝
の地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教事件、2年後の、
1997年春の神戸連続児童殺傷事件、いわゆる「酒鬼薔薇聖斗
事件」という時代の世相を大掴みしようという作品だ。そしてま
た、それは、いまの世相、前ファッショというべき思潮、戦争へ
傾斜する法案が続々と成立しているのを見ようともしない大衆た
ち、そういうものへのいら立ちを書き留めた時代の書である。イ
ンド、チベット放浪から、34年間も、精神的な放浪を続けてい
る思索家・藤原新也の魂の記録は、オウム真理教の松本死刑囚の
記録とも二重写しになりながら、ここに、刊行された。2006
年の収穫のひとつだろうと思う。

もうひとり、オウム真理教に人生を絡めとられた大学助教授がい
る。音楽家の伊東乾である。伊東乾は、東京大学の物理学専攻の
大学院博士課程中退だが、大学の同級生に豊田亨がいる。95年
3月20日に中目黒駅から地下鉄日比谷線に乗り、車内でサリン
を撒いた男である。「さよなら、サイレントネイビー 地下鉄に
乗った同級生」は、その豊田のことを書いた作品であり、今年度
の開高健康ノンフィクション賞を受賞した。サリン事件の実行犯
と東大助教授の人生の分岐点は、どこにあったのか。また、その
分岐は、未来永劫、別れたままの状態が続くのか。早い段階で、
オウム真理教のマインドコントロールから目覚めた豊田は、一日
も早く、自責の念から罪に服したい、つまり死刑にされたいと願
うようになったが、それで、オウム真理教事件は、裁かれ、二度
と類似の事件は起きないような、社会的な予防策は確立されるの
か。

そういう課題に対して、伊東は、「ノン」と答える。「黙って責
任をとる」豊田のような態度が、日本の戦争責任を曖昧にし、戦
後処理を誤らせて来た。そういう過ちを日本人たちは、戦後も繰
り返して来たし、いまも、繰り返している。豊田も、その一人に
過ぎない。それでは、いつまで経っても、オウム真理教事件は、
解決されないし、日本は、なにも、変らない。

「黙って責任をとる」という精神構造は、海軍の精神構造であ
り、それは、「サイレントネイビー」と称され、男らしい態度と
誤解されて来た。だから、タイトルは、「さよなら、サイレント
ネイビー」なのだが、実は、このタイトルは、非常に判りにく
い。一オウム真理教事件としてではなく、日本人の精神構造の奥
に潜在し、いまも、蠢いている心のありようを問題視して、提起
したという著者の熱意は熱意としながらも、このタイトルは、改
めるべきだった。

松本死刑囚を始め、オウム真理教事件の被告たちは、全てを告白
し、なぜ、こういう事件を引き起こしたか、その社会的なメカニ
ズムを解明させ、二度と、こういう事件を起こさないような社会
的な防衛力を高めることこそ、いちばん大切なことではないか。

たまたま、読んだ男たちが提起した問題を私なりに受け止める
と、こういうことになった。2006年は、間もなく、暮れる。
そして、新しい年、2007年が始まる。戦争、暴力への狂気だ
けは、絶ちたいと切に思うが、人類は、その長い歴史を見れば、
戦争と暴力に傾斜しながら歴史を進めて来たことが判る。それだ
けに、戦争と暴力への傾斜から脱却するということは、一筋縄で
は行かない大事業だということが判る。だが、そこへ向って、人
類の歩みを向けさせる以外に、人類を自滅から救済する方法はな
い。

ということで、2006年の最後を飾る書評に相応しい内容に
なったが、実は、まだ、読み終わったまま、書評を書いていない
本が多数あるので、2006年の書評は、まだ、続く。

乱読は、まさに、ものぐるほしけれ。
- 2006年12月29日(金) 19:35:38
12・XX  女性の感性が、時代や世相の断片を鋭く切り取
る。12月に読んだ本は、以下の通り。小川洋子「海」、多和田
葉子「アメリカ 非道の大陸」、村田喜代子「鯉浄土」、絲山秋
子「絲的メイソウ」、三浦しおん「風が強く吹いている」。

小川洋子「海」と多和田葉子「アメリカ 非道の大陸」、村田喜
代子「鯉浄土」は、いずれも達者な実力派の短編作品集。絲山秋
子「絲的メイソウ」は、エッセイ。三浦しおん「風が強く吹いて
いる」は、直木賞受賞作家の箱根駅伝もの。

小川洋子「海」は、長編小説「博士の愛した数式」というユニー
クな作品を執筆していた前後に書かれた短編小説7作品を集めたも
の。表題作は、「海」という平凡なタイトルになっているもの
の、「風薫るウイーンの旅六日間」とか、「バタフライ和文タイ
プ事務所」など、一癖の有りそうな作品も並んでいる。その期待
を裏切らず、例えば、「バタフライ和文タイプ事務所」では、タ
イピストとして事務所に新しく雇われた私が、やがて遭遇する倉
庫にいる活字管理人という奇特な人物が、登場するが、私にも、
人物の姿は見えない。「糜爛」の「糜」の字の活字が欠けてし
まった。所長は、活字管理人のところへ行って、新しい活字を出
してもらえという。

「よく見ると、不思議な字ですね」と管理人。「淫らな感じが
漂っています」「淫靡の、靡、の字に似ているからでしょう
か」。
「まあ、本当だ」と、私。
「だからこそ、よく欠けるのです」と、管理人。「それに比べ
て、爛の字は端正です。取り澄ましたところがあります。ですか
らなかなか欠けません」。
「丈夫な活字の方がお好きですか」と、私。
「いいえ。そんあことはありません。(略)ほんの少しどこか欠
けただけで、バランスが危うくなって、雰囲気が変ってしまった
その様子を、眺めるのも好きです」と、管理人。

この管理人は、活字管理人だけでなく、世相管理人、あるいは、
「政界」管理人なのではないかと、評者である「私」などは、思
うが、いかがだろうか。

多和田葉子「アメリカ 非道の大陸」を読む。多和田は、20年
以上もドイツのハンブルグに住み、ドイツ在住10年にして、群
像新人賞を受賞し、翌年「犬婿入り」で芥川賞を受賞した。以
来、ドイツ語と日本語で作品を書き続けている。2年前、ドイツ
での生活の長さが、生まれてからの日本の生活の長さを越えたと
いう。さらに、最近では、アメリカにしばしば旅行、滞在してい
る。「アメリカ 非道の大陸」は、そういうアメリカ体験を長編
小説に昇華させたもの。ドイツとアメリカと日本という三角関係
のなかで、この作品は、生まれた。狂ったブッシュが率いる国、
アメリカ。世界中に出掛けて行っては、喧嘩を吹っかけ、戦争状
態をつくり、それでいて、世界に「デモクラシー」を伝道してい
ると思っている伝道師が、アメリカだ。非道のアメリカを車で旅
すると、何が見えて来るか。きつねの森、水の道、砂の道。

「どうしても確かめたい。走るのをやめないで確かめたい」。

「バックミラーに映ったら/急に思い出した/左右が逆だったか
ら分かったの」

バックミラーがなかったら、左右が逆にならなかったら、判らな
い。日本もアメリカも、左右が逆にならないから、判らないま
ま、猪突猛進。そう、来年は、亥年だぞ。

村田喜代子「鯉浄土」は、相変わらずの、村田ワールドで、読み
ごたえあり。現実と幻のあわいを紡ぐ村田マジック。まな板の上
に載った鯉は、身じろぎもしない。地獄の覚悟か、諦めか。い
や、それこそ、浄土なのかも知れない。国民は、そう思いなが
ら、地獄を浄土に変えて、御陀仏して行くのかも知れない。引導
を渡すのは、獅子奮迅の指導者か、捨て身の教育改革一点突破、
玉砕者か。はたまた、次の出番の道化師か。

腰が抜ける。髪が逆立つ。血が凍る。胆が潰れる。腸が煮えくり
返る。血で血を洗う。断腸。

そして、鯉は、浄土に昇天する。

絲山秋子「絲的メイソウ」。瞑想の人、絲山秋子。「絲的」と
は、「絲山的」と「意図的」と二重の意味を持つがゆえに、意図
的に付けられた外題である。要するに、エッセイを書くなどとい
うことは、あまり、得意ではないと思われる名短編作家の、初
エッセイ集ですよ。「メイソウ」も、「瞑想」、あるいは、「迷
走」。車好きの絲山。そう、この人にも、福岡の精神病院から脱
走した患者コンビによる鹿児島までの、車による迷走記、いや、
逃走記という長編小説が、ありましたっけ。

「寝言は寝て言え」というタイトルが付けられたエッセイが載っ
ている。一人で言う「ひとりごと」をテーマにしている。つまら
ないことを言われた時に絲山が返す科白の常套句が、「寝言は寝
て言え」だとか。

「レム睡眠行動障害」って、知っていますか。レム睡眠というの
は、朝方の浅い眠りの状態のこと。よく夢を見ます。だから、寝
言も言う。寝言を言うだけなら、よいのだけれど、寝言が、夢の
なかに押し込められずに、夢の外に飛び出し、実際に大声を出し
てしまう。こういう場合、たいてい、怖い夢、襲われている夢を
見るため、襲うものに対して抵抗をして、あるいは、威嚇をし
て、大声を出すのである。その声に自分が吃驚して、起きてしま
うことがある。たまたま、隣に寝ている人があれば、その人を起
こしてしまうことがある。さらに、困るのは、声を出すだけでな
く、抵抗の、防御の、動作が伴い、壁や箪笥を蹴飛ばしたり、た
またま、隣に寝ている人があれば、その人を蹴飛ばしてしまった
りする。蹴り方が激しいと、自損する。大怪我をする場合もあ
る。不幸な隣人に怪我をさせる場合もあるという。そういう症状
を「レム睡眠行動障害」という。歴とした、立派な病気なのであ
る。寝ていて言う寝言は、実は、怖いものなのである。

三浦しおん「風が強く吹いている」は、いま、流行りのスポーツ
青春小説。箱根駅伝に挑戦する大学生たちの姿を臨場感溢れる
タッチで描いている。箱根駅伝、そう、間もなく正月になると、
2日間に亘って、テレビで中継する、あれ。素人も交えて、同じ
アパートに住む大学生たちが、未知への挑戦とばかりに、駅伝に
挑戦し、完走し、10位に入賞する。読みごたえのある読み物だ
が、
前ファッショとも言うべき、世間に背を向けて、純粋世界に潜り
込んでいて、良いのかと反省したこと、しきり。それほど、手に
汗を握り、足に豆を作りするほど、おもしろかった。
- 2006年12月29日(金) 17:53:48
12・XX  時代小説を読む。順不同にあげれば、次のような
ものを読んだ。宇江佐真理「恋いちもんめ」と「ひとつ灯せ 大
江戸怪奇譚」、藤沢周平「未刊行初期短編」、佐伯泰英「居眠り
磐音 江戸双紙梅雨ノ蝶」、小杉健治「毋子草」、山本一力「牡
丹酒」、江宮隆之「歳三奔る」。

宇江佐真理「恋いちもんめ」と「ひとつ灯せ 大江戸怪奇譚」
は、いつもながらの宇江佐節で奏でる江戸の庶民の真情が、読み
ごたえがある。「恋いちもんめ」は、江戸の両国広小路の水茶屋
「明石屋」の娘・お初と青物屋「八百清」の跡取り息子・栄蔵の
悲恋物語を軸に庶民の生活ぶりが描かれる。「ひとつ灯せ 大江
戸怪奇譚」は、宇江佐版「百物語」。会員制の「話の会」に集う
面々。江戸の四季と庶民の人情を絡めながら、本当にあった(あ
るいは、聞いた)話を面々は、当番制で語り出す。この世には、
昼と夜があり、明と暗がある。暗があるから、明が輝く。怖いこ
とを突き抜けて、見直すと苦しい人生も違って見えて来る。生き
ているということは、何と素晴しいことか。それにしても、この
世は、人智の及ばぬ不思議なことがあるものだ。それは、江戸時
代だからではない。現代だって、隅っこには、明の及ばぬ暗闇が
あり、魑魅魍魎が跋扈している。ほら、そこの隅っこにも、なに
やら蠢くものの気配が・・・。それ、「ひとつ灯せ」。

藤沢周平「未刊行初期短編」は、タイトル通り、初期の習作14
作品が発掘され、短編集として編まれた。藤沢周平の刊行された
小説の作品集は、ほとんど持っている。かなり早い時期からの読
者だったわけだから、いずれも、初版である。なかには、署名本
もある。藤沢周平は、死後、ますますブームが過熱し、全集ばか
りでなく、復刊本の刊行も、相次ぎ、ムックや雑誌の特集も、生
前並みに企画される。藤沢作品の魅力は、サラリーマンの悲哀を
時代小説のなかに持ち込み、読者の体験が、作品に登場する武士
や町人の体験と二重写しになるようにした仕掛けにあると思う。
そういう意味で、時代小説を、それ以前のチャンバラ小説、ある
いは、重厚な史実の人々を扱った歴史小説と区分けをしたという
のが大きな特徴だ。そういう、その後の藤沢ワールドをへの助走
を感じさせる作品、実際、同じモチーフで、後に新たな作品が作
り上げられた痕跡がある。あるいは、古臭い、以前の時代小説を
抜け切れない作品などが、「未刊行初期短編」には、含まれる。

佐伯泰英「居眠り磐音 江戸双紙 梅雨ノ蝶」は、「居眠り磐音 
江戸双紙」シリーズの第19弾。佐伯は、毎月、多数の文庫書き
下ろしシリーズを手掛けながら、筆が荒れていないのは、驚嘆に
値する。春風駘蕩の主人公・坂崎磐音の人生を追い掛ける佐伯の
筆致は、居眠りどころか、まさに春風駘蕩で、磐石の世界を構築
している。

小杉健治「毋子草 どぶ板文吾義侠伝」は、かっての裁判ミステ
リー小説家・小杉健治をすっかり忘れさせるような時代小説家ぶ
りで、佐伯ほどではないが、時代小説の新シリーズに健筆を振
るっている。主人公の文吾は、小間物屋。女遊びをした商家の旦
那を威して小金をせしめたり、駆け落ちした娘を連れ戻して、手
間賃を稼いだり、小悪党の文吾であるが、人情に厚いところが、
主人公を張る軸になっている。小杉の時代小説を全て読んでいる
わけではないが、小杉時代小説では、「風烈廻り与力・青柳剣一
郎」シリーズは、愛読している。

山本一力「牡丹酒」は、「深川黄表紙掛取帖」シリーズの第2
弾。蔵秀、辰次郎、宗佑、雅乃の4人が、それぞれ、表の稼業
は、皆違うが、裏稼業は、江戸の厄介事を始末するプロジェクト
チーム。今回は、山本の故郷土佐に飛んで、地酒作りの話から物
語が展開した。山本も、藤沢時代小説と同じようにサラリーマン
の悲哀を時代小説のなかで昇華させ、サラリーマン読者から支持
を得ている。ただし、教師、業界紙記者を経て作家になった藤沢
とさまざまな職業を経て、さらに、莫大な借金を背負って、作家
として人生のリセットボタンをおした山本との肌合いの違いが、
お互いの作風の旗幟を鮮明にしている。

江宮隆之「歳三奔る 新選組最後の戦い」は、山梨日々新聞社の
幹部を務める江宮らしく、甲府城を官軍にとられるか、幕府側に
立つ新選組が守りとルか、甲州に進軍したものの、甲州街道から
甲府盆地の付け根に入り込んだだけで、甲府城に到達できずに、
官軍に追われて敗走する新選組一行の史実を元に土方歳三の奮戦
ぶりを描く。
- 2006年12月29日(金) 15:22:01
12・XX  山本容子「パリ散歩画帖」は、パリに旅行に行く
のではなく、パリに部屋を借りて、暫く滞在することをすすめる
本。パリに滞在して、何をするか。買い物をし、路地などを巡る
散歩をし、買い物で集めた包み紙やメトロのキップを再利用し、
文具店か画材店で買い求めた道具を使って、紙に、張り絵、格好
よく言うなら、コラージュをし、自分だけに散歩画帖を作りま
しょうという。いや、そればかりではない、料理をしたり、知り
合った人を部屋に招いたり、旅行で過ごすパリとは違う、パリの
表情を見る事をすすめる。美術館も廻りたい、ゴルフもしたい、
パリの日曜日を過ごしたい。滞在型なら、なんでもできる。
- 2006年12月2日(土) 22:08:27
11・XX  永遠のモラトリアム人間・川上弘美の作品を幾つ
か読む。

「ざらざら」は、お飾りの海老の触感。27歳のフリータ−の男
女3人の話。「人生の執行猶予がそろそろなくなってきている」
「長い間、のヘ−っとやってきたけど、そろそろアレだし」とい
う年齢が、27歳。クリスマスの集まりで、3人で酒を呑んだ。
呑んだ勢いで、正月も集まることになり、「正月ケーキ」をつく
ることになった。「エビとかダイダイとかのっかってる」。つま
り、モラトリアムの、心地よさ、気楽さ、一方で、とりとめのな
さ、けだるさ、そして不安感。青春との訣別の時期。50歳近い
川上弘美は、モラトリアム世代の点描が巧い。村上龍の「限りな
く透明に近いブルー」ではなく、お飾りのエビの「ざらざら」
で、青春との訣別を描くというわけだ。異性であれ、同性であ
れ、人を恋しく思う気持ちを大事にしよう。好きな人に好きに
なってもらうことって、意外と難しい。「ざらざら」は、そうい
う点描小説23編。

「ハヅキさんのこと」も、同じような触感の作品が、26編。
「古道具 中野商店」は、長編小説。骨董屋ほど高級ではなく、
学生街にあるリサイクルショップのような古道具屋・中野商店を
舞台にモラトリアム世代の一人、アルバイトの「わたし」は、女
好きの店主・中野さん、きりっとした中野さんの姉のマサヨさ
ん、同僚のタケオ。ほか、店の常連なども交えて、モラトリアム
の、心地よさ、気楽さ、一方で、とりとめのなさ、けだるさ、そ
して不安感といった世界を再構築する。「真鶴」は、失踪した夫
を思いつつ、新たな恋人と付き合う、不存在と存在のあわいの、
これもまた、モラトリアムの、心地よさ、気楽さ、一方で、とり
とめのなさ、けだるさ、そして不安感を描く長編小説。
- 2006年11月26日(日) 22:07:57
11・XX  1枚の写真、または、絵と1編の小説、あるい
は、エッセイ。どちらが、世界を引っ張るか。そういう思いに駆
られた作品集を読んだ。浅田次郎の最新作「月下の恋人」と山本
容子の「女」を読む。

「月下の恋人」は、スナップ写真のような、あるいは、映画のス
チール写真のような、一瞬を切り取ったような短編小説が、11
作品所収の短編作品集。なかでも、印象に残ったのは、「冬の
旅」。未生以前の駆け落ちをする両親と夜行列車で、同じ車両に
乗り合わせる少年の話。少年が旅に出るにあたって持って来た文
庫本は、川端康成の「雪国」。トンネルを抜けて、奇妙な乗客を
乗せた夜行列車は、雪国に到着する。表題の「月下の恋人」は、
心中しようと熱海の入江の一軒宿に身を寄せた恋人たちは、別の
カップルの心中行を幻視する。「月明の海に葡萄の粒のように浮
かんでいた僕ら(傍点)の姿」を今も思い出す。生き残った者の
思い出。「冬の旅」なら、夜行列車の車内の光景という、セピア
色の1枚の写真。「月下の恋人」なら、皓々と月が海面を照らす遠
景の写真。短編の軸になる写真が思い浮かぶ作品の数々。ただ
し、11の作品の出来は、いわば「不揃いの林檎」で、1枚写真
の手法が成功しているものばかりではないのが、残念。

「女」は、10年も前に刊行されたエッセイ集。「婦人公論」の
表紙を飾った60枚の表紙画「女」シリーズの、「○○の女」と
いう背景、あるいは連想を洒落たタッチで書いたエッセイ。最初
の一年は、表紙画のみで、エッセイはなかったが、2年目から
「表紙の言葉」として、エッセイが付くようになり、本にするに
あたって、表紙画のみのものにも、書き下ろしエッセイが付い
た。いわば、1枚の絵を元に綴った女性による女性論。
- 2006年11月5日(日) 22:17:09
10・XX  真保裕一「クレタ、神々の山へ」を読む。04年
1月25日に放送されたNHKのBSの紀行番組「トレッキング
エッセイ紀行 紺碧に浮かぶ古代の大自然を求めて ギリシャ・
クレタ島」参加の体験記を岩波書店から刊行したのが、本書。

標高1500メートルのニダ高原から2456メートルのイー
ディー山まで、12キロのトレッキングを始め、標高1800
メートルのオマクロ高原からサマリア渓谷へ20キロ下り、アギ
ア・ルーメリの海岸線を歩く。さらに、そこから高地砂漠を通っ
て、標高2453メートルのパクネ−ス山へ登るなど、高低自在
の強行トレッキングぶりが、描かれる。パクネ−ス山の山頂にた
てば、重なるような山並の向こうに最初に登ったイーディー山の
山頂が遥かに望めるという。
- 2006年10月16日(月) 21:41:17
10・XX  いつものように時代小説を幾つか読んだ。小杉健
治「七福神殺し 風烈廻り与力・青柳剣一郎」、佐藤雅美「お白
州無情」、佐伯泰英「居眠り磐音 江戸双紙 捨雛ノ川」と「風
雲 交代寄合伊那衆異聞」、林真理子「本朝金瓶梅」、加藤廣
「信長の棺」。佐々木譲「幕臣たちと技術立国」(これは、小説
ではない)と「くろふね」。そして、いま、読みはじめたのが、
山本一力「深川黄表紙掛取り帖【二】 牡丹酒」である。

時代小説は、読者の反応が良いと、シリーズ化される。小杉の
「風烈廻り与力・青柳剣一郎」は、第5弾であるし、佐伯の「居
眠り磐音 江戸双紙」は、なんと、第18弾で、すでに、第19
弾も出ているはず。同じく佐伯の「交代寄合伊那衆異聞」は、第
3弾である。佐伯は、幾つもの文庫書き下ろしシリーズを同時併
行に書き進めている上に、更に新シリーズを開始したりしてい
る。

佐藤雅美「お白州無情」は、江戸時代の末期に房総の農民たちに
「性学」の道を説いた農業改良の思想家というより実践家の大原
幽学の生涯を描いた「吾、器に過ぎたるか」を改題したもの。幽
学の教導所「改心楼」が、見事だったゆえに、お上に眼を付けら
れ、事件をねつ造され、理不尽な生涯を強いられた。

林真理子「本朝金瓶梅」は、中国の艶笑小説「金瓶梅」を江戸の
時代に移したもの。加藤廣「信長の棺」は、信長の最期を「信長
公記」の著者太田牛一を主人公に据えて、描いた歴史ミステ
リー。意表をつく発想で、謎解きをして、多数の信長ものの分野
に新境地を開いた。

佐々木譲「幕臣たちと技術立国」は、佐々木が小説の主人公にし
て来た(人物のうち、江川太郎左衛門英龍、中島三郎助、榎本武
揚の3人について、技術官僚という視点で描いた歴史評論だ。幕
末期、旧臘の幕府側にいた人材でも、近代日本の先行きを見通
し、後の明治維新を視野に入れて活躍した人物がいた。近代日本
は、明治時代から始まったのではなく、幕末期から明治期へ継続
した流れのなかで、作られて行った。江戸時代を封建的と決めつ
けてしまっては、歴史認識を誤ることになる。倒幕も佐幕も、実
務に携わる人間には、同じ問題意識が芽生え、近代日本のありよ
うについては、立場の違いを越えて、似たようなイメージを持っ
ていた。それが、「技術立国」というコンセプトであった。

「くろふね」は、「幕臣たちと技術立国」に出て来る3人のなか
では、いちばん知名度が低い中島三郎助を主人公に据えた長編小
説。浦賀の与力として諸外国の勢力と外交交渉をしたり、海防に
努力したりして、実務的に諸外国と日本との軍事力の比較考量が
できた人物中島三郎助は、日本の近代軍事力、造船力の劣等を実
感した。その上で、実際に学ぶなど、当時としては、最先端の知
識を取得しながら、最期は、榎本武揚とともに、箱館に籠り、息
子らとともに戦死した。日本人として、最初に近代と接しなが
ら、最後の侍として死んで行った中島三郎助。

山本一力「深川黄表紙掛取り帖【二】 牡丹酒」も、シリーズ化
が始まった。蔵秀、辰次郎、宗佑、雅乃の4人が、それぞれ、表
の稼業は、皆違うが、裏稼業は、江戸の厄介事を始末するプロ
ジェクトチーム。今回は、山本の故郷土佐に飛んで、地酒作りの
話から物語が展開しはじめた。いずれにせよ、今回でいえば、
「信長の棺」を除いて、江戸の時代小説は、作品の中で、どれだ
け江戸の風を吹かせ、江戸の庶民の人情を生き生きと伝えてくれ
るか。それぞれの書き手の競演であることは間違いない。
- 2006年10月14日(土) 21:47:47
10・XX  馳星周「ト−キョ−・バビロン」と薬丸岳「闇の
底」は、現代社会が、裏に持つ暗黒社会を描く。

馳星周「ト−キョ−・バビロン」は、消費者金融会社の取材者へ
の盗聴事件という実際にあった話をヒントにして、馳独特のタッ
チで、独自のノア−ルを再構築してみせる。企業防衛のための盗
聴、警察や暴力団との癒着。そこから生み出されるブラックマ
ネーをかっ攫おうとする元IT会社社長の青年実業家(いや、虚
業家か)、元社長と大学時代の同級生のやくざ(いまは、組か
ら、企業舎弟のフロント会社のサラリーマン)、スタイルも良
く、頭もきれるホステスの3人組、そして、消費者金融会社の総
務課長が、ワンマン社長を裏切り、3人組に加わる。イエロー
ジャーナリスト、ブラックジャーナリストたちも登場する。
ちょっっと下世話な「経済小説」。

江戸川乱歩賞受賞作家の薬丸岳の受賞後の第一作は、「闇の
底」。社会の闇の底に眠るものは、なにか。否、人の心の闇の底
に潜むものは、なにか。幼い子どもたちが、犠牲になる犯罪が増
えて来た。犯人は、幼児への性的な悪戯好きの変態者ばかりでは
ない。実の親が、子どもを殺す。近所の子どもまで殺すという時
代だ。「闇の底」では、そういう幼い子どもへの性犯罪を抑止し
ようと性犯罪が起きる度に性犯罪の前歴者を次々と殺して行く殺
人鬼「サンソン」が現れた。殺人を予告し、実行に移して行くの
は、誰だ。マスコミを巻き込み、劇場型の犯罪を進行させるうち
に、世間も、抑止型殺人者を義賊のごとく、英雄視するようにな
る。狂気の社会への警鐘。
- 2006年10月14日(土) 18:24:23
10・XX  大沢在昌「新宿鮫ァ 狼花」を読み、馳星周「ブ
ルー・ローズ」(上・下)を読む。「新宿鮫」は、キャリアの資
格を持ちながら、自己の信念のために、エリートから、意図的に
落ちこぼれ、警察官は、かくあるべきという、孤高の刑事を描き
続ける大沢在昌の人気シリーズも、とうとう9巻に達した。警察
官出身の国際犯罪者、どん底から這い上がろうとしている不法滞
在者の中国女性、外国人犯罪者を追い出すために、やくざと手を
結ぼうとするエリート警察官、彼らの間を縫うように駆け抜け
る、新宿署生活安全課の鮫島警部こと、新宿鮫。鮫島は、公安警
察のエリート警視正と戦いながら、犯罪者とも向き合う。大沢
は、新宿という町を警察というセンサー(それも、警察という権
力社会の上層部と対立しながら、警察官を止めずに、踏み止まっ
ている主人公)を作動させながら、日本社会の縮図を描こうとし
ている。このシリーズは、まず、新宿の裏社会の犯罪を描いた。
外国人犯罪者を描いた、警察組織の公安対刑事を描いた。結局、
大沢は、新宿を多方面から描いて来たのだということが判る。

大沢と同じように、新宿の裏社会を描き続けているのが、馳星周
だ。最近作品の「ブルー・ローズ」も、公安警察と刑事警察との
両方のトップの警察庁長官レースを下敷きにしながら、元警察官
の殺人者として、徳永警部補を登場させる。SMの世界が絡む。警
察組織のなかを犯罪者が疾走する。元刑事という、極悪のヒー
ローが、しぶとく生き残る。悪を纏った警察小説が、なぜ、こん
なに流行るのか。重苦しい、ファッショ的な社会の雰囲気が、エ
ンターテインメントの世界で、妖しい花を咲かせているように思
う。
- 2006年10月6日(金) 20:39:07
10・XX  坪内祐三「同時代も歴史である 一九七九年問
題」と荒木経惟「東京エロス」を読む。坪内祐三「同時代も歴史
である」は、動き続ける「同時代」をいつ「歴史」として、意識
できるかという難問を投げかけている。2003年6月号から
2004年11月号の「諸君!」という雑誌に連載したそれぞれ
独自のテーマを持った読み切りの9論文を1冊の新書の本にし
た。そもそも「諸君!」などという保守的な雑誌は、普通なら読
まないし、それに連載した論文集を読むことも無いのだが、「同
時代も歴史である 一九七九年問題」というタイトルに惹かれて
読んでみた。1979年、イラン革命があり、ソビエトがアフガ
ンに侵攻した。確かに世界史の転換点のひとつになったのだろう
が、その後、アメリカがイラク戦争を起こし、いまも、泥沼状態
は続いている。「歴史」とは、後世の目で、同時代では見えて来
ない「鳥瞰図」を手に入れてこそ、評価ができるものであるとし
たら、1979年を25年後、つまり四半世紀という時空の差だ
けで、客観的に鳥瞰できるのかどうか。結局、読み終わっても、
坪内のいうようには、「歴史」が見えて来なかった。

一方、荒木経惟「東京エロス」は、三段腹やコルセットで締め付
けていた跡がくっきり残るような弛んだしわしわの腹をさらけだ
した多数の人妻(かなり、歳もとっている人もいる)の見難(に
く)い裸体の群像と東京のさまざまな街頭風景、大衆の群像とが
アトランダムに構成されている写真集だが、これらの多数の写真
は、確実に同時代を映し出している。見難い筈の人妻の裸像だ
が、裸像をさらけだしている人妻たちは、多分、アラキーの口車
に載せられて、裸像を見難い、否、醜いなどとは、露とも思わ
ず、嬉々として、「美しき裸像」という自信に満ちた表情で、写
真に映っているという不思議さ。顔以外の寄る年波の見難さと顔
の晴れ晴れとした表情の落差こそ、まさに、今の日本の同時代の
表情だと思ったが、荒木が、それを確信して、こういう人妻の裸
の群像を撮ったのだとしたら、荒木こそ「同時代も歴史である」
というタイトルに相応しい名著の著者たる資格を持つように思え
る。大衆の見難い裸像という実態と晴れ晴れとした顔の表情とい
うのは、ファッショが、蔓延している今の時代情況そのものであ
り、後年、2006年は、戦後民主主義の日本が、新たな戦前
ファシズムの時代へ大きく転換した年である。その年、日本人た
ちは、こういう表情をしていたということを証言する貴重な歴史
書に「東京エロス」は、なるだろうと予言をしておきたい。
- 2006年10月3日(火) 21:36:22
9・XX  4冊の絵本を読んだ。寺田克也×穂村弘「課長」と
いうユニークな「絵本」(マンガチックな絵柄のモノクロの「絵
本」だろうな、やっぱり)を読む。標題になっているのは、掲載
されている5つの短編のうち、「課長のランチタイム」から、名
付けたようだ。「みてもいいよ。みてもいいよ。くふっ」「二段
階ストローくんとのばします。七段階ストローだったらくんくん
くんくんくんくんくんか。さぞ、遠くから飲めるでしょうね」
「カレーがあああああ。カレーがいいいいい。カレーがうううう
う。カレーがえええええ。カレーがおおおおお」「七味がちょっ
と足りないなあ。おい、ワカマツ、そこのスイッチ入れてくれ」
「アメリカのおにぎりめ。アメリカのおにぎりめ。マサオの分
も、カツジの分も、俺が食ってやる。マサオ!カツジ!」で、」
終わり。手で弁当を隠して食う課長らしき男。お手製のおにぎり
一個と豆乳を二段階ストローで呑む女子社員(二段階が、「く
ん」1回なら、七段階は、「くん」6回のはずだろうに)。涙や
汗を流しながら、辛そうなカレーを食べる3人の中年男たち。人
間の皮を被ったロボットが、うどんを食べている。マクドナルド
のハンバーガーを3個も食べるのかよ。身体に悪いぞ。右手に
持っているソフトドリンクも、糖尿病になりそうな飲み物では、
在りませんか。ねえ、課長!

谷川俊太郎の文と詩に吉村和敏が、メリハリのある朝の光景を写
し取った写真が添えられた「あさ」という詩集。左から本をあけ
ると、「だれよりもはやく めをさますのは そら おひさまの
てがふれると よるははずかしがって あかくなる ゆめのくに
へ かえっていく ゆめのこどもたち みんなまっている いき
をひそめて ちきゅうがまわっている ゆっくり とてもしずか
に はじめての おはようのまえの かすかなものおと あんな
にとおいのに こんなにちかい おひさま ひかりが そっとは
いってくる ゆめでまいごになった こころのなかへ・・・・お
はようきょう」(このひらがなばかりの文は、最近「あさ」とい
う、別の一冊の絵本になった)。

「朝のリレー」「朝の祭」「夜明け」「朝」など12の詩編は、
本を右からあけると、出会える。

もう一冊。谷川俊太郎の文と詩に吉村和敏の写真という構成の
「ゆう」という詩集。左から本をあけると、「きらきら きらき
ら みずも かぜも みんないっしょに あそんでくれる もう
いいかい もういいよ おにも おうちへかえる やさしくなっ
た ひかり とおくまで みせてくれる そらがおけしょうして
る おかあさんみたい どんどんながくなって やがていなくな
る かげぼうし どこまでいくの おひさま まってて もう
ちょっと あそんでいたいから いろがかわる おとがかわる 
においがかわる こもちもかわる みえなくなる ちきゅのかた
ち みえてくる うちゅうのかたち さよなら おひさま 
ちょっとさびしい でもまたあえるね・・・・おやすみなさい 
きょう」(このひらがなばかりの文は、まだ、「ゆう」という、
別の一冊の絵本になってはいない)。  

「ある世界」「空」「夕立前」「夕方」など12の詩編は、本を
右からあけると、出会える。谷川俊太郎は、言葉のマジシャン。
- 2006年9月23日(土) 19:16:41
9・XX  大沢在昌「新宿鮫ァ 狼花」を読みはじめる。誉田
哲也「ジウ」シリーズの「氈E・。」を読了。高村薫「照柿」
(上・下)全面改稿の文庫版を読む。

警察小説を論じようと思ったが、高村薫「照柿」は、単なる警察
小説ではない。現代日本を題材にした「罪と罰」である。高村
は、単行本で刊行した小説が、文庫版になるときに、原稿を大幅
に改訂することで知られる。「マークスの山」「神の火」「李
鴎」「地を這う虫」に続いて、「照柿」は、改訂版5作品目にな
る。「李鴎」以外は、タイトルは、そのまま、粗筋もあまり変ら
ずに、細部に手を入れている。しかし、「李鴎」は、「わが手に
拳銃を」という作品を改訂どころか、先行作品を下敷きに、別の
作品に改造してしまったため、タイトルも変えざるを得なくなっ
た。今回の「照柿」は、改訂小説の域に留まっている。

「マークスの山」に登場した警視庁の刑事・合田雄一郎警部補
が、登場するが、主軸は、佐野美保子という主婦であり、この主
婦と若いころ性的関係のあった合田雄一郎の幼馴染みの工員・野
田達夫が、からむ。美保子は、新興宗教団体員の夫を2回も斬り
付ける。野田は、長い間、音信不通だった、売れない絵描きだっ
た父親の葬儀の後、亡父の絵を取り扱っていた銀座の画廊主を惨
殺して、逃亡する。合田は、ふたりの男女を追う。小説の要は、
動機が良く判らない不条理殺人ともいうべき、野田に拠る画廊主
殺し。小説の背景には、さまざまな色彩が、芝居の書割りのごと
く、塗りたくられる。照柿色は、工場の炉で燃える高熱の火の色
であり、この小説の、さまざまな色彩の主調を奏でる。

先行作品をジャコメッティの彫刻のように、贅肉を切り落とし切
り落としした所為か、ひきしまったものに変り、細部に緊密感の
ある文体が、「罪と罰」という抽象的な彫刻像を克明に明暗をつ
ける。特に、工場の作業現場の描写は、リアルで読みごたえがあ
るが、それで、騙されてはいけないという気に私をさせたのが、
マスコミ絡みの表現のいい加減さである。例えば、「某新聞社の
八王子支部にいるサツ廻りの記者」という表現が出て来る。新聞
社の八王子の取材拠点は、普通は、「支局」、あるいは、「総
局」だろう。いずれにせよ「局」だ。「支部」などという組織名
を新聞社の組織で聞いたことがない。

「後藤が新聞社の新米記者として警視庁の七社会に出入りしてい
たころ」という表現もおかしい。「七社会」は、警視庁の第1記
者クラブで、朝日、読売、毎日、共同通信などの7つの新聞社と
通信社が加盟した老舗であり、NHK、時事通信などの加盟した
警視庁記者クラブという、第2記者クラブより、名門意識を持っ
ている。記者クラブ員も、地方支局で数年揉まれて来たエリート
記者が本社に上がって来て、晴れの事件記者として、肩で風を
切って取材に飛び回る。民放などの記者は、別として、決して
「新米記者」が、「出入り」できるような記者クラブではないの
だ。

また、ラジオのニュース原稿も、いい加減だ。「本日、午後四時
二分、昭島市拝島の」などという、ニュース原稿は、ありえな
い。「きょう、午後四時過ぎ、東京・昭島市の」となるだろう。
マスコミ絡みの表現が、こうもいい加減では、すべてが?か。改
稿にあたって、こういう表現は、改めずに、ないがしろにしたら
しいが、これが、ほかの分野、たとえば、工場の作業現場に詳し
い人からみれば、高村作品の工場描写は、いい加減なのかも知れ
ない。しかし、それはさておき、というのが、高村作品の凄いと
ころ。何年も前に読んでいた原本に引き続き、改訂版の文庫も、
上下2冊を一気読みしてしまった。細部にこだわっているよう
で、こだわってはいないのが、高村作品の悪の魅力。

誉田哲也「ジウ」シリーズの「氈E・。」は、新しいタイプの
警察小説。「氈vでは、人質籠城事件、誘拐事件などを担当する
警視庁特殊捜査係(SIT)所属の20歳台の女性刑事を軸に、
連続児童誘拐事件の、姿なき凶悪犯「ジウ」を追跡する。「」
では、軸になる女性警察官は、変らずに、ひとりが、警視庁特殊
急襲部隊(SAT)に配置替えになったことから、SITに続
き、SATも描かれる。「。」では、凶悪犯グループの、真の狙
いが、新宿歌舞伎町に「新世界秩序」形成という、悪のコミュー
ン作りと判明。官房長官が銃殺され、総理も拉致されるという、
警察権力対新世界秩序の対立が描かれる。エンターテインメント
の警察小説ということで、高村ワールドと対極にあるが、こちら
も、愉しく読めた。

大沢在昌「新宿鮫ァ 狼花」は、これから読み出すが、今夜は、
眠れないかもしれない。でも、健康な睡魔には、勝てないかもし
れない。
- 2006年9月20日(水) 22:14:43
9・XX(続き) 久しぶりの野坂節を堪能しながら、野坂昭如
「赫奕(かくやく)たる逆光 私説・三島由紀夫」と「東京十二
契」を読む。前著が、野坂と三島のかかわりを軸にまとめたもの
なら、後者は、野坂と東京のかかわりを野坂の引っ越し先にあわ
せてまとめている。両著は、時代的に重なりあうから、「東京十
二契」でも、三島とのかかわりが、同じように出て来る。三島論
が、三島由紀夫という個人を軸に野坂が、周りを廻っている本な
ら、「東京十二契」は、東京という空間を軸に野坂が、あちこち
廻っている。彷徨っている。歌舞伎座も出て来た。「箱番 検番 
人力車」という章。

「歌舞伎座なら、東側の大道具搬入口の手前のドアを入り、階段
を降りる、そこは電気室へ通じる廊下で、かまわず進めば奈落に
出る、廻り舞台の巨大なカラクリを半周して、ちいさな木戸をく
ぐれば、即ち地下大食堂なのだ。花道を利用する場合、揚幕を出
るにも引っ込むにも奈落を通る、何度か、ものものしい隈取りい
でたちの役者とぶつかったし、きわめて顔色の悪い三島由紀夫
が、楽屋へ通じる板敷きの上に佇むのも眼にした。席は当然な
い、客が来ると移り、流れ者をきめこんでもいいが、面倒なら、
少し見にくいが二階上手の照明室に入り込む」。

先日、歌舞伎座に行ったとき、開場前の時間を利用して、歌舞伎
座の周辺をぐるりと廻ってみた。東側の大道具搬入口の横にドア
がある。「ああ、これだな」と思う。搬入口とドアのあるところ
ヘ行く前に、まず、門があり、門の横に、インターフォンがふた
つ付いている。ひとつは、搬入口用のもので、大道具に繋がって
いるようだし、もうひとつは、ドア用のもので、守衛に繋がって
いるようで、その旨書いてある。歌舞伎座の裏手にあった細長い
飲食店が立ち並ぶ一郭は、再開発が進んでいる。いまは、東角に
あったビルが解体されていた。中程にあったお好み焼き屋は、な
くなり、跡地は、駐車場になっていた。病に倒れ、いまは、闘病
中の筈の野坂の文章を読んでいると、最近の作家たちの文章の
「細さ」が、改めて、浮かび上がって来る。戦争体験を原点に作
家活動をして来た野坂昭如の、手強さが、目の前に迫って来る。

04年3月に新潟で講演中に脳溢血で倒れ、闘病の末、リハビリ
中に大腸癌が見つかったという辺見庸の「いまここに在ることの
恥」を読む。辺見が指摘するには、「いまここに在る」のは、
ファシズムだと言う。「コイズミ的なるもの」=日本のファシズ
ムは、上からのファシズムだけでなく、それに迎合する私たちの
内なるファシズムという形で、「いまここに在る」と、辺見は、
認識している。その、上からと下からのファシズムの接点に小泉
がいて、まもなく、安倍に引き継ごうとしている。パフォーマン
スといい、小泉劇場というのは、まさに、上と下からのファシズ
ムの接点における現象なのだ。そのファシズムの接点を知らずに
下から支えている私たちの有り様こそが、「恥」そのものなのだ
と辺見は言う。辺見が、重篤なふたつの病魔に襲われたのは、還
暦の歳、つまり、60歳であった。その後も、辺見は、不自由な
身体にめげずに、ファシズムという時代の病魔と果敢に闘ってい
る。ファシズムという病魔に犯されようとしているものは、日本
の憲法や教育基本法などの根幹法規だ。あるいは、権力の行使
は、憲法によって制約を受けるというフランス革命以降の立憲主
義そのものだ。一方、「恥部」を構成しているのは、政治家とい
うか、政治屋集団、それらの行動を助長するマスコミ、それに踊
らされ、いまだに小泉を支持する国民というわけだ。自民党の総
裁選挙から来年の参議院議員選挙まで、「いまここに在ることの
恥」を上演する劇場では、どのような舞台展開があるだろうか。

飯尾憲士「1940年釜山」は、1940(昭和15)年、当時
の「釜山府内」のグラウンドで、日本系の釜山中学、釜山第一商
業学校と朝鮮系の東莱(とうらい)中学、釜山第二商業学校のあ
わせて4校が参加して開かれた「戦力増強競技大会」を舞台にし
た小説などを所収した作品集。標題作の「1940年釜山」で
は、土嚢運搬、手榴弾投擲、障害物競走、担架競走などの種目を
完全武装のユニフォームで、中学生たちが、学校対抗で競い合
い、戦意昂揚を目指す大会で、審判長を勤めた日本人配属将校
が、「不正審判」をして、日本系の釜山中学を僅差で優勝とした
ことから、大会終了後に騒ぎが起こった。配属将校の自宅に朝鮮
系学校の生徒たちが押し掛け、家に投石をして、窓ガラスなどを
壊したのだ。

この騒ぎを戦後、日本系の釜山中学の卒業生である日本人が、同
窓会の雑誌に回想文を掲載し、そのなかで、グラウンドの観客席
に居た朝鮮系学校の生徒たちが、「朝鮮独立万歳」「侵略戦争止
めろ」「天皇制打倒」などのシュプレヒコールをした(朝鮮の一
部の青年たちは、戦時中も、民族意識を隠さなかった)と「美
化」する文章があった。これを疑問に思った別の釜山中学の同窓
生が、戦後の価値観で「美化」することは、事実に反し、歴史認
識の形成に生涯になるとして、執拗な検証作業をするという話
だ。結果的には、回想文を書いた日本人が、自分の記憶違いを訂
正せずに、戦後の思い入れで潤色した不合理な文章を綴っていた
ことが判るのだが、回想文を書いた当該日本人は、断固として、
自分の記憶違いを認めようとはしない。戦後の日本人の歴史意識
の偏りを、改めて印象づけるユニークな作品になっている。

このほか、戦争体験のある定年退職者の、定年後の日々を描いた
「手」も、印象に残った。「手」では、結核患者として療養して
いたころ、患者の社長から、社員の話として聞かされたのが、魚
雷に当り沈没した軍艦から海に投げ出された兵士(社員)が、目
撃した事象(社員を含め3人の兵士たちが、板切れに掴まって漂
流している。日頃から上級の古兵に虐められていた兵士が、瀕死
の古兵に近づき、古兵の指を板切れから一本ずつ引き離し、結
局、古兵を水死させた)を軸に展開する。2人は、戦後も、生き
残る。古兵を水死させた兵士が、実は、社員の同級生であり、同
級生は、戦後、有名大学を卒業し、社長の会社の取引先の大企業
の重役に出世した。重役は、何かと兵士だった社員、そして社員
が属する社長の会社を優遇しているが、社員は、同級生だった重
役の、古兵の指をひとつひとつ放して行った指のある、手のイ
メージを持ち続けて、あの事象を忘れられないでいる。

「魂たちへ」は、特攻隊に志願した青年たちの心理の深層解明に
挑む意欲作。戦後61年の夏。風化する戦争体験。年々、濃くな
るファシズムの気配などを視野に入れながら、久しぶりに飯尾作
品を読んだ。

このほか、日本国憲法をテーマに、一冊の作品集をまとめあげた
清水義範「騙し絵日本国憲法」も、10年前に刊行された憲法の
現況を「真面目に考えて不真面目に作品にする」という、作家精
神に忠実な、誠意ある作家の試みとして、おもしろく拝読。

斉藤貴男「ルポ 改憲潮流」は、安倍の出現で、この国の根幹
が、変えられようというムードが、一段と高まって来た現況を踏
まえて、雇用や教育の場での格差の広がり、米軍と自衛隊の一体
化の推進、個人の権利が制限される代りに国家権力の乱用が目
立ってきたことなどを視野に入れながら、「憲法改定」を軸に日
本社会の姿を活写する。先の敗戦から積み上げて来た日本の国家
と国民との関係という、国の形の根幹が、底流から変えられよう
としている。

入江曜子「溥儀ーー清朝最後の皇帝」を読む。入江曜子の同系統
の作品としては、「我が名はエリザベス」と「李玉琴伝奇」を読
んでいる。先行作品は、清朝最後の皇帝でラストエンペラーと呼
ばれた満州国皇帝溥儀(宣統廃帝)の妻や側室となった女性たち
の、戦後、文化革命の荒波に晒されるなどの数奇な生涯を描いた
もので、軸となる溥儀は、遠景、あるいは、背景に追いやられて
いたが、今回の作品では、前面に据えられている。溥儀の生涯
は、特に、前半生は、まさに、日本軍の後押しで作られた偽満州
国の誕生から崩壊までの歴史と重なる。その偽満州国に大きな影
を落していたのが、安倍の祖父・岸信介であり、安倍晋三は、岸
のDNAを日本の権力に再び持ち込もうとしている。

それにしても、安倍の主張する「美しい国」というのは、なに
か。美=文化という、多元的な属性を尊重するジャンルを無視し
て、特定の価値観=観念に基づき、「美」を特化=国家観への一
元化(=ファシズム)しようという危険な思想ではないのか。そ
こからは、「美」=愛国が、透けて見える。権力によって、
「非・美(美ではない)」と判断されたものは、排除される危険
性=ファシズムがあるのではないか。それは、私に、天皇制に
「美」意識を持ち、自衛隊に乱入し、自刃した三島由紀夫の思想
に通底する危険性を感じさせる。政治家が「美意識」を前面に掲
げること自体に違和感を覚える(山口二郎:北大教授)という新
聞記事は、説得力がある。にも拘らず、無節操なマスコミに踊ら
され、多くの国民は、安倍を支持していると言う。世界の中で、
裸の王様になっているのに気が付かない日本国民という現況は、
多くの人たちには、見えていないのだろうか。

新聞に載ったアメリカの作家、ノーマン・メイラ−の次のような
意見が、身に滲みる。「人間は子供の時から命令されるのに慣れ
ていて、ファシズムの方がむしろ自然なのだ。次の世代のため
に、毎日の小さな変化を積み重ねていくのが民主主義のやり方
だ。その退屈さに耐えるには、判断力と意識をもった人々がいる
ことが前提になる。民主主義は常に育てていくものであり、再生
させていかなければならないのだ」。
- 2006年9月11日(月) 21:31:47
9・XX  安倍の自民党総裁選挙への立候補会見の報道に接す
ると、本音を隠して、ソフトムードで、曖昧に対応しているの
が、それでも、本心が透かし見えて来て仕方がなかった。「頑固
混迷小泉」の後は、「狡賢い安倍」という人物像が、浮き彫りに
なる。戦後60年は、いろいろあるだろうが、基本的に世界的な
戦争にも、殆ど巻き込まれず(99年以降、最近は、巻き込まれ
ているが)、決して否定すべき時代ではなかったと思う。「戦後
レジ−ム」からの脱却などと気軽に言って良いのだろうか。憲法
や教育基本法の改訂など、論議不十分のことを高々と掲げている
ことが、いちばん気掛かりだ。メディアが、誘導した国民的人気
というのは、検証しなければならない。自民党の政治家は、大局
的に国家論を論じられる人間が、殆どいない。政治家としての立
身出世ばかりが頭にあり、勝ち馬に乗り、己の栄達しか考えてい
ないように見える。「安倍雪崩れ」は、その典型的な現象だ。い
ま必要な国家論とは、高齢化社会をベースにした福祉国家論だろ
うと思うが、国家財政の歳出の精査のうえでの税制論が出て来
て、初めて、この「国のかたち」が見えてくると思っている。

8月は、やはり、戦争と平和だろうと思い、書庫から、未読だっ
た野坂昭如の「赫奕(かくやく)たる逆光 私説・三島由紀夫」
を読んだのをきっかけに、「東京十二契」も、読んだ。野坂は、
雑文を書いている頃、三島によって認められ、文壇(当時は、こ
ういうものがあった)にデビューした。「赫奕(かくやく)たる
逆光 私説・三島由紀夫」は、20年前に自刃した三島由紀夫へ
の、野坂の鎮魂歌。この本も、自刃の後、いまから19年前に刊
行されている。野坂と三島の育ち方の共通性。「貰い子」をキー
ワードに分析する。つまり、養子の野坂は、「純正貰い子」、祖
母に育てられた三島は、「家庭内貰い子」というような類推で、
父祖の地、幼児体験などを、我田引水のように、やや強引なが
ら、双方の共通性を指摘する。その上で、「仮面の告白」「豊饒
の海」などの作品を軸に、三島の人間像を再構築する。19年
間、未読のままだった本を読み出したら、一気に読んでしまっ
た。

きょうは、7・19に亡くなった義母の納骨式で、これから四谷
の聖イグナチオ教会まで行くので、この続きは、後日、書き継ぎ
たい。飯尾憲士「1940年釜山」も、辺見庸「いまここに在る
ことの恥」も、この時期に、合わせて読んでいるので、戦争体験
といまの政治状況について、考えてみたい。
- 2006年9月2日(土) 13:18:30
8・XX  車谷長吉「世界一周恐怖航海記」を読む。還暦記念
に妻で詩人の高橋順子らと世界一周の船旅に出た奇人の小説家車
谷長吉の航海日記である。3ヶ月間の航海は、12・26に横浜
を出航。ヴェトナムのダナン、シンガポール、スリランカのガ
ル、セーシェルのポートヴィクトリア、ケニアのモンバサ、南ア
フリカのケープタウン、ナミビアのウォルヴィスベイ、ブラジル
のリオデ・ジャネイロ、ウルグアイのコロニア、アルゼンチンの
ベのスアイレスとウシュアイア、チリのバルパライソとイース
ター島、タヒチのパペ−テ、フィジーのスバとラウトカ、パプア
ニューギニアのラバウル、そして、3・30に横浜帰航という
コースと日程。

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育掛りも

という、塚本邦雄「日本人霊歌」所収の短歌を冒頭に掲げて、生
涯で一度も日本を脱出しようとしたことがない、つまり海外旅行
に出たことがないという車谷は、皇帝ペンギンの妻が、世界一周
の船旅に出たいというのを許してしまうと、皇帝ペンギン飼育掛
りの自分は、3ヶ月も、皇帝ペンギンの飼育をせずに、あるい
は、逆か、飼育されずに、独居生活を強いられるのが、耐えられ
ないという理由だけで、妻に引きずられて、さらに、妻と妻の友
人の女流詩人にも、引きずられて、3ヶ月の船旅に出たのであっ
た。ところで、皇帝ペンギンは、皇帝である限り、海外に出向い
てたとしても、日本脱出ができないという仕組みになっている。
それが、皇帝の宿命。

さて、小説家と詩人の道中は、というか、船旅だから、船中か。
船中は、珍道中ならぬ、珍船中(?)で、個別のエピソードは、
いちいち引用しないが、かなりなものである。しかし、車谷の日
常生活は、推測するに、「けったいな連れ合い」(高橋順子)同
士の「珍」日常生活なのだろうから、これは、これで、普通のよ
うな気もする。近親者が読めば、極めて日常的な夫婦の記述に終
始しているのかも知れない。文章と同時に掲載されている写真の
ほとんどが、いわゆる家族「記念写真」風なのも、珍奇な感じが
するし、普通の家族写真のような感じもする。そのあたりが、車
谷長吉と高橋順子の夫婦生活であり、互いに琴瑟相和し、誠に味
のある夫婦「ぶり」を見せつけるのである。

「自分が自分であることの不快。これが私が書きたいことだ」と
いう車谷の自己に辛辣な視点は、他者に辛らつになる。私(わた
くし)小説の極意は、辛辣な視点で、己の中のコスモスを凝視す
ることだろう。辛辣さの吐露は、読者という他者にとって、他人
の不幸の味で、密よりも甘いから、私小説は、永遠に不滅という
ことになる。従って、今回の「航海記」も、いわば、「私(わた
くし)日記」でもあり、「公開記」でもある。

「文学者は『詩人の魂』を持っていなければならない。と同時
に、小説家の場合は『俗物』でもあらねばならない。ここが辛い
ところである。俗物でないと、小説は書けない。詩人の魂と俗物
根性とは本来的に、相容れないものである。矛盾するものであ
る。この矛盾に私は絶えず苦しんで来た入れた」という車谷は、
その挙げ句、強迫神経症になってしまった。

ふたりの間に紛れ込んでいる姐御肌の女流詩人が、邪魔臭いお邪
魔虫。姐御の肝煎りで、船中で、車谷は、「読むことと書くこ
と」という講演会を開くし、高橋と姐御のふたりの詩人は、「連
詩・地球一周航海ものがたり」という連詩朗読会を開く。ふたり
とも、俗物なのか、サービス精神満点なのか。

また、船中の、ほかの客たちも、俗物多しで、「この船内は日本
社会の縮図だ」と車谷は、看破する。船内にいる女性客は、老い
も若きも「男あさり」をしているし、男性客は、「何事も損得勘
定でしかものをかんがえられない」というようなのだ。船室以外
の「公共スペースのソファーに抱き合って寝ている若い男女あ
り。女はズボンの上から男の男根をつかみ、男は女の乳房に手を
当てていた」。相部屋では、乳繰りあうこともできない。五十年
配の目の大きな女性客が車谷に曰く。「失礼ですけど、私が観察
したところ、あなたがこの船の乗客の中で一番存在感があります
ね。」「はあ。」「それにいつもズボンの前を開けていらっしゃ
るし、あなた、変人ですね。」五十歳ぐらいの男の客。「車谷さ
んは、日本三大作家の一人だ」。車谷「日本三大作家のあとの二
人は、誰と誰だろう。うちの嫁はんは『漱石と鴎外よ。』と言う
のだが。」

まあ、ご勝手に、どうぞ。
- 2006年8月1日(火) 21:35:57
7・XX  小池真理子「青山娼館」を読む。恋愛系のエンター
テインメント作品を量産する小池の作品は、エロティシズムが売
り物。この作品は、幼い愛娘を亡くした32歳の女性が、自殺し
た親友と同じ高級娼婦となり、生=性という人生を生き直す物
語。アンモラルの果てに新たな女性像を構築しようとした野心は
伺えるが、それに至らず、また、エロティシズムも中途半端。人
生の断片を一枚の写真のように写し取るように、切り取っている
わけでもない。読みごたえを感じなかった。

大崎善生「アジアンタムブルー」は、エロ雑誌の編集者と、水た
まりばかりを写真にとっている女性カメラマンとの純愛物語。癌
で女性カメラマンを亡くす編集者は、ニースの海辺まで、女性の
死出の旅を付き合う。大崎手描きのニースの海辺で寄り添うふた
りのイラスト入りのサイン本。御涙ちょうだいを狙っているだけ
で、人生の断片を切り出しできず。

金原ひとみ「オートフィクション」。22歳の女流作家の半生を
逆に辿る。18歳、16歳の女子高生、15歳の中学生と遡り、
相手となるボーイフレンドの名前は、変わるものの、具体的なイ
メージを伴って、人物が書き分けられていないし、主人公の女流
作家も、年齢が若くなり、高校生、中学生と立場が、変わる割に
は、印象は同じ。人生の断片すら、描き分けられず。

こういう作品にくらべると、吉田修一「女たちは二度遊ぶ」は、
タイトルの意味するところが不明だが、11人の女性の人生の断
片を切り取ったような佳作が、並ぶ。さまざまな女たちの生態を
同じような持ち味の男の視点で描いて行く。同じ吉田の「初恋温
泉」も、温泉と若いカップルの、5つの短編小説集。男女の憂鬱
や倦怠感が、リアルに描きだされている。達者な、ワンポイント
描写で、印象鮮やか。吉田は、力を付けて来た。リアルな人物造
型が、読む者に手応えを感じさせてくれる。作品の刊行が待たれ
る数少ない作家の一人になってきた。
- 2006年7月30日(日) 22:07:27
7・XX  けさ(7・27)、秦恒平さんの孫娘の19歳の女
子大生が亡くなった。合掌。

秦恒平の私家版「湖の本シリーズ」で、創作としては、50巻目
として刊行された書き下ろし作品「逆らひてこそ、父」という
「私(わたくし)小説」を読んだ。タイトルは、岡井隆の短歌か
らとっている。

独楽は今軸かたむけてまはりをり 逆らひてこそ父であること

子の父への愛、あるいは、逆に、父の子への愛。それも、傾く軸
のように、両者とも屈折しているようだ。含蓄のあるタイトルに
なった。タイトルが確定する前は、「聖家族」と題されていた作
品だ。

「湖の本シリーズ」は、エッセイのシリーズもあり、そちらが、
38巻刊行されていて、あわせれば、88巻目になるという。自
伝的色彩の強い大河小説として、秦恒平には、「客愁」第一部
(「丹波」、「もらい子」、「早春」は、「湖の本シリーズ」書
き下ろし)、「客愁」第二部(「罪はわが前に」という単行本で
刊行)、そして、今回の、「客愁」第三部、その一とも言うべき
「逆らひてこそ、父」が、書き下ろしで刊行。作家のホームペー
ジに推敲途中の作品が掲載されていて、その際には、「聖家族」
というタイトルが付けられていた。いずれ、その二(原型は、
「聖家族」二)が、推敲されて、刊行されるだろうが、すべて、
刊行本、湖の本、それに、ホームページでも、読んでいたので、
今回の「逆らひてこそ、父」は、一気に読んだ。

作家奥野秀樹の家族の物語。長女は、結婚後、奥野家と断絶状態
になっている。男の子の孫がふたりいるが、幼い頃、別れたま
ま、奥野夫妻とは、会えない状態が続いている。長男は、大学を
出て、一旦就職したサラリーマンを経て、劇作家、演出家とし
て、出発しようとしている。ほとんど秦家の家族の物語そのもの
だ。フィクションとして味付けされているのは、登場人物たちの
名前、住所、孫の性別など、薬味程度。その孫娘が、骨肉腫で重
篤な状況にあるなかで、時代は、10年程昔に遡っているとはい
え、家族の物語としては、ほぼ等身大のまま進行している。泉鏡
花、夏目漱石、谷崎潤一郎などに影響を受けた幻想的な作品も多
い作家の今回の作品は、いまは、死語に近いかも知れないが、ま
さに、極私小説を書く「文士」の作品と言えるだろう。続巻の刊
行が待たれる。
- 2006年7月27日(木) 23:02:58
7・XX  7月分の書評を載せる暇がなかった。公私多忙で、
それほど読んでいないとは言え、20日間で、10冊以上は読ん
でいる。通勤時間の往復で、それなりに読書は進むからだ。例え
ば、分厚いサスペンス小説、帚木蓬生「受命」は、北朝鮮の金正
日暗殺の話。日本人、在日朝鮮人、北朝鮮からの脱北者、韓国
人、ブラジル国籍の日系人、脱北者の家族で、北朝鮮在住の元将
軍とその部下の軍人、医師など12人が、「三日(サミル)作
戦」と名付けた金正日暗殺計画を成功させるまでの軌跡を描く。
暗殺は、金正日の別荘である「招待所」で開かれたパーティの席
を利用して、内通者が、食事に入れた毒で首領暗殺するという内
容の国際サスペンス小説。作戦を実行するために、3つに別れた
グループが、携帯電話やラジオを利用しながら、互いに連絡を取
りあいながら、北朝鮮各地を転戦する。北挑戦各地の様子が、詳
細に記述されるが、どこまで、実態に即しているのかは、判断で
きないが、先日の北朝鮮によるミサイル発射に対する国連安保理
決議など各国の外交交渉など、北朝鮮をめぐる国際状況が、緊迫
している中で、話題を呼ぶかも知れない。

曾野綾子「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」は、日本軍に
拠る住民の集団自決命令について、現地調査や関係者のインタ
ビューでまとめた「ある神話の風景」の復刻版。元本の沖縄タイ
ムス社刊行の「沖縄戦記 鉄の暴風」などを元に日本軍に拠る住
民の集団自決を断罪している大江健三郎「沖縄ノート」を取り上
げ、集団自決命令を出したとされる軍人の遺族らが大江氏と出版
元の岩波書店を相手に05年(去年)の8月に名誉毀損などの訴
訟を起こしたので、復刊されたようだ。この本を改めて読んで
も、真相は薮の中という印象が残ったので、裁判の行方を見守り
たい。沖縄の離島が置かれた当時の状況、日本列島で戦場になっ
た唯一の場所、沖縄で、侵略戦争で外国に行った状況のみを前提
にした軍隊の様々なルールのみを叩き込まれていた若き特攻隊長
が、状況の変化する中で、島民を守る守備隊長の役割を果たさな
ければならなくなったことによる悲劇。地元住民の責任者である
村長との反目、命令を出したとされる軍人の資質など、この状況
に居合わせた人々の、いわば、人間系に起因するトラブルもあり
そうである。「沖縄戦記 鉄の暴風」は、私も読んだことがある
が、戦後逸早く出版された本の執筆事情も、影響してくるかも知
れない。

私も所属している日本ペンクラブ電子文藝館の館長で、作家の秦
恒平さんから私家版の「湖の本シリーズ」で、創作としては、
50巻目で、書き下ろし作品「逆らひてこそ、父」という家族小
説のような作品が、届いたばかりだ。「湖の本シリーズ」は、
エッセイのシリーズもあり、あわせれば、88巻目になるとい
う。さっそく、読み始めたので、いずれ、書評を書きたい。
- 2006年7月23日(日) 20:36:15
6・XX  チャンネ・リ−(在米韓国系作家、高橋茅香子訳)
「空高く」を読む。翻訳者の高橋さんから贈呈された本だ。「恥
ずかしくもあとほんの少しで六十歳(言うのも抵抗がある年齢
だ)になる私」という主人公は、私と等身大だ。イタリア系移民
の一族の物語が、主人公を軸に展開する。主人公が、長年付き
合っていて、最近別れた女性は、「女として美しく、いつも発揮
している輝きや魅力に加えて、その美しさがあたりにただよう年
齢になった」とある。年齢ごとに、違った美しさを持ち続ける、
魅力ある女性。主人公らの60歳という年齢、あるいは、60歳
に近づく年齢は、人生の黄昏を身近に感じながら、もうひと輝き
する年齢だろう。「空高く」とは、そういう年齢がテーマという
ことをシンボライズする。ただし、空は、夕焼けが輝く西空だろ
う。

4半世紀前に、事故だか、なんだか、不確かな原因で、妻を亡く
し、4年前、家業の造園業を息子に譲り、自家用に中古のセスナ
機を買い、操縦を習い、上空半マイル(およそ800メートル)
から見下ろす地球、世間、そして人生を、リーは、そういう主人
公の視点で、描いて行くようだ。

「人生はらせん階段、ですね」とは、訳者の高橋茅香子からの識
語である。「螺旋(らせん)階段」とは、同じ位置にありなが
ら、時の経過とともに、高さが異なって来る階段のことだ。父親
が起こした家業を引き継ぎ、同じ地域に住みながら、私、そし
て、息子、娘に引き継がれて行く人生の営み。いろいろなことが
あり、家族が、また、一緒に住むことになり・・・、それを螺旋
階段に見立てたのかも知れない。

息子に引き継がれた家業は思わしくない。結婚を控えた娘も、妊
娠している上に、手術を擁する重篤な病、癌に襲われる。老父
は、すでにセルフコントロールが効かないほど衰え、介護施設の
ベッドに横たわっている(老父「パパ」は、意外と、粘り強いこ
とが、後に判明する)。母は、5年前に亡くなった。妻の死後、
息子と娘の子育てを支援してくれた、長年のパートナーだった女
性も去った(どっこい、この女性も、しぶとい)。孤独というこ
とだ(いや、いや、主人公もしぶとい)。娘のテレサは、亡くな
るが、未熟児ながら、主人公の孫が生まれる。新しい命。輝ける
未来。一族のしぶとさは、螺旋階段のように、廻りながら、高み
に達して行く、というしぶとさというわけだ。

800メートルの上空にいるときは、かりそめの自由の身とな
り、地上の憂さを忘れるが、セスナ機は、やがて、地上に降り立
たなければならない。降り立てば、それでも、家族のために、も
う一頑張りしなければならない。そういう年齢を描く。40歳を
超えたばかりのリ−が、「59歳と16分の15」という男の人
生の現在と過去と見えて来た近未来を描いて行く。

この年齢の私たちの人生も、主人公の置かれた立場と大同小異だ
と気が付く。還暦を前にした男を取り巻く生活環境、特に、家族
関係、年老いた親、大人になったものの、まだ、不安定な子ども
たち、歳を自覚し始めた友人たちとの関係など、さまざまな人間
関係、経済状態、健康状態などが、男の心理状況に及ぼす影響な
どは、アメリカ、日本を問わず、普遍的で、私など、全く等身大
のこととして、身につまされるような、緊張感を持って読み進ん
だ。

ただし、一人称の語り、饒舌体ともいうべき、しぶとい文体、特
に、長いセンテンス、独特の比喩は、なかなか、馴染みにくい。
長いセンテンスは、例えば、雑誌掲載の時には、「三つにわかれ
ていた文章が、本書ではひとつの長文になっている。その傾向は
作品全体にわたっていて、半ページに及ぶ長い文章がしばしば。
翻訳でも、なんとかその長さを保つように試みたのだが、もうひ
とつ、著者が意図した書き方があり、普段の英語ではほとんど使
われていない単語を数多く使用している。(略)著者としては考
えに考えた用語なのだろうと思うと、それを『普通の』日本語で
表現していいのかどうか、その訳には終始、迷いに迷った。で
も、まったく同じニュアンスで該当する日本語はほとんどない。
結局は著者の意図を可能な限りくもとるよりいたしかたなかっ
た」と翻訳者の高橋さんが「訳者あとがき」に書いている。翻訳
しにくい表現が、幾つかあったが、例えば、「食べられる金で光
らせた口にすると溶けてしまうフルーツロールのような下着」
は、なんとも具体的イメージを浮かばせられない。

そもそも、リーの語彙が豊富なせいで、このほかにも、「数秘学
的に意味のある数字」「ステロイド性のレプラコーン」「ス
ウィートソーセージ・ラザーニャのキャセロール」など、私など
には、すぐには、理解不能のものも目立つ。「数秘学」は、?
「レプラコーン」は、妖精と判っても、「ステロイド性のレプラ
コーン」は、?「ラザ−ニャ」が、幅広のリボンのようなパス
タ」で、「キャセロール」が、シチューのような煮込み料理と知
るのは、私などには、難しい。

箴言のような意味深い言葉も、ちりばめられている。例えば、
「人間が信頼するのは必ずしも言葉による細かい説明よりも、
もっと広い、深い意味でのコミュニケーションなのだ」「いくつ
のときでもそれぞれに素敵だったジャンヌ・モロー」「誰でもわ
かっているように生計をたてる一番いい方法は働く時間をすべて
自分が夢中になれるものに当てることなのだから(略)、しかし
そうできるのは、魅力があるとか、運がいいとか、才能がある人
間のような人生であって、(略)なんでもまずまずの者にとって
人生とは、たとえ小さくとも現実的な失敗をいくつも積み重ねる
ことに辛抱強く鈍感であらねばならない場であり」などなど。ま
あ、小説のテーマとなった60歳という年齢は、一筋縄では行か
ない年齢だが、この作品も、一筋縄では行かない奥深い作品にし
あがった。
- 2006年6月30日(金) 21:57:10
6・XX  石田衣良「眠れぬ真珠」を読む。45歳の女性版画
家と28歳の映像作家の青年との恋。中年版画家には、年上の美
術商、青年には、幼馴染みのアイドル女優という相手がおり、そ
れぞれが、からみ合いながら新たな恋が進む。売れっ子作家は、
腕力で、物語をねじ伏せる。

篠田節子「砂漠の船」を読む。出稼ぎの果て、ホームレスとなっ
た老人の不慮の死に娘は、関係しているのか。親とのコミュニ
ケーションを絶ち、自立して行く娘。妻との離婚。家族が毀れ、
地域社会が毀れて行く。皆、水のない砂漠に乗り出した船なの
だ。砂を嚼むような思いを抱きながら、個個人は、行くヘ知れぬ
船から、降りられない。
- 2006年6月26日(月) 20:55:06
6・XX  島田雅彦「エリコ」は、寓話絵本で、絵も、島田が
描いている。線描のペン画をベースにした絵が多いが、それに手
彩色が施されているようだ。絵描きとしても、素人の域を超えて
いると思う。

エリコという少女の成長の物語は、神話でもある。森から宇宙
へ、両親を探すエリコの旅が、語られる。「この世とあの世のあ
いだには誰も近づくことのできない森があります」という書き出
しの文章が、私の持っている本の見返しに書かれている。島田雅
彦の署名とともに。
- 2006年6月24日(土) 20:51:05
6・XX  毎月、定例化した時代小説書評。時代小説を読むの
は、歌舞伎の理解を助けることが多いと思うからだ。今月は、以
下のようなものを読んだ。

佐伯泰英「居眠り磐音 江戸双紙 螢火ノ宿」と「居眠り磐音 
江戸双紙 花椿ノ谷」は、人気シリーズ「居眠り磐音 江戸双
紙」の第16、17弾。最近、第18弾「居眠り磐音 江戸双紙 
捨雛ノ川」が出た。このシリーズでは、サブタイトルが、「○○
ノ○」となっていて、特に、最後の「○」は、辻、坂、海、里、
門、山、杜、岸、峠、島、橋、家、庭、道、町、宿、谷、川と全
て違っている。

ところで、映画「男はつらいよ」シリーズのような双葉社の新聞
広告が眼に着く。いわく、「あなたの町にも磐音は来た!?」。
豊後関前藩出身の坂崎磐音は、九州から許嫁の奈緒を追い、山
陰、近畿、北陸を抜けて、江戸に到達してからは、伊豆、駿河、
関東甲信越付近に集中しているので、寅さんのようには、全国展
開はしていない。今後、磐音は、全国展開させられそうな予兆を
感じさせる広告であった。第16弾では、許嫁の奈緒、こと吉原
遊廓の白鶴太夫が、山形の紅花豪商に落籍されて行くという展開
になる。いよいよ、磐音は、江戸の両替商・今津屋の奥を預る奉
公人のおこんとの結婚へと傾斜する。第17弾では、今津屋主人
の再婚により、おこんは、張りが抜けてしまい、おこんは、磐音
に付き添われて、越後国境近い法師温泉まで湯治に出掛け、遂
に、岩音とおこんは、結ばれる。大きな活字で、濡れ場が少な
く、チャンバラ場面で、時代物好きの年配者を引き付けてきた
「居眠り磐音 江戸双紙」は、今後どういう展開を見せるのか。 

乙川優三郎「さざなみ情話」は、利根川から江戸川を経て、銚子
と江戸を結ぶ舟運の船頭と松戸宿の女郎の純愛物語。遊女ちせを
身請けするためにひたすら仕事に打ち込む船頭の修次。身分制度
の厳しい江戸時代、社会の底辺で逞しく生き抜く若い男女。「情
話」ということで、「心中」も、懸念されたが、偽装心中で、生
き抜こうとする明るい顛末に安心。

平岩弓枝「御宿かわせみ 浮かれ黄蝶」は、人気のシリーズ「御
宿かわせみ」の江戸時代最終巻の第31巻。次巻からは、明治維
新の「かわせみ」が、描かれる。

畠中恵「うそうそ」も、人気シリーズの「しゃばけ」の第5弾。
病弱な「若だんな」は、いつもなら、元気に寝込んでいる若が、
箱根まで湯治に出かけるが、これが、坂崎磐音とおこんの道中同
様、前途多難。人気シリーズは、いずれも、快調な出来。

宇江佐真理「聞き屋与平」は、新シリーズ誕生かと思いきや、両
国広小路で、「聞き屋」という新商売を始めた薬種屋の御隠居与
平は、亡くなってしまい、一巻読みきり。「聞き屋」とは、占師
のような格好をして、道端に置行灯を載せた机という「店」を拡
げ、客の悩みを聞き置くだけ、いわば、「王様の耳は、ロバの
耳」のように、胸のつかえを吐き出させる洞(うろ)の役割を果
たす商売のようである。ひとひねりした事件帳の趣向と見た。
- 2006年6月24日(土) 18:09:34
6・XX  自殺したテレビドラマの脚本家出身の小説家・野沢
尚の未完の小説「ひたひたと」を読む。閉ざされた部屋に集まっ
た5人の男女が、自分の心の奥に秘めていた闇を語り合う。著者
の自殺により告白は、2人目で終ってしまう。野沢の心の奥に
も、死に至る闇があったのだろうが、彼もまた、己の心の闇を語
ろうとして、作品のなかの登場人物のようには告白できないま
ま、心の闇とともに、彼岸へ旅立ってしまった。

6・XX  岸本佐知子「気になる部分」は、翻訳家の一味違う
エッセイ集。奇妙で、気になる、ユニークな視点で、世間の一瞬
を描き取る。黒衣のように、いや、透明人間のように、知られる
こと無く、世間に急接近し、まるで、カメラのような、正確で、
写実的な素早さで、一編のエッセイが、作者の脳裏というフィル
ムに焼きつけられ、写真のように鮮明なイメージで読者に提供さ
れるから、不思議だ。
- 2006年6月24日(土) 16:16:53
6・XX  冒険心あふれるサスペンスのエンターテインメント
作品をいくつか読む。

アジアの渾沌とした政情をバックにしながらサスペンスを描く作
家と言えば、船戸与一だろう。彼の「河畔に標なく」と「降臨の
群れ」を続けて読んだ。

「河畔に標なく」は、アジアの大国、中国とインドに挟まれた
ミャンマーの北部の山岳地帯が舞台だ。脱獄した思想犯(国家反
逆罪で服役していた民主化運動家)、追い掛ける刑務所看守長、
密林に墜落したヘリコプターに積まれていた200万ドルの現金
の争奪戦、騒動に巻き込まれた日本人ビジネスマン。軍隊、内務
省情報局、人民解放軍、共産党、少数民族の独立軍によるゲリラ
活動、中国の犯罪組織、イスラム教徒なども絡みながら、逃亡と
追跡のサスペンスが、展開する。山岳地帯での追いつ追われつの
場面が、読みごたえがあった。

「降臨の群れ」は、インドネシアのアンボン島のイスラム教徒と
キリスト教徒(特に、プロテスタント)との宗教戦争が描かれ
る。日本人ビジネスマン(養殖海老の技術指導者)が、巻き込ま
れるのは、「河畔に標なく」同様だ。インドネシア陸軍情報部、
アメリカのCIA、テロリストなども絡んで来る。船戸は、アジ
アや中東、中南米の現実の政情をバックに冒険小説、サスペンス
小説を大量に生み出して来た。ストーリーの展開そのものは、
フィクションだが、物語の背景は、現実政治を色濃く反映してい
る。インドネシアから独立した東チモールは、最近、キナ臭く
なって来ているが、それと同根の政情は、すでに4年前に雑誌連
載され、2年前に単行本として刊行された「降臨の群れ」に描か
れているし、アメリカが失敗したイラク戦争の現況も、すでに、
予告されていたと言えるだろう。

真保裕一「真夜中の神話」も、インドネシアが舞台。スカルノ・
ハッタ国際空港から国内線の小型機に乗り換え、スラウェシ島に
向った栂原晃子は、途中、政治テロで飛行機に仕掛けられた爆弾
が爆発して、飛行機とともに密林に墜落するが、彼女だけ、奇跡
的に助かる。アニマルセラピーの研究者である栂原晃子生存の
謎。その背景には、吸血鬼伝説、アニマルセラピーに通じる神秘
の歌声という超能力を持った少女の物語が隠されている。

島田荘司「帝都衛星軌道」では、少年の誘拐事件が起こる。帝都
を廻って走る山手線を利用して、犯人は、誘拐した少年の母親を
威す。金目宛ではない誘拐事件の目的は、なんなのか。せいぜ
い、5キロしか届かないはずのトランシーバーが、犯人と母親と
のやり取りに使われる。携帯電話と違って、片道通話しかできな
いトランシーバーの「利点」を使って、いろいろな指示を出す犯
人。母親を保護・監視しながら犯人への接近を狙う捜査陣は、翻
弄される。新宿から外回りの電車に乗車した母親を追跡する警察
は、5キロという電波圏を計算して池袋までの捜査シフトを組む
が、母親と犯人は、トランシーバーでのやり取りを続けながら山
手線を一周してしまう。どんなからくりがあるのか。

やがて、母親は、二周目の途中で、駒込駅で下車し、タクシーに
乗り、本郷通りを王子方面に向わされる。旧古河邸という有料庭
園脇でタクシーは、停められ、犯人からの指示で、付近のパト
ロールカーや警察車両は、全て排除される。やがて、民間天気情
報会社の気象情報通りに現場付近では、激しい雨が降り、ワイ
パーに細工されていた駒込警察署の車両は、豪雨のなか、走り出
したタクシーを追うことができなくなる。しかし、これは、かな
り都合の良い設定ではないか。ポイント天気予報だって、そこま
で正確な予報はできないだろう(私事だが、実は、民間の大手天
気情報会社を起業した社長は、私の中学時代の同級生。私ともど
も、駒込で少年時代を過ごしている。それだけに、駒込、本郷通
り、旧古河邸、ポイント気象情報という、奇縁に驚いているが、
これは、蛇足)。

実は、誘拐犯の本当の狙いは、少年ではなく、この母親であり、
母親と犯人の兄との間には、若い頃に、殺人事件の共犯関係があ
り、さらに、少年の母親という女性をかばい、ひとりで罪を被っ
た犯人の兄の冤罪を晴らすという犯人の真の狙いが、明らかにさ
れる。

「帝都衛星軌道」というタイトルは、意味不明だが、帝都・東京
の山手線、高速環状線の環状の謎、また、大阪など東西南北に縦
横に走る地下鉄網と違って、東京の地下鉄網は、複雑怪奇という
謎、すべては、皇居(戦前は、宮城)と宮城を守る地下要塞作り
の後遺症(これには、ほかの著者による、いわば「種本」があ
る)、戦前からの軍事秘密という背景が、浮かび上がって来る。
かつて、出稼ぎで東京の地下鉄工事に携わったことがある犯人
は、今回の誘拐事件でも、帝都の地下の秘密を利用して、緻密な
犯罪計画を練り上げ、捜査陣を翻弄したというわけだ。

「帝都衛星軌道」は、雑誌掲載では、一挙に発表されたが、単行
本では、前編と後編に分断され、誘拐事件の発生と展開、6年後
の後日談という二本立て構成になっている。2つを分断している
のは、「帝都衛星軌道」より、1年半ほど前に雑誌に発表された
全く別の作品「ジャングルの虫たち」である。ホームレス、地下
鉄工事従事の労働者の物語。この作品は、東京の地下網の秘密を
暴いたもので、「帝都衛星軌道」の背景となる地下の世界を明か
すということで、「帝都衛星軌道」という作品と立体的に繋がっ
て、「東京アンダーグラウンド」というべきひとつの作品をみご
とに再構成してみせたと言える。

大沢在昌「魔女の笑窪」は、男の本性を完璧に見抜くという超能
力を持つ魔女の物語。殺人を含む裏稼業のコンサルタント・水原
は、かって「地獄島」と呼ばれた離島の売春窟から脱走した過去
を持ち、いまも、追われている。こちらは、日本列島のアンダー
グラウンドの犯罪社会の縮図を描く。
- 2006年6月24日(土) 16:08:15
6・XX  津本陽「月とよしきり」を読む。幕末の「天保水滸
伝」などと言われた浪人・平手造酒(ひらてみき)の一代記。先
日観た歌舞伎の「暗闇の丑松」は、「天保六花撰」の一人を主人
公の人物造型に使っている。松林白円の講談「天保六花撰」で
は、河内山宗俊、片岡直次郎、三千歳、金子市之丞、丑松、そし
て、森田屋清蔵という6人の悪人を六歌仙に見立てている。「天
保水滸伝」は、下総一帯で起きた笹川繁蔵と飯岡助五郎の抗争に
浪人・平手造酒が巻き込まれた。天保年間とは、1830〜
1844年。幕末の慌ただしい安政まで、10年という時代だ。

紀州出身の浪人・平手造酒は、北辰一刀流玄武館、つまり、千葉
周作門下の優等生であったが、武者修行の途中、同行の友が、や
くざに殺され、それの責任を取って、破門された。しかし、千葉
周作の姪のお藤の計らいで、復帰が叶うというチャンスもあった
が、やくざ者や試合で破った相手からの遺恨などが続き、結局、
復帰が叶わないまま、後に妻となったお藤まで、遺恨対決の巻き
添えを喰い、殺されてしまう。つまり、剣を取っては、剣豪だ
が、造酒は、世渡りが巧くなく、人生の敗者になってしまう。後
添えの妻も、お産で、亡くなってしまうなど、女運も良くない。
居ますよね、本筋では、ひけを取らないのに、脇筋で、損ばかり
していて、結局、そのまま、一生を終えてしまう人って。

やがて、「造酒」の名に恥じない(?)酒飲みになり、やけ酒
男。結局、下総の笹川繁蔵と飯岡助五郎というローカルなやくざ
同士の抗争に巻き込まれ、殺されてしまう。それも、味方をした
繁蔵の撃った鉄砲玉に当たって、死んでしまうという、いわば、
犬死にの最期を迎える。国定忠治も出て来る。忠治については、
津本陽が別に書いた「国定忠治」という本もある。「月とよしき
り」と「国定忠治」は、津本の「天保やくざ物語」として、二部
作として読むべき本だ。山口瞳にも、未完ながら「天保水滸伝」
という作品があったなあ。いま、私は、北方謙三の「水滸伝」
(全19巻)を別途読んでいて、13巻まで進んだところだ。
- 2006年6月6日(火) 19:54:48
5・XX  伊坂幸太郎「魔王」「陽気なギャングが地球を廻
す」「陽気なギャングの日常と襲撃」を続けて読む。特に、「陽
気なギャングが地球を廻す」は、今月半ばに映画が公開されたば
かりの上、先月末には、原作を元にコミックス化され、刊行され
たということで、「陽気なギャング」シリーズは、若い世代に人
気上昇中のようだ。4人の銀行強盗の話。銀行で強盗を「働
き」、仲間が、現金を奪う時間を「稼ぐ」(銀行強盗は、「働
く」とも、「稼ぐ」ともいうべきではない。「する」だけであ
る)ために、店内に居合わせた客や銀行員相手に4分間の「演
説」をするのが、生き甲斐という響野という男。「人間嘘発見
器」ともいうべき、冷静観察男の鳴瀬。掏摸の天才久遠。精密体
内時計の持ち主の雪子。この4人が、軸となって、銀行を襲い、
物語を展開させる。最近、巷で流行るもの。ライトノベルスの典
型的な、ノリのシリーズ。伊坂幸太郎は読んでいても、「陽気な
ギャング」シリーズの人気ぶりなど、かけら程も知らなかった
が、息子にいわれて読んでみた次第。伊坂幸太郎の息子の出身高
校の10年程先輩に当たる。

「魔王」は、陽気なギャングシリーズの持つ伊坂の持ち味を生か
しながら、参考・引用文献のテーマが、「ファシズム」「ムッソ
リーニ」「宮沢賢治の詩」「『憲法九条』国民投票」「憲法論
議」という小説だから、驚かされる。カリスマ政治家と対決する
兄弟の物語。忍び寄るファシズムの足音を聞きながら、青空に舞
うオオワシの定点観測を共存させようとした伊坂の力量には、眼
を見張るものがある。
- 2006年5月30日(火) 22:12:48
5・XX  杉本章子「火喰鳥 信太郎人情始末帖」と宇江佐真
理「三日月が円くなるまで 小十郎始末記」を読む。

杉本の「火喰鳥」は、捕物帳ものの人気シリーズ「信太郎人情始
末帖」の第5弾。杉本の作品は、日本語の文章が、実に、細やか
である。文章からして、江戸の情感を再現している。さらに、歌
舞伎の河原崎座が、主要な舞台となっていて、幕末から明治期の
偉大な狂言作者である河竹新七(後の黙阿弥)が、河原崎座の立
作者として登場し、脇を固めている。

信太郎は、日本橋本町の呉服屋美濃屋の七代目を継ぐ身だが、吉
原仲之町引手茶屋・千歳屋女将で、子持ちの後家・おぬいとわり
ない仲になり、勘当されていた。河原崎座の勘定方手伝いをしな
がら、おぬいとの間に女の子をもうけた。4年後、父親から勘当
は許され、おぬいと祝言をあげることになったが、母親らから
は、相変わらず疎まれ続けている。おぬいの伯父で、河原崎座の
大札(芝居小屋の金銭出納の元締め)の久右衛門が、折からの火
事で河原崎座が全焼した際、小屋に戻り、焼け死んでしまう。そ
れを知って、伯父を助けようとした信太郎は、火傷を負うととも
に眼が見えなくなってしまう。

今回は、「始末帖」という名の「捕物帳」というより、信太郎の
勘当が解かれた後、美濃屋に戻ることになったあとの顛末、始末
の物語としての「始末帖」であった。江戸の風が吹いて来るよう
な世界の構築。その上、相変わらず、歌舞伎についてのなみなみ
ならぬ知識に裏打ちされた、江戸の芝居小屋の裏事情がおもしろ
い。  

宇江佐真理「三日月が円くなるまで 小十郎始末記」は、最初か
ら顛末、始末の物語。南部藩がモデルになっている「仙石藩」の
下級武士刑部小十郎は、父親の命で正木庄左衛門とともに、藩主
の汚名を晴らすべく、「島北藩」(津軽藩がモデル)の藩主への
襲撃を狙っている。小十郎は、「主犯」として、先に出奔した庄
左衛門を助ける立場ということで、江戸の久松町の道具屋に寄宿
し、町家暮しをしながら庄左衛門からの連繋を待っている。結
局、襲撃は、失敗し、やがて、捕らえられた庄左衛門は、獄門の
刑に処せられる。小十郎には、さらに、有為転変があり、という
ことで、「始末記」ということになるが、「ま、できることはす
る。できぬことはしない。それだけのこと。後は死んだふりだ」
という小十郎の「得意の口癖」が、基調となる最終章のタイトル
「死んだふり」が、作者からのメッセージと受け止めた。
- 2006年5月3日(水) 21:26:38
5・XX  篠崎博「雪崩路」を読む。そういえば、最近、山岳
事故が多いが、専門家によると、夏山シーズン以外、3000
メートル級の山は、「冬」なのだが、それをきちんと認識しない
まま、少人数で、短期間に登山をしようとして、遭難するケース
が多いという。つまり、その専門家によれば、登山以前に、すで
に「遭難」している人たちが増えたという。冬の雪山は、ラッセ
ルをしないと前進できない。ラッセルは、体力のある若い男性の
パーティでも、7、8人で交替しながら行わないと極度に体力を
消耗する。それなのに、単独行や2、3人程度のパーティで、山
スキーを楽しもうと冬山に向う。それも、1泊2日とか、2泊3
日程度の週末登山だ。春先になり、気温が上がれば、沢筋は、雪
崩が起きやすくなる。そういう天候の予測も、不十分なまま、日
程優先で、無理をする中高年登山グループが、多いという。交通
量の激しい道路を、たまたま、車が少ないという理由だけで、横
断歩道を無視して、渡ろうとするようなものだ。事故に遭わない
方がおかしいくらいだ。

篠崎博「雪崩路」は、ヒマラヤの8000メートル級の山、カラ
コルムK2やアンデス最奥のネバド・チュルパ(墳墓の山)など
に挑む登山家たちの物語。原作者の篠崎は、テレビドラマのシナ
リオライターだけに、メンバーの一人に能楽師を配し、能の「船
弁慶」を絡ませるなど、映像的な場面展開も計算に入れているよ
うだ。原作者が、75歳と思わせないような、迫真の登山場面
が、次々と展開する。映画「アンデス」、映画「遭難」のシナリ
オも手掛けただけに、登攀場面の描写は、迫力がある。
- 2006年5月3日(水) 9:53:29
5・XX  内田康夫「奇霊島(上・下)」を読む。私の実家の
ある東京・駒込の隣町の西ヶ原に住む紀行もののルポライター浅
見光彦が、事件の謎を解くシリーズの作品。

今回は、100件目の事件ということで、上下巻の長編小説と
なった。長崎県の五島列島、長崎半島近くの軍艦島(端島)と、
静岡県の遠州灘、長野市、そして東京などを結び、北朝鮮の拉致
事件、日本による戦争中の朝鮮人強制連行、靖国神社への参拝問
題など硬派の背景を絡ませながら、ストーリーは、展開する。

「奇霊島」とは、強制連行、強制労働のあった軍艦島の炭坑、隠
れ切支丹の殉教の島・五島列島など、人間の霊魂を捨て去った島
のイメージだが、小説の背景などを考えると、日本列島をイメー
ジしていると思われる。日本の戦後の政治状況は、幾多の国民の
命を犠牲にし、幾多の霊魂を捨て去り、その結果、戦後60年を
超える時空には、霊魂たちの慟哭が響き渡っているというイメー
ジなのだろうと思う。

ミステリー小説ゆえ、ストーリーの詳細を紹介する愚は避ける
が、事件の鍵を握る犯人たちの個人史は、まさに、戦後史そのも
のを象徴しているというように読んだ。
- 2006年5月3日(水) 9:25:32
4・XX 沢木耕太郎「危機の宰相」は、「60年安保」を強行
して倒れた岸信介内閣の後継として登場し、独特の皺枯れ声で
「所得倍増論」を論じた池田勇人の時代、1960年7月から
1964年11月まで、つまり、「60年安保」から「東京オリ
ンピック閉幕」までの時代を描いたノンフィクション作品。主人
公は、「所得倍増論」を考えだし、政策として実行した池田勇
人、田村敏雄、下村治の3人である。この作品の元となる原稿
は、最初1977年7月号の「文芸春秋」に掲載された。しか
し、単行本として刊行されること無く、29年が過ぎた。沢木
は、何度か、改稿して、刊行を思い立ったが、結局、書き倦ねて
いるうちに、愛国党の山口二矢による社会党委員長淺沼稲次郎暗
殺事件を描いた「テロルの決算」、ボクサーのカシアス内藤のカ
ムバックを描いた「一瞬の夏」などの作品を書く方へ進んでいっ
た。そして、2002年から刊行が始まった「沢木耕太郎ノン
フィクション」という著作集の一環として、やっと「危機の宰
相」が、刊行される。27年が、経ったことになる。さらに、今
回は、それに加筆し、再構成し、最終版として、単行本「危機の
宰相」は、刊行されたことになる。「所得倍増」という、首相と
なった政治家の政策のキーワードの秘話を抉る形で、60年代前
半という世相が、活写され、なかなか、読みごたえがあった。
- 2006年4月29日(土) 12:02:56
4・XX 江宮隆之「新・白磁の人」は、前作「白磁の人」で、
山梨県高根町(いまの北杜市高根町)出身で、朝鮮に骨を埋めた
浅川巧の人物像を違った視点で描く作品。日韓併合時代に「憎し
みからは何も生まれない」と、民衆の視線で日本と朝鮮の有り様
を考え続け、林業試験場の職員として、禿山の多い朝鮮に植林を
しながら、朝鮮白磁の魅力に気づき、柳宗悦らとともに、「民衆
的工芸」、つまり「民芸」運動を盛り上げた浅川巧。今回は、朝
鮮独立運動の闘士・「安舜臣」で、後の韓国陶磁器界の巨匠・安
巧二という架空の人物を設定し、この人物から観た浅川巧像を描
くという構成をとっている。

4・XX 加藤実秋「インディゴの夜 チョコレートビースト」
は、ホストクラブの女性オーナーと店のホストたちが「探偵団」
さながらに、夜の渋谷で起きる事件を解決する物語。現代の風俗
世相をホストという視点で、活写する辺りが、ポイントの作品。
- 2006年4月29日(土) 11:38:20
4・XX 読み溜めていた時代小説の書評をまとめて書こう。山
本一力「背負い富士」は、幕末から明治中期まで長生きした渡世
人・清水の次郎長の話。6月からNHKの「木曜時代劇」で放送
されるものの原作。清水在受住の次郎長研究家の協力を仰ぎ、執
筆したと言い、研究家から、「次郎長を貶めることはしないでく
ださい」「どんな次郎長を描かれようとも、それは作者のご自由
です」と言われたと「あとがき」で告白しているように、それ
が、手枷、足枷になっていないか、というのが、正直な読後感と
して残った。きれいごとの次郎長像に陥っていやしないか。次郎
長は、マイナスも含めて、もっと陰影に富む人物だったような気
がする。

それは、「背負い富士」では、甲州の渡世人・黒駒の勝蔵との経
緯が、全く描かれていないということに象徴されるように思う。
両者の博徒としての抗争、幕末期の官軍・勝蔵と幕府方の次郎長
との対比、一転して、明治期の脱軍犯罪者の勝蔵と新政府の東海
道「沿道警固役」の次郎長など。そういう対比がなければ、奥行
きのある次郎長の人間像は、描けないのではないか。観光用の次
郎長像のような気がする。また、そういう一面的な次郎長像が、
テレビドラマとして、放送されるとしたら、それも、困ったもの
だ。

近藤史恵「にわか大根」は、タイトルでも判るように、歌舞伎役
者や芝居町が登場する。近藤史恵は、「ねむりねずみ」という歌
舞伎ミステリーがあるくらいだから、かなりの歌舞伎通である。
今回も、しっかりした歌舞伎の知識をベースに同心・玉島千蔭の
捕物帳というスタイルで、芝居町に起こる事件を解決する。短編
連作3作品の時代ミステリー。今後、シリーズ化して欲しいと思
いながら読んだ。

時代ミステリーの佐藤雅美「半次捕物控 泣く子と小三郎」は、
シリーズ化されている「半次捕物控」の第何弾だろうか。今回
は、厄病神、困った傍役の蟋蟀小三郎が、活躍する。江戸の中村
座に「朧月夜血塗骨薫(おぼろづきよちぬりのなまくび)」とい
う芝居をかけ、自ら主役を演じた小三郎も歌舞伎通なら、芝居町
を縄張りとする岡っ引きの半次も、芝居の裏情報には、通じてい
る。従って、このシリーズも、歌舞伎好きには、見逃せない時代
小説である。

犬飼六岐「筋違い半介」は、2000年に「小説現代新人賞」を
受賞した新人作家の初めての短編集。新人とは、思えない達者な
筆裁きで、地面を這うように生きている主人公7人が、活写され
る。
- 2006年4月29日(土) 11:14:55
4・XX 佐々木俊尚「グ−グル」は、3月に読み、「乱読物
狂」にも書評を載せた梅田望夫「ウエッブ進化論」と同類のテー
マ。「ウェブ進化論」では、「グ−グル」というアメリカの検索
エンジンの会社論を軸に、「Web2.0」という世界を論じて
いた。インターネットのあちら側で、不特定多数無限大というマ
スへの信頼感を持ち、「インターネット」「チープ革命」「オー
プンソース」という、21世紀の次の10年へ向って有効な3種
の神器のある世界を構築しようとしている「グ−グル」は、その
入り口にいるという。少数のエリートより、群衆の叡智の方が、
頭がよいということをコンピュータというテクノロジーを活用す
ることで、証明しようとしているのが、知の世界を検索エンジン
で再編成しようと目論む「グ−グル」の企業戦略であるとして、
グ−グル賛美の論を展開していた。

その書評で、私は、「不特定多数無限大」をベースにした戦略
で、旧来の権威を覆し、知の世界秩序を再編成し、ネット上の富
を再分配しようとするグ−グルにファッショ傾斜する危惧を感じ
てしまうと、述べたが、毎日新聞社の元社会部記者が書いた本書
は、「グ−グル」というタイトルが示すように、グ−グルという
巨大化した企業の戦略への危惧を率直に書いている。「サーチエ
コノミー」「キーワード広告」「ロングテール」「アテンショ
ン」など、グ−グルの個別戦略を分析しながら、ネット社会に出
現した巨大な権力を批判する。「ウエッブ進化論」と「グ−グ
ル」を合わせて読むと、ネット社会に起きている問題状況が俯瞰
されるだろう。
- 2006年4月29日(土) 10:32:37
4・XX 東京再発見が、ブームになっている。川本三郎・小針
美男「追憶の東京 下町、銀座編」も、そういうブームにあやか
ろうと化粧をし直して出て来た年増の遊女のような味のある本
だ。

「追憶の東京 下町、銀座編」は、東京の下町をペン画で描いた
小針美男の作品集「東京文学画帖」「東京つれづれ帖」などか
ら、川本三郎が、下町と銀座の絵を選び直して再構成をした。さ
らに、川本は、あらたに「荷風のいた町」「下町人の遊び場」
「今宵も酒を一杯」「遠い日の映画館と劇場」「水辺の風景」な
どというタイトルを付けて、自分の文章を章の頭に添えている。

小針美男も、自分の書いた絵にキャプションをつけるが、その文
章もキャプショの域を超えている。だから、川本三郎編・文、小
針美男絵・文という、書き手がふたりというユニークな構成の本
になった。兎に角、小針の絵が精緻で、見応えがある。下町と
いっても、かなり歩き込んで描いたような絵が多く、また、眼の
ツケどころが、下町で生活し続けた人の眼を感じさせて、おもし
ろい。旧作の「東京文学画帖」「東京つれづれ帖」のままでは、
古書店の片隅で、埋もれていたであろうが、こういう形で、再生
されて、東京再発見ブームに乗って、荷風没年の79歳と同年齢
になって、「追憶の東京」という、川本との共著を刊行できた喜
びが、読者にも伝わって来る。

40から50年前の下町の居酒屋の舌代が、書き残されているの
も、嬉しい。例えば、東向島の大衆酒場「釜登」のもの。ビール
140円、奴子20円、イカさしみ30円、カキフライ35円、
桜なべ70円など。10年後の下谷二丁目の居酒屋「鍵屋」で
は、冷奴60円、とりもつやき60円、とり皮やき50円、どぜ
う柳川180円などとある。
- 2006年4月20日(木) 20:55:48
3・XX  海堂尊「チ−ム・バチスタの栄光」は、初めての著
者の作品。現役の医者が書いた小説。「バチスタ」とは、心臓移
植代替手術のことをいう。「バチスタ」手術の専門グループが、
通称「チ−ム・バチスタ」を軸にして、物語は、展開する。原因
不明の術中死の謎解きの責任者を大学側から指名されたのは、な
んと、不定愁訴外来の、うだつのあがらぬ万年講師。医療過誤
か、殺人か万年講師とともに謎解きに協力するのは、横紙破りの
厚生労働省の役人という珍コンビ。医療コメディともいうべき新
境地を切り開いた小説である。
- 2006年4月15日(土) 19:57:04
4・XX  矢作俊彦「悲劇週間」は、詩人の堀口大学の青春
記。20歳の若き日の詩人は、外交官の父親の赴任先のメキシコ
でパリ行きのための準備をしていた。恋と詩と革命と、モラトリ
アムの時間は、「悲劇週間」と名付けられ、メキシコで進行する
戦争、革命とパラレルになりながら、やがて悲劇を迎えるメキシ
コ大統領の姪との恋を進行させる。普遍的な青春物語は、堀口大
学を超えて、21世紀の若者の胸に飛び込んで来る。矢作の傑作
に数えられる作品だと思う。

天童荒太「包帯クラブ」も、青春記。青春の傷を癒すために少年
少女たちが考えだしたのが、心の傷の元になる想い出を包帯でく
るむと言う行為。そういう行為に同感した少年と少女たちが、包
帯クラブを結成する。発想のユニークさで成功した作品。それ
に、新書判ノベルスとは違って、普通の新書判に小説を潜り込ま
せた編集者のアイディアも生かされて、ベストセラーズになった
由。ご同慶の至り。
- 2006年4月15日(土) 19:39:29
4・XX  植木や草花など、庭作りの材料となる植物に関心を
寄せているので、辻井達一「続・日本の樹木」と柳宗民「日本の
花」を座右に置いて、ときどき、読んでいる。「続・日本の樹
木」は、評判の良かった前著「日本の樹木」の差し換え、増補版
というもの。130種類の樹木の生態誌である。柳宗民「日本の
花」は、48種類の花を四季ごとにまとめたもので、通読しても
おもしろいし、拾い読みをしてもおもしろい。挿し絵も楽しめ
る。季節になる木や花を植えるときに、改めて、じっくり読みた
い本である。
- 2006年4月15日(土) 19:28:37
4・XX  小林信彦「東京少年」は、「疎開」小説、と言って
も、私も「疎開」は、歴史書や小説で読んだだけで、経験してい
ないので、70歳くらい以上の年齢でなければ、実感を持てない
だろうと思う。この小説では、「集団疎開」と「縁故疎開」の体
験をベースに物語が組み立てられる。「疎開」とは、米軍による
空襲を避けて都会から地方に移住することをいう。

昭和19(1944)年7月(つまり、敗戦の一年ほど前のこと
だ)、著者と等身大の11歳の少年(いまの小学校に当たる「国
民学校」6年生)は、突然、山奥の寒村(と言っても、埼玉県名
栗村)へ「学童疎開」をさせられる。馴染めない環境の中で、少
年にとって、疎開とは、地方との戦いであり、一緒に集団疎開し
た少年少女との戦いでもある。本の帯には、「〈疎開〉という名
のもう一つの戦争」とあるが、そういうことだったのかも知れな
いと、思いながら、作品を読んだ。

閉鎖的な集団生活での級友との軋轢、飢え、東京への望郷、空襲
による実家の消滅、級友の死、教師の横暴など学童疎開は、少年
たちにとって未体験の苦境を迫る。地域の学校の子供たちが、ま
とまって、地方に移住する「集団疎開」で敗れた少年は、さらに
親戚など地縁を頼って移住する「縁故疎開」も、経験する。敗戦
期前後に多感な少年時代を過ごした著者が、戦後60年を経て、
やっと、客観的に再構成した疎開体験。そう、少年たちは、皆、
繊細な東京少年だったのだ。
- 2006年4月15日(土) 19:20:30
4・XX  読み終わったまま、書評を書いていない時代小説
が、溜まった。高橋克彦「春朗合わせ鏡」は、春朗、つまり、若
き日の葛飾北斎が、主人公。浮世絵師・春朗と歌舞伎の大部屋女
形役者・蘭陽が、活躍する捕物帖。高橋の「おこう紅絵暦」など
で主人公となる、おこう(江戸の北町奉行所飛騰与力の妻で、元
柳橋の芸者)・左門が、ここでは、脇へ廻り、新たに春朗と蘭陽
が、クローズアップされていて、いわば、ネガとポジの関係で物
語が展開する。同床異夢の世界が拡がる。

浅田次郎「お腹召しませ」は、幕末から明治維新へ激動する時代
の波に揺すぶられながらも、己を失わずに荒波を乗り切った元武
士の男たち6人の軌跡を描く時代短編小説集。史実の断片と嘘の
想像力の結合。辣腕のスト−リ−テーラーである著者の面目躍如
の虚実の世界。

あさのあつこ「彌勒の月」は、初めて読んだ作家の作品。商人の
陰にある猛々しいものとは、なにか。小間物問屋の若おかみが溺
死した。妻の亡骸を前にした小間物問屋主人の振る舞いに対して
違和感を抱いた同心は、問屋主人の前歴を暴いて行く。闇の道を
歩いて来た男の人生の悲哀。生きるとは、哀感と憐憫が付きまと
う。誰の人生にも、光と闇があるものさ。

津本陽の「国定忠治」は、新国劇などで知られるヤクザ国定忠治
の人間像に新たな視点から光を当てた作品。忠治も、いわゆる
「お旦那博徒」だったのだろうか。津本陽が書かなければ、国定
忠治物語など、読むようなことはなかっただろうに。

宮部みゆき「日暮らし(上・下)」は、「ぼんくら」に続く下町
時代小説。徹底したエンターテインメント作品。ぼんくら同心・
井筒平四郎と超美形少年・弓之助、少年記憶装置(コンピュータ
も、顔負け)のおでこらが、過去の嘘と隠し事を解きほぐすロー
リングプレイ。

小杉健治「刺客殺し 風烈廻り与力・青柳剣一郎」は、「○○殺
し 風烈廻り与力・青柳剣一郎」シリーズの第4弾。今回は、世
継ぎを巡る大北藩のお家騒動を絡めた。嫡子と非嫡子を巡る暗殺
計画。しかし、小説の結末の付け方は、安易で、残念であった。

山本一力「辰巳八景」は、江戸の深川に展開する8つの人情物
語。時代を変えながら、「帰帆」「晩鐘」「夜雨」「落雁」「晴
嵐」「秋月」「夕照」「暮雪」などの八景が、点描する江戸の深
川に生きる庶民の営み。一力節が、泣かせる短編集。しかし、一
力節も、読み進む途中で、手の内が透けて見えるようになってき
た。

時代小説ではないが、山本一力「家族力」も読んだので、付け加
えておく。時代小説を構築する一力節のベースにあるのは、家族
の力への信仰。家族の絆。家族の愛。著者が自身の周辺で見聞き
する家族力が、江戸の庶民の生活の活写に甦り、独特の一力の世
界を再構成する原動力になっていることが判る。
- 2006年4月15日(土) 17:16:29
4・XX  三枝誠「整体的生活術」は、身体の内側と外側を健
康にしないと真の健康体にはならないと説く。生活環境、人間関
係、食生活、健康管理などが、相互に連関して初めて健康体は作
り上げられる。外と内を繋ぐのが、「気」であるという。気は、
穴を通じて、出入りする。人間の穴は、「唾穴」「汚穴」「互
穴」「閉穴」。対向発生。整体がベースの生活術。外経路の構
築。
- 2006年4月15日(土) 16:37:00
4・XX  童門冬二「人生で必要なことはすべて落語で学ん
だ」は、知人の時代小説家の落語論。東京の箱崎で生れ育った江
戸っ子作家童門冬二は、戦時中は、特攻隊志願の軍国青年とし
て、敗戦を迎えた。戦後、区役所職員から都庁職員となり、美濃
部都政で役人としても花を開かせ、美濃部知事の退任と軌を一に
して、退職。それまでの役人ともの書きという、二足の草鞋をや
めて、筆一本の生活に邁進し、毎年10数冊以上の本を出し続
け、30年近くになる。

いまも、下町の長屋の八つあん、熊さんを自負し、決して偉ぶら
ず、講演を頼まれれば、時間の許す限り何処へでも馳せ参じ、歴
史の先人たちから学んだ戦略、人間の智恵を解説し、子どもの頃
から下町の寄席で直に聞いたという落語家の名人たちから学んだ
話術を披露する。生活の智恵、人生のコツ、そういう「達人術」
が、笑いのうちに学べる本が、文庫になったという次第。

目下、落語ブームとか。確かに、私がたまに行く寄席も、ここ一
年は、急激に観客が増えた。落語のCDやDVDの刊行、本の出
版も増えている。しかし、こういうブームは、曲者だから、気を
付けないと足元を掬われかねない。ブームの時こそ、本物を見分
ける眼が要求される。この本は、ブームに乗って、編集者に載せ
られて出版されたものではないだろう。

著者が直に見聞きした落語家は、六代目円生、八代目正蔵、五代
目志ん生、五代目小さん、八代目文楽など30人ほどが、ずらず
らと出て来る「前口上」を読むと、涎が出て来そうになる。
- 2006年4月15日(土) 16:29:34
4・XX  痛切な時代への思いを真摯に吐露する本を2冊読ん
だ。

島田雅彦・しりあがり寿「一度死んでみますか?」は、気鋭の小
説家と同じく気鋭の漫画家の往復書簡と対談で構成する「メメン
トモリ(死を忘れるな)」というメッセージ性の高い本。生と
死、老と病をキーワードに現代の世相を縦横無尽に切り裂いて行
く。

もうひとつは、孤軍奮闘の余り、講演会の最中に、脳出血に見舞
われて倒れ、さらに、消化器の癌が発見され、病院のベッドに横
臥したまま、社会への箴言を忘れずに、己を糾弾する形で、社会
や世相を糾弾する数少ない硬派のジャーナリスト辺見庸の「自分
自身への審問」を読んだ。因果応報など笑い飛ばし、罰当たりこ
そ、ジャーナリストの本分と死の実感を元に制度としての殺人
(死刑)を糾弾する。腐敗が進む日本民主主義国家、アメリカを
軸にグローバルな形で、破滅へ向けてひた走る世界。ジャーナリ
ストは、病の二重苦の果てに獲得した末期の眼という武器を片手
に身体を張って、病床から社会を打ち砕く。

- 2006年4月15日(土) 15:59:38
4・XX  佐々木譲「制服捜査」は、おもしろかった。警察の
不祥事が続き、不祥事の原因は、在勤が長いからだという警察官
僚の、頭でっかちな判断で、北海道の釧路方面、広尾警察署管内
の駐在所勤務となった、元刑事が、犯罪発生率管内最低という健
全な街の「不可解さ」に挑戦する。地域住民の犯罪発生を抑える
防犯協会の謎。駐在所警察官に燃え続ける刑事魂という、新境地
の警察小説が誕生した。高倉健主演で映画にしたいような作品。
佐々木譲が、お得意の北海道をテーマにした小説の幅を拡げた傑
作。シリーズ化を期待したい。
- 2006年4月15日(土) 15:43:04
4・XX  引き続き、買い溜めてあった石田衣良の3冊をまと
めて読んだ。

「愛のいない部屋」は、東京・神楽坂の坂上にある高層マンショ
ンを舞台に、マンションの各部屋に住む男女の人間模様、特に、
さまざまな愛が描かれる。

「ブルータワー」は、21世紀の新宿と23世紀の「新宿」が舞
台。脳にできた腫瘍(膠芽腫)の作用で、意識が200年の時空
を行き来するというSFファンタジー。遺伝子組み替えでつくら
れた新型インフルエンザが、生物兵器。タワー派と地上派の攻
防。いずれも高層ビルが、もうひとつの主人公である。

「アキハバラ@DEEP」は、いまや、ITの街に変身した東
京・秋葉原を舞台に、「裏アキハバラ」で出逢った3人ひと組で
活躍する青年たちの小さな会社とネットを牛耳る成り上がりの社
長(ホリエモンを彷彿とさせる)率いる中会社との「電脳戦
争」。

いずれも、いま、売れっ子の石田らしい腕力で構築した作品世界
だが、読んでしまえば、何も残らない。
- 2006年4月15日(土) 15:33:23
4・XX  当代人気作家の掌編、短編の作品集を読む。まず、
石田衣良では、「てのひらの迷路」と「40(フォーティ) 翼
ふたたび」を読む。「てのひらの迷路」は、石田の身の回りので
きごとや見聞きしたことを24の掌編小説に仕上げた作品集。フ
リータ−、引き蘢りから、復活し、30歳台後半に作家デビュー
した石田の得意気な顔が、全ての作品に、その前書きとして付け
られた小文に仰々しく語られているのが、なんとも、鼻に付く。
もう少し、スマートな作品集に仕上げられなかったのか。

「40(フォーティ) 翼ふたたび」は、月島の14歳の少年た
ちを主人公とした「4TEEN(フォーティーン)」で直木賞を
受賞した石田の、「14」から「40」へということで、タイト
ルをひねり、40歳の中年男たちを主人公にした7つの短編集。
人生80年なら、40歳は、半ばに過ぎない。45歳の石田の同
世代への応援歌。病気にも負けず、離婚にも負けず、20数年続
いた引き蘢りにも負けず、ライブドアのホリエモンの凋落を05
年1月の週刊誌連載で予告していたような内容の「真夜中のセー
ラー服」をはじめ、中年男たちが、人生の後半に向けて、翼を拡
げて羽搏くという話が、大手の広告代理店を止めて、起業にも失
敗し、便利屋のようなプロデュ−ス業を始めた主人公吉松喜一
(40)を軸に展開する。

北村薫「紙魚家崩壊」は、9作品掲載のミステリ短編集。太宰治
の「カチカチ山」の向うを張る「新釈およぎばなし」などには、
歌舞伎のことが出て来るので、驚いた。でも、東京・兜町の株屋
の符牒では、「日本軽金属」が、「お軽」で、「関西ペイント」
が、「勘平」などというレベルから、「義経千本桜」の「いがみ
の権太」の「いがむ」は、性格が、「歪む」、ちまり、「ぐれ
る」。「ヘンデルがぐれてる」は、「いがみヘンデル」というレ
ベルまで、超低空飛行で、墜落寸前。作品集の方も、良い短編が
少なく、こちらも、墜落寸前で、なんとか、読み終わったが、粗
製濫造ではないかと思った。読者より、書き手志望が多いという
が、たくさんの作品が送り出される割には、現代の日本文学は、
不毛である。乱読物狂いは、狂うばかりである。
- 2006年4月3日(月) 22:02:35
3・XX  福島泰樹「青天」は、レクイエムの短歌集。まず、
塚本邦雄。「獅子王の歌」

付け加えるべき真実のため一行の 孤独を負いて生きるとありき

実存がその文体を決定す! 定型はほそく括れて直立ならず

塚本邦雄は青春なれば肯いがたく花に埋まる柩撫ぜるも

歌人と君を呼ばんに烏羽玉のしぐれのごとき黒き悲しみ

さらばこう青天あおく走りたるは霹靂、熱き雷を呼ぶため

レオナルド・ダ・ヴィンチ邦雄嬌羞の 誰かゆくべし獅子王の歌

あるいは、ボクサー、バトルホーク風間、あるいは、文藝評論家
小笠原賢二への鎮魂歌。

一人はボクサー一人は文藝評論家 雨打ちし吹く朝に果てにき

中学卒業して北海道増毛より集団就職のため上京。その後、新聞
配達をしながら大学を卒業し、大学院に進学し、書評紙の記者に
なり、さらに母校の教授に内定しながら、健康診断で癌発覚。
「『幸福』の可能性」という文藝評論集を遺して他界。

ほかに、鎮魂されるのは、村上一郎、日野啓三、中野孝次など。
歌集全体が、多くの人の魂を鎮めるとともに、日本のレクイエム
になっているような気がする。それも、絶叫のレクイエム。
- 2006年3月13日(月) 20:52:18
3・XX  船戸与一「蝶舞う館」は、社会主義国家ベトナムに
生きる「モンタニャ−ル(少数民族)」の決起の話。中部高原の
先住民「モンタニャ−ル」が、「デカ共和国独立」運動を起こし
た。ベトナムの当局は、これを阻止しようと公安局を軸に抑圧活
動を始めた。ベトナム戦争終結30周年を記念する特番を作るた
め、ベトナム入りしていた日本の民放の取材クルーが、巻き込ま
れた。取材クルーと一緒だったレポーター役の日米混血の女性タ
レントが、「モンタニャ−ル」の闘争グループに誘拐されたの
だ。身代金の要求とともにベトナム在住の、かつてのベトナム戦
争の従軍カメラマンだった男(その後、ベトナムでの爆弾禍に巻
き込まれて、両足を切断している)を一緒に連れて来るようにと
いう脅迫状が届く。ベトナムとカンボジャ国境に近い中部高原の
「蝶舞う館」に住む謎の日本人が、「モンタニャ−ル闘争委員
会」を組織していたことが、判って来る。

ベトナム戦争後の社会主義ベトナムの実像は、日本では、意外と
知られていない。その「空白」をベースに船戸与一は、ベトナム
論をサスペンス小説として、再構築した。ベトナム庶民の悲劇
は、ベトナム戦争中も、戦後も、続いていると船戸は、訴える。
1960年代の日本のベトナム反戦運動は、反米を軸に大きく盛
り上がったが、その割には、その後のベトナムの実像をどれだけ
の人が知っているだろうか。そういう船戸のいら立ちが、サスペ
ンス小説に結実した。しかし、この本も、どれだけ読まれている
のか。日常の瑣事や純愛ものの小説が、読まれても、ハードな
テーマのものは、たとえそれが、サスペンス小説だとしても、あ
まり読まれているような形跡がないのは、なぜだろうか。ベトナ
ムに関する論文を読むのは、しんどくても、エンターテインメン
ト小説なら、読みやすかろうにと、思う。フィクション化してい
るとしても、細部は、実際に取材しているのではないか。
- 2006年3月13日(月) 20:48:25
3・XX  今期芥川賞受賞の絲山秋子の受賞作「沖で待つ」と
「海の仙人」を読んだ。沖で待つ」は、メーカーの営業職の勤務
経験のある著者の実体験を元に同期入社で、福岡の営業所に同時
に配属された「太っちゃん」こと、牧原太への主人公・及川の鎮
魂歌。同期の誓いは、どちらかが、先に死んだら、遺った方は、
相手のパソコンのHDD(ハードディスク)を壊すというもの。
そいう事態は、遠い将来のことと思っていたら、福岡時代の別の
先輩と職場結婚した太っちゃんは、単身赴任先である東京の自分
の住むマンションの7階から飛び下りて来た人の巻き添えになっ
て、死んでしまった。誓いは、実行され、単身赴任先のマンショ
ンの鍵を預っていた及川は、太っちゃんのパソコンのHDDを苦
労して壊しながら、パソコンは、元通りに復旧する。ところが、
太っちゃんの奥さん(及川も知っている職場の先輩)の実家に悔
やみを言いに行くと太っちゃんの「詩」のようなものを書いた大
学ノートを見せられる。

「珠恵よ/おまえは大きなヒナゲシだ/いつも明るくかがやいて
いる/抱きしめてやりたいよ」

という類いのものである。これを見て、及川は気がついた。壊し
たHDDには、こういう「詩」のようなものがたくさん書かれて
いたのではないかと。

なんだこれは。小学生かよあのデブ。

「俺は沖で待つ/小さな船でおまえがやって来るのを/俺は大船
だ/なにも怖くはないぞ」

死んでしまった太っちゃんが、最近、幽霊になって、及川の前
に、現れる。

「太っちゃんさあ」
「なんだよ」
「死んでからまた太ったんじゃない?」

職場の同期って、なに?
という、小説だ。これは。

「海の仙人」は、心優しい神様「ファンタジー」を軸に、孤独を
背負って生きる男女の物語。こういうのが好きなんだ、絲山は。

幽霊、神様、そういう、いわば「補助線」を引いて、男女の人間
関係という、「幾何学」の難問題を解き明かすのが、好きなん
だ。

そう言えば、拙著「ゆるりと江戸へ 遠眼鏡戯場観察」は、別称
「歌舞伎の幾何学」であった。いろいろな補助線を引いて、歌舞
伎の魅力を解き明かす。
- 2006年3月10日(金) 21:23:48
3・XX  中野翠「今夜も落語で眠りたい」は、おもしろかっ
た。ここ20年間、落語のテープ、もっとも、最近では、CDを聞
きながら、毎晩眠るという。だから、落語ファンといっても、
テープ、CDの音源ファンだから、愛好する落語家は、故人が多
い。但し、中野の最も好きな落語家は、故人としては、比較的新
しい志ん朝。ほかに、志ん生、文楽、円生、正蔵、小さん、馬
生、柳橋、三木助など(順不同)がとりあげられているから、時
代が判ろうというもの。上方落語が、全く無視されているのは、
戴けない。愉しみ半減ですよ。中野さん。

女性ゆえにか、著者略歴に生年がないので、不確かだが、文章を
読んで類推すると同じ大学の同じ学部の卒業年次が、私と同じら
しい。女性の少ない学部だから、当時の女子学生は、見当がつく
はずだが、思い当たる人が、浮かばない。

著者が好む「落語国」の住人たちは、「居残り佐平次」の佐平
次。「真田小僧」の金坊。「鰻の幇間」の一八。「子別れ」の熊
さん。「大工調べ」の与太郎。「柳田格之進」の格之進などが、
紹介されている。

このなかで、気になったことがある。「大工調べ」のなかで、江
戸っ子棟梁・政五郎が、大工の与太郎の家賃滞納の肩代わりに、
大家が道具箱を持って行ったのを怒って、強欲な大家を貶す科
白。

「丸太ん棒!テメエなんか目も鼻もない、血も涙もないノッペラ
ボーな野郎だから丸太ん棒って言うんだ!(略)呆助、藤十郎、
ちんけえとう、芋っ掘り、株っかじりめっ!」と悪態を並べる
が、「藤十郎」が、なぜ、このなかに入っているのかが判らな
い。どなたか、知っている人がいたら、教えてくだされ。

3・XX  恩田陸「エンド・ゲーム」は、「常野物語」シリー
ズの第3弾。オセロゲームのように、人生を裏返したり、裏返さ
れたりしたら、という発想でストーリー展開をする。ビジュアル
なゲームの原作のようなファンタジーノベルという、まあ、空想
物語。

よしもとばなな「王国 その3 ひみつの花園」は、いつもの、
ばなな節で、「癒し」を語る。こちらも、シリーズ第3弾。主人
公の「雫石」は、不倫相手の真一郎の離婚が成立し、新しい生活
に入ろうとしたが、真一郎の亡き親友の高橋が遺した「庭」とそ
の庭を守ろうとする高橋の若き義母が、真一郎の心を揺すぶり、
新たな別離が待っている。ばなな節が綴る魂の遍歴物語。ふたり
の作家の持ち味の違いが、おもしろい。
- 2006年3月9日(木) 21:47:09
3・XX  梅田望夫「ウェブ進化論」というインターネット社
会論を読んだ。

「グ−グル」というここ数年で、大企業に成長したアメリカの検
索エンジンの会社論を軸に、インターネットのこちら側(リアル
側)で、つまり、自分のパソコンのなかでの完結を目指し、不特
定多数無限大というマスへの信頼感を持たないのが、大組織の情
報システムだとしたら、ネット社会のこちら側で、不特定多数無
限大というマスへの信頼感を持ち、独占企業「マイクロソフト」
に対抗して、無料のソフトを提供したのが、「リナックス」で
あった。さらに、最近では、ネットのあちら側、つまり、パソコ
ンを通して、向う側で、不特定多数無限大というマスへの信頼感
なしに、ということは、代価を求めて、企業活動しているのが、
日本でいえば、「ヤフ−・ジャパン」や「楽天」であり、このま
までは、もう古くなりつつあるタイプだという。

そして、梅田が可能性大として、推賞しているのが、
「Web2.0」という世界で、ネットのあちら側で、不特定多
数無限大というマスへの信頼感を持ち、「インターネット」
「チープ革命」「オープンソース」という、21世紀の次の10
年へ向って有効な3種の神器のある世界を構築しようとしている
「グ−グル」は、その入り口にいるという。

少数のエリートより、群衆の叡智の方が、頭がよいということを
コンピュータというテクノロジーを活用することで、証明しよう
としているのが、知の世界を検索エンジンで再編成しようと目論
む「グ−グル」の企業戦略であるという。

それは、また、プロフェッショナルというエリート集団に対する
群衆の反逆でもある。「ブログ」の急速な普及は、全員が表現者
となる「総表現社会」の誕生であり、出版界でいえば、編集者無
き出版、無料に近い一億自費出版の洪水であり、マスコミでいえ
ば、デスク無き報道、無料に近い一億有線放送局の噴出であると
いえば、判りやすいだろうか。

巨大マスコミの記者、デスクとして、26年間表現、報道の「エ
リート」生活をしていた「玉」の身には、「一億有線放送局の噴
出」は、玉石混淆と蔑むこともできるが、「石」が、「不特定多
数無限大」に集まれば、石の特性を相互に消しあうように磨き込
まれ、「玉」に変身する、それも叡智なしで、検索エンジンとい
うテクノロジーで、変身すると説かれても、俄に同意はしかね
る。

薄利多売、薄い利益でも、「不特定多数無限大」に集まれば、巨
大な益を生み出す。その現実的な事例が、グ−グルの急成長であ
るという。旧来の権威を覆し、知の世界秩序を再編成し、ネット
上の富を再分配する。ネットの上の民主主義。しかし、テロに立
ち向かい、軍事力をバックに、民主主義を強制する、ブッシュ流
のアメリカ覇権主義と類似してやいないかという危惧も、一方で
は、感じてしまう。放送と通信の融合という掛け声のなかで、放
送、なかでも、報道の公正さ、公平さをないがしろにする議論
が、竹中総務大臣辺りを軸に声高になって来ていることとダブっ
て見えて来るのも事実だ。それが、元「エリート」の引かれ者の
小唄というなら、まだ、安心できるのだが・・・。いかがなもの
であろうか。それにしても、刺激的な問題提起の新書(ちくま新
書)である。
- 2006年3月2日(木) 21:30:53
2・XX  阿刀田高「こころ残り」は、人生の追憶を12の
ショートショート作品として、ピンで止めて行く。過ぎ去ってし
まったものは、すべて、「こころ残り」と言ってしまえば、辛く
なるか。

例えば、「時間がない」という作品では、「自分が本当にやりた
いことがなにか、探すんだな、人は。見つけられない人も多い。
ようやく見つけるのが五十代、六十代。もう時間はそう多く残っ
てやしない」。だからって、金の力で色事を強制するような爺に
なぞ、なりたかねえ。「老齢の真剣さ」と 阿刀田高は、落ちを
付けているが、老齢になればこそ、ゆるりと行きましょうや。
焦ったところで、時間は待ってくれやしないし、心残りが、
100%なくなることなどあり得ないし、万が一、元気なうちに
心残りが無くなってしまったら、これはまた、味気ないだろう。
心残りは、あすへの期待でもあるのだから。そう、思いません
か。
- 2006年2月18日(土) 17:01:24
2・XX  福島章「犯罪精神医学入門 人はなぜ人を殺せるの
か」は、実際に起きた殺人事件のうち、大阪教育大学付属池田小
学校事件の犯人を生活の歴史、性格・病気、症状と病気、多元的
診断、犯罪者の現存在分析学など精緻に分析して行く。サブタイ
トルにあるように、「人はなぜ人を殺せるのか」という問の回答
を求めて行く。ケーススタディは、「池田小学校事件」に留まら
ず、「連続射殺魔事件」、「池袋通り魔事件、「全日く空機ハイ
ジャック事件」などにも及ぶ。精神鑑定は、診断が不一致になる
ことが多いと言うが、殺人者は、いずれも特異で、臨床経験から
分類された診断カテゴリーに入りにくいケースが、殆どだと言
う。「殺人という病」は、違った顔をして、いわば、進化しなが
ら、私たちの前にあらわれる。先日も、幼稚園児を送り迎えして
いる母親が、自分の子どもも乗せた車のなかで、近所の幼稚園児
(つまり、自分の子どもの友だち)2人を殺している。日本人と
の結婚で、中国から日本人になった若い母親による凶行だが、こ
のケースも、奥が深そうな予感がする。人を殺すに至る病は、ま
すます、蔓延しているのでは無いか。
- 2006年2月18日(土) 16:40:03
2・XX  山田正紀「ミステリ・オペラ」は、平成元年東京と
昭和13年満州を「パラレル・ワールド(平行世界)とし、
「ワームホール(虫食い穴)」で結びながら、「それにしても、
この世には探偵小説でしか語れない真実というものがあるのも、
また事実であるんだぜ・・・・多分、T歴史Uはあまりに異常で
奇形的にすぎて、そこにT真実Uを求めるのであれば、それは探
偵小説でしか語れない種類のものであるのだろう」という、小城
魚太郎という架空の作家の作品「赤死病館殺人事件」という一節
が繰り返し繰り替えし語られる。それに加えて、通底音として
は、モーツアルトのオペラ「魔笛」が、とぎれずに、演奏されて
いる。「検閲図書館」と渾名される人物・黙(もだし)忌一郎と
いう謎の人物が、キーパーソンで、こん柄がった紐の固まりをほ
ぐすようにしながら、ミステリ・オペラのタクトを振るう。
そこに描き出されるのは、偽満州国の真相の解剖であり、平成元
年、1週間だけの昭和64年。天皇の下血が、続いた年を起点
に、昭和を遡る。

山田正紀には、すでに、「マヂック・オペラ」というオペラ3部
作の第2作が刊行されていて、こちらは、2・26事件の真相を
同じく探偵小説といういまでは、死語になっているキーワード
で、解剖を試みているようだが、まだ、未読。

2・XX  入江曜子「我が名はエリザベス」は、以前に読んだ
入江の「李玉琴伝奇」の先行作品で、清朝最後の皇帝でラストエ
ンペラーと呼ばれた満州国皇帝溥儀(宣統廃帝)の妻となった女
性の数奇な生涯を一人称で描いたノンフィクションノベル。それ
は、また、日本軍の後押しで作られた偽満州国の誕生から崩壊ま
での歴史と重なる。山田正紀の「ミステリ・オペラ」を読むのな
ら、合わせて、こちらも読むと、探偵小説とノンフィクションノ
ベルのカクテルという、摩訶不思議な味を楽しむことができる。 
- 2006年2月18日(土) 16:14:15
2・XX  辻内智貴は、40歳半ばで、太宰治賞を受賞した。
辻内の「セイジ」は、身近な人、親しい人が苦しんでいるとき、
「共苦」をどう表現するかというのをかなり極端な状況を設定し
て、落ちを付けた小説で、結構、売れている。精神に異常を来し
た男が、日曜日の午後、親子3人を襲い、両親を即死させた上、
残された小学校3年生の娘の左手首を切り落とすという事件が発
生した。

少女は、それ以降、表情を失い、宙に向って虚ろに開かれた眼
は、なにも見ようとしなくなった。主人公のセイジは、どこかか
ら流れ着いて食堂の雇われマスターのような仕事をして、この街
で暮らしている。知り合いの孫娘が、手首を切り落とされたこと
になる。ある日、皆で、少女の見舞いに行ったとき、セイジは、
「縁側に置かれた斧を掴むと、静かに少女の側に立った。そし
て、腰を下ろし、左腕を畳に寝かせると、右手に握りしめた斧を
大きく振り上げ、そして、それを、自分の左手首に向けて、力の
まま、一気に降り下ろした」。

少女は、神のようなセイジの行為に、心を動かされ、回復し、い
までは、元気で、幼稚園の先生をしている。

「私、神様を目の前で見たんだもの」。
- 2006年2月18日(土) 16:12:54
2・XX  藤谷治「いなかのせんきょ」は、架空の山村を舞台
にした村長選挙の話。マスコミの記者現役時代に取材した国政選
挙、地方選挙の数々。デスク現役時代にも東北地方全体の責任を
負おう選挙デスクを経験し、いわゆる「当確判定」という胃の痛
くなるような瞬間を何度も迎えた体験を秘めながら、小説「いな
かのせんきょ」を拝読。談合、根回し、饗応、買収など、選挙の
裏話を、かなり誇張して描き出す。主人公は、村議から村長に立
候補した。対抗する候補者は、主人公に立候補を進めた張本人の
助役。村の有力者が後ろ楯となる助役陣営に対して、家族を軸
に、金も使わず、村政への熱意だけで、清く正しい選挙戦を繰り
広げる。果たして、結果は如何に・・・。というのが、この作品
のミソ。

2・XX  北森鴻「写楽・考」は、タイトルに惹かれて読み出
したのだが、かなり癖のある女性民俗学者・蓮丈那智が主人公の
シリーズもの。「蓮丈那智フィールドファイル。」。「写楽・
考」は、かの写楽は、出て来ずに、写楽の役者へのデフォルメの
秘密として、江戸時代の「絡繰(からくり)箱」の秘密、「カメ
ラ・オブスキュラ」(ピンホールカメラ)が、示唆されるだけで
終る。ということで、いささか、羊頭狗肉の感なきにしもあらず
という作品。表題作のほかに、「憑代忌」「湖底祀」「棄神祭」
という3作品が併載されている。
- 2006年2月18日(土) 15:10:34
2・XX  時代小説をいくつか読む。今回は、いつもと趣向を
変えて、少しワイドな視点で、時代小説を考えてみた。

山本一力「道三堀のさくら」は、大川の東、所謂、江戸の川向こ
うで、水売りをする龍太郎の物語。江戸時代、木製の樋で結ばれ
た水道は、大川(隅田川)を渡れず、さりとて、井戸を掘って
も、潮臭い水しか取れず、飲み水は、船で大川を渡って来る水売
りから買うしか無かった。龍太郎は、蕎麦屋の娘に恋をしたが、
経緯もあって、失恋する。大川の東にいまも居住する江戸下町人
情作家の山本一力の一力節が奏でる人情噺。サラリーマンへ向け
ての元気の出る一力節は、今回も、冴え渡る。

西村望「梟の宿 川ばた同心御用扣(四)」は、シリーズ第4
弾。江戸の庶民を巻き込んだ事件を解決する八丁堀同心の五六郎
と手下の半次、その子分の釘笊(くぎざる)お富のチームの捕物
帳。シリーズも安定して来た。

4作品が併載されているが、3つは、雑誌連載で、各作品が、文
庫版で50ページ程度。書き下ろしの表題作は、100ページ余
ある。それだけに読みごたえが違う。盗んだ赤ん坊を売り飛ばす
話。女殺しの幽霊が出る話。無人の公儀拝領屋敷の庭土を売り
払った男と万引き女のケチな話が、意外な成りゆきになる。幼児
かどわかしと幼児の母親の強姦事件と6年前の未解決の殺人事件
が絡む。時代小説に舞台を借りて、現代の庶民の世相を写し込む
西村ワールド。

半次「それにしても生きるってことは難儀なことでござんす
ね」。五六郎も胸の底で同感し、「生きるってことはせつないも
んだな」と思う。「そういうこと。おめえもなんだ。・・・黙っ
ておいち(半次の女房)のでかい居敷(尻)に敷かれてるが身の
ためだぜ」と五六郎の父三四郎は言い、「あとは、『アハハ』と
いう笑いで、その場をごまかしてしまった」というやり取りに象
徴されるのが、西村望の江戸の庶民観。

西村の時代小説は、以前にも指摘しているが、雰囲気描写や登場
人物が使う江戸の庶民の言葉が、生き生きしているのも、ほかの
作家には無い魅力である。例えば、豆腐の「奴豆腐」は、豆腐を
賽の目に切ることをいうが、これは、武家に奉公した雇われ奴
が、お仕着せに着る着物の背中の定紋が、「賽の目」だったこと
から由来するなどというのが、さり気なく挟み込まれている。

佐伯泰英の「驟雨ノ町 居眠磐音江戸双紙」、「雷鳴 交代寄合
伊那衆異聞」、「役者狩り」を続けて、読む。「驟雨ノ町 居眠
磐音江戸双紙」は、シリーズものの第15弾。「雷鳴 交代寄合
伊那衆異聞」は、新シリーズの第2弾。「役者狩り」は、シリー
ズものの第10弾。
今回は、七代目市川團十郎が登場する。江戸の3改革は、享保、
寛政、天保で、吉宗、松平定信、水野忠邦が、それぞれ、主導し
た。「役者狩り」は、老中・水野忠邦の命で、豪奢贅沢禁止令を
押し進める鳥居甲斐守忠耀(耀蔵)が、七代目市川團十郎を付け
ねらう。江戸北町奉行遠山景元の以来を受けたシリーズ主人公の
夏目影二郎は、七代目を陰から守護する役目。従って、江戸の歌
舞伎の裏表がふんだんに描かれる。歌舞伎ファンは、必読。実
際、史実でも、七代目は、「江戸払い」というお仕置きを受け、
大坂に行ったり、甲府に行ったりする。甲府の街にあった「亀屋
座」には、七代目の出勤の記録が残っている。

今回は、毎月のように、複数の文庫書き下ろし作品を量産する佐
伯泰英の作品群の構造を私が読んだ作品の範囲で、分析してみた
いと思う。

○「居眠磐音江戸双紙」シリーズの坂崎磐音(藩主も認めるよう
なゆえがあって、脱藩浪人、現職の家老の息子)は、市井暮し:
江戸の両替商などの助っ人をしている。南町奉行所と良好な関
係。両替商の奥女中「おこん」とは、相思相愛ながら、性的な関
係は無い。アルバイトの鰻裂き仲間では、先輩格の子供「幸吉」
がいる。

○「●●刈り」シリーズの夏目影二郎(浪人、大目付の部屋住み
息子で、18歳で無頼の世界に入り、「アサリ河岸の鬼」と渾名
される。「鬼平」のような人。惚れた女の仇討で、御用聞きを殺
し、島流しに処せられ、釈放された)は、市井暮し。北町奉行所
と良好な関係。密偵で水芸人の女性「おこま」と相思相愛なが
ら、性的な関係は描かれない。仲間のような子供「玉之助」がい
る。

○「秘剣」シリーズの一松弾正(中間の倅。天涯孤独で、刑に服
したことがある)は、武士。徳川光圀の影警護をしている。身請
けした元女郎「やえ」がいるが、別居している。従って、性的関
係は、描かれない。

○「密命」シリーズの金杉惣三郎は、徒士から金杉家の養子に
なったが、藩元の密命で、浪人を装い、市井暮し。大岡越前守と
良好な関係。

○「交代寄合伊那衆異聞」シリーズの藤之助は、下士から、若殿
様になる。好意を持つ奥女中がいるが、性的な関係は無い。

時代状況は、ほぼ史実に乗っ取っているので、史上の有名な人物
も、ときどき、背景に見え隠れする。主筋の基本は、悪と対決す
ること。チャンバラは、見せ場を作るが、色模様は、ない(ここ
は、亡くなってしまったが、かつての時代小説の雄、峰隆一郎と
は、際立って違う作風である。峰は、チャンバラと性愛場面のふ
たつを売り物にしていた)。主人公は、主に、浪人や下士で、経
済的には、つましく、やりくりしている。子供を含めて、江戸の
庶民との人情噺の味わいを持つ。

このような、ほぼ共通した構造のうちに、細部を光らせながら、
それぞれの物語が進行する。こうした結構が、多数のシリーズも
のの書き下ろし時代小説量産の秘訣になっているようだ。
- 2006年2月18日(土) 15:07:01
2・XX  草森紳一「本が崩れる」。草森は、一度だけ逢った
ことがある。知人の紹介で逢い、いっしょにお茶を呑んだという
だけの関係だが・・・。草森は、こだわりの人である。本の山に
囲まれ、ちょっとした拍子に本が崩れて来る。本の蒐集家ではあ
るが、愛書家では無いという。調べものをして、ものを書く「も
の書き」ゆえ、ものを書くために必要な本を買い漁り、読みあさ
り、積みあさる。従って、テーマごとに本が横積みされ、山々を
なす。本の山々の、隙間のようなところに据えられた机と座る場
所が、仕事場である。廊下といい、トイレ、風呂場の前といい、
空間には、本の山々が築かれる。本の山々は、ときどき、崩れ
る。風呂に入っていて、風呂のドアの外の本の山が崩れ、草森
は、風呂のドアを開けることが出来なくなり、悪戦苦闘した経験
を持つ。崩れても、崩れても、本の山を築き続ける。煙草は、両
切りのピース一本槍(1日60本喫煙。つまり、3箱)、子供の
ころは、野球少年だった。だから、いまもこだわり老人である。
しかし、草森の精神は、意気軒高。

併載されたほかの作品に、平田篤胤を訪ねて、秋田へ行く話が
載っている。平田篤胤は、秋田出身、江戸期の国学者、神道学者
で、「平田学」という系統を確立した。戦時中は、皇国史観に結
び付けて、利用された。篤胤は、1796(寛政7)年、20歳
で江戸に出奔した当初は、「五代目市川團十郎のもとへ弟子入り
したという伝聞もある」と草森が書いている。草森は、博聞強識
(はくぶんきょうし)の人だから、なにか、文献で読んだのだろ
う。
- 2006年2月18日(土) 13:12:51
2・XX  重松清「その日のまえに」は、家族の死を迎える物
語。連作短編7作品。「その日」とは、家族が死ぬ日のことであ
る。「その日のまえに」「その日」「その日のあとで」という妻
を亡くす話の3作品を軸に、子供のころ嫌いな同級生を亡くした
女性看護士。癌の告知を受けて、少年時代に2年間だけ過ごした
街を再訪する中年男は、同級生だった商店主との出逢い、海で溺
れた同級生のことを思う。癌告知された母親と一人息子の物語な
ど、巧みにからみ合う。親しい者を亡くす「その日」のまえとあ
との物語は、誰にでもある物語であるが、誰しもが、「その日」
が身近に迫ってこない限り、普段は、忘れている。重松の優しい
視点が、物語の奥行きを深くしている。
- 2006年2月18日(土) 13:11:23
2・XX  直木賞の次は、芥川賞というわけで・・・。今期芥
川賞受賞作家の絲山秋子の受賞作品は、未刊なので、「逃亡くそ
たわけ」を読む。新人ながら、短編作品で、若手では異例の川端
康成賞を受賞した絲山の初めての書き下ろし長編作品である。福
岡にある精神病院から脱走した男女ふたりの患者が、レンタカー
に乗って「逃亡」する。「誰も知らないところに行かなくちゃい
けない。今すぐ。今すぐ」。で、福岡から大分を通り、熊本、宮
崎、鹿児島へと逃避行。映画のように格好よくは無いし、美男美
女でも無いし、まあ、それなりに波瀾はあるものの、日常的なエ
ピソードの類い。指宿に着いてしまえば、「帰るか」となり、
「くそたわけっ」と叫んで、おしまい。短編作品ほど、おもしろ
く無い。この人は、短編で、カメラのシャッターを切るように、
一瞬を切り取ったような作品に優れたものがある。「海の仙人」
という作品も読みかけているし、いずれ、受賞作品の「沖で待
つ」も読んでみるので、その上で、また、書評を書こう。
- 2006年2月18日(土) 11:37:54
2・XX  東野圭吾「容疑者Xの献身」、恒川光太郎「夜市」、
伊坂幸太郎「死神の精度」。今期直木賞候補作品を3冊まとめ
て、読む。

直木賞を受賞した東野圭吾「容疑者Xの献身」は、ちょっとしたは
ずみで別れた駄目男に付きまとわれた母娘が犯してしまった殺人
をアパート隣室に住む数学者が、毋娘のうち、母に当たる女性へ
の観念的なまでの純愛ゆえに、かばい、完全犯罪を目論むが、大
学の同窓生の物理学者が、完全犯罪を阻止するという物語。数式
という観念を推理小説で構築したストーリーテーラーの力業の作
品。ある意味では、いま流行りの純愛小説でもある。

恒川光太郎「夜市」は、日本ホラー小説大賞受賞作品。「夜市」
という不可思議な魔界に紛れ込む。妖怪たちの不思議な市場は、
死者たちの王国。昔、弟といっしょに、ここに紛れ込み、幼い弟
を犠牲にして野球の才能を買ったという青年は、同級生の女友だ
ちを連れて、弟を買い戻そうと久し振りに夜市へ紛れ込んだ。ユ
ニークな世界を構築し、それのリアリティを支えるような端正な
文体で、おもしろく読んだ。

伊坂幸太郎「死神の精度」は、死に神を主人公にした連作短編6
作品。アイディアと力業で、作品の世界を構築しているが、無理
があり、直木賞受賞は逸したが、むべなるかな。伊坂は、このと
ころ、毎回のように直木賞候補に上がるが、受賞への意欲が勝ち
過ぎた力業が目立つ。力があるだけに、達者なんだが、それが鼻
に付く。自然体で、作品をまとめないと、受賞は難しいと思う。
- 2006年2月18日(土) 11:10:46
2・XX  坂崎重盛「『秘めごと』礼讃」、鴨下信一「面白す
ぎる日記たち」は、桜庭一樹「ブルースカイ」、綿矢りさ「イン
ストール」の若手の作品と違って、大人たちの世界の奥深さを再
確認させる作品。街角探検家、散歩の名人である坂崎重盛は、
「秘め事」探検家でもあった。街角は、誰の眼にも公平に解放さ
れているが、「秘め事」は、誰の眼にも触れないように隠されて
いる。しかし、だからといって、公平に解放されている街角の魅
力が、誰にでも、公平に味わえるかと言うとそうはいかない。そ
れは、坂崎の眼には、魅力的に写るけれど、普通の人の眼には、
平凡にしか見えないということが、往々としてあるだろう。それ
が、名人の謂れだ。坂崎の言う「秘め事」も、実は、刊行されて
いる諸作品を「だし」に論じられている。例えば、谷崎潤一郎の
「秘密」という作品の隠れ家、女装趣味、永井荷風の「妾宅」と
いう作品の、本宅・妾宅の二重生活。「墨(サンズイあり)東綺
譚」の変装行動。江戸川乱歩の「放浪記」の失踪、お忍び、変
装、秘め事などの趣味。つげ義春「退屈な部屋」の大人と子供の
二重性。大人の「秘め事」と子供の「ごっこ」の類似性。吉行淳
之介の「暗室」という作品に描かれた28年間の浮気生活、二重
生活。吉行の死後、「妾宅」側の逆襲。大塚英子の「『暗室』の
なかで」「『暗室』日記」という、暴露(これは、鴨下信一「面
白すぎる日記たち」にも、取り上げられている)。「日記」で
は、吉行との性交の記録まで、記載されている。石川啄木の
「ローマ字日記」も、性行為の記録が掲載されているし、啄木の
心の「秘め事」をローマ字で韜晦させながら、記述されている
(いま、読んでいる矢作俊彦「悲劇週間」に登場する石川啄木
は、かなり、嫌味な人間として、描かれているが、こちらは、堀
口大学の物語。「ローマ字日記」のイメージは、「悲劇週間」の
イメージとマッチするかも知れない。読了後、いずれ、「乱読物
狂」にも登場するだろう)。

「ふさ子さん!ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか」
は、歌人の斎藤茂吉の手紙。初老の田舎紳士然とした精神病院の
院長は、27歳年下の美貌の女弟子との性愛に狂った。ほか、
「老いらくの恋」という流行語を作った歌人の川田順。徳田秋声
の「仮想人物」という作品。30歳年下の小説家志望の女性との
痴情関係などなど。

街角も探検、作家方の秘め事も探検。大人の探検学の面目躍如の
名著である。

鴨下信一「面白すぎる日記たち」は、坂崎重盛のタネ本になった
嫌いもあるが、サブタイトルは、「逆説的日本語読本」。昭和の
政治史の裏を支えた記録の原田熊雄の「西園寺公と政局」から
「声色」(声帯模写、ものまね)の「古川ロッパ日記」、樋口一
葉、石川啄木、永井荷風、岡本綺堂、徳富蘆花の日記、先ほどの
大塚英子の日記、ホリエモンの先駆者のような「光クラブ事件」
の山崎晃嗣の日記など、硬軟取り混ぜたさまざまな日記が描き出
す摩訶不思議な人間関係が、浮かび上がって来る。
- 2006年2月18日(土) 10:51:51
2・XX  桜庭一樹「ブルースカイ」、綿矢りさ「インストー
ル」など、若手の作品を読む。 桜庭一樹「ブルースカイ」は、
コンピュータゲームなど(と、言っても、やったことが無いの
で、イメージだが)の原作のような作品。まあ、一応最後まで読
み通したが・・・。

3部構成で、最初が、1627年のドイツ、魔女狩りの時代、
10歳の少女の物語。第2部が、2022年のシンガポール。3D
アーティストの青年が、バーチャルななかで、少女と出逢うとい
う物語。西暦で判るように近未来が舞台。第3部が、2007年
の日本。これも極近未来。タイムスリップする少女たちの物語。

綿矢りさ「インストール」は、文芸賞受賞作と近作の「You 
can keep it.」を併載した文庫版を読む。高校生活
からドロップアウトした女子高生とコンピュータに強い小学生が
「風俗」のチャットで人妻に成り済まして、アルバイトをする
話。現代的、若者向けのテーマで、軽いテンポの文体で人気を呼
んだ作品。新しい作家の新しい作品というイメージ通りの清新さ
がある。しかし、本質的には、17歳の女性のリアリティを作品
のなかに定着させたことだろう。きちっと、独自の世界を構築し
ていた。だから、「蹴りたい背中」(すでに、「乱読物狂」で書
評済み)で、芥川賞も受賞した。
- 2006年2月18日(土) 10:49:23
2・XX  諸田玲子「天女湯 おれん」を読む。23歳の美
女・おれんが経営する八丁堀北島町の湯屋「天女湯」を舞台に江
戸の下町人情噺が展開する。諸田の作品を読むのは、初めて。天
女湯は、湯屋という表の商売と併行して隠し部屋を持ち、ここで
は、売春が行われている。おれんの反骨精神が、八丁堀の同心た
ちが住む街中にありながら、裏稼業を営ませている。いわば、ラ
ブホテル経営でもある。湯屋で働く裏方たちも、元犯罪者など一
癖もふた癖もある前歴者たちだ。こういう人たちを主軸にしなが
ら、辻斬り、貧しさゆえに床の間稼ぎをする夫婦、お家騒動で命
を張って逃げ回りながら、起死回生を狙っている浪人などが絡ん
で来る。濡れ場あり、殺し場ありと、エンターテイメント作品と
してサービス精神溢れる作風。

私にとっては、そういうサービスより、「天女湯」の裏方の一人
の弥助に注目した。というのは、弥助は、湯屋の下働きをしなが
ら、女性客を籠絡する色事師として、濡れ場要員なのだが、実
は、歌舞伎役者崩れ。それだけに、なにかというと歌舞伎の科白
が口に出る。出て来た科白の外題を列挙してみると、気が付いた
だけでも以下の通り。

「法界坊」「近頃河原達引」「青砥稿花紅彩画」「桜姫東文章」
「夏祭浪花鑑」「於染久松色読販」など。諸田玲子は、かなりの
歌舞伎好きと見たので、ほかの作品も、読んでみたくなったとい
う、次第。
- 2006年2月3日(金) 21:05:26
1・XX  大西巨人「縮図・インコ道理教」は、難解なタイト
ルだ。本来は、『「皇国」の縮図・インコ道理教』であったが、
あまりに説明的ということで、変えたんだという。「皇国」、す
なわち天皇制国家とインコ道理教は、「いずれも宗教団体・無差
別大量殺人組織であり、前者の頭首は、天皇にほかならず、後者
の頭首は、深山秘陰にほかならぬ」とある。「宗教団体インコ道
理教は、『皇国』日本の縮図である」というテーマと宗教団体イ
ンコ道理教にたいする国家権力の出方を、人が、〈近親憎悪〉な
る言葉で理会する」というテーマが、彼此照応すると、大西は、
強調する。隠されたテーマは、憲法問題であり、日本国憲法は、
「自前」である。その証左として、「五日市憲法草案」が、引き
合いに出されて来る。

「インコ道理教」のメンバーが、1995年3月20日午前8時
頃、地下鉄の3路線、5台の車内で、ナイロンポリ袋入りの有毒
ガス源を床に置き、傘の尖らせた尻で突き刺して有毒ガスを発散
させ、乗客14人を殺害し、乗客6千数百人に重傷を負わせたと
いう記述があるから、「インコ道理教」とは、かの「オウム真理
教」をモデルにしていることは、すぐに判る。

キーワードを語るのは、ふたりいる。ひとりは、荒物屋を開店し
た頃の樋口一葉で、彼女が自嘲した「糊口的文学」論争が、展開
され、明治生命専務であり、作家の水上瀧太郎の「樹齢」が、槍
玉に上がる。また、もうひとりは、高校教師の教え子Xの父親Y
の父Zである。Zは、1919年生まれで、百姓から召集され、
5年間軍隊生活を送り、敗戦後、帰国し、小さな雑貨屋を営んで
来た。戦争中、大臣や軍幹部になったのは、「一流上級学校の秀
才出身」で、「あの大東亜戦争という無茶苦茶をした組織(皇
国)の是認者・安住者であったではないか」という「考えという
か感想」が、披瀝される。こういう仕掛けの元に、大西巨人独特
の文体、引用で、外堀も、内堀も埋められて、テーマが、浮き上
がって来る。

さらに、「インコ」と「オウム」は、鸚哥と鸚鵡という、同科、
同類の鳥であり、「インコ」は、「陰壷(いんこ)」=「女陰」
であるという落ちが出て来る。
- 2006年1月26日(木) 21:54:27
1・XX  森達也・森巣博「ご臨終メディア」は、タイトル
が、良く判らないのが、難点。ただし、サブタイトルは、良く判
る。「質問をしないマスコミと一人で考えない日本人」。長らく
マスコミの最前線で記者活動をしていた身には、いまの取材人、
つまり、私の後輩たちの「体たらくぶり」は、私も10年以上
も、テレビの報道局のニュースデスクとして、後身を指導した身
としては、自責の念も含めて痛切に思うことだから、頷かざるを
得ない部分が多々あった。つまり、「質問をしないマスコミ」と
は、相手の言動に、疑問に思わずに、相手側、特に、権力や権威
のある取材相手に「圧倒されている」、あるいは、「巻かれてい
る」状態のマスコミの現況を批判する表現である。
また、「一人で考えない日本人」とは、大勢に与するばかりで、
一人で独自の視点を持たない戦時中の大政翼賛会的な言動を繰り
返す日本人のありようを批判している。

権力者がマスコミを操作し、マスコミが引っ張る情報が、世論を
形成し、その世論に、また、マスコミがおもねる。そういう、相
互補完的なマスコミと世論の関係を揶揄している。マスコミは、
世論を反映しているというポーズを取り、世論は、マスコミに踊
らされる。つまり、マスコミも世論も、もたれあい、責任を放棄
しあい、戦争中の日本陸軍同様に、政治学者の丸山真男の表現を
真似れば、「無責任の移譲」を相互にしている内に、だれも、責
任を取らずに、標的を叩くだけという、いまのマスコミの現状
が、浮き彫りにされて来る。マスコミの機能不全が、えぐり出さ
れる。日本のジャーナリズムは、いま、音を立てて毀れている。
それは、国民の知る権利をマスコミ自らが、捨てようとしている
図にほかならない。

ただ、ふたりが、情動と論理を対立させて、論じているのは、解
せなかった。情理という論理に裏打ちされた情は、情動には、与
せずとも、論理とは、共存するだろうと思うが、いかがであろう
か。論理は、角が立つことがあるが、情理は、しなやかに曲がり
くねり、逞しく生き続けるだろう。そこに、希望を見い出さない
限り、絶望的になる。絶望とは、持続する意欲を諦めたときに始
まる。諦めない限り、絶望は、近寄って来ない。森巣の次の言葉
が、印象的だった。「希望が絶望に変わるのは諦めたときなんで
す。諦めちゃいけない。絶望に陥ってはいけないのです。やれる
ところから、変えていきましょう」。これは、森巣の「博奕体
験」から出た至言だそうな。
- 2006年1月5日(木) 22:21:36
1・XX  高嶋哲夫の「M8(エムエイト)」と
「TSUNAMI」は、地震2部作。「M8(エムエイト)」と
は、マグニチュード8、気象庁の定める震度では、最悪の7とい
う想定。「TSUNAMI」は、「M8(エムエイト)」の続編
で、2005年12月の東京直下型の地震に継ぎ、数年後、東海
地震が、東南海地震、南海地震と同時に日本列島を襲うという想
定で、再構築されている。コンピュータ・シミュレーションで、
東京直下型の地震の発生を予知した瀬戸口誠治が、両作品とも主
軸になっている。小説の形を取りながら、地震、津波への警鐘を
鳴らす。

神戸で、1995年1月17日に、大震災を体験した高嶋哲夫。
日本原子力研究所の研究員を経て、作家になり、原発事故、原発
テロなど科学的な視点も入れて、作品を書いて来た。年末年始の
休みを利用して、両作品を一気に読んだ。
- 2006年1月3日(火) 11:14:57
1・XX  新年、最初の書評は、孤高の作家・丸山健二の
「花々の指紋」を取り上げる。

作家生活40年を過ぎた丸山健二。文壇と無縁の場所で、長編小
説を紡ぎ続けている。「花々の指紋」は、小説では無い。どちら
かというとエッセイだが、普通のエッセイでも無い。花々の写真
集とエッセイと箴言。丸山の家の庭に四季咲き乱れる花々は、丸
山自身が作庭している。花々の写真も、丸山自身が、撮影してい
る。

花が、くっきりとクローズアップされて写真に定着させられてい
る。

「人間の前に佇むような花ではない。くるりと背中を向ける花で
はない」

花は、女性器だ。見せびらかすものではないとしても、隠すもの
でもない。だが、人間を魅惑する。特に、男を誘惑する。だか
ら、丸山は、

「魂を失う危険に満ちた庭を離れ、書斎に籠る」のである。

私も、書斎と庭を持っているが、書斎も庭も、まだ、未完成。豊
饒な時間を享受できないまま、日々を過ごしている。だが、いず
れ、書斎で、物を書き、庭を、さまざま花で埋めたいと思ってい
る。

「庭作りにおいて重要なのは、さまざまな植物を混生させること
だ」と、丸山は、言う。庭にさまざまな植物を混生させながら、
書斎にも、さまざまな世界を混生させたいと思う。

「生きつづけるのはもうたくさんだ。そう言いながらも、いつし
か九十歳を超え、百歳の大台に迫ろうというような、そんな老人
になりたいと思う」と、丸山は、呟く。私は、90歳は超えたく
は無いが、80歳ぐらいまでは、庭仕事ができるような身体を維
持したいと思う。

「独りぼっちの花に限って、凱歌を奏して闊歩しているように見
える」

遅れて来た新人は、間もなく、自由の天地に飛び込む。残され
た、限られた時間を、書斎で物が書き続けられるような健康を維
持したいと思う。

「花に集まる昆虫たちの羽音は、隠語の響き。猥雑で、喧しく
て、とても溌溂としている」

それは、性の饗宴のように、淫らで、猥雑で、煌めいている。陽
射しの下、白い花は、悠然と裸体を晒す。

だが、「花にも老いがある」「美がまさに崩れ去ろうとしている
ときにも、それなりの美があって然るべきだとは思う」

老いの花は、枯れはじめ、形が崩れ、醜いかも知れない。しか
し、枯れた花を美しいと思う人間が、居ないとは、誰も断言でき
ない。

「主亡き後、この庭はどうなってしまうのだろう」「一代限りで
終ってゆく庭だからこそだ」

主亡き庭は、ただただ、自然にかえるだろう。書斎も、書庫も、
自然にかえるであろう。土にかえった、庭は、家は、書斎は、書
庫は、書物は、なにも、言わない。残るものは、残るし、消える
ものは、消えるのみ。
- 2006年1月1日(日) 10:46:01
12・XX  年の瀬も、大晦。パート2。以下のような本を読
みながら、これらの本については、数カ月も、書評を書かずにい
た。新しく読んだ書物の方を、優先させたまま、時が過ぎた。だ
が、もはや、大晦。

石田衣良、伊坂幸太郎、市川拓司、中田永一、中村航、本多孝好
「I love you」という現代感覚を売り物にしている若
い作家たちの競作短編集を読んでいた。恋愛小説を若手の作家6
人が、競い合う。この本、意外と、売れていたのだ。この「乱読
物狂」で以前に紹介した石持浅海の本は、「扉は閉めたまま」と
いうタイトルだった。状況を作り過ぎているので、私は、評価し
なかったのだが、先に触れたように、売れている。この「I 
love you」も、同じ。内容が素晴しい、というより、恋
愛もの、純愛ものが、若い人たちから中年の女性にもてはやされ
た年だったのだろう。

ここに競作している作家のなかでは、石田衣良、伊坂幸太郎、中
村航、本多孝好などを比較的読んだほうだろう。読んでいなが
ら、「乱読物狂」に書評を書き留めていなかったのが、石田衣良
「東京DOOL」と「反自殺クラブ」であった。「反自殺クラ
ブ」は、「池袋ウエストゲートパーク」シリーズの第5弾。集団
自殺をインターネットで呼び掛ける男、風俗嬢をスカウトする事
務所で起きた集団レイプ事件、中国にある玩具工場で過労死した
姉の仇を取るため、工場の実態を訴えるキャッチガールなど、い
かにも、風俗の最先端に素材を求め続けているという石田の姿勢
が伺える作品集。「東京DOOL」は、天才ゲームクリエーター
の物語。その天才が、人形のような美少女に恋をした。これも、
恋愛小説。東京湾岸、人形、恋愛。いま、流行りの恋愛小説は、
きなくさくなるばかりの世相を隠蔽する曇った鏡ではないか。お
い、2006年も、こんな本ばかり出していていいのだろうか、
日本の出版界は。

こういう時に、日本ペンクラブの「電子文藝館」委員会の委員か
ら提案されていた岡本清一論文「ブルジョア・デモクラシーの憲
法と自由および暴力」「現代アメリカ的自由の限界」を読むと、
そういう出版界の現況が余計浮き彫りになって見えて来るから不
思議だ。2001年に亡くなった岡本清一が、半世紀前の
1953年に中央公論に発表した論説と岩波新著「自由の問題」
の抜萃だが、いまの日本の「改憲前夜」状況に警鐘を鳴らすほ
か、イラク戦争でのアメリカの単独行動主義の破綻、孤立の状況
を予見する、といった極めてアップツーデイトな論文であると、
思う。出版社の編集者は、学者、評論家、作家とともに、時代と
いう地に脚を付けながら、そういう時代を超越する言説を残して
欲しいと、思いながら、05年の掉尾を飾る書評の筆を置こう。
新年は、元日から、書評を書き込む。
- 2005年12月31日(土) 16:20:16
12・XX  年の瀬も、大晦(おおつごもり)。逃げ場が無く
なった。05年の退路は無い。以下のような本を読みながら、こ
れらの本については、数カ月も、書評を書かずにいた。新しく読
んだ書物の方を、優先させたまま、時が過ぎた。だが、もはや、
大晦。

掠れた記憶を思い出しながら、本の山を突き崩す。「花まんま」
で直木賞を受賞した朱川湊人の「白い部屋で月の歌を」は、直木
賞を取る前に刊行された文庫本で、売れ残っていた本。06年1
月は、歌舞伎座で、中村鴈治郎、改め、四代目坂田藤十郎の襲名
披露の舞台がある。私は、3日の日に観に行くことにしている。
初代坂田藤十郎は、上方歌舞伎の和事の開祖だが、二代目、三代
目と後継者に恵まれず、200年以上も前に、名前のみの存在に
なってしまった。和事の藝は、連綿と引き継がれ、今日まで残さ
れて来たが、大名跡は、大名跡過ぎて、継ぎ手がいなくなってい
た。中村鴈治郎は、明治初期に現れた比較的新しい名前で、今
回、四代目坂田藤十郎を襲名する三代目鴈治郎は、現在の上方歌
舞伎の顔という意識が強く、坂田藤十郎襲名にこだわった。鴈治
郎は、同じ四代目ながら、いずれ、扇雀に鴈治郎を継がせる代り
に、自分は、藤十郎を引き継いだ。歌舞伎役者は、襲名披露で大
きな名前を継いだことを世間に広めると藝が大きくなる。鴈治郎
と若い作家の比較は、詮無いことだが、やはり、若い作家も大き
な賞を取ると作品が変わるということが、「白い部屋で月の歌
を」を読むと、良く判る。

蜂巣敦「実話 怪奇譚」と村上春樹「東京奇譚集」は、「怪奇
譚」と「奇譚集」というようにタイトルが似ているだけで、関係
ないけれど、たまたま、同じ時期に読んだので、書評も同じ時期
に掲載する。蜂巣敦「実話 怪奇譚」は、朱川湊人の「花まん
ま」が、都市伝説を小説化した作品で、それとの連想で、文庫版
オリジナルで刊行されたのが、書店の店頭にあったので、購入し
て読んだという次第。実際の事件現場を訪れたり、都市伝説の舞
台を訪れたり、近親相姦、カニバリズムなど、タブーにこだわっ
たり、B級映画を見に行ったり、正常と異常のあわいを彷徨い、
拾い集めた実話が満載。一方、村上の「東京奇譚集」は、「奇譚
集」とは、名ばかりで、不思議で、妖しいにも関わらず、どこに
でもありそうな話を例の村上節で、淡々と物語る。

鈴木光司「アイズ」は、本当にあった怖い話を取材し直し、再構
成し、小説化した。幽霊マンション、謎の深夜タクシーなど、過
去が、現在に繋がるホラーな世界。でも、考えてみれば、ローン
を4、5000万円背負って、新築のマンションを買って、新居
生活を満喫しはじめたと思ったら、耐震偽装とやらで、震度5強
くらいの地震に見舞われたら、「毀れます」、「住めません」、
「引っ越しなさい」、と、ある日、突然言われるほどの恐怖もな
いというものだ。

三崎亜記「バスジャック」は、ある日、バスに乗ったら、バス
ジャックされて、というよに、こちらも、平穏な日常生活に潜む
恐怖をえぐり出した7つの短編小説が並ぶ。

石持浅海「BG、あるいは死せるカイニス」は、読んだ後、いち
ばん長く放っておいたので、内容を忘れてしまった。でも、すで
に、この「乱読物狂」で書評を掲載しているけれど、石持の最近
作は、ことし刊行されたミステリー作品では、人気上位にランク
されている。人類は、全員、女性として生まれ、後に、一部が、
男性に転換するという、という想定で、人類の皮膚の薄皮を剥い
でみせるような作品だったと思う。

椎名誠「みるなの木」は、これも、けったいな発想で、紡ぎ出さ
れた14の奇怪、恐怖、滑稽、SF、官能、異態、超常的な作品
群。

05年は、振り返ってみると、「偽装」に明け暮れた年では無
かったか。それ以前から続いているアメリカの仕掛けたイラク戦
争は、独裁者・フセインが、否定したにも関わらず、アメリカの
独裁者・ブッシュは、大量破戒兵器をイラクが保持していると偽
装して戦争を始めていたし、日本の小泉も、ブッシュを支持し、
いまも支持し、偽装の片棒を担いでいる。郵政民営化が、唯一の
焦点と偽装し、解散総選挙で、大勝ちし、さらなる偽装の上塗り
を続けている。世界も、日本の政治も、偽装、偽装。姉歯某が、
大手設計会社、建設会社、不動産会社と結託し、官を騙し、民を
騙し、05年の偽装社会のシンボルになったが、20年近く前
の、息子の幼稚園の運動会の写真を見ると、私の隣に姉歯某が
写っているでは無いか。偽装は、いつしか、誰の身近にも迫って
いるのだ。偽装を見破れ。いや、世の中が、異態な所為か、変な
小説群が、偽装して、書店の店頭をすでに、跋扈していると思い
ませんか。06年は、いっそう偽装社会が、深化するだろう。偽
装という妖怪が、21世紀を彷徨している。
- 2005年12月31日(土) 14:47:30
12・XX  仙台在住の作家の作品を読んだ。熊谷達也「懐
郷」と伊坂幸太郎「砂漠」。

熊谷の方は、7つの短編作品集。日本の女性の戦後史をスケッチ
する。能登半島の海で鮑などを取る海女の話は、「磯笛の島」。
電気もない御蔵島での生活を諦めて都会に出る家族のうち、祖母
をテーマにした「オヨネン婆の島」。「お狐さま」は、狐憑きの
話だが、若い女性が、農家に居着く話とクロスオーバーさせる。
60年安保の反対デモに参加し、警察官に殴打されて脚が不自由
になった女性は、登山家の恋の話でもあるというのが、「銀嶺に
さよなら」。「鈍行列車の女」は、出稼ぎの夫を待切れず、鈍行
列車に乗り東京に出て来てしまった東北の農家の女性が、主人
公。「X橋にガール」は、先代駅前の北側にある高架橋「宮城野
橋」は、橋から東西に伸びた道が、どちらも二股に分かれて、
「たすきになっている」ので、通称X橋。戦後の一時期、この橋
に売春婦が、立っていた。米兵相手のパンパンガールである。
「鈍色の卵たち」は、やはり、戦後の一時期、「金の卵」ともて
はやされた中卒の集団就職の労働者たちを見送った中学校の女教
師の話。という具合に戦後の曲折に翻弄されながら、しなやかに
生きる女性たちの姿を活写する。

伊坂の方は、作者の大学時代の体験をベースにした長編青春小
説。「砂漠」というタイトルが、読後まで、馴染めなかったが、
社会という砂漠、オアシスという仲間たちとの大学生活というこ
とらしい。スプーンを曲げたり、物を動かしたりする女子学生、
麻雀、合コン、ミスコン、「大統領」を成敗する通り魔、空き巣
グループとの対峙などをちりばめているが、作品の出来は、い
ま、ひとつ。ただし、88年から91年までの3年間仙台で転勤
生活を過ごした身にとって、仙台の街の佇まいが、あちこちに出
て来るのは、懐かしい。熊谷の本のタイトルではないが、「懐か
しい郷」のひとつとして、仙台の街を思い出しながら、読んだ。
- 2005年12月30日(金) 17:14:18
12・XX  森達也「悪役レスラーは笑うー『卑劣なジャッ
プ』グレート東郷ー」を読む。岩波書店の刊行物で、初めてのプ
ロレスものというのが、ポイント。グレート東郷の出自の秘密を
追い掛けるというのが、目標。

元々、テレビのフリーのディレクターとして、テレビ番組化しよ
うとして失敗した。テレビ局は、どこも森の提案を受け付けてく
れなかった。活字の編集者が、眼を付けた。それも、岩波書店。
岩波書店でも、異色の刊行物となった。岩波のプロレスものとい
う、ミスマッチが受けそうな気がする。読みはじめたら、おもし
ろくて停まらない。早くも、3刷。この本の目的は、先に触れた
ように、グレート東郷という異色のプロレスラーの出自の秘密を
追い掛けることだが、この目標は、達成されたかというと、答え
は、否。達成されないまま終ってしまう。それでいて、おもしろ
いのだから、不思議だ。もう一つの目標は、プロレスとナショナ
リズムの関係。これも、充分には、解きほぐしていない。力道山
が、テレビでの試合中継を通じて、戦後の日本人の、対アメリカ
コンプレックスを解消する役割を果たしたのは、良く知られてい
るし、その力道山が、本人は、隠していたが、北朝鮮出身であっ
たことは、いまなら、多くの人が知っているだろう。グレート東
郷も、日系アメリカ人を売りにし、アメリカのプロレスでは、
「卑劣なジャップ」という役回りで、人気を取っていた。真珠湾
攻撃をした卑劣なジャップというイメージでプロレスの悪役とし
て売り出し、巨万の富を築いた。

力道山との関わりでも、ユニークな存在だった。尊大で自意識過
剰の力道山でさえ、グレート東郷には、敬語を使って、先輩実業
家として尊敬さえしていたという。その秘密を解く鍵が、グレー
ト東郷の出自にあるのではないかというのが、森の出発点。本書
では、グレート東郷は、親が熊本出身の日系アメリカ人という説
と中国人の母親を持つ中国系アメリカ人という説、韓国人という
説などが出てくるが、どれも特定できない。グレート東郷の本名
は、ジョージ・カズオ・オカムラ。死後も、巨万の富とともに、
家族も、行方不明になり、謎は、深まるばかり。

50歳前後から上の世代は、グレート東郷の出たプロレスのテレ
ビ中継番組(日本テレビ、三菱電機提供)を見ているだろうか
ら、グレート東郷が、アメリカのプロレスでは、「卑劣なジャッ
プ」だったにせよ、日本のプロレスでは、悪役なのに、力道山に
信頼されているという辺りを売りにしていたようで、ビジネスと
してのプロレスを考えた場合、グレート東郷のポジションは、悪
くはない。グレート東郷という、「卑劣なジャップ」で、決して
「ベビーフェイス(善玉)」という颯爽としたポジションではな
いが、日本人から見れば、敵方のアメリカに卑劣なことをする、
敵の敵は、味方ということで、「正義の助っ人」的な役回りにい
るのである。ユニークなレスラーの出自を探ることで、戦後の日
本のナショナリズムとは、また、一味違う、いまの時代の、キナ
臭い日本のナショナリズムをあぶり出そうとした森の問題意識
は、おもしろい。しかし、その試みは、尻切れとんぼで終ってし
まい、執筆の目的から見れば、失敗作が、本書なのだが、「失敗
作」ゆえの回り道が、事細かに書かれたことで、読み物としての
おもしろさを倍加したから不思議だ。失敗作ゆえに、おもしろい
読み物ができ上がったと言える。そういう逆説的なおもしろさ
が、この本にはある。これは、売れ筋の本になるだろうと、思
う。
- 2005年12月26日(月) 22:12:20
12・XX  黒川博行「暗礁」は、大阪の暴力団「二蝶会」
(「にちょうかい」、何やら、人形浄瑠璃・歌舞伎の「双蝶々曲
輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」の「双蝶々」を偲
ばせる粋な組名ではないか。「双蝶々曲輪日記」は、「仮名手本
忠臣蔵」など3大歌舞伎のヒットメーカーの竹田出雲、三好松
洛、並木千柳=後の、宗輔の合作。「忠臣蔵」の翌年の夏、初
演)の若頭補佐の桑原保彦と建設コンサルタントの二宮啓之のコ
ンビが活躍するやくざ者のシリーズ。第1作は、産業廃棄物で金
もうけをしようという「厄病神」、第2作は、詐欺師を追っかけ
て、北朝鮮まで行く「国境」に続く第3弾。

今回は、「奈良東西急便」という宅配便の会社と警察OBが絡ん
で、「闇のマル暴対策費」を誤魔化す輩の上前をはねようという
裏金争奪戦を展開する。エンターテインメント作品としてのス
トーリー展開のおもしろさもさることながら、コンビの大阪弁で
の打々発止のやりとりのおもしろさだけでも、引き込まれてしま
う。コミカルな大阪弁3部作は、読みごたえがある。
- 2005年12月25日(日) 22:08:10
12・XX  川本三郎「我もまた渚を枕」は、サブタイトルに
「東京近郊ひとり旅」とあるように、東京を起点に電車に乗り、
さらに場所によっては、バスを乗り継ぎしながら、船橋(千
葉)、鶴見(横浜)、大宮(埼玉)、本牧(横浜)、我孫子(千
葉)、市川(千葉)、小田原(神奈川)、銚子(千葉)、川崎、
横須賀、寿町・日ノ出町・黄金町(横浜)、千葉、岩槻(埼
玉)、藤沢・鵠沼(神奈川)、厚木・秦野(神奈川)、三崎(神
奈川)へと、「旅」に行く。

雑誌「東京人」に連載した「東京近郊泊まり歩き」というのが、
本の元になっている。千葉、埼玉、神奈川の3県にある町に出掛
け、気侭に歩き、1泊して帰って来る。本来なら、日帰りのコー
スを律儀に1泊2日でこなす。それぞれの地の駅前から、商店
街、港、寺、沼、ドヤ街などを歩き回る。表通りから、路地を
曲って、古い街並を見つけだす。銭湯があれば、一風呂浴びたり
もする。歩き回る先の、きっかけは、文学作品、映画の舞台に
なった地だったりするが、それにこだわるわけではない。居酒屋
があれば、立ち寄って、昼は、ビールか、ホッピー、夜は、ビー
ルか、日本酒。駅前のビジネスホテルか、土地の人に教えても
らった旅館に泊る。酒には、地元産のつまみなどがあれば、なお
良し。居酒屋の店主や客と喋りながら、気持ち良く酔う。朝は、
早起きをして、なぜか、朝食は、納豆定食が多い。まあ、納豆
は、良いよ(特に、私は、山梨県北杜市武川の「村の駅」で売っ
ている地元の手づくりの納豆が好き。去年は、大豆が台風の被害
にあい、小粒納豆が作れず、1年間待たされた。やっと、ことし
収穫の大豆で作った小粒納豆が店頭に出始めた。川本さん、今度
は、もうちょっと、遠出をして、静岡、山梨、群馬、栃木、茨城
にも、お出かけ下さい)。

要するに、観光地でもないところを歩き回り、土地の生活感を描
き出す旅である。庶民の日常生活を遠出の散歩感覚で覗き見して
いる。「風景のなかに身体を溶け込ませる」というスタイル。記
憶のなかの懐かしい、幻の町をあちこちで探し求めているのかも
知れない。タイトルは、島崎藤村の「椰子の実」の第2番「我も
また渚を枕、ひとり身の浮き寝の旅ぞ」から、取ったという。

文章に添えた写真が、各地の文章に付くが、これは、専門家が写
しているようだから、本当は、「ひとり旅」ではなく、カメラマ
ン、場合によったら、編集者も同行しているのかも知れないが、
文章を読む限り、そのような気配はない。と、思ったら、「あと
がき」で、仕掛けを暴露。案の定、別々に歩いているという。文
章を見てから、カメラマンは、歩いているのだろう。しかし、原
稿に書かれたのと同じ場所を見つけるのは、けっこう、難しいの
ではないか。「あとがき」の後に掲載された写真は、キャプショ
ンがない。どこかの川の土手に生えた1っ本の樹が写っている。
どこへ行っても、土手を歩いていると1本だけ生えている樹っ
て、あるんだよね。土手の外側には畑があり、その向うにモダン
な家があり、高い送電線の鉄塔が見える。どこにでもある場所。
それだけに、かえって、懐かしい。懐かしさ、というのは、どこ
にもあるような平凡さ(=普遍性に通じる)が必要なのかも知れ
ないね。埼玉、千葉、神奈川方面に行くときには、この本を持参
して、訪ね歩きたくなった。
- 2005年12月13日(火) 21:34:21
12・XX  時代小説を読む。井上靖「風林火山」は、
もちろん、再読。武田信玄の臣下、山本勘助の話。軍師山本勘助
は、かなり、伝説的な人物。井上のフィクションのなせる業だろ
うが、存在感のある人物として描かれている。これも、まあ、歴
史小説というより、時代小説だろう。昔読んだ本が、書庫の整理
をしていたら出て来たので、もう一度、読んでみた次第。新潮文
庫版で、昭和41年、15刷とある。定価110円。

福田定良「新選組の哲学」も中公文庫版。哲学者福田定良の自宅
近くに住んでいた大正4年生れの、「老人」で、ユニークな新選
組ファンの伊勢川正邦の夢の聞き書きというスタイルで、「新選
組の哲学」が、語られて行く。新選組を肴に、フィクションを論
理的な対話スタイルで、現代にも通用する生活哲学が再構築され
て行く。昭和61年、初版。

杉本章子「お狂言師歌吉うきよ暦」と「間諜」。「お狂言師歌吉
うきよ暦」は、寡作な作家・杉本章子の最新刊。「歌吉」は、駕
篭屋の娘・お吉のことだが、踊りの師匠・水木歌仙の弟子にな
り、歌吉という名前を貰う。歌仙率いるお狂言師一座に加えても
らうほどの腕前になる。お狂言師とは、大名家の奥向きにあがっ
て、狂言や踊りを披露する。そういうユニークな職業の若い娘を
主人公にした、いわば事件控え帳。杉本の時代小説は、細部まで
神経の行き届いた筆遣いに味わいがある。それに、歌舞伎に対す
る並々成らぬ知識が、さりげなくちりばめられているのも魅力で
ある。

「間諜」は、杉本作品で、唯一、読み落していたもので、中公文
庫版(上・下)を見つけたので、買い求めた。幕末期の芸者が、
恋人の薩摩藩士のために、らしゃめん(洋妾)になり、横浜の居
留地のイギリス公使館に潜り込み、清国人の召使頭を通じて、公
使の動向を探るのだが、結果的に清国人の召使頭に利用されて、
薩摩藩の動きを悟られるという、いわば、「二重スパイ」の役割
を負わされる様を描く。つまり、ここでいう「間諜」とは、そう
いう意味を持っている。

佐伯泰英「夏燕ノ道 居眠り磐音江戸双紙」と「変化 交代寄合
伊那衆異聞」のうち、「夏燕ノ道 居眠り磐音江戸双紙」は、文
庫書き下ろしの人気シリーズ居眠り磐音江戸双紙」の第14弾。
1776(安永5)年、十代将軍徳川家治が日光社参に向う。坂
崎磐音も今津屋の一行として、付き従う。一方、「変化 交代寄
合伊那衆異聞」は、新シリーズの始まり。安政地震発生で、旗本
座光寺家の江戸屋敷に信州伊那から駆け付けた本宮藤之助が、主
人公。放蕩者の当主殺しを決意する物語。文庫書き下ろしが、
ブームになっている時代小説の世界。佐伯は、何本もの書き下ろ
しシリーズを抱えながら、巧みに、書き分けて行く。それでい
て、それぞれの作品が、揺るぎなく展開されて行くから、素晴し
い。

佐藤雅美「浜町河岸の生神様」も、縮尻鏡三郎シリーズの第3
弾。御家人としての出世を棒に振った縮尻(しくじり)の拝郷鏡
三郎が主人公。最近の時代小説作家は、主人公の人物造型に腐心
している。いかに変わった主人公を造型するかで、シリーズ化す
るかしないか、編集者の評価が違って来る。拝郷鏡三郎も、元
は、評定所の御留役(地方裁判所の裁判官)だったが、それをし
くじり、いまは、大番屋の元締(家庭裁判所の所長か)になって
いる。市中のもめごとが持ち込まれ、生活相談に追われている。
従って、このシリーズは、縮尻鏡三郎の相談日誌のようなもの。
同時代のサラリーマン向けのメッセージが、ちりばめられてい
る。

吉村昭「彰義隊」は、官軍に抵抗した彰義隊の精神的な支柱とし
て、皇族ながら朝敵になった上野寛永寺山主の輪王寺宮能久親王
の生涯を描く。江戸を逃れ、奥羽の地に隠れ、京都に幽閉されな
どという、数奇な運命を経て、日清戦争で近衛師団長として兵を
引き連れて台湾に出征し、病死するまで、史実を探し出し、吉村
の筆致は、緩怠がない。力作の歴史小説である。

北原亞以子「夢のなか 慶次郎縁側日記」も、テレビドラマにも
なった人気シリーズ。「慶次郎縁側日記」の第9弾。隠居暮しの
慶次郎の周辺で起きる事件や人情噺の泣き笑い。細部の描写が貴
重である。

宇江佐真理「ひょうたん」は、単品。函館在住で、江戸の庶民の
生活を活写することで定評のある宇江佐の最新作。江戸本所森下
町の「鳳来堂」という古道具屋を営む音松とお鈴の夫婦の物語。
五間堀に面した古道具屋の店先で展開される人情噺。物語の展開
もさることながら、江戸の庶民の人情、街の風情、情趣が、こっ
てりと描かれている。

山本一力「かんじき飛脚」も、単品。山本は、時代小説を舞台に
しながら、現代のサラリーマンへの応援歌を歌い上げている。今
回は、冬の金沢から江戸へ藩命による大事なものを運ぶ飛脚集団
が主人公。雪の峠を越えなきゃならない。幕府のお庭番たちが、
刺客として邪魔をする。命をかけた峠越えが続く。

こうして観てくると、史実を探り、歴史書の隙間をうめるような
歴史小説もおもしろい。時代小説のスタイルを取りながら同時代
のサラリーマンへの連帯の挨拶を滲ませる時代小説もおもしろ
い。女性作家らしい細やかな描写で、江戸の人情を描く小説もお
もしろい。歌舞伎や浄瑠璃の知識をちりばめながら、独特の世界
を再構築する時代小説もおもしろい。バリエーションが豊かで、
読みやすいから、時代小説ブームは、まだまだ、当分続くだろ
う。
- 2005年12月11日(日) 17:14:34
12・XX  熊谷達也「虹色にランドスケープ」は、ツーリン
グ好きなバイクファンには、必読の書ではないか。仙台在住の作
家らしく、仙台の街並、四季をちりばめながら、バイクショップ
を経営する池山という中年男を軸に人間関係が展開する。

リストラにあい、家族の生活を守るために自殺志願の思いを胸に
秘めながら、北海道ツーリングに行った田端、蒲鉾加工会社の定
年間際で癌で死亡する岡崎とバイク好きの息子の眞也、田端と大
学の同窓で、雑貨輸入会社の社長の寺嶋と元社員の真帆、若い
頃、岡崎と不倫の関係にあったが、バイク事故で足を不自由に
し、いまは、ボクシングに燃えている淳子、田端の妻で、淳子と
学生時代の友人だが、恋人伸樹への誤解で、淳子、伸樹とも疎遠
になっている加奈子、伸樹と加奈子の再会、そして、ツーリング
から帰る途中、蜘蛛膜下出血で死亡する田端。

バイク仲間は、池山のバイクショップを通じて知り合っている
が、それは、田端、寺嶋、岡崎、淳子、伸樹など。ということ
で、それぞれが、主人公になりながら、バイクを軸に人間関係が
繋がって行く。いずれも、独立した短編小説で、結局、連作は、
7つ。全てに、サブタイトルとして、虹の7色が付いているとい
う趣向で、総合タイトルが、「虹色にランドスケープ」。いかに
も、バイクが好きという作家らしい好短編集ができあがった。

作品に登場するバイクも、一筋縄では行かない。74年型のカワ
サキ、通称Z2。ホンダCB750、ヤマハRZ250、ヤマハ
SR500、BMWGS、83年型のスズキカタナなど、バイク
ファンなら知っているであろう70年代、80年代の、初期型の
マシーンばかりが登場する。
- 2005年12月11日(日) 14:09:25
12・XX  池内紀「森の紳士録」は、山歩きの好きなドイツ
文学者が、実際に山道で出逢ったり、見聞きした24の動物や植
物たちを四季、昼夜に分けて、書いている。自然と語り合い、書
物と向き合うなかで、見聞きしたことを確かめる。その結果、こ
の本が生まれた。

「森の紳士たち」のなかには、ヒグマ、イノシシ、オオカミも含
まれるが、獰猛そうなイメージが強い彼らが、なぜ、紳士なの
か、それは、この本を読めば書いてある。いちばん紳士から遠い
生き物は、人間であるということも。
- 2005年12月11日(日) 13:12:52
12・XX  伐栗恵子「きものつれづれ ひと模様」は、産経
新聞大阪本社の記者が新聞連載した記事をまとめたもの。第6章
「能を彩る」は、歌舞伎、能が好きな人には、興味深い内容。
「最小限の演技で最大限の効果を狙う」という、「省略こそ、豊
饒」という、能の精神は、衣装にも生きているというのは、納得
できた。実は、著者の伐栗さんとは、彼女が新聞記者になる前
に、北海道の二風谷というアイヌコタンの民宿で同宿し、朝ご飯
を宿泊者の皆と一緒に食べ、札幌へ行くバスでも、一緒になり、
札幌までの何時間かを共有したというだけの仲である。

私は、そのころ、ある報道機関の札幌の北海道担当のニュースデ
スクをしていて、アイヌ問題を取材している記者とともに、二風
谷へ取材というか、私は、休みを利用して、アイヌ問題の勉強に
来ていたのだ。翌日も取材を続ける記者とは、朝ご飯の後、別れ
て、札幌に戻る途中であった。伐栗さんは、環境問題に関心のあ
る女子大生で、卒業を前に北海道に旅行に来ていた筈で、そのと
きには、新聞社に内定しているようなことは言っていなかったの
で、そういう話はせずに、北海道で働くマスコミ従事者と女子大
生という感じで、札幌に向うバスのなかで、隣り合わせたという
仲でしかなかった。93年の冬、あるは、早春であった。それな
のに、なぜか、あれから12年も過ぎたのに、岡山総局、大阪本
社整理部、京都総局、大阪本社文化部、そして、現在の社会部と
いうように、年賀状程度の情報だが、細々と繋がっていて、今
回、彼女が出した「きものつれづれ ひと模様」を送っていただ
き、遅ればせながら、書評を書いているというわけだ。以下は、
書評を兼ねた伐栗さんへの手紙である。

*ご著書戴きました。出版、おめでとう。興味深く拝読していま
す。まだ、全部を読んでいません。ごめんなさい。ただ、これま
で読んだところでは、京都の着物を取り上げるなら、西陣に生き
る「朝鮮の心」のような記述もあっても良いような気がしまし
た。斜め読みなので、見落していたら、ごめんなさい。西陣織り
には、朝鮮人の心も折り込まれているはずです。沖縄も、欲しい
ですね。

さて、「江戸小紋」は、江戸でいえば、伊勢型紙に熊谷(埼玉
県)の染めなんですね。江戸小紋に限らず、江戸文化を江戸の職
人とともに支えていたのが、武州(埼玉県)各地の職人なので
す。歌舞伎の舞台に今も生きる小道具は、結構、埼玉県で作られ
ているんですね。織物、半纏、簪、刀、桐箪笥、畳、そういえ
ば、土俵の俵も、そうでした。

あなたの本に、人形浄瑠璃(文楽)の吉田文雀さんが、出て来
て、嬉しかった。それにしても、人形遣の人たちは、文雀、玉
男、簑助など、皆、立派な顔をしていますが、藝が、顔を作るの
でしょうね。いつも、感心しながら、見ています。

落語の米朝、春団治も、嬉しいですね。上方落語協会が、島之内
教会で開いた「島之内寄席」が、懐かしいです。もう、30年以
上も前のことです。大阪には、まだ、落語の定席は、ないんで
しょう?。米朝は、全国向けに薄味になっていますが、春団治上
方ローカルの旨味が濃いですから、好きですね。ことし、亡く
なった、文枝が、良かったですね。あの、泥臭さが、大好きでし
た。そういえば、露乃五郎が、五郎兵衛を襲名したんですよね。
以前に亡くなった枝雀は、前名の小米時代からのファンでした
し、交通事故で亡くなった小染も、好きでした。

さて、もうひとつ残念なのが、アイヌ紋様が紹介されていなかっ
たこと。歌舞伎の「水辺もの」では、アイヌ紋様の厚司が良く出
て来ます。人形浄瑠璃、落語が出てくるなら、歌舞伎に引っ掛け
て、アイヌ紋様も出せば良かったと思います。それなら、あなた
も、懐かしの二風谷へ出張できたのに。「義経千本桜」の「大物
浦」(兵庫県)や、「十六夜清心」など、アイヌ紋様の厚司が出
て来ます。まあ、続編で、やってください。沖縄、北海道の登場
を愉しみにしています。

鶴見和子さんの「はしがき」は、良いですね。生活のなかで、活
用されながら、長く使われて行く普段着は、命が輝きます。あな
たが、着物、特に、普段着に目を付けたのは、炯眼ですね。鶴見
さんの言うとおりです。最近、歌舞伎座は、若い女性の姿が目立
つようになりましたし、着物姿の若い女性も増えました。年配の
女性の着物姿は、以前から、目立ちましたが。是非、普段着の着
物図鑑のようなものは、読んでみたいですね。谷崎潤一郎の陰影
礼讃ならぬ、伐栗恵子の普段着礼讃。私も、愉しみにしていま
す。では、また、逢いましょう。
- 2005年12月10日(土) 21:38:59
12・XX  12月、最初の書評は、重い大作の紹介から始ま
る。高村薫「新リア王(上・下)」は、上巻が、400ページ、
下巻が、500ページ近い大著であり、宗教と政治というテーマ
を、青森の政治家一族の父と子の対話という形で描く意欲作であ
る。社会派のミステリー作家として、実力を発揮して来た高村
は、「晴子情歌(上・下)」という、同じく大著で、北洋漁船に
乗る青年福澤彰之とその母・晴子の物語を母から届いた、自分の
半生を告白する長大な手紙の数々という凝った展開で構築した。
ミステリーからの脱却。高村薫の作家として、大胆な変身が始
まった。

その青年・福澤彰之のその10年後の物語が、「新リア王(上・
下)」というわけだ。「晴子情歌(上・下)」が、息子と母の物
語なら、「新リア王(上・下)」は、息子と父の物語である。
「晴子情歌(上・下)」が、手紙にこだわった小説なら、「新リ
ア王(上・下)」は、対話にこだわった小説である。

時は、1987年。青森県津軽半島の日本海側に面した筒木坂
(どうきざか)の貧相な草庵である。ここに禅宗の僧侶になった
福澤彰之が、一人で住んでいる。青年の父親で、自民党の代議
士、大臣も経験した福澤榮が訪ねて来る。福澤彰之は、榮が正妻
ではない晴子との間に生ませた男である。自民党青森県会長とし
て、政治家の「王」でもあり、一族の「王」でもある福澤榮は、
シェークスピアが描く「リア王」同様に子供たちに追い抜かれ、
「王」の立場から転げ落ちて行く。姪の夫で榮の秘書で、金庫番
だった男の逮捕とその後の自殺、長男で官僚から参議院議員に
なった優の裏切り(県連会長の意に反して青森県知事選に立候補
し当選する)、非行に走った息子(栄にとっては孫に当たる)と
の葛藤に苦しみながら草庵で一人生活をする禅宗の僧侶・彰之。
地方の名望政治家一族に忍び寄る影。崩壊する福澤家の物語。

田中角栄、竹下登らの自民党政治家が、多数実名で登場し、むつ
小河原湖開発問題、原子力船「むつ」の母港化の問題、六ヶ所村
の核燃料サイクル施設など、地域開発のために、日本の厄介なエ
ネルギー問題のしりぬぐい施設を誘致する政治家たちの生々しい
姿が、活写される。1987年の青森県知事選挙で、現職のの重
森幸七知事(79年〜87年)を破って、新しい知事になる長男
の優を軸にして中央と地方の保守政治家の群像が描かれる。恰
も、ノンフィクションのような迫力で、それらの事象が活写され
る。しかし、私たちは、自民党代議士・福澤榮も知らなければ青
森県知事・福澤優も、勿論知らない。架空の人物たちだからだ。
だが、それが、田中角栄や竹下登と会話を交わしている場面など
を読むと、福澤榮も福澤優も、実在の人物であるかのような錯覚
を覚える。それほどの迫力で、彼らは、私たち読者に迫って来
る。

大著の所為か、「新リア王(上・下)」の書評は、まだ、余り出
ていない。長大な大作を書き上げた高村薫のインタビュー記事を
見掛けたぐらいでしかない。親子の葛藤、政治と宗教、対話劇な
ど重厚で長大な作品は、高村が、チャレンジした文学的な仕掛け
が、随所に隠されている。それを読み解きながら、読み進むとい
う快楽が、この大作では、楽しめる。そのうちの一つの「仕掛
け」の解明を私も探ってみた。以下は、私の推論である。

その秘密を解く鍵は、主人公の榮と彰之よりも、父親を裏切り青
森県知事選に立候補し、当選した長男の優にあるのではないかと
思い、試しに、優に光を当ててみたというわけだ。まず、ここで
描かれる1987年の青森県。実際の知事は、北村正哉であり、
彼は、1979年2月から1995年2月までの16年間、4期
の任期を勤める。つまり、1987年2月に知事が現職から新人
に替るというのは、高村の作り上げたフィクションである。

実は、私は、88年〜91年までの3年間、仙台で報道機関のの
ニュースデスクを勤めていて、91年の青森県知事選挙当時は、
東北地区の選挙デスクとして、雪の青森に何度も足を運んだ経験
がある。梅雨のように、しとしとという感じで、霏々と、空から
際限なく落ち続ける雪片。静かな街。真っ白い世界。粛々と過ぎ
る日々。細かなことを予測しながら、開票当日、多くの人を動か
せるように再構築するという気の遠くなるような作業が続く日々
でもある。近付く選挙。高まる圧迫感。熱い人間たちの営みと野
望。その静かな自然と熱した人間の蠢き。15年近く経ったの
に、いまも、思い出す。六ヶ所村を始め、日本のエネルギー政策
のなかで陸奥、特に青森県が置かれた立場も、ほぼ同時代で、当
時の息吹さえ生々しく思い出せるし、この小説で、描かれのとほ
ぼ同じと言っても良いだろう、わずか4年後でしかない同じ青森
知事選挙そのものも、選挙デスクとして体験している身には、福
澤一族、なかでも知事候補者・福澤優は、実際に私も出逢ったよ
うな錯覚に落し入れられる。

だが、勿論、彼らは、この作品のなかでしかお目にかかれない架
空の一族なのだが、多分、モデルは、私が推測する一族で、間違
いないであろうと思えるのだ。それは、1947年2月〜
1956年6月まで、知事公選後、最初に青森県知事になった津
島文治である。金木町の大地主で、「殿様」と言われ、町長、県
会議員を経て、知事を3期勤めた。津島は、知事を辞めた後、7
年間衆議院議員を勤め、さらに、その後は、参議院議員を勤めて
いる。

その係累は、いまも、青森県の政界で重きをなしている、2度の
厚生大臣経験者の津島雄二である。1930年1月生れの津島雄
二は、1976年に衆議院議員初当選し、この小説の舞台となっ
ている1987年当時は、57歳。雄二は、70歳を過ぎている
榮でも、知事になった優でもありえないから、津島一族の史実と
は、勿論、異なるのだが、モデルは、津島一族であり、福澤優に
は、津島文治の分身が見え隠れするように、私には、感じられ
る。

津島文治は、知られているように、津島家の6男・津島修治こ
と、太宰治の長兄である。そういう連想が、許されるならば、榮
の婚外の5番目の子である、禅僧の彰之は、太宰治がモデルなの
ではないかという推論に達する。政治家一家のなかで、ひとり、
「脱落」して、北洋漁業の船員になり、永平寺で修行をして、禅
僧になり、という異端の道を歩んで来た彰之の近くに破滅型の作
家・太宰治は、いるような気がする。その傍証のように、太宰治
の最初の妻は、小山初代と言うし、彰之の妻は、杉田初江と言う
ではないか。これは、単なる偶然と言うよりは、高村薫の意図的
な命名のような気がする。だとすれば、福澤一族は、津島一族を
換骨奪胎して、再構築された架空の一族となるだろう。

高村薫は、「新リア王」では、ちらっとしか姿を見せていない彰
之と初江の間に生まれ、非行を繰り返す秋道という青年を主人公
に福澤一族3部作をいずれ書くようだが、秋道の物語は、もしか
したら、彰之よりも、いっそう優れて、太宰治に近い人物造型が
なされて来るような気がする。

因に、太宰治と小山初代については、近藤富枝「水上心中 太宰
治と小山初代」という短編小説が詳しい。「水上心中 太宰治と
小山初代」は、私が関わっている日本ペンクラブの電子文藝館に
作品が掲載されていて、いつでも読むことができる。
- 2005年12月1日(木) 23:26:50
11・XX  荒木経惟の「青ノ時代」と「去年ノ夏」は、写真
集。かっては、荒木の写真集を良く買ったけれど最近は、殆どか
わなくなったので、この2冊は、久しぶりの購入。「青ノ時代」
は、雨曝しにされたネガフィルムの感じを出してカラーフィルム
のいちばん下の層にあるブルーを強調して焼きつけた写真で、
70年代、80年代の世相を再現しようと試みた写真群が、一冊
の写真集にまとまったというわけ。被写体は、いつものアラー
キー・ワールド。サブタイトルは、「死にむかう生」。

「去年ノ夏」は、写真のポジフィルムに色を塗る。「色景」な
ど、廃虚の写真に色を塗る。仮死状態になった映像に色を重ねる
ことで、生き返らせようという試み。色は、一種の現像液だとア
ラキーは、宣う。だから、写真に色を塗っても、それは絵画には
ならず、写真のままだという。陶器に対する釉薬のようなもの。
サブタイトルは、「生に向う死」。
- 2005年11月27日(日) 22:05:47
11・XX  堀江敏幸「もののはずみ」は、フランスの骨董市
で「もののはずみ」で買い求めた不要品の数々をてーまにした
エッセイ。新聞の夕刊に連載されたときは、「多情『物』心」と
いうタイトルで、物への思い入れを書き綴った。パリの路地裏で
出会った物と人。それは、例えば、フィルムのプロジェクターと
いうより、映写機だったり、電動のコーヒーミル、吸い殻入れと
間違えそうなスピーカー、動物の置き物、本を小脇に抱えた読書
家の熊のぬいぐるみ、木製のヨーヨー、脱穀を済ませた麦の量を
測るための樽など。作家の感性は、不要品を必需品に変える魔力
を持っているようだ。堀田の筆は、さらに、それを珠玉のエッセ
イに変えるというわけだ。
- 2005年11月27日(日) 17:22:35
11・XX  11・25は、三島由紀夫の没後35年、という
ことで、三島関係の書籍がいろいろ書店の店頭を賑わせている。
三島が自衛隊に乱入し、自衛官にクーデターを呼び掛ける事件を
起こしたとき、私は、マスコミへの就職が決まっていたが、ま
だ、ジャーナリストではなかった。そして、いまは、組織の
ジャーナリスト生活の定年を迎える年になってしまった。35年
は、「16年は、ひと昔。ああ、夢だ。夢だア」という科白で、
勘定するならば、ふた昔も前になる。往時茫茫。

同性愛の視点から、「兄さん」「正樹」という間柄になり、特
に、演劇を通じて、三島由紀夫と生涯の関係を結んでいた堂本正
樹も、72歳。生きていれば、80歳の三島由紀夫は、45歳
で、あの世へ旅立って行った。「同性愛嗜好」の果ての、「切腹
ごっこ」から映画「憂国」製作、そして、自衛隊乱入と自決とい
うベクトルで、生々しい肉体を感じさせる三島論が展開するの
が、「回想 回転扉の三島由紀夫」。「ごっこ」という、冷静な
視点で天才作家を見て来た堂本と「ごっこ」を犯罪に昇華させた
作家とのすれ違いが、良く判る。堂本が秘蔵して来た三島由紀夫
の写真も、おもしろい。

もうひとつは、松本健一「三島由紀夫の二・二六事件」。自衛隊
に乱入し、「天皇陛下万歳!」と叫んで自決した三島由紀夫に
とって、その「天皇」とは、文化概念としての天皇、つまり観念
としての「美しい天皇」であった。「二・二六事件」の理論的指
導者として事件を起こした青年将校らとともに処刑された北一輝
は、青年将校のひとり、西田税から、天皇陛下万歳を三唱しま
しょうかと問われたときに、「いや、私はやめておきましょう」
と答えたと言う。北一輝の「日本改造法案大綱」という、彼独自
の憲法草案を書き、これが、青年将校たちを動かしたとされる
が、北は、このなかで、「天皇ハ国民ノ総代表タリ」と書くな
ど、戦争放棄の戦後憲法と「国家ノ権利」として、「開戦ノ積極
的権利」という、重要なポイントでは、180度の違いを見せて
いるものの、「国民ノ国家」を目指した構想としては、7、8割
り方似ているという。

三島由紀夫と北一輝の大きな相違点は、天皇観(機関説)。北一
輝と昭和天皇との違いは、「二・二六事件」に際して、機関では
なく、君主としての判断によって、「二・二六事件」を否定し、
青年将校らを処断した。三島由紀夫は、昭和天皇に対して、「な
どてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」という「英霊の
声」を代弁する形で、美しくない天皇を批判した。松本健一の本
を読むと、昭和天皇、北一輝、三島由紀夫は、磁石の同極のま
ま、3点を寄せ集めるような関係で、同極ゆえに、反発しあう状
況で、それぞれの生涯を閉じたということになるようである。
フィクションとしての「美しい天皇」を同性愛のように恋慕した
三島由紀夫、自らが、国民国家の先頭に立つという意味で、「天
子」になることを夢想した北一輝、フィクションで幻想を構築し
た北一輝と三島由紀夫を嫌った昭和天皇。

北康利「白洲次郎 占領を背負った男」は、吉田茂の側近とし
て、占領軍との交渉の際の、通訳、相談役として活躍した白洲次
郎の生涯をまとめた本。倒産した白洲商店の御曹司として、裕福
な少年、青年時代を過ごし、イギリスにも留学した。エッセイス
ト白洲正子の夫。戦後は、占領軍との交渉で、日本国憲法制定、
講和と日本の独立などに向けて、戦後政治史の裏面で活躍した
男。美男子、ダンディズム、車を愛し、トヨタに「日本のポル
シェを作れ」とアドバイスしたり、叙勲には、「何故、国が勝手
に勲章等とかきめることができるのか」と拒否したりしたとい
う。夫婦ともに、「目利き」であった。

立松和平「軍曹、かく戦わず」は、戦場で、敵を殺さず、部下を
死なせずに、いかにして、生き延び、無事帰国するかを考えて、
実行した無名の軍曹の物語。庶民の感覚で、非戦、平和を貫いた
男がいたのである。絵空事のような、天皇、思想家、作家、政治
家側近らの思想と行動を見た後、地に足を付けて乱世を生き抜い
て来た庶民の足取りを追い掛けると、ホッとする。

井上ひさし「円生と志ん生」。1945年、関東軍を慰問するた
め、中国に渡って、白いご飯を食べ、美味しいお酒を呑み、6
月、7月と絶好調の生活を送ったふたりの落語家。円生と志ん
生。ところが、8月になり、ソビエト軍の満州侵攻で、関東軍が
敗走。置き去りに去れた円生と志ん生のその後を喜劇的に描きな
がら、庶民の非戦の歴史は、ここにも、書き留められている。
- 2005年11月27日(日) 17:10:09
11・XX  絲山秋子「ニート」は、「元彼」の、働かない、
学ばない、何もしない、という「ニート」と呼ばれる若者をサブ
主人公に、作家と等身大の主人公が、新たな関係を結ぼうとする
物語の表題作をはじめとした、5つの短編作品集。絲山も、来年
40歳だから、「私」という主人公が、自画像なら、無収入、引
き込もりの年下の「キミ」という彼と、いわば援助交際復活とい
うわけだ。その元彼の住まいが、千葉県の東金。私も、千葉県に
住んでいるから、縁がないわけでもないと思いながら読んでいる
と、地縁ばかりが出て来る。「2+1」は、「ニート」の姉妹編
で、「私」と「キミ」の物語。私が同性とルームシェアリングし
ている家に、1年後、東金から、長野県の岡谷に引っ越していた
彼を、とうとう、呼び寄せて、暫く一緒に住むという話になる。
岡谷は、南アルプスを挟んで、山梨県の反対側に在る。「ベル・
エポック」は、東武野田線の七里(ななさと)駅が、舞台。挙式
直前に婚約者を心筋梗塞で亡くした同性の友だちの引っ越しを手
伝いに行く話。七里駅は、私の父の故郷の岩槻駅の隣という地
縁。「へたれ」は、池袋に近い東京・椎名町に住む「僕」が、大
阪に住む眼科医の彼女に逢いに行くため、東海道新幹線に乗った
のだが、7歳の時、母親が死んで引き取られた母の従姉妹に当た
る女性が住む名古屋で途中下車してしまう。上手くいっている恋
愛なのに、なぜか、「へたれ」てしまう心情を淡々と描く。先
日、行って来たばかりの、静岡、浜松が出て来る。池袋は、私の
実家に近い。「愛なんかいらねー」は、実家が、広島県の呉とい
う乾という「変態男」と女性の学者との関係を描く。呉は、ま
た、私とも、地縁が在る。乾は、大学の、かっての教え子。学者
の恩師のゼミに居て、恩師のお気に入りの学生でもあったが、嘱
望されてパリ大学に留学したが、女性関係のトラブルを起こし
て、脱落。只の変態男になって、再び、学者の前に現れ、学者と
変態関係を結ぶようになる。危うさに上に、成り立っているの
が、現代の人間関係。そういう5つの危うい関係が構築された作
品世界を結ぶ、私との地縁関係。そういう構造は、なにも、私だ
けとは限らない。あなたも、あなたも、この短編集を読むと、そ
ういう、何かしらの「縁」を見つけだすかも知れない。現代の生
の形は、皆、類似しているのかもしれない。変態男・乾が、学者
を起こして、叫ぶ。「起きろよ、祭だ。」。浣腸を使った「スカ
トロ祭」の開始を叫びながら、変態男は、「見事に勃起してい
る。」ではないか。
- 2005年11月11日(金) 22:24:33
11・XX  ミステリ作品を幾つか読んだ。まず、最近読み終
わったのが、大沢在昌「告発者 ザ・ジョーカー」。これは、人
気のジョーカーシリーズの第2弾。東京・六本木の裏通りにある
バーが、連絡所という、トラブルシューターの、通称・ジョー
カーの2代目が主人公。殺し以外のもめ事を処理するのが、仕事
という、裏世界に生きる請負人。着手金は、100万円。プロ
フェッショナルのプライドが美学を生む。

薬丸岳「天使のナイフ」は、江戸川乱歩賞受賞作品。犯罪被害者
と少年法の問題を真正面から取り組んでいて、社会派ミステリー
の名に恥じない作品で、このところ不作が続いた江戸川乱歩賞受
賞作品としては、久しぶりに読みごたえがあった。案の定、良く
売れているようだ。

小池真理子「小池真理子のミスティ」は、文庫版だが、1980
年代末の、いわば、若書きの時代の作品7つが納められている。
最近作と読み比べると、完成度は、落ちる。
収録作品では、「妻の女友だち」ぐらいが、少しひねりが効いて
いて、歯ごたえがあったが・・・。

藤原伊織「シリウスの道」は、少年時代に共有した「秘密」が、
3人の男女の四半世紀を縛る。そういうコンセプトを軸に広告マ
ンの世界を描く。藤原伊織は、藤原の出身母体である電通を早期
退職で、辞めたとき、「こんな時代に会社を辞めて」と新聞にコ
ラムを書いていた。この小説を書きたくて、会社を辞めて、作家
専業になったという。癌も克服したらしいが、広告マンとして
も、プロフェッショナルの極みに居た人らしく、作家本人のイ
メージを色濃く残す主人公「辰村」が良く書けているが、ちょっ
と格好よすぎるのが、難点。私とも、ほぼ同世代で、藤原は、広
告業界、私の方は、マスコミも、報道の方だから、世界は、大分
違うし、広告業界の詳細は、存じ上げていないから、なんとも言
えないが、物語が展開する時代背景は、共通のものが多いので、
良く判る。そういう細部も含めて、久しぶりに「小説」を堪能し
た。最近は、読むそばから、忘れてしまう作品が多すぎる。私の
ような、乱読物狂の性質(たち)には、乱読の波に紛れて、印象
が、波間に砕け散る作品が増えて来たという感が強い。

横山秀夫「震度0(ゼロ)」は、横山お得意の警察小説に、さら
に新境地を開いている。地方新聞の記者が長かった横山らしく、
地方の警察本部の幹部たちの公舎と県警本部庁舎が、ほとんどの
舞台になるという、いわば「密室劇」というプロットの凝りよう
も、嬉しい。阪神大震災の起きた朝、地方警察本部の幹部が、失
踪する。幹部たちの対応振りから、保身と野心が、透けて見えて
来る。警察内部の出世争い。震度7の大震災と震度は、0なが
ら、静かに揺れ続ける県警幹部の争いが、対比的に描かれ、これ
も、読みごたえがあった。

11・XX  ねじめ正一の最新詩集「ひとりぼっち爆弾」は、
最近小説ばかり書いているねじめの10年ぶりの詩集。愛娘
「あーちゃん」のために、あーちゃんを主人公にした、とても過
激な詩集。

例えば、「くしゃみ」。

*あーちゃん
お空を見上げていたら
くしゃみが出そうになった。
顔を思いっきり上げて
くしゃみ万端ととのえたけど
くしゃみは出なくて
右のわき腹に移動して
じっとしている

しかし、このくしゃみが曲者で、以後、いろいろ展開する。く
しゃみがお腹に降りて来て、
「おならよりも発酵して
お尻の穴から出ようとする」
ので、
「あーちゃんは出すまいと
お尻の穴を押さえたら
くしゃみは 今度
げっぷになろうと
お腹に向ってげぼげぼと
どんどん上がっていき
胃袋wp通過して
げっぷになって」
くるから
「あーちゃん げっぷを
無理矢理のみこんでやったら
くしゃみは
おならになるのも
げっぷになるのも
あきらめて」
くしゃみに戻ったのは、良いのだけれど、
「あーちゃん くしゃみが可愛くなって
はくしょんと
いつもよりも
力いっぱいくしゃみをしたら」
どうなったと思いますか?
「あーちゃんの身体
ばらばらに吹っ飛び
ちりちりになって
粉々になって
ぱらぱらになって
ふりかけになって
ごはん おかわり。」

でも、ご飯おかわりして、にこにこ笑っているあーちゃんの笑顔
が、見えてきそうな詩ですね。ねじめさん。

「野蛮ギャルド」というキャッチフレーズが、帯に書いてあった
し、私が入手したサイン本の識語にも、「野蛮ギャルド」が引用
されていたが、これは、あーちゃんこと、野蛮(ワイルドで、エ
ネルギッシュな)ギャルだど、という意味だろうか。ねえ、ねじ
めさん。テロにも負けず、自爆しては、幾たびも生まれ変わる鉄
人あーちゃんは、元気一杯、きょうも、ひとりぼちで爆発する。
あーちゃんの活躍振りが、23もの詩片に砕け散り、爆弾は、さ
らに威力を高めながら、増殖している。

ランドセルを背負い、目の大きな、おかっぱ頭のあーちゃんは、
私の好きな片山健が、表紙絵を描いている。この絵も、なかなか
の爆弾だ。
- 2005年11月9日(水) 20:18:37
11・XX  甘糟りり子「肉体派」は、スポーツ・ジムの
「マックス・トレーニング(筋肉鍛練)」に集う人たちの生態を
描く。筋肉美の肉体を良しとする人々には、トレーナー、そし
て、客たちのタレント、格闘技家、ボデェイビルダー、ダイエッ
ト志願の肥満女性などがいる。そういう8人をそれぞれ主人公に
しながら、健康で、美しい肉体を求めて、トレーニングや食事制
限に取り組む人たちの姿をユーモラスに描く。「筋肉という名の
宗教」というのは、8つの短編小説のうちのひとつのタイトルだ
が、まさに、筋肉美を宗教的なまでに、信仰する人たちが登場す
る。「シックスパック」と呼ばれるのが、腹筋の6分割。普通な
ら、皮下脂肪の下に隠されている腹筋。腹筋を鍛えると、水面下
から浮かび上がるように腹筋が、姿を見せる。腹の真ん中にまっ
すぐの縦線。その左右にも、縦線。それらに垂直に交差する横
線。「腹の筋肉が、きれいに六等分されている。へそにもライン
ストーンのピアス」などという表現が出て来る。縦に3本の線、
垂直に交差する横の線、となれば、8分割のような気がするが、
「シックスパック」という言葉があるのなら、6分割なのか。い
ずれにせよ、肉体改造に情熱を燃やす人たちを描く、小説マック
ストレーニング入門といったところ。作者も、マックストレーニ
ングに狂っているのかな。それとも、現代世相観察の場のひとつ
として、マックストレーニングを冷静に観察しているのかな。

11・XX  ねじめ正一「焼跡のナポレオン」は、ねじめの
「熊谷商店もの」という家族小説の一変型のような作品。昭和初
期の、渋谷新報という地域新聞社と印刷会社を経営する木島源太
郎一家の、一家離散の様子をユーモラスに描く。ナポレオンを信
奉するワンマン社長の木島源太郎は、東京府議会議院選挙に立候
補し、落選。莫大な借金を背負う羽目に陥る。さらに、選挙参謀
として出入りしていた男と妻が駆け落ち。4人の子供も、妻が連
れて行く。ワンマン亭主に対して、我慢に我慢を重ねていたのだ
が、遂に堪忍袋の緒が切れた妻の反抗物語。連れ出された娘の一
人が、先の熊谷商店物語に繋がって行くような気がする。
ただし、ひとつ気になったことがある。「巡査長」というのが、
出てくるが、昭和初期には、巡査長という呼称は、なかったので
はないか。巡査部長と巡査が警察官の階級としては、あり、巡査
長は、戦後新しくできた呼称ではないのかと、思うが、いかがな
ものか。
- 2005年11月6日(日) 16:51:06
11・XX  荻原浩「あの日にドライブ」と「さよならバース
ディ」を読む。ストーリーテーラーである。テーマの設定も巧
い。文章にユーモアがあり、行間に哀歓が漂う。若年性アルツハ
イマーを取り上げた「明日の記憶」は、このサイトの書評コー
ナー「乱読物狂」でも、取り上げたが、猿の調教をテーマにしな
がら、殺人事件の謎を解く「さよならバースディ」とエリートの
都市銀行員を辞めてタクシードライバーになった主人公のドライ
バー狂想曲のような「あの日にドライブ」ともに、読みごたえが
あった。

弱い立場の主人公を設定し、アルツハイマーにもリストラにも負
けずに、明日に向かって、積極的に、前向きに生きようとする主
人公たちの姿は、いわゆる「負け組」(こういう言葉も、分類も
嫌いだが)にも、一点突破全面展開する、勝ち組にはない楽しみ
があることを教えてくれる。いわば、人生「リセット」願望派の
希望の星的な存在感がある。

特に、最新作の「あの日にドライブ」の「あの日」とは、人生の
岐路のどこかからやり直す(リセットする)夢を描きながら、
「しがない」タクシードライバーという、仮の生活を送っている
主人公が、仮の生活のなかで、段々逞しいドライバーになり、明
日に向かって走り出すまでを描く。

そう言えば、タクシードライバーの体験記を本にし、その後、小
説家として一人立ちし、さらに、流行作家になって行ったのが、
梁石日(ヤンソギル)である。

先日の、金石範(キムソクポン)の作品集(全2巻)の出版記念
パーティで逢ったけど、相変わらず、意気軒高そうだった。梁石
日は、最近、量産し過ぎて、独自性が薄まった印象を受けるの
で、残念なのだが、在日という根源的な問題意識にこだわった作
品を刊行して欲しいと、思う。
- 2005年11月3日(木) 21:11:14
10・XX  こぐれひでこ「こぐれの家にようこそ」は、家の
遍歴記録。埼玉県熊谷市近郊の農村にある生家、学生時代の都内
の下宿、3年間のパリでの借家、千葉県市川市の夫の実家、再
び、都内のアパート住まい、建て坪79坪という大きな借家は、
会社と住居の同居、そして、その家を購入、リフォーム、パリで
求めたセカンドハウス、リフォーム、13年後の売却、22年暮
らした東京の家の建て替え。家は、暮らしの履歴書を地で行くよ
うな話。それにしても、理想の家というのは、永遠に手が届かな
いものですね。

10・XX  笹公人「念力図鑑」は、ユニークな歌集。「念力
家族」でスタートし、「念力姫」(既に、このサイトの「乱読物
狂」で紹介済み)と3冊の歌集を刊行。家族と念力をテーマにし
たユニークな歌集だが、しかし良く読むと、時代を穿っていはし
まいか。
例えば、「家族の肖像」の家族とは、日本一家か。

*弟のポテトこっそり抜き取ればJOKERと細く書かれてあり
き

いまの宰相は、ババを掴まされたのかも知れない。

*前世は信長という弟の割算解けぬ様を見ていつ

行け行けの「改革」足し算ばかりで、財政危機に

*手相見のホクロ毛ばかり気になりて大事な予言聞き逃したり

ライオン毛ばかりに気になりて憲法改正案聞き逃さぬよう。国民
もしっかり。

「抒情する念力」では、

*薄闇の春の廊下ですれ違うカラクリ人形 時間よとまれ

カラクリ人形にならぬよう、過ぎ去った時間は、とまってくれな
い。後悔しないように。

*大きなる黒い手がきみに延びてくる 即座に春の頁を閉じよ

そういう事態にならないよう。もう遅い? いや、まだ、間に合
う?

*信長という名の土佐犬したがえてガキ大将は屋上にいる

自民党が、大勝ちした総選挙。

「最後の朝礼」では

*校長の無心念仏 校門が次々閉まり誰も逃げられず

そういうことのないように、注意しよう。しかし、門は、次々閉
まりはじめていやしないか。

*校長の無心念仏 生徒らの懺悔の嗚咽いつか激しく
*校長の無心念仏 模範的な生徒の上に日の丸高く
*校長の無心念仏 わらわらと焼却炉からキノコ雲立つ
*校長の無心念仏 あの夏の玉音放送に思いを馳せつ

近未来に、そのような日が来ないことを祈りたい。近過去には、
すでに体験した光景ではなかったか。ねえ、校長?

笹公人の世界は、意外と、政治的なのかも知れない。
- 2005年10月30日(日) 11:16:26
10・XX  崔碩義(チェソギ)作品集「黄色い蟹」を読む。
先日の金石範の出版記念パーティで出逢った崔さんの最新刊作品
集。エッセイが主で、短編小説、長編譚詩も掲載されている。
エッセイは、3つの柱を建てて編集している。本のタイトルにも
なっている「黄色い蟹」は、文学批評。「蟷螂の寓話」は、南北
朝鮮をベースにした政治批評。「白雲悠々」は、生活批評。とい
う風にでも、分けようか。別格扱いなのが、「朝鮮のエロスの系
譜」。新羅、高麗、李朝、そして現代と朝鮮の史実や寓話から
拾った朝鮮の「性の意識」の系譜を分析している。

読みごたえがあったのは、やはりエッセイ。来日し、京都の大学
を卒業後、朝鮮新報社に勤務していて、若い頃から、在日朝鮮人
運動に関わって来た硬派のジャーナリストの反骨精神が、随所に
現れているのは、エッセイだからだ。特に、情報が限られる北朝
鮮関連のエッセイでは、限られた情報を珠玉を磨き、刻むように
文章を書いているのが判る。

例えば、「蟷螂の寓話」にまとめられているエッセイ8本のなか
でも、「名峰金剛山」では、太白山脈の北端にある最高峰が標高
1638メートルの山塊「金剛山」について、紹介する文章を読
めば、崔さんの文章構成の特徴は、すぐ判るだろう。まず、金剛
山の山塊の地形的説明、次いで、地質、日本、中国に記録された
金剛山、イギリスの女性探検家の見た金剛山、1万2千もの奇岩
絶壁のある山塊、渓流にある多数の滝、峠、山間にある寺、墨客
が残した詩や紀行文、絵画の紹介、山間の磐に刻まれた落書きま
で、7ページのエッセイに、これだけ盛りだくさんの情報が刻み
込まれている。

すべて、この調子の文章が、南北朝鮮、在日、日本、アジア、ア
メリカと世界を拡げながら、時空を越えて、朝鮮を再構成して行
く。酒の入ったパーティの席で、著者から囁かれたのは、「朝鮮
のエロスの系譜」の蘊蓄だったが、それが、どうだったかは、原
文を読んで欲しいので、ここでは、紹介しない。

この「乱読物狂」では、著者と本のタイトルのみで、敢て、出版
社は紹介して来なかったが、「黄色い蟹」は、在日の出版社なの
で、知っている人には、有名な出版社だが、知らない人には、読
みたくても、出版社名が判らないと、本を捜せないかも知れない
ので、今回は、例外的に出版社名も紹介する。新幹社。

崔碩義(チェソギ)さんは、1927年生まれ。朝鮮近世文学史
専攻。放浪の詩人・金笠の研究者で、平凡社東洋文庫「金笠詩
選」、集英社新書「放浪の天才詩人金笠」などの著書がある。
- 2005年10月25日(火) 20:53:31
10・XX  杉浦日向子「4時のおやつ」と「隠居の日向ぼっ
こ」を読む。ことしの7月に、46歳で亡くなった作者の、洒脱
な本。「4時のおやつ」は、4時という、半端な時間、午前4時
なら、夜中でも、夜明けでもないし、午後なら、昼間というには
遅いし、夜というには、早いし、兎に角、中途半端な時間だ。物
を食べるにも、朝食には、早すぎるし、夕食にも、早すぎる。お
腹も空いているわけじゃないけれど、しかし、なにか、「口淋し
い」気になり、ちょっと、小腹に入れるものが食べたくなる。そ
ういうときに、食べたいと思ったものを杉浦は、34個上げてい
る。例えば、人形町・柳屋の鯛焼き。浅草梅むらの豆かん、新宿
中村屋のクリームパンなどが、写真付きで、洒落た掌編小説仕立
てで紹介される。この本は、読む本というより、鞄に入れておい
て、此処彼処に行ったときに、近くに美味しいおやつの店はない
かと紐解き、あれば、それを買い、ここに載っている掌編小説を
読むというのが、いちばん良さそうだ。そうして、34個のおや
つを食べ終る頃、本を読み終わり、そのなかから、もう一度食べ
たいものを買いに行く、というのが、お勧めのスタイルか。もっ
とも、中年過ぎて、いろいろ食べられないもの、控えた方が良い
ものが、増えて来た世代には、目の毒という、本でもある。この
本は、杉浦が亡くなる8ヶ月前に刊行されていて、巻末に、下咽
頭がんの手術を受けた傷跡が、首に残るノースリーブの写真が掲
載されている。撮影者は、荒木経惟で、写真のタイトルは、「4
時のヒナコ観音」。

「隠居の日向ぼっこ」は、亡くなってから、2ヶ月後に、刊行さ
れた本。江戸の春夏秋冬を踏み台、浮世絵、すごろく、頭巾、
鍵、手拭、はこぜん、きせる、屏風、畳み、桶、矢立て、根付け
など、アトランダムに選んだ小道具をキーワードに短いエッセイ
スタイルで綴ったもの。新聞に連載された。彼女が、漫画のなか
で描いた小道具に所縁のありそうな一齣を再録して、花を添えて
いる。江戸で重宝された小道具は、つい、「こないだ(このあい
だ)」まで、東京の下町では、使われていたように思う。小道具
が、引き出す懐かしい想い出。それは、隠居のひなたぼっこに似
て、なんとも、しみじみした味わいがある。時代小説好きには、
傍役の小道具として、この本を読んでおくと、堪えられないおも
しろさを感じるだろう。また、歌舞伎好きの人も、同断。世話物
の舞台をウオッチングするとき、芝居小屋に持って行くと、役に
立つだろう。まあ、だからといって、舞台を観ないで、この本を
読むようなことは、御法度。幕間に復習するとき、役に立つ。
- 2005年10月19日(水) 21:30:27
10・XX  溜まっていた時代小説の書評を一気にまとめよ
う。佐伯泰英「秘剣孤座」は、水戸黄門の「影警護」(つまり
SPのようなものか)をしている大安寺一松を主人公とする剣豪
小説。シリーズ物の第4弾というがというが、初めて読んだ。同
じく、佐伯の「残花ノ庭 居眠り磐音江戸双紙」は、シリーズ第
13弾。こちらは、全部読んでいる。佐伯は、文庫書き下ろし
で、幾つものシリーズ書き下ろしを続けているが、少なくとも、
「居眠り磐音江戸双紙」を読む限り、混乱も破綻もない。順調に
物語が展開している。作家・佐伯の怪物振りが伺える。坂崎磐音
のキャラクターの妙が、しっかりと作品世界に軸足を置いている
ということだろう。今回も、江戸の庶民を巻き込む事件(美人
局、少女買春など)のほか、田沼意次の陰謀に立ち向かうなど、
物語の視野も多角的。オランダのカピタンや医師の将軍拝謁、
しょう郡家の姫君の麻疹の治療など、サイドストーリーも多彩
だ。さらに、脱藩した磐音の故郷・豊後関前藩のその後、という
伏流も随所に顔をだし、今回は、将軍の日光社参という、次回、
第14弾への伏線もしっかり引かれている。

杉本章子「信太郎人情始末帖 狐釣り」を読む。「信太郎人情始
末帖 狐釣り」には、河竹黙阿弥が、まだ、二代目河竹新七を名
のいっていたころに登場する。寡作の時代小説家である杉本の作
品は、最近、新刊が出た。書店で見掛けたが、能役者ものか。ま
だ、タイトルも書き留めていない。この人の作品は、じっくり調
べたと思われる史実をベースに、巧みな筆致で、限られた読者を
魅了し続ける。

書庫を整理していたら、子母沢寛「富嶽二景」が出て来たので、
再読したら、そのまま、引き込まれてしまった。「富嶽二景」
は、清水次郎長を軸にした物語では、敵役とされて来た甲州の黒
駒勝蔵が主人公。確か、子母沢寛原作をベースに、市川昆が監督
をした映画「股旅」で、萩原健二が、勝蔵を演じていたと記憶し
ている。最近出た川本三郎の「時代劇 ここにあり」は、105
本の時代劇映画を批評したもので、このなかにも、「股旅」が出
て来る。この映画は、時代劇のやくざ映画の定番を抜けていて、
おもしろかったが、なんと、脚本は、詩人の谷川俊太郎だったと
いう。農家の食い詰め若者(次男、三男)は、農村でも生きて行
けず、漂泊の旅に出て、ちんぴらヤクザになって行く。1973
年の作品。私は、そのころ、大阪で記者をしていたから、大阪
で、この映画を見たのだろうか。それにしても、川本の文章に
は、萩原健一が、勝蔵を演じていたとか、原作が、子母沢寛だと
か、一言も書いていないが、私の記憶違いだろうか。「富嶽二
景」は、また、新歌舞伎の「愚図六」で見掛けたような場面が出
てくるが、歌舞伎の原作にも、使われていないのだろうか。そう
いう意味では、子母沢寛「富嶽二景」は、いろいろな展開の可能
性のある名作であると思う。

「浅田次郎「憑神」は、幕末を生きる貧乏御家人の彦四郎は、婿
入りした先で、妻に男児を生ませたら、跡継ぎができ、御用済と
して、離縁され、追い出された男である。ふとしたきっかけで、
路傍の小さな祠と縁ができたと思ったら、祠の主は、貧乏神、厄
病神、死に神たちで、彼らに運命を翻弄される彦四郎の軌跡が、
笑いとペーソスを呼び、浅田節が、冴え渡る。

津本陽「覇王の夢」は、織田信長の生涯を津本版として描く。そ
れが、覇王としての信長の野望。アジアへの侵略の意志。危険な
政治家、信長というのが、津本版信長像である。西村望「草の根
分けても」は、作品のタイトルではなく、草の根を分けてまで、
敵を探す執念の酷さの表現でもある。さまざまな敵討ちをテーマ
にした短編時代小説集の統一テーマといったところ。6つの作品
が、これ又、独特の西村節で活写される。畠中恵「おまけのこ」
も、人気の「人情妖怪推理帳」で、「しゃばけ」シリーズの第4
弾。私は、初めて読んだ。病弱ながら、妖怪とお友だちの日本橋
の大店の若旦那・一太郎を主人公に展開する、コメディタッチの
どたばた時代劇。
- 2005年10月18日(火) 22:26:11
10・XX  原寮(「宀」無し)の「そして夜は甦る」、「私
が殺した少女」、「天使たちの探偵」、「さらば長き眠り」、
「愚か者死すべし」という同じ主人公の私立探偵が登場するシ
リーズ小説(但し、「天使たちの探偵」は、短編小説集で、ほか
は、長編小説。うち、「私が殺した少女」は、直木賞受賞作)と
エッセイ集「ミステリオーソ」。さらに、文庫版「ミステリオー
ソ」と「ハードボイルド」を続けて読む。

「そして夜は甦る」は、石原慎太郎と裕次郎の兄弟がモデルに
なっているとしか思えない都知事と映画俳優の兄弟が登場する。
都知事が、「銃撃され、一命を取り留める」というシーンがある
「事件」を軸にした新宿に事務所を構える私立探偵「沢崎」(名
字はあるが、名前はない)を主人公にしたミステリー。原のデ
ビュー作である。ジャズピアニスト出身のヒットマンという辺り
にジャズピアニストからミステリー作家に転身した作者の原型が
伺えるが、ジャズやピアノの話は、殆ど展開されない。

「私が殺した少女」は、沢崎の事務所に調査の依頼をする電話が
あり、依頼人に逢いに自宅に行くと、誘拐事件の犯人グループの
一味と間違われ、警察の取り調べを受ける。電話は、偽の依頼人
が仕掛けた罠で、沢崎は、誘拐犯へ現金を届ける役が振り当てら
れ、そのまま、事件に巻き込まれる。ディテールにこだわった緻
密なストーリーの展開は、沢崎=原という感じが、新しい作品を
読むごとに強まって行くが、それこそが、実は、フィクションで
あるにもかかわらず、構築されたフィクションとは、思えないよ
うなリアリティを滲ませながら、一気に沢崎の世界に引きずり込
まれる。「私が殺した少女」は、というタイトル通り、誘拐事件
のなかで、犯人とのやりとりに「失敗」した探偵の所為で、身代
金が奪われた上に、誘拐されていた少女が、「殺された」ような
状況のようにして、ストーリーが展開する。しかし、それは、趣
向で、実は、「誘拐事件」も、「殺人事件」も・・・という、意
外な結末が待っている。

「天使たちの探偵」は、サブタイトルの「翼をなくした天使たち
にーー」とあるように、少年たちが絡む6つの短編作品集。

「さらば長き眠り」は、甲子園の準々決勝で八百長試合の嫌疑を
かけられた高校生投手の姉と能の宗家の娘との同性愛、姉弟の
「父」の借金が、八百長嫌疑の引き金となった、という辺りが、
軸になって、ストーリーが展開する。弟の八百長への関与が否定
され、身の潔白が明らかになる前に自殺した姉の死因に疑問を
持った弟は、11年後に姉の自殺の謎解きを沢崎に依頼する。前
作「私が殺した少女」刊行から5年経って発表されたのが、本
作。主人公の沢崎の生活も、真面目に5年が経っているから、お
もしろい。

「愚か者死すべし」は、さらに「「さらば長き眠り」から9年
経って、刊行されている。警察官による警察官殺しという真相を
隠しながら、暴力団の絡む事件の様相を装う。ストーリー展開
は、逆転、また、逆転というおもしろさ。緻密なフィクション構
成は、リアリティ溢れる。相変わらず、その辺りは、巧い。

小説を読む間に読んだエッセイ集「ミステリオーソ」は、ジャ
ズ、映画、小説をテーマにしたエッセイが立ち並ぶ。文庫版「ミ
ステリオーソ」と「ハードボイルド」は、エッセイ集で、単行本
の「ミステリオーソ」の増補版。文庫版に2分册され、元本と増
補分があわせて再構成されているので、それぞれの未読作品を探
し出して、落穂拾いをしながら、読まないといけない。元本の
「ミステリオーソ」には、ジャズのレコードジャケット、映画の
スチール写真などがふんだんに入っていて楽しめるが、文庫版
は、エッセイこそ、1・5倍に膨れ上がっているものの、写真を
カットしたのは、残念だ。

エッセイ集を読むと小説の読後感と異なる執筆裏話が載ってい
て、おもしろい。例えば、作者は、沢崎=原説を否定している。
「ハードボイルド」所収の船戸与一との対談で、原は、こう語っ
ている。「自分にとって身近な人間は、変な話ですけど、沢崎以
外の人間なんですよ。沢崎というのは、僕にとってはつくった人
間だ、ある意味ではマ−ロウをモデルにしてます」と言うのであ
る。

エッセイ集の元本の最後に載っている佐賀新聞の1991年1月
1日のコラム。タイトルは、「人の仕事の話をネタ
に・・・・・・」では、次のように書いている。

*私は元旦そうそう、吸収のある知人に呼び出されて裏通りの公
園で会った。「人の不幸をネタにするような探偵稼業をいつまで
続けるんだ」と、彼が訊いた。
「人の仕事の話をネタに真赤な嘘を並べる小説家などうちまで続
けるんだ」と、私が応えた。

ここに出て来る知人とは、作者の原であり、裏通りは、新宿であ
る。彼は、原。私は、沢崎。こういうこった文章をひねり出すた
め、長編小説の刊行の間隔が、5年も、9年も、かかるのであ
る。
- 2005年10月12日(水) 22:20:11
10・XX  山本一力「お神酒徳利」を読む。江戸・深川黒江
町の駕籠かきコンビの新太郎と尚平が、軸となり、江戸の庶民生
活を活写する「深川駕籠」シリーズの第2弾。

新太郎は、小網町の両替商の息子だが、上品さと短気を合わせ持
つ性格の、短気の方が災いして、父親から勘当され、店を飛び出
し、一時は、好きで入った臥煙(がえん・火消し人足)暮らしを
したこともある。あるとき、火消しのため上がっていた屋根の上
で、雷に打たれて、屋根から転がり落ち、以後、高所恐怖症に
なってしまったという男である。

尚平は、房州の漁村の出で、子供のころから身体が大きく、網元
の息子を相撲で投げ飛ばしてしまい、村を出て、江戸の相撲部屋
に入ったが、我慢強い性格で、押しの強さに欠け、勝負師には、
向かないと力士を辞めて駕籠かきになり、やがて、新太郎とコン
ビを組み、同じ長屋で同居して暮らしている。

このふたり、性格の違いもあり、コンビの息もぴったりで、江戸
の町を走り回っている。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われる大
江戸であるだけに、日々、街中を走り回るふたりの周りには、小
さな騒動には、事欠かない。山本一力の人物造型やエピソードの
ちりばめ方は、どの作品でも同じだが、作者の実体験が透けて見
える。そういう意味では、山本は、江戸の庶民を描きながら、現
代日本の庶民の生活を活写していると言える。まことに、現代的
な「時代小説」ということができる。それゆえ、読者は、現代の
自分達の生活が江戸の庶民の生活と通底しているという共感を持
ちながら、江戸の町の雰囲気を楽しんでいると言えるだろう。

実は、9月には、時代小説では、このほかに、佐伯泰英「秘剣孤
座」と「残花ノ庭 居眠り磐音江戸双紙」、杉本章子「信太郎人
情始末帖 狐釣り」、子母沢寛「富嶽二景」などを読了してい
る。また、10月に入ってからも、浅田次郎「憑神」と津本陽
「覇王の夢」を読了していて、時代小説をまとめて書評しておこ
うと思っていたが、多忙で、手が廻らず、サイトの「乱読物狂」
への書き込みが遅れている。暦も、10月に変わったので、取り
あえず、山本一力作品の書評を掲載しておく。

きょうは、夕方から、金石範の作品集(全2巻)刊行の出版記念
パーティが、上野池之端で開かれるので、出席して来る。
- 2005年10月1日(土) 15:48:30
9・XX  植島啓司「性愛奥義  官能の『カーマ・スート
ラ』解説」を読む。性愛の「技」の指導書というイメージが強い
インドの古典『カーマ・スートラ』は、実は、人生哲学の書。
「ダルマ(善徳)」、「アルタ(富)」、「カーマ(性愛)」の
3つは、人間の生きる意味を構成する要素。少年時代=「アル
タ」を求めるための修業時代。青年時代=「カーマ」を追求し、
豊かな愛と官能的素養を深める時代。老年時代=「ダルマ」、つ
まり、宗教的、道徳的な義務を極める時代。こうして、一人の人
生は、完結をし、無事死を迎えることができる。つまり、「カー
マ」は、人生の成熟へ向けて主要な要素であり、「カーマ」、性
愛の奥義を極めることは、人生の極意を極めるために必要不可欠
だと、植島は主張する。「性愛の術(アルス・エロティカ)」
は、生きる技術そのものであり、それは、ひいては、健康で長寿
を保つ、いわば技術力だというわでだ。 

植島の記述の展開は、残念ながら、未整理の嫌いがあり、少々、
読みにくかった。雑誌連載の文章を元に新書用に書き下ろしたと
いうが、自家中毒気味で、連載の、いわば、残滓があったのは、
なんとかならなかったのか。

- 2005年9月28日(水) 21:52:24
9・XX  三島由紀夫「女方」を日本ペンクラブの電子文藝館
への掲載のため、校正を兼ねて、読んだ。六代目中村歌右衛門を
思わせるような歌舞伎の女方(女形)を軸に華やかな歌舞伎の舞
台裏、楽屋裏の、男同士の三角関係を描く。歌舞伎座の楽屋の情
景描写も、詳しくて、リアルで、そういう意味でもおもしろい。

福島次郎「淫月」は、ホモセクシュアルの中年男が、主人公の短
編連作。怪談話のような落ちのある「奇腹譚」。少年、学生、老
教授、天才画家、男色者にも迫る老いなどバラエティに富む短編
と中編の8作の作品集。福島の自画像大の主人公が、男しか愛せ
ない男の情愛を描いて行く。作者の自画像大は、若い頃、三島由
紀夫の家に同居しながら、大学に通い、三島の身の回りの世話と
男色の相手をしたことのある地方在住の元教師の中年作家という
ところ。

書き下ろしの「飛魂抄」は、三島がモデルの作家Yが「神風連の
変」という明治初期の歴史的な事件を取材するために熊本に来た
際、夜の男色の相手も含めて、世話をした作者の体験をベースに
まとめた作品。ホモセクシャルに生きる中年男たちの悲哀を実感
を込めて再構築した世界。太った中年男と青年との情愛の作品
群。三島の福島宛の手紙を無断で引用する小説「三島由紀夫ーー
剣と寒紅」を刊行し、三島の遺族から訴えられ、出版差し止めに
なった福島の三島との訣別の事情が、「飛魂抄」で明らかにされ
る。
- 2005年9月6日(火) 21:12:18
8・XX  前の夜遅く、就寝前に宮内勝典「焼身」を読みはじ
め、すぐ眠くなり、寝てしまったが、翌日、通勤往復の車中、さ
らに、帰宅し、夕食の後と、一気に読み継ぎ、読了した。早速、
8月最後の書評として、サイトの書評コーナー「乱読物狂」に書
き込むことにした。宮内の本は、26年前に刊行された「南風」
から読み継いできた。

9・11。ニューヨークの世界貿易センタービルにハイジャック
されたジェット機が、2機突っ込む事件が起き、21世紀が始
まった。いまでは、事件は、当初報道されたようなイスラム過激
派によるテロというよりも、アメリカを軸にした政治的な陰謀の
様相を深めているように見える。その後のアフガン攻撃、イラク
戦争などアメリカは、単独行動主義を取りながら、崩壊に向かっ
て突き進んでいるように見える。

そういうイメージをダブらせながら、9・11のシーンを冒頭に
置き、「私」は、個人史と絡めながら、1963年にベトナムで
起きた仏教徒の焼身自殺の真相解明を求める旅に妻とともに出発
する。39年前の事件は、焼身自殺した僧侶の名前すら判らな
い。2002年、夫妻は、仮にX師と名付けた人物の本名、年
齢、人柄、焼身自殺の様子などを推理小説さながらの、おもしろ
さで、謎解きをする。ふたりは、ベトナムの、いまでは、ホー・
チミン市となった、かつてのサイゴン市の路上を迷走する。妻
は、「中心性網膜症」という難病で、「右目の視野の真ん中に暗
く円い影ができて、そこだけ、ものがゆがんで見える」という。
ベトナム語も判らない私は、アメリカ暮らしで鍛えた英語と漢字
の筆談で、最初はゆがんでいたX師の人物像を薄皮を剥ぐように
しながら、次第に鮮明な像を結んで行く。

1963年。アメリカのベトナム戦争への介入に抗議して反戦派
の僧侶が、焼身自殺をした事件は、私も覚えている。当時、日本
には、「ベトナムに平和を!市民連合」、通称「ベ平連」という
反戦の市民組織があり、作家の小田実をはじめ、小中陽太郎、吉
川勇一らが指導をし、普通の市民が東京の繁華街、例えば、渋谷
から青山通りを通り、新橋の土橋辺りまでデモ行進をし、アメリ
カ軍がベトナムから撤退するよう求める運動が、継続的に繰り返
されていた時代だ。焼身自殺する僧侶は、その後も、相次いだの
を覚えている。私は、16歳、高校生だった。宮内は、18歳
だったという。

その後、35歳で、「南風」を刊行し、作家生活を軸にしなが
ら、渡米。12年間、家族とともにニューヨークで暮らした。東
京の地下鉄でサリン事件を起こしたオウム真理教、9・11「テ
ロ」事件、パレスチナの自爆テロへ繋がるかもしれない40年前
の焼身自殺の真相。「もしかすると焼身自殺もそれと紙一重では
ないのか」という疑問。それが、宮内が、X師の足跡を追い続け
る原動力となっているようだ。しかし、その疑問は、氷解される
だろうか。謎を解く鍵は、「法華経」の経典にあるのか。
- 2005年8月31日(水) 22:53:54
8・XX  時代小説を読む。山本一力「峠越え」と「銭売り賽
蔵」は、いずれも、山本の体験や日常生活で感じていることを時
代小説に仮託して作品世界を再構築しているのが判る。特に、
「峠越え」は、女衒から足を洗う新三郎と女賭博師おりゅうの、
人生の峠越え、つまり、己の人生再構築の物語であり、ふたりの
心情は、山本の人生再構築の心情と重なっている。後半の「峠越
え」は、箱根を越えて久能山参詣に香具師の親分衆を引き連れ
て、まさに旅行会社の添乗員さながらに、旅をする話。山本の旅
行代理店勤務という、実体験を江戸時代に置き換えての物語。
「銭売り賽蔵」は、主人公が、幼馴染みのおけいと力を合わせな
がら、人生の大勝負に挑む話で、物語の骨格は、「峠越え」と同
根だろう。江戸の貨幣制度、庶民の生活の描写、山本の人生哲学
を随所に滲ませながら、江戸の人情物語が、展開する。

松本清張賞受賞の城野隆「一枚摺屋」は、一枚摺とは、瓦版のこ
と。幕末の大坂を舞台に瓦版屋が新聞記者になって行く話。大塩
平八郎の乱、「ええじゃないか」など動乱の幕末期の大坂を庶民
の視点で描く。

北方謙三「絶海にあらず(上・下)」は、平安中期の武将・藤原
純友(すみとも)の物語。時の権力者・藤原忠平(ただひら)の
家系・藤原北家に属しながら、公家の生活に飽き足らず、伊予掾
に任じられたのを切っ掛けに瀬戸内の海から玄界灘で海賊の棟梁
となった男。史実では、追討軍に殺されるが、小説では、純友
は、さらには遥かな波濤を求めて、東シナ海へ。海に新天地を求
めて巨海に漕ぎ出して行った日本人として描き出す。北方の美学
を体現したのだろう。
- 2005年8月27日(土) 11:58:24
8・XX  若い作家たちの作品を読んだので、まとめて、書評
しておこう。今期直木賞受賞作家朱川湊人の「かたみ歌」を読ん
でいる。受賞作の「花まんま」は、すでに読んだ。「かたみ歌」
は、東京の下町、都電が走っている「アカシア商店街」が舞台。
「紫陽花のころ」は、商店街に近いアパートに引っ越してきた男
女の話。商店街のスピーカーからは、西田佐知子が唄う「アカシ
アの雨がやむとき」が流れている。女は、夫と子供を置いて、不
倫相手の5歳年下の若い男と、この町に逃れてきた。男は、売れ
ない原稿を書いていると言うから、朱川と等身大かもしれない。
女は、都電の終点にある早稲田の町の喫茶店で働き、ふたりの生
活を維持している。見知らぬ町の商店街を歩くのは、良いもの
だ。男は、引っ越しの荷物の片付けも女に任せて、昼食用の海苔
巻きを買いに出た序でに、古書店「幸子(さちこ)書房」に入り
込む。芥川龍之介似の老店主がいる。太宰治の書簡集を立ち読み
して、思わぬ時間を食う。慌てて、商店街で和菓子屋を探し出
し、買い物を済ませて、アパートに戻ろうとするが、路地を間違
えたようで、道に迷う。道端の電信柱に隠れるようにして、ラー
メン屋「喜楽軒」を見ている若い男がいる。実は、このラーメン
屋で、客を装った男による強盗殺人事件があり、店主が殺された
のだ。残されたのは、妻と重い障害のある娘。電信柱の陰に居
て、店を見つめていたのは、殺された「喜楽軒」の店主ではない
か。そういう伏線があり、最後には、女が、男に黙って、姿を消
す。つまり、事件を知った女は、夫と子供を思い出して家庭に
戻ったのだ。店主の幽霊が、女を帰らせた。そういう日常的なホ
ラーの味わいを滲ませながら下町物語が展開して行く。

そういう作風は、受賞作「花まんま」も同じだ。こちらは、大阪
の路地裏の街。朝鮮人差別、非差別部落の問題などをさり気な
く、滲ませながら6つの短編小説が構築する庶民的なホラーの世
界。病気で夭折した少年が「トカビ」になる話「トカビの夜」、
表題作の「花まんま」は、誰かの生れ代わりだと言い出した妹の
希望を聴いて、大阪から彦根まで、妹と一緒に、「誰か」の残さ
れた家族に逢いに行く話。ホラーというレンズを通して覗いて見
えてくるのは、庶民の生活に色濃く残る「生死」というテーマで
はないか。

「かたみの歌」の表紙は、松岡潤画。高層ビルに飲み込まれてし
まったような、セピア色の商店街。ミゼットが停まっている店
先。風呂敷のマントを背負って走る少年。裸電球の点る電信柱。
遠く家並の隙間に見える都電。「花まんま」の表紙は、吉實恵
画。彦根の古い街並を歩く少女。瓦屋根の木造家屋が立ち並ぶ。
白い塗り壁の塀。格子戸。屋敷の庭から枝を張り出した桜と松の
木。「かたみ歌」の帯の「受賞第一作」という表記は、不正確。
刊行は、受賞後だが、作品は、「小説新潮」に04年4月号から
05年4月号に掲載されたもので、直木賞受賞時には、すでに発表
されていたものばかりだ。

今期芥川賞受賞の中村文則「土の中の子供」を読み、次いで、中
村の先行作品「銃」と「遮光」を読み継ぐ。中村の主人公は、孤
児。施設で育ち、青年になった。いまは、タクシーの運転手をし
ながら、女と暮らしている。土の中で生まれた子供は、現在の世
相を象徴している。戦争に突っ走るアメリカを軸にした世界。軍
靴の音が、耳に煩くなり始めた日本の政治状況。土とは、そうい
う暴力的な世相そのものだろう。いま、この世に生きる人たち
は、暴力の側にいるか、暴力の土の中で首を絞められはじめてい
るか、どちらかだろう。「親はいない。暴力だけがあった。ラジ
オでは戦争の情報が流れていた」。男は、繰り返し、カフカの小
説「城」を読んでいる。「私は、生きるのだ。お前らの思い通り
に、なってたまるか。言うことを聞くつもりはない。私は自由
に、自分に降りかかる全ての障害を、自分の手で叩き潰してやる
のだ」「こんな暴力に、私は恐怖など感じない。私には、通用し
ない。この世界のあらゆる暴力にも、理不尽にも、恐怖など感じ
てやりはしない」などという、表現が随所にある。恫喝のような
解散・総選挙が、近付いている。中村の思いが、世間に通底して
いるかどうかは、9・11には、判るだろう。

「銃」は、自殺した男の側にあった銃を拾った男の物語。暴力的
な装置としての銃。そういう装置を身に付けたことで、男の日常
生活が、一変する。「遮光」は、病死した女友達の真相を隠し続
け、女の手から切り取った指を瓶に入れ、光を遮った部屋で生活
することで、非日常的な緊張関係を構築する。「銃」「瓶」
「土」は、中村の創作の小道具であり、象徴である。そういう小
道具の見つけ方、世相との通底の巧さが、中村を作家としての優
れた資質だろうと、思う。

芥川賞候補で、落選した群像新人賞受賞作は、樋口直哉「さよな
らアメリカ」だ。中村文則の小道具が、「銃」「瓶」「土」な
ら、樋口は、「袋」だ。それも、紙袋。紙袋を被って生活をする
ようになった、いわば「袋族」の男と女の物語。男の袋には、な
ぜか、「さよならアメリカ」のロゴが印刷されている。従って、
タイトルの「さよならアメリカ」は、「ただのロゴ」にすぎない
と樋口は、言う。出版社は、「箱男」「砂の女」などの作品があ
る安部公房の再来だとピーアールするが、安部が、社会の根元と
通底する問題意識を持っていたのに対して、樋口は、それが希薄
だ。樋口の作品と安部の作品は、外形的な類似に過ぎないように
思う。
- 2005年8月27日(土) 11:21:16
8・XX  いしいしんじ「絵描きの植田さん」は、不慮の火災
で障害を受け、耳が殆ど聞えなくなった画家が主人公。植田さん
は、人生を変え、高原の一軒家である湖の「こっち側」の小屋に
住むようになる。夏は、観光客で賑わう湖の「向う側」も、冬
は、殆ど誰も訪れない。まして、湖の「こっち側」は、閉ざされ
た世界になる。人が、「こっち側」に来るためには、凍った湖面
を滑って来るしかないが、そこまでして、「こっち側」へ来る人
は、稀である。その「こっち側」には、植田さんが住むように
なった小屋のほかに、以前、外国人の別荘だった建物がある。長
らく空家になっていたその小屋に、外国人の血縁の毋子が映り住
んできたことから、物語は、「転結」する。実は、この本、2年
前に刊行されながら、殆ど売れず、私も、先日、サイン本という
ことで、購入しただけだった。薄い本で、車中書斎で読むのに適
切と思い読みはじめた次第。

難聴の画家・植田さんと別荘の持ち主の娘と孫との交流が、ス
トーリーの主筋だが、いしいしんじの小説の主人公と同じ「植田
さん」こと、植田真画伯のユニークな画風の絵が、すっかり溶け
込んでいて、この小説は、フィクションなのか、ノンフィクショ
ンなのか、読者は、迷う仕掛けになっている。外国人の血縁親子
のうち、孫の「メリさん」は、やはり、難聴で、絵描きの植田さ
んとの文字を交えた会話は、心温まる。そして、山でいちばん恐
ろしい「表層雪崩れ」に、ふたりが、巻き込まれ、九死に一生を
得るなどの場面は、この小説のハイライトである。淡々とした筆
致で、絵描きの日常生活が、活写される。

突然のアクシデントとして、遂に、恐れられていた「表層雪崩
れ」が起き、ふたりは、別々に巻き込まれるが、それまでのモノ
トーンの世界から、カラフルな世界への転換して行くがさまが、
この小説の味となっている。売れない作家・いしいしんじの旬
は、この小説で転機になったのではあるまいか。どうも、書店の
店頭での扱いを見ていると、いしいしんじは、売れだしたようで
ある。芥川賞、直木賞を受賞して、衝撃的な作家でビューを果た
した作家もいれば(今期の両賞は、まさに、その典型であろ
う)、売れないまま、下積み生活に耐えながら、それでも書き続
けてきた作家が、売れ出す瞬間を目にしているような気がする
が、それも、当たっているのか、当たっていないのか、1年くら
いのうちに結論が出るだろう。ここで、明言してしまった以上、
読み手としての力量が問われるわけだから、これはこれで、恐ろ
しい。

8・XX  笹公人「念力娘」という短歌集を読む。

* 宇宙人目撃談に沸く町のおやじが着る銀のシャツ
* 念力で紙ヒコーキをあやつれる転校生の眼鏡ぶ厚し
* C組の霊感少女のタロットが夕風に舞い夕闇に消ゆ
* あの冬の祖母が無理矢理つれてきた紫パーマの女祈祷師
* 魂はきっと水色。結界をはりめぐらせて春の令嬢
* 明け方に青い小石が届けられ部屋はたちまち霊場となる
* 遅レチャッテゴメンナサァイ!と学生服の老人が来る 夕陽
をつれて
* いさかいのやまない村の丘に立ちジュディ・オングが羽をひ
ろげる
* よき時代だったあの頃テレビはピンク・レディ−の魔球が迫
る
* ブッチャーの血が飛び散ればビフテキのいよいよ美味い金曜
八時
* 墓場から出で来しゾンビ先生の腐臭激しき夏の教室

30歳、東京生れの「念力歌人」が、詠う数々。巧くない歌だ
が、なにか、印象的である。
私が購入した本には、「一秒に16回もベルが鳴り高橋名人来訪
を知る」という短歌が、肉筆で書き込まれていた。
- 2005年8月9日(火) 21:36:49
7・XX  藤田宜永「乱調」は、恋愛小説とミステリー小説を
両立させる試みという。離婚をし、幼い頃別れた息子は、成長し
て人気ミュージシャンになったが、何故か、首吊り自殺をしてし
まった。息子の死の謎を解くため、ポルノ写真家から、フランス
の大きな航空会社の支店長に出世した父親は、別れた妻の許しを
得て、息子の周辺を調査しはじめた。お互いに再婚したため、息
子は、義理の父親と暮らしていた。成長し、独立した生活をして
いた息子の残した日記に残された文字を手がかりに謎を解きはじ
めた父親の前に女子高校生が現われ、いつしか、父親は、息子と
も関係を持ったかもしれない女子高校生と性的な関係を持つよう
になり、やがて、少女を愛するようになる。そして、未成年であ
る女子高校生との性的関係が、社会的に問題にされ、父親は、航
空会社を首になるが、何故か、己の人生の「乱調」にもめげず、
再び、ポルノ写真家になった父親は、穏やかな気持ちを抱いてい
た。

「破滅型」の性・愛主義の人生とも違う。「乱調型」の人生は、
おもしろいですよ、というのが、藤田の主張かもしれないが、ま
あ、読み物。人生哲学の部分は、結論への持って行き方が、安直
すぎる。謎の女子高校生の人物造型が、弱い。
- 2005年7月19日(火) 21:24:34
7・XX  対照的な山の本を読んだ。池内紀編「山の仲間た
ち」と真保裕一「灰色の北壁」である。池内紀編「山の仲間た
ち」は、登山雑誌「アルプ」に掲載された31編の短文が所収さ
れている。田中澄江、辻まこと、庄野英二、畦地梅太郎、今西祐
行、山本太郎、尾崎喜八、野尻抱影、宇都宮貞子、結城信一、西
丸震哉、真壁仁、田中冬二、神沢利子、串田孫一など。詩人、作
家、児童文学作家、学者、画家、版画家など、多彩な人たちの熟
成された文章が、次から次へと出てきて、とても楽しめる本だ。
ほとんどの人が、物故している作品集とも、言える。

私が、いちばん感心しながら読んだのは、堀内幸枝という、現在
85歳で存命の詩人が、30年近く前に書いた「御坂山系の小さ
な谷」という文章だ。甲府盆地の東南にある扇状地の村に生まれ
た堀内の幼年時代の、小さな冒険譚。自宅の裏山を、いくつもい
くつも廻った果てに、少女が発見した小さな谷。谷間に平らに開
けた10坪ほどの土地。「わらび、ぜんまい、羊歯類だけが、芝
生のように生えそろっていた」場所。「山鳥の声も聞えず、兜虫
もつの虫も蝶もいない。何一つ生命の動くものはない。前後に屏
風のように山がひかえているだけ、風さえ起こらない」という不
思議な場所。「では死の谷間かというと、そうでもない。羊歯類
は青々と、土は黒々と、その静けさの中に二本の山百合が大輪に
咲いている」という、ユートピアのような場所である。少女は、
ここを「自分の心の領土」だと、思おうとした。この「谷間で、
一生、暮らすことが、いちばん似合っているように思えた」とい
う。

それなのに、現実では、「日本は、支那事変から大東亜、世界大
戦へとすすみ、盆地に向かって傾斜する小さな村」には、「ガダ
ルカナル島沖の戦死者の公報は、この村に一番多く入ってきた」
という。

それ以来、少女は、谷間へ一度も行かないまま、成長し、老いて
きた。このほか、山と人生を淡々と絡めた短文が、盛り沢山。

その甲府盆地に向かって西へ傾斜する村は、盆地から富士山が見
えるのを遮るようにある御坂山地の麓にあり、春は、桃の花を咲
かせ、ピンクの絨緞が敷き詰められる。私は、盆地から、詩人の
村の辺りを眺めたことがあるかもしれない。この時期、桃畑で
は、木々の下に、銀色のシートを敷き詰める。日の光が、桃の実
の上ばかりに当たらず、反射光が、下から桃の実に当たるように
し、桃の実の色付きを良くしようという工夫だろう。果実という
ものは、出荷するまで、本当に手がかかる。甲府盆地の果樹農家
の人たちは、果実にさまざまな手を掛け、工夫を重ねて、いまの
ような果実王国を築いてきたのだろう。

一方、真保裕一「灰色の北壁」は、山岳ミステリー3部作。山の
ドラマは、ダイナミックだ。標高7000メートルの「ホワイト
タワー」と呼ばれる山の北壁に挑んだ天才クライマーの非運の死
という、山岳ミステリーが、表題作。併収されている「黒部の
羆」「雪の慰霊碑」とも、山岳ミステリーで、山好きには、堪え
られない作品集だ。
- 2005年7月10日(日) 20:34:51
7・XX  山本一力「赤絵の桜」は、「損料屋喜八郎始末控
え」シリーズの第2弾。江戸のレンタル道具屋である損料屋の喜
八郎が主人公。山本の最初に刊行された本が、「損料屋喜八郎始
末控え」であった。

1789(寛政元)年、徳川幕府は、棄捐(きえん)令を発布
し、旗本、御家人らの札差に対する借金を棒引きにした。札差た
ちは、生き死にの瀬戸際に立たされ、経済が停滞し、不況の嵐に
見舞われた江戸の街で、粋で、度胸もあり、智恵も力もあるとい
う損料屋喜八郎が、巨利を貪る札差たちとの戦いを挑む。喜八郎
は、元々、奉行所の同心だったが、上司の不始末の責めを負っ
て、刀を棄てた。つまり、小役人を辞めて、レンタル道具屋に
なった男である。そういう男を主人公に据えた、一風変わった
「捕物帳」である。

時代物のミステリーゆえに、ストーリーの詳細な紹介は、省く
が、山本が、「あかね雲」で直木賞を受賞する前に刊行された物
語が、ここへ来て、俄に動き始めた。山本は、寛政の江戸を舞台
に、現代の世相を二重写しにしながら、描くつもりらしいので、
そのあたりの時代構築も、興味深い。

喜八郎と1690(元禄3)年創業というから、この小説の舞台
となっている寛政時代でも、すでに創業100年を超えた深川の
料亭の四代目女将・秀弥との恋愛も、第2弾作品の結末近くで始
まるなど、まだまだ、伏線の状態で、出るべき登場人物が、出て
きていないという状態だから、物語が、この先、どういう展開に
なるか、読めない。
- 2005年7月5日(火) 22:31:48
7・XX  山田詠美「風味絶佳」を読む。ことし、上半期の傑
作のひとつ。「風味絶佳、滋養豊富」と言えば、森永ミルクキャ
ラメル。私も好きで、スーパーマーケットで、一箱80円で、
売っていると5箱ぐらい、まとめ買いをする。疲れたときに、ミ
ルクキャラメルを舐めると、疲れがとれるような気がする。私
は、キャラメルは、舐めるより、2個まとめて口に入れて、嚼む
方が美味しいような気もするが、如何か。

しかし、キャラメルを嚼むと、注意しないと、ときどき、歯の詰
め物が、キャラメルといっしょに取れたりすることがあるから、
要注意。私は、懲りずに、ときどきやり、慌てて、歯医者に行く
ことになる。歯の詰め物が、取れるのは、ミルクキャラメルか、
ミルキーか、という場合が、多いような気がするが、これは、私
の体験が、片寄っているだけかもしれない。

さて、山田製菓の「風味絶佳」は、職人の域に達した肉体労働者
を軸とした6つの短編小説作品集だ。表題作の「風味絶佳」は、
ガソリンスタンドで働く青年と少女の恋物語に、青年の祖母が絡
む。若い頃、基地のオフィサークラブでカクテルウエイトレスを
していた祖母は、70歳。いまは、横田基地の側で、
「Fuji」という名前の小さなカウンターバーを営んでいる。
この短編では、肉体労働者の青年は、脇に廻っている。主役は、
祖母。青年のガールフレンドとも、祖母は、「女友達」の関係に
なっていて、青年の恋の行方、つまり、失恋を見届ける。

「間食」は、鳶職の青年が、主人公。青年は、性愛の風味に絶佳
な年上の女性と同棲している。若くて、豚のように、太ってい
て、素朴な女性とも、性的な関係を築いている。若い女性が、子
どもを欲しがり、妊娠すると、青年は、逃げて来る。「夕餉」
は、ゴミ収集の作業員の青年が、脇に廻り、家出した元主婦の女
性が、その青年と同棲する話だ。「海の庭」は、母の幼馴染みの
引っ越し作業員と付き合い出す娘の話。母の初恋の相手ととも
に、母たちの初恋を跡付ける。「アトリエ」は、汚水槽の清掃作
業員の結婚5年の生活。嫁さんは、妊娠してから、ちょっと、変
になった。「春眠」は、斎場に勤める父親が、母親の死後、息子
の同級生の女性と再婚したため、その同級生に恋心を抱いていた
息子が、おかしくなる。

どの作品にも、肉体を使って、職人芸を発揮する男たちが、重要
な役回りをしている。「職人芸」を山田は、丹念に描く。「職人
の粋に踏み込もうとする人々から滲む風味」。それを、ときに
は、近景にしながら、また、ときには、遠景にしながら、山田
ワールドは、好調に展開する。性欲で言えば、エクスタシーのよ
うな、食欲で言えば、涎たらたらというような、そういう即物的
な快楽丸出しで、丹念に丹念に、山田は、肉体の動きを描写す
る。
- 2005年7月4日(月) 21:57:49
6・XX  現代社会を切り取ってみせるのは、寓意小説が、有
効なのか。無効なのか。町田康「浄土」、石田衣良「反自殺クラ
ブ 池袋ウエストゲートパーク5」、阿部和重「ニッポニアニッ
ポン」を読む。町田康「浄土」は、パンク調という、独特の文
体、独特の作品世界。破天荒な「暴発小説」という、短編作品
が、7つ所収されている。

例えば、「どぶさらえ」。汚泥や廃棄物のつまった「どぶさら
え」するビバカッパの世界は、どぶのような現代社会をテーマに
した象徴小説として、読むことができる。

不思議で、無気味な死への予兆を描いた「犬死」。この作品集
で、「いちばんのお勧めは」と、私が、直接、町田本人に聞いた
ら、町田は、「犬死」と答えたのだ。

「あぱぱ踊り」は、高慢な男と出逢った私は、まさに、高慢な男
の「鼻」をへし折る話。「女が手巾なにかをこそぎとるような仕
草をして、男の顔の真ん中に黒い穴が開いていた。鼻がもげたの
であった」。

「本音街」は、建て前が、一掃された理想の町。何ごとも、本音
で付き合おうよ。「闇に向かっておもうさま本音を言ってこまし
たろうと思ったが、なにもおもいつかなかった」というほど、徹
底的に本音で付き合った後の、虚しさ。

「ギャオスの話」は、ゴジラのような怪獣・ギャオス登場。「一
言主の神」は、一言言う度に、一言言った「ブツ(もの)」が、
架空より、こつ然と現す能力を持った神が、「古事記」の世界を
跋扈する。「自分の群像」は、「他人の悪口を言ったり、他人が
失敗するのを見たりするのが無上の喜び」という「似田静介」や
「仕事を頼むと必ずといってよいほど二度手間、三度手間にな」
るという「玉出温夫」がいる職場で働く「方原位多子」の物語。
タイトルからすると、職場の奇人たちは、「方原位多子」の分身
なのかもしれない。

石田衣良「反自殺クラブ 池袋ウエストゲートパーク5」は、人
気の「池袋ウエストゲートパーク」シリーズ第五弾。こちらも、
町田に劣らない寓意小説だろう。続発する集団自殺をネットで呼
び掛けるクモ男の話は、「反自殺クラブ」。4つの短編が、奇妙
な味の現代の寓意小説を構成し、反世界を構成するように見え
る。

「ニッポニアニッポン」は、「グランドフィナーレ」で芥川賞を
受賞した阿部和重の長編小説。朱鷺(とき)の学名「ニッポニア
ニッポン」。引き込もりを止めた青年は、ネットで武装し、人生
大逆転を目指して、革命に乗り出す。青年が、挑戦したのは、佐
渡のトキ保護センターへの侵入であった。これも、かなり先鋭的
な寓意小説であった。
- 2005年6月29日(水) 21:32:56
6・XX  中山幹雄「下町舞台切絵図」は、東京の下町、隅田
川を挟んだ両岸の町々のうち、「川向こう」、つまり、隅田川の
東側、本所、深川、向島で、江戸時代から歌舞伎の舞台になった
所縁の地を訪ね歩いて、まとめたもの。但し、本の刊行が、86
年3月なので、すでに20年ほど前の町の姿しか伝えていないの
で、現在は、もっと変わっているかもしれない。

取り上げられたのは、次の18ケ所。「三囲(みめぐり)土手」
「向両国」「深川え(旧字)んま堂」「柳島妙見堂」「深川八
幡」「門前仲町」「木場 冬木町」「海辺橋と浄心寺」「本所松
坂町」「回向院 相生町」「大川端 百本杭」「本所割下水」
「梅若塚」「長命寺桜もち」「両国橋と永代橋」「洲崎土手」
「隠亡堀 十万坪」「深川不動」。

これらの地名を見て、歌舞伎の外題が浮かんで来るようなら、か
なりの歌舞伎通だろう。例えば、最初に取り上げられた「三囲土
手」では、通称「お染」の、「道行浮塒鴎(みちゆきうきねのと
もどり)」、「桜姫東文章」の四幕目「三囲の場」。「お染」で
は、隅田川側から見た土手の向うに三囲神社の鳥居の頭だけが見
える場面(舞台では、こちらの方が、多い)だし、「桜姫東文
章」では、逆に、土手のこちら側の鳥居下から土手に上る石段の
場面だ。

通称「法界坊」の、「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもか
げ)」、通称「忍ぶの惣太」の、「都鳥廓白浪(みやこどりなが
れのしらなみ)」、通称「梅の由兵衛」の、「隅田春妓容性(す
だのはるげいしゃかたぎ)」などは、私も舞台を観ている。この
本には、私が観たこともない福地桜痴作の「侠客春雨傘(おとこ
だてはるさめがさ)」ほかの外題が出て来る。

まあ、それぞれの地名と歌舞伎とのかかわりが、次々と出て来る
ので、今後、私の歌舞伎批評の際に、この本を参考にいろいろ述
べてみたい。このほか、さすが、南北研究家らしく、南北に関す
る短文が、多く所載されているので、こちらも、南北劇の批評の
ときに、参考にしたいが、「鶴屋南北のブレーンたち」という文
章が、おもしろかった。「ブレーン」というより、南北の息子や
弟子たちの消息をまとめたもので、南北の死の前後、彼らが、文
政末期から天保期にかけて相次いで死ぬと、歌舞伎は、衰退し、
河竹黙阿弥が活躍するまで、停滞期に入る。天才南北の藝は、息
子や弟子たちでは、引き継ぐことができなかったということだろ
う。
- 2005年6月27日(月) 20:41:26
6・XX  車谷長吉「飆風(ひょうふう)」、「女塚 初期作
品輯」を続けて、読む。作家になることは、他人のプライバシー
をも暴き、憎まれる。つまり、悪人になることだ。もちろん、己
のプライバシーもない。退路を断って、己とその周辺の人々の人
生を傷つけることだ。

日本文学独特の私小説の系譜に連なろうという、不退転の決意を
抱く作家、車谷長吉。最後の破滅型作家たろうとしている。

作品集「飆風(ひょうふう)」では、「桃の実一ヶ」「密告(た
れこみ)」「飆風」の3つの小説と、「私の小説論」という、2
年前の大学祭での講演記録が、所収されている。特に、「密告」
は、主人公の「私」が、友人のことを友人が付き合っていた彼女
にたれ込んだ結果、友人が自殺する話である。「飆風」は、詩人
の高橋順子との結婚生活の内実を暴露する。高橋順子には、車谷
について書いた「けったいな連れ合い」という作品がある。けっ
たいな夫婦である。「私の小説論」は、そういう車谷文学の原点
を作家自らが、語っている。「意地悪い目で人を見ること、それ
が男を磨くことだと、私は思うて来ました。(略)作家になると
いうことは因果なことです」という、車谷の言葉は、彼の文学理
念を主張している。

一方、「女塚 初期作品輯」では、辻永銀治郎、車谷縉(し
ん)、車谷嘉彦、車谷長吉(ちょうきち)と、車谷長吉(ちょう
きつ)という、現在のペンネームに定着するまでの作家の放浪の
軌跡が作品とともに、収録されている。辻永銀治郎でふたつ。同
人誌に掲載された「起承転結のない話」と「罪」という小品。車
谷縉では、3つ。「寓話 蛙の嚔(くさめ)」、「汝はだれ
か」、「文学的な、余りに文学的な過去帳」で、未発表作品をふ
くめ、いずれも、同人誌掲載のもの。本名の車谷嘉彦では、「猿
と断食芸人」と「フランツ・カフカと藝術」という、慶應大学時
代の卒業論文など。

車谷長吉(ちょうきち)では、「昭和二十年生まれーー天皇から
の距離」という自伝的作品。いずれも、若書きの感が免れない作
品群だから、あまりおもしろくはないが、最後の「昭和二十年生
まれーー天皇からの距離」が、比較的興味深く読んだ。

車谷は、還暦を迎え、「死の準備の一つ」として、初期の作品集
刊行を決意したという。長吉が、「ちょうきち」から「ちょうき
つ」へ変わったのは、唐の詩人・李長吉を目指す心意気から名
乗ったという。タイトルの「女塚」は、著者が、東京都内で移り
住んだ地名のうち、蒲田女塚から、取ったという。この地では、
車谷縉のペンネームで、「寓話 蛙の嚔(くさめ)」、「汝はだ
れか」、「文学的な、余りに文学的な過去帳」の3作品を書いた
という。蒲田女塚という地名は、もうない。

私は、就職をして大阪に赴任するまで、東京の城北地区で育った
が、福島県の母の実家で、この世に出た後、当時、若い父母が暮
らしていたのが、戸越銀座であった。20数年後、記者になり、
初任地の大阪勤務を4年間で終えて、東京の報道局社会部に転勤に
なり、最初の1年間を警視庁の所轄署の「察廻り」(警察廻り)
で過ごした地が、2方面本部管内で、区でいえば、大田、品川の
地域であった。「大田区」というのは、「大森」「蒲田」地域が
合併したところなので、ここの「大田」は、普通の「太田」では
ない。私が、「察廻り」をしていた頃、蒲田に女塚という地名が
あったかどうか、定かではないが、もう、なかったような気がす
る。
- 2005年6月25日(土) 22:20:33
6・XX  山本音也「抱き桜」は、戦後の和歌山市を舞台にし
た少年小説。立松和平は、自伝的な小説で、戦後の宇都宮での焼
跡闇市的な社会風俗を描いた。中上健二は、同じく自伝的な手法
で、新宮の路地裏の戦後風景を活写した。中上が、東西に海を抱
える和歌山県の東岸を描いたというなら、山本音也は、中上とほ
ぼ同時代の和歌山県の西岸を描いたと言える。和歌山市が、小説
の舞台になったのは、珍しいのではないか。そういう意味では、
山本の貢献の第一は、無名の戦後の地方都市の庶民の生活を活写
したことだろう。

小学生の主人公の夏休みの日々。大阪から逃げるようにして和歌
山市の貧民窟に隠れ済みはじめた家族の少年との短い交流。その
ふたつの家族の生活を描きながら、少年たちの黄金の日々を印象
的に記録して行く。少年たちの日々は、貧しく、悲しく、ひりひ
りする毎日が続く。しかし、逞しく成長して行く少年たち。大和
上市の桜の老木が、象徴的に使われる。桜が、抱く生命のイメー
ジ。そして、大人の事情に寄る、少年たちの別れの日が来る。

50年後の、少年たちの再会の場面は、いらなかったのではない
か。余韻は、余白が、つくり出すのだから。 
- 2005年6月25日(土) 19:14:11
6・XX  ミステリー小説も、読んだ。横山秀夫「ルパンの消
息」、島田荘司「龍臥亭幻想」(上下)、石持浅海「扉は閉ざさ
れたまま」。横山秀夫「ルパンの消息」は、売れているようだ
が、15年前に書いた処女作の、リメイク版。新聞記者出身の横
山が、二足の草鞋を穿いたまま書き込んだ作品。どういう作品を
書くにせよ、二足の草鞋を穿いて、生活のための仕事をこなし、
隙間をうめるようにして、作品を書くという生活は、厳しい。で
も、そのなかで、出版こそされなかったものの、「サントリーミ
ステリー大賞」の佳作に選ばれたまま、埋もれてしまっていた作
品をリメイクして、刊行し、それが、売れているというのは、他
人事(ひとごと)ながら、嬉しいと、思う。もとは、1991年
の作品。殺人罪同様、15年の時効を前に、息を吹き返し、新た
な生命を与えられた作品をおもしろく読んだ。

結局、迷宮入りとなった「三億円強奪事件」を入れ込みながら、
高校生を主人公にした「ルパン作戦」の15年後の、時効直前の
再捜査劇。自殺として処理されていた高校の女教師の転落死は、
実は、殺人だった。「ルパン作戦」とは、期末テストの問題を事
前に盗み出す作戦だったのだが、それが、殺人事件解明に、どう
繋がって行くのか。

島田荘司「龍臥亭幻想」(上下)は、島田の前作「龍臥亭事件」
の続編。8年前の「龍臥亭事件」の関係者が、雪深い龍臥亭に集
まってきた。そこで、再び、不可解な殺人事件が、相次いで起こ
る。地域の血腥い伝説が、語られる。戦中の旧日本軍で密かに行
われていた肉体縫合という、悪魔的な実験の実相も明らかになっ
て来る。こちらも、ミステリー作品ゆえに、詳細な粗筋は、紹介
できない。だが、物語は、作り過ぎていて、頭でっかち。興を殺
ぐ。

石持浅海「扉は閉ざされたまま」は、扉に鍵がかかり、さらに、
ストッパーまで、かまされて人工的に作り上げられた密室での殺
人事件の謎解きの話。大学の同級生たちが、久しぶりに集まっ
た。そのうちのひとりが、仲間を殺す。犯行を隠すために、宿泊
した部屋を密室にする。だが、仲間の女性が、密室の不自然さに
気付き、謎解きを始める。智恵競べのゲームが、始まる。謎を解
いたからといって、だから、どうなのだ。ゲーム世代の、ミステ
リー小説。ゲーム世代の殺人事件。世相の一端を浮かびあがせる
か。
- 2005年6月25日(土) 18:57:23
6・XX  熊谷達也「まほろばの疾風(かぜ)」と佐藤雅美
「八州廻り桑山十兵衛 花輪茂十郎の特技」を読む。いずれも、
時代小説。熊谷達也「まほろばの疾風(かぜ)」は、8世紀末の
陸奥が舞台。大和朝廷にまつろわぬ人々「蝦夷(えみし)」の物
語。森など自然の恵みとともに共生するアイヌ民族の抵抗の歴史
をひとりの青年・アテルイの生涯を軸に描く。

熊谷の作品世界は、直木賞を受賞した「またぎもの」の現代小説
(近い過去も描くが)とともに「蝦夷(えみし)もの」という時
代小説の、ふたつの奔流があると、思う。いずれも、独自の味わ
いのある作品が多い。ただ、「またぎもの」は、個人を描くが、
「蝦夷もの」は、歴史叙事詩のように、英雄を軸にした、壮大な
物語を展開するので、かなり読み物の色合いが濃くなる。

佐藤雅美「八州廻り桑山十兵衛 花輪茂十郎の特技」は、「八州
廻り桑山十兵衛」シリーズの、第5弾。現在の警察なら、第一線
の下級刑事のような職位の「八州廻り」の生活を活写するあたり
に、このシリーズの人気の秘密があると思う。私も、毎回、愉し
みにしながら、読んでいる。時代ミステリーの作品ゆえに、ス
トーリーの詳細な紹介は避ける。今回も、悪党を追い掛けて、旅
から旅への生活に追われる桑山十兵衛。江戸で留守宅を守ってい
る筈の妻女が、ちょっとした誤解から実家に帰ってしまうが、公
務多忙ゆえ、桑山十兵衛は、私事を全うすることができないま
ま、悶々とした日々を送りながら、遭遇する事件は、解決をして
行く。このあたりが、読者のサラリーマン諸氏の共感を呼ぶのだ
ろうなあ。公務も大事だが、人生を構成する私事も大事だ。な
あ、ご同輩。
- 2005年6月25日(土) 18:29:57
6・XX  堀江敏幸「河岸忘日抄」は、いつもながら、奇妙な
味の小説である。小説というより、思索的なエッセイか。いや、
エッセイとしては、フィクションが、混ざり過ぎている。堀江の
「小説」を読むたびに、私は、惑わされる。いわば、目くらまし
にあう。

今回の「河岸忘日抄」は、フランスはパリ、セーヌ川の河岸と思
しき場所に係留された、ここ何年も航行した形跡のない船。その
船を、いわば貸家として借りた主人公が、動かぬ船上生活者とし
て、船のなかで暮らす。主人公の趣味と重なる樫の木の棚に並ぶ
書物を読みあさり、同じく、貸し主が所蔵するレコードを聞きな
がら、陽当たりの良い船のリビングで、引き込もりのような生活
を送っている。ときどき、訪れるのは、手紙やダイレクトメール
を配達する郵便配達夫ぐらい。その郵便配達夫にコーヒーを馳走
し、会話をするぐらいの日々。船の貸し主の「大家」(船でも、
「大家」なのかしらん)は、謎めいた人物で、高齢で、病気にな
り、入院の果てに、亡くなってしまうが、彼にまつわるミステ
リーじみたストーリー展開が、この小説の活力の元になっている
のが、やがて、判って来る。

なんということもなく、若いのに、異国で、年金生活者のような
生活をする青年。老後の生活の糧に、異国の青年に家具、書籍、
レコードごと、船という部屋を貸した老大家と青年を分かつもの
は、先がない老人と、先が、不確定ながら、豊饒とあるモラトリ
アム青年との交差する人生が、この小説のテーマであろう。老人
と青年に共通するのは、人生に対する「躊躇(ためら)い」であ
るが、躊躇いとは、死者への「悲しみ」に似ている。「悲しみと
は、悲しみ以外のなにものでもない。そしてまた、悲しみという
言葉を使ったとたんに消えてしまう」という。躊躇いも、また、
躊躇ったと自覚した途端、消えてしまい、つかみどころがない。
そこにあるのは、躊躇っても、充分に残り時間のあるモラトリア
ム青年か、躊躇った途端、人生の幕を閉じることになる老人か
が、いるだけである。

この小説では、「樽」が、キーワードになっていることに注意す
る必要がある。「樽」という、高名な小説も出てくるし、棺桶代
用の樽、ワインの樽、樽の廃材を使った床材、家具、背の部分の
構造が、樽のようなゆるいカーブを描いているがゆえに、通称
「樽」と呼ばれるアンチークナ椅子も出て来る。樽には、ご用心
と、これから、この小説を読むであろう読者の、興を殺がない程
度にしながら、この本を読むポイントを教唆しておこう。
- 2005年6月25日(土) 18:08:45
6・XX  辻井喬「終わりからの旅」を読み、書庫を整理して
いて出てきた上之郷利昭「西武王国 堤一族の血と野望」を再読
する。辻井は、日本ペンクラブの総会などで、ときどき、顔を見
かける。いつのまにか、堤清二としての西武デパートを頂点とす
る西武流通グループの総師を辞めて、義弟の堤義明らとも手を
切って、文学活動専一の生活を続けているようで、詩人から小説
家への変身も順調に進み、最近では、力作長篇を世に問い、コク
ドグループを率いる堤義明が、自社株の取扱いに対する不正、誤
魔化しの果てに、司直の手に落ちたのと対照的な生活を送ってい
るようだ(もっとも、遺産争い、株の名義書き換えなどでは、生
臭い訴訟を起こしているようだが)。

前作の「父の肖像」が、堤康次郎をモデルの清二の自叙伝を中心
にした作品であったが、「終わりからの旅」は、もっと、フィク
ションを増やし、骨格は、堤一族に置きながら、異母弟の葛藤を
軸に新聞記者の個人史と戦後史をだぶらせて描いていて、野間文
芸賞を受賞した「父の肖像」より、広い世界を描いている。しか
し、作品としては、同根のものであり、同床異夢というか、同じ
素材を元に、別の作品世界を構築したものというように受け止め
ながら、読んだ。

再読した新聞記者出身の作家、上之郷利昭の「西武王国 堤一族
の血と野望」は、23年前に刊行された作品で、今回の、堤義明
の断罪という状況から、逆照射するならば、甘い記述も目立つけ
れど、さすが、新聞記者(昔、新聞記者を辞めて、作家になった
ばかりの上之郷を見掛けたことがある。面識は、ないし、誰かに
紹介されたこともないが)出身の作家だけに、23年前までの取
材でも、今回の事体を予兆させる記述は、随所にあり、決して、
「腐って」はいない。フィクションである辻井作品と、あわせ
て、読んでみると、両者の書いていない間隙が、浮かび上がって
きて、おもしろく読んだ。そういう体験をしたい人は、私と同じ
ような読み方をされると良い。読書とは、単に目の前にある本を
読むというだけの行為では、ないのだから。読者の読み方一つ
で、読書から得られる情報の量は、大きく変わってくると言える
だろう。
- 2005年6月25日(土) 17:41:39
6・XX  永江朗「作家になるには」は、以前に読んだまま、
書評を書かずに放ってある書物の山に紛れていた。久しぶりに週
末自宅にいるので、読んだが、書評を書いていないまま、放置さ
れていた本の山を崩そうと、思う。しかし、読んでから時間が経
つと、何が書いてあったか、印象が薄れている本が多くなった。
書評を書くためだけに再読するというのも、馬鹿らしい。あの感
動をもう一度とばかりに、再読したくなる本は、大歓迎だが、本
当に、そういう本は少なくなった。ここの「乱読物狂」は、読書
に基づく「日記」という体裁をとっているので、本当は、読後、
鮮度の新しいうちに感想や批評を書くべきなのだ。

読書離れが進むなか、作家志望の人が増えているという。つま
り、本も読まずに、本を書こうという手合いが増えているのだろ
う。ここの「乱読物狂」でも、普段なら読まないような「世界中
心(せかちゅう)」ものの同工異曲の作品を取り上げることがあ
るが、「純愛保守主義」「生活保守主義」の作品と私が言うよう
に、いずれも、社会性や時代性のない、身辺雑記ものの純愛が、
世界の中心というような、狭隘な、視野狭窄な作品が、ベストセ
ラーになり、あんなものが売れるなら、私にも書けるとばかり
に、同じような作品が出てきて、また、同じように売れるから性
質(たち)が悪い。

そこに眼を付けた編集者が、編集者の意のままに(というと、語
弊があるかもしれない。なにせ、意のままになっている作家、評
論家たちの「現場」を見ているわけではないし、「証拠」もある
わけではない。私の、勝手な「推論」、あるいは、「直感」でし
かないのだから)なるような、作家、評論家に、「作家になるに
は」などという本を書かせたのではないかと、邪推しながら、永
江朗「作家になるには」を読んだという次第。「体力、気力、好
奇心、文章に対する感性を鍛え、書き続けるのみ」という、真っ
当な答えが、著者から返ってきた。作家とは、作家としてありつ
づける努力のできる人のこと。

「文章に対する感性」は、作家以外なら、別なものに対する感性
だろうが、「続ける」「持続する」ことの大切さ、そのための前
提になる「体力、気力、好奇心」は、生きて行くための「必須ア
ミノ酸」同様の「必須」だろう。そういう意味では、至極真っ当
な本で、「そんなこと、あんたに言われなくても、すでに、心掛
けている」と啖呵を切りたくなる。続けられない人が多いから、
「続けるコツ」こそ、教えて欲しいのではないか。まあ、何ごと
であれ、10年間続けられるというのは、それだけでも、すで
に、才能だろう。普通の人は、「始める」ことはできても、「続
ける」ことができない。何ごとであれ、「続ける」ことができる
人は、才能のある人で、その道の専門家になれるだろう。

しかし、世の中、難しいのは、持続していて、それなりにできる
人が、それで、食っていけるかというと、それは、また、別の問
題というのが、資本主義の論理だということを忘れてはいけない
ということだ。食えなくても、持続して、「ありつづける」こ
と。それが、大事だし、それが、できれば、人生の極意そのもの
ということだろう。あまり、永江本の紹介にならない書評だが、
真面目で、至極、真っ当な本でしたよ、とだけ、言っておこう。
- 2005年6月25日(土) 17:17:32
6・XX  入江曜子「李玉琴伝奇ーー満州国最後の〈皇妃〉」
を読む。偽国家《満州国》の皇帝・溥儀の第四夫人になった女
性・李玉琴は、貧しい庶民の家庭で育った15歳のとき、在学し
ていた国民学校で撮影された一枚の写真を元に運命を狂わされ
た。17歳のとき、ソ連軍の満州侵攻後、満州国は、崩壊し、
《皇族》たちは、チリヂリになり、共産国家となった中国で、
《元皇族》として、激動の時代を生き抜いた女性は、さらに、文
化大革命のなかで、翻弄され、辛酸を嘗めながらも、逞しく生き
抜いて行く。

溥儀、その人も、激動中国の20世紀のなかで、3回《皇帝》の
地位に着き、3回、その地位から引きずり下ろされ、最後は、
「改造」されて、中国公民として生涯を閉じる。その溥儀とは、
皇室にいるときは、同じ寝室で休んだことは一度もなかったとい
うことで、〈皇妃〉とは、名ばかりであった。それでも、離婚を
しなかった(させてもらえなかった)ために、李玉琴は、溥儀と
着かず、離れず(というか、離れ、離れず)というような関係を
続けながら、溥儀と同様なリズムの曲線を描きながら、人生が、
翻弄されて行く。

満州国から現代中国へ、国家の歴史とともに、一人の女性の歴史
を、丹念にトレースした本書は、映画を見ているような(特に、
「覇王別姫」を思い出しながら)気分をつづけながら、一気に読
み切った。著者の独占インタビューに際して、吉林省の政協委員
になっていた李玉琴は、著者に謝礼は、米ドルで欲しいと言った
という。兎に角、皇帝を魅了した美貌の女性は、激動の中国の歴
史を体現しながら、逞しく生き抜いた。李玉琴の数奇な生涯は、
丹念な史実調査に基づいた歴史ノンフィクションノベルとなり、
ビジュアルな文体で、場面がスクリーンに映るように鮮明で、非
常に読みごたえのある作品となったと、思う。
- 2005年6月24日(金) 22:12:38
6・XX  社会の動きに捕われず、身近な純愛をひたすら描く
小説が、売れている。世相の上っ面を描き、笑いを引き出すの
も、文学賞を受賞したりして、社会の注目を集めているが、どち
らも、時代の実相から背を向けているという共通点があるのでは
ないか。

「4日間の奇跡」が映画になっている浅倉卓弥の「雪の夜話」を
読む。15歳で亡くなった少女の魂が、生まれ変わるまで、北海
道の雪の降る公園で、主人公に姿が見える。主人公は、高校生の
ときにその不思議な少女に出逢い、東京での美大生生活、就職し
た印刷会社でのデザイナーとしての生活、そして、失意の退職、
故郷の北海道に帰ってみると、7年間の空白もなんのその、不思
議な少女は、雪の降る公園にまだいた。少女の名前は、雪子とい
う。

少女の現われる公園が取り壊される頃、雪子は、消えてしまう。
その後、結婚した主人公の妹に女の子が生まれる。名前は、雪
子。主人公の少女幻想と高校生から大人になるまでの成長物語を
ないまぜにしたストーリー展開だが、社会や時代とのかかわり
が、見えて来ない。こちらも、「四日間の奇跡」同様に、死と再
生の物語。このサイトの「乱読物狂」で、先日書いた「四日間の
奇跡」の書評のように、「いまはやりの『世界の中心で愛を叫
ぶ』流の純愛物語は、社会の右傾化の現れであるかのように、
『癒し』という形で、身近なものへと人々の関心を向けさせ、大
局への関心を殺いでいるように見える」という感想は、変わらな
かった。

東野圭吾「黒笑小説」は、日常生活の、薄皮をめくってみれば、
実相は、こんなもの、という作者の皮肉な眼が捉え、再構築した
ブラック・ユーモア、つまり、「黒い笑い」をベースに据えた、
13編の短編小説が、並ぶ。文学賞の受賞の裏事情を暴露した
「もうひとつの助走」「線香花火」「過去の人」「選考会」な
ど、文壇ものが、おもしろい。東野の作品は、おもしろいが、読
後の印象が、褪めやすいのも、特徴かもしれない。

垣根涼介「君たちに明日はない」は、リストラ請け負い会社の首
切り面接官の日々を描く。今年度の山本周五郎賞受賞作品。若い
面接官が、年上の出逢った女性社員は、「絶対辞めない」と宣
言。いつしか、男女の仲になって行くふたり。そういうふたりの
生活を縦軸にしながら、リストラ請け負い会社の面接官の日々
が、おもしろ、おかしく描かれる。しかし、リストラの背景にあ
る社会の実相や状況は、描かれない。こういう読み物が、もては
やされるなかで、社会や人生の実相に迫るような文学作品は、衰
微して行くように見える。こういう本を続けて読んでみると、日
本文学の現況が見えて来る。
- 2005年6月23日(木) 21:47:10
6・XX  川岸富士男の「四季礼讃」という、草木花を描いた
個展を覗いて、作家と話をしたのをきっかけに、川岸の「植物画
プロの裏技」という本を読んだ。多摩美術大学のグラフィックデ
ザイン科を卒業した後、印刷会社に勤務していたが、そのころか
ら植物画を描いているという。水彩絵の具に日本画の面相筆、丸
筆を使い、和紙に日本画風の植物画を描く。専門に習ったのでは
ないようだが、川岸の作品は、細密な植物画である。

私も、さまざまな庭木を植えたいと思っているので、植物観察に
役立ちそうだと思い、「植物画プロの裏技」という本を購入した
のだが、是非、絵を描くようにと、勧められた。兎に角、5分で
良いから、持続的に植物の絵を描くことを勧められた。毎日5分
でも絵を描き続けていると、いつか巧く描けるようになるとい
う。花、葉、葉脈、実などについて、植物画の描き方のテクニッ
クが、個別、具体的に解説されているので、おもしろい。プロの
裏技が、ワンポイントのミニ解説で、掲載されている。作家が
使っている画材の紹介も親切だ。いずれ私も、文章を書き、庭木
を育て、植物画を描くようにしたい。
- 2005年6月19日(日) 22:30:49
6・XX  桐野夏生「魂萌え!」は、どこにでも居そうな59
歳の主婦の、いわば第二の人生を活写する。平凡な主婦の日常
は、ちょっとしたことで、虚像だったことが、暴露される。退職
し、趣味の蕎麦打ちに励んでいたはずの夫が、亡くなる。葬儀に
見知らぬ女性が姿を見せる。夫が勤めていた会社の食堂で働く女
性で、生前の夫と関係があった。銀行に勤めていた息子は、
ミュージシャンを夢見て、渡米した。アメリカで結婚して子ども
がいる息子は、父の死をきっかけに家族を連れて一時帰国した
が、今後は、母と同居をし、遺産も寄越せと言い出した。家を出
て、コンビニでバイトをしながら、年下の青年と同棲中の娘も、
なにやら、やっかいだ。

夫の死をきっかけに、夫も、息子も、娘も、皆、それ以前の虚像
をかなぐり捨てて、実像を顕わしたのだ。さざ波が立ちはじめた
と思ったら、さざ波は、意外と、大波で、主婦の老後の生活を直
撃して来た。夫の愛人との対決、遺産ばかりを狙う息子との対
決。平凡な日常生活を送っていると思っている、世の多くの人た
ちに、自分たちの足元にある日常生活なんて、この主婦と同じ
で、いかに、もろいものかを知らせる。主婦は、亡くなった夫か
ら自立し、財産目当ての息子、娘たちから自立し、いつのまに
か、さまざまな葛藤に真正面から立ち向かう強靱さを身につけ
る。つまり、主婦のアイデンティティの恢復だ。主婦から、ひと
りの初老の女性への、魂の目覚め。魂が、萌えはじめる。最終章
のタイトル通り、「燃えよ魂、風よ吹け」というわけだ。風に立
ち向かう魂が萌えはじめる。虚像をかなぐり捨てて、目の前に結
び出した実像をしっかりと見据えて、59歳、関口敏子は、ひと
りの女性として歩み出す。遺産も自分のために使うぞ!。桐野
ワールドとしては、異例の作品になったが、底に流れるのは、現
代社会への鋭い風刺と皮肉なユーモアたっぷりの筆致であり、こ
れは、まさしく、桐野ワールドの骨法だ。老年、いかに生くべき
か。

老年期とは、第2の思春期である。年金、預貯金に裏打ちされた
それなりの経済生活、期間的には限られてはいるが、目の前に拡
がる豊饒な時間は、第1の思春期とは違う生活環境だろうが、決
心さえすれば、自分の思うように生きられる可能性がある。夢を
追える。経済生活のことにあまり悩まずに、夢を追えるのが、第
2思春期だろう。金は、ないけれど、夢があるというのが、第1
思春期なら、第2思春期は、そこそこの金があり、最低限の生活
を心配せずに、夢を追えるという、黄金期だろうと思う。関口敏
子、59歳は、一足早く、そういう豊饒な時期へ一歩踏み出し
た。「最初の一歩」のための、葛藤の事例が、ここにはある。桐
野夏生、54歳は、いわば、己の近未来を、この作品に結晶させ
たのだと、思う。老後の、第2思春期の見取り図を書き上げた桐
野ワールドの、今後の展開を期待したい。
- 2005年6月12日(日) 9:13:35
6・XX  浅田次郎「草原からの使者 沙高樓綺譚」と「天切
り松闇がたり 昭和侠盗伝」を読む。いずれも、浅田ワールドの
魅力たっぷりのエンターテインメント短編連作作品。

「草原からの使者」は、「沙高樓綺譚」シリーズの第2弾。「昭
和侠盗伝」は、「天切り松闇がたり」シリーズの第4弾。いずれ
も、浅田次郎「節」の、泣きが入る。

「沙高樓綺譚」は、例によって、各界の名士が集まる秘密サロン
「沙高樓」で、名士たちが、人生の秘事を語り合う。例えば、
「宰相の器」では、衆議院議院の秘書をしている人物が、一昨年
まで秘書をしていた大物政治家の総裁選立候補の秘話を披露す
る。政治家の指南役といわれる占師がからむ話。総裁選に立候補
したふたりは、相次いで突然、病死してしまう。第三者が、結
局、総裁になってしまう。病死したこと自体、ふたりは、「宰相
の器」ではなかったからではないか、というのが、話の落ちとな
る。

「天切り松闇がたり」も、東京拘置所に収監中の天切り松こと、
掏摸の村田松蔵が語る「目細(めぼそ)の安(やす)」こと、杉
本安吉親分一統の話。先輩の盗人諸兄姉が素晴しい。天切り=屋
根やぶりの名手、黄不動の栄治、通称「書生常」と呼ばれる、変
装の名人、百面相の常次郎、水も滴る美女、振袖のおこん、説教
癖のある寅弥、そして、語り手の天切り松らの、鮮やかな犯行が
語られる。そういう与太話に相沢三郎中佐の永田鉄山少将殺しや
相沢中佐の未亡人の話が絡んで来て、天切り松の語り(いや、騙
り)下ろしともいうべき、昭和裏面史が、浮き上がってくるとい
う趣向。
- 2005年6月9日(木) 21:49:36
6・XX  浅倉卓弥「4日間の奇跡」は、吉岡秀隆、石田ゆり
子、松坂慶子、西田敏行らが出演する同名の映画の原作。留学先
のオーストリアで他人の強盗事件に巻き込まれ、左手薬指を第1
関節から失い、ピアニストの道を閉ざされた青年が、事件で両親
を銃殺された上に、自分も脳に障害を負った少女とともに過ごし
た山奥の診療所で遭遇した4日間の不思議なできごと(青年の高
校時代の後輩の女性が、少女に乗り移る)。死と再生の物語。い
まはやりの「世界の中心で愛を叫ぶ」流の純愛物語は、社会の右
傾化の現れであるかのように、「癒し」という形で、身近なもの
へと人々の関心を向けさせ、大局への関心を殺いでいるように見
える。100万部突破したという本書の、映画作品は、あす、
ロードショー公開される。
- 2005年6月3日(金) 21:50:39
6・XX  北尾トロ「ぼくはオンライン古本屋のおやじさ
ん」、出久根達郎「かわうその祭り」、角田光代・岡崎武志「古
本道場」など、古書に関連する本を読む。

北尾トロ「ぼくはオンライン古本屋のおやじさん」店を持たず
に、オンラインで始めた古本屋の始末記。インターネットを使っ
た古本屋が、増えているという。サイドビジネスとして、始める
人、プロの古本屋が、店売り、通信販売に加えて、インターネッ
トでも、オンラインで売り買いする。北尾トロは、ライター稼業
の傍ら、オンライン古本屋を始めた人。個人から古書を買うため
には、古物商の許可を取得する必要があるという。申請先は、所
轄の警察署の防犯課(いまでは、確か、「生活安全課」というは
ず)で、多分、盗品の書籍の買い取りをチェックするために、許
可の諾否に警察が関与するのだろうか。許可が降りると、「○○
県公安院会許可 第○○○○号 書籍商」という鑑札をくれる。
オンライン古本店経営の魅力や苦労の話、オンライン古本屋の作
り方など、素人でもやれそうなノウハウを開陳してくれる。

出久根達郎「かわうその祭り」は、古書、あるいは、切手、紙片
などのコレクターの話。「かわうその祭り」とは、「獺祭(だっ
さい)」といい、かわうそが、捕った魚を身の回りに並べて置く
ことの例えで、コレクターが、自慢の品を身の回りに拡げて悦に
入っていることを言うのだそうな。いかにも、長年古書店を営ん
で来た出久根ならではの、世界である。架空の切手を作る偽切手
作り師。戦前の左翼活動家が作った「思想春本」や「幻の映画
フィルム」などまで、時空を超えて出久根ワールドが、展開す
る。一枚の変哲もない紙片が、時代の証人となる。

角田光代・岡崎武志「古本道場」は、古書に付いて多数のエッセ
イを書いているライターの岡崎武志が、「岡崎武之進」という古
本道の師匠として登場し、その指導の下、古本屋の見分け方、利
用の仕方、古本の魅力などを角田光代に教え込んで行く。角田が
訪ねて廻る古本屋は、神保町から始まり、代官山、渋谷、東京駅
(八重洲地下街)、銀座、早稲田、青山、田園調布、西荻窪、鎌
倉と廻り、再び神保町でゴールする。古本の世界の奥深さが実感
できる一種の街角再発見物語と言える。
- 2005年6月1日(水) 22:37:11
5・XX  宇江佐真理「君を乗せる舟 髪結い伊三次捕物余
話」、杉本章子「信太郎人情始末帖」、小杉健治「八丁堀殺し 
風烈廻り与力・青柳剣一郎」と「火盗殺し 風烈廻り与力・青柳
剣一郎」を読む。いずれも、時代小説である。宇江佐真理「君を
乗せる舟 髪結い伊三次捕物余話」は、シリーズ第6作。江戸の
庶民の姿を江戸北町奉行所定町廻り同心・不破友之進の小者を勤
める髪結い伊三次を軸に描いて行く。芝居小屋の丸太の足場の天
辺によじ登る「本所無頼派」の若者グループが、出て来たりす
る。

杉本章子「信太郎人情始末帖」は、シリーズ第4作。主人公の信
太郎は、江戸の「本町四丁目に六代も暖簾をあげている大身代の
呉服太物店美濃屋の跡取りで、許嫁もいた。それが、二つも齢上
で、しかも子持ちの後家のおぬいと深間に落ちて、勘当の身と
なった」が、「岡っ引きはだしの勘の冴え」を見せながら、「お
ぬいの伯父久右衛門が河原崎座の金銭出納をたばねる大札をして
いることから、信太郎はその下で働いて」いる。

だから、このシリーズには、歌舞伎の芝居小屋の話が散見され
る。坂東しうかの「女鳴神」の舞台が描写されたりする。「二階
桟敷(うえ)から、鶉桟敷(うずら)から、平土間(した)から
声が飛ぶ」などという嬉しい表現に出逢う。河原崎座の囃子方、
黒御簾で、笛を吹いている御家人の次男坊・磯貝貞五郎が、出て
来る。江戸の歌舞伎小説として読んでもおもしろい。

もちろん、「始末帖」の由縁となる「岡っ引きはだしの勘の冴
え」は、江戸南町奉行所定町廻り同心三上小平太の小者同然の働
きをする。こちらが、本筋。

小杉健治の「八丁堀殺し 風烈廻り与力・青柳剣一郎」と「火盗
殺し 風烈廻り与力・青柳剣一郎」は、「風烈廻り与力・青柳剣
一郎」シリーズの第2作と第3作。弁護士を軸にした法廷小説で
デビューした小杉は、その後、向島ものの人情小説や「土俵を走
る殺意」など相撲を舞台にしたサスペンスものなどに新境地を開
き、さらに。最近では、時代小説にも活路を見い出し、「風烈廻
り」兼「例繰方」の与力という、定町廻り、臨時廻り、隠密廻り
などという時代小説によく出て来る下級官吏の職位からみれば、
いままであまり馴染みの薄かった「風烈廻り」という、風の強い
日に火災予防や放火の取り締まりをする、いまでいえば、さしず
め消防署の下級幹部を主人公にしながら、おもしろいシリーズの
主人公を創造した。

まあ、どの作品も、「捕物帳」のバリエーションと言ってしまえ
ば、実も蓋もないが、それぞれが、現代社会が抱えるさまざまな
問題をテーマに、江戸の庶民の生活描写に力を注いで、テーマへ
の回答の試みを提言しながら、読みごたえを重視する物語を構築
しているので、読んでいて、飽きない。いずれも、時代小説のミ
ステリーゆえに、粗筋の詳細の紹介は避けたい。
- 2005年5月19日(木) 22:17:52
5・XX  時代小説と歴史小説、そして、歴史評論を読む。時
代小説は、絵空事なので、フィクションにいかにリアリティを持
たせるような描写力を発揮できるかどうかが、作品の良し悪しを
左右する。

北原亜以子「夜が明けるまで 深川澪通り木戸番小屋」、西村望
「左文字の馬 川ばた同心御用扣(ひかえ)(三)」、佐伯泰英
「探梅ノ家 居眠り磐音江戸草紙」は、時代小説の競演。時代小
説は、いずれも、それぞれの作家が作り上げたキャラクターたち
を生き生きとした人物に仕上げるか、そして、そのキャラクター
たちが、生き抜いた時代のリアリティをフィクションの積み重ね
の上に構築できるかが、問われる。

北原亜以子は、シリーズ第4作。すでに自家薬籠中のものとした
江戸深川を舞台に深川澪通りの木戸番小屋に住む夫婦を取り巻く
庶民たちを活写し、読みごたえのある物語の世界をさらに拡げ
た。

西村望は、「川ばた同心」こと南町奉行所同心・秋山五六郎の
「御用扣」という記録簿をベースに西村流の江戸人情のリアリ
ティを書き込む。これも、好調のシリーズ第3作。単なる捕物帳
ではなく、捕物帳というミステリーの謎解きのおもしろさを充分
に配慮しながら、「へだかる」(「へたばる」の意)などという
江戸の庶民の言葉が、随所にでて来たり、「烏頭(うず)でも飲
ませたら」とあるような「烏頭」という江戸の虱取りの薬がでて
来たりなど、江戸の香が細部に光るのが、西村流の時代小説の、
もうひとつの愉しみである。

佐伯泰英「探梅ノ家 居眠り磐音江戸草紙」も、好評の書き下ろ
しシリーズ第12作。こちらも、深川六間堀の長屋に住むお馴染
みの坂崎磐音が主人公の人情チャンバラ小説。日々起こる事件の
謎解き、剣の使い手としてのチャンバラ場面のサスペンスもさる
ことながら、主人公のキャラクターが、春風駘蕩の懐の深い人物
に描かれていて、それが、このシリーズの最大の魅力になってい
る。

時代小説が、エンターテインメント志向なら、歴私小説は、知の
愉しみを求める。事実の持つおもしろさ。ち密に調べ上げたこと
から、繰り出されるエピソードの数々。例えば、吉村昭「暁の旅
人」。幕末から明治期を生き抜き、日本の近代医学の基礎を築い
た蘭学医・松本良順の生涯。幕府の奥医師で、戊辰戦役では、幕
府に殉じて、会津、新庄、榎本武揚のいた仙台にまで、逃れて行
き、維新後は、新政府の軍医として最高の地位まで上り詰めた波
乱万丈、孤高の人生もさることながら、幕末期には、新撰組の近
藤勇らと交友があったり、維新後は、患者の九代目市川團十郎に
牛乳愛飲を勧め、それを牛乳普及の宣伝に使ったりしたという細
部のエピソードもおもしろい。吉村昭が、いかにも、好みそうな
人物である。

歴史小説は、史実の積み重ねをベースにしながら、史実の隙間を
作家の豊饒な想像力で補い、ひとつの作品世界を構築する。もち
ろん、筆致は、小説家らしい、艶や巧緻を駆使する。一方、歴史
評論は、評論家の筆になるだけに、筆致は、乾いていて、艶や巧
緻を極力排除する。それでいて、探り出した史実の読み方には、
評論家らしい視点を駆使して、物語を構築する。

渡辺保「忠臣蔵 もう一つの歴史感覚」は、赤穂諸事件といわれ
る江戸城での浅野内匠頭の刃傷事件から始まり、大石内蔵助ら家
臣による仇討事件、その後の大石らの切腹事件までという史実と
「仮名手本忠臣蔵」という、人形浄瑠璃、後に歌舞伎として劇化
された芝居との間に渾然一体となって生まれた日本人の「歴史感
覚」の謎を分析する評論で、私は、再読。史実の赤穂諸事件が、
いつのまにか、芝居というフィクションの忠臣蔵物語として、共
同幻想される日本人の歴史意識を問題とした渡辺の「忠臣蔵」論
は、平林たい子賞と河竹賞を受賞した名評論なのだが、単行本も
文庫本も絶版で、古書店でも、手に入りにくいとは、もったいな
い。復刊すべき本だと思う。このたび、ひょんなところで、絶版
本を見つけ、購入し、再読した次第。

渡辺の「忠臣蔵」論は、論旨が、明解過ぎて、これは、一方的と
言うと極論過ぎるが、いわば、渡辺の独創的見解であって、別の
見方もできそうだなとも思う。私の第1の不満は、「仮名手本忠
臣蔵」をとりあげながら、合作の軸となった並木宗輔を殆ど評価
していない点。これは、いかがかと思った。渡辺と違う視点で、
いずれ、「忠臣蔵」論を書いてみたいと、思った。
- 2005年5月15日(日) 14:20:12
5・XX  五木寛之「みみずくの夜メール2」は、朝日新聞連
載のコラムを軸にまとめた本。表題の「みみずくの夜メール」
は、すでに、本になっていて、続巻で、今回で完結。五木流のも
のの見方、価値観をちりばめながら、「メール」のように、気軽
に書いているという「風(ふう)」を装いながら、かなりの達意
の文章になっているところは、さすが五木寛之だ。村上豊の挿し
絵も、絶品。文章と絵の達人コンビによる珠玉の単行本。新聞連
載コラム以外の短文では、五木の「親鸞」小説執筆へ向けての宣
言が、おもしろい。「蓮如」に継ぐ作品を期待したい。

奥田英朗「泳いで帰れ」は、アテネオリンピックの観戦記。金メ
ダルを逃した中畑監督代行の長嶋ジャパンの観戦記を軸に柔道、
女子マラソンなどをウオッチングした記録だが、気軽に書いてい
るようで、実際に、気軽に書いているのが、丸判り。奥田の小説
のおもしろさをすっかり忘れさせるような駄作で、エッセイで
は、奥田英朗は、五木寛之の足元にも及ばないということが、良
く判った。表題の「泳いで帰れ」は、「感動をありがとう。長嶋
ジャパン」という標語で締めくくられた、日本の総括の仕方への
違和感、長嶋ジャパンへの、奥田の罵倒の気持ちを表わしてい
る。オリンピック報道のような、大政翼賛的な、日本人の感性に
対する奥田の反発は、良く理解できる。
- 2005年5月14日(土) 11:29:08
5・XX  高橋順子「花の名前」は、花の写真が、ふんだんに
入った、いわば花の歳時記。四季を「鞜青」「滴翠」「錦秋」
「埋火」で、春夏秋冬。さらに、例えば、「鞜青」なら、「立
春」「雨水」「啓蟄」「春分」「清明」「穀雨」というように6
つにわける。春夏秋冬で、24、つまり、「二十四節気(にじゅ
うしせっき)」となる。さらに、節気を3分し、72、つまり、
「七十二候」とする。例えば、「立春」なら、「東風解凍(とう
ふうこおりをとく)」「黄鴬○○(こうおうけんかんす)」(○
○は、目偏に見、目偏に完)「魚上氷(うおこおりにのぼる)」
という具合だ。この一候は、ほぼ5日間ずつの自然の変化を、上
記のように記録する。紀元前に、中国の華北で考案されたとい
う。高橋は、その七十二候に、それぞれ花を当て、花による自然
の変化を歳時記のようにまとめた。花の写真を撮ったのは、佐藤
秀明。

例えば、いまの季節のページをあけると、こうある。「滴翠の
巻」では、「立夏」の第一候。「蛙始鳴(かえるはじめてな
く)」(5・5〜5・9)では、「薔薇」、「野茨」(「野薔
薇」「犬茨」「茨」「かたら」)、「庚申薔薇」(月季花」「月
月紅」「長春花」「茨牡丹」)など、花の異名を写真とともに掲
載する。日本の野薔薇は、白、または、淡紅色。シューベルトの
歌曲「野薔薇」は、赤色などという短文が付く。

「立夏」の第二候。「蚯蚓出(きゅういんいず)」(5・10〜
5・14)では、「躑躅」、「皐月」、「石楠花」、「朴の木」
が、取り上げられる。「躑躅」は、漢語では、「てきちょく」と
読み、意味は、「足踏みをする」「躊躇する」こと。花々に目を
奪われて足が停まってしまう、つまり、躑躅は、それほどの花と
いうわけだ。「皐月」は、別名、「皐月躑躅」で、遅く(陰暦5
月)咲く躑躅のこと。または、「杜鵑(とけん)花」、つまり、
「ホトトギス」(杜鵑、時鳥)が、鳴くころ、花が咲くからだ。
「石楠花」は、「卯月花(うづきばな)」で、陰暦4月ころに咲
く。「癪(しゃく)投げ」で、「石南花」の枝で作った箸を使う
と、癪が治まるという俗説もあるそうな。

「立夏」の第三候。「竹筍生(ちくじゅんしょうず)(5・15
〜5・20)では、「卯の花」(「空木(うつぎ)」「雪見草」
「夏雪草」)「卯の花腐(くた)し」「卯の花曇り」「卯の花月
夜(づくよ)」「境(さけぇ)の木」などと卯の花尽くし。「ほ
ととぎす来鳴き響(とよ)もす卯の花のともにや来しと問はまし
ものを」(石上堅魚)。あとは、「橘」とその異名の「昔草」
「常世草」。

この本は、読むというより、座右に置き、季節季節に花咲けば、
紐解いて、写真を眺め、文章を読み、季語を学び、花の異名を知
る。そういう使い方が、いちばん良さそうだ。高橋には、同じ趣
向の本が、ほかに2冊あり、「雨の名前」と「風の名前」という
が、いずれも、季語の豊饒さを学ぶのに適切である。
- 2005年5月2日(月) 22:17:33
4・XX  粕谷栄市の最近刊行された「鄙歌」と「転落」を読
み、あわせて、29年前刊行の現代詩文庫版の「粕谷栄市詩集」
とそのほぼ中間の、13年前刊行の「鏡と街」を読む。芸術選奨
文部科学大臣賞を受賞した詩人だが、本業は、東京から電車で1
時間ほどの町で、お茶を商っているようだ。生まれてから、ず
うっと、その町で育ち、東京の大学にも、そこから通い、生家の
商売を継ぎ、いままで、町から出ずに、住み続けて来た。

だが、この詩人が紡ぎ出す作品世界は、ひとつところに住み続け
てなどいず、ときには、瞽女になり、「白い雪の積もった刈田の
なかを」歩いていた(「雛歌」から「野」「撥」「枕」)かと思
うと、静かな独房のなかで、「さめざめと、声をしのんで泣いて
いた」男(「雛歌」から「夏の花」)になっている。「六月の暗
い夜には、爺をひとり、遠い山のなかに捨てに行く」(「雛歌」
から「爺」)かと思えば、「静かな秋の暁、婆を、ひとり、猫車
に乗せて、ゆっくりと押して歩いて行く」(「雛歌」から
「婆」)という、闊達さ。井の中の蛙は、井の中を徹底的に探求
する創造力旺盛な蛙になる術さえ心得れば、井の外の普遍的な世
界と通底できる、という真理を、この詩人は、身を持って証明す
る。その証明の計算式の答案が、いくつもの詩集になって残って
いる。

そうかと思えば、「彼の世界の中心に在る透明な青い部屋に、苦
痛にあえぐ男は座っている」(「鏡と街」から「苦痛にあえぐ男
の肖像」「わっと叫びたい男がいて」(「鏡と街」から
「わっ」)というような、極めて自伝的な詩も書く。「一人の人
間の肉体が、バラバラになって存在すること」(「転落」から
「啓示」)、「その日、不意に、彼女は、自分が何ものである
か、分からなくなる」(「転落」から「無名」)というように、
未来の姿を想像もする。

このように、粕谷栄市の詩の数々は、あたかも、掌編小説を読む
かのような印象を覚える。豊饒な世界が、見開き2ページの詩に
納まり切っている。これだけ、世界を凝縮して、紙片に閉じ込め
る作業をしているならば、「文章を書くのは、私には辛いことで
ある」(「粕谷栄市詩集」から「初恋・卑怯以前のこと」)とい
う心境が良く判る。「小心で偏狭な私は、この町で生まれ、食う
ために商人になり」「人間が、人間である町、人間のすべてであ
る町」(「粕谷栄市詩集」から「わが町」)に住み続け、昼は、
商人、夜は、詩人という生活を続ける。数年に1冊の割で、詩集
を出すという恵まれた詩人生活の果てに、詩人は、文部科学大臣
賞をとる。偏狭な詩人が、散文で紡ぎだした豊饒の世界の数々。

時空を闊達に動き回る粕谷の数々の詩を読むと、誰もが、「柵を
乗り越えて、一人ずつ、遥かな地上に転落していった」(「転
落」から「転落」)という。私も、これから転落するのだろう。
- 2005年4月22日(金) 21:48:37
4・XX  やくざ映画、西部劇映画、歌舞伎狂言で、3題話め
いた書評を書こうか。読んだ本は、山根貞男ほか「『仁義なき戦
い』をつくった男たち 深作欣二と笠原和夫」と逢阪剛「墓石の
伝説」である。

「『仁義なき戦い』をつくった男たち 深作欣二と笠原和夫」
は、NHKの教育テレビで、03年5月3日の憲法記念日に放送
したETVスペシャル「『仁義なき戦い』をつくった男たち」を
元に出版された本である。番組を担当したディレクターと映画評
論家の山根貞男の合作であり、両者が分担をして、文章を書いて
いるが、主調律は、山根貞男が、奏でている。関係者のインタ
ビューは、ディレクターが担当した。

1960年代の後半、私たちの世代が、学生時代に良く観たやく
ざ映画「日本侠客伝」(高倉健主演)、「緋牡丹博徒」(藤純子
主演)など、それまでの義理と人情の、仁侠路線のやくざ映画
が、下火になった後、『仁義なき戦い』という、集団闘争の新し
いやくざ映画をつくった男たち、監督の深作欣二と脚本家の笠原
和夫の、ふたりを軸に『仁義なき戦い』という映画の誕生秘話と
社会的な背景の分析をした本。特に、脚本作りのために、綿密な
事前取材で知られた笠原和夫の几帳面な取材ノートが、14ペー
ジに亘って、写真で収録されているのは、貴重である。やくざの
言葉や生活習慣などについては、関係者の聞き書きでまとめた。
例えば、「刺青」では、「いれずみ」は、禁句。入墨は、江戸の
刑罰の言葉であり、「ほりもの」では、遊びになってしまうか
ら、「刺青」を誉めるときは、「いい傷ですね」というそうだ。

まあ、それはさておき、日本のやくざ映画史上、時代を画する映
画となった「仁義なき戦い」は、歌舞伎の様式美に通じる、勧善
懲悪、悲壮美凝らしたフィクション仁侠映画から、ノンフィク
ションの印象が強いフィクション映画であるリアリズム路線への
転換を示す実録映画であった。そういう転換点に立つものは、映
画に限らず、必ず、時代の尻尾を持っている。「仁義なき戦い」
の尻尾は、高度成長経済の高揚の果ての、バブル経済と、その後
の破綻を予兆させるということだろう。私は、この間に、ジャー
ナリスト志望の学生から、ジャーナリストになり、初任地・大阪
で記者活動を始めた。深作欣二監督作品は、すべてを観ているほ
どのファンではなかったが、随所随所で、深作作品を観ながら、
記者生活を続けて来たことが判る。そういう意味では、同時代史
を、深作作品とのかかわりで、改めて、振り返え直すという効果
があったように思う。

仁義なき戦いといえば、西部劇もそうだったようだ。私は、仁侠
映画ほど、西部劇は観なかったが、西部劇おたくらしく、西部劇
にこだわった作家がいる。逢坂剛である。逢坂は、病膏肓で、作
家と等身大の主人公、岡坂神策シリーズの最新作「墓石の伝説」
では、ワイアット・ア−プ伝説を軸にしながら、西部劇の名作
「OK牧場の決闘」の真実探しを「評論」ではなく、ミステリー
仕立ての「小説」に仕上げてしまった。日本人の監督が、本場さ
ながらの西部劇映画を作るという話が、おもしろ可笑しく展開す
る。逢坂ワールドも、極まれりという作品が登場した。

その秘密は、ミステリー小説の紹介の常道として、ここでは明か
せないが、「リメイク」映画にあり、とだけ、書いておこう。
「リメイク」といえば、歌舞伎の狂言作者たちは、先行作品を下
敷きにして、堂々と「書き換え狂言」として、リメイク作品を量
産したのである。歌舞伎の書き換え狂言の話は、また、別の物
語、ということで、ここでは、具体的には、触れないが、リメイ
クものも、立派に独立した作品に仕上がるかどうかは、作り手の
力量次第。それは、歌舞伎400年の歴史が、きちんと証明して
いるとだけ、指摘しておこう。
- 2005年4月21日(木) 22:11:09
4・XX  歌舞伎関連の本をノンフィクション、フィクション
取り混ぜて、読んでみた。選んだのは、村松友視「そして海老
蔵」、東郷隆「猿若の舞 初代勘三郎」、中村勘九郎ほか「中村
屋三代記」、小林恭二「宇田川心中」、それに、新人の東芙美子
「花に舞う鬼」である。

まず、話題の襲名披露関連が、2題。ひとつは、去年から始まっ
た十一代目市川海老蔵を取り上げたのが、村松友視「そして海老
蔵」。「成田屋の意気」というサブタイトルが、付いている。
2003年12月31日、つまり、大晦日の成田山新勝寺から、
海老蔵襲名の軌跡を追って、作家がまとめあげた1年間のドキュ
メント。海老蔵、父親の團十郎の楽屋話を始め、鬘、床山、江戸
指物、衣装、附打、河東節、大道具など、襲名披露興行を支える
裏方の人たちの苦労話、2004年5、6月の歌舞伎座(父親の
團十郎の病気休演)、7月の松竹座、9月の御園座、10月のパ
リの国立シャイヨー劇場(團十郎の舞台復帰)、12月の南座な
どの興行裏話など、エピソードの構成も工夫している。

「家庭画報」に連載されたものだけに、舞台写真、襲名披露パー
ティや成田山のお錬りなどのスナップ写真、襲名披露の引き出物
の写真など、写真ももりだくさん。海老蔵ファンには、是非手許
に置きたい一冊だろう。

ただし、襲名披露の軌跡を追い掛けるにあたって、興行側の松竹
から、かなり便宜を図ってもらったであろう軌跡も随所で伺わ
れ、それだけに、襲名披露につきものの、「よいしょ」も、ない
わけではないのが、ちょっと残念。作家・村松友視らしい、辛口
の批評も混ぜてもらえば、もう少し、客観的な読み物になったの
ではないかと、思う。

もうひとつの襲名披露ものは、2005年3月から始まり、目
下、歌舞伎座で、襲名披露興行2ヶ月目の舞台が、極めて順調、
連日、満席の盛況振りを見せている十八代目中村勘三郎関連であ
る。東郷隆「猿若の舞 初代勘三郎」は、中村屋の原点、初代の
猿若勘三郎の物語。二代目出雲の阿国とともに、歌舞伎の歴史を
刻みはじめた歌舞伎役者の足跡を描く。十八代目勘三郎が、東郷
隆に執筆を切望したというから、こちらも、襲名披露のご祝儀
で、「祝・勘三郎襲名」と本の帯に刷り込む、「よいしょ」ぶ
り。ただし、仰々しい帯を解くと、白地に書名と著者名というシ
ンプルなデザインの表紙に化けるという意味では、担当編集者、
あるいは、装幀家が、意地を見せたかもしれない。

ストーリーは、史実の加えて、大胆な創作もちりばめているよう
で、おもしろく読んだ。

中村勘九郎ほか「中村屋三代記」は、新しい本ではないが、古書
店で格安な文庫本をみつけ、未だ読んでいなかったこと思い出
し、読んでみた。先代の勘三郎の弟子の中村小山三が、勘三郎以
前の先代のエピソードを語り、歌舞伎界最長老の中村又五郎が、
少年時代の先代を語るほか、長女の波乃久里子が、父親像を語る
「十七世中村勘三郎」。同じような手法で、「五世中村勘九郎」
を語る。語り手は、従兄弟の清元延寿太夫、義父の中村芝翫、義
弟の中村橋之助、さらに中村家の番頭、学友ら。最後に、中村勘
九郎が、父親勘三郎を語り、「将来」の勘三郎襲名を語るという
構成で、ことしの襲名披露興行最中の刊行でないだけに、一種の
落ち着きがあり、かえって、おもしろく読めたと、思う。

小林恭二「宇田川心中」は、近松門左衛門、河竹黙阿弥、鶴屋南
北を凌駕する、「時空を超えた壮大な愛の物語」というので、歌
舞伎好きの小林恭二が、歌舞伎狂言を超える、心中ものの世界を
構築したかと錯覚し、読んでしまったら、それほどおもしろくは
なかったので、がっくり。劇中に、二代目河竹新七こと、後の、
黙阿弥が登場するが、存在感が、もうひとつの出来。

東芙美子「花に舞う鬼」は、歌舞伎、日本舞踊の世界をフィク
ションで描くが、誰をモデルにしているかは、判りやすい。例え
ば、十一代目皆川翔十郎は、市川海老蔵が、モデルだろう。容貌
のイメージなどは、海老蔵以外の何者でもない。実験的な歌舞伎
興行に自ら乗り出す辺りは、市川猿之助も、モデルに加えている
かもしれない。歌舞伎の皆川翔十郎代々は、市川團十郎代々であ
り、江戸歌舞伎の宗家という位置付けである。

また、七代目藤村蘭寿郎は、六代目中村歌右衛門が、浮かんで来
た。藝養子の内、八代目蘭寿郎を継ぐのは、坂東玉三郎をイメー
ジして、人物造型をしている。まあ、安直なキャラクター作りの
感もないではない。

重要な欠点は、「主要家系図」として、巻頭に掲載されている図
に誤りがある。なぜ、こういう単純なミスが起きるのか、著者と
編集者、スタッフとの連繋ミスとしか言い様がない、単純な誤り
だ。

また、歌舞伎座が、主要な舞台のひとつになっているが、定式幕
が、歌舞伎座のものではなく、国立劇場(つまり、かっての市村
座のもの)の定式幕になっているのも、ミスだろう。

さらに、物語の展開が、仰々しく、梨園の裏話を楽屋雀よろしく
書き込み、オーバーアクションの目立つ小説で、読んでいて、途
中から、興を殺いだ。文章も雑で、飛躍が多く、読んでいて疲れ
た。歌舞伎は、かなり、お好きなようで、いろいろな演目が、随
所に出て来て、ジクソーパズルのように、巧くはめ込んでいる。
その辺りの力量は、感心したが・・・。
- 2005年4月20日(水) 22:11:08
4・XX  森詠「少年樹 オサム14歳」は、同じ著者の、映
画にもなった「オサムの朝」の続編。「オサムの朝」は、以前に
映画を観てから、原作を読んだが、今回は、原作のみ読む。栃木
県の黒磯町で少年時代を過ごした著者の自伝的作品。わんぱく中
学生たちの交流を描く。1941年生れの著者は、私より、数年
年上だが、戦後の中学生時代を描いていることから、地方住まい
とは言え、年上の少年たちの社会状況や世相は、東京育ちの、数
年後の私たちの少年時代と大きな変化はないようだ。戦後の混乱
期とは言え、まだ、いまほど社会の変化が、烈しくなかったのだ
ろうか。

特に、力道山や鉄人の異名をとったワールドチャンピオンの
ルー・テーズなどが出て来るプロレスの話は、ほぼ同時代である
から、懐かしい。オルテガ、シャープ兄弟、殺人鬼・プラッ
シー、日系のグレート東郷などの、悪役レスラーの名前や、木村
某(政雄?)、遠藤幸吉、豊登、東富士など力道山の盟友などの
レスラーの名前、沖識名というレフリーの名前が、突然、脳裏に
沸き上がって来る。村松友視「私、プロレスの味方です」でも、
書庫の片隅から探し出して、確かめてみたくなった。ジャイアン
ト馬場やアントニオ猪木は、もっと、後の世代だ。

還暦を過ぎると、人生リセットで、少年時代が懐かしくなるもの
らしい。国際スパイものなどの小説を書き、日本ペンクラブの獄
中作家委員会の仕事をしている著者には、珍しい少年小説であ
る。
- 2005年4月19日(火) 23:32:28
4・XX  角田光代「人生ベストテン」は、6つの短編作品
集。男女の織り成す人生絵巻が展開される。例えば、「飛行機と
水族館」は、アテネ帰りの飛行機のなかで、隣り合ったばっかり
に、「風が吹けば桶屋が儲かる」式に言えば、最後は、ストー
カー呼ばわりされる男性が主人公。飛行機の隣席にいたのが、失
恋の「泣き女」。10年の濃いの裏切りに見切りを付け、見知ら
ぬ男に涙ながらに恋の顛末を話す。機中で貰った名刺を手がかり
に、帰国後、電話をかけると、見事に居留守を使われた。職場の
帰りを待っていたら、逃げられた。非日常の機中なら、率直に語
り合えた対話は、なんだったのか。それを確かめたくて、男は、
女を追う。男は、女の職場に電話をした。彼女は、風邪をひいて
休んでいると言うので、仕事先の関係者の振りをして、自宅の電
話を聞き出す。そして、女の家を探し当て、お見舞いに訪ねて行
くと、女は、男を外に連れ出し、駅前の交番に飛び込み、男をス
トーカーだと訴える始末。

女は、40歳を前にした独身。女性が、いちばん、怖い年齢だろ
う。表題作「人生ベストテン」は、そういう女性が主人公。静岡
の中学校を卒業以来、25年ぶりで、同窓会に行く気になった。
東京の西麻布のイタリアンレストランで開かれた同窓会。彼女の
出席の目的は、幹事役に名を連ねた初恋の同級生に逢いたく
て・・・ということ。ところが、同窓会では、偽の初恋の君が出
現。2次会は、ふたりだけで、どろんをして、ラブホテルへ。騙
されたまま、彼女は、一夜を過ごす。

私も、一度だけ、中学校の同窓会に行ったことがあるが、確か
に、見知らぬ中年の男女の顔の底から、懐かしい中学生の面影
が、魔法のように出て来る場面は、感動的だが、所詮、それだけ
のもの。本当に逢いたい同級生たちとは、それなりに逢っている
が、何十年ぶりの同窓会で、久しぶりに逢うような友だちは、逢
わなければ、逢わないで支障の名い仲の者ばかり。騙されて、当
たり前か。

リフォーム工事に来た青年が見るマンションの床下の怪奇を描く
「床下の日常」。飽きてしまった同棲相手との生活を解消しよう
と一人旅に出たのに、仲の悪い母娘と遭遇してしまったイタリア
旅行の顛末を描いた「観光旅行」。中古マンション探しの独身女
と不動産会社の社員との男女の仲へのシーソーゲーム「テラスで
お茶を」など。まあ、コンセプトが類推できる連作で、直木賞受
賞後の作品集としては、やや、喰い足らぬ。それに、この作品集
の各作品のタイトルは、もう少し、工夫のしようがなかったの
か。へたくそなタイトルだと思った。
- 2005年4月5日(火) 23:02:40
3・XX  流石真知子「中年のための老後学入門 おばあさん
がやってきた」は、地方に住む身寄りのない伯母を、世話する人
もないまま、寝たきりの独居生活を強いられていたのを救い出
し、有料老人ホームに入れるまでの奮闘記。銀行の通帳もない、
判子もない。金庫の鍵もない。独り暮らしの果てに、伯母は、惚
けてしまっている。姪に当たる著者とその姉の中年姉妹は、突
然、面倒をみることになった94歳の伯母のために、銀行や行
政、老後のための制度、病院、老人ホームと戦いながら、協力も
してもらうコツも、会得しながら、まさに、近付く自分たちの老
いに備えて、賢い老後学を勉強して行く。現在、お年寄りを抱え
ている人、自分の老後の準備が気になり出した人。そういう人た
ちに適切。お年寄り介護の軌跡を実践記録としてまとめただけ
に、試行錯誤の現況が、とても、具体的で、役に立つ本だ。
- 2005年3月27日(日) 15:33:16
3・XX  辻井喬「父の肖像」は、株券の名義偽装などで逮捕
されたコクドの前の会長堤義明の異母兄である堤清二こと、辻井
喬が、ふたりの実父である堤康次郎の伝記を描きながら、己の生
母を探すという物語である。

近江商人の発祥の地、滋賀県の農家に生まれ、商売の才覚を活か
しながら、事業拡大のために政治家になり、財産を築いた父親、
その父親に反発しながら、東大在学中に日本共産党に入り、胸を
煩い、脱退。結核が、快癒したお陰で、退院後、衆議院の議長に
なった父の秘書をしたり、詩を書いたり、悩み多き人生を送り、
一族の会社のトップになりながら、父親の事業の後継者にはなら
ず、遺産の相続も拒否し、詩人、小説家として大成した辻井喬の
自伝的小説である。

従って、全編を通じて、事業を軸に政界に乗り出す野心家、複数
の女性との性的関係もどん欲に追い求める精力家、という父親の
肖像も、くっきりと描かれ、あわせて、父親にいちばん似ている
と言われる義明の肖像も、後半から、現れ始める。義明逮捕、司
直による取り調べが続いているなかで、この小説を読むのは、な
んとも、生々しい。

辻井喬も、父親の康次郎の血から逃れようともがいて来たが、異
母弟の義明は、逃れようとせずに父の血のままに、生き続けた結
果、今日の破局を迎えたことになる。義明の破局は、政治家と事
業家を両天秤に架けて、財を成して来た「成り上がり男」の末路
を二代に亘って、やっと、精算させられようとしている、そうい
うコクド事件の実相も、くっきりと浮かび上がって来る。

しかし、生母の追求の方は、くっきりとは、描かれていない。そ
れは、この小説が、辻井喬の表向きの父の肖像を描くという目的
とともに、裏向きには、堤清二の母を恋うる歌を詠んだ作品とい
う性格を持たされているからだろうか。長編小説でありながら、
一気に読ませる。辻井喬のライフワークとなる畢生の作品に仕上
がっていると思う。読みごたえがあった。
- 2005年3月17日(木) 22:00:33
3・XX  在日韓国人2世の詩人・ぱくきょんみの詩集「その
コ」とエッセイ集「いつも鳥が飛んでいる」を続けて、読んだ。

詩集「そのコ」は、12編連作のシリーズものの「そのコ」を軸
に21編の詩が納められている。「そのコ」シリーズは、7編
が、皆、タイトルが、「そのコ」だけなので、例えば、「そのコ
(キャミソールに)」などと出だしの語句が、目次には、添えら
れている。そして、その(キャミソールに)は、・・・。

「キャミソールにジーンズ、うずくまった、そのコは顔をあげよ
うとしない。ごく若い女のコ。少女はとうに絶滅した国だもの、
いまでは若いコ、という呼び方しかないな、なんて唇なめなが
ら、気を揉む。細い肩ひもだけでひらひら と上半身をおおう一
片の布は腰からお尻を露にさせる。股上の浅いジーンズだから落
とした腰のごく細いくびれからお尻の割れるところまでずいぶん
と見せている。
(略)
十字路で交差しても
わたしたち
何故ぶつからないのだろう
目を合わせないのだろう


そうだよ
わたしたちのことだよ
きょうもパンツがみえている、娘
きょうも裸足がつめたい。娘
(略)


わたしたち と
ひらひら と

ぶつかれ、娘」

40歳代半ば過ぎの詩人は、若い娘の危うさを読む。それは、お
ばさんが、見知らぬ若い娘を観察しているようでもあり、母子の
間柄のようでもあり、後者なら、真摯な対峙を望む母親のイメー
ジが溢れだして来る。

別の「そのコ」から。

「(略)
もういちど 飛ぼうか
もういちど 飛ぼうか
もういちど とおのからだになって
もういちど うつむいて歩きだせば
もういちど とべるから

そうだね!」

そうだね。もういちど、飛ぼうよ。「とおのからだ」にならなく
ても、人生、これからさ!

エッセイ集「いつも鳥が飛んでいる」は、3部構成。山之口貘の
詩、ガートルード・スタインの英詩、児童文学を論じた評論、富
岡多恵子、長谷川町子の「おばさん」論などが、第1部。映画、演
劇、文学を論じたのが、第2部。朝鮮半島の民族文化、なかでも
「ポジャギ(褓)」という布を論じた、幾つもの文章が印象的
だった。これは、第3部。

「ポジャギ(褓)」は、韓国版パッチワークで、韓国の伝統的な
風呂敷のようなもの、ものを包んだり、覆ったりするのに、使
う。我が家の食卓にも、カバータイプの小さな「ポジャギ
(褓)」ある。風呂敷より小さいが、ハンカチよりは大きな、黄
色い薄布のまんなかに小さなつまみが付いていて、引っ張りあげ
ることができる。

このほか、評題作の「いつも鳥が飛んでいる」は、「カヤグム」
と「ポジャギ」に象徴される韓国の民族文化=鳥の飛翔を歌い上
げる。ムジゲ(虹)の国・朝鮮の青、白、赤、黄、緑、ピンク
(躑躅色)という極彩色の世界。3部構成のエッセイ集は、まさ
に、72編の文章によるパッチワークである。
- 2005年3月15日(火) 22:14:26
3・XX  短歌の独唱で知られる絶唱歌人・福島泰樹の23番
目の歌集が、「月光忘語録」。福島の歌集は、ときどき入手して
は、読んでいる。今回、印象に残った歌をアトランダムに引用し
てみよう。往時茫茫の感を共有することになる。

死者を弔う歌が、多い。まず、歌人・春日井建。

*歳月は青い吹雪にかき消され跡形もなく揉まれゆきしが
*高橋和巳寺山修司春日井建わが弔いの五月ゆくべし

新宿ゴールデン街の「ナベサン」主人の渡辺英綱。

*上村一夫と飲みし新宿花園の 黒いインクの雪ならなくに
*滔々と水は流れて悲しくば鶴ちくしょうと思うゆうぐれ
*それからのことは歌わずこうこうと吹きくる風のごとく放下す
*ああ時は熱風のごとく吹き寄せて埋れ木のごとく霧散しいゆく
*悲しみの鎮めがたければ笑いなん花に嵐のさらばわが友

中原中也の実弟で、ハーモニカ奏者伊藤拾太郎は、妻の死後、3
週間で亡くなる。

*老ハーモニカ奏者かなでよ蒼穹のみ空にのぼりゆきし汝が妻
*宇部は雨 肌寒ければ吹奏の啼かない鳥となりて候

酒友の死。

*紅燈のさむく震えて消える朝 「慶大ブント」飯田貴司死す

啄木に因んで。

*函館は五月といえど未だ寒く風が吹き荒れていた
*食指(ひとさし)のゆびもて書ける砂山の彼方に浮かぶ津軽の
山よ
*「小樽日報」遊軍記者となりしかど砕ける浪の咆哮の歌

還暦の同期会。

*「六十の齢坂」なる表現の適切なれば赤い舌巻く
*六十歳になりて集いし馬場下の デカルトハイネ何望むべく
*コンピュータ画面に零れゆく文字の職退きし男らの歌
*さりながらさりながらゆく腕組んで清水谷日比谷公園夜の急坂
*尖んがって崩れゆきしは白砂の 茫々たれば歳月は城
- 2005年3月11日(金) 21:47:29
3・XX  古処誠二「七月七日」は、第2次大戦中のサイパン
島の日本人の悲劇をアメリカ軍の日系二世の目から描く。今期直
木賞候補作品で、この著者のものは、初めて読んだが、古処誠二
は、こういうコンセプトで第2次大戦を書いているようだね。

伊坂幸太郎「グラスホッパー」も、今期直木賞候補作品だった
ね。さまざまな形で人を殺す「殺し屋」が、テーマの小説だが、
古処にしろ、伊坂にしろ、着想の妙、文章力の安定感などはある
にしろ、奇抜な構想力だけで、新文学の誕生などと思っていると
したら、それは間違いだろう。案の定、ふたつとも直木賞は受賞
しなかったけれど、こういう傾向は、それぞれの作家の担当編集
者も後押ししているのだろうと、思う。そこに、現代文学の貧困
がある。
- 2005年3月10日(木) 22:30:13
3・XX  日中の最高気温が、19度であった。日本ペンクラブ
の総会や例会で逢うこともある辻井喬の「父の肖像」を読んでい
る。コクドの前の会長で辻井喬、堤清二の異母弟である堤義明の
逮捕という状況のなかで、兄弟の父親・堤康次郎の伝記と清二の
出生の秘密を探究する辻井喬の小説世界に入り込んでいる。書評
は、いずれ書くとして、とりあえず、読んだまま、書評をまとめ
ていない作品の書評を随時、書き込んでおきたい。まずは、村上
春樹である。  

村上春樹「ふしぎな図書館」は、図書館の地下室にアウシュビッ
ツのような場所があり、「107号室」で、そこにいる老人にオ
スマン‐トルコ帝国の税金の集め方について本を借りに来たと
言った「ぼく」に対して、老人は、「オスマン‐トルコ帝国の税
金事情」、「オスマン‐トルコ帝国の税金あつめ人の日記」、
「オスマン‐トルコ帝国における税金不払い運動とその弾圧」と
いう3冊の本を貸してくれたのである。そこまでは、親切。しか
し、この3冊は、貸し出し禁止、つまり、「禁帯出」の赤ラベル
貼付の本というわけだ。「奥の部屋」なら閲覧可能ということ
で、迷路のような通路を通り、「奥の部屋」ヘ連れて行かれる
と、その部屋は「閲覧室」となっていて、途中の迷路さえなけれ
ば、なにも変ではない。しかし、扉をあけるとき、「ぎいいいっ
という、すごく感じの悪い音があたりに鳴りひびいた」あたりか
ら、感じが悪くなる。つまり、ここは、アウシュビッツのような
ところだったのだ。老人に鍵をかけられた部屋のなかで、「ぼ
く」は、「羊男」に出逢う。そして、「閲覧室」の秘密を聞かさ
れる。

3冊の本を読んで、脳みそに智識が詰まると、「とろっとして」
「つぶつぶなんかもあ」って、「とてもおいしい」脳みそになる
という。それを先ほどの老人が吸うんだそうな。

後は、「ぼく」が、羊男や食事をワゴンに乗せて運んで来る口は
利けないけれど、「見ているだけで目が痛くなるくらいきれいな
女の子」(実は、「ぼく」が家で可愛がって飼っていた「ムクド
リ」が、姿を替えたもの)などの助けを借りて、「ぼく」は、老
人をやっつけて、図書館の地下室から抜け出すという話。

オウムによる地下鉄サリン事件の被害者たちをインタビューして
まとめた「アンダーグラウンド」の作者の書いた寓意小説だか
ら、図書館の地下室にあった「107号室」は、サリン事件の
あった地下鉄のホームかもしれない。オスマン‐トルコの税金の
集め方関連の本は、なにかを暗示している。「図書館綺譚」とし
て、20年以上前の1982年6月号から11月号にかけて連載
されたのは、サリン事件より前だし、オスマン‐トルコの本のタ
イトルが暗示するマスコミの問題も、最近のことだし、本来は関
係ないのかもしれないが、2005年1月31日付けで、「ふしぎ
な図書館」として、刊行されるために、「改稿いたしました」と
ある以上、連載後の諸状況を投影させながら、改稿し、刊行した
疑いはあるよな。
- 2005年3月9日(水) 22:21:53
3・XX  白岩玄「野ブタ。をプロデュース」は、文芸賞受賞
作品で、今期直木賞候補になった。虐められっ子の高校生が、編
入して来た。信太(しんた)という名前だが、豚のように太って
いる。転校そうそう、早速、無視され、虐められているが、信太
を捩って、ニックネーム「野ブタ」として売り出し、虐めから抜
け出させようと同級生が、「野ブタ」君を人気者にするためのプ
ロデューサー役を引き受けた。いくつかの作戦が図に当たり、
「野ブタ」君は、いつか、クラスの人気者になるが、プロデュー
サー役を引き受けていた同級生が、虐められる側に廻っていた。
やがて、同級生も転校し、新しい学校で、自分を人気者にする作
戦をはじめる。まあ、「虐め」をテーマに、ユーモラスなタッチ
で作品を仕上げた白岩玄の力量は、それなりのものだが、小説と
いうより、どちらかというと、漫画の原作本という感じがした。
- 2005年3月8日(火) 22:22:17
3・XX  嵐山光三郎「不良定年」は、60歳になって迎える
定年後の「ゴールデンエイジ」の時間を、不良になって過ごせと
いう、ありがたいお勧めの本。63歳の嵐山は、こういう。「不
良定年後の醍醐味は退歩的な生き方にある」。これは、まさに、
至言であり、ここに、趣は、極まれりである。

石田千は、その嵐山光三郎の助手を務めた女性である。37歳、
いまでは、女の盛りの年齢で、怖い年齢である。男がいちばん警
戒すべき年頃である。予想したように、彼女の趣味は、なんと
「踏切趣味」で、あちこちの踏切を見に行っては、踏切の辺りを
徘徊し、俳句をものにしたり、付近の古書店を覗いたり、居酒屋
で呑んだりしながら、「踏切趣味」という本を出してしまった。
こちらは、「不良熟女」であろうか。「不良独女」であろうか。

復本一郎「俳句とエロス」には、次のような俳句が載っている。

「牝獣(ひんじう)となりて女史哭く牡丹の夜」
          ーーー日野草城(1949年吟)

怖い女が、昼間とは別人のようになって女史が哭くのだから、こ
れほど怖いものは、世の中にはないと言えるだろう。

「シュミイズにかくれぬ肌(はだへ)朝すずし」
「血管のみどりの肌(はだへ)朝すずし」
「朝まぶし肌(はだへ)につよき化粧水」
          ーーー片山桃史(1936年吟)

こちらは、初々しい戦前の少女を読んだ句。いまでは、同じ年齢
の少女でも、こうはいかないだろう。

再び、熟女群を・・・・

「しみじみと汗にぬれたるほくろかな」
「うすごろもやははだの汗あらはれぬ」
「肌ぬぎやうらはづかしき乳二つ」
「肌ぬぎやをとめは乳をそびえしむ」
                  ーーー日野草城

「牡蠣といふなまめくものを啜りけり」
                ーーー上田五千石
「通草(あけび)からひろがっている潦(にわたずみ)」              
ーーー久保純夫

赤坂真理の「肉体と読書」は、ボンデージやフェティシュをテー
マにした雑誌の編集部にいた赤坂真理が、作家になり、読書を通
じて、肉体が思考するさまを凝視し、官能の言葉を書き留めた
エッセイ集を刊行した。これも、怖い熟女である。41歳であ
る。

「タペストリー」というコラムには、「頭が、考える脳の器だけ
でなく感じる皮膚であるのだと、知った」という文章がある。

再び、「俳句とエロス」より、

「唾粘り股間ひろらに花宴(はなうたげ)」
「陰(ほと)しめる浴みのあとの微光かな」
                  ーーー金子兜太
- 2005年3月6日(日) 22:52:00
3・XX  佐藤雅美「白い息 物書同心居眠り紋蔵」は、シ
リーズ7作目。物書同心で例繰方(れいくりかた)の藤木紋蔵が
主人公。民刑法典ともいうべき「御定書」という判例集の管理、
解釈をしている役方の同心である。いまなら、裁判所の書記官
か。その紋蔵が、待望久しかった定廻りに廻された。町をまわる
警察官ということで、岡っ引きらを使い江戸の町の治安を守る。
あわせて町民たちとの接点も生まれ、付け届けなどの実入りもあ
り、家計が豊かになる。町を歩き回るため、居眠りという持病に
も悩まされなくなった紋蔵は、警察官としても有能なため、事件
やもめごとを手際良く解決して行く。しかし、持病の居眠り以外
は、例繰方としても、有能だったため、紋蔵が抜けて、ややガタ
がきた例繰方に戻されることになるが、その間の紋蔵の活躍振り
が、第7弾の作品集「白い息」の読みどころだ。
- 2005年3月3日(木) 21:30:06
3・XX  阿部和重「グランド・フィナーレ」は、今期芥川賞
受賞作品。作品集は、受賞作を筆頭に、「馬小屋の乙女」、「新
宿ヨドバシカメラ」、「20世紀」の順で収録されている。「新
宿ヨドバシカメラ」、「20世紀」は、いわゆる文芸誌に発表さ
れたのもではなく、特に、「20世紀」は、ホームページで発表
されたということで、この2作の発表時期が不明。ただ、作品の
内容から判断すると、「20世紀」の続編が「グランド・フィ
ナーレ」と推察される。「20世紀」は、東北地方の「神町(じ
んまち)」という町の、県道沿いの商店街にある洋品店の一人娘
という20歳の女性と結婚するまでの話で、結婚後、娘が生ま
れ、妻の母と同居している。娘は、生まれたばかりで、デジタル
ビデオカメラを手に入れた「私」は、娘の成長過程を映しはじめ
る。

受賞作「グランド・フィナーレ」では、まず、時代がすでに、
21世紀になっている。場所は、東京。娘の映像を撮るばかりで
なく、教育映画の監督という本業の傍ら、少女ヌードを撮り続け
ていたことが妻にばれ、離婚に追い込まれる「わたし」が、い
る。離婚した後も、なんとか、娘の成長の姿を見たいと思い、娘
の周辺をうろうろしている元父親が、その友人たちとともに描か
れる。その挙げ句、離婚の原因を親友によって、友人たちにばら
される。ロシアの劇場を占拠したチェチェン独立派のテロとロシ
アの軍隊による大量人質虐殺事件、バリ島のディスコ爆破テロな
どが、会話に出て来る。「しかし、何なんですか、この二一世
紀ってゆう野蛮な時代は」という会話が、「20世紀」と「二一
世紀」という初めから「グランド・フィナーレ」という時代状況
を結ぶ。「わたし」は、「わたし」みたいな人の所為で、自殺し
た人のことを考えろと女友だちに攻められる。故郷の「神町」に
帰った「わたし」は、母が経営する実家の文房具店を手伝いなが
ら、幼馴染みで学校の先生をしている友人に頼まれて、子どもた
ちが上演する劇の指導をするようになる。双児のような、仲の良
い少女たちがいて、ひとりの少女の兄が殺人を犯してしまい、少
女の家族は、まむなく町を出て行くことにしている。別れの前に
ふたりで想い出に残るような劇をしたいと言われる。「わたし」
は、ある日、その少女たちが、劇の稽古をする公民館の備え付け
のパソコンでインターネットの自殺マニュアルを見ているのに、
気が付く。

作品集では、誰もが、表題作の「グランド・フィナーレ」をま
ず、読むのだろう。そして、最後に「20世紀」を読む。そうす
ると、読者は、私のように、ふたつの作品が、ひとつのつながり
を持った「輪っか」が、恰も、裏表を逆にして、ひっくり返り、
中味が、外に出て、外が中に入って、というか、前半が、後半に
なり、後半が、前半になり、始まりが、終わりになり、終わり
が、始まりになる、というような、奇妙な印象を持ったまま、作
品を読み終わる。

というか、無限に続く「輪っか」のなかに入り込み、まさに、
「メビウスの輪」の上を滑っているような永久滑走運動を強いら
れることになる。阿部の、この作品が、一見描いていると見られ
る世界に新しさはないのだが、メビウスの輪の上を永久に滑走し
続けるよう錯覚を読者に持たせる遠心力と求心力があるのは、新
奇だと思う。

- 2005年3月1日(火) 22:53:05
2・XX  2月の書評の掉尾を飾ろうと、時代小説をまとめ
て、読んだ。山本一力「だいこん」は、一膳飯屋を開業した少女
の物語。苦労と成功譚。山本自身の家族との関係を反映させなが
らの、山本流人生訓として、読んだ。

岩井三四二「十楽の夢」と山本兼一「火天の城」は、今期直木賞
候補となった時代小説。岩井三四二「十楽の夢」は、織田信長に
抵抗した「長島一揆」の主役たち、一向宗の門徒たちの物語。山
本兼一「火天の城」。こちらも、信長。安土城築城に携わった大
工や石工の物語。信長を取り上げながら、信長本人では無く、い
わば、傍役、あるいは、群衆として、あまり光が当てられて来な
かった人たちをクローズアップさせることで、信長が、逆にくっ
きりと描かれている。いままでの時代小説とは、一味違った物語
構成が、直木賞候補の由縁であろうし、また、それが、充全に成
功していないと言うことが、直木賞を逸した理由でもあろうと、
思う。しかし、興味深く読んだ。

ただし、岩井三四二「十楽の夢」のラストは、安直で、戴けな
かった。長島一揆で、ほぼ全滅した長島の一向宗門徒の生き残り
が、仏教から切支丹に改宗し、「仏」によって救済されなかった
魂が、新たな異国の「神」によって救済されると言いうのは、出
来過ぎでは無いか。

山本兼一「火天の城」は、信長の趣向をベースに匠の創意工夫で
作り上げた安土城が、戦国時代の武運に翻弄され、焼失してしま
うまでを大工の頭領親子二代の眼で描き切る。信長の作った城
が、現代にまで生き残っていたとしたら、是非とも見たかった
と、思う。

- 2005年2月28日(月) 21:06:14
2・XX  沢木耕太郎・内藤利朗「カシアス」読了。東京駿河
台下の三省堂本店で、「カシアス」刊行を記念して、沢木耕太
郎・内藤利朗のサイン会が開かれた。朝から、あいにくの雨で、
東京は冷え込んでいる。山梨からは、銀世界というメールが、今
朝届いている。天気予報では、東京地方も、日中、雪か雨だとい
う。冷え込みのなかを地下鉄に乗って、神保町へ出掛けた。いつ
もの書店を廻り、単行本、新書などを購入。東京堂書店では、古
井由吉、岡井隆、車谷長吉のサイン本を購入。

三省堂でのサイン会は、午後1時からだったが、待たされるのが
嫌で、サイン会の終了間際に会場に着いた。10人ほどの列の最
後尾に並んだ。カメラマンの内藤利朗の写真集が主で、沢木耕太
郎は、短い文章を書いている。そういう共著のサイン会だ。内藤
利朗は、初めて逢ったが、1950年生まれ。沢木耕太郎は、
1947年生まれ。沢木とは、何度か逢っている。いつものよう
に、若々しく、爽やかだ。

沢木耕太郎は、「一瞬の夏」という作品で、カシアス内藤という
ボクサーのことを書いているはずだ。いま、手許に本が無いの
で、確認はできない。内藤利朗は、25年前に、ボクサーとして
再起を掛けながら、敗れ去って行ったカシアス内藤を被写体とし
た写真集「ラストファイト」を出版している。カシアス内藤を軸
に、沢木耕太郎と内藤利朗は、時々、時空を共有しながら生きて
来たことが判る。今回の共著は、実は、「ラストファイト」のリ
メイク版なのだ。

「ラストファイト」の写真集は、カラー版である。そして、もう
ひとつ、モノクロ版の写真集が、付いている。そこの主人公は、
カシアス内藤では無い。沢木の「一瞬の夏」を収容されていた少
年院で読み、ボクサーになりたいと出所後、沢木を訪ねて来た大
和武士が、やがて、カシアス内藤のコーチを受けながら、チャン
ピオンボクサーに育って行く様を写し取っている。

写真集「ラストファイト」では、「ふたたびの夢」「光のなか
へ」というタイトルでふたつに括られた写真の数々がある。その
上で、沢木耕太郎は、「リア」というタイトルで「あとがき」を
書いている。「リア」とは、「理亜」で、カシアス内藤最初の妻
との間にできた女の子の名前である。ラストファイト後、鳶や大
工として家族との生活を支えているカシアス内藤のアパートを訪
れ、内藤の生活ぶりが描かれる。

カシアス内藤の両親の写真や最初の妻(その後、病死している)
と娘との写真の後、「戦いのあとで」というタイトルの、モノク
ロの写真の数々は、いまは、役者「大和武士」になっているボク
サー大和武士のリングの様子やカシアス内藤のコーチぶりが、写
し取られている。そして、沢木のふたつめの「あとがき」は、
「一日」というタイトルが付いている。舌癌と闘っているカシア
ス内藤の最近の様子が描かれている。

ふたつの「あとがき」で印象的なのは、沢木と内藤利朗の会話で
ある。いずれも、カシアス内藤と別れて、車で帰る途中の車中で
の会話である。

*路地から広い通りで(ママ)出て、トンネルを抜け、また拾い
通りに出た時、私は独り言のように呟いていた。
「ハピーエンド、かな」
すると、利朗が前方を見つめたまま、小さく応えた。
「そうだと・・・・・・いいけど」(「リア」より)

*「うまくいくかな」
多摩川にかかるあたりで利朗が言った。どうだろう、と言いかけ
て、不意に熱い思いが込み上げてきた。
「死なないさ」
私は自分がそう信じているわけではないことを知っていた。だ
が、どうしてもこのまま内藤を死なせたくはなかった。
すると、利朗がやはり自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「そうだよね」(「一日」より)

そういうふたりがサイン会の会場に座っていたのだ。そういう眼
で、会場にいたふたりのことを思い出すと、ふたりの存在感が、
改めて、迫って来るような感じがする。

共著「カシアス」の見開きに、沢木は、「酒盃を乾して 沢木耕
太郎」と書き、内藤利朗は、「T.naito」と書いた。ボク
シングで、相手と闘い、己と闘って来たカシアス内藤は、いま、
癌と闘い、己と闘っている。自分のジムを持ち、チャンピオンを
育てたいという夢を持っている混血児・カシアス内藤のファイト
に期待したい。この本は、3人の中年男たちの共著だ。3人の友
情に乾杯。沢木の思いが、ひしひしと伝わって来る。
- 2005年2月19日(土) 19:44:42
2・XX  小池真理子「エリカ」は、40歳の独身女社長が主
人公。女性のうち、いちばん、手強い年齢だろう。幼いときから
の親しい女友だちがいるが、蜘蛛膜下出血で、入浴中に亡くなっ
てしまう。全裸で、何故か、風呂桶には、携帯電話が落ちてい
た。末期の力をふり絞って、携帯電話で、どこかに知らせようと
したと解釈する夫が残された。ところが、主人公は、女友だち
が、家族持ちの男と不倫をしていたことを知っている。ときど
き、不倫隠しに協力していたからだ。死の間際、不倫相手など秘
密の個人情報記録満載の携帯電話を風呂のなかに落し込むと、主
人公は想像する。

その不倫相手の男が、主人公に愛人の告別式に出られるよう便宜
を図って欲しい持ち掛けて来たので、女友だちと自分の学生時代
の友人と偽って、不倫男を告別式に連れて行く。その告別式も無
事に済んだ夜。お互いに親友と愛人を共通で偲ぶという口実で、
不倫男は、主人公にバーに誘われる。バーでは、故人を偲ぶどこ
ろか、不倫男は、主人公に粉を掛けて来る始末。そういういい加
減な、女たらしと判りながら、主人公は、不倫男に惹かれて行
く。やがて、新しい不倫関係が始まる。不倫男の「遊び」と独身
中年女の「純愛」のシーソーゲームが、展開する。

そこへ、ハンバーガーショップで配達のアルバイトをしている若
い男が、女社長宅の盗聴男として登場して来る。女社長に一目惚
れした若い男は、外見と盗聴による音のイメージで膨れ上がった
「純愛」感情を深めて行くというから、厄介な「三角関係」がで
きあがる。三角関係の二辺は、ふたつの「純愛」として、ベクト
ルを異にしながら、突き進んで行く。もう一辺は、不倫の「遊
び」。厄介で、奇妙なラブゲーム。

奇妙なラブゲームを理解しないまま、家族持ちの不倫中年男との
「純愛」破局の果てに、独身中年女が、作ろうとしたのは、盗聴
純愛青年とのセックス関係だったのだが、青年からは、セックス
レスのしっぺ返しを喰らう。ああ、おもしろうて、やがて、哀し
きラブゲーム終了。
- 2005年2月15日(火) 21:59:03
2・XX  中村雀右衛門「私事(わたくしごと)」(サイン
本。達筆である)を読む。当代の歌舞伎を代表する、最高年齢の
真女形中村雀右衛門の自伝を軸にした藝談である。歌舞伎の家系
の長男に生まれ、名子役として、ちやほやされ、立役の「お坊
ちゃま」として、順調に育って、先輩にも恵まれ、地歩を築いて
来たのにもかかわらず、戦争で、兵隊に採られたことから、運命
は、変転する。若くして、運転免許を取得していたばかりに、軍
隊では、輸送用のトラックの運転をさせられ、従軍生活の果て
に、外地で敗戦を迎えた。無事の帰国。だが、歌舞伎界に居場所
は無くなっていた。父親の六代目大谷友右衛門は、戦時中、巡業
先の鳥取で大地震に遭い、楽屋にしていた住宅が倒壊し、圧死。

七代目松本幸四郎に師事し、娘婿になり、女形になることを示唆
された。27歳のときである。本物は、本物を見分ける。七代目
幸四郎の炯眼は、凄かったということだ。

幼いときから女形になるべく、育てられ、それでも、本当の女形
になるのは、60歳を過ぎなければならないと言われる厳しい世
界。20年以上、遅れて来た女形は、如何にして、当代随一の真
女形に変身したのか。その秘密が、本人の口から語られる。それ
が、本書である。

女形として、再出発したにもかかわらず、不遇で、大阪に追わ
れ、さらに、映画に誘われ佐々木小次郎役などを演じたが、回り
道をした末に、次第に女形として自覚もし、精進もし、以来、
50年近くの年月が流れ、師匠とも、兄さんとも、慕った六代目
歌右衛門の跡を継いで、歌舞伎界を代表する真女形の地位を確保
した努力家が、雀右衛門である。

興味深く読んだ藝談縁(ゆかり)の箇所を以下、いくつか、列記
する。

*八十歳になる前に、少しは芸というものの形がおぼろげに見え
たような気がしたことがありましたが、それも、やはり錯覚でし
た。と申しますのは、八十一歳の年にやっと、「女形の芸はこれ
なんだな」と身体で感じることができたからです。「熊谷陣屋」
の女房相模を演じたときのことです。さが美は、出陣した息子小
次郎が心配ではるばる戦地まで訪ねていくのです。一歩歩み、二
歩歩み、三歩、四歩、五歩と上がりのところまで来てしまったと
き、「ああ、これが息子を案じる母親の必死な気持ちなんだな」
と、身体ごと納得できたのです。母親相模が、わたしの身体に乗
り移って心身ともに一体となった。(略)出す足ごとに相模の心
情が乗り移っていきます。息子を案じる母の感情と同時に、役者
としては、ある境地といいますか、ああ、これだ、この気持ち
だ、この動きだという法悦境とでも申しましょうか、ああ、歌舞
伎役者をやってきてよかった、生きていてよかったと、心から悦
びが身体を貫くのです。演じる役の熱さと役者としての冷静さ、
交じり合うはずもない二つのものが、舞台の上にいるわたしのな
かで重なり合うという、えもいわれぬ快感です。

・1920年生れの雀右衛門が、81歳で演じた相模の舞台と
は、02年1月の歌舞伎座であった。その舞台を観た私は、雀右衛
門の上記のような法悦境を知らないまま、次のように書いている
(原文は、このサイトの「遠眼鏡戯場観察」に掲載している)。

「私にとって、相模は、イコール雀右衛門のイメージになってし
まっている。雀右衛門の相模が、やはり、いちばん愛情表現が細
やかだと思う。それは、この演目が、並木宗輔の「母の愛」とい
うテーマであるということを雀右衛門が、どの相模役者よりも良
く知っているからに違いない。雀右衛門が、いつか、一世一代と
称して、相模を演じ終える日が来るかも知れないが、来ないで欲
しいとも思ってしまう」

*どんなものでも、技を身につけるときには、まず、型を覚えま
す。歌舞伎は伝統芸能ですから、どの演目にも、昔から伝わって
いる型があります。ある演目を与えられたとき、とにかく、その
型を必死で覚えていきます。(略)ある程度のことは覚えたつも
りだったのですが、これが大きな勘違いだと気づいたのは舞台に
上がってからです。たとえば、ひとつひとつの立ち居振る舞いの
型は覚えているので、どうにか形にはなっています。ところが
困ったのは、型から型にうつるあいだの空間の動きです。その空
間をどのような動きでつないでいけばいいのか皆目わからないの
です。手はどこに、どのように動かすのだろう。頭はかしぐの
か、まっすぐにするのか。裾捌きはどのように・・・・。

・まあ、含蓄のある藝談は、まさに、人生訓でもある。そういう
語りが、随所に光っている本である。雀右衛門の藝談では、「女
形無限」という本もある。この本が、出て暫くして、私は、ある
パーティで雀右衛門さんに直接お目にかかったことがあり、お話
しをした後、ちょうど読んでいた「女形無限」にサインをしてい
ただいたことがある。
- 2005年2月3日(木) 21:41:42
1・XX  諸般多忙で、読み終えたまま、書評をまとめずに
放ってあったものを一気に整理した。とりあえず、以下、5冊ほ
ど書き込んだ。

まず、石持浅海「水の迷宮」では、東京湾に面したところにある
水族館で、奇妙な強迫事件と殺人事件が起こる。水族館を舞台に
環境問題をテーマにしたミステリーという辺りが、著者の新しい
もの狙いらしい。水族館の表と裏を丹念に描写する。殺人事件も
起こる。新しい水族館構想もぶちあげる。ミステリーは、なんで
もありだ。まあ、ストーリーだけは、詳しく紹介できない。

荻原浩「神様からひと言」は、広告代理店を辞めて、食品会社に
転職したサラリーマンが、苦情受け係に異動させられた後の、奮
闘記。企業は、いま、どこも、危機管理が大事。そういう普遍的
なテーマを、おもしろおかしいエンターテインメントの小説に仕
立てた。ブランドの老舗は、食品会社も、自動車会社も、銀行
も、いま、お粗末な危機管理体制が問われている。ブランドだっ
ただけに、脇が甘いから、一旦、危機が、出来(しゅったい)す
ると、どんどん傷口を大きくしてしまう。放送局も、新聞社も、
「明日は我が身」が、続発する。各社とも、窓際に置いてあった
苦情受け付け係を見直さなければならない。2年半前に刊行され
た本だが、そういう、極めて、今日的なテーマの小説として、こ
の作品を読むとおもしろい。

野口武彦「蜀山残雨」、「幕末の毒舌家」を読む。「蜀山残雨」
は、昼間は、徳川幕府の下級役人としても、有能な役人生活を過
ごしながら、夜は、狂歌師として、遊興風流な精神生活を送り、
江戸の文藝の主流を歩いた太田南畝こと、蜀山人の生涯と江戸文
明とのかかわりを書いた作品。文藝の「藝」で、二足の草鞋を履
き切った男。「笑い」をキーワードにした文藝を志向しながら、
文明との対峙を真剣に格闘した男の生涯が、浮き上がって来る。
私は、著者の本記も十二分に読んだつもりだが、さはさりなが
ら、「あとがき」に書かれた以下の言葉をいまの日本の状況をダ
ブらせながら、背筋を伸ばして受けとめた。

「文芸界を見渡せば、戦後六十年ごく当たり前のこととして享受
されてきた『言論の自由』は、そろそろ危うくなっていると思っ
た方がよさそうである。露骨な検閲こそ復活していないが、『自
主規制』がそれを代行したら同じことだ。遠からずして日本には
大臣や代議士を『悪相』と評すると『法的手段』で威嚇されるよ
うな時代が到来するであろう。これからの文学者は《芸》がなく
てはつとまるまい。すなわち蜀山人の出番である」

マスコミも、もう少し、藝達者になって、言論、表現の自由を
守って欲しい。

「幕末の毒舌家」は、蜀山人のような有名人では無いが、幕末期
の貧乏旗本大谷木醇堂(おおやぎじゅんどう)の話。醇堂は、
1838(天保9)年から1897(明治30)年、つまり、明
治維新を挟んで、前後に30年生きた人である。15歳で素読吟
味の甲科に合格し、18歳で学問吟味の乙科に合格、つまり、現
在なら国家公務員1種試験に合格しながら、醇堂は、家庭の事情で
不就労となり、世を拗ねた奇人変人として、「醇堂雑録」など多
数の雑文の類いを書き残した。いわば、独特の視点で世情を観察
したコラムニストともいうべき人である。

醇堂の「家庭の事情」とは、経済的な理由で、祖父の死を届け出
なかったために、祖父も父も幕府から俸給を貰っている形にな
り、三代が同時に勤仕できないという幕府のルールで就労でき
ず、一生「番入り」(公務員になる)する機会を逸したというわ
けだ。いわば、資格を持ちながら就職浪人のまま、フリーのもの
書きになり、斜に見た世相や政治経済を切り刻んで行った。その
視点は、「皮肉」「拗ねた」「恨みつらみ」「当てつけ」「こき
下ろし」などという表現が適切だろう。日の当たるところに入る
連中をこき下ろすことを生き甲斐とした。悪口、毒舌に才を発揮
した。

歌舞伎関連のことも出て来る。ひとつは、大坂の芝居取締のこ
と。役者を「長町」というひとつ処に移住させ、頭を糸鬢に剃り
下げさせ、外出するときは、編笠を被らせたり(つまり、役者に
「被差別身分」を思い知らせる措置)、舞台衣装を木綿にした
り、桟敷代を値下げさせたり、という幕府の芝居弾圧施策のこ
と。加賀藩上屋敷(いまの東京大学)の「窓なし長屋」(表通り
に向いた窓がない長屋)のこと(だから、黙阿弥も明治期に「盲
長屋梅加賀鳶」という芝居を書いた)など。

一生を不本意に過ごし、それゆえに書き散らした、決して巧くは
ない雑文が、幕末から明治中期の世相を活写する結果となるとい
う、皮肉を生んだ。

魚住昭「野中広務 差別と権力」は、自民党の代議士だった野中
広務の出自、地方政治家の時代、自民党で権力の中枢まで上り詰
めた時代を描く。NHKの会長だった島桂次とその後、NHKの
会長になり、先頃、引責辞任した海老沢勝二のことを書いた「シ
マゲジ追い落とし」の章は、いまの状況と二重写しに読める。野
中は、「『シマゲジの首をとった男』として、一躍政界で脚光を
浴び、郵政省やNHKに影響力を持つ族議員としての地位を確立
した」という、文章が出て来る。NHKは、政治家の介入を排除
し、視聴者のために放送局として再生しない限り、生き残る途
は、ないだろう。

権謀術数を駆使して政敵などを叩き潰す、強面(こわもて)の政
治家という顔と、弱者への優しい眼差しを持つ私人としての顏と
いう、二重性が、野中広務の実相だという魚住は、主張する。去
年の夏に刊行され、売れ続けた本を、いまごろ、読んでみた。新
たな状況を勘案しながら読んだ所為か、読みごたえがあった。
- 2005年1月30日(日) 16:23:39
1・XX  今期、直木賞受賞作品角田光代「対岸の彼女」を読
む。群馬県に引っ越した女子高校生のとき、阻害されている同士
で仲良しとなった同級のふたりが、伊豆の民宿で夏休みのアルバ
イトをした後、そのまま、自宅に帰らず、安宿代わりにラブホテ
ルなどに泊り歩き、その挙げ句、以前一人が住んでいた横浜のマ
ンションの屋上から飛び下り自殺を図ったが、ふたりとも軽症で
助かってしまった。

その後、ふたりは、音信不通になったが、このうちのひとりは、
大学を卒業して、就職できないまま、小さな会社を作り、経営す
るようになった。その会社に子持ちの主婦が、働きたいと面接を
受けに来た。その主婦は、女性社長と同じ年で、偶然にも同じ大
学の同期の卒業生だった。

女子高校生時代のような、女友だち同士のような、ふたりの関係
は、中年になった社長と務めはじめた主婦との関係という形で、
新たに再生産されるのか。大人になった女性同士は、なかなか、
友人関係になれない。高校生のとき、命までも、いっしょに消そ
うとするほど緊密になれたのに、大人同士では、既婚と未婚、主
婦と勤人、子持ちと子無し、立場が違うと言うことで、対立さえ
生み出す。

青春時代の全身、全霊で、判りあえたような女友達は、もう、望
めないのか。大人になった心中未遂の片割れの主人公を軸に、あ
らたな中年女友達の関係は、再構築できるのではないか、という
実験が、この小説のテーマだ。対岸に渡ってしまったように見え
る女友達は、果たして、その先に橋を見つけて、こちら側に渡っ
て来てくれるのだろうか。
- 2005年1月30日(日) 10:35:14
1・XX  都市をテーマに、硬派で骨太な世界を再構築して来
た吉田修一の最新作「7月24日通り」も、いま流行りの純愛小
説とは、驚いた。

「間違ってもいい」。つまり、成就しなくてもいいという覚悟
で、恋愛に入る若い女性の物語。一歩間違うと、どろどろの世界
に引き込まれる。そういう「怖い純愛」だと思った。

自分の住む港町をポルトガルのリスボンの町に置き換えながら、
生活している主人公は、つまり、生活も、恋愛も、現実を直視せ
ず、いわば、自分の夢想のなかに構築して行く。

だけれど、現実は、小説世界より、厳しいものがあるということ
を私も身の回りのできごとで、昨今は、痛感している。自分の夢
想のなかに、相手も引き込んで行き、相手を虜にしてしまう女性
たちがいる。生活保守主義ほど、怖いものはない。

編集者が、流行りを追って、吉田に、こういう作品を書かせたの
か。純愛小説の流行りを横目で見て、自分なら、こう書くとばか
りに、吉田自らが、率先して純愛小説を書いてみたのか。

1・XX  荻原浩「明日の記憶」と「メリーゴーランド」を読
む。「明日の記憶」は、50歳になったとたん若年性のアルツハ
イマーが発症したサラリーマンの話。広告代理店の部長が、アル
ツハイマーと闘う物語。

「メリーゴーランド」は、大手家電メーカーを辞めて、故郷にU
ターンし、地元の市役所の職員になった30代後半の公務員が、
主人公。地域興しブームのなかで建設されたが、その後の長引く
不況で、超赤字となったテーマパークの再建を目指す奮闘記。

いずれも、中年男にとって、「組織で、働くとは、どういうこと
か」というテーマに、具体的な事例を再構築しながら、答えよう
という熱意溢れる作品で、おもしろく拝読。

最近、都に流行るもの。身近な純愛物語。視野狭窄を起こしてい
るような作品ばかり読んで来たから、社会的なテーマに、小説を
通じて、答えを出そうとする荻原浩の作品は、テーマ性のあるエ
ンターテインメントとして、読みごたえがある。

荻原浩の作品は、初めて読んだが、きっかけは、書店のサイン本
コーナーに漫画付きの署名入りで3冊並んでいたのを買ったとい
うもので、本の選び方としては、はなはだ、不純。しかし、「犬
も歩けば、本に当たる」というわけで、これは、当りだった。

次いで、「神様からひと言」を読もうと思う。本の帯には、「会
社に『人質』取られてますか? 不本意な異動、でも辞められな
い。」とある。「お客様相談室」、つまり、苦情受け係に異動さ
せられたサラリーマンの話らしい。
- 2005年1月13日(木) 21:01:04
1・XX  本多孝好「真夜中の五分前」(サイドA・サイド
B)を読む。サイドA・サイドBは、2冊同時発刊だが、もちろ
ん、普通に言えば、上下2巻本。現在のところ、サイドAは、初
版だが、サイドBは、4刷というから、おもしろい。つまり、下
巻のみ、売れている。ストーリーは、一卵生双生児の姉妹と結婚
したふたりの男の物語。両親を騙し、ときどき、入れ代わってい
たという姉妹が、夫たちを騙せるかどうか。まあ、そういう話
が、混じっているが、基本は、いま流行りの「純愛物語」、つま
り、生活保守主義の潮流に乗った作品で、社会性もなければ、視
野の広がりもない。どうして、こういう本が次々に出るのか。日
本版ネオコンの検証は続く。
- 2005年1月5日(水) 22:02:21
1・XX  安部龍太郎「天馬、翔ける(上・下)」、宮尾登美
子「義経」を読む。いずれも、源義経の物語。特に、宮尾本は、
ことしのNHK大河ドラマ「義経」の原作本である「宮尾本 平
家物語」をベースに、著者が、解説をするというスタイルの本。
安部龍太郎「天馬、翔ける(上・下)」は、文字どおり、安部版
「義経」である。いずれも、大筋は、「平家物語」や「義経記」
をベースに、作家のイマジネーションを駆使して、それぞれも物
語を再構築している。

「宮尾本 平家物語」は、全巻を読むべく、用意してあるが、義
経の物語は、悲劇好みの日本人たちが、歴史の幾層もの襞のなか
で、育まれて来た大叙事詩だけに、歌舞伎のさまざまな演目に
も、幾たびも、活用されている。そういう意味では、平家物語な
どを原文で読んでおくことは、芝居の奥行きを知る上では、欠か
せないであろうが、私を含めて、日本人の多くは、高校時代の古
文のレベル程度で、平家物語などを卒業してしまっているのでは
ないか。大学で、古典を学んだか、社会人になってから、一念発
起して、古典に挑戦したか。

まあ、こうした作家たちの、それぞれの古典ものを読みながら、
合わせて、古典の原文にも、挑戦するというのも、一興かもしれ
ない。また、古典の原文を読むときには、音読をする、つまり、
声を出して古文を読むというのが、理解を助けるともいう。芝居
の源泉の一つ、「平家物語」は、歌舞伎でも、「源平合戦もの」
として、大きな「世界」を作っている。思いつくままに、外題を
挙げてみても、「鬼一法眼三略巻」「源平布引滝」「梶原平三誉
石切」「大商蛭子島」「平家女護島」「ひらかな盛衰記」「一谷
嫩軍記」「那須与市西海硯」「御所桜堀川夜討」「船弁慶」「義
経千本桜」「壇浦兜軍記」「嬢景清八島日記」「勧進帳」「義経
腰越状」など、いろいろ出て来る。「源平合戦もの」のうちで
も、義経に焦点を合わせたものは、「義経記」に因んで、「義経
記もの」と呼ばれる。

いずれのせよ、「平家物語」は、能、人形浄瑠璃、歌舞伎など伝
統芸能の作者たちのイマジネーションを刺激し続け、豊饒な演劇
空間を作り続けていると言えよう。

「見るべきほどの事は、見つ」とは、壇浦での、平知盛の最期
の、言葉と伝えられるが、歴代の作者たちは、「平家物語」のな
かに、「見るべきほどの事」を探しては、イマジネーションを働
かせ、「未だ見果てぬ夢」とばかりに、これでもか、これでもか
と、新たな己だけの「平家物語」を紡ぎ出そうとしたのだろうと
思う。安部本も、宮尾本も、そういう作者の業に突き動かされ
て、生み出された見果てぬ夢の夢かもしれない。
- 2005年1月2日(日) 10:34:07
12・XX  赤江瀑「五月の鎧」は、限定版の豆本仕立て。表
紙は、和紙に錦蛇の革という装幀。揮毫、署名入り。表紙の和紙
には、肉筆で表題が書かれている。著者自薦の作品集で、全2
巻。その1巻目が、「五月の鎧」。

大学受験のための塾に集った男女6人の同級生。旧家に優秀な生
徒を集めた無料塾。一年生から3年生まで全員で10人を限度と
している。たまたま集まった同級生。それぞれ、境遇の違う6人
の卒業時、塾の先生は、男子生徒たちに鎧を着せて門出を祝った
が、そのうちの一人が、後に鎧を着たまま、旧家の蔵で、括れて
死んだ。5年後の、端午の節供にあつまった5人の同級生。やが
て、異形ななりで、自殺した同級生の自死の原因が、明らかにな
る。

2巻目は、「野ざらし百鬼行」で、白い革と錦蛇の革で装幀す
る。05年3月刊行の予定。2冊は、特製の透明なガラスケース
に入る。   
  
12・XX  人生の断片をくっきりと描いた作品を幾つか紹介
したい。

唯川恵の直木賞受賞作品「肩ごしの恋人」は、27歳の幼馴染み
の女性ふたりを軸に、今様の若い女性たちの人生観を描く。欲し
いものは、欲しいという積極派のるり子。公私に亘って、なにご
ともクールな萌。対照的なふたりの生き方を対比させながら、恋
と友情を描く。若い女性たちの本音と建て前をリアルな日常感覚
で活写する。同時代の女性たちの姿を同じ目線で捉えているの
が、ミソ。著者の代表作。

12・XX  伊集院静「駅までの道をおしえて」は、短編連作
の8作品。このうち、「2ポンドの贈り物」は、素材は、殆ど実
話だと伊集院は、直接逢ったとき、教えてくれた。生体肝移植が
テーマ。思い続けることの大切さを通底奏音のように、地味だ
が、着実な構成で、力強く訴えかけて来る。少女を主人公に、死
とは何かを問いかける表題作のほか、長嶋監督がくれた贈り物
「チョウさんのカーネーション」など。 

12・XX  絲山秋子「袋小路の男」は、川端康成文学賞受賞
作品の表題作ほか、「小田切孝の言い分」「ア−リオ オ−リ
オ」の3作品収録の作品集。前2作品は、登場人物も同じ連作。
著者の自伝的色彩の強い「純愛小説」。いまの若い人たちの置か
れている精神状況が活写されている。

12・XX  吉田修一「春、バーニーズで」は、ゲイ性向者の
話。かつて中年の金持ちのおかまと付き合っていた夫とそれを知
らない妻。お互いにひとつずつ嘘を付き合うという遊びを始め
た。その遊びのなかで、夫は、真実を滲ませて、本音を語りはじ
める。嘘か真か、男女の仲という、テーマでの連作短編5作品。
ふつうに見える夫婦が、嘘を介して、緊張感のある男女に変身す
る。前康輔のモノクロの写真も、文章の雰囲気を盛り上げる。

12・XX  山崎方代歌集「こんなもんじゃ」は、山梨県が生
んだ異色の歌人山崎方代の短歌を再構成した歌集。

茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ

寂しくてもひとり笑えば卓袱台の上の茶碗が笑い出したり

おもむろに茶碗のふたをそっと取りすすれどだれもいるはずがな
い

さりげなく茶碗を置きぬかくばかりこころくばりて生きねばなら
ぬ

箸をもて茶碗のへりを鳴らしおる日の暮れどきの男ごころは

戦争で眼をやられ、片目は見えない。もう片目も視力が乏しい。
独り暮らしだけに、ひとつの茶碗に象徴されるわび住いが歌い上
げられる。この孤独。笑っても、独り。茶碗の世界。

生れは甲州鴬宿峠(おうしゅくとうげ)に立っているなんじゃも
んじゃの股からですよ

ふるさとの右左口郷(うばぐちむら)は骨壷の底にゆられてわが
かえる村

誕生から死まで、山崎方代の一生は、ふたつの歌の間にある。右
左口峠からは、甲府盆地越しに南アルプスの山並が、青空に浮か
んで見える。
  
12・XX  八木忠栄「雲の縁側」。志ん生、馬生、志ん朝の
親子、兄弟の落語家が、
「ぽっかり浮かんだ雲の
まぶしい縁側」で、
「のどかに日向ぼっこ」
そういう情景を歌った詩が、表題作の「雲の縁側」
そう言えば、3人とも、すでに、死んじまったなあ。

- 2004年12月30日(木) 12:46:23
12・XX  熊谷達也「迎え火の山」は、文庫本版で、551
ページの長編伝奇ホラー小説だが、前半の半分は、冗漫でおもし
ろくない。後半の、後ろから100ページほどのところのみ、読
める。物部氏と藤原氏の死霊の争いが、鬼になって、現代にも継
続しているという話。復讐の怨念に凝り固まった「『そ』
(「鹿」が、3つ組み合わされて、1字)乱鬼(そらんき)」た
ちが、2000年8月15日の満月のときに、山形の月山に立ち
降りて来るという。湯殿山、鳥海山、月山という出羽三山のう
ち、月山で毎年行われる「採燈祭(さいとうさい)」の夜が、満
月になるのは、ほぼ19年ごとという。そういう背景のなかで、
物部氏系の子孫が、争いを企む。  

12・XX  樋口明雄「光の山脈」は、南アルプスの麓山梨県
北杜市の旧白州町在住の小説家の作品というので、読んでみた。
白州を類推させる地形にある架空の村「菰釣(こもつるし)村」
に住む猟師の夫妻が主人公。暴力団が絡む産廃の不法投棄を嗅ぎ
付けた猟師とその兄の地元紙の新聞記者が、暴力団に襲われる。
不法投棄の現場で、兄が殺され、自分も怪我を負わされる。逃れ
て立ち戻った自宅で倒れていた身重の妻も殺されたと思い、復讐
心に燃える猟師。南アルプスの山中で繰り広げられる暴力団との
壮絶な銃撃戦。まあ、粗筋は、陳腐だ。白州町以外の地名は、実
名で出て来る。甲斐駒ヶ岳、日向山、国道20号、七里岩なども
出て来る。どこをモデルにしているかが、判る。  

12・XX  佐々木譲「うたう警官」。北海道警察本部(道
警)の裏金つくりという、実際にあった不祥事を背景にしたサス
ペンス小説。道警の生活安全部の秘密の拠点になっていたマン
ションの一室で、「ミス道警」と渾名された現職の美人婦人警察
官の遺体が、発見される。警察の不正を道議会の百条委員会で証
言することになっている警察官が、この婦人警察官と付き合って
いたことから、警察官は、拳銃と覚醒剤を不正に所持していると
いうでっちあげを元に、射殺指示が、警察内部手配という形で出
される。証言させないための警察組織を上げての口封じ作戦と判
る。無実の警察官を助けるために、少数の良心派警察官たちが立
上がる。

限られた時間のなかで、良心派たちの私的な捜査が続く。まず、
マンションには、常習の窃盗犯が、盗みに入り、盗品を質入れし
ていたことが判り、その男の行方を追求し、身柄を確保する。一
方、殺された婦人警察官は、道警の生活安全部長という、警察庁
採用のキャリア警察官と不倫の関係を続けていたことが、判る。
マゾという性向、不倫、金銭の要求、男女の痴情、挙げ句の、も
つれで、キャリア警察官という道警の幹部は、婦人警察官を殺し
てしまう。手配された警察官が、殺されれば、キャリア警察官の
スキャンダルも闇に封じ込められる。良心派警察官たちは、時間
との競争のなかで、じりじり、真相に迫って行く。追い詰めら
れ、出頭を約束したキャリア警察官は、マンションの屋上から投
身自殺をしてしまう。証言警察官は、良心派警察官の守られて、
警察組織を相手に、巧く逃れ切り、百条委員会の場へ、入ること
ができた。腐敗した警察組織のなかにも、良心派警察官がいると
いう物語。

但し、結末のストーリー展開が、粗雑。それまで維持して来た
佐々木の緊迫感に満ちた作品世界が崩れる。例えば、非番の良心
派警察官による、私的な事情聴取を終えたキャリア警察官が、出
頭を約束したからといって、野放しにし、その挙げ句、自殺させ
てしまうなどという祖設定は、安直で、不自然すぎる。作品全体
のリアリティに罅割れを生じさせる欠陥だ。
- 2004年12月29日(水) 10:40:58
12・XX  梁石日「異邦人の夜」と馳星周「長恨歌 不夜城
完結編」を読む。いま、東京は、在日の外国人が多数住み、地域
社会を変質させている。梁石日「異邦人の夜」は、朝鮮で自分の
父親を殺して、日本に密入国し、日本社会で伸し上がって来た在
日韓国人の実業家とそういう父親に反発して、氏名変更の裁判闘
争に取り組む娘、フィリピン人の不法滞在の女性、国境を超え
て、東京に生きる男女の生活を描く。果てしない闇に閉ざされた
異邦人たちの夜。物語の展開は、幾分、冗漫。

馳星周「長恨歌 不夜城完結編」は、馳星周のデビュー作「不夜
城」シリーズの第3弾。を読む。憎悪の連鎖の果てに、皆、いな
くなった。殺しあいの世界は、エンドレス。憎悪と暴力の連鎖
は、ブッシュ以降の、世界戦略を暗示している。社会性といい、
サスペンス性といい、テーマは、ハードながら、ストーリー展開
は、エンターテインメント性充分というおもしろい小説は、大団
円を迎えた。在日中国人の世界。男たちは、皆、死に絶え、幼い
ころのガールフレンド・小文に裏切られても、裏切られても、少
年のころの己の裏切り、という原罪に怯える李基(リージー)
は、小文に尽した末に、小文に殺される。馳星周が、読者に投げ
かけたニヒリズムへのプレゼント。虚無への供物は新しい小説の
世界を切り開いて、消滅した。だから、「長恨歌」。この恨み
は、長く、この後も、尽きないだろう。
- 2004年12月19日(日) 22:01:45
12・XX  福井晴敏「シックス ステイン」は、福井の初め
ての短編集。表題にあるように6つの作品が、収録されている。
退職した自衛官(通称「ヤメイチ=市ヶ谷)たちが、主人公。北
朝鮮の工作員に弟の仇と狙われる「ヤメイチ」が、登場するの
は、「いまできる最善のこと」。スーツケース型の核爆弾の争奪
戦を描いた「畳算」。SOF(特殊要撃部隊)、防衛庁情報局員
を補佐して情報活動をするAP(警補官)などが、活躍する「サ
クラ」。「媽媽(マ−マ−)」と「断ち切る」は、連作短編。子
どものいる女性情報局員を軸にしたのが「媽媽」で、この女性を
サブに廻して、老掏摸の「断ち切り師」(鞄などの底を剃刀で切
り取り、金目の物を盗み取る)を軸にしたのが「断ち切る」。い
ずれも、日常的にふれあいの少ない防衛庁がらみの話だが、子ど
ものいる女性情報局員の、仕事と子育ての悩みに象徴されるよう
に、スパイ小説の「活劇(アクション)」と人情話を組み合わせ
た趣向が生きていて、たっぷり読ませる作品群が、ここにある。

12・XX  熊谷達也「山背郷」は、9つの短編作品が、収録
されている。これまで、羆と立ち向かう猟師の話や秋田の「マタ
ギ」の話、東北地方の蝦夷の話などを書いている熊谷だが、短編
集では、洞爺丸沈没事故に遭遇した潜水夫魂の話「潜りさま」、
幽霊船を取り扱った「モウレン船」、ニホンオオカミがらみの
「メリイ」「御犬殿」など、後に直木賞を受賞する「邂逅の森」
や「相剋の森」という長編小説に繋がるモチーフの作品群(例え
ば、「旅マタギ」は、「邂逅の森」と同じ登場人物だろう)に出
逢う。

12・XX  近藤史恵「散りしかたみに」は、歌舞伎の世界を
扱った小説。前作「ねむりねずみ」同様、小説歌舞伎入門。歌舞
伎座の楽屋や舞台で繰り広げられる事件。事件の解決に乗り出す
のは、私立探偵の今泉文吾。舞台は、「本朝廿四孝」のうち、
「十種香」。決まった場面で、舞台の上空から、必ず、一枚の桜
の花弁が、落ちて来る。歌舞伎の名跡の謎は、双児の兄弟。同じ
顔の役者がふたりいては、困る。それが、全ての悲劇の原因。歌
舞伎の出し物と梨園ならではの悩みをからませながら、小説歌舞
伎入門は、ミステリー仕立てで、展開する。

12・XX  時代小説をまとめて、書評しておこう。宇江佐真
理の「髪結伊三次捕物余話 黒く塗れ」と「桜花を見た」を続け
て読む。「髪結伊三次捕物余話 黒く塗れ」は、御存知、髪結伊
三次シリーズの第5弾。伊三次とお文に難産の末、待望の男の子
が生まれる。初めての子育てに戸惑うお文をよそに、伊三次は、
相変わらず、忙しい。捕物帳というより、すっかり、江戸の人情
話ものになってきた、このシリーズ。細部まで、目の行き届いた
人情の機微が、おもしろい。

表題作「桜花(さくら)を見た」は、遠山金四郎の落し子の父恋
しの物語。葛飾北斎の娘・應為を主人公とし、娘の目から見た北
斎を描く「酔いもせず」。松前藩の家老で、絵筆もとった蠣崎波
響の生涯を描いた「夷酋列像」は、蠣崎波響の代表作で、アイヌ
民族の姿を描いた「夷酋列像」の制作秘話を解き明かす。「シク
シピリカ」は、同じく蝦夷もの。江戸幕府のスパイを勤めたと言
われる探検家・最上徳内の物語。全部で5編の作品を収録した短
編集で、これも、読みごたえがあった。

12・XX  佐藤雅美「啓順純情旅」も、シリーズ第3弾。身
に覚えのない殺しの嫌疑を掛けられた江戸の町医者の啓順の逃避
行。甲州の竹居の安五郎(通称「吃安」)とのかかわりで、甲
州、特に、富士川筋のことが出て来て、おもしろく拝見した。啓
順の嫌疑も晴れ、江戸は、芝神明前に医者の看板も掲げて、結婚
もし、子宝にも恵まれた。明治の御一新後まで生き延びた啓順の
その後は、出て来ないが、これで、大団円だろう。最終巻とは、
書いていないが・・・。

12・XX  佐伯泰英「居眠り磐音江戸双紙 朝虹ノ島」も、
シリーズもの。第10弾。先に、第11弾を読み、この「乱読物
狂」にも、書評を書いている。シリーズものを逆に読むとタイム
スリップしたみたいで、おもしろいことを発見した。筋立ても、
気にならずに、読めた。このシリーズは、主人公の居眠り磐音こ
と、坂崎磐音のキャラクターが、良いのだろう。故あって、父親
が家老を務めている豊後関前藩を脱藩し、江戸下町の長屋住まい
をし、鰻割きのアルバイト、つまり、江戸版フリータ−をしなが
ら、関前藩の財政再建を手伝ったり、南町奉行所の年番方与力の
助っ人をしたりしている。そして、長屋の庶民や出入りする商店
の町人たちとのほのぼのとした交流も描くということで、人情時
代小説は、2、3ヶ月に一冊刊行というペースで、書き下ろされ
て行く。

12・XX  高橋克彦原作の吉田光彦画「ばく食え」は、高橋
克彦のホラー小説を劇画化した作品を4編収録している。「闇
鍋」を突っ突きながら、互いに怪談話を披露する「おそれ」。旧
家の蔵に残る奇妙な鏡台の祟りがテーマの物語は、ずばり、「鏡
台」。表題作の「ばく食え」は、夢を食う貘の入ったという箱。
物語は、江戸川乱歩の「押絵と旅する男」のように、列車内の会
話と言うスタイルで、物語が展開する。「匂いの記憶」は、故郷
の町の匂いが、呼び覚ます母と父の悲劇の物語。吉田光彦の精緻
なタッチの絵は、高橋作品の世界をさらに拡げて、新たな地平を
切り開いた。年末に来て、ことしの収穫の一つに出逢った。

12・XX  江國香織文・宇野亜喜良画「ジャミパン」、宇野
亜喜良「白猫亭 追憶の多い料理店」。まず、「ジャミパン」
は、父のいない母子家庭に育った少女の物語。自伝的色彩が強そ
う。美人じゃないが、男の気を引くのが巧い、奔放でセクシーな
母。父は、少女が生まれたときから、不在だった。母が好きな
ジャムパン。母は、「ジャミパン」と蔑ながら、いつもパンを半
分だけ食べる。母の価値観を象徴する「ジャミパン」。母の弟
は、少女の父替わりを務めてくれる。その叔父が、婚約者を連れ
て来た。たいした女じゃない、と言いながら、半分の「ジャミパ
ン」を食べる母。大人たちの世界を冷静な目で見つめる少女の成
長物語。宇野亜喜良の描く画は、そういう少女の複雑な心境を
キャンバスに乗せて行く。

「白猫亭 追憶の多い料理店」は、絵も文も宇野亜喜良。追憶
は、失われた恋の記憶。猫が経営する料理店。メニューは、「ミ
ラージュ・ボール」の食前酒。「花電球譚(舌)のマリネ」が、
前菜。パスタは、「夜明けのパパゲーノ」。第1皿は、「人魚姫
の溜息(なげ[き]ヤリイカのローエングリル)」。第2皿は、
「アラビアンナイト(めくるめく情熱の血の滴り)」。デザート
は、「いまはなき王女のためのババロア」。そして、最後に、
「苦笑い付きコーヒー」で、フルコース終了。全ては、失われた
恋の記憶を取り戻すための食事。

12・XX  純愛ものが、はびこっている。9・11以降、イ
ラク戦争に象徴されるような、アメリカのブッシュによる世界支
配は、世界中に不安感、無力感をまき散らしている。ブッシュが
突き進む「ユニラテラリズム」の世界政策。ネオコンサーバティ
ブ、ネオコンたちのよる一国主義。オフェンシブ・リアリズム。
ユダヤが、アメリカの裏を支える。ユダヤは、アメリカのマスコ
ミを支配する。機能しないアメリカのジャーナリズム。21世紀
は、希望のない世紀なのか。

日本でも、小泉政権が、ブッシュに尾を振り、憲法改定、つま
り、軍隊を持ち、戦争のできる国家に変えようと大胆に一歩を踏
み出している。イラクとアメリカと同様の関係を北朝鮮と日本に
も築こうとしている。機能しない日本のジャーナリズム。マスコ
ミは、壊れはじめた。メディアが、煽る身近な不安。社会状況
の、下り坂を落ち続けるのを目にも止めずに、身近な純愛に現を
抜かす若者たち。それが、「世界の中心で、愛を叫ぶ」(すで
に、書評済み)以来の純愛小説ブーム。世界の中心に自己を置く
だけの価値観。「ふたりのための世界はあるの」。新生活保守主
義。日本的ネオコンサーバティブ、ネオコンたちは、純愛主義と
いう形で、姿を現している。

市川拓司「いま、会いにゆきます」も読んでみた。タイムスリッ
プ、亡くなった妻との想い出。3人の親子だけの、純愛物語。外
の世界で、戦争が起きようが、地震が起ころうが、関係ない世
界。それが、売れている。売れ続けている。

最近、書店の店頭で売れているのが、同じ系統の西田俊也の2作
品。敢て、読んでみた。「ラブ・ヒストリー」とは、自己の恋愛
遍歴を辿る物語である。

「love history」「love history2」と
もに、タイムスリップ。懐かしい音楽を聞く度に、過去の恋愛体
験の時代にタイムスリップする。これも、純愛系の小説で、
「1」は、4年前に刊行され、最近売れだした本で、「2」は、
柳の下の2匹目のどじょうを求めて、新たに書き下ろされた続
編。編集者の安直な企画が、目に浮かんで来る。

内田春菊「準備だけはあるのに、旅の」と「ぬけぬけと男でいよ
う」という小説2册を読む。「我がまま男と生意気女」という構
図で、恋愛小説を書いている漫画家・内田春菊の最新作。「ぬけ
ぬけと男でいよう」の方は、浮気好きの「ぬけぬけ男」の視点
で、妻や2人の愛人たちのことを書いていて、まだ、小説になっ
ているが、「準備だけはあるのに、旅の」の方は、荒唐無稽な漫
画本の原作みたいなもので、小説とは言えない、駄作。直木賞候
補になった「ファザ−ファッカー」や芥川賞候補になった「キオ
ミ」などの作品を持ち、小説家としても、あるレベルの作品を発
表して来た内田なのに、「準備だけはあるのに、旅の」のような
作品を「ぬけぬけ」と刊行してしまってはいけない。生意気女
が、ぬけぬけ女になってしまった。はあ、残念。読んで、書評ま
で書いて、時間を損した。

森健「女の子と病気の感染」も、読んでみた。「大検(大学検定
試験)」を受ける人のための予備校の教師(28)と教え子の女
生徒との純愛。「萌え」系の青春小説。どうして、こういう小説
が、はびこり、若者たちの社会を見る目を曇らせるのか。
- 2004年12月19日(日) 15:26:12
12・XX  秦建日子(はたたけひこ)「推理小説」を読む。
著者からの謹呈本である。著者は、演出家・脚本家で、舞台のほ
か、最近では、人気テレビドラマ「最後の弁護人」「共犯者」
「ラストプレゼント」「天体観測」「HERO」「救命病棟24
時」などの脚本家として売り出し中の秦建日子の小説家デビュー
作である。

作家秦恒平の長男で、演出家・脚本家・作家のつかこうへいの弟
子、つまり、ふたりの「こうへい」さんの子弟である。社会部記
者の頃、私は、取材で秦さんの家に行ったことがあるが、その後
も、取材を離れて、時々、当時の保谷市(いまの西東京市)のご
自宅へ、お邪魔したことがあり、その折、早稲田大学を卒業し、
金融会社のサラリーマンをしていた建日子さんとも、何回か、
逢ったことがある。その後、サラリーマンを辞めて、つかこうへ
いの門下生になり、演出家としての修業時代を経て、一人立ちし
た舞台から、彼の脚本・演出も、拝見して来た。そして、ほとん
ど、辛口ばかりだが、厳しい劇評もしてきた。それでも、彼は、
めげずに、二足の草鞋を脱ぎはじめ、脚本家、演出家としての活
動に邁進してきた。最近は、テレビドラマの人気脚本家として、
めきめき、売り出して来た。その延長線上での、今回の作家で
ビューである。ここは、デビューを祝福しながらも、辛口批評
で、門出を祝わなければなるまいと、思う。

さて、表題作は、ミステリー小説なので、私が読んだ日本のミス
テリー小説で、最もインパクトがあった、中井英夫の「虚無への
供物」並の期待を込めて、読んでみた。ご承知の人もいるかもし
れないが、中井英夫は、「戦後」(「虚無への供物」発表以前の
「戦後」ではあるが)をトータルでテーマにした上で、哲学的と
推理小説的という本来なら、二律背反の要素をバランス良く作品
世界に結実させた希有な「推理小説」を書き上げた人である。そ
して、それ以後、「虚無への供物」を超える推理小説は、日本に
誕生していない。


芝居の「ト書き」のような独特の文体、秦建日子のデビュー作と
しての小説「推理小説」は、T.H著の「推理小説・上巻」「中
巻」「下巻」という、殺人を予告し、著者が殺人を実行する小説
が、いわば、「入れ子構造」になっているなど、芝居者らしい、
創意工夫、工夫魂胆の趣向溢れる小説ができあがった。この趣向
の工夫には、非凡なセンスを感じる。ストーリーや結末は、ミス
テリー書評のルールとして、紹介は避けるが、いまブームの、推
理小説、ミステリー小説、エンターテインメント小説、あるい
は、ミステリードラマへのアイロニー溢れるパロディー小説と
なっている。

読後感は、作中の安藤刑事が言うように、「例の『推理小
説』、・・・最後まで読んだら全然つまんないんですよ?(こ
の?は、なに?誤植、それとも、いま風の語尾を上げる科
白?ーー引用者)最初すごく期待させたぶん、最後の方はグダグ
ダっていうか。大風呂敷広げて、すげえトリックとか泣ける真実
とかあるのかと思ったら、えっ?何?そんな話なの、これ?みた
いな」と、同じようなものだった。ここまで、自己否定するの
が、秦建日子流の趣向なのだろう。推理小説を否定する推理小説
というパロディー小説。あるいは、ニヒリズム小説。まあ、そこ
までが、アイロニー溢れるパロディー小説の趣向だとすれば、趣
向のセンスには、感心する。間違って、これをミステリー小説と
して読んでしまうと、登場人物の、もうひとりの刑事・雪平夏美
の感想同様、「・・・・・・」となってしまうだろう。

だが、その趣向が、「ニヒリズムへのプレゼント」だと解釈すれ
ば、それは、まさに、現代版「虚無への供物」ということになり
かねない。中井英夫を超える志。「百尺竿頭一歩を進む」か。秦
建日子の更なる一歩を期待したい。 
- 2004年12月14日(火) 21:09:38
12・XX  村田喜代子「百年佳約」は、秀吉の時代に朝鮮か
ら九州に強制的に連れて来られた陶芸家たちの末裔の「とも白
髪」の話。つまり、百年そい遂げる「佳約(佳き約束)」の結婚
譚。「龍秘御天歌」で、朝鮮の葬式をテーマに神話的小説世界を
構築した著者は、今回、朝鮮の結婚式をテーマに、同様の神話的
小説世界を構築した。「生きた者」同士が、結婚をする。これ
は、まあ、当たり前。ところが、ここの結婚は、そればかりでは
ない。死んだ者は、死んだ者とあの世でも結婚できる。これを
「冥婚」という。一度流れた縁談を復活させるために、木とも結
婚する娘もいる。これは、「木婚」と呼ばれる。

息子・十蔵と母親・百婆シリーズ。「龍秘御天歌」では、親子で
死生観を争ったが、「百年佳約」では、亡くなった百婆が、一族
の神となり、若者たちの結びの神として、冥界から現世にいろい
ろ影響力を発揮する。祖先から、いまを経由して、子孫へ受け継
がれる人間の営みは、畢竟、共同体内では、死者の葬式があり、
欠けた要員を送りだし、新たな要員を結婚式で補うという、無限
の連鎖の世界となる。読み応えのあるイマジネーションの世界を
浮遊する心持ちの充実した時間を持った。こういう小説に出逢う
ために、乱読物狂しているのだ、私たちは。
- 2004年12月3日(金) 21:40:26
12・XX  古本屋、あるいは、古書街、あるいは、古書業界
のことを書いた本を続けて読んだ。  

田中栞「古本屋の女房」は、まさに夫婦で古書店を経営する実体
験をまとめたもの。著者は、古本屋に恋したのか、かって、一緒
に渋谷の新刊の書店に勤めていた先輩が始めた古書店に偶然飛び
込んで、古書店主に恋をしたのか、とにかく、古本屋の女房にな
り、母になり、子育てしながら、古書店を経営し、本も書き、イ
ラストも描き、名前通りにオリジナルな栞も手作りし、署名入り
の本の付録として、駿河台下の東京堂という書店だけで、限定販
売している。もっとも、サイン無し、栞無しなら、どこの本屋で
も、売っています。中味は、同じで、おもしろい。最近、古本屋
の人たちが、本を書き、なかには、小説も書き、直木賞まで受賞
した古本屋もいるが、彼女の本の方も、負けずに、おもしろい。

紀田順一郎「私の神保町」は、著者が、古書の町、神保町の変遷
や古書業界のことをあちこちに書いた40年分の原稿をまとめた
もの。神保町に愛着を感じている著者の熱い思いが伝わって来
る。紀田さんとは、一時期、日本ペンクラブの、同じ委員会のメ
ンバーとして、私と同じ卓に付いたことがあるが、多忙な所為
か、あまり出席率の良くない委員で、私は、それでも、任期を継
続して委員を続けているが、紀田さんは、任期の変わり目にで
も、何処かに潜ってしまったのか、何時の間にか、姿を消してし
まった。もう少し、いろいろ話したかったのになあ。ご出身の岡
山の方に立派な書庫付きの仕事場を作ったという。

12・XX  浅田次郎「霧笛荘夜話」は、地上げの対称となる
ような、港町の運河近くの古いアパートが舞台。6人の居住者
の、さまざまな物語が、家主の、纏足(てんそく)の中国老女と
ともに、語られる。最後に、本当に地上げに来て、ミイラ取りが
ミイラになった地上げ屋まで、全てくるめて「霧笛荘夜話」とい
うわけだ。ただし、この連作短編は、10年前に、3つ書かれ
て、5年前にひとつ書かれて、ことし、3つ書かれて、完成とい
う所為か、緊密感が、弱いのが、難点。
- 2004年12月1日(水) 23:00:32
11・XX  このところ読んだ時代小説の書評をまとめて、掲
載しよう。

中津文彦「天明の密偵 小説菅江真澄」が、おもしろかった。田
沼意次から松平定信へ権力が変わる時代。意次派と定信派の対立
抗争を背景に、後の菅江真澄、こと白井秀雄の物語。定信派の師
匠・植田義方の意向を受けて、意次派が、蝦夷でたくらんでいる
企ての秘密を暴こうと信濃、出羽、陸奥を経て蝦夷への長旅をす
る白井秀雄の孤独な密偵の旅。日本の民俗学の先駆者とも言われ
る菅江真澄は、東北地方や北海道の江戸後期の風俗や民俗を日記
体の記録文書で残した。菅江真澄の膨大な記録文書の向こうに中
津は、定信派の密偵として暗躍した若き日の菅江真澄の姿を再構
築するとともに、白井秀雄の眼に映じた蝦夷の光景とアイヌ民族
の姿、松前藩と蠣崎波響の波乱万丈の歴史を描いた。

11・XX  宇江佐真理「深尾くれない」、「八丁堀喰い物草
紙・江戸前でもなし 卵のふわふわ」、「憂き世店 松前藩士物
語」と、このところ宇江佐ワールドに浸っていた。なかでも、
「憂き世店 松前藩士物語」は、松前藩の松前から梁川(いまの
福島県)への転封(移転)と復領(原藩への復帰)のなかで、リ
ストラされ、再び復帰した下級藩士の物語で、相前後して読んだ
中津文彦「天明の密偵 小説菅江真澄」と重ね合わせてみると、
非常に興味深い。

「八丁堀喰い物草紙・江戸前でもなし 卵のふわふわ」は、食い
道楽の舅との暮らし、夫との心の行き違いがありながら、健気に
生きようとする妻。八丁堀に住む北町奉行所、臨時廻り同心一家
の日常生活が、活写される。テーマは、食いもの。「黄身返し
卵」「淡雪豆腐」「卵のふわふわ」「ちょろぎ」など、食いもの
に絡めた外題が、つらなる連作短編小説集。

「深尾くれない」は、大輪の牡丹を愛した剣豪の物語。「深尾く
れない」は、鳥取藩のお家流である「雖井蛙(せいあ)流」を考
案した剣豪・深尾角馬が、慈しみ育てた紅の牡丹の異名。不義密
通の妻たちをふたりも殺さなければならなかった男の悲痛な世界
が、描かれる。

11・XX  佐伯泰英「居眠り磐音江戸双紙 無月ノ橋」も、
人気の「居眠り磐音」シリーズの第11弾。先に読んだ宇江佐真
理「深尾くれない」で主役を務めた剣豪・深尾角馬が考案した鳥
取藩のお家流である「雖井蛙(せいあ)流」の使い手、猪野畑平
内という刺客が、磐音を付けねらい、打ち殺されるという場面が
出て来た。

また、「髭の意休」が、ふたり出て来る。浅草弾左衛門の「髭の
意休」(これは、前にも触れたことがあると思うが、歌舞伎の
「髭の意休」は、二代目市川團十郎が、当時の被差別民の頭領・
浅草弾左衛門への意趣返しに造型した人物という説が有あるが、
佐伯の、この作品でも、その説を踏襲している)と「金翠」こ
と、大口屋八兵衛という、もうひとりの「髭の意休」の対立が、
クライマックスに据えられていて、興味深い。それだけに、歌舞
伎の「助六」がらみの話も展開され、佐伯泰英は、歌舞伎にも詳
しそうだ。

11・XX  小杉健治「札差殺し」は、最近、時代小説に新境
地を開いている小杉の作品。江戸町奉行所の与力を主人公にする
作品は、多数あるが、小杉の作品に登場するのは、「風烈廻り与
力」という設定。風の強いときに火事や犯罪が起きるのを防ごう
と見回りに出る役柄らしい。「一風」変わった設定がおもしろそ
うなので、読んでみた。

11・XX  北原亞以子「脇役」、「赤まんま」は、ご存知、
元南町奉行所同心森口慶次郎を軸にした「慶次郎縁側日記」シ
リーズの第8弾と、慶次郎以外の傍役にスポットを当ては、番外
編の2册。いずれも、おもしろく読んだ。江戸の庶民生活を活写
する細部の描写が、このシリーズの、もうひとつの魅力。「どん
な脇役にも、それぞれの人生がある」というのが、「脇役」の帯
のキャッチフレーズ。江戸っ子の粋と人情、もりだくさん。歌舞
伎の世話物を観ているようで、愉しくなる。
- 2004年11月27日(土) 19:31:22
11・XX  歌舞伎座の昼の部の劇評を書き込み、続いて、夜
の部の劇評も、初稿が、3分の2ほどまとまる。もうすぐ、書き
込めるだろう。

玄侑宗久「リ−ラ」を読んだ。「リ−ラ」は、魂の救済と再生の
物語。輪廻は、あるのか。「リ−ラ」とは、「神の庭の遊戯」。
「ヨーガ」の言葉。「リ−ラ」では、植物も動物も、どこかで繋
がっているという。

23歳で自殺した飛鳥は、3年後、「ひそやかな気配」となっ
て、舞い戻って来たようだ。飛鳥の母親・政恵、すでに再婚した
父親・司朗、飛鳥の弟・幸司と沖縄出身の恋人・弥生、飛鳥の
ボーイフレンド・倉田、飛鳥に付きまとったストーカーの男・江
島。飛鳥の生と死に関わった6人が、それぞれの物語が、3年前
の飛鳥の死の真相と心の闇を手繰って行く。自殺した者、残され
た者。それぞれの魂に安らぎはあるのか。

この「リ−ラ」と同じような、「関係」をテーマにしたのが、村
上春樹の最新作「アフターダーク」ではないか。

11・XX  村上春樹「アフターダーク」は、子ども向けの絵
本に良くあるような街の鳥瞰図のような小説であった。鳥瞰図の
細部に描かれて行く人間関係をほぐして行く、そういう小説でも
ある。事件の予兆を暗示しながら、ゆるやかに、時間は、進行し
て行く。

午後11時56分から翌朝の午前7時52分までの物語だから、
タイトルは、「アフターダーク」。つまり、暗くなってから、明
るくなるまでの物語。冬の物語。

登場人物は、複数居る。自らの意志で眠りに入ったまま、夜と無
く昼と無く、目覚めない姉のエリ。そういう姉が心配で、夜に眠
ることが出来なくなり、ファミリーレストランで本を読んで夜を
過ごすようになった妹のマリ。ビルの地下室で、仲間と一緒に徹
夜でバンドの練習をしている高橋、ラブホテルの従業員のカオ
ル、カオルのラブホテルで売春をしていて、客に殴られ怪我をし
た中国人の少女、少女を管理売春している組織の男、少女に怪我
をさせて金や携帯電話、衣服を奪って逃げた男・白川。白川は、
コンピューターのシステム管理の仕事をしているシステムエンジ
ニアのようだ。半徹夜の仕事の合間を抜けて、ラブホテルに行
き、事件を起こし、その後、また、職場に戻って作業をしてい
る。エリは、高橋の紹介で、迎えに来たカオルとともに、事件の
起きたラブホテルまで行き、中国人の少女の通訳をする。中国語
ができるのだ。近いうちに、北京に半年間留学することになる。
ラブホテルで働いているコオロギとコムギ。コオロギは、本名を
隠して、通称のコオロギで、通している。3年間も、暴力的な相
手から、逃亡する生活をしているようだ。日本全国、ラブホテル
でなら、どこでも、人と顔を合わさずに、生活できるからだと言
う。コオロギとエリは、ラブホテルの事務室で知り合い、なぜ
か、そういう秘密も話し合うようになる。白川は、カオルがホテ
ルの監視カメラの映像から割り出した写真を入手した売春組織か
ら追われることになる。白川が、持ち逃げをし、処分に困ってコ
ンビニの棚に置き捨てにした携帯電話に出たために、電話でおど
される高橋。こういうように、当初、ばらばらだった関係が、何
時の間にか、相互に繋がり出した。そういう「関係」を私たちと
いう視点(それは、作者であり、読者である)が、冒頭触れたよ
うに、街の上空から鳥瞰図のような街の細部を監視している。そ
ういう小説だ。それでいて、事件が起こりそうで、これ以上の事
件が起こらないまま、小説は終る。現代社会の病理をさまざまな
人間関係に象徴させて、フィクションとして、構築しているよう
だ。
- 2004年11月24日(水) 22:16:17
11・XX  歌舞伎座の劇評を途中まで、書いたが、所用が多
く、完成していない。昼の部だけでも、早く掲載したいが、新た
な所用が入り込んで来る。

往復の通勤電車のなかで読んだ本も、書評を書く時間が取れない
まま、読み終った後、積み上がられている。そういうなかで、何
冊か分だけ、簡単にまとめてみた。

まず、坂東眞砂子「春話二十六夜」シリーズの「岐かれ路」と
「月待ちの恋」を読んだ。いずれも、江戸時代の春画を短編小説
化したもの。1枚の春画に描かれた作品世界をそのまま、小説に
仕立てた。絵のなかの細部にもこだわり、官能の喜びを歌い上げ
たもの。

直木賞受賞の熊谷達也の最新作品が、「荒蝦夷(あらえみし)」
で、これは、8世紀後半の東北地方が舞台。「荒蝦夷」と呼ばれ
るアイヌ民族の、侵略者・大和朝廷への抵抗の物語。坂上田村麻
呂と闘ったアテルイの父親「アザマロ」が、主人公。アイヌの神
話の世界を描く歴史長篇小説。熊谷の作品は、またぎを取り扱っ
たものを読んで来たが、東北のアイヌ民族の抵抗の歴史ものは、
初めて読んだ。「服わざる者」の視点であり、ストーリーテー
ラーの面目躍如の作品で、おもしろく読んだ。

荒井章「私だけの庭を作る」は、タイトル通りの、庭づくりの入
門書。実践体験に基づく助言書で、コンパクトながら、参考にな
る。将来、本格的に庭づくりに取り組むときに役に立ちそう。

杉山隆男「汐留川」は、昭和30年代の銀座で育った小学生時代
の想い出が、卒業以来40年後に開かれた同窓会を軸に展開する
小説。淡い恋の物語。舞台となったのは、汐留川周辺の銀座。東
京の光景としても共通する部分が多く、懐かしく読んだ。表題作
のなど7つの短編小説が東京の懐かしさを描き出す。神田の路地
裏で育ち、小学校を卒業した主人公の故郷再訪をテーマにした
「卒業写真」なども、興味深く読んだ。

高橋義夫「森の奥の怪しい家」は、著者の山村暮らしの体験を
ベースに小説化した山村騒動記。先に書評した高橋義夫「知恵あ
る人は山奥に住む」の小説版と言えるだろう。12年前に刊行さ
れ、当時購入した本が、未読のまま、埋もれていた。今回の書庫
の整理で見つかり、このほど読んだというわけ。いまでは、時代
小説ばかり書いている著者には、珍しい作品。
- 2004年11月22日(月) 22:07:36
10・XX  食の方から、歌舞伎、江戸文化に近付こうと杉浦
日向子「大江戸美味(むま)草紙」と「ごくらくちんみ」を読
む。「大江戸美味(むま)草紙」は、実は、「むまそう」=「う
まそう」=美味草(うまそう)紙」と、なる。右手で「てんぷ
ら」を長楊枝(竹串)で挿して、左手を口のところへ持って言っ
ている若い女性を月岡芳年が「風俗三十二相」と題する、多分
32枚の続き物の浮世絵の1枚に仕上げたのだと、思う。そのタ
イトルが、「むまそう」なのである。当時の「てんぷら」は、魚
介類を揚げたもので、野菜類を揚げたものは、「精進揚げ」、あ
るいは、「揚げもの」と、言ったという。江戸前の「てんぷら」
は、穴子、芝えび、こはだ、貝柱、するめなどを小麦粉を付けて
揚げたもので、上方の「てんぷら」は、はんぺんを揚げたもの、
つまり、東京で言う「薩摩揚げ」である。「金ぷら」は、小麦粉
の代わりに、玉子の黄味で揚げた、「銀ぷら」は、玉子の白身で
揚げたもの。「てんぷら」を長楊枝で挿して、食べた時代が終る
のは、「天つゆ」が、登場して、お座敷で箸で食べるようになっ
てからで、それまでは、屋台で立ち食い。江戸前の三役は、寿司
に天麩羅に鰻だという。いずれも、「江戸前」、つまり、江戸湾
で採れた魚介類を食材にしている。いずれも、屋台で、食され
た。「てんぷら」に「天麩羅」という字を宛てたのは、山東京傅
だという。

歌舞伎の「助六」を観ていると舞台下手に積物が描かれている。
「竹村伊勢」という、吉原の有名菓子屋の商標だ。竹村では、
「最中の月」という、一種の「あんころ餅」や筒状に焼き上げた
「巻きせんべい」(瓦せんべいの一種か)が、名物だったとい
う。

すががきへたまごたまごがちょうどのり
一声も三声もよばぬ玉子売り
鮓売りの一声宛(ずつ)に灯がとぼり
あじのすうこはだのすうとにぎやかさ

「すががき」とは、吉原のテーマソングの、三味線の演奏。いま
も、歌舞伎の合方で演奏される。
「たまごたまご」という売り声は、先代の金馬の「孝行糖」とい
う落語を思い出した。
吉原では、寿司のことを「すう」と言ったらしい。

「ごくらくちんみ」は、江戸の食べ物ばかりではないが、挿画と
掌編小説仕立てで、いろいろな「珍味」が出てくるから、愉し
い。
- 2004年10月26日(火) 21:39:11
10・XX  「大江戸の正体」に続いて、鈴木理生「江戸の町
は骨だらけ」を読んだ。「江戸の町は骨だらけ」は、江戸の町の
成り立ちを骨に注目してまとめたユニークな本。第1部が、「東
京の骨」というタイトルになっている。東京の町でビルを建てた
り、地下鉄の工事をしたりして、地面を穿り返すと、大量の骨が
出て来る事がある。そのほとんどは、墓地の跡だという。鈴木に
拠れば、江戸の町では、寺が何度も移転させられたという。そし
て、移転の度毎に墓地が壊されたが、地下に埋まっている骨は、
捨て置かれたというから、寺の跡には、地下の墓地が埋もれてい
るというわけだ。そういう寺の跡が、その後の開発で、寺とは縁
のない装いで江戸から東京に変貌を遂げているから、地面を穿り
返すと、本当の江戸の町の姿が浮き彫りにされて来る。

第2部には、「東京の怨霊」が、まとめられていて、本気で、怨
霊の祟りのことが述べられているから、恐れ入る。

総じて、鈴木理生という人は、ユニークな発想の持ち主であり、
東京の千代田区の図書館の職員から東京の都市史の研究家にな
り、地形学、考古学という実証家の鍛え抜かれた視点で東京の都
市学を再構築している。1926年生れというから、間もなく米
寿を迎えるのに、発想が豊かで、若々しく、何時読んでも、この
人の本は、刺激的で、おもしろい。こちらの本は、先に読んで、
書評した「大江戸の正体」のように歌舞伎関連の話は、あまり出
て来ない。

10・XX  堀江敏幸を3册読んだ。川端康成賞受賞の短編
「スタンス・ドット」を含み、作品集として、木山捷平、谷崎潤
一郎の両賞を受賞した「雪沼とその周辺」を始め、「一階でも二
階でもない夜 回送電車・」と「魔法の石板 ジョルジュ・ペロ
スの方へ」を読んだ。

「雪沼とその周辺」は、雪沼という山あいの架空の町と周辺に生
きる人たちの生活を描く。廃れてしまったボーリング場を廃業す
る事になった経営者が、最後の客を迎える。独特のスープを作っ
ていた、こだわりのフランス料理店。脱サラで、居抜きで買い
取ったレコード店を経営する人、製函工場。書道教室。さまざま
な職業、年齢の住民たちのこだわりの生活を描き、まるで、現代
社会の縮図を活写する。だから、3賞獲得。

「一階でも二階でもない夜 回送電車・」は、文字どおり、先に
刊行された「回送電車」の続編。54編の小説とも、批評とも、
エッセイともつかない短文を集めて、大河小説の趣を出す奇妙な
味の世界が構築されている。それは、今回の表題に込められてい
るように、「一階でも二階でもない」という「中2階」のような
世界だ。

表題作「一階でも二階でもない夜」は、ページ数にして、わずか
3ページの掌編。「一階でも二階でもない」のは、作品に登場す
る店が、坂の途中に建っていて、「一階部分が半地下になってお
り、一階だとばかりに信じていた部分がじつは二階だったのであ
る。基準をどこにおくかで一階にも二階にもなるという視点の詐
術」と著者が分析した「割烹バーとでも呼ぶべき空間」で仕事仲
間と料理を食べ、酒を呑み、「なんとじぶんの書くものに似てい
るのだろうと酒のまわった頭で考えているうちにカウンターの電
話が鳴ってなぜか私が呼び出され、思いも寄らぬ知らせがもたら
された」というから、芥川賞受賞の夜をテーマに描いた作品と知
れる。

そう言えば、歌舞伎の世界では、いまでも、大部屋の女形役者の
ことを江戸時代同様に「中二階」と呼ぶ。東銀座の歌舞伎座で
も、「中二階」がある。あいまいなものは、やはり、人生や歴史
には、必要なのだろう。

詩人とも哲学者とも書評家ともつかぬフランスの作家のジュル
ジュ・ペロスの生涯をとりあげた長篇エッセイ。この主人公も、
「一階でも二階でもない」人であるらしいし、この本も、そうい
う人の生涯と文学を描いた評伝だか、エッセイだか、良く判らな
い作品であるが、なんとも独特の味わいがあるのが、堀江敏幸の
魅力だろう。

10・XX  寺山修司原作・宇野亜喜良脚色「上海異人娼館」
は、寺山修司原作の映画「上海異人娼館」を元に、ダンス・エレ
マンの10月下旬から11月上旬の舞台のために宇野亜喜良が脚
色した脚本を、さらに絵本化したもの。1926年の上海の娼館
「春桃桜」が舞台。娼館の女主人・黒蜥蜴。娼婦・桜(おお)と
彼女の恋人・ステファン卿、桜を密かに慕う少年・王学。娼館の
娼婦たち(白蘭、紅蘭、咲耶など)。黒蜥蜴の下男・西瓜男、宝
石商・龍などが登場する。ストーリーは、桜と王学の禁断の恋へ
展開し、最後は、ステファン卿に銃撃され、殺される王学という
結末。ポーリーヌ・レアージュの「O(おお)嬢物語」をベース
にした寺山のポルノグラフィーが、原作。それを寺山が、舞台を
魔都上海に移し替えた。それをさらに宇野は、舞踊劇に書き換え
た。まるで、歌舞伎の狂言のようだ。だから、ダンスは、歌舞伎
の「だんまり」に似て来る。

「娼館という室内空間は、歌舞伎の〈だんまり〉のように、すっ
きりと明るいくせに、そこには約束事としての闇がある」と、宇
野も書く。

10・XX  五味川純平「戦記小説集」は、再読。昔、高校生
の頃、五味川純平の長篇小説「人間の条件」が、加藤剛主演のテ
レビドラマとして放送されたのを覚えている。重くのしかかる戦
争という壁。それは、徴兵された梶という兵隊の軍隊内務班での
理不尽な新兵苛めへの反抗として描かれる。「人間の条件」は、
また、仲代達也主演の映画としても製作され。こちらも、ヒット
し、長く、徹夜の映画上映館の定番になっていたのを記憶してい
る。私は、大学受験の勉強の息抜きに、三一書房版の「人間の条
件」を飛び飛びに読んだのを覚えている。その後、五味川純平
は、「戦争と人間」「ガダルカナル」「ノモンハン」「虚構の大
義」などの戦記ものを書き継いだ。五味川純平「戦記小説集」
は、そういう長篇のエキスを掬い上げたような短編集である。ソ
満国境に侵略した関東軍の一員としての軍隊の日常。ソ連に攻め
込まれて敗残した兵隊の末路。それは、「人間の条件」の兵隊・
梶が、愛しい妻の元へ雪の荒野を彷徨う姿を思い起こさせる。

日本ペンクラブのホームページのひとつ「電子文藝館」に掲載す
る木下尚江「火の柱(抄)」を校正のため、読んだ。日露戦争開
戦時に戦争反対の意思表示として、「非戦論」を唱え、それを体
現する小説として、当時の毎日新聞に連載された長篇小説が、
ジャーナリスト・木下尚江の書いた「火の柱」である。ことし
は、奇しくも、日露戦争が開戦した1904年から100年に当
たる。アメリカが仕掛けたイラク戦争に加担した日本も、戦争国
家ヘの道を歩き始めるなど、キナ臭くなっている。そういう年
に、日本ペンクラブの主宰する電子文藝館に、改めて木下尚江
「火の柱」が、抄録とは言え、掲載される意味は、大きいと思
う。電子文藝館委員会の作業が終れば、間もなく、木下尚江「火
の柱(抄)」が、掲載される。元々の作品は、かなりの長篇だけ
れど、明治の文章とは言え、それほど読み難くないので、関心の
ある人は、是非とも、原文を読んで欲しい。筑摩書房の全集に掲
載されているが、近くの図書館から借り出せるはずである。

10・XX  乙川優三郎「芥火」は、着物をテーマにした連作
短編作品3つを含む5つの短編集。人生の「落間(おちま)」に
落ち込みながらも、健気に生きる江戸の庶民を描く。特に、表題
作の「芥火」を始め、「夜の小紋」、「妖花」など着物をテーマ
にした作品が、おもしろかった。

下総行徳生まれで、娼婦上がりのかつ江が主人公の「芥火」。か
つ江は、幼い頃、父親が経営していた旅籠が、火事の火元とな
り、家が凋落し、下働きの奉公に出された。さらに、江戸に出た
かつ江は、男に騙され、娼婦になった。美貌を武器に妾になり、
小金を溜めて、娼家を買い取ろうとしている。貯金替わりに買い
求めた着物の数々。さり気ない記述のなかに、さまざまな着物が
背景画のように点描される。空色の絣、藍染めの紬、裾に春の野
花を染めただけの白い結城。着物にしか夢中になれない人生だ
が、かつ江は、逞しく生き抜いて行こうとしている。

「夜の小紋」は、江戸小紋の型彫師を目指していた魚油問屋の次
男の由蔵が、一旦稼業を継ぎ、妻子もいる長男の死去に伴い実家
を継がされるが、その蔭には、いっしょに染め物の世界を生きよ
うとした紺屋の「色挿(ざ)し」のふゆとの別れがあった。幼い
甥が成長して、稼業を継ぐようになると、再び、小紋の世界に入
ろうとする由蔵。だが、過ぎ去った10年の歳月は重く、由蔵に
のしかかって来る。そういうストーリー展開だから、この作品に
も、江戸小紋を中心にした着物の話が出て来る。

そう言えば、先に読んだ鈴木理生「大江戸の正体」には、商業資
本から産業資本へ転換した寛政期の江戸の経済の状況が記述され
ていた。「京」というのが、そのころまでの高級品のイメージブ
ランドだった。上方からの「下りもの」は、高級品であり、下っ
て来ないもの、つまり、東北や江戸の周辺から送られて来るもの
は、「下らないもの」として、差別されていた。それが、近江商
人の柳屋五郎三郎によって打ち壊しはじめられたという。例え
ば、「京紅」は、本来、いまの山形県、当時の出羽国最上川流域
で生産された紅花を載せた船が日本海を南下し、瀬戸内海を通
り、上方に運ばれ、京に集められた。そこで、花は、紅に加工さ
れ、「京紅」というブランド商品として、改めて、全国に出荷さ
れていた。

これを柳屋五郎三郎は、変えた。最上川流域から紅花種を仕入れ
て、江戸の周辺地域であるいまの埼玉県、当時の武州国桶川、上
尾、大宮、浦和で紅花として栽培させた。それを江戸に運び、日
本橋の通町二町目にあった柳屋で口紅に加工した。柳屋の暖簾
は、京ブランドそのものだから、流通過程を短縮した分価格を下
げた柳屋商法が当たったのは、言う間でもない。これは、別の視
点から見れば、商業資本家が、産業資本かに変身したということ
である。灘、伏見の酒も、そうだが、「下りもの」は、さまざま
な商品があり、それらの商品は、江戸でしか販売できなかった。
近江商人は、酒も江戸の周辺で製造し、販売を始めた。こうして
「下りもの」が、江戸の周辺で製造されるようになり、生産各地
では、いまも、江戸時代から続く地場産業として、伝統的な技法
を大事にしながら、生産が続けられている。そういう商品として
は、絹織物、陶磁器、製紙などがある。甲斐絹、川越絹、秩父
絹、八王子絹、結城紬、桐生龍紋、安中龍紋など。

ところで、埼玉県の熊谷(「くまがや」は、熊谷(くまがい)直
実の縁の地である)では、友禅染めや江戸小紋の技術が、いまも
伝えられているし、江戸の文化を支えたさまざまな商品は、熊谷
に限らず、埼玉県内の各地で造られている。そういう知識を背景
にして、乙川優三郎「芥火」を読んでみるのも、おもしろいし、
歌舞伎の舞台を見るのも、おもしろいと、思う。江戸の周辺地域
が、江戸文化を支えるようになったのは、意外と身近な歴史の時
期からなのであることが、判る。
- 2004年10月16日(土) 21:38:47
10・XX  鈴木理生「大江戸の正体」を読む。鈴木の「理
生」は、「まさお」と読む。以前読んだ鈴木の「江戸はこうして
造られた」は、地面から江戸の街作りを論じていて、なかなかの
名著であった。今回読んだ「大江戸の正体」は、江戸の成り立ち
をさまざまな角度から論んじた江戸事典の趣のある本だ。例え
ば、絹と言えば、日本から輸出をし、外貨を稼いだというイメー
ジが強いが、実は、江戸時代には、逆に外から輸入していた。な
ぜ、そういうことになったのか、という視点で江戸の成り立ちを
解き明かして行く。ミステリーよりおもしろい。論じるテーマ
は、一見、繋がりが難しそうなものばかり。例えば、年中行事、
与力・同心と大縄拝領地、江戸学の先駆者・三田村鳶魚の江戸空
間拡大論、天下普請、都市の祝祭と劇場、寺と巡礼、貨幣経済、
といった具合だ。読めば、それぞれが、「目から鱗」のおもしろ
さだから、読み出したら止められない。

「都市の祝祭と劇場」には、当然のことながら、歌舞伎の話もふ
んだんに出て来る。いまの歌舞伎座のある辺りの木挽町の杭上家
屋の屏風絵には、江戸湾の海岸の水上に建てられた芝居小屋が出
て来る。八重洲通りの京橋交差点の近くにいまもある猿若座発祥
の地への疑問も投げかけている。

ところで、著者は、かなりな歌舞伎のファンと見た。というの
は、さまざまなテーマとからめて歌舞伎のことに触れてくるから
だ。今回の書評では、この本の本筋の紹介は、そのくらいに留め
て、脇道に逸れて、歌舞伎に触れた部分を抜き出してみたい。例
えば、プロローグの「絹に支配された国」では、冒頭述べたよう
な絹の輸入国から輸出国への変化が、簡潔に述べられているが、
江戸の化政期のころ、絹織物が、それまでの武士家庭の着物から
庶民の間でも着られるようになった証拠のひとつとして、「与話
情浮名横櫛」の「おめえさんなんぞは、年が年中御蚕ぐるみで居
なさる御身分だ」と「お妾さん」の立場のお富さんを揶揄する蝙
蝠安の科白が引用されている。そのお富さんが、黒板塀の家に住
む「源氏店」は、本来「玄冶店」だが、これは、徳川幕府の正規
な医官であった「岡本玄冶拝領町屋敷」のことだと「大縄拝領
地」の章に出て来る。御徒町に近い「錬塀小路」には、御数寄屋
坊主の河内山宗春が住んでいた(これも、「大縄拝領地」の
章)。

江戸時代の武家の妻の呼称では、将軍夫人の「御台所」から、奥
方、奥様、御内儀、御新造となり、「奥様までが、士分、御内
儀、御新造が与力・同心クラスであった」という説明の後、再
び、「与話情浮名横櫛」の話となり、「『大番頭の御内室さま・
御内儀・おかみさん』が使い分けられている」と解説される。因
に、名作歌舞伎全集所載の台本では、お富への呼び掛けとして
「大番頭の御内室さま」、「御内儀」というのは、藤八の科白、
与三郎では、「エエ、御新造さんえ、おかみさんえ、お富さん
え、イヤサ、コレお富、久しぶりだなア」という、有名な科白に
なる。まあ、このように、歌舞伎ファンが読んだら、もうひと
つ、別の味わい方ができる本だと、思う。続いて、同じ著者の
「江戸の町は骨だらけ」も、読んでいるが、その書評は、また、
別の日に。
- 2004年10月7日(木) 22:16:38
10・XX  歌舞伎の関連サイトの筈なのに、「乱読物狂」で
は、あまり、歌舞伎関係の本の紹介がないと、不満をお持ちの方
もいるだろうと思うので、今回は、3冊ほど歌舞伎関連書を取り
上げよう。とはいっても、このサイトのことゆえ、まともな歌舞
伎書ばかりではつまらないので、「意外な」歌舞伎書も、紛れ込
ませたい。

関容子「海老蔵そして團十郎」、小林恭二「歌舞伎通」、日野龍
夫「江戸人とユートピア」である。

関容子「海老蔵そして團十郎」は、先代と当代の團十郎に加えて
新海老蔵の、三代に亘る團十郎の話を楽屋話を中心にまとめたも
の。ことしの春、十一代目海老蔵襲名披露興行を前に刊行され
た。「海老蔵そして團十郎」というタイトルには、「海老さま」
として知られた先代の團十郎、当代の團十郎、そして、新海老蔵
の三代の意味が込められている。つまり、当代の團十郎を軸に
「海老さま」と「新海老蔵」が、円のように廻っている。おっと
りした大人(たいじん)の十二代目團十郎、癇癪持ちで、繊細な
十一代目團十郎、そういう先代の気質を隔世遺伝として、そっく
り持っている将来の十三代目團十郎というわけだ。楽屋や家庭で
のエピソードをまとめた本書は、役者の素顔が伺われておもしろ
いが、まあ、それにつきるという弱点もある。春の刊行時に買い
求めながら、なかなか、読まずに放ってあったのも、そんなとこ
ろに原因がありそう。読み始めれば、それなりにおもしろいのだ
が・・・・。当代の團十郎が、大病の果てに、先代の享年を無事
突破し、生還してくれたことが、何よりも嬉しい。老成してゆく
團十郎を同世代として、どこまでも、同伴して行きたいという思
いを、改めて強く感じた。そのためには、当代に長生きしてもら
わなければならないし、私も、健康に気を付けて、長生きできる
ように精進しなければならない。そういう思いを改めて感じさせ
てくれたのは、この時期に読んだことの功徳かもしれない。

小林恭二「歌舞伎通」は、歌舞伎観劇歴15年という作家・小林
恭二流の歌舞伎入門書。ほぼ同じ時期に刊行された関容子の本と
同時に購入していたが、いまごろ、同時に読んでいる。関容子の
本が、團十郎と海老蔵を軸にした楽屋話なら、こちらは、勘九郎
を軸にした舞台と楽屋の話。それぞれ、「偏向する」役者の違い
が、本の魅力の違いになっていて、微笑ましい。

小林の本は、勘九郎が出演した最近の舞台に焦点を宛てながら、
歌舞伎の演目解説。勘九郎や渡辺保との対談。歌舞伎座の内部の
紹介、後援会の案内など。しかし、小林の解説や説明は、一部、
知識や理解が、不正確なところや間違っているところが見受けら
れるのが、惜しい。例えば、歌舞伎でお馴染みの定式幕の説明
で、「歌舞伎座の場合だと萌黄、茶、黒の縦縞」(p193)とあ
るが、別の所では、「萌葱、柿、黒という旧市村座のもの」
(p73)と説明している。「萌黄」と「萌葱」、「茶」と「柿」
は、それぞれ同じことだから、良いとしても、歌舞伎座の定式幕
は、旧森田(守田)座のもので、「柿、萌葱、黒」の順番であ
り、旧市村座のものは、国立劇場などで使っているが、歌舞伎座
では、使用していない。また、南北の「東海道四谷怪談」の説明
でも、お岩が、伊右衛門に「劇薬でふためと見られない顔にした
上で、殺します」としているが、お岩は、按摩宅悦とのやりとり
のなかで、柱に刺さっていた脇差の刃にひょんなことから自分で
喉を突き刺して死んでしまうのであって、お岩が死ぬ場面には、
伊右衛門は、不在証明(アリバイ)がある。このほか、チケット
の電話予約の仕方の説明も不正確だ。初心者をミスリードしかね
ない部分もあった。

日野龍夫「江戸人とユートピア」は、社会の閉塞状況からの脱出
を模索する人々が、それぞれの環境に応じて、さまざまなユート
ピアイメージ(「もうひとつの世界」)を構築したという構想
(コンセプト)に基づいて、近世文学専攻の著者が、江戸の庶民
の世間咄、古代学者による知的遊びとしての偽書の創造、荻生徂
徠の思想、服部南郭の詩境、五代目市川團十郎の引退後の世界な
どを、5つのユートピアの創造の試みという「括り」のなかで論
じたもの。特に、代々の團十郎のなかでも、文人性の高い五代目
團十郎を取り上げ、いわば、定年後の10年の、團十郎の生活の
基盤を「ユートピア」の創造という視点で、検証している。51
歳で、息子(四代目海老蔵)に六代目團十郎の名前と俳号の三升
を譲り、自らは、蝦蔵(「海老」より雑魚の「蝦」という意味)
を名乗り、俳号も白猿(はくえん)と改めていたが、56歳の冬
には、役者を引退し、第2の人生に入り、いまの向島に居を定
め、白猿の名で、狂歌、発句、随筆などを書く生活を始めた。そ
の後は、六代目が、3年後に、22歳で亡くなったことから、4
回だけ舞台に狩り出されたが、郊外の閑居「反古(ほご)庵」
で、10年間の定年後生活を楽しんだ。狂歌では、「花道のつら
ね」というペンネームを使用した。

*芝居事のがれてもまたかしましや松が琴弾く竹が笛吹く

という、狂歌が残されているが、亡くなってから、およそ100
年後に始まった松竹による歌舞伎経営を予想していたような狂歌
ではないか、と驚いてしまう。

*をしまるゝ時ちりてこそ世の中の花も花なれ鼻も鼻なれ

大きな鼻は、五代目の顔の特徴のひとつ。

甲府の常打ちの歌舞伎小屋「亀屋座」には、七代目團十郎が良く
出演していたという記録があるが、富士山と浅草の観音様と團十
郎は、「動ひた事がなひ」と言われていた團十郎代々が、大坂で
はない、地方興行に出る道筋を初めて付けたのが、引退後の五代
目、白猿だったなど、興味深い記述もある。

「反古庵」での生活は、「独居の七徳」にあるように、次のよう
な楽しみが、ユートピアを構成していたようだ。
一、人に挨拶の気がねなし。
一、いやな事を聞く事なし。
一、寝たければ直にねる。
一、大酒の叱り手なし。
一、大飯の止め手なし。
一、喧嘩する相手なし。
一、色欲に遠ざかつて無病となる事うたがひなし。

五代目は、市川團十郎という虚像を脱ぎ捨て、白猿、あるいは、
成田屋七左衛門という名で、一個の自由な人間として、定年後の
10年間を過ごした。江戸歌舞伎の宗家という代々の虚構を全う
して引退をし、定年後は、小さな庵で、等身大の生活を楽しんだ
という。虚構そのものの歌舞伎を背負って来たが故に、虚構から
逃れた五代目團十郎。そういう人生を送ることができた五代目
は、いわば、「定年生活の達人」ではないかと、思う。

また、世間という実像から、もうひとつの世界を求めて、庶民た
ちは、蒙昧であるが故に、自分たちの想像力を刺激する世間咄を
好んだ。「世間咄の世界」では、浄瑠璃や歌舞伎の「世話物」誕
生の前段階のような「世間咄」の創成を異事奇聞の伝達として描
き、歌祭文と演劇の関係、その多くは、芝居の要約として歌祭文
が、まとめられたケースが多いなどと分析している。近世社会に
おけるマスメディアとしての人形浄瑠璃や歌舞伎。並木正三の
「宿無団七時雨傘」や並木五瓶の「五大力恋緘」など実際の事件
をモデルにした芝居作りから、南北の「桜姫東文章」まで論じ
る。まあ、普通の歌舞伎批評家や歌舞伎ファンは、こういう本は
読まないかもしれないが、「世間咄の世界」と「虚構の文華ーー
五世市川團十郎の世界」は、歌舞伎ファンなら、参考になる歌舞
伎の解説書としても、読むことができると、思う。

- 2004年10月1日(金) 21:33:06
9・XX  石田衣良「約束」を読む。先日、大阪の大阪教育大
学付属池田小学校で、8人の小学生を殺し、15人に怪我を負わ
せた宅間守死刑囚の死刑が、大阪拘置所で執行されたという。刑
の確定から1年という異例の早さだった。己の犯行に悔いる言葉
を吐かぬまま、死んで行った死刑囚。国家が、合法的に死刑を実
行する背景には、犯罪者の犯行を将来的に抑止するという思想に
裏打ちされて国家意志があるはずだ。だとしたら、死刑囚が、悔
い改めないまま、死刑を執行するというのは、法の前提に反して
いるとしか言い様がない。

生まれて初めて、東京を離れて、大阪で、新人記者生活を送って
いたとき、縁があって、建て替えられたばかりの大阪拘置所の所
内を見学したことがある。独居房、雑居房、収監者の食事を作る
場所などを見たが、その折に、拘置所にある死刑執行の部屋も見
た。13の階段を登る、いわゆる死刑台ではなく、ベージュの絨
緞が敷かれた部屋の床の一部が下に抜ける部屋だったが、死刑執
行を見届ける関係者のいる場所から、執行後に、検死のために、
係官が床下に降りるための階段は、13階段であったことを覚え
ている。また、死刑囚の足元の床が抜ける装置へのスイッチは、
別の離れた場所にあり、3人の係官が、同時にスイッチを押すこ
とになっているが、実際に、床が抜ける装置に繋がるスイッチ
は、ひとつしかなく、その日は、誰のスイッチが、実際に床を抜
かしたかは、少なくとも、3人の執行官には、判らないシステム
になっていた。あそこで、宅間死刑囚の死刑が執行されたのだと
思うと、特別の感慨があるし、同じ日に栃木県で行方が不明に
なっていた幼い兄弟のうちの弟が、殺され、思川のなかで遺体が
見つかったというニュースが伝えられたのを思うと、大人の理不
尽さが、子どもの命を安易に奪ってしまってと、憤懣やるかたな
い思いが募る。後日、兄の方も、同じ思川で見つかった。思川と
言えば、亡くなった作家の後藤明生に「思川」という小説があっ
たのを思い出す。

宅間死刑囚には、もっと、長期間、己の犯行の意味を考えさせ、
苦しませるべきではなかったのかという、思いがする。この事件
に刺激されて、3年前、事件のおよそ半年後に発表された石田衣
良が書いた短編小説「約束」を含む短編小説集「約束」をちょう
ど読んでいたところだけに、一入、そういう思いがする。この短
編は、下校途中の小学生が、通り魔に襲われ殺されるが、殺され
た同級生が突き飛ばしてくれたことで、命を取り留めた少年が主
人公になっている。勉強もスポーツも良くでき、それでいて、偉
ぶらずに、常に、みんなのことを考えて、明るく振舞う同級生の
葉治(ようじ)と近所の幼馴染みの同級生だった汗多(かんた)
の物語。

「死んじゃった。ぼくは生きているのに、ヨウジは死んじゃっ
た」。

心にトラウマを負った少年。自殺志向の少年は、何度も自傷行為
を繰り返す。しかし、通り魔に襲われたときに助けてくれたよう
に、ヨウジは、幽霊になってまでカンタを助けてくれる。それ
で、カンタは、ヨウジと約束をしたのだ。

「冴えなくてもかまわない、最後の一滴がかれるまでいっしょに
生きていく」。

宅間死刑囚は、こういう小説があるのも知らずに、死んでしまっ
たのだろうと、思う。

このほか、下半身の不自由な青年が、熟達すれば、海中では、自
由に振る舞えるダイビングに夢中になる話「青いエグジット」。
難聴の少年に聞こえる亡くなった父からの電話の音「天国のベ
ル」など。人生で遭遇する、さまざまな喪失。喪失によって、一
時的に停まってしまった時間も、やがて、動き始める。人は、喪
失感を乗り越えて生きて行かなければならない。そういう再び流
れ出す人生の瞬間に注目して、いわば、「バック・トゥ・ライ
フ」の物語が、7つ作られ、短編集として刊行された。

9・XX  高橋義夫「知恵ある人は山奥に住む」は、最近で
は、すっかり、時代小説作家になってしまった高橋義夫の9年前
の旧作。書庫を整理していて、未読のまま、放っておかれた本書
を読んだ。長野県と新潟県の県境に近い木島平村の馬曲(うまぐ
せ)谷の廃園になった保育園を別荘として過ごした日々。5年間
住み慣れた保育園が、当初の予定通り、道路工事で退去する羽目
になり、次に、移り住んだのは、朝日連邦の麓、山形県西川町に
ある空家の茅葺き農家。千葉にある義父の持ち家を本拠地にしな
がら、これらの地域へ通いながら、「田舎暮しの探求」をしてい
た作家は、「知恵ある人は山奥に住む」という境地に達するよう
になる。なにごとも、マニュアル通りしか行動できない人では、
不便な山奥に住むことはできないそういう山奥居住派のマニフェ
ストが、本書。都会と田舎を行ったり来たりしながら生活をする
作家と土地の人たちとの交流や自然との対応などが描かれる。
   
- 2004年9月25日(土) 23:14:06
9・XX  年寄りの介護に、いま、いちばん関心があるのは、
団塊の世代ではないか。今期芥川賞を受賞したモブノリオ「介護
入門」は、介護世代に近付いた団塊の世代を飛び越えて、団塊の
世代の子に近い世代の作者が体験したおばあちゃん介護の物語。
キャッチフレーズは、団塊の世代にも役に立つ介護入門。

父親を亡くし、<俺>は、母とふたりで父親の母、つまり祖母が
下半身不髄になり、彼女を自宅で介護する。母は、父が残した小
さな会社を経営しているので、夜の祖母の介護は、主人公の分担
となる。マリファナを吸い、ロックを聞きながら、<俺>は、寝
たきりの「ばあちゃん」の下の世話をする。祖母の子どもたち、
つまり、父親の兄弟、伯母、叔父、叔母たちは、言葉では、祖母
を見舞うが、介護の手を差し伸べようとはしない。そのくせ、ほ
ざく。「人間もこないなったら終わりやなあ、私やったら死んだ
方がましやわ」と番茶を啜りながら嘆息する。

*俺はいつも、《オバアチャン、オバアチャン、オバアチャン》
で、この家にいて祖母と向き合う時にだけ、辛うじてこの世に存
在しているみたいだ。

自堕落な生活のなかで、祖母の介護というしんどさが、逆に生き
甲斐になっていた<俺>。介護するものが、介護されるものに
よって、いろいろ教えられる。その体験は、<俺>を生きさせて
くれただけでなく、<俺>を芥川賞作家にしてくれた。

*知らず知らずのうちに、ばあちゃんの世話だけを己の杖にし
て、そこにしがみつくことで生きてきた。

地味な介護という「福祉」の話が、純文学になり、芥川賞を受賞
し、新たな現代の「神話」を創出した。

YO、朋輩(ニガー)、それほど、実践的で、役に立つ「介護入
門」書だよ。この本は。  
- 2004年9月13日(月) 21:56:38
9・XX  8月末から9月の初めは、遅めの夏休みで南アルプ
スの麓で暫く過ごした。そこで読んだのが、長野県安曇野で孤高
の作家生活を続けている丸山健二の長篇小説。高倉健をイメージ
して作り上げた主人公を軸に話が展開する「鉛のバラ」と兜を
キーワードにした寓意小説「銀の兜の夜」を読む。丸山健二の作
品は、寓意の物語を時代状況と二重写しにしながら転貸される。
このふたつの小説の場合、鉛と銀も、キーワードとして、注意す
る必要がある。

まず、「鉛のバラ」は、長期刑を終えて、社会復帰した男・源造
70歳が主人公。かつては、窃盗団と暴力団というふたつの別の
組織を束ねていた男。つまり、表の顔が暴力団の組長で、裏の顔
が窃盗団の頭領というわけだ。30歳年下の内妻と故郷の孤島に
隠れ住んでいたが、実母に密告されて逮捕されてしまった。逮捕
劇のときに、内妻の八重子は、男に捕縛を知らせようとして、断
崖から落ちて、死亡してしまった.そして、15年間の刑を満期
で終えて、内妻の墓参りと余生を送ろうと男は、故郷に帰って来
た。本土から遠く離れた南の孤島の名は、「回帰島」という。

島に聳える山は、「永劫山」。山から流れ落ち、海に注ぐ川は、
「中天川」。川に架かる橋は、「観月橋」。男が住み着くことに
なる断崖の上にある番小屋の近くにある野原は、「風神が原」。
「中天川」の河口のある港近くの街にあり、以前からの知り合い
や同級生が営業するのが、「水兵食堂」と「よろず屋」。そし
て、ホテル<パラダイス>とペンション<男波>。いずれも、一
癖もふた癖もありそうなネーミングである。

こういう道具立ての舞台に、まず、男が現れて物語が始まるが、
男の出所を待ちかねていたのが、ホテル<パラダイス>に長期逗
留し、ペンション<男波>の釣り船を借り切っていた、釣客風の
正体不明の男、実は、源造の敵から、殺しを頼まれている殺し屋
というのが、基本軸となる。内妻が、亡くなったとき、妊娠して
いたのだが、体内に居て、奇跡的に助かり、その後、島の町長の
養女になっていた八重子(未生以前に亡くなった実母と同じ名前
をつけられている)。八重子と実父の源造、そして、殺し屋との
三角関係。八重子は、癲癇質だが、病を治す超能力があると町長
以下の島民に信じられている美少女。島に滞在することで、次第
に源造と八重子の親子関係が、明らかになる。一方、殺し屋の方
も八重子に引かれはじめ、八重子の実父が、源造だと知るように
なり、物語は、複雑化しはじめる。

寓意を象徴するのが、赤いバラ。そして、番小屋に吊された半鐘
に当たって潰れた拳銃の玉が、つくり出した鉛のバラの文様。ま
あ、寓意小説の筋立てを詳細に紹介しても詮がない。いろいろ、
物語の展開があり、展開の襞襞のあいだに、丸山の時代状況への
メッセージが宿る。そういう構成の小説だ。丸山は、こういう道
具立てで、現代の神話を書きはじめたのだろう。

続いて読んだ「銀の兜の夜」は、「鉛のバラ」より、1年近く前
に刊行された長編小説であり、私が読んだ順番は、逆になってい
る。在日米軍の基地のある街、「待元市」の隣にある海辺の村
「美朝村」の家族の物語。漁業をしていて、海の底から網で父親
が引き上げてしまった銀の兜が、この家族を襲うことになる。兜
を街の骨董屋に見せに行ったはずの父親が、帰途、米軍基地の近
くで銃弾に射貫かれて死亡しているのを兄弟が発見する。父死亡
の代償に米軍から支払われた多額の弔慰金。やがて、兜は、兄弟
を翻弄するようになる。兄が天井裏に隠した兜を見つけだした母
親は、天井板を踏み抜き、兜とともに落下して、亡くなってしま
う。呪われた兜と知り、兜を処分しようとするが、なぜか、巧く
行かない。いかに、巧く行かないかが、延々と記述される。

都会に出る兄、漁村に残る弟の、その後の10年の物語が、「銀
の兜の夜」という長篇寓意小説の正体だ。反戦小説とも読める。
自己形成とは、どうあるべきかを自ら問う青春小説とも読める。

ここでも、いろいろ、物語の展開があり、展開の襞襞のあいだ
に、丸山の時代状況へのメッセージが宿る。そういう構造は、次
作である「鉛のバラ」でも、同じだ。銀から鉛へ。丸山が認識
し、虚構の寓意小説に再構成した時代状況は、確実に悪くなって
いる。そういうメッセージが、長野の安曇野という山間部から、
孤島、あるいは海辺の村を舞台にした物語として発信されてい
る。

そういう小説を山梨県の南アルプスの麓で私は、読みながら、山
間の空気を吸って、過ごした。ここから、長野県は、隣街だ。茅
野市、諏訪市、岡谷市、松本市などを過ぎれば、もう、安曇野
だ。様々の花で構成された庭作りと想像力をバネに構築された寓
意小説作りに精力を注ぎ込む孤高の作家丸山健二の世界は、近く
て、遠い。

9・XX  熊谷達也「ウエンカムイの爪」と「相剋の森」を読
む。これに、直木賞受賞作品「邂逅の森」をあわせると、三部作
になる。「ウエンカムイの爪」は、羆のことだ。人間に仇なす悪
神「ウエンカムイ」と化した羆と人間の対決物語。動物写真家の
吉本憲司は、北海道で撮影旅行中に羆に襲われそうになるが、謎
の女性に助けられる。その女性は、実は、北海道大学農学部の講
師・小山田玲子ということが、後に判る。小山田は、テレメトリ
−法という発信器をつかった動物の生態・行動圏調査をする動物
学者だった。

「相剋の森」では、女性編集者・佐藤美佐子が、主人公になる
が、やはり、動物写真家の吉本憲司と女性動物学者・小山田玲子
が登場する。佐藤美佐子と吉本憲司のふたりは、作者・熊谷達也
の分身と読んだ。熊谷が、秋田のマタギの世界にのめり込んで行
く様が、ふたりの行動でトレースされているように読めるから
だ。この小説のキーワードとなっているのが、「山は半分殺
(の)してちょうどいい」というマタギの言葉だ、これは、「相
剋」、つまり、「ヒフティ・ヒフティ」の世界だ。これは、何ご
とも「根こそぎにする」戦後の経済構造を鋭く告発する言葉だ。
アイヌ民族など、世界の先住民族に共通する自然観。価値観に通
じる言葉だ、と思う。今回は、荒廃が酷くなる東北の森の現況を
「相剋の森」というタイトルで、告発する。

ここに登場するマタギの頭領が、滝沢昭典という猟師だが、実
は、滝沢昭典と佐藤美佐子の曾祖父が、松橋憲治というマタギだ
ということが、後半で明らかになってくるが、松橋憲治というマ
タギは、熊谷達也の今期芥川賞受賞作品「邂逅の森」の主人公で
ある。

となれば、熊谷達也が、目指すものが、浮かび上がって来るの
が、判るだろう。「相剋」から、「邂逅」へ。対立から、出逢い
へ。「邂逅の森」の書評は、すでに掲載しているので、詳しく
は、述べないが、松橋憲治というマタギの、漂泊の人生をトレー
スする構成になっている。そこでは、吉本憲司も小山田玲子も滝
沢昭典も佐藤美佐子も登場しないが、憲司ならぬ憲治が、主人公
として登場する。

そういうスパイラル構造として、熊谷三部作を改めて俯瞰する
と、多くの人たちのように、芥川賞受賞作品「邂逅の森」だけを
読んだ場合とは、異なる熊谷ワールドが、目の前に開けて来たこ
とが判るだろう。

9・XX  時代小説ブームは、いちだんと盛り上がって来てい
るようだ。経済が、長い不況からなかなか抜けだせない。アメリ
カのブッシュが仕掛けたイラク戦争、ロシアのプ−チンが仕掛け
たチェチェン封じこめに対するテロなど、国際情勢の閉塞状況が
続く。まるで、息詰まる現代から逃れるために、江戸時代へ読者
の眼が向いているように見受けられる。特に、書店の時代小説文
庫本コーナーが、賑わっている。今回は、佐伯泰英「居眠り磐音
江戸双紙 朔風の岸」、山本一力「あかね雲」、泡坂妻夫「鳥居
の赤兵衛」、西村望「置いてけ堀 川ばた同心御用扣(ひかえ)
(二)」を読んだ。

佐伯泰英「居眠り磐音江戸双紙 朔風の岸」は、「居眠り磐音江
戸双紙シリーズ」の第8弾。山本一力「あかね雲」は、直木賞受
賞作品。泡坂妻夫「鳥居の赤兵衛」は、「宝引(ほうびき)の辰 
捕者帳」という副題がつく。西村望「置いてけ堀」は、副題にあ
るように、「川ばた同心御用扣(ひかえ)シリーズ」の第2弾。
いずれも、小説の仕掛けは、異なるが、川向こう、江戸の庶民の
町の生活をいきいきと再現する点で共通している。泡坂妻夫「鳥
居の赤兵衛」以外は、いずれも、文庫本で読んだ。もっとも、
「居眠り磐音江戸双紙シリーズ」と「川ばた同心御用扣(ひか
え)シリーズ」は、文庫版書き下ろしと文庫版オリジナルのシ
リーズだから、文庫本しかない。

一方、「あかね雲」は、このほど、文庫版化したばかり。「鳥居
の赤兵衛」は、人気の「宝引(ほうびき)の辰 捕者帳」シリー
ズの最新刊というが、私は、初見。

「朔風の岸」は、磐音と旅先の九州で知り合った旧友の蘭医・中
川淳庵が、勾引(かどわか)され、犯人の血覚上人一味とそれを
裏で操る「鐘ヶ淵のお屋形様」こと、遠江横須賀藩西尾家の藩主
の異母兄・西尾幻楽と対決する磐音や南町奉行所年番方与力・笹
塚孫一との攻防が展開する。

いずれの作品も、詳細な紹介は、しないが、「居眠り磐音江戸双
紙 朔風の岸」と「あかね雲」の、ふたつの作品に共通する点に
気がついた。というのは、ふたつとも、主人公が、上方からの
「下りもの」ということ。上方という異文化からの視点が、江戸
の庶民の生活を生き生きと描き出す。居眠り磐音は、九州から傾
城になった許嫁を追って江戸に辿り着いた。「あかね雲」の主人
公・永吉は、京の豆腐職人が、江戸で豆腐屋を始め、家族を形成
するという話。文庫本の表紙カバーを飾る江戸湾の浮世絵が、客
観的に江戸を浮き上がらせているように見える。

磐音や永吉が見た江戸の庶民の生活。それは、作者の眼であると
同時に、後世に生きる私たち読者の眼でもある。私たちも、後世
からの「下りもの」であるからだ。そこに、人情話、歌舞伎で言
えば、生世話ものの世界が、重なって来る。

贅言:そう言えば、「あかね雲」にも、歌舞伎の話が、ちょっと
だけ出て来る。11月の顔見世興行。年に一回の芝居見物の場面
だが、そうは、言っても、芝居見物には、行かずに、鉄砲洲稲荷
のお酉さまへ行ってしまうのだが・・・・。深川の豆腐屋「京
や」の二代目となる次男の悟郎と結婚することになる日本橋青物
町の雑穀問屋「広弐屋」の娘・すみとの出合となるのが、この酉
の市だから、しようがないか。

一方、泡坂妻夫「鳥居の赤兵衛」には、8つの短編連作が、所収
されている。歌舞伎の縁が濃いので、作者の歌舞伎の知識が忍ば
れる。例えば、表題作「鳥居の赤兵衛」は、大泥棒の物語なの
で、「石川五右衛門」や「天竺徳兵衛」の芝居との対比が出て来
る。「優曇華の銭」では、「お軽勘平」の道行の清元「落人」や
一中節の「助六」の話が、出て来る。「黒田狐」には、直接的に
歌舞伎との関わりは無さそうだが、表題の「黒田狐」は、「葛の
葉子別れ」の「信田狐」への連想を誘う。「雪見船」では、「八
百屋お七」の話になぞらえて、神田橋本町の酒屋の娘・お七殺し
の謎を解く。「駒込の馬」では、駒込の富士浅間神社のお祭りが
舞台。「三番叟」「石橋」の名が出て来る。「熊谷の馬」では、
熊谷直実の話。直実が、法然の弟子になって出家した後、故郷の
館跡に建立した「熊谷寺(ゆうこくじ)」の勧請僧が、殺され
る。「十二月十四日」は、勿論、「仮名手本忠臣蔵」縁の話と五
右衛門の「釜淵双級巴」という外題がちらり。

贅言:「宝引(ほうびき)の辰」という親分の渾名の「宝引」
は、麻糸の先に鈴や独楽、一文人形、福飴、瓦煎餅などの安価な
玩具や駄菓子のほか、銀簪、袂時計、一分銀、二分金などが括り
付けられているのを20本ほどまとめて握っていて、ものが付い
ていない反対側の糸の先を引かせるという、いわば、射幸心を煽
る商売の道具で、神田千両町に住む辰親分は、その「宝引」を行
商人(「辻宝引」という)に卸す商売を副業にしている。辰親分
の子分をしている松吉は、「歌舞伎役者の物真似や踊りが得意、
芝居文字の勘亭流や相撲文字もこなす」というが、いずれも、
「素人の域を出ていない」とかで、「つけられた名が、半端の
松」というから、おもしろい。

西村望「置いてけ堀 川ばた同心御用扣(ひかえ)(二)」は、
「川ばた同心」の南町奉行所同心の秋山五六郎(ごろくろう)を
軸に手下の親分で髪結いの亭主「めかりの半次」、半次の子分で
元大工の「釘笊お富」らが、レギュラーとして活躍する。西村時
代劇の魅力は、捕物帳としてもさることながら、江戸の庶民の息
吹や匂い、音などが、細部でキラリと光るところだろう、と思っ
ている。

例えば、音。物売りの売り声。

*坂には、坂の傾斜に合わせて飛ぶつばくらめの往来が激しい。
五六郎は坂を上がる。
新豆の振り売りが天秤の籠を揺すらせながら、
「まめェ、しんまめェ・・・・・」
という、いいのどを披露して五六郎と行き違った。

*番屋の裏を山川(やまがわ)が「しろゥざけェ」といって通っ
た。白酒のことを江戸ではみんなが山川というが、なぜそういう
いい方をするのか、五六郎はくわしくはない。雛絶句の前後には
きまってこの山川があらわれる。女子供を相手に五文八文の商い
をする甘酒売りだ。

こういう描写を読んでいると、歌舞伎の舞台の「仕出し」の役者
の姿が浮かんで来る。物売りの声は、舞台を一気に江戸へタイム
スリップさせてくれる。

9・XX  石田衣良「娼年」は、大学生の男娼の物語。後に直
木賞を受賞する石田衣良の習作時代の作品。独特の少年世界を形
成する前の作品のひとつだろう。大学にはあまり行かず、バーテ
ンダーのアルバイトをしている森中領は、誘われて男娼の世界に
入って行く。そこで出逢った中高年の女性たちとのセックス体験
から見えて来たもの。そういうフィルターを使って、石田は、現
在の時代状況を垣間見る。

- 2004年9月12日(日) 21:35:49
8・XX  よしもとばなな「High and dry」は、
生まれて初めて人を好きになった14歳の少女の物語。人を好き
になった瞬間の思いを丹念に記録して行く。一種の寓話。山西ゲ
ンイチの絵が、表紙、挿し絵などに、ふんだんに使われている
が、最初は、小説の展開と一致しない。それでいて、奇妙に気に
掛かる絵が続く。やがて、その秘密が、判る。14歳の少女の初
恋の相手の絵の先生の母親の話が、秘密を解く鍵となる。

8・XX  宮部みゆき「ICO イコー霧の城ー」は、人気
ゲームソフトを小説化したもの。いかにも、ローリング・ペー
パーの物語をゲームなら、通用するだろうが、小説にしてしまう
と、先が見えて来るだけに、興醒め。これも、一種の寓話。ゲー
ムソフトを文章に写すと、現代の寓話がうまれる。

8・XX  横山秀夫「出口のない海」は、大学の野球選手で、
人間魚雷の特攻隊員になった人の物語。軍隊という組織と学徒出
陣の青年との葛藤は、警察小説を組織と人という視点で、新たに
構築した横山文学の原点だろう。

8・XX  津原泰水「綺譚集」は、初めて読む作家の作品集。
15の短編が収録されているが、玉石混淆。「赤仮面伝」「ドー
モニイの庭で」「隣のマキノさん」辺りが、おもしろかった。絵
を書くことで対象の生命力を吸い取るという画架の話が、「赤仮
面伝」。ゴッホの「ドーモニイの庭で」という絵とそっくりの庭
作りをする話。いずれも、絵を介在させて生と死の瞬間を描く。
そう言えば、先日、柳美里の最新刊「8月の果て」の刊行サイン
会が、池袋の書店で開かれた。そのとき、柳が、識語として、本
に書いた言葉は、「生と死の瞬間の先へ」という言葉であった。
生と死の瞬間とは、つまり、最後の生と最初の死とが、触れあう
瞬間のことだろうか。その「瞬間の先へ」ということは、死後の
世界か。

津原泰水の作品は、主人公の独白体が多い。「玉」のような作品
を読んでいると、この作家は、夢野久作、赤江瀑の系譜に繋がる
作家になるように思える。しかし、今回の作品集に多い「石」の
ような作品が続けば、この人の本は読まなくなるだろう。今回の
なによりの不満は、作品集のタイトルが、「綺譚集」とされたこ
と。「綺譚集」などという楽屋内を明らかにするようなタイトル
は、つけるべきではない。今回で言えば、収録作品からタイトル
を選び、例えば、「ドーモニイの庭で」とか、「赤仮面伝」など
としても、良かったように思う。

8・XX  神山裕右「カタコンベ」は、今期、第50回江戸川
乱歩賞受賞作品。フリーターをしながら、文学賞の新人賞に応募
を続けていた24歳の青年が、史上最年少で、江戸川乱歩賞受賞
したのは、ご同慶のいたりだ。しかし、洞窟探検というテーマ
は、新鮮味があるものの、そこに、安直な殺人犯と新たな殺人事
件をからませるというのは、あまりにも、安易な発想だし、ス
トーリーの展開に、かなり、無理がある。「若い可能性を買われ
た結果の授賞」というのは、いかにも、読者を馬鹿にしている。
没にして、可能性は、作品刊行以前にもう少し追求させてから、
授賞させるべきではなかったか。昨今の、芥川賞の若い女性の受
賞という風潮、江戸川乱歩賞も、50回という節目で、授賞作無
しを避けたかったという出版社の事情が、透けて見えるが、50
回の歴史のなかで、授賞作無しが、2回あるという権威が、地に
落ちた。そういう作品であった。今回の「カタコンベ」という作
品は。神山裕右の第2作は、前途多難だと思う。

8・XX  佐藤雅美「首を斬られにきたの御番所 縮尻鏡三
郎」は、家督を娘(知穂)婿(地主の次男・三九郎)に譲り、い
まは隠居の身の拝郷(はいごう)鏡三郎は、元は九十俵三人扶持
の御家人で、評定所の留役だった。いまは、職をしくじり、仮牢
兼調所大番屋の元締。まあ、いまなら警察署の留置所の番人か。
入牢者にかかわりのある者から相談を受けるという役どころ。ま
あ、閑職だ。だから、渾名を「縮尻(しくじり)」という。「縮
尻鏡三郎(上下)」に継ぐ、第2弾。シリーズ化の始まりなら、
嬉しい。

茅場町界隈の江戸の庶民の生活を活写しながら、しくじり人生を
ものともせず、持ち込まれる難題、難問を次々に解決して行く拝
郷鏡三郎の人生は、定年後の生き甲斐の模範を示すような鮮やか
な生き方と言えるだろう。悩みの種は、娘と婿の不仲。気の強い
娘と人は良いが、脇が甘い婿。悩ましい毎日が続く。定年時代小
説というところか。これが、しみじみとしていて、すこぶるおも
しろいから不思議だ。
- 2004年8月26日(木) 21:53:37
8・XX  熊谷達也「漂泊の牙」は、今期直木賞受賞作品「邂
逅の森」の先行作品とも言える作品。マタギに加えて、サンカが
出て来る。さらに、ニホンオオカミ、オオカミと犬をかけ合わせ
て誕生させたオオカミ犬、そして、東北の栗駒山系を軸とした雄
大な自然が、描かれる。99年、5年前に刊行された書き下ろし
作品で、第19回新田次郎賞受賞作品であるが、オオカミ犬を絡
ませた連続殺人事件を追う推理小説であり、自然の厳しさを背景
にしたサスペンス小説でもある。熊谷は、古典的なストーリー
テーラーの作家だろう。しかし、直木賞受賞作に比べて、文体、
構成などに緊密感が欠け、私には、いまひとつ楽しめなかった。

ところで、熊谷達也は、理系の大学を卒業して、中学校の教師に
なり、退職。保険会社の嘱託社員、独立して損害保険代理店業を
しながら、小説を書き、97年、「小説スバル新人賞」受賞で、
作家デビュー。初版作家を7年務め、今回の直木賞受賞で花開い
た。「邂逅の森」の書評は、すでに、掲載した。

8・XX  金森敦子「伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の
値段」は、江戸の庶民の旅をいろいろな角度から分析していて、
おもしろい。歌舞伎の舞台を理解するのにも役立ちそう。主な内
容は、江戸の旅のケーススタディとしての「伊勢参り」の検証。
旅人の立場から見た「旅の値段」、つまり、さまざまな費用。そ
して、旅人を迎え、送りをするのを生業とする街道筋の人々から
見た「街道に生きる」という視点で、まとめあげられている。旅
という「覗き機関(からくり)」から見ると、江戸の庶民の経済
力も、結構、しっかりしているのが判る。

8・XX  佐伯泰英「遺恨 密命影ノ剣」は、「密命」シリー
ズの第10弾ということだが、私は、初めて拝読。剣術界の最長
老が、「影ノ流」を名乗る武者修行者・鷲村次郎太兵衛との立ち
会いに敗れ、殺された。父子で恩師の仇討に挑む金杉惣三郎、清
之助。鷲村次郎太兵衛の背後には、大岡忠政殺しを狙う、尾張徳
川家の野望がある。江戸の人情物語と剣劇シーンが、売り物。
- 2004年8月14日(土) 15:53:28
8・XX  吉田修一の2冊「ランドマーク」と「長崎乱楽坂」
を一気に読んだ。「ランドマーク」は、さいたま市の旧大宮地区
にある新都心建設区域に建設中の35階建てのビル「Oー
miya スパイラル」の建築現場。ふたりの男が、顔見知り程
度で、実質的に未知のまま、同じ現場で、それぞれに活動してい
る。一人は、秋田弁の連中とともに生活している九州出身の若い
鉄筋工。清水隼人。通称「キューシュ−」。この男、イギリス製
のステンレスの貞操帯をしているという変わり者。中華料理屋の
アルバイトをしている女性と結婚しようとしている。もう一人
は、犬飼洋一。建築家。「Oーmiya スパイラル」の設計を
した事務所のメンバーで、都内の自宅に妻を残して、建築現場に
近い大宮のホテル住まいをしている。事務所でアルバイトをして
いる若い女性と性的な関係を続けている。そういう男たちが、そ
れぞれの生活をしている様が、力強い線で描かれて行くが、その
建築現場で、鉄筋工の仲間で、秋田出身の中年男が、なぜか首吊
り自殺をする。大規模な開発現場。人間たちの小さな営み。寓意
に満ちた現代社会のアンバランスを吉田は、巧みに描く。

長崎出身の吉田の自伝的要素が濃さそうな作品が、「長崎乱楽
坂」。やくざな男どもを軸にした大家族・三村家。駿と悠太の兄
弟は、父親が死亡したため、母・千鶴の実家の三村家に世話に
なっている。三村家は、男男女女男の5人兄弟。千鶴は、次女。
愚連隊上がりの長男・龍彦。別な場所で、やくざの一家を構えて
いる。実家を取り仕切っているのは、次男の文治。文治を慕って
出入りしている若者たちの頭格なのが、正吾。刺青をした裸の男
たちが、毎夜繰り広げる酒宴。正吾は、後に、千鶴を女房にす
る。正吾について行くために、千鶴は、駿と悠太の兄弟を捨て
る。やがて、正吾は、神戸の暴力団の幹部になるが、抗争事件に
巻き込まれ、射殺される。三男の哲也は、3年前、18歳の若さ
で自殺している。性と暴力の色濃い、男女たちの生活。そういう
環境で少年期から青春期を過ごす兄弟の物語。どうやら、悠太
が、著者の等身大と見た。悠太が、東京に出て、大学生になるま
で物語は続くが、悠太は、また、「ランドマーク」に出て来る
「キューシュ−」のような男になって行くのかも知れない。中上
健次の紀州の「路地」、あるいは、伊集院静の山口県下関の実
家、そういう雰囲気が色濃い、吉田の長崎物語として、興味深く
読んだ。
- 2004年8月8日(日) 22:32:03
8・XX  出久根達郎「おんな飛脚人 世直し大明神」は、む
すめ飛脚人のまどかが主人公のシリーズもの、第2弾。安政の大
地震に見舞われた江戸の街を舞台にまどかの属する飛脚屋「十六
屋」の面々が、まどかを助けながら活躍する。出久根達郎の世界
は、善人が多く登場し、まさに、時代離れした世界が展開し、浮
世の沙汰も、人情次第という、いわば、ユートピアを堪能できる
のが、ミソ。

8・XX  次も、時代小説。こちらは、時代小説の厚化粧をし
た経済小説の世界。山本一力「欅しぐれ」、「いっぽん桜」を続
けて読む。まず、「欅しぐれ」は、企業の乗っ取りを企む業者と
その依頼を受けて、大仕掛けをする乗っ取り屋、それに対抗する
企業主と助っ人という経済サスペンス小説を時代小説という化粧
をしてみせたもの。江戸・深川の老舗・桔梗屋のあるじ・太兵
衛、桔梗屋の乗っ取りを図る成り金の油問屋・鎌倉屋鉦左衛門、
その依頼を受けた仕掛人で、日常は紙屑拾いを装って情報収拾を
する治作一派、書道の仲間として太兵衛と知り合い、やがて、肝
胆相照らす仲となった賭場の貸元・霊厳寺の猪之吉が、乗っ取り
防止のため、太兵衛を助ける。すでに、重篤な病に侵されていた
太兵衛は、やがて亡くなるが、乗っ取り屋の一味と猪之吉一派と
の死闘が描かれる。

命を掛けた男同士の付き合いとは、なにか。骨太な時代小説であ
り、それでいて、細部の骨格も揺るぎないし、個々の細かな事象
の描写も確か。読みごたえのある作品だった。

「いっぽん桜」は、桜、萩、忍冬、朝顔の4つの花をシンボルに
した短編作品集。「いっぽん桜」は、毎年、必ず咲くとは限らな
い、癖のある桜の木を庭に植えた口入れ屋(いまなら、人材派遣
業者)・井筒屋の頭取番頭の長兵衛の、いわば、早期退職がテー
マ。「萩ゆれて」は、土佐藩勘定方祐筆・服部清志郎の長男・兵
庫が、汚職の疑惑を掛けられて、切腹した父の後を継がずに、漁
師になろうとし、結局、魚屋になるのだが、こちらは、いわば、
転職の話。「そこに、すいかずら」と「芒種のあさがお」は、と
もに、父母への情愛が、テーマ。「そこに、すいかずら」は、豪
華な雛飾りと父母への思慕、「芒種のあさがお」は、嫁いだ先の
義理の父母への屈折した思いを描く。山本一力の諸作品は、時代
小説という化粧はしているけれど、その芯は、非常に現代的な
テーマを扱っているのが、判る。従って、ここで取り上げられる
人情時代劇は、決して、時代物ではなく、現代物なのだ。歌舞伎
の生世話物の舞台を観ているような、愉しみがある。

8・XX  中村好文「住宅読本」は、住宅の設計、家具の設計
などをしてきた建築家の文章と挿し絵、写真からなる本。テーマ
は、住み良い住宅とは、どういうものか。住宅は、まず、外観。
周りの景色のなかに、「しっくりとおさまっているか、どう
か」。そういう例が、写真入りで、国内外から登場する。

次いで、住宅の内部。究極の住宅とは、ワンルームが理想。ガラ
ス張りの透明性の高い住宅。木の上のワンルーム。ベッドと机、
そして暖炉のある、面積4.2坪の家。さらに、家のなかでも、
自分のお気に入りの居心地の良い場所というのが、必ずあるもの
だ。畳一帖の書斎、書庫の間の、書棚をくり抜いて作られた、座
り込める空間。階段上の空間を利用して作られた書棚と読書コー
ナー。遊び心のある設計主、あるいは、建て主がいないと、決し
て具体化しないプランが出て来る。

住宅のなかで、火を楽しめるもの。ストーブ、暖炉、ペチカ。私
も、住宅のなかに、ペチカを作り、一冬を過ごしたが、木が燃え
るのを見るのは、本当に心が休まるものだと、実感した。

住宅で、忘れてはならないのが、家具。家具は、いわば、住宅の
パートナーだが、住宅を作るときは、どうしても、予算の関係も
あり、家具は二の次にされてしまう。また、家具を揃えるにして
も、長い時間がかかるので、当初のコンセプトを持続させるのが
難しい。どうしても、チグハグで、継ぎ足したような、センスの
家具群が、長い年月の果てに出現しがちだ。予算に余裕があり、
家作りの段階から、家具の数々も、同時に決められると良いのだ
が、そういうことができる人は、限られている。普通の人は、そ
うはいかない。ならば、どうするか、要は、そのときの流行に左
右されず、時間を超えて好ましいような、普遍的な家具を選ぶこ
とだと言う。そして、家のなかの「明かり」。明かりは、自然光
を、いかに住宅内に取り入れるか、という問題と、「灯り」、つ
まり、人工光を、いかに上手に使いこなすかという問題のふたつ
がある。ペチカで、薪が燃えるときに放つ光。室内の灯りは、消
してある。爆ぜる薪の音を聞きながら、ほろ酔いで、燃える火を
見ている。これぞ、最高。外は、冷え込んでいるだろうが、心
は、ほんわかしている。

8・XX  藤田宜永「愛さずにはいられない」は、福井から上
京して、東京で、下宿、アパート暮らしをしていた高校生時代を
描いた藤田の自伝的小説。実母との確執の果てに、高校生にし
て、女狂いで留年した4年間を描く。愛を押し付ける母親から逃
げ出した藤岡芳郎は、福井時代から知り合いの年上の女子大生と
半同棲生活をしながら、ガールハントも繰り返す。そのベースに
は、母親も含めた、女性との付き合いの下手さがある。セックス
を通じての青春成長物語が描かる。藤田宜永は、私より、3歳ほ
ど年下だが、1960年代後半、高田馬場、池袋、新宿などを舞
台に繰り広げられる物語の展開は、音楽、酒場での飲み物など
に、私も良く知っているものがたくさん出て来るので、そういう
意味でも、懐かしみながら読んだ。ただし、当時、私の身近に、
こういう年下の男が居たら、絶対に友だちにはなっていなかった
だろうと思う。「遅れて来た青年」ならぬ、「早く来過ぎた青
年」なのだろうと理解するが、それでも、はなもちならない男
だ。青春時代の藤田宜永は。
- 2004年8月7日(土) 19:30:09
8・XX  ペンクラブ電子文藝館の校正で、林芙美子「夜の蝙
蝠傘」を読む。この作品は、戦争で右脚を失った夫の喪失感を描
いているが、合わせて、(知人との不倫という)若い妻への疑
惑、不信感が、二重写しになっている。作品の芯が、戦争で奪わ
れた脚にあるとみるか、妻への疑惑にあるかとみるかで、作品の
受け止め方が変わって来る。しかし、林が、強い反戦意識を持っ
て、戦争によって奪われた「失った脚」、あるいは、なぜか、存
在感はあるが、「見えない脚」に主たる関心を持ったとは思えな
い。なぜなら、林芙美子がこの作品に付けたタイトルは、「奪わ
れた脚」ではなく、「夜の蝙蝠傘」としたのは、知り合いの
「情」にすがり、あるいは、「情事」にふけり(つまり、身体を
売り)、すき焼きの材料を買う金を得て来たのではないか、とい
う妻への不信、疑惑が、書きたかったからではないかと、思える
からだ。

タイトルのように、「蝙蝠傘」(昔の、男物の蝙蝠傘は、とてつ
もなく大きかったように思う。その黒い蝙蝠傘の大きさいっぱい
の黒い疑惑が、この作品のテーマだと思う)に、まさしく、自分
の脚を奪った戦争への嫌悪感(「反戦意識」)と二重写しにしな
がらも、妻への不信感や疑惑が、より大きく象徴されているよう
に、私には思えた。奪われた、見えない右脚は、本来あるべき
だったものへに対する欠落感であるが、それは、また、戦争体験
を軸にした「過去」への欠如感であり、妻と過ごすことになる戦
後という「未来」の生活への喪失感との、二重写しにも、なって
いるように見える。

井上ひさしの戯曲に、「太鼓叩いて笛吹いて」というのがあり、
戦争中の翼賛作家のひとりになって、大衆を太鼓や笛の音で踊ら
せた林芙美子のことを芝居にしている。そういう自分の行動を誰
よりも良く知っている林芙美子は、戦後の作品で、ストレートに
は、反戦意識は、出しにくいのではないか。この作品は、反戦意
識も隠されているが、前面に出ているのは、妻への疑惑であり、
それは、戦後社会への、作家としての林の疑惑でもあったのでは
ないか。

この作品を日本ペンクラブの電子文藝館の小説コーナーと合わせ
て反戦・反核コーナーに載せるかどうか、委員の間で、意見が分
れているが、反戦・反核コーナーに入れてしまうと、読者の方で
も、構えて読んでしまい、この小説の持つ多様性というか、林芙
美子の作品の味わいを逸らせる恐れがあるのではないか。テーマ
の多面性からみて、これは、小説コーナーだけの方が、読者の視
点を自由に保てて、相応しいのではないかと思う。
- 2004年8月5日(木) 21:37:41
7・XX  伊坂幸太郎「チルドレン」は、直木賞候補作品だ
が、落選。今期直木賞受賞作品は、すでに、このコーナーで書評
を書いている奥田英朗「空中ブランコ」とちょうど読んでいた熊
谷達也「邂逅の森」に決定。伊坂幸太郎の「チルドレン」は、5
つの連作短編というか、長編小説というか、そういう構成の本。
このうち、「チルドレン」と「チルドレン・」は、家庭裁判所の
調査官・武藤(28)と先輩の陣内(31)を軸にし、家裁に送
られて来た少年たちとの物語で、「バンク」、「レトリ−
バー」、「イン」は、学生として仙台に住んでいたころの陣内
(22・家裁の調査官目指して受験勉強中の大学4年生)とその
友人の鴨居(大学入学まもなく、友人になったという)が、ひょ
んなことから「銀行強盗事件」に巻き込まれ、同じ人質という境
遇で知り合った全盲の美青年永瀬(19)と盲導犬(ラブラドー
ルレトリ−バー)・ベスを軸にした物語で、「レトリ−バー」、
「イン」では、永瀬のガールフレンド・優子も加わる。

長編小説は、二重の時空(9年の差、仙台とどこか)を持ちなが
ら、「バンク」、「チルドレン」、「レトリ−バー」、「チルド
レン・」、「イン」という順番で、構成されている。「バンク」
で描かれる銀行強盗事件は、2人組の銀行強盗に12人の人質が
全員解放されると、いつのまにか、犯人たちも、姿を消してい
て、2億円が無くなっていたという奇妙なもの。2億円紛失に
困った支店の銀行員全員による「狂言」を臭わせる形になってい
る。まあ、こういう凝った仕掛けで独自の小説世界を築いて行く
のが、伊坂幸太郎流だが、ペーソスは、あるものの、リアリティ
が、弱いので、先に読んでいて、すでに書評も掲載済みの田口ラ
ンディ「富士山」ともども、直木賞受賞は、無理だろうと思って
いたら、その通りになった。

受賞作品のひとつ、奥田英朗の「空中ブランコ」は、同じ奥田の
「イン・ザ・プール」と同じ主人公(ユニークな精神科医の伊良
部一郎のシリーズ、第2弾。)の物語で、いわば、水中の次は、
空中という趣向であった。これは、世相を、いろいろな患者に託
して描いていて、おもしろいが、某首相の「人生いろいろ発言」
同様に、軽い作品で、あまり、引き付けられなかったが、受賞と
なった。

その後、読了した、もうひとつの直木賞受賞作品、熊谷達也「邂
逅の森」は、伊坂、田口、奥田の作品が、趣向を凝らした実験的
な作品なのと対照的に、生真面目で、昔風の物語で、ぐいぐい押
して来る。「邂逅の森」は、明治から大正を生きた秋田の阿仁の
マタギの物語。山村に生まれ、代々の職業であるマタギになった
松橋富治は、村の有力者の娘・文枝に「夜這い」をかけ、やが
て、恋仲になるが、文枝の妊娠で、恋仲が発覚、富治は、村から
追い出され、鉱山の採鉱夫にさせられる。文枝は、親が決めた医
師と結婚する。富治の子どもを生んだ文枝は、医師と仲の良い家
庭を築き、医師との間にふたりの子ができ、安定した家族を形成
したかに見えたが、やがて、文枝の父親が、亡くなると、医師の
態度が、一変し、女遊びを始める。富治との間に出来た子ども
は、医師の義父に邪険に扱われはじめ、息子は、家出をしてしま
う。文枝も息子を追って、家を出る。

一方、阿仁鉱山で一人前になった富治は、渡り鉱夫になって、大
鳥鉱山へ流れて行く。そこで出会った採鉱夫仲間に猟師崩れがい
て、再び、猟師の世界へ戻って行く。仲間の姉で、娼妓から出
戻った女性・イクと結婚し、新しいマタギの頭領になり、山ノ神
の化身と見られる月の輪熊との遭遇、後の死闘へと物語は、導か
れて行く。文枝と息子に富治は、やがて、巡り会うが、富治の波
乱万丈の人生が、劇画のように描かれて行く。巨大な熊を死闘の
末に射止めた富治だが、富治の足も熊に食われてしまい、自ら、
右脚を切断する。瀕死の丞体で山を降りようとする富治。イクの
待つ村へ、必死になって帰ろうとする富治だが、村を見おろせる
山までたどり着けたのが、精一杯であった。

山本周五郎賞と直木三十五賞のダブル受賞となった作品は、物語
としては、確かにおもしろいが、これが、「新しい大衆文学」と
なるかどうかは、むしろ、疑問が残った。

贅言:田植え後に開かれる阿仁の里の山神祭典では、縁日の出し
物のひとつとして、歌舞伎興行があるなどと出てくるが、それだ
けで、何の描写もないのは、残念。阿仁鉱山の祭でも、やはり、
歌舞伎興行が出てくるが、鉱山町を歌舞伎が巡回とあるだけで、
こちらも、素っ気無い。景気の良い頃の鉱山町には、常打ちの芝
居小屋があり、歌舞伎も、度々演じられたと思うので、是非と
も、資料を調べて、書いて欲しかった。

7・XX  小沢信男・多田道太郎・原章二「時代小説の愉し
み」は、時代小説好きの作家、評論家、哲学者の3人の鼎談「時
代小説の愉しみ」、小沢信男の「半七捕物帳」賛美論、多田道太
郎の「丹下左膳」賛美論、原章二の山本周五郎「ながい坂」と藤
沢周平「風の果て」を比較検討をした「時代小説の美と思想」論
からなる新書判の本。特に、作家と評論家による具体的な作品を
とりあげての、時代小説賛美論が、微笑ましい。

7・XX  絲山秋子「イッツ・オンリ−・トーク」は、今期、
芥川賞候補となりながら、落選した作家・絲山の文学界新人賞授
小作品「イッツ・オンリ−・トーク」と「第七障害」の2作品を
掲載した作品集。文体構成に力量のある新人作家で、中年の円熟
した作家の短編作品が受賞するのを常としていた川端康成賞を雑
誌掲載のままで、未だ単行本にならないうちに受賞してしまった
という人であるが、芥川賞は、逸した。

「イッツ・オンリ−・トーク」は、新聞記者になりながら、精神
を病み、新聞記者を辞めて、絵を描きながら屈託の日々を送って
いる女性と鬱病のやくざ、痴漢などの友だちなど、しんどい事情
を抱えながら、めげずに生きる人たちを明るく、挫けない文体で
描いて行く。作品より、文体がおもしろいという作風。「第七障
害」は、実際に障害競技の乗り手になり、第七障害で、馬もろと
も落馬をし、馬を薬殺させてしまったというしんどい事情を抱え
る女性が主人公。障害物の7番目で、トラブルを起こしがちとい
う人生を象徴するようなテーマが、「第七障害」ということなの
だろう。

7・XX  鎌田慧「狭山事件ー石川一雄、四十一年目の真実」
は、国家権力による冤罪というより、県警幹部(課長ら)のメン
ツによる被差別部落蔑視の杜撰な捜査が生んだ冤罪だろう。31
年余りの獄中生活。文字を知らなかった石川一雄さんの獄中での
学習とその成果が、仮出獄、再審への道を歩み始めたと言える。
その努力には、頭が下がる。弁護団の地道な努力が、石川さんを
支えている。これだけ、杜撰さが浮き彫りになりながら、未だに
無罪を勝ち取れない。東京高裁の再審請求棄却決定。続く、高裁
の異義申立棄却決定など、司法の壁は厚い。無知ゆえに、警察の
言うままに犯行を自供し、一審の死刑判決を容認してしまった男
の無実の叫び。司法は、埼玉県警のメンツを追認し、一審を追認
しているのか。現在、最高裁に申し立てた特別抗告が、継続中。

「弘前大学教授夫人殺人事件」、財田川事件を厚かった「死刑台
からの生還」など冤罪事件のノンフィクションを書いて来た鎌田
慧の渾身の書き下ろし作品だが、埼玉県警の幹部の長谷部警視の
肩書きが、中見出しで、2度も「警部」となっていたり(204
ページの「十年で出すといった長谷部警部との密約」、272
ページの「万年筆をめぐる長谷部警部との攻防」)、ほかにも明
らかに、校正のミスと思われる記述が、散見されるのは、力作だ
けに、残念。
- 2004年7月30日(金) 22:15:46
7・XX  旗一兵「喜劇人回り舞台ー笑うスタア五十年史ー」
を読む。書庫の整理をしていて、10年前に詰めた段ボール箱か
ら出て来た。94年に詰めた箱に入っていたのは、16年前に復
刻された46年前の本である。歌舞伎座の前支配人の御尊父の著
書の復刻版。御尊父が亡くなったときの香典返しに息子のK氏が復
刻したもの。エノケン、ロッパ、サト−ハチロ−、金語楼、ア
チャコ、菊田一夫、森繁久弥など往年の喜劇俳優、作家などの裏
話が、巧みに語られる。喜劇を軸に歌舞伎、映画などの歴史が綴
られていて、それに合わせるように、当時の世相史も浮き上がっ
て来る。

7・XX  D・ピース「1983 ゴースト」は、「1974 
ジョーカー」「1977 リッパー」「1980 ハンター」に
継ぐ作品で、「ヨークシャー4部作」と呼ばれるシリーズの完結
編。文庫本ながら、831ページの大作。「ヨークシャー4部
作」は、10年間に起こる少女殺害事件を取り上げている。警
察、マスコミの暗部にも光を当てながら、大河小説は進む。小学
生の少女が失踪する。刑事も弁護士も事件を追うが、謎は、なか
なか解明されない。繰り返しが多いピースの文体は、映画のカッ
トバックのように、フラッシュされる。とても、印象的だ。カッ
トバックされるのは、文体だけではない。前3作の事件も、いつ
の間にか、甦って来る。葬られたはずの恥部は、えぐり出されて
来る。反逆する風景、反逆する小説。逆光に照らし出されて来た
のは、暗黒(ノワール)であり、そこでは、あらゆる色を収斂さ
せ、その結果、黒のみが、生き残る。改めて、全作品を読み返し
てみたい。暗黒の、第一歩から、また、歩み始めたくなる物語
が、ここにある。

7・XX  田口ランディ「富士山」は、藤原新也の写真集「俗
界富士」の小説版のような作品集だ。オウム真理教の元信者で、
いまは、コンビニのチーフをしている29歳の青年と自殺行為愛
好者で、アルバイトの19歳の女性との恋物語「青い峰」。15
歳の中学生の少年たちは、樹海を目指す。テントを張り、徹夜で
樹海で過ごそうとした少年たちの夜は、自殺者の男によってかき
乱される。少年たちは、いずれも、トラウマを背負っていたとい
うのは、「樹海」。「ジャミラ」は、ゴミ屋敷と呼ばれる家で、
あちこちから拾って来たゴミに埋もれながら逞しく生きる老婆と
市役所の環境課に勤める青年の物語。妊娠中に通り魔に腹を刺さ
れて流産した女性、人工中絶した少女の看護をした看護師の女
性、末期の癌の女性らが、富士山に登る「ひかりの子」。この4
編の作品が、1冊の本にまとめられて、つけられたタイトルが、
「富士山」。そう、つまり、俗世間のさまざまな出来事の背景に
は、富士山があるというのが、この短編集のテーマなのだ。先の
藤原新也の写真集「俗界富士」は、山梨県や静岡県、神奈川県な
ど富士山が見える場所は、いろいろあるが、ガソリンスタンドと
富士山、コンビニと富士山というように、人間臭い生活の場で、
遠望される富士山ばかりを撮影した写真集なのだ。田口の小説
も、物語の始め、あるいは、終わりに富士山が必ず絡む。まあ、
富士山を喜んでみる人は、多いだろうが、富士山を遠ざけて、喜
ぶ人もいることは、忘れまい。まあ、どちらも、富士山にこだ
わっていることには、違いないが・・・。まあねえ、富士山は、
そういう器の大きな存在ということだろう。

7・XX  「風はげしく吹きて、静かならざりし夜、戌の時ば
かり、都の東南より火出で来て、西北に至る。(略) 一夜のう
ちに塵灰となりにき。(略) 吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほ
どに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙にむせ
び、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰
を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に
堪へず、吹き切られたるほのほ、飛ぶがごとくして一二町を越え
つつ移りゆく。その中の人、現し心あらむや。或は煙にむせびて
倒れ伏し、或はほのほにまぐれてたちまちに死ぬ。或は身ひと
つ、からうじてのがるるも、資財を取り出づるに及ばず、七珍万
宝さながら灰燼となりにき。その費え、いくそばくぞ。そのた
び、公卿の家十六焼けたり。ましてその外、数へ知るに及ばず。
すべて、都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十
人、馬、牛のたぐひ辺際を知らず」

これは、「去んし安元三年四月二十八日」と伝えられるから、
1178年の日本の京のこと。これを書いた人は、その文章の冒
頭を次のように書いている。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみ
に浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる
ためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくにごとし。
 たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑し
き、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまこと
かと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年
作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。
所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が
中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるな
らひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、
いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿
り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。そ
の、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異な
らず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れ
ぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを
待つことなし」

この冒頭の文章を読めば、日本のほとんどの人は、この筆者の名
前を当てるだろう。そう、鴨長明。「方丈記」の作者である。
「四十あまりの春秋をおくれるあひだに、世の不思議を見るこ
と、ややたびたびになりぬ」と書いた知識人が、冷徹、沈着にし
て、乱世を観察して、人類の叡智に通底する記録を残した。

次の文章は、「女性でイラク人、24歳。戦争を生き延びた。あ
なたが知らなければならないのはこれで全部」とだけ、自己紹介
する若い女性が、2004年3月20日に書いた。

「去年、ちょうどこの日の明け方、戦争が始まった。私は眠って
いなかった。2、3日前のブッシュの最後通告から、ずっと眠っ
ていなかった。怯えていたのではなくて、爆弾落下開始という時
に眠っていたくなかったから。いよいよ、攻撃開始、そして数回
の爆音が続くと涙が流れ落ちた。私は涙もろいほうではない。だ
けど、この瞬間、1年前の今日、爆音を聞いてたまらなく悲し
かった。この気持ちには慣れっこだった。だって、アメリカが私
たちを爆撃するのはこれが初めてではなかったから。でも、その
慣れっこになっているということが許せなかったのだ。バグダッ
ドが壊滅して瓦礫と化しつつあると思うと恐ろしかった。爆音の
たび、その一つひとつがバグダッドの重要な場所を炎上させると
わかっていた。恐ろしかった。(略)1年経っても、時々(精
いっぱいよく言って、時々)停電し、燃料は慢性的に不足して、
町の治安も良くない。ごくたまに町を歩くと、人々の顔は心配と
不安でやつれ疲れきっている」

この女性は、バグダッドに家族と住んでいる。イラク人を両親と
して、イラクに生まれた。子どものころ、数年間、外国で暮らし
た。10代初めにイラクに帰り、バグダッドで英語の勉強を続け
た。そして、2003年3月から、アメリカ軍によって、国を蹂
躙され、首都を破壊され、電気も水道も、ままにならない、不自
由な生活を強いられ、職場を奪われ、親戚や近所の人を殺され、
あるいは、連れ去られ、それでいて、占領という名の侵略者に服
(まつろ)わず、毅然とした姿勢を保ち、遠く響く銃声を聞く
と、攻撃をしたのが、敵なのか、味方なのか、というだけでな
く、ピストルと機関銃の違いも判るし、戦車と装甲車、アパッチ
とチヌ−ク(引用者注ーーヘリコプターの種類)の音だって区別
でき、インターネットで公開されているブログ「バグダッド・
バーニング(バグダッドは、燃えている)」を主宰し、そこに
日々書き連ねられた「占領下日記」なるもので、「方丈記」の作
者に劣らぬ、冷徹、沈着にして、乱世を観察して、人類の叡智に
通底する記録を残していると思う。

このイラク女性は、インターネットのハンドルネームで、「リ
バーベンド」と称している。そして、英語で書かれた占領下日記
「バグダッド・バーニング」は、日本の9人の女性たちが、「リ
バーベンド・プロジェクト」を名乗り、同時並行的な素早さで、
「バグダッド・バーニング」の翻訳活動を続けている。その翻訳
活動の成果のうち、03年8月17日から04年5月22日分ま
でが、7・31付けの単行本で刊行された。「リバーベンド・プ
ロジェクト」のひとりである知人から戴き、さっそく、拝読し
た。占領下のバグダッドから、24歳のイラク人女性が、いわ
ば、定点観測というか、拘束された日常生活の場から、持続的に
垣間見たものは、マスメディアでは、伝えられない「ニュース」
が、たくさんあることに、改めて驚く。

イラクから遠く離れた日本に居て、日々のマスメディアで伝えら
れる断片的な情報にしか接しておらず、そのためか、戦後初め
て、イラクという海外に自衛隊という軍隊を送りながら、その意
味を具体的に理解していない多くの日本人には、定点観測され
た、およそ9ヶ月の占領下日記からは、この期間中、何枚も無く
してしまっていた自分のジクソーパズルのピースを全て見つけ
て、パズルを完成させたような充足感を覚えずには、いられない
かもしれない。イラクで起こり、日本に伝えられていた事象の真
相は、実は、こうだったのか、と納得し、イラク戦争に対して、
いままでのような無関心では、いられなくなるだろう。

国を蹂躙されながら、生活を破壊されながら、人間関係をずたず
たに切り裂かれながら、また、強制的に封鎖された、たびたび停
電を余儀無くされる「方丈」の場に居ながら、堅実な精神力と人
類の叡智に通底する常識(コモンセンス)で裏うちされた、「普
通の人」の視点があるがゆえに、いまも破壊され続けているバグ
ダッドやイラクを、また、自ら崩壊し続けているとしか思えない
アメリカや世界の実相を的確に記録し続ける。また、そういうイ
ラク女性の視点に共感し、翻訳を仕事としている人ばかりでな
く、ほかに仕事を持ちながら、自分の多忙に屈せず、歴史と同時
並行的に書き続けられる克明な記録の文章を、分担し、次々と翻
訳し続けている。

BAGHDAD  BURNING
http://www.riverbendblog.blogspot.com/

リバーベンド・プロジェクト
http://www.geocities.jp/riverbendblog/
- 2004年7月13日(火) 23:20:46
6・XX  森まゆみ「神田を歩く」は、読みながら神田の町を
歩いてみた。以前は、通勤に地下鉄東西線を利用して、九段下
駅、または、竹橋駅まで行き、そこから、神田神保町の書店街に
通っていたが、最近は、地下鉄銀座線で神田駅まで行き、そこか
ら多町(たちょう)、司町(つかさまち)、美土代町(みとしろ
ちょう)、錦町(にしきちょう)、小川町(おがわまち)、神保
町(じんぼうちょう)辺りをうろうろしながら、三省堂、東京堂
などの書店を廻ることが多くなった。ときどき、岩波ホールで映
画も見る。「まち」と「ちょう」入り組んでいて、正確に町名を
覚えるのが難しい。小川町の交差点に近い、本郷通り沿いの、創
業元禄15年というから赤穂浪士の吉良邸討ち入りの直後から営
業しているという江戸名物「笹巻けぬき寿司」に立ち寄り、押し
寿司20個の折詰を買って来た。この本は、一応、通して読んだ
が、神田を訪れるときに、また、改めて読むと役に立つだろう。
神田という定点で観測した江戸から東京へという近世から現代ま
での歴史、あるいは、地域社会としての、いまの神田の、特に、
路地まで入り込んだ場合の魅力を伝えてくれる貴重な本だ。森さ
んは、面識はないが、私の大学のゼミの後輩である。

6・XX  浅田次郎「輪違屋糸里」(上・下)を読む。浅田の
「壬生義士伝」が、新選組の男の物語なら、こちらは、新選組と
かかわりのあった女の物語。若狭湾の小浜で生まれ、数えで6歳
のときに京の島原遊廓の置屋「輪違屋」に売られて来たお糸は、
「糸里」という名で、遊女になり、新選組の土方歳三と縁がで
き、いつしか、近藤勇派と芹沢鴨派の争いに巻き込まれて行く。
新選組とともに幕末を生きた女たち。糸里の姉格になる音羽太
夫、糸里の妹格になる桔梗屋の吉栄、芹沢鴨といっしょに惨殺さ
れたお梅、新選組の屯所となった壬生の八木家のおまさと前川家
のお勝など。それぞれの人生が、新選組とのかかわりをきっかけ
に変わって行く。島原遊廓と壬生が、主な舞台となる。

乱暴者で、人殺し集団の新選組の若者たちは、一方では、奇妙に
優しい青年たちでもあった。土方歳三や沖田総司、芹沢鴨らを従
来とは違った印象で描きながら、若者たちが、屯所に使った壬生
の郷士の家の女たちや島原の遊女たちを生き生きと描く。新選組
とその周辺に生きた男女の青春譜。

洛西壬生は、郷士の集落だ。10家の郷士は、「壬生住人士」と
呼ばれたという。芹沢鴨が、お梅とともに惨殺された八木家の部
屋は、そのまま残っているという。「壬生住人士」は、勅願寺で
ある壬生寺(厄除地蔵で有名)を護り、壬生狂言の勧進元を勤
め、周辺の広大な土地を支配する武士団だという。壬生狂言は、
猿楽から能へ変化する過程で、猿楽と能の中間のような形態で、
いまも現存する民俗芸能だ。面をつけるところを除いて、頭を
すっぽり白い布で覆う印象的な出立ち(逆に言えば、白頭巾に面
という印象)で、「土蜘蛛」など、能や歌舞伎と共通する演目を
いまに伝えている。地蔵の功徳をピーアールする宗教説話的な演
目もある。新選組の屯所に近い壬生寺の境内で、沖田総司は、近
所の子どもらと遊んでいたという。新選組と壬生狂言。そのダブ
ルイメージをおもしろいと思いながら、浅田版新選組の続編を一
気に読了。

6・XX  童門冬二「新撰組の光と影」は、浅田版「新選組」
に対して、童門版「新撰組」となる。特に、町道場が、下級武
士、あるいは、農民出身の青年たちにとって、剣の腕を磨くだけ
でなく、政治情勢や社会情勢の情報交換の場となり、事実上の
「政治大学」になっていたという指摘は、興味深かった。また、
侍とは、「士」であり、士とは、経世家であり、経世家を志す志
士は、身分制度を超えて、青年たちに大志を抱かせたという。幕
末から明治維新へ向かう歴史の激流は、地方の志士が、中央を目
指し、中央を包囲したという見方は、おもしろい。新撰組も、そ
の流れのなかで、咲いた花々のひとつであろう。

新撰組の面々としては、近藤勇、芹沢鴨、伊東甲子太郎、沖田総
司、河合耆(き)三郎のほか、旗本出身で、京都見廻組の佐々木
只三郎らが、描かれてい。浅田版新選組の登場人物との描き方の
違いも、おもしろかった。

6・XX  続いて、童門冬二「50歳からの歴史の旅」を読
む。地域の歴史を人や文化という視点で学ぶ。2誌に連載してい
たものを新書刊行にあたり、「はじめに」で、50歳を過ぎた
ら、積極的に旅に出て、その地域の歴史を学ぼうという提言が掲
げられ、本書のタイトルとなったが、中味は、必ずしも、そうい
う視点では、語られていない。むしろ、地域の歴史と人・列伝で
ある。 

6・XX  秦恒平「お父さん、繪を描いてください」(上・
下)は、私家版「湖の本」シリーズの通巻79、80巻で、書き
下ろしである。ひとりの作家の18年の軌跡である。描けない画
家と売れない小説家の物語。描けない画家は、少年のころ、天才
的な繪の才能を発揮し、少年のころの、売れない小説家の通う小
学校に転校して来たと思ったら、わずか、一年でまた、転校して
行った、いわば、「風の又三郎」のような幼馴染みだ。将来売れ
ない小説家となる少年の心に大きな印象を残した「風の又三郎」
は、東京芸大を卒業して、イラストレーターとなり、数少ないな
がらも油繪を描いて出品したグループ展をたまたま覗いた小説家
によって見つけだされ、以後、ふたりの交友は、復活というか、
本格的に始まる。

そのやりとりのなかで、狂気の妻を持ち苦労の挙げ句、繪を描け
ない画家になってしまっていたことが判明するが、繪を描けない
画家は、その苦しみを、幼馴染みの、薄い縁の売れない小説家に
訴える手紙を多数出す。その手紙を受け取りながら、画家との交
友を深めて行く小説家の話が、本書の大雑把な筋立てとなるだろ
う。繪と文章という違った表現手段を持つ画家と作家のやりとり
から、芸術とはないか、描く、あるいは、書くという、表現行為
とは、どうあるべきかという根源的な問に真正面から向かった芸
術小説、哲学小説である。重いテーマに著者は、正攻法でぶつ
かって行く。

しかし、描けない画家と売れない小説家は、著者の分身であり、
ふたりの交友は、つまりは、著者の芸術論の弁証法的な独語の記
録ということになるだろう。特に、デッサンという、繪を描くに
しろ、小説を書くにしろ、人間把握の方法として、共通の「掴み
方」は、どうあるべきかが、彼らの芸術談義のベースになってい
ると思う。そして、ふたりに分裂したまま、己の自画像を描かざ
るを得なかった著者の苦悩が、この小説のテーマと見た。永遠の
分裂した自画像のまま、小説は、終るのかと思ったのだが、挫折
した画家は、富山に引っ越したと思ったら、消息不明になり、や
がて、ふたりを繋ぐ謎の女性に宛てた遺書を残して、自殺してし
まったという、あっけない結末は、ちょっと、期待外れであっ
た。この作品は、草稿段階で、著者のホームページで公開されて
いたので、完成稿以前の段階で、一度拝見している。その後、著
者は、書き倦ねていたこの作品を、一旦、ホームページから引き
上げて、非公開の場で、推敲を重ね、今回、私家版の書き下ろし
として刊行した。作品は、一度読んだ草稿とは、かなり変わって
いて、テーマは、いちだんと鮮明になっていた。ただ、画家と小
説家は、作品のなかでは、別々の人間なのだが、文体、特に、カ
タカナの独特な使い方が、同じで、著者の分身だなと見抜けてし
まい、意外な結末とともに、残念ながら、少し興を殺いだ感が
あったのは、否めない。まあ、そういう瑕疵は別として、本格的
な哲学小説、美学小説に、久しぶりに四つに組む形で、読書を堪
能した。

6・XX  藤本ひとみ「令嬢テレジアと華麗なる愛人たち」
は、18世紀から19世紀に掛けて、革命の嵐が吹きすさぶな
か、人生とは、男女の自由な恋愛であり、情事であるという考え
方をベースに人生を楽しむために、革命の波を乗り越え、乗り越
えして、逞しく、愛欲の快楽を追求し続けた美女の波乱万丈の物
語。(快楽追求に)おおらかで、(精神的にも行動的にも)逞し
い、そして、さまざまな男たちを虜にした美女、そして、そし
て、こんなにも、心が解き放たれた自由な女性が、時空を超え
て、200年以上も前にいたなんて、素晴しいの一言。
- 2004年6月30日(水) 21:43:02
6・XX  伊藤比呂美「日本ノ霊異(ふしぎ)ナ話」は、平安
時代初期にまとめられた日本最古の仏教説話集「日本霊異記」の
なかから、時空を越えて人類に共通する、普遍的な課題である
「愛欲」をテーマに再構成した官能小説を7年前からアメリカ在
住の詩人がまとめあげた。英語圏で生活しながら、1200年前
の、日本語の古典を読み込み、新たな日本語の物語を築き上げ
る。そのことが素晴しい。「世界の中心」と言いながら、個人的
な純愛の物語に終始する小説を読んだ後、「日本の話」を書きな
がら、「世界の中心」に通底する普遍的な物語世界を静かに、低
音で読むと、その落差に驚かされる。

6・XX  伊藤比呂美が、アメリカ在住で、日本の古典的な仏
教説話を現代に甦らせたとするなら、小林恭二「本朝聊斎志異」
は、中国の古典的な説話集を現代に甦らせた。取り上げられる時
代は、平安時代から現代までと自由自在。54話は、1話が、1
ページに納まるものから、10数ページに亘るものまで、さまざ
ま。テーマは、愛。純愛、不倫愛、同性愛、異常愛、狐狸、鬼
(ゆうれい)との愛など、変幻自在。世界の中心は、ひとつでは
ないことを明らかにしてくれる(「世界の中心で愛を叫ぶ」とい
う本のタイトルは、世界の中心は、自分の国だけだと思って、己
のみの「正義」を叫んで、戦争を仕掛けたがる国の単独行動主義
の発想に似ていやしないか)。

いつものように、歌舞伎関連を無理矢理探し出そう。例えば、
「鯰隈」という作品。歌舞伎の「暫」に出て来る鹿島入道震斎、
こと通称「鯰坊主」の化粧、「鯰隈」の発想は、歌舞伎役者・宮
崎十四郎の妻はなが、目眩がして臥せっていたとき、畳の下でう
ごめくものを感じ、「ひょいという感じで畳の中から生首が現れ
た」、はなの廻りを飛び回った、その生首を滑稽に思い、奇妙な
生首が、消えると、はなは、すっかり気分が良くなった、1年ほ
ど後、「暫」の「鯰坊主」の役作りに苦心していた十四郎に奇妙
な生首の絵を描いてみせたところ、歌舞伎役者は、いたく気に入
り、この生首の絵を、そのまま、鯰坊主の隈取にしたという話に
でっち上げている。こういうのを読んでしまうと、先月の海老蔵
襲名披露興行の「暫」の震斎、こと鯰を演じた三津五郎の隈取り
をした顔が床下から浮かんで来る。

6・XX  佐伯泰英「居眠り磐音江戸双紙」は、坂崎磐音シ
リーズの第9弾「遠霞ノ峠」。いつもの登場人物のほかに、助六
のモデルという説もある大口屋暁雨、こと、大口屋治兵衛が出て
来る。「十八大通(じゅうはちだいつう)」という札差連中を主
体にした大尽遊びたちの頭領だ。「大黒紋を加賀染にした小袖を
着て、鮫鞘の脇差を差し、髷は刷毛先を短く、中剃りを広くし
た、『蔵前本多』という独特の髷をしていた。顔は歌舞伎の隈取
りよろしく派手な化粧をして、素顔が見えなかった」とある。

浮世絵師・北尾重政は、磐音の許嫁で、事情があって吉原の傾
城・白鶴(はっかく)になった奈緒を描いた「雪模様日本堤白鶴
乗込」で、江戸中の人気を集めたという想定。虚実の人物を巧み
に混在させて、独特の江戸の庶民の生活空間を再構築する。書き
下ろしのシリーズで、2ヶ月に1回の割り合いで刊行する筆力が
凄い。「居眠り磐音江戸双紙」シリーズに点描される「歌舞伎」
の遠景を見つけるのが愉しみで、読んでいる。

6・XX  大沢在昌「帰って来たアルバイト探偵(アイ)」
は、歌舞伎とは、無縁。ここに出て来るのは、歌舞伎町の方だ。
今回は、旧ソビエト製の小型核爆弾が、東京新宿の歌舞伎町のビ
ルの壁に塗り込められているのを探し出す話。冴木隆介、隆親子
が、活躍する「アルバイト探偵(アイ)」シリーズ。今回は、テ
ロリストグループ、死の商人、やくざ、内角調査室、警察など
が、入り乱れてのアクションドラマ。まあ、長い移動時間を利用
しての時間潰しの読み物として、楽しんだ。

6・XX  辻井喬「命あまさず 小説石田波郷」は、再読。日
本ペンクラブの電子文藝委員会の同僚委員に俳人・石田波郷のご
子息が、新たなメンバーとして、参加されたのをきっかけに、元
新聞記者のご子息が、父を描いた「わが父 波郷」「波郷の肖
像」を読んだが、今回、書庫を整理していて、以前に読んだ辻井
喬「命あまさず 小説石田波郷」を見つけだしたので、読み直し
たという次第。石田修大著の「わが父 波郷」「波郷の肖像」と
も、判りやすい文体で描いていて、感銘を受けたが、辻井喬「命
あまさず 小説石田波郷」は、詩人独特の文体で、別世界の趣が
ある。「俳句現代」という雑誌に連載された。「命あまさず」
は、良いタイトルだ。日本の俳句の歴史に「病床俳句」という金
字塔を建てた石田波郷が、大柄な体躯を軍隊での無理が祟って、
肺結核に侵され、人生の後半を病気と戦いながら、寿命いっぱい
に生き抜いた俳人の生涯を描くにあたって、これほど、巧いタイ
トルはないと思う。しかし、小説のサブタイトルに「石田波郷」
と明記しながら、主人公を山田秋幸と変えてあるのは、いかがな
ものか。それなら、サブタイトルに「小説石田波郷」などと入れ
ずに、「ある俳人の肖像」とでもすべきではないか。逆に、「小
説石田波郷」というサブタイトルを付けるなら、主人公も石田波
郷にすべきではなかったか。そのチグハグさが、違和感を残し
た。

それはさておき、俳人・石田波郷の生涯を、いわば俳人の表の顔
を上京から清瀬の東京療養所まで描いている。病躯を押して俳句
改革に邁進した俳人の人物像は、固い。先日読んだ、石田修大の
両書は、元新聞記者であり、息子でありという、家族の眼から見
た、偉大な俳人の姿は、エピソードに富み、一時、カメラに凝っ
ていた本人や家族が写した写真なども、豊富に掲載されていて、
生き生きとした俳人の人物像を活写しているのに比べると、別人
のようにさえ見える。そこら辺りの違いが、先の違和感を、さら
に増殖させるが、それはそれで、おもしろいと思いながら、再読
した。以前に辻井喬の「命あまさず」にを読んだときは、石田修
大の両書の存在は、知らなかったのだから、辻井作品は、作品と
して、おもしろく読んだ記憶がある。ちなみに、辻井が、「命あ
まさず」を書いていた頃、本にして刊行した頃、石田修大の両書
は、まだ、世に出ていなかった。

6・XX  田中優子「張形と江戸をんな」は、まさに、この
コーナーのタイトルである「乱読物狂」に相応しい本であった。
日本の浮世絵春画に現れる「張形」をテーマに、女性の俊英な歴
史学者である著者が、女性の視点で、浮世絵に現れ、消えて行っ
た張形の変遷史を女性の立場から積極的に解析し、その成果をま
とめたのが、本書である。ユニークで、刺激的な本だ。春画とし
ても、刺激的な挿し絵が、ふんだんに掲載されている。私は、
もっぱら、朝夕の通勤電車の中で、読み継いだが、あまり、おお
ぴらに本を開きにくく、読むのに苦労したが、結局、ほとんどを
車中で読み通した。

例によって、歌舞伎にかかわりのありそうなところを抜き出す
と、「張形」には、高級品では、水牛製と鼈甲製があり、それぞ
れ、「牛蔵」、「亀蔵」と呼ばれていたという。安いものは、木
製もあり、こちらは、「木蔵」と呼ばれたという。生の「もの」
は、「作蔵」と呼ばれたという。菱川師宣「床の置物」という、
挿し絵入りの、大人の絵本が、奥床しい。奥ゆかしい大奥の女中
が、高級品の「張形」を手に取り、「松島屋」と掛け声を掛けた
りしていた、というのは、もちろん嘘。「色とは、男女の交わり
だけでなく、和歌や音曲も含む『雅』の世界で、張形もその世界
の道具である」。そう言えば、松島屋は、今月の歌舞伎座、昼の
部では、「寺子屋」の「涎くり与太郎」、夜の部では、「助六」
の「奴 奈良平」で味のある役どころを演じていた。

溪斎英泉「夢多満佳話」では、奥女中が、眉間にしわを寄せて励
んでいる図が、描かれていて、奥女中の絵の背景に書き込まれた
文章のなかに、こうある。「このあいだ御代参のときに見受けた
粋な男。アヽムヽあのおとこ仝仝そして三枡、梅幸、秀佳」。三
枡=團十郎、梅幸、秀佳=三津五郎。歌川豊国「欠題艶本」で
は、立役の大首絵を見ながらの「あしづかい」によるあてがき
が、描かれている。

6・XX  奥田英朗「空中ブランコ」は、「イン・ザ・プー
ル」の続編。風変わりな精神科医の伊良部一郎のシリーズ、第2
弾。精神科に治療に訪れる患者は、サーカスの空中ブランコ乗り
(症状:人間不信)、やくざの若頭(症状:刃物など尖端恐怖
症)、教授の娘と結婚した同じ精神科医(症状:強迫神経症)、
ノーコントロールに陥ったプロ野球の三塁手(症状:人気のイケ
メン新人恐怖症)、小説の主人公が、おなじじゃないかとネタ不
信になっている女流作家(症状:強迫神経症)など、いろいろ。
伊良部先生は、空中ブランコに挑戦したり、ヤクザには、注射を
強要したり、草野球にプロの選手を引きずり込んだり、小説を書
いたり、以毒制毒療法で、神経症を治してしまう。医道に反す
る、はちゃめちゃな狂想曲を奏でながら、患者たちに感謝される
という、得なキャラクターの伊良部一郎先生である。テントの
サーカスの空中ブランコの写真をブックカバーにしているが、そ
のブックカバーが、光の加減で、無数のライトが点滅する仕掛け
になっている。どこまでも、トンデモ本である。
- 2004年6月12日(土) 21:08:29
5・XX  古山高麗雄「人生、しょせん運不運」を読んだ。
02年3月、独り暮らしの末、亡くなってから、暫く経って発見
された古山高麗雄が、81歳の誕生日を前にして、自分の人生を
来し方、行く末を書き留めた。とは言っても、行く末の方は、こ
う書いている。「脳硬塞か心筋梗塞か、多分、循環器系統の病気
で私は倒れて、独り暮らしだから、倒れてもすぐには発見されず
にいるだろう。暑い時期なら私の死体が発見されたときには、腐
臭を放っているかもしれないなあ。その腐臭で発見されることに
なるかもしれない」。誕生日を過ぎて、翌年の早春に亡くなった
から、暑い季節には、遭遇しなかったが、「行く末」は、予想通
りだった。しかし、「来し方」は、予想に反して、波乱万丈の人
生だった。それを、81歳の孤老は、薄れ行く記憶のままに、
淡々とした筆致で、地声を書き綴る。

生まれ育った、中国の新義州(当時)の記憶、亡くなった母と
妹、東京の予備校時代の「悪い仲間」たち、安岡章太郎のこと、
旧制高校の受験、退学、あえて、モラトリアムの時代を過ごした
青春時代、軍隊のことなど。若き日のことを思い出し、人生の不
条理を淡白なトーンで描き出して行く。そして、連載、24回の
予定が、10回の途中で、「私は『真吾の恋人』と題する私小説
も書いていますが、」で、絶筆になった。

5・XX  訳があって、書庫を整理しなければならなくなり、
本の整理と移動のための箱に入れる作業をしていたら、浅田次郎
の本が、立続けに出て来たので、合間に読んだ。まず、浅田次郎
「ひとは情熱がなければ生きていけない」は、いろいろなところ
に書いて来た文章をそれぞれの関連で再構成し、「小説家への
道」「創作作法」「人生観」「自己評価法」「道楽の極意」など
という副題をつけて1冊の本にまとめた雑文集。表題が、良くな
いが、中味は、それなりに書いている。家族、特に、子どもを置
いて、離婚し、ちりぢりになった父母のこと。小説家から自衛隊
に接近し、自衛隊のなかで切腹自殺をした三島由紀夫のこと。自
衛隊から小説家に接近した浅田次郎。まず情熱、そして挑戦する
勇気、最後は、行動する力、その果てに自分の人生がある。

5・XX  浅田次郎「カッシーノ!」(ヨーロッパ編)、
「カッシーノ 2!」(アフリカ・ラスベガス編)を相次いで読
む。「カッシーノ!」は、03年6月刊だが、書庫のどこかに紛
れ込んでいた。「カッシーノ 2!」は、04年4月刊で、この
ほど購入したのを機会に、さらに、書庫の本を移す作業をしてい
て、出て来たので、両方を続けて読むことにした。

「カッシーノ 2!」に、次のような文章があった。「人生を豊
かにするためには、心を豊かにしなければならない。物質的な豊
かさには極みがないからである。そのためには、『さしあたって
どうでもよい書物』を読むことこそが肝心なのであっ
て・・・」。

まさに、いま、続けて3冊も浅田次郎作品を読むことが、まさ
に、「豊かな読書」の典型である。

「カッシーノ!」とは、カジノのイタリア語。この本は、世界の
カジノを廻る、いわば「カジノ紀行」。カジノの起源が、どこの
国かは、諸説があり、難しいそうだが、「CASINOがそもそ
もイタリア語であるのだから、やはり合法的な賭博の起源は、中
世イタリアの都市国家なのではないだろうか」という説を唱える
浅田は、本のタイトルを「カッシーノ!」としたというわけだ。
世界のカジノ、そして、ホテル、レストランなどを廻りながら、
「ときどき小説を書くギャンブラー」を自称する浅田とカメラマ
ン、編集者の珍道中が描かれる。カジノの建物、内部、そして、
ひとりの演者たる浅田の写真も豊富だが、浅田は、「日本のオヤ
ジ」を演じる役者のように、表情豊かに写っている。話題は、浅
田のギャンブルの成績から始まって、カジノのある地域のギャン
ブルと地理歴史、政治、文化、国民性などと縦横に飛び交い、ま
さに「闇がたり(語りと騙り)」のように、文明批評論が、次々
に紡ぎ出されて行く。

01年10月から02年4月まで、雑誌に連載された後、中断。
なぜか、後半は、書き下ろしになっている。そして、「カッシー
ノ 2!」は、03年2月から04年3月まで、別の雑誌に連載
されている。

私より、4歳も若いのに、すっかり、オヤジどころか、爺さんに
なってしまった浅田次郎。まあ、客観的に見れば、私もオヤジど
ころか、爺さんになっているということか。なにも、人の振りを
見て、我が振りを直す年頃ではないから、まあ、いいか!

5・XX  横山秀夫「臨場」読了。「臨場」とは、「事件現場
に臨み、初動捜査に当たる」ことを言う。L県警捜査第一課調査
官・倉石義男警視(52)を軸にした警察小説。「やくざのごと
き風貌と辛辣な物言いで周囲に睨みをきかせている」という主人
公は、自他殺不明の死体の死因を判断して行くのが仕事。「検視
で拾えるものは、根こそぎ拾ってやれ」というのが、口癖。「終
身検視官」「死体掃除人」「クライシス・クライシ」「校長」な
どの異名を持つ倉石警視。特に、「校長」というのは、倉石警視
に指導を受けた警察官らが、「倉石学校」の指導者に敬称として
渾名を付けた。やがて、警察庁に出向する検視担当の調査官心
得、剣崎中央警察署刑事課捜査係長、婦人警官、県民新聞社の記
者、県警刑事部長、地検の検事、警察医、科学捜査研究所技官な
ども登場し、8つの短編連作小説の世界を形づくる。「赤い名
刺」は、首吊り自殺を装った警察医による浮気殺人事件。「眼前
の密室」は、夜回りをする地元紙の記者の目の前で起きた県警捜
査第一課係長の官舎での夫人殺し。地元紙のデスクの犯行と判
る。

5・XX  片山恭一「世界の中心で愛を叫ぶ」が、日本の小説
で、300万部以上売れて、最高を記録したと言うので、再読。
あいかわらず、大した小説ではない。こういうものが、売れると
いうのは、良くない。白血病で亡くなる美少女と少年の純愛小説
だが、小説の世界が狭い。世界の動きから読者の目を逸らせさせ
る。インターネットの掲示板などを中心に、イラクの人質バッシ
ング、北朝鮮の拉致被害者の家族会バッシングなど、一定の価値
観に従って、意図的な世論形成が、匿名の元に築きあげられてい
る。一種のファッショだろうが、純愛小説流行と裏腹な関係のな
かで、多元的な価値観の世界を矮小化しているような気がする。
若い人たちが、こういうものしか読まないとすれば、視野が狭く
なるばかりだ。視野が狭くなると、ファッショ化が進む。そうい
うことにならなければ良いと思う。それにしても、この作家の、
小説の世界の狭さと逆比例するタイトルの大仰さには、呆れる。

5・XX  逢坂剛「猿曵遁兵衛〜重蔵始末(三)〜」は、江戸
時代に北海道の探検をした近藤重蔵シリーズの第3弾。逢坂の作
品では、近藤重蔵は、北海道探検の重蔵ではなく、江戸の火盗改
の仕事をし、盗賊退治など難事件を解決して行く方の重蔵であ
る。史実の近藤重蔵は、間宮林蔵と同様に、北海道探検も、幕府
のスパイとしての探索であったらしく、同じように北海道探検を
した最上徳内や松浦武四郎らとは、一線を画しているような印象
がある。逢坂剛「重蔵始末」シリーズは、時代ミステリーものと
して、順調に世界を拡げているようである。いずれ、「蝦夷編」
でも、出て来るのかも知れない。それはそれで、愉しみだ。

5・XX  引き続いて同じく逢坂剛の世界。逢坂剛「恩はあだ
で返せ」も、シリーズもの。小学校の元同級生同士の警察官。お
茶の水署の警部補・斉木斉(さいきひとし)と巡査長・梢田威
(こずえだたけし)の、いわゆる「迷走コンビ」によるスラップ
スティック・ミステリー。「しのびよる月」「配達される女」に
続くもので、こちらも、第3弾。いつものように喜劇的なタッチ
で、5編の連作短編の警察小説が構築されて行く。お茶の水、駿
河台下、神保町など逢坂の事務所のある町、古書店街の店店が、
実名で描かれて行く。03年3月号の「小説スバル」に掲載され
た「木魚のつぶやき」に出て来る神保町交差点の角にあった「み
ずほ銀行」は、いまや、チェーン店の若者向けスーツの店に替っ
ているが、それ以外は、いまも、交差点に立てば、小説のなかに
描かれた通りの街並が、続いている。

5・XX  長田幹彦「零落」は、日本ペンクラブの電子文藝館
の校正をするために読んだ。漂流の「ごぜ」や吉原の遊女を描く
斎藤真一の絵の世界を見るような気がした。東京から北海道にさ
すらい旅行をしている男が、野寄(のよろ)で出会った旅芸人の
一座の舞台を見てから、楽屋に出入りするようになり、楽屋で暮
らす旅役者の世界に引き込まれて行く。その挙げ句、旅役者の一
座とともに旅をするようになるまでの経緯を描いて行く。実際の
長田の体験を元にした作品。それにしても、大学を卒業後、25
歳で、年齢不詳ながら、若いようで、老成した味のする奇妙な
「旦那」(宿に長期滞在しながら、役者たちを飲み屋で奢った
り、芝居小屋で花代を負担したりする程度の財力を持っている)
と思われる主人公を軸に、枯れた、敗残の人生を過ごす都落した
老役者や将来性のある若い女形たちを生き生きと描いて行く手腕
は、大したものだ。一時は、同時代の若い谷崎潤一郎と並ぶ作家
として期待された筆力には、感じ入る。歌舞伎をベースにした旅
役者一座の小芝居の世界を描いているが、歌舞伎や浄瑠璃への
並々ならぬ造詣がないと、書けない世界だろう。歌舞伎ファンの
人は、私も運営に参加している「日本ペンクラブ電子文藝館」の
サイトに作品が掲載されているので、すぐに読めるから、是非、
読まれると良い。
- 2004年5月31日(月) 21:02:43
5・XX  内山美樹子「浄瑠璃史の十八世紀」は、2万円の研
究書。分厚い、地味な本だが、中味は、刺激的。4月の末から、
飛び飛びに読んでいる。書評は、全てを読み終わった上で、書き
込みたい。そういうわけで、今回は、書評の数は、多くはない。

5・XX  尾崎まゆみ「真珠鎖骨」には、作者の好みの言葉
が、散見される。例えば、「あざらか」(広辞苑に拠れば、「鮮
らか」は、あざやかである、新鮮でいきいきしている)や、「く
きやか」(私の手許にある広辞苑には、掲載されていない)な
ど。神戸在住の歌人だから、神戸の震災を歌った短歌がある。

心が痛いともしびの溶けさうな消えさうな祈りの時をなぞれば

追憶をたもちつづける桜木は明石町路地裏の出口に

桜花浮かぶ記憶の生田川ゆふやみのてのひらがかぶさる

生田川橋を渡ればむき出しのこころが冷えるやうな気がして

神戸の人たちは、いまも、1・17を、さまざまな思いを抱い
て、迎える。若い歌人は、塚本邦雄に師事している。塚本調が伺
える。

美女桜星(バーべナ)のほほえ(旧字)み春の雨あがり空が捲
(めく)れたあとの世界へ

さうさうあれは寂しさのこと夕暮に浮かぶからだの線をとらへて

青空の縫い目たゆたふ昼月に雨を見てきたやうな影あり

こころはぐくむやうな手触りてのひらをかさねあわせて人は眠ら
む

エロスへの誘いも伺えるだろう。

世紀待ちわびて燃えたつわたくしの身をしんしんと冷たさが抱く

つらぬきとほす火のゆらめきの金色に新世紀開かるる一瞬

手首しめあげる時間の銀色がからだになじむまでの違和感

ふいに日差しのやうな会話がとぎれたるふくらはぎからなぞる指
先

背中ゆきすぎてうなじに引かれあふ指先にたまゆらのためらい

5・XX  一方、栗本京子「夏のうしろ」は、年配の歌人のよ
うだ。若山牧水賞、読売文学賞受賞の歌集である。女性らしい眼
差しで見つめる日常生活のなかで、戦争や、政治的なことにも鋭
く斬り込む感性が若々しい。

武器回収されたるのちは農機具もて殺し合ふなり隣人なれば

(コソボ紛争)とある、短歌だが、いまのイラク戦争にも通じる
普遍性がある。

主義のため人殺したる少年は学生服着てい(旧字)たりき哀し

(昭和三十五年、社会党委員長淺沼稲次郎氏は十七歳の少年に刺
殺される)とある。これに続いて。

普段着で人殺すなバスジャックせし少年のひらひらのシャツ

こちらは、(そして、十七歳の少年が・・・)という前振りの付
いた短歌である。

いまの日本人社会の異様な「共感」状況への、厳しい眼もある。

誤差のなき共感はつねにあやふくて新内閣の支持率高し

国家といふ壁の中へとめり込みし釘の痛みぞ拉致被害者還る

豌豆のすぢ取りながら聴きてをり期限切れまであと五秒・四秒

(日本時間三月二十日午前十時が「最後通告」の期限)とある。
閉塞感が酷くなるばかりの日本社会への警鐘として読んだ。

5・XX  若い頃から結核に悩まされ、56歳で亡くなった昭
和俳壇の巨星・石田波郷の生涯を息子の元新聞記者が、描いた。
定年前、つまり父親の享年と同じ歳になったのをきっかけに新聞
社を辞めた。自分の56年の人生を振り返りながら、生前は、お
互いに寡黙で話らしい話をしなかった息子が、亡父の人生を再現
する。そういう本が、石田修大「わが父 波郷」だ。俳句も知ら
ない息子は、幼い頃、軍隊と病院の生活で不在だった父親と物心
ついてから、一緒に生活を始めたことの影響か、「敬して遠ざけ
る」のが、息子の父親を見る眼になってしまったという。しか
し、父親の人生を跡付ける元新聞記者の眼は、客観的に巨星の俳
人の人生を再構成する。その新聞記者の眼が、ほころび、ところ
どころで、知らなかった父親の人生に感動する息子の眼になって
いるのが、本書のユニークさだろうと思う。それが、単なる俳人
の生涯を再構成した伝記物とも違う、また、波郷の俳句を生涯に
なぞらえて、時系列的に解説する書とも違う、おもしろさを生ん
だ。だから、地味な本の割には、良く売れている。それと新聞記
者の眼は、父の不在、自分を含む母と妹という留守家族の歴史を
当時の世相の中に置き、的確に描き出して行く。私より、3歳半
ほど年上の元新聞記者の筆からは、私にとっても、懐かしい日々
が、再構成されて行く。そういうおもしろさがある。結核と戦う
俳人の生活。それを支える家族の力。私も子どものころ、結核を
病む母を支える父親、そして妹たちという留守家族の生活を経験
したことがあるから、余計に身につまされる。

退院後、俳人は、カメラ、植木、なかでも百椿などに凝る。清瀬
の療養所にいたころ、凝りはじめたというカメラ。確かに、カメ
ラが庶民にも買えるようになったころ、どこのうちでも、父親ら
が、カメラに凝り出した時期があった。我が家でも、父親が、カ
メラを買い求め、家族の写真を撮っていた時期があった。波郷も
凝り、何台かのカメラを買い替え、写真を撮りまくったようだ。
その写真が、今回の本にたくさん掲載されている。当時、砂町に
住んでいた俳人が、新聞の江東版に連載した「江東歳時記」に
は、波郷自身が、撮影した写真も何枚か使われている。その後、
砂町から練馬区の谷原に引っ越してから凝ったのが、植木。何十
種類もの植木が、庭を埋め尽した。俳誌「鶴」を主催し、「秋風
鶴を歩ましむ」という句から棟方志功画伯が書いた扁額「風鶴」
に因んで名付けられた「風鶴山房」は、いつか、庭に植えられた
忍冬(にんどう・すいかずら)に因んで、「忍冬亭(にんどうて
い)」と名を改められた。さらに、後には、庭一面に植え尽され
た多数の椿に因んで「百椿居(ひゃくちんきょ)」とも呼ばれ
た。90種類から100種類近くの椿が植え込まれていたとい
う。

ひとつ咲く 酒中花は わが恋椿

雪降れり 時間の束の 降るごとく

5・XX  不思議なことに、次に読んだ本も、石田波郷と繋が
る。服部真澄「清談佛々堂先生」は、短編連作で、冒頭の「八百
比丘尼」を読みはじめたら、いきなり、「酒中花は 掌中の椿 
ひそと愛づ」という石田波郷の俳句に出会い、さらに、この短編
のテーマが、「百椿図」であった。なんという偶然。「八百比丘
尼」は、椿を描く画家と彼と同棲していた女性の盆栽と造園の才
能を見抜いた「佛々堂先生」という、絶えず「ぶつぶつ」言う目
利きの老人の物語。現代の魯山人。この「佛々堂先生」は、その
後も、いろいろな場所に現れては、いろいろ目利きの才能を発揮
する。「雛辻占」では、その「佛々堂先生」が、「蛤辻占」とい
う駄菓子を見つける。その駄菓子がきっかけとなって、陶芸家、
菓子屋が、雛祭の余興の辻占で当たった我楽多を活かして、それ
ぞれの才能を伸ばして行く。「遠あかり」は、模作の世界。牽
牛、織女をそれぞれに描いた蒔絵の印籠と櫛。「寝釈迦」は、松
茸。落ちぶれた旧家の蔵に仕舞われていた古物。売りに出された
松茸山。そういった小道具を元に「佛々堂先生」が仕掛ける目利
きの話が、紡ぎ出される。古民家を古物商から買い求め、再築さ
れた、その古民家に住む作家・服部真澄が、古物再築を見抜く眼
が、おもしろい。
- 2004年5月14日(金) 6:56:43
4・XX  渡辺淳一「夫というもの」と「エ・アロール(それ
がどうしたの)」というのは、いわば、対をなす作品として、読
んだ。「夫というもの」は、男性論。特に、夫という立場に焦点
を当てながら書かれたエッセイ。中年で、浮気をし、定年後は、
「濡れ落ち葉」(つまり、会社という、社会との唯一のつながり
を断たれた後は、「濡れ落ち葉」が、道路などにべったりと貼り
付くように、妻に対してつきまとうという意味らしい)になる
か、「粗大生ゴミ」(「生」は、「生きている」という意味らし
い)になるというのが、一般的な夫の老後の生活らしい。まった
く、馬鹿げた言葉を使う人たちがいるらしい。老後とは、蓄積し
た人生の経験を踏まえて、自由に、豊饒に生きる生活の時間だと
思い、いまから、そういう生活に憧れて準備をしている人たちに
とっては、こういう馬鹿げた言葉に象徴されるような生活は、ご
めんこうむりたいと思っているだろう。

男は、結婚すると、男から夫になる。妻とのセックスは、新婚の
「蜜月時代」、「中年時代」、「熟年時代」と変化して来る。そ
の変化を自覚しながら、きちんと二人の間で、受け止めているか
どうか。渡辺の分析は、いろいろ細かく、参考になる。そういう
分析結果をもとにして、書き上がられた小説が、「エ・アロール
(それがどうしたの)」だろう。

「エ・アロール(それがどうしたの)」というフランス語を題名
にしたのは、「ヴィラ・エ・アロール」と名付けられた高級な有
料老人ホームを舞台にした小説。銀座に作られた老人ホームとい
うところがミソ。「夫というもの」で渡辺が、考察した男女観、
老年観などを元に、新境地の「老後小説」が、構想されたと思
う。老年の男女が織り成す人間模様を描き、「年甲斐のなさ」を
誇りにする。プレーボーイ、プレーガール、老人ホーム内への出
張ヘルス嬢、ホーム内でのポルノ映画上映会など、おじいちゃ
ん、おばあちゃんたちも、頑張っている。


4・XX  老人たちの恋の後は、30歳台の女性たちの恋模
様。石田衣良「1ポンドの悲しみ」は、石田のいつもの「池袋も
の」、つまり、「池袋ウエストゲートパーク」シリーズの男の世
界とは、異なり、こちらは、女の世界。いずれも、30歳台の女
性を主人公に、男女のかかわりを女性の目を通して、男の作家が
描く、というのが、ミソ。結婚ではなく、男女同権の同棲を選
び、自分達の持ち物には、それぞれのイニシャルを書き連ねる。
朝世と俊樹。いずれ、別れる時が来たら、対等に、自由に別れよ
うという関係だ。だから、あらゆるものにAとTというイニシャ
ルが、入り乱れる家庭。イニシャルを書き続けた二人が、貰って
来た子猫の難病の手術をきっかけに、同棲とは違う愛の世界=結
婚に目覚めるという話をまとめた「ふたりの名前」など、10編
の短編小説が並ぶ。どこにでもいるような、身近な普通のカップ
ルの、普通の恋を、インタビューをしてまとめたという。

4・XX  普通のカップルの、普通の恋の後は、タイムスリッ
プをし、未来からやって来た女性との恋物語が、貫井徳郎「さよ
ならの代わりに」である。小劇団の主演女優が、公演中の楽屋
で、殺される。疑いは、劇団の主宰者で、女優と関係のあった主
演男優にかかる。冤罪のまま、亡くなった男優の孫の美少女が、
未来からタイムスリップをしてきて、劇団の若い男優とともに、
主宰者の主演男優の冤罪を晴らそうとする、異色ミステリー。美
少女の正体は、殺人事件の発生前、発生、主宰者の逮捕、という
事件進行とともに、明らかになって行く。それと同時に真犯人も
明らかになって行くが、結局、犯人の自殺とともに、謎のまま残
され、美少女の祖父の冤罪は、晴らされない。「さよならの代わ
りに」「またね」と言い残して、美少女は、未来へ戻ってしま
う。現在から未来へ生き続ける若い男優と未来と行き来する美少
女は、「また」逢えるだろうか。

4・XX  こちらは、不倫のカップルの性愛を描く官能恋愛小
説。主人公は45歳の女性。夫に先立たれ、ゴーストライターを
している中年女性の、濃密な官能を描いたのが、藤田宜永「密
事」。淡谷のり子と美空ひばりあたりをモデルにした往年の歌手
の自伝を書くことを頼まれたゴーストライターの女性は、歌手の
甥という妻のある男と不倫の関係に入る。女性は、すでに関係し
ていた年下の男から結婚を申し込まれていたが、不倫の関係を優
先させる。まあ、そういう入り乱れた男女の性愛と恋愛を描いて
いる。

4・XX  丸尾末広の署名入り豆本「マルヲグラフ」を入手。
漫画の絵「叫びと囁き」「花札伝奇」「幻想映画館」
「RANPO」「少女椿」「風魔伝説」「風の魔転郎」「京都呪
殺」「アダムとイブ」、「帝都物語」「闇彷徨う者」などのス
トーリー無しの原画集(1999年、パロマ舎刊)。丸尾ワール
ドの小さな世界。

4・XX  新堂冬樹「銀行籠城」は、1979年、大阪の三菱
銀行北畠支店に梅川昭美が立てこもった、いわゆる「梅川事件」
をベースにした小説。舞台を東京の「あさがお銀行中野支店」に
移し、五十嵐順一が立てこもり、銀行員や客を殺しながら、借金
の返済に困り、取り立て厳しい金融会社の社長宅に押し入り、3
人を射殺した挙げ句、警察官に射殺された父親の事件の後遺症に
苦しまされた恨みを晴らす話に仕立てた。五十嵐の復讐は、殺人
者の家族として、蔑まれ、差別され、虐められたことに対する社
会や銀行への恨み。父親を射殺し、「平成の名刑事」と言われた
警察官・鷲尾警視への恨み。さらに、再婚のため、自分を捨てた
母親への恨み、という3つの恨みに裏打ちされている。そのあた
りが、著者の工夫か。後は、梅川事件を下敷きにしているだけと
いう、エンターテインメント小説としても、薄っぺら。

4・XX  佐木隆三「慟哭 小説・林郁夫裁判」は、オウム真
理教の犯した地下鉄サリン事件などで重大な犯罪者の一人となっ
た林郁夫の罪と罰、改心による麻原彰晃(そう言えば、この名
前、朝の原っぱ、明明という意味にも通じるという無稽さ)の人
格の問題性(自己愛的人格障害という病名)を法廷で糾弾しなが
ら、己自身は、極刑を求める行動を描く。患者を救いたいと宗教
にまで視野を拡げたがゆえに、奈落に落ち込んだ心臓外科医の人
生の軌跡。罪と罰、南北や黙阿弥なら、どういう歌舞伎に仕立て
ただろうか。さしずめ、麻原は、国崩しの公家悪の隈取りと衣装
が必要だろう。法廷関係の資料が多数引用されているが、そこ
は、法廷ドキュメントの第一人者・佐木隆三だけに、エンターテ
インメント小説としても、厚みを持たせる工夫をしている。

4・XX  田口章子「歌舞伎と人形浄瑠璃」最後の市川猿之助
を持ち上げるのは、戴けない。猿之助歌舞伎の実験精神は、私
も、評価するが、ほかにも評価すべき、歌舞伎役者などは、い
る。にも拘らず、京都造型芸術大学芸術学部教授の田口章子先生
が、京都造型芸術大学の市川猿之助副学長を讃えるのは、余りに
も露骨すぎる。現代の歌舞伎の実験精神を実践している役者衆を
列挙し、そのなかに、猿之助を位置付けて欲しかった。それな
ら、私も納得する。こういう「おべんちゃら」のような結論をつ
けられると、猿之助歌舞伎の真価に陰りが出て、逆効果だ。歌舞
伎と人形浄瑠璃の歴史の概説を歌舞伎の「女性原理=肉体」、人
形浄瑠璃の「男性原理=ことば」をキーワードにして、述べて行
く手法は、原理の分析が不充分で、とってつけたような記述に
なっている。思ったほど、効果を挙げていない。普通の歴史概説
の域に留まっているのが、残念。

しかし、ところどころに、興味ある記述はある。例えば、こう
だ。女歌舞伎の系列が、後の上方歌舞伎の「和事」に連なったこ
と。若衆歌舞伎の系列が、後の江戸歌舞伎の「荒事」に連なった
こと。並木宗輔を近松門左衛門の真の後継者として位置付けてい
ること。竹本座と豊竹座との騒動は、人形浄瑠璃の三人遣いを考
案したと言われる人形遣いの吉田文三郎の我が儘、横暴が主たる
原因だったこと。竹本座の実権を握ろうとし、遂に、追い出され
たこと。騒動は、それで決着したが、その結果、人形浄瑠璃は、
衰退して行ったこと。上方歌舞伎は、舞台と観客席との間に、共
通の言葉が、誕生し、「和事」が成立したように、江戸歌舞伎
は、舞台と観客席との間に、共通の言葉として江戸言葉が誕生す
るのを待って、上方の世話ものと違う「生(き)世話もの」が、
成立した。多くは、大学時代の指導教授・諏訪春雄の説によりな
がら、判りやすく説明している。

4・XX  武井協三「江戸歌舞伎と女たち」は、「役者評判
記」の亜流(パロディー)として出版された「役者女房評判記」
をベースに、江戸の芝居町に住む女たちの生活や行動を通じて、
歌舞伎の歴史を見てみようとする意欲作。おもしろく読んだ。特
に、二代目から六代目までがからむ團十郎・代々の女たち。なか
でも、三代目の娘で、後の五代目(結婚当時は、三代目幸四郎)
の妻になった「お亀」。五代目の愛人の「お砂」。四代目の後妻
で、五代目の継母となった「お松」。この3人の女性たちは、こ
の本の核を形づくる。それは、江戸歌舞伎の歴史上名高い、五代
目團十郎と四代目幸四郎との確執の謎を解くことにもなる。

特に、「お松」は、凄い。三代目岩井半四郎の養女になり、後
に、瀬川菊次郎(初代瀬川菊之丞の弟)の嫁になる。菊次郎の死
後、二代目大谷広次の嫁になる。大谷広次の死後、四代目團十郎
に嫁ぐ。すべて、甥の二代目瀬川菊之丞育成のためというから凄
い。お松は、さらに、四代目岩井半四郎(通称・おたふく半四
郎)も育てる。
四代目團十郎の弟子から、四代目松本幸四郎となった役者も、お
松は、可愛がり、育成する。彼が、実は、瀬川家の色子であり、
幼い頃から、お松が目をかけていたというわけだ。継嗣の五代目
團十郎と昔から可愛がっていた四代目幸四郎の不仲の原因は、お
松が絡んでいる。お松は、また、二代目瀬川菊之丞のために、パ
トロンとなる大名とも密通しているという。女、若衆が切り捨て
られ、野郎という成人の男たちからなる社会である、歌舞伎界
に、いわば、「プロデューサー」として、加わりたいという執念
を燃やし、実践した女性・「お松」は、かなりの美形だったよう
だ。

女性ゆえに、歌舞伎役者になれない、お松は、若い役者たちの肉
体を借りて、歌舞伎の育成に努め、そのためには、己の身を有力
な役者、贔屓の大名などに投げ出すことまでしたというのが、こ
の本の著者・武井協三の主張である。

江戸三座と言われた芝居町のほかに、実は、江戸の大名屋敷
(300人の大名が、上、中、下の屋敷を構えていた。当時人口
100万都市であった江戸の敷地の7、8割は、大名屋敷を軸に
した武家屋敷であり、残りの敷地に商人や職人が住んでいたこと
になる)では、2、3ヶ月に1回ぐらいの割り合いで、役者を呼
んで、芝居をしていたらしい。つまり、江戸の大名屋敷は、もう
ひとつの芝居小屋でもあったのだ。中には、男色趣味で、若衆役
の役者を囲っていた大名もいたという。自分で台本を書き、家来
や女中衆たちに芝居をさせていた大名もいた。さらに、二代目瀬
川菊之丞(通称・王子路考。江戸根生いの最初の女形)を贔屓に
し、菊之丞に「八百屋お七」をやるように進めた、実質的なプロ
デューサーの役割を果たしていた大名(お松と密通したという説
のある)など、サイドストーリーもおもしろい。

4・XX  金原ひとみ「アッシュベイビー」は、芥川賞受賞第
1作というやつだ。ファザ−コンプレックスをベースに、閉塞状
況の息苦しさをセクシャルな道具立てで、派手派手しく、世界を
構築する。冷静で、冷血で、冷笑の男・村野(出版社社員)。そ
の村野に父性を感じて、「好きです」を連発するキャバ嬢・レナ
(本名・アヤ)。アヤと「同居」(ルーム・シェア、つまり、家
賃を割り勘にする)する村野と同じ出版社の新入社員で、アヤの
大学の同級生・ホクト。ホクトは、アヤの部屋には、入らずに、
親戚から預った赤ん坊と同居し、性生活まで営んでいる。つま
り、嬰児姦をしている。それに熱中する余り、会社を無断欠勤
し、解雇される。このほか、アヤとレズの関係を持ちたがってい
るモコ(トモコ)、キャバの同僚たち。アメリカによるイラク侵
略戦争が、もたらし、日本政府が、それに追随することで、さら
に、重苦しくもたらしている閉塞状況には、一言も触れてはいな
いが、金原は、現代の若者の性風俗を描きながら、こうした政治
的にも、性的にも、閉塞した時代状況を描いて行く。時代に通底
する政治的な実相を性的に描く。そういう意味では、この人の才
能に感心する。

父性の象徴の村野との、なんとも断絶的なアヤの慕情の純情さ。
これはまた、嬰児姦に耽るホクトの、性愛の極致としての、シン
プルな嬰児の割れ目への純愛と二重写しになる。そういう互いの
閉塞感を知りながら、いちばん近しい関係を保つアヤとホクト。
ふたりの「同居」する空間は、ふたりを乗せたまま、出口のない
現代社会を漂流して行く。

4・XX  辺見庸「抵抗論 国家からの自由へ」は、イラク戦
争に巻き込まれて、人質になったボランティアやフリージャ−ナ
リストたちに対する「自己責任論」が、官邸主導、マスコミ翼賛
のもと、不特定多数の匿名家たちが、声高に避難の大合唱をする
という状況にこそ、触れていないものの、「自衛隊のイラク派兵
反対」を叫ぶデモの有り様にも、ファシズムの波動を感じ取り、
「個体知」が、埒もない「メディア知」で「修正されたり閉めだ
されたりしている」と歎き、そういう「メディア知」は、「おそ
らく『国家知』に重なる」と看破するジャーナリストで、作家の
炯眼が、随所に光る本だ。辺見庸が「閾の共犯関係」にあるとい
う国家とメディアは、「協調主義的な日本型ファシズム」を生成
しているという。

「憲法、国家、および自衛隊派兵についてのノート」「もっと国
家からの自由を」「マスメディアはなぜ戦争を支えるのか」「危
機の認識と抵抗のありようについて」など、1999年10月か
ら2004年初めまでに、それぞれの時勢について、限られた事
実ごとに雑誌や新聞に書き連ねられた文章は、こうして通して読
むと、時代の全体像を映し出す鏡になっていて、その鏡には、こ
の本に掲載されたさまざまな文章を書き、さらに、その後、どこ
かでの講演中に、脳いっ血かなにかの発作を起こして倒れ、救急
車で病院に運ばれたという新聞記事を見て以来、「消息を断って
いた」というか、病気の続報も途絶えたことから、恢復されたの
かなと私も心配していた辺見庸が、04年3月付けで、あとがき
を書き、3月30日付けで発行したわけだから、4月初めに発生
した今回のイラク人質事件のことなど、写っているはずもないの
だが、辺見庸の「鏡」には、いわば、彼にとって「未来」に起き
た筈の人質事件とその後の日本国内の「自己責任論」問題の本質
をも、鋭く写しとっているから、凄い。

辺見庸は、03年の暮れに、すでにこう書いている。「恥知らず
は、いつの間にかこの国の圧倒的マジョリティになった」と。そ
れは、恐らく、辺見庸が「危機の認識と抵抗のありようについ
て」という論文で分析している、拉致被害者の問題が、今回の人
質バッシング問題と通底していて、拉致被害者の問題に伴う日本
国民の深層心理という構造が、「私たちのファシズム」を形成
し、匿名性の隠れ蓑の陰から、お上や一部のマスコミとともに、
「非国民」論を声高に唱えはじめているシルエット(黒衣)たち
の姿ということなのかもしれない。テレビ出身の広島選出の国会
議員の「反日分子」論など、いまの腐りかけたマスコミと権力の
癒着の象徴かもしれない。おっちょこちょいが、その気になっ
て、浮かれ出てしまい、押し出した張本人のシルエットたちから
も、「やりすぎ」と馬鹿にされている図かもしれない。

つまり、今回の問題の構造は、辺見庸が分析した最近の日本の意
識構造の上に、しっかり、そのまま、載っているがゆえに、辺見
庸の視線の延長線上には、「自己責任論」の幻影が、巨大なスク
リーンにくっきりと投影されているということなのだろうと私は
思う。そういう意味では、今回の「自己責任論」の実相を読み解
くためには、これほど、適格な本はないように思う。まあ、こう
いう本は、書店で、実物を手にとり、自分の眼で読むに限るか
ら、ここでは、これ以上、あまり内容に触れまい。

しかし、共同通信の記者、デスクとして、マスメディアのなかに
いた辺見の現代のマスメディアへの批判は鋭く、いちだんと「忍
び寄る曲者」、つまり、「私たちのファシズム」の実態を暴いて
くれる。本書「抵抗論」は、「永遠の不服従のために」、「い
ま、抗暴のときに」に継ぐ、いずれも毎日新聞社刊の著者の「抵
抗3部作」となった。
- 2004年4月28日(水) 21:38:56
4・XX  イラク戦争では、アメリカも日本も揺れている。ア
ジアの政局では、韓国も台湾も揺れている。総統選挙以来、台湾
が揺れている。そういう台湾の不安定な政局を中国も睨んでい
る。その台湾と中国の境にあり、帰属が、いまだに曖昧な島があ
る。台湾領の金門島だが、船戸与一「金門島流離譚」は、その金
門島が舞台の小説だ。久々の船戸書き下ろし作品。金門島で、偽
造品貿易に関わる日本人・藤堂義春。国際関係を背景にしたサス
ペンスもの。まあ、それだけの作品。もうひとつの作品「瑞芳霧
雨情話」は、映画「非情城市」の舞台となった瑞芳鎮。台湾育ち
の日本人男子学生と台湾出身の女子学生が、瑞芳鎮で事件に巻き
込まれる。両作品とも、筋立ては、エンターテインメントだが、
背景となる場所の描写や歴史の記述は、興味深く読んだ。

4・XX  金門島、台湾の次は、九州は、宮崎県の高千穂だ。
高山文彦「鬼降る森」は、高山のふるさと、宮崎県高千穂の「鬼
八(きはち)伝説」を基軸に「高天原(たかまがはら)伝説」の
陰に隠された地域の歴史を明らかにする。侵略者「天孫族」に対
抗する先住者が、「鬼八」の系譜。「谷が八つ 峰が九つ 戸が
一つ 鬼の棲み家はあららぎの里」という「神楽唄」や「ここの
山の刈干しゃすんだよ あすは田んぼで稲刈ろか 高い山々 ど
の山見てもよ 霧のかからぬ山はないよ」という「刈干切り
唄」。「うれしさに 霧の鬼八が 出てきたぞ」というぐらい霧
がよく発生する高千穂峡。自分史とのかかわりのなか、地域の風
土記を再構成した作品。読みごたえがあった。

4・XX  霧の後は、雲というわけではないが、高橋順子「雲
のフライパン」は、詩人・高橋順子が、20年掛けて書き継いで
きた童話短編集。ちょと長めの表題作品「雲のフライパン」は、
雲を擬人化した作品。「赤い雲のはなし」「赤い雲のはなし・そ
の後」などは、雲の話だが、「びんぼうなゆりイス」「ソナチネ
山のコインロッカー」など、奇妙な味の作品も、おもしろい。私
がいちばん、おもしろかったのは、「へんな花」。「へんな花」
は、天狗山に登ったおじいさんとおばあさんの話。祟りのある花
「ミヤマテングソウ」を見てしまったばっかりに、足はカラスの
足、顔は赤い天狗になってしまったおじいさん。目だけは、おじ
いさんの目。そういうおじいさんに山のなかで、取り残され、ひ
とりぼっちになってしまったおばあさんの話が、妻・高橋順子と
夫の作家・車谷長吉の二人を思い出させてくれた。

4・XX  高橋順子は、飯岡出身だったかどうか、いま、手許
に資料がないので判らないが、いずれにせよ、飯岡か、銚子か、
そのあたりの千葉県九十九里浜の出身だ。山口瞳「巷説 天保水
滸伝」は、未完の作品。山口瞳、存命中、執筆に際して訪れた千
葉県・九十九里浜に面した飯岡の町。銚子市と旭市に挟まれ、千
葉県北東部にある。なまじ、昔からの地魚の豊かな漁港だったゆ
えに、明治時代に総武鉄道(いまの、JR総武線の前身)が開通
した際、駅建設反対運動が起こり、町の中心地が、鉄道沿線から
離れ、それゆえに、取り残された町。そういう町の応援団になっ
てしまう義侠心の強さが、山口瞳にはある。やくざ者への憧れ
が、山口瞳にはある。

近代化のなかで、同じ千葉県の関宿町(最近、合併して野田市に
組み入れられた)は、利根川と江戸川に挟まれ、徳川時代には、
箱根の関所同様に有名であった、舟のための関所、水関所があっ
た。江戸の人口が100万の時代に、5万人が住んでいた下総有
数の城下町。東京の人口、1000万から、単純に類推すれば、
人口50万規模と言える「都市」であったろうに、飯岡同様、明
治時代に鉄道敷設に反対して、近代化とともに取り残された町。
そして、遂に、隣町に併合されてしまった)と似たような歩みを
しているようだ。そういう町の運命と己をダブらせる視点で、山
口瞳は、彼としては、珍しい歴史長編小説を書きはじめた。

講談や浪曲などドでお馴染みの「天保水滸伝」は、笹川繁蔵と飯
岡助五郎というやくざ者同士の喧嘩の話である。飯岡助五郎は、
清水次郎長との対比で悪役にさせられた甲州の黒駒勝蔵同様、笹
川繁蔵との対比で悪役にされた。その助五郎の菩提寺・光台寺に
ある助五郎の墓の後ろにあった立派な墓に、なぜか、山口瞳は、
引かれる。「堺屋北条与右衛門家」より分家された人の墓で、
「北条タカ」とある。飯岡で、助五郎に近しい人で、北条と言え
ば、助五郎の妾(というか、網元とやくざの親分というふたつの
顔を持った助五郎一家の「姐さん」のサイの家系である。「昭和
二十七年四月九日建之」としてある。この女性は、誰かと疑問に
思った山口瞳の推理は、「建之」の日付けに注目した。

松本清張「日本の黒い霧」に出て来る、謎の三原山追突事故を起
こした、あの「もく星号事件」の日付けと同じだからである。乗
客乗員が全員死亡した「もく星号」には、当時の日経連の代表幹
事で、八幡製鉄の三鬼隆社長と社長の愛人説が囁かれたという謎
の女性・小原院陽子、漫談家の大辻司郎らが乗っていた。陰謀説
のある事故であるから、つまり、事件なのだ。なぜか、山口瞳
は、作家の直感で、北条タカは、小原院陽子の実名ではないか、
なにかの事情があって、名前を変えたのではないかと思ってしま
う。

それは、伝えられる飯岡助五郎が、悪役ではなく、助五郎の墓に
記されているように、飯岡の漁業を再生した町の恩人であったと
したら、「天保水滸伝」は、どのように、書き換えるべきなの
か。そういう発想で、この作品を書きはじめたようだ。そうい
う、長い前説の果てに「巷説 天保水滸伝」は、始まったのだ
が、助五郎、繁蔵の青春時代を描くのに、筆を遣い過ぎて、大立
ち回りとなった「大利根河岸の決戦」まで行かないうちに、前編
(山口は、「序章」と書いている)が終り、そのまま、後編が書
かれず、未完のまま、山口瞳は、亡くなってしまった。

千葉県のなかでは、北東にある飯岡と対角線の関係にある南西の
浦安町(いまの、浦安市。昔は、山本周五郎の小説「あおべか物
語」の舞台になった町であったが、いまでは、「東京ディズニ−
ランドのある町」として、知られる。私の住む市川市の隣町でも
ある)には、住居のある東京の国立市から、山口瞳は、泊まり掛
けで、海などの絵を描きに良く来ていた(山口が、浦安に来ると
良く行っていた寿司屋は、いまもあるはず)が、私が読んだほか
の作品を見る限り、山口が、飯岡へ、良く行っていたとは、思わ
れないので、飯岡の応援団長のような山口の述懐を読むと、なん
だか、不思議な気がする。

- 2004年4月14日(水) 22:57:52
3・XX  季語は、五七五という文字に制限された俳句の世界
に、本歌という豊かな世界を引き込み、日本人共通のイメージを
広げるという役割を持っている。高橋順子「うたはめぐる」は、
俳句の季語のように、四季折々の言葉を援用し、俳句に留まら
ず、川柳、和歌、詩などに縦横に発想を連ねて、まさに、詩歌の
世界を巡らせる。例えば、山頭火なら、山頭火と雑草に目をつ
け、「夏−いのち」として、次の2句をあげる。

やつぱり一人がよろしい雑草
やつぱり一人がさみしい枯草

「夏−雨」では、「梅雨に笑うナマズ」として、永田耕衣の句を
取り上げる。

梅雨に入りて細かに笑う鯰かな
松を見るに女身見る如し春の雨
女身見るに松を見る如し秋の雨

鯰が、笑う、細かに笑う。なにか、無気味だ。
エロチックな松がある。春歌ならぬ春雨である。
年をとった女身、腰の曲った老婆かも知れない。人生の晩秋。老
松。

「秋−月」では、「明恵の法悦」。

あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや
月

という、時空を超えた、優れて前衛的な和歌がある。

「冬−去年今年」では、「じいさんになる」が、おもしろい。初
孫ができた谷川俊太郎の決意表明。

いつもの新年とどこかちがうと思ったら
今年はあかんぼがいる
(略)
ようし見てろ
おれだって立派なよぼよぼじいさんになってみせる」

「夏−からだ」では、西東三鬼の句。

おそるべき君等の乳房夏来る
すばらしい乳房だ蚊が居る

後の方は、尾崎放哉の句。

「秋−鬼」の「鬼哭啾啾」では、三橋鷹女の句。

この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉

人を鬼に変えるほどの、夕景に見事な紅葉。この世のものとは、
思えない絶景がある。

3・XX  小松和彦「新編・鬼の玉手箱 外部性の民俗学」
は、鬼や妖怪、異人などの棲む闇の世界を文化人類学、民俗学な
どを駆使して分析した本。ここでは、歌舞伎に参考になりそうな
部分を紹介したい。特に、「異界への橋」というタイトルでまと
められた文章群には、長唄の「綱館」を元に黙阿弥が能仕立てに
した「茨木」や同じ黙阿弥が当初素浄瑠璃で作詞をし、後に五代
目菊五郎が歌舞伎に仕立てた「戻橋」に出て来る鬼女(茨木童
子)を理解するのに参考になる論文が、「茨木童子と渡辺綱」。

「義経記」の世界は、歌舞伎の作劇では、ひとつの重要な「世
界」(歌舞伎テキストの背景となる時代・事件をさす概念)を構
成している。特に、「日本の芸能と神秘思想」や「牛若丸と『虎
の巻』」という論文では、歌舞伎「鬼一法眼三略巻」の「菊畑」
の、「奴虎蔵、実は、牛若丸」が、戻橋の近くに屋敷を構える兵
法者・鬼一法眼が秘蔵する軍法の秘書「三略巻」を鬼一法眼の
娘・皆鶴姫の手引きで盗み出そうとする話の背景が論じられる。
「三略巻」、つまり、中国は、周の時代の太公望の撰とされる兵
法書のなかにある「虎の巻」のことが分析されている。

3・XX  丸尾末広「笑う吸血鬼2 ハライソ」は、雑誌連載
の漫画「「笑う吸血鬼」シリーズの第二弾。8年前に突然、行方
不明になった姉・橘ミコを探すマコトと母の和子。一方、吸血鬼
と化した毛利耿之助、宮脇留奈、駱駝女、バヤカンら。女の子を
攫って、何年も部屋に監禁して、一歩も外へ出さず、自分の好み
の女性に育つよう仕込むのか。やはり、鬼の一種である吸血鬼た
ちの跋扈する悪夢のような世界を血の色で染めるのが、丸尾末広
の世界。「色即是血」。

3・XX  こちらも、少女時代に逮捕・監禁事件に巻き込まれ
た作家の物語。10歳から11歳までの1年間、汚れた作業着の
男の住むアパートの一室に監禁された体験を持つ女流作家小海鳴
海が、25年後にその真実を書き上げた作品「残虐記」を残した
まま、蒸発した。事件を担当した検事で、いまは、鳴海の夫の生
方淳朗が、編集者に作品を送った。夫から編集者へ送った2通の
手紙に挟まれるように、小海鳴海作品「残虐記」がある。桐野夏
生作品「残虐記」は、それらを全て含む構成で提出されている。
誘拐犯と被害者の少女だった作家、事件を担当した検事だった作
家の夫。作家の両親たちの事件後の人生の歩み。誘拐犯と被害者
の少女しか知らない真実。いや、真実より、「真実に迫ろうとす
る想像」こそが、フィクションの特性であるというのが、作家・
桐野の主張なのだろう。歌舞伎の鬼女→鬼伝説→吸血鬼・少女行
方不明事件→少女監禁事件の真実へと、想像力の流れのままに読
書が進み、書評が、「乱読物狂」に書き込まれる、というのも、
本当は、フィクション。この「乱読物狂」も、構成には、想像力
を働かせていることをお忘れなく。もちろん、読んでいない本の
ことは、取り上げないが、読んだ本の全てを取り上げているわけ
ではないし、本を読んだ順序で書き込んでいるわけではない。

3・XX  大河ドラマの「新撰組!」の放送で、新撰組が、
ブームになっている。だから、読んだというわけではないが、中
村彰彦「新選組紀行」を読む。江戸、多摩、京都、大坂、伏見、
流山、宇都宮、会津、函館、松前、宮古など新撰組所縁の地を小
説家と写真家が追い掛ける。

所縁の場所の案内の記述は、親切で、細かい。例えば、流山。近
藤勇が、捕縛されたのが、いまの千葉県の流山市である。「綾瀬
駅からJR常磐線か営団地下鉄千代田線の下りに乗るのがよい。馬
橋駅で総武流山電鉄に乗り換えれば、十数分で流山駅に着くこと
ができる。その西口を出たら、駅舎を背にして流山街道の信号の
ある交差点を横断。街道を左に見て歩道を左(南)へ歩いてゆけ
ば、最初の角の先に『近藤勇陣屋跡』という表示が出ている。視
線よりいやに高い位置にあるので、私たちも一度は通り過ぎてし
まったから要注意。この角を右折し、小さな辻を直進してゆけば
左側の古い土蔵の手前に畳み三、四畳分の横長のスペースがあ
り、ここに『近藤勇陣屋跡』碑と解説板、近藤関係の古写真を飾
る展示板、ファンのためのノートを収めた郵便受けのようなボッ
クスなどがならんでいる」。まあ、こんな調子である。この本を
片手に、新選組所縁の地を巡れば、道に迷わないような気がす
る。

ところで、近藤勇は、最後まで殿様意識が抜けず、新選組の組員
を家臣と思っていたようだ。武士でもなかった若者が、最後は、
若年寄格(大名)扱いされ、「大久保剛」という名前までもら
い、流山で捕まったときも、「大久保大和」という偽名で押し通
そうとしたぐらいだ。「大久保大和守」のつもりだったのだろ
う。

新選組は、甲府と縁がある。甲府は、徳川幕府の天領で、甲府城
は、江戸の守りの役目を負っていた。新選組は、「甲陽鎮撫隊」
と改称して、西から迫って来る新政府軍に対抗すべく、甲府城の
守護に向かうが、内藤新宿で、出陣の前祝いと称して、ドンチャ
ン騒ぎをし、府中、日野でも泊まり込み、なかなか、進軍しな
い。そのうちに、新政府軍は、甲府城に入ってしまった。八王子
から山間部に入り、甲府盆地の入り口に至る笹子峠を越えて、勝
沼に辿り着くと、甲府から出張ってきた新政府軍と開戦となる
が、一方的に敗北。江戸に逃げ帰った新選組一行は、永倉新八ら
が、会津に行こうと持ちかけると、近藤は、拒否をする。「拙者
の家臣となって働くというならば同意もいたそう」が、そうでな
ければ、同盟には、加われないというのだ。永倉は、近藤に「同
盟(同志になる)こそすれ、いまだおてまえの家来にはあいなり
もうさぬ」といって、近藤と袂を分かち、同志たちと会津に向
かった。一方、めげない近藤も流山に向かい、結局、捕縛され
る。近藤は、流山から板橋の東山道総督府へ連行され、正体が暴
露され、下獄。慶応4(1868)年4月25日、斬。35才で
あった。辞世の漢詩の一部。

快く受けむ電光三尺の剣
只将(まさ)に一死君恩に報いる

近藤勇よりも、人気があるのが、土方歳三。土方歳三の終焉の地
は、函館。土方の辞世の句。

たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂(たま)は東の君やまもら
む

土方は、一本木関門から異国橋へ討って出て、銃弾に倒れて即
死。明治2(1869)年5月11日のことであった。享年36
才。死に場所の案内は、こうだ。「異国橋からやや離れた若松町
の函館市総合福祉センター前の『若松緑地』と呼ばれる公園の池
のほとりに『土方歳三最期之地』碑があ」るという。

旧臘にしがみついた近藤勇と違い、土方は、近藤と別れてから、
負けても、負けても、挑戦する粘り強さを身につけ、戦のなか
で、急激に成長して、リーダーとしての能力を発揮して行った。
函館の土方は、それ以前の土方とは、大違いなのである。

その証拠に、土方の死後、土方所縁の日野の家に、3人の元新選
組の隊士が訪ねて来る。ひとりは、函館で撮った洋装の土方の、
あの写真を持ってきた。明治2(1869)年。もうひとりは、
仙台藩主から土方が貰った刀の下げ緒を届けてくれた。明治3
(1870)年。3人目は、函館戦争の記録を書いて、届けてく
れた。明治5(1872)年か、明治6(1873)年頃とい
う。同志に慕われた土方歳三と殿様意識で、死んで行った近藤
勇。

3・XX  小説のような、エッセイのような9つの短編が、<
私>とは、何かを辿る。過去の記憶を辿れば、過去の<私>が、
いまの<私>を夢に見ているに過ぎないのかも知れない。<私>
を時間軸のなかで、捕らえながら、過去の<私>と現在の<私>
の関係を数式を解くように演算して行く。真の<私>は、ある
朝、目が醒めたら、少年のころに戻っていて、現在の<私>と
思っていたのは、すべて、その少年の<私>が、見ていた夢に過
ぎない。保坂和志「<私>という演算」は、そういう<私>認識
論を手を変え、品を変えして、反復しながら追究する哲学小説
だ。「今こうしている自分がすべて過去のある時点の自分が想像
している世界の中で生きているに過ぎない」というのが、テーマ
だ。9つの短編のうち、小説らしいタイトルは、「写真の中の
猫」「祖母の不信心」「十四歳・・・、四十歳・・・」ぐらい
で、短編集の表題となっている「<私>という演算」も、「死と
いう無」も、「二つの命題」も、「閉じない円環」も、「あたか
も第三者として見るような」も、哲学、数学の論文のタイトルの
ように見えて来る。

3・XX  幸田真音「代行返上」は、タイトルが、難しい。専
門的すぎるのだ。「代行返上」とは、年金制度の言葉。いまはや
りの年金問題を経済小説という視点で描く。民間のサラリーマン
の年金制度である、国民年金(基礎年金)、厚生年金(報酬比例
部分)、企業年金(厚生年金基金)という、いわば、三階建ての
年金制度のうち、二階部分の一部を国に代わって、厚生年金基金
から支給される制度があるが、この厚生年金の国の業務を代行し
ている(金利の高い時代には、国任せにせず、企業が運用するこ
とで、運用益があったのだ。低金利時代が長引くに連れて、代行
の旨味がなくなったばかりでなく、足を引っ張ることになってき
た)ことを返上すること、つまり「代行返上」とその影響をテー
マにした小説。厚生年金の代行返上となると、企業は、企業年金
のみを扱うか、厚生年金基金をも、解散してしまうかすることに
なる。代行を返上することで、国から自由になり、企業は、企業
年金の重圧から身軽になるため、企業年金を運用するために持っ
ていた大量の株を売りに出る。その販売益で、確定拠出年金(確
定給付企業年金)に移行する。但し、大量の株が、一時に「売
り」になることから、株価は、暴落する。この小説は、年金問題
をテーマにしながら、財政問題、金融問題、雇用問題など現代の
経済の根幹に関わる難題に全て繋がっていることを浮き彫りにし
て行く。

3・XX  よしもとばなな「王国 その2」は、ばななのライ
フワークと「称する」長編小説第二弾。40歳で、もう、ライフ
ワークかよ、というのが、正直な気持ち。印象に残った言葉。
「でも、なによりも、今日することだけ、ちゃんとしたい」「僕
には人も花みたいに、今しかないふうに見えるときがある」。そ
う、今しかないのだ。過去は、遡れないし、未来は、永遠に近付
けやしない。ただ、今を生きるだけ。「王国 その1」より、輪
郭が、ぼやけて来たような気がする。「魂の色つやを守り抜
け!」とあったが、「色つや」を守るのは、魂でなくても大変
だ。魂の色を同じにし、更に、艶まで出すとなれば、これは、大
工事が必要だと思う。「王国 その3」に期待しよう。

3・XX  内田康夫「横浜殺人事件」は、横浜の観光ガイド
ブックのような小説。ポイントは、「赤い靴」と「青い眼の人
形」というふたつの童謡が、対をなしているということ。「異人
さんにつれられて行っちゃった」「赤い靴はいてた女の子」は、
「青い眼をしたお人形」になって、日本に帰って来る。いずれ
も、野口雨情作詞・本居長世作曲で、大正10(1921)年
12月に作られている。作品のなかでは、ふたつの殺人事件が、
起きるが、事件を解く鍵は、人形にあり。ミステリーゆえ、ス
トーリーの紹介は、避けるが、浅見光彦(我が実家のある東京・
駒込(豊島区)の隣町西ヶ原(北区)に自宅がある。そういえ
ば、今回、浅見さんは、横浜のホテルに宿泊したまま、確か、西
ヶ原には帰らなかったな)シリーズ作品のなかでは、あまりレベ
ルは、高くないのではないか。

3・XX  浅田次郎「雛の花」は、未来工房版の豆本。「雛の
花」は、単行本の作品集の一作品として、既に読了。今回は、再
読。浅田次郎の家族の話。祖父から婿養子の父が引き継いだ麻布
の写真館が舞台。「雛の花」は、その祖父が、辰巳芸者から引き
とった祖母と次郎少年の想い出の話。祖母と観に行った歌舞伎の
話が軸になっている。美しい祖母。鉄火な姐御肌の祖母。音羽屋
贔屓。團十郎の荒事、上方の和事より、江戸の世話物が好きだっ
たという。「音羽屋ッ!」の掛け声は、大向うから掛けた。こ
と、歌舞伎座の芝居は、幕見席でしか観ない。孫の次郎といっ
しょに、芝居を見ての帰り、寿司屋に入って、座った途端に、も
のの数分で寿司が出て来たので、食べずに、「おあいそ!」と叫
んで、「釣はいらないよ」と、金だけ払って出て来た。次に入っ
た鰻屋では、なかなか、出て来ない鰻に、空腹にたまりかねた孫
が「遅いね、おばあちゃん」と言ったら、手の甲をいやというほ
ど叩かれた。「おまい、鰻屋では早くしろは口がさけたって言う
んじゃないよ」。早い寿司は食うな、襲い鰻は催促するな。昔の
おばあちゃんは、ちゃんと孫を躾けていた。六代目歌右衛門の
「先代萩」の政岡を観た日。八代目幸四郎の仁木弾正、十七代目
勘三郎の細川勝元、八代目三津五郎の渡辺外記。おばあちゃん
は、孫を連れていたものの、御前と呼ばれる老紳士といっしょ
に、1階、西の桟敷席だった(桟敷席は、歌舞伎座の係員に断れ
ば、子どもを含めて3人なら座らせてくれる。大向うと違って、
掛け声を掛けられないおばあちゃんに代わって、孫が政岡の歌右
衛門に「大成駒ッ!」と声を掛ける場面がある。花道の歌右衛門
が、声を掛けた少年の方を見て、「一瞬ほほえんだ」。「おばあ
ちゃんに、似てる・・・・」。孫は、そう思い、おばあちゃん
に、そう言った。「お愛想かい」。「ううん、おばあちゃんに、
似てるよ」「ありがとう・・・」。やがて、おばあちゃんは、癌
で死んだ。葬儀の日、孫は、ハイヤーで出棺する柩に向かって、
声を掛けた。「おおなりこまっ!」。

豆本は、横長、海老茶の地に水玉模様。表の表紙と裏表紙で、水
玉の大きさが違う。背は。黒い革に金の押し印で題字と著者名。
見返しは、銀紙。表側は、銀紙に作中のおばちゃんが持っていた
と思われるパラソルの絵が、凹で印刷されている。署名雅印。夏
の終わりに亡くなったおばあちゃんの柩に、孫が東京中の花屋を
探して買い求めて、入れたのと同じ菜の花の肉筆画。本を入れる
木箱(版元手づくり)には、足が付いている。柩のようにも見え
る。箱の蓋には、菜の花の絵と題字、著者名。
- 2004年3月31日(水) 21:21:02
3・XX  白石一文「見えないドアと鶴の空」白石一郎の双児
の息子。双児とも、作家になっているという。親子3人の作家。
書評を書こうと思っていたが、読後、暫く経って、再び、この本
を取り上げたら、どういう内容の本だったか、思い出せない。
すっかり、印象が抜け落ちている。こういう体験も珍しい。ま
あ、更に、暫く考えていたら、思い出してきた。

妻の幼い頃からの友達が、シングルマザーになった。その女性を
病院に見舞い、出産に立ち会ったりした挙げ句、その女性と肉体
関係を持つようになる。三角関係の果てに、妻とその女性の過去
の関係を探るようになる。その女性の超能力の秘密、家族、特に
父親との関係などが、明るみに出て来る。ロマンス、サスペン
ス、ミステリー、それに、人生哲学を加えて、総合的に人生を考
える小説だという。

3・XX  黒島伝治「渦巻ける烏の群れ」、木下尚江「火の
柱」を電子文藝館用に再読、試読する。日本の反戦文学作品を系
列的に電子文藝館の「反戦・反核コーナー」に掲載しようという
試み。黒島伝治「渦巻ける烏の群れ」は、以前にも読んでいる
が、今回、再読して、きりっと印象鮮明な短編だと改めて、認識
した。古沢岩美の絵を見ているような印象が残った。木下尚江
「火の柱」は、日露戦争前夜の日本の状況を描いている中編小
説。電子文藝館掲載としては、若干長いので、途中のみ、掲載と
いう形になるだろうか。時代の実相を描く、いくつかの場面が、
ひとつの固まりとしてあるようなところをまとめて、引き出した
い。

3・XX  宮城谷昌光・聖代「ふたりで泊まるほんものの宿」
は、多くの旅館やホテルに泊まった体験を持つ作家夫妻が、それ
ぞれの体験を元に、男と女の視点で、旅館の点検結果を発表。1
泊2万円〜3万円クラスを中心にまとめている。旅館とは、我が
家同様に一晩、くつろげる施設というのが、二人のとっての究極
の宿ということになる。具体的に、1、2挙げてみると、食事が
売り物の宿は、ダメ。料理は、料理屋で食べるもの。ひとつの
コースしかない和食の夕食も駄目。客の嫌いなものは、出さず
に、別のものが出せるようなシステムになっているかどうか。部
屋に入った途端、内風呂にお湯が入っていて、すぐにも入浴でき
るようにしてあるかどうか。焼き物好きの二人らしく、焼き物の
話題が、ちりばめられていて、そっちも、いろいろ情報がある。
本は、編集者を交えて、夫妻の会話形式で、記述されている。本
文のほかに、欄外の注が、豊富で、いかにも、夫妻、特に女性ら
しい気配りが感じられる。こういう夫妻が、旅館の点検をしてい
たら、旅館側は、気を使うだろうな、と思った。
- 2004年3月15日(月) 20:35:11
2・XX  青木玉「底のない袋」日本の情緒を描いた小品の
絵。竹内浩一画伯の絵と洒落た短文からなる、「底のない袋」と
いう凝ったタイトルの連載では、小布(こぎれ)、紙布(し
ふ)、江戸のおもちゃ、などといった小品随想、遠慮、お辞儀と
いった態度、仕種などへの想いが綴られる。「勝手口のうちそ
と」では、包丁、箸、たわし、笊、おはち、鰹節、酢などという
台所、お勝手(きままに料理を作る場所)にまつわる小品の製造
現場の見学も兼ねた情報発信が試みられる。しかし、著者の真骨
頂は、「過ぎた時」と題された随想だろう。祖父・幸田露伴、
母・幸田文への想いは、著者の人生の、道しるべ。それは、とき
に、「月あかり」であったり、「雪あかり」であったり、「花あ
かり」であったりするが、著者の歩いて来た道、歩きつつある道
を、ときには、明々と、ときには、ほんのりと照らしてくれてい
た。

2・XX  いずれも、半藤一利の著作「昭和史」、「この国の
ことば」を読む。「昭和史」は、「日本人は、なぜ、戦争をする
のか」というテーマで、「日本のいちばん長い日」「ノモンハン
の夏」「聖断」「『真珠湾』の日」「レイテ沖海戦」「遠い島 
ガダルカナル」などを書いて来た文春の編集者出身の作家・評論
家の半藤一利が、昭和史のうち、1926年から45年の20年
間の歴史を4人の「生徒」(編集者か、プラス特別聴講生〈出版
者の上役か、あるいは、社長あたりか〉)相手に、講義をした、
いわば「半藤塾」の講義録。前掲の著作をベースに半藤が、語り
下ろした形で、出版された。半藤によれば、日本という国の近代
は、朝廷が「攘夷から開国へ」外交方針を変えた1865(慶応
元)年から始まり、日清・日露の戦争を経て、1905年までの
40年間で、まがりなりにも、列強に伍して、近代国家としての
形態を完成させた後、さらに、40年間をかけて、1945年に
敗戦という形で国を滅ぼして来たという。その過程で、見られた
のが、無責任な政治家と軍人の群像であったと、著者は分析す
る。

そして、あれから、ざっと、60年間が過ぎた。いま、私たちが
住む2004年の日本は、来年、まさに、敗戦から60年を迎え
る。この60年間が、どういう歴史を辿ったのか、いまの世の中
を考えれば、良く判るだろう。「昭和史」という本では、
1945年以降の60年間を分析してはいないが、日本という国
家を無責任な政治家たちが壊して来た過程といまの政治家たちが
やろうとしていることとが、何と似通って見えることか。小泉総
理らは、いまの日本を何処へ導こうとしているのか。平和憲法を
否定し、戦後の日本の政治体制として初めて軍隊を海外へ派兵す
るという既成事実を作るために、イラク派兵に踏み切った政治家
たちの姿は、半藤昭和史で分析される政治家たちの無責任な姿と
ダブって見えて来る。特に、小泉総理は、近衛総理と二重写しに
見えて来る。軍人や政治家とは、平気で嘘を言い、その挙げ句、
自分たちがついた嘘に引っ張られて、状況を客観的に見ることが
できなくなるという能力を政治家の優れた資質と勘違いする輩の
ことであるということが、この本を読む人は、みな、感じるよう
になる。

(昭和史の教訓)は、「何かことが起こった時には、対処療法的
な、すぐに成果を求める短兵急な発想です。これが、昭和史のな
かで次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまか
し的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観が
まったくない。複眼的な考え方がほとんど不在であったというの
が、昭和史を通しての日本人のありかたであった」というのは、
実は、いまの日本にも、はびこっているのである。

「この国のことば」は、日本の歴史年表の事項を飛鳥、奈良時代
から19世紀の終わりまで、266項目拾い上げ、その言葉にま
つわるエピソードや人を紹介する言葉の通史の体裁を採る本であ
る。例えば、東大寺の大仏さん。聖武天皇が国家の平和と安定の
ために建立したという。しかし、後世、聖武天皇が、最愛の光明
皇后のために建てたという伝説が生まれた。謡曲「安宅」で、弁
慶が読む「勧進帳」に、聖武天皇の光明皇后への言葉があるとい
うので、私も調べてみた。

「御名を聖武皇帝と申し奉る、最愛の夫人(ぶにん)に別れ、追
慕やみ難く、涕泣(ていきゅう)眼(まなこ)に荒く、涙玉(な
んだ)を貫く、思いを先路に翻し、上求菩提(じょうぐぼだい)
の為、盧舎那仏(るしゃなぶつ)を建立し給う。然るに、去
(い)んじ治承(じしょう)の頃焼亡し畢(おわ)んぬ。かかる
霊場の絶えなん事を歎き、・・・かの霊場を再建せんと諸国に勧
進す・・・敬って白(まお)す」(「名作歌舞伎全集」より)

いつも、白紙の巻き物を読み上げる弁慶と白紙を疑って、覗き見
をしようとする冨樫の場面に緊張し、「敬って白(まお)す」と
いう最後の言葉ばかりが印象に残る。そうだったのだ、歌舞伎や
人形浄瑠璃の「勧進帳」は、まさに、東大寺の大仏殿再建の勧進
のための旅と、義経一行は、偽っていたのだ。

「追慕やみ難く」が、「恋慕止み難く」に変わっているが、勧進
帳が、「この国のことば」の聖武天皇の項に出てくる。さらに、
史実を調べると、天皇は756年に亡くなり、皇后は、760年
に亡くなっているというから、史実は、皇后が天皇を追慕するし
かない。まあ、伝説は、所詮、伝説であることが判るというも
の。

もうひとつだけ、紹介しておきたい。武士道の話である。肥前藩
の武士の修養書として知られる山本常長「葉隠」では、「武士道
というは、死ぬことと見つけたり」という死の勧めの言葉ばかり
が有名だが、山本常長の本意は違う。「只今の当念より外はこれ
なきなり」。つまり、「只今現在を生きよ」ということだろう。
つまり、武士たる者は、いつ死ぬか判らないから、只今現在を最
高に生きよという哲学なのだ。また、「五十ばかりより、そろそ
ろ仕上げたるがよきなり」は、人生、50歳から仕上げを考えよ
という。これなども、含蓄がある。

あと、興味を持って読んだのが、先の「勧進帳」ほか、外題を中
心に歌舞伎がらみの言葉。「伊賀越道中双六」「いろは仮名四谷
怪談」「東海道四谷怪談」「籠釣瓶花街酔醒」「仮名手本忠臣
蔵」「三人吉三廓初買」「心中天網島」「菅原伝授手習鑑」
(「寺子屋」も)「曾根崎心中」「南総里見八犬伝」「二月堂良
弁杉由来」「伽羅先代萩」「夜討曽我狩場曙」「義経千本桜」
「与話情浮名横櫛」(「源氏店」「お富さん」も)などが、出て
来る。歌舞伎400年の歴史の重みですね。

いっそのこと、「歌舞伎の言語感覚」というテーマで、南北の
「東海道四谷怪談」の「道具鷹揚に廻る」などのト書きの表現も
含めて、科白、外題などを、「三人吉三」の「吉三」は、「A」
だ(当サイト「遠眼鏡戯場観察」の04年2月・歌舞伎座夜の部
の劇評)というような、誰も書いていない、あらたな視点で本を
書いてみたくなった。

2・XX  久間十義「サラマンダーの夜」は、古い革袋に新し
い酒を入れたような感じの小説。新宿で起きた雑居ビルの火災。
風俗店などの客と従業員が多数亡くなった、あの事件だ。最近、
裁判の続報が、新聞記事になっている。それによると、新宿の雑
居ビルの火災は、ふたつある。44人が死亡した火災と7人が死
傷した火災。

まあ、そのふたつか、あるいは、どちらかひとつ(44人死亡の
方か)を池袋に置き換えて、著者は、小説化したのだろう。そし
て、極力、ガスのメーターが、脱落していたとか、階段に多数の
物が置かれていて、避難の邪魔になったとか、火災当時、爆発音
が聞こえたとか、建物の所有者と使用者の関係が複雑だったと
か、消防の査察などで指摘された防火上の対策の不備だとか、新
宿の雑居ビル火災の細部は、そのまま活かされている(が、それ
は、。その上で、放火、殺人、暴力団と警察の癒着、替え玉遺体
を使った保険金詐欺、正義感の強い刑事、新聞社の敏腕の女性記
者などが、からむ警察小説。読み物としては、良くできた小説だ
が、この著者にしては、ちょっと、軽い。ストーリー以上に訴え
て来るものがない。

2・XX  梁石日「一回性の人生」。タクシードライバー時代の
梁石日(やんそぎる)さんとは、大阪から上京した在日の詩人の
金時鐘(きむしじょん)さんの紹介で逢い、新宿西口のスナック
で、3人で一緒に酒を飲んだことがある。ソプラノ歌手の田月仙
(ちょんうおるそん)さんが働いていたスナックだ。「一回性の
人生」のあとがきによると、そのスナックは、「果林」という名
前であり、その店を経営していたマスターの羽田周平さんは、店
を廃業し、当時やっていた演劇活動もやめて、いまでは、ライ
ターになっていて、「一回性の人生」という梁石日の人生と文学
を語り下ろしたこの本の録音をまとめて、下書きを書いたという
ことだ。

この本は、多額の負債を抱えて大阪から仙台に逃げ、さらに、東
京で10年ほどタクシードライバーをやり、その体験を本にして
出版、40歳代半ばにして、作家デビューした梁石日の、いわば
後半生を語る形で、自作の背景を語って行く。絶望の果てに、放
浪し、堕落し、そこから作家として甦って来た男の人生観も語ら
れる。それは、また、作家による自作解説でもある。人生という
サイクルを生き抜く意欲を喚起させる、挑発の書である。

2・XX  津本陽「老いは生のさなかにあり」は、徳川家康
(75)、毛利元就(75)、親鸞(90)、北条早雲
(88)、柳生石舟斎(78)、大久保彦左衛門(80)、東郷
重位(83)、勝海舟(77)、丹羽長秀(51)、豊臣秀吉
(62)など歴史上の人物と是川銀蔵(95)、松下幸之助
(94)という経済人などの人生を語りながら、津本の自作解説
にも通じて行く。戦国の武将は、人生50年の時代の享年であ
る。それにしても、家康、元就、彦左衛門、早雲らは、いまな
ら、90歳のペースだろう。老いてから、さらなる人生の構築に
意欲を燃やした人たちの意欲の秘密を小説家の想像力も交えて解
明して行く。津本自身、1929年生まれだから、ことし75歳
になる。55歳の人が、60歳で亡くなれば、余命5年。80歳
の人でも、90歳で亡くなれば、余命10年。「定命(じょう
みょう)」は、天のみぞ知る。だから、老いも、「生のさなか」
だと津本はいう。歴史小説を書くようになって、同じ史料をもと
に小説を書いても、年齢によって、解釈が異なると津本はいうの
である。「老境に至ってなお、盛運のいきおいを増してゆく人物
は、『考える人』である」というから、津本自身も小説家とし
て、盛運のいきおいを増していて、次作、次々作へと意欲満々な
のだろう。人生、意欲的であれ。多分、これが、長生きの秘けつ
んなのだろうと、思う。

津本の本を読みはじめたとき、2・27に歴史家の網野善彦さん
の訃報に接した。76歳。葬儀しないという。中世史だけでな
く、日本の歴史のイメージを多元的で、豊饒なものにする「網野
史学」をまとめあげた歴史家だ。山梨県出身で、若い頃、都立高
校の日本史の教師をしていた。その高校が、私が在学した高校
で、私は、直接、網野さんから日本史を習わなかった(我がクラ
スの日本史担当は、別の教師で、教科書の解説ばかりしていた。
本名は忘れたが、高橋さんという人で、生徒たちは、「虫麿」
(高橋虫麿という歴史上の人物がいる)と呼んでいた)が、網野
さんには、私が所属する新聞部の顧問をしていただいたので、面
識がある。こちらは、生徒たちも、「網野さん」と呼んでいた。
私たちが、卒業した後、暫くして、網野さんは、名古屋大学の助
教授に転任していかれたはずだ。網野さん同様、あの都立高校で
は、高校時代に私たちが習った教師のうち、何人かは、やがて大
学の先生になっていった。そういうレベルの教師が多かったのだ
ろう。いま思い出しても、ユニークな教師が多かった。但し、網
野さん(当時、私が卒業した都立高校では、教師を、「○○先
生」とは、呼ばずに、○○さんと呼ぶ慣行があった。その後、大
学に入ると、学生たちは、教師を、やはり、○○さんと読んだの
で、東京の高校生は、大学生の真似をしていたのかも知れない)
は、高校の教師時代は、後の「網野史学」ではなく、「ふつうの
日本史を教えていた」というから、虫麿さんとあまり変わらな
かったかも知れない。
- 2004年2月29日(日) 21:38:22
2・XX  横山秀夫「看守眼」は、警察、家庭裁判所、地方新
聞社の整理部、県庁など地方新聞の記者時代の体験、新聞記者を
辞めた後のライター時代の経験などをベースにした短編小説6作
品が、収録されている。

表題作は、刑事ではない、留置所の管理係として、間もなく、定
年を迎える警察官が、証拠不充分で釈放された容疑者が、留置所
のなかで「日に日にギラギラしてきた」という勘から、真犯人と
疑い、真相を見抜く執念を描いている。いずれの作品も、記者時
代の体験が、ギラギラしていて、とても、新鮮。

2・XX  「白い嘘」は、イラストレーターの和田誠の句集。
真っ赤な嘘が、大嘘なら、「白い嘘」は、軽い嘘。実際に、英語
で「ホワイト・ライ」というと、「他愛もない嘘」。まあ、フィ
クションですよ、という作意を表明しながら、和田誠が詠んだ俳
句。「日記帳」「花時計」「動物記」「子供達」「旅行鞄」「楽
屋口」「食味録」「遠眼鏡」というタイトルで詠んだ俳句が、春
夏秋冬に並べられている。印象に残った句を列挙すると・・・。

*春寒や取り壊されし富士見荘
*初夏なれど絵は盛夏なり赤い花
*茶箪笥の上のラヂオや終戦日
*除夜の鐘世紀の隙間より響く
*梅咲くやB29の堕ちし丘
*朝もやか夢のつづきかえごの花
*龍胆の道トロッコの往き帰り
*檸檬抛り上げれば寒の月となる

「句は写生なり」という俳句の王道を向うに廻して、自分の俳句
は、「嘘ばつかり」というのが、和田誠の句道のようだ。

私が入手した句集には、「浴衣着て橋を渡れば御縁日」という、
句集に掲載されていない和田誠の一句が、肉筆で書き込まれてい
る。

2・XX  整形外科の廃病院に四谷シモン作製の人形15体が
展示された。展示は、5年間の予定で始められたが、建物の老朽
化が酷くなり、717日で中止された。その人形展の記録写真集
が、四谷シモン「病院ギャラリー」である。理科室の解剖標本の
イメージも強い四谷シモンの人形。展示されたのは、「解剖学の
少年」「木枠でできた少女」「機械仕掛けの人形」「天使」「男
の人形」など。人形たちは、検査室、手術室、病室、薬品庫、
ナースステーションなどに置かれたさまが、写真で記録されてい
るが、美術館に展示されるより、安住の地に見えるから、不思議
だ。

2・XX  京極夏彦「巷説百物語」「続巷説百物語」は、この
2冊で本来完結だったのではないか。護符の札撒きの「御行の又
市」をリーダーとする一味。「事触れの治平」「山猫廻しのおぎ
ん」。それに巻き込まれる「考物(かんがえもの)の山岡百介」
が、からむ。百介は、いずれは、「百物語」を開板したいという
希望を持っている戯作者見習い。「考物」とは、頓智、謎なぞの
種本書きというところか。北林藩のお家騒動をからめて、13話
が語られる。歌舞伎の知識が、ところどころで垣間見られる。京
極夏彦は、かなり、歌舞伎にも詳しそう。事件の解決は、「御行
の又市」の仕掛けにゆだねられる。「御行奉為(おんぎょうした
てまつる)」で、一件落着。今期直木賞授賞作品「後巷説百物
語」は、老人となった山岡百介こと、一白斎が、謎解きの軸にな
るが、時代も、江戸から明治に替わっている。登場人物も変わ
る。正続の「巷説百物語」は、物語のなかの物語になっている。
もう、数十年後の世界だ。そう言えば、肝腎の百介の成熟期が描
かれていない。戯作者見習いと戯作者引退のみが、描かれてい
る。

2・XX  五木寛之「みみずくの夜(よる)メール」は、新聞
連載のコラム。「冬の札幌の夜は明けて」とあるように、夜起き
ていて、物を書き、朝方、酒を飲んだり(と言っても、ビール
コップに半分が適量という)、新聞、テレビを見たりして、その
後、眠る生活をしている五木の公開日記のようなコラムである。
その「札幌」のコラムに、藻岩山が、出て来て、わざわざ「もい
わさん」と、間違ったルビを振っている。私も札幌で2年間生活
したが、藻岩山は、誰もが、「もいわやま」と言っていた。冬
は、市民スキー場になり、夏は、ハイキングコースという山だ。
なぜ、こういうルビを出版社の刊行物ならいざしらず(それで
も、お粗末だが)、新聞社の刊行物で、こういう間違いを犯すの
か。コラムの方は、メールというより、ホームページの公開日記
の体で、それなりに、おもしろく読んだ。作家生活40有余年
で、いちばん、プライベートなことを書いたと五木は言ってい
る。

2・XX  東野圭吾「幻夜(げんや)」は、阪神大震災で被災
者になったのをきっかけに自分の過去を消した野心家の女性の謎
を追うミステリーだが、あまり、おもしろくなかった。破産して
自殺した父親の葬儀の翌日の未明に大震災に見舞われ被災した工
場で、借用書を元に父親の借金返済を迫った叔父を殺した男は、
その犯行現場を野心家の女性に目撃され、以後、野心家の女性の
陰の協力者として、女性の野心実現のため、裏の汚れ役をして行
く。一方、女性の方は、協力者の男にも自分の過去を隠しなが
ら、着々と富有の階段を上り詰めて行く。二人の行動に犯罪の匂
いを嗅ぎ付けた刑事も、彼らを追い詰めて行く。ストーリーは、
おもしろいのだが、小説としては、薄っぺらで、それゆえに、お
もしろくなかったとだけ、言っておこう。ミステリーゆえ、粗筋
の詳細の紹介は、避ける。

2・XX  高橋敏「博徒の幕末維新」は、甲州の博徒、竹居安
五郎を軸に歴史学的アプローチで博徒と幕末を描いて行く。竹居
安五郎こと、「竹居の吃安」については、高橋直樹の「お旦那博
徒」というおもしろい小説がある。罪を犯して新島に遠島になっ
ていた安五郎が島抜けをし、故郷に帰って来た。竹居村に居座り
続けるが、この時代、黒船が襲来し、世の中は、騒然としてい
て、警察力も弱まっている。新島支配は、韮山代官所の江川英龍
だが、江川は、黒船対策、江戸湾での台場建設などで忙しい。ま
た、世は、「水滸伝」ブームで、博徒が仁侠の世界に出ることを
歓迎する庶民感情もあったようだ。高橋敏は、丹念に、安五郎生
家の中村家に残る400点の文書や竹居村の区有文書、新島村博
物館所蔵の文書などを調査し、博徒の歴史に光を当てて行く。竹
居安五郎の兄の甚兵衛、二人の子分の黒駒勝蔵、「天保水滸伝」
の勢力富五郎、武州石原村無宿幸次郎、新撰組脱退派の伊東甲子
太郎、岐阜の博徒水野弥三郎、国定忠治などを追い掛けながら、
幕末から明治初期の庶民像を再構築して行く。歴史書なので、小
説のようには、想像力を飛翔させられないが、高橋直樹の「お旦
那博徒」とあわせ読むとおもしろい。時代小説、歌舞伎の世話物
の好きな人には、必読の書だろう。

2・XX  佐藤雅美「江戸からの恋飛脚」は、江戸の遊軍警察
官・関東取締出役こと、八州廻りという下級武士を主人公にした
時代小説。「八州廻り桑山十兵衛」シリーズの第4弾。博徒ら犯
罪者を追う「八州廻り」の担当区域は、野州、上州、常州、武
州、房州、上総、下総、相州の「関八州」なので、水戸や日光の
御神領、天領の甲州は、廻らないが、博徒の歴史を読んだ後に、
小説とは言え、佐藤の作品は、きちんと、史料に目配りして書い
ているので、取締の側の生活ぶりを読むのも、一興である。

2・XX  高橋敏「博徒の幕末維新」が、庶民の歴史に改めて
光を当てた書なら、磯田道史「武士の家計簿」は、金沢藩猪山家
の1842(天保13)年から1879(明治12)年までの
37年間の入払帳、給禄証書、日記、書簡など代々几帳面に残さ
れた史料を元に、具体的に幕末から明治を生きた武家の家計を再
構築してみせた非凡な書。

2・XX  逢坂剛「禿鷹3 銀弾の森」は、渋谷を管内とする
神宮署の生活安全特捜班の無頼派刑事として知られる禿富鷹秋警
部補シリーズの第3弾。渋谷のシマを争う二つの暴力団と新宿か
ら渋谷進出を図る南米のマフィアの三つ巴の争いに暗躍する禿鷹
こと、禿富鷹秋。渋谷の風俗を悪徳刑事の視点で描く。

- 2004年2月15日(日) 21:53:16
1・XX  色好みの奉行並が、長崎奉行所に奉行代理として着
任。さっそく、市中の美女妻に眼を着けた。妻を自由に扱おうと
夫の薬種問屋の主人に抜け荷の濡衣を着せ「夫を助けたければ」
と妻に迫る。夫も尋問される。通俗時代ドラマのような展開で始
まるのが、西村望「風の大菩薩峠」。隙を見て奉行所を抜け出し
た妻と夫は、からくも難を逃れて江戸へ上訴に向かう。途中で島
抜けをした江戸っ子・次郎吉と知り合い、3人で逃亡の旅が始ま
る。一方、奉行所から夫婦を追うように頼まれた赤穂藩・森家の
元藩士俵六ら浪人2人が、後を追う。時代ミステリーだが、西村
望得意の江戸の雑学的知識が随所にちりばめられていて、私など
は、ストーリーより、こちらの方を読むのが楽しみ。ストーリー
テーラーとしても定評のある西村だけに、通俗小説しての展開は
飽きさせない。このほか、赤穂藩の密命を帯びて藩士と家老の娘
コンビの旅も加わり、3つのグループは、それぞれの接点を持っ
ている。長崎道、石州街道、山陽道、脇往還、丹波往来、中山
道、甲州街道、秩父往還などの街道の描写も興味深い。江戸の街
道紀行文として読むという楽しみ方もある。もちろん、本来の時
代ミステリーとしても、おもしろいが、ミステリーだけに筋の紹
介はさける。 
 
1・XX  日本橋の丸善で、佐伯泰英の「居眠り磐音江戸草紙
シリーズ」の署名本(文庫書き下ろし)が、7冊売られていた。
「陽炎ノ辻」、「寒雷ノ坂」、「花芒ノ海」、「雪華ノ里」、
「龍天ノ門」(これ以降、初版)、「雨降ノ山」、「狐火ノ杜」
の7册を通勤途上の車中で、数日掛けて、一気に読みふけった。
東京に戻ってから、通勤時間が長いので、読書は捗るが、ものを
書く時間が小間切れになる。朝5時に起きて、1時間あまりを当
てているが、去年までの単身赴任地方勤務なら、職住接近で、通
勤時間がほとんどかからないため、3時間は、まとまって使えた
ので、ものを書く集中力や緊張感の持続が、全く違うので、閉口
している。

まあ、それはそれとして、佐伯泰英の「居眠り磐音江戸草紙シ
リーズ」は、おもしろかった。これまで読んだことのない作家
だったので、ためらいがあったが、これも、江戸・深川の長屋に
住む浪人・坂崎磐音(いわね)という、元は、九州の豊後関前藩
の藩士であった。江戸遊学から国元へ帰り、藩政改革の希望に燃
える青年藩士は、国家老らのお家騒動に巻き込まれ、脱藩をして
浪人をしている。お家騒動の解決と脱藩で婚礼直前に別れてし
まった恋人が苦界に身を沈めたのを助け出そうして、長崎、小
倉、下関、山陰路を経て、京、そして金沢、江戸へと旅をする。
こちらも、ある意味では、江戸の街道紀行小説。江戸では、鰻屋
の鰻裂きを手伝い、大店の両替商の用心棒をしたり、鍛えた剣の
力を使って、町奉行所の与力の手伝いをしたり、言わば、人格円
満、強剛剣客という、スーパーマンである。瑣事にこだわらず、
春風のような人柄、直心影流の達人で、春風駘蕩は、その剣を日
溜まりに微睡む「居眠り」スタイルの待ちの剣法となる。ここら
あたりからは、剣豪小説と江戸の庶民の哀感を描く庶民小説の風
情が漂う。また、脱藩の元藩士をいまの用語に置き換えるなら、
リストラされた元サラリーマンだろうし、磐音がやっている仕事
の態様をみれば、あきらかにフリーター暮らしだろう。そういう
意味では、リストラされたサラリーマンやフリーターの読者に
は、この人物の明るさ、のどかさは、励みになるかもしれない。

1・XX  米倉斉加年・絵、かの・文「トトとタロー」を読
む。「かの」さんは、米倉斉加年の長女。結婚した娘が、子ども
に読ませたいお話を書いた。おじいちゃんが絵を描き、母親が話
を書き、子どもが読む絵本をができた。この絵本の原画展が、日
本橋の書店のギャラリーで開催していたので、覗きに行き、絵本
を買って来た。米倉斉加年にとっては、「多毛留(たける)」と
いう絵本を刊行してから、27年。久しぶりの描き下ろしの絵本
である。小さな魚の「トト」が、少し大きな魚に「食べられ」な
がら、成長して行き、最後は、とてつもない大きな魚になり、そ
れ以上大きな魚がいないことから、孤独になった。やがて、陸に
近付いた「トト」は、「タロー」という少年に食べてもらい、老
人の人間になった。米倉斉加年の画風は、だいぶ、変わって来た
ようだ。物語の方は、シリアスなテーマを子ども向けに判りやす
く書いている。

1・XX  今期芥川賞と直木賞の発表の翌日、19歳と20歳
という芥川賞史上、最年少のふたりの女性作家の誕生という派手
な朝刊の紙面をよそに、1・16(晴れ)。早めに職場に向かう
が、途中駅でトイレに入りたくなり、駅ビル構内のトイレの隣に
ある書店に立ち寄った。芥川賞と直木賞の受賞作品の初版があっ
た。トイレに行かなければ、そのまま、次の電車に乗り継いだだ
ろう。さらに、駅構内にある書店も覗くと、もうひとつの直木賞
受賞作品も粗飯である。あわせて2軒の書店で、早々と、今期の
直木賞受賞作品2冊、芥川賞受賞作品1冊を初版で購入。もうひ
とつの芥川賞受賞作品は、重版が1册あるのみだったので、購入
せず。このうち、まず、今期直木賞受賞作品の京極夏彦「後巷説
百物語」(03年11月刊)を読む。「巷説百物語」の3部作の
最終巻が直木賞に輝く。「巷説百物語」も「続巷説百物語」も、
読んではいないが、書店の店頭でパラパラ見た限りでは、最終巻
が、作品構成が、さらに、一工夫しているように見受けられた。
1)昔話スタイルを頭に持って来る。2)話の原典らしい古文の
朗読場面がある。朗読は、南町奉行所の元見習い同心で、維新後
の、いまは東京警視庁の一等巡査の矢作剣之進か、北林藩の元江
戸詰め藩士で、いまは貿易会社員の笹村与次郎。ふたりは、旧幕
時代からの知り合いである。一等巡査は、不思議巡査という渾名
があり、怪異な昔話同様の事件を与次郎とともに解決して行く。
3)二人の足を引っ張るのが、元旗本の次男坊で洋行帰りの散切
男・倉田正馬という開化派と北林藩の出で、幼い頃、養子に出さ
れ、山岡鐵舟に剣の手ほどきを受け、維新後は、閑古鳥の鳴く町
道場を開いている渋谷惣兵衛という復古派。4)4人は、必ず、
もめるので、最後の頼みとして登場するのが、薬研堀の九十九庵
の隠居こと、「一白翁(いっぱくおう)」という謎の人物。これ
が、ワンパターンで繰り返されながら、連作されて行く。怪異な
話の体験や文献にも詳しい一白翁、実は山岡百介には、謎の少女
小夜が同居して、仙人のような枯れた老人・一白翁の世話をして
いる。老人話には、「御行(おんぎょう)の又市」とか、「山猫
廻しのおぎん」など妖しい人物が、登場する。「嘘をね、嘘と承
知で信じ込むしか健やかに生きる術はないんだと、又市さんはそ
う言っていましたよ」という一白翁の科白は、又市の哲学であ
り、それに共感する一白翁の哲学であり、ひいては、作者の京極
夏彦の哲学であるようだ。最後は、百物語の構造解明で、大団
円。語りは、騙りという、粘着質の文章で迫る京極と対照的なの
が、詩的な文章で、エッセイ風の短編連作の江國。今期直木賞
は、そういうバランスをとって、選考されたようだ。

1・XX  もうひとつの今期直木賞受賞作品の江國香織「号泣
する準備はできていた」(03年11月刊)読了。一枚のスナッ
プ写真から物語を紡ぐ。そういう感じで、女性の感性の断片を核
にして、フィクションを交えながら味付けをし、詩的な文章で物
語を綴ると「フィクション・エッセイ」ともいうべき、こういう
短編小説ができる。テーマは、恋愛・性愛。30代後半の独身女
性の怖さを描いた作品。こういう女性には、近付きたくない。

1・XX  今期芥川賞受賞作品の金原ひとみ(20歳)「蛇に
ピアス」(04年1月刊)を通勤の車中で、一気に読了。村上龍
の芥川賞受賞作「限り無く透明に近いブルー」に似ている。ピア
スをつけた舌の先に切れ目を入れているのを「スプリットタン」
というらしい。そして、背中に入れた龍と麒麟の刺青。「モダン
プリミティブ」の世界。この仰々しく、派手な小道具で、10代
の若者の不安定な心象風景を映し出す。これは、村上龍のデ
ビュー作品と同じ舞台構成の匂いがする。つまり、舞台回しは、
仰々しいが、文学のテーマとしては、よくあるもの。村上の場
合、テーマは、青春との訣別だったが、金原の場合は、父性的な
ものへの憧れだろう。

主人公の若い女性・ルイ。同棲しているフリーターで、パンクな
アマという年下の男。そして、ルイが、父性を感じる刺青師のシ
バ。この3人を軸に、人間関係の、どこまでも閉じられた世界を
描く。アマによる、喧嘩の果てのヤクザ殺し。やがて、他殺死体
で発見されるアマ。ヤクザの仕返しかと思ったら、どうやら性的
関係にあるシバが、アマを殺していたらしい。舌にあけたピアス
の穴の跡。「水をペットボトルのまま飲むと、舌の穴を水が抜け
ていく。まるで自分の中に川が出来たように、涼やかな水が私と
いう体の下流へと流れ落ちていった」

創作教室に通っていたというが、文章に技巧が感じられる。それ
は、悪いことではない。文章は、全体に生き生きしていて、リズ
ムがあり、もうひとりの芥川賞受賞者の綿矢の文章よりは、才気
は感じられるが、今後、どういう世界を構築し続けて行けるか。
ちょっと、未知数だな。

1・XX  先日、山梨県双葉町のスーパーで買い物をしたが、
スーパー内にある書店では、今期芥川賞受賞作品の綿矢りさ
(19歳)「蹴りたい背中」(03年8月刊)の初版本を見つけ、
2冊購入。これで、今期の芥川賞と直木賞の同時受賞4冊の初版
本を全てそろえることができた。

1歳しか違わない金原が、文章が生き生きしているのに対して、
綿矢の文章は、高校生の世界を書くのに相応しい、いかにも若い
人が書いたというような素朴さ、幼さを持っている。

モデルのオリチャンこと佐々木オリビアに夢中の同級生・にな川
君(にな川の「にな」は、「虫偏の難しい漢字」と作中にある)
への私(長谷川)の恋物語。「にくいあんちくしょう」である。
愛する気持ちが、虐めたいというよりも、「蹴りたい」という気
持ちになって現れて来る思春期の恋愛感情を持て余す。

「シバさんは指を二本入れ、何度かピストンさせるとすぐに引き
抜き、汚い物を触ったように私の大腿に指をなすりつけた。シバ
さんの表情を見て、また濡れていくのが分かった」というのが、
金原。

「自分の生温かい息で湿っていくバスタオルの世界の中で、自分
にだけ見えている毛のはえた股の間」というのが、綿矢。併し、
思春期の恋愛感情という、よくあるテーマのキーワードとなるの
が、「蹴りたい」という語感というは、優れている。物語の構成
の仕方も、素直だが、力量を感じさせる。そういう意味では、綿
矢の方が、作家として長続きしそうな気はする。

今期の芥川賞は、かなり、商業的な話題作りに力を入れているよ
うに見受けられる。史上最年少の女性作家。ふたりともことし成
人式とか。この年で芥川賞作家という重荷を背負うのは、大変だ
ろうが、重圧に負けずに、作家として、成長して、独自の文学世
界を構築してほしい。
- 2004年1月30日(金) 21:44:19
1・XX  伊坂幸太郎「重力ピエロ」は、直木賞候補作だが、
つまらなかった。母親が知らない男にレイプされた。父親は、子
どもを生ませた。主人公の次男が、その子どもで、「春」という
名前だ。兄は、「泉水(いずみ)」。春も、いずみも、英語なら
スプリング。そういう兄妹を軸にした家族の物語。

その春が、自分の本当の父親になる連続レイプ男を探し出し、復
讐を企てる。復讐の方法が、変わっている。名前を変えて隠れ住
んでいるレイプ男に、かつての犯罪を思い出させようと春は、レ
イプのあった現場をの近くに、謎めいた落書きをし、その近くの
建物に放火をする。その現場写真をレイプ男に送りつける。ま
あ、いわば、寓意小説。

ところが、アイデアばかり先行の小説で、人物も筋立ても、リア
リティなし。読んでいて、実際、つまらない。読後も、何も残ら
ない。年末年始と年越しで、読み続けてはみたけれど、何を表現
したいのか判らない。それでも、売れているようだ。この本は。

1・XX  伊坂幸太郎「重力ピエロ」と違って、読後感に爽や
かさが残るのが、石田衣良「電子の星 池袋ウエストゲートパー
ク・」。虐め、放火、通り魔殺人、少年売春、秘密の人体損壊
ショーなど、事件や風俗がちりばめられながら、池袋の街が、生
き生きと描かれていく。少年の頃から池袋を知っている私にも、
リアリティが、ずっしりと受け止められる。

シリーズ第4弾の今回は、池袋西口にある母親の経営する果物屋
の家業を手伝いながら、ボランティアで、人助け稼業をしている
真島誠(マコト)を中心に、ヤクザや警察官も、マコトに「協
力」して、難題を解決して行く。歯切れの良い語り口が、魅力に
なっていて、池袋が、ビビッドに再構成されて行く。本物の池袋
は、少年の頃から私も見て来たが、あか抜けない街だと思ってい
たが、大分、様変わりしているのかも知れない。この一連の作品
は、ストーリー重視の青春小説だが、読後感は、綺麗さっぱり、
ストーリーを忘れさせて、ビビッドな文体感が余韻として、気持
ち良く残っている。

1・XX  横山秀夫「影踏み」は、おもしろかった。やはり、
旬の人の作品は、読みごたえがある。旬をこえるとマンネリ化す
る人がいるから要注意。「影踏み」の「影」とは、なにか。15
年前、空き巣を重ねていた双児の弟が、母の放った火で自宅を焼
かれ、母とともに亡くなった。法曹界を目指していた双児の兄
で、主人公の真壁修一は、以後、自分も忍び込み専門の盗人に
なっている。この兄の内耳には、なぜか、「修兄(しゅうに
い)」と呼び掛ける双児の弟の声が聞こえる。この弟の焼死の原
因を解明するとともに、主人公の犯罪の物語が展開する。

優れたストーリーテーラーであり、地方新聞の元記者、それも、
警察担当が長かったようだ。その警察取材で培った豊富な知識
が、ストーリー展開にリアリティを増す。盗人から見た警察官の
描写などを含めて、警察小説に新境地を開いている。今回の「影
踏み」は、そういう横山秀夫の警察小説の、これまでの集大成の
ような感じがするほど、読みごたえがあった。亡くなった弟の声
が、場面展開で重要な役割を果たすという仕掛けが、作り物なの
に、違和感なく作品に溶け込んでいる。一気に読み込んだ。

- 2004年1月15日(木) 6:29:25
12・31  年賀状を書くのが、大晦日になった。年末年始の
休みに入る前まで、連日の忘年会。送別会。休みに入って、やっ
と、今月の歌舞伎座の昼と夜の劇評を書き終えて、「遠眼鏡戯場
観察」にアップした。その後は、障子の張り替えや夏の甲府から
転勤時に書庫に放り込んでおいた荷物の整理などが、きょうまで
かかった。きのうから、やっと、年賀状を書く時間ができた。き
のうときょうで、まあ、例年来そうなところに年賀状を書くこと
ができた。先ほど、近くの郵便局に出して来た。そして、この
「乱読物狂」の書評も、12月後半部分は、やはり、今年のうち
に入れておきたい。少し駆け足になるが、ざあと見て、アップし
よう。

12・XX  小川洋子「博士の愛した数式」数式も純愛も美し
い、作品も傑作。読みごたえがあった。これは、書評を読むよ
り、本物の作品を読む方が良いので、あまり、紹介しない。

12・XX  石田修大(のぶお)「波郷の肖像」父親で俳人の
石田波郷について、息子の新聞記者が書く。こちらも、ぐいぐ
い、読ませる。日経新聞の元記者で波郷長男の修大が、自分の年
齢と亡くなった父親の年齢を重ねながら、父親の肖像を再構築し
て行く。新聞記者らしい客観的な書き方が、説得力のある文章に
なっている。同じ著者の「父 波郷」という本の続編。いずれ、
こちらも読みたい。

12・XX  白洲正子「西行」は、文庫本で読んだ。西行は、
意外と男性的で、意志の強い人だったのだろう。「ねがわくは花
のしたにて春死なむそのきさらぎの望月の頃」という和歌を書
き、実際に建久元(1190)年2月16日(旧暦)の、釈迦入
滅のころ、まさに、「きさらぎの望月の頃」に死んだ。己の死期
さえ、実現させた人である。後鳥羽院が西行を称して「生得の歌
人」と言ったが、西行は、失恋を契機に、23歳で世を捨て、数
奇という美意識を持って、残りの50年間の己の生涯を貫いた
人。白洲正子は、西行の所縁の地を巡り、男性的な歌人の魅力を
西行の歌そのものにこだわり、女性の眼から描き出したイメージ
で、西行像を再構築して行く。西行の伝記ともならず、所縁の地
の紀行ともならず。そういうつかみどころの無さは、まさに、西
行の魅力なのだろう。数奇とは、厳しく、険しいものだろう。

山梨県には、遠目に見える富士の名所がある。「富士見三景」と
言われているが、そのなかに、西行所縁の峠も含まれる。

風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思いかな

12・XX  高島哲夫「ダーティ・ユー」は、少年小説。日本
の教育現場の「いじめ」の状況をアメリカで育ち、日本の中学校
に転入して来た少年の眼で告発して行く。その過程で、有人にな
り、いじめにあっていた少年が、飛び下り自殺をしてしまう。少
年たちは、自衛するしかない。

12・XX  伊坂幸太郎「アヒルと鴨のコインロッカー」を読
む。この著者は、初めて。2年前に事件があった。ペット殺し
が、盛んに行われていた。その犯人たち(男2人、女1人)の密
談を、たまたま、聞いてしまったことから男女が事件に巻き込ま
れる。2年前の物語と、そこから生き残ったブータン人のドルジ
(2年前、留学生のドルジは、片言の日本語しかはなせなかった
が、いまは、日本語も流暢になり、外見も日本人そっくりで、エ
イズで亡くなった日本語教師になりすましている)が、「河崎」
として、主人公の住むアパートの隣人として現れる。主人公とそ
の「河崎」という、偽の日本人との交流という、現在の物語が、
2年前の物語と平行して語られて行く。ふたつの物語は、進行す
るに連れて、主人公が、2年前の物語の結末に向かって巻き込ま
れて行く。それとともに、2年前の物語の全貌が、読者の前に明
らかにされて行く。

ペット殺しの3人の男女とそれを告発し、事故死する女性と本物
の「河崎」、その後の恋人で、偽の「河崎」になりすましている
ドルジの物語。ドルジは、逃亡しようとするペット殺しの男女の
乗った車の前に立ちはだかり、車にはねられて、死亡した琴美の
仇を取るため、ペット殺しの生き残りの1人がいる本屋を襲う。
主人公は、訳の判らないまま、偽の「河崎」とともに、本屋を襲
い、辞書を奪う。

ジグソーパズルのピースのように、断片が、語られ、積み重ねら
れ、いつか、細い流れが、本流になるように、大団円を迎える。
一応、ミステリー仕立てなので、これ以上、詳細なストーリーの
紹介は避けるが、多くの国民が、反対しているイラク戦争への参
加を国民に人気のあるという首相の「政治判断」で、参加してし
まう国。憲法を「改正」しないまま、なし崩しに、踏みにじる国
家。そういう戦後日本の分岐点が、いとも易々と越えられてゆく
というフィクションが、少しも、フィクションでは、なくなって
行く現実を前にすると、伊坂の「アヒルと鴨のコインロッカー」
という寓話は、突然、寓話ではなくなる。なんとも、平穏であり
ながら、無気味な同時代に通底する奇妙さを、この作品は、持っ
ていると思う。そういう意味では、寓話をかたりながら、同時代
の裏に潜む無気味さを感じさせる作品だと思う。

12・XX  宮部みゆき「誰か」は、自転車による轢き逃げと
いう事件から、ひとりの運転手の人生の秘密が、解き明かされて
行く。売れっ子、ストーリー・テーラーの2年ぶりの書き下ろし
ということで、買わないつもりでいたのだが、結局、場末の書店
で買い求め、読んでしまった。

12・XX  町田康「権現の踊子」は、川端賞受賞作で、都心
の大型書店で、署名本を見つけたので、買い求めて、読んでし
まった。この人の作品は、余り、読まないが、文体といい、構築
された作品の世界といい、ユニークで、ほとんど身辺雑記を、
シュールに描いて行く。田中小実昌や椎名誠が、構築した世界に
似ているような気がした。

12・XX  アンフォルス・井上「銅版画集/ベル・フィー
ユ」特装本が、版元から届いた。オリジナル銅版画2葉付き、限
定版。もちろん、署名入り。単行本などの挿し絵56点、蔵書票
85点(作っていただいた私の蔵書票も1点入っている)。官能
的で、繊細で、それでいて、男性的な、がっちりした世界を持っ
ている。堪能した。

12・XX  安野光雅「青春の文語体」は、いまも愛読される
文語体の作品は、作家たちが、二十歳代で書いたものが多い。安
野は、そういう視点で文語体の作品を再編集し、再朗読し(文語
体で書かれた作品は、声を出して読むと気持ちが良い)、こうい
う本を作った。森鴎外訳「即興詩人」が、著者の最大のお勧め。
以下、島崎藤村、北原白秋、石川啄木、萩原朔太郎、樋口一葉、
与謝野晶子、中江兆民、高山樗牛、新井白石、杉田玄白、久米邦
武(「米欧回覧実記」)、鈴木牧之(「北越雪譜」)、橘南谿
(東西遊記」)、永井荷風、吉田満らの文章が、引用されてい
る。

引用されている文章は、いずれも抄録なので、是非とも、それぞ
れの本を求めて、全文を読んでほしい、というのが著者からの
メッセージ。それも、かなわぬなら、「これを機会にただ一冊
『即興詩人』に手をつけてもらうだけで本望なのである」とい
う、青春よ、文語文よ。もう、戻らないのか。「文語文への挽
歌」が、本書なのだ。

私は、機会を作って、中江兆民の「一年有半」「続一年有半」と
永井荷風「断腸亭日乗」をきちんと読んでみたいと思った。中江
の本は、喉頭癌で余命、「一年半」と告げられ、死の恐怖と併行
しながら、後世への遺言として幸徳秋水に書き残させたもの。と
ころが、余命が1年半以上に伸びたので、「続一年有半」も、書
き上げた。私たちは、こういう状況に置かれたとき、こういうも
のを書き残せるだろうか。また、永井荷風の「断腸亭日乗」は、
老後の世間との対し方を学べそうな気がする。迫りくる老後の時
間を先人たちは、どう過ごしたか。そういう視点で読んでみた
い。

12・XX  重松清「愛妻日記」は、夫婦の性愛をテーマにし
たポルノ小説。やっと、購入した新築マンションの室内が、ポル
ノビデオの撮影現場に似ている。売れ残ったマンションは、家具
付きのお買得品だが、どうも、撮影現場に使われていたらしい。
その謎を解き明かそうと、そのビデオを観ているうちに、ビデオ
通りの世界を再現する若夫婦の話など6編の作品を集めた短編
集。いま、油の乗り切った作家が描く、というのだけが、ミソと
いう作品集。

12・XX  丸尾末広「改訂版/少女椿」。漫画だが、作品に
一部加筆した改訂版というのが、ミソ。旅芸人のグループに入れ
られた少女の物語。丸尾ワールド再構築に魅力。

12・31  再び、31日。今回の書き込みの冒頭で書いたよ
うに、せわしない年の瀬の日々を過ごしたお陰で、まあ、年内に
やるべきことは、殆ど終った。これから、新宿のホテルに出かけ
る。身内の引っ越し対応で、広島から出て来てくれた義理の妹夫
婦らと夕食を取るためだ。いま読んでいる本は、伊坂幸太郎の
「重力ピエロ」だが、読み終わるのは、新年になってからだ。ま
あ、皆さん、良い年を迎えて下さい。
- 2003年12月31日(水) 17:44:57
12・XX  「小説とは、なにか」を感じさせる小説を続けて
読んだ。いずれも、山本一力の作品。ひとつは、「草笛の音次
郎」。これは、股旅物の青年成長の物語。貸元の名代(みょうだ
い)として、江戸から行徳、成田、佐原へ代参の旅に出た青年博
徒が一人前の男になって行く。細部の描写に山本らしさがある
が、話は、総じて陳腐。

続いて読んだ「ワシントンハイツの旋風(かぜ)」は、自伝的小
説。「ワシントンハイツ」は、いまの東京の代々木公園のあるあ
たりに、1960年代までは、米軍専用の住宅街があった。幼い
頃、父が家出をして、行方不明。その後、母子家庭で育つ。高知
の中学生時代に母と妹が、東京に出る。主人公だけ、高知に残
り、知り合い宅に居候するが、やがて、上京。母と妹が賄いで住
み込む新聞店に同居、ワシントンハイツやその周辺で、新聞配達
をしながら、中学、高校を卒業、旅行代理店に就職、その後、さ
まざまな職業を経て、直木賞受賞の時代小説作家になる。そうい
う山本の人生を小説にした。山本、唯一の現代小説というのが、
出版社側の「売り」のようだ。しかし、文章に品格がない。ス
トーリーも、自慢話に終始している。この著者は、なにか、勘違
いしていないか。時代小説、現代小説を含めて、大衆小説の有り
様を誤解していないか。大衆小説は、物語の楽しさを感じさせる
ものであるべきだが、陳腐なストーリーや己の自慢話で構成すべ
きものではないだろう。最低限、文章には、品格がなければなら
ない。これは、大衆小説、純文学(もう、「死語」かもしれない
が)の区別になく、文学作品であれば、必須の要素だと思う。エ
ンターテインメント作品とは、いえども、やはり、文章で読ませ
てほしい。

12・XX  日本ペンクラブ、電子文藝館の白井喬二「大盗マ
ノレスク」読了。「大衆文学」の名付け親は、宝石泥棒の話を格
調高い文体で大衆文学作品を1947年に書いている。海軍兵学
校の模範生が、後に宝石泥棒になり、世界を股にかける。その
男・マノレスクは、美男を武器に女性を誑し込み、その家にある
宝石を摺り替える。マノレスクが、遂に、日本にも潜入し、良家
の娘・八千代を誑し込み、その家の、「七十カラットの宝石」な
ど多数の宝石を摺り替えるが、恋に燃える娘の澄んだ瞳は、ごま
かせない。悪事露見となる。悪びれずに、盗み取った宝石を差し
出すマノレスクは、「雄鶏が胸毛をふくらまして羽叩する時のよ
うな恰好」で身体を震わせ、「二十個あまりの宝石を次々と出
す」。白井の文体は、全編を通じて、格調高く、通俗的な大衆小
説も、宝石のようにきらりと読ませる。山本の下品な文体とは、
大違いだ。文章の品格は、文学のジャンルを問わず、最低限必要
なことだと思う。

12・XX  次は、「中年とは、なにか」というテーマ。人生
の秋を迎えた世代には、先に見えるのは、老と死しかないのか。
後に見えるのは、幼少年期の想い出ばかりか。いや、いまを生き
る現在がある。その生は、未来と過去に挟まれて、なにか、生き
いそいでいるのではないか。

人生の断片を切り取って、短編小説に仕立てる作家で巧いのは、
志水辰夫、内海隆一郎あたりか。その志水の短編集。テーマは、
ずばり、「生きいそぎ」。「生きいそぎ」というのは、短編集の
総タイトルで、別のタイトルを付けられた8つの短編小説が並ぶ。
「人形の家」「五十回忌」「こういう話」「うつせみなれば」
「燐火」「逃げ水」「曼珠沙華」「赤い記憶」。

例えば、「人形の家」は、20年前に男を作って家出をした妻の
呪縛に晒されて、結婚もできずに定年を迎えた男。その男に好意
を寄せる職場の後輩の女性とともに、東京・多摩の山奥に行く。
上の杉山、通称「お籠り山」。今熊山、通称「呼ばわり山」。通
称の秘密を解き明かそうと出かけたことから、失踪した妻の形見
の人形を見つけるという話。「五十回忌」は、49年前、落雷で
亡くなった姉の五十回忌の法要で、姉の死に様を思い出す弟と
妹。

「こういう話」は、公職選挙法違反で逃げている元社長が、女房
に裏切られ、社長を解任される。会社から離れ、「糸の切れた凧
になってしまった」で、終る。「うつせみなれば」は、中年で別
れた元夫婦が、娘たちの策略で、二泊三日の北海道旅行の旅先
で、久しぶりに再会させられる。そのまま、旅行を続けるが、そ
の途次、若き日の二人が結婚に至るために夫が仕掛けた策略が、
思い出されるという話。「燐火」は、狐火と老婆。「逃げ水」
は、離島の野生化した山羊と島に住む人たちのアナロジー。「曼
珠沙華」は、亡くなった母親に隠し子がいた。「赤い記憶」は、
惚け始めて、徘徊し、放火する父親。それぞれ、中年期以降に隠
し絵のように浮かび上がって来た人生の負い目をクローズアップ
させる。

12・XX  大江健三郎「二百年の子供」は、「夢を見る人」
という、タイムマシーンを利用して過去と未来を訪れる「三人
組」の兄弟妹の物語。二百年というタイトルには、現在から百年
前、百年後という意味が含まれている。いまは、過去の歴史の上
にあり、未来の歴史を作る。そういう時空認識のもと、大江は、
いまを生きることの大切さ、いまと真剣に向き合うことの大切さ
を訴えようとしている。例えば、イラク戦争に反対すること。そ
ういうメッセージが伝わって来る。タイムマシーンは、「童子伝
説」を元に、谷間の村にある森の家の近くのシイの老木の「う
ろ」で眠る「三人組」の子供たちが、おばあちゃんが描き残した
絵を見ながら、その絵のなかへ入り込むようにして、全員が、手
を繋ぎ、共通して見る夢の形で現れる。それは、120年前、元
治元年、よその村から「逃散」してきた人たち、特に子供たち、
そのうちの一人、「メイスケさん」との出合を生む。異界から来
た人「童子」という伝説の観念は、時空を超えた子供たちの出合
を自然なものにしてしまう。子供たちは、時空も自由に飛び回る
人たちなのだ。103年前のアメリカにおばあちゃんの知り合い
を訪ねに行く。いずれも、おばあちゃんが残した絵の世界に入り
込んで行く。子供たちは、おばあちゃんの想い出を共通して夢に
見ているだけかも知れない。中学校に展示された未来の谷間の村
の絵を見て、80年後の、村の未来に訪ねて行く。「1864−
2064」の時空を飛び回る子供たちは、「二百年の子供」とい
うわけだ。そして、子供たちは、夢から醒め、シイの老木の「う
ろ」で寝ていたことを知る。それは、「予見」する心。そういう
柔軟な心を持っているのは、子供たちだけだ、というメッセージ
が著者から伝わって来る。

- 2003年12月17日(水) 20:34:35
11・XX  南北に長い日本列島で、沿岸航路が主体だった江
戸時代の運送業は、船の遭難、漂流を生んだ。吉村昭「漂流記の
魅力」は、そういう事故の体験者による漂流記に注目した作家の
自己の関心の所在と新たな漂流記をまとめたものである。日本の
文学には、海洋文学がないという通説に対して、著者は、漂流記
こそ、日本独特の海洋文学だと主張する。寛政5(1793)年
の、若宮丸を例に取り、漂流記の魅力を説得力のある文章でまと
めあげている。「漂流」、「アメリカ彦蔵」、「大黒屋光太夫」
など漂流記を小説で書いて来た著者は、今回、新書判のエッセ
イ・スタイルで、新たな漂流記を書いた。

11・XX  黒田杏子「布の歳事記」、「季語の記憶」、「花
天月地」を続けて拝読。杏子と書いて「ももこ」と読む。いずれ
も、季語と吟行、俳人たちとの交流の思い出などが、書き込まれ
ている。「季語の記憶」は、新聞連載中のもので、「花天月地」
と新たに刊行された「季語の記憶」とに大部分重複されて掲載さ
れている。「花天月地」は、「黒田杏子歳事記」という副題がつ
いている。「花天月地」では、「障子の穴」という短いエッセイ
に引用された句が印象に残る。

うつくしやせうじの穴の天の川  一茶

障子しめて四方の紅葉を感じをり  星野立子

鼻高きヘルンを思ふ障子かな  阿波野青畝

星野は、高浜虚子の娘である。障子という「結界」が、凸レンズ
のようになって、内と外を逆転させる。一茶の句は、まさに遠眼
鏡のレンズを通して、天の川を望んだように、障子の穴が外の世
界を拡大して見せている。方丈の狭い部屋のなかから、広大無辺
の宇宙を見通し、それが美しいと叫んでいる一茶の思いが、率直
に伝わって来る。星野の句は、障子を開け放てば、庭の木々の紅
葉が見えるだろうが、障子を閉め切ったことにより、ぼうっと赤
く、明るく照り映える紅葉を想像している様が見える。庭の向う
にあるかも知れない山々の紅葉まで見えて来る。障子が、いわ
ば、スクリーンの役割を果たしている。それは、一茶が天の川の
果てに宇宙を見ているように星野は、天地の紅葉を全て見てい
る。阿波野の句は、誰もいない、もちろん、ラフカディオ・ハー
ン(ヘルン)こと小泉八雲もいない、八雲の旧居で、時空を超え
て、障子が八雲の像を映し出している様子が良く判る。一茶や星
野の句が、一枚の障子により無限の空間を呼び覚ましているよう
に、阿波野の句は、過ぎ去った時間、失われた時間を取り戻すよ
うに想像力が働いているのが、判る。

歳時記を読むと、季語の解説が出て来る。著者は、季語の解説に
飽き足らず、季語の現場に足を運ぶことを自らに課した。大学を
卒業して、広告会社に入り、10年ほど、俳句から遠ざかってい
た著者は、30歳を過ぎて再び、俳句の世界に戻った。子どもの
頃、母親から俳句を学び、大学では、山口青邨の句会に参加し
た。それ以来、定年まで広告会社に勤めるかたわら、俳句を学ん
で行った。会社員と俳人の二足の草鞋を履き続けた。定年後は、
俳句の草鞋一筋で、日本列島、中国、イタリアなどを吟行巡礼し
て来た。それらは、「日本列島桜花巡礼」、「広重江戸百景吟
行」、「西国三十三観音巡礼」、「四国遍路吟行」、「坂東吟
行」、「俳句列島日本すみずみ吟遊」などという形で実を結ん
だ。精力的に各地を吟行して廻る著者の行動力は、凄い。その行
脚の足取りを季語とからめて、書き続けて行く。「季語の記憶」
は、そういう本だ。この季語巡礼は、いまも、新聞に連載されて
いる。私のように、仕事の傍ら、早起きをして、早朝の時間をも
の書きにあてている人間から見れば、二足の草鞋の履き方のモデ
ルとなる。そういう意味でも、黒田杏子の本は、いずれも、興味
深く拝読した。「布の歳時記」も、同じような内容、構成で、季
語を「布」に特化してまとめているところが、ミソだ。

11・XX  長谷川櫂「虚空」は、俳句の師匠・飴山實、祖
母、実父、義父など身近な人たちを次々と亡くした心境を「虚
空」と表現した俳人の句集だ。「天体もまた生命も虚空に遊ぶ塵
に等しい」と著者は、あとがきに書いた、この句集で、読売文学
賞を受賞している。

「獅子身中に無謀の虫あり。時折、目覚めては、惑乱を来す」と
いう前書きのある句。

職捨ててすつきりしたる団扇かな

このほか、同類の句が続く。

何もせぬことの楽しき団扇かな

人の世の見るべきは見つ籠枕

雲の峰真向かひにして朝餉かな

水かぶりては原稿に対ひけり

いまも、50前という年齢で自由を獲得した俳人の生活をうらや
ましく思う。その一方で、00年から02年にかけての、身近な
人たちの死を詠んだ句も印象に残る。

きさらぎの望月のころ實の忌

春空を飛び交ふ塵となられけん

銀懐炉まだなきがらの懐に

ずぶぬれの大葉桜があるばかり

夏草や死はことごとく奪ひ去る

ありし人そこにあらざる籠枕

いずれも、著者の親しい人たちの死に際して詠まれた句である。
そういう後に見つけた句が、生命感を躍動させる。風は、命だ。

木の陰に涼しく風の湧くところ

11・XX  丸谷才一の筆は、冴えている。「絵具屋の女房」
を読む。例えば、「吉良上野介と高師直」。高家とは、江戸幕府
と朝廷の間に立ち、朝廷の礼儀、幕府の礼法を司り、ひいては、
幕府と朝廷の間の、いわば「外交」を司った世襲の家柄で、吉良
家と大沢家があったという。いずれも、今川家系統の家である。
やがて、幕府の仕組みが複雑になるに連れて、礼法指南の家柄
は、この二家のほかに、今川、品川、上杉、戸田が加わり、六家
となり、最後には、二十六家にも膨れ上がったという。今川家の
末か、織田家の後が、多いという。そのなかに、新田家の流れ
で、由良家がある。そこから、著者の発想は、仮名手本忠臣蔵の
大星由良之助の「由良」の由来探索に転じる。

1)紀州の歌枕の由良。2)霊魂の「たまゆら」の「ゆら」。
3)武勇の、例えば、百合若大臣の「ゆり」から「ゆら」へ。
4)地震の揺れる「ゆれ」「ゆら」れ。そして、5)先に触れ
た、高家の新田系の由良家。大星由良之助という役名は、重層的
な仕掛けがあるという。そして、「仮名手本忠臣蔵」と「太平
記」の関係へと著者の筆は進む。

このほか、児雷也と蝦蟇を論じた「猪鹿蝶」、「木下藤吉郎とポ
ルターガイスト」、「剣豪譚」、「徳富蘇峰論」、「養子の研
究」など、タイトルだけでも、そそられるエッセイが目白押し。
こちらの関心の持ちようで、拡がる読み方ができるのが、丸谷作
品の妙。

11・XX  保坂和志「書きあぐねている人のための小説入
門」は、別に、私が小説を書きあぐねている訳ではないが、この
著者の本は、最近、割と読んでいるので、その勢いに乗って、読
んだ。特に、参考になることが書いてある訳でもない。エンター
テインメント系ではない、小説書きなら当たり前のことを書いて
いる。

11・XX  車谷長吉「忌中」は、変死、横死、一家心中、夫
婦心中など、奇矯な死が、相次いで語られる。無差別大量殺人
の、サリン事件を引き起こしたオウム真理教の教祖らや山口県光
市の母子殺害屍姦事件を起こした18歳の少年など凶悪な殺人犯
への死刑実行を望む著者には、青年のころ知り合いの女性を強殺
されたという苦い経験があった。古墳の多い兵庫県姫路市の飾
磨。瀬戸内海の家島(えじま)群島を望む著者の故郷。中学、高
校時代に古墳に関心を持つようになった著者は、同じ関心を持つ
同級生の美少女と古墳で偶然出逢い仲良しになった。その彼女
が、ある日、行方不明になり、4ヶ月後、遺体で見つかった。窃
盗容疑で調べを受けていた24歳の無職の男が、強姦殺人を自供
したのだ。著者の青春の思いでは、好きになった女子高校生が、
強殺されたという記憶とともにあり、久しぶりに帰郷した著者に
39年ぶりの慰霊を思いつかせる。それは、想い出の古墳で、実
名を折り込んだ祝詞を読み上げるという行為だった。

そのほか、作家修行中に知り合った美しきブルジョア女性が、著
者とは別の男と結婚したことから、その女性の名前を付けた人形
を溺愛するという著者と等身大の登場人物の物語『神の花嫁』。
家島群島で代用教員をし、海峡を泳ぎ渡り、挙げ句の果てに自殺
した著者の叔父の話『鹽壼の匙』の後日談である『「鹽壼の匙」
補遺』。一家心中の軌跡を克明に描いた『三笠山』。『飾磨』
は、義兄と不倫する女が主人公。この女には、工場の事故で、手
足を失い、自殺した夫がいる。表題作の『忌中』は、病気の妻を
殺し、あちこちに借金をして、ヘルシーランドのマッサージの女
性に貢ぎ、その果てに自殺をした老人の話。この男は、

「警察の方へ。
奥の茶箱の中に妻の死体があります。私の死体ともども、よろし
く処分をお願いします。私には、借金があります」と便箋に書
き、その便箋の裏には、周りに黒枠を付けた「忌中」という文字
が書いてあった。この便箋は、「忌中」の方を表にして、玄関に
張り出してあった。

いずれも、死を巡る人たちの生きざまと死にざまを描いた6作
品。どこまでが、フィクションで、どこまでが、ノンフィクショ
ンか、判らないような書き方で、リアリティを増す。歌舞伎の心
中物や殺し場、濡れ場、近松、南北、黙阿弥の世界を見るような
作品が続く。

11・XX  種村季弘「澁澤さん家で午後五時にお茶を」は、
著者が愛して止まない澁澤龍彦について書いた短文、雑文、対談
など、虚空に浮かぶ塵のようなものを集め、ジクソーパズルのよ
うに再構成すると、ひとつの本ができ上がるという、マジックの
ような本だ。
- 2003年11月28日(金) 6:24:34
10・XX  父親が、死んだ。市井の無名の父親。何処にでも
いる。誰にもいる。そういう父親の死の前後の姿を描く。沢木耕
太郎「無名」を読んだ。読みながら、18年前に死んだ自分の父
親のことを思い出した。一日「一合の酒と一冊の本」があれば、
それが最高の贅沢。夏の終わりに脳の出血で入院し、意識が混濁
し、肺炎を併発し、11月に亡くなったと言う沢木の父。そうい
う父親の最後の姿を見ながら、息子は、幼児のころの、若い父を
思い出し、青年の頃の、ほとんど口をきかなかった時期の父の思
いだし、晩年のころの父を思い出す。

特に、死に目に会えずに電車を乗り継ぎ、父親の亡くなった病院
まで行く場面は、病院に付き添っていて、一旦、家に帰り、再
び、呼び出され、駅まで自転車に乗りながら、「父親の死に目に
会いに行く」という思いを抱いた18年前の夏の日を思い出し
た。私の父親は、真夏に亡くなり、幸い、私は、父親の死に目に
は、間に合ったが、それを除けば、沢木の思いは、私の思いとも
重なって来るように思える。それは、同じように市井の人だった
私の父の想い出にも繋がり、また、いまの私と青年になった私の
息子との関係を思わせる。私が味わい、何時の日か、私の息子も
味わうであろう、人間の連綿と続く父と子の思い。沢木親子の物
語は、そういう普遍性、永遠性を感じさせる。
「K.SAWAKI」という署名の入った私の持つ「無名」に
は、「一合の酒 一冊の本」という識語が書かれている。

10・XX  黒田杏子「季語の記憶」。沢木耕太郎の「無名」
で描かれた沢木の父親は、俳句を作った。死後、沢木は、父親の
残した俳句を一冊の本にまとめ、自費出版する。決して巧みな俳
句とは、思われないが、俳句に詠まれた父の息子への思いと成人
した普通の親子程度の疎遠さのなかで、死後、濃密に思い出した
子の父への思いが、交錯する物語の叙述に俳句が、大きな役回り
を果たしている。そういう思いから、最近買い求めてあった黒田
杏子「季語の記憶」を続いて読む気になった。俳句の季語は、そ
れ以前の長い短歌の歴史を背負っている。短歌で使われた季節の
言葉が、より、余韻を表現する俳句の季語として、蓄積されてい
る。季語とは、一種の、様式美を示す言葉か。だとすれば、季語
は、歌舞伎の世界に近付く。代々の役者衆が、俳号を持っている
意味が、俄に、判る。おもしろい世界だ。ただし、黒田杏子の
「季語の季節」は、もともと読売新聞連載の文章だが、その大部
分は、2年半前に刊行された同じ著者の「花天月地」に、すでに
収録されている。今月刊行の「季語の季節」のあとがきにでも、
その旨を書くべきだろう。


10・XX  黒田杏子句集「一木一草」は、「季語の記憶」に
触発されて読み始めた。大分前野買い求めていたが、積読(つん
どく)状態であった。黒田の第三句集で、俳人協会賞受賞作。有
季定型の句だが、83年から93年の11年間に詠んだ2500
句から、500句を掲載している。秋から夏まで。

盆の月甲斐は山國雲の國

柿干してなんにも欲しくなくなりぬ  

雪解瀧沈めてに女身立上がり

などの句が印象に残った。

10・XX  逢坂剛「幻のマドリード通信」。スペインを舞台
に歴史の裏側にイマジネーションを働かせて、隙間を埋めるよう
な短編小説4作品を紡ぎだした。16年前に刊行された短編集を
加筆修正して、再刊行したもの。ミステリーゆえに、詳細なス
トーリー紹介は避けるが、最近の長篇ものより、ゴツゴツとした
文体である。

10・XX  歌舞伎の舞台を見ていると、橋の袂の場面など
で、立て札があり、「○○山御開帳」などという、今なら、広告
板に匹敵する大道具を見かけることがある。玄侑宗久「御開帳綺
譚」は、まさに、そういう御開帳ものの話。21年ぶりに御開帳
となる薬師如来は、薬師堂の隣家の火災の際、如来を持ち出そう
とした隣家の娘が、落としてしまい、指を欠いてしまった。それ
を表沙汰にしないために、薬師如来が摺り替えられていた。薬師
如来の摺り替え劇にまつわる男女と摺り替えの跡始末に関わるこ
とになった僧侶(作者の等身大のようだ)が主要な登場人物。人
間の記憶の曖昧さ。人は、貯木場で材木を漁り、自分の都合の良
い材木を選んで家を建てるように、自分の都合の良い記憶を漁
り、物語を変容させて行く。同じ記憶に基づいているはずなの
に、人間は、それぞれ似てはいるが、別の建物を建てるように自
分の物語を再構成させているのではないか。併載の「ピュアス
キャット」は、人工透析、人工血管を持つ腎臓病の妻と夫の愛の
物語。


10・XX  気侭な旅行をし、それを文章にして、雑誌に連載
する。やがて、それが本になる。池内紀「マドンナの引っ越し」
は、東ヨーロッパの各地を旅をしてまわった池内の、そういう
本。複数の民族が住み、それゆえに、複数の文化が、共存してい
る東ヨーロッパ。さらに、イタリア、台湾と旅行先は、拡がる。
回り道、滞在延期は、ざら。それを仕事にして、原稿料、印税を
稼いでしまうところが凄い。旅の達人は、人生の達人でもある。

10・XX  俳句には、季語があるが、季語には、和歌、短歌
の長い歴史が培って来た本歌取りという、共通のイメージ、つま
り「約束事」が込められている。従って、季語は、歌舞伎の様式
美のように、約束事の共通のイメージがあると言える。仁平勝
「俳句をつくろう」は、俳句初心者のための、ガイドブック。有
季定型の五七五は、「俳句的な場面」を切り取ることが必要で、
映画で言えば、細部にこだわるカットを撮るようなもの、季語は
のなかには、和歌のエキスがつまっている、写生と取り合わせ
(ふたつのものをあわせることで、ワンパターンの美学を壊
す)、省略とデフォルメなど、仁平は、触れていないが、歌舞伎
の演出に通じる、俳句づくりの特徴が、説明されていて、興味深
く読んだ。そう言えば、代々の歌舞伎役者は、役者名のほかに俳
号を持っていて、大名題になると、俳号を弟子や子の役者名とし
て、譲ったりしているが、歌舞伎と俳句のかかわりも、もっと、
分析した方が良さそうだ。

10・XX  アルンダティ・ロイ「帝国を壊すために−−戦争
と正義をめぐるエッセイ−−」は、アメリカがしでかしているア
フガンやイラクでの戦争状態の持つ「男的な状況」をインドの女
性作家が、批判する。アメリカの論理は、男の論理だということ
を鋭く見抜き、冷静で、説得力のある文章で、告発して行く。
2001年9月11日以降、アメリカによる暴力と偽善が、世界
を覆い尽しているとロイは、主張する。「帝国」対個人の戦い
は、個人の多数の輪が、「帝国」を包囲することで、将来への活
路を見い出そうと提言する。
- 2003年11月4日(火) 7:08:13
10・XX  折原一「沈黙の教室」は、20年前の中学校の教
室と同窓生たちが、同窓会を開こうとしている現在の物語が、並
行して描かれる。中学校の教室は、「粛清」の名の元に苛めが進
行していて、沈黙が深まる奇妙な教室。転勤で、新しくその教室
の担任になった先生と生徒たち。苛めの進行に合わせて発行され
る「恐怖新聞」。同窓生の有志が、同窓会の開催を新聞に告知し
た後、それを読み、かって虐められたことを恨みに思う人物が、
同窓会の開催に合わせて集まるであろう同窓生を大量殺人を計画
する。日本推理作家協会賞長篇賞受賞作品というが、構成に無理
があると思う。しかし、ミステリーなので、ストーリーの紹介な
ど、あまり、できない。ホラー気味のミステリーで、かって流
行った「学校の怪談」の一種。

10・XX  デイヴィッド・ピース「1974 ジョーカー」
と「1977 リッパー」読了。ヨークシャー4部作の1部と2
部。イギリスのヨークシャーで少女が殺された。この事件を追う
新聞記者が、謎の男に暴行される。善が悪に凌駕される時代。殺
人事件を通じて時代の暗部がえぐり出されて行く作品が
「1974 ジョーカー」。次いで、3年後、同じヨークシャー
で今度は、売春婦殺しが、相次いで起こる。売春婦の愛人を持つ
刑事が、独自の捜査を始める。時代は、どこまでも狂気のなかを
疾走する。「1977 リッパー」は、「1974 ジョー
カー」の登場人物たちの、その後を描きながら、時代の真相に
迫って行く。

10・XX  松本健一「秩父コミューン伝説」は、明治国家を
震撼させた秩父困民党の歴史を発掘する。秩父の農民にとって、
秩父困民党の事件とは、何であったのか。埼玉県出身の松本健一
の事件へのこだわりは、地域へのこだわりであり、地域の歴史へ
のこだわりである。結局、秩父事件は、谷あいの集落に押し込め
られ、事件に関わった人たちは、獄死したり、北海道へ逃げおお
せたりしたが、明治国家は、秩父困民党が、求めた「世均し」と
いう理想を粉砕して、敗戦に通じ、現代に通じる近代化の道を歩
んだ。近代化の陰で、出現し、暗い山影に消えた人たちを松本
は、追い掛ける。これもまた、暗黒年代記(ノワ−ル)である。

10・XX  吉田修一「日曜日たち」は、独立した短編小説と
して、東京で一人暮らしをする男女の、それぞれの生活を描きな
がら、家出した母を探す幼い兄弟の姿が、各作品に点描される。
そういう形での長編小説。そして、いずれも、日曜日の物語。マ
ンションのエレベーターを巧みにテーマにした「日曜日のエレ
ベーター」など、奇妙な味わいを読後感に残す。

10・XX  奥田英朗「東京物語」は、1970年代から80
年代の地方と東京で過ごした作者の自伝的青春小説。吉田修一
「日曜日たち」が、作者の現代の東京生活を投影しながら、幼児
体験を根底に描くという作品なら、奥田英朗「東京物語」は、
20年前から10年前の東京生活を描いて行く。地方での受験生
活、東京での予備校と大学での生活、父親の会社の倒産で、大学
を辞めて、コピーライターとして働き始めた生活。地方出身者か
ら見た東京生活が、奥田の作家以前の物語として語られる。  

10・XX  高橋克彦「幻日」は、作家以前の高橋の自伝的小
説。地方の医者の息子で、医学部への進学を夢見て、3年間の浪
人生活、挙げ句に、私立大学の文科系に進学。卒業後も、定職に
つかず、浮世絵研究家を志し、さらに、作家を志し、江戸川乱歩
賞受賞作家になるまでのモラトリアム生活が描かれる。先の奥田
英朗「東京物語」と通底する作品世界の構築。吉田修一「日曜日
たち」も、視野に入れると、若者たちの世界を自分の青春期とダ
ブらせながら、考えることができる。

10・XX  早瀬詠一郎「絵島團十郎」は、江戸の芝居小屋を
「江戸四座(よざ)」から「江戸三座」へと変えるきっかけと
なった山村座閉座を引き起こした通常の「絵島生島事件」の物語
では無く、絵島と生島新五郎の間に、三味線方の御家人・松島右
京こと小嶋多聞という架空の人物を想定することで、この事件の
奥の深さを浮き彫りにした時代小説。江戸の歌舞伎小屋の舞台裏
が、生き生きと描かれている。新内語りの「岡本紋弥」という名
前も持つ早瀬詠一郎は、そういう素養に裏打ちされた余裕のある
筆致で、最後に、江戸の團十郎を浮き彫りにして行く。信州の高
遠に流され、老年まで不自由な幽閉生活ながら、天寿をまっとう
した奥女中・絵島。先に、高遠の絵島屋敷(復元)を見て来た私
には、罠にはめられた絵島の姿が、作品のなかから、浮かび上
がって見えて来る。フィクションながら、歌舞伎好きには、見逃
せない一冊。
- 2003年10月20日(月) 7:00:49
9・XX  中井拓志「アリス」は、脳科学の知識をベースにし
たホラー小説。「サヴァン能力」、「右半球の才能」、あるい
は、「才能の孤島」と呼ばれる脳の障害に拠る超能力で、周りの
人たちに中枢神経系の障害を起こし、死亡させるという話。

9・XX  日本ペンクラブの電子文藝館委員会の仕事をしてい
る。といっても、ボランティア。以前は、この「乱読物狂」に
も、いちいち書評を掲載した時期もあったが、いまは、省略して
いる。

最近読んだもので、印象に残ったので、書き留めた。

北原白秋の詩「野茨に鳩」(大正7年、小田原お花畑にての暮春
吟)から。

「日は暮れた、昔は遠い、
世も末だ、傾ぶきかけた、よ」
という一節が、心に残った。白秋の表現に「傾ぶき」とあるから
だ。これは、「かたぶき」なのだろうな。「かぶき」とは、読ま
ないのだろうな。

9・XX  松本健一「どぐら綺譚」にも、中里介山の「大菩薩
峠」の一節として、「世は末になった、近いうちに世界の立直し
がある、踊るなら今のうち」という幕末の大衆の動向を表現した
文章が引用されている。介山が、連載で、この部分を書いた時期
が、大正10年というから、大正時代の気分を白秋も介山も、同
じように受け止めていると言うことだろう。この本は、夢野久作
の代表的長篇小説「ドグラ・マグラ」の、タイトルになっている
「ドグラ・マグラ」の意味を探究する論考。一種の夢野久作論で
もあるが、キーワード探究が主題だ。電子文藝館への夢野作品掲
載選定作業の一環として、書庫から引っ張りだして来て読んだ。

9・XX  久世光彦「一九三四年冬ー乱歩」も、夢野久作関連
で、再読している。山本周五郎賞受賞作。1934年の冬、江戸
川乱歩は、スランプに陥り、家出をして、麻布のホテルに雲隠れ
する。美貌の中国人ホテルマン、同宿の探偵小説マニアの美貌の
人妻らとの交流を軸にしながら、ホテルで、「梔子(くちなし)
姫」という150枚の小説(架空の乱歩作品)を書く。昭和初期
の、東京の光景を巧みに取り入れながら、妖しい世界を構築す
る。

9・XX  日本画家の知人,小林豊さんから送っていただいた
最新作の絵本「せかいいち うつくしい村へ かえる」読了。ア
フガンを舞台に世界一美しい村を描くシリーズの第3作。戦争の
続くアフガンで、家族と離ればなれになり、笛吹という得意藝
で、サーカスの一行に入り、各地を転々としていた少年が、一行
と別れて、故郷に戻る。少年の旅と故郷での友人との出逢いが描
かれる。さらに、戦争に行ったまま、行方不明の父を探すという
少年にとって、本当に平安な生活は、まだ、手に入らない。  

9・XX  馳星周「クラッシュ」は、女子高生、覚醒剤、セッ
クス、車、アジア系外国人など、現代の風俗を生きる人たちを主
人公にした短編小説集。舞台は、新宿、渋谷、首都高速など。東
京を舞台にした通俗的なテーマと描写の軽い読み物。しかし、馳
ワールドは、味があるから、止められない。

9・XX  四谷シモン「人形作家」東京・五反田で生まれて、
シモンこと小林兼光は、父を捨てて、妾になって家出した母を
追って、根津へ。売れない楽士の父とストリッパーの母。深川、
王子など都内を転々とする。王子、名主の滝、飛鳥山、一里塚、
澁澤栄一邸、王子デパート、滝野川など懐かしい地名や建物など
が出て来る。私が、子どものころ過ごした地域は、飛鳥山を挟ん
で、四谷シモンとは、ちょうど反対側にあたる。飛鳥山界隈は、
私にも共通した土地鑑があるから、懐かしく読んだ。その上、王
子中学を卒業して、進学も就職もせずに、中学時代からの「金
髪」(懐かしい)少年は、その後、ロカビリー歌手になる。山下
敬二郎、平尾昌晃、ミッキー・カーチスなど、懐かしい名前が、
続々、登場する。四谷シモンが、前座バンドの一員となっていた
「ロリポップ」は、佐々木功の前座だったという。その佐々木功
は、いま、私が住むマンションの敷地の隣に住んでいる。早々
と、学校に背を向けた四谷シモンだが、バーやジャズ喫茶で、遊
び仲間と知り合う。そのなかに、画家の金子國義がいる。金子に
くっついて、遊んでいるうちに、歌舞伎好きの金子に連れられて
歌右衛門の舞台を観たりする。金子の縁から、詩人の高橋睦郎と
知り合い、フランス文学者の澁澤龍彦と知り合う、という具合
に、四谷シモンにとって、街は、大学になって行く。唐十郎との
縁で、状況劇場の「女形」になり、子どもの頃から、唯一、持続
して関心を持っていた人形作りにのめり込んで行く。私より、2
歳うえでしかない四谷シモンだが、その人生の軌跡を見ると、シ
モンの周りには、梁山泊のように、いろいろな曲者が集まって、
彼を育てて行くのが、良く判る。まるで、別の時代を生きている
ような、波乱万丈さだ。
- 2003年10月1日(水) 21:15:27
9・XX  横山秀夫「陰の季節」、「動機」、「第三の時
効」、「深追い」、「真相」、「半落ち」、「クライマーズ・ハ
イ」を続けて読む。いずれも、署名本をまとめ買いしたので、こ
ういうことになった。このうち、「半落ち」、「クライマーズ・
ハイ」は、長篇だが、そのほかは、短編集。横山秀夫は、群馬県
の地方新聞社の記者出身で、松本清張賞受賞作家。私も、大阪と
千葉で地方記者体験がある(仙台と札幌は、デスクなので、外で
の取材体験はない)。大阪は、新聞社は、大阪本社だし、千葉
は、首都圏なので、あまり、地方記者体験というには、特殊かも
知れないが・・・。

受賞作は、「陰の季節」。各作品の主人公は、警察官(それも、
刑事ばかりでなく、人事を操る警務課幹部、警察官を取り締まる
監察官、秘書課幹部なども登場する)、検察官、弁護士、裁判
官、新聞記者、殺人犯、刑務所の刑務官など、警察関係、あるい
は、刑事事件が多い。いわば、警察関係小説。横山作品の特徴
は、それぞれの主人公たちが、実にリアルに描かれていることだ
ろう。新聞社に12年いたというから、多分、事件記者が長かっ
たのだろうと思う。デスクになる前に辞めたのだろう。

短編は、特に、落ちの切れがよい。短編に冴えた味を持っていた
松本清張を冠にした賞を受賞した作家に相応しい短編の作品群
を、ここ数日で、往復の車中と就寝前の時間を利用して、一日1
册(3時間平均か)の割合で一気に読み上げた。そう言えば、作
品のタイトルも、清張作品に類似している。例えば、「黒い線」
「鞄」「顔」などの付け方は、清張そっくり。さらに、息子を白
血病で亡くし、アルツハイマーで記憶がまだらになって来た妻に
頼まれて嘱託殺人を犯す元警察官の謎の2日間の空白を検証する
「半落ち」と群馬県の地方新聞社のデスクを主人公に御巣鷹山に
落ちたジャンボ機墜落事故の取材合戦の模様と主人公らの山行き
をからめた「クライマーズ・ハイ」という、ふたつの長篇も読み
ごたえがあった。こちらは、2日がかりで、一册。いずれも、ミ
ステリー小説なので、粗筋の紹介はさけるが、おもしろいこと
は、保証する。

9・XX  村山由佳「キスまでの距離 おいしいコーヒーの入
れ方1」。先に読んだ「おいしいコーヒーの入れ方」シリーズ
を、いわば物語の展開を逆に遡る形で読んだ。主人公たちの、後
の展開を知っているという、まあ、こういう変な読み方をして
も、充分におもしろいというところに村上由佳の実力が伺える。

9・XX  丸山健二「夕庭(ゆうにわ)」は、丸山の自宅の庭
造りに関して、88年から2000年にかけて、あちこちに書い
た短文を集め、さらに、季節毎に庭に咲く花々の写真と組み合わ
せて刊行した本。庭造りを記録したエッセイ集「安曇野の白い
庭」とことし刊行した写真集「ひもとく花」との中間に出版され
たものという位置付けになる。北アルプスの山麓に拡がる庭。そ
の庭に建つ3階建てのユニークな自宅。白っぽいアルミニューム
板の壁で囲まれた家。「安曇野の白い庭」は、イギリスにある名
園ホワイトガーデンに刺激されて造られた。つまり、「ホワイト
ガーデン・イン・アズミノ」である。しかし、丸山は、この庭に
は、白い花ばかりを集めたというイギリスのホワイトガーデンと
は、異なり、さまざまな色の花が四季折々に咲く。それも、丸山
に言わせると「自然と折り合いをつけつつ、自然界にはあり得な
い、魅力的な小宇宙を創造する。これが私の狙っている庭だが、
小説と同様、奥が深過ぎて、いつまでもゴールが見えてこない。
だから、やめるにやめられないのだろう」ということになる。

9・XX  出久根達郎「安政大変」は、いまから148年前の
安政地震を取り上げる。江戸で多くの死傷者を出した地震の際に
被災した人たちの姿を描く。地震を知らせた鯰で一儲けしようと
する人、地震で建物の下敷きになって死亡した藤田東湖、夜鷹に
思いを寄せる井戸掘り職人などさまざまな人たちの地震との遭遇
を連作短編に仕立てた。いかにも、この人らしい作品群。因に、
ことしは、関東大震災から、まる80年という。

9・XX  片山恭一「世界の中心で、愛をさけぶ」、「きみの
知らないところで世界は動く」などという単行本の大仰なタイト
ルが、気に喰わないが、まずは、「世界の中心で、愛をさけぶ」
を読んでみた。次いで、「きみの知らないところで世界は動く」
を読みはじめる。主人公らの名前こそ違え、「世界の中心で、愛
をさけぶ」と同じパターンの作品。高校生から大学生になる世代
の恋愛もの。仲良しの男女と男の親友の3人が、主たる登場人
物。恋愛と男同士の友情。恋愛をしているふたりのうち、ひとつ
は、女性が、途中で白血病やなどの難病になり、一方は、男性の
友人が、水泳中に事故で、それぞれ死んで行く、そういうバリ
エーションは、あるものの、基本的な体験は同じと見た。前者の
パターンでは、「愛と死を見つめて」というのが、30年以上前
にあり、ベストセラーズになったが、その焼き直しのような作
品。いまの、ワイドショーの時間に、そのころは、不倫もの、す
れ違いもの、純愛ものなどの昼ドラ(昼間の連続ドラマ)が、民
放であり、昼前に起きだして、母親といっしょに、遅い朝食とい
うか、昼食と兼用の食事をしながら、そういう番組を観ていたこ
とがあるので、こういうことは、結構、詳しいのだ。
- 2003年9月15日(月) 21:14:22
8・XX  梅雨明け後の暑さがないまま、8月に入った。先月、
歌舞伎座の舞台で、「四谷怪談忠臣蔵」という夏の出し物を観た
ことから、この関係の本を読み続けた。丸谷才一「忠臣蔵とは何
か」は、再読。「曽我もの」は、いまも歌舞伎や人形浄瑠璃の舞
台で、よく演じられる。その「曽我もの」の人気は、江戸時代か
ら続いている。「曽我もの」の人気の根底には、御霊信仰があ
る。曽我五郎の「五郎=御霊」という連想である。弱いものを守
る御霊。そういう民間信仰の地下水脈の上に、「仮名手本忠臣
蔵」もある、というのが、丸谷説。但し、丸谷が、「忠臣蔵(事
件と芝居)」という、括り方をしているのは、疑問に思った。赤
穂事件とは、浅野内匠頭が引き起こした松の廊下での刃傷事件と
家臣の大石内蔵助らが吉良邸に討ち入った「事件」のことだが、
これとこの事件を取り上げた諸芝居の集大成としての「忠臣蔵」
という「芝居」は、別のものである。日本人は、どうも、丸谷同
様、事件と芝居を混同しがちである。

8・XX  ことしは、梅雨明けが遅かった上に、台風が来たり
して、梅雨明け後も、暑い夏とはならなかった。雨の合間に、律
儀な蝉の声は、時々聞こえるが、本格的な夏にならないまま、秋
の気配が深まりつつある。まあ、それでも、いきなり、「残暑」
というか、不完全燃焼の暑さが、不完全なまま。残りそうな気配
である。不完全燃焼のまま、関係が途絶した柳美里の作品「声」
は、「命」「魂」「生」に続く、連作の4番目。妻子ある男の子
を妊娠し、同居している劇団「東京キッドブラザース」の代表
で、演出家の東由多加と、生まれて来た男の子との物語という、
奇妙な「家族」の死と生を極私的に描く4部作の最終巻。特に、
「声」では、東由多加の死の前後の様子を元恋人であり、師弟で
ありという関係のなかで、普通の妻以上に精神的な絆で結ばれて
いる柳美里が、記憶喪失のようなショック状況のまま、後日の多
くのスタッフの取材結果をもとに、再現してゆく。ギリシャ神話
の「オルフェウスと妻のエウリュディケ」の世界が、ダブルイ
メージされる。そこに、未婚のまま、別の男との間に生まれた長
男とのかかわりが、母子の物語として入り込む。これも、神話の
世界のように見える。極私的な記録だが、私小説とも、手記とも
違う。母子の成長する姿の写真を表紙に使った4部作のすべてを
思い浮かべると、新しい現代の神話が、そこには誕生しているよ
うに見える。ただし、別れた男への「嫌がらせ」という性悪女の
本性も垣間見える。それも含めて、これは、新しい神話なのだろ
う。

8・XX  高橋克彦「総門谷R」第4部「白骨編」は、大河小
説だが、陸奥の歴史に悪と善のグループの対立抗争を再構築した
娯楽小説。そう言いながら、ついつい、読んでしまうし、また、
読ませてしまう高橋の腕力は、強い。ミステリーなので、ストー
リーは、紹介しない。

8・XX  永井するみ「唇のあとに続くすべてのこと」は、日
常生活のなかで、不倫と殺人事件を匂わせた事故死が、ある女性
の安定した家庭生活を崩しはじめる。東京芸大音楽学部中退、北
大農学部卒で、作家になり、農業、林業などを素材に社会派ミス
テリーを得意とし、私もその分野の彼女の作品を愛読して来た
が、最新作は、恋愛サスペンスもので、あまり、興味が湧かな
かった。

8・XX  工学部の大学院修士課程出で大手電気メーカーに勤
めながら、ホラー小説を書いている小林泰三「家に棲むもの」と
いう短編を読みはじめる。この人の作品を読むのは、初めてだ
が、あまりおもしろくない。この程度で、本の帯の惹句にある
「ホラー短編の名手」というのだとしたら、ホラー小説の世界
は、底が浅くはないか。ホラー小説は、あまり読んだことがない
ので、不案内だが、そういう気がした。

8・XX  けさも雨。梅雨は、明けないまま、秋に入り込んだ
ような感じ。だが、いずれ、残暑だけは、あるのではないか。村
山由佳「雪の降る音」、「緑の午後」を読む。今期、直木賞受賞
作家ふたりのうちのひとり。「雪の降る音」、「緑の午後」は、
「おいしいコーヒーの入れ方」シリーズの4、5。シリーズの途
中から読み始めてしまった。書店に署名本があったので、購入。
こういう変則的な読み方となった。若い人向けの青春小説のよう
だ。

8・XX  津田類「歌舞伎と江戸文化」は、歌舞伎に関わる江
戸文化の背景をまとめた本。「江戸歌舞伎の周辺」を増補改定し
たもの。歌舞伎が栄えた江戸時代。歌舞伎は、「傾(かぶ)く」
精神で、同時代の庶民の心情や嗜好を巧みに舞台に取り入れ、さ
らに、大きく成長して来た。そういう歌舞伎の舞台と庶民の生活
との双方向の交流を考察した本。幕末の狂言作者の三升屋二三治
は、「狂言作者は文人にして文人にあらず」と言ったというが、
狂言作者は、いまなら、さしずめ、週刊誌の記者か、ワイド
ショーのプロデューサーという役回りで、「ジャーナリストにし
てジャーナリストにあらず」というところか。おもしろく拝見し
たが、歌舞伎の外題の字が間違っていたり、誤植もいくつかあっ
た。

8・XX  しっかり、残暑は、始まった。今夏は、暑い日がほ
とんどなかったので、やっと夏らしい日が来たので、まだ、
「残」暑という感じがしないが、暦の上では、残暑。数少ない暑
い日を愛しむように蝉たちが啼いている。書庫の本を整理してい
て、9年前に購入し、すでに読了していた郡司正勝「鶴屋南北」
が出て来たので、再読を始める。鶴屋南北こそ、「文人にして文
人にあらず」という狂言作者の世界。南北は、こういう曖昧な分
野の天才であったことが判る。この本は、その南北の生涯を、出
自、師弟関係を含む人脈、同時代史、当時の庶民の嗜好、遊里や
見せ物、そして歌舞伎などと関係付けて論じながら、所与の常
識、権威、価値などの逆転を試みた天才の奇跡をコンパクトにま
とめている。サブタイトルは、「かぶきが生んだ無教養の表現主
義」とあるが、南北の場合、確かに既成の教養はなかったが、本
能的な教養はあり、それが、反教養主義として、新しい表現を生
み出したと言うべきだろう。南北の反教養主義の表現は、時空を
越えて、170年余を隔てても、燦然と輝いている。そして、南
北の、その輝きは、人間が人間である限り、永遠に不滅であろう
と思う。

さて、私は、「母の愛」をテーマにした並木宗輔を主軸に据えた
小説「歌舞伎伝説」脱稿の次は、「生涯青春」をテーマにして、
鶴屋南北を主軸にした小説「歌舞伎機関(からくり)」を構想し
ている。50歳を過ぎてから亡くなるまでのおよそ25年間に多
くの作品を書いた南北、50歳は、人生、これからという年齢な
のだ。そういう視点で、南北の人生後半戦の浮き方の実践ぶりを
書いてみたい。

8・XX  丸山健二「安曇野の白い庭」読了。若くして芥川賞
を受賞した、非文学青年は、その後も小説を書き続けている。早
朝に起きて、午前中のみ、小説を執筆する。本はあまり売れない
が、そういう生活を30有余年続けている。東京では、生活でき
ないので、早々と故郷の長野県に戻った。当初は、借家住まい。
借家を転々とする生活を続けたが、田舎は、都会と違って借家が
少ない。農村部は、転勤族の絶対数が、少ないからだ。昔は、借
家のあるところは、都会の他では、軍隊のあるところなど限られ
ていた。太宰が住んでいたところを考えても、そこが、軍隊と関
係が深いことなどが判るからおもしろい。そして、とうとう、祖
父が開墾した林檎畑の跡地に家を建てることになった。28歳
だった。北アルプスの山麓の、その土地は、風がきつく、冬場
は、安普請の家の中まで冷え込む。そこで、小説家は、庭に防風
のための植林をする。次は、買物用に自転車を買う。勧める人が
いて、バイクに乗り始める。行動範囲が拡がると、おもしろくな
り、自動車やオフロードのオートバイに凝りだす。海外まで出か
けて、小説そっちのけで、体験記を書くようになる。それも、や
がて虚しくなり、小説書きに回帰するとともに、釣も始める。や
がて、小説書きと庭造りが生き甲斐になる。庭造りの魅力を作者
は、書き続ける。庭は、官能をくすぐると言う。安らぎも感じ
る。やがて、古くなった家を建て替えることにした。家造りの
話。庭の作り替えが、綯い交ぜになる。やがて、家が完成する。
新しい家と調和する庭造りが、本格的に始まる。白い牡丹の花と
アルミの外壁を持つ3階建ての家が、マッチするようになる。四
季を彩るさまざまな花々。花の写真を撮る。写真集も出版。庭造
りをテーマにした小説も執筆。「凄い庭を造ることに後半生を賭
けてみたい」と言う。安曇野のホワイトガーデンの物語。

8・XX  佐々木譲「帰らざる荒野」は、明治時代の北海道開
拓史のなかに埋もれていた人を生き返らせる作品。ある男の話
だ。逃亡者の話だ。幕末の箱館(函館)・五稜郭、箱館近郊の美
馬追(びばおい)から男の父親の物語は始まる。やがて、父親
は、虻田の牧場主になる。兄の嫁になる女性との恋の果てに、故
郷を捨てる男は、北海道内を放浪する。故郷の牧場の苦境を救う
ために殺人を犯す男。逃亡者となった男の放浪する地名が懐かし
い。室蘭、岩見沢、滝川、旭川、富良野。男は、名前を変え、所
帯を持つ。背負別、大楽毛、音別などという地名も出て来る。男
は、故郷の牧場の苦境を知らされ、再び、故郷に帰り、殺人を犯
す。その挙げ句の死。ストーリーテーラー・佐々木譲は、北海道
生まれで、札幌で自動車メーカーのサラリーマンをしていた。そ
の後、作家専業。確か、ニセコ近郊に別荘というか仕事部屋があ
るはずだ。現代もの、歴史もの(これには、海外を舞台にした作
品と北海道を舞台にした作品が多い)の長篇作品は、起伏に飛ん
だストーリー展開が、魅力だ。横山秀夫「動機」を読み始めた
が、9月の「乱読物狂」で、書き込みたい。週末は、パソコンに
向かい、8月分の「遠眼鏡戯場観察」と「乱読物狂」を同時にアッ
プ。これで、ホームページの書き込みは、リアルタイムになった
ので、乞う御期待。
- 2003年8月31日(日) 14:50:51
7・XX  日本ペンクラブの「電子文藝館」委員会の同僚委員
である(と言っても、初回の委員会にわたしが欠席、2回目、3
回目は、夫馬氏が欠席なので、未だに拝眉せず)夫馬基彦「楽平
(らっぺ)・シンジ そして二つの短編」を読了。コミューン運
動、死刑廃止運動などに関わるヒッピーなど、昔懐かしい人たち
が出て来る「楽平(らっぺ)」。山出しのお手伝いさんの半生記
ともいうべき「標(しめ)の話」。電子文藝館にも掲載された
「白い秋の庭の」。少年の孤独を描いた「シンジ」。4つの短編
を収録した作品集。自由、闊達で、不思議な魅力のあるお手伝い
さん・標さんの話がいちばんおもしろかった。この自由、闊達さ
は、著者の文体に通底している。

7・XX  人間、苦境に陥ったときに頼るのが、宗教。それ
も、新興宗教と言うこともあり得る。鈴木光司「神々のプロム
ナード」は、そういう新興宗教を素材に世界を拡げた。次々に失
踪する人たち。サラリーマン、女性タレント、そして、新興宗教
の取材をしていた女性ルポライター。失踪したサラリーマンの妻
に頼まれ、サラリーマンの幼馴染みの学習塾経営者が、失踪の謎
を解きはじめる。仕組まれた失踪劇が、次第に明らかになる。新
興宗教の宣伝のための失踪劇。全体の構図が見えて来たところ
で、小説としては、息切れ。明らかに、興味半減。

7・XX  帰宅後、日本ペンクラブの電子文藝館用の原稿の校
正を兼ねて7つの作品を読む。いちいち書評を書かないが、詩、
俳句、随筆、小説などを読む。電子文藝館用に夢野久作の作品を
選ばなければならなくなり、30年ぐらい前に、三一書房から
「全集」が出たときに、たくさんの作品を読んでいる。それを
ベースに、いろいろ調べている。週末、書庫の整理で、久しぶり
に出て来た松田修の著作を整理していたら、夢野久作のことを書
いた小文3つが載った「非在への架橋」などが出て来る。松田
は、歌舞伎についても言及しているので、それらも、抜き出して
おいた。早速、松田修文藝評論集「非在への架橋」を読みはじ
め、合わせて、夢野久作の「瓶詰地獄」「死後の恋」「あやかし
の鼓」「白くれない」なども読む。

7・XX  東京勤務に戻り、通勤時間のうち、あわせて2時間
が、電車に乗っている時間だ。このうち、電車内が、混雑する時
間を除いて、半分の1時間は、座って、本が読める。家で読む
本、パソコンの画面で読む本、電車で読む本などがあり、いずれ
も、並行して読んでいるから、「乱読物狂」は、今後、ますま
す、錯綜しながら、書き継がれることになりそう。いま、電車で
読んでいる本が、村松友視「骨董通り0(ゼロ)番地」。村松節
で、カクテルの作り方、コーヒーの入れ方の蘊蓄が語られる。老
人と中年男と若い女性たちとの「三角関係」が描かれる。村松的
趣向の世界。それは、青山通りから高樹町を結ぶ、実在の「骨董
通り」にある架空の番地の、架空のバーを舞台にする「現代」と
「レトロ」の「三角関係」でもある。谷崎潤一郎の「天鵞絨(ビ
ロード)の夢」が、隠し味として、使われている。

7・XX  更に、夢野久作「卵」「悪魔祈祷書」を読む。日本
ペンクラブの電子文藝館には、シュールな作品なら、「卵」。久
作独特の饒舌独白体なら、「悪魔祈祷書」。鼓を素材にした伝統
芸能の話なら、「あやかしの鼓」。晩年の代表作「ドグラ・マグ
ラ」の原点とも言うべき作品なら「白くれない」という形で、推
薦してみようと思う。

7・XX  アナイス・ニン「小鳥たち」は、矢川澄子訳。幻想
と官能のエロティシズム。13の短編が、ヘンリー・ミラーに勧
められて美貌の女性作家アナイス・ニンの手によって書き上げら
れた。女性の視点で、セックスを描く。若者向けの露骨な描写で
はなく、むしろ押さえ気味の、大人向けの描写でありながら、裸
に剥かれたセックスのリアルさが、アナイス・ニンの文体と矢川
の翻訳の文体という、二重性の文体から、立ちのぼって来る。飢
えとエロスが、官能に、いちだんと磨きをかける。飢えは、ひも
じさだけの表現ではなく、エロスに透明感を与えるため触媒でも
あるのだろう。誰もが知っているエロスは、書かない。むしろ、
そういうエロスの常識を共通認識というベースに載せて、それを
こえる世界だけを描いて行く。久しぶりに、そういう大人のエロ
スの物語を読んだ気がした。

7・XX  版画家・宮下登喜雄「富士と桂川」が、限定出版の
「吾八」から届く。12部の特装版のうちの1冊。戦前の一時
期、山梨県の大月に疎開したという宮下の富士への思いと3年間
過ごした私の山梨への思いが、重なる形で、特装版を購入。本に
挿入されたオリジナル版画とは別葉の版画が、入っている。さま
ざまな富士の絵。富士に関わる宮下の思いが綴られている。

7・XX  江戸時代、江戸の街には、堀が縦横に走っていた。
そういう掘り割りの河岸と呼ばれる場所があった。宇江佐真理
「河岸の夕映え 神田堀八つ下がり」は、そういう河岸のうち、
「御厩河岸」「竈河岸」「佐久間下河岸」「本所・一ツ目河岸」
「行徳河岸」「浜町河岸」の6つの河岸を選んで、江戸に生きる
人たちの人情話に仕立てた。

7・XX  石田衣良「4TEEN(フォーティーン)」は、
14歳や12歳の、中学生による幼児殺しが、社会問題となるな
かで、東京・月島で生きる「いまどきの中学生」4人組の生活を
ビビッドに描いている。池袋西口を舞台に「池袋ウエストゲート
パーク」という世界を構築して来た石田は、今度は、ウオーター
フロントのひとつ、月島を舞台に8つの短編小説で、あたらしい
青春像を構築した。難病と戦いながら、超高級、超高層マンショ
ンに住む中学生から、中級マンション、木造の長屋住まいまで、
4人を典型的に、あるいは、紋切り型に造型しながら、銀座から
地下鉄で10分という、もうひとつの東京の姿を描いて行く。今
期、直木賞を村山由佳「星々の舟」とともに受賞。

7・XX  西村望「逃げた以蔵」は、武市半平太の護衛とし
て、「人斬り以蔵」という異名をとった土佐の岡田以蔵が、無宿
人・鉄蔵に落ちぶれた後の物語。江戸時代の風俗やそこに生きる
人々の情感をじっくり書き込んだ西村時代小説は、本当に読みご
たえがある。歴史の闇に埋没してもおかしくないような、下級武
士・岡田以蔵を、自分が生かされていた組織から切り離され、組
織とは、違う価値観で、孤独に生き始めた男の物語として、書い
ているあたりは、さすが、西村望らしい、眼のつけどころであ
る。江戸の風が吹き、江戸の音や色、匂いまで感じさせるような
作品世界を構築しながら、そこで扱われている男の生き方という
テーマは、中高年のサラリーマンには、普遍的な「組織と個人」
というのだから、西村の作家としての、腕力の確かさを伺わせ
る。ちゃんばら小説の文庫本作品に、こういう本が紛れ込んでい
るから、エンターテインメント作品も、あなどれない。もっと
も、私は、1978年刊行の「鬼畜」が、たまたま、署名本で、
いまはない、有楽町の紀伊国屋の店頭で西村望に出逢ってから、
刊行される本は、単行本であれ、新書、文庫であれ、継続して読
んで来たから、実録物の社会派犯罪小説から、クライムノベル、
直木賞候補作を経て、最近の時代小説まで、西村望に随伴して来
た。数えてみれば、25年間も、西村兄弟のうち、寿行より望を
愛読して来た。西村望には、こんぴら歌舞伎の案内書まである。
江戸の風を、これだけリアルに書けるのは、そうした歌舞伎の知
識の裏打ちがなければ、書けないであろうと、思う。

7・XX  東野圭吾「手紙」は、今期直木賞候補作品だが、受
賞せず。兄貴が、大学進学を希望する弟の学費を稼ごうと盗みに
入る。たまたま、居合わせた家人を殺してしまい、強盗殺人の罪
で服役。残された弟の苦労話。獄中から届く兄貴の手紙が、小説
の仕掛けとなっている。住居、バイト、就職、進学、バンドデ
ビュー、恋愛、結婚、育児など、人生の節目節目で、兄貴の事が
問題になり、苦労する弟。差別は、罪の償いか。兄貴への思いと
新たな家族への愛の間で揺れる弟の気持ち。クライマックスの刑
務所慰問コンサートの場面では、涙が滲んできて困った。力作だ
が、小道具の手紙が、少しリアリティを欠いているため、「つく
り」が、鼻に付いた。

7・XX  九州で、梅雨前線に拠る大雨。特に、水俣市で被害
が大きい。東野圭吾「トキオ」を読む。まず、夜に読み始め、翌
朝、早起きして、朝食前までに一気に読了。遺伝的難病で若くし
て死ぬ息子が、過去の父親の世界に魂だけ来て、他人の遺体に乗
り移り、結婚する前の、青年である後の父親と暫く過ごす。息子
の方は、男が、未来の父親と知った上で、接触して来るという物
語。それを死ぬ間際の息子の姿をみて、思い出すというストー
リーだが、これも、作品の構造が、作り過ぎになっている。筆力
はあり、感性に訴える文章力はあるが、根本的に設定に無理があ
る。シュールな、非現実的な話でも、作品世界として、読者にリ
アリティを感じさせられれば、それはそれで、文学のデモーニッ
シュなところであり、良いのだが、そうならなければ、作品の虚
構のみが、鼻に付く感じになる。

7・XX  石井代蔵「千代の富士一代」を読む。別の日、同じ
く石井代蔵「大相撲親方列伝」を読む。「千代の富士一代」は、
横綱千代の富士の相撲人生を師匠の北の富士の相撲人生と並記し
ながら書き進む。「大相撲親方列伝」は、花籠親方になった大ノ
海から始まって、若乃花、栃錦、千代の山、そして、北の富士、
増位山、北の湖、鶴ヶ嶺、琴櫻の9人の名親方を連作短編スタイ
ルで繋げて行く。 

7・XX  村山由佳「星々の舟」は、今期、直木賞受賞作。作
家自身の家族を原型にしているのだろうか、家族の銘々を主人公
にした連作短編集。「星々」は、その個々の家族のこと。そし
て、「舟」とは、その個々人で構成される、ひとつの家族の物
語。父の再婚で、新しい母の連れ子で、義理の妹と思っていたの
が、実は、血の繋がった異母妹だったが、それを知らずに禁断の
関係を結んでしまった長男。その兄を、いまも慕い続け、未婚の
妹。末の妹は、人の男ばかりを好きになる。頑固な戦前生まれの
父親などの家族が、描かれるが、家族の描き方が、類型的ではな
いか。

7・XX  宇江佐真理「あやめ横丁の人々」は、「菖蒲(あや
め)」ならぬ「殺(あや)め」で、殺人事件の関係者ばかりが、
かたまって住むという奇妙な横丁の物語。いつものように、庶民
の生活が、活写される。何度も、直木賞候補になりながら、今回
も、受賞には、至らなかったが、もう、新人賞である「直木賞」
の受賞対象というキャリアではないだろう。函館在住で、東京、
それも江戸時代の東京を描くということで、時空を越えたイマジ
ネーションの持ち主。


7・XX  電子文藝館の原稿の校正と夢野久作の原稿を探す作
業を始める。「ドグラ・マグラ」「犬神博士」などの長篇代表作
より、短中編で、夢野ワールドを象徴するものをと思って、探し
ている。30年前に全集を読んだ記憶を甦らせようとしている。
長篇を除き、「押絵の奇跡」「瓶詰地獄」「少女地獄」「白髪小
僧」「死後の恋」「あやかしの鼓」「白くれない」「悪魔祈祷
書」「卵」「いなか・の・じけん」などを検討し、目下、久作の
特徴である独白体の「悪魔祈祷書」か、シュールな、おもしろみ
のある「卵」などの短編、ちょっと長めでは、伝統芸能を扱った
「あやかしの鼓」か、代表作「ドグラ・マグラ」の先行作品の一
つ「白くれない」あたりか、と思っている。こうして夢野作品を
読み返すと、赤江瀑は、夢野久作の後継であることが、改めて、
印象づけられる。そこで、赤江瀑の最新作「日ぐらし御霊門」を
読む。やはり、独白体の多い赤江の作品は、夢野久作に似ている
と思う。

7・XX  高田衛「お岩と伊右衛門」に続いて、丸谷才一「忠
臣蔵とは何か」を飛び飛びで、8月までかかって読む。もちろ
ん、7月の歌舞伎座、市川猿之助一座の「四谷怪談忠臣蔵」の上
演に刺激され、さらに、書庫の本の整理で、タイミング良く、出
て来たということもある。高田衛「お岩と伊右衛門」は、初読。
丸谷才一「忠臣蔵とは何か」は、18年半ぶりの再読。高田衛
「お岩と伊右衛門」は、四谷怪談について、個別に書いて来たも
のを一冊の本にまとめた。「女はなぜ幽霊になるか」「〈因縁〉
という超時間の物語」「伊右衛門はどこから来たのか」「お岩さ
んの『死』が意味するもの」「奈落の『忠臣蔵』」「『四谷怪
談』の深層」「終りなき『四谷怪談』」「『四谷怪談』の虚像と
実像」など、学術論文らしからぬサブタイトルが、各章にちりば
められているのを読むだけでも、普通の論文でないことが判るだ
ろう。刺激的な本だ。エキスは、「遠眼鏡戯場観察」の歌舞伎
座・7月夜の部の劇評に書き込んだので、ここでは繰り返さな
い。要するに、四谷怪談の主たち、お岩と伊右衛門が、何処から
来て、南北の手で、如何に舞台の乗せられ、いま、どのあたりの
時空を彷徨っているかを書いた本だ。お岩も伊右衛門も、東京の
時空に潜む大江戸のスペースに、いまも、彷徨っているのであ
る。丸谷才一「忠臣蔵とは何か」を初めて読んだころ、私は、歌
舞伎の「歌(か)の字」も、知らなかった。歌舞伎の舞台を10
年近く見て来て、歌舞伎を「舞伎(ぶき)」に評論を書き、小説
を書くようになったいま、この本をどう読むか。
- 2003年8月27日(水) 22:35:24
6・XX  森田誠吾「江戸の夢」読了。川柳で綴る「忠臣蔵」
と誹諧「武玉川」を検証して、江戸庶民の夢を跡付ける。江戸時
代の川柳に残された庶民の変わらぬ心情を新聞記事を分析するよ
うに、川柳を素材に分析している。ふたつの赤穂事件(1701
年の浅野内匠頭の刃傷事件、1702年の吉良邸討ち入り事件)
は、人形浄瑠璃、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」のヒット以来、い
つのまにか、史実のふたつの事件とは別の「忠臣蔵」として、江
戸庶民の間で定着して行ったが、その秘密も、史実、芝居から、
さらにデフォルメされて行った川柳の作品で、浮かんで来る。巻
末に、引用句索引があり、便利な本。

6・XX  60歳代からの日々を「夕映え」と称して、輝かし
いものに描こうという著者の思いが伝わって来る。加賀乙彦「夕
映えの人」は、精神病院の院長時代の苦労話、院長職を退き、山
村に家を造る話、亡くなった父親の隠し子騒動、阪神大震災の医
療ボランティア活動などを交えながら、時代と年齢が描かれて行
く。退職、山村での家造りなど、我が身に置き換えて、おもしろ
く読んだ。老後を輝かしいものとして、捉えなおそうという70
歳を越えた作家・加賀乙彦の思いが伝わって来る。

映画「夕映えの道」の試写会を見に松竹本社へ出向く。ルネ・
フェレ監督作品。パリの下町、街角の薬局で出逢った高齢の独居
老女・マドのことが、気掛かりな中年のキャリアウーマン・イザ
ベル。イザベルは、離婚して、会社経営を続けている。若い恋人
も通って来る。そういう年齢も生活状況も違う、ふたりの女性の
人生が交錯し、そこから、独りで生きる女たちにとって、「生き
るとは、なにか」、「老後とはなにか」というテーマが浮かび上
がて来る。マドの人生は、順調なイザベルの人生とは、異なるの
だが、離婚、息子を夫側に引き取られ、その後、独りで苦しい生
活を続けているマドの人生は、これからのイザベルの人生に重
なって来るような予感がする。きっと、イザベルも、同じ思いな
のだろう。イザベルは、マドに迷惑がられながらも、定期的に訪
問をして、マドの世話をみずには、いられなくなる。そういう行
為を通じて、イザベルの人生観も変わって行く。やがて、死期の
迫るマドの最後を見取るため、イザベルは、マドとの生活を最優
先することを決意する。「あなたが、幸せとなるのが、私の喜び
なの」。イギリスの女性作家・ドリス・レッシング原作の「善き
隣人の日記」を元に、舞台をパリに移しての映画化。

老後を主体的に生きようという「夕映えの人」と貧しい生活なが
ら老後を生き続ける老女との交情に生き甲斐を見つける中年の
キャリアウーマンを描く「夕映えの道」は、それぞれ違った角度
から「老後」に光を当てる。映画「夕映えの道」のタイトルは、
小説「夕映えの人」から、影響を受けたと言う。

6・XX  玄月「寂夜」。大阪の在日朝鮮人や韓国人の住む集
落に生きる若者たちが登場する。家庭が崩壊し、家出した父親、
生活破綻者の母親とともに住む兄弟の物語「繊光」。医大生の、
同じ集落に住む少女への恋心を描く「大蛇」。思春期の少女の物
語「焦熱」。運河沿いの建て売り住宅を売る男の物語「運河」。
少女と同棲している少年。酔っ払い運転で大怪我をした。鬱屈し
た日々の物語「寂夜」。2文字にこだわったタイトル。作品を描
く角度は、異なっても、同じトーンへのこだわりが、伝わって来
る連作だ。若者たちの閉塞感とニヒリズム。著者のテーマへのこ
だわりが、パワフルに伝わって来る。前作「おしゃべりな犬」同
様、松竹 司のけだるいような少女を描いた表紙が印象的だ。

6・XX  週刊誌で連載が始まった直後、10数回分は、読ん
でいた船戸与一「夢は荒れ地を」が、刊行された。人身売買され
るカンボジアの子どもたちを救おうと日本人らのグループが活躍
する話。

6・XX  車谷長吉句集を読む。極私的な小説家は、詩人の
妻・高橋順子と句会を開く人である。「文人俳句の極致」とある
が、俳句は、「因果輯」と「駄木輯」とふたつのグループに分け
て、編輯されている。印象に残った句を紹介する。

女知り青蘆原に身を沈む  (播州飾磨川)

あしうらであしうらなでる除夜の鐘  (新婚)

花追ひて蝦夷へと渡る旅役者

以上、3句は、「因果輯」。

児ら去りて壜の中なる蝗かな

街道の貧しき家に花芙蓉

姦通の油地獄や竹の秋

えごの花愛する人は黙しをり

朝寒や女の尻をなでなほす

以上、5句は、「駄木輯」。「駄木」とは、作家の住居のある千
駄木のことだろう。いずれも、意図的に芝居がらみの句をひとつ
ずつ選んでみた。あとは、エロスとタナトス。
- 2003年8月21日(木) 20:58:57
5・XX  丸山健二「私だけの安曇野」は、少年時代を過ご
し、作家になってから舞い戻り、以来住んでいる場所、丸山の故
郷・安曇野を取材して、朝日ジャーナルに連載、その後、単行本
にまとめた文章が載っている。と言っても、いまはなき朝日
ジャーナルである。なにせ、四半世紀前の本である。昔読んだ本
を図書館から借り出して来て再読したということだ。山梨県の白
州町の家に住むにあたって、田舎暮しを辛口で書いた丸山の文章
が読みたくなったと言う訳だ。そして、次のような文章に出逢っ
た。

「傍らに夏でも雪が残っているほどの高い山々があって、しか
し、山のために息苦しい風景ではなく、ほどよく空間があっ
て、ーー山と空間のバランスが鍵なのだがーー、更に四季の変化
が鮮明でなければならない」とは、丸山の安曇野論の一説だが、
これは、白州にある我が家のあたりの環境に似ている。

5・XX  村上春樹「海辺のカフカ」(上・下)は、ギリシャ
神話をベースに現代の神話を再構築した。家出した15歳の少年
は、「神話」を辿りながら、四国へ旅をする。もうひとり、不思
議な老人も、記憶を探しながら、四国へ辿り着く。まあ、そうい
う物語だ。人気作家の、それも上下二巻の長篇、ベストセラーズ
の作品の書評にしては、短すぎるが、エキスを論じれば、そうい
うことだ。ここの書評は、私の勝手な独断で、論じる。おもしろ
ければ、短編でも、詳細に論じるが、つまらなければ、世評がど
うであれ、ここでは、私流の書評となる。村上春樹作品は、ほと
んど読んで来ているが、最近の作品は、村上文学イメージに作家
自身も乗っかって、自己のイメージを増殖せているような気がす
る。

5・XX  日本ペンクラブ・電子文藝館の校正を兼ねて、4つ
の小説を読む。井上ひさし「あくる朝の蝉」は、孤児院で暮らす
兄弟(高校生と小学生)が、孤児院の生活から脱出したいと母と
折り合いが悪い祖母に助けを求め、ある夏の日、祖母の所へ戻
る。しかし、祖母の所も、祖父が死に、借金のかたに店を半分削
られてしまっている。東京の大学に通っていた叔父も、学費が続
かず、家に戻っている。そういうところへ、転がり込んだ兄弟
は。結局、翌日の朝、祖母らに気づかれずに、孤児院へ戻ること
になる。そういう少年たちの心象風景を描く佳作。井上の自伝的
な短編小説。蝉の取り扱い方が、巧い。少年たちを象徴する蝉で
ある。

5・XX  松本侑子「花の寝床」は、広告代理店の神戸支店に
転勤できた、離婚歴のある33歳の女性と父親の転勤で、転向し
て来た17歳の高校生の恋物語。少年の母は、新聞記者、母は、
少年の妹とともに、東京で暮らしている。少年の両親は、離婚し
そうな関係になっている。離婚経験のある女性と少年は、性関係
もある。女性の別れる前の夫との出逢いの、15年前の思い出な
どが、女性と少年との、いまの関係と二重写しになる。そのあた
りの処理の仕方が、巧い。

5・XX  小沢美智恵「祖母(あじ)さん」は、沖永良部島出
身の夫と結婚した茨城の女性が、久しぶりに姑や夫、それにふた
りの幼い子どもとともに島に住む祖母を訪ねる話。島で一人暮ら
しをする90過ぎの祖母(あじ)。祖母を囲む親類たち。再会、
墓参り、歓迎の宴、その果てに、祖母の世話をどうするか、島の
土地をどうするかなどの課題が、絡む。4代に亘る家族の問題。
「島人(しまんちゅ)」と「内地人(やまとんちゅ)」、「旅人
(たびんちゅ)」という三角形で、家族を描く。「島人」では、
なくなっているけれど、「内地人」に徹し切れず、いわば、故郷
を懐かしみながら、故郷との縁を切ることを躊躇う「旅人」の夫
が、「内地人」の人生を選び取ることになる。そういう立て筋を
軸に、女性(妻、幼子の母、嫁、孫の嫁)の視点で、多層的な女
性の立場を入れ込みながら、細やかな日常生活のエピソードを積
み重ねて、描いて行く。

5・XX  堀辰雄「ルウベンスの偽画」は、昭和初期の作品。
旧軽井沢の避暑地で、ドイツ人らしい娘に恋した主人公は、後を
つけ、娘の屋敷を訪ねる。娘の母親も交えた付き合いという、淡
い恋の物語。薔薇色の皮膚をしたクラシックな印象を持つ娘を主
人公は、密かに「ルウベンスの偽画」と名付けている。リリシズ
ム溢れる小品。作品全体が、一枚の画のように見えて来る。


5・XX  梅原猛「王様と恐竜」は、世界一金持ちで、軍事力
も世界一という太陽の国。まるで、いまのアメリカみたい。その
太陽の国のトットラー王の物語。トットラー王は、ヒットラーに
似た名前の持ち主で、思考と行動は、ブッシュに似た王様だ。金
があり、軍事力があり、世界に君臨できる力を持っているが、最
近、経済に陰りが出来て来た。そこで、戦争ほど儲かる商売は無
いと、戦争による経済の建て直しを唆す大商人モクスヶたちが、
登場して王様をその気にさせる。ブッシュ政権を支える中道派・
パウエル国務長官と強硬派・ラムズフェルド国防長官。特にラム
ズフェルド国防長官を支えるネオコンサーバティブ(新保守主義
者たち)。そのネオコンのような大商人モクスヶたち。ブッシュ
より、トットラー王が勝れているのは、多元的にものが考えられ
るということだ。当初、モクスヶたちに唆されて、「オンリョウ
の国」に、「勝てば官軍=正義」論で、戦争を仕掛ける準備をし
ていたのだが、世界の有力国を手なずけたものの、王妃と7人の
王女たちに戦争に反対されてしまう。

やがて、トットラーの祖先を任じる肉食恐竜「トットラーザウル
ス」に諭され、魂離脱現象を利用され、トットラーザウルスに王
の身体を乗っ取られ、「オンリョウの国」(まあ、イラクです
ね)に対して、水爆を落とすボタンを押す代わりに、世界各国に
対して、糞尿弾を落とすボタンを押させられてしまう。その結
果、「臭い平和」が訪れ、王妃と7人の王女たちばかりで無く、
臭い各国のトップたちからも、臭いボタンを押した手を、政治的
手腕と称えられることになる。その結果を良しとする分別を持つ
トットラー王は、イラクの次は、シリアだ、サウジだ、イランだ
というボタンを押し続けようとするブッシュよりは、やはり、利
口だ。イラク、イギリス、日本などを彷彿とさせる国の指導者も
出て来る。それにしても、臭い平和バンザイ!かっての九州のダ
ム反対闘争の戦術を思い出した。原作は、狂言仕立ての脚本であ
り、是非、舞台を観てみたいと思った。これも、電子文藝館の校
正を兼ねて拝読した作品。因に、梅原猛は、日本ペンクラブの前
会長。先日読んだ井上ひさしは、新会長。


5・XX  関川夏央「退屈な迷宮 『北朝鮮』とは何だったの
か」は、10年以上前に、刊行された本。もともと雑誌などに掲
載された文章の再構成だから、論じている中味は、それより数年
遡る。それなのに、いまの北朝鮮と重ねながら読んでも、違和感
が無いから、そこがおもしろい。朝鮮問題は、基本的な構造が、
ここ何年も変わっていないと言うことだろう。朝鮮が、日本と日
本人を写し出す鏡である、という状況も変わっていない。

5・XX  前の夜、寝る前に、枕頭で寸読しただけだから、実
質的に、けさ、起きてから読み始めたのに、出勤前に布施克彦
「54歳引退論」読了。読みやすいと言うより、論旨が、殆ど想
像つくということで、速読になった。著者は、総合商社の鉄鋼部
門で貿易を担当し、海外勤務も長いが、鉄鋼部門の凋落に伴っ
て、出世コースから外れ、51歳で転職、54歳で退職し、もの
書きを目指している。今後も続く不況のなかで、会社も国の年金
もあてにならない。でも、男性でも、80歳と言われ始めた長寿
社会を生き抜こうと人生54歳転身論をまとめた。再出発は、死
ぬまで続けられる仕事を見つけること。定年前からスタートしよ
うという提言。でも、もの書きになるなら、独自の分野と独自の
文体を持たなければならないだろうと思う。そこが、この人の課
題か。それにしても、「引退論」というより、「独立論」ではな
いのか。私なら、そうする。20余年を「引退」で過ごす訳には
行かない。独立した生き方をする第2の人生こそ、豊饒な時間
だ。

5・XX  黒井千次「ネネネが来る」。つげ義春だったか、弟の
つげ忠男だったか、黒い闇が、迫って来る漫画を思い出した。
「ネネネ」は、まるで、この漫画家の体験に通底するようなモ
チーフの作品だ。ふたりの子どもと妻を持つ男。家族を襲う不安
が、黒い闇。父親は、家族を守るために、不安と戦う。誰にも共
通する思い。それは、例えば、以下のような妻の不安が、夫にも
伝播する場面で、象徴的に描かれる。

――なんだか、つまらなくなっちゃった。
 日曜の朝の食卓でなにげなく呟いた英子の言葉が、彼の内側の
深いところを、冷たい影で撫でるようにして通りすぎたのだ。
〈なんだか〉というそれ自身は意味もない一語の響きが、彼には
胸の底をおびやかす巨大なひろがりを持つ影のように思われた。
具体的に何一つ指示をすることのないその言葉は、それだけに、
どこか全否定の響きをもっていた。原因不明の病、どこにも敵の
いない闘い。そんな苛立たしさが彼を捉えた。いや、そうではな
い。おそらく、彼はその病因を、見えない敵をおぼろげに感じ
とっていたのだ。感じとっていたからこそ、月曜から土曜までの
勤務先の業務で疲れ、全く出不精になってしまっていた彼が、そ
の効果も十分に計算した上で叫んだのだ。
 ――象を見に行こうか。
 その叫びは、たちまち二人の子供の小さな身体の中に黄金色に
跳ね返り、英子の顔をも一瞬同じ色に照らし出さずにはいなかっ
た。
 ――このままにして行こうか。
 英子にしては珍しく、食べ散らした食器には手を触れず、その
まま狭い玄関に走り出るようにして出かけて来たのだ。先刻感じ
た目眩は、あるいは英子のあの言葉を耳にした時に、彼の内側に
既に準備されていたのではなかったろうか。

「見えない敵をおぼろげに感じとっていた」という不安。それ
は、人生のなかで、絶えず、付きまとう不安である。それが、闇
であり、「ネネネ」であると思う。

その、「ひらかれた闇の中に、雨だけが動いている。さそい出さ
れるように、彼は素足に靴をはいて雨の中に踏み出していた。強
い雨がたちまち身体を打つのを彼は感じた。しかし、彼は止れな
かった。自分の背後に、小さな優子が続き、はだしの純一が続
き、最後にはだしのまま英子がコンクリイトの土間に降り立つの
を彼はぼんやり感じていた。それは、彼にとってもはや守るべき
家庭ではなく、外にむかって行進を始めた何ものかの隊列だっ
た」とあるように、守りの姿勢から攻めの姿勢に変わったこと
で、家族は、闇に、つまり、「ネネネ」に対峙できるようにな
る。小気味の良い寓意小説。 

5・XX  坪内祐三「新書百冊」は、大学浪人時代から現在まで
読み続けた新書読書の軌跡をまとめたもの。自分史と読書史、そ
して、新書案内を兼ねた本。平野謙と言えば、私も大学の教養課
程の「文学論」の授業を受けたことがある。平野の「昭和文学の
可能性」が、取り上げられている。その序章で、平野は書いてい
る。広津和郎の「散文精神について」という評論集の文章が、引
用されている。「どんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念
深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精
神ーーそれが散文精神だと思ひます」という文章だ。この文章を
孫引きできただけでも、坪内祐三「新書百冊」は、読む価値があ
る。

5・XX  夫馬基彦「白い秋の庭の」は、熊谷守一画伯をモデ
ルにした小説。電子文藝館の校正を兼ねて読了。老いた画家夫妻
の秋の一日を描いているが、名前は出て来ない。唯一、盗まれた
表札を作り直す場面で、「守」の字のことが出てくる。著者よ
り、かなり高齢、90歳の画家の心理を詳細に描写する古風な小
説である。

5・XX  西村望「風の宿」は、「川ばた同心御用ひかえ(手
偏に口)」というサブタイトルが付いている。南町奉行所同心・
秋山五六郎を軸とする新シリーズの第一作。西村は、犯罪小説を
長いこと書いて来た。その上で、最近は、江戸の風俗をふんだん
に取り入れた江戸の犯罪小説を書いている。江戸の言葉、江戸の
風俗、江戸の季節感、江戸の生きる人たちの息遣い、そういうも
のが、物語の展開のあいまに、差し込まれている。

5・XX  西村望「茶立虫」は、莨屋文蔵御用帳シリーズの5
作目。最近、書店に入っても、文庫本のチェックをあまりしてい
なかったので、読み残していた。久々に、「風の宿」を読み、莨
屋文蔵御用帳シリーズの未読の巻があるのに気づき、読んだと言
う次第。江戸に生きる人たちのテンポが、ビビッドに伝わって来
る。

5・XX  押野武志「童貞としての宮沢賢治」を読む。生涯独
身を貫いた宮沢賢治が、性的妄想と戦いながら、作品を書き、童
貞を持続した、そういう視点で著者は、宮沢賢治像を再検証して
行く。異性との関係を拒否する童貞維持は、他者とのコミュニ
ケーション障害と言う現代的な課題とも繋がる。同一化志向で
は、信奉した日蓮主義などの分析で、観念的なテロリストとして
の宮沢賢治像さえ浮かんでくる。

5・XX  茨木のり子詩集「おんなのことば」再読。以前に人
から戴いた詩集が、引っ越しの荷物の整理をしていて、出て来た
ので、8年ぶりに読んだ。

「駄目なことの一切を/時代のせいにはするな/わずかに光る尊
厳の放棄/自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」

など、懐かしく読み直す。こういう詩集の言葉は、錆びない。い
つの時代になっても通用する。それが、流行り言葉との違いだ。

* ここまでが、単身生活3年終了の、甲府で書いた書評であ
る。早朝5時に起きて、出勤までの4時間を利用して、さまざま
なものを書くことができた。出勤前に近くの山にも登った。自動
車の運転免許取得のために、早朝、教習所にも通った。通勤時間
が、ほとんど掛からないという利点は、朝の時間そのものを豊か
にし、予想していたとはいうものの、後に、予想以上に、つくづ
く感じるようになる。そして、6月からは、市川の自宅に戻り、
家族と共に暮らすという、もとの生活が再開されたが、合わせ
て、時間が長く、窮屈な満員電車での通勤も、再開された。
- 2003年8月20日(水) 22:01:03
4・XX  山本周五郎「鼓くらべ・内蔵允留守」読了。「鼓く
らべ」は、1941(昭和16)年、1月、「少女の友」に掲
載。美人で鼓の技量もあるお留伊が、鼓の練習をしている。一人
の老人が、数日前から、鼓の音を聞きに来ていることにお留伊
は、気がついた。お城に上がって、御前で鼓の腕比べをすること
になっている能登屋のお宇多のまわし者かと疑ったが、絵師だと
いう。老絵師は、観世の囃子方・観世市之丞も、同じような御前
の腕比べをして、相手に勝ったものの虚しくなり、片腕を折り、
行方知れずになったから、あなたも、腕比べなど止めた方が良い
と助言する。

「すべて芸術は人の心をたのしませ、清くし、高めるために役立
つべきもので、そのために誰かを負かそうとしたり、人を押し退
けて自分だけの欲を満足させたりする道具にすべきではない」

お留伊は、聞き入れずに、御前に臨み、腕比べに勝つのだが、相
手の必死の形相を見て、虚しくなり、途中で、棄権してしまう。
そして、あの老絵師が、観世市之丞その人ではなかったかと気づ
く。しかし、老絵師は、すでに亡くなっている。藝は、競いあう
ものでは無く、己で研鑽するものだというのが、テーマ。

1940(昭和15)年、11月、「キング」に掲載された「内
蔵允留守」は、奥義とは何かという小説である。岡田虎之助は、
剣の奥義を求めて修業している。別所内蔵允という天真正伝流の
名人に秘奥を学ぶために江戸に出て来た。目黒の里に陰棲中の別
所内蔵允を訪ねる途中で、江戸近郊とは言え、辺鄙な片田舎の目
黒では、どう、探して良いのか見当もつかなくなって、迷ってい
る。途中で、老農夫に道を尋ねたりする。その結果、家は、判っ
たが、内蔵允は、留守だという。留守宅には、内蔵允の教えを乞
うためにたむろしている浪人たちがいる。無頼のような浪人たち
とのやりとり。そのなかで、岡田虎之助は、浪人たちとは、別れ
て、先に道を尋ねた老農夫・閑右衛門のところに同居しながら、
畑仕事を手伝うが、これが、意外と難しい。新しい目標ができた
岡田虎之助は、畑仕事に挑戦する。一方、内蔵允の留守に嫌気が
刺した浪人たちは、留守宅の小銭を奪って、逃走してしまう。

その際に老農夫は、言う。「別所先生を訪ねて来るお武家方で、
本当に修業をしようという者がどれだけあるか、多くは先生から
伝書を受け、それを持って出世をしよう、教授になって楽な世渡
りをしよう、そういう方々ばかりです」「百姓にも百姓の目がご
ざいます」「私どもの百姓仕事は、何百年となく相伝している業
でございます。よそ目には造作もないことのように見えますが、
これも農事としての極意がございます。土地を耕すにも作物を育
てるにも、これがこうだと、教えることのできない秘伝がござい
ます。同じように耕し、同じ種を蒔き、同じように骨を折って
も、農の極意を知る者と知らぬ者とでは、作物の出来がまるで
違って来る」。

そこで、岡田虎之助は、この老農夫こそ、居留守を使って、訪ね
て来る武家たちの真贋を見抜いている別所内蔵允だと悟るのだ。
「道は一つだ」「刀と鍬と、とるものは違っても道はただ一つし
かない」と別所内蔵允は言う。これは、次の、丸山健二の悟りと
通底する。

4・XX  丸山健二「生者へ」を読む。背中に入れ墨をする代
わりに頭を剃っているという作家・丸山健二。丸山の作品は、殆
ど買い続けてきたが、オートバイやジープに彼が熱中して来たあ
たりから、読まなくなっていた。「ひもとく花」という、丸山が
作り上げた庭に咲く花を写した写真集をきっかけに、読み始め
た。先日、読了した「月は静かに」に続いて、「生者へ」という
わけだが、この本のテーマは、権威にも屈せず、集団にも頼ら
ず、さりとて、世捨て人にもならず。個人の自由を求める。それ
が、真の生者だということで、いわば、「人生論」である。

「文学の鉱脈は無限であり、文学の奥の深さは加速度的な膨張を
やめない宇宙の深さに匹敵することが、一作仕上げるたびに強
まっていった。それにつけても欲しいのは時間だった。寿命が倍
も十倍も欲しかった。生きているうちにどれほどの鉱脈を掘れる
かどうかわからないが、よしんば千年生きたとしても万分の一に
も満たないだろう」

時間が、欲しいという意欲は、良く判る。ただし、丸山の「男至
高主義」とも言える価値観は、激しすぎる。それは、それとし
て、彼の価値観として、独自性を認めるとしても、私は、取らな
い。「イラク戦争」で、見えているブッシュの判断、それを支え
るネオコンの価値観は、まさに、「男至高主義」ではないか。こ
れでは、「憎しみ」の連鎖が、未来永劫に続くだろう。

丸山の最近作を「ひもとく花」「月は静かに」「生者へ」と逆に
読んだ結果、「花←月←男」が、見えて来た。丸山は、変わろう
としている。人生、文学への思い(あるいは、「思い込み」)の
激しさは、変わらないだろうが、変化が、読み取れる。それは、
次のような文章である。

「それでも、何年か前に荒ぶる精神の制御棒とも言える趣味を見
つけることができた。庭造りがそれである。白いバラに、白いボ
タンに、白いシャクヤクに、白いハギに、白いサクラに、白いギ
ボウシに、白いユリに、白いシャクナゲといった花々に、執筆と
同様、没頭する日々は、私の精神の奥の奥に隠された核物質的熱
情を、どうにか理性の線に沿ってコントロールしてくれている。
小説にとっても、私自身にとっても、この究極とも言える趣味は
どうやら思いの外いい効果をもたらしているらしい」というので
ある。「晩春の宵に、暖かい風と柔らかな月光を浴びて、何から
何まで自分の手で造った永遠に未完成の庭に佇むとき、作業の九
割までが重労働であるガーデニングで鍛えられた肉体が精神の陰
に隠れ、狂気も理性も引っ込み、魂は宇宙的とも言えるほどの陶
酔感に包まれる」という。時間を忘れ、深い安らぎを感じ、「こ
の世は生きるに値するというしたたかな答え」が、迫って来ると
いうのである。「この陶酔感こそが芸術家のめざさなくてはなら
ない唯一の目標ではないか」と、書いている。

「生者へ」の前に、「安曇野の白い庭」という、庭造りの苦心を
書いた作品があるのだろうが、それを私は、読んでいない。た
だ、「男至高主義」の、孤高の価値観を持つ作家が、「白い」色
が、花の種類だけあるという世界に触れて変わって来ていること
は、事実だろう。「白」とは言え、さまざまな白がある。生も同
じではないか。「ただ生きているだけで充分だとする人々こそが
真の生者ではないのか」「一心不乱に突進してゆく人間こそが最
も死者に近い生者ではないのか」という。そう言いながら、丸山
は、揺れている。その揺れる心が、丸山の文学のエネルギーと、
私は、見る。やはり、「安曇野の白い庭」を読まなければならな
い。

4・XX  丸山健二が「生者へ」メッセージを送るなら、こち
らは、「死者へ」というサブタイトルをつけたくなる作品群であ
る。10年間に渡って「死に至りかねない病」を次々に体験しな
がら、生き続ける。その果てに、自分の余命が、判ったとき、人
は、どういう行動をとるのだろうか。強靱な精神力で、蝕まれて
行く肉体をコントロールできるだろうか。日野啓三は、そういう
状況下で、思いを短編小説として表現し続けた。日野啓三「落葉 
神の小さな庭で」は、まさに「落葉」から「神の小さな庭で」ま
での、13の掌編小説が、まとめられている。10年に及ぶさま
ざまに転移する癌との闘病記でもある。肉体は、癌によって蝕ま
れて行くが、逆に、精神は、そういう癌を見つめながら、それと
の戦いを短編小説に刻み込んで行く。この精神力の強靱さが、凄
い。小さきもの、弱きもの、草木、命あるものヘのまなざしの確
かさ。「本当に大切なのは、この私ではなくて世界の方なのだ」
と、日野が言い切るとき、そこに、私は、「末期の目」というも
のの凄さを感じた。特に、世界よりもアメリカを、あるいは、ア
メリカよりも自分の選挙、利権などを優先すエうブッシュのよう
な男が牛耳ろうとしている21世紀の荒涼とした世相を見ている
と、よけい、そういう思いを強くする。人間は、死に行くもの。
国家も滅び行くもの。残るのは、世界だ。

4・XX  「梯の立つ都市 冥府と永遠の花」も、日野啓三
「梯の立つ都市」から「冥府と永遠の花」までの、8つの短編小
説をまとめた作品集。「落葉 神の小さな庭で」より、1年前に
刊行されている。同じような系譜の作品群。ひび割れしたような
存在感が、死と生の間(あわい)にある。自宅近くの踏切が、そ
ういう死と生の接点として、象徴的に使われているように思う。

4・XX  日野啓三「ユーラシアの風景」は、ユーラシア旅行
社出版部というところから出された本。「世界の記憶を辿る」と
いうサブタイトルがついている。新聞記者であり、作家であった
日野が、ユーラシアの各地を旅行する。その記録である。ところ
が、サブタイトルは、「記録」ではなく、「記憶」となっている
辺りが、この本のミソなのだろう。中国、ペルシャ(いまの、イ
ラン)、インド、ロシア、北欧、などの各地で出逢った風景、光
景、人々などを作家は、新聞記者時代から愛用の85ミリレンズ
という、やや望遠のレンズを覗いて、切り取って来た。それに、
記録とも、エッセイとも、とれるような文体で、文章を添えて行
く。それは、また、先日、読んだ丸山健二「ひもとく花」とい
う、丸山が、作庭した庭というミクロコスモスを写し撮った写真
と言葉を思い出させる。自分が造った庭と向き合う作家・丸山健
二。神(自然)が、造ったユーラシアという世界と向き合う日野
啓三。ふたりの異質な作家が、ミクロとマクロのコスモスの写真
を撮る、そういう営為の記録は、結局は、自分のなかに濾過さ
れ、蓄積されて来た記憶を辿るということなのかも知れない。

テロと戦争で開けた21世紀は、さらに、テロと戦争が続きそう
な予感がする。

*人類がその創造的想像力を試されるのはこれからである。倫理
的感性を純化し、想像力を精錬しよう。不屈の生存意志を磨け。
短期的に希望を持つな、長期的に絶望するな。

最後の10年間は、あちこちに転位する癌との、壮絶な戦いで
あった作家・日野の言葉である。01・9・11のテロを知りな
がら、03・3・20のイラン戦争を知らずに、病死した作家
は、いわば、末期の目の鋭さで、イラン戦争以降の、この世界を
予見しているではないか。「人間が新しい人間の理念を考え直す
ために真剣になりはじめている」とも、日野は、書いている。死
に到りかねない癌、蜘蛛膜下出血という病と戦いながら、病との
戦いを短編小説に表現し、記憶と辿るエッセイという形で、人生
の足跡を検証する。しなやかに生ききった日野啓三の面目躍如た
る一冊である。

4・XX  金正美(キム チョンミ)「しがまっこ溶けた 詩
人桜井哲夫との歳月」は、ボランティアで、かつて、「らい」と
呼ばれたハンセン病の元患者で、詩人の桜井哲夫と出逢った在日
韓国人の若い女性・金正美が、過ごした8年間の記録である。桜
井哲夫の60年ぶりの帰郷を描いた「にんげんドキュメント 津
軽・故郷の光の中へ」は、以前に、偶然、テレビで観た。ハンセ
ン病は、いまでは、完全に治癒する病気だが、昔は、空気で伝染
するなどと言われ、患者たちは、隔離され、生涯を施設に閉じ込
められた。患者同士の結婚は、男性が断種手術を強制された。
17歳で青森から、群馬県の隔離病棟に収容され、闘病生活のな
かで、治癒したものの、治療の痕跡と後遺症のため、両眼とも失
明し、片方の眼球を失い、鼻がなくなり、顔も崩れ、という容貌
になった桜井哲夫は、50歳を過ぎて詩を書き始めた。60年間
の施設での生活のなかで6冊の詩集を刊行した詩人である。残さ
れた機能を活用し、素晴しい詩を書き、明るく生きる桜井哲夫の
孫になった金正美は、ハラボジ(祖父)を訪ね、詩人と過ごす草
津での日々、2度の津軽への旅、韓国への旅などを描く。

桜井哲夫も凄い人だけれど、金正美も、純真で凄い。こういう鏡
のような心があったから、桜井哲夫も、鏡の前にいるように、自
然に振る舞えたんだろう。その様を金正美は、若い女性の感性の
ままに文章を綴って行く。これは、ハンセン病になって苦労もし
たが、そうならなければ出会えなかったことや人との交流を謳い
あげる詩人桜井哲夫の物語であると同時に、「しがまっこ(津軽
弁の氷)」が溶けるように、若い女性の精神の軌跡の変化を描い
た青春の記録でもある。まさに、丸山健二が、悟った「ただ生き
ているだけで充分だとする人々こそが真の生者ではないのか」と
いう、勝れた見本のような、ふたつの人生が、ここには、ある。

4・XX  山梨県春日居町出身で、生涯をハンセン病の治療に
あたった小川正子。その生誕100周年を記念して、去年の8
月、小川正子記念館で特別展が、開かれた際に刊行された冊子
「悲しき病世に無からしめ〜ハンセン病患者救済に尽した女医小
川正子の生涯」を戴く。正子は、後に、長島愛生園で自分が治療
した患者たちと過ごした日々を「小島の春」という本にまとめ、
ベストセラーズになる。この本は、後に、夏川静江主演、豊田四
郎監督作品として、映画になる。やがて、結核で倒れ、41歳の
若さで、亡くなる。「夫と妻が親とその子が生き別かる悲しき病
世になからしめ」と詠んだ歌人でもあり、ハンセン病の根治に立
ち向かった女医の生涯は、桜井哲夫のような元患者の闘病生活に
も生きていると思う。

望郷の念を持ちながら、いまも、施設から出られない元患者(完
治しているが、後遺症で顔などが崩れている人もいる)たちの、
血の叫びが聞こえる。「この島に住まひて既に六十年 今日ある
はただに神の憐れみ」14歳で、長島に来て、既に60年余が過
ぎたという歌人・谷川秋夫の歌だ。こうした施設では、園内だけ
で通用した貨幣があったという。差別は、患者の生活を根こそ
ぎ、社会から隔離して来た。1943年にハンセン病の特効薬
が、アメリカで開発され、人類3000年の難病から、人類は、
解放された。にも関わらず、ハンセン病の元患者たちは、いま
も、隔離されている。「らい予防法」が、1996年に廃止さ
れ、さらに、2001年の熊本地裁の「らい予防法を違憲とす
る」という判決が出ても、元患者は、故郷に戻れない。 4・
29、正子の命日は、「花にら忌」と呼ばれている。「花にらの
小ひさく白き花に居て おもひ居たりしは只君がこと」正子。

4・XX  武川滋郎「かがみ」は、若くして亡くした妻と妻
が、命と引き換えに残した娘と生き別れとなった男の幻覚、幻想
小説。ある日、妻の形見の鏡に映る女性や若い娘は、亡くなった
妻や生き別れとなった娘に似ていると思った男が、街角で、その
女性と娘に出逢う。ふたりの後を追い、幻想とも現(うつつ)と
も知らぬ間(あわい)で、彼女らと交情する。

4・XX  童門冬二「男の詩集」は、美濃部都政時代の東京都
庁の政策室長を勤めた作者、そして、その後、公務員時代から作
家・童門冬二という二足の草鞋を履いて来た作者が、美濃部知事
引退に合わせて、職を辞し、作家として独立した歩みをして来
て、四半世紀以上が、経過した。その軌跡は、目を見張るものが
ある。私も、幸いにして、作家の公務員時代からのおつきあい
で、私の方が、遥かに弱輩なのだが、長いおつきあいをさせてい
ただいている。四半世紀で、作家・童門冬二は、300册ほども
出版しただろうか。ほとんどの本を寄贈していただいているが、
今回の著書は、作家の人生とのかかわりで、いろいろ影響を受け
た詩歌との想い出が綴られている。そういう意味では、男・女と
いう意味での「男の詩集」ではない。むしろ、ある人間、ある男
の人生の詩集という意味のタイトルである。タイトルの付け方
が、あまり良くないと思う。

4・XX  大沢在昌「秋に墓標を」は、漫画の原作を書いてい
る作家の松原龍は、千葉県の勝浦の別荘地に住んでいる。大沢の
別荘が、千葉県にあるというから、それが下敷きになっているの
だろう。ある夜、別荘地で火事があり、その後、昼間、浜辺で知
り合った女性が、火事場から避難して来た。その女性とのつかの
間の同居生活が、作家に、忘れていた恋愛感情を引き起こさせ、
彼の静かな日常生活を乱しはじめる。女性が、CIAの手先とな
るアメリカのスパイまがいの企業の仕事をしていたことから、女
性が、作家の元から失踪する。失踪した女性を探す作家の周囲
で、殺し屋、CIA、チャイニーズマフィア、警察などが、錯綜
した動きを見せる。そして、昔の商売仲間で、親友の正体が、暴
露されるなかで、男女の新しい関係を求めてゆくエンターテイン
メント小説。大沢の作品は、「新宿鮫」以外は、中身が薄くなっ
ている。「新宿鮫」シリーズも、最初の頃の作品に較べると、最
近作は、徐々に、薄くなっている。

4・XX  画家の金子國義訳、挿し絵「不思議の国のアリス」
読了。銀座のギャラリーで、開催中のグループ展を観て、会場で
販売していた参加作家たちの署名本を購入。金子國義署名入りの
「不思議の国のアリス」も、そのひとつ。ルイス・キャロルの文
章を駄洒落込みの訳文にし、金子流のアリスや動物たちが、出て
くる不思議な絵本」を楽しく拝見。この手の古典本は、いかに、
新たな付加価値を高めるかが、ポイント。そういう意味では、絵
としてのアリスの世界は、すでに金子國義の世界に組み込まれて
いるわけだから、訳文で、どれだけの新味を出すかにかかってい
る。そういう意味では、訳文も洒落ていて、おもしろかった。

4・XX  森詠「雄鶏〜『オサムの朝』から〜」、薄井八代子
「左近様おぼえ書」は、いずれも、日本ペンクラブ、電子文藝館
の原稿の構成をかねて、読む。森詠「雄鶏〜『オサムの朝』から
〜」は、映画にもなった『オサムの朝』の一部、作家の自伝的な
物語のうち、雄鶏が、食卓の犠牲になる章を抄録している。私
は、映画も観たし、原作も読んだ。関東地方の農村で少年時代を
過ごした作家の生活が、瑞々しい文体で描かれている。薄井八代
子「左近様おぼえ書」は、乳母の語りというスタイルで、八代高
松藩主・松平頼儀(よりのり)の長子ながら、藩主の地位を継げ
なかった道之助、後の左近の一代記となっている。江戸・小石川
の高松藩邸に奉公に上がっていた奥横目(どういう役職か不明)
の娘・綱子と藩主との間に生まれた左近は、藩主側室の時子に貞
之助という子どもができ、貞之助の姉の倫姫が、持参金十万両の
水戸家から養子を迎え、九代藩主となり、さらに、貞之助が、十
代藩主となるなかで、左近は、国表に閉塞し、不遇をかこつ。左
近は、国表では、勤王方の黒幕となり、後に、坂本竜馬らを庇護
した。ところが、十一代藩主のときに、藩政が、佐幕派に変わ
り、左近は、謹慎させられる。さらに、高松藩の兵が、鳥羽伏見
の戦のときに官軍に発砲したことから、朝敵になってしまう。持
病の胃病で苦しみながら、勤王派の人脈を生かして、恭順の姿勢
を示し、使者として訪れた参謀・板垣退助との交渉で、竜馬など
との縁が評価され、朝敵の汚名を雪ぐことができた。しかし、胃
病のため、左近は、60歳で亡くなる。そういう左近の人生を乳
母の視点で、描く。
  
4・XX  笙野頼子「渋谷色浅川」は、三重県出身で、上京
10余年、東京も池袋エリアで生活していた(後に、千葉の佐倉
に転居)作家・笙野頼子の数年がかりの、いわば「渋谷」殴り込
み小説。殴り込みの舞台は、インターネット・カフェ、ナイトク
ラブ、パーティ会場、無国籍レストランなど。地方と東京・渋谷
との対決。駄ささとトレンドの対決を、「ブスでドンくさい、地
方出身作家」という売りで、差別抑圧の象徴・トレンドへの殴り
込みという、いわば、作家と編集者の楽屋内の話をエッセイとも
小説ともつかないような、曖昧な、そして、程度の低い文体で描
いている。こういう作品を書いては、駄目だという見本。

4・XX  高橋克彦「おこう紅絵暦」は、江戸・北町奉行所の
筆頭与力の妻・おこう推理が、江戸の事件を解決する。元柳橋芸
者で、美人で、聡明なおこうは、芸者になる前は、当時、「ばく
れん」と呼ばれた非行少女の出であったが、そういうことは、気
にしない仙波一之進と父親・左門が、おこうに知恵や力を貸す。
傍役の浮世絵師・春朗、仙波家の養女となったお鈴、大女のお由
利なども、物語の奥を深くする。鼻高幸四郎が出て来る。五代目
松本幸四郎だ。幸四郎の弟子で、下積みから這い上がっている途
上の、役者中村滝太郎は、河原崎座に出演をし、花形ばかりの切
狂言で、七段目の「一力茶屋」の大星由良助を演じたりする場面
が出て来る。江戸の芝居小屋も出て来る。本筋の方は、与力の妻
の、いわば捕物帳である。おこうシリーズの第2弾。

4・XX  創刊の新潮新書のうち、養老孟司「バカの壁」を読
みはじめる。新潮新書のなかで、いちばん売れ行き好調。その原
因は、タイトルの妙だろう。語り下ろしを編集者らが文章化し
た。バカの壁とは、脳の壁のこと。「話せば、判る」というの
は、嘘。夜、市川の自宅へ帰る。車中、養老孟司「バカの壁」読
了。要するに、「バカの壁」とは、あれかこれかという一元論的
な判断をする人たちを指している。例えば、21世紀に、早速は
びこり始めた、ブッシュ大統領を操るアメリカのユダヤ系の思想
家たち:ネオコン、あるいは、キリスト教右派らのイスラエル贔
屓の連中、対抗するイスラム原理主義などの人たち、養老は、直
接的には、これらの人たちのことを論じてはいないが、いま世界
にはびこる、こういう一元論者たちを、「バカの壁」という象徴
的な言葉で、解析している。おもしろく読む。

例えば、次のような論旨である。「『学習』というとどうして
も、単に本を読むということのようなイメージがありますが、そ
うではない。出力を伴ってこそ学習になる」「江戸時代は、脳中
心の都市社会という点で非常に現代に似ています。江戸時代に
は、朱子学の後、陽明学が主流となった。陽明学というのは何か
といえば、『知行合一』。すなわち、知ることと行うことが一致
すべきだ、という考え方です。しかしこれは、『知ったことが出
力されないと意味が無い』という意味だと思います。これが、
『文武両道』の本当の意味ではないか。文と武という別のものが
並列していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方が
グルグル回らなくては意味が無い、学んだことと行動とが互いに
影響しあわなくてはいけない、ということだと思います」。思い
込みで、戦争をしかけ、挙げ句、圧倒的な武力で、勝ちをおさめ
ながら(これは、予想でもなんでも無い、自明の軍事力の差でし
かない)、いまだに、開戦の大義名分の「大量破戒兵器」を見つ
けられずに、フセインの生死も判らずに、勝っていながら、負け
たような状態のアメリカは、決して、文武両道を行ってはいない
ことは、確かだ(8月「注」:これを書いたときから、4ヶ月が
経とうとしているが、アメリカを取り巻く状況は、大筋、この通
りで、ますます、悪化している)。



- 2003年8月19日(火) 21:11:40
3・XX  宇江佐真理「室の梅 おろく医者覚え帖」は、江戸
時代の検死官ともいうべき「おろく医者」美馬正哲とその妻で、
産婆のお杏が、主人公。江戸の街に事件が起こる。事件の犠牲に
なった遺体を調べ、事件解決の手がかりを探る。時には、遺体を
解剖する。「解体新書」が、刊行されたのは、1774(安永
3)年。その年に、江戸の八丁堀の町医者宅の三男として生まれ
たのが、美馬正哲。ふたりの兄は、医者になり、長男は、姫路藩
酒井家の藩医、次男は、松前藩松前家の出入り医師になったが、
正哲だけは、八丁堀の役人と組んで、事件の遺体の検屍ばかりし
ていると言う訳だ。時代は、幕末。また、華岡青洲が、麻酔手術
に成功し、近代日本医学の夜明けの時期でもある。実際、後に、
「おろく医者」の正哲も、華岡青洲のところに出向き、手術の手
ほどきを受けて、戻って来る。「おろく医者」が、不在の間、事
件の遺体の検屍を手伝ったのは、お杏であった。そういう時代状
況を押さえながら、短編連作の、「おろく医者」事件帳が、展開
する。

3・XX  佐藤雅美「半次捕物控 疑惑」は、「半次捕物控」
シリーズの最新作。八丁堀の与力の元で、御用聞きをしている材
木町の半次の捕物控。厄病神、こと、蟋蟀小三郎との確執を軸に
しながら、江戸の街に次々と起こる事件を解決して行く。いまの
歌舞伎座のある辺りが、木挽町、材木町なので、歌舞伎の話題も
さり気なく入って来る。そのあたりが、気に入って、佐藤雅美
「半次捕物控」シリーズを楽しみに読んでいる。副主人公とも言
うべき、蟋蟀小三郎、こと国見小三郎は、いろいろ、訳ありの複
雑な人物に描かれていて、興味深い。

3・XX  出久根達郎「たとえばの楽しみ」は、古書店主兼作
家の、本領発揮で、書物に対する134編のエッセイが、つまっ
ている。宮沢賢治、夏目漱石、司馬遼太郎などの作家の「本」に
まつわるエピソード。人より本というところが、おもしろい。こ
れも、また、「乱読物狂」であろう。

3・XX  ブッシュが、イラク戦争を仕掛けた。アメリカの単
独主義は、世界の多国連合に分裂を引き起こしながら、戦争に突
入した。イラクの石油、イスラエル支援、世界のアメリカ、なに
よりも、自分の選挙を有利にするために。こういう俗な政治家の
個人の野望で、世界の秩序を乱され、我々の生活を乱されたら堪
らない。日本も、ブッシュ支持を表明している。イラクのフセイ
ンを支持する訳では無いけれど、フセインを倒すために、戦争が
いちばん良い手段とは思わない人が、大勢いる。ブッシュは、こ
のまま行けば、日本を直接巻き込みながら、北朝鮮にも攻め入る
だろう。イラク、北朝鮮を何とかしなければいけないとしても、
ブッシュ方式で問題が解決するとは、思えない。池澤夏樹「イラ
クの小さな橋を渡って」は、そういう時代状況への認識を元に、
イラク攻撃とは、フセインだけを攻めるのではなく、こういう人
たちを殺すことになるという、殺されるであろう人たちの顔を見
えるようにして、まとめた本だ。言論というよりも、生の声で、
顔で、きちんと訴えている。「もしも戦争になった時、どういう
人々の上に爆弾が降るのか、そこが知りたかった」「小さな橋を
渡った時、戦争というものの具体的なイメージがいきなり迫って
きた」という。作家・池澤夏樹は、大地に二本足で立ち、両手を
掲げ、世界に訴えている。「この子たちをアメリカの爆弾が殺す
理由は何もない」という言葉とともに、笑みを浮かべたあどけな
い子どもの写真が載っている。

3・XX  アメリカが、ついにイラク攻撃を始めた日。私は、
宮本輝「睡蓮の長いまどろみ」(上・下)を読み始めた。アメリ
カの攻撃は、巧妙で、情報戦とIT戦略を組み合わせ、さらに、
事後の情報戦ともいうべき、アメリカのテレビは、世界同時放送
で、瞬時にしてすべての国のテレビを「アメリカ国内放送」にし
てしまう。フセインの居場所が、特定されたと言うことで、当初
の戦略を巧みに変えて、戦争は、フセイン暗殺計画の実行という
形で始まった。これは、後に、当初の戦略に戻り、市民の大量無
差別殺戮作戦に変わる(実は、8月18日現在、フセインは生き
ていると言う情報の方が、信憑性があり、さらに、イラク戦争の
大義名分だった、「大量破壊兵器」の所在は、未だに不明という
か、「なかった」「アメリカのでっちあげだったという「推測」
の方が、遥かに真実味がある状況になっている)。無辜の市民た
ちが、殺され始める。そういう状況を片目で睨みながら、私は、
「睡蓮の長いまどろみ」の世界を、もうひとつの片目で、読みは
じめたというわけだ。

赤ん坊の自分を置いて、離婚して行った母にどういう事情があっ
たのか。離婚後、医者の妻となり、夫の事業を引き継ぎ、成功し
た生みの母を訪ねる順哉の旅。父も、再婚し、順哉は、新しい母
に育てられた。その育ての母も死に、やがて、父から語られる別
れた妻との「事情」の真実。生みの母との出逢いへ。表題に取り
入れた睡蓮と蓮の違い。仏教の文言「因果倶時(いんがぐじ)」
が、キーワードになっている。謎の自殺を遂げた、職場近くの喫
茶店に勤める少女の人生。元常務が、部下の未亡人と始めた焼き
鳥屋の顛末などなど。物語の本流のほかに、いくつもの支流を絡
ませ、細部を緻密に描く。ストーリーテーラー・宮本らしい、
じっくり読ませる展開の作品で、甲府で読み出し、市川に戻る車
中で、読み継ぎして、読了。イラク戦争は、第2段階へ進展して
いた。イラクへの攻撃は、イラク国民だけでなく、イラクとアメ
リカの独
裁者同士の殺しあいに、何もできずにいる私の心をも荒廃させ
る。

3・XX  三原誠「たたかい」も、戦争がテーマである。戦争
が、4人の兵隊の物語として、語られる。電子文藝館の校正のた
め、読んだ。初めて読む作家であり、作品だ。まず、略歴。

*小説家  1930 - 1990.10.21  福岡県三井郡に生まれる。同
人誌「季節風」に卓越した作品を次々に発表していた。掲載作
は、「季節風」36に初出、久保田正文の激賞を得て「文学界」昭
和三十八年(1963)三月号に転載され芥川賞候補作となる。ユニー
クな視点と視野から反戦の思いを盛り込んだ戦争文学の傑作であ
る。

物語は、「兵隊サン」の話である。敗戦時、「中学四年生」だっ
たという語り手は、生年月日から見て、作者であろう。「久留米
から四里程はなれた農村」の「ぼくの村」、「戦争に負ける一年
前の夏の頃、部落にきて、それぞれの家に分宿した七百人ばかり
の部隊」にいた兵隊さんの物語である。「昼間も、うすぐらい四
畳の部屋で寝ているより他に仕事のない祖母(ばあ)サマまでが、
兵隊サンが泊ると聞いた日からは、倭(ちい)さくしなびた体を、
ちょこなんと中庭の葉蔭の縁側にまるめておりました」。この
「祖母(ばあ)サマ」は、兵隊さんを見分けるセンサーでもある。
このとき、少年の家に分宿した4人の兵隊さんを、「祖母(ばあ)
サマ」は、『ふんになア、何チいうタ兵隊サン達じゃろうかねえ 
!』」と、断定したのである。「兵隊サンのにおいのないものは兵
隊サンではないわけで、祖母サマは、ねだった甘味をもらえな
かったような不気嫌さをみせて、また、うす暗い四畳の部屋に
戻ってしまいました」という。

では、その「兵隊サン」は、どういう人たちだったかというと。
動員先から帰宅した少年に、『坊ちゃんですかの。お邪魔になっ
ちょります。はい、よろしゅう』」と、挨拶するような兵隊さん
であった。「部隊の命令で民家に泊まるのは当然なことと、泊ま
る方も泊める方も思っていた頃のことですからこんな挨拶は今ま
でにかってなかった事で」あった。「家に泊った四人の──吉野
二等兵、ウニのような鬚づらの竹田一等兵、班長の、すきとおる
ような美声の持主で、しかし青白くやせた青年の緒方兵長、それ
から、いつも口に唾をためているように言葉がはっきりせず吉野
二等兵よりもっと顔の長い、反り顎の桜木二等兵──この四人の
兵隊サンに、銃が二挺しかないのには、どうにも驚いてしまいま
した」というように、平時の日常なら、当たり前だが、有事の兵
隊としては、どうも、おかしい兵隊さんたちで、以後、4人(青
年の兵長と中年の3人の兵隊)の、兵隊さんとしての「おかし
さ」のエピソードが、描かれる。

なかでも、「反り顎の桜木二等兵」は、変わっている。「どうに
もこの桜木二等兵サンは、一升にして一合程の不足があるよう
で、脚絆まきや銃の手入ればかりか、何事にもこうした緩慢さが
つきまとうようでした」と、少年の目に映る。その桜木二等兵
は、少年の姉に家族あての手紙を代筆してもらっている。あれ
は、どうしたか、これは、どうしたかという質問ばかりの手紙だ
が、そのうち、桜木さんは、『もうすぐ戦争にゃ負けるから、
帰ってくる、待っちょれチ書いてつかァさい』」というような人
であった。そして、ある日、そういう兵隊さんも混じる部隊に動
員令が下った。部隊の一部が、動員されるのである。4人の兵隊
さんのなかからは、ひとりだけである。以下、「たたかい」とい
う作品も、結末を、そのまま、掲載する。

*銃と、外被をまいた背(はい)のうだけが列の上に見えました。
そして桜木二等兵サンは家の前をすぎる時、歩調トレの窮屈な歩
みのまま、あの大きな目玉をぎょろりとぼくたちの方に向け、二
三度、あの反り顎で頷き、その上の唇を微笑ませました。
「かんにんナ」
 ぼくの隣で、吉野二等兵サンのつぶやきが、そのとき聞こえま
した。
 考えると、兵隊サンたち──緒方兵長、竹田一等兵、吉野二等
兵、それに桜木二等兵は、前夜のあの静けさの中で、はじめてタ
タカイを経験していたのです。誰を班の中からその一人としてえ
らぶか──それは前線のタタカイに比べても、誰一人としての友
軍もない、孤独な、激しい、冷酷な、ひとりひとりが自分だけで
せねばならぬタタカイでした。
 そしてそんな兵隊サンにとって、桜木という、確かに人並みに
はおいつかぬ二等兵の存在は、タタカイの苦しさを果して緩めて
くれるものだったでしょうか──あるいは、桜木二等兵サンのそ
の白痴さ加減は、かえって一人ひとりのタタカイを傷多いものと
したのでしょうか──。
 出陣の部隊が部落を出た後には、静けさが──しかし前夜のあ
の沈黙から何かが脱落してしまった静けさが家にひろがり、その
静けさの中で、一挺になってしまった三八式歩兵銃が、ひっそり
と壁にたてかけられていました。
 気がつくと、天井の燕の雛はもうとっくに巣立った後です。
「兵隊サンはどこ行った ? 兵隊サンはどこ行った ?」
 四畳の部屋から祖母(ばあ)サマの声がしていました。                     
─了─

戦いは、戦争だけではない。人間が生きている限り、自分との
「タタカイ」があることを、この作品は、明確に提示している。
そう思ったとき、50年以上前に終った戦争の兵隊さんたちの心
は、イラク戦争にも、それを同時代で体験している私たちの心に
も、繋がって来ていることが、判る。

3・XX  山口瞳「卑怯者の弁」(「男性自身」シリーズよ
り)は、電子文藝館の校正のために読んだ。以前から、山口瞳
「男性自身」シリーズは、すべて読んでいるので、「卑怯者の
弁」は、再読。「戦中派」を代表する山口自身の戦争体験を踏ま
えて、「反戦」の思いを述べる。イラン・イラク戦争当時の「反
戦の弁」だが、アメリカによるイラク戦争(その後も含む)とい
う、現在の状況でも説得力を持つ発言となっている(そう言え
ば、8月という半年後の「近未来社会」の日本橋の丸善本店に
は、山口瞳の本(ただし、文庫本というのが、残念)が並び、山
口瞳を特集した雑誌がコーナーの中央に据えられている。そうい
う社会状況になっている)。

「卑怯者の弁」の、「卑怯」とは、清水幾太郎の「国家=軍事
力」論のように、雄々しく「開戦」を唱えない、という山口一流
の表現であり、反戦論者の「正論」の弁である。「複雑に屈折し
た感情を持つ戦中派」と清水幾太郎が決めつけた「戦中派」の、
反撃の弁である。戦後、50年以上が経過し、戦前派は、もとよ
り、戦中派も、多くが、鬼籍に入ってしまった。戦後派も、還暦
以上の年になり、社会の第一線から、リタイアしてしまった。

それでも、世の中、そんな単純なものではないから、「複雑に屈
折した感情を持つ」人の視点も大事だろう。複眼の思想が、もの
ごとを正確に見ると思うので、暫くは、山口の弁を追い掛けてみ
よう。

*戦後という時代は、私には宦官の時代であるように思われるの
である。アメリカが旦那であって日本国はその妾(めかけ)であ
り、日本の男たちは宦官であって、妾の廻りをウロウロしていて
妾を飾りたてることだけを考えている存在であるように思われ
た。  

*どうにも我慢がならないのは、内務班のことであり、そのおそ
るべき瑣末(さまつ)主義にあった。そのことを考えると、いまで
も体が慄(ふる)えてくる。
 
*私は、員数とか要領ということが嫌いだった。私の中学の教練
の教師は、
「なにごとも要領じゃ」 
 と言うのが口癖になっていた。彼の体には軍隊が染(し)みつい
ているように思われた。
 航空自衛隊を卒業して広告会社に勤めている知人に聞いたら、
いまでも物干場(ぶつかんば)では盗みがおおっぴらに行われてい
るそうである。それが要領であり、やはり「員数をつける」とい
う言葉が使われているそうだ。とにかく、泥棒が賞讃され、被害
者は屈辱的なリンチを受けることになる。要領というのは狡猾(こ
うかつ)ということである。少年であった私は、これが我慢できな
かった。大人になりきれない私は、いまでも、これが駄目だ。軍
隊では、狡猾な男が褒められ、偉くなるのだった。

*軍隊とはそういうところである。およそ、戦争とは無関係なと
ころである。日本人の、いや人間の醜悪な性格が無限に拡大さ
れ、あるいは凝縮される場所である。

こういうことは、組織や企業では、いまも、変わらない日本の姿
ではないかと、私は思う。

*私は、戦争というものは、すなわち「母の歎き」であると思っ
ている。戦争となると、不思議なことに、死ぬことは怖くなく
なってくる。しかし、私が死んだら母が歎き悲しむだろうと思う
と辛(つら)くなってくる。それは本当に辛い。「君死に給うこと
なかれ」と母親や愛人に言わせることが辛いのである。

*撃つよりは撃たれる側に廻ろう、命をかけるとすればそこのと
ころだと思うようになつたのは事実ある。具体的に言えば、徴兵
制度に反対するという立場である。

*わが生涯の幸運は、戦争に負けたことと憲法第九条に尽きると
思っている。

*私は小心者であり憶病者であり卑怯者である。戦場で、何の関
係もない何の恨みもない一人の男と対峙(たいじ)したとき、いき
なりこれを鉄砲で撃ち殺すというようなことは、とうてい出来な
い。
「それによって深い満足を得る」ことは出来ない。卑怯者として
は、むしろ、撃たれる側に命をかけたいと念じているのである。

以上、山口瞳の反戦の弁である。山口瞳は、自分が、兵隊から遠
いところにいることを誇りに思っている。

3・XX  菊村到「硫黄島」読了。菊村到は、読売新聞記者出
身の作家。1925.5.15 - 1999.4.3  「硫黄島」は、芥川賞受賞作
で、ミステリー仕立ての反戦小説。従軍していた硫黄島全滅後
も、3年間、穴倉に隠れていた男(片桐)が、戦後、穴倉に隠し
ておいた日記を取りに行きたいと新聞記者に話す。新聞記者は、
半信半疑。やがて、その男が、実際に、硫黄島に行き、日記を探
し出せないことに絶望して、硫黄島の火山の火口に身を投げて自
殺してしまう。

「とつぜん片桐は摺鉢山の旧噴火口からほぼ九十米はなれた地点
で両手をたかだかとさしあげ「バンザイ」とさけびながら崖下に
身をひるがえしたのだった。S・G氏は片桐のからだが突き出た岩
角に何度もぶつかりながら、火山灰をもうもうと立ちのぼらせ
て、ゆっくり落ちていった」と、硫黄島で片桐につきっきりで世
話をした米極東空軍司令部歴史課のS・G氏の手記にはある。

その謎を新聞記者(私)が、追う。硫黄島にいた同僚や上官から
話を聞く。やがて、片桐は、硫黄島で日本兵を見殺しにしたと思
い込んでいたことが判る。恋愛をした看護婦の兄が、硫黄島にい
て、戦死したことが判ると、片桐は、自分が、彼女の兄を殺した
かも知れないと思い込むようになる。やがて、片桐は、「自分が
生きるために他人を殺したのだ」と言っていたことが判明する。
「自分が生きるために他人を殺した」というのは、戦争での戦闘
行為そのものだが、そういう思いにかられれば、他人を殺すよ
り、自分を殺すしかなくなる。これは、もう、山口瞳の「卑怯者
としては、むしろ、撃たれる側に命をかけたいと念じているので
ある」という言葉と通底していることは、明らかである。
反戦の原点は、他人を殺すより、自分が、殺されることを選ぶ意
志であろう。

3・XX  結城昌治「軍旗はためく下に」(抄)は。例のごと
く、電子文藝館の校正用に読む。結城昌治は、小説家・俳人  
1927.2.5 - 1996.1.24 検察事務官出身。「軍旗はためく下に」
は、直木賞受賞作。5つの短編小説集。「敵前逃亡」「従軍免
脱」「司令官逃避」「敵前党与逃亡」「上官殺害」など、旧陸軍
刑法の罪をテーマに戦争末期の兵士たちの不条理な運命を描く。
例えば、戦闘行為で、捕虜になり、敵陣を脱出して、復帰した
が、捕虜になる前に自決しなかったとして、死刑の判決を受け、
結局、自殺してしまうなど。こちらも、ミステリー仕立ての反戦
小説。ほかに、反戦推理小説といわれた「死者と栄光への挽歌」
もある。電子文藝館には、「司令官逃避」が、掲載された。「戦
陣訓」より、「陣地は死すとも敵に委すること勿(なか)れ」を
サブタイトルにしている。
 
〈陸軍刑法〉
第四十二条 司令官敵前ニ於テ其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ隊兵
ヲ率(ヒキ)ヰ逃避シタルトキハ死刑ニ処ス。
 註 司令ニ任スル陸軍軍人トハ苟(イヤシ)クモ軍隊ノ司令ニ任
スル以上ハ其ノ団体ノ大小、任務ノ軽重ヲ問ハス又司令ニ任スル
者ノ将校タルト下士タルトニ論ナク総テ茲(ココ)ニ所謂(イハユ
ル)司令官ナリト解セサルヘカラス。

杉沢中隊長は、「温厚な、実にいい中隊長でした。部下を叱りつ
けるときでも、決して大きな声を出さなかった。わたしより三つ
か四つ年上だったでしょう。支那事変で北支に従軍してから予備
役になり二度目の応召まではカメラ会社に勤めていたと聞きまし
た。甲幹出身の中尉です。子供が三人いるということも聞きまし
た。ちょっと渋い感じの男前で、臆病なひとだったとは思いませ
ん」と、戦争から生き残った当時の部下が語る。

「連隊副官の藤巻という大尉が、杉沢中隊長の顔を見るなり怒鳴
りました。眼の窪んだ平べったい下品なつらで、呉服屋のおやじ
だったという四十歳過ぎの男ですが、えらそうなひげを生やし
て、北サンフェルナンドヘ戻れというんです。中隊長もずいぶん
無茶だと思ったらしいけど、命令では仕様がありません。上官の
命令は天皇陛下の命令と心得よですからね。わたしたちはぶつぶ
つ言いながら引返しました」。杉沢中隊は、この呉服屋のおやじ
に徹底して、睨まれる。

その後、中隊を放ったらかしにしていた連隊副官の藤巻大尉が、
部下を三人つれてふいに現れた。そしていきなり、守備地点を勝
手に放棄したというので怒鳴りだした。弁解しようとした中隊長
を兵隊が、見ている前で、軍刀で滅多打ちにした。「ここで腹を
切るか、さもなければ軍法会議にかけてやる。きさまのような将
校は連隊の名折れだ」などと言う。

「わたしは口惜しくてたまらなかった。中隊長はもっと口惜し
かったに違いない。呉服屋のおやじだった野郎が、階級が一つ上
というだけで、国のために召集された中隊長を殴っているんで
す。厭ですね。つくづく軍隊が厭だと思った。連隊本部で楽をし
ている副官などより、中隊長のほうが遙かに危険な前線で命を懸
けていたんです。ほんとに畜生! と思いました。あんたはそう
思ったことがありませんか。厭でしたね。どうにもこうにも腹が
立ち、厭でたまらない気持だった……」と、部下は、語る。

しかし、「杉沢中隊長は、軍法会議にかけられたのではありませ
ん。戦死です。戦死というより、一副官の独断か、もっと上の奴
らの命令か分らないが、とにかくそいつらのために、中隊長だけ
ではなく、百人以上の兵隊が死地に追いやられ、全滅すると分っ
ていながら全滅したんです。杉沢中隊を犠牲にして、果してどれ
ほどの大局的な作戦効果があったか知りません。わたしのような
一兵卒は、ただ自分の体験を語る以外にない。杉沢中隊の汚名が
残っているとしたら、とんでもない誤解だと言いたいだけです…
…」。

やがて、部下は、後日談を語る。仲間の兵隊・小柴に聞いた話。
「副官の藤巻は死にました。五年ほど前です。復員後、アメリカ
軍の出入り商人になって大分儲けたという話で、呉服屋から衣料
品の卸問屋(おろしどんや)の社長になり、偶然ですが、問屋関係
の宴会が小柴の旅館であったとき、藤巻も現れたそうです。もち
ろん藤巻は小柴を憶えていなかった。しかし小柴のほうが忘れや
しません。藤巻が現れたのは戦後十年くらい経った頃ですが、腰
の低いじじいになっていて、小柴が杉沢中隊の生残りだと言って
も当時を忘れたふりをして、しきりに首をかしげていたそうです
……」。
 
「――藤巻の死は新聞で知りました。顔写真はぼやけてました
が、角張った顎で、太い眉に憶えがありました。すれ違いに刃物
で殺されたという記事で、その後のことはよく知りませんが、犯
人は分らずじまいのようです……」。
 
一兵卒の語りというスタイルで、戦場における人間の嫌らしさを
暴いて行く。しかし、こういう藤巻副官のような、虎の衣を借る
男というのは、組織のなかに、いまもいる。反戦小説は、勝れ
て、人間論でもある(8月、アメリカによるイラク戦争は、ベト
ナム戦争の様相を濃くしている。新たな、ベトナム戦後へ歴史
は、動き始めたと思う)。

3・XX  松代達生「五月の朝」は、初めての子どもの出産を
巡る話。これも、電子文藝館の校正を兼ねて読む。初めての作家
の作品である。出産予定日を過ぎ、おしっこに血が混じった若い
妻(清)は、破水を起こしかけている。病院へ行き、無事出産す
るまでを初々しい筆致で描いて行く。物語の展開の節目節目で出
て来る小動物の扱い方が、巧い。妻が、入院した病院の庭。一羽
の雄鶏、一郎(主人公)の踝を刺した蟻、再び、現れた雄鶏の鳴
き声、鯉幟の真鯉と緋鯉、交尾しながら飛んで行った二匹の紋白
蝶、庭で洗濯物を取り込む女性の足にじゃれつく猫、外灯に群れ
る小さな虫たち、聞こえたような気がした犬の啼き声。飼ってい
た「ベス」という名の犬。

「人間が畜生と一緒に孕むと、片輪の子供が生れるよ、と清の母
が言った」ために、捨てられた犬が、ベスなのだ。無事生まれた
男の子。初めて、子どもが誕生した若い夫婦の気持ちを「五月の
朝」に託して、清清しく描いた。「泪で霞んだ一郎の眼に、雲間
から朝の白い光の射してくるのが見えた」。一方で、イラク戦争
で、殺されて行く幼い子どもたちがいる。生命の誕生と死。

3・XX  後山光行「水の硬度」、笠原三津子「マヌカンの青
春」、岡本「ミゼレーレ」は、いずれも、日本ペンクラブの電子
文藝館掲載の詩で、校正のために読む。このうち、「マヌカンの
青春」は、「デ・キリコ作ヘクトールとアンドロマケーに寄せ
て」というサブタイトルがついている。「ミゼレーレ」は、長編
詩。幕末から現代、今日までを題材に読み込んでいる。日本ペン
クラブの電子文藝館の校正で読んだが、誤植、誤字が多い。読み
込まれた詩の世界は、壮大で、知性が感じられるのとは、対照的
だ。

3・XX  大道珠貴「しょっぱいドライブ」は、今期(8月
「注」:すでに「前期」である)の芥川賞受賞作品。34歳の女
性は、妻子のある60歳台の男性と関係する。その関係の描き方
が、まさに「しょっぱい」のである。受賞作の「しょっぱいドラ
イブ」より、「タンポポと流星」の方が、おもしろかった。友人
の「嬉野鞠子」という女性が、主人公の私を虐める。虐められな
がらも、関係を立つことができない私。就職で、東京に出て来て
からも、心理的に、虐め、虐められの関係は、続いている。職場
では、東京人グループと九州人グループとの間で、新たな苛めの
関係がうまれる。そういう、苛め小説だが、虐め、虐められの関
係を、クールに描いている「富士額」は、相撲取りとのセックス
を描く。単行本には、この3作品が、入っている。受賞作も、そ
うだが、大道珠貴は、人間関係を客観化する構成が巧い。

3・XX  永井するみ「歪んだ匣」は、東京都心のインテリ
ジェントビルが、舞台。28階建ての高層ビルに入居しているさ
まざまなオフィスで働く人々が、描かれる。オフィスの人間模
様。それぞれのオフィスで事件が、相次いで起こる。連作短編の
オフィスミステリー。

3・XX  ねじめ正一「万引き変愛記」。民芸品店に万引きが
流行る。いや、いつのまにか、民芸品店のある商店街に、万引き
が流行り、ついに、商店街は、「日本一万引きと闘う商店街」と
いう万引き撲滅キャンペーンに立ち上がる。そういう万引き騒動
のなかで、民芸品店の万引き容疑濃厚の、謎の女性が登場する。
いつも、いろいろな帽子を被って、店にあらわれる女性。民芸店
を経営していた詩人・作家のねじめ
の自画像に近い世界だが、店主は、いつか、この常習万引きかも
しれない女性に恋をしてしまう。従って、「恋愛記」ならぬ「万
引き変愛記」というわけだ。コミカルな、一風変わった万引き小
説ができ上がった。そもそも、万引きをテーマにした小説など、
私は読んだことがなかった。

3・XX  桐野夏生「リアルワールド」は、大学受験を目指
す、エリート受験校の落ちこぼれ高校生が、母を殺したことから
始まる。高校生の隣家に住む女子高生は、この高校生に携帯電話
を入れたままの自転車を盗まれる。その携帯電話に記録されてい
た電話番号から、女子高生の友だちたちが、母親殺しの高校生の
逃亡生活に巻き込まれてゆく。高校3年生たちの、一風変わった
夏休みの過ごし方。現代の世相、風俗を巧みに取り入れながら、
まあ、それだけの小説。だから、おもしろい。テレビの民放のト
レンドドラマなど見たこともない私は、こういう小説を読むこと
で、そういう風俗を学んでいるのかも知れない。心も、体も荒廃
させた高校3年生たち、君たちは、私たちでもあるのだ。

3・XX  岩井志麻子「悦びの流刑地」。大正時代から昭和の
初期。あたかも、齋藤真一が描く絵を小説化したように読める。
東京の貧民窟に住む、「盲目」の弟と美しい姉の物語は、料亭で
仲居として働く姉が、持ち帰って来る紙片のなかから、帰結して
来る。姉が持ち帰る紙片とは、料亭に長逗留する女作家が書いて
いる小説の書き損じだからだ。物語は、時空を転倒し、始まり
が、終わりであるが、これは、終わりまで読まないと始まりが判
らないという設定になっている。趣向は、凝らすが、ある意味で
は、この小説は、一枚の絵を越えてはいない。

日本での商売に失敗し、逃げるように大陸に渡った男女。やが
て、女は、別の男と関係を持ち、邪魔になった男を殺す。先に、
日本に戻って来た女は、下宿先の女主人の財産を乗っ取ろうと、
遅れて戻って来た男を「弟」と称して、女主人に近付かせる。女
主人には、美しい幼い娘がいる。しかし、嫉妬に狂った女のせい
で、そういう企みに狂いが生じて来る。やがて、女主人が殺され
る。女も、関東大震災で死ぬ。残った男は、女主人の美しい娘を
「姉」として、暮らしている。メビウスの輪のように、物語は、
始まりに戻る。しかし、本の表紙になっている齋藤真一の絵「現
代の孤独」が描き出す世界を、「悦びの流刑地」が紡ぎ出す物語
の世界は、超えてはいない。

3・XX  丸山健二「ひもとく花」は、長野県の安曇野にある
自宅で、作家が作った350坪の庭に咲く花々の写真。写真も作
家自身が撮り、写真に写っている花への作家の思いを綴った文章
で、ひとつの宇宙を作り上げる。庭は、花を咲かせ、花は、写真
に撮られ、写真は、文章を誘発し、丸山の世界は、完結する。東
京・神田の三省堂本店で、丸山健二のサイン会が開かれていたの
で、拝顔に行く。「ひもとく花」「月は静かに」「生者へ」の3
冊にサインを戴き、購入。特に、「月は静かに」は、「たとえこ
の世が地獄でも、この庭さえあればいい」というキャッチコピー
で、人間を癒す場としての庭づくりに励む男の物語ということな
ので、早く読みたい。そのまま、新宿に出て、甲府に戻る。

3・XX  丸山健二「月は静かに」は、なんと、Kが作った
500坪の庭が、主人公。庭が、「私」で語るスタイルの一人称
小説。シュールな私小説というわけか。文章は、相変わらず、丸
山節で、想像力という名の観念で作り上げて行く世界。「月は静
かに」は、青森と思われる北国で、大平洋に面した原野に家を建
て、500坪の庭造りに励む男の物語。実際に、長野県の安曇野
に350坪の庭づくりをしている作者と等身大の男が出て来る。

ただし、この男の本業は、空き巣らしい。空き巣で稼いだ金で、
土地を買い、家を建て、庭を造り、通信販売で、花の種や球根を
とりよせ、30年掛けて究極の庭づくりを果たし、還暦を迎えた
年に、自宅のテラスで拳銃で頭を撃ち抜いて自殺をしてしまう。
小説は、彼が手掛け、丹精を込めて作り上げた庭が、「私」とし
て、物語を騙る「私小説」のスタイルをとっているという、
シュールな、そして、観念的な、哲学小説である。

「龍馬(りゅうめ)」の産地という表現に出逢い、私は、庭のあ
る場所を青森と推定したのだ。「龍馬(りゅうめ)」とは、奥州
の平泉で、殺されたはずの義経が、津軽の三厩から北海道に渡っ
た際に乗ったと言われる馬だからだ。義経は、その後、大陸に渡
り、ジンギス・ハーンになったという伝説がある。長編小説で、
3月中に読了の見込み無し。(続く)

ということで、4月上旬、やっと、丸山健二「月は静かに」読
了。3月末から、4月に掛けて、読んだ(従って、以下は、4月
の感想であるが、3月のところに書き込む)。

まず、主人公は、Kが作った500坪の庭。作者の表現によれば
「極楽としてのあらゆる条件を満たしている空間」ということに
なる。嵐に翻弄されながらも、K、Fによって丹精され、そして
生き続ける庭。物静かな定夜灯は、ときどき、哲学者めいたこと
を庭に語りかける。そのKは、盗人をしながら、庭づくりに励ん
でいる。物語は、けさ、Kが自殺をしてから、夜になり、KとY
の間に出来た息子が、ここを訪ねて来るころ、月が「ゆるゆる
と、静かに、どこまでも静かに昇りつづけている」ときまでを庭
である私が回想する。

K、Fとも、「サンライズホーム」という戦災孤児たちの施設で
育ったから、親を知らない。北国の原野で家を造り、庭を造って
いるKのところへ、Fという女性が来て、いっしょに、庭づくり
を続ける。施設で、幼いころから、兄と妹のようにして生きて来
たふたりが、再会したのだ。Oという警察官が、Kの犯歴を追っ
ているが、なかなか、現行犯で捕まえることができない。このO
も、孤児だ。孤児ゆえに、出世志向が強く、やがて、地元の警察
署長として、Kを再訪して来る。Oは、Kのことも、さることな
がら、私(庭)にご執心のようだ。このOと関わりは、紆余曲折
の末、最後まで続くことになる。

ところで、いっとき、Kが、庭づくりから離れる出来事がある。
造園業者の女性Yと家出をして、よその町で暮らすことになるか
らだ。ひとり残されたFは、庭づくりを続けるが、町にひとり残
されたYの母親の世話をしたりする。しかし、Kに去られた苦痛
から、Fは、やがて、自殺的な餓死をしてしまう。Fには、迷い
込んで来たBというオウムがいる。このオウムは、覚えた人間の
言葉を、自分の意志で話せるようになって行くが、やがて、死亡
したFに「殉死」するように、落雷にあたって死んでしまう。同
じ「サンライズホーム」育ちのTというやくざものは、後に、K
が自殺に使う拳銃を持って来る男だが、このTは、自分を捨てた
親捜しに残りの人生を使い、痴呆症ながら、金持ちの母親を探し
出して、庭を見せに来る。やがて、死病に取り付かれたOが、出
世を諦め、最後の死に場所として、庭で死なせてくれとKに頼み
に来る。「体制に迎合するばかりの、法的解釈一辺倒の、計算高
い、目下推進している出世のためとあらば次々に悪知恵を働か
せ、どんな恥も恥と思わぬ」Oが、である。

などなどという、なんとも、複雑な筋立ての、奇妙な味の観念小
説だが、これは、戦災孤児たちの物語とも読める。ならば、戦後
という時代を総括した物語か。いや、究極の庭づくりの物語だと
も言える。死んで行く孤児たちの話とKとYの間に出来た息子
が、亡くなった父親のKの後を継ぎ、庭づくりに携わる予兆も秘
めた結末部を館あげれば、永遠に生き続けるであろう庭との、い
わば、生と死の物語とも読める。
- 2003年8月18日(月) 23:06:43
2・XX  高村薫「マークスの山」の文庫版(上・下2巻)
が、全面改稿版として出版されたというので、買って来た。10
年前に刊行された早川書房版は、すでに読んでいるが、どう、改
稿されたか、愉しみだ。南アルプスの白根三山の北岳の麓が、最
初の舞台。殺人事件の現場として、目黒区の八雲、北区の王子な
ど、私の馴染みの場所が、次々に出て来る。「マークスの山」
は、映画にもなったし、その映画も見ている。それなのに、すっ
かり忘れていたことばかりが出て来る。高村薫「マークスの山」
を(上)から(下)へと読み進む。全面改稿とは言え、作品の骨
格は変わっていないが、細部は、覚えている部分と覚えていない
部分がある。それでも、引き込まれて、読んでいる。最後は、警
視庁と山梨県警の連繋プレーで、犯人を追い詰め、冬の北岳の山
頂付近で、逃避行の末に凍死しているのを発見する、けさは、曇
り。山々は見えず。数日かかって、けさまでに、高村薫「マーク
スの山」(上下)読了。直木賞受賞作だけに、原型を残すべき
だ、書き直すぐらいなら、新作を書くべきだという議論もある様
だが、図書館などで、どちらも、読む事ができるような状態が保
たれるなら、書き直しもありかなと思う。ミステリー小説なの
で、粗筋は、あまり触れない。乾いた文体といい、緊迫感のある
ストーリー展開といい、読みごたえがあった。


2・XX  阿刀田高「短編小説のレシピ」読了。ショート
ショートの作家らしく、短編小説の魅力、読むコツなどをレシピ
のようにまとめた本。おいしい短編小説とは?から始まって、具
体的な作家の作品に即して、事例研究が続く。向田邦子、芥川龍
之介、松本清張、中島敦、新田次郎、志賀直哉、R・ダール、
E・A・ポー、夏目漱石、阿刀田高などの諸作品が、俎上に上が
る。さまざまな手法、構造、世界。それは、長篇小説とは、違う
魅力がある。小説のさまざまな実験場が、短編小説の世界だと、
短編小説の名手は、結論する。私も、これから構築して行く「大
原 雄の世界」で、どういう作品を組み立てて行こうかと思案し
ている。

2・XX  文学は、すべて、人生を描くと言ってしまえば、あ
まりにも、当たり前すぎるかも知れない。しかし、適確に人生の
機微を描くと言えば、これは、結構難しい。高井有一「時の潮」
は、御用邸のある神奈川県の葉山にセカンドハウスを構えた元新
聞記者の生活を描いている。共同通信の記者から作家になった高
井の、ほとんど自伝であろうと思われる作品。穏やかな葉山での
生活は、御用邸を軸に、ときどき皇室が覗く。昭和の終わりとい
う時期に作品を重ねた結果、再婚した元新聞記者の生活に、昭和
史が、巧みに影を落とす。このあたりの設定が、実に巧い。その
結果、個人の生活を淡々と描きながら、昭和の終焉という全体状
況が、次第に明らかにされて行く。

再婚した妻の、先夫との間に出来た息子との出逢い、兵隊の経験
のある先輩記者との定年後の交流とその死など、家族と戦争とい
う個人を軸に両極端のベクトルが、バランス良く描かれる。「新
しい戦後文学」という謳い文句が、帯に書かれていたが、私は、
昭和の終焉という視点から、新たに描かれた「戦後」文学という
意味にとった。

2・XX  乙山優三郎「冬の標(しるべ)」は、江戸時代に女
性の絵師として生きようとした明世(あきよ)の人生を描く。時
代小説は、作り物だが、そこに登場する人物たちには、作家の実
人生が、投影されていることだろう。乙山優三郎は、結婚に失敗
をし、絵の師匠を慕いながら、やはり、絵を描く事でしか生きら
れない女性の情熱を描く。「萌えるように輝いていたときは過ぎ
てしまったが、終わりはまだ遠いとも思う」とあるように、人生
の「標」は、まだ、打ち立てるべきでは無い。そういう著者の
メッセージが、胸に響いてくる。私の人生も、定年が近付いて来
たけれど、まさに、「萌えるように輝いていたときは過ぎてし
まったが、終わりはまだ遠いとも思う」。同じ心境にある。

2・XX  津本陽「過ぎて来た日々」は、まさに、著者の自伝
的小説。自分の人生そのものだ。会社勤め、その閉塞感から逃れ
るため、小説を書き出す。やがて、会社を辞め、父親の土地を他
人が勝手に利用していたのを法律を元に立ち向かい取りかえす。
取りかえした土地に家作や駐車場を整備し、家賃をとれるように
して、創作専一の世界にはいる。現代小説から、やがて、剣豪小
説、時代小説へと変わって行った軌跡を描く。70歳過ぎても、
旺盛な創作欲、執筆量。津本陽のエネルギーの秘密を著者自らが
明かす。

しかし、文学作品である以上、そこには、当然、想像力が働く。
本の帯の惹句のあるように、自伝「的」という言葉が、その辺り
の事情を示唆している。作家が、己のことを書くにあたって、事
実ばかりを羅列するはずが無いのである。おもしろい作品にしよ
うとする、津本のような傾向の作家は、なおさら、自分の記憶の
隙間にも、想像力を働かせる。津本は、創作の動機を、先祖たち
の思いを筆に託して、再現するというところに置いている。それ
が、津本の創作欲の秘密だと書く。作家の過ぎて来た日々は、現
在、そして、未来への航路でもある。「誰かに叱咤されるように
して小説を書く。誰が私に小説を書けと命じているのかといえ
ば、先祖ではないかと、近頃思えてきた。家系のなかで一人ぐら
いおしゃべりな代弁家が出て来る」という。それでいて、「小説
を書くことは、苦労をつみかさねることで、楽しいと思うことは
めったにない」ともいう。

おおかたの同年齢の人たちは、隠居生活に入っている。しかし、
津本は、そういう生活に入らない。苦労の多い創作活動を続けて
いる。隠居生活。「そうしてもいいと思うのだが、いったんそん
な生活に入りこめば、勤倹力行のエネルギーはたちまち失われ、
自分の存在が影のようにはかないものになってしまい、もとの難
行苦行の生活に二度と戻れなくなってしまうような気がして、踏
みきれない」という。つまり、津本は、難行苦行こそが、人生だ
というのだろう。「笊で水を汲むような、報いられる何物もない
終末を迎えるのが人間だ」という津本の人生観を、生の言葉で
語った自伝的小説。

2・XX  人生は、いつの時代も様々である。明治維新という
時代の大転換の時期を武士たちは、どう迎え、どういう人生を
送ったのか。浅田次郎「五郎治殿御始末」は、明治維新を大失業
の時代として、読み替えた短編集である。明治維新は、武士階級
にとって、大量失業の時代であった。士農工商に生きた武士たち
は、現代の公務員、サラリーマンに近い存在だった。明治維新
で、武士という職業が無くなった。大失業時代に元武士たちは、
どう生きたのか。そういう視点で、幕末と明治維新を見直した浅
田の着眼点の勝ちというところか。
6つの短編が、リストラされたサラリーマンの悲哀を武士たちに
重ねて行く。

2・XX  堺 利彦「堺 利彦伝」(抄)は、電子文藝館の校
正を兼ねて、読んだ。大逆事件の幸徳秋水は、名文家であった。
確か、足尾鉱毒事件を直訴した田中正三の直訴文を書いたのも、
幸徳秋水ではなかったか。電子文藝館には、幸徳秋水の作品も
載っている。これも、校正をしたが、下世話に通じている上、文
章も洒脱で、大逆事件で、殺されなければ、思想史だけでなく、
文学史にも名を残した名作を書き連ねたのでは無いか。そう思え
ば、幸徳秋水の作品が、後世に多数残されなかったのは、慚愧に
絶えない。ここで、取り上げる堺利彦は、幸徳秋水とともに、活
躍した社会主義者だが、彼も、平明、鷹揚な文章家である。そし
て、人生の機微を語ってくれる。

堺利彦の略歴を掲載する。

思想家  1870.11.25-1933.1.23  福岡県京都郡(豊津藩仲津
郡)に生まれる。大阪に出て枯川漁史の名で文学活動を始め、のち
東京の「萬朝報」に拠り、幸徳秋水と識り徐々に社会主義的傾向
をあらわし「平民新聞」発行。根底に自由民権説と「儒教」を持
して、日本の社会主義思潮につねに長くよき底荷のように存在の
重きをなし続けた。秋水ら没後、枯川在って日本の社会主義は持
ちこたえたという評価が高い。

「堺 利彦伝」(抄)は、1924(大正13年)の作品。藩主
と旧藩出身の人たちの寄付によって設立された育英会の貸費生と
して上京した青年の成長と変貌の記録。故郷を出たのは、「時に
明治十八年春四月。十七歳」。明治時代に青春を過ごした青年の
生活を記憶に基づき、筆の勢いに任せながら、書き進められ、堺
の入獄により中断された自叙伝である。ひとりの有能な青年は、
真摯に人生を生きる。学生生活、物価、読書、放蕩、失意など、
そのさまが、ユーモアのある、判りやすい、文章で綴られて行
く。

2・XX  内海隆一郎「風のかたみ」は、まさに、人生の機微
が、テーマである。人生のを短編小説に仕立て上げる作家として
は、最も力のある人ではないか。病気と煙草、痴呆と音楽、中年
男とセックス、暴力と名声、家族の想い出と小道具、青春と歌声
喫茶、妻と故郷、海外旅行とアバンチュールなどなど。どこにで
も、ありそうなテーマで、読ませる短編小説を書く。読者も皆、
形を変えて同じような想い出を持っている。そういう多くの体験
との共通性を残しながら、内海独特の味付けで、内海ワールドを
構築する。その手腕の確かさ。

2・XX  長谷川伸「小説・戯曲を勉強する人へ」は、電子文
藝館の校正を兼ねて読む。長谷川伸の略歴を掲載する。

小説家  1884 - 1963  股旅物等の時代小説の手だれとして知
られた。掲載作は、昭和三十九年(1974)十一月十五日、長谷川没
後遺族の手で非売品として刊行された『石瓦混肴』所収の一文。
長谷川家に遺されていた日誌、メモ、新聞雑誌の切り抜き等から
編集されている。

そういう作品だけに、ひとつのまとまりを構想して描かれていな
い。執筆の時期が、とびとびである上、用語の不統一、あるい
は、誤植誤字も目立つが、そのまま、掲載されている。ただし、
小説、戯曲の書き方について、著者ならではの、コツの伝授とい
うもの随所にあり、興味深い。

特に、最後にとってつけたように置かれた、以下の文章が興味を
そそった。歌舞伎に興味のある人にとっては、必読だろう。短い
文章なので、そのまま、再録する。

「劇・俳優・戯曲」
 
 古典歌舞伎劇は亡びるかも知れないが、歌舞伎俳優は決して亡
びない。しかし、古典歌舞伎劇と歌舞伎系俳優を一と纏めにし
て、歌舞伎と呼ぶならば、亡びるだろうというのも真実であり亡
びないというのも矢張り真実だ。議論はこういう出発からでなく
ては面白味が少い。議論はそういう点が多分にあればある程消閑
の読み物に適して来る。
 
 科白と書いてセリフと読ませる勢いが段々強くなる。科はシグ
サで白はセリフだと教わってきた者にとっては、科白の二字でセ
リフと読む人が多くなればなる程、無識を嗤われなくてはならな
くなる。「源氏店」と書いて「玄治店」の誤りだと叱る方が正当
であるかの如くに、段々と変って行く。これは言語の変化で免が
れがたい事だ。
 古典歌舞伎劇が現代生活には不必要だという論旨は正しい。古
典歌舞伎劇は生活の疲れを慰撫する最良の芸術だという論旨も正
しい。それは明らかに二つの好みに大別出来る人々が存在する限
り嘘とはいえぬ。
 
 古典歌舞伎劇がわからない事は不幸だ。新しい劇がわからない
人も矢張り不幸だ。両方わからないでジャズだけで満足出来れば
一番気の毒に似た幸福だ。
 
 活字を恐れる俳優は天分を傷つける。活字を恐れない俳優も矢
張り天分を傷つける。その間に位する俳優が一番すぐれてしま
う、だから弱い心の持ちぬしは表彰されると行き詰る。強い心の
持ちぬしは表彰されると増上慢になる。その間に位するのは、正
直と不正直との一線に起たねばならぬ。だれでもが出来かぬる事
だ。
 
 科を考えて書かれない戯曲は日本的ではない。科を考えて書か
れた戯曲は新しくない。どっちも嘘ではない。ただ私は飽くまで
日本的な戯曲というものは科白劇でなくてはならないと信じてい
る。この点では楯の半面だけしか瞠(みつ)めていないと知ってい
る。それでいいと思う。科の発達は世界唯一だと信じる事を枉
(ま)げる時は大丈夫あるまいと思う。 (昭和4・5)

ここで、長谷川が、対立的に書いている課題の、第3の道が、思
えば、ことしで、400年となった歌舞伎が、その歴史のなか
で、絶えず求めて来たことではないか。そういう、絶えざる第3
の道への希求が、役者にも、座元にも、作者にも、道具方にも、
下座音楽にも、観客にも、あったればこそ、現在の歌舞伎の形が
あるのではないかと、思う。

2・XX  甲府盆地からも、大菩薩峠が見える。峠に登ると、
富士山が正面に見えるらしいが、まだ、登ったことが無い。「大
菩薩峠」と言えば、机龍之助が主人公となる中里介山の大長編小
説「大菩薩峠」を筑摩書房版を全巻買い揃えながら、読むのは、
半分ぐらいの所で、挫折したままだ。今回は、電子文藝館の校正
を兼ねて、中里介山の「愛染明王」を読んだ。

「紀伊国(きいのくに)那智の滝愛染明王(あいぜんみょうおう)の
お堂」が、舞台。ここを訪ねて来る青年の僧と堂守、さらに、後
から訪ねて来る若い女性の物語。まず、青年僧は、旅先で出逢っ
た文覚上人に教えられて、お堂を訪ねたと言い、年老いた堂守
は、上人の命を掛けた荒行の様を語る。

そして、文覚が、修業の果てに、「愛染明王の血のような赤身
が、おれの眼には乳のような軟肌(やわはだ)に見えてならぬわ
い、貪瞋痴(とんじんち)を見破る三眼が芙蓉(ふよう)のまなじり
に見ゆるわい、獅子(しし)の冠が指を染めるほどの黒髪に見ゆる
見ゆる」と言いながら、描いた絵姿が、美しい女性であった。そ
して、文覚は、その絵に、賛を認めた。「俗名遠藤武者盛遠(ぞく
みょう・えんどうむしゃもりとお)」。その絵姿の女性は、文覚と
相思相愛だった「袈裟(けさ)御前」であった。「十六歳にして遠
藤武者盛遠の手にかかって死んだ袈裟御前」の絵姿であった。

その話を聞き、絵姿の秘密を見抜いた青年僧に対して、堂守は、
絵姿を持ってくると言って、出て行った。青年僧は、俗名を「渡
辺渡(わたる)」と言った。やがて、堂守は、絵姿に良く似た女性
を連れて、戻って来た。その女性は、自分は、袈裟御前ではない
けれども、文覚に教えられて、袈裟御前の魂を追って、お堂を訪
ねて来たと言う。さらに、自分は、「親を殺し夫を殺して来た身
の上」だとも告白する。

「愛するということも、愛されるということも、つまりは殺すこ
とでございます、人を愛するのは自分の命をその人に捧げたいか
らであります、人より愛せらるる時は、その人の命を取るか、そ
うでなければ、やはりその人に命を捧げなければなりません、恋
というものの最後が死であることは、いずれ、あなた様にも充分
に御存知の筈の事と存じます」。この場面で、女性が言う言葉だ
が、これが、この小説のテーマだと、私は思う。

一方、堂守は、女性に対して、「愛染明王」に似ていると言い出
す。つまり、愛染明王だと言って、文覚が描いた女性の絵姿に似
ていると言うのである。青年僧も、女性が、絵姿にそっくりだと
言い、自分は、16歳の妻、袈裟御前を遠藤武者盛遠に殺された
源左衛門の尉(じょう)渡辺渡だと、告白する。

そして、「その翌日、その僧は、美しい女人をつれて愛染の堂を
立ち出でた、その後、旅から旅、この男女は相離るることが無
かった」。

妻・袈裟御前を殺された渡辺渡が、夫と愛人の果たし合いで、ふ
たりとも亡くなった女性と、文覚上人の導きで、愛染明王のお堂
で、出逢い、新たな愛の旅が始まる。赤身の愛染明王像の、赤い
血の色が、妻を殺された武家での青年僧と、夫と愛人に「殺しあ
い」をさせた女性の血の穢れを暗示し、愛染明王像の基底に見え
る女人像が、この女性を思わせるというトリックで、文覚上人
は、旅先で別々に出逢った、若い男と女を添わせる。ここでも、
愛は、全てを捧げるか、全てを奪うもの。中里介山が、言いたい
ことは、そういうことだろう。おどろおどろしい愛染明王のお堂
での、青年僧と若い女性、そして、年老いた堂守の、明かした一
夜の、奇妙な味の物語である。これも、人生の機微である。

2・XX  出久根達郎「漱石先生とスポーツ」 朝日新聞に連載
したコラム「スポーツひろい読み」(本とスポーツというテー
マ)のほか、夏目漱石とその門下生たちとスポーツの関係、田中
英光と原民喜の弟という2人のオリンピック選手(田中英光は、ロ
スアンゼルスオリンピックのボートの選手で、「オリムポスの果
実」などの作品がある。原民喜の弟・村岡敏は、ベルリンオリン
ピックのホッケーの選手。原には、被爆体験を書いた小説「夏の
花」や、詩集「原爆小景」などがある)をテーマにした書き下ろ
し2編で構成された作品集。スポーツのきらめきを文章で読む。作
家たちとスポーツのかかわりを文章で読む。そういう文章が入っ
ている古書を探す。作家兼古書店主という著者ならではの発想で
生まれた本だ。

2・XX  直木三十五「討入」を読む。芥川賞は、芥川龍之介
賞のことで、直木賞は、この直木三十五賞である。勿論、ペン
ネーム。31歳で、「仇討十種」を刊行したときのペンネーム
が、直木三十一、三十二、三十三という具合に、毎年、ひとつず
つ足して行き、三十五で打止め。最終のペンネームとなった。そ
の初作品集「仇討十種」から、「討入」を、いつものように、日
本ペンクラブの電子文藝館の校正を兼ねて、読んだ。「忠臣蔵」
の話である。元禄十五年十月の、大石内蔵之助の東下りから、同
年十二月十四日、赤穂浪士たちが、吉良邸に討ち入り、浅野匠頭
の仇討を遂げるまでを時系列的に描いて行く。気になったのは、
寺坂吉右衛門を、いきなり、「逃亡」扱いで出て来るところ。
これでは、討ち入りは、四十七士ではなく、四十六士になってし
まうが、そういう説があることは承知ている。余談だが、この人
は、東京や仙台など複数の地に墓がある人で、別の説では、大石
内蔵之助の特命を帯びて、討ち入り成功後、現場を離れ、浪士た
ちの遺族の面倒をみる連絡係を勤めたので、各地に足跡や墓があ
るとも言う。
人形浄瑠璃や歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」なら、寺岡平右衛門と
いう、お軽の兄さんの役所で、「七段目・一力茶屋」の場面、後
半では、主役級の役柄である。

2・XX  大杉榮「自叙伝」(抄)を読む。これも、電子文藝
館の校正を兼ねて読む。略歴を紹介しよう。

思想家  1885.1.17 - 1923.9.16 香川県丸亀市に生まれる。軍
人の家庭に生まれ育ち陸軍幼年学校に入り、放校されている。関
東大震災のどさくさに憲兵の虐殺に遭い、四十歳に満たず無残に
逝った。幸徳秋水のあとをうけた優れた社会主義思想家であっ
た。思想の根底に人間の自由と革命というヒューマニスティクな
把握があり、同じ陣営に対しても教条的な硬直には的確な批判を
加えてやまなかった。あまりに若い非業の死は時代のその後に大
きなくらい影を落とした。掲載作は、大正十年(1921)十月から十
二年一月まで書き次がれた長大な『自叙伝』から、父の任地新発
田から東京へ、若き日の目覚め行く少年の姿を抄出した。

この人も、ほかの社会主義者同様に、文章が、闊達である。雪の
新発田を旅たつ少年。7、8里(30キロ前後)も歩かないと、
最寄りの駅には、辿り着けない。そういう時代の旅である。東京
に着き、知り合いの所に下宿しながら、予備校に入る。身替わり
受験もありで、やっと、学校に入る。平気である。天真爛漫なの
だ。やがて、思想に目覚め、社会主義者から無政府主義者になっ
て行く。さまざまな思想家、運動家との出逢い、東京監獄に収監
された生活まで。自由闊達な文章で、読ませる。

ということで、2月の乱読物狂は、ここまで。
- 2003年8月17日(日) 20:30:53
* ここから、2003年。イラク戦争の予感は強まっていたが、
ネオコン(ブッシュ政権を支えるアメリカの新保守主義)の予想
をこえるイラク戦後の、いまのような泥沼(第二のベトナム戦
争)状況は、私も予想できなかったし、私の知る限り誰も予想し
ていなかったと思う。一方で、阿国の歌舞伎踊り以来、歌舞伎
400年目に当たる年がスタートする。私は、12月末までに、
小説「歌舞伎伝説」の草稿を書き上げている。


1・XX  齋藤孝「読書力」を読みはじめる。多分、齋藤は
「どくしょりょく」と読ませているのだろうが、赤瀬川原平ばり
に「どくしょりき」と読ませたい。つまり、読書の習慣をつける
ことで、自己形成をし、持続力、判断力、情報処理力など現代人
に必要な教養が身に着くと齋藤は主張する。読書離れでは、亡国
論、読書「力(りき)」で、新立国論というわけだ。

齋藤孝「読書力」読了。スポーツの練習のように、読書力を鍛え
る、人とのコミュニケーション力をつけるためにも、読書力は必
要だと言う。趣旨は、殆ど賛成。そう言えば、日常会話で、本の
話題が出ることが、稀になったなあ。私なども、毎日読んだり、
書いたりしているが、いまの環境では、日常的に相手に本の話題
を持ち出すことがないもの。読書を話題にする場合、いま、私の
廻りにいる連中が悪いか。それも言えるが、何処の職場に行って
も、同じじゃないか。読書力を身につけている方が、少数派で、
読書のことを会話に持ち出しても、コミュニケーションにつなが
らない。そういう状況の方が、問題だ。

1・XX  山本一力「深川黄表紙掛取り帖」読了。表稼業は、
夏負け防止の特効薬を売る「定斎屋」の蔵秀(ぞうしゅう)。富
岡八幡宮門前の印形屋の倅で、絵草子作家見習いの辰次郎。飾り
行灯職人の宗佑。尾張町の小間物屋のひとり娘で、絵師の雅乃の
4人組は、裏稼業で、江戸の厄介ごとの始末屋をしている。その
掛取り帖とは、いわば、事件の覚え書きという意味。仕掛けられ
た注文間違いで、いつもの10倍も届いた大豆を如何に捌くか、
という第一話「端午のとうふ」。雅乃は、実は、蔵秀に惚れてい
るし、蔵秀も雅乃が嫌いではないのだが、なぜか、女遊びに入れ
揚げている。そんな折り、雅乃は、気が進まないまま、親の商売
絡みで、見合いをする。その相手が、実は、根性曲がりの油屋の
総領息子だ。親も、金儲けのためにえげつない商法を平気でする
ような人物だった。4人組は、その親子にいっぱいくわせる仕掛
けを作る「水晴れの渡し」。水晴れとは、雨天のこと。紀伊国屋
文左衛門が、いわば仇役の役回りで出てくる「夏負け大尽」。さ
らに、紀伊国屋文左衛門の後ろ楯になる柳沢吉保が出てくる「そ
して、さくら湯」など、5つの連作短編からなる作品集。

将軍御側用人・柳沢吉保は、いまの山梨県武川村出身。徳川綱吉
に重用されて絶大の権力を振るった。文左衛門、吉保の描き方
が、綺麗ごと過ぎやしないか。そうは、言っても、作者が、い
ま、住んでいる富岡八幡界隈を舞台に繰り広げられる江戸庶民の
事件簿は、町の描写も活き活きとしていて読みごたえがあったこ
とは、確かである。

1・XX  宮本輝「星宿海への道」読了。東京から甲府に戻る
バスの中で読み始め、帰宅後も、読み続け、後輩のデスクから人
生の身の振り方を相談というか、「伝達」のための、急な酒宴を
間に入れながら、夜、早朝と読み続けての読了である。16年勤
めた職場を辞めたいというのも、衝撃的だが、宮本の小説も衝撃
的で、結局、後輩の実人生に軍配を上げながら、宮本の小説も読
み切った。

義理の兄が、中国南西端カシュガル旅行中に失踪した。その謎を
弟が追う。兄は、乞食をしていた女性の子であり、出生の秘密も
持つ。兄の失踪の謎を追う内に、兄の出生の謎を解くことにな
る。タイトルの「星宿海への道」に出て来る「星宿海」とは、中
国の黄河源流にある地名で、多くの伝説が残る地だ。また、「星
宿海」は、兄の母の出生の謎を解く瀬戸内海の島々の景色をもダ
ブらせているイメージでもある。母子が目指す、ふるさとの地へ
の道。テーマは、それだ。

ストーリーテーラー・宮本の筆力にぐいぐい引っ張られながら、
読了。失踪した兄は、小さなおもちゃメーカーの営業をしていた
が、中国へ営業の旅に出たような感じで、ひょっこり戻って来る
ような気がした。

1・XX  吉村昭「私の好きな悪い癖」読了。エッセイ集で、
生まれ育った東京・日暮里のこと。小説作法。歴史小説のこと。
心に残る人々。講演(尾崎放哉)など多様な内容。歌舞伎につい
ても、書いてあった。学習院旧制高等科時代に、中等科から進級
して来た小山君のこと。戦後直後、小山君と当時の芝翫(後の六
代目歌右衛門)の楽屋に鶏卵を届けに行った話が出て来る。小山
君とは、小山観翁氏である。


水上瀧太郎原作、久保田万太郎脚色「銀座復興」。本来は、関東
大震災で被災した銀座の料理屋の主人の復活の物語だが、それを
久保田が、空襲からの復興に書き改めた。戦後直後の、帝国劇場
の舞台。主人は、六代目菊五郎が演じた。「ふところの深いおお
らかな演技で、菊五郎が舞台に出てくると、桜の花が一斉に開花
するように華やぐ。まさしく名優という名にふさわしい役者で
あった」とある。

銀座の料理屋とは、「はち巻岡田」である。私も、何度か訪れた
ことがある。割烹着を着たおばあちゃんたちが働いている。料理
も旨い。店名の「はち巻」は、先代の主人が、鉢巻きをしていた
からである。

1・XX  角田光代「空中庭園」読了。東京の郊外の高層団地
に住む家族の物語。連作短編。「何ごとも包み隠さず」というの
が、モットーという家族だが、皆、家族にも言えない秘密を抱え
ている。「ラブリー・ホーム」:まず、中学生の娘は、自分の誕
生の秘密、つまり、両親が団地近くのラブホテルでセックスをし
た結果、生まれたと聞き、その「現場」へボーイフレンドと行
く。「チョロQ」:父親は、息子の家庭教師とセックスフレンド
になっている。ほかにも何人か浮気の相手がいる。「空中庭
園」:母親は、それほど離れていない距離に住む自分の母親との
間がぎくしゃくしている。「キルト」:そのおばあちゃんは、娘
の孫の中学生の少年と秘密を分かち合っている。孫が、家庭教師
の女性に頼まれて買い物に行き、金を忘れてきて、万引きで捕
まってしまう。それを「貰い下げ」に行き、孫と家庭教師がいる
ラブホテルに行くことになったのだ。「鍵つきドア」:家庭教師
の女性は、もともと中学生の父親の愛人で、父親の家に入り込む
ために、団地近くの住宅展示場で中学生に声をかけ、家庭教師に
なったことが判る。「光の、闇の」:中学生の少年は、前世占い
がすきな、年上の女子高校生とセックスをしたことがある。そう
いうふうに家族やその周辺の人たちがからみ合い、それぞれが主
人公になる形で、短編小説が、連鎖してゆく。おばあちゃんが、
入院したが、麻酔を拒否。麻酔をすると眠っている間にいろいろ
な秘密をうわ言で言いそうだという理由からだ。虚実の膜の上で
出来上がっている家族の危うさ。

巧みな構成の連作短編が、具体的な家族の心象を描いてゆく。ガ
ラス張りどころか、秘密だらけの家族たち。それは、まさに、現
代社会の危うさを写している。そういう意味で、家族小説という
より、典型的な社会小説になっている。 

1・XX  松井今朝子「似せ者」読了。江戸の歌舞伎役者や囃
子方が主人公の短編小説集。表題作は、初代坂田藤十郎に良く似
た小芝居の役者が、二代目を名乗る話。初代藤十郎の番頭が、興
行元らと計らって、偽者を仕立て上げる。偽者人気が高まるが、
偽者は、途中で、自分に戻り、逃げてしまう。「狛犬」では、若
手のコンビ役者の一方が、売れ出す。そういう力関係のなかで、
動き出す周りの人間関係を描く。「鶴亀」は、一世一代という引
退興行を何度もやり続ける役者の話。「心残して」は、囃子方の
仲間入りしている旗本の次男坊は、声がよい。長唄の歌い手だ。
その武士と三味線方との交流。武士は、やがて、彰義隊に加わ
り、亡くなって仕舞う。いずれにせよ、江戸時代の芝居小屋の人
間模様を描く。歌舞伎の世話事の舞台裏を覗くような作品。

1・XX  石田衣良「骨音」を読む。大沢在昌、星醒周が、新
宿・歌舞伎町を舞台に新しい小説世界を切り開いたというのな
ら、石田は、池袋の西口を舞台に新たな地平を開いたと言えるだ
ろう。「池袋ウエストゲートパーク」シリーズの第3弾。ホーム
レスを襲い、骨を折る音を録音し、それをゴシック系バンドの演
奏に使うという「骨音」。池袋の西口界隈を舞台にドラッグ、地
域通貨、レイブなど、現代の世相を、歯切れの良い文体で、ス
ケッチしている。高校時代、池袋界隈に親しんだことがある身に
は、古い池袋と新しい池袋を感じることができて、興味深く読ん
だ。

1・XX  続いて、シリーズ第二弾石田衣良「少年計数機」を
読みはじめる。先日、久しぶりに池袋に行き、西口へ廻る。いつ
もなら、西口の東武デパートにある旭屋書店を覗くだけで、西口
広場には、出ないのだが、「池袋ウエストゲートパーク」シリー
ズのせいで、広場に出てみた。以前と変わらない雑然とした感じ
だが、石田衣良の作品のロケーションを尋ねてみたい気にさせら
れる。まわりにあるものを全てカウントしないと気が済まない少
年・ヒロキ。数えるものが無くなると、自分の心臓の鼓動や呼吸
数を数えてしまう。アナログよりデジタル。そういう病的なほど
神経質な少年との交流などが、描かれる。石田の作品は、ロケー
ション、登場人物、ストーリーもさることながら、彼の文章のリ
ズム、語り口の新鮮さが、受けているようだ。それならば、ま
ず、そのリズムに直接触れてみることだ。

1・XX  出久根達郎「立志ふたたび」読了。著者の日記のよ
うなエッセイ集。「立志ふたたび」は、「中年、志を立て直し
て、再び、道を行く」という意味のようだ。この「立て直して」
が良いと思う。普通、中年は、疲れ果てているから、「志を立て
直し」たりせず、使い古された青雲の志を仕舞い込んだまま、そ
のまま、惰性で人生の終幕を迎える人が、多いのではないか。
「壮士ひとたび去って、また還らず。立志ふたたび得て、また、
おのが道を往く」。中年は、「疲れてはいるが、疲れきったわけ
ではない」と著者は言う。そうだ、青年時代は、人間形成をし、
就職してからは、財を蓄積し、家族を養い、定年後は、その財を
己の豊饒な時間のために使う。新たな志を得て、豊かな人生を完
成させる。私も、豊饒な時間が、目の前に迫って来た。少しでも
長く時間を使うために、摂生し、健康を保持したいと思う。

老境というタイトルの文章に、女優の高峰秀子が出てくる。「高
峰さんは決して病院に行かない。病気は気力でねじ伏せる。だか
ら、『緊張してたら、太りませんっ!』という言葉もでる」。月
刊誌に連載したエッセイから選んでいるから、日記風エッセイ
は、同時代史でもある。
1・XX  小島 勗(つとむ)「地平に現れるもの」を読む。い
つものように、電子文藝館の校正をかねている。世にあまり知ら
れていない作者なので、略歴を掲載する。「小説家  1900.6.1 
- 1933.1.6 長野県松本市に生まれる。掲載作は、大正十四年「早
稲田文學」九月号初出の処女作で、関東大震災時の刑務所内に発
生した白色テロル事件の制圧に関わった一看守の目で書いてい
る。初期プロレタリア文学を藝術的に代表する優れた作と見られ
たが、官憲は忌避し発禁に処した。日本の監獄制度に批判の意識
をもちながら自己防衛と恐怖の衝動から囚徒に過酷に攻勢を加え
てゆく悩ましい齟齬を、とにもかくにもねばり強く書いて考えて
いる。横光利一の義兄にあたる」とある。新感覚派の横光と文学
的にどういうつながりがあったのか、知らないが、刑務所の日常
を描きながら、新感覚派に通じるシュールな印象も残る奇妙な味
の作品だ。その刑務所が地震に教われ、事件に発展する。そうい
う想定だけでも、おもしろい。地震と刑務所などという発想は、
なかなか、出てこない。まず、出だしの文章はこうだ。

「時計は掌の中に白く光つてゐた。十一時五十八分。作業は終り
に近づいてゐた。小牧はいまでもその時の感情を忘れることが出
來ない。 
 突然、獄舎が、獄舎の裏手の仕事場が、建物全体が、うおつ、
うおーう、といふ物凄い叫声をあげた。茶畑にゐた囚徒達が一斉
に仕事を抛(はふ)り投げて、彼の方を向いて立つてゐる。小牧は
その囚徒達の、無数の、そして無限に拡がつた眼孔の前に、測り
知られない深淵の前に、直面して立つた。極く短い、ほんの一瞬
の間であった。が、小牧の心臓は、その威嚇の深淵に対する限り
ない恐怖にも拘らず、否恐怖が一層深いだけ、堅く硬直した敵愾
心(てきがいしん)を、どく、どくと惑乱する四肢へ、全存在へ送
り出した。──これが小牧をして、そしてまたひとしく看守達を
して、囚徒達に対する不合理な行為を敢てせしめるに到つた獣的
な、全く非理性的な、最初の誤つた衝動であつた」

文章のリズムにも、独特の味わいがある。電子文藝館は、イン
ターネットで、無料で読めるので、是非読んでほしい作品だ。

1・XX  岩崎芳生(ほうせい)「梢の月」。こちらも、電子
文藝館の作品。日本ペンクラブの現会員。略歴によると、「小説
家 1936.11.30  静岡市に生まれる。 静岡県文化奨励賞。掲
載作は、平成十四年(2002)十一月「ペン電子文藝館」のために書
下し」とある。こちらは、街頭演劇などをしている奇妙な中年の
夫婦と同年の女性との交流を女性の視点で描いている。奇妙な夫
婦のうち、女性の方は、主人公と中学の同級生だった。再会後
の、つきあいを淡々と綴る。いっしょに、丘の上の畑で野菜を
作ったり、そこで、雷雨にあったり、フリーマーケットで古着を
売ったり、大きな木の洞に入ったり、そういう日々が、過ぎて行
く。自由な時間の流れが感じられる作品だ。

1・XX  平林彪吾「鶏飼いのコムミュニスト」も、電子文藝
館の校正を兼ねて読んだ。この人の作品も、初めて読む。略歴。
「 小説家  1903.9.1 - 1939.4.28  鹿児島県姶良郡に生ま
れる。復興局の建築技手を勤めながら昭和六年(1931)日大社会学
科を卒業日本プロレタリア作家同盟に加入、喫茶店や撞球場を経
営したり、詩を書き文学雑誌を出し文士劇をやり、生前に一冊の
著作集もなく、掲載作以降僅か四年間に長短二十余の小説を書い
て、三十七歳で死去。此の作は昭和十年(1935)七月「文藝」懸賞
に入選のいわゆる「転向」作と観られるが、地下活動の一端を深
くのぞき込み、端倪すべからざる異色の毒と表現を得ている」と
ある。

文章の出だしは、こうだ。

「朝といつてもまだ早く竹薮の中はうす暗い、小田切久次は四辺
に気を配りながら静かに鋸を挽(ひ)くのであつた。ゴースー、
ゴースーとかすかな音がひびく。半丁ばかり距てた薮の入口には
乞食たちが住んでいる。ここに住む恩義から乞食たちはこの竹山
の番人の役を買つていたのである。だが今朝はまだ彼等も菰(こ
も)の中で夢を見ているのであろう、気づかれた気配もない。鋸は
いつか唐竹の根に三分の二ほども喰い入つていた。パーンと不意
に竹が裂けた、小田切久次はぎよッとして手を引いた、サアサア
と頭の上で葉ずれの音がして竹は、ばさりと倒れた。小田切久次
はにたりと会心の笑をもらした。どこかで鶏がときをつくつてい
る、サアサアと再び竹が倒れた。パチーンと不意に礫(つぶて)が
飛んで来て小田切久次の右手の竹に当りはね返つた、つづいて、
誰だッと鋭い声が背後で怒鳴つた。小田切久次は総身に水を浴び
たようにはッとして脂肪(あぶら)ぎつた顔を上げうしろをふり向
いた、三人の乞食たちが近くに迫つていたのである。それをちら
と視線の端にとらえると彼は四斗俵のように太くずんぐりした体
をむつくり起し、鋸をつかんでとんとんと駈け出した。パーン、
パーンと竹にぶつつかる礫の音がした、小田切久次は白髪まじり
の頭を振り熊のように竹薮を縫つて走つた。まもなく、はッはは
はと背後で笑う声が聞えた。追手の間隔は遠くなつていた、追う
ことをやめたらしい、小田切久次ははじめて立ち止りふりかえつ
た。乞食たちの姿は竹に遮ぎられて見えなかつた、はッはははと
小田切久次は笑つた。竹を盗(と)つて鶏小屋を建て増ししようと
いう計画が喰いちがい、彼は少しばかり不愉快になつたのであ
る」

とにかく、この鶏を飼っている小田切という男は、何でも盗んで
来る。鶏の餌にと、「魚屋から盗つて来た魚の雑物」もあれば、
いっしょに飼っている「兎の馳走は八百屋の掃き溜めから持つて
来た」という調子だ。空き地の地主が、遠いところに住んでいる
のを良い事に、無断で、畑にして、野菜などを作っている。「小
田切久次にあまり出来ないものがない、何処からか桐を見つけて
来ては自分の下駄を作るし、セーターを編み、机、椅子を作る、
野菜を作り詩を創る、彫刻をやり染色をやり版画をやり小説を書
く、それが何れも一応専門家の域に至つているのが不思議であ
る」という、いわば、異能の人である。

「小田切久次は珍らしい藏書家である、彼は欲しいと思う本があ
ればどんなことをしても手に入れる、たとえ盗んででも――盗ん
ででもと云つたが、実は彼の見上げるような書架にぎつしり詰つ
た本の三分の二は盗んで来たものである、彼がそこらの古本屋で
一冊の本を買えば帰りにはマントの中に買わなかつた本も入つて
いる、何時いかなる隙にそれだけ器用なことをやつてのけるのか
生れつきタレントがあるのであろう」。漫画家の、つげ義春に、
これを原作にして、絵を描かせたらおもしろい作品が、できあが
るのではないか。

「思想をマルキシズムに拠りながら、資本主義社会に育ち生きて
いる小田切久次が食わんがためには如何に執拗な所有欲と個人主
義的な感情に満ち、一個の矛盾した生活をしているか」。それ
が、「鶏飼いのコムミュニスト」氏・小田切久次の生活と意見を
描こうとした平林彪吾の狙いだろう。当時の活動家の「地下生
活」(活動生活)を垣間見せながら、最後は、彼に愛想を尽かし
て、女房が逃げ出すまでを描いて行く。兎に角、奇妙な味の小説
である。

1・XX  山内謙吾「三つの棺」も、電子文藝館の校正を兼ね
て、読んだ。この人の作品も、初めて読む。略歴。「小説家 経歴
不明。 掲載作は昭和三年(1927)六月「文藝戦線」の初出。五年
後の小林多喜二虐殺を予告し、国権と雇用の陰惨・酷薄を労働者
家族の体臭とともに悲痛に告発し証言している。山本勝治ととも
に「文戦」派新人として活躍していたが、昭和七年(1932)の検束
以後に文学を離れたか」という、文学史上、良く判らない人であ
るらしい。作品は、当時の労働組合の運動を描く。労働争議に巻
き込まれた家族の悲惨。娘は、製本工場で、作業をしていて、掌
を切断するという大怪我を負う。息子は、争議の混乱で、殺され
る。夫は、以前に、起重機の下敷となつて亡くなっている。残さ
れた妹と母。タイトルの「三つの棺」とは、息子を含めて、争議
の犠牲になった3人の労働者の葬列が、弾圧される様を描いてい
る。平林彪吾の「鶏飼いのコムミュニスト」が、ヒューモアで労
働者の悲惨さを描くのなら、山内謙吾の「三つの棺」は、真正面
から、同じテーマを描いている。

1・XX  高橋順子「けったいな連れ合い」は、詩人・高橋順
子が、夫で、作家の車谷長吉との日々を描いている。お互い、
50歳近くになって、初婚同士で結婚した。稀代の「けったいな
連れ合い」である、夫の生活と意見を、妻の視点と詩人の感性で
描く。罅の入った、鍋と綴じ蓋のようなふたり。その生活ぶりを
綴ったエッセイ集に加えて、夫婦で開く句会やふたりの生活を描
いたラジオドラマの脚本も入っている。車谷長吉の「極私小説」
の作品と合わせ鏡のようにして、読むとおもしろい。

1・XX  真保裕一「黄金の島」読了。貧しさから抜け出そう
としているベトナムの若いシクロ(人力車)乗りたちの前に現れ
た不思議な日本人。組織に追い詰められ日本から、タイを経て、
ベトナムに逃げ込んで来たやくざ者だ。「黄金の島」=日本への
密航を企てるベトナムの若者たちに手を貸すことになるやくざ者
との冒険行の物語。冒険行は、成功するのか、しないのか。それ
は、この主の作品紹介のエチケットとして明かせないが、ストー
リーテーラー、真保裕一の作品らしく、細部の描写に読みごたえ
があった。
- 2003年8月16日(土) 22:54:19
12・XX  加能作次郎「乳の匂ひ」読了。電子文藝館の略歴で
は、こうなっている。「1885.1.10 - 1941.8.5 石川県羽咋郡に生
まれる。十四歳の時伯父を頼って京都へ出、のち東京に転じ早稲
田に学んだ。生い立ちの貧しさを通して不幸な下積みに生きる人
間をリアリティ豊かにしみじみと書き込んでゆく作風は、「中央
公論」昭和十五年(1940) 八月号初出の掲載作にみごとに示され
る。翌年、これを表題作とする作品集の校正中に急逝した」とい
う。

さすれば、「乳の匂ひ」は、自伝的色彩の強い作品と言える。
14歳で京都の伯父を頼って出て来たら、旅館兼薬屋の丁稚にさ
れた。妾上(めかけあが)りの伯母に頼まれて、伯母の姉の家で産
後の養生をしている養女のお信さんとの出合いの物語である。

伯母の男を押し付けられ、恋仲になり、勘当されながら、子ども
を産んだお信さん。私の「数年間の京都生活中、後にも先にも、
たつた二度しか」逢ったことのないお信さんだが、2度目の出合
いの強烈なできごとゆえに、40年経っても、私の記憶から消え
ない。お信さんは、産んだ子ども可愛さに男とともに、上海に行
くと言って、勘当中の伯父夫婦のところに別れの挨拶に来た後、
送りに出た私は、強風に煽られて、目にゴミを入れてしまう。な
かなか取れないゴミ。それをお信さんは、赤子のために張ってい
た乳房を取り出し、少年のゴミの入った目を洗うのだった。

その場面の描写は、こうだ。
『「あ、そや、それがいゝ。」と自分自身に呟くと、いきなり、
私の膝の上に跨るやうに乗りかゝつて、無理に顔を仰向かせたか
と思ふと、後はどんな工合にさうしたものか、私は眼で見ること
が出来なかつたが、次の瞬間、あツと思ふ間もなく、一種ほのか
な女の肌の香と共に、私は私の顔の上にお信さんの柔かい乳房を
感じ、頻りに瞬きしてゐる瞼の上に、乳首の押当てられるのを知
つた。
「穢(ばゝ)うても、一時(とき)辛抱おし。」
 私は拒むべくもなかつた。それは全く分秒の間に非常に手早く
なされたのであるが、さうしたお信さんの所為(しぐさ)には、到
底私の拒否や抵抗を許さない、何か迫るやうな真剣なものがあつ
た。溺れる者を救はうとする、といふよりも、自分自身溺れんと
して周章(あわ)てふためいてゐる者のやうな、一種本能的な懸命
なものが感ぜられた。私はそれに圧倒されて、身動きも出来なか
つたのであつた。
 かうして乳汁(ちゝ)の洗眼が行はれた。それがどれ程の間続け
られたか、ほんの一二秒のことのやうでもあつたしまた大変長い
間のことのやうにも感ぜられた。私はその間只もう息もつまるや
うな思ひで、固く口を食ひしばり、満身の力を両手にこめて腰掛
けの板にしがみつき、一生懸命自分自身に抵抗してゐた。さうし
なかつたら、私の口は何時お信さんの乳房に吸ひついたかも知れ
なかつたし、又私の両腕が、何時お信さんの腰に捲きついたかも
知れなかつた』

この小説は、この場面だけで、後世に残った。乳飲み子を持つ若
い女性の清清しいエロティシズムと本能的とも言える崇敬な母性
を感じさせる、その場面の描写が、タイトルの「乳の匂ひ」と
なっている。谷崎潤一郎を感じさせる、一種の母恋物語であり、
森鴎外を感じさせる、一種の「イタ・セクスアリス」である。

12・XX  北原亜以子「慶次郎縁側日記 隅田川」読了。
「慶次郎シリーズ」第6弾だが、森口慶次郎は、遠景に退き、と
きどき、顔を出す程度で、主人公は、慶次郎養子の晃之助になっ
ている。人情をからめた人間関係は、時代に関係なく続いてい
る。現代にも通じる人情の機微を描く。そういう時代小説だ。北
原亜以子の世界は。今回も、時代劇に登場する江戸の庶民たちが
演じる人情劇を活写する。江戸の町も、遠見の書き割りを外し、
舞台に乗っている橋や坂などの大道具を片付け、登場人物の着物
を洋服に着替え、鬘を外して地頭に戻せば、庶民の現代劇に替
る。さはさりながら、北原節で描き出され時代劇からは、江戸の
風が、隅田川の土手を越えて、吹いて来る。いつしか、読み手と
して、江戸の町の外にいたはずの私たち、現代の読者も、舞台に
上がって、江戸の町を歩いているから不思議だ。子どもの盗みを
テーマに、今も変わらぬ親子の関係を描く「うでくらべ」。蛙の
留金がついた紙入れにまつわる浪人者の話など、ちょっとした小
道具、エピソードを基軸に庶民ものの短編小説に仕立て上げる手
腕は、相変わらず、見事である。

12・XX  木村良夫と言っても、知らないだろう。電子文藝
館の校正を兼ねて読んだのは、「嵐に抗して」である。木村の略
歴。「経歴不詳」とある。「嵐に抗して」は、「労働者として非
合法地下活動に従事し官憲との間で息詰まる格闘を繰り返すうち
に、昭和五年(1930)十月「ナップ」第一巻第二号に投稿されてい
る」という。「言論・結社・思想の自由弾圧に対する如実な抵抗
運動を証言した著者唯一の遺作であり記念作である」と、作家の
秦恒平氏は、書いている。いわば、「都市ゲリラ」のような生活
を活写している。

根城を官憲に知られぬよう注意しながら、小さな工場で働き、党
活動を続けている。
そういう日々を体験した人らしい、きめ細かなエピソードで書き
綴って行く。検束され、留置所に入れられたりもする。大変な生
活なのだろうが、官憲のスパイとの攻防なども明るく描いてい
て、どん底に、どっこい生きているぞ、という覚悟が、伝わって
来て、なぜか、読後感が、爽やかである。

12・XX  江見水蔭「女房殺し」読了。これも、電子文藝館
の校正を兼ねて読む。この人も、初見の人。略歴には、こうあ
る。「えみ すいいん  小説家    1869.8.12 - 1934.11.3  
岡山県岡山市に生まれる。巌谷小波の紹介で硯友社同人となり、
田山花袋とも親交。雑多な畑で作品を残した中で、明治二十八年
(1896)「文藝倶楽部」十月号に初出の掲載作は、日清戦後の深刻
小説の一代表作として、田岡嶺雲、内田魯庵さらには斎藤緑雨の
「上々吉」に極まる「傑作」として驚くほど賞賛を浴びた。いわ
ゆる同時代評であるが、同時期の鏡花一葉らと作調に通い合うも
のを明らかに持っている」

東京の学生が、逗子で旅館に長期逗留している。宿帳には、「東
京市芝區櫻川町二番地田村方。静岡県士族。近藤堅吉。二十三
歳。数理学校生徒。脚気療養」とある。数理学校で天文学を学
ぶ、 その学生が、宿近くの「木蔭の茶屋といふ水茶屋」を経営す
る老婆と孫娘と仲良くなり、やがて、結婚する。この娘は、性格
も良く、おとなしいのだが、少女の頃、飲んだくれの父親の為
に、処女を売らされる。学生は、老婆からそういう話を聞かされ
た上、悩みに悩んで、娘と結婚するのだが、なにかにつけて、恩
着せがましく、その話を繰り返す。就職した学生は、老婆と娘を
養うため、ひとりで中国に働きに行く。夫の居ない留守家庭を
守っていたふたりだが、老婆が病気で死に、夫からの仕送りも無
いため、生活に困った妻は、処女を売った男に、再び騙されて性
関係を結んでしまう。帰国後、それを知った夫は、妻を詰る。
詰った挙げ句、中国で、稼いだ金を妻との旅行で使い果たし、結
局、妻を殺して、自分も自殺してしまう。そういう陰惨な話なの
で、当時は、「深刻小説」と銘を打たれたらしいが、写実小説
で、日常の生活や意識が、リアルに描かれていて、さもありな
ん、こういう人たちって、いるね、という感じは、今の時代にも
通じるものがある。

12・XX  電子文藝館の校正を兼ねて田中英光「野狐」読
了。「やこ」と読む。若いころ、田中英光の作品は、良く読んだ
ので、懐かしい。早稲田大学時代に、オリンピックのボートの選
手となり、そのときの体験を基にした「オリンポスの果実」。太
宰治の「グッドバイ」の向うをはって書いた「さよなら」などを
思い出す。アルコールと催眠剤中毒による錯乱の日々を活写した
ような作品群。あげく、太宰の墓の前で自殺してしまった作家・
田中英光。「野狐」も、そういう作品群の一つであり、略歴の評
価には、「戦後私小説の一代表作」とある。妻子がありながら、
街娼と同棲したり、別居したりしている作家自身の自伝的小説。
その陰惨な日々が、活写される。タイトルの由来は、禅の講釈本
らしい「無門関」というのが出て来る。

田中の文章を引用しよう。

「その中でも、『百丈野狐(やこ)』という公案が好きだった。そ
れには、あのボードレールの、(あきらめよ、わが心、けだも
の、眠りを眠れ)といつた嘆声に共通したものがあるように思わ
れた」。

「不落不昧、両彩一賽(いつさい)、不昧不落、千錯万錯。
 野狐(やこ)風流五百生、私は転々悶々(もんもん)として、永遠
に野狐であるらしい」。

妻子を捨て、愛欲と酒と薬に、己の人生をすり減らした挙げ句、
36歳で自害してしまった田中英光。「茶色い戦争」があり、黒
焦げた戦後の荒廃があり、
荒廃色に己の人生を染めた男の物語。だからといって、荒廃に殉
じた男の人生が、いまを生きる私たちの人生より、みじめだと
は、言えない。

12・XX  小林多喜二を読む。電子文藝館の校正でも無けれ
ば、いま、小林多喜二を読むようなことには、ならないだろう。
それだけでも、貴重な読書であった。小林多喜二の作品も、若い
ころ、いろいろ読んだが、今回「一九二八年三月十五日」を再読
し、「『保名』の踊り」などという歌舞伎の演目を示す表現が出
て来て、ビックリ。小林は、自分の歌舞伎観など、どこかに書い
ているのだろうか。略歴を示すと、「小説家  1903 - 1933  
秋田県に生まれる。 小樽高商卒業後、昭和初期へかけて日本社会
の思想的な動揺のさなかに共産主義思想に共鳴、しかも「主人持
ち」の文学を否認する白樺派志賀直哉の心境的なリアリズムに深
く影響された。代表作「蟹工船」「党生活者」等により嘱望され
ながら、昭和八年(1933)、言論表現思想の自由を弾圧した「特
高」警察により拷問虐殺された。掲載作は多喜二のリアリズム表
現が切迫と余裕との両面の魅力で光った優れた抵抗の文学とし
て、プロレタリア文学の代表的古典と評価されてきた」。

物語は、共産党で活動する労働者とその家族の物語。「3・
15」は、何回かあった官憲による共産党弾圧事件の日。権力の
実相を抵抗者の目で、緊密の描く写実小説。さきの木村良夫「嵐
に抗して」同様、明るい筆致で、ユーモラスに、逞しく活動家の
日々が描かれている。

12・XX  木島始「予兆」を読む。電子文藝館の校正を兼ね
て。「予兆」は画家山下菊二の装画とともに昭和四十六年(1971)
私家本で制作され、後に、1976年刊行の詩集『千の舌で』に収録
されたという。

「ぼくらは/ひととき/その予兆に/たじろいだ」で始まる詩
は、原爆の落ちる日の予兆を歌う。「原始の沃野から/古代から 
中世の信仰へ/その中世から/言い伝えられた魂のように/上昇
する一瞬の/煙となって/ぼくらの肉体のすべてが焼きつくされ
る日/ぼくらの家が バラックが/ぼくらの樹木が/黒く 全人
類の 全地球の/空を焦がす日/その一瞬の/偶発するかもしれ
ないぼくらの敗北を/いかなる呪詛とて/地獄の敵にと像(かた
ど)りえなくなる日のことを/ひとびとは何気なく/じぶんじしん
の 毎日のおじぎの/どこかに押しこみ/昨日のじぶんの植民地
の半島から伝えられる/拡げた「植民地型」新聞の/戦場の写真 
ナパーム爆弾に/見入った/<ぼろぼろの棒ぐいのようになった屍
体の写真──/地平線にまで連なる残骸の──>/はやくも くば
られる写真の麻酔で/しびれる舌と唇に/沈黙を強いてきている
/その日の昏さ!/未来が失明してしまうその日の昏さ!」

「昏い」予兆は、詩人の心配をよそに、イラク、イラン、北朝鮮
などを軸に、やがて起こるかも知れない。ほかの地域も巻き込ま
れるかも知れない。しかし、昏い「予兆」は、予兆では無いこと
を私たちは知っている。アメリカが、57年前に、すでに「空を
焦が」したことがあると言うことを。それも、広島、長崎と2回も
続けて。
 
「この予兆に/闘ういがい/生きる意味は/いまありえない」

すべての原点は、ここにあると思う。9・11の同時多発テロ
も、そうだろう。その後の、アフガン攻撃もそうだろう。ロシア
でのテロ。イラク査察、北朝鮮核戦略。いま、世界各地で起こっ
ているものごと皆の、原点は、ここだろう。詩人の持つ感性を人
類の一人一人が、「生きる意味」の原点として、共有しない限
り、こういう「予兆」は、人類の頭上に、堕天使の輪のように、
いつまでも、何処へ逃げても、ついて廻る。
 
12・XX  子どもたちが、大人の生け贄にされている。幼児
売春、臓器売買など、タイの闇社会を描く。梁石日「闇の子供た
ち」読了。農村の貧しい子どもたちが、買春の道具にされるため
に、売られて行く。子どもたちの身体を利用して、麻薬が密輸さ
れる。麻薬を子どもの内臓に隠して、国境を越えようとする。国
境では、検問に当たる軍が、麻薬を摘発する。摘発された麻薬
は、闇ルートでマフィアに流れて行く。日本から、子どもの臓器
の移植手術を望む家族が、極秘にタイへやって来る。生きたま
ま、臓器をとられる子どもたち。殺された子どもの臓器は、各部
分が、高価な価格で取り引きされる。利益は、マフィアなどに流
れて行く。

NGOで、アジアの人たちの人権擁護の運動をする女性や新聞記
者が、こうしたタイの子どもたちの人権を護ろうと動き出す。妨
害する謎の男たち。子どもたちの人権を護ろうと全国統一大行進
の集会が、開かれる。集会後のデモ行進のなかで、集会に紛れ込
んでいた挑発者のグループが、暴走する。そのまま、暴動にな
り、それを待っていた軍が、弾圧に乗り出す。集会を主催した運
動家たちが、殺せれたり、逮捕されたりする。抑圧と貧困が、は
びこる社会で、子どもたちの運命が、蹂躙される。そういう世界
を梁石日が描く。

12・XX  萬田務「無言の告発ー芥川龍之介『地獄変』一
面ー」読了。電子文藝館の校正を兼ねて。芥川の「地獄変」の創
作の秘密を「地獄変」という、酌熱地獄の責め苦をテーマにした
一枚の屏風絵に描かれた焼き殺される娘とそれを描く父親の絵
師、娘を焼き殺させた権力者との力関係、絵師の芸術心と権力者
に奪われた娘を救い出そうとする父親の情との狭間などという視
点から分析する。

これについては、先人たちの作品分析では、諸説がある。1)娘
は、娘が奉公している権力者の欲望を拒否し、権力者に殺され
た。2)父親の絵師が、描き倦んでいた絵を描くために無意識の
うち、娘を死に追いやった。3)権力者と父親の共謀など。2)
と3)は、いわば、父親の芸術至上主義であり、それは、芥川本
人の、芸術至上主義の表明でもあるという説である。

萬田は、焼き殺された娘を軸に、絵師と絵、娘と絵師である父、
娘と権力者という構図のなかで、新たな解答を試みようとする。

それは、事件後、完成された屏風絵が物語る。

「その後、一ヶ月ほどかけて仕上げられた地獄変の屏風は、〈随
分人の目を驚かす筆勢〉であり、〈殊に一つ目立つて凄じく見え
るのは、まるで獣の牙のやうな刀樹の頂きを半ばかすめて(中
略)中空から落ちて来る一輛の牛車〉であった。そこに描かれて
いる娘のさまは、〈見るものゝ耳の底には、自然と物凄い叫喚の
声が伝つて来るかと疑ふ程、入神の出来栄え〉であった」。
「地獄の風に吹き上げられた、その車の簾の中には、女御、更衣
にもまがふばかり、綺羅びやかに装つた女房が、丈の黒髪を炎の
中になびかせて、白い頸を反らせながら、悶え苦しんで居ります
が、その女房と申し、又燃えしきつてゐる牛車と申し、何一つと
して炎熱地獄の責苦を偲ばせないものはございません。云はゞ広
い画面の恐ろしさが、この一人の人物に輳(かさな)つてゐるとで
も申しませうか」。
 
それは、絵師が、最愛の娘を失った哀しみをモチーフにして、
「個の問題が止揚されて、普遍的なものにまで昇華されていた」
から、名作ができあがったという。亡くなった「娘への、そして
自己へのレクイエムが謳い上げられていた」。つまり、絵師は、
絵の完成後、やがて自死するのである。この自死を視野に入れ
て、絵師のモチーフを分析しないと解答が出てこない。

そこで、萬田の結論。絵師が「選択した縊死は、そういった現実
社会との関係を断ち切る手段であったのだ。したがって縊死のみ
を取り出し、現実社会に対する敗北だとするのは早計に過ぎるの
ではないか。すくなくとも芥川自身は、この作品において芸術と
現実社会とのありよう―それは、決して相交わるものでなく、絶
えず対峙しあう緊張関係にあるのだという認識を獲得し、それを
表明したものと考えられるからである」となる。

芸術至上主義では無く、芸術緊張主義とも呼ぶべき立場が、芥川
の立場であり、後に、己も自死する芥川の、命を賭けた主張だっ
たのである。芸術と生活は、命を賭けるに値する緊張関係の持続
というわけだ。私は、この論文を、そういう風に読んだ。

12・XX  岩佐なを「霊岸その他」読了。第45回H氏賞受賞の
詩人。電子文藝館に掲載するため、表題の下に自選したものを読
む。岩佐の作品は、詩と合わせて、版画も独自の世界であり、私
も岩佐に私の蔵書票を作ってもらっている。詩集も読んでいる。
例えば、「煙突絵巻」という詩は、こうだ。 

「おばけ煙突のある町に/美をまさぐる翁が住んでいた話は/伯
母から聞いてはいたがすっかり忘れていた/いさおを残さずに消
えていったその翁の/影は筆で薄墨を刷いたようだったらしい」

そういえば、私の子どもの頃、千住に(東京電力のだったと思う
が)「おばけ煙突」というのがあった。(多分、火力発電所の)
数本、立ち並んだ大きな煙突があったのだが、それが、見る場所
によって、見える煙突の数が、違って見える。それゆえに、おば
け煙突といわれるのだった。あれは、そういう時代の象徴のよう
な煙突だった。だれが、名付けたか、知らないけれど、巧いネー
ミングだ。岩佐の「煙突絵巻」は、千住の画家の話だろうか。

「かつて煙突のあった場所に/建てられたアパートの一室で」

拡げられた絵巻。そこに描かれているもの。

「斬り落された腕は描かれている/色塗ってぺたぺたぺた/赤
塗ってべたべたべた/『ひと一體からそんなに血は出ないよ』/

そら、もう少し先に進むと
網目模様の血管だけが見える/ひとがたの怪シノ者/まさに天空
に逃げ去る場面となる」。

「一軸/これを巻き戻して/畳の上に立てようとするけれど立た
ない/されば煙突にみたてられない」。

切り落とされた血まみれの腕。ひとがたの怪シノ者。天空に逃げ
去る。となれば、怪シノ者とは、市川猿之助ではないか。石川五
右衛門に扮しているのか、狐忠信に変化しているのか、知らない
が、宙乗りで、歌舞伎座の花道から、1階席の天井を越えて、2
階席を越えて、3階席を越えて、一幕見席を越えて、桃山風の歌
舞伎座の屋根を越えて、天空へ逃げる。逃げる。絵巻は、煙突み
たいに立てられないが、宙乗り役者は、何千回も天空へ逃げる。
ということは、なかなか、逃げ切れないという訳だ。

しかし、「煙突にのぼって下りてこない男の叫びとか」は、煙突
絵巻には、描かれていないと詩人は、証言するが、私の高校時代
の同級生の父親が、ある日、高い煙突に登って、降りてこないこ
とがあった。大騒ぎになり、ニュースにもなった。「煙突にの
ぼって下りてこない男」は、実在したのだ。歌舞伎役者が、天空
に逃げ去り、戻ってこないというようなことも起きるかも知れな
い。それは、宙乗り終焉の日か。

まあ、岩佐なをの詩や版画は、そういう魑魅魍魎の跋扈する世
界。あやしの世界である。

12・XX  金史良(きむ・さりゃん、きんしりょう)「光の
中に」読了。植民地時代の朝鮮で生まれ育った朝鮮人で、初めて
芥川賞候補になった作家。日本で生活する朝鮮人の教師が、日朝
混血のやくざ者の父親と朝鮮人の母親の間に生まれた混血の児童
との心の交流を描く。隠していた訳では無いけれど、ことさら、
本名を名乗っていた訳でも無い朝鮮人教師が、ひとりの問題児と
出逢う。児童の方も、自分の家族や家庭環境を隠し、朝鮮人教師
に反抗をする。虐められているし、さらに、弱いものを虐めてい
る。そういう子どもだ。子どもの出自も判らず、付きあい方を模
索していた教師は、ことさらに、朝鮮人蔑視の言動を取る子ども
との会話から、その児童も朝鮮育ちでは無いかと気づく。やが
て、子どもの家族関係が判って来る。

刑務所帰りの父親、飲食店勤務から請け出された朝鮮人の母親。
やがて、心を開き始めた子どもの寝姿を見て、留置所で出逢った
日朝混血の、半端なやくざ者とそっくりなことに気がつく。「半
兵衛」と渾名された、下っ端やくざだが、本人は、強気の根性
悪。そういう日朝関係の縮図のような家族と教師の出逢いのなか
で、そういう状況がもたらす光と影、影の部分から光の中へ、向
かおうとする明確な意志が伝わって来る。その気持ちが、子ども
との交流を明るく描いて行く。

12・XX   電子文藝館の校正を兼ねて、武井清「武田落人
秘話」読了。勝頼らの首を京から取りかえして来た僧の話は、史
実として伝えられている。それを作家のイマジネーションで逆手
に取り、信長の首を武田縁りの者が、明智光秀による本能寺の変
の際に紛れて、切り取って甲斐に持って来たというのが、おもし
ろい。武井清さんは、山梨県生まれの小説家ということだが、私
は、未知の人。77歳で、日本ペンクラブの会員。御自分でパソ
コンに原稿を打ち込んで、この秋に書き下ろし作品を仕上げたの
なら、凄い。しかし、誤字脱字が多く、3人の委員が見ても、ま
だ、誤りがありそうな気がする。

しかし、小説は、おもしろかった。まず、第一部の「武田終焉」
では、甲斐源氏として500年余り続いた武田家最後の当主・勝
頼滅亡の物語。これは、ほぼ史実に則って、書き進められて行
く。高遠城(跡)、新府城(跡)、蔦木宿、さらに、勝頼らが終
焉の地として目指した天目山棲雲寺や、結局、そこにも辿り着け
ず、彼らが自害した景徳院なども、地元の地の利で訪れたりした
ので、実景を思い浮かべながら読み進んだ。景徳院は、国立劇場
で「本朝廿四孝」を通し上演した際、鴈治郎と團十郎が、勝頼の
墓に詣でたところだ。

第二部の「課せられた使命」では、武田縁りの者が、京に登り、
本能寺の変を利用して、信長に奪われた主君の首の仇を取り、命
乞いをする信長の首を切り落として、持ち帰ってくるという話に
なる。信長に落とされた甲斐だが、信長の代わりに甲斐を治めた
のが、河尻秀隆で、これが、かなりの悪で、領民を苦しめた。だ
が、勝頼が滅んで、そう何年も経たずに、本能寺の変があり、信
長が殺されたことにより、甲斐の領民は、河尻秀隆に反抗をし、
河尻を滅ぼして仕舞う。

その後、甲斐に入って来たのが、徳川家康で、家康は、信長や河
尻の失策を繰り返さず、信長が焼き払った寺社を再興したりし
て、領民を安堵させたため、いまも、甲州では、信長は評判が悪
いが、家康は、良い。

12・XX  電子文藝館の校正を兼ねて、豊田一郎「やがて、
やってくるその日」読了。夫婦の性、レズビアンの性(老若の女
性、若い女性同士)、ホモセクシュアルの性など、性の様々なあ
りようを描く。70歳の作家の作品だが、前作同様、セックスに
こだわっているが、あまり、喚起力がない。また、タイトルが、
テーマには、そぐわない。ミスタイトルだと思う。

12・XX  平塩清種という詩人の作品を電子文藝館の校正を
兼ねて読む。初めて読む詩人である。還暦の人である。例えば、
「言の葉 私の幸福論」では、次のような言葉に出逢った。

「自分が納得する生き方を探し求めて暮らしていかないと /生き
ることに逞しさがなくなり /社会の中で自分を表現する力が欠落
してくる/ 自分を表現しないで日々を過ごすということは /生
きている存在理由がないということに等しいことです /自分の生
き方を決めてそれを貫くことが出来る /そんな人生を抱きしめて
生きていきたいと思います 」

詩の言葉というより、平易な文章だが、趣旨は良く判る。その通
りだろう。ほかの作品も、平易で、清澄で、初で、まるで、10
代の少年が、これから、人生の荒波に船出をして行くように、不
安とおののきなかで、言葉を紡ぎ出しているようだ。

例えば、「人を恋しく思うこと」という詩。 

「恋するということは /相手に心を奪われるということだけでな
く /その瞬間から自分をとりまく世界が /
変わって見えてくるということでもある 」

「つよがり」 

「人はみな そのまま そのまま あるがままに暮していけば /
いつか幸せに辿りつける/ 私はそういうふうに人生を考えている 
/季節は移ろい これからは淋しい冬がくる」

楽観的なまでに、明るい還暦の詩人は、どういう人生を歩んで来
たのだろう。 

12・XX  電子文藝館の校正を兼ねて、詩人・池田實の作品
「続・寓話」を読む。

例えば、「鳩は翔んだか」。

「八月十五日 敗戦の日の /大きな傷口は今も血を流し続けてい
る /白い包帯に血を滲ませた言葉でしか語れない歴史 /そこは
不毛の荒れ地 /徒花だけが乱れ咲いていて /時代の蛇の裂けた
赤い舌が鳥籠の鳩を狙う/ 
―翔んだのは鳩だったか― 」

反戦の明確なメッセージが、伝わって来る。ITを操る若い娘を
「人形になった娘」として描く古稀を越えた老詩人。

「IT革命の現場で 娘は/ 次第に生身のコトバを喪っていく/ 
仕事は新しい保険ソフトの開発 /キーボードを叩く指先から無機
質な/ 渇いたモノフォニーは単調な時間を刻み続け /脳を緩慢
に弛緩させていき/ 娘は次第に人形になっていく 」

「バベルの塔」 

「ある日突然すべての存在と時間を通り抜けて/ 翼を持った異質
の他者が /繁栄する明るい輝きの中に突入した /瞬時にして二
十一世紀のバベルの塔は破壊され崩落した/ 何千人もの人々の大
量の血の流れに染まったというのに /まるで映画の特殊撮影のよ
うに/ ハイパーリアリティになって映像化されたテロル /映画
館を出た途端に物語の中に消え去っていくように /恐怖と怒りの
感情は直ぐには来なかった /遠い空間を超えてはリアルタイムの
映像も/どんな恐怖も悲しみも怒りも /皮膚を少し緊張させ小波
を立てるだけ /やがて様々な言葉と映像がリアルを引き寄せ/ 
私の皮膚は寒々と粟だったのだ 」

この詩人も、平易な表現で、率直にメッセージを発信する。
- 2003年8月15日(金) 22:19:39
11・XX  佐左木俊郎「熊の出る開墾地」読了。これは、お
もしろかった。これも、電子文藝館の校正を兼ねて読んだ。この
人の作品も初めてだった。略歴紹介には、こうある。

「ささき としろう 小説家 1900.4.14 - 1933.3.13 宮城県玉
造郡に生まれる。思想的には左から右寄りへ動揺の大きかった作
者であったが、出自本来の農民文学で地に足の着いた成果をのこ
した。とくに昭和四年(1929)に書かれ、昭和五年(1930)に天人社
刊の『農民文学短編集』巻頭に収められた掲載作は、この分野で
もっとも優れた代表作、迫力あって面白く表現の魅力に富んだ傑
作と称賛された」。 

北海道の開墾地での争議。雄吾の父親、岡本吾亮(ごすけ)は、東
京で一緒になつたと云ふ若い綺麗な細君(さいくん)と、幼い倅(せ
がれ)の雄吾を伴(つ)れて、故郷に帰って来た。藤沢と云ふ地主
が、道庁の管理している土地を開墾すれば、土地は、無料で農民
の手に入るという話をしているという。開墾のための生活費は、
貸すと言う。ところが、生活費には、利息がかかり、開墾の終っ
た土地は、農民たちの手に入らないまま、地主のものになってし
まった。当初の約束の履行を求める岡本をうるさがるようになっ
た藤沢は、熊と間違えたことにして、岡本を射殺してしまう。岡
本の妻は、藤沢の妾にされてしまう。捜査にあたった巡査も騙さ
れる。結局、藤沢は、過失致死罪で罰金で済んでしまう。

そういうことを、後に知った息子の雄吾が、藤沢と同じ手口で、
熊に間違えたということにして、地主を撃ち殺す。最後の場面。

「炬火(たいまつ)の薄明の中へ地主の藤沢が事務所から出て来
た。鉄砲が鳴つた。藤沢は唸つて、蹌踉(よろ)めいて、ばたりと
倒れた。 

『おつ! こりや熊でなくて藤沢さんだで。』

 佐平爺が倒れて唸つてゐる藤沢に近付きながら言つた。 

『善蔵、貴様誰かと駐在所へ行つて来(こ)う。熊が出たので追廻
してゐたら、其処へひよつこり藤沢さんが出て来たので、熊だと
思つて間違つて撃つて了ひましたつてな。解つたか。熊と間違つ
てだぞ。其処の理由(わけ)をよく話すんだぞ。』」

 その佐平爺と雄吾の会話。佐平爺は、雄吾の苦闘の生活とその真
意を知っているので、雄吾の身替わりに立つ。

「『この悪熊(わるぐま)も、たうとう為留(しとめ)られたな。』 

『何を、馬鹿なことを。――おい、火を焚かうぢやねえか。』 

 炬火(たいまつ)が積重ねられた。上から枯木が加へられた。焚
火は闇の中に高く焔光(ほさき)を上げた。人々はがやがやと其の
まはりを囲んだ。犬は遠くから何時までも吠え止まなかつた」。

語り口と言い、物語の校正と言い、充分に楽しめる作品になって
いる。

11・XX  中戸川吉二「イボタの蟲」読了。この人も、初め
て。電子文藝館の校正のための読書である。略歴紹介では、「な
かとがわきちじ  小説家 1896.5.20 - 1942.11.19 北海道釧路
市に生まれる。活躍期間は短く忘れられがちな作家ながら、「心
理的な正確な把握と表現」に注目され、とくに大正八年(1919)六
月「新小説」初出の掲載作は、自意識の明瞭かつ不安に鋭敏な機
微をとらえて、どこかほんのりおかしみあり、代表作の優れた一
つとみられた」とある。 

「イボタの蟲」などと言われても、私は知らない。作中の説明に
よると、「背中の部分がイボイボして、毳々(けばけば)しい緑色
で彩られた一寸五分位な、芋蟲を剥製にしたやうなもの」だとい
う。「煎(せん)じて飲みますと、たいへんに効能のあるせきどめ
薬でありましてな、咋年来、世間に悪い風邪が流行り出しまして
からはな、よく利く薬だと申して、上方様(うへつがた)などでも
沢山にお求めになる方がございましてな……」ということのよう
である。 

その虫を妊娠中に肺炎になった姉のために、母親が、買って来て
ほしいと言い、「私」が買いに行くという話である。しかし、薬
は、間に合わず、「姉は心臓麻痺を起して了つてゐて、木村へ私
が駆けつけた時分には、顔をみてももう私だとは解らぬらしくな
つてゐた。私はイボタの蟲の這入つた箱を母ヘ渡した。母は一寸
蓋(ふた)をあけてみて、黙つて、涙ぐんだまま袂(たもと)へ入れ
た。姉は、義兄や、母や、兄や、前田の姉や、花子や、雪子や、
私などに枕許をとり囲まれて、眠るやうに死んだ。大正八年一月
三十一日午前十一時である。イボタの蟲は、木村の家や原町の家
などで、お通夜(つや)や葬式などに風邪引きが沢山出来たので、
母が飲ませようとしたけれども、誰もイヤがつて飲まなかつた。
女中たちにさへ嫌はれてゐた。母がたつた一人、つい此頃まで、
どうかすると思ひ出したやうに煎じて飲んでゐた」。そういう奇
妙な味のする、薬ならぬ、小説であった。
 
11・XX  相馬泰三「六月」読了。電子文藝館の校正を兼ね
た読書。この人の作品も、初見である。略歴紹介では、「小説家 
1885.12.29 - 1952.5.15 新潟県中蒲原郡に生まれる。『早稲田文
學』を足場に好調に作家生活を初め廣津和郎・葛西善蔵らと『奇
蹟』を創刊、人間の置かれた現実の不確かさを、苦みとおかしみ
の相で的確に風の渡るように表現し、閉塞の時代をさりげなく見
せつけて独自の地位を文壇に保った。大正二年(1913)九月『早稲
田文學』に初出の掲載作は、その持ち味発揮の一代表作」とあ
る。

酔っぱらって、川に落ちた新聞社勤務の若者・曽根が、警察署
で、泊められた。 それの波紋が、新聞社にでも拡がって行く。
「青年は人生の美しき口絵 !」とばかりに、青年の行状は、許さ
れ勝ちだ。

「その頃、曽根の社では、(川へ落ちる。)と云ふ言葉がはやつ
てゐた。人と人と議論でもしてゐると、そこへ行つて(君達の議
論の行手には溝川が流れてゐるやうだぜ、おつこちないやうに気
をつけ玉ヘ。)とか、誰か新らしい計画でも初める者があると、
(あの計画も行く行くは川に落ちて仕舞ふね。)とか、または、
(あの人の行く道には常に一つの溝川が添うて流れてゐる。)と
か、こんなふうに云ふのである」。

という具合に、青年の行状は、良いおもちゃにされていたのだ。
6月は、青春のアンニュイ。倦怠は、青春の余剰のエネルギーな
のだろう。 

11・XX  矢崎嵯峨の舎の「初戀」読了。これも、電子文藝
館の校正のための読書。この人の作品も初見。略歴紹介では、
「やざき さがのや 嵯峨の屋御室とも。小説家 1863.1.13 - 
1947.10.25 江戸日本橋に生まれる。ロシア語を学んで二葉亭四
迷と相識り、露文学の紹介に業績をのこした。坪内逍遙宅に寄寓
の明治二十年(1887)すでに二冊の本を出版、職歴は多彩で、日露
戦時は大本営幕僚事務取扱に任じ、晩年は書店を経営。掲載作は
不動の代表作として知られ、明治二十二年(1889)一月『都の花』
初出。文体の新しさ、日本語のみずみずしさ、やさしさは、僚友
四迷同時期の『浮雲』や『あひびき』や若松賤子等の翻訳をしの
ぐ美しさを示し、作柄ではのちの伊藤左千夫『野菊の墓』等に遙
かに先行の、弱冠二十七歳、瞠目の記念作である」という。

14の春の恋。50年も昔の初恋を語る老人。恋の相手は、江戸
から来たお雪さんという年上の女性。手習いや槍の稽古に通う少
年の淡い恋。長逗留も、やがて、帰る日が来る。家族総出で、皆
で、お別れに、「蕨採(わらびとり)」に行くが、蕨採りに夢中に
なり、ふたりだけで、山中に迷い込んでしまい、大騒ぎになる。
まあ、結局は、大事に至らず、無事に帰ることになるのだが、こ
ういうことは、意外と生涯の想い出になるものだ。

その人が、いよいよ、江戸へ帰る日。ただ、拗ねて泣くことしか
できない少年。幼い恋は、終ったのだ。船に乗って行くところま
で、見送る。

「娘は江戸へ帰ツてから、程なく古河(こが)へ嫁入したが、間も
なく身重(みおも)になり、其翌年の秋蟲気(むしけ)附いて、玉の
様な男子を産落したが、無残や、産後の日だちが悪く、十九歳を
一期(ご)として、自分に向ツて別れる時に再会を約した其言葉
を、意味もない者にして仕舞ツた。然し曾(かつ)て娘が折ツてく
れた鶴、香箱、三方の類(たぐひ)は、いまだに遺身(かたみ)とし
て秘蔵して居る。
 嗚呼(あゝ)皆さん、自分は老年の今日(こんにち)までも其美し
い容貌(かほかたち)、其優美な清(すゞ)しい目、其光沢(つや)の
ある緑の鬢(びんづら)、就中(なかんづく)おとなしやかな、奥ゆ
かしい、其たをやかな花の姿を、ありありと心に覚えて居る……
が……悲しいかな、其月と眺められ花も及ばずと眺められた、其
人は今何処(いづこ)にあるか」。

これぞ、恋。悲恋ほど、恋の味は、濃くなる。そういう老人の繰
り言を一遍の作品に仕上げた。

11・XX  平林初之輔「政治的価値と藝術的価値ーーマルク
ス主義分文学理論の再吟味ーー」読了。これも、電子文藝館の校
正を兼ねて読む。略歴には「批評家 1892.11.8 - 1931.6.15 京
都府竹野郡に生まれる。プロレタリア文学理論の立ち上げに最も
先駆した人で、青野季吉、蔵原惟人、中野重治らを先導しつつも
『文藝戦線』の政治的偏向を疑い、誠実にマルクス主義文学理論
の『再吟味』へ動いた。昭和四年(1929)三月『新潮』初出の掲載
作は、歴史的な一の転向地点をゆびさし激しい議論を呼んだ」と
ある。

要するに、政治が、芸術の価値を規定するか、芸術の価値は、政
治的な価値から独立しているか、という議論。

本文を引用してみよう。
「要するに、マルクス主義藝術運動は、藝術に関する定義の塗り
かえや、藝術的價値と政治的價値との機械的混合によりて行われ
るわけには決してゆかない。それは飽くまでも政治のヘゲモニイ
のもとに行われる運動であり、政治によりて藝術を支配する運動
である。この関係は政治と藝術との弁証法的統一というようなあ
いまいな言葉で説明してうつちやつておくべきものではない。先
ず一応両者を区別し、それを当然そうであるべき関係におかねば
ならぬ」。

いま、考えれば、極めて判りやすい話が、当時は、大論争にそう
になった。そういう政治主義の時代があった。それが、いつの世
にも、人類は、何処かの国で、飽きずに、論争にとどまらず、或
いは、実践しているというから、質が悪い。21世紀になって
も、続いている。そうすると、これは、案外、永遠の人類の課題
かも知れない。阿呆らしいけれど。

11・XX  電子文藝館の校正を兼ねて、中川肇「花のゆめ 
いのちの像」読了。2002年刊行の第三詩集『ゆめのかたち II』よ
り抄出されたもの。気に入った詩を書き写そう。
蛇 行 「生まれてから/海に着くまで 一直線/という川はない
/川は みんな/精いっぱい道草をして/ゆっくりと海に向か
う」

この「精いっぱい道草をして」というところが良い。作者の人生
観が強調されている。

見果てぬ夢(邪鬼) 「びしゃもんてんだか/たもんてんだか し
らないが/したりがおで なんぜんねんも/このおれを ふみつ
けにして/いいかげんにしろよ/そのうちに……」

「いいかげんにしろよ」と、なにかに向かって、言いたい人は、
きっと、大勢いるのではないか。
 
針槐のつぶやき 「わたしのことを/ニセアカシアと/よばない
でください/ヒトのことを/ニセゴリラ とよんだら/おこるで
しょう」

にせものに、偽者と言ったら、怒らないで、なんとかごまかそう
とするだろう。ほんものに偽者と言ったら、ほんきになって怒る
だろう。真贋論争なんてそんなものだ。しかし、にせものが、ほ
んもの面で通用している世の中だ。
  
水鏡 「水はけして欲が深くはないので/ふだんは雲や月を映す
だけで/澄ましていますが/一年に一度だけ/満開の桜を映すと
きだけ/おそろしい官能の嵐にみまわれ/映したものをすべて/
自分のものにしてしまおうと/もだえてしまいます」

私も、「けして欲が深くはない」のですが、やはり、一生に「一
度だけ」、「おそろしい官能の嵐にみまわれ」て、私のなかに
「映したものをすべて/自分のものにしてしまおうと/もだえて
しまいます」というような人生を送れたら最高だろうなと、この
詩に触発されて思った。

デュオ 「藤/からまりあって/しかし しばらないで/しばら
れないで/いま わたしがさき/あなたがかがやく」「松/俺は
がんじがらめ/輝いてなんかいない が/おまえの匂いに包まれ
て/たとえ 息がつまっても/本望だと思っているよ」

男と女、抱いて、抱かれて、自然のなかで、生きる。
 
11・XX  電子文藝館の校正を兼ねて土田耕平の歌集「青
杉」読了。略歴によると、 
「1895.6.10 - 1940.8.12 長野県諏訪郡に生まれる。島木赤彦を
生涯の師とし、病弱を労りつつ「アララギ」選者の一人となり、
歌風は清澄透徹、赤彦歌風の一極限をきわめ写生にして写生を超
えてすらいる。掲載の第一歌集は「巻末に」が示す経緯で、大正
十一年(1922)古今書院より刊行された伊豆大島での療養歌集で、
その流露清淡、嘆賞のほかはない」という。 「伊豆大島にて詠め
る」と記された歌集は、人間と自然とのかかわりを読んでいる。
療養中の身ゆえ、暗い、もの寂しい印象の歌が多いが、 明るく、
印象に残った歌をかきとめたい。

「芋の葉の破(や)れ葉大きく揺らぎ居り野分の空はただに明る
し」 療養のみにも恢復のきざしか、風にそよぐ病葉もに、明る
い陽射しがそそいでいる。 「冬枯の野面(のもせ)はだらに日影さ
したまさかに飛ぶ鵯鳥(ひよどり)のこゑ 」 冬枯の野に、寂しい
日影がさしている。死後の世界のようだ。ときどき、飛ぶ鵯の声
が、生の世界へ引き戻してくれる。「目にとめて信濃とおもふ山
遠し雪か積れる幽けき光」 「久方の天のそぎへに真壁なす信濃の
嶺(ね)ろは雪かづきたり」(三原山上)  伊豆大島からなら、晴
れた日には、本土の山並も見えるだろう。そんな日、故郷の信濃
の山か、白銀に煌めく幽かな光が届く。いずれ、あそこへ、帰り
たい。「しめじめと梅雨のなごりの風吹けり片山道に揺るる紫陽
花」 「深青葉雨をふくめる下かげにひとむら白しあぢさゐの花」 
山道で出逢った紫陽花。ひとり健気に咲いている。なにか、元気
づけられる思いがする。「空高く月は晴れたり荒あとの寂しき土
に人の聲すも」 「さながらにあらしの後の島原を月影さやに照し
つるかも」 嵐のあとの、澄明な月夜が、目に浮かぶ。家の外に
出て来たのか、人の声が、頼もしい。 

「きのふの雨にしめれる木の間道若葉うつくしく照り映えにけり 
」  恢復して来たようだ。雨に濡れた新緑の美しさ、萌え出ず
る若葉に己の生命力を復活を二重写しにする。「松蝉の聲しきり
なり吹きわたる青葉の風をすがしと思ふ 」 季節の移ろいと共に
身も心も強靱になって来ているようだ。「目にとめて磯のかたへ
の流木に鳥糞白し海曇る日を」  自然点景。白い鳥の糞に強靱
な生命力がうかがわれる。 「朝戸出のわが眼に見えて富士の山白
雪照れり海のかなたに」「しぐれ来る音まばらなり目をとぢてす
なはち憶ふ故里の山」 「故里は苗代小田に蛙(かはづ)鳴く頃とお
もふに今日も降る雨」「南向くこの一間(ひとま)こそ嬉しけれ冬
の日かげの一ぱいにさす 」  体力が、恢復してくれば、望郷の
念、いやまさに募れる。三歳越しの療養生活。それでも、冬、
春、夏、秋、そして新たな冬を、この地で、迎えている。帰りた
い、帰れない。 

「われひとり離れ住む日の長かりし面(かほ)あはせつつ沁々おも
ふ/  大正九年三月上京、麹町の宿に久保田先生及び藤澤實氏と
會す 」  島を抜け出し、東京に知人を訪ねるほど、体力は、恢
復したが、まだ、全快では無い。「霧晴れて眼(まなこ)おどろく
青空の色かと見しは大き海原/三原山上」  空と海とが、青さ
のなかで混然となり、天地逆転のようなダイナミックな歌心。「 
出でて見る今宵月あり遥かなる海のおもては照り白みつつ 」「仰
ぎ見る夜空しづけししみじみと月の面より光流れ来」   自分の
健康にも、やがて、「照り白」む日がくるだろう。「風しげく椿
の藪を吹き揺する葉がくれの花葉おもての花」  葉に隠れた花
も、やがて、葉の表に出て来る。強い風も、なんのその。その風
も、やがて、吹き止む。「 ただ一つ見えて悲しき朝船は野増(の
まし)の磯に寄らで過ぎゆく」  平家女護島の俊寛のような心境
だが、いずれ、磯に寄る船は、来る。「 島山を見ればいつくし立
ち別れふたたびと来むわれならなくに 」「去(い)なむ日は近づき
にけり独りゐてもの思ふにぞ泪(なみだ)さしぐむ」  望郷の念
強けれど、あしかけ6年を過ごした、伊豆大島の当地も別れ難
し。歌人、22歳から27歳の日々。 
- 2003年8月15日(金) 22:16:05
11・XX  常磐新平「山の上ホテル」読了。東京・お茶の水
の大学街の一郭にあるホテルが、山の上ホテルだ。いまは、明治
大学、語学の専門学校、予備校などぐらいだが、このあたりは、
かっては、もっと大学があった。中央大学、日本大学。「白雲な
びく駿河台」というのは、明治大学の校歌の一節だが、駿河台と
いうなだらかな丘の上に大学街があった。だから、丘の上ホテ
ル。そういえば、近くには、「丘」という喫茶店も、当時は、
あった。

また、中小の出版社もいくつかあった。丘にある坂を下って、駿
河台下へ行くと三省堂書店がある。東京堂書店がある。駿河台下
から神保町にかけては、新刊書の大型書店の囲むように中小の古
書店が、軒を列ねている。大学と本の街。従って、作家や詩人た
ちが、よく、この界隈を訪れる。選考している文学賞候補の作品
を読んだり、自作を書いたり、あるいは、書かせられたりするた
めに、「かんづめ」になって、丘の上ホテルの部屋に籠ったもの
だ。だから、常磐新平「山の上ホテル」には、多くの作家たちが
登場する。

11・XX  電子文藝館の校正を兼ねて、原民喜「夏の花」を
読了。原民喜「夏の花」については、若いころ、この作品を驚き
を持って読んだのを思い出す。被爆直後の2昼夜に及ぶ、広島の
姿を描く。その日、遅く起きて、久しぶりに来た寝巻きを脱いで
(それ以前の夜は、何時でも、避難できるように寝巻きに着替え
ずに寝ていたのだ)、全裸で便所に入っていて(久しぶりの解放
感、冒頭に、この場面を置いた巧さ)被爆した原。被災した家屋
のなかから、パンツと上着と2枚の靴下を見つけだし、身につけ
る場面があるが、多分、原は、ズボンをはかない、そういうぶざ
まな格好のまま、外に出て、被災地をさまよいはじめる。

今回、再読する機会に恵まれ、陰惨な地獄絵のなかをさまよいな
がら、文学者の目で、冷静に、淡々と、目の前の事実を書いてい
る(途中で、この光景を書こうという原の決意の場面があります
が)ことの凄さを、改めて感動した。原が、出逢う瀕死の被災者
の姿を見ていると、原のいでたちのぶざまさなどなんということ
もないことが、判って来る。それにしても、練兵場から流れて来
る喇叭の音とすいすいと飛んでいる蜻蛉の姿が、日常性と地獄絵
の非常さを見事にコントラストしている。この、さりげない描写
を入れることで、被爆の悲惨さが、印象づけられている。巧まず
して、描いていながら、計算され尽した構成になっていて、作品
としての完成度も高めている。

11・XX  菊池秀行「魔人同盟」読了。新宿という地域を
テーマに高校生らが主人公の、追憶するしかない青春を描いたと
菊池は言うが、漫画や劇画の原作本を読まされたという印象であ
る。人形師ばかりが、狙われた連続殺人事件。魔界都市「新宿」
を描くシリーズだが、おもしろくない。

11・XX  昨夜、就寝前に読み出した車谷長吉「贋世捨人」
を、午前5時に、いつものように目覚めて、暗いなか、電気を付

けて読み続けたら止まらない。途中、朝食を準備し、食べるとい
うこと以外、ほかのことは何もせず、ひたすら読み続けて、結
局、出勤前に読了してしまった。こちらも、フィクションだが、
まあ、私小説なのだ。実名で、親兄弟、親戚、職場で出逢った人
たち、評論家、作家、編集者などが、続々登場する。主人公の生
島嘉一は、高校受験に失敗し、それでも、慶應大学文学部には、
合格した。しかし、幼友達のように出家もできず、さりとて、俗
世間で、巧く出世もできず、大学を出て勤めた広告代理店をしく
じり、総会屋が経営する新左翼の出版社をしくじり、旅館の下足
番や料理屋の追い回し(下働き)をしながら、小説を書き続け
た。「人を譏るは鴨の味、人を呪うは葱の味」とばかりに、他人
を譏り、呪うことを赤裸裸に綴った鴨葱小説。そういう自分を自
虐的に描き、出家=世捨人にもなれず、作家=贋世捨人になって
行く己をえぐり出す。

11・XX  津本陽「異形の将軍〜田中角栄の生涯〜」を読ん
でいる。「棺を覆いて10年。事未だ定まらず」という、「戦後
史最大の巨魁」田中角栄の軌跡を追う小説。角栄の兵役時代の記
述で、「満鮮国境」などという言葉が、平気で出て来る。編集者
は、チェックしていないのか。津本は、田中角栄の出世物語を、
恰も時代小説を書くように書いている。津本は、いまのように、
時代小説を量産する前に近代小説ともいうべき、大正、昭和初期
を扱ったものや不動産屋時代の体験を元にした小説などがあり、
私は津本が操る和歌山弁の台詞回しとともに、愛読していた。津
本の時代小説も、初期の頃のものは、おもしろいのだが、最近
は、ワンパターンで、津本の持ち味が薄れて来たように思う。

津本陽「異形の将軍〜田中角栄の生涯〜」読了。上・下2巻で、
読みでがある。角栄が、「庶民宰相」だったかどうか疑問だが、
現代の秀吉のように、裸一貫で伸し上がって行った人物であるこ
とには、間違いない。津本は、人情家角栄という視点で、角栄を
擁護する立場で、筆を進めている。エピソードは、ほかの角栄物
を集大成している嫌いがある。ほかの角栄物など読んだことがな
いので、そう推測するだけだが。

もともと、角栄物が好きで読んだ訳ではなく、歴史小説家・津本
陽なら、この人物をどういうかたちで書くかという興味で読んで
みた。そういう意味では、意外と、伝えられている角栄のイメー
ジから外れていないので、おもしろくはなかった。むしろ、ここ
に垣間見えて来る田中眞紀子の方が、おもしろい。父親を「ヤジ
君」(親父の意味)と呼び、女性関係にルーズな角栄を家族で
嫌ったという娘の潔白性。角栄の体が不自由になってから、選挙
で初当選した眞紀子は、角栄を連れて地元新潟に戻った際、
「『目白の骨董品』を連れてまいりました」と有権者にあいさつ
したという。

ただ、私は、角栄が逮捕されたロッキード事件の取材、と言って
も、報道局社会部の「察廻り」担当記者として、角栄邸、小佐野
賢治邸、東京地検など事件関係者の張り番を担当した身として
は、ロッキード事件の下りなど思い出すことが多い。特に、76
年7月27日の、角栄逮捕の際には、東京地検前に張り番担当とし
て、多くの報道陣とともにいて、逮捕直前の角栄の姿を見てい
る。

11・XX  辺見庸「永遠の不服従のために」読了。マスコミ
が伝える情報では、判らないことが、辺見の独特のフィルターを
通して伝えられると、焦点のあった鮮明なイメージとして伝わっ
て来る。けさは、5時に起きて、6時半の新宿行きのバスに乗っ
た。中央線より標高の高いところを走る中央道で、山々の紅葉で
も見ようと思っていたが、辺見の本を読み出したら、景色そっち
のけで読んでしまった。東京・渋谷の職場で会議などに出て、夕
方、今度は、特急「あずさ」で、辺見の本の続きを読み、結局、
甲府に着くまでに読んでしまった。「サンデー毎日」連載のコラ
ムを加筆訂正。例えば、宮沢賢治の小学校時代の恩師に、八木英
三という人がいる。この人は、後に中学校の教師になるが、「わ
が代は千代に八千代に」と生徒たちに斉唱させたという。そうい
うエピソードを紹介しながら、辺見は、宮沢賢治の童話の世界に
は、大日本帝国の時代相が、全く反映されておらず、「人と宇宙
への深いまなざしが」あるとする。それゆえ、宮沢賢治の世界
は、時代を越えて、いまも、多くの読者を魅了すると看破する。
それを1999年の国旗国歌法採択以来の教育現場の荒廃に焦点
を当てて行く。

もうひとつ紹介しよう。北原白秋である。人妻(隣家の新聞記者
夫人)と不倫の仲になり、姦通罪で訴えられ、収監されて詠んだ
歌。「かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の軋みてゆ
く礫道(こいしみち)」「一列(ひとつら)に手錠はめられ十二
人涙ながせば鳩ぽっぽ飛ぶ」「監獄(ひとや)いでてじっとふる
えて噛む林檎林檎さくさく身に染みわたる」。それは、「業さら
し」の歌だと辺見は言う。その白秋が、後年(1942年)、読
んだ歌と比較すれば、「万倍まし」だと言う。「天皇(すめら
ぎ)は戦い宣(の)らしあきらけし乃ち起る大東亜戦争」「ああ
既に戦開くまたたくま太平洋を制圧すれば」「国挙げて奮い起つ
べし大君のみまへに死なむ今ぞこの秋」などという翼賛の歌は、
白秋だけではない、斎藤茂吉から無名の歌人まで、こぞって詠ん
だ時代があった。辺見は、さらに言う。長引く不況のなかで、有
事法制などという勇ましいことに「国挙げて奮い起つべし」など
と、目を充血させて、平気で言う物書き、評論家、記者が増えて
来たと言う「今ぞこの秋」を憂慮すると。「業さらしの昔のほう
が、よほどましだったのに」と。

そういうコラムが、30数篇「一列(ひとつら)に」並べられて
いて、目から鱗を味わえるという趣向だ。

11・XX  特急「あずさ」の車中で、辺見庸「永遠の不服従
のために」読了したので、続いて、車谷長吉「業柱抱(ごうばし
らだ)き」を読みはじめる。辺見庸の本で、「業さらし」の北原
白秋の歌を紹介したが、こちらも、「業」が、柱を抱いている。
歌舞伎の鳴神上人のように「柱巻きの見得」をしているような気
がする。「青銅時代の夏、私はくちなわが交尾しているのを見
た。田んぼの畝と畝のくぼみで、しめやかに、尾と尾をかさね、
一本の線につながっていた・・・鹽壺の中に、鹽が匙を喰い込ん
で、石になっていた銭売り家の『帳面をする。』部屋だった。銀
の匙の柄が、青黴を吹いて、蓋の凹(へこ)みから出てい
た・・・」などという詩まがいの、あるいは、詩のような文章
が、表題作の「業柱抱き」である。「むっつり」という詩まがい
の、あるいは、詩のような文章もある。「かの人は、げっそり、
ぱったり、あっさり、うっかり、かっきり、かっせり、でっぷ
り、めきっり、・・・」などと延々と続く。後に、結婚する詩人
の高橋順子に触発されて、詩のような物を書いていた。詩、俳
句、小説、エッセイなど、ごった煮の作品集。

車谷長吉「業柱抱き」読了。印象に残った文章がある。「文学は
それほどよいことずくめのことではない。よいことと言えば、い
まある人生とは別に、もう一つの人生があると思わせてくれる、
ということぐらいだろうか。併しそれはそう思わせてくれるだけ
のことだ。いや、書くことによって医(いや)される部分もあ
る。慰められる部分もある。けれども書くという振る舞いには、
人の生血(いきち)を求められる、むごさがふくまれており、こ
れはこれで辛いことだ。まず何よりも青竹から素手で油を搾り出
すがごとく、己の生血(いきち)搾り出さないことには、医(い
や)されるもへったくれもないことだ。どうかすれば己がずたず
たに引き裂かれて行く」。

この本は、畢竟するに、そういう作家の覚悟を宣言する書だ。そ
ういう意味では、この本は、恰も、宗教書のように、敬虔であ
り、近寄り難いことを書いている。業を晒す覚悟がなければ、書
けない文章だろうと思う。

11・XX  川上眉山「ゆふだすき」読了。奇妙な味の小説。
ペンクラブの電子文藝館掲載予定の原稿の校正のために読む。作
家の秦恒平さんが書いた著者紹介には、こうある。「かわかみ び
ざん 小説家  1869.3.5 - 1908.6.15 大阪府に生まれる。紅
葉、美妙を知り硯友社に入り、反俗の思いから社会を批判しいわ
ゆる「観念小説」を書いて泉鏡花らとともに世に迎えられた。樋
口一葉にも関心をもたれたが、文学の迷い深く、生活苦も加わり
自殺。自然主義と反自然主義のせめぎあおうとする思潮の中で孤
独に佇んだような作者であった。掲載作は明治三十九年(1906)
「早稲田文学」二月号に初出、島崎藤村「破戒」出版の前月で
あった」

さらに、秦さんは、別のメールで次のように書いている。「かす
かに鏡花に通じる味もありますが、会話の妙といいましょうか。
趣向だけの作です。観念小説といわれた観念の程度が知られま
す。自殺作家のひとりですが、理由は即、「貧苦」とも。自殺作
家の多いのにおど
ろきます。」

「観念小説」の「観念」は、いわば、後の、私小説にも連なって
行く、自然主義小説のなかで、フィクションとしての小説を目指
したという程度の意味なのだろう。ある日、男は、道を歩いてい
て、ふいに、顔も良く覚えていない、昔なじみの女性に出逢い、
近間の彼女の自宅に連れ込まれ、彼女の方から口説かれる。男
は、最初、女からからかわれているような、疑わしい気持ちで接
していたが、途中で、半信半疑になり、「据え膳喰わぬは」とい
う心境になり、最後は、口説かれてしまう。男女の会話体で筋が
展開する。そして、実は、再婚した妻との出逢いの経緯(ゆくた
て)を男が、酒の肴に、知人に物語っているという趣向が、最後
に判るという仕掛け。会話体が絶妙で、当時の日本人の会話が、
生き生きと描かれている。1世紀ほど前の、「新感覚」小説とで
も言おうか。「観念(アイデア)」というより、「感覚(セン
ス)」だろう。これは。

11・XX  電子文藝館用の原稿の校正を兼ねて、広津柳浪
「黒蜥蜴」読了。作家の秦恒平さんの解説に拠ると「日清戦争後
の日本を根底で撃つ当時の戦後文学として一代の代表作を次々噴
出したなかで、底辺庶民の悲惨な生活を意図して直視し深刻に表
現した。文学界派の樋口一葉最晩年の秀作とも作意に呼応するも
のがある」という。

明治28(1895)年発表の作品で、「言文一致を念頭におき
ながら、江戸以来の日常語も美文も和漢混交も和文もごちゃまぜ
に沸騰した時期ですから、表現も表記もかなり混濁し、混濁自体
に味わいが出ていたと見られます」と、秦さんは言う。それだけ
に、河竹沈黙阿弥が、明治期に書いた歌舞伎の世話場で使われる
台詞のような語り口で堪能した。東京が、「とうけい」と呼ば
れ、江戸の色合いを濃く残していたころの明治初年の貧しい庶民
の会話が、生き生きと写されている。このなかに、「鉞銀杏(ま
さかりいちょう)」という言葉が出てくるが、これは、歌舞伎の
襲名披露で、口上をする際、市川宗家にのみ、許された髷で、先
が、鉞の刃のように鋭く、薄くなっている。團十郎は、口上の際
は、この「鉞銀杏」しか、しないので、いまでも、口上の舞台で
見ることができる。このほか、似たような髷は、鳶なども使って
いたようで、これも、歌舞伎に出て来る。歌舞伎は、そういう意
味でも、文学作品同様に、時代が封じ込められていのだろう。
やっと、子どもが生まれた人の良い若夫婦を悩ます呑んだくれの
親父を、嫁が、「黒蜥蜴」の毒を使って、殺してしまい、自分も
自殺をするという悲惨な話。

11・XX  松永 延造(まつなが えんぞう)の「ラ氏の笛」
読了。電子文藝館の原稿校正を兼ねて読む。初めての作家であ
る。作家の秦恒平さんが、書いた略歴を掲載する。「松永 延造  
小説家 1895.4.26 - 1938.11.20 神奈川県横浜市に生まれる。身
体の不自由から通学かなわず独学で心理学や哲学を学んだらしい
以外に経歴不詳。大正十一年(1922)に処女長編小説、同十三年
(1924)に戯曲集を自費出版。終始文壇のアウトサイダーのまま宿
痾のカリエスに斃れた。宇野浩二や高見順や平野謙らの高い評価
と記憶から掘り起こされ復活を得てきた。掲載作は、「白樺」を
介してトルストイやドストエフスキーを受け容れ日本的に実存の
静謐と孤独を体したといわれる作風をよく示しているが、初出不
明」という。

「ラ氏」とは、語り手の私が、「副院長の下に働く臨時雇ひの助
手」をしていたとき、「大正×年、秋の初め、場所はB全科病院
の長い廊下で」出逢った「若い印度人(アリヤン)で、極く小さ
い貿易商の事務員、ラオチャンド氏」のことである。たびたびの
吐血の果てに、所持金も尽き、身寄りもなく、やがて病院で亡く
なってしまう運命にあるが、その死までの様子を描いている。略
歴にあるように、作家も、安岡章太郎同様に「カリエス」に侵さ
れ、43歳で亡くなっており、病気とは、親しい環境であっただ
ろう。

此の作品のテーマは、作品の最後に書かれている。
『最後に、私は此処で、ラ氏が言ひ遺した一つの思念を想起す
る。
「私は何んな場合でも、極く自然に、幸福を自分のものとした例
を知らない。何時も不幸でもつて、幸福を買つたのである。」
 それなら、最も大きい不幸たる彼れの死を條件として、漸くに
買ひ取つた幸福がありとすれば、それは一体何物であつたらう。
 私は思ふ。それは彼れが日本の地で持ち慣れた横笛を故郷の母
へ無事に送り、その笛をして「汝の息子は平和に息を引き取つ
た、そして、汝の息子がこの地上から影を隠すといふ事は、結
局、月の一部が虧(か)けるのと同じで、本統は何一つ失はれて居
ないのである。」といふ諦認を物語らせる事に他なるまい。
 然し、幸福といふには足らぬ、そのやうな浅い喜びを除いたな
ら、他の何処に彼れの死を以て買つた幸福が発見されよう。私は
全く、その問ひに対して、正しい答への出来ないのを寂しく思ふ
のである』。

幸福と不幸の関係とは、なんぞや。病気になって入院して来た人
から作家は、なにか、感銘を受けたのかも知れない。そういうエ
ピソードを踏まえて、ひとつの作品を書き上げ、松永という、い
までは、忘れ去られた作家が、これを世に残した。そして、い
ま、私たちは、電子文藝館というインターネットを利用する「図
書館」で、容易に、この作品を読むことができるようになった。
不幸が、幸福を呼び戻すことがあるのでは、ないか。ラオチャン
ド氏の横笛に象徴される、この問は、いまも、永遠のテーマであ
る。

11・XX  桐野夏生「ダーク」読了。大長編小説。江戸川乱
歩賞受賞作品「顔に降りかかる雨」以来、桐野夏生作品では、お
馴染みの主人公・村野ミロが、登場する。40歳になったら、死
のうと思い、村野ミロは、探偵業を辞め、久しく逢っていなかっ
た義父・村野善三を小樽に訪ねる。突然現れた義理の娘に驚き、
心臓の発作を起こし、苦しむ義父を見殺しにする。義父の金を盗
み、逃亡する。そのため、義父と同棲していたマッサージ師の久
恵に付けねらわれるようになる。久恵は、善三がなにかあったら
連絡しろと言われていた鄭という元やくざに電話をする。鄭の助
力を得て、久恵は、さらに、ミロを追う。福岡に逃げたミロは、
さらに、ブランド品のコピーを扱う韓国人の男・徐鎮浩と知り合
い、贋のパスポートを創ってもらった縁で、韓国に逃げ、釜山で
徐鎮浩の商売を手伝うようになる。あとは、村野ミロと徐鎮浩、
久恵と鄭に金で雇われてミロを追う、ミロのかっての知り合い・
友部という、ふたつのグループの追いつ、追われつの展開が続
く。逆転、また、逆転で、攻守処を変える。

光州事件を体験した徐鎮浩。その家族の話も、追いつ、追われつ
の展開という主筋に絡んで来る。日韓の現代史。そこに、ミロの
個人史、鄭の個人史、友部の個人史なども、絡んで来る。その結
果が、11章、520ページほどの大長篇になった。最後は、意
外と明るい結末を迎える「ダーク」は、「ダーク」(「灰色」と
いうより「濃い」)な後味を残す作品に仕上がった。

11・XX  よしもとばなな「王国 その1 アンドロメダ・
ハイツ」を読んでいる。祖母の薬草茶づくりを手伝う少女・雫石
は、やがて、弱視の占い師・楓という男性のアシスタントにな
る。人を癒す仕事を通じて、いまの世の中の在り方を問う。楓
は、年上の親父と同性愛の関係にあり、ときどき、親父が泊りに
来るが、少しも嫌らしくない。主人公の女性と人間としての気持
ちが通じている。もっとも、親父は、初めは雫石に嫉妬して、嫌
がらせをする。やがて、雫石は、サボテンを通じて知り合った男
性とセックス・レスの親密な関係を創るようになる。雫石の借り
ているアパートに、嫌な臭いをさせる夫婦が引っ越して来る。嫌
な臭いをさせながら、夫婦は、喧嘩の果てに、妻が夫を殺して、
部屋に火を放つ、放火殺人を犯し、雫石の部屋を含めて、アパー
トは全焼してしまう。そういう現代社会の世相を記号化したよう
な登場人物たちを、よしもとは淡々と描写する。記号が、社会を
象徴する方程式を構成し、よしもとが、方程式を解き明かす。そ
ういう小説だ。火事で焼け出された雫石の運命やいかに、という
ところで、「その1」が終り、新たな物語が、いずれ、書き継が
れることになる。

11・XX  高村薫「晴子情歌」(上下)を読了。とびとび
で、断絶しながら、持続しながら読み続けた。青森の政治家を生
み出した旧家に嫁いだ女性と息子の物語。遠洋漁業の船員となっ
た息子は、300日を掛けて、15歳からの人生を書き綴った母
から届いた手紙をすべて読む。母の人生を通じて、己の人生を考
え、旧家の物語を甦らせる。戦前から戦後へ、東北、それも、青
森県野辺地を拠点にしたある母子の物語は、もうひとつの太宰治
の世界にも通じる、日本人の近代史の物語でもある。

11・XX  電子文藝館の校正を兼ねて、宮島資夫(すけお)
の「第四階級の文學」読了。宮島資夫は、「大杉栄、堺利彦の序
をつけた労働文学の傑作『坑夫』(近代思想社・大正五年一月刊、
発禁)の作家として記憶さるべき」人で、「真に『労働者』の経歴
をもち、同タイトルの雑誌発行編集人であったこともある」と、

宮島の略歴を書いた作家の秦恒平さんは、評価する。短い論文
「第四階級の文學」は、プロレタリア文學者らしい感性で、警察
国家へ傾斜する時代を鋭く告発している。いまの時代とダブって
見えて来るのは、意識過剰なら良いのだがと、思いながら読む。 

11・XX  電子文藝館の校正を兼ねた読書。山田美妙(やま
だびみょう)の「蝴蝶」読了。いつもの、作家・秦恒平さんの書
いた略歴によると、「1868.7.8 - 1910.10.24 東京神田に生まれ
る。幼時より尾崎紅葉と親しく、ともに硯友社を結び我楽多文庫
をだし十九歳で美妙齋を名乗って以降、紅葉に先行して名をはせ
た。美妙の文学的苦心の最たるものは言文一致体の創出で、明治
二十一年(1888)の第一著作集『夏木立』におさめた代表作「武蔵
野」は文壇を驚倒」したとある。

「蝴蝶」は、平家物語が描く、群像のなかから、17歳の「蝴
蝶」という若い女性と「二郎春風」という青年の悲恋の物語を抽
出している。言文一致の文体で、奏でられる世界は、歌舞伎の舞
台を見るように優美、壇の浦の合戦で、入水した蝴蝶が、助かっ
た場面では、裸体の蝴蝶の姿を描いた上で、「真の『美』は真の
『高尚』です」という、地の文は、山田の価値観を如実に物語っ
ている。そこへ、凛々しい若武者・二郎春風が、現われる。主上
の後を追いふたりで、連れ立って行く。山里に忍んで、3年が経
ち、ふたりは、夫婦の仲になっている。だが、二郎は、平家に
「源氏より忍入(しのびい)りし者」であった。それを告白され、
悩む蝴蝶。

「ねんごろに情こまやかなる人」である夫・二郎は、夫として
は、掛け替えのない大事な人である。しかし、敵方より忍び込ん
だ者と判れば、生かしておけないと、夜半、寝ている二郎を殺し
てしまう。翌朝、主上が亡くなったという知らせが届く。

その挙げ句の、蝴蝶の姿。山田の文章で、紹介しよう。

「さてもさても無情な世の中。花が散ツた跡で風を怨ませるとは
何事です。月が入(い)ツた後に匿(かく)した雲を悪(にく)ませる
とは、ても、無残な。風は空の根方と共に冴互(さえわた)ツて
やゝ紅葉(もみぢ)に爲(な)ツた山の崖に錦繍の波を打たせて居る
秋の頃、薄い衣(きぬ)を身に纏ツて其辺を托鉢して居る尼の様(さ
ま)、面影はやつれても変りません、前の哀れな蝴蝶です。
 羽を伸した事も無くて世にはその名に縁ある夢の間に過ぐしま
した。実(げ)に蝴蝶、それも平家の紋処(もんどころ)です。壽永
四年の彌生(やよひ)の春風に翼も切れて……そもそも之が浮世で
すか。思遣(おもひや)れば須磨浦の昔の歌、『掻曇る雪気(ゆき
げ)の空を吹変へて月になり行く須磨の浦風』。その吹変へる風は
寧(むし)ろ小笹を噪(さわ)がせたばかりです」。

文章こそ、違え、この語り口は、歌舞伎や人形浄瑠璃の竹本の語
りを容易に類推させる。1889年、明治22年の発表作は、言
文一致の試みとは言え、江戸の語りを色濃く残している。

11・XX  水上瀧太郎「山の手の子」読了。電子文藝館の校
正を兼ねて読む。水上瀧太郎は、経済人と作家の二足の草鞋を履
いていた人で、私は、彼の「大阪」や「大阪の宿」という、いわ
ゆる大阪物を好んで読んだ時期がある。今回、読んだ「山の手の
子」は、東京の山の手に育った水上の幼年期の、淡い恋心と幼年
期との別れを瑞々しい文章で綴っている。これは、もうひとつの
「たけくらべ」だと思った。

主人公の新次は、山の手の高台にある家では、乳母たちに「新
様」と呼ばれている。黒門を構えた屋敷内から外に一人で出ては
行けないと言われている。町っ子と遊んではいけないと戒められ
ている。やがて、新次に妹がうまれる。その産前産後の、母の周
りのどさくさに紛れて、だらだら坂を下って、高台から崖下の
「軒の低い家ばかりの場末の町が帯のやうに繁華な下町の真中
へ」と降りて行く。そこで、新次は、「坊ちゃん」と呼ばれた。
出逢った町っ子たちとの交流。金ちゃん、清(せい)ちゃんた
ち。そして、清ちゃんの姉の煙草屋の娘、魚屋の娘のお鶴との出
逢い。そこで交わされる小芝居小屋「三吉座」の出し物や役者の
うわさ話。下町の祭りや花見など。新次の年上の娘お鶴への、ほ
のかな恋心と芸者屋に売られて行くお鶴との別れ。それを、後
年、と言っても、20歳になったばかりの主人公が、回想する。 

11・XX  初めて、読む作品。平出修「逆徒」。電子文藝館
の校正を兼ねて、読む。そこの略歴紹介には、こうある。

「ひらいで しゅう 弁護士・作家 1878.4.3 - 1914.3.17 新潟
県中蒲原郡に生まれる。明治四十二年(1909)石川啄木、平野萬里
らと『スバル』を発行、森鴎外の知遇を得、翌四十三年(1910)に
幸徳秋水ら大逆事件の弁護を引受けるに当たっても鴎外の世界の
社会主義に関するひそかなレクチュアを受けた。大逆事件の法廷
に関係したことは盟友啄木を刺激し、彼の名高い論文『時代閉塞
の現状』を導き出した。まさに『大逆事件』の裁判を書いた此の
掲載作は、大正二年(1913)九月『太陽』に発表、直ちに発禁。作
中の『若い弁護人』が当時三十四、五歳の作者を謂うものと読ん
で許されよう。近代を震駭した大事件を衝く稀有の証言作であ
り、発表の翌年に死去した」。

大逆事件の被告の一人を弁護した若い弁護士は、文章にも長けて
いた。歴史に残る事件の裁判を関係者の一人として体験し、見聞
きしたことを基に、過不足ない文章で記録を残したという、幸運
な作品。当時の法廷の様子が、手に採るように良く判る。

判決を聞き、弁護士は、被告の家族に電報を打つ。その場面。

「彼は忙(せは)しげに階段を下りて構内の電信取扱所へ行つた。
頼信紙をとつて、彼は先づ、『シケイヲセンコクサレタ』と書い
た。けれども彼はこれ丈では物足らなさを感じた。受取つた被告
の家族が、どんなに絶望するであらうと想ひやつた。
『構ふものか。』彼は決然として次の如く書加へた。
『シカシキヅカイスルナ。』
 彼は書終つて心で叫んだ。
『俺は判決の威信を蔑覗した第一の人である。』」。

発表後、ただちに、発禁になった作品は、歴史の証言として、い
ま、また、こういう形で読むことができる。

11・XX  山本勝治「十姉妹(じゅうしまつ)」読了。電子
文藝館の校正を兼ねて、読む。この人の作品も初めて読むもので
ある。略歴紹介には、こうある。「やまもと かつじ  小説家  
生年不明 - 1929.3.17 経歴不詳  昭和二年(1927)十一月以後に
『文藝戦線』に参加し、翌(1928)年五月、七月、十一月、掲載作
を同誌に発表し一躍優れた才能を評価された。『かくれた名作』
と長く人の記憶に蔵われてきたが、翌(1929)年には新聞配達従業
員のストライキ失敗の責任を意識するあまり鉄道自殺、『惜しい
作家』と、早い最期を悼まれた」。

農民争議支援運動をしている息子の慎作をかばう父親は、孫の運
動を否定する祖父との板挟みで、狂い死にしてしまうという悲惨
な物語。村では、養蚕も上手く行かず、「 十姉妹」を幼鳥から育
てて、金もうけに成功する人たちが出始める。祖父は、そういう
成り金を真似たがる。孫は、否定する。地道な営みこそ大事だと
主張する。一旦、強気の祖父の言いなりになった父は、息子に同
調し、祖父に従わなくなるが、金が必要なことはわかっている。
両方の言い分を成り立たせようとした、その挙げ句、こっそり、
有り金を博打に注ぎ込み、失敗してしまう父。そういう貧しい農
民一家の生活が、活写される。

最後の場は、こうだ。

「慎作は、父をかかえ込んで叫んだ。 

『諸君、これは私の愛する父です。私は、父の狂つたことを今は
じめて知りました。私の父は従順(おとな)しい、正直者でした、
それが……どうして、こんなあさましい気狂いになつたか、諸
君、諸君にも責任があるのだ。それは十姉妹の悪流行だ、この大
旱(おおひで)りだ、貧乏だ、悪地主だ、いや、それはそれは資本
主義制度の……』 

 声は泣きかすれて行つた。が、見よ! 慎作の胸底にうず高く
積まれた悲惨な薪(たきぎ)に、遂に火がついたのだ。今こそ無産
階級意識が、大炬火の如く燦々と輝き出したのであつた」。 
- 2003年8月15日(金) 22:14:22
10・XX  小池真理子「狂王の庭」を読み始める。戦後、間も
無く、1952年の東京都下、国分寺市に2万坪のルネッサン
ス・バロック様式の西洋庭園を持つ豪邸があった。妹の婚約者と
恋に落ちる姉。姉は、夫との平凡な結婚生活に飽き足らなかった
のだ。恋に落ちた相手も、未婚の妹より、既婚の姉への愛を表現
するために、庭を作り上げたのだ。その秘密は、80近い年齢で
亡くなった姉の死後見つかった文章で明らかになる。三回忌の法
要の際に、明るみに出た文章は、スケッチブックに書き込まれて
いた。

縦筋の話は、妹の婚約者と恋に落ちた姉の話で、単純。いつ、妹
に気づかれるか。そういう筋に、庭づくりの話が絡むが、庭があ
まり具体的に見えてこない。「狂王」とは、婚約者の男のことだ
が、その男の「狂気」も、描けていない。ストーリー展開が、す
こし、かったるい感じがする。

妹と結婚した男は、結婚後も、妻の体に触れようとはしない。つ
まり、姉と義理の弟は、ずうっと関係を続けていた。姉は、自分
の夫に嫌悪感を持ち続けるが、酔った勢いで迫った夫との間に子
どもを宿す。それを知らされた義弟は、狂気の果てにやがて、自
殺する。

そういう母親の秘密が、死後見つかったスケッチブックに書か
れ、密かに隠されていた母親の手記で明らかにされる。そういう
内容の小説だが、タイトルにある「狂王」と呼ばれる男の、肝腎
の狂気やキャラクター像、さらに、もうひとつの主人公であるは
ずの「庭」のイメージの描写が弱い。長い小説で、なかなか読み
進まなかった。

10・XX  山本文緒「ファースト・プライオリティ」を読始め
る。31歳の女性たちが、人生で最優先にするものを描いてい
る。31編の短編小説は、8ページ程度のもので、いずれも31
歳の女性にとって、人生最優先のものが描かれる。それは、セッ
クスであったり、酒であったり、息子であったりするが、おもし
ろく読んだのは、例えば、「空」。

子どもの頃から空を見上げるのが好きで、小学3年生のときに、
UFOを見たことがあるが、親も信用してくれなかった。中学2
年生のときにも見たが、仲良しの友だちは、気狂いと思われるか
ら他人に言わない方が良いと忠告された。しかし、空への憧れは
消えず、スチュワーデスになったが、飛行機の窓から外ばかり見
ていて、お客を見ないと叱られて辞めた。次に、受験勉強の果て
に、気象予報士になったが、地球規模の気象は知っていても、ほ
んものの空の魅力とは違うという虚しさを感じるようになった。
やがて、空の魅力を知っている山岳写真家と出逢い、結婚した。
いまでは、全国の山を歩き回る夫と共に森の小屋に住み、野良仕
事をしながら空を見上げている。この人も31歳。

10・XX  日本ペンクラブの電子文藝館掲載予定の原稿、石
橋忍月「惟任日向守」を読了。武田勝頼から明智光秀まで興味深
く読む。いまは山梨県塩山市にある名刹の「恵林寺(えりんじ)
が出て来る。勝頼代で500年続いた甲斐源氏武田家は、滅ぶ
が、その際、信長によって、寺に火をかけられた快川(かいせ
ん)和尚が、有名な「心頭滅却すれば、火もまた涼し」と言った
寺だ。恵林寺には、1度、春の雪が、満開の桜の花の上に積も
り、桜の餡に雪の餅を連想させる光景に出逢った。勝頼終焉の
地、天目山と景徳院には、2度行った。

それは、さておき、忍月「惟任日向守」は、信長の苛めにあいな
がら、我慢に我慢を重ねる光秀の姿をこと細かく綴り、本能寺の
変に至る光秀の心の軌跡を格調高い擬漢文で表わす。

次いで、同じく日本ペンクラブの電子文藝館掲載予定の原稿、浅
田康夫「横浜市会の新選組生き残りー川村三郎」を読む。こちら
にも、新撰組の近藤勇縁りの山梨県勝沼町の戦場が出て来る。こ
ちらは、新撰組の生き残り近藤こと、川村三郎の明治期の神奈川
県議会、横浜市議会での活躍ぶりが出て来る。新撰組の生き残り
では、長倉新八が、北海道の小樽にいた話が有名だが、長倉や川
村などのような話は、まだ、埋もれているかも知れない。

10・XX  馳星周「マンゴー・レイン」読了。タイのバンコ
クで、仏像を持った中国人の娼婦・メイのシンガポールへの逃避
行を法外な報酬で頼まれたタイ生まれで、やくざまがいの日本
人・将人、通称・マサが、メインの登場人物。メイの逃避行を持
ちかけたマサの幼馴染みで、金持ちの日本人・富生に裏切られ、
ふたりは、何者かに追われることになる。いままでの汚辱に満ち
た人生をやりなおそうと逃避行に夢と命を掛ける。なぜ、追われ
るのか。その謎を解きあかしながら、ひたすら逃げるふたり。
追っ手は、一つではない。複数の組織から追われている。「俺た
ちに明日はない!」は、映画や小説の永遠のシチュエーションな
のだろう。この小説も、そのパターンを踏襲している。

罠が仕掛けられ、危機が迫る。マサたちの幼馴染みのタイ人・
チャットが、手助けしてくれる。しかし、彼もただの幼馴染みで
はない。やくざの用心棒をしている。友情より、自己の利害を最
終的には、優先している。ふたりは、数々の裏切りに遭いなが
ら、それを突破するのは、頭と度胸しかない。どうやら、男より
女の方が、度胸が座っているらしい。やがて、ふたりは、とも
に、エイズ患者であることが、判る。

メイが持っていた仏像には、旧日本軍が残した財宝の在り処を示
す謎の地図が入っていた。追っ手たちは、みな、そのことを知っ
ていて、仏像を追っているということが判る。ふたりは、地図の
謎を解き、財宝を奪うことを計画する。そのなかで、ふたりの間
に愛憎が交差する。バンコクの大物の息子を誘拐し、ふたりは、
大物が隠し持っていた財宝に行き着くが、それは、実は、いま
や、なんの価値もない日本軍の軍票だった。とっくに、紙屑に
なっている軍票。挙げ句の果てに、息子を人質に大物から金を奪
い、さらに、逃避行を続ける。しかし、それも時間の問題だ。や
がて、追い詰められ、マンゴー・レインと呼ばれるスコールのな
か、ふたりのうち、一人だけ生き残る。片割れの裏切りが、そう
いう結果を呼ぶ。生き残ったのは、男か、女か。

馳の文章は、息のつまるアクションの描写を続け、飽きが来な
い。ふたりが逃げ回るタイの町の猥雑さが浮き上がって来る。天
使の都という異称のある町。バンコク。異称とは、裏腹なイメー
ジが膨らんで来る。昔、日活アクション映画は、「無国籍アク
ション」と呼ばれた。この小説も、また、「無国籍アクショ
ン」。「不夜城」で、デビューした馳の作品は、「鎮魂歌ー不夜
城・ー」、「漂流街」、「夜光虫」、「ダーク・ムーン」などを
読んで来たが、今回の「マンゴー・レイン」が、完成度が高い。
緊密な文章は、映画のように、止まらない。
- 2003年8月12日(火) 22:23:40
           口上(m-_-m)

ホームページ・リニューアルを記念して、『乱読物狂』と題し
て、私の読書記録を新たに随時、連載する。『乱読物狂』が、歌
舞伎の演目の外題のもじりであることは、説明するまでもないだ
ろう。この演目が、歌舞伎座に掛かったとき、蘭平を演じたの
は、いまの松緑で、当時は、辰之助と名乗っていたが、この舞台
を観るために、初日から千秋楽まで25日間、幕見席に通い詰め
た人がいた。いろいろな役者が、蘭平を演じているし、私も何人
かの蘭平を観ているが、ある観客を25日間、歌舞伎座に足を運
ばせる役者も珍しいだろう。

まずは、2002年9月から開幕。

9・XX  「明日も同じたぁつまるめぇ」というサブタイトル
が付いている鈴木輝一郎の「三人吉三」を読んでいる。江戸版
「俺たちに明日はない」と帯にはある。生類憐みの令を撤廃させ
ようとお犬様を相手にした辻斬りボーイのお坊吉三、防火体制の
不備を問うため、火を放つ火の玉ガールのお嬢吉三、そういう出
来事を落書きで世に知らせる煽り屋坊主の和尚吉三などが登場す
るという。一獲千金を狙う著者の思惑や如何に。歌舞伎の黙阿弥
作「三人吉三(さんにんきち『さ』)」と違って、こちらは、
「三人吉三(さんにんきち『ざ』)」。息が、火の玉に変る火付
けのお嬢吉三、お犬様殺しのお坊吉三、落首、落書(いまならイ
ンターネット利用のホームページ主宰者)の和尚吉三の三人若い
男女が、江戸の街を騒がす話。

9・XX  日本ペンクラブの電子文藝館用の原稿校正を兼ね
て、岡本綺堂「心中浪華の春雨」読了。歌舞伎や人形浄瑠璃の、
通称「毛剃」、「博多小女郎浪枕」(近松門左衛門作)の主人
公・毛剃九右衛門を思わせる九郎右衛門は、「赤格子」という異
名を持った海賊であった。大坂・堂島の米市場に手をだして失
敗、妻子を捨てて出奔してしまった。岡本綺堂「心中浪華の春
雨」は、その残された息子・六三郎の物語である。

六三郎は、大工の丁稚になったが、16歳のときから遊女のお園
と仲良くなった。六三郎は、気弱な青年だが、優しく、3つ年上
のお園と将来を誓いあう仲になって行った。そして、悲劇が起
こった。行方不明だった父親の九郎右衛門が、10年ぶりで大坂
に戻って来たのだ。父親は、博多に唐人商いの大きな店を持って
いると言う。それで、息子を探して、跡取りにしようと博多に連
れて行こうと申し出て来た。ところが、父親の仕事は、毛剃九右
衛門同様の抜け荷(密貿易)であり、この時代には、海賊と呼ば
れる仕事で、長崎奉行から指名手配されていたのだ。やがて、二
人がいっしょにいるところで捕まってしまう。

息子の六三郎は、事情がわかって、放免されるのだが、海賊の息
子と噂され、大坂にいたたまれなくなり、江戸に行くことにす
る。しかし、気弱な六三郎は、お園と別れ難く、結局、心中して
しまう。当時、大坂では、抜け荷買いの者たちが、大勢処刑さ
れ、それを近松門左衛門が脚色して「博多小女郎浪枕」を書いた
という。さらに、後年、並木宗輔らが、千日前で晒し首になった
九郎右衛門の話を浄瑠璃にしたてようとしていたところ、六三
郎・お園の心中事件が起こり、二人の話を軸に、「八重霞浪華浜
荻(やえがすみなにわのはまおぎ)」という浄瑠璃が仕組まれ、
豊竹座の人形芝居として上演された。

9・XX  山本一力「深川駕籠」を往復の特急「あずさ」車中
などで読了。江戸時代の臥煙(がえん)と呼ばれた町火消し出身
の新太郎と相撲取り出身の尚平という二人の駕籠かきが主人で、
彼らの生活にかかわってくる人たちを通じて深川界隈に住む江戸
の庶民たちの姿が浮き彫りになる。短編連作7編。「おれたち、
日本一の駕籠かきでえ!」と帯にはあるが、実は、歌舞伎座に
は、歌舞伎一の駕籠かきがいる。中村四郎五郎と中村助五郎のふ
たりだ。いずれも、中村勘三郎の弟子だ。
 
9・XX  電子文藝館用の原稿校正を兼ねて長塚節の短歌「鍼
の如く」を読む。「鍼の如く」は、1914(大正3)年5月より1915(大
正4)年1月まで雑誌「アララギ」に断続的に連載されたもので、歌
人闘病の絶境地を詠い込んでいる。暑い夏から秋への変化のな
か、病んでいる歌人の心象風景が詠み込まれて行く。暑さに堪え
ながら、蚊などに刺されながら、それでも、人に逢うために、旅
先の自然を末期の眼に焼き付けるようにして、歌を詠む。歌集
「鍼の如く」を詠み上げた後、旅の好きな歌人は、暫くして没し
た、享年37歳であった。
  
9・XX  今期の芥川賞受賞作吉田修一「パーク・ライフ」を
読んでいる。単行本には、受賞作品の「「パーク・ライフ」と3
年前の作品「flowers」が掲載されている。受賞作のみ、
今夜読了。この作品は、駒沢公園近くのアパートに住む主人公
は、日比谷公園近くの会社に勤めている。昼休みに過ごす日比谷
公園界隈の描写と夜を過ごす駒沢公園近くの生活が、基軸になっ
ている。
 
自宅のアパートには、母が上京して来ていて、一人でつかの間の
都会生活を楽しんでいる。主人公は、離婚の危機にある夫婦(女
性の側が大学の先輩である)が、それぞれ家出をしていて、夫婦
が別のところで生活している間、猿の世話をするため留守番で広
いマンションの部屋で生活している。駒沢公園に猿を散歩に連れ
出したりしている。日比谷公園では、会社の先輩やひょんなこと
から知り合いになった名前も知らない公園の常連の女性と話をす
るようになる。公園に時々来ては、手製の小さな気球をまっすぐ
にあげる「実験」をしているらしい男がいる。公園近くの喫茶店
では、孤立したキャリアウーマンたちが思い思いの時間を過ごし
ている。
 
郊外の住宅と都心の職場というより、郊外と都心にある二つの公
園の間を往復しながら生活している主人公は、フィットネスクラ
ブに通ったりしている。臓器移植のポスターが出て来る。そうい
う都会生活の細部が活写され、読者は、恰も自分の生活の部分
が、ここに描かれているような錯覚を感じる。そういう意味で
は、いまの人たちの生活がここにはある。しかし、社会では、い
ろいろなことが起こっている。あすの生活がどうなるか、不透明
感も強まっている。地震が起こるかも知れない。テロがあるかも
知れない。番号で生活が管理されようとしている。しかし、ここ
の主人公は、精々、社会を見ているだけである。それゆえに、達
者な作品ながら、今回も含めて、最近の芥川賞受賞作品は、衝撃
力が弱いよう気がする。毒が少ないような気がする。

9・XX  真保裕一「発火点」を読み始める。12歳で父親を
殺害された21歳の青年の物語。父を殺したのは、父親の友人で
あった。その男が、9年ぶりに仮釈放され、社会に出て来た。さ
て、どうなるのか。そして、読了。12歳のときに父の友人で、
いっとき、主人公の家族と同居していた知り合いに父親を殺され
た少年が、青年になって過去を振り返り、真相を解明する物語だ
が、テーマが鮮明にならないまま、読了。真保作品としては、低
調のまま終了の感あり。

9・XX  野坂昭如「文壇」を読みはじめる。新刊時に初版本
を買いそびれていたものを店頭で発見し、購入。文壇というより
「文壇バー」と称する作家、編集者が出入りする酒場の生態を登
場人物の実名横溢、薄暗闇の酒場の隅っこの細部にこだわりなが
ら、作家としての修業時代を克明に記録(ただし、記憶に頼って
いるから、何処までが事実で、何処からが妄想か、記憶違いか
は、不明)した作品。私は、初期の頃から野坂の愛読者で、ほと
んどの作品を読んでいるので、読む進むにつれて、思い出すこと
が、多い。

日本独特の文壇バーでの人間関係は、いまの若い作家たちには、
ないものかも知れない。私も所属する日本ペンクラブの理事たち
も多数、登場する。総会などで私も目にする彼らの所作、行動、
思考からは、想像し難いところもあるが、何処までが、野坂一流
の目くらましかどうか。一度、野坂には、彼の自宅で午前中に
逢ったことがあるが、素面の野坂は、真面目で、愛想もなかった
ことを覚えている。

けさまでに、野坂昭如「文壇」読了。三島由紀夫の自衛隊突入事
件と、三島と相容れなかった野坂の友人・丸谷才一は、その後、
「あれ以後、筆が進んで・・・」と言い、その年の大晦日に長編
小説「たった一人の反乱」を書き上げる。そういう場面で、この
小説は終わる。

9・XX  野坂昭如の「文壇」に出て来た丸谷才一。今夜から
は、その丸谷才一の「花火屋の大将」を読みはじめる。このエッ
セイ集に「花火屋の大将」という題名のエッセイは、掲載されて
いないが、「花火屋の大将」とは、自衛隊に突入し、バルコニー
で演説をぶちあげ、仲間の「楯の会」会員に首を刎ねられて切腹
した三島のことを暗示している訳はないだろうなあア。

丸谷才一「花火屋の大将」を読み続ける。丸谷節は、相変わら
ず、冴えている。帰宅後の夜も、読書を続ける。

9・XX  きょうは、早めに甲府に戻る。車中では、佐藤雅美
「江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝」を読んでいた。漢文戯作という
独特の文体で、江戸の「いま」を活写した。だが、売れない、本
を書いても出版元がない。在野の学者として、一生を送る。しか
し、後世には、残った。帰宅後、いくつかの雑用をこなす。東京
は、曇り。甲府も昼過ぎは、曇っていたが、次第に回復。青空も
覗いた。

9・XX  浅田次郎「椿山課長の7日間」読了。まあ、読み物。
文章は、達者だけれども、浅田ワールドも鼻に付いて来た。佐藤
雅美「江戸繁盛記」、大沢在昌「砂の狩人」をそれぞれ、読んで
いる。富士山は、23日に初雪。

9・XX  大沢在昌「砂の狩人」(上下巻)読了。暴力団組長の
子弟が連続して殺される。それをきっかけに、暴力団と中国マ
フィアの全面抗争となる。それは、連続殺人事件をしでかしたの
が、ともに、警察庁のキャリアになっている男女が、未婚の若い
ころ産んで里子に出した実の子ではないか、という思いからだ。
暴力団と中国マフィアの全面抗争を実は、このキャリアが、警察
権力を利用して、仕掛けていたのだ。警察のキャリアの精神的な
腐敗の話が、縦軸になっている。ミステリー小説なので、あま
り、ストーリーを詳しく書かないが、社会性のある警察小説とし
ても読むことができる。この小説とは、直接関係はないが、読ん
でいると、官庁のキャリアに思いが飛ぶ。日朝首脳会談や北朝鮮
の拉致事件への対応を見ていると外務省のキャリアも精神的な腐
敗が酷くなっていると思われる。省庁はどこであれ、キャリア官
僚には、「国民の常識」という視点が、忘れられているというこ
とだろう。そういうことを思わせる変わったミステリー小説だ。

9・XX  佐々木譲「黒頭巾旋風録」読了。タイトルは、時代
小説的な俗受けを狙っていて、あまり良いとは思わないが、舞台
は、天保年間の蝦夷地。松前藩の支配に苦しむアイヌ民族を支援
する僧侶・恵然が、黒頭巾に黒マントで身を隠し、馬に乗り、鞭
を振るって、松前藩の武士など和人の横暴に立ち向かう。アイヌ
民族外史のような内容で、おもしろく読み始めた。幕末期に北海
道を踏査した冒険家・松浦武四郎の聞き書きにも「黒頭巾なる怪
傑」という人物が出てくるというから、歴史的時代痛快小説でも
ある。「黒頭巾の風説、天保のころ東蝦夷地一帯に広まるも、弘
化のころには聞かず」と松浦武四郎は、言っている。

先日、途中まで読んでいた佐藤雅美「江戸繁昌記 寺門静軒無聊
伝」を再び読み始める。こちらも、同じ江戸時代天保期。自称
「無用の人」、儒学者・寺門静軒の物語。紆余曲折の末、寺門静
軒が書いた漢文戯作「江戸繁昌記」(江戸の庶民の生活を活写)
が、やっと、出版された。巷の反響もよく、第2作、第3作とい
う話になってきた。
 
四国琴平町の芝居小屋・金丸座も江戸時代は、天保期に作られた
のもの。蝦夷地と江戸と四国が、同時代で浮かび上がってくる。
それぞれが、当時、別々の空間(この「空間」は、現代からみれ
ば、比べ物にならないぐらい、遠い存在だったろう)で、同時に
進行していたと思うとおもしろい。

佐藤雅美「江戸繁昌記 寺門静軒無聊伝」読了。在野の儒学者・
寺門静軒の漢文戯作「江戸繁昌記」は、結局、五篇まで刊行され
た。江戸の風俗を「卑猥淫乱」に描いたとして、江戸南町奉行鳥
居甲斐守耀蔵に睨まれ、処罰を受ける。江戸を離れた静軒は、旅
の人となりながら、慶應4年まで生きる。享年73歳。明治維新
は、目の前まで来ていた。静軒の「江戸繁昌記」は、天保年間の
江戸庶民の生活を諧謔を交えながら活写し、いまに残る。

 9・XX  帰宅後、池永陽「コンビニ・ララバイ」を読みはじ
める。コンビニをキーステーションにして、様々な人たちの人生
の断片を描く。確かに、良いアイディアだ。コンビニは、「ミユ
キマート」という名前だ。チェーン店ではない。幹郎(みき
お)、有紀美(ゆきみ)という夫婦が、始めた店だ。だから、
「み・ゆき」と名付けた。しかし、いま、店を経営するのは、幹
郎ひとりだ。夫婦の間に、喧太という一人息子がいたが、6歳の
とき、交通事故で亡くなってしまった。生家の酒屋からコンビニ
に変身して、開店から2ヶ月後、妻も自転車に乗っていて、左折
した大型車の後輪に巻き込まれて、やはり死んでしまった。

主人公を軸にしながら、店員、アルバイトの店員、客たち(やく
ざ、売れない舞台女優の卵、亡くなった子どもを思い出させる少
年、ホームレスの老人とその飼い犬など)が、それぞれの人生の
断片を見せるという形で、現代の庶民の生活が、コンビニを舞台
に活写される。あまり、流行らない店だが、いわば「コンビニ繁
昌記 堀幹郎無聊伝」の趣さえある。しかし、この作品に色濃い
のは、諧謔ではなく、ペーソスだ。それは、主人公・堀幹郎の持
ち味であり、池永陽の持ち味でもあるようだ。本の雑誌が選ん
だ、ことし上半期のベストワンだそうだ。

池永陽「コンビニ・ララバイ」読了。おもしろかったが、世相受
けを意識して、話が、ちょっと造り過ぎのような気がする。同じ
く、池永陽の「水の恋」を読みはじめる。学生時代に仲の良かっ
た男ふたり、女ひとりの関係に、ある夜のできごと以来、罅が
入ったが、その実相をひも解かないまま、一人は、イワナ釣の最
中に鉄砲水に流されて、行方不明になる。残されたふたりの男女
は、その後、結婚するが、行方不明になった男は、鉄砲水を利用
して、自殺したのではないかと、疑っている。女の方は、ある夜
のできごとに参加していて、真相を知っているのだが、いま、夫
になっている男は、妻に、それを聴けない。そういうストーリー
をベースに、渓流釣や山窩(さんか)と呼ばれた山の民の話が絡
まって来る。

池永陽「水の恋」読了。あの一夜に、やはり、できごとはあっ
た。その結果は、事故で失ったとされる、行方不明の男の指が、
実は、本人の意思で、故意に切り取られていたのだ。そういう結
末に、3人の仲の良かった男女の人生を語らせる。この人は、や
はり、話を作りすぎる。特に、泣かせようという魂胆が透けて見
えるときがある。あざとい、浅田次郎風のところがある。

9・XX  きのう、太宰治所縁の御坂峠の「天下茶屋」に行っ
たということもあるけれど、先日、途中まで読んで、読み止
(さ)したままにしていた鎌田慧「津軽・斜陽の家 太宰治を生
んだ『地主貴族』の光芒」の続きをけさから読み始める。こちら
は、津軽における太宰とその系譜を描く。

昨夜、殆ど読まないうちに寝てしまった鎌田慧「津軽・斜陽の
家」を読む。戦火を逃れて、富士山の見える御坂峠の天下茶屋に
滞在して、「富嶽百景」を書いた太宰は、甲府在住の石原美知子
と結婚し、いまのJR甲府駅近くに住んでいたが、1945年7月
6日深夜から7日未明に掛けての甲府空襲に遭遇した。美知子の実
家も焼夷弾で全焼した。上野駅から鈍行列車を乗り継ぎ、4日間
もかけて、太宰は、7月の末に、家族を連れて青森県津軽地方の金
木の実家に疎開して来た。その金木も、7月中旬に空襲に遭ってい
るというから、もう、敗戦濃厚であった。

鎌田慧「津軽・斜陽の家」読了。太宰治を縦軸に、津軽を横軸に
してまとめた長篇ルポルタージュで、おもしろく拝読。鎌田も太
宰と同郷ゆえ、鎌田の故郷への思いも滲んでいる。地主貴族出身
を恥じた含羞の作家・太宰の創作の原点を描いていて、あますと
ころがない。
- 2003年8月11日(月) 22:55:12